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蓮田の梨(PDF:692KB)
蓮 田 の 梨 作 り 栽培されていた果実では、生柿と干柿合計が全体の 52% けい き ―はじめに― じ が広がる契機となりました。 を占め、次いで梅が 24%、梨はまだ 9%の生産高でした。 果物と言えば、現代では「デザート」ともいい、 苺・柿・梨・ 柴山枝郷(旧菖蒲町)の聞き取り調査の 葡萄・桃・リンゴなど様々あります。これらの多くは、日 話として、明治 43 年の洪水の際には、船 を出して梨を収穫したと伝わっています。 ゆう し 本古来から存在したものではなく、有史以降に伝わり品種 改良が重ねられ、至っているものが大部分です。 昔は自然交配が行われ、栽培の中心となる木の間に受粉樹 ちょうじゅうろう 1 5 0 ,0 0 0 【梨に使われる民具 ( 道具 )】 となる木を植えていました。長十郎が中心品種となると、 1 0 0 ,0 0 0 梨 ここでは古くから使われていた 栗 5 0 ,0 0 0 梨の栽培に使用した民具を紹介し 柑橘 雑果 枇杷 桃 葡萄 ( 『埼玉県の果樹栽培』資料より作成) ます。 げ た たか は げ た ってみたいと思います。 けつ じつ ふ りょう 他の品種が伐採され受粉樹が少なくなり、結実不良がみら れるようになり、人工交配を導入しました。 0 たど のか、関連する文書・資料や民具などをご紹介しながら辿 ができません。梨は本来虫媒花 ( 虫により受粉する ) で、 干柿 生柿 梅 2 0 0 ,0 0 0 梨果ちゃん さい ばい ひん しゅ かいりょう で栽培され、どのような品種改良により現在に至っている ちゅう ばい か じゅ ふん 2 5 0 ,0 0 0 蓮田梨のキャラクター か ふ わ ごう せい 梨には自家不和合性の性質があり、自分と同じ品種同士、 また違う品種でも組み合わせによっては、実をつけること 埼玉県果実生産高調(明治 44 年) (円) けい い 今回は、蓮田の名産品の一つである梨がどのような経緯 こう はい (2)自然交配から人工交配(花かけ)へ つ か べん 当初は、開花している花を摘みとり、花弁を除いて花を ①梨下駄(高歯下駄) リヤカー:大正 10 年頃、リヤカーが発明されました。た すり合わせるように受粉しました。その後、花粉だけ集め 【日本なしの歴史】 だし、リヤカーで一度に運べる梨籠の量は、12 籠が限界 梨棚の高さは栽培する人の身長 梨の歴史は古く、弥生時代の に合わせていますが、背の低い人 と ろ い せ き でした。 写真2 梨下駄(高歯下駄) (白岡市大山民俗資料館所蔵) 和 30 年代以降には、開葯器(雄しべの花粉を採る機械)、 さい やく 登呂遺跡などから、食用にされ や女性が収穫などの作業する時 【栽培技術の変遷】 た梨の炭化した種子が発見され、 に使用されました。 (1)無袋栽培の先駆者:上平野 小林金次郎 ほ ちゅうびん それ以前から梨が食べられてい き 採葯機などが開発され、多量の花粉を効率的に採取するこ む たい ②捕虫瓶 栽培初期は、病虫害を防ぐための良い農薬が無く、果実 たと考えられています。 筆や綿棒などを使って受粉する方法に替わりました。 昭 かい やく き とができるようになりました。 けんじょう 献上梨:昭和 14 年(1939)、埼玉県からの要請を受け、上 ゆう たい 傷がついて売り物にならない や ぐも に じっせい き に被害が及ぶのを防ぐため、果実に袋を掛ける有袋栽培を 平野の小林金次郎が八雲(二十世紀の品種改良によってで 行っていました。 きた青梨)を昭和天皇に献上しました。 つぶ しぼ 梨が文献に初めて登場するの じ とう 梨を潰して、その絞り汁をビン みことのり は 日 本 書 紀 で、持 統 天 皇 の 詔 えどめいしょずえ 写真 1 江戸名所図会(市川の梨園) きょう さく き きん に入れ木に吊るし、虫を誘い込 写真3 捕虫瓶 (白岡市大山民俗資料館所蔵) はかま 昭和 18 年(1943)に、上平野の小林金次郎が無袋栽培 (693 年)には、凶作や飢饉に備 (国会図書館デジタルライブラリー) せん てい み捕殺しました。 そ ひ けず えるための作物として、五穀(米・麦・粟・豆・黍または稗) ③カッパギ(粗皮削り) くわ 【南埼玉郡の梨栽培】 ほう はら はめて梨を採りました。梨は、神職にお祓いを受け、箱詰めされました。 ました。これにより、果実に袋を掛けないことで、日光が 【出荷組合と出荷容器の変遷】 とう ど 古くなった樹皮(粗皮)は、厚く固くひ 直接当たり糖度が増します。また、袋を掛けたり、外した び割れのようになり、粗皮の下には黒星病 りする手間が省け、費用も抑えることができました。 明治から大正時代は、個人による出荷が中心でした。梨 などの病原菌や虫の幼虫、卵がひそんでい 昭和 27 年(1952)には、殺虫剤ホリドール乳剤ができ、 の生産増加に伴い、大正 9 年(1920)に高虫の鈴木儀平 ヒメシンクイムシによる被害を抑えることが可能となり、 が組合長となり、埼玉梨園芸組合が設立されました。組合 長十郎の無袋化が実現しました。昭和 29 年(1954)には、 員は、平野村、綾瀬村(蓮田市)、栢山村、三箇村、小林村、 ほう えい 埼玉県では、江戸時代中期の宝永年間頃から、梨を栽培 ぷ を始め、栽培に必要な剪定方法、薬剤散布法などを研究し ご こく きび ひえ とともに、桑や栗、梨の栽培を勧める記述があります。 やく ざい さん は 小林は献上なし収穫の際、身を清め白い着物に青い袴を穿き、白手袋を (1)出荷組合 すず き ぎ へい していたと伝わっています。 ます。粗皮削り行い越冬している病害虫を い が ら し はち げん のう やく たい さく 南埼玉郡では、明治 20 年代に旧菖蒲町出身の五十嵐八 減らすことで、減農薬対策にもなります。 ご なし かご ろう 五郎によって、本格的な梨栽培が始まりました。八五郎は、 梨栽培を研究し地元の村々を中心に梨の有利性を伝え、真 ちゅう ちょうじゅうろう え づら たな だれ ④梨籠 しん 写真 4 カッパギ かん め 梨出荷用の竹籠で、4 貫目(15 ㎏)入り ほん かご か やま さん が お ばやし (白岡市大山民俗 資料館所蔵) 雨が多く梨は糖度不足となりましたが、平野梨組合の無袋 江面村 (久喜市)、 大山村(白岡市)、 種足村 (加須市) など 8 村、 栽培の梨は糖度が高く、市場で好評でした。 栽培面積は 17 ヘクタールでした。 はん かご 鍮や長十郎などの品種を普及させ、『埼玉梨の元祖』と称 の本籠と 2 貫目入りの半籠がありました。 市場からは、無袋化への要望が高まり、翌年には近隣市 出荷組合は、各市町村単位で組織されるようになり、昭 されています。栽培技術は、親類縁者を中心に広まってい 梨を傷つけないように、麦わらを籠の側面に立て、麦わ 町村に無袋栽培が広がり 和 7年 (1932)に平野梨組合が設立され、組合員は 14 名、栽 らと梨の間や上下には、ピンク色の包装紙を使い梨を詰め ました。県内では、昭和 培面積は8.34 ヘクタール (黒浜貝塚の約1.6 倍の広さ) でした。 ました。籠の一番上には、包装紙を被せ麦わらで帽子状の 31 年(1956)には 60%、 昭和 8 年(1933)に、出荷組合を統一し埼玉梨共販連 蓋をしました。 昭和 32 年(1957)には 合会が設立され、販路の拡大に努めました。 きました。 かぶ 梨はバラ科の植物です。梨には日本なし、中国なし、 西洋なしの3種類あり、主に国内で生産されているのは 日本なしです。 99%と、無袋栽培は急速 【蓮田での栽培の始まり】 か やま むら 受けた栢山村(久喜市)の木村嘉平冶から、井沼の石井利 し、県知事賞が授与され 明治末期には高虫、貝塚、閏戸地区が導入し、大正末期 写真 6 梨出荷用半籠 2 貫目(7.5 ㎏) 写真 7.県知事賞受賞の記事 (読売新聞:昭和 36 年) ました。 写真 5 梨出荷用本籠 4 貫目(15 ㎏) (白岡市大山民俗資料館所蔵) はん らん 【明治末の果実生産高】 たな たが、梨は棚栽培だったこともあり被害が少なく、梨栽培 一番早く収獲する幸水の花が、一番最後に開花します。 じゅ よ 兵衛が導入したのが始まりです。 綾瀬川が氾濫し、米や麦、桑畑などに大きな被害が出まし 昭 和 36 年(1961)に 小林金次郎の功績に対 明治 43 年(1910)8 月の台風により元荒川、 見沼代用水、 しん こう ほう すい さいぎょく 一番最後の新高から始まり、豊水・あきづき・彩玉が咲き、 こう すい 蓮田では、明治 28 年(1895)に五十嵐八五郎に指導を には上平野の小林金次郎が栽培を始めました。 梨の花:品種によって、花の咲く順番が違います。収穫が に普及していきました。 明治 44 年(1911) 、埼玉県の果実生産高は 807,211 円で、 小林家の梨は、市場では屋号(左図)から、 「マルカワの梨」と呼ばれ好評を得てい ました。 川 しょうひょうしゅつがんこうこく 写真 8 商標出願公告 写真 9 埼玉梨荷札 (特許情報プラットホームより) (東京大学総合研究博物館 荷札の歴史より転載) 昭和 10 年(1935)には、埼玉梨の名前を広めるため、 こう あん ひし がた に ひょう 和 30 年代は、栽培の中心品種は長十郎でしたが、品種改 平成 24 年の埼玉県の果樹産出額は 68 億円で、梨は 41 億円 じ ち けん 郡農会の深井技師考案の埼玉梨菱形荷票を登録し、自治検 良による新品種が登場しました。 と全体の約 60%を占め、県の主要果樹となっています。 さ きょうはん たい せい 余分な実を間引き、果実に栄 養が届くようにします。 昭和 34 年 (1959)に、幸水が県の奨励品種となり、県内 査を行い共販体制の強化に努めました。 ほ ぎ つぎ き ほう すい かい めつ じょうたい 摘果前と摘果後の様子 ・摘果(5 月∼ 7 月) 第二次大戦により出荷組織は潰滅状態となりましたが、 の産地に穂木(接木用の枝)が配布されました。豊水も昭 種です。平成時代に入って品種登録された、あきづき、埼 終戦と共に梨栽培は復活しました。 和 42 年 (1967) から県南地域に穂木が配布され、昭和 49 玉ブランドの彩玉なども栽培されています。 昭和 22 年 (1947 ) に平野梨組合は、南埼玉郡梨組合連合 年(1974)には県の奨励品種となりました。 会組織化に伴い共同出荷体制となりました。旧蓮田町地区 新品種の穂木は高価で、幸水、豊水に切替えることは大 第二次大戦中は、梨に替わり米、麦、甘薯(さつまいも) でも、同年に蓮田梨出荷組合が設立されました。 きな賭けでもありました。ほとんどの農家では、新品種へ などが作られ、栽培面積は 3 分の 1 まで減反され、梨園 の切替えは2∼4年計画で接木を行い、木が成長するまで は荒廃しました。昭和 30 年代には、ナイロンの発明によ せん べつ ま た、形 の 良 い 実 を 選 別 し、 高品質な果実を収穫するための 写真 14 ( 摘果前 ) (3)栽培面積の推移 作業でもあります。 かん しょ しんしょう かん り ・新梢管理(5 月∼ 6 月) げん たん め ぶ こう はい (2)出荷容器の進歩(籠からダンボール箱へ) 古くから出荷容器は、竹製の粗籠が利用されていました き だ げき あら かご は、利益を確保するため長十郎を出荷していました。 かく が、埼玉梨園芸組合により、梨籠の規格が統一されました。 昭和 53 年(1978)の干ばつでは、長十郎の果肉が硬化し 交配から収穫までの間に芽吹 いた枝を間引き、木全体に日光 よう さん り打撃を受けた市内の養蚕農家の桑から梨への切替えが が当たるようにします。 進み、栽培面積は増加していきました。 ・袋かけ(6 月) 写真 15 ( 摘果後 ) ばにゅうかご 馬荷籠:梨籠が無かった頃、蓮田で使用された小判型の竹籠。 市場に籠ごと預けて帰り、翌日どの八百屋に廻っているか 品質が著しく低下したため、市場価格は暴落しました。市 収 穫 時 期 が 遅 い 新 高 な ど の お く て し こう 場も品質重視の時代になり、消費者の嗜好も果肉の柔らか 110 ヘクタール)を迎えましたが、都市化の進行、高齢化 晩 生 の 梨 に、防 虫 や 表 面 の 傷 み 防 止 の た め、果 実 に 袋 こう すい ほう すい 聞き、前日の籠を持ち帰りました。 平成の初め頃、栽培面積はピーク(昭和 57 年頃には い梨へと移り、幸水、豊水への切替えが進みました。昭和 本籠は4貫目入り、半籠は 60 年代には、長十郎から幸水、豊水の時代になりました。 2貫目入りとなり、本籠の 昭和 25 年(1950)と平成 18 年(2006)の栽培品種を、 による後継者不足などの原因により、栽培農家及び栽培 を掛けます。 面積は年々減少し、平成 18 年には栽培面積はピーク時の ・収穫(8 月∼ 10 月) 約 55%となっています。 収穫は最も忙しい時期となります。前述のとおり、幸水 栽培面積から比較すると、平成 18 年には、全体の約 90% 規格は、高さ 27.5 ㎝、縁の 【梨栽培の1年間の紹介】 から始まり蓮田市域では新高の収穫をもって終わります。 しょくいくきょう 黒浜小学校では、食育教 を幸水、豊水が占めています。 直径 27 ∼ 28 ㎝、重さ 335 いく 各品種の収穫時期は、幸水が 8 月一杯、彩玉が 8 月下旬か いっ かん 育の一環として、梨栽培農 ∼ 375g でした。 写真 10 蓮田 梨出荷写真(昭和 32 年) りんごやみかんは、昭和 ( 『埼玉の民俗写真集』より転載) 30 年代初めにはダンボール箱を使用していました。昭和 34 年(1959) に、梨も試験的にダンボール箱の出荷を実施し ましたが、梨の発送に堪えられるダンボール箱の価格は、 簡単に切替えはできませんでした。 梨籠の 2 ∼ 2.5 倍と高く、 その他 3% 石井早生 その他 4% 4% 家での体験学習を行ってい ま す。今 回 は、吉 澤 果 樹 園 新高 5% 八雲 7% 真ちゅう 8% での学習の様子とともに栽 豊水 21% 早生赤 9% 培暦を紹介します。 せん てい ゆう いん 幸水 71% .長十郎 68% 写真 11 学習の様子 写真 16 収穫の様子 ・剪定と誘引(11 月∼ 3 月) 写真 17 学習の様子 ( 収穫 ) 昭和 35 年頃からは、みかんで使用したダンボール箱を 裏返して( 「一空ダンボール箱」と呼ばれた)梨と分かる 平成 18 年 昭和 25 年 ように印刷したラベルを貼り、出荷が始まりました。しか ら 9 月上旬、豊水が 9 月一杯、新高が 9 月下旬から 10 月 な 枝(結 果 枝)を 残 し、古 一杯、なお過去に栽培されていた晩三吉が最も遅く 12 月 い枝を新しい枝に更新し 蓮田市 品種毎の栽培面積割合の比較 に収穫されます。 つぶ ます。 し梨専用では無いため、輸送中に梨が潰れたり傷が付いた かいりょう けいとう ず に じっ せい き 市場からの要望もあり、昭和 40 年にダンボール新箱の 写真 12 剪定の様子 水分の流れもスムーズになるように、枝を配置します。品 木を傷めることなくスムーズに収穫できます。 以降、品種改良が重ねて作られた幸水、豊水、新高等の品 種によって剪定方法が異なり、剪定と同時に切った枝を梨 ・出荷(8 月∼ 10 月) 棚に結びつける誘引を行います。おいしい梨を作るための 出荷は現在では「選果場」だけでなく、直売所などにも 大事な作業です。 運ばれ、直接売買されたり、各地に送られます。 ました。昭和 42 ∼ 43 年頃には、ほとんどが新箱での出荷 彩玉:平成 17 年に品種登録されたばかりの埼玉ブランドの が可能となり、さらに梨用のパックの導入により箱詰めが ジャンボ梨です。「新高」と「豊水」を交配したもので、甘 さは幸水以上に ( 糖度 13 ∼ 14 度 ) あり、重さは約 550gです。 容易になり、輸送中の傷も防げるようになりました。 てき らい ―おわりに― ・摘蕾・摘花(3 月∼ 4 月上旬) つぼみ ま び 蕾や開花した花で、余分についているものを間引く作 【栽培品種と栽培面積】 (1)栽 培 品 種 の 変 遷 しんちゅう わ せ あか 明治から大正時代は、長十郎、真鍮、早生赤などが栽培 いち はら 明治 以 前 大正~ 昭和 20 年 あま がわ 天の川 ちょうじゅうろう 長十郎 にい たか 新 高 いし い 新世紀 早生幸蔵 太 白 二十世紀 しんせいき わ せ こうぞう たい はく にじっせいき 晩三吉 今村秋 村秋 蓮田市の「梨」は特産品として有名なだけでなく、味覚 もジューシーで甘さも程好く、皆さんに愛されている果物 業です。 こう はい の一つではないでしょうか。社会情勢の変化などから作付 ・交配(花かけ)(4 月) こう イー 33 すい 幸 水 昭和21年~ ほう すい 豊 水 八雲、菊水、晩三吉、吉野などの品種が加わりました。昭 に じっ せい き 屋号から名付けられました。果肉がやや硬く酸みが少なく、 いまむらあき 菊水 石井早生 きく すい おく さん きち 長十郎:明治 26 年(1893)に川崎市の梨園で発見され、 おくさんきち きく す い わ せ されていました。昭和 10 年頃には、市原早生、石井早生、 り、写真 16 のように上方に持ち上げる様にすると実や樹 現在栽培されているのは、長十郎、二十世紀が誕生して 規格を制定し、遠隔地向けや幸水から順次切替えが始まり 梨は収穫時期を迎えると果実を支える軸が外れ易くな 日光が良く当たり養分や (2)現在の栽培品種と品種改良系統図 りしました。 えん かく ち 良い果実が収穫できそう おく さん きち いち あき ゴールド二十世紀 しん せつ 新 雪 開 花 し て い る 期 間 中、 面積は減少していますが、これからもこの特産品を消費者 2∼ 3 回に分けて花一つず としても守っていきたいものです。 つに受粉します。開花期間 平成以降~ さい ぎょく 彩 玉 162 62-29 重さは約 250 ∼ 300gです。 あきづき きづき は短く、人手が必要になり 品種改良系統図 ます。 写真 13 交配の様子 参考文献:「埼玉県の果樹栽培」、「埼玉県の梨」、「埼玉県果実連30周年 記念誌』、 「創立50年の歩み」(埼玉県園芸協会編)、 「埼玉の民俗写真集」、「埼 玉新聞はすだ梨の里今昔」、「蓮田のなし」、「蓮田市の梨栽培」、「蓮田 市史 通史編Ⅱ、現代資料編」、「ナシ(ウィキペディア)」、信州大学農 学部果実研究室HP[ニホンナシの品種」、「果樹園芸百科 ナシ 」