...

うちの娘の為ならば、俺はもしかしたら魔王も倒せる

by user

on
Category: Documents
37

views

Report

Comments

Transcript

うちの娘の為ならば、俺はもしかしたら魔王も倒せる
うちの娘の為ならば、俺はもしかしたら魔王も倒せるか
もしれない 。
CHIROLU
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
うちの娘の為ならば、俺はもしかしたら魔王も倒せるかもしれな
い 。
︻Nコード︼
N5530CF
︻作者名︼
CHIROLU
︻あらすじ︼
﹁やべぇ、うちの娘
彼は、ひとりの少女と出会った。−−罪人の烙印を押された幼い
少女。それが全てのはじまりだった−−
可愛い﹂そんな親バカ保護者と養い子になった二人が、別の関係に
Novelsより11月24日書籍版五巻発売となりま
なって、更にその関係が変化するまでのお話。
∼HJ
す。∼コミカライズ版の配信始まりました。
1
序 虹の見守る世界で
君が生まれた時、空には大きな虹がかかっていたんだ。
そうだよ。虹は全ての﹃ひと﹄が七色で呼び表すんだ。言葉も、
文化も違うのにね。
それは虹が、世界の意思でもある大いなるもの−−神さまの一端
だからなんだよ。神さまは七柱存在しているんだ。﹃七色の神﹄と
呼ばれているのがそうだよ。
アフマル
﹃赤の神﹄は戦の神だ。調停と裁きの神でもある。困ったことがあ
コルモゼイ
ったら、ここの神殿を頼ると良い。
﹃橙の神﹄は豊穣神。うん。たくさん作物が育ちますようにって⋮
アスファル
⋮一緒にお祭りも行ったね。
﹃黄の神﹄は学問と支配者の神。ここの神殿は、勉強するためにた
くさんのひとが集まっているんだよ。君も、頭が良いから、そこで
アクダル
学ぶのも良いかもしれないね。
﹃緑の神﹄のもとには、旅人が集まる。そうだよ、世界は凄く広い
アズラク
んだ。君が見たこともない、たくさんのもので溢れているんだよ。
﹃青の神﹄商業の神。君は大人になったら、どんな仕事に就くのか
ニーリー
な。
﹃藍の神﹄死と生を司る神。病や薬の研究もしているんだ。病気に
神々の統率者にして、創造と破壊。そして再生を司る
は魔法は効かないからね。よく気をつけるんだよ。
バナフセギ
﹃紫の神﹄
神なんだよ。
虹は、神さまが地上を見守っているときにかかるんだ。
君は、神さまに見守られながら生まれてきたんだよ。
2
だから、大丈夫。
君は幸せになれるはずなんだから。幸せになって良いんだから。
大丈夫だよ。
ほら、虹が出てる。
君は運命に護られている。
どうか、どうか。幸せに。
ぼくも、これからは、虹の向こうで見守っているから。
3
序 虹の見守る世界で︵後書き︶
長編予定のファンタジーとなります。
見切り発車の感はありますが、構想の終着点まで書き上げれられる
ように、努力して参る所存にございます。
是非、お付き合い頂ければ幸いと存じます。
4
青年、ちいさな娘と出会う。
深い森の中をまだ若い男が歩いていた。
まだ日のある時間にも関わらず、人の手の入っていない森は薄暗
い。時折聞こえる鳥の声以外に聞こえるものもない。どこか重苦し
い気配が色濃く漂う、場所であった。
彼はいかにも不愉快そうに顔を歪めて、片手にさげた剣を見た。
﹁あぁー⋮⋮くそっ﹂
吐き捨てながら、剣を近くの草に擦りつける。酷い臭気の粘液が
べたりと付いた。
﹁誰もやりたがらねぇ仕事な訳だよな。⋮⋮たくっ、帰る前に、水
でも浴びていくか﹂
自らの革のコートにも粘液が付いているのを見て、彼は更に苦々
しい顔をした。
この森の中に大繁殖した、カエルに似た魔獣の討伐依頼を受けて、
彼が足を運んだのは一刻程前のことだ。討伐自体にはさほど苦労は
していない。武器の扱いにも、魔法にも、ある程度の自信がある彼
にとっては、行き帰りの往復時間の方が手間だった。
﹁次の依頼まで時間があるから受けた中継ぎだったけど⋮⋮失敗だ
ったかぁ⋮⋮﹂
草を踏みしめる自らの足音に、びちゃびちゃと粘着質な音が混じ
るのを聞きながら、溜め息混じりに肩を落とす。
彼が現在拠点にする街から、日帰りで往復できる距離であること
が、この仕事を請け負った最大の理由であった。彼はそんな安易な
判断をした自分自身に呪詛を吐いた。
仕事自体はたいしたことがなかった。
5
森の奥に魔獣が作っていたコロニーを、発見するのも殲滅するの
も、彼には簡単な作業だった。
奴らの体液と、吐きかけられた粘液にさえ、まみれなければ。
あまりに酷い臭いに、早々に嗅覚が麻痺したことが、唯一の救い
だろうか。
だが、こんな状態で街に戻っても、顔見知りの門番にすら顔を歪
められるだろう。
彼は現在拠点にしている街で、それなりに顔の知れた冒険者にな
っている。この国で成人と認められる18歳になったばかりの彼だ
が、彼の郷里では15歳で一人前として扱われる。その頃からこの
稼業を生業と定めた彼は、数年の実績で、若いと侮られない程度に
は名を売っていた。
茶色混じりの黒髪に、魔獣の革のロングコート、左腕に魔道具の
︽探索
:
水︾
籠手。という外見的特徴で、デイル・レキという彼の名前が呼び起
水よ、我が名の元命じる、声を届けよ
こされる程度には。
﹁
﹂
呪文を唱え、魔法を行使する。途端強くなった水の気配に進路を
変え、デイルは獣道を分け入っていった。
視界が開けた先には、小川が流れていた。目的のものにデイルは
ほっとした顔をする。
コートを脱いでザブザブと水に晒す。魔力を帯びた彼の一張羅は、
それだけで粘液を流してくれた。水も弾くのですぐに乾く。デイル
は近くの枝にコートを干した。
6
暫し考える。
自分の身を見渡して再確認してみれば、なんとなく臭気と粘液の
不快感を思い出した。いっそ本格的に洗うべきかと、防刃布の上衣
に手をかける。
この森に棲む魔獣や、獣程度では、自分の脅威にならないことを
知るデイルの余裕のなせる行為でもあった。
コートは乾いたが、上衣とズボンは滴を垂らしている。デイルは
焚き火をおこすと、広げたコートの上に下着姿で腰を下ろして、水
浴びのついでに捕った川魚を炙っていた。
香ばしい匂いが周囲に漂う頃には、服もあらかた乾いていた。デ
イルは魚を気にしながら素早く着衣を身に付ける。さすがに下着姿
で食事をこんな場所で楽しめる程には、図太くない。
かさり、と音がした。
デイルは小動物が匂いにつられてきたのだと思い、視線をそちら
に向けて、絶句した。
幼い子どもが、茂みの向こうから彼を見ていた。
小さな頭が茂みからちょこんと覗いている。
デイルは、まず、気配を読み間違えたことに驚いた。
・
・
次に、幼い子どもが、こんな魔獣が棲む森の中をうろうろしてい
ることに困惑する。この周囲に村もないはずだと考えて、それに気
付いた。
子どもは、くるりと巻いた形状の、黒い角を側頭部に有していた。
︵﹃魔人族﹄か⋮⋮面倒だな⋮⋮︶
内心で舌打ちする。
七種存在する﹃人族﹄の中でも、最も大きい能力を持ち、閉鎖的
7
で他の人族と敵対的な種族。﹃魔人族﹄の身体的特徴は頭部に角を
有しているということだった。
︵殺るか⋮⋮?︶
それが手っ取り早い方法にも思えた。
面倒事の気配しかしない。
デイルは握る剣の柄に力を込めて−−手を離した。
せっかく水を浴びた直後なのに、返り血を浴びたくない。
そう頭の隅をよぎったのが、直接の理由だった。
子どもはこぼれ落ちそうな程、大きな灰色の眸で、じっとこちら
を見ていた。
一度、剣から手を離したデイルは、子どもを観察することができ
︶
る程度には頭が冷えていた。初めて見た瞬間からの違和感の理由に
気づく。
子どもの角は、片方根元から折れていた。
︵おいおい⋮⋮こんな子どもが、罪人だってか⋮⋮?
呆気にとられたデイルは、自分でも間抜けだと思う顔をしてしま
う。
以前、冒険者仲間から聞いた、魔人族の習慣の一つだ。
−−種族としての象徴でもある﹃角﹄を、魔人族は神聖なものと
して考えている。そのため、罪を犯したものは、角を片方折られた
状態で追放されるのだと−−
8
青年、ちいさな娘と出会う。︵後書き︶
想定以上に話が進みませんが⋮⋮じっくり書いていければと思って
おります。
9
青年、ちいさな娘を拾う。
罪人と認定されるには、眼前の子どもは幼なすぎた。
﹃魔人族﹄は、デイルたち﹃人間族﹄よりも、かなり長寿の人種に
なる。人間族の年齢が当てはまるかは、デイルには判断できなかっ
たが、茂みの奥から覗く、顔の位置から推測した身長では、5、6
歳位に見えた。
分別の付く年齢にはとても見えない。
じっと自分を見ている子どもが、焚き火のそばの魚も気にしてい
ることに気付いて、デイルはその存在を思い出した。慌てて串を抜
く。少し焦げかけていた。
﹁⋮⋮⋮⋮うーん⋮⋮﹂
串を左右に動かせば、子どもの視線も動いた。
﹂
どうやら、これのこともずいぶんと気になっているようだ。
﹁⋮⋮⋮⋮食うか?
幼子の前で、見せびらかすように食べるのも、気まずい。
そんな心理が働いて、彼は半ば無意識にそう声をかけていた。自
分で同時に、何を言ってるのかと、呆れた独白をこぼす。
﹁
お⋮⋮?
﹂
***?
***、****?
﹂
彼の声に、視線を再び彼の顔に向けた子どもは少し首を傾げた。
﹁ん?
子どもの口から出た言葉に、今度はデイルが首を傾げる。
早くて聞き取れなかったが、どこかで聞いた事のある言語のよう
にも思えた。
﹁うーん⋮⋮あいつ、確か⋮⋮﹂
10
以前魔人族について、彼に教授した冒険者仲間の言葉を記憶から
ことば
引っ張り出す。
﹁魔人族の言語は、呪文に使われる言語と同じ、なんだったけかな
⋮⋮﹂
そうだったと、手を打つ。
傍、来る、必要、これ
?
﹂
だからこそ魔人族は、﹃全てが生まれながらの魔法使い﹄なのだ
と、言っていたのだった。
﹁うーん⋮⋮、じゃあ⋮⋮
呪文に使われる言語から、意味を拾えそうな単語を羅列する。
会話文として意識したことなどなかった為に、どうすれば良いか
検討はつかなかった。
だが、自分の知る言語に、子どもは明らかにほっとしたような顔
をした。がさがさと茂みを乗り越えると、デイルの傍に近寄って来
る。
呼んでおいてなんだが、デイルは再び呆然とした。
見ず知らずの他人の傍に、警戒心の欠片もなく、子どもが近寄っ
て来たから−−だけではない。
子どもは、痩せ細っていた。
元はワンピースであっただろう襤褸きれからのぞく手足は、骨と
皮だけにしか見えない。一目で栄養失調だと伺える姿。
この幼子を殺すのに、剣など必要なかった。細すぎる首に手でも
掛ければ、抵抗される間もなく折ることすらできるだろう。
魔人族は排他的であると同時に、仲間意識の強い種族として認識
していた。だからこそ、﹃追放﹄が重い罰として成り立つのだ。
それに、寿命の長い種族の常として、出生率がかなり低い。
子どもは魔人族にとって、宝だ。
その幼子が、罪人とされたとしても、このような酷い状態で放置
されている可能性を、デイルは考えていなかった。
11
﹁やる⋮⋮食え。⋮⋮あぁ、何て言うのかわかんねぇな⋮⋮﹂
デイルは顔をしかめながら、子どもに串を押し付けるように持た
せた。魔法の呪文に﹁召し上がれ﹂なんて単語は使わない。
﹂
だからデイルは串を握らせたのだが、子どもはじっと魚を見て、
******?
そのあとデイルを見上げた。
﹁
﹁いいから、食え﹂
子どもはデイルを伺うように見ていた。デイルはとりあえず頷い
てみせる。デイルのその様子に、子どもはゆっくりと魚を口に運ん
だ。
少しずつ少しずつ、ちまちまと食べる。
小動物のようだな、と、手持ちぶさたな彼は思った。
﹂
子どもが時間をかけて魚を食べ終わるのを待ってから、デイルは
汝、護る、人、共に、存在?
再び言葉を選んだ。
﹁あぁー⋮⋮
まだ保護者がいないと決まった訳ではない。たどたどしいデイル
の言葉をじっと見上げたまま聞いていた子どもは、先程よりゆっく
***、************、****。****
りと返事をした。
﹁
﹂
⋮⋮獣、拒否⋮⋮?﹂
********、********
﹁んー⋮⋮共に、在る、否定?
デイルには途切れ途切れの意味しか拾えなかったが、子どもの表
情は明らかに暗かった。子どもは少し考えるようにして、デイルの
腕をその小さな手で引いた。
森の中を小さな歩幅で進む子どもの後を追いかけながら、デイル
は自問していた。
声を掛けたのも、魚を与えたのも、いってみれば気まぐれだ。自
12
分はこの後どうするつもりなのか、と。
何?
先?
﹂
﹂
急に子どもはぴたりと足を止めて、デイルを見上げた。
﹁
***********
子どもは先を指さして、首を振る。
﹁
﹁また、獣?⋮⋮これは否定、か?﹂
﹂
デイルは意味を考えながら、子どもの指さす先に踏み込んだ。
﹁っ!
そして、息を呑む。
剣を振るうことを生業にするデイルでも、直視するのを躊躇う、
かつて﹃ひとであったもの﹄が横たわっていた。
︵⋮⋮これは、魔人族、だな。角の形からすれば⋮⋮男、か︶
何時息絶えたのかも、判別できない。死亡理由も定かではなかっ
た。
損傷が激しすぎた。
この森は、魔獣や獣が多い。
⋮⋮追放
襲われたのか、死後荒らされたのかはわからないが、その為なの
だろう。
︵角は⋮⋮ちゃんと両方あるな。⋮⋮あの子の父親か?
された子どもを独りで放り出した訳じゃねぇんだな︶
それを救いと感じても良いのだろうか。
先程の子どもの言葉を思い出す。
単語を繋ぎ合わせれば、おそらく、父親は最期に命じたのだろう。
−−自分の遺体の傍にいてはいけない。そのうち獣が集まって来
るだろう。その時、幼子ひとりでは万が一にも身を守ることなどで
きないのだから−−と。
13
﹁あぁ⋮⋮くそっ。こんなの見たら、放っておけねぇじゃねぇか⋮
⋮﹂
デイルは頭をがしがしと掻いた。
父親の最期の祈りを、彼は拾いあげてしまった。
そして、言い付け通りに傍には居ないまでも、同じ森の中でひっ
﹂
大地に属するものよ、我が名の元命ずる、我の望むまま姿
そり生き抜いていた幼子を見つけてしまった。
﹁
を変えよ︽大地変化︾
遺体の傍の地面に手を付き、呪文を唱える。ボコリと地面が陥没
し、穴がひとつ空いた。
﹂
うーん⋮⋮
葬
彼の呪文に気づいたのか、何時の間にか近寄って来ていた子ども
が、恐る恐るデイルを見上げた。
デイルは子どもに向かって言う。
⋮⋮
﹁せめて、埋めてやろうな。⋮⋮伝わるか?
る、土、死、ひと
デイルの言葉を噛み締めるようにして、子どもは、こくりとひと
つ頷いた。
一瞬、こんな酷い状態の遺体を見せて良いのかと、デイルは悩ん
だが、子どもの方はとっくに受け入れていたらしい。最後の別れを
するように、視線も反らさずじっと﹃父親﹄を見ていた。
もしかしたら、時折様子を見に来ていたのかもしれない。
デイルが穴の中に遺体をおさめて、魔法で再びその穴を埋めるの
﹂
別に気にするな﹂
*****
を、子どもは無言で見守っていた。
﹁
﹁感謝、か?
デイルは出来上がったばかりの墓の上に、もう一度魔法を行使す
る。
地属性魔法で召還した、純白の巨石を乗せる。
14
名を刻むことは出来ないが、急拵えにしてはちゃんとした墓にな
っただろう。
﹁⋮⋮はぁ⋮⋮、まぁ、これも縁か﹂
我が名、﹃デイル﹄、汝、名は?
﹂
﹂
子どもが墓をじっと見ていている後ろで、デイルはため息をつい
た。
﹁
我、共に、汝、行く?
振り向いた子どもは、驚いたような顔をした。
﹁ラティナ﹂
そして一言、その音を紡ぎだす。
﹁ラティナ⋮⋮か。ラティナ、
デイルのその言葉に、今後こそはっきりと驚いた顔をした子ども
−−ラティナは、こくりと首を縦に振った。
15
青年、ちいさな娘を拾う。︵後書き︶
ようやくラティナの名前が出せました。
魔法を行使する為の呪文は、意味のわからない人にとっては、ただ
は、そういう意味の言葉を唱えている、という表
の音の羅列です。全く違う言語の一種だと思って頂ければ。作中の
呪文
現です。
16
青年、ちいさな娘を連れて帰る。
ラティナは、襤褸のような服に、壊れかけた靴。それと銀の腕輪
−−大人用らしく、ラティナには大きすぎる−−だけしか身につけ
ていなかった。
よくこんな状態で生き延びていたものだと感心する。気候が穏や
かな季節であったことが幸いだったのか。
ラティナの父親を埋葬した時に、デイルは何か身元を示すもので
もないかと探したのだが、まともな物は見付からなかった。せめて、
この幼子に実の親の形見のひとつでも持たせたかったのだが、と思
う。
﹁うーん⋮⋮ラティナに歩かせたら⋮⋮日が暮れちまうな﹂
自分の半歩に満たない歩幅の幼子を見下ろして、デイルは独白す
る。それにこの状態だ。体力もあるとは思えない。
﹁仕方ねぇか⋮⋮﹂
腕を伸ばして抱き上げると、ラティナはまた驚いた顔をした。こ
の子のただでさえ大きな眸が、そんな顔をするとますます大きくな
る。
ラティナは暴れたりすることもなく、大人しくデイルの腕の中に
﹂
収まった。
﹁軽っ!
思わず口にしてしまう程、ラティナは細くて軽かった。
﹁本当⋮⋮大丈夫なのか、こいつ⋮⋮﹂
出会い頭に物騒な考えを抱いた自分が、言うのも何だが。
元々デイルは悪い人間ではないのだ。関わることを決めた以上、
幼子を心配する程度の心理は働く。
﹁荷物にもなんねぇな⋮⋮さっさと帰るか﹂
17
デイルは地属性魔法を素早く唱えて方向を確認すると、街の方向
に向けて足早に歩き出した。
デイルが現在拠点としている街は﹃クロイツ﹄と呼ばれている。
名の通り、いびつだが、十字の形をしているこの街は、港から王都
への途中という交通の要所だ。また魔獣の生息地帯が近場にあり、
冒険者と呼ばれる己の腕のみで生き抜くならず者たちの集まる所で
もある。
物資と人の集まる、ラーバンド国第二の都市。それがクロイツと
いう街だった。
その土地の性質上、旅人に寛容なのもクロイツの特徴だ。
商人という外から来るものを優遇することで、クロイツは発展を
遂げた。その資金を元に報償金を設け、魔獣という脅威となりうる
物から街を防衛している。
クロイツは旅人によって成り立っているのだ。
クロイツの街は厚い壁に囲まれている。壁には東西南北に門があ
り、門番が常駐している。人びとはそこで通行税を支払い、中に入
るのだ。
デイルはいつも利用している南門をくぐった。
⋮⋮魔人族か﹂
顔見知りの門番が、デイルを見て、おやっとしたような顔をする。
どうしたその子?
﹁通行税、二人分だ﹂
﹁ああ⋮⋮何だ?
デイルが抱くラティナに目を止めて尋ねる中年の門番は、渡され
たコインを確認しながらそう言った。
﹂
﹁森で保護した。親と死に別れたらしい。⋮⋮俺が引き受け人にな
るから、問題ねぇだろ?
﹁まぁ、お前が引き受けるんなら、良いんじゃないか。一応、﹃踊
18
る虎猫﹄で確認するんだろ?
﹁ああ﹂
﹁じゃあ、大丈夫だろう﹂
﹂
あっさりそう言って、門番はデイルたちを通し、次へと目を向け
る。
門番の反応はデイルの予想通りだった。彼は自分のネームバリュ
ーにはその程度の力があることを知っている。
南門を抜けると、庶民の居住区と旅人相手の店が隣接した区画に
なっている。デイルが主に利用する区画だ。
高台にある北の貴族街や、西の高級住宅区にはまず用はない。せ
いぜい東に集中する市場と商店、職人たちの居住区に行くことがあ
るぐらいだった。
アフマル
ラーバンド国は、主神を赤の神と定めている。そのため赤い色を
尊ぶ傾向がある。
それはクロイツの街並みにも見てとれる。
例えば、立ち並ぶ建物の壁は、灰色の石造りが剥き出しの物、漆
喰や塗料で塗られた物といったように様々な色彩だが、ほとんどの
屋根は鮮やかな赤い色だ。
これは、建物自体に神の護りを賜る為の願掛けだとも、天高き処
に在られる神に、卑小たるしもべがここに在ることを訴える為だと
も言われている。
下町と言えども街は活気に満ちている。
日が傾きはじめるこの時間帯は、家路を急ぐ者、今晩の宿を探す
者、今日の稼ぎを酒と食事に費やす者、旅人相手に食べ物を売る者
−−などが行き交っている。
ラティナは、デイルの腕の中で、落ち着かなさげに視線をあちこ
ちに向けていた。
19
その表情には、恐怖や怯えはない。純粋な好奇心のようだった。
少し上気した顔で、時折目を真ん丸にしている。多くの人の姿や街
の様子に、興味をひかれているらしい。
﹁街は今度なー⋮⋮﹂
デイル
﹂
デイルはラティナにそう言いながら、伝わらないだろうけどなと
***?
独白する。
﹁
﹁あぁー⋮⋮やっぱり言葉が通じないってのは不便だな⋮⋮﹂
人族の中で、最もメジャーな言葉である西方大陸語くらいは必須
だろうと考えながら、デイルは歩を進めた。
勝手知ったる道をスイスイ進む。
やがてデイルが足を止めたのは、一軒の店の前だった。
入り口には、不可思議な格好をしている虎猫の意匠のアイアンワ
ークの看板と、緑の地に天馬の紋章が入った旗が並んでいた。
酒場と宿を兼ねた﹃踊る虎猫亭﹄と呼ばれる店だった。
﹂
﹂
デイルは建物を回って裏に行くと、裏口から店の中を覗いた。
﹁ケニス、居るか?
﹁おお。デイル帰ったのか⋮⋮って、何だそりゃ?
そこは厨房になっていた。ケニスと呼ばれた無精髭が目立つ大柄
の壮年の男は、デイルの声にフライパンを振りながら顔を向けて、
困惑する。
﹁まあ⋮⋮後で詳しく話すが⋮⋮拾った﹂
﹁犬猫拾ったみたいに言うなよ﹂
完成した料理を豪快に皿にのせたケニスは、デイルの返答に更に
困った顔をする。
基本的にお人好しなこの大柄な男だが、ついこの間までは巨大な
戦斧を振り回す腕利きの冒険者だった。それはこの店を利用する者
たちには周知の事実だ。
20
﹁とりあえず、お湯使って良いか?
﹁ああ、構わないけどよ⋮⋮﹂
﹂
ケニスの了解を取ると、デイルは裏口の横に設けられた小さな小
屋の扉を開けた。
そこは石のタイルがしかれ、バスタブが設えてあった。
簡易ながらも風呂場としての体裁が整えられている。
デイルはバスタブの横の、火と水の﹃魔道具﹄に魔力を注ぐ。温
度を確認しながら、バスタブにお湯を満たしていった。
魔道具により、水の供給はおろか、お湯を作ることも難しくはな
い。とはいえ、一般家庭の家屋の多くには風呂場は存在しない。人
びとは、街のあちこちで営業している湯屋を利用するのが一般的だ。
﹃踊る虎猫亭﹄に風呂場があるのは、時間を問わず仕事帰りの冒険
者が湯を使えるようにというためだ。数刻前のデイルのように、酷
い状態になる冒険者も少なくはない。
ラティナはその様子をじっと見ていた。魔道具自体が珍しいと感
じているのかもしれない。
デイルはコートを脱ぎ、籠手や剣、他の荷物を隅にまとめて置い
来る
﹂
てから、ラティナを呼んだ。
﹁ラティナ
ちょいちょいと手招きすると、ラティナはデイルの隣に立った。
服を脱がせようとしたら、ラティナは始めてデイルに抵抗した。
﹁あー⋮⋮やっぱ、女の子だったなぁ﹂
不本意そうな顔をするラティナを裸に剥いて、バスタブに放り込
みながら、デイルは呟いた。
声や服装からなんとなくそうだと思っていたが、確信までは至ら
なかったのだ。骨の浮いた痛々しい体と、髪をお湯で濯ぐ。バスタ
ブのお湯はすぐに真っ黒になった。
21
一度お湯を捨て、再びお湯をはる。
バスタブに石鹸を入れ、ついでに泡立てた。それでラティナの油
と汚れで、縄のようになっている髪を洗う。
体も洗う。また汚れたお湯を替えた。
この子、凄ぇ⋮⋮美少女素材なんじゃねぇか?
︶
再度お湯をはり、ラティナの髪を洗いながら、デイルはふと、気
付いた。
︵あれ?
何度も洗ったラティナの髪は、白金の色と輝きを取り戻していた。
片方だけの角も、艶々としている。
あばらが浮き、痛々しく痩せ細っているが、それは今後回復する
だろうと思う。魔人族は、もともと頑強な種族なのだから。
顔も窶れているために今は目ばかり目立つが、汚れを落としたラ
ティナの顔の造作はかなり整っている。頬が丸みを帯び、血色も良
くなれば、愛らしい少女となるだろう。
︵あー⋮⋮こりゃあ、寝覚めも悪くなるし、ますます見捨てる訳に
はいかねぇかぁ⋮⋮︶
手を離せば、あっという間にろくでもない好き者に目を付けられ
るだろう。片角を失った魔人族は、同族から捨てられ後ろ楯がない
ということを喧伝しているようなものなのだ。幼子に良からぬこと
を考える輩には、格好の獲物だ。
︵関わるって決めたんだからな⋮⋮覚悟を決めるか⋮⋮︶
デイルは、心の内で、そう呟いていた。
22
青年、ちいさな娘を連れて帰る。︵後書き︶
設定の描写量って難しいですね。つい、文章量が増えがちです。
23
青年、保護者となることを決める。︵前書き︶
話のストックの関係上、連日更新とはいきませんが、あまり間が空
かないようにはして参ります。
24
青年、保護者となることを決める。
﹁デイル、あんたなんか、やらかしたんだって?
﹂
まだ若い女の声にデイルが視線を向ければ、﹃踊る虎猫亭﹄の裏
口から、黒髪の女性が出てくるところだった。
ケニスの妻のリタだ。
﹃踊る虎猫亭﹄は、この若夫婦が切り盛りしている宿である。
﹂
俺の幾つの時の子だよ﹂
リタは、デイルが幼い女の子をわしわし洗っている姿に、ぎょっ
とする。
﹁隠し子?
﹁なんでその発想になるんだ?
デイルは呆れたように返してから
﹁森ん中で拾った。親の死体もそこにあった﹂
と、端的に返す。リタはそれを聞きながらまじまじと少女を観察
して、その痛々しい様子や他人種であることに気付く。そばに落ち
またこれ着せるつもり
ていた、ボロボロの布きれにも目を止めた。
﹂
﹁この子が着ていたのって、まさかこれ?
じゃないでしょうね?
﹁あー⋮⋮忘れてた﹂
﹁ちょっと待ってなさいよ﹂
リタは踵を返して裏口の中に駆け込んで行った。
リタ、ここの女
とりあえず汚れを落とすことは考えていたデイルだったが、替え
の服のことなど全く思い至っていなかった。
デイル、*****?
﹂
﹁
﹂
現在、疑問、⋮⋮今の誰かってことか?
りた?
﹁ん?
将だよ﹂
﹁⋮⋮?
25
﹁そーだ、リタだ。﹂
これ使いなさい。
こくん、と首を傾げるラティナと言葉を交わしている間に、リタ
が戻って来た。手には布などを色々抱えている。
﹁その様子じゃ拭く物も用意してないんでしょ!
こっちは私の昔の服よ。この子には大きいと思うけど。後、下着!
﹂
﹁あー⋮⋮悪い、すまないな、リタ﹂
﹁何よその微妙な顔。こないだ縫ったばかりの新品よ。さすがに古
着の下着穿かそうとは思わないわよ﹂
下着を色気の欠片もなく差し出されて、微妙な顔となったデイル
に、リタはずけずけと言う。
リタはこういう女だ。そうでなければ、冒険者相手の店などやっ
てられないのかもしれない。
バスタブからラティナを抱き上げて出し、リタから渡された柔ら
﹂
かな布で覆う。水分を拭き取られながら、ラティナはリタに指を向
ける。
﹁デイル、リタ?
﹁ああ。そうだよ﹂
﹁リタ、ラティナ﹂
ラティナは自分に指を向けると、リタにぺこんと頭を下げた。
﹁ご挨拶できて偉いわねぇー﹂
リタはにこにこ笑って、ラティナに視線を合わせてしゃがみこむ。
﹂
﹂
この女将は子どもが基本的に好きだ。ケニスとの間にも、早々に授
かることを望んでいることも、デイルは知っている。
じゃあ、あんたどうやって会話してんの?
﹁リタ。ラティナ、魔人族の言葉しかわかんねぇから﹂
﹁そうなの?
この子?
﹁呪文言語と同じだから、単語位はなんとかなる﹂
アクダル
﹁ふーん、で、どうする気?
﹁とりあえず、店で﹃緑の神の伝言板﹄で調べてからだな﹂
26
ラティナはデイルの手を借りず、渡された服を身につけていた。
自分の身の回りの事は一人でできるらしい。
そうでなければ、生き残ってもいなかっただろうが。
ラティナは見た目以上にしっかりとしているようだ。
ラティナの着替えが済む間に、デイルは自分の荷物を裏口から店
の中に入れた。
靴の替えまではなかったから、着替えを終えたラティナを再びデ
イルは抱き上げた。リタの後から裏口に入り、厨房を通ると、店の
表へと抜ける。
カウンターの内側で一人で店番をしていたケニスの隣を抜けて、
カウンターから外に出る。
店はそこそこの人数が食事をしており、そこそこの賑わいだった。
この店は、その性質上、昼前と完全に日が落ちた頃が忙しくなる。
今はケニス一人で回せていたらしい。
﹂
カウンターの一角にリタと向かい合って座る。
﹁さて、何を調べて欲しいの?
アクダル
﹁名前はラティナ。魔人族。この条件で捜索が出されているか。も
しくは、手配されているか、だな﹂
﹁そうね。それは必要ね﹂
リタは頷いて、カウンターの内側に設けられた﹃緑の神の伝言板﹄
と呼ばれている板状の物に手を滑らす。
﹁ラウハ、セッゲル、ヨナーディ﹂
リタの言葉に反応して、板は淡い緑の光を帯びる。
リタは視線を動かしながら、どこかここではない場所を視ていく。
﹁うーん⋮⋮該当する情報は無いわね。一応、外見特徴でも再検索
してみるけど⋮⋮﹂
﹁頼む﹂
27
アクダル
リタが操る﹃緑の神の伝言板﹄こそ、この店の最大の強みだ。
アクダル
アクダル
緑の神は情報を司り、旅人を守護する神だ。
緑の神の神殿はありとあらゆる情報を収集、管理する場となって
いる。この神の神官や司祭は、その加護の力で、通常とは比べ物に
アクダル
ならない程、強力な情報伝達魔法を行使することができる。それが、
最大の理由だ。
これにより、緑の神の神殿がある地域では、地域格差がなく、同
等の情報が共有されている。
アクダル
その情報の一部は、市井にも解放されている。
その窓口となるのが、この店のように、外に緑の神の紋の旗−−
一説には、情報収集自体に集中したい神殿の人びとが、情
緑の地に天馬の意匠−−を掲げた場所となっている。
−−
アクダル
報を求める外部の人びとの要望が煩わしいと、外部にまるっと委託
したとも言われている。そんな話が真実味を帯びる程、緑の神の神
官たちは、独特の感性で生きている−−
市井に解放されている情報は、主に世界のトップニュース、新た
な発見、発明の情報など。それに、犯罪関連の情報だ。
大きな犯罪を犯した者などは、世界中に手配される。
国境を越えて、他国の軍や官吏が犯罪者を追うことは難しい。そ
の為、報償金をかけて神殿経由で手配をかけるのだ。冒険者の中に
は、そういった賞金首を専門に追う者も多い。
大掛かりな魔獣の討伐依頼なども神殿に寄せられる。
アクダル
﹃緑の神の伝言板﹄とは、神殿から情報を引き出す端末だ。それが
ある店には、情報を求める冒険者たちが集まってくる。その冒険者
目当てに、街の人が持ち寄る依頼などもこの場所に集まるのだ。
28
﹃踊る虎猫亭﹄は、酒場と宿屋であるのと同時に、仕事を探す冒険
者のための仲介所でもある。
﹁やっぱり該当する人物はいないわね﹂
﹁じゃあ⋮⋮やっぱ、ラティナは重罪人って訳じゃねぇな。⋮⋮親
の捜索もねぇなら、あの死体は、父親だったで間違いないだろうな
⋮⋮﹂
デイルとリタが真剣な顔で自分のことを話していることを理解し
ているのかいないのか。
デイルの膝の上のラティナは、キョロキョロと周囲を見回したり、
デイルを見上げたりと忙しない。
こんな店に不釣り合いな幼児の姿に、食事をしているいかつい男
たちも時折こちらを見ている。ラティナは目が合うと、こてん、と
首を傾げたり、じっと見返してみたりを繰り返している。
そんな中しばらくすると、ラティナから異音が響いた。
﹂
具体的には、腹の虫が鳴ったのだ。
﹁⋮⋮⋮⋮ラティナ?
﹁あー⋮⋮匂いにつられちゃったのねぇ﹂
二人に一度に注目されて、ラティナは少し気まずそうな顔をする。
リタはカラカラと笑って、ケニスに声を掛けた。
﹂
﹁ケニス、この子にご飯作ってあげて。消化の良い物の方が良いか
な?
﹁ついでに俺の飯も頼む﹂
デイルはそう言って、カウンターからテーブル席に移動する。ラ
ティナにはテーブルが高すぎるので、椅子の上に適当な台となるも
﹂
のを乗せてから座らせた。デイルも椅子を寄せて隣に座る。
﹁で、デイルあんたこの子どうするつもり?
﹁俺が面倒みるさ。これも縁だ。言葉も通じない、他人種の子ども
29
を万年予算不足のこの街の孤児院に預けても、ろくなことにゃなら
ねぇだろうしな﹂
口に出して宣言するのは、覚悟を決める為でもある。
デイルも子どもを育てることとその責任を容易く考えている訳で
はない。
おや
﹁俺がこの子の保護者になるよ﹂
30
青年、保護者となることを決める。︵後書き︶
冒険者ギルドという形のものはありません。
各﹃神殿﹄は、宗教施設兼、公共的な施設といった位置あいです。
神殿従事者でなくても回復魔法は使えますので、﹃僧侶﹄=回復係、
ではありません。
という設定も、本文で書きたいのですが、本筋以外の文章が増えて
しまう⋮⋮
31
青年、ちいさな娘の笑顔に考える。
ほかほかと湯気のたつ、ミルクとチーズのリゾットを前に置かれ
て、ラティナはその灰色の眸を丸くした。
横には、燻製肉と細かな野菜が煮込まれたスープが置かれる。
そのずいぶんこじんまりと盛り付けられた食事の隣に、その何倍
﹂
もの量のデイルの分が置かれる。デイルの皿には、更に大振りな腸
詰めが乗せてあった。
﹁ラティナの分、少なくねぇか?
﹁馬鹿ね。こんなちいさな子が、馬鹿みたいに食べるあんたと同じ
ような量、食べる訳ないでしょう﹂
給仕したリタが、呆れたように言う。
﹁たくさん食べさせ過ぎても、お腹壊しちゃうわよ﹂
﹂
リタは匙をラティナに渡すとにっこり笑う。デイルや店に来る客
*********?
相手の接客とは、天と地程に差がある。
﹁デイル?
﹁おう、食え﹂
デイルも薄々、この幼い子供が、ひとつひとつ、自分の許可を求
めているであろうことには気づいていた。
言葉の意味はわからないが、表情を見ればその程度はわかる。
ラティナは匙をリゾットに入れると、ひと匙掬い、口に運んで.
ビクッとした。
﹂
慌ててはふはふと口を開いているのを見れば、思っていた以上に
熱かったらしい。
﹁リタ、水ーっ﹂
﹁あら、熱かった?
ふた匙目をふうふうと一生懸命吹いている。そんなラティナの様
32
子に笑いながら、デイルは声を上げ、リタもラティナの様子に眉を
寄せた。
ぱくんとリゾットを食べたラティナの表情が明るくなる。
わかりやすい。
﹁そうか、旨いか。良かったなぁ﹂
デイルも自分の分を口に運ぶと、表情を緩めた。隣でこれ程美味
しそうな顔をされると、いつも通りのはずの食事が旨く感じるから
不思議だ。
﹂
﹂
デイルの言葉に込められた、優しい響きを感じとったのだろう。
ラティナは、にこりと笑った。
初めて見せる笑顔だった。
﹁うん、もっと食え、ラティナ。腸詰めも食うか?
﹁だから、食べさせ過ぎたら駄目だって言ってるでしょう!
自分の皿からラティナの皿に、たっぷり取り分けようとしたデイ
ルの頭を、水を運んで来たリタが、お盆でパコンと叩く。
ラティナが驚いた顔をした。
﹁だって⋮⋮栄養つけなきゃ駄目だろうー⋮⋮﹂
この子用のおやつも用
一回に食べられる量が少ない分、
﹁一気に食べさせるなって言ってるのよ!
ケニスが!
﹂
意してあげるから!
回数を増やすの!
遠くで
﹁作るのは俺なんだよなー⋮⋮まぁ、良いけど⋮⋮﹂
という声が聞こえた気もするが、二人共気にも止めなかった。
相変わらず、ラティナはちまちまと食べ進めたので、量にかなり
の差があるにも関わらず、デイルが先に食事を終えた。
33
そのラティナの食事が終わるのを見計らったように、リタが追加
の皿を持って来る。
中身を見れば、果物のコンポートが数切れ入っている。
普段甘い物などメニューに無いこの店で、デザートに類する物を
見たことなど初めてだ。
﹁ケニスが子どもに甘いとは⋮⋮見た目によらないな⋮⋮﹂
まだほのかに温かいのを見れば、即興で用意したのだろう。ラテ
ィナに食べさせる為に。
ラティナの前に置くと、ラティナはまた彼の許可を求めるように
顔を見る。デイルが頷くのを見て、果物を口に運ぶ。
ぱあぁぁぁっ
と、今までで最高峰に表情が明るくなる。目がきらきらしている。
﹁良かったなぁ﹂
夢中になって食べているラティナは、よっぽどコンポートが気に
入ったようだった。あの森の中では食べるものを探すのが精一杯だ
美味しい?
﹂
ったのだろう。甘い物などあるはずもない。
﹁どう?
他の客の料理を運んで来たついでにリタが、ラティナを覗き込め
ば、ラティナは、先ほど以上の笑顔をリタに向けた。
花が後ろで咲いているような、満面の笑顔だ。
言葉が通じなくとも、充分すぎる返答だった。
︵早急に言葉を教えよう⋮⋮食べ物に釣られて、変な奴に付いて行
ったりしないように︶
そんなラティナの笑顔に、テーブルの下でぐっと拳を握ったデイ
ルは、自分自身もラティナを餌付けた自覚がある。
34
全部食べ終わっても、ラティナはコンポートの皿を覗き込んでい
た。
色々なことがあっ
デイルはそんなラティナの頭を撫でた。いきなりのことに驚いた
のか、ビクリと体がはねあがった。
だが、デイルの表情を見て緊張を解く。
﹁驚かせたか、悪いな。今日は疲れただろう?
たからな﹂
デイルの声を聞きながら、ラティナは少し首を傾げた。
その間も、じっとデイルの真意をはかるように目を逸らさない。
そういえばこの子は、よく周囲を見ている。観察力が強いのかもし
れない。
その割りに、警戒心は低い気もするが。
デイルが再びラティナを抱き上げると、彼女は自分からデイルの
首に腕を回した。どこかぎこちなく、それでもデイルに甘えるよう
に力を込める。
ラティナの方からしがみついてくれたお蔭で、体勢はしっかりと
安定する。デイルは片腕でラティナを支えて、再びカウンターの方
へ向かう。
﹁リタ、もうラティナを休ませるから、部屋に行くな﹂
﹁わかった。お休み、ラティナちゃん﹂
リタの声に、ラティナは再びにこりと笑う。どうやら彼女はこの
短い時間で、デイルやリタを安全な相手として認識したようだ。
出会った時よりだいぶ表情が柔らかくなっている。
それが無性に嬉しいような、面映ゆいような気持ちだ。
出会って間もないのは、デイルも同じだ。この小さな子ども相手
にそんなことを思うようになるなんて、昨日までの自分には思いも
よらなかったことだった。
カウンターの横から再び中に入り、厨房へ抜ける。
35
ケニスが奮闘するその背中に
﹁ケニス。ラティナ、果物旨かったって﹂
と声を掛ける。
﹁おう﹂
振り返りもせず応えたケニスの後ろを通り、デイルは食材などが
積まれた場所の奥にある階段を上がった。
二階を素通りして更に梯子をのぼる。
着いたのは、屋根裏だった。
乱雑に様々な荷物が置かれている−−多くは一階で、冒険者相手
に売っている雑貨の在庫だ。−−の更に奥に生活感のある一角があ
る。
デイルが間借りしている一角だ。
この場所があることも、デイルがラティナを引き取ることを決め
た一つだった。
デイルはこの街の住人という訳ではないが、長期拠点とするにあ
たり、住居としてここを借りている。宿の一室を点々とするには不
便もあって、昔馴染みのケニスを頼ったという経緯だった。
結婚前のリタが私室として使っていた屋根裏のスペースが空いて
いたこともあり、すんなりここを借りることが決まった。少々天井
が低いことにさえ目をつぶれば、充分な住処だ。
デイルは金払いも良いし、在庫や荷物をちょろまかすような貧乏
臭いケチな真似はしない。彼の人間性と生活基盤を知る家主夫婦に
とっても、悪い間借り人ではないらしい。
デイルは自分の﹃部屋﹄でラティナを下ろす。
そこには異国調の厚い敷物が敷かれ、窓の近くには机と棚があっ
た。後はベッドと蓋付きの大きな箱がある。住人としては荷物は少
わずか、待つ、この場所
﹂
なく、旅人としてはかなりの荷物だろう。
﹁
36
ラティナがこくりと頷くのを確認してから、デイルは一度下に戻
った。放ったままの荷物やコートを取りに行く為だ。
デイルが戻ると、ラティナは﹃部屋﹄の中をうろうろ歩いていた。
やはりこの子は好奇心がかなり強いらしい。それでも勝手に触って
みたりしないあたり、自制心も強いのだろう。
自分がこの位の歳の頃どうだったかなんて思い出すのは難しいが、
街中で遊ぶ子どもたちを脳裏に浮かべてみても、この子はしっかり
していると思う。
デイルはブーツを脱ぎ捨て、自分のテリトリーに入る。
彼の郷里は椅子ではなく床に直接座る文化のところで、自分の部
屋で位馴染んだ楽なスタイルでいたい。床に郷里風の敷物を敷いた
のもその為だ。その敷物を泥で汚したいとは思わない。
ボックスの隣にコートを掛け、荷物を置く。武器類はベッドにも
近い棚の上が定位置だ。
窓を開けて新しい空気を入れてから、防刃布で出来た上衣と厚手
の素材のズボンも脱いだ。
﹁ラティナ、おいで﹂
手招きで意味を悟ったラティナは素直に寄って来る。彼女を連れ
てデイルはベッドの中に入った。
普段の彼の生活リズムに比べれば、だいぶ早い時間だが、休める
時に休むことができるというのも、冒険者としての必須のスキルの
ひとつだ。
このまま寝てしまっても何の問題も無い。
ラティナが嫌がる素振りをしたらどうするか、と懸念していたが、
それに反してラティナは素直にデイルの隣に体を横にした。
ラティナが子猫のように、体を丸めて、寝息をたてるまでもわず
かな時間だった。
37
︵やっぱり、疲れるよな。言葉も状況もわからない、知らない人間
に囲まれた場所に連れて来られたんだものな︶
デイルは自分でも驚く位に穏やかな気持ちでラティナの髪を撫で
おや
る。
保護者になると決めたばかりでこんなことを思うのも不思議だが。
こんな風に誰かと暮らすのも悪くないかもしれない。
そんなことを思いながら、デイルは自分より暖かい体温を感じな
がら眠りに落ちていった。
そう時間がたたない後に、真っ青になったラティナのぺちぺち連
打で起こされるまでは。
ラティナが最初に覚えることを要望した言葉は﹃トイレ﹄だった。
因みに、彼女の尊厳は守られた。
38
青年、ちいさな娘の笑顔に考える。︵後書き︶
︵うち
服飾と食べ物に関しては、わざとかなり緩い設定にしています。
︶
だって非実用的でも可愛い衣装着せたいじゃないですか!
の娘に!
パンとチーズだけの食卓描写しても、楽しくないじゃないですか!
︵当方が!︶
ということで、そういった点は仕様となっておりますのでご了承頂
ければと存じます。
39
青年、ちいさな娘と街に出る。
デイルが目覚めたのは、だいぶ早い時間だった。
昨夜、早く寝たのが理由だろう。デイルは他人の気配に視線を向
けて、自分の隣の彼女に気付いた。
﹁⋮⋮ああ、そうだった。⋮⋮拾ったんだった﹂
欠伸をしながら、同居人の存在を思い出す。くぴゅるくぴゅると、
どこか調子外れな寝息をたてるラティナは、デイルの服の一部をし
っかりと掴んでいる。
どうやって起こさないようにベッドを出るか。思案する。
だが、デイルが体を起こしたところで、ラティナはぱちりと目を
開けた。
慌てたように飛び起きて、デイルに追い縋る。
彼女の不安の一端を感じて、デイルは微笑みかけた。少しでも安
心してもらえるように。
﹁おはよう、ラティナ﹂
そう言って、彼女の頭を撫でた。
今日のデイルの服装は、仕事の時と違ったシンプルなシャツとゆ
ったりしたつくりのズボンだ。腰に財布と小さなナイフだけをさげ
て、寝癖を手ぐしで整える。ブーツを履いてラティナを抱き上げた。
彼女は着替えのひとつも無いので、昨日そのままの姿で寝ている。
少しスカートがシワになっていた。
一階に降りて、店ではなく厨房にあるテーブルにラティナをつか
せる。
﹁あら。おはよう、ラティナちゃん﹂
40
デイルとラティナに気付いたリタが笑いかける。もちろんラティ
ナにだけだ。
ケニスとリタは朝食の仕込みの真っ最中だ。冒険者連中は、朝か
らやたら量を食べる。宿泊人数に比べると異常な程の食材が必要な
のだ。
デイルはそのまま裏に回り、風呂場の横にある洗い場で顔を洗う。
顔を拭いた手拭いを洗うと、濡れたそれをラティナの所に戻って渡
す。
彼女は正しくその意味を悟ったらしい。こしこしと自分の顔を渡
されたそれで拭いた。
下着類を洗濯するまでが、彼の朝の一連の動きだ。洗い場に設け
られている干場に吊るす。
戻ると、リタがラティナの髪をすいているところだった。リタは
呆れたように、感心したように、と忙しない顔をしている。
﹁ラティナちゃんの髪、綺麗な色。見事ねー。馬鹿デイル。女の子
﹂
の髪、あんたと同じようにボサボサのままにしておいちゃ、駄目よ
!
確かに、櫛を通したラティナの髪は、今までとは比べものになら
リボン
ない程に艶やかになっている。そういうものかと、新米保護者は心
のメモ帳に書き込んだ。
リタは器用にラティナの髪を結い上げて、飾り紐を結んだ。髪と
紐でラティナの角がほとんど隠れる。
リタはデイルをちらりと見て、囁くように言う。
﹁魔人族だっていうのはともかく、片角が折れているのは、目立た
ない方が良いわよ﹂
﹁わかってる。すまない﹂
デイルはリタにそう言ってから、ラティナに視線を向けた。
体型に変化は無いが、清潔にし、髪と服を整えたラティナは、何
41
処から見ても女の子にしか見えない。森の中の薄汚れた性別不詳の
幼子とは別人だ。
﹁おう、おはよう。ほら、朝飯だ﹂
リタと入れ違いに、両手に皿を持ったケニスがやって来る。ラテ
ィナはケニスに向かい、少し考えるようにしてから
﹁おはぁよぉ﹂
あまり自信の無さそうに、そう言って、ぺこりと頭をさげる。
ケニスが固まり。デイルが表情を歪めた。
朝から同じ言葉をかけられて、挨拶だと検討を付けたのだろう。
やはりこの子は、観察力に優れているらしい。かなり賢い部類に
***?
*****?
﹂
﹂
入るのではないかというのも、薄々察していたところだ。
﹁
正しい
﹁いや、合ってる。
デイルの表情に、自分が間違えたのかと、不安そうになったラテ
ィナに、デイルは慌てて笑いかける。
﹁くそっ、ケニス覚えてろよ﹂
﹁大人げねーな﹂
だが、﹃はじめてのご挨拶﹄を奪われたデイルは、笑顔のままケ
ニスに文句を付けた。ケニスもどことなく締まらない顔をしている。
﹁やっぱり、早くリタに産んでもらおう﹂
子どもって良いなぁと、呟きながらケニスは自分の仕事場に戻っ
て行った。
デイルの朝食は、普段通りのパンにチーズと燻製肉のグリルとい
った献立だが、ラティナの分は特別製だった。パンはミルクと玉子
に浸されて、中がとろとろになるように焼き上げられ、昨日のコン
42
/
冥﹄
ポートがのせられている。薄く切られた燻製肉がカリカリに焼かれ
て添えられていた。
魔道具は一般に流通している。
どこの家にもまずあるのが、﹃水﹄﹃火﹄そして﹃水
の魔道具だ。どれも台所に関わる魔道具である。つまり、﹃飲料水
の供給﹄と﹃点火﹄、﹃氷による冷蔵﹄を魔道具で担っているのだ。
それなりに値段もするので、無論共用井戸を使い、火おこしで火
を点けているものもいない訳ではない。だが、圧倒的に少数派だ。
利便性には敵わない。
その為に冷やされた食べ物も珍しくはない。
ラティナの前のコップに絞った果汁が注がれたが、それなどもそ
うだった。
こくりと飲んだラティナが、嬉しそうな顔をデイルに向ける。
﹁ああ。良かったな。⋮⋮ケニスの奴、本気で餌付けにかかってい
るな﹂
後半はラティナに聞こえないように、小さな声で呟く。
ラティナはパンも夢中で食べていた。やはり甘味のあるものが好
みらしい。
﹂
﹁なぁ、リタ。女の子用の服とかって、どこらへんで売ってるんだ
?
食事を終えて皿を運びながらデイルは尋ねる。まだ食事が半ばの
ラティナが慌てたようにこっちを見たので、彼女の見える位置に腰
をすえて、山盛りの芋の皮を剥く。相手の手を止めさせる以上、手
伝うのは当たり前だというのが彼の義理堅い部分だ。
﹁後、当面必要になるもの、教えてくれ。男の目線だと、忘れがち
なもんとかさ﹂
﹁そぉねぇ⋮⋮仕立てて貰うなら、東区のアマンダの店とか評判良
いわよ。まぁ、天気も良いし、広場に市も出てるでしょ。そこで古
43
着探しても良いんじゃないかしら。靴はバルトの所にしときなさい。
角の店よ。そうね後は⋮⋮﹂
リタは手を止めて、ペンを滑らせてリストを作る。
聞いているだけでデイルは、女性の買い物に対する執念の一端を
感じ取って、戦慄した。
ラティナを抱いたままデイルは﹃踊る虎猫亭﹄から外に出た。
﹁まずは靴だなぁ⋮⋮裸足で歩かせる訳にはいかねぇからな﹂
﹂
彼女の重さ自体は苦にはならないが、荷物も運ばなくてはならな
い。
﹁デイル?
﹁﹃買い物﹄は、何て言えばいいんだろうな⋮⋮﹂
絵本でも買って帰るかと、独白する。安価な買い物では無いが、
それほど彼にとっては困らない。
街の中心部に近づくにつれ、冒険者の姿は見えなくなり、街住ま
いの人々が多くなる。中心部の広場で行われる市は、近隣の村人や
旅の商人も品を並べているから、それを目的にしている者も多いだ
ろう。
デイルは途中で道を曲がり、東区の方へと向かう。
リタに聞いた通りにバルトという職人が構えている店の扉をくぐ
った。
﹁つ、疲れた⋮⋮﹂
ぐったりとするデイルの隣には、大きな袋が積まれている。
正直言って、魔獣を斬り倒す方が楽だ。女性しかいない店の中を、
慣れない買い物をし続けるのが、これ程の苦行だとは思わなかった。
女児用の下着を片手に持つ自分に向けられた視線とか、本当に止
めて欲しかった。隣にラティナがいなければ、本気で憲兵を呼ばれ
44
ていたかもしれない。
******?
﹂
否定、問題
⋮⋮大丈夫だ﹂
などと、悲観的に考えてしまう程度には、デイルは疲弊しきって
いた。
﹁デイル、
﹂
﹁ああ。心配しなくて良い。
﹁だい、じょーぶ?
﹁ああ。そうだ﹂
隣に座ったラティナは、市で買った果物を食べている。出かける
前に、リタに口が酸っぱくなるほどに、水分補給と栄養を与えるよ
う言われてきたのだ。
デイルに切り分けてもらった瑞々しいそれを食べた後、ラティナ
はべたべたになった手を見て思案にくれている。
しばらく見ていると、途方にくれたように見上げるラティナと目
が合った。
﹁⋮⋮ラティナって、結構育ちが良かったのかもな⋮⋮﹂
この辺の悪ガキなら、とっくに服の裾で拭っているところだろう。
昨日から彼女を見ていると、だいぶ﹃お行儀が良い﹄印象を受ける。
勿論、デイル相手に緊張しているという面もあるのだろう。
水よ、我命じる、現れよ︽発現
:
水︾
﹂
この賢い幼子は、それくらいの気は使っていそうだ。
﹁
デイルの短い詠唱で呼ばれた水の珠が、ラティナの手の上で弾け
る。
﹁拭ける物⋮⋮ついでに、ラティナ用の手巾も何枚か買っておくか
⋮⋮﹂
そう呟いて、再び市を覗きに立ち上がったデイルは、その繰り返
しで、当初の予定をはるかに越えた買い物を、自分がしていること
には、まだ気付いていない。
そうして、大量の荷物を抱えて帰り、リタとケニスに呆れられて、
ようやくその事実を自覚したのだった。
45
46
青年、ちいさな娘と街に出る。︵後書き︶
書いている当方が言うのもなんですが、デイルさんデレるの早くな
いでしょうか。
47
青年、ちいさな娘のお留守番について、ぐだぐだする。
﹂
ラティナは買い物が終わる頃には、だいぶ疲れた顔をしていた。
﹁ラティナ、大丈夫か?
﹁だいじょうぶ﹂
だが、問いかけても、そう答えて首を振る。
この気を使うことを知っている幼子に、この単語を教えてしまっ
たのは、失敗かもしれない。
﹂
デイルはため息をひとつついて、荷物を抱え直すと、ラティナを
抱き上げた。
疲労、癒す、無理、否定
﹁デイル。だいじょうぶ﹂
﹁
それでも首を振ったラティナに言い聞かせて、背中をポンポンと
叩いた。荷物はかさばるが、ラティナを含めても運べない重さでは
ない。
案の定、デイルが﹃踊る虎猫亭﹄に着いた頃には、ラティナは、
彼の腕の中で寝息をたてていた。
相変わらずラティナの寝息はどこか調子外れだ。今はくぷゅぅく
ぷゅぅという音が聞こえてくる。
客席の椅子を並べて作った即席の寝床で、ラティナは昼寝の真っ
最中だった。
今﹃踊る虎猫亭﹄にはほとんど客はいない。食事をするのには早
いし、仕事を探す者には遅い時間だ。情報を求める旅人や冒険者が
ポツポツと姿を見せる位だ。
ラティナの寝顔を見守りながら、デイルは薄めたワインを飲んで
いた。
48
﹁うーん⋮⋮﹂
つい、唸り声が漏れる。
﹁何、その辛気くさい顔﹂
カウンターの中で店番をしているリタが、呆れた顔を向ける。
﹁昨日の依頼。完了の報告しないといけねぇんだけどさ。ものがも
のだったから、一部を切り取って持って来るっちゅう訳にもいかな
くてさ﹂
﹂
﹁ああ。あれ。くっさいもんね。持って来たら出入り禁止よ﹂
﹁知ってたんなら、教えろよ﹂
﹁教えたら、誰も依頼受けないでしょ?
至極当然のように、リタは答える。
だから、依頼達成条件がああなっていたのかと、後から納得した
のだ。
﹁依頼主連れて、現地確認しに行かなきゃなんねぇんだよ。明日、
たぶん遅くなる﹂
この仕事の依頼主は、クロイツの薬師の連名だった。
ちょうど魔獣がコロニーを作っていた先に、この地方にしか生え
ない薬草の群生地があるのだという。
魔獣退治を成した証明作業として、後日、薬師を連れて現地に向
かうという契約となっていたのだ。
通常のこういう形態の依頼は、大抵魔獣の体の一部−−耳など−
−を切り取って運んで来ることが多い。
あの﹃カエル﹄が、あそこまで悪臭を漂わせていなければ、デイ
ルもそうしていた。
﹁ラティナ連れて行く訳にはいかねぇしな⋮⋮﹂
﹁ここに置いて行けば良いじゃない﹂
デイルの悩みをあっさり断ち切ってリタが言う。
49
﹂
シ
今回はね。次からはあんた自身で子
﹁子守り代は、今月の家賃に上乗せしておくわ﹂
﹁⋮⋮いいのか?
ッター
﹁ほかに方法はないでしょ?
守りを探しなさい﹂
となると、次のデイルの課題は、ラティナにその事を言い含める
ことだった。
﹂
昼寝から目を覚ましたラティナの第一声は
﹁デイル?
という泣きそうな声だった。保護者冥利に尽きる。
﹁ここにいるぞ﹂
聞こえてきた彼の声に、明らかに彼女はほっとしたような顔にな
る。
椅子から降りると、カウンターで書類を書いていたデイルの側に
とてとてと寄って来た。
ちいさな手でぎゅっとデイルの服を掴み、彼を見上げると、不安
﹁ヤバいリタ。俺、ラティナのこと置いてけねぇ!
﹂
﹂
そうだった顔が和らぐ。
﹁馬鹿なこと言うんじゃないわよ。危ないでしょ!
﹁大丈夫だ。依頼人は見捨てても、ラティナは守りきる﹂
﹂
リタの顔に、﹁こいつ駄目かもしれない﹂と、書いてある。
﹁デイル?
﹁ラティナ⋮⋮うわぁー⋮⋮、やっぱ嫌だ。依頼料より、ラティナ
を取るのもひとつの選択かもしれない⋮⋮っ﹂
﹁馬鹿。そろそろ、またいつもの名指しの仕事で、遠出する必要も
50
あるんでしょ。その前に、留守番させる位の気概がなけりゃ、あん
たが育てるのは、初めから無理な話よ﹂
リタの言葉は正論だ。
彼の仕事は危険で、幼子と共に行くことができるようなものでは
ない。
一人で留守番させる時間は、どうしても長くなるだろう。
あの森の中で一人でいるよりは、ずっとましだろうし、リタとケ
ニスもいるので、食事などの心配はいらない。
きっと大丈夫、だろう。
だが、それが平気かどうかは別の話で。
寂しい思いをさせることは、わかっていた筈だったのだが。
﹁う⋮⋮﹂
一人にするのが嫌だからといって、今更ラティナを孤児院に入れ
るという選択は、デイルにはない。
これは、乗り越えなくてはならないことで、それが予想よりだい
ぶ早かっただけのこと。わかってはいるのだ。
﹁なんて過酷な試練だ⋮⋮っ﹂
そう思わず呟いたら。
リタの顔に、﹁ああ。こいつ駄目だ﹂と、書かれていた。
結論として、ラティナは素直に聞き分けた。
拙いデイルの言葉だったが、ラティナは真面目な顔でじっと静か
に聞き、ぎゅっと眉を寄せて、耐える顔をしてから
﹁だいじょうぶ﹂
と、コクリと頷いて答えた。
51
﹂
いじらしい。なにこの子、いじらしすぎる。
﹁ごめんな、ごめんなっ、ラティナっ!
ラティナ、だいじょうぶ﹂
思わず、ぎゅうーっと、抱きしめた。ラティナが驚いた顔をする。
﹁デイル?
更にそう言ってくる幼子は、ある意味ではデイルよりよっぽど大
人びている。
そんなに早く大人にならなくとも良いはずなのに。
完全に甘やかせる気満々となったデイルは、抱き上げたまま部屋
へラティナを連れて行く。
部屋には、先ほど買い込んできた荷物が積まれている。ラティナ
が寝ている間に運んでおいたものだ。
彼女の前で買って来た物を片付けていく。
ひとつひとつこれは何だと、声に出しながら片付けるのは、言葉
を教える為でもある。
下着と服は、大振りなカゴに入れ、小物類はやや小さなカゴに入
れた。ベッドの奥、屋根の傾斜でデッドスペースとなっていた場所
に並べる。小さなラティナでも手が届くようにと考えた結果だ。
絵本も数冊買って来た。棚の下の方に入れる。
ラティナは、デイルが片付ける様子をじっと見ていた。
デイルが買った物が、自分の為の物だと言うことは、理解してい
るようだった。
そのまま膝の上にラティナを座らせると、買って来た絵本のうち
の一冊を開いた。
52
これは、幼い子供に文字を教える為の本だ。
挿し絵にそれの名前が併記してあるという平易な内容だ。
本来ならば、ラティナにとっては、簡単すぎる内容だろうとは思
う。
だが、文字と言葉を教えるのに最適な教本になるのではないかと
思ったのだ。
デイルは、ラティナを膝の上に座らせると、絵本を開きゆっくり
と読み上げていった。
彼女は、じっと、まばたきするのさえ惜しむように、絵本へと集
中する。
﹂
やはりこの子は、年齢に見合わぬほどに、大人びていると思う。
**、*****?
ああ。そうだよ﹂
﹁デイル、
﹁ん?
たまに絵を指差して、疑問を口にする。
最後まで読み終えて、ラティナの様子を見ると、彼女もこの本の
意味を悟っているらしい。
自分から始めの頁を開いて、デイルを促すように見上げた。
彼が一言読み上げると、後に付いて真似をする。
﹁犬、猫、馬﹂
﹁いにゅ、にぇこ、うみゃ﹂
舌足らず過ぎて可愛かったので、訂正しそこねた。
日が完全に落ちる前に、ラティナを風呂に入れた。
幼い子供がどんな病気にかかるのか、新米保護者にはわかりかね
る問題だが、清潔にしておく方が良いだろうとの判断だ。
まだ湯屋に連れて行くには不安もあるので、しばらくは﹃虎猫亭﹄
の風呂を使うことにする。代わりに掃除をするよう言い付かった。
53
子どもってのは溺れる事故が多いんだから
﹁いくらしっかりしていても、子どもを一人でお風呂場に置いちゃ
﹂
絶対に駄目だからね!
!
とは、リタの言葉だ。
だが、今日もラティナは、服を脱がせたら不本意そうな顔をした。
この子が、デイルに不機嫌そうな顔をするのは、今現在、この時
だけだ。
入浴自体は嫌がっていないようなのだが、何がそんなに気に入ら
ないのだろう。
デイルは泡を両手にすくって遊ぶラティナを見ながら、そんなこ
とを考えていた。
夕食を終えた後、再びうつらうつらしはじめたラティナを抱き上
げて、部屋に戻り、ベッドに入れる。
今日は昨日の反省を活かして、トイレにも行かせておいた。
﹁⋮⋮おやすみ、ラティナ﹂
髪を撫でながらそう囁くと、ラティナは
﹁おやしゅみ、デイル⋮⋮﹂
寝ぼけ半分で彼の言葉を繰り返した。
抱きしめたくなる衝動は、ラティナを起こしてしまうので自重し
た。
54
青年、ちいさな娘のお留守番について、ぐだぐだする。︵後書き
︶
本格的にデイルさんが駄目になっていきますね⋮⋮仕様なので仕方
ないですね!
55
ちいさな娘、はじめてのお留守番。︵前書き︶
お盆休みシーズンなので、なんとなく投稿時間を変えてみました。
56
ちいさな娘、はじめてのお留守番。
朝が来るのが、こんなにつらいことだとは思わなかった。
そう、うちひしがれているデイルを、リタが心底呆れた顔で見て
いた。
﹁いいから、いい加減早く行きなさいよ﹂
﹁ラティナ、出来るだけ早く帰って来るからな。良い子にしてるん
だぞ﹂
ほとんど伝わらないのを承知の上で、デイルは、﹃虎猫亭﹄の前
で、リタと並んで見送りに立つラティナを抱き締めて言う。
これ以上こうしているとリタに蹴り出されそうな殺気を感じたの
で、しぶしぶ体を離した。顔をのぞきこみながら頭を撫でる。
﹁行ってきます﹂
ラティナはデイルの言葉に首を傾げる。そこにリタの声がかかっ
た。
﹁行ってらっしゃい、よ。ラティナ﹂
自分の名前を聞いて、ラティナがリタを見る。
﹁行ってらっしゃい﹂
﹂
リタが繰り返すのを聞くと、デイルに向かいたどたどしく真似を
した。
﹁デイル、いってらっちゃい?
﹁ああ。行ってきます﹂
デイルが微笑むのを見て、ラティナも笑顔を浮かべた。
朝の﹃虎猫亭﹄は慌ただしい。
宿泊している冒険者が食事を採る横で、新しく貼り出された依頼
57
のビラを確認している人がいる。
依頼を持ち込む人が来るのは、もう少し遅い時間が多いが、即日
対応を希望する急ぎの依頼も少なくはないのだ。そんな依頼人への
応対も必要だ。
仕事に出る冒険者の中には、この時間に出立する者もいて、そん
な人間はだいたい消耗品を購入していく。
猫の手も借りたい程に忙しいのだ。
アク
酒場−−とはいえこの時間は、流石に食堂としての面が強い−−
ダル
を回すのは、ケニス。リタは時折フロアに出るが、主には、﹃緑の
神出張所﹄の仕事と精算に追われている。
﹂
そんな慌ただしい店の様子を、ラティナは興味深そうに見ていた。
﹁おっと⋮⋮危ないぞ?
両手に二枚ずつ皿を持ったケニスが、足元にいたラティナに驚き
つつ声をかける。
ラティナはこてん、と首を傾げた。
リボ
今日の彼女は、昨日買ってもらったばかりのピンクのワンピース
ン
姿だ。リタに結い上げてもらった髪は、左右で大きなピンクの飾り
紐と共に揺れている。デイルが張り切って髪飾りも買い込んで来た
ので、しばらく日替わりで使える程に種類がある。
ラティナはケニスが料理を運び、空になった皿を提げ、注文を捌
く様子を視線で追っていた。
リタは、だいたいカウンターにいるので、言葉のわからない彼女
には、何をやっているのか、いまひとつ理解の範疇外なのだ。
その点、ケニスの行動は彼女にもわかりやすい。
58
これまでの間で、ケニスが食事を作ってくれていることを、ラテ
ィナはちゃんと見ていた。今も忙しそうに、ラティナには何人前か
わからないような山盛りの食事を盛り付けている。
こくん。と、ひとつ頷くと、ラティナはとことこと店の中の喧騒
﹂
に紛れて行った。
﹁ん?
ケニスが異変に気づいたのは、大量のマッシュポテトの皿の横に、
出来上がったばかりの燻製肉入りスクランブルエッグを盛り付けよ
うと、作業台に向き直った瞬間だった。
皿が増えていた。
洗い場の隅、汚れた食器を置いている場所に、洗い物が増えてい
るのだ。
はじめはリタがさげて来たのだと思った。
彼女の仕事も忙しい時間だが、たまたま少し、手が空いたのだろ
うと。
だが、出来上がった料理を持って店へ出ると、リタは依頼者の対
応をしつつ、雑貨の販売をこなし、食事を終えた客の精算をしてい
る。
とてもじゃないが、この状況でフロアに出るのは、無理だろう。
﹁お待ち﹂
一言言って馴染みの髭面−−常連の古参の冒険者のもとに料理を
置けば、そいつはポカンと口を開けていた。
﹁なんだ、馬鹿面して﹂
﹁お前こそ。ずいぶんちっせえ給仕雇ったもんだな﹂
常連が指を差す方向に視線を向けて、ケニスも気づいた。
59
ラティナが皿を持って歩いていた。
ちいさな彼女には、皿ひとつとっても、ずいぶん重たい荷物であ
るらしい。一枚を両手でしっかりと持って厨房へと向かっていた。
しばらくすると再び戻り、キョロキョロと周囲を伺う。空いた皿
を見つけると、うんと頷き、どこか使命感の感じる顔でテーブルへ
と向かった。
あまりにちいさなラティナの姿にぎょっとした客へ、彼女はにこ
りと笑いかけ、空いた皿を掴んだ。
少しよろけたラティナの姿に、そのテーブルの客以外からもハラ
ハラした視線が向けられる。
無事に彼女が厨房へとたどり着くと、厳つい男どもから、ほっと
﹂
した空気がこぼれた。
﹁ラティナ?
﹂と、その顔には書いてある。
ケニスが呼び止めると、ラティナは足を止めて不安そうな顔で彼
を見上げた。﹁間違えた?
ケニスは数瞬考えた。
ラティナはちゃんと客の様子を見て、空いた皿をさげている。
自分の能力を過信せず、出来る範囲のことだけしている。
周囲に気を配り、周りの人間を避けている。
何せ自分に気づかれずに動くことができるということは、彼がど
う動いているかというものも見ているのだ。ラティナが周囲に気配
りしている証拠となるだろう。
ケニスは片手で簡単に掴めてしまえる程の、ちいさな彼女の頭に
その手をのせる。
60
わしわしわし
﹁うん。まぁ、善し﹂
撫でたら、ラティナはケニスの手に振り回されて、少しくらくら
したようだった。
放っておいても、害は無し。
ケニスはそう判断を下した。
むしろ多少なりとも片付けてくれるなら願ったりだ。と。
客の心臓に悪かろうと、知ったことか。
朝のピークを過ぎた頃、ケニスは﹃冷蔵庫﹄から昨夜仕込んでお
いた器を取り出した。
﹁ラティナ﹂
呼べば、彼女は素直に近づいて来たので、ケニスは厨房内のテー
ブルの前に彼女を座らせる。
器を彼女の前で皿へとひっくり返した。ぷるん、と中身が滑り落
ちる。
ラティナの目が丸くなった。
コンポートの残りを刻んで入れて、煮汁を固めたゼリーが、今日
のおやつだ。
ラティナに匙を握らせる。
洗い物をしながら様子を見れば、ラティナは匙の先でゼリーをつ
ついてぷるぷると震える感触を楽しんでいた。
61
昼近くなると﹃虎猫亭﹄の客足は途絶える。
アクダル
主な客層である冒険者たちは仕事に出る時間であり、酒場の営業
も一時中断する。この時間帯は、﹃緑の神出張所﹄としての仕事し
か受け付けない。
﹁リタ、仕入れに行って来る﹂
﹁行ってらっしゃい﹂
ケニスが店の中のリタに声をかければ、普段より丁寧なリタの返
答が返ってきた。首を傾げる暇もなく
﹁いってらっちゃい﹂
﹂
カウンターの隅で大人しく絵本を広げていたラティナが、ケニス
を見上げてにこりと笑った。
﹁⋮⋮やっぱり、子どもってのは良いな、リタ。三人位どうだ?
﹁まずは最初の一人からでしょう﹂
本当に馬鹿なんだから、と言うリタの顔も、満更ではなさそうだ
った。
とばかりに、リタを
ケニスが仕入れから戻ると、ラティナがとことこと近づいて来た。
後ろでリタがニヤニヤと見ている。
﹁おきゃーりなちゃい﹂
そう言うと、ラティナはちゃんと出来た?
振り返る。
﹁⋮⋮﹂
ケニスは、普段の仕入れでは買って来ない様々な果物を、ゴロゴ
ロと作業台に広げた。
と
さて、何を作るかと腕を捲る彼の口元も、情けない位に緩んでい
る。
ひ
あまりデイルのことも言えない。
62
本当にラティナは手のかからない子どもだ。
昼時にラティナに出した、チーズを挟んだ小さなサンドイッチと
果物も、行儀よくもぐもぐと食べていたし、食べ終わるとちゃんと
片付けまでする。
・
・ ・
・ ・
・
それ以外の時も一人で絵本を広げていたり、リタやケニスのする
ことを見ていたりする。
決して邪魔になるような行動をとらず、自分が居て良い場所を見
極めている気配がする。
デイルに聞いた話だと、魔獣の生息地で、自分で食べ物を探し、
生き抜いていたらしい。想像以上に過酷で、たくましく、運の良い
行動だ。
だが、デイルに見付からなければその幸運も何時まで続いていた
かはわからない。衰弱しきって、獣の胃に納められたのもそう遠く
なかっただろう。
その為なのか、周囲に気を使いすぎのような気もする。
ケニスが見ている先でコクリコクリと舟をこぎはじめたラティナ
は、自分でふらふらと階段の方に向かっていた。
さすがに、それは危ない。
ケニスは食料倉庫の一角の木箱を並び変えると、その上にマット
を敷いた。ラティナを追い抜き二階の自室に上がり、数枚の布を取
って来る。
﹁ラティナ﹂
呼んで、調えたそこをぽんぽんと叩くと、ラティナは半分閉じた
目で振り返った。
ケニスは苦笑して、眠りかけたラティナを木箱の上に寝せる。
相当限界だったらしい。ラティナはすぐに寝息をたてはじめた。
63
64
ちいさな娘、はじめてのお留守番。︵後書き︶
お気に入り登録して下さった皆様、ポイント加算して下さった皆様。
当方の何よりの励みとなっております。
感想も頂く度に、戦々恐々とする反面、筆を取る原動力としており
ます。
この場をお借りして謝意を述べたいと存じます。
皆様、いつもありがとうございます。今後もお付き合い頂ければ幸
いと存じます。
65
ちいさな娘、はじめてのお留守番。﹁お帰り﹂まで。︵前書き︶
お盆休みなので、投稿時間を変えてみました。二回目。休み明けに
は元通り朝の投稿に戻ります。
66
ちいさな娘、はじめてのお留守番。﹁お帰り﹂まで。
﹂
ぱちりと目を開けたラティナは、キョロキョロと周囲を見渡した。
﹁デイル?
彼女を、あの森の中から連れ出してくれたひとの名を呼ぶ。
たった一人ぼっちで在った彼女を見つけてくれたひと。
安全な場所と、安全な食事を彼女にくれたひと。
彼女に、ひとのぬくもりを、思い出させてくれたひと。
起きたか⋮⋮﹂
彼女にとって、﹃安心して良いということの象徴﹄であるひとの
名を呼んだ。
﹁ラティナ?
デイルとは異なる男の声に、ラティナは混乱しかけた。
咄嗟に逃げ出さねばならないと、全身に力を込める。だが、そこ
で、ふわりと漂う甘い匂いに気付いた。
ぱちぱちと瞬きして、ラティナは自分の居る場所を思い出した。
昼寝から覚めたラティナの第一声は、デイルを呼ぶ声で、それで
ケニスは彼女の起床に気付いた。
小鍋をかき混ぜながらラティナを見れば、怯えきった小動物が警
戒しているような様子で周囲を伺っている。
ケニスが声をかけると、更に警戒を強めたらしい。
だが、急に動いたりせず、状況を判断したのち、すぐに行動に移
れるように力を溜めている。
この子は本当に賢いらしい。と、ケニスは感心する。駆け出しの
67
冒険者を名乗る血の気の多い連中より、よっぽど冷静だ。
寝起きで自分の現状を見失う位は、この幼さでは無理もないこと
だ。
ケニスは小鍋を火から下ろすと、ラティナの方に向けた。
とろりと、良い具合に煮崩れたベリーが、甘い匂いを漂わせてい
る。
ケニスの計算通り、その匂いに気付いたラティナの全身から力が
抜ける。木箱からよいしょとばかりに降りると、とてとてとケニス
のそばに寄って来た。
差し出された小鍋の中を覗き込むラティナには、先ほどまでの毛
を逆立てた小動物のような気配はない。年相応の幼い少女の顔だ。
ラティナの興味をひいた後で、ケニスは薄く切ったパンの上に、
出来立てのジャムをのせる。たっぷりとのせてやりたいところだが、
そうすれば火傷は必至だ。すぐ冷める程度で、味見には十分な量を
見極める。
ラティナに渡すと、彼女は確認するようにケニスの顔を見た。
おそるおそるといった様子でパンにかじりつく。
ぱあぁっと、表情が輝いた。
夢中になって食べているうちに、手の上にこぼれてしまったジャ
ムをペロリと舐めて、はっとしたようにケニスを見る。彼が咎めて
いないどころか、笑っている姿に、ラティナも笑顔を返した。
ケニスが瓶に入れたジャムを、ラティナはしばらく飽きもせず眺
めていた。作り手としては、本当に作りがいがある相手だ。
日が傾きはじめると、ぼちぼちと冒険者連中は街に戻って来る。
68
﹃踊る虎猫亭﹄が再び忙しくなりはじめる時間だ。
﹃虎猫亭﹄に来る客の全てが、宿泊客という訳ではない。酒と食事
だけをしに来る者が多数を占める。
冒険者以外にも、仕事帰りの街の門番や憲兵などの姿もある。
アクダル
気取らず、安い料金で飲み食いできる店として、厳つい野郎ども
が集まる店だ。
この時間になると、日中とは逆に﹃緑の神出張所﹄としての業務
は閉じられる。リタがフロアを専門に回し、夫婦二人でなんとかこ
の喧騒を捌いている。
カウンターの隅の席で、夕食を食べているラティナも、そんな賑
やかな店の様子に視線を奪われていた。
ガハハと大笑した客の姿に、口に運びかけていたニョッキがぽと
りと落ちた。
そのことにも気付かずに、丸くなった目で、じーっと観察してい
る。
はじめて見る生き物を、見るような目だなとケニスは思ったが、
口には出さないでおいた。
ラティナの瞼が重くなりはじめた頃、﹃虎猫亭﹄の扉が開いた。
﹁あら、デイル﹂
リタの声に、ラティナの目がぱちりと開く。
ぴょんと椅子を飛び下りると、ととと、と急いで出迎えに走った。
﹁ラティナ、ただい⋮⋮﹂
言いかけたデイルの足にぎゅうーーーっと抱きつく。
﹁ラティナ⋮⋮﹂
やはり心細い思いをさせたと、眉を寄せたデイルは
﹁おきゃーりなちゃい﹂
顔を上げたラティナのその言葉に、抱き上げようと中腰になった
69
中途半端な姿勢で硬直した。
リタとケニスがニヤニヤしている。
自然とにやける表情を抑えることもせず、再起動したデイルはラ
ティナを抱き上げる。
﹁ただいま、ラティナ。留守番できて偉いな﹂
笑いかけてから、ぎゅっと力を入れると、ラティナは満面の笑顔
になった。
周囲の常連客は、デイルとも顔馴染みだ。彼の締まらない顔に、
・
・
容赦ない冷やかしの声が飛んで来る。
﹁なんだデイル、ずいぶん小さな彼女だなあ﹂
﹁うっせぇ﹂
邪険にあしらいながら、ラティナを抱いたまま、椅子に座る。
﹂
リタが食事を運んで来る時に、問いかけた。
﹁ラティナ、飯は?
﹁とっくに食べさせたわよ。さっきまで眠そうにしてた位だもの﹂
﹂
その当人は、デイルの膝の上で、ふにゃっと幸せそうな笑顔を浮
かべている。誰が見ても、安心しきった表情だ。
﹁⋮⋮どうだった、ラティナ。大人しくしてたか?
﹁大人しすぎる位よ。この子、凄く頭が良いわ。自分の置かれてる
状況も、どういう行動をとるべきかも、ちゃんとわかってるもの﹂
デイルの前のゴブレットにドプドプと乱暴にワインを注ぎながら
リタが言う。
デイルは普段、酒は薄めてアルコールを低くしたワインしか飲ま
ない。リタもわざわざ聞かなくとも、彼の前に出すのは、決まった
それだった。
彼が、飲めない訳でも嫌いである訳でもなく、単に泥酔すること
70
を嫌っていることは、この店では常識だ。
以前、それを理由に彼を子どもと侮った一見の客が、片手で捻り
あげられた時の話も、この店では良い肴になっている。
すりすりと仔猫のようにデイルの腕の中で体を預けるラティナは、
今までで一番彼に甘えてくれているようだった。
︵罪悪感より、ちょっと嬉しいかも⋮⋮︶
寂しい思いをさせたからこそ、反動で甘えてくれると言うのなら、
留守番させるのも悪くないかもしれない。
時折デイルを見上げて、にこりと笑うラティナに。
笑い返してやりながら、デイルはそんなことを考えていた。
71
ちいさな娘、はじめてのお留守番。﹁お帰り﹂まで。︵後書き︶
いつもより、少し短めでした。
同じくらいの文章量で合わせるのって、結構難しいですね。
72
青年、ちいさな娘の件について悩みを抱く。︵前書き︶
お盆休みなので投稿時間を変えてみました。ラストです。そして連
続投稿も小休止。とびとびに戻ります。今後のストック次第です。
73
青年、ちいさな娘の件について悩みを抱く。
想像以上にラティナは賢いらしい。
一週間もすると、ラティナは日常会話位なら、支障なくこなせる
ようになっていた。
そして、その頃のデイルには、一つの悩みが持ち上がっていた。
ラティナがケニスになついた。
ぶっすぅーーーっと、不機嫌そうな顔を隠そうともしないデイル
の前で、親鳥の後を付いていく雛鳥のように、ケニスの後をとてと
てとラティナが追いかけている。
デイルが買った覚えのないエプロンを、ワンピースの上に付けた
ラティナは、エプロンと同布の三角巾を付けている。
幼子の﹃お手伝い﹄ルックだった。
︶
ケニスが店の掃除をしている横で、ラティナは精一杯手を伸ばし
て卓を拭いている。
︵まるで、親子みてぇだよな。ケニスと並ぶとさ⋮⋮︶
元々、デイルはケニスを警戒していた。
︵はじめから、ラティナ、ケニスに胃袋掴まれてたし!
﹂
悩みというよりも、単純な嫉妬である。
﹁おそうじ、おわり?
﹁ああ。そうだな﹂
掃除用具を片付けるケニスに確認してから、ラティナは厨房に行
74
き、台に登って布巾を洗う。力が弱い彼女ではうまく絞ることが出
来ないため、そのまま置いておく。
洗い場の近くにあった彼女専用の台をずるずると引き摺って移動
する。
そうしてそれを彼女の﹃定位置﹄に据えると、台にちょこんと座
った。
これもまた、いつの間にか厨房に用意されていた、彼女用のペテ
ィナイフを小さな手でしっかりと握り、たどたどしい手つきで野菜
の皮を剥き始める。
ペース自体をみれば﹃手伝う﹄よりも、手間を掛けている。とい
った具合だが、ケニスは邪険にすることもなく、その隣に座り、自
身もまた黙々と皮剥き作業に入った。
−−数日前に教えたばかりなのに、拙いながらも一人でやれるよ
うになったのは、充分すぎる成長だ。
とはケニスの談で、ハラハラしながら思わず手を出してしまいた
くなるのを、デイルは自重するので精一杯だった。
﹁そんな気になるなら、いっそ見てなければ良いのに﹂
﹁ラティナの成長を見逃しちまうじゃねぇか﹂
この男、いっそ清々しい程に言い切ってしまった。
リタは書類整理をしながら、顔に生暖かい表情をはりつける。
皮剥きを終えたらラティナは休憩時間と決めているらしい。
食材倉庫の片隅に置いたままの絵本を取って来ると、店に居るデ
イルの所にやって来た。
絵本は二冊ある。
一冊は彼女が始めから言葉を覚える為に使っている絵本で、もう
一冊はそれよりかなり難しい、物語となっている絵本だった。
75
﹁デイル、ごほん、よむ﹂
﹁ああ﹂
デイルとしては、ラティナに読み聞かせる為にと選んだ本だった
ので、彼女自身が読むには難しいと考えていたのだが、彼女はこの
短期間で、つかえつかえではあるが、一人で読むことが出来るよう
にまでなっていた。
普段は静かに黙読しているが、デイルが居る時は声をあげてよみ
あげることで、添削してもらいたい意図があるらしい。
最後まで読み終え、デイルの合格を貰うと、次にラティナはもう
一冊の絵本と帳面を広げる。帳面には、みっちりと幼さの残る拙い
文字が書き綴られていた。
﹂
﹁これも、リタとかが、こうしろって言ったわけじゃなく、自分か
ら勉強しだしたんだろ?
﹁そうね。ラティナが紙が欲しいって言い出した時は、お絵かきで
もするのかって思ったんだけど、まさか文字の練習始めるとは思わ
アスファル
なかったわ﹂
﹂
﹁黄の神の神殿がやっている学問所でも、まだラティナ位の歳の子
はいねぇだろ?
﹁うん⋮⋮でも、ラティナ始めからペンの握り方は知ってたのよね。
ナイフの持ち方はケニスが一から教えていたけど、ペンは誰にも聞
かなくても、ちゃんと使えてた。この子、勉強出来る環境で産まれ
た子なんじゃないかしら﹂
ラティナは会話が出来るようになっても、自分のことをあまり話
そうとしなかった。
話してくれたのは、数点のみ。
やはり、森の中の遺体は父親であったこと。角を折られた後、父
親と共に生まれ故郷を出たこと。彼女が生まれたところは、魔人族
だけの集落であったこと−−といった程度だった。
76
この子の賢さからすれば、もっと様々なことを知っていてもおか
しくない。
恐らくこの子は、﹃角を折られる﹄ことの意味もわかっているの
だろう。詳しく自分の素性を話せば、郷里のように追い出されるの
かもしれないと不安に思っているのかもしれない。
デイル自身は、ラティナが話してくれるなら聞きたいが、無理に
聞き出そうとは思っていない。
この短い期間共に過ごしただけでも、この幼子が、罪人とされる
ような邪悪な存在とは思えない。ならば﹃罪﹄とは、彼女自身の人
格とは関係なく与えられたものだろう。
それが政治的なものか、宗教的なものかまではわからないが、理
不尽であることは間違いない。
﹂
だからこそ、この子の父親は、この子と共に郷里を出たのだろう
から。
﹁デイル、どうしたの?
そんなことを考えていたら、難しい顔になっていたらしい。いつ
なんでもねぇよ。ラティナ言葉上手くなったな﹂
の間にかラティナが、こてん、と首を傾げてデイルを見上げていた。
﹁ん?
そう言って頭を撫でると、彼女は本当に嬉しそうに笑う。
﹁おはなしできてうれしい。がんばった﹂
﹁そうか﹂
彼女の笑顔を見ていると、つられてデイルも柔らかい表情になる。
デイルも、ラティナと暮らすようになってから、自分がよく笑う
ことが出来るようになったことに気づいていた。
リタやケニスと馬鹿な話をすることはあっても、こんな風に穏や
かな微笑みなんてものを浮かべる時間は今までなかった。
ラティナが来てからの明らかな変化だ。
77
昼食、昼寝、おやつといった時間の合間もラティナの自由時間ら
しく、彼女はデイルが仕事等で外出していない日は、近くで過ごし
ている。
たまに店の入口から外を眺めていたりするが、今まで勝手に一人
で出て行ったことはないらしい。
デイルやケニスに付いて近所の散歩をする位で、まだ街の地理を
覚えていないということもあるのだろう。
だが、ケニスが夜の仕込みを本格的に始める時間になると、また
ラティナは厨房に行き、ケニスの後を付いて回る。
デイルはその様子を見に行っては、﹁頑張っている﹂とでも言い
たげな彼女の至極真面目な顔に、何も言えなくなってすごすごと戻
るというのを繰り返している。
今は、真剣な顔で、大量の芋をマッシュするという任務に挑んで
いた。
﹁少しは落ち着きなさいよ﹂
リタがエールのジョッキを運びながら言う。
﹃踊る虎猫亭﹄は基本的には、注文の品と引き換えに精算する形に
なる。踏み倒しを防ぐ為だ。ただ、常連客はその例に当てはまらず、
最後にまとめて精算することも認められている。
デイルに至っては、よっぽどでなければ家賃と合算だった。
リタのエプロンから、小銭の音が響くのはその為で、彼女は注文
と精算を手際よく捌いている。
そんなリタの言葉にもぶすっとしたまま、ろくな返答をしないデ
イルだったが、そうこうしているうちに。
厨房から、お盆を持つラティナが出てきた。重さに少々よろよろ
している。
78
一瞬、店の喧騒が静まる。
この一週間でラティナは常連客に存在を認識されている。
ちまっこいのが、イタズラする訳でもなく、店内をチョロチョロ
しているのだ。嫌でも目に付く。そして何だかやたら微笑ましいの
だ。この幼子は。
彼女は慎重に、慎重にとお盆を運ぶ。
デイルの隣まで辿り着くと、にぱあっ。と、満面の笑顔をみせた。
ミッションコンプリート的な笑顔である。
客席から、音にならない拍手が聞こえた気がした。
﹁デイル、ごはん、どうぞーっ﹂
デイルがお盆を受け取り、テーブルの上にあげる。ここ最近のラ
ティナの最大の試練は、このデイルの夕食配膳だった。
まだ、客に運ばせる訳にはいかないが、やりたそうにしている彼
女の練習と、矜持の妥協点の結果だった。
ラティナは厨房に戻ると、今度は自分の分を運んで来る。量にだ
いぶ差があるため、彼女の足取りは先程より明らかに軽い。
デイルと並んで座ると、彼女は夕食を前に、得意げな声をあげる。
﹁ラティナ、きょう、おいもつくった。デイル、たべて﹂
﹁ああ。今日も頑張ったなラティナ﹂
山盛りのマッシュポテトを指さして、ラティナが笑顔で報告する
のを、デイルが褒めるというのも、ここ数日の定番のやり取りだ。
因みに、この二人のやり取りの後に、ラティナが手伝ったメニュ
ーの売り上げがなんとなく上がるのも、ここ数日の傾向だった。
79
今日も幸せそうに食事をするラティナの姿を、複数の調理を同時
進行でこなす合間に確認しながら、ケニスはにやりと笑う。
ラティナは毎日一生懸命だ。
いつか、デイルの為に食事を作りたい。彼女はその目標を掲げて
いる。そして真面目に取り組むことを知っている。
ケニスは、ちゃんと努力する者は好きだ。
彼女は充分すぎる程、頑張っており、結果もきちんと出している。
ケニスにとっても教えがいのある相手だ。
デイルだけが、知らない。
ラティナがこの店の中で、穏やかな顔で過ごしているのは、この
店が﹃デイルが連れて来てくれた安心できる場所﹄だからだという
ことを。
ラティナが無条件で安心しきった様子でいられるのは、デイルが
隣に居るからだということを。
デイルが居ない時のラティナは、そのちいさな体で、必死に周囲
あ
い
に気を張り、威嚇すらする時があるということを、デイルだけが見
ていない。
つ
﹁互いに、少し位依存する相手が居るのも、悪くはねえよな。デイ
ルにとってもな﹂
デイルの兄貴格を自称し、それなりに信頼されていることを知る
男は、鍋の中身を盛り付けながら、そんなことを呟いた。
80
青年、ちいさな娘の件について悩みを抱く。︵後書き︶
ラティナ喋ります。
と書きながら呟く
今まで以上に可愛く思って頂けるよう、描けていれば良いのですが。
そして、デイルさん⋮⋮お前それで良いのか?
今日この頃。
81
ちいさな娘、未知との遭遇。
ラティナはピンチであった。
﹁どおしよう⋮⋮﹂
キョロキョロと、不安な顔で行き交う人々を見る。
今彼女が居るのは、彼女が普段暮らすクロイツの南区ではない。
仕入れに出かけたケニスに付いて、東区までやって来たのだ。
ラティナが東区に来たのはこれで二度目だ。
一度目の時は、全く言葉もわからなかったので、周囲が気になっ
ても、デイルから決して離れることはなかった。
結果としてそれが良かった。
今回は、つい周囲に気を取られてしまった。
立ち並ぶ商店は、それぞれに工夫を凝らして道行く者の興味を惹
くようになっている。流通の要所のクロイツは、物資が豊富だ。ラ
ティナが今まで見たこともない、使い方もわからない、様々な商品
が溢れている。
南区とは、雰囲気が異なる街の様子に、意識を奪われた。
もともとラティナは好奇心が強い。警戒心と注意力を好奇心が上
回ってしまうのも、仕方ないとも言える。
そうしているうちに、気が付いた時には、ケニスの姿を見失って
しまっていたのだ。
︵ちゃんと、ケニスといるって、やくそくしたのに⋮⋮デイル、お
こるかな︶
そう考えると、ただでさえ落ち込んでいた気持ちがますます萎ん
82
だ。
ラティナは途方に暮れた顔で、どうすれば良いか考え込む。
だが、心細さが勝って、どうしたら良いかわからない。
帰れなかったら、どうしたら良いのだろう。
︵もう、あえなかったら、どうしよう︶
もう、ひとりぼっちは嫌だった。
こんなにたくさんの人がいるのに、どうしようもない孤独感に苛
まれる。
悪い方、悪い方へと思考が傾くのを止める事ができない。
︵いやだよ⋮⋮どおしよう、かえらなきゃ⋮⋮かえらなきゃ⋮⋮︶
思考がそこでぐるぐると回る。
いくら賢いとはいえ、ラティナはまだ幼い子どもなのだ。
理屈ではなく、感情に振り回されるのは、当然の反応だった。
だが、それを今の彼女に伝えてやれる者はここにはいない。
迷ったならば、その場で待つべきだという判断が、ラティナの中
になかったのは、彼女は﹃あの森﹄の中で、﹃誰かの助けを待つ﹄
のではなく、﹃自分自身でなんとかしなくてはならない﹄という環
境に在ったからかもしれない。
ラティナは見当を付けた方向に走り出した。
﹂
後、もう少しだけそこに留まっていれば、慌てたケニスが戻って
来たのというのに。
﹁⋮⋮ここ、どこ?
なんとなくで幾つかの角を曲がったラティナは、本格的に見たこ
とのない区画に入りこんでしまっていた。
83
彼女は知るよしもないが、東区の中でも職人街と呼ばれている区
域で、住居と工房を兼ねた家々が並んでいる。東区の表通りと比べ
て、下町らしさの色濃い地域だ。
その為入り組んだ路地も多く、そこの住人以外の人間には、迷路
のように感じられるかもしれない。
ラティナにとってもそうであり、振り返っても、もう何処からこ
こまで来たのかもわからない。
﹁⋮⋮どおしよう﹂
﹂
ラティナが途方に暮れて呟いた時だった。
﹁何だ、お前?
背後からかけられた声に、ビクッと飛び上がる。
ラティナが振り返ると、そこには数人の少年が佇んでいた。見知
らぬ少女の姿に、眉をひそめている。
﹁お前、どこの子だよ、見たことないやつだな﹂
﹁⋮⋮っ﹂
少年の中で一番体の大きな子が、ずいっと近づきながらラティナ
に言う。彼女は何と答えて良いかわからなくて、少年から距離をと
・
・
﹂
ろうと後退りした。その彼女の様子に、彼はますます不審そうな顔
をする。
・
﹁見たことない髪の色だな、きぞくの子か?
﹁ちがうよ、ルディ。きぞくの子だったら、ドレス、着てるんだよ﹂
﹁そうだね。でも、珍しい色だ。金でも銀でもないみたい﹂
ルディと呼ばれた大柄の子の隣にいた丸顔のおっとりした少年と、
後ろにいた茶色の髪の少年が口々に言う。
・
・
﹂
﹁こんな子が引っ越して来たら、うわさにならないはずもないし﹂
・
﹁じゃあお前、よそ者か!?
ルディの強い口調に、ラティナは再びビクリと体を跳ねらせた。
84
︵なんで、おこってるの?
︶
︵ラティナ⋮⋮なんか、へんなの?
︶
︵どおしよう⋮⋮なんで、おこってるか、わかんない︶
﹁ダメだよルディ、この子、泣いちゃうよ﹂
﹁こっちが聞いてるのに、だまってるのは、そいつだろ!
﹂
丸顔の少年が止めようとするも、ルディはずかずかとラティナに
****!
﹂
あやしいぞ!
﹂
近づいて来た。完全にパニックになったラティナは、顔色を無くし
たまま、逃げようとした。
**!
﹁なんで、逃げるんだよ!
﹁っ!
だが、体格の差もあって、ラティナはルディに回り込まれて捕ま
﹂
ってしまった。腕を掴まれた瞬間にラティナから出た悲鳴に、少年
たちがきょとんとする。
﹁なんて言ってるんだ?
﹁異国の子かも⋮⋮﹂
顔を見合せて相談しあう少年たちから険は既に消え、戸惑いだけ
**!
﹂
****!
﹂
が残っているのだが、パニック状態のラティナは気付かなかった。
**、
身を必死に捩りながら声をあげる。
﹁
﹁何やってるの!!
そのラティナの悲鳴に、近くの家から、少年たちと同じ歳の頃の
﹂
少女が飛び出して来た。真っ青なラティナを見るやいなや、少年た
ちの中に飛び込んで行く。
﹁こんなちいさな子、いじめるなんてサイテーよ!
﹁うわっ、やめろっ、クロエっ!﹂
﹁ちがうよ、ごかいだよっ﹂
素早く距離を取った茶色の髪の少年以外の二人は、クロエという
少女の正義の鉄拳制裁の犠牲になる。
85
ラティナが、パニックを忘れてぽかんとしてしまう位に、クロエ
という少女は凄かった。
⋮⋮だいじょうぶ?
﹂
つば、つけとけばなおるから!
﹂
助けてもらった立ち位置のラティナが、仲裁に入ってしまう程に。
﹁いたい?
﹁大丈夫よ!
﹁クロエがそれ言っちゃうんだね﹂
クロエに殴られ蹴られた少年二人、ルディとマルセル−︱丸顔の
少年︱︱の前でしゃがみこんだラティナは、心配そうに顔を曇らせ
た。
﹁ラティナ、ちゃんとへんじできなかったから⋮⋮ごめんなさい⋮
⋮﹂
﹁こわがらせた、ぼくたちがわるいから⋮⋮﹂
マルセルがそう、苦笑を浮かべると、ラティナは更に申し訳なさ
そうな顔をした。彼の前に、ちいさな手のひらを向けると、キリッ
﹂
天なる光よ、我が名の元に我が願い叶えよ、傷つきし者を
と表情を引き締める。唇を湿らせてから、丁寧にことばを紡ぐ。
﹁
癒し治し給え︽癒光︾
ラティナの手のひらから溢れた柔らかな光に、周囲の子どもたち
の目が丸くなる。
ラティナはルディにも同じように回復魔法を使う。その後ぎゅう
﹂
っと眉を寄せ、ぺたんと座り込んだ。
﹁大丈夫?
﹁だいじょうぶ。すこし、つかれただけ﹂
﹂
誰が
ラティナはにこりと笑ってクロエに答える。それをきっかけに少
まほうつかいだ!
年たちは口々に興奮した様子でラティナを取り囲んだ。
﹁すげえっ!
﹁こんなちいさいのに魔法つかうなんて、本当にすごいね!
86
教えてくれたの?
﹂
﹁ぼく、はじめてまほう見たよ!
﹂
その勢いにラティナが怯えた様子をみせると、クロエが一歩前に
出て、ジロリと睨む。
ぴたりと少年たちの動きが止まると、ラティナはクロエの背中か
﹂
ラティナ、かんたんな、いやしのまほうひとつだけし
ら、顔を出した。
﹁すごい?
かつかえないよ?
﹂
こてん、と首を傾げてラティナはそう答えた。
﹁まほうつかえるの、すごいの?
﹁街の人ほとんどは使えないよ。神殿や、領主さまのところで働い
ている人とか、大きな商会の人は別だけど。後は冒険者の人かな﹂
茶色の髪の少年︱︱アントニーがそう教えてくれたのに、ラティ
ナはなるほどと頷く。
︵デイルは、ぼおけんしゃ。だからまほうつかえるんだね︶
そして、はたと思い出した。自分が迷子であったことに。
﹂
﹁ラティナ、はぐれて⋮⋮かえりみち、わからない﹂
﹁どこから来たの、ラティナ?
﹁みなみの⋮⋮とらねこのおみせ⋮⋮﹂
しょんぼりと答えるラティナに、子どもたちは顔を見合せる。
﹁とらねこ?﹂
﹂
みどりのはたのあるところ﹂
﹁みなみのお店って、そんなにないよね﹂
﹁あそこかな?
﹁冒険者のみせ?
その言葉に、ラティナの顔が明るくなる。
﹁うん。ぼおけんしゃ、たくさんおみせ、くるよ﹂
子どもたちは、互いに顔を見合せる。
87
冒険者の店は、危険な仕事をしているよそ者が集まる危ないとこ
ろだ。親たちは南区のその辺りで遊ぶことを禁じている。
だが、これは人助けだ。
決して自分たちが行ってみたいだけではない。
︱︱結局、大人が禁止する物ほど、子どもというのは興味を持つ
ものなのだ。
88
ちいさな娘、未知との遭遇。︵後書き︶
サブタイトルの﹃未知﹄の理由は次の次の話で少し触れます。未知
であったが故のパニックだった訳ですが。
ラティナの行動範囲と人間関係が少し広がりました。
89
﹂
ちいさな娘、青年を大いに動揺させる。
﹁ラティナが、迷子になったぁっ!?
﹃踊る虎猫亭﹄で、デイルの悲鳴が上がったのは、ケニスがラティ
ナを見失ってから、しばらく後の事だった。
ラティナがいない事に気付いたケニスは、慌てて周囲を探したが
その姿は見つからなかった。とはいえ、彼はこれから店に運ばれて
くる食材などの業者の応対をしなければならない。ずっと探してい
る訳にもいかないのだ。
東区の知り合い数人に彼女のことを頼み、急ぎ足で﹃虎猫亭﹄に
帰って来た。
ことの次第を一番伝えなくてはならない、彼女の保護者の元に。
﹁ああ。本当にすまない。商談の間すこし、目を離したら⋮⋮﹂
ケニスもデイルも、油断していたのだ。
ラティナはとても賢い子だ。
つい、このくらいなら大丈夫だろう。と、無意識のうちに思って
いたことは否定できない。
この子はしっかりしているから、ふらふらしたりしないだろう。
なんていうのは、大人の勝手な言い分だ。
元来、大人と子どもの視線は異なる。もとより見ている世界が違
うのだ。大人の理由では子どもの行動は捉えきれない。
﹁いや、ああ。仕方ない。迷子になっちまったもんは、仕方ないっ。
ああぁああああ⋮⋮こんなことなら捜索系の呪文覚えておくべきだ
ったぁあぁあっ、必要ないとか言ってた過去の俺、ラティナに謝れ
っ、ごめんな、ごめんなっ⋮⋮いや、そうだよ、今はラティナだ⋮
90
⋮どうする、どうするっ?
にラティナの捜索を⋮⋮﹂
﹂
﹂
そうだ、い、依頼出して街中の冒険者
﹁とりあえず、探しに行ったら?
﹁それだっ!
不謹慎だが、面白い位に動揺したデイルの様子に、周囲は逆に頭
が冷える。混乱の極致にいるデイルに、リタがひとつの行動指針を
﹂
与えると、彼は即座に店を飛び出して行った。
﹁ええと⋮⋮リタ?
﹁街には、ラティナの特徴はデイルの後見と一緒に届けてあるから、
連れ出そうとする馬鹿がいたら、街壁で止められるわよ。迷子にな
ったのも、東区の治安の良い辺りだから⋮⋮あの子ならなんとかす
る気もするんだけど、そうね⋮⋮﹂
じょうれん
デイルを見送った後でケニスが妻を見れば、彼女は非常に冷静だ
った。店の中に居た雑談に耽っていた数人の冒険者に顔を向ける。
日暮れ前
﹁捜索に加わってくれれば、今晩の酒代は無料よ。見つけてくれた
い
つ
﹂
ら、別に礼金を出すわ。見つからなくても、一度セギの刻には戻っ
て来て。これでどうかしら?
あ
﹁まぁ、暇潰しにはなるな﹂
﹁デイルに恩売っとくのも、悪くねぇ﹂
れ
ら
リタの言葉に、常連客たちは口々に言いながら、席を立つ。
か
ラティナは、常連客にとっても、特別な存在になりつつあるのだ。
東区の子どもたちに囲まれて、ラティナが帰って来たのは、日暮
﹂
れにはまだ間がある頃だった。
﹁リタ!
店の扉をくぐって笑顔になったラティナは、リタの方へ駆け寄っ
て来たが、はっとしたように立ち止まった。
91
﹁リタ、はぐれて、ごめんなさい⋮⋮ケニスは?
﹁心配してるわよ。顔、見せてあげて﹂
﹂
厨房を示してリタは言う。正直、ラティナが気になって、仕事が
まともに手につかない夫の姿には、リタも辟易していたのだ。
彼女は厨房へと急ぎ足で向かう。ラティナが顔を覗かせると、ケ
ニスは手にした鍋をガチャンと大きく鳴らした。
﹁ケニス、ごめんなさい⋮⋮ラティナ、はぐれて、やくそくまもら
なかった﹂
しょんぼりとした様子で素直に謝られては、自分に非のあること
を知るケニスは叱ることなどとてもできない。
ただ、安堵しながら、ちいさな彼女を撫でる。
﹁無事で良かった﹂
しゅんと消沈しているラティナを、ケニスが抱き上げて店に行け
﹂
ば、やたらとたくさんの子どもたちが彼を見上げていた。
﹁なんだ?
唯一の女の子と話していたリタが言う。
﹂
﹁この子たちが、ラティナをここまで連れて来てくれたんですって﹂
﹁それは礼をしなくちゃな⋮⋮﹂
﹁友だちを助けるのはとうぜんのことだよ!
ケニスの呟きに、女の子は不服そうに声をあげる。ラティナは小
さく首を傾げていた。
﹁そう。ラティナの友だちになってくれたの。じゃあ、今日はもう
遅くなるから⋮⋮今度、ゆっくりラティナと遊んであげてね﹂
リタはにこにこと普段は見せない笑顔を浮かべながら、ケニスが
ラティナ用に作りおきしているクッキーの瓶を開けた。手際よく人
数分の包みを作る。
それを膝を折ってひとつずつ子どもたちに渡しながら、
﹁ラティナを連れて来てくれて、本当にありがとう﹂
ときちんと礼を言う。大人であるリタから、丁重な扱いを受けた
子どもたちはそわそわと落ち着かなさげだったが、満更ではなさそ
92
うだった。
子どもたちが帰路につくのを、ラティナは店の入り口で手を振っ
て見送った。
セギの刻が近付いて、常連客たちが﹃虎猫亭﹄に戻って来ると、
ラティナはひとりひとりに、頭を下げた。
﹁しんぱいかけて、ごめんなさい⋮⋮﹂
﹁嬢ちゃんが無事なら、問題ないさ﹂
﹁⋮⋮さがしてくれて、ありがとう﹂
笑って手を振る常連客に、ラティナはもう一度ぺこんと頭を下げ
た。
店に戻って来た当初は、笑顔をみせていたラティナだったが、今
はその背中だけでも、しょんぼりとしているのがわかる。
店の入り口まで行ったり来たりを繰り返しては、足元を見て落ち
込んでいる。
事情を知る常連だけではなく、知らない客たちも、いつもと様子
の違うラティナの姿に、どことなく押し黙って酒杯を重ねていた。
デイルが帰って来たのは、そんなタイミングだった。
彼は汗だくで、息を切らして、店の扉を開けた。
﹁リタ、あの後何か⋮⋮﹂
情報に進展はないかと、尋ねかけて、当の本人が彼を見上げてい
﹂
ることに気付く。
﹁ラティナっ!
喜色を浮かべて名を呼んだデイルへのラティナの返答は、大粒の
涙だった。
93
﹁っ!?
﹂
あわてふためき、声も出せずに膝をついたデイルに、ラティナは
﹂
更にぼろぼろと涙を溢す。
﹁ラ、ラティナっ!?
﹁ごめ⋮⋮ごめんなさい⋮⋮っ、ごめんなさい⋮⋮やくそく、まも
らなかったの、ごめんなさい⋮⋮っ﹂
﹂
しゃっくりあげて訴えるのは謝罪の言葉だった。
﹁デイル、ラティナわるいから、おこる?
﹁怒らない、怒らないから⋮⋮ああぁっ、心配だっただけだから!
﹂
泣きながらのラティナの言葉に、激しく首を横に振ったデイルだ
ったが、ラティナはそれに更に言葉を続けた。違うのだと、彼女も
首を振る。
﹁おこられるの、いいの。ラティナがわるいからっ⋮⋮でも、ラテ
ィナ、こわ、こわかったの、かえれないのかもって、こわかったの﹂
灰色の大きな眸からどんどん涙が溢れ出る。
このちいさな子が、泣くのを見るのは初めてだと、ほんの少しだ
け残された冷静な部分が呟いた。
﹁もう、ひとりになるの、やだよ、デイル。⋮⋮ラティナ、おこら
れてもいいから、デイルといっしょにいたいよ⋮⋮っ﹂
﹃踊る虎猫亭﹄まで無事に帰って来た後、ラティナなりに色々考え
たらしい。
そのうち、迷子になった心細さと、不安も思い出して、彼女はそ
の大きな感情に振り回されてしまったのだろう。
謝らなくてはならないという、信念を通した後は、彼女はその不
安感に流されてしまったのだ。
−−という、ことは、後で冷静になったデイルが推測したことで。
94
今現在、混乱の最中にいるデイルに出来ることは、泣きじゃくる
ラティナを抱き締めることだけだった。
もう、泣くことが泣く理由となってしまっているのだろう。
ラティナはまともな言葉も無く、時折しゃっくりあげるだけにな
っていた。
ひたすら泣き続けるラティナを、デイルがひたすらあやし続ける
という攻防は、彼女が泣き疲れたことで決着を迎えた。
泣き疲れてデイルに抱かれたまま、転た寝に移行したラティナを、
周囲の客たちは見守りながら、デイルへはニヤニヤと底意地の悪い
笑顔を向ける。
後年、﹃号泣及び狼狽事件﹄と称される。この店の新たな話の肴
が生まれた瞬間であった。
95
ちいさな娘、青年を大いに動揺させる。︵後書き︶
本格的にデイルさんの暴走が止まらない⋮⋮
でも、書いていてとても楽しい⋮⋮
加減が難しいですね。
96
ちいさな娘、ほんの少しだけ過去を語る。
﹂
ラティナの尋ねた言葉に、デイルは普通に驚いた。
﹁デイル、﹃ともだち﹄って、なあに?
先日の迷子の件の時、ラティナは東区の子どもたちと知り合いに
なったらしい。
南区のこの店は、通りに面していることもあり、他の冒険者相手
の店よりは健全な雰囲気の店ではあるのだが、子どもが遊んでいる
ような場所ではない。
それなのに、最近、時折子どもの姿を見るとは思っていた。
目的はラティナだったのかと、デイルは納得していたのだが。
﹁友だちが出来たみたいだな、ラティナ﹂
と、呼びかけた返答が前述のそれであった。
﹂
クロエもね、ラティナ
えーと⋮⋮、ラティナ友だち、いなかったのか?
﹃ともだち﹄がよくわからないの。
﹁え?
﹁?
のこと、ともだちっていうけど、ラティナわからないの﹂
こてん、と首を傾げているラティナに、デイルもむむむと唸る。
後ろめたいような暗さがラティナにない以上、彼女が郷里で迫害
されていたとは断定できない。だが、彼女は﹃片角﹄なのだ。﹃魔
人族﹄にとっては、最大の侮蔑の対象であったかもしれない立場の
子どもである。
何処に地雷があるか、見当もつかない。
﹁⋮⋮えーと⋮⋮ラティナ、お前、歳の近い子どもと遊んだりした
97
ことなかったのか?
かぞくのこと?
﹂
﹁いっしょにあそぶ?
﹂
﹂
﹁いや⋮⋮家族じゃない。よそのうちの子どもと一緒に遊んだりは
しなかったのか?
デイルの言葉に、ラティナは再びこてん、と首を傾げた。
﹁ラティナ⋮⋮まわり、かぞくとおとなだけだったよ﹂
その言葉に、﹃魔人族﹄は長寿で、出生率の低い種族だったこと
を思い出す。子ども自体の数が少ないのかもしれない。
﹁うーん⋮⋮友だち、っていうのは、一緒に遊んだり、お話したり
する家族以外の人のことだな。⋮⋮だいたい同じ位の歳が多いかな﹂
自分の今の説明では、自分自身やリタやケニスも﹃友だち認定﹄
されてしまいそうだと、付け加える。
﹁そういう人のうち、ラティナが好きになったやつのことかな﹂
そう言いきれない部分もあるのだが、この素直な幼子には、そう
﹂
思ったまま育って貰いたい。デイルはそんなことを考える。
﹁クロエ、ラティナのこと、すきなの?
﹁あんまり嫌いな奴とは、友だちになりたいとは思わないからな﹂
デイルの言葉にしばらく考え込んだラティナは、ふにゃっと表情
を緩めた。
﹁ラティナもクロエすきだよ。クロエ、ラティナのこと、ともだち
っていってくれるの、うれしいな﹂
﹁そうか﹂
デイルは幸せそうな顔のラティナの頭を撫でながら、少し悩んだ。
先ほどの彼女の言葉の意味を聞くべきか、と。
そして、言葉を選んで口にする。
98
﹁⋮⋮ラティナのまわりには、どんな人が居たんだ?
﹂
﹁ラティナわからない。どんなふうに、いえばあってるの?
デイルは自分の失策に気付いた。
﹂
﹂
根本的に、ラティナには、﹃説明する為の語句﹄が足りていない
ということに。
﹂
﹁えーと⋮⋮家族、⋮⋮兄弟なんかはいたのか?
﹁きょーだい?
﹁家族の中で、同じ親から生まれた子どもで、歳が上の男が兄、女
が姉。歳下の男が弟、女が妹。そういうのを合わせて、兄弟だな﹂
﹁⋮⋮ラティナ、あにやあね。おとうと、いもうといないよ。きょ
ーだいいない﹂
﹂
デイルの説明を聞いてから、ラティナはそう答えた。
﹁まわりにいた大人は、どんな人だったんだ?
﹁わからない。ラティナ、あんまり、ほかのひとと、あわなかった
し、おはなしもしなかったよ﹂
そう答えるラティナの顔は、あまり嬉しそうではない。この辺り
が潮時だろうか。
彼女にとって、楽しい記憶という訳ではないのだろう。
デイルがそう判断して、話題を打ち切ろうとしたとき
クリティカルヒット
﹁だから、いま、デイルといっぱいいっしょにいられて、ラティナ
うれしいの﹂
少し照れくさそうにこの幼子が口にした言葉は、痛恨の一撃であ
った。
にこぉっと、デイルに笑顔を向ける。大好きな甘いものを食べて
いる時に負けない笑顔だった。
﹁ラティナ、クロエすきだけど、デイルのこと、もっといっぱいす
99
き﹂
﹂
﹁俺も大好きだからな、ラティナっ!
!
本当にお前は可愛いなぁっ
がばっと抱き締めてデイルが言った言葉に、ラティナは本当に嬉
しそうな顔をした。
︶
︵これが、話を有耶無耶にする計算だったら、末恐ろしいけどっ⋮
⋮ラティナみたいな悪女だったら、騙されても仕方ないっ!
なんてことを考えてしまう、デイルは、それはそれで大変幸せな
のかもしれなかった。
﹂
﹁ラティナが可愛いすぎて、仕事に行きたくない﹂
﹁また馬鹿言ってんの?
ひどく真剣な顔で切り出したいつも通りのデイルの台詞に、リタ
はもう反応するのも疲れたという顔をする。
日帰りで帰って来れねぇし、何泊
ラティナと離れて、あんな伏魔殿の
﹁嫌だあぁあああああぁっ!!
になるかも予測できねぇし!
糞じじぃどもの相手して、俺に何の癒しがあるって言うんだぁっ!
﹂
﹂
バッタンバッタンと、駄々っ子の様にじたばたするデイルには、
よほどのストレスであるらしい。
﹁それこそ、王都行き、ラティナも同行させれば?
﹁それはねぇ。ラティナをあんな奴等に預けたら、どんなことにな
るか⋮⋮嫌な想像しかできねぇよ﹂
一瞬で素に戻ったデイルは、その後ぐったりとカウンターに項垂
れた。
100
・
・
﹁わかってる⋮⋮仕事だから、仕方ない。ラティナが待ってるって
思えば、今までよりずっと張り合いもでる。⋮⋮ラティナだって、
﹂
友だちも出来たみたいだから、留守番の間も気が紛れるだろう⋮⋮
だから、わかってるんだよ﹂
ぎゅうっと拳を握り込む。
﹁わかっていても、嫌なもんは嫌なんだっ!
あ。やっぱりこいつ、駄目だ。
きっぱりと宣言したデイルに、リタのどうしようもない何かを見
るような目が向けられる。
﹁どうしようもないのわかってるなら、王都でラティナの喜びそう
なお土産でも買って来てあげなさいよ﹂
リタの言葉に目から鱗の顔が向けられた。
﹁服とかは、サイズもあるしすぐ着れなくなっちゃうから止めてお
﹂
いて⋮⋮ラティナ甘いもの好きだし、王都で有名なお店とか、調べ
てみたら?
﹁土産⋮⋮土産か⋮⋮﹂
デイルが仕事の関係で王都に向かうのは、頻繁な事だったので、
彼の中に、﹃土産を買う﹄という行動はなかった。たまにケニスに
頼まれてクロイツでは入手が難しい品物の仕入れを代行する位だ。
王都で人気の最新スイーツに、満面の笑顔のラティナ。﹁ありが
とう﹂のお礼もちゃんと言ってくれるに違いない。﹁デイル、だい
すき﹂も付けてくれるかもしれない。
﹁俺、頑張れるかもしれない﹂
﹁ああ、うん。はいはい﹂
非常になげやりなリタの返答であった。
101
・
・
デイルが仕事で王都に向かう日の朝、ラティナは見送りの為に起
﹂
き出して来た。まだ薄く朝日が覗く程度で、普段の起床時間よりも
かなり早い。
﹁⋮⋮無理しないで、寝てて良いぞ?
デイルの言葉に、嫌々と首を振って、ラティナはもぞもぞと布団
から這い出して来た。
だが、かなり眠そうだ。階段を下りようとする姿など、非常に危
なっかしい。デイルは苦笑しながら彼女を抱き上げる。
はじめて会った時からさほど時はたっていないのに、確実に重さ
を増した体に、安堵を感じた。
こくりこくりと舟をこぎかけて、気合いで起き直すというのを繰
り返しているラティナは、今は半分以上夢の中だ。
﹂
﹁ごめんな、ラティナ。少しの間留守にするけど、頑張ってくれる
か?
﹁ラティナ⋮⋮だいじょうぶ。デイルまってる﹂
頭を撫でながら言うと、ラティナは至極真面目な顔で受け答えす
る。
﹁がんばれる。ラティナ、リタとケニスのところちゃんといるよ。
だからね、かえってきてね﹂
﹁ああ。土産持って帰って来るから。⋮⋮気を付けてな﹂
最後にぎゅっと抱きしめて、ラティナを離す。
店の入り口まで出て来てくれていたケニスにラティナを預けた。
﹁ラティナのこと、よろしく頼む﹂
﹁ああ。お前も無理はすんなよ﹂
・
・
・
﹁ラティナが待ってるから、無理はできねぇよ﹂
そう笑って答えるデイルの姿は、今までにはなかった光景だ。
102
﹁じゃあ、行って来るな﹂
﹁デイル、いってらっしゃい。おしごと、きをつけてね﹂
−−ああ。俺、頑張れる。
彼女のその一言を噛みしめながら、彼はクロイツを旅立って行っ
た。
103
ちいさな娘、ほんの少しだけ過去を語る。︵後書き︶
ラティナがルディに迫られてパニックになったのは、子どもという
もの自体に不慣れであったからでありました。
彼女の﹃罪﹄と﹃生まれ﹄は、ゆるゆると、ラティナの成長と共に
明らかになる。⋮⋮筈であります。
104
とある王都勤めの一兵士、戦々恐々とする。︵前書き︶
第三者の視点のちょっと短い話となります。
105
とある王都勤めの一兵士、戦々恐々とする。
彼は非常に今回の任務に緊張していた。
相棒である小型の飛竜とともに、ラーバンドの首都アオスブリク
から、このクロイツの街の郊外に降り立ったのは、昨日の事だ。夜
間の飛行に飛竜は向いていない。この場で一夜を明かし、明くる早
朝である現在、王都に送る人物と合流する予定となっていた。
﹁うわぁー⋮⋮どうしよう、ティティ。すっごい難しい人なんだっ
ていうんだよぉ⋮⋮﹂
相棒相手に愚痴る彼はまだ年若い。
彼は珍しい魔力属性である﹃央属性﹄持ちで、その能力を用いて
飛竜を使役する﹃竜騎兵﹄だった。
とはいえ、彼の相棒であるティティと名付けられた飛竜は穏やか
な性格の雌の個体で、荒事には向いていない。
と小さく鳴いた飛竜の前で項垂れたまま、若い竜騎兵
彼等の主な任務は物資や人の輸送だった。
キュウ?
は相棒を相手にした体裁の独白を続ける。
﹁公爵様が契約している冒険者の人らしいけど⋮⋮俺の前任者は、
機嫌損ねたから、辺境に左遷させられたっていうし⋮⋮折角、王都
勤めの高給取りになれたのに⋮⋮ううぅ⋮⋮大丈夫かなぁ⋮⋮﹂
その冒険者とは、まだ年若いが、幾つもの功績をあげている高名
な冒険者だ。ラーバンド国王の片腕である公爵の子飼いの冒険者と
いう立場だが、彼の機嫌を損ねるという事は、即座にかの公爵にそ
の行状が伝わる。
彼の前任者は、その冒険者を年若いと侮り、軽んじたが故に、逆
106
鱗に触れ、しいては公爵の命より辺境の地に送られたのだと専らの
噂だった。
わざわざ、クロイツに住む彼を、飛竜を派遣して送迎するほどに
優遇しているのだ。
ティティ、来たっ⋮⋮﹂
公爵の彼への信がそれだけ厚いという証にもなるだろう。
﹁っ!
キュイ、と相棒は相槌を入れてくれた。
黒い革のロングコート。左の腕には魔道具の籠手。腰にロングソ
ードを提げた青年が、クロイツの方向からこちらに向かって歩いて
来ていた。
ティティ
まだ若い竜騎兵はぴしりと直立して彼を迎える。
この冒険者は、彼の相棒の飛竜ですら、一刀の元に切り捨てられ
る程の実力者なのだ。
あまり好戦的ではないとはいえ、竜種。普通の冒険者ならチーム
を組んで仕留めるのが定石だというのに。
﹂
﹁エルディシュテット公爵閣下の命により、お迎えにあがりました
!
﹁ああ。デイル・レキだ﹂
低く静かな声で応じた青年は、落ち着いた表情で竜騎兵とその相
棒を見た。自分より若く見える彼の、自分では到底及ばぬ存在感に、
竜騎兵の青年はゴクリと唾を飲み込んだ。
ティティ
﹁こちらにどうぞ﹂
飛竜の背中に付けられた鞍に彼を誘導し、彼の持っていた荷物は
しっかりと固定する。
馬などより遥かに高さのある飛竜の鞍だが、彼は体勢を乱すこと
107
もなく、軽々とその身を鞍にのせる。慣れた様子でベルトを締め、
準備を整えていた。
竜騎兵の青年も急いで自分の鞍へと向かい、手綱を握る。この手
綱は竜騎兵の魔力を伝達しやすい特別な素材で作られている。手綱
を握ることで飛竜に意思を伝えるのだ。また逆に、飛竜の意識も手
ティティ
綱を通し竜騎兵へと伝わる。竜騎兵にとって最重要の装備だった。
﹁行くよ、ティティ﹂
短く声をかけて魔力を伝えると、飛竜はその翼を広げた。クルル
ルルと、独特の鳴き声をあげ、周囲に風の魔力を集める。
天の種族特性を持つ竜種であり、風の魔力を纏う飛ぶことに特化
した飛竜は、その翼を一度羽ばたかせただけで、巨体を空に浮かせ
た。
二度目の羽ばたきで天高く舞い上がると、三度目で王都のある方
向に向かい飛行を始めた。
地上の道を王都へ向かい移動すれば、馬を走らせて3日といった
ところだろう。
だが、飛竜の速度なら半日もあれば王都に到達する。
竜騎兵の適性を持つ者が高給取りとして働くことの出来る所以だ。
だが、飛竜の飼育法や手綱などの専門の道具のメンテナンス方法
は、国等の大きな権力が握っている。個人の﹃飛竜乗り﹄のような
れ
者は存在しなかった。飛竜に乗る為には、国仕えになる以外の選択
はない。
か
と飛竜が鳴く。普段と異なる竜騎兵の様子に心配して
ティティ
︵ううぅ⋮⋮気まずい⋮⋮︶
キュイ?
くれているようだ。
飛竜の背中の上は、風の魔力渦巻く周囲と大きく異なり、とても
静かだ。台風の目のようなものといった感じか。
108
そよ風程度の風が汗ばんだ額に心地良い。
・
・
︵このまま、無言で、通すか⋮⋮でも、気まずい⋮⋮︶
背後の彼の気配に、喉の渇きを覚えた。
竜騎兵の青年は、自分の鞍の下からいつも通りにそれを取り出し
て、器用に片手で中身を一つ口に入れる。
か
れ
容器をそのまま後ろに差し出したのに、深い理由などなかった。
﹂
深く理由を考えることが出来る程、今の竜騎兵の頭は働いていな
い。
﹂
﹁宜しかったら、召し上がりますか?
﹁⋮⋮飴玉?
彼の低い声にそのまま硬直した。
タブー
︵終わったあああぁっ︶
れ
彼への最大の禁句は、年を理由に侮ること、だ。
か
竜騎兵は、ひきつった笑いを浮かべながら−−背中を向けた相手
全部色によって味が違うん
にその顔が見えないことも気付かずに−−この状況を好転しようと、
言葉を重ねた。
﹁今、王都で話題の商品なんですよ!
です。それにほら、今までのキャンディにはなかったくらいに色と
か
れ
宝石みたいだって、庶民
﹂
りどりで、色も鮮やかじゃないですか!
から貴族まで人気の商品なんですよ!
片手から瓶が消えた。
大きさも、
女性や子どもなんかは、空に
とりあえず興味は持って貰えたようだと、竜騎兵は更に言いつの
る。
﹁その瓶も、凝った細工でしょう?
なった瓶を小物入れなんかにしているらしいですよ!
﹂
大中小と様々なサイズがあり、ちょっとした贈り物なんかにも、重
宝されているんですよ!
109
か
れ
必死な、まるで飴屋のセールスマンと化した竜騎兵が、今背後を
振り返ったら、何を見ただろうか。
︵そういえばラティナに、キャンディって食わせた事なかったよな。
色も綺麗だし、女の子は喜びそうだ。ラティナ、髪飾り買った時と
か、やっぱキラキラしたもんとか目で追ってたもんなぁ。ちっさく
ても女の子だもんな、やっぱり好きなんだろう。あぁ、そういえば、
ラティナの友だちにも女の子いたなぁ。その子の分も必要かな。そ
れに⋮⋮︶
デイル
少なくとも、この後の王都までの道行きの間、彼相手に必要以上
れ
デイル
に気を張る必要が無いことを悟ったはずだった。
か
それまでの彼だったらば、地雷であったはずのものを踏み抜いた
・
・
竜騎兵であったが。
・
・
・
・
・
その地雷なんぞ、当の本人の意識の外であった。今の彼の脳裏に
は、そんなことを考えるだけのスペースはない。
ちいさなラティナが、当人の全く預かり知らぬところで、一人の
将来ある青年の未来を救ったことを知る者は、誰もいない。
110
⋮⋮おかしいな。
とある王都勤めの一兵士、戦々恐々とする。︵後書き︶
⋮⋮あれ?
デイルさんは周囲からは、こんな風に思われているという、描写の
為のエピソードだった筈なのに⋮⋮なんだかいつも通りのアレな感
じに、⋮⋮
111
青年、王都を訪れる。
﹁久しぶりだな、グレゴール。お前の婚約者殿紹介してくれねぇ?
﹂
﹁ふむ。わかった、デイル。斬っても良いか﹂
王都で久しぶりに会った﹃友人﹄との会話は、そんな感じで始ま
った。
デイルが普段拠点にするクロイツから、わざわざ王都アオスブリ
クまでやって来たのは、この友人の父親であるエルディシュテット
公爵の要請を受けた為であった。
公爵は、建国王の末裔で、ラーバンド国内でも由緒のある家柄だ。
現在も宰相として国王の信厚く、その権力は強大だった。
とはいえ、グレゴールは公爵の末の三男。後妻であった母親が東
の辺境国の出身という異国人であることもあり、国内の後ろ楯は弱
い。長子である兄に子どもが生まれていることもあり、彼は早々に
公爵家の後継という可能性には見切りを付けていた。
母方の血が色濃く、顔立ちに異国の気配が強いグレゴールは、ま
っすぐな黒髪を後ろで束ねた精悍な面立ちの青年だった。デイルよ
り頭半分程長身で、細身の体を今日は貴族らしい上等な服に包んで
いる。
東の辺境国流の剣技を磨き、彼の国にて研鑽も積んだグレゴール
は、あまり貴族という地位に固執していない。将来冒険者となる道
も一つの視野に入れている。
112
一介の冒険者であるデイルと親しくしているのも、そうした事情
によるものだった。彼等が同年齢であったというのも、大きいだろ
う。
グレゴールの﹃婚約者﹄と呼ばれた女性は、正式な約束のあるそ
れではなく、幼なじみで互いに憎からず思い合っているという少女
のことだった。
互いに立場的に微妙な問題があり、正式に婚約することは難しい
ものがあるという。同時に、グレゴールが貴族という立場を捨てき
れない一つの理由だ。
﹁土産買って帰りてぇんだけど、ちいさな女の子が喜びそうなもの、
見繕って欲しいんだよなー⋮⋮﹂
﹁来て即座に帰る算段か﹂
お前が間借りしているところに子でも産
﹁本心的には、今すぐ帰りてぇ﹂
﹂
﹁ちいさな女の子とは?
まれたか?
﹁いや。俺のとこの子﹂
グレゴールが固まったことに、デイルは気づかなかった。
﹁もう、すっげぇ良い子で、可愛くて、可愛くて、可愛いいんだ。
本当。すげぇ健気でさ、今も留守番してくれてるんだよ⋮⋮あぁー
⋮⋮早く帰りてぇ。泣いてたりしたらどうしよう。⋮⋮育ち盛りだ
もんなぁ、留守の間にまた、出来ること増えてるかなぁ。どうしよ
即座に帰ろう。おい、グレゴール。今回の仕事は何だ?
﹂
今すぐに
う、成長見逃しちまうなんて、どんな拷問だろう。うん、帰ろう。
でも出てって、即座に殲滅してくれば帰って良いだろ?
﹁お前に一体何があった﹂
多分、グレゴールの反応が正しい。
113
﹁片角の魔人族の幼子を引き取った⋮⋮お前が?
﹂
公爵家のグレゴールの私室でデイルに話を聞き、ラティナを引き
取った経緯を聞いたグレゴールは呆気に取られた顔をした。
﹁あぁ。すげぇ可愛いんだ﹂
そして、ラティナの可愛いさを語れて満足気なデイルは、デレッ
デレである。誰だお前。と言いたくなるグレゴールを誰が責められ
アクダル
るだろう。
﹁﹃緑の神の伝言板﹄で調べたが、ラティナに合致する情報はなか
った。完全に閉ざされた魔人族の集落の出か、探す者の居ない天涯
孤独の可能性もある。何も手掛かりが無いから、郷里を探してやる
ことは出来ない。⋮⋮片角だけど、あんな子どもの﹃罪﹄なんて、
当人にはどうしようも無い理由だろうよ。他種族の俺が、ラティナ
を疎んじる理由にゃならねぇ﹂
デイルの言葉はグレゴールにも理解は出来る。
理解出来ないのは、デイルの変貌っぷりだ。どれだけその魔人族
の子が、彼の琴線に触れたというのか。
﹁魔人族だからといって、全てが敵対的である訳でもねえ。俺がラ
・
ティナと暮らしても問題は無いはずだ﹂
・
﹁問題があるとすれば、お前が﹃同族﹄を屠ることがあるというこ
とを、その子に知られることではないのか﹂
どうぞく
グレゴールの静かな声に、デイルはしばらく沈黙する。
﹁⋮⋮仕事の内容によっちゃ、﹃人間族﹄だって、斬る。魔人族だ
けの話じゃねぇよ﹂
﹁まあ、そうだな﹂
剣を握る、というのはそういうことだ。魔獣などだけが、ひとに
とっての害悪ではない。﹃人間族﹄の国家が﹃他種族﹄と敵対する
ことも、珍しくは無いのだ。
114
そして、﹃魔人族﹄は、﹃魔王﹄と関係が深い。
世界に七つの存在である﹃魔王﹄は、それぞれに数が冠せられて
表されている。﹃一の魔王﹄、﹃二の魔王﹄といったように。
その能力も在り方もそれぞれに異なるが、全てに共通しているも
のもある。
﹃魔王﹄は、角を有しているのだ。﹃魔人族﹄と同じように。
そして各魔王は、眷属として﹃魔族﹄を従えている。
生まれながらの﹃魔族﹄はいない。﹃魔族﹄は﹃魔王﹄に従うこ
とで、元の種族を遥かに越える力を手に入れたものたちだ。
それらは、ひとに限らない。なかには獣の姿でありながら高い知
性を持つ﹃幻獣﹄と呼ばれるものすら含まれる。だが、割合的には、
圧倒的に﹃魔人族﹄が多い。
これらのことから、﹃魔王﹄とは、﹃魔人族﹄の王なのではない
かとも言われている。
ただの下僕か?
﹂
﹁七の魔王の配下らしいモノが確認された﹂
﹁魔族か?
﹁まだはっきりはしていない。だからお前を呼んだのだろう﹂
グレゴールはそう言って、デイルを見た。
﹁俺も同行することになる﹂
﹁お前なら大丈夫か⋮⋮﹂
デイルは溜め息混じりに答えて、体を起こす。
そろそろ公爵閣下との面会の時間が近づいている。いつも通りの
革のコートの装備では具合が悪い。それなりに身形を整える必要が
あった。
王宮の執務室に居る公爵の元に向かう前に、公爵邸を訪れたのは
その為だ。友人と無駄話する為ではない。
﹁とりあえず父上の御前では、もう少ししゃっきりしろ﹂
115
﹁わかってるよ﹂
ひらひらと手を振り、デイルは自分に宛がわれた部屋に向かって
行った。
エルディシュテット公爵家の紋章の入った馬車から降りた青年は、
黒を基調とした服に身を包んでいた。
貴族にはない野性的な気配を漂わせているその青年には、歳に似
合わぬ歴戦の戦士としての風格すら感じられる。
王宮の衛兵たちは、彼が誰であるか察すると背筋を伸ばした。
一礼して案内に立つ兵士にくれた一瞥も、ひどく冷静な凪いだ表
情のものだった。
苛烈で冷酷な、魔術にも剣技にも長けた一流の戦士。
そう噂される﹃彼﹄のことだ。その印象は大袈裟ではないだろう。
デイルに並んで歩くグレゴールはそんな﹃普段通り﹄のデイルの
・
・
・
姿に、安堵したような、そうではないような。複雑な心境を抱いて
いた。
そう。これがいつものデイル・レキという男だ。
親しい間の人間には、人好きのする穏やかな顔を見せているが、
戦場での彼は、敵対するものに容赦などしない冷徹なまでの戦士だ。
まだ若い彼が、仕事に徹する為には、そうならざるを得なかった
とも言えるだろう。
王宮で背筋をまっすぐ伸ばしたまま歩く彼は、その戦士としての
この場
顔を見せている。
彼にとって、王宮もまた戦場なのだから。
116
117
青年、王都を訪れる。︵後書き︶
グレゴールの名前にあれっと思った方。もしもいらっしゃっいまし
たら、他作品もお読み頂き誠にありがとうございます。
とはいえ、当作品とは関係してはきません。
118
ちいさな娘、寂しさを我慢しております。
デイルが王都に行き数日が過ぎた。
ラティナはわかりやすい程に、しょんぼりしている。
元気が無いというよりも、背中に郷愁を張り付けている感じとい
﹂
うのに似ている。﹃寂しい﹄というのを全身で訴えているようだっ
た。
﹁ラティナ⋮⋮大丈夫か?
大丈夫な筈は無い。わかっていても問いかけざるを得ない。
﹁ラティナ、だいじょうぶ。⋮⋮おるすばん、だから﹂
いつも通りに仕込みをするケニスの隣で、静かに座りながらラテ
ィナは消え入りそうな声で答える。
この子はいつもそうだ。
表情や全身でそうではないと訴えているというのに、返す言葉は
大人を気遣う優等生の回答だ。
ケニスは溜め息をついて、ラティナを見る。
﹁⋮⋮ああ。そうだな。﹃留守番﹄だ。デイルはちゃんと帰ってく
るさ。ラティナが待っててくれるんだもんな﹂
ラティナがケニスを見上げて、少し首を傾げる。
ケニスは微笑んでみせた。ここで大人の自分まで辛気臭い顔をし
てはラティナが不安になるだけだ。
﹁ラティナが来るまでのデイルにとって、此処は荷物を預けて、拠
点として使っているだけのただの﹃場所﹄だった。それが今では﹃
帰って来る場所﹄になってる。ラティナに﹃ただいま﹄って言って
119
るのがその証拠だ﹂
﹁デイル、ラティナに、いつも﹃ただいま﹄っていってるよ?
あ
い
つ
﹂
﹁ああ。でも、ラティナが来るまでのデイルは違ったんだ。ラティ
﹂
ナはデイルにとって特別なんだよ﹂
﹁ラティナ、デイルのとくべつ?
﹁ああ、そうだ﹂
ラティナの表情がくしゃりと歪む。泣き出しそうなのを我慢して
いるように。きゅっと膝の上のスカートを握った。
﹂
﹁ケニス⋮⋮﹂
﹁なんだ?
﹁ラティナ、ずっとデイルのそば、いてもいいのかな⋮⋮﹂
﹂
﹁⋮⋮ラティナがいなくなったら、デイル⋮⋮半狂乱で探し回るぞ
⋮⋮﹂
﹁はんきょーらん?
﹁⋮⋮すごく、心配して、必死になるってことだ﹂
知らない単語に首を傾げた後でラティナは再び言葉を探した。
・
・
﹁ラティナ⋮⋮うまれたとこ、ラティナわるいこだから、おいださ
れたよ。⋮⋮おいだされたの、ラティナだけだったのに、ラグ、ラ
ティナといっしょにいてくれたから、しんじゃったんだよ﹂
ケニスは何気ない顔つきで作業を続け、息をのんだのを悟られな
いように努めた。
﹂
やはり、この子は、自分が郷里から﹃追放﹄されたことは理解し
ているのだ。
﹁﹃ラグ﹄って何だ?
﹁ラティナのおとこのおや⋮⋮びょーきだったのに、ラティナとい
っしょにいてくれたの。⋮⋮ラティナのこと、わるいこじゃないっ
て、いってくれるの、かぞくだけだったの。⋮⋮ラグしんじゃった
120
から、やっぱり、ラティナわるいこだったんだなっておもったの﹂
ラティナはそう言ってから、下を向いた。
﹁デイルはじめてだったんだよ。ラティナのこと、いいこだって⋮
⋮かぞくと、べつなのに、いってくれたの⋮⋮デイルがねはじめて
だったの﹂
そして、ちいさな声で大切な秘密を教えるように、続けた。
﹁デイル、ラティナのとくべつなの﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
そうとしか答えられない自分は、何て無力な大人なのだろう。と、
ケニスは思う。
この子はどれだけのものを、このちいさな体の中にしまいこんで
いるのだろう。
﹁どうしてラティナは、デイルには、自分の話、しなかったんだ?
﹂
以前デイルが問いかけた時は話したがらない様子だったと聞いて
いる。なぜデイルではなく、自分相手なのだろうか。
そのケニスの問いにラティナは
﹁ラティナわるいこだって⋮⋮デイルしったら、ラティナきらいに
なるよ。⋮⋮ラティナ⋮⋮デイルに、きらいになられるの⋮⋮こわ
いよ﹂
﹁そうか。デイルが大切だから、話せないのか﹂
ケニスの言葉に、ラティナはこくりと頷いた。
デイルは、今ラティナが話したことは既に察している。承知の上
で、このちいさな幼子をそばに置くことを選んでいる。
けれど、この子はそれを知らない。
そして知られることを恐れている。この子なりに必死なのだろう。
121
︵でも、ラティナがこんな風に、俺には身の上話、したりするって、
デイルが知ったら、どんなことになるか⋮⋮︶
間違いなく、面白くないという顔と態度になるだろう。面倒くさ
い。
﹂
﹁なあ、ラティナ。デイルが帰って来るまでに、一つ練習するか﹂
﹁⋮⋮れんしゅう?
このままだと、この幼子は、デイルが帰って来るまでに、ちいさ
くへこんで萎れてしまいそうだ。何か夢中になれるものがある方が
良いだろう。
そして恐らく、ラティナにとって、最も原動力となるものは、デ
イルの存在なのだ。
﹁きっとデイルは、腹空かして帰って来るぞ。王都からクロイツに
帰って来るまではかなり時間がかかるからな。ラティナ、デイルの
為にごはんを作れるようになりたいって言ってただろう。良い機会
﹂
だし練習しよう。デイル、驚くし喜ぶぞ。ラティナが作ったって言
ったらな﹂
﹁⋮⋮ラティナできる?
やってみるか?
﹂
﹁まだ全部は難しいだろうがな。できることをやろう。⋮⋮どうだ
?
少し、ラティナの表情が明るくなったことにケニスは心底ほっと
する。やはり、この子にとってデイルの存在は大きい。良い意味で
も、悪い意味でも。
﹁ラティナやりたい。ケニスおしえて。おねがい。﹂
親バカ
そして、この子の﹃おねがい﹄は、デイルでなくともなんとかし
てやりたい。そのくらいのことは思ってしまう。
122
﹁シェパーズパイだ。割引してやるから、食え﹂
﹁とうとうこの店は押し売りを始めたのか﹂
頼んでもいない皿を片手に立つケニス相手に、常連である髭面の
冒険者は、エール片手に呆気にとられた顔をした。
﹁しかもなんだそれ、えらく不恰好だな。中身はみ出てるじゃねえ
か﹂
﹂
﹁無理もない。練習中だからな﹂
﹁練習中?
繰り返して、この店の中で﹃練習﹄しそうな人物の心当たりに気
付く。というか、一人しかいない。
﹁⋮⋮嬢ちゃんの、か﹂
﹁そうだ。ラティナの練習作だ﹂
﹁わかった。置いてけ﹂
こんなやり取りを繰り返し、﹃踊る虎猫亭﹄空前のシェパーズパ
イブームはやってきたのであった。
無論、シェパーズパイの中身であるミートソースはケニスが作っ
たものだ。ラティナの作業は、パイ生地となるマッシュポテトを作
ることと、それらを皿に重ねて入れ、チーズをかけることだ。オー
ブンの出し入れはケニスがやるが、焼き加減もラティナは真面目な
顔で計っている。
初めは、ソースがはみ出ていたり、ポテトがまだらだったりして
いたそれだったが、日を重ねるごとに上達が見て取れる。
初日以降は、ケニスが何も言わなくとも、常連のほとんどがラテ
ィナの練習に協力体制を取るようになっていた。
何より、このメニューに限って、専属のちいさな給仕が運んで来
123
るというのも大きい。
﹁おまたせしましたーっ﹂
デイルが留守にしてから、しょんぼりと項垂れていたラティナが、
上気した、張り切った顔をしているのも悪くない。
ちいさな体で大事そうに運んで来たお盆には、もうだいぶきれい
な形をしたシェパーズパイが乗っている。
少しばかり拙いが、売り物としても、問題はないだろう。
﹁あついので、きをつけてください﹂
−−このちいさな子が、この店で一番丁寧な接客をしているかも
しれない。
﹁ごゆっくり、どうぞーっ﹂
にこりと空のお盆を抱きしめて微笑むラティナに、常連客たちは
そんなことを内心で唱和していた。
初めは幼いラティナ相手にどう接して良いか、明らかに戸惑って
いた厳つい男共−−常連一同であったが、ラティナは彼ら相手でも、
愛くるしい笑顔でにこにこしている。
たまに虫の居所が悪いのか。ちいさな彼女相手に大人気ない態度
を取る馬鹿−−そういうのに限って、冒険者としての実力は二流以
下だったりするのだが−−に出くわしても、ラティナは驚いたよう
に目を丸くするだけで、何事もなかったようにとことことその場を
後にする。
かえって、不思議な生き物を観察するように、遠くから様子を伺
っているのだから、大物だ。
﹁いらっしゃいませ。おまたせしましたっ﹂
今日も﹃踊る虎猫亭﹄ラティナ特製のシェパーズパイの売れ行き
は好評だった。
124
125
ちいさな娘、寂しさを我慢しております。︵後書き︶
︵本来
の上にマッシュポテトをのせて焼いた料理です。
シェパーズパイとは、作中にもありますが、ミートソース
は羊肉で作る︶
=
マッシュポテトだったので、こん
パイって名前ですが、パイ生地は使われていませんし、お菓子では
ありません。
ラティナが現在作れるもの
なメニューのチョイスとなりました。
126
青年、帰宅する。
﹁やっと、帰れるっ!
﹂
デイル
エルディシュテット公爵邸で、そんな雄叫びがあがったのは、彼
がクロイツを離れてから、後少しで半月という程の日付がたったあ
る日のことだった。
﹂
今すぐにでも帰りの飛竜を手配しろっ
ラティナが俺を待っているっ!
﹁帰るっ、即座に帰るっ!
!
かーえーりーたーいーっ!!
﹂
﹁とりあえず、今夜の夜会の出席までは﹃仕事﹄のうちだ﹂
﹁いーやーだーっ!
・
・
・
・
最近王都で話題のものばかり、集めさせたが。お前自身が選ぶ
ここ
﹁⋮⋮メイドに手配させた、土産のリストは確認しなくて良いのか
?
﹂
ラティナ喜んでくれるかなぁ﹂
のに意義があるのではないか?
﹁そうだな!
ころりと表情を変えるデイルの姿に、グレゴールはさほど動揺し
ていない。
もうこの半月で慣れた。
諦めた。
﹃七の魔王﹄の眷属の討伐の為、デイルとグレゴールを含む少数精
鋭で、アオスブリク近郊の山間部に向かった間も、終始この調子だ
ったのだ。
勿論、戦闘中や緊迫した状況のデイルは、今まで通り、一流と呼
ばれる冒険者としての姿をみせていた。仕事振りも問題ない。
その合間に、この駄目っぷりで、周囲をドン引きさせただけで。
発作的だった。恐らく、ストレスの発散なのだろう。友人として
127
は、そのくらいの好意的な解釈はしてやりたい。−−と、﹃デイル
係﹄となりかけていたグレゴールは思う。
﹃魔王﹄の眷属討伐に、少数精鋭で向かうことにも、一つの理由が
ある。冒険者を主体として討伐隊を組み、国軍を動かさないことも
同様だ。
国が主体となって軍を動かせば、﹃魔王﹄に対して宣戦布告する
のと同義であるからだった。
敵対するのを表明した﹃国家﹄相手には、﹃魔王﹄も全力で排除
に向かう。﹃魔王同士﹄は完全に別個の存在であるので、共闘され
るということはないのだが、ひとつの﹃魔王﹄との戦争という形で
あっても、国家として大きな犠牲を払うことになってしまう。
リスクを最小に留めつつ、﹃魔王﹄の脅威を払う為には、不特定
の所属である小集団による奇襲−−つまりは暗殺が効果的なのだ。
公爵家の人間であるグレゴールが、正規の軍属となっていないの
も、彼は半ば冒険者として活動しているという建前で、それらの任
務に就いている為でもある。
とりあえず、飛竜に乗りきらない程の土産の山を作りかけたデイ
ルを止めるまでが、今回のグレゴールの﹃仕事﹄であった。
﹂
﹂
﹁ラティナーーーっ!!
﹁第一声がそれなの?
﹃踊る虎猫亭﹄の扉を開け放ち、喜色満面で叫んだデイル。その半
月振りに目にする彼の行動に、リタが呆れた顔をする。
﹂
いや、半月前より、悪化しているかもしれない。
﹁なんだ、リタか。ラティナは?
﹁ラティナなら、ケニスのところに居るわよ﹂
128
と、リタが答えかけたところで、表の騒がしさに気が付いたのだ
ろう。ひょっこりと、奥から当の本人が顔を出した。
おかえりなさいっっ!
﹂
ぱあぁぁっっ、と、輝くばかりの笑顔となって、駆け寄ってくる。
﹁デイルっ!
ぴょこんと抱き付いてきたのを、デイルも満面の笑顔で抱き止め
る。
半月前より、だいぶふっくらとして、子どもらしい輪郭となった
留守番、偉かったなっ。寂しかったか、
ラティナは、デイルの記憶にあったよりも更に愛らしい。
﹁ただいまラティナっ!
ごめんな。俺も寂しかったぞっ﹂
﹁ラティナさびしかったよ。でも、デイルぶじでかえってきてうれ
しいな。おかえりなさい﹂
﹁あぁー⋮⋮やっぱり、ラティナは俺の癒しだぁ⋮⋮﹂
デイルにきゅっと抱き付いて、にこっと笑うラティナのそんな台
詞に、デイルはしみじみと万感の思いを込めて呟く。
︵俺、頑張った︶
頑張ったかいがあった。
﹁あのな、ラティナ土産が⋮⋮﹂
﹁デイル、ちょっとまっててね﹂
いそいそと、彼女相手に土産を披露しようとしていたデイルは、
ラティナがあっさりと彼から離れたことに、愕然とした。
とっとっと急ぎ足で厨房のケニスの元にラティナが向かうのを、
うちひしがれた絶望の表情で見送る。焦点を失った眸で虚ろに呟い
た。
﹁は⋮⋮半月は、長すぎたのか⋮⋮ふふふ⋮⋮いっそ、この世から、
魔族を駆逐すれば、今後⋮⋮俺はラティナから離れずにすむのかも
⋮⋮﹂
129
﹁あんた相当疲れてるのね﹂
彼の奇行が疲労故であることに気付けば、流石のリタにも同情の
色が浮かぶ。
﹁⋮⋮ラティナも、本当に一生懸命だったわよ。⋮⋮一人で寝るの
寂しかったら、私達の部屋に来ても良いわよって言ったんだけど、
﹂
﹃デイルの部屋の方が良い﹄んですって。﹃デイルのにおいと一緒
何事もなかったか?
だから安心できる﹄って言ってたわよ﹂
﹁⋮⋮ラティナ、大丈夫だったか?
﹁まあ。寂しそうにはしていたわよ。それでも、目標ができたら、
だいぶ持ち直したみたいだったけど﹂
リタから留守中のラティナの様子と、クロイツの近況を聞いてい
るうちに、ラティナが厨房から戻ってきた。
その手にはしっかりとお盆を持ち、上には熱々の湯気の立つ焦げ
目が見事なシェパーズパイの皿と、色鮮やかな角切りのフルーツが
踊るゼリーが揺れていた。
﹂
﹁デイル、ラティナつくったの。デイルにたべてほしくて、がんば
ったの﹂
﹁ラ⋮⋮ラティナが作ったのか?
﹁がんばったのっ﹂
﹂
誇らしげな笑顔のラティナから、震える手でお盆を受け取ると、
デイルは、感極まった顔で叫んだ。
﹁勿体無さすぎて、食えねぇ⋮⋮っ!
﹁いや、食べてあげなさいよ﹂
半月振りでも、リタのツッコミは健在であった。
﹁ということで、デイル。お前の留守中に、重大な事実が発覚した﹂
130
﹁は?
﹂
にこにこ笑うラティナを隣に座らせて、彼女渾身の作であるパイ
とデザートを味わっていたデイルの前でケニスは、重々しく切り出
した。
﹁先日、ラティナの友達のクロエって子に聞かれた訳だ。﹃自分た
﹂
ちはこの秋から学舎に通うが、ラティナも行くのか﹄とな﹂
﹁え?
﹁クロエとかね、マルセルとかね。みんないくんだって。みんなお
なじとしだから﹂
ラティナがデイルを見ながら言うのに、彼女の友達のことを思い
てきかれたの﹂
出す。ラティナより少し歳上に見えたが、幼いラティナを可愛がっ
てくれているんだな、と認識していた。
﹂
﹁ラティナもおなじとしだから、いくのっ?
﹁⋮⋮⋮⋮は?
﹁いや、そういうことらしい﹂
﹂
デイルがケニスに説明を求めるように視線を向ければ、ケニスは
うむ、と頷いた。
﹂
贈り物用意しないといけないじゃないかっ!
﹁⋮⋮ラティナ、来月、生まれ月なんだよな?
﹁うん﹂
﹁そうなのか!?
はちさいだよ﹂
と、こてん。と首を傾げるラティナ。
﹁⋮⋮幾つになるんだったか、デイルにも教えてやれ﹂
﹁んー?
何でそんなこと聞くの?
一瞬言葉を失い固まるデイル。
そのリアクションに、うんうんと頷くケニス。
﹂
そうだよ。ラティナななさい﹂
﹁⋮⋮ラティナ、今、七歳、なのか?
﹁ん?
131
﹁⋮⋮⋮⋮小さいなぁ、ラティナ⋮⋮﹂
﹂
﹁そうだな。小さいな﹂
﹁ラティナちいさい?
五、六歳だと思っていた。それほどラティナは小さい。
だが、言われてみれば、ラティナの言動はそうは思えない程にし
っかりしていた。言葉遣いが幼いのは、彼女が言葉を覚えて間もな
く、文法も語彙も不自由だからだろう。
間もなく、八歳。この時期の子どもの一、二年の差はかなり大き
い。
﹂
大人たちは自分たちの前提条件が間違っていたことを、認識した
のだった。
﹁⋮⋮﹃魔人族﹄だから、成長が遅いってこととか?
おれら
﹁そう思って客連中に聞いてみたんだが、﹃魔人族﹄も子どもの頃
は﹃人間族﹄とさほど成長速度に変化は無いらしい。成熟すると成
長が止まる、大人の期間が長い種族なんだってさ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮ラティナが⋮⋮小さいのかぁ﹂
﹂
﹁小さいだけだ﹂
﹁ん?
大人たちがしみじみとした様子で自分を見るのを心底不思議そう
に、ラティナは再びこてん。と首を傾げた。
132
青年、帰宅する。︵後書き︶
いつもお読み頂き誠にありがとうございます。
相変わらずのデイルさん通常運転でありました。
133
ちいさな娘、友達との日常。
とっことっこと、弾むように歩く姿だけでも彼女が楽し気な事が
リボン
わかる。その動きに合わせて、左右の高い所で結い上げられた髪と、
つや
鮮やかな青い大きな飾り布が揺れる。
艶やかな白金の美しい髪は、時折光を含んできらきらと輝いてい
た。
水色のチェックのワンピースは最近の彼女のお気に入りで、今日
はやはりお気に入りのちいさな白い藤のかごを提げている。
﹂
広場で遊ぶ友人を見つけると、ぱあっと、表情が明るくなった。
﹁クロエっ!
大きく手を振って、彼女は駆け出して行った。
ラティナが住む南区は、子どもが遊ぶには不適切な場所が多々存
在する。その為、ラティナが一人歩きを許可されているのは、南区
の大通り、それも﹃踊る虎猫亭﹄から中央へ向かう方向のみの区域
だけだった。
街の中央には広場がある。東区に住む友人たちと、そこで落ち合
って一緒に遊ぶのが、最近の彼女のひとつの楽しみだった。
ついこの間までは一人歩き自体が禁止だったのだが、彼女の年齢
を知ったケニスの言葉により、禁止するだけではいけないと、幾つ
かの注意を守ることで許可が出るようになっていた。
広場の中でも普段市場が出ている場所から、少し離れたあたりは
公園として整備されており、街の人々の憩いの場となっていた。ラ
134
ティナの知らない子どもたちもたくさん遊んでいる。そんな人々の
合間を抜け、友人たちの元にたどり着くと、ラティナは嬉しそうに
微笑んだ。
なんかうれしそう﹂
﹂
﹁どうしたのラティナ?
﹁良いことあったの?
クロエとマルセルが尋ねるのに、上機嫌で報告する。
﹁デイル、かえってきたのっ﹂
﹁そうなんだ﹂
デイル
﹁良かったね。ラティナ﹂
友人たちも保護者が留守中であった時のラティナが、かなり意気
﹂
消沈していた姿を見ている。ようやく心の底から笑えるようになっ
ているちいさな友人に、素直な祝福の言葉を贈った。
﹁デイル、みんなにもおみやげだって。おやつにたべよ?
お土産の菓子を詰め込んでいたかごを差し出してラティナが微笑
ぜんぶ食っていいのかっ?
﹂
めば、食べ物だと検討を付けたルディが嬉々としてのぞきこみ、ア
ントニーが苦笑する。
﹁うわっ、高そうな菓子っ!
﹁気をつけなよ、ラティナ。ルディなら全部食べちゃうから﹂
ラティナの普段の遊び仲間たちは、この四人が中心となっていた。
集団のトップでありリーダー格として君臨するのは、四人の中で、
紅一点であるクロエだ。
もうすでに、ラティナとクロエは親友と呼べる程に、仲良くなっ
ていた。
男の子たち相手でも毅然とし、最強の座をも確固のものとしてい
る彼女のことを、ラティナは凄いと尊敬している。
クロエもまた、ラティナのことを、体格は小さいが、自分よりず
135
っと頭が良いと認識している。
互いに自分に無いものを持つイーブンの存在として認め合ってい
るのだ。性格も全然違う二人が、急速に仲を深めたのも、その為だ
った。
穏やかな性格の、丸顔の少年であるマルセルにも、ラティナは早
々に慣れた。
彼女に対して妹分にするように優しく接してくれる彼のことは、
ラティナはクロエの次に好意を持っている。
すらりとした体型の茶色の髪のアントニーのことを聞かれたら、
ラティナはあまりよくわからない。嫌いかと聞かれたら、そうでは
ない。となる感じだった。
クロエに言わせれば、﹁ちゃっかりしている﹂となり、大人に言
わせれば﹁要領が良い﹂となる。そんな子どもだ。
そして最後の一人。四人の中で一番体の大きな男の子。ルディ−
−本当はルドルフというらしいが、仲間たちは皆愛称で呼んでいる
−−のことは、ラティナは少々苦手だった。
最初の出会いも良くなかったが、それ以降も度々ちいさなラティ
ナをからかったり、いたずらを仕掛けてきたりするのだった。その
度クロエに手痛い反撃を受けるのだが、全く懲りた様子は無い。
あまり今まで、同年代の子どもというものと接した経験の無いラ
ティナにとって、﹃子どもらしい子ども﹄であるルディは、どう接
したら良いかわからない存在なのだ。
生粋のクロイツ育ちである彼らの顔は広く、ラティナは四人の後
について行けば、はじめて会う子どもたちの集団との遊びの輪にも
136
簡単に入れた。
﹂
ラティナはクロイツに来て、はじめて﹃友だちと遊ぶ﹄という体
験をしていたのだった。
﹁きょうは、なにしてたの?
﹂
﹁これから﹃手つなぎおに﹄やろうって言ってたんだ﹂
﹁向こうの子たちとね。ラティナも行こう?
﹁うん﹂
手つなぎ鬼も、ラティナは四人に教えてもらった。
鬼ごっこの一種で、鬼に捕まった子は鬼と手をつなぎ、一緒に追
いかけるという遊びだ。人数が多い方が楽しい。
ラティナも含めた五人は、広場で遊んでいる子どもたちの集団へ
と駆け寄って行った。
ぷすぅ。と、ラティナは可愛らしくその頬を膨らませていた。
不本意である。という彼女の最大のアピールである。
﹂
﹁ラティナ機嫌なおしなよ﹂
﹁お菓子おいしいね?
ラティナ持参のお菓子を食べながら、アントニーとマルセルがと
﹂
りなそうとする。だが、ラティナはぷう。と膨れたままだった。
ラティナが小さくてとろくさいからだよ﹂
﹁なんでいつも、ルディはラティナばっかりつかまえるの?
﹁ん?
ラティナの抗議にも動ずることはなく、ルディは両手に持ったブ
ラウニーをもりもりと食べている。
−−王都の貴族御用達の有名店の高級品であるのだが、子どもた
ちにとっては、﹃なんだかとても美味しいお菓子﹄程度の認識しか
ない。
137
﹁ラティナより、ちいさいこだっているもん﹂
﹁小さいやつも、ラティナよりすばしっこいよな﹂
﹁ラティナおそくないもん﹂
不本意である。
ラティナの矜持は大いに傷付いていたのだった。
﹁ルディ、いっつもラティナのこと、いちばんに、おいかけるんだ
よ。だからだもん﹂
ラティナの主張にアントニーが苦笑いをし、クロエが眉をしかめ
た。
マルセルは﹁そうだね﹂と何気ない相槌をうつ。
・
・
・
﹂
だが、当事者であるルディはケロッとしていた。
・
﹁当の本人がむじかくって変じゃないの?
﹁ルディは子どもだから﹂
クロエとアントニーがこそこそと言葉を交わしていた。
だが、ぱくりとブラウニーを口に入れた瞬間から、表情をにこや
かに変え、それに夢中となったラティナは気にもしていなかった。
−−はじめて出会った時から、クロエたち四人にとってラティナ
は﹃特別﹄だった。
リボン
きらきら輝く白金の髪に、下町の子はお祭りの時しか付けない様
な、綺麗な飾り布を結んだ少女。
最初はガリガリだったけれど、今はふっくらとして、とても愛ら
しく可愛い。﹃お伽噺のお姫さま﹄みたいな女の子だ。
遠い異国の生まれで、言葉は少し不自由だけど、魔法を使う事も
138
できる。
親はいないけど、親代わりの人と冒険者たちの集う店の一角で、
暮らしている。
−−どれひとつとっても、彼らにとって﹃非日常﹄を集めた存在
なのだった。
リボン
ラティナに角があることも四人は知っている。
飾り布に隠れた黒い小さな角を、ラティナ自身が見せてくれたの
だ。
つるつるとした手触りなのに、ほのかに温かさを感じるラティナ
のその部分をクロエは触らせてももらっていた。
片方が根元から折れていることは、ラティナが悲しそうな顔をし
たから、﹃聞いてはいけないこと﹄なのだろうと、みんなで思って
いる。
気配りと無縁のようでいて、ルディでさえも、その辺りのことは
ちゃんとわかっているのだ。
子どもたちは大人にはない柔軟さで、﹁自分たちと少し違うけど
﹃まじんぞく﹄という、同じ﹃ひと﹄﹂として、あっさりとそれら
の事も受け入れてしまっている。
はじめは確かに﹃非日常﹄への憧れだったけれど、今はラティナ
という小さくて優しい友だちの存在そのものが、彼らにとって、と
ても大切になっていた。
∼∼
そして、それがわかるから、ラティナも彼らの事がとても大切な
蛇足的な本日の保護者
存在なのだった。
∼∼
139
﹁なぁ、ケニス。最近ラティナから、﹃マルセル﹄っていう名前が
﹂
︵あの位の歳の子どもに、男も女も無いと思うが⋮⋮︶
よく出るんだけどさ、男の名前だよな?
﹁⋮⋮
そうだな。ラティナの友だちの男の子の筈だ﹂
・
・
・
・
・
・
﹂
︵ん?
確か⋮⋮
︶
﹂
その男の家に遊びに行きたい、なんて言い出し
・
﹁俺のラティナに⋮⋮変な虫が⋮⋮﹂
﹁友だちだろう﹂
・
・
男の家にっ!
・
﹁ラティナがっ!
たんだっ!
・
﹁男の家って⋮⋮友だちの家だろう⋮⋮
﹁うぐぐ⋮⋮クロエって子の家ならまだわかるが、なんでそいつの
家なんだ⋮⋮﹂
﹂
﹁⋮⋮多分だがな﹂
﹁ん?
﹂
﹂
﹂
﹁マルセルって子は⋮⋮東区の﹃パン屋﹄の子だ﹂
﹁っ!!!
食い物なのかラティナっ!?
﹁⋮⋮パン屋の様子が、気になるんじゃないか?
﹁食い物かっ!
140
ちいさな娘、友達との日常。︵後書き︶
覚えていらっしゃいましたでしょうか。この話には﹃恋愛﹄タグが
付いているのですよ。
そして、最後の蛇足ですが。
このネタだけで独立させる程でもないが、今書いておかないと、何
時入れて良いかわからなかったので、付け足してしまいました。
141
青年、ちいさな娘に、教授する。︵前書き︶
今回、説明回的になっております。
142
青年、ちいさな娘に、教授する。
﹁そうか。ラティナは魔法使えるのか﹂
﹁うん。でも、かんたんないやしのまほう、ひとつだけだよ﹂
ある日の夕食の席で、デイルが聞いたのは、ラティナがこの幼さ
に関わらず、既に魔法を行使できるという事だった。
﹁うーん⋮⋮攻撃魔法は、危ないかなぁ⋮⋮でも、護身用に覚えて
いて損はねぇし⋮⋮﹂
唸りつつ考え込むのは、彼女に攻撃魔法を教えるべきか、否かと
いう事だった。
︵ラティナなら、悪戯に誰かを傷つけたりは、しねぇかな⋮⋮︶
危険性は承知の上でも、教えるべきだと至ったのは、彼女が﹃片
角﹄だからだった。その上これだけ愛らしい少女だ。何時なんどき、
よこしまな輩に目を付けられないか不安で仕方ない。
使える力があるのなら、自分の身を守るためのすべを教えるのも
﹃保護者﹄の努めだろう。
残りが、対属性か並びの属性かはわかるか?
ひかるのだよ﹂
﹁ラティナの使える回復魔法は、何の属性魔法なんだ?﹂
﹁んーと⋮⋮
﹁﹃天﹄属性か⋮⋮
﹂
﹁ううん。わかんない﹂
ぷるぷるとラティナが首を振るのに、ふむ、とデイルは思案する。
魔力というものは全てのものが持っているのだ。
143
だが、﹃魔法﹄となると話は別で、まずそのものが持つ﹃属性﹄
に応じた魔法しか使えない。
﹃属性﹄は七つ。天、水、地、冥、火、風、そして央となる。
属性は﹃央の一種﹄か、﹃対の二種﹄、﹃並びの三種﹄と呼ばれ
ており、独立した系統の央属性以外の場合、正反対の属性同士か、
親和性の高い三種の属性かを備えているものだった。
デイルの場合は、﹃水﹄﹃地﹄﹃冥﹄の三種の属性となる。
﹁じゃあ、それを調べるところからだなぁ⋮⋮﹂
属性に応じて使える系統も大きく左右される。
例えば﹃回復魔法﹄もそうだ。﹃天﹄﹃水﹄﹃地﹄の三種の属性
に関する魔法のみでしか、回復の系統を使うことは出来ない。
そして同じ﹃回復﹄であっても、状態異常や外傷に効果が高い﹃
水﹄、即効性は低いが体力回復や重傷治療に有効な﹃地﹄、汎用性
水よ
﹂
の高い﹃天﹄といったように、それぞれ得手とする物も変わってく
る。
﹁
呪文にも満たない、短い呼び掛けの言葉。
今みたいに﹃属性﹄を指定して、魔力を動かせ
だがそれに応じてデイルの掌の上で、淡く魔力が揺らめいた。
﹁ふぁ⋮⋮﹂
﹁わかったよな?
たなら、その属性を持ってるってことだ。⋮⋮ラティナは﹃魔人族﹄
どういうことなの?
﹂
だから、呪文言語は問題無いもんな⋮⋮﹂
﹁ん?
不思議そうに首を傾げたラティナに、デイルは﹁ああ﹂と小さく
呟いて、説明を続けた。
﹁ラティナたち﹃魔人族﹄は、他の﹃人族﹄に﹃生まれながらの魔
144
法使い﹄って呼ばれている。
それはだな、﹃魔人族﹄が普通に使っている﹃言葉﹄は、魔力を
魔法として行使する為の﹃呪文﹄を紡ぐ言葉の﹃呪文言語﹄って呼
ばれているのと同じ物だからだ。
実はな、大多数の﹃人﹄が、その言葉への適性を持たない。発音
すること自体が出来ないんだよ。
﹃魔法を使える人﹄ってのは、﹃呪文言語を操れる人﹄であること
﹂
ラティナおしゃべりできるから、まほうつかえる
が、大前提なんだ⋮⋮ちょっと難しいか?
﹂
﹁うーん⋮⋮?
の?
﹁ラティナたち﹃魔人族﹄はな﹂
デイルはラティナの掌をとり、﹃呼び掛け﹄を行うように促す。
順に繰り返した結果、ラティナの適性は﹃天﹄と﹃冥﹄であるこ
とが、わかった。
﹁ラティナも癒しの魔法が使えるなら、知っていると思うけど。呪
文は、﹃属性を指定﹄して、﹃制御を明確化﹄して、﹃起こる現象
﹂
を明確化﹄する。それで﹃現象名﹄を告げるって行程になっている﹂
﹁ふぅん?
こてん。とラティナは首を傾げた。
その様子からすると、魔法を使えはするが、まだ理論までは修め
ていないのかもしれない。
それも無理はない。こんな少女が魔法を使うなんて﹃普通﹄聞か
ない。
魔人族の﹃普通﹄がどうであるかまではわからないが。
﹂
﹁ラティナが回復魔法教えてもらった時は、どんな風に教わったん
だ?
﹁ぜんぶおぼえたの。それでね、まりょくのつかいかた、おそわっ
たの﹂
145
﹂
﹁⋮⋮呪文の丸暗記か⋮⋮ちょっとラティナ、回復魔法使ってもら
えるか?
﹁うん﹂
デイルの言葉にラティナは真剣な顔つきで集中する。
﹂
天なる光よ、我が名の元に我が願い叶えよ、傷付きし者を癒し
滑らかに唄のように呪文を紡いだ。
﹁
治し給え︽癒光︾
溢れた柔らかな光も見届けると、デイルは一つ息をついた。
ラティナできてる?
﹂
﹁綺麗な呪文式だな。補助具もないのに、制御もちゃんと出来てる﹂
﹁そうなの?
﹁ああ。凄いなラティナは﹂
デイルはそう呟いて、昔、自分が使っていた教本を開く。
パラパラと頁を捲り、視線を滑らせて、目的の項目を見つけた。
﹁じゃあ、理論はもう少し後にして⋮⋮﹃冥﹄と﹃天と冥﹄の複合
魔法を幾つか簡易式で丸暗記してみるか﹂
やはり、﹃魔人族﹄であり、本来の母国語である分、ラティナの
方が﹃呪文言語﹄に精通していた。
教えているはずのデイルでも知らない単語を、合間に尋ねてくる。
﹁呪文は言語だから。本来長く多くの単語を重ねて表す程、強力な
﹂
の呪文も、簡易
魔法になるんだよ。その分消費する魔力と、制御も難しくなるけど
な﹂
﹁そうなの?
︽癒光︾
天よ、我が名の元命じる、傷を癒せ︽癒光︾
﹁ああ。さっきラティナが使った
式⋮⋮例えば、
位でも発動するんだ。かすり傷とかならそれで充分だよ。魔力
146
の消費もずっと少ない﹂
﹁もっとながくすると、おおきなケガ、なおせる?
﹂
﹁制御が難しくなるからな⋮⋮補助具があれば良いと思うぞ﹂
魔術士たちが杖や指輪などのアイテムを用いるのは、制御の術式
が込められた補助具だからだ。
制御が精緻である程、消費魔力も範囲指定も、最小で最大限の効
果が得られる。
広域をなぎはらうような、強力な攻撃魔法という物も存在はして
いるし、理論上は大軍を一撃で焼き払うような呪文も可能だ。
だが、その為には膨大な魔力の消費に加え、それを制御する力量
が求められる。更に、冗長とした詠唱が必要となるのだ。あまりに
も実戦的ではない。
サーガ
戦場で冒険譚を一本朗読する。と言えば、どれだけ非現実か、想
像がつきやすいだろう。
魔術士たちは基本的に、簡易式の手数で攻めるか、後衛で守られ
ながら、その場で適切な魔法を使い、前衛を支援するのが役割とな
っている。
﹁でも、デイル。ラティナ﹃まどーぐ﹄みたことなかったよ﹂
おれら
﹁﹃魔人族﹄は閉鎖的な種族だから、あまり他の﹃人族﹄と交流を
持たないんだよ。﹃人間族﹄も﹃魔人族﹄の習慣とか、ほとんど知
らないしな﹂
デイルはそう前置きしてから続けた。
﹁﹃魔道具﹄は魔法が使えない者も、属性も関係なく、誰もが魔力
を扱えるように作られた道具だ。そして﹃魔道具﹄を作ること、﹃
147
エンチャント
魔力付加﹄能力こそが、﹃人間族﹄の種族特性だよ﹂
﹃魔人族﹄の全てが魔法を扱えるように、各﹃人族﹄は、﹃種族特
性﹄といわれる能力を有している。
背に翼を持つ﹃翼人族﹄が空を飛ぶ事が出来たり、その身を鱗で
覆う﹃水鱗族﹄が水中で呼吸をすることが出来るのも﹃種族特性﹄
だ。
﹃人間族﹄身体能力自体に、主な特徴を持たないこの種の能力は、
道具を作り利用することだった。
﹁﹃人間族﹄の特産品だから、交流の無い地域には存在しない。ま
ぁ、そういうことだよな﹂
﹁べんりなのに。なんで﹃まじんぞく﹄、ほかのひとたちと、なか
よくしないのかな﹂
﹁⋮⋮そうだな。何でだろうな﹂
一つの理由をデイルは知っていて、口をつぐんだ。
閉鎖的な種族には、傾向があるのだ。
−−彼はこの選択を後日後悔することになる。
148
青年、ちいさな娘に、教授する。︵後書き︶
ラティナが魔法を覚える為の必要な回だったのですが⋮⋮やはり説
明文多いですね⋮⋮
丁度良い塩梅が難しいです⋮⋮
﹃剣と魔法のファンタジー世界﹄ということで、魔法が一方的に強
くならないように、制限を設けてある。まあ、そういうことです。
当方、魔法の使えない剣技オンリーの前衛職とかも、好物でありま
す。
149
ちいさな娘、ある夏の日
ラティナの誕生月は6の月だった。
世界を司る神々が七柱存在し、多くの理が七で表されるこの世界
では、一年もまた、七に因んだ周期で分けられている。すなわち季
節が巡り戻るまでの一年を、七の倍の数、十四で割った期間が一ヶ
月なのだ。
一日もまた、十四の区切りで分けられており、こちらは神名をも
じり、マルの刻、セギの刻などと呼ばれている。
昼時間に当たる方を﹃表﹄、夜時間に当たる方を﹃裏﹄と呼んだ
りもする。
明け方を﹃表のマルの刻﹄、日の入りの頃を﹃裏のマルの刻﹄と
呼び、夕暮れ時を﹃表のセギの刻﹄、日の出前を﹃裏のセギの刻﹄
と呼ぶのがそうだ。
ラティナの誕生月祝いは、クロエの家に頼んだ。
彼女の家は仕立屋で、自分の店こそ持っていない下請け業だが、
腕は確かだった。そこで彼女の家を名指しで表通りの店に注文を入
れたのだ。
ラティナが、服を作る工程に興味を持ったというのもある。
自分の服が縫い上がる様子を、クロエに頼んでちょこちょこと見
に行ったりしていたようだった。
その過程でラティナは、針の持ち方の基礎を覚えてきた。
そこまでクロエの家に、ラティナの面倒をかける気のなかったデ
イルは、少々慌てて、礼の品片手に、挨拶に向かった。
150
うちのこ
けれど、クロエの母は、
﹁クロエが、ラティナちゃんと一緒なら、良いとこ見せようと頑張
るのよね。筋は悪くないんだけど、飽きっぽくて、ちゃんと練習し
ようとしなかったのに。感謝しているのはこちらの方よ﹂
と笑って言っていた。
ラティナに似合う、所々に花の刺繍で飾られた、淡いピンクのワ
ンピース。
﹂
冥たる闇よ、我が名の元に我が願い叶えよ、熱を奪い温度を
そんな晴れ着が縫い上がった頃には、クロイツは夏を迎えていた。
﹁
下げよ︽温度軽減︾
パキパキと小さな音をたてて、ラティナの目の前のボウルの中身
が凍る。彼女はそれを見届けると、手にしたヘラで中身をかき混ぜ
始めた。
氷を作るという行為は﹃冥と水﹄の複合魔法になるため、水の属
性を持たないラティナには扱えないが、温度を下げ凍らせるという
行為自体は﹃冥﹄属性単体で行う事が出来る。
デイルに教わった簡易式を、自分の使いやすい方法に直して使い
こなす位には、彼女は生活の中に魔法を取り込んでいた。
夏になってからラティナが好んで作っているのは、氷菓の類いだ
った。
シャーベットや、アイスクリームといったそれらを、様々な材料
で日替わりで作っている。もちろんレシピはケニスに教わったもの
だ。
彼が自分で作るとなると、魔道具を使い、時間をかける必要のあ
る工程を、ラティナならば魔法で一瞬で行える。
魔法使い向きの調理とも言える。
151
普通の﹃魔法使い﹄に、そんな依頼など出さないが。
何度か凍らせるのと、かき混ぜる工程を繰り返し、目的のふわふ
わしたシャーベットを作り上げると、ラティナはいそいそと店へと、
それを運んで行った。
﹁リタ、おしごとごくろうさま。きゅうけいしてね﹂
﹁ありがとう、ラティナ﹂
カウンターの定位置で書類と格闘していたリタは、暑さでバテ気
味だ。窓と扉を開け放っても風が通るとは限らない。
しかも客層は、見るからに暑さ倍増の男連中だ。この商売に長く
携わっているリタも、辛くなるときだってある。
ラティナ謹製の冷たい菓子を口に入れて、素直にリタは幸せそう
な顔をした。
﹁あー⋮⋮美味しい。ケニスに頼んでも、たまにしか作ってくれな
いのに。ありがとう、ラティナ。本当に美味しい﹂
﹁どういたしまして﹂
自分の分を口にして、ラティナもその出来に笑顔を浮かべる。
﹁でもね。ケニスのつくったほうがおいしいの。なんでかな﹂
﹁ケニスもまだラティナには、負けられないからね﹂
﹂
むう。と少々不本意そうな表情をしたラティナに、リタは笑いな
がら答える。
﹂
﹁ケニスも頑張っているのよ?
﹁んー?
リタの言葉にラティナは不思議そうにしているが、ラティナがこ
の店に来るまで、ケニスが作る菓子の類いなどほとんど無かったの
だ。
今では、ちょっとした菓子店でも開けそうな程にレパートリーを
持っている彼が、ラティナの為にせっせと新しいレシピ開発に勤し
んでいることを、妻であるリタはよく知っている。
152
***
とか、
﹂
﹂
******
﹁ラティナは故郷では、どんなもの食べていたの?
﹁んー?
﹁⋮⋮えーと⋮⋮、どんな味なの?
だよ﹂
﹁えと、ねー⋮⋮あんまりあじなかった。そればっかりだったから、
ケニスのごはんびっくりしたの。いろんなのが、いっぱいおいしい
の﹂
リタが言葉を失ったことも気に止めず、ラティナはにっこりと笑
顔になった。
﹁だからね、ラティナ。おいしいごはん、つくれるようになりたい
の。おいしいごはん、しあわせなんだよ﹂
﹁この季節に黒のロングコートなんて、本当、俺馬鹿なんじゃない
かって毎年思う﹂
﹁それを、フルプレートメイル装備の重戦士の前で言ってみろよ﹂
﹃踊る虎猫亭﹄に帰って来て早々に、ぐったりした様子で言うデイ
ルに、グラスに冷たい水を並々と注いでやりながらケニスが呆れた
声を出す。
デイルのコートは魔力を帯びており、並の鎧よりも軽量の上、防
御力に秀でている。刃を通さぬ素材で編まれた上衣と組み合わせれ
ば、充分にその身を守ってくれる優れた防具だった。
だが、それでも夏場は暑い。暑いものは暑い。
﹁デイル、おかえりなさい。つめたいの、たべてね﹂
﹁ん。ただいま、ラティナ。あんがと﹂
ころりと今までの不機嫌そうな表情を引っ込めて、デイルは微笑
んでみせる。ラティナはお盆の上に氷菓をのせていた。
﹂
﹁⋮⋮最近、ラティナよくこれ作っているけど、魔法、使い過ぎて
疲れたりしねぇのか?
153
器を受け取りながらデイルが尋ねれば、ラティナはこくん。と頷
く。
﹁だいじょーぶだよ。なんかいかやったら、ちょっとのばしょだけ
できるの、やりかたわかったよ﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
彼が、普段ラティナに見せるのと異なる、真剣な顔つきであるこ
﹂
とに、ケニスが不審がる。
﹁デイル、どうした?
﹁いや⋮⋮﹃魔人族﹄ってのは、皆これだけ魔力の制御に長けてる
﹂
実践を経た後、経験則で、魔
のかね。⋮⋮ラティナ、もう範囲指定の制御をマスターしてるみた
いだ﹂
﹁⋮⋮そんな凄いもんなのか?
﹁理論も修めていない子どもだぞ?
法の効果範囲を絞って、魔力と威力を効率化して使っている。⋮⋮
確かに、﹃そういう事が出来る﹄って事は、教えたけどさ、やり方
を教えた訳じゃねぇ﹂
ケニスがまじまじとラティナを見ると、彼女は不思議そうに大き
な眸で見返してきた。
﹁呪文式もさ、俺が教えた簡易式じゃなく、元々知ってた治癒魔法
まえは、ぱ
の呪文式に当てはめて精緻な術式を組んでる。本来なら、制御の負
荷が大きくなるはずなんだけどな﹂
﹁デイルおしえてくれたから、ラティナおぼえたよ?
あーっ。っていっぱいまりょくひろげてたの。いまは、ここっ。っ
てまりょくそこだけにつかうの。らくちんになったよ﹂
﹁⋮⋮ほら、な﹂
﹁そうだな。天才肌ってタイプかもしれねえな。元々ラティナ、何
﹂
でも覚えるの早いしな﹂
﹁そうなのか?
デイルの反応に、ケニスは何を今更という顔となる。
﹁料理も掃除も、最近は針仕事とかもだな。ラティナは一度教えた
154
・ ・
・・
・
・ ・
・
・
・
・
だけで飲み込みが凄い早い。むしろこんな何でもこなせる子が今ま
﹂
こ
こんなに覚えの早いラティナが、何で今の
で何も出来なかったって環境にあった方が、不思議でならねえな﹂
﹁え?
﹁だってそうだろう?
今まで、魔法も家事もろくに教えてもらった痕跡がないんだ?
の子なら、﹃教えなくても出来て不思議はない﹄のにさ。いくら違
う種族だからって、そんなに大きな違いは出ないだろうに﹂
﹂
﹁そうだよな⋮⋮﹂
﹁なぁに?
こてん。といつものように首を傾げるラティナの姿に、大人たち
は推測を重ねる。
﹁何も教えて貰えなかったような環境にいたか、自分で何もせずと
ラティナのこと?
﹂
も、良かったような環境にいたか⋮⋮だな﹂
﹁ん?
﹂
﹁ああ。⋮⋮ラティナは、生まれたところでは、こういう風に何か
教えてもらったりはしなかったのか?
﹁んー⋮⋮ラティナはね。まだきまってない。だったの﹂
﹂
よくわからない返答がラティナから戻って来て、今度は大人たち
が首を傾げた。
﹁何が﹃決まってなかった﹄んだ?
﹁ラティナもよくわかんない。でもね、⋮⋮ううん。ラティナなに
もしらない﹂
彼女は、はっと両手で口を押さえて、ぷるぷると首を振った。
何か言いかけてはいたが、口をつぐんでしまった以上、これ以上
ラティナは何も話さないだろうとケニスとデイルは目配せし合う。
この小さな子は、こう見えて、結構頑固なのだ。
155
156
ちいさな娘、ある夏の日︵後書き︶
かき氷食べてないまま、夏が終わりそうです⋮⋮
157
ちいさな娘、その﹃事件﹄。
どうして様子を見に行ったのか。と、尋ねられれば、ケニスは返
答に困っただろう。
その直前に会ったラティナの顔色が酷く悪く、心配になったとい
うのも大きい。
だから、普段なら聞き逃してしまうような、小さな異音に気付く
事が出来たのだろう。そして、それが気になって、様子を見に行っ
たのだ。
それが﹃ベター﹄では、あった。
−−﹃ベスト﹄は、兆候に気付いて、事前に止める事が出来るこ
と。⋮⋮だったのだが。
クロイツの街は秋を迎えていた。
アスファル
ラティナは友人たちと共に、街の中心部にある﹃黄の神﹄の神殿
アスファル
に併設されている学舎に通いはじめていた。
﹃黄の神﹄は学問を司る神。クロイツのようなある程度大きな街に
は、どこでも神殿があり、就労前の子どもたちに、最低限の教育を
行うことを担っている。
クロイツの場合は、八歳になる年の秋からの二年間がそれに充て
られている。
ラーバンド国内の識字率は、街住みの者に限れば悪くはない。
158
商売人などに限らず、街中で﹃情報﹄は文章で示される。労働者
﹂
たちや冒険者たちにとっても必要な能力だった。
﹁ラティナ、なんか元気ないか?
﹁ううん。だいじょーぶ。げんきだよ﹂
学舎に行く準備をしながら、どこか沈んだ表情をしたラティナの
様子に、デイルが不審な顔をする。
だが、ラティナはすぐに表情を取り繕い、笑顔を作った。
彼女は学舎に通いはじめた当初は、毎日本当に楽しそうにしてい
た。
﹃新しいことを学ぶ﹄こと自体が楽しいのだと、デイルにも弾んだ
様子で報告していたのだった。
それが、ここ数日変だった。
﹂
ぎゅっとラティナを抱き締めると、彼女は不思議そうな顔をした。
﹁最近⋮⋮学舎で何か変わったことでもあったのか?
びくん。と、ラティナの体が小さく跳ねた。
下を見て小さな声で答える。
﹂
﹁⋮⋮あたらしい女の先生が、きたよ﹂
﹁何かそいつとあったのか?
﹁ううん。みんなは、まえの先生のほうが、べんきょうおもしろい
って言ってるけど、それだけ﹂
﹃それだけ﹄とは、とても思えないラティナの様子に、デイルは眉
をひそめる。だが、なかなかに頑固なラティナの口を割らせるのは、
容易な事ではないのだった。
﹁ラティナ、心配かけるのは、悪いことじゃないからな。俺は本当
159
にお前が大切なんだから⋮⋮ちゃんと甘えてくれよ?
・
・
﹂
・
﹁デイル⋮⋮だいじょーぶ。ラティナ、ちょっと先生のこと⋮⋮こ
わいだけだから⋮⋮﹂
−−この時に、もっと気にかけるべきだった。と、デイルは思う。
﹃踊る虎猫亭﹄で暮らし、荒くれものの﹃冒険者﹄と接しても、笑
顔を絶やさず、臆することもないラティナが、﹃怖がる﹄ことの意
味を考えるべきだったと−−
更に数日が過ぎ、ラティナはますます沈んだ様子を見せていた。
友人たちと過ごす時間は楽しいらしい。新しい友人も出来たのだ
と言う。毎日を、そう報告していた。
だが、ラティナは﹃先生﹄の事にだけは、触れようとはしなかっ
た。
彼女自身、苦手に思って避けているのかもしれない。
そんな風に大人たちが思っていた矢先の事だった。
真っ青な顔をして、ラティナは帰って来た。
酷い様子だった。
いつものように出迎えたケニスが、声を失う程に。
片方の飾り布はほどけかけていた。
リボン
倒れてしまうのではないかという程に、顔色は悪く、服や髪が乱
れて、
けれどもそれ以上に、ケニスが胸を突かれたのは、彼女の表情だ
った。
途方にくれたような。
大切なものを全て失ってしまったような。
ラティナの﹃絶望﹄した表情に。
160
−−ケニスが初めてラティナと出会った時から、この子は笑顔を
見せていた。
森の中で、唯一頼りとするべき肉親を喪い、それでも独りで生き
ていた少女。
大人でも耐える事が出来ないような、幼い彼女が背負うべきでは
ないような、辛く悲しい苦しい思いを抱えていて、それでもラティ
ナは笑っていたのだ。
そのラティナが、彼女の心の奥にある﹃柔らかい部分﹄を表に出
何があった?
﹂
している。−−咄嗟に思ったのは、そんな事だった。
﹁ラティナ⋮⋮?
ケニスの声に、ラティナはビクリと大きく震え、泣き出しそうに
大きく顔を歪めた。けれども
﹁⋮⋮なんでも、ない﹂
ラティナは絞り出すようにそう答え、くるりと背中を向けて階段
を上っていった。
−−このとき、ケニスではなく、デイルが出迎えていたならば、
また違っていたかもしれない。
デイルが留守にさえしていなければ。
頭上から、﹃異音﹄としか言い様のない音をケニスが聞いたのは、
それからそれほど時間を経なかった後の事だ。
過去、耳にした覚えのない鈍い音。
空気が重く震えた気がした。
ただ、ただ不吉な予感のする音だった。
161
反射的にケニスは階段を駆け上がった。
二階を抜け、屋根裏に上がる。
そこに、ラティナが倒れていた。
ここ
窓から差し込む光だけでは、屋根裏は薄暗い。
彼女に何が起こったのか、一瞬わからなかった。
一歩近付いて、ケニスはラティナの頭が血溜まりの中にあること
﹂
に気付く。白金の髪が、鮮血に染まっていた。
﹁ラティナっ!
元の稼業上、血も怪我も見慣れているケニスが、それでも動揺し
たのは、この場にいるのが﹃ラティナだけ﹄だからだ。
これは﹃ラティナ自身﹄が行ったことになる。
ケニスは近くの汚れていない布−−デイルの部屋から取って来た
−−を彼女の﹃傷口﹄に押し当てながら、彼女を抱き上げ、階段を
駆け下りた。
見る間に布が赤く染まる。
押さえた位では、出血は止まらないのだ。
一刻も早く回復魔法をかけるか−−もしくは、彼女の﹃傷口﹄を
焼く位しか方法がない。
ラティナは、自分で、自分の、残っていた﹃角﹄を折っていた。
﹃魔人族﹄の象徴でもあるその部位には、血管も神経も通っている。
見た目の硬い無骨な印象に比べて、繊細な器官だった。
損ねれば、手足をもがれるのと何ら変わりのない、苦痛と出血が
襲ってくる。
162
意識のないラティナはぐったりしたまま動かない。
ケニスは﹃踊る虎猫亭﹄の店内へと、ラティナを抱いたまま駆け
込んだ。
﹂
鬼気迫るケニスの様子に、店にいたリタや、雑談中の常連たちが
ぎょっとする。
﹁どうしたの、ケニ⋮⋮﹂
﹁こんなかに、回復魔法使える奴はいるかっ!?
ケニスの言葉の意味を理解するのと、ケニスの腕の中のラティナ
﹂
﹂
が血の色に染まっていること。気付いたのは、どちらが先だったの
だろうか。
﹁ラティナっ!?
﹁嬢ちゃんが怪我したのか?
リタが悲鳴を上げた。彼女らしくないほどに、血の気が失せてい
る。
がたんと椅子を蹴って立ち上がった髭面の常連は、自分の連れを
押し出した。ケニスの元に駆け寄った初老の男は、ラティナの頭へ
と掌を向ける。
﹁俺の魔法じゃ、大したことは出来ないぞ﹂
﹁構わん。とにかく血を止めてくれ﹂
癒しの魔法が行使され、止まらなかった血の勢いが弱まる。
ニーリー
ケニスはその間にリタの方を向いた。
みせ
﹂
﹁念のため﹃藍の神﹄の神殿の治療院に連れて行く。デイルが帰っ
て来たら、そう伝えてくれ。酒場は今日は休みだ﹂
﹁わ、わかった。⋮⋮ケニスっ、ラティナに何があったの?
﹁俺にも詳しいことはわからん。とにかく、今は治療が先だ。行っ
163
てくる!
﹂
ニーリー
もの
ラティナを抱え直し、ケニスは﹃藍の神﹄の神殿の方へと全力で
走り出した。
−−後になって知った事だ。
ラティナには、﹃自分を害する存在﹄を漠然と察する能力がある
のだという。
﹃あの森﹄の中で、幼いラティナが独りで生き抜いていた理由だっ
−−毒を含む動植物も多い中で、彼女は﹃食べても大丈夫﹄な
た。
ものだけを、見分けられていた。
−−自分に危害を与える獣が近くに来る前に、身を隠す事が出来
ていた。
−−デイルと会った時に、彼は、自分を害したりしないと、感じ
ていた。
全ては、無意識下の、その能力の成せるわざであったのだ。
・
・
−−ラティナは﹃本能的に﹄自分の﹃敵﹄を見抜く。
彼女のその﹃本能﹄は、今回も正しくはたらいていたのだった。
164
ちいさな娘、その﹃事件﹄。︵後書き︶
書いててしんどいエピソードでした⋮⋮
165
青年、モンスター < ペアレントと化す。︵ 前 ︶︵前書き
︶
モンスターも裸足で逃げ出すペアレント
出動です。
166
青年、モンスター < ペアレントと化す。︵ 前 ︶
いつもの革のコートでも、普段着のシャツでもなく、上等な黒の
衣を着ているのは、それもまた彼にとって、﹃戦闘服﹄であるから
だった。
それ
首から﹃聖印﹄を下げているのも、普段の彼にはない装いだ。
だいぶ凝った造りの﹃聖印﹄は、神殿での身分に応じて使う材質
が厳格に定められていることを少しでも知っていれば、彼が﹃神殿﹄
で、かなりの地位を持たされていることに気付くだろう。
アスファル
このクロイツの街の﹃黄の神﹄の神殿を任されている年輩の女性
司祭も、彼のことは知っている。
現宰相である公爵閣下と深いつながりを持つ冒険者。
だが、﹃神殿﹄は国家権力からは切り離された、治外法権の認め
られた独立した機関となっている。
ラーバンド国内にあるとはいえ、王家や公爵家から命を受ける筋
合いはないのだ。
少なくとも建前の上では。
デイルもそれは知っている。
アスファル
だから彼は今日は﹃公爵家子飼いの冒険者﹄としてではなく、﹃
高位神官位を持つ者﹄として、﹃黄の神﹄の神殿を訪れていた。
アスファル
デイルの持つ﹃加護﹄−−神が脆弱たる﹃ひと﹄に与える奇跡の
ちから−−は﹃黄の神﹄の物ではないのだが、他神のものであった
としても、﹃神の加護﹄を持つ者を各神殿は邪険に扱うことはでき
ない。
神々は全て対等であり、共に並び立つ存在であるのだから。
167
しかもデイルの﹃加護﹄はかなり高位のものだ。それがわからな
い﹃神官﹄はいない。よほど下位の、雑用の為に雇われている者で
もない限り、﹃神殿﹄にいる者は全て﹃加護﹄を持っている。
元々﹃神殿﹄という組織の発端は、﹃加護﹄という異能を持つ者
たちを囲いこみ、守る為の場所として設立されたのだ。﹃神官﹄と
は、﹃加護﹄を持つ者だけに許された職業なのである。
﹁何故、俺がこの場を訪れているのか。改めて申し上げる必要はな
いでしょう。事の次第を伺う権利が、俺にはあると思うのですが﹂
﹁ええ⋮⋮はい。そうですわね﹂
責任者である彼女の元にも報告は上がって来ている。
眼前の青年が後見となっている﹃魔人族﹄の少女が、この秋から
神殿が運営している学舎に通っていること。
教師
そして、その少女に、
この神殿の﹃神官﹄が行った愚行についても。
﹁俺としては、どんな主義主張を掲げていても、否定をするつもり
は無いんですがね。﹃人間族絶対主義﹄者も、珍しいものではない。
⋮⋮けれど、この﹃クロイツ﹄という街に暮らす者に対しては、だ
いぶ狭量な見解だと思うのですが﹂
﹁⋮⋮仰る通りですわね﹂
学問
﹁旅人と流通で成り立つこの街では、どんな職業の者も他種族との
関わりが深い。そんな当たり前のことを、まさか﹃黄の神﹄に仕え
る方が知らないはずもないでしょうに﹂
かのじょ
デイルという男は、感情が凪いで見える時ほど恐ろしい。初対面
である司祭も、背中に嫌な汗が伝うのを感じる。
168
巨体の怪物や魔獣を屠る覇気など、いくら高位の神官であっても、
・
・
・
・
アスファル
﹁子どもたちに、﹃魔人族﹄という﹃種族﹄への愚弄と罵倒を
・
そうそう体験するものではない。
・
・
﹂
ご高説下さったそうですね。それが最近の﹃黄の神﹄の見解なので
すか?
﹁⋮⋮彼女は、魔人族の生活区域と隣接する土地の生まれで⋮⋮親
族を﹃彼等﹄とのいさかいで喪っているのです。そのため⋮⋮﹂
アスファル
﹁そのためなら、なんの罪もない少女を﹃化け物﹄と罵倒しても構
わないというのが、﹃神殿﹄の言い分なのですか。新しい解釈です
ね﹂
﹁いいえ、とんでもありません⋮⋮﹂
かのじょ
額の汗を拭いながら、司祭は言葉を探す。
今の一言で、もうすでに眼前の青年は、﹃何が起こったのか﹄一
部始終を知っているのだということを、示していた。
現にデイルは、ラティナの身に何が起こったのか、一通り調べて
いた。
ラティナの友人たちに話を聞き、裏付けも﹃本職﹄であるリタ経
由と、クロエの母経由の﹃市井の噂﹄、双方を照らし合わせて確認
済みだった。
ラティナたちへと教鞭をとった女神官は、ついこの間、隣国と接
した街から赴任してきたばかりだったそうだ。
子どもたちは、彼女のことを﹃いつもキンキンしている人﹄と称
していた。当人にそのつもりはないのかもしれないが、子どもたち
はそういった面は敏感で、言葉を飾ることはしない。
169
ラティナは当初から、その女神官から距離を取っていたそうだ。
その前まで教師を務めていた神官相手には、ラティナはよくなつい
ていたし、ラティナが誰かにそんな態度を取ること自体が今までな
かったことだった。
仲間たちも、警戒はしていたらしい。
そのおんな
−−そしてあの日。
リボン
女神官はラティナの﹃角﹄に気付いた。
﹁﹃魔人族﹄⋮⋮﹂
・
・
低く呟いて、ラティナの髪を掴んだ。飾り布に隠れた彼女の艶や
かな角が露になると、憎々しげに言葉を吐いた。
・
・
・
ものって⋮⋮﹂
・
﹁何故、﹃ひと﹄の街に、忌々しいお前のようなモノがいるのっ!
﹂
﹁っ!
﹁﹃人間族﹄以外の亜人が、﹃ひと﹄であるはずがないでしょう!
﹂
いかにも当然であるかのようにいい放つ。
・
呆然と言葉を失ったラティナに、更に毒にまみれた言葉を放った。
・
﹁異形にして、百年以上も同じ姿で生き続ける﹃化け物﹄が、ひと
であるはずがないでしょう﹂
かのじょ
自分の言葉が何一つ間違っていないと信じきった顔で、女神官は、
この状況に困惑する子どもたちに高らかに告げた。
髪を掴まれたまま、動くこともできないラティナを、獲物を見せ
・
・
びらかすように前に突き出す。
﹁﹃人間族﹄以外の亜人は﹃ひと﹄ではありません。このように、
﹂
異形の証を持ち、命の在り方すら、﹃ひと﹄とは異なる化け物です。
皆さん、騙されてはなりませんよ!
170
−−﹃人間族﹄は、比率に於いて圧倒的に多数を占める種族であ
り、時には﹃閉鎖的な種族﹄以上に﹃閉鎖的﹄な者も少なくはない。
﹃人間族﹄こそ唯一の﹃ひと﹄であり、他種族を﹃亜人﹄と呼ぶ﹃
人間族絶対主義﹄と呼ばれる考え方も、悲しいことに少数派とは言
い切れないものがあるのだ。
かのじょ
だからそういう意味では、女神官は自分の主義主張を述べただけ
とも言える。
このまち
だが、﹃クロイツ﹄では、それこそ異端だ。
子どもたちによぎった嫌悪にも気付かす、更に喚きたてる。
﹂
決して油断をしてはなりません。このように素性を隠して、
﹁特に﹃魔人族﹄は、﹃魔王﹄に連なる邪悪にして卑劣な生きモノ
!
﹂
﹃ひと﹄の街に紛れ込んでいるのが何よりの証拠なのですから!
﹁きゃあっ!
更に髪を強く掴まれ、顔色を真っ青にしたラティナが悲鳴を上げ
たのが、合図だった。
クロエが全力で机の上の﹃石板﹄を投げつけた。
危険な!
﹂
当たりはしなかったが、壁に叩きつけられたそれが大きな音をた
てて砕ける。
﹁何をするのです!
クロエの行動に気を取られて、手が緩んだ。ラティナがぺたりと
床に座り込む。
アントニーとマルセルが、ラティナを助けに行く為、動き出す。
その瞬間、ルディが机を蹴った。
171
そのおんな
三人掛けの大きな机は、子どもひとりの力では、少し揺り動かす
何てことをするのです!
﹂
のが限界だったが、女神官の気を引くには充分だった。
﹁止めなさい!
・
・
・
喚きたてる姿に、教室の子どもたちに嫌悪だけでなく、恐怖が広
がる。
目を吊り上げて金切り声を上げるその女の姿と、皆の仲の良い友
人である可憐な少女が、泣きそうな顔で蹲る姿。
子どもたちにとって、どちらが﹃化け物﹄か、比べるまでもない
ことだった。
ルディが再び机を蹴ろうとした瞬間、クロエがタイミングを合わ
せて反対の端を蹴る。
止めなさい!
﹂
今度こそ大きな音をたてて、机は床に倒れた。
﹁止めなさい!
一度コツを掴んだ二人によって、次々に倒される机に、益々大き
止めなさい!!﹂
な金切り声が上がる。子どもたちの何人かが、泣き出した。その声
止めなさい!!
にさえ苛立ったように更に叫ぶ。
﹁止めなさい!!
激しい物音と尋常ではない様子に、他の神官たちが駆けつけて見
たものは、
嵐の後のような教室の惨状と、怯え、泣きじゃくる子どもたち。
それに中央で鬼の形相で喚く﹃自分たちの同僚﹄と、その﹃同僚﹄
から、真っ青になった少女を庇い、睨み付けている子どもたちの姿
だった。
﹁せんせえ⋮⋮﹂
神官たちに連れ出されて行く﹃教師という立場であったはずの女﹄
172
を見送りながら、ついこの間まで子どもたちの教育担当だった神官
⋮⋮み
ラティナ⋮⋮﹃まじんぞく﹄は、みんなと何が
を呼び止めたラティナは、酷い顔色だった。
﹂
﹁何がちがうの?
ちがうの?
ひゃくねんいきるって、何?
﹁⋮⋮ラティナさん。違うことなんて⋮⋮﹂
﹁いのちがちがうって何?
﹂
そのひと
んなとちがうの?
悲痛な声に、神官は、眉を寄せ、悲しそうな顔をしたが、言葉を
偽ることはしなかった。
膝を折り、小さなラティナと視線を合わせる。
﹁⋮⋮﹃人間族﹄と﹃魔人族﹄の最大の違いは、外見上のものでは
ありません。﹃魔人族﹄は﹃人族﹄の中でも長寿な種族です。﹃人
間族﹄の倍以上の、長い年月を生きる種族なのです﹂
ラティナの灰色の眸が大きく開かれた。
正しくその言葉の意味を理解してしまう程には、ラティナは賢い
少女だった。
衝撃を受けた様子を隠さず、ラティナは帰路に着いた。心配する
友人たちの声も届いていない様子だった。
そして、自分の魔法で、自ら﹃角﹄を折ったのだ。
173
青年、モンスター < ペアレントと化す。︵ 前 ︶︵後書き
︶
思った以上に長くなってしまったので、前後に分けました。
本来分けるつもりのなかったところなので、夕方続きをアップしま
す。
文中の﹃石板﹄は、各生徒がノートとして使っている、小さな黒板
状のものです。
174
青年、モンスター < ペアレントと化す。︵ 後 ︶︵前書き
︶
後編です。
175
青年、モンスター < ペアレントと化す。︵ 後 ︶
血の気を失った白い顔のラティナが、寝台に横になっていた。
意識を取り戻してはいたが、どこか虚ろな、生気の無い眸が、人
の気配にゆっくりと動く。
息を乱して駆け付けた彼の姿に、灰色の眸が揺らめく。
﹁⋮⋮デイル⋮⋮﹂
そして、かすれた声が呼んだのは、彼の名だった。
ニーリー
﹃藍の神﹄の神殿は﹃生と死﹄を司る。その為、医療技術や病理学、
薬学等を研究している機関となっていた。また、その研究結果を、
治療院を設けるという形で市井の人々にも還元している。
ケニスによって、ラティナは治療院に担ぎ込まれていた。幸いに
も命に別状はなかった。発見が早く、初期手当が良かった事が奏し
た。
そうでなければいかに頑強な﹃魔人族﹄といえど、これだけ小さ
な体から大量の出血をして、無事である筈もない。
﹁ラティナ⋮⋮どうして、こんな⋮⋮﹂
震え声で呟きながら、デイルがラティナの頬に手を滑らせると、
彼女は表情を歪めた。
﹁うっ⋮⋮うぁっ⋮⋮あっ⋮⋮﹂
﹂
意味にならない声を発して、ぼろぼろと涙をこぼす。
﹁ラティナ⋮⋮痛むのか?
176
気遣わしげな声に答えることはなく。
デイルの手を、ぎゅっと力を込めて握り、泣きじゃくる。
嫌々をするように首を振った。
﹁いらないのっ⋮⋮いらないの⋮⋮﹂
﹂
泣き声の合間に聞こえたのは、そんな慟哭だった。
﹁ラティナ?
﹂
﹁﹃まじんぞく﹄のあかし、なんて、いらないっ⋮⋮ラティナ、﹃
角﹄なんて、なければよかったっ!
ラティナの言葉に戸惑うデイルは、この時まだ、彼女の身に何が
起こったかは知らなかった。
何があったんだ?
﹂
だが、尋常ではないラティナの様子に、迂闊な叱責などはしては
ならないと、心の内を戒める。
﹁ラティナ⋮⋮ラティナ。どうしたんだ?
・
・
・
何でラティナ﹃まじんぞく﹄
ラティナ、﹃まじんぞく﹄のばしょでくらせないのに⋮
﹁やだよぉ⋮⋮どうして、なのっ?
なのっ?
み
⋮﹃まじんぞく﹄はラティナのこと、いらないのにっ⋮⋮ラティナ
んな
のこと、大事にしてくれたの、いてもいいって言ってくれたの﹃人
間族﹄なのにっ⋮⋮﹂
これだけ錯乱したラティナの姿は、はじめてだった。
それまで自分の本心や弱音を、デイルの前では隠す傾向のあった
・
・
ラティナの、悲痛な叫びが病室内に響く。
・
﹁何で、ラティナのじかんだけ、ちがうのっ?
みんながしんじゃったあとも、ラティナだけ⋮⋮ひとりだけのこ
されるのなんて、いやだよぉっ⋮⋮﹂
177
その言葉に、デイルはラティナが何を知ったのかを察した。
彼女は、﹃魔人族﹄と﹃人間族﹄は、寿命という﹃生まれ持った
﹃まじん
時間の長さ﹄が異なることを知ったのだと、直感したのだ。
﹁やだよぉ⋮⋮やだよ⋮⋮ラティナ、何で、何で⋮⋮?
ぞく﹄じゃなければよかったっ⋮⋮
みんなといっしょにいられないなんて、いやだよぉっ⋮⋮
もう、ひとりになりたくないのに⋮⋮ラティナだけ、のこされる
なんて、もういやなのにっ⋮⋮
デイルとも、ともだちとも、ラティナずっといっしょにいたいの
にっ⋮⋮
みんなのいないじかんで、ひとりぼっちになるのは、もういやだ
よぉっ⋮⋮﹂
−−ラティナが傷付き、絶望したのは、直接向けられた﹃悪意﹄
ではなかった。
﹃事実﹄−−覆ることの無い﹃種族の差﹄という﹃事実﹄だった。
デイルは以前、この﹃事実﹄をラティナに告げなかった。
−−﹃人族﹄の中で﹃閉鎖的﹄な傾向のある﹃種族﹄の共通点は、
﹃長寿種﹄であること。だ。
命の時間の長さが違うということは、大きな価値観の違いと、ズ
レを生じさせる。
﹃人間族の十年﹄と、﹃魔人族の十年﹄は、体感時間も価値も異な
るのだ。
元より持つものの絶対値が異なる以上、歩み寄るのが難しいこと
もある。
﹁ラティナ⋮⋮ごめんな⋮⋮﹂
178
謝るべきか、デイルにも判断はつかなかったが、咄嗟に口をつい
て出たのはその言葉だった。
泣きじゃくるラティナを抱き上げて、しっかりと抱き締める。
柔らかなラティナの髪に頬を寄せて、まだかすかな血の跡を残す
彼女の﹃傷口﹄を指先で撫でた。
﹁苦しめて、ごめんな、ラティナ⋮⋮﹂
ぎこちなく、それでも優しく、背中を撫でる。
息をするのさえ苦しそうに、全力で嘆き、泣いている少女の苦し
さが、ほんの少しでも癒えるように。
−−そして、その後、デイルは、ラティナの身に何が起こったの
かを知った。
自分が先送りにした為に、彼女が﹃最悪のタイミング﹄で、種族
の差という﹃事実﹄を突き付けられたことを。
彼女が自らの体を傷付けたのは、彼が教えた攻撃魔法だったこと
を。−−ラティナは、その類い稀なる卓越した制御技術で、本来な
らばこけおどし程度にしかならない威力の攻撃魔法を、一点のみに
集中し、見事に﹃角﹄を砕いてみせたのだ。
・
−−その事実を。
・
−−だから、これは半ば、八つ当たりだ。
デイルは﹃自分自身﹄にも、苛立ちと腹立たしさを抱いているの
だから。
179
彼はそう思いながら、目の前で汗を拭いている、初老の女性司祭
に目を向けた。
自分でも冷ややかであることを知っている﹃笑顔﹄を作る。
﹁噂では、﹃以前いらした街﹄でも似たような﹃事件﹄を起こされ
ていたそうですね﹂
クロイツ
司祭の顔色がますます悪くなる。
この街の者が知らない筈の情報だ。無理もない。
だが、﹃専門家﹄のリタがラティナの為に、調べに調べあげた情
報だ。
・
・
あの街は確か、﹃妖精族﹄
・
誰を敵に回したか。もう少し、肝に命じて貰わねば困る。
エルフ
﹁﹃妖精族﹄相手に事を起こしたとか?
﹃妖精族﹄が公演をボイコットする騒ぎにな
と交流が深く、﹃妖精族﹄の﹃唄﹄目当ての観光事業が街の主産業
であった筈ですが?
ったそうですね﹂
アスファル
だから慌てて、遠いクロイツの街へと、転属させたのだ。
その街にいられなくなったから。
そして予定外の人事異動に、クロイツの街の﹃黄の神の神殿﹄も、
大混乱に陥った。
ラティナたちの担当が変わったのもその為だ。
﹃その街﹄の騒ぎを鎮める為に、クロイツの高位神官が、代わりに
そちらの街に赴いた。その穴を埋める為にラティナたちの担当だっ
た神官が、任を引き継いたのだ。
神殿の人々も、まさか大騒動を引き起こし、異動した直後に、ま
た同じような真似はするまいと思っていたのであった。
だが、当の本人は﹃自分の主張は間違っていない﹄と信じきって
いる。反省する筈もない。何故なら﹃間違っているのは、自分を糾
弾する周囲﹄なのだから。
180
﹁我が加護に於いて、﹃裁定﹄の行使を要求する﹂
﹁それは⋮⋮﹂
彼の要求は、高位神官に認められた﹃権限﹄だった。どの神の神
官が、どの神の神官相手に行うことも、可能とされている。
あいて
本日の彼が、﹃聖印﹄なんて物を携えて赴いた最大の理由だ。
デイルが厳かに告げた言葉に、司祭が息を呑む。
﹁﹃身内﹄を庇いたい気分もわからなくはないけどな。それでも、
これだけの事を仕出かした輩を庇い続けるなら、それなりの覚悟は
あるんだろうな﹂
アフマル
デイルは鋭い一瞥と共に釘を刺すと、更に言葉を続けた。
﹁それが受け入れられないのであれば、﹃赤の神﹄の神殿経由で請
あなたたち
求するまでですが。そうなれば、一連の事実を知りながら、黙認し
た他の神官の責任も問われると思いますがね﹂
アフマル
﹃赤の神﹄は、戦の神であり、調停と裁きを司る神でもある。
かの神殿は、各土地の法や権力を越えて、﹃裁き﹄を下す機関だ。
そこには無慈悲な程に﹃適切な裁き﹄が下りる。
自分たちの非を自覚する相手にとっては死刑宣告も同義だった。
バカ
−−連帯責任で多くの者を罰せられるのが嫌ならば、大人しく当
の本人の首を切り、責任を取らせろ−−
デイルのしたことを一言で言い表せば、そういうことであった。
−−あの時、泣きじゃくるラティナを抱き締めて、デイルは言っ
た。
181
﹁⋮⋮でもな、ラティナ。同じ﹃人間族﹄だったとしても、俺はラ
ティナより、きっと先に死ぬよ。⋮⋮俺の方が歳上だし、俺は何時
死んでもおかしくない﹃仕事﹄をしている﹂
求めていなかった言葉に、ラティナは激しくもがいた。
彼の言葉を否定するように、認めたくないように、激しく頭を振
り、悲鳴に似た泣き声を上げる。
全身で﹁嫌だ﹂と叫ぶラティナを、デイルはしっかりと抱え込む。
逃がしたりはしないと、腕の中に掴まえる。
﹁でもな、ラティナ。聞いてくれ。⋮⋮俺はお前と出会えて、本当
に良かったって思ってる。限りのある時間の中を、お前と過ごせて
良かったって思ってる﹂
彼女の声に負けじと声を張り上げながら、彼は思いを伝えようと
言葉を尽くす。
彼女と出会った時から、自分の人生は大きく変革を迎えた。
心の底から感謝している。この優しく愛しい時間をくれたのは、
紛れもなく、この腕の中のちいさなこの子なのだから。
﹁俺はラティナと逢えて良かった。そのことは、絶対に後悔しない。
⋮⋮だから、ラティナも、俺と﹃出会わなければ良かった﹄なんて、
言わないでくれ⋮⋮﹂
泣き顔のラティナがデイルを見上げる。声にならない声で何かを
訴えようとする。しゃっくりあげながら、それまでとは違う様子で
首を振る。
﹁⋮⋮ちが⋮⋮ちがうのっ⋮⋮ラ、ラティナ⋮⋮﹂
何度も何度も咳き込み、喘ぎながら、彼女は言葉を紡いだ。
﹁デイルと、あえて⋮⋮よかったの⋮⋮ほんとうに、そうなの⋮⋮﹂
182
・
・
・
﹁ありがとう。ラティナ。⋮⋮お前が、それだけ﹃別れ﹄が辛いと
・
・
・
俺は嬉しくも思っちまう﹂
・
泣くのなら、それは俺たちが、お前にとって大切な存在なんだとい
うことだろう?
﹁⋮⋮うん。デイルはね、ラティナのとくべつなの⋮⋮そうなんだ
よ⋮⋮﹂
泣き顔のラティナの頬に、キスを落としたら、彼女は驚いた顔を
した。
泣き顔より、驚いた顔の方がずっと良い。
デイルは、悪戯が成功した子どものように、微笑んでみせた。し
っかりとラティナと目を合わせる。
﹁俺はラティナと出会えて良かった。⋮⋮いつか死ぬ時がきても、
﹂
俺はきっとそう言えると思う⋮⋮だから、﹃その時﹄まで、一緒に
いような?
﹁うん。⋮⋮ラティナ、デイルとあえて、よかったよ⋮⋮﹂
﹁大好きだよ﹂
﹁ラティナも、デイルのこと、いちばんだいすき⋮⋮﹂
ほんのかすかに、微笑みを浮かべた彼女に、途方もなく安堵を感
じた。
この子の笑顔の為ならば、自分は今以上に、頑張ることができる。
そんな考えを胸の内に抱きながら。
183
青年、モンスター < ペアレントと化す。︵ 後 ︶︵後書き
︶
デイルさんが、チート臭いのは﹃加護﹄持ちだったからだったので
す。
とりあえず、色んな人がいますよね。世の中。
184
ちいさな娘、その﹃事件﹄の後日談。
ぱちん。
と軽い音が響いた。
叩かれた当の本人のラティナは、きょとんと目を丸くしていたが、
叩いた側であるクロエは涙を浮かべていた。
−−あの﹃事件﹄から数日。
治療院はすぐに退院できたが、大事をとって療養していたラティ
ナの元に、クロエが訪ねて来た。
そして、ラティナがしたこと−−自ら﹃角﹄を折り、たくさん血
を流したこと−−下手をすればラティナが命を失っていたかもしれ
ないという事を聞いたクロエの行動が﹃それ﹄であった。
ぼろぼろぼろと泣きながら、クロエはもう一度ラティナを叩いた。
男の子たちを捩じ伏せるクロエにしてみれば、力が入っていない
も同義のその行為であったが、ラティナは驚いて声も出ない。
なんて事したの!
﹂
クロエは今まで、ラティナを暴力から庇ってくれたことがあって
ラティナのバカ!
も、暴力を振るった事などなかったのだから。
﹁バカ!
そして、暴力を振るった側であるクロエの方がずっと辛そうな顔
をしていた。
そんなのあってもなくても、ラティナ
それに⋮⋮﹂
﹁キレイな角だったのに!
はラティナなのに!
そして、ラティナはクロエが泣く姿を見るのは初めてだった。
185
男の子たちより勇敢で逞しい﹃親友﹄の辛そうな顔に、ラティナ
も泣きたくなっていた。
﹂
クロエ
﹁ラティナ⋮⋮死んじゃうかもしれない事⋮⋮するなんて、大バカ
だよっ!
とうとう声を上げて泣き出した親友の姿に、ラティナはようやく
理解した。
ともだち
自分が怖くて、恐ろしくて、仕方がなかったその感覚を、大切な
親友に味あわせてしまったということを。
﹁ごめんなさいっ⋮⋮ごめんね⋮⋮クロエ⋮⋮﹂
途中から声が詰まり、ラティナもまた大粒の涙をこぼした。
後は二人で抱き合って、声を上げてわんわんと泣くだけだった。
−−階段の下で、少女二人が泣く声を聞いたデイルは、そのまま
踵を返して階下に降りて行った。
ラティナに、こんな﹃親友﹄が居てくれて本当に良かったと思う。
今の所ラティナの﹃いちばん﹄は自分だが、頑張らなければその
かのじょ
座を守ることも難しいだろう。
学舎でクロエが率先してラティナを守ってくれたことも聞いてい
る。﹃男前﹄な少女だとつくづく思う。
この後、﹃保護者﹄と﹃親友﹄という大切な存在二人の前で、感
情を出し尽くしたラティナは、憑き物が落ちたかのように、すっき
りとした顔になった。
﹃事実﹄は覆ることはない。そのことは賢い彼女は充分理解してい
るのだ。だが﹃受け入れたくない﹄と思う﹃感情﹄に振り回された
結果だった。
186
それもラティナは飲み込むことができた。
﹃受け入れたくない﹄と願う彼女の感情ごと、受け入れてくれる存
在を実感したから。
﹁ラティナは、しあわせなんだよ﹂
リボン
ぽつりと呟いたラティナは髪を下ろしている。
飾り布が無い状態だが、その頭にはもう﹃角﹄は無い。
よくよく見れば、髪に隠れた角の付け根が確認できはするが、一
・
・
目では、もう彼女が﹃魔人族﹄だと見分けるのは難しい。
﹁ラグがしんだとき、もうラティナもしぬんだとおもった。デイル
が見つけてくれて、いっしょに来てもいいって言ってくれて、すご
くうれしくて、リタやケニスもやさしくて、クロエたちにあえて、
まいにちすごくたのしくて⋮⋮ラティナ忘れかけてたの﹂
ぽすん、とデイルの胸に抱かれたラティナには、先日のような感
情の高ぶりは無い。
本当に賢い少女だと思う。
・
・
・
・
デイルに髪を撫でられると、静かに嬉しそうな顔をした。
・
﹁しぬのは、お別れは、かならずなんだよって、ラグおしえてくれ
・
・
・
たこと。⋮⋮ラティナずっとこのままがいいって、おもっちゃった
から、お別れがこわくなったの﹂
﹁誰だって怖いさ。俺だって、ラティナが大怪我したって聞いて、
心臓が止まるかと思った﹂
・
・
・
﹁クロエもね、ないてた。⋮⋮だからね、ラティナしあわせだなっ
ておもったの。クロエもね、ラティナとお別れしたくないっておも
ってくれてて、すごくうれしかったの﹂
ラティナはそう言うと、歳に似合わぬ大人びた微笑を浮かべた。
幼さが目立つが、それでも美しい顔に、幸せと感謝を込めて、デ
187
イルに向けられる。
クロイツ
﹁ラティナ、この街にこれてよかった。みんなにあえてよかった。
⋮⋮ラティナが今しあわせなのは、ぜんぶ、デイルがラティナを見
つけてくれたからだよ。ありがとう、デイル﹂
﹁ラティナにそんな事言われて、俺、泣くかと思った﹂
珍しく薄められていないワインをあおりながら言う、デイルのそ
の言葉は、半ば自慢のようでもあった。
ドンとつまみの皿を置きながらケニスは呆れた顔をしてみせるが、
ラティナが怪我をした後無事に落ち着いた姿を見せるまで、ケニス
もまた、充分すぎる程に混乱した様子を見せていた。
まあ、今回は、あのリタでさえ、仕事が手に付かなくなったり、
普段やらないミスを起こしたりしていたのだ。ケニスをどうこう言
えはしない。
俺が全員に一杯奢ってや
この﹃踊る虎猫亭﹄で、もうラティナは、﹃いるのが当然な大切
な存在﹄なのだから。
﹂
﹁今日はラティナの快気祝いだからーっ
るーっ!
﹂
﹂
デイルがそう店内に声を張ると、一斉にブーイングが返ってきた。
﹁ケチくせぇなっ!
﹁そういう時は、全額持つっちゅう所だろう?
お前等に、んな事言ったら、俺が破産するまで呑む
﹂
﹁うっせぇ!
だろが!!
﹂
ブーイングに負けじとデイルが叫ぶと、店内が爆笑の渦に巻き込
まれた。
﹁ちげぇねぇっ!
188
﹂
﹂
﹁リタ、この店で一番良い酒、全員に回せっ!﹂
﹁とっておきがあるわよ?
と、凄く良い笑顔のリタ。
﹁なんで、普段売らない酒出そうとすんだよ?
﹁普段は高くて出しても売れないからに決まってるじゃない﹂
こういう酒、普通、ジョッキで出さねぇよなっ!
﹁せっかくだから、ウチで一番デカイジョッキに注いでやれ﹂
﹂
﹁ケニスっ!?
?
﹂
﹁何を言う。店主がありと言えば、ありなのだ﹂
﹁そうよ﹂
﹁この、夫婦はぁっ!
彼等のやりとりに、更に大きな笑い声が起こる。
こんなどんちゃん騒ぎに、普段はこの店ではご法度の、吟遊詩人
のリサイタルが始まる。無論、おひねり無しの儲け無しだが、代わ
りに飛び込みの喉自慢が始まった。
陽気な気配は、更に陽気さを呼び、いつもはどちらかと言えば、
なんかにぎやか﹂
静かな﹃踊る虎猫亭﹄が、例の無い賑やかさに包まれる。
﹁どうしたの?
そんな騒ぎに、部屋で眠っていたはずのラティナが、目をこすり
ながら姿を見せた。
一斉に巻き起こった、厳つい野郎どもによるラティナコールに、
さすがの彼女もビクッとする。
﹂
だが、無法者と化した酔っぱらいどもに、そんなことを斟酌する
余地は無い。
﹁主役の登場だーっ!
の叫び声と共に、店の中心に担ぎ込まれる。
189
﹁なに?
なに?
﹂
キョロキョロするラティナに答える者はなく。一斉の拍手に目を
白黒させる。
普段は止める側のリタですら、笑顔で大量の酒杯を運んでいる。
デイルやケニスも笑顔であることに、ラティナは驚きながらも、大
人しくされるがままだった。
陽気なメロディーが奏でられる。
周囲の人々が皆、笑顔であることに、ラティナも嬉しそうな顔に
なった。
臨時のステージと化した店の中央で、誘われるままに、音楽に身
体を任せる。
そして、この日新たな事実が発覚する。
なんでも器用にこなしていたラティナであったが、彼女に音感と
リズム感はなかったのだった。
190
ちいさな娘、その﹃事件﹄の後日談。︵後書き︶
やっと終わりました⋮⋮
痛い話は、難産でした。想定以上に文も増えてしまいました。
とはいえ、当方、ハッピーエンドと救いのある話が信条であります
ので、そのあたりはご安心の上、お付き合い下さい。
いつもお読み頂き、誠にありがとうございます。
191
幼き少女、そんな雇用関係の話。
リタの妊娠が発覚したのは、ラティナが学舎に通いはじめて一年
と半年が過ぎた頃の話だった。
祝いの言葉と共に、デイルが切り出したのは、
﹂
﹁子どもが増えるなら⋮⋮俺とラティナ、そろそろ此所から出た方
が良いか?
という、家主の家族が増えることに対する気遣い故の言葉であっ
たのだが、それに対する家主夫婦の回答は。
おまえ
あんた
﹁あ。デイルが出てくのは構わんが、ラティナは置いてけ﹂
﹁そうね。ラティナは残って欲しいわね。デイルは別に良いけど﹂
﹂
﹂
という異口同音の返答であった。
﹁はぁ?
﹁だって、ねぇ?
﹂
﹁ああ。リタが今後、妊娠や子育てで店に居る時間が限られたら、
ラティナがいないと店が回らん。先代にも助けて貰うがな﹂
デイルに対して何を当たり前の事をと、ケニスは言う。
﹂
﹁⋮⋮お前等、そんなにラティナの事、こき使ってるのか?
﹂
﹁何を人聞きの悪い。ちゃんと給金も支払ってるぞ?
﹁は?
ケニスの発言は初耳だった。呆気に取られたデイルに、﹁そうい
えば、言ってなかったか﹂と呟いて、ケニスは
192
ウ
チ
﹁ラティナは正式に雇われている、﹃踊る虎猫亭﹄の従業員だぞ。
まだ子どもだから、深夜の仕事は免除してるから、その分給金は低
いが。ちゃんと適切な金額設定だ﹂
でも、俺、ラティナがそんな、余計な金持ってるの見たこ
と胸を張る。
﹁え?
とねぇぞ﹂
﹂
かすかに動揺しつつ、デイルが言えば、ケニスは
﹁貯金してるからだろ?
そう、事も無げに言った。
−−その、事のはじまりは、半年以上前に遡る。
﹂
ケニスの元に、何時ものように、とことことやって来たラティナ
何かあったか?
は、少し困った顔をしていた。
﹁どうした?
なんでデイルに言わないんだ?
﹂
そんなケニスに、言い難いように、戸惑う顔をしながらラティナ
はこう切り出した。
﹁あのね、あのね⋮⋮ラティナ。お願いがあるの。ダメかなぁ?
﹁⋮⋮駄目かどうかは、聞いてみないとわからんな﹂
ケニスも困惑したように話を促す。
何か欲しいのあるのか?
﹁あのね⋮⋮ラティナ、お金、ほしいの﹂
﹁金?
﹂
そのケニスの問いに、ラティナは困った顔をした。
﹁デイルね、ラティナにいっぱい色んなのくれるよ。頼むと、買い
ものもいっぱいしてくれる。⋮⋮お金、ほしいって頼むと、たぶん
193
ど
いっぱいくれると思うな。⋮⋮でも、何につかうか、聞いてくると
思う﹂
﹂
﹁まあ。そうだろうな。⋮⋮欲しいものは足りてるんだろう?
うしたんだ?
﹁ラティナ、自分のお金がほしいの﹂
少し困ったように繰り返したラティナは、﹃頼み事をする﹄とい
うことにあまり慣れていない。この子は我が儘も、駄々をこねる事
も今までしたことの無い子だ。
ケニスも、そんなラティナの頼みなら、よっぽどでなければ聞い
てやりたい。だが、金銭に関わる事を﹃保護者﹄抜きで決めて良い
かと、躊躇する気持ちもある。だから、即座に是とは言わなかった
のだが
﹁いつも、デイル、ラティナにいっぱい贈りものしてくれるけど。
⋮⋮ラティナ、お返しできないんだもん⋮⋮﹂
彼女は、そう、理由を告げた。
﹁ん⋮⋮ああ。そういえば⋮⋮デイルの奴の誕生月が近かったか?
﹂
﹁うん。ラティナ、贈りもの用意したいの﹂
照れくさそうに、小さな笑みを浮かべて、ラティナはケニスを見
上げた。
これはいけない。
当の本人
こんな良い子な事を言い、なおかつこんな顔は反則だ。
そして、こんな理由では、﹃デイル﹄に問うなど、無粋な真似は
出来はしない。
﹁デイルには、内緒で⋮⋮か﹂
﹂
﹁ないしょにできたら、デイルびっくりして、喜んでくれるかな?
そうできたら、うれしいの。ダメ?
194
こてん。と首を傾げる仕草は、彼女の癖だが、とにかく愛らしい。
﹂
﹁⋮⋮⋮⋮今、ラティナ。俺から料理習いながら、手伝いしてくれ
てるだろう?
﹁うん﹂
﹂
﹁それを﹃手伝い﹄じゃなく、﹃仕事﹄として頑張ってくれたら、
﹂
良いの?
給金を出しても良い。それでどうだ?
﹁⋮⋮ラティナ、まだ子どもだよ?
ケニスの提案に、ラティナはもう一度首を傾げた。すぐにそうい
う疑問を抱けるということ自体が、彼女が賢いと称されるところだ。
﹁まだ確かにちょっと早いがな。学舎で基礎学習を終えた後は、見
習いとして、下働きを始めるのが慣例だ。優秀な奴とかは、高等学
術の学舎に進んだりもするがな﹂
﹁見習いでなら、おしごとできるの﹂
﹂
なるほどと、ラティナはうんうんと頷いている。
うちのこ
﹁それともラティナは、高等学舎に進みたいか?
ケニスは、デイルからも﹃ラティナ自慢﹄として、彼女が優秀で
あることを聞いている。ラティナ本人を見ていてもわかることでは
あった。彼女の学業は非常に優秀だ。
﹁あのね⋮⋮ラティナ、﹃まじんぞく﹄なんだよ﹂
﹁そうだな﹂
﹁べんきょうも楽しいから、おとなになって、やりたいと思ったら、
いっぱいしたいなぁって思うの﹂
その言葉で、彼女は﹃自分の長い寿命﹄を、自分なりに折り合い
を付けた事が伺われた。
﹁ラティナ、今は、ケニスから、いっぱい教わりたいの。ケニスの
ごはんみたいに、おいしいの作れるようになるの、目標なの﹂
﹁それは⋮⋮俺も頑張らないとな﹂
195
﹁ん?
ケニスも?
﹂
﹁ああ。ラティナの目標のままでいる為には、俺も頑張る必要があ
る﹂
しばらくケニスの言葉を考えて、ラティナは小さくぷう。と膨れ
た。
﹁ケニスがんばったら、ラティナ追いつくの、すごくたいへんだよ﹂
それでも、諦める。無理だ。とは言わない小さな﹃弟子﹄に、ケ
ニスは、にかりと明るく笑った。
−−その時を思い出しながらケニスは言う。
﹁その後ラティナ、お前に、誕生月の贈り物してたじゃねえか。て
っきりそれで、察したもんだと思っていたんだが﹂
﹁⋮⋮ラティナ、手作りのポーチ縫ってくれたんだ。言われてみれ
ば、材料も刺繍の糸も、安くはねぇ良いものだったけど﹂
少しばかり拙いが、ひと針ひと針、大切に縫い上げられた小さな
プレゼント
袋。飾りに入れられた鮮やかな刺繍は、強度を増すのと同時に、護
りの願いを込めた意匠だった。
﹁感動してそれどころじゃなかった﹂
﹁そうか。﹃お前﹄だものな﹂
﹁どういう意味だよ﹂
﹁因みに、今、俺が使っている前掛けも、ラティナの作品だ﹂
﹁何か、妙に可愛いもん使っているなとは思っていたが⋮⋮﹂
前掛け本体は黒地だが、隅に虎猫の刺繍が入っているのは、店名
に因んでのものだろう。だが、これだけの物を縫い上げたとするな
ら、やはり彼女は器用な質であるらしい。
196
ケニスは一息入れて、続ける。
﹁んで、それからラティナには給金を払ってる。どうするかって聞
アズラク
いたら、﹃必要なものはみんなあるから、お金は貯める﹄って答え
たから、﹃青の神﹄の神殿に連れてった﹂
﹁じゃあラティナ、もう﹃金庫﹄持ってんのか﹂
﹁ああ﹂
アズラク
﹃青の神﹄は商業と貨幣を守護する神。
その神殿では、各国の通貨の両替と、預金や貸付−−すなわち銀
アズラク
行業務を請け負っている。
﹃青の神﹄の加護持ちは、﹃当人を見分ける﹄能力を持つ者が多い。
第三者が成り済まして他人の預金を騙しとることは難しいのだ。
アズラク
﹃青の神﹄の神殿には、﹃金庫﹄と呼ばれる個人資産を管理する仕
組みがある。その仕組み内に、金銭を数字上の管理で預けたり、高
アズラク
ア
額な貴金属を預けたりをしている−−つまりは、口座と貸金庫を兼
ねたようなものだ。
フマル
そして、この業務内容上、﹃青の神﹄の神殿では、武闘派の﹃赤
の神﹄の神殿と並ぶ程、強力な私兵を抱えている。
﹁やっぱりラティナは賢いな。俺に﹃なんで神殿にお金を預けても
大丈夫なのか﹄を聞いてきた﹂
﹁そういえば、ラティナに、﹃神殿﹄の話はまともにしてなかった
な﹂
デイルが得心したように頷くのに、ケニスも同意する。
﹁そうみたいだったから、説明しといたぞ。﹃加護﹄持ちは、﹃自
分の職務に関しては、不正を行う事が出来ない﹄ってな﹂
﹁不正をしても良いんだぞ。発覚して、告発されたら、﹃裁定﹄を
受けなきゃなんねぇ。そしたら一発で﹃加護﹄が消えて、追放され
197
るだけだがな﹂
﹃神殿﹄が公共性の高い事業を請け負っている最大の理由は、﹃神
は自らの領域を強く守護する﹄からである。
市井の人々も、﹃神殿に仕える者﹄が全て善良だなど、全く思っ
てはいない。
だが、﹃神﹄の権能は信じている。
﹃神﹄は自らの﹃領域内﹄の者に対しては、守護する反面、犯す者
アズラク
・
・
を赦さない。つまり、﹃加護﹄を与え守護をしているが、﹃職務を
アズラク
犯せば﹄その﹃加護﹄は失われるのだ。
・
・
﹃青の神﹄の場合を例にすれば、﹃青の神﹄は自らの使徒が、殺人
・
・
・
・
や強姦などの﹃罪にあたる﹄行為をしても何も判定を下さない。だ
が、横領や窃盗などの﹃他人の財を汚す﹄行為は赦さないのだ。
それを﹃神﹄に問う−−﹃裁定﹄を行えば、結果、﹃加護﹄は消
滅する。
そこに慈悲はない。
﹃神官﹄は﹃加護﹄を持つ者のみが就くことの出来る職である。す
なわち、﹃加護﹄を失うとは、﹃神殿﹄からの追放も意味している
のだ。
逆に言えば、﹃その職務に関する事に限り﹄、﹃加護を有する神
官﹄は、他の者たちより信頼に足る存在であるとも言える。
以前デイルが行った﹃裁定﹄とは、高位の神官だけに請求するこ
とが許されている、﹃神にその信を問う﹄行為のことであった。
198
アスファル
﹃黄の神﹄が自らの使徒に求めるのは、﹃知識を求める者を導くこ
と﹄、また、﹃生きる道に迷う者を導くこと﹄だ。
アスファル
真面目に学ぶ事に取り組む幼い少女を、罵倒し、否定するような
輩を﹃黄の神﹄は赦さない。
それを他神の使徒とはいえ、高位神官位を持つデイルは、重々承
知していたのだった。
﹁⋮⋮で、ケニス。ラティナ⋮⋮今、どれくらい貯金してるんだ?
﹂
﹁まだ半年だからな。でもあの子のことだから、このままいけば、
﹂
ラティナを嫁になどやらないか
うちのこ
自分で自分の持参金位、準備するんじゃねえか?
﹂
﹁喩えでも、そんな話するなっ!
らなぁっ!
そう、叫んだデイルは、本気だった。
ちょっと涙目だった。
199
幼き少女、そんな雇用関係の話。︵後書き︶
前々話の補足説明を入れられました⋮⋮
少しラティナは大きくなっています。早く大きくして本筋を進めた
いような⋮⋮まだまだちっさい感を愛でたいような、書き手として
も悩みどころです。
200
幼き少女、旅の準備をする。︵前書き︶
昨日のシステム障害で作業と予約投稿する時間がありませんでした
⋮⋮
201
幼き少女、旅の準備をする。
ラティナが旅に出る事になったのは、彼女が十歳になる年の春の
初めの事だった。
﹁本当は、ラティナが、学舎を出るのを待とうかと思っていたんだ
それとも
が⋮⋮リタが、まだ動けるうちが良いだろうってことで予定を早め
たんだ﹂
﹂
﹂
少し長い旅になるけど、一緒に行くか?
デイルはそう言って、彼女に選択肢を与えた。
﹁どうする?
留守番してるか?
﹁ラティナ、いっしょに行ってもいいの?
驚いた顔のラティナに、デイルはにやりと、悪戯を仕掛けた子ど
ものように笑う。
﹁今回のは、仕事じゃねぇからな。危ないって言えば、危ないし⋮
⋮ラティナが嫌なら、留守番しててくれ﹂
﹁ラティナ行きたい。デイルといっしょがいい﹂
満面の笑顔で彼女は即答した。ぴょんとデイルに抱きついてくる。
﹁ちゃんとデイルの言うこと聞いて、危なくないようにするっ﹂
きりっとして、ラティナはそんなことを言った。
注意するべき点を先に言われて、デイルは苦笑するしかなかった。
デイルは一度王都に行かなければならないということで、その間
202
にラティナは自分の荷物を作った。
普段は一人で徒歩の移動をするデイルだが、今回は、小型種の馬
を調達してきた。荷物の運搬と、ラティナが疲れた際に乗せること
ができるようにだという。
だからといって、たくさんの荷物を持って行って良いという訳で
はない。
毎日、詰めた筈の荷物を再び広げてみては、うんうんと、唸って
みている。
﹂
﹂
はっと気付いたように、階段を駆け下りて行った。
料理用のナイフか?
﹁ケニス。ラティナ、ナイフ持って行ってもいい?
﹁ん?
﹁うん﹂
顔を見るやいなや早々に切り出す。
いつも、ラティナが相談を持ちかけるのは、ケニスだった。
デイルのことは大好きであるが故に、彼女なりに遠慮もあるらし
い。その点ケニスは、頼りになる年長者で、師匠であるため、ラテ
ィナも相談しやすいという感覚があるようだった。
﹁旅装の準備は、デイルの奴、今回の王都行きで何か買って来ると
思うんだがな⋮⋮﹂
職人に頼めば、持ち手の調
﹁ラティナ、ナイフは自分の使いやすいのがいいの﹂
﹁そうだな⋮⋮買って来たらどうだ?
﹂
節位はしてくれるだろう。今から使って出発までに慣れれば良い﹂
かね
﹁お金、使っていいの?
﹁ラティナの給金なんだ。自分の買い物して良いんだぞ﹂
ケニスはそう答えてから、仕事場を見渡した。夜までの作業は目
処が付いている。少し留守にしても構わないだろう。
203
行ってらっしゃい﹂
﹁リタ、少しラティナと、東に行って来る﹂
﹁あら、そう?
﹁リタも、気をつけてな﹂
﹁病気じゃないんだから、心配しすぎよ﹂
そんな会話を夫婦で交わしてから、ケニスはラティナを連れて﹃
踊る虎猫亭﹄を出た。
東区の職人街を歩きながら、ラティナはそうだ。と、ケニスを見
上げた。
そういえばシュミットの所の三番目だったっ
﹁ケニス、あのね。ルディのおとうさん、かじやさんなんだって﹂
﹁あの赤毛の子か?
﹂
けか。⋮⋮まぁ、そんなに腕は悪くなかったかな。見に行ってみる
か?
﹁ラティナかじやさんは、行ったことないの。ナイフ売ってるかな﹂
﹁工房によって造ってるもんは違うがな⋮⋮﹂
ケニスの後をとことこ追いかけるラティナは、時折すれ違う子ど
もたちと、手を振りあったりしている。
南区よりも、ラティナの友人は東区に多いのだ。
﹁ここだ﹂
そう言ってケニスが入り口をくぐったのは、良く言えば、老舗の
趣。悪く言えば、古めかしい。そんな一軒の鍛冶屋だった。
入り口を入ってすぐのスペースには、展示してあるというには雑
然と、各種の剣が並んでいる。
一番目に付く場所にある、明らかに他の物と格の違う展示品もま
た、剣だ。
この店が主に取り扱う物をありありと物語っている。
204
﹁ふぁぁあ⋮⋮剣、いっぱい﹂
﹁シュミットの所は、剣を打つ工房だからな﹂
物珍し気にキョロキョロとするラティナと、長年の習慣で、武器
の吟味をはじめるケニス。彼が愛用していたのは戦斧だったが、剣
が使えないというわけではない。
やはり記憶の通り、名だたる名工というほどではないが、それほ
ど悪くもないだろう。
﹁⋮⋮ここは、子ども連れが来るような場所じゃねえぞ﹂
奥からのそりと姿を見せた壮年の男は、見事な赤毛だった。
ラティナが、目を丸くして男を見ている。
あまり客商売に向いていなさそうな店主は、一言、二人に言葉を
かけただけで再び奥の工房へ戻ろうとした。
ラティナが、はっと何かに気付いて、男の方に近付いて行く。
﹁こんにちは。あのね、ラティナ、ルディの友だちなの﹂
﹂
その声に足を止めた店主はラティナを見て、驚いたような素振り
をする。
﹁ルドルフの?
﹁そうなの。はじめまして﹂
ラティナはにこりと笑顔を向けてから、丁寧な礼をした。
﹂
まるで値踏みをするような、不躾な視線には動ずることはない。
﹁ルドルフと遊びに来たのか?
﹂
﹁ううん。ラティナ、ナイフ欲しいの。ラティナに使える大きさの
ナイフ、ありますか?
﹁子どもが使うおもちゃみてえな刃物は、ウチにはないな﹂
少し渋い顔をした店主に、ラティナは困った顔でケニスを振り返
205
った。
ケニスはポンポンと軽く彼女の頭を撫でる。
﹁この子は、少し旅に出るんだが。その際に雑事がこなせるナイフ
﹂
が欲しい。主には料理に使いたいようだがな﹂
﹁あんたの娘か?
﹁いや。俺は代理だ﹂
店主は暫し考えて、工房を指し示した。
﹁表には出していないが、奥には幾つか置いてある。見て行けば良
い﹂
店主の後に付いて入った工房もまた、重ねた時間を感じさせる場
所であった。
好奇心旺盛なラティナにとって、工房は隅から隅まで気になる空
間だ。今まで以上にキョロキョロと忙しない。
﹁ほら、ラティナ。危ないからちゃんと前見ろ﹂
ケニスに言われて慌てて側に寄る。
﹂
工房の一角には、店先以上に乱雑に置かれた剣や短刀が積んであ
った。
﹁⋮⋮ケニス、どれ、えらべばいいかな?
﹁そうだな⋮⋮﹂
指先でつんつんと柄をつついて首を傾げたラティナは、隣のケニ
スに助けを求めた。
ケニスは山の中から手頃なサイズの数本を選び取ると、じっくり
と刃の検分をはじめる。ほどなくして、ラティナの前に二本のナイ
フを置いた。
﹁後は、ラティナが握ってみて決めれば良い﹂
﹁うん﹂
206
ケニスの言葉に、ラティナが真剣な顔で握ったり、離したりを繰
り返していると、工房の裏から賑やかな声がした。
そちらに視線を向けると、少年二人に少女が一人という三人が、
﹂
ケンカのような掛け合いをしながら、やって来る所だった。
﹁ルディ、ごちゃごちゃ言わないで、手伝いしなさいっ!
﹂
﹁何でだよ、今日の当番は兄貴だろっ﹂
﹁兄さんは別の仕事があるのよ!
﹁俺はお前みたいに、暇じゃないからな﹂
﹁まだ、親父の相槌も打てねぇくせにっ﹂
とりあえず、ぎゃんぎゃんと喧しい。
全員、見事なまでに似た赤毛で、血縁が一目で察せられる。
﹁ルドルフ、友だち来てるぞ﹂
﹁ルディ﹂
店主の後に続いた、高いラティナの声が、意外にも工房の中で響
いた。
三人組は、ぴたりと話を止め、そっくりな動作で一斉にこちらを
見た。
ラティナはぶんぶんと手を振っている。そんなラティナの姿に、
ルディははっきりと狼狽した顔をして、兄と姉の二人は、驚いた顔
でラティナを見ている。
︵⋮⋮まあ、ラティナみたいな美少女は、下町には居ないな⋮⋮︶
その様子を見て、そう思う。
日頃、見慣れたケニスでも、この少女の可愛いらしさには、時折
どきりとさせられるのだ。
同い年の子どもと並ぶと小柄ではあるが、彼女はこの二年でだい
ぶ大きくなった。
白金の髪は良く手入れが行き届いており、きらきらと輝いている。
207
今日は一部を編み込んで、残りを肩に流していた。
ふっくらとした柔らかそうな頬も、長い睫毛に飾られた灰色の眸
も、ピンク色の唇も、どれも彼女の愛らしい印象を強めている。
クロイツに来た頃の、ガリガリな小さな幼子はもう何処にも居な
い。
﹁なっ⋮⋮なんで、ラティナがいんだよっ﹂
慌てた様子で駆け寄って来たルディに、ラティナはこてん。と首
﹁お買いものしに来たんだよ。ラティナ、ナイフほしいから﹂
を傾げる。
﹁ウチのみたいな、ごついの、ラティナに使える訳ないだろっ﹂
ルディのその言葉に、ラティナは不本意であると、ぷう。と膨れ
てみせた。
﹁ラティナだいじょーぶだもん。いつもお料理しているのより大き
いけど、必要だから、使えるようになるもん﹂
﹁必要って何でだよ﹂
﹁ラティナ、旅に出るの﹂
その言葉に、ルディははっきりと驚愕の顔をした。
208
幼き少女、旅の準備をする。︵後書き︶
凄く中途半端なところで切ってしまいました⋮⋮
字数の関係です。
209
幼き少女、旅立つ前の前日譚。
﹂
﹁旅って⋮⋮ラティナ、どっか行っちゃうのか?
何でこんな急にっ!?
ルディ﹂
何でだよ!?
いきなり肩を掴んで大きな声を出したルディに、ラティナは驚い
た様子だった。
﹁どうしたの?
﹂
不思議そうに、ぱちぱちとまばたきしているラティナより先に、
隣にいたケニスが二人の食い違いに気付く。
﹁ラティナ、お前、友だちに旅に出ること、話したか?
﹁⋮⋮ううん。してない﹂
﹁ラティナだって、急に友だちが居なくなったら、心配するだろう。
ちゃんと言っておくべきだぞ﹂
はっと、気付いた顔になると、ラティナは目の前のルディとしっ
かり目を合わせた。
﹁あのね、ルディ。ラティナ、デイルといっしょに、デイルのふる
さと行ってくるの。ちょっと遠いけど、夏が終わる前には帰ってく
るんだよ﹂
その一言に、ルディが多少落ち着きを取り戻す。
ラティナの大きな眸が自分をじっと見ていることに気付いて、慌
てて距離をあけた。
﹁な、なんだ⋮⋮帰って来るのか﹂
﹁うん。ラティナ、クロイツに帰って来るよ﹂
視線を気まずそうに反らしたルディに、ラティナはニコッと笑い
210
かけた。
﹂
﹁ラティナ、旅に出るの楽しみで、色々忘れちゃってたみたい﹂
反省したように呟きながら、ケニスを見上げる。
﹁買いものの後、クロエのおうちも寄っていいかな?
彼女はそうしてから、一連の騒ぎをニヤニヤと見ていた店主の
﹁構わないぞ。暗くなる前に戻って来いな﹂
﹂
元に、選んだナイフを持って行く。大切そうに両手で持っていたそ
れを差し出した。
﹁このナイフにします。いくらになりますか?
﹁⋮⋮一本位なら、やっても良いが﹂
店主の言葉には、ちょっと困った顔でラティナは考えこむ。
﹁あのね⋮⋮ラティナ今日は、自分のお金で、お買いものしたいの。
いつももらってばっかりだから、自分の、がほしいの﹂
相変わらず少したどたどしいラティナの口調だが、店主は﹁そう
か﹂と頷き、料金を告げた。
ケニスには、それがだいぶ値引きされた額であることがわかった
が、かすかに表情を緩めただけだった。
ラティナは赤いポシェットの中から、花の刺繍が目を惹く凝った
﹂
作りの財布を取り出して、真面目な慎重な様子で銀貨の数を数えて
いる。
小さな手のひらに並べて、店主に差し出した。
﹁⋮⋮小さな手だな。こいつじゃでかくないか?
﹁ラティナちっさいもんな﹂
﹁ラティナ、すぐ大きくなるもん﹂
心配そうな店主に、ルディがからかいの言葉を被せると、ラティ
ナが不本意そうに膨れる。
店主は末息子の頭に問答無用で拳を落とすと、代金を受け取りな
がら、ラティナの小さな手を取った。
211
しばらく観察する。
﹁出発までに時間はあるか?
てやれるぞ﹂
﹂
二、三日あれば、握りを少し細くし
﹁ああ。その位なら大丈夫だ。ラティナもそれで良いか?
よろしく、おねがいします﹂
彼女は大人二人の言葉をしばらく考えて、ぺこりと頭を下げる。
﹁おねがいできますか?
﹁礼儀正しいな⋮⋮﹂
﹁ルディのバカの友達とは思えないね﹂
﹁それにしても、あいつってば⋮⋮﹂
﹁うくく⋮⋮それは、言わないであげようよ。とりあえず今はさ﹂
少し離れた場所で含み笑いを交わすルディの兄と姉だったが、ラ
ティナが、この直後とことこ近づき、初対面の挨拶をはじめると、
弟を笑えないほどに挙動不審化した為、父親を嘆かせた。
﹁他のみんなには、学舎で言うけどね。デイルが帰って来て、﹃神
殿﹄に事情を説明してからだって。デイルたち、ラティナの勉強の
ことは心配してないって言ってた﹂
﹂
﹁ふぅん。旅かあ。街の外は盗賊や魔獣とかいるから、危ないって
いうけど、大丈夫?
ケニスと別れてクロエの家に向かったラティナは、親友に事の次
第を説明した。
急に訪ねて来たラティナにクロエは驚いた様子だったが、一通り
話を聞くと、クロエはまずラティナの身を心配した。
﹁デイルといっしょだから、だいじょうぶ﹂
ラティナはにこやかに即答する。
﹁お店に来るお客さんたちも、デイルはすごいつよいって言ってる
212
の。でもね、デイルには、言ってあげないんだって﹂
うふふと、楽しそうに話すラティナの姿に、クロエも余計な心配
をするのはやめた。心配は心配だが、それ以上に彼女には、楽しん
おいていかれる
で来てもらいたい。
留守番の度に、どれだけラティナが、寂しい思いをしているのか
も、クロエはよく知っている。
ラティナは移動してるから、お返事もらえない
﹁気をつけてね。ラティナ。たくさんお土産話、持って帰って来て
よ﹂
﹁お手紙書くね!
と思うけど。クロエにたくさん送るからね﹂
良い事を思い付いたと、笑顔になったラティナに、クロエもつら
れたように微笑んだ。
デイルは王都で、ラティナの為に旅装を買い求めて来た。
子ども用のフード付きのケープは、守護の魔力が掛けられている
高級品だ。それをちらりと見たケニスが、ため息混じりに、駆け出
ロッド
しの冒険者が見たなら、血の涙を流すだろうと感想を言う程の。
丁度良いサイズのものがなかったとデイルが不満そうにした杖は、
子どもの魔法練習用のもので、制御補正は緩いものだ。だが、試し
にラティナに持たせてみれば、彼女には、それで充分であったらし
い。
弘法筆を選ばずと言ったように、もとより卓越した魔力制御を持
つラティナには、本格的な戦闘をさせるつもりでも無ければ、充分
に機能をこなしていた。むしろ小型のもので、良かったようだった。
足元を固める皮のブーツは、旅に出る事が決まってすぐに誂え、
ずっと履いていたもので、もうすっかり慣れている。
213
腰の後ろに赤い皮の鞘に入れたナイフを付けて、背中には、最低
限の必需品を入れたリュックを背負い、小さな石が輝く魔法の杖を
持った彼女は、すっかり準備を整えていた。
﹃踊る虎猫亭﹄の中でくるくる回り、楽しそうにその衣装を御披露
目する。
﹁荷物にはね。デイル、﹃魔道具﹄も入れてくれたの。水筒にね、
付いてるんだよ。﹃発火﹄の﹃魔道具﹄もあるの﹂
﹃水﹄と﹃火﹄の﹃魔道具﹄は、必需品と
﹁お前⋮⋮幾ら使った﹂
﹁別に良いだろうっ!
言って過言じゃねぇんだし﹂
少し気まずそうに言い返すデイルも、自分が彼女に甘い事は自覚
している。
﹁ラティナ、﹃魔道具﹄は高価なものだ。あまり他人に見せびらか
さないようにしろよ。危ないからな﹂
﹁わかった。ちゃんとしまっておく﹂
ケニスの忠告に、彼女はすぐに、こくりと頷いた。
﹁後は、最低限の食料と、薬を入れてあるからな。他の荷物は馬に
﹂
背負わせるけど、万が一の時の為に、それだけは自分で持っていな
いといけない﹂
﹁うん。わかってるよ﹂
﹁そういえば、ラティナ金は持ってるのか?
﹁カバンの奥に入ってるよ。少しだけは、ここに入れてる﹂
そう言って、ベルトに付いた小さなポーチを示す。
﹁リタに言われたから、後は服の中にも、ぬって入れたよ﹂
もちろんカバンも、ケープの下に背負っている。
やはりこの子はしっかりしていると、男二人は視線を交わし合っ
た。
ラティナが自分で買ったナイフには、赤い革の鞘が付いていた。
214
縫い糸も白を使い、どこか可愛らしい見た目となっている。
店で見た時はそうではなかったから、彼女へのサービスだろう。
女の子が使うからと、気を使ってくれたらしい。
腰に付けた小さなポーチも、この日の為にラティナが自分で縫い
上げたものだ。
最低限のお金の他に、飴玉などを入れている。
外見も、丈夫な厚手の布に、色糸で仕上げた女の子らしいつくり
になっている。器用な質のラティナは、よく刺繍も入れているが、
このポーチにもワンポイントで虎猫の模様を入れていた。
その服装も容姿も、女の子らしく、とても愛らしい。
﹁⋮⋮気を付けろよ、デイル。この子は、色々危ないぞ﹂
改めて言うまでの事ではないが、老婆心ながら口にせざるはいら
れない。
﹁ラティナは本当に可愛いからな﹂
そんなケニスへの返答は、どこか自慢気だった。
﹁ラティナ、気をつけてね。デイル、あんたも無事で行ってきなさ
いよ。ラティナが泣くから﹂
リタがラティナの頭を撫でながらそう言うと、デイルも当たり前
だと首肯する。
行ってきますっ!
﹂
﹁俺に何かあったら、ラティナを守れねぇからな﹂
﹁じゃあね!
﹁気をつけてね﹂
大きく手を振りながら歩くラティナを、穏やかな顔のケニスとリ
タが見送る。
二人の見送りを受けて、デイルとラティナが旅立ったのは、よく
晴れた穏やかな春の日の事だった。
215
216
幼き少女、旅立つ前の前日譚。︵後書き︶
次回前日譚デイル編の後、旅編始まります。
旅って良いですよね。それにしても、デイルさん⋮⋮あんた準備に
幾ら使ったんだか。
ラティナ自身も、デイルが自分に甘過ぎるのを自覚しているので、
ケニスに頼りがちなのですが⋮⋮
217
青年、旅立つ前の前日譚。
デイルが仕事を離れて旅に出る事を決めたのは、必要に迫られて
の事だった。
彼の一張羅の革のコート。優秀な防具でもあるそれが、少しきつ
くなっていた。
︵うーん⋮⋮身長も、まだ少し伸びてるかな⋮⋮︶
自分ではよくわからないが、おそらくそうなのだろう。コートは
余裕を持って作られ、あちこちのベルトで調整も出来るようになっ
ていた。その為、何年も愛用していたのだが、それも限界らしい。
︵今更、普通の鎧着るのもしんどいしなぁ⋮⋮︶
﹁しばらく帰ってねぇし⋮⋮新しいの作りに帰るか⋮⋮﹂
その独白が、事の起こりであったのだった。
いつもは飛竜で往復する王都だが、今回は彼の私的な要件の為に、
移動には馬を走らせた。
騎馬で最短三日、馬車などではおよそ一週間かかるクロイツと王
都の距離であるのだが、彼は二日程で王都にたどり着いていた。
馬はもちろんへとへとである。
体力回復の回復魔術を、騎乗のまま馬へと定期的に行使し続けた
のだ。魔法使いのみが行える方法だが、かなり酷い方法ではある。
先に公爵家に連絡は入れていたが、すぐさま目通りが出来る訳で
もない。いつも王都に滞在する際は、公爵家の一室を使うデイルだ
が、今回は自分で宿を取った。
218
彼は契約があるため、私的な用事で普段拠点としているクロイツ
を離れるには、公爵の許可を必要としていた。
ほんの数日ならそんな必要も無いのだが、彼の郷里はラーバンド
国の外れの外れにある。
片道に数週間は余裕でかかるそんな土地だ。往復では、一ヶ月以
上の旅程となってしまう。
行き先も告げずに旅に出れば、要らぬ腹を探られるだろう。
権力者相手に、それはさすがに遠慮したい。
とはいえ、既に書簡で公爵相手に打診はしてある。断られる事は
まず無い。だが、それでも契約上、直接会いに来る必要があった。
内心では面倒だとも思いながらも、彼が今回王都を訪れたのは、
里帰りの為の、正式な許可を貰う為だった。
︵ラティナの旅の支度も必要だよなぁ︶
ぷらぷらと王都を歩きながら、デイルはそんな事を考える。
︵外套も、女の子らしいものが良いよな。ラティナ、ピンクとか赤
とか好きだもんな。あんまり地味なのだと可哀想だし。⋮⋮魔法の
防具にすれば、防御力だけでなく汚れにくいから、実用的でもある
︶
な。⋮⋮うん、やっぱり、ラティナの防具を奮発するのは、悪くな
いよな!
さすが、大国ラーバンドの首都。クロイツよりも様々な品物が集
約している。流し見る店の様子だけでもそれはよくわかる。
その分値の張る品も多いが、その価値は充分にあるだろう。
ロッド
﹁背負い袋と⋮⋮一応、自分の身を守れるように杖もあった方が良
いな⋮⋮後は⋮⋮﹂
無意識のうちに口に出して呟いていた時だった。
219
﹁あら、デイルじゃない。どうしたの?
仕事?
そう、声を掛けて来たのは見知った顔だった。
﹂
豊かなブロンドを編み上げ、すらりとしたうなじを見せているの
は、自分の魅力を熟知しているからだろう。
すっきりとした服装も、何処か扇情的だ。それが、自分のプロポ
ーションに自信が無ければ着る事の出来ないタイプの服であること
には、同性ならば気付けるかもしれない。
良い話で
デイルに声を掛けたのは、そんな碧の眸の美女と呼んで良い人物
だった。
﹁ヘルミネか﹂
﹂
﹁あなたが呼ばれるような仕事の噂は聞かないけれど?
もあるの?
﹁⋮⋮ちょっと買い物に来ただけだ﹂
露骨に顔をしかめはしなかったが、内心で汗をかく。
デイルは少々この相手を苦手としている。
ヘルミネは己の武器の一つとして﹃女である事﹄を、躊躇なく使
う人間だ。
彼も以前、痛い思いをしている。忘れてしまいたい過去だ。
魔法使いとしての能力は高く、度々仕事を共に行っている間柄だ
が、得手不得手は別問題だった。
﹁買い物?﹂
にこりと微笑むヘルミネを前にして、デイルは一つ腹をくくった。
可愛いラティナの為には、出来る限り最良の物を用意してやりた
い。
だが、彼は魔法は使えても、主とするのは物理攻撃である﹃戦士﹄
だ。ラティナの為に用意するべき、﹃魔法使い﹄向きの物品の目利
きに自信は無い。
220
ここで、優秀な魔法使いと会えた以上、その助言を求めるのは、
最良の行動だろう。
全てはラティナの為だ。
彼はヘルミネに微笑みを向ける。
﹂
﹁ここでヘルミネと会えたのも、幸運だな。時間があったら、付き
合ってくれないか?
﹁あら、あなたから誘ってくれるなんて珍しい﹂
﹁そんなことはないだろう﹂
﹁じゃあ、そういうことにしておきましょうか﹂
クスクスと鈴の音のような笑い声も、デイルには、大狐か何かの
ち
の
こ
唸り声にしか聞こえなかったのだが。
う
とにかく、彼は﹃可愛いラティナ﹄の笑顔を脳裏に描きながら、
頑張ることを決めたのだった。
アフマル
ラーバンド国の主神は赤の神、戦の神だ。
その為軍事国家という程ではないものの、武芸や魔術は盛んに奨
励されている。豊かな国力も相まって、王や諸侯が抱える軍備も相
当のものだ。
そんな国の王都であるからこそ、武具や防具、それに魔道具など
も一流のものが集まる。建ち並ぶ商店は、手頃な価格のものを扱う
店から、庶民には一生縁の無い、高価で特殊な物品を扱う店まで様
々だ。
デイルはヘルミネとそんな中の一件を訪れていた。
魔法使いの好むローブが、色もデザインも様々に陳列されるその
店は、ヘルミネが勧める一押しの店らしい。
確かに、あまり魔法使いの装備に詳しく無いデイルにも、この店
の商品が、なかなかに凝ったデザインのものであることはわかる。
221
重い防具で身を守る、体力や筋力の無い魔法使いたちは、その分
魔力の付加で防御力を高めた﹃魔法のローブ﹄を好んで身に纏う。
ずいぶん小さなサイズのものを見ているのね﹂
未だ幼く、女の子であるラティナにも最適の防具だろう。
﹁デイル?
﹂
・
・
・
﹁⋮⋮知り合いの子どもの物を買って来るように頼まれたからな。
言った筈だよな?
﹁ええ。聞いたわ。でも、その割にはずいぶん熱心だから﹂
グレゴール
ころころ笑うヘルミネに、デイルはひきつった笑いを浮かべる。
ケニスや友人などにも言われたが、どうやら最近の自分は、ラテ
ィナの事を考えている間は、緩みに緩みきった表情になっているら
しい。
ラティナは今の自分の最大の﹃弱点﹄だ。こんな女狐に知られな
こっちのローブも悪くねぇけど、ラテ
いで済むのならば、極力教えたくもない。
︵でも、仕方ねぇじゃん!
︶
ィナにはこういうケープの方が可愛いとかって思ったりするのはさ
っ!
ラティナの為に選んでいるのだ。脳裏の彼女に当てはめて想像す
るのは仕方のない行動だ。
と、デイルは思う。
︵実際来るまでに考えてたのより、ずっとこっちの方が良さそうだ
し⋮⋮動きやすそうだしな⋮⋮うーん⋮⋮︶
﹁それも悪くはないけど、子ども用なら、こちらの方を勧めるわ。
値段は少し高いけど、外から見ただけでは﹃魔道具﹄だと分かり
にくい造りになっているから﹂
自らの思考の内にいたデイルが、ヘルミネの声に顔を向けると、
222
彼女は、今デイルが思案しているのよりも、少々シンプルなデザイ
ンのケープを手にしていた。
渡されてよく見てみれば、守護の術式は裏地に刻まれているらし
い。
表地はシンプルだが、裏地は色合いも明るく、女の子が好みそう
だった。
それだけ裕福だって言っている
﹁﹃魔法のローブ﹄なんてものを着てる子どもなんて、誘拐して下
さいと言っているようなものよ?
ようなものだもの。だから、こうやって、一見そうは見えないよう
に造るの﹂
﹁確かに⋮⋮﹂
﹁逆に、何処から見ても﹃魔法のローブ﹄らしい品物もあるけどね。
ああいう子ども用のものは、お金持ちの貴族の子弟なんかが、周囲
に喧伝するために着させるものよ。﹃まだ子どもなのに、この子は
もう魔法の才能があるんです﹄﹃我が家はこれだけの物を、幼い子
供に着せる事が出来るのです﹄ってね﹂
﹂
上品な笑い声交じりに言っている割には、その言葉の毒は強い。
﹂
﹁あなたは、女の子の為の物を探しているのね?
﹁⋮⋮急になんだ?
脈絡の無い言葉にドキリとしたが、極力表情に出さないように聞
き返した。だが、ヘルミネは
﹂
﹁だって、今私が渡した物を、すんなり受け取ったもの。男の子用
だったら、こういう可愛い裏地のものは避けるでしょう?
さらりと鎌をかけていたことを白状する。
デイルは背中にどおっと汗をかいた。
223
ロッド
﹃魔法使い用の杖﹄を買い求めた頃には、すっかりヘルミネに、ラ
ティナという名前以外の情報の多くは流出してしまっていた。
彼女自身がそうは言っていないし、デイルも直接問い質してはい
ない。だが、そうとしか思えなかった。
ロッド
﹃杖﹄に関しては、デイルは少々不本意で、子どもが扱い易いサイ
ズのものとは、練習用の補正能力が緩いものしか無いのだという。
そうでなければ、特注する必要があるそうだが、今回はそれだけの
時間の余裕は無い。
最良のものをラティナに買い求めたかったデイルはしぶしぶ、﹃
練習用﹄の中から最も高額のものを買うというところで妥協したの
だ。
そんな買い物を終了した別れ際に、ヘルミネはこう、言ったのだ。
﹁じゃあ、デイル。今度会う時に、その女の子紹介してね。そんな
に幼いのに魔法を使いこなしているなんて、同じ魔法使いとして興
味深いわ﹂
ひらひらと手を振って﹁じゃあね﹂と笑うヘルミネの背中を見な
がら、デイルは自問した。
−−確かに、自分一人では思い至らぬ良い買い物は出来た。だが、
これが最善の行動であったと、言い切れないのは何故であろう−−
と。
そして、何とも言えぬ敗北感を、感じていたのであった。
224
青年、旅立つ前の前日譚。︵後書き︶
いつもお読み頂き誠にありがとうございます。
ポイントやブックマークが増える度に、ニヨニヨ致しております。
当方の大きな励みです。
今後もお付き合い頂ければ幸いと存じます。
225
幼き少女、亡き人に報告に行く。
クロイツの東区は街道に接している。そこを北上すると大河があ
り、いずれは港へと至る。逆に街道を南下していくと王都へ到達す
る。クロイツが物流の要所である所以だ。
デイルはまず最初の目的地を海だとラティナに告げていたが、二
人は街の外壁を南門から出て南西方向へと向かっていた。全く方向
なんでこっちに行くの?
﹂
が異なる。そのことに気付くと、不思議そうにラティナはデイルを
見上げた。
﹁デイル?
ラティナが辛いなら止
﹁次に、ラティナを連れて外に出るのが何時になるのか、見当も付
かないからな⋮⋮墓参りして行かないか?
めるけどな﹂
﹂
その言葉にラティナもこの方向に何があるのかを悟る。
﹁⋮⋮デイルとはじめて会った森、こっちなの?
﹁そうだ。魔獣も多いから危ないけど⋮⋮あれから何度か確認して、
森の外から最短で行ける道も見付けておいた。ラティナの事はちゃ
んと守るよ﹂
そうデイルが言った直後、ラティナは彼の手をぎゅっと握った。
﹂
﹁ありがとう、デイル﹂
﹁ん?
このタイミングで何故礼を言うのだろうと、疑問に思ったデイル
・
・
に、ラティナは
﹁何度もラグのおはか、行ってくれたんだね。本当はラティナが行
かないといけないのに。ありがとう﹂
そう、言った。
226
・
・
﹁⋮⋮ラティナ、おはか行く。ラグに、今、すごくしあわせだよっ
て言わないとダメだから﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
穏やかな表情のラティナに安心して、デイルもまた、微笑んだ。
クロイツの南西にある森は、魔獣や獣の多い事からもわかるよう
に、非常に豊かな森だ。
正式な名称もあるらしいのだが、クロイツに住む者たちは、﹃魔
の森﹄だとか﹃闇の森﹄だとかと、適当に呼んでいる。クロイツで
﹃森﹄といえばここの事なので、細かいことには拘らないのだろう。
デイルは森が見えても直ぐには入らず、外周に沿ってぐるりと回
った。時折獣の気配は感じたが、こちらに襲いかかってくるものは
いない。
﹁うーん⋮⋮たぶん、ここらだったな﹂
デイルはぶつぶつと独白し、早口に魔法を使う。彼は地属性魔法
を得意としている為、方向を見失うという事は無いらしい。
馬の手綱を引きながらラティナを招く。
﹁ここから、森に入るぞ。魔獣とか危険な生き物が多い事は、ラテ
ィナもわかっているだろうけど、気をつけろよ﹂
﹁うん。デイルからはなれないようにする﹂
真剣な顔で頷いて、ラティナは気合い充分といった雰囲気だった。
もの
デイルがラティナに、﹃自分に危害を与える存在を察知する﹄能
力があることを知ったのは、この時だった。
しばらく歩を進めた時の事だ。
彼女は急に森の中で足を止めて、キョロキョロと周囲を警戒し始
めた。その後、何かを見付けたように視線を一点で止めると、身構
227
ロッド
える。歩くのに邪魔になるからと背中のカバンに付けていた杖を両
どうした、ラティ⋮⋮﹂
手で握った。
﹁⋮⋮?
声を掛けようとした時、デイルも気付く。
﹂
彼女の視線の遥か先で、複数の気配が動いた。
﹁っ!?
その事以上に、それにラティナが気付いていたことに驚愕する。
・
・
一流と呼ばれているデイルでさえも、﹃その方向に注意を向けて
﹂
いた﹄から気付くような遠い距離だ。普通ならば気付く筈が無い。
﹁⋮⋮あそこに、魔獣がいるの、わかるのか?
﹁うん﹂
デイルの問いに、迷いも無くこくり。と頷く。
・
﹂
﹁ラティナ﹃危ない﹄のわかるの。前ここにいた時は、そういう時、
すぐ逃げたり隠れたりしたの﹂
・
﹁⋮⋮凄いな。どうしてなんだ?
でも、そんな気配はラティナからし
﹁わかんない。なんとなく。ラグは、ラティナは﹃運命に守られて
る﹄ってよく言ってた﹂
︵⋮⋮﹃加護﹄持ちなのか?
ないが⋮⋮︶
内心で呟きながら、動揺を圧し殺す。今はとにかく先手を取れる
この利を活かすべきだ。
デイルは、そう切り替えると、左腕を一振りした。
籠手の形をしていた﹃魔道具﹄のストッパーが外れる音がする。
彼は慣れた動きで、次のひと呼吸の内に、更にそれを拡げた。瞬く
間に左腕に装着されたままの小型のボウガンが完成する。
これは武器としての﹃魔道具﹄−−魔力を糧とする武器だ。
魔力を矢と変え射ち放つ能力を有する。
矢の残数を気にする必要が無く、装填の手間も無い。そして、魔
228
法と違い、呪文を唱えるタイムラグを必要としない。
元々魔法属性上、遠距離攻撃魔法を不得手とするデイルには、欠
かす事の出来ない﹃相棒﹄だった。
デイルは剣を下げている姿や、実際剣技も優れている事から、剣
を得手とする近接型の戦士だと思われがちなのだが、彼が最も得意
とするのは弓術。遠距離の射出武器なのだ。
ひゅう、と呼吸を一つ。止めた、という瞬間には連続で魔力の矢
が発射される。
二本の連射された矢は、狙い違わず未だ遠い距離にいる魔獣−−
群れで狩りをする大型の猫科の生き物に近いモノだった。−−に突
き刺さる。小型のボウガンとはいえ魔力の矢。威力はかなりのもの
で、眉間を貫かれた一匹は茂みの奥で倒れた。
もう一本の矢は急所から逸れたらしい。側にいた別の一匹の胴体
に突き刺さり、苦悶の様子で暴れている。
仲間が倒れたことで、魔獣たちが動揺する。
その動きで、デイルは正確に残りの魔獣の数と位置を把握した。
後はもう簡単な作業だ。
彼の放つ連続した矢をかわしつつ、これだけの距離を詰める事が、
どれだけ不可能めいているのか。いくら数の利が相手にあっても、
勝ち目などある筈が無かったのだった。
ラティナの﹃能力﹄はデイルと相性が良い。
先手をかなりの遠距離で取れる以上、彼の最も得意とする、弓に
よる攻撃が活かされる。
229
森の中という障害物の多さから、矢をかいくぐってきた稀な個体
も、デイルは弓を左腕一本で操っている為、空いた右手に握るロン
グソードで対応される。
また、今日のデイルには支援がある。ラティナの魔法は、実戦慣
れこそしていないが、制御においてはデイルをも唸らせる。
彼女の身を守らせる為に、出発前に﹃防御壁﹄系の魔法を覚えさ
せておいた。彼女はその頭の回転の良さで、それをデイルの支援に
も使う。
カエルに似た魔獣と応戦した時もそれは遺憾なく発揮された。
かつてデイルがラティナと出会った時に、討伐依頼を受けていた、
例の魔獣だ。
それらの群れを発見して、デイルは思わず顔を歪めた。
体液と、威嚇行動として放つ粘液の悪臭を思い出したからだった。
どうしたの?
﹂
倒すのは難しくない。だが、どうやって倒すべきだろうか、と、
思案する。
﹁デイル?
﹁ん⋮⋮あいつら、あまり近接戦闘したく無いんだよな⋮⋮﹂
﹁ラティナ、攻撃魔法使えたら良かったのにね﹂
﹁⋮⋮いや、ラティナは自分の身を守ることだけ考えていれば良い
さ﹂
まだ子どものラティナに、﹃命を奪う﹄術など、教えなくて済む
なら、それに越したことはない。そして﹃命を奪う﹄重みを、背負
っても欲しくない。それがいくら魔獣や獣だとしてもだ。−−そう、
﹃保護者﹄として考える。
その為、デイルがラティナに教えた攻撃魔法は﹃例の事件﹄の折
りのあの一つだけ。本来の効果では、近距離の相手に殴り付ける程
230
﹂
度の圧を与える魔法だけだった。
﹁どうして、近くダメなの?
﹁⋮⋮体液とか、臭いんだよ。すげぇ﹂
﹁そうなの﹂
デイルの答えにラティナはこくん。と頷く。
﹂
﹁ラティナ、それだけならたぶん、がんばれるよ?
﹁ん?
﹂
﹂
天より降り注ぎし光よ、我が名の元に我が願い叶えよ、あま
聞き返したデイルに、ラティナは杖を向ける。
﹁
ねく災難を払いし盾と成りて汝が身を護らん︽魔力防壁︾
彼女の杖から広がる柔らかな光がデイルの全身を包む。
﹁デイルの体ぜんぶ盾で囲んだよ。あんまり長い時間はムリだけど。
しばらくはこのまんまだよ﹂
あっさりと言ってのけるが、この魔法は本来﹃魔力の盾﹄を作る
魔法である。決して﹃鎧﹄を作るものではない。
彼女は優れた制御能力で、魔法の効果範囲を彼の全身に拡げたの
だ。
︵⋮⋮当たり前のようにやってるけど⋮⋮これが﹃普通﹄なら、世
の中の魔法使いたちは泣くな⋮⋮︶
最後の一匹となった﹃カエル﹄を踏みつけ剣を降り下ろした。そ
んな作業の合間に、思わずそんなことを考えてしまった。
︵でも、魔法使う時の光に包まれてるラティナは、もう、神々しい
位にすげぇ可愛いからなぁ︶
でれっと表情を緩める。
余裕綽綽であった。
231
目的地は、静寂の中にあった。
白い巨石は風雨に晒されて、以前より白さを際立たせているよう
にも感じる。
ラティナはとてとてと、近づくと、石にその小さな手を滑らせた。
彼女が時折浮かべる大人びた表情をする。まるで、泣くのを我慢
﹂
するように、寂しさを飲み込むように、幼い子供が背負うには重す
ぎる彼女の過去を感じさせる表情だった。
**、***、****、*****、*****
コツンと額を石へと付けた。
﹁
﹂
***、****************。**、**
デイルには聞き取れない複雑な単語が滑り出る。
﹁
******、******
ラティナの声は途切れることなく続く。
彼女はその姿勢のまま、ずっと、眠る彼の人へと、語りかけてい
た。
﹁デイル、ごめんね。おそくなったね﹂
しばらく経った後、顔を上げたラティナは、まず、そう言って彼
に謝罪した。
色々あったもんな﹂
彼女の墓参りの間、周囲を警戒していたデイルは、その言葉に微
笑んで彼女の頭を撫でる。
﹁たくさん、伝えたい事あったんだろ?
﹁うん。いっぱい⋮⋮﹂
ラティナは少し泣き出しそうな顔をしたが、デイルがもう一度頭
を撫でると微笑みを見せた。
232
﹁いっぱいだよ。ラティナ、しあわせだから、だいじょうぶだって
言ったの﹂
−−いつか、彼女の口から、彼女の父親の話を聞いてみたいと、
デイルは思った。
ラティナが心穏やかに語れる日が来たならば、聞くことが出来る
だろうか。そんなことを思った。
ラティナは、名残惜しそうにもう一度、手を石に滑らせる。そう
してから、お別れをするように手を振った。
それを合図に二人は踵を返して、森を抜ける為に歩きはじめる。
︵そういえば、ラティナは、﹃母親﹄の話は、一度もしたことが無
いな⋮⋮︶
−−そんな疑問を、デイルが抱きながら。
233
幼き少女、亡き人に報告に行く。︵後書き︶
相変わらずまったりな感じで進んでいきます。
いつもお読み頂き、誠にありがとうございます。今後もお付き合い
頂ければ幸いと存じます。
234
幼き少女、旅にはしゃぐ。
クロイツ南西の森を抜けた後、デイルはラティナを馬に乗せた。
彼女は頑強な魔人族らしく、足取りもまだまだしっかりしていた
﹂
のだが、初日から無理をさせるつもりはデイルには無かった。
﹁高いねーっ?
ラティナのその声に怯えは無く、はしゃいでいるのが端からも良
くわかる。
﹁今日は野営になるかな⋮⋮明日は宿場町に着くだろうから、そこ
で泊まることになるけど﹂
デイル一人なら少し無理をしてでも先に進む場合もあるのだが、
彼は今回、旅程を余裕を持って組んでいた。
ラティナを連れて、危険な夜間行をするつもりも、連日連夜の野
営をするつもりも彼には無い。
﹂と鼻
﹁ラティナ、お外でねるのもだいじょうぶだよ。デイルといっしょ
なら、安心だし﹂
にこにことするラティナに、デイルもでれっとする。
ふん、ふーん♪
この二人は、ある意味相思相愛の関係なのだった。
ご機嫌なラティナは馬上で、﹁ふん♪
歌を歌い始めた。
声も、少しゆらゆらしてリズムを取る姿も可愛いらしい。だが相
変わらずの微妙な音程だった。
不協和音とまではならないが、どこか力の抜ける絶妙な外れっぷ
りに、デイルは無駄に感心めいた感想を抱く。
235
ぽくぽくと、長閑に蹄の音がする中で、ラティナの鼻歌はその後
もしばらく続いた。
︵聞いたことがある気もするけど⋮⋮微妙すぎて思い出せねぇなぁ
⋮⋮︶
時折心中で、デイルがひとりイントロクイズをしていたりもする
のだが、答えは謎のままであった。
だいぶ回り道になったが街道まで出ると、旅人の姿がポツポツと
見られるようになった。港と王都を結ぶ道だけあって、その多くは
商人らしい馬車だった。
﹁ふあぁぁあっ﹂
ラティナが感嘆したのは、商隊の一団とすれ違った時だ。
クロイツでも商人や商隊の姿は見るが、こうして移動する様子は
圧倒されるものがある。
﹁冒険者のひとも、いっぱいいるね﹂
﹁ああいう商隊の護衛も、よくある仕事だからなぁ﹂
ラティナは連なる馬車とそれを護衛する武装した集団に、すっか
り興味を奪われている。
デイルも歩を緩めて、彼女の質問に答えた。
ラティナは全てが珍しいらしく、馬の上からあちこちを眺めてい
る。
︵⋮⋮この様子だと、疲れが見える前でも、馬に乗せちまった方が
良いかもなぁ⋮⋮︶
ラティナは賢いけれど、フラフラしないとは限らない。特にこう
いった興味を惹かれる状況ならばなおのことだ。
236
﹁デイル、大きな河だよ﹂
馬上からキラキラ光る水面を見付けて、ラティナが指差しながら
大きな声で報告する。
﹂
﹁ああ。クロイツの北にある河がここまで続いているんだ﹂
﹁河はどうやって渡るの?
﹂
﹁橋番に通行料払うんだよ。歩いて渡れる河じゃねぇし、渡し舟探
すより手っ取り早い﹂
﹁﹃はし﹄って、なあに?
時折ラティナは、知っていて当然のようなことを知らなかったり
する。
﹁見た方が早いな。ほら、もうすぐ見えてくるぞ﹂
河はクロイツの街に近いこともあり、荷を運ぶ船も多い。
川岸には数多くの船が接岸され、多くの人々が働いている。街道
とクロイツに最も近いこの場所で、荷の積み降ろしをしているのだ。
正しくは町ではないのだが、人が集まる場所にはその人を目当て
に商売人が集まるのも世の常だ。幾つもの露店が並んでいて集落の
ような光景を作っていた。
人足向けの宿泊施設らしいものはあるが宿はない。ここまで来た
旅人は、まずここで足を止めることは無くクロイツまで足を伸ばす。
需要が無いからだろう。
それだけの大河に架かる橋は立派な石造りで、水上の船の往来を
損なわないようにアーチはやや高めに造られている。その為に、ア
ーチはくっきりとした美しい形を描き、建築物としても見事なもの
だった。
﹁大きいねー⋮⋮﹂
﹁これが橋だよ。河を渡る為に造られてるんだ﹂
﹁すごいねえ﹂
237
ラティナは興奮気味だ。どうやら橋を見るのは本当に初めてらし
い。
︵じゃあ、やっぱりラティナは、﹃森﹄の向こう側⋮⋮山脈地帯を
越えてこっちに来たのかな⋮⋮海の方からクロイツ側に来るなら、
どうやって来ても、橋を見る機会はあった筈だ︶
ラティナの様子に、デイルは推測を深める。
﹃森﹄の更に先には険しい山脈地帯が伸びている。その先は名目上
はラーバント国であるのだが、街は存在しない。険しい山脈という
過酷で不便な土地と、クロイツの﹃森﹄を更に越える魔獣の生息地
帯であることがその理由だ。
冒険者たちが希少な素材や、経験を積む為に赴くことはあるが、
人の集落の話は聞かない。
だが、そこを更に越えた先は、魔人族の最大勢力。﹃一の魔王﹄
﹂
の国と隣接した地域だ。可能性が無いわけではない。
﹁デイル。ラティナ、自分で歩きたい。ダメ?
橋番に通行料を払う列に並びながら、ラティナはそんなことを言
った。デイルが抱き降ろすと、ラティナはぴょこぴょこ跳ねるよう
に歩く。どう見てもはしゃいでいる。
﹁おねがいしますっ﹂
そう言って、デイルが渡したコインを嬉しそうに橋番に渡した。
しっかりしているラティナだが、そういった姿には幼さが見える。
検問を抜けた先は、遠目で見たよりも巨大さを感じる建築物の上
だった。
﹁うわあぁぁっ﹂
橋の上でぐるりと周囲を見渡したラティナは歓声を上げる。
﹁こら、ラティナ。急に立ち止まると後ろの奴に危ないだろ﹂
238
﹁あ。ごめんなさい﹂
ラティナはそう言うと、キリッと前を向く。だが、ぴょこぴょこ
歩く様子は収まらない。
デイルは笑みを浮かべ、ラティナを連れて橋の隅に寄り、下を眺
めた。
﹁うわあっ。すごいね、すごいねぇっ﹂
ラティナは、遥か下を流れる水面に再び歓声を上げた。自分の下
を船が通った時には、更に大きな声を上げる。
積み荷や乗る人々の様子を観察しては、嬉しそうに反応するラテ
ィナに、デイルもとても満足そうに表情を緩めた。
橋を過ぎ、街道を更に北上し、日が傾き始めるのを見計らうと、
デイルは少し街道を逸れた。木々の茂る林の陰に踏み込むと、周囲
﹂
を観察する。
﹁デイル?
もう?
﹂
﹁今日はこの辺で野営するぞ﹂
﹁まだ、明るいよ?
その代わり、
ラティナが不思議そうにするのに、デイルは微笑んで答える。
﹁暗くなってからだと、野営の準備は出来ねぇだろ?
朝は早いからな﹂
デイルの見たところ、大きな魔獣などの気配は無い。彼は地面を
確認して獣の足跡や糞などを見ていた。この程度の林では、小動物
かれ
やそれを目当てにした小型の肉食獣がせいぜいだろう。そう判断を
下す。
近くの木に手綱を結び、荷を降ろして馬を楽にする。すると馬は
勝手に周囲の草を食み出した。
﹁俺は薪を集めて来るからな。ラティナはここで待ってろ。絶対一
239
人でどこか行ったりするなよ﹂
﹁うん﹂
そんな遠くにはいないからな﹂
彼の注意に真剣な顔で頷くラティナ。
﹁何かあったら、俺を呼べよ?
﹁うん。だいじょうぶだよ﹂
心配そうなデイルを見送ると、ラティナはごそごそと荷物を漁っ
た。ケニスが持たせてくれた頑丈な造りの小型の鍋を取り出す。
﹁わるくなりやすいものから、使う。干しにくとか干しやさいは、
だいじょうぶだから、後のほう﹂
食材の入った袋も、ケニスが用意する間ずっと説明を聞いたのだ。
何がどこに入っているのかは全部わかっている。
彼女は真剣そのものの顔で指差し確認をして、必要なものを取り
出した。
﹁ムダにしちゃダメ。もったいないから。使うぶんだけ、使いきる﹂
注意事項を口にする。
彼女はこの旅の間、一つの夢を叶えようとしていた。
その為の準備も、練習も、たくさん重ねてきたのだ。
と
気合いを入れて、ラティナは自分のナイフをきらり
﹁デイルに、おいしいって言ってもらえたらいいな﹂
よし!
と抜いた。
デイルが戻って来た時には、ラティナは石を組みかまどを作って
おり、その上に鍋を設え、持参した芋を切りながら入れているとこ
ろだった。
デイルが教えた覚えの無いそんな姿に驚いていると、
240
﹁デイル、これでだいじょうぶ?
﹂
ケニスに教わったの。石がある
ときは、こうやっておなべのせるんだって。合ってる?
ラティナは、そう聞いてきた。
﹁ああ。ちゃんと空気口作っているもんな⋮⋮ケニスが教えたのか﹂
﹂
﹁うん。ラティナれんしゅうした。あのね。ごはん、ラティナが作
るからね!
と、宣言する。
彼女の夢の一つ。
デイルの為に食事を作ること。
それを実行し、今までの練習の成果を見せることが、ラティナに
とって、この旅の中でのささやかな、けれども大きな目的であった。
241
幼き少女、旅にはしゃぐ。︵後書き︶
たくさんの皆々様。お読み頂き誠にありがとうございます。
ポイントもブックマークも今まで見たことのない数値になっており、
なんだか挙動不審がおさまりません。
とはいえ当方、自分の能力以上のものは書けませんので、今後もこ
のようにまたーりとした話となると存じます。
その上でお付き合い頂ければ幸いと存じます。
ストック少なめ状態続行中ですので、次回更新に2日空きます。ご
了承の上宜しくお願い致します。
242
幼き少女、腕をふるう。
鍋の中に直接切りながら芋を落としていく。
これも、野外で料理をする為に練習したのだ。普段﹃踊る虎猫亭﹄
では、まな板を使うが、旅の間は最低限の道具と洗い物で調理をこ
なさなくてはならない。それが彼女の師匠であるケニスの教えだっ
た。
ラティナは芋を切り終えると、自分のリュックから取り出した魔
道具で鍋に水を入れた。
デイルから受け取った薪をかまどの下に入れる。そこにはすでに
枯れ草の山が作ってあった。﹃発火﹄の魔道具で枯れ草に火を付け
る。
ラティナがてきぱきと動く姿に、デイルも彼女に調理を任せる事
を決める。
周囲を少し整えて、快適に野営を行えるようにする。自分はとも
かく、ラティナが横になった時に、石でも落ちていたら不快だろう。
デイルが荷物を整頓している間も、ラティナの調理は続いていく。
鍋に続けて切りながら入れたのは腸詰めで、ただの肉より良い味
のスープが出来る。ラティナはその後小さな容器を取り出した。中
身は乾燥ハーブだ。慎重に傾けてスープに入れる。
最後に調理料を入れて、味を確かめると、こくり。と一つ頷いた。
続いてラティナは紙包みを一つ取り出した。入っていたパンは普
通の物で、日持ちがしないので早々に食べきる必要がある。ナイフ
を一度拭き、真剣な顔で切り出す。大きな調理用のフォークに刺し
て火で炙る。
243
最後にチーズをパンにのせて更に炙る。トロリと良い加減になっ
た所で、ラティナはデイルの方を向いた。
﹁デイル。ごはんできたよ﹂
﹁ああ﹂
非常にシンプルな材料で作られたスープ。
だが、野外の冒険者たちの食事なんてものは、煮炊きしてあれば
上等で、干し肉と堅焼きパンをかじって終了なんてことも珍しくな
い。
短時間で、手際良く作業を進める姿には、デイルも感心した。
鍋から二つの皿によそうと、ラティナはデイルにパンを渡す。
﹁ラティナ、おいもだけでお腹いっぱいだから、パンはデイルのぶ
んだけ﹂
﹁そうか﹂
﹂
デイルはスープを掬い、口にすると頬を緩めた。
﹁旨いよ﹂
﹁ほんと?
﹁ああ。パンの焼き加減も丁度良いな﹂
デイルに誉められて、嬉しそうな顔をしたラティナは、自分の分
を口に運んだ。この子は食べている時は、特にちまちまと小動物を
思わせる動きになる。
可愛い。
﹁ケニスとパーティー組んでた時も思ったけど、料理上手がいると、
﹂
旅の間も快適になるなぁ﹂
﹁ケニスといっしょ?
﹁ああ。﹂
デイルの言葉にラティナはとても嬉しそうだ。
﹁でも、まだまだケニスのごはんのほうがおいしいの。ラティナ、
244
もっとがんばるの﹂
むん。と気合いの入ったラティナの表情に、デイルも笑みを浮か
べる。
﹁少なくとも、俺が作るよりはずっと上手だよ。ラティナの言う通
り、この旅の間は、ラティナが食事の係だな﹂
﹁うん。がんばるっ﹂
満開の笑顔で、ラティナはそう応じた。
彼女は片付けも手早く終えた。
その頃には、日はすっかり傾き、食事をしていた頃は夕焼けの色
だった空は、真っ暗となっている。
パチパチと薪のはぜる音を聞きながら、ラティナはコクリコクリ
と舟をこぎだしていた。
だいぶはしゃいでいたが、慣れない旅路だ。疲れも出るだろう。
デイルは微笑んで、ラティナを撫でた。
デイルは⋮⋮?
﹂
﹁無理するな。早めに寝ておけ。明日は早いぞ﹂
﹁ん⋮⋮んん⋮⋮
﹁俺も仮眠はとるさ。大丈夫だから、安心しろ﹂
﹁⋮⋮うん。おやすみ、デイル⋮⋮﹂
毛布にくるまるようにして横になったラティナは、すぐに寝息を
たてはじめた。すでに聞き慣れた、どこか調子外れな規則正しい音
を聞く。
デイルは穏やかな顔で、ラティナの寝顔を見守る。
二人だけの旅だ。不寝番をたてる訳にもいかない。彼はいつもの
ように剣を傍らにすぐに取れるようにした状態で、座ったまま目を
閉じる。
何か異常を察すれば、すぐに目を醒ます事が出来る程度には、旅
慣れている。
245
ラティナの気配が隣にあるだけで、とても穏やかな夜の時間だっ
た。
朝日が昇るまで、彼らの眠りを邪魔する存在は現れなかった。
とはいっても、デイルは時折目を覚ましては、消えかけた焚き火
に薪を足していた。春先とはいえ、まだ夜は冷える。ラティナを凍
えさせる訳にはいかない。
デイルは目を醒ますと、まず、隣のラティナを見た。彼女はぐっ
すりと眠っていた。
たくましいというか、ラティナはどこでも割と眠れるらしい。﹃
踊る虎猫亭﹄で昼寝させる時もそうだった。
その後で焚き火の様子を確認する。本来ならばこちらを気にする
のを優先するべきだが、無意識下でラティナの方を気にしてしまう
ようだ。
﹁⋮⋮ラティナ、起きろ﹂
デイル⋮⋮?
﹂
そっと手を掛けて揺り動かすと、ラティナはもぞもぞと動いた。
﹂
﹁ん⋮⋮んん?
﹁なんだ?
毛布の中から、困ったようにラティナが名を呼ぶのに聞き返せば、
彼女は寝ぼけ眼をデイルに向けて、しばらく考え込んだ。
﹁ふあぁっ﹂
ぱちくりと大きくまばたきして覚醒する。
﹂
やはり寝ぼけていたらしい。ラティナはむくりと起き出すと、デ
どした、ラティナ?
イルにぴとっとくっついた。
﹁ん?
﹁びっくりしたの。いつも、デイルのとなりでねてるから﹂
246
えへへと照れくさそうに微笑む。
﹁ラティナ。たびのとちゅうだった!
﹁そうだな﹂
﹂
デイルも笑い返してラティナを抱きしめる。
ラティナはあんな過去がある為か、時折人恋しくなるらしい。留
守番をさせても我が儘を言ったりしないが、それ以外の時はよくこ
うやってデイルの側に居たがるのだ。
デイルも不快では無いので、彼女の好きにさせている。
というか、自分以外の誰かに、ラティナがこんな風に甘えるのを
看過するつもりは無い。
そう思っている程度には、彼の親バカぶりは筋金入りだ。
ラティナは起き出すと、毛布を片付け、朝食の準備を始める。
焚き火で二人分のパンを炙り、チーズを切って渡す。
簡単なものだったが、ラティナが作る朝食だと思えば、旨さは倍
増する。
﹁今日はこのまま街道を進んで、宿場町まで行くぞ。疲れたり、足
が痛くなったりしたら、すぐに言えよ﹂
﹁うん。わかってるよ﹂
﹁まだ食料とかは充分だな⋮⋮ラティナに、食料の管理もそのうち
﹂
任せるから、必要な物があったら早めに言うんだぞ﹂
﹁ラティナ、やって良いの!?
驚いた様子のラティナに、デイルは真面目な顔を向ける。
自分に出来
﹂
﹁ラティナ、俺に全部やって貰うのは嫌なんだろう?
﹂
る仕事は、自分でやりたいって思っているんだろ?
﹁うん⋮⋮なんでわかるの?
﹁そりゃあ、ラティナのことだから、わかるさ﹂
デイルはそう言って笑った。この真面目でしっかりものの少女は、
247
そういった自立心も歳相応以上に持っているのだ。
始めから全部を任せるなんて無謀で無責任な真似はしない。だが、
デイルもラティナの賢さならば、どの程度の仕事を任せても大丈夫
なのか、しかと承知している。
彼女なら教えれば、きちんと理解出来る範囲だろう。
﹁この旅の間、ラティナは俺の相棒なんだからな﹂
﹁うん。ラティナ、できることは、やりたいのっ﹂
笑顔のやる気充分なラティナを見ていると、不思議な気分になる。
この子は、この旅の間でどのくらい成長してしまうのだろうか。
そんなことを考える。
︵⋮⋮もうしばらく、俺に頼ってくれるままの、小さなラティナで
も良いのにな︶
成長を嬉しく思う反面で、そんなことを考えてしまうのは、我が
儘だろうか。
焚き火の後始末をして、馬に再び荷物をのせ、街道に戻るべく歩
き始める。
今日も穏やかな良い天気だ。
248
幼き少女、腕をふるう。︵後書き︶
あまり豪華な食事を作ると、旅先っぽくなく⋮⋮だが、シンプル過
ぎるとおいしくなさそうで⋮⋮
加減が難しいです。
以前も書きましたが、このファンタジーは食事に関しての設定は、
とてもファジー仕様であります。
249
幼き少女、宿場町につく。
緩やかなアップダウンはあるものの、港へ向かう街道は歩き易い
道のりとなっている。
諸外国からの物資を王都へと運ぶ重要な街道だけあって、定期的
に整備されているのだ。今も視線を向ければ、人足達が、削れ、穴
の空いた街道の一部を補修している姿を見る事が出来た。
﹁ねえデイル。クロエはね、盗賊とか心配してたよ。いるの?﹂
﹁まぁ、金目の物満載の馬車の通り道だから、そりゃあ居るけどな。
此処等はまだクロイツの近くだから、あんまり居ねぇよ﹂
﹁そうなの?﹂
﹁手配が掛かれば、あっという間に冒険者連中が集まって来るぞ?
冒険者崩れの盗賊も居るけど⋮⋮普通なら、追っ手の掛かり難い
ところでやるもんだろう﹂
ぽくぽくという蹄の音をBGMに、二人は話をしながら歩く。
﹂
﹁今日泊まる宿場町の先は、ちょっと危ないかなぁ⋮⋮たまにそう
いう奴が出るって聞くし﹂
﹁だいじょうぶ?﹂
﹁ああ。ラティナのことはちゃんと守るからな。心配か?
﹁デイルがいるから、ラティナだいじょうぶ﹂
心の底からの信頼のこもった、満開の笑顔を見せたラティナにデ
イルも微笑んでみせながら、
︵皆殺しにするのは、逆に楽だったりするんだけどなぁ。ラティナ
には、あんまり残酷な光景見せたくはないし︶
などという物騒な独白をしていたりする。
︵ああ。でも、ラティナに武器向けられたりしたら、俺、ブチキレ
250
るかもしんねぇ︶
こんなことを考えながら、デイルはでれでれのにこやかな顔で、
傍らのラティナの頭を撫でていたりするのだから、人間というもの
は、外側からは何を考えているのかなどわからないものである。
日頃、クロイツという限られた空間で暮らすラティナにとって、
外の世界はとてつもなく広く感じられるらしい。
デイルにとってはなんてことのない景色も、彼女には違って見え
ているようだ。
街道の緩やかな坂を登りきり、視界が開けた瞬間もそうだった。
ラティナは歓声を上げて、周囲を見渡した。
遠くには、空気に青く霞んだ山脈とその手前の森と草原。更に手
前には麦などが植えられた穀倉地帯が広がっている。
すごいねえっ!﹂
⋮⋮そうかもしれないな。ほら、ラティナ、遠くに見
﹁広いねえっ!
﹁そうか?
えてきただろ。あそこが今日泊まる町だ﹂
﹁うわあぁぁっ﹂
ラティナは興奮した様子で、少しでも遠くを眺めようとしている
らしい。庇のように手を額に当てて、ぴょんぴょんと跳ねている。
町に着く前に疲れちまうぞ﹂
二つに分けて結い上げられた白金の髪も、光を反射しながら激し
く揺れた。
﹁あんまりはしゃぐなよ?
﹁うんっ!﹂
元気よく返事をすると、彼女はデイルの隣に並んだ。
時折休憩を挟んで、予定通り日が沈む前に町へと到着する。
宿場町﹃ハーゼ﹄は、クロイツとは比べものにならないくらいの
251
小さな町だ。
周囲が穀倉地帯であることを見てもわかるように、主な産業は、
農業であり、こういった町がクロイツの豊かさも支えている。
同時に街道沿いであることから、宿場としても栄えている。
宿の形態も豪商相手の高級宿から、一部屋に複数人が押し込まれ
る安宿まで様々だ。
デイルは町を囲む壁を守る門番に小銭を握らせると、話を聞いた。
普段の彼ならば、眠れればどこの宿でも問題としない。だが、今
回はラティナを連れているのだ。安全性とそれなりの設備を求めた
いと思っている。
﹁クロイツとは違うねっ。おうちの雰囲気も違う﹂
﹁でもまだこの辺りは、賑わっている方だぞ。俺の故郷なんか田舎
すぎて、ラティナ驚くだろうな⋮⋮﹂
ハーゼの建物は、全体的に地味だ。
クロイツのように漆喰や塗料で塗られた壁はほとんど見られない。
屋根の色も、ラーバンド国風の赤色ではあるのだが、塗料の種類が
違うのかどこか沈んだ鈍い赤だ。
デイルが選んだのは、厩を持つ中ランクの宿だった。
だが、それはそれで、ひなびた趣がある風景とも言えた。
引いていた馬から荷物を下ろし、中に入る。ラティナはキョロキ
ョロと落ち着かなさげだ。
かなり恰幅の良い女将が店番をする所に、近づいて行った。
﹁部屋は空いてるか?﹂
﹁ああ。一部屋で良いかい?﹂
﹁構わない。後、厩を使わせてもらう。水と飼い葉を頼む﹂
﹁別料金になるよ﹂
252
﹁わかってる﹂
女将が渡した鍵を見て、ラティナを招く。彼女はデイルがそんな
やり取りをしていた間も、しきりに周囲を観察するのに余念がなか
ったようだった。
この宿も﹃踊る虎猫亭﹄同様、一階は食堂となっており、二階が
客室となっている造りとなっていた。
デイルとラティナの部屋は二階の隅の角部屋。
窓を開ければ、町を囲む壁の向こうまで見渡せる、眺望を望むな
ら悪くはない部屋だった。安全性ならば奥の部屋の方が高い。けれ
どラティナの喜ぶ顔を見たらそんな些末なことは気にならなかった。
女将の愛想は今一つだが、部屋は清潔感もあり、悪くはなかった。
ベッドが二つ並んでいる中、それなりにスペースは確保されてお
り、広さも充分だ。
デイルは荷物を隅に下ろし、籠手を外してコートを脱いだ。
ラティナも彼のそんな様子を見て、背中の荷物を下ろしてナイフ
も外す。軽くなったとぴょこんと、跳ねた。
﹁あのね、デイル⋮⋮﹂
﹁散歩したいってのは、止めておけ。明日もたっぷり歩くんだから
な﹂
言い出しかけた言葉の先手を打たれて、ラティナは驚いた顔にな
る。
﹁ラティナがあちこち見たいのもわかるけどな。これからもたくさ
んの町を通るんだ。休める時はちゃんと休んでくれよ﹂
﹁⋮⋮うん﹂
しょんぼりとした顔をしながらも、頷いたラティナに、デイルは
ため息を一つつく。
デイルもラティナにこんな顔をさせたくはないが、この子のはし
253
ゃぎっぷりからすると、放っておいたら倒れるまであちこちを見た
がるに違いない。
この辺りで一度釘を刺しておかなければならない。
デイル 親バカ
﹁その代わり、港町﹃クヴァレ﹄に着いたら、ちょっと観光しよう
な。それまでの我慢だ﹂
ラティナがその言葉に表情を明るくする。
彼女を落ち込ませたまま放置できないのが、彼が彼である所以だ
ろう。
中ランクの宿なだけあって、入浴設備も備えていた。
湯上がりのぽかぽかした様子で、ラティナはテーブルについてい
た。うきうきとメニューを眺めている。
﹁ラティナ何食べたいんだ?﹂
﹁食べたことの無いのが、食べたいのっ。ケニスもね、いろんなと
ころで、いろんなもの食べるのもべんきょうだって言ってたの﹂
﹁ああー⋮⋮ケニスは確かにそうだったなぁ⋮⋮﹂
それにしてもこの子は、一人前の料理人を目指すのだろうか。
なんだか、だんだんと、料理と食事に対する取り組み方が、本格
的になっているような気がするのだが。
︵まぁ⋮⋮ケニスも、冒険者だか、料理人だか、わかんねぇような
感じだったもんなぁ⋮⋮師匠に似たのか⋮⋮︶
自分の兄貴分であり、彼女の師匠である男の顔を思い出しながら、
デイルは珍しく頼んだエールを飲み干した。
﹁んー⋮⋮ううん?﹂
とはいえ、メニューにあまり目新しいものはなかった。その為、
農園に近い地域であるからと、ラティナは様々な野菜のグリルとフ
254
リッターの盛り合わせを注文した。デイルはごく普通のチキングリ
ルだ。添えられたパンは小麦の産地なだけあって、山盛りに盛られ、
ラティナ﹂
好きなだけ食べて良いシステムだった。
﹁んー⋮⋮﹂
﹁どうした?
﹁このお野菜⋮⋮もう少し、じっくりゆっくり焼けば良いのにね﹂
食べながら首を傾げていたラティナに問いかければ、彼女からの
返答は、デイルの想像を越えていた。
﹁そうした方が、もっとあまい感じになるのに﹂
﹁そーか⋮⋮わかるのか﹂
﹁ケニスおしえてくれたから。こっちのはおいしい﹂
ほのかな苦味のある春先に出る新芽のフリッターには、ラティナ
はうんうんと納得している。
︵俺が思っているより⋮⋮ラティナの料理のスキルは、高いのかも
しんねぇなぁ⋮⋮︶
パンもしっかり噛み締めて、味を確認しているラティナの姿に、
デイルは彼女のスペックの高さを再確認していた。
お湯を使った後でデイルが部屋に戻ると、先に部屋に戻らせてお
いたラティナは、小さな帳面になにやら書き付けていた。
デイルが覗き込もうとすると、ぱっと慌てて隠そうとする。
その仕草で気付いた。
﹁日記か?﹂
﹁旅の間のこと、書いておくの。はずかしいから、見るのダメ﹂
﹁そーか。ごめんな。俺に見られちゃ困るような事、書いてあるの
か?﹂
﹁はずかしいから、ダメなの﹂
ぷるぷると首を振るラティナは珍しい。デイル相手だと、よほど
255
のことでなければこの子は嫌だとは言わない。
︵駄目って言われると、気になるなぁ⋮⋮︶
とはいえ、無理強いして嫌われでもしたら、自分はきっと立ち直
れないだろうとも思っている。
昨夜は仮眠しかしていないので、デイルは自分に疲労が蓄積して
いる自覚がある。
ラティナにも言ったが、休める時にしっかり休むことは重要だ。
彼は部屋の戸締まりを確認してから、ベッドに入った。その姿に
ラティナが少し慌てた顔をする。
追いかけて来て、デイルを掛け布団越しに、ぱしぱしと叩いた。
﹁デイル、デイル。あのね⋮⋮﹂
﹁ん?﹂
﹁ラティナ、デイルのとなりでねるのダメ?﹂
﹁⋮⋮いつも、一緒に寝てるからか?﹂
ラティナの発言にデイルが聞き返せば、彼女は少し考えてから、
﹁知らないところで起きるの、ちょっとびっくりになるの。デイル
のそばだと、安心なの﹂
﹁そうか⋮⋮慣れない旅だもんな。不安にもなるよな﹂
デイルは納得すると、むくりと起き出して周囲を見る。
ベッドは一人用で、二人で並んで眠るには少々狭い。クロイツの
自室のベッドはかなり広いものを置いているのだ。
︽重
﹁じゃあ、ついでにラティナ。︽重力軽減︾の呪文も教えてやるか
らな。聞いておけよ。結構便利だからさ﹂
﹂
冥なる闇よ、我が名の元命じる、星の縛りを断ち切れ
そう言ってデイルは、普段よりゆっくりと呪文を唱える。
﹁
力軽減︾
呪文を使い、隣にあったもう一つのベッドに手を掛ける。重さを
256
操作する呪文の効果で軽々と持ち上げることが出来た。
ぴたりと付けて並べ直す。大きな音を立てないように慎重に動か
した。
﹁ちょっと段差はあるけど、これで良いか?﹂
﹁うん。ありがとうデイル﹂
ラティナは嬉しそうに微笑んで、隣のベッドに潜り込んだ。
そんな幸せそうな彼女の表情につられたように、デイルも微笑む。
︵ラティナだけでなく、俺もこの方が、心地良いのかもしれないな
ぁ⋮⋮︶
ラティナの体温を感じる距離で、デイルが眠りに落ちる前に考え
たのは、そんな事だった。
257
幼き少女、宿場町につく。︵後書き︶
デイルさん⋮⋮あんたブレないな⋮⋮と思いつつ執筆しております。
ラティナは将来後世に料理で名を残す⋮⋮のかも知れませぬ。⋮⋮
等々、彼女の今後も生温かく見守って下さいませ。
お読み頂き誠にありがとうございます。
258
幼き少女、海に行く。
ハーゼを出発した後、数度の野営と宿場町を経由して、二人は港
町クヴァレに到着した。
クヴァレは今までの町と趣が異なる。
赤い鮮やかな屋根は他の町とも共通しているが、全ての建物の壁
アフマル
には白い漆喰が塗られており、鮮やかな青の紋様が描かれている。
アズラク
ラーバンド国の主神﹃赤の神﹄だけでなく、商業を守護すると同
時に海洋を司る神でもある﹃青の神﹄の守護も願っている為だ。
その為に、潮の香りに満ちたクヴァレの町は、非常に鮮やかで独
特の風景を持っている。
﹁海だぁーっ﹂
海、海っ、行っても良いっ!?﹂
ラティナはクヴァレに入ってすぐ、海が見えると大喜びで歓声を
上げた。
﹁デイル、デイルっ!
﹁落ち着けってラティナ。まずは宿を取って、荷物下ろしてからな﹂
苦笑しながらデイルは、傍らのラティナにもう一匹の﹃同行者﹄
こいつ
を指し示す。
﹁馬も、休ませてやらないといけないしな﹂
﹁そうだった⋮⋮ごめんね、ブラオ﹂
ラティナはそう言いながら、馬の鼻先を撫でる。
デイルの知らない間に、ラティナは馬に名前を付けていたらしい。
この旅が終われば手放すつもりであったのだが、それまでにラテ
ィナは情を移してしまうかもしれないなどと、後れ馳せながら思い
至った。
259
デイルはクヴァレでは、今までよりも高額な宿を選んだ。
施設や部屋のグレード的には、今までの宿と大差は無い。金額の
差は、ひとえにセキュリティの値段だった。
各部屋には魔道具の鍵が使われており、安全を売りにしているだ
けに宿の人間の意識も高い。
それは今までの宿と違い、荷物を置いたまま外出しても、ある程
度の安全が保証されているということでもある。
クヴァレでは三泊する予定だった。
疲れもそろそろ出てくる頃だ。観光だけでなく、しっかりと休息
も取らせたいとの思惑からの決定だ。
荷物を置き、籠手は外す。コートとロングソードはそのままだ。
そうしてからデイルがラティナを見れば、彼女は背中のリュックと
ナイフを外して身軽になっていた。
きちんと隅に寄せて置くあたり、几帳面な性格が出ている。
﹁ねえデイル。この町からなら、お手紙クロイツに出せる?﹂
﹁定期便が出てるからな。大丈夫だぞ﹂
﹁それならね。後で、クロエとリタにお手紙かくのっ﹂
うきうきと笑顔のラティナはそう宣言した。
﹁じゃあ⋮⋮手紙に書けるように、クヴァレを探索しないといけね
ぇなっ﹂
﹁うんっ!﹂
デイル自身も﹃観光﹄は久しぶりの行動だ。頻繁に旅には出てい
るが、大抵は仕事だ。少々新鮮さも感じる。
何より、これだけ旅を喜び、嬉しがってくれている可愛いラティ
ナと一緒なのだ。
デイル自身も浮かれ気分にならない筈が無い。
260
クヴァレは不思議な景観の町だ。
それは多分建物だけではない。異国との窓口であるこの町は、ラ
ーバンド国でありながら、何処か異国の空気を感じさせる。それが
相まってこの町の﹃雰囲気﹄を作り上げているのだろう。
道行く人もそれに大きく関わっている。服装も装飾もこの国では
見たことのない、独特な物を纏う人々と時折すれ違う。
﹁ふあぁぁ⋮⋮﹂
口が空いたままのラティナの姿に、デイルが表情を緩める。
クヴァレの中心部を抜け、二人は港に来ていた。
陽光にキラキラ煌めく水平線にも大興奮のラティナだったが、今
は丁度港に入ってきた大きな商船に見入っている。
見上げた姿勢でいるためにか、先程からずっと、口がぱかりと開
いているのだ。
ほら、あそこに旗を掲げてる。あの紋章は⋮⋮﹂
﹁すごいねえーっ。デイル。このお船、どこからきたのかなぁ﹂
﹁ん?
デイルが指さして教えれば、ラティナはこくこくと頷いた。
﹁遠くの国だねーっ﹂
﹁ああ。そうだな﹂
﹁すごいねっ。ラティナはじめてばっかり!﹂
身を乗り出して船の様子を眺めるラティナに、そっと落ちてしま
ったりしないように手を添える。
そんな気遣いをするようになった程度には、もう彼は立派な﹃保
護者﹄だった。
磯の一角で、フナムシが一斉にざわめく姿にラティナは目を丸く
した。
確かにこういった光景は、街中ではあまり見ない。
ラティナはわざわざ物陰に向かい、フナムシが移動する様子を観
261
察している。
︵⋮⋮虫とか、全然大丈夫なんだな⋮⋮︶
まあ、ラティナは魔獣相手でも平気なのだから、虫位どうってこ
とはないのだろう。
︵⋮⋮でも、素手で捕まえるのは⋮⋮止めておけ⋮⋮︶
意外にラティナはワイルドだ。
昼食を食べに行く前に、ラティナたっての希望で市場を覗きに行
った。
さすがに港町だけあり、魚介類が豊富に並んでいた。
クロイツでも、時折海の魚は売られている。
保冷の魔道具を駆使し、輸送されて来たものだ。輸送費の分だけ
値段も高く、庶民はめったに口にしない高級食材となっている。
それが比べものにならない種類の多さで、ずらりと並ぶ様子はな
かなかに壮観だ。
﹁お魚いっぱいだね﹂
ラティナは目を丸くして、魚を見て歩いている。海の生き物とい
うのは個性的な形状のものも多い。巨大なのっぺりとした魚が地面
に置いてあるのに、ラティナが驚いてびくっと跳びはねる。
かと思えば、次の瞬間には隣の店先にぱたぱたと走り寄った。
﹁うわあ⋮⋮これ、どうやって食べるの?﹂
硬いトゲに包まれたウニをつついてみながら、ラティナは首を傾
げた。
﹁中身を食うんだよ﹂
﹁へえー⋮⋮﹂
ウニはまだ生きていたらしくトゲが緩やかに動いた。その様子に
完全に興味を奪われながら、ラティナは頷いた。
262
市場の中にあった一軒の店で昼食にした。
折角これだけの魚介類があるのだ。それを食べない手はない。
熱せられた網の前に座り込み、皿に山盛りで運ばれて来た新鮮な
海の幸を焼いていく。
トングを片手に、ラティナはウキウキしている。
多分犬の尾でもあれば、ぱったぱったと振られているに違いない。
非常に楽しそうだ。
﹁デイル。これ、どうやって食べれば良い?﹂
彼女がはじめて目にした灰褐色の硬い固まりは、火にかけると蓋
のようになっている部分がぐらぐら沸いてきていた。
デイルが当たり前のように調味料らしき液体をそこに注ぐ。
﹁あのな⋮⋮ここに串を刺して中身を抜き出すんだ﹂
デイルが言いながらやって見せ、ぶるんっと貝の身を取り出すと
熱いから気を付けろよ﹂
おもしろいねっ﹂
ラティナから喝采が浴びせられた。
﹁すごいっ!
﹁ラティナもやるか?
﹁うんっ﹂
彼女は真剣そのものの顔で、慎重に貝の中に串を差し込む。見よ
う見まねで串を引き出した。
﹁出たっ!﹂
しばらく手こずっていたようだが、ラティナは無事に貝の中身を
苦いねっ⋮⋮﹂
出すことに成功した。デイルの姿を真似て先端をかじる。
﹁ふぁっ!
予想外の苦味にラティナが驚いた顔をする。デイルは微笑んで
﹁先っぽは肝だからな⋮⋮苦手なら残せよ?﹂
そう言ったのだか、ラティナはキリッとした表情をした。
﹁これもべんきょうだから、だいじょうぶ!﹂
プロ
︵⋮⋮本当に、本職の料理人も真っ青だなぁ⋮⋮︶
どこまでプロ意識が高いのだろうか。この子は。
263
魚や海老の塩焼きも堪能する。
﹁ラティナ、最初にデイルにあったとき、お魚もらったね﹂
﹁そうだったな﹂
ラティナは網の上で魚を返しながら笑顔を向ける。
﹁今日はラティナがやいたお魚、デイルにあげるのっ。食べてね﹂
﹁ああ。どんどん焼いてくれな。ラティナの焼いた魚なら、たくさ
ん食べられるからなぁっ﹂
今日も彼は通常仕様であった。
満腹になった腹を抱えて店を出ると、市場の散策を再開する。
港から次第に離れると、魚介類を扱う店の数は減っていく。その
代わりに目立つようになったのは、異国より集められた様々な品物
の数々だった。
多種多様な香辛料を色鮮やかに並べてみせる店があるかと思えば、
ラーバンド国内の好みとは明らかに異なる不思議な紋様の織り込ま
れた布地を陳列する店がある。
器の店を覗けば、筆致も独特な鮮やかな絵付けがされていた。
ここは、混沌とした﹃異国﹄だ。
この国の物ではない雑多な物が溢れている。旅人や異国人、商人
が行き交う。独特な世界と空気に満ちた﹃非日常﹄な世界だ。
ラティナは始終目をきらきらさせていた。
好奇心旺盛なラティナにとっては、全てが彼女の興味を惹くのだ
ろう。無理もない。
デイルは笑って彼女を呼んだ。
264
﹁ラティナ﹂
﹁なあに?﹂
﹁人も多いし⋮⋮迷子になったら困るからな。手ぇ出せ﹂
差し出された小さな手をしっかりと握る。
少し驚いた顔をした後で、ラティナはデイルを見上げてにっこり
と笑った。
そして二人はこの後、手を繋いだまま市場を見て回ったのだった。
265
幼き少女、海に行く。︵後書き︶
執筆中、サザエのつぼ焼きが無性に食べたくなっていました⋮⋮デ
イルが注いでいた調味料が何であるかはご想像にお任せします。
話の展開に関係なければ、設定とかは書かなくてもいいかなーと思
ったりします。
266
幼き少女、同郷のひとと会う。
荷物の中から、少し良い服を取り出して着替える。
それはこれから二人が向かう場所が、高級店という程では無いも
のの、いつも立ち寄る大衆食堂よりは幾らかグレードの高い店であ
るからだった。
全く居ないという訳では無いのだが、旅装や冒険者の持つ物騒な
武器を携えた姿だと悪目立ちするだろう。
宿の人間に話を聞いたところ、この近辺で一番のお薦めのレスト
ランを教えてもらうことができた。新鮮な魚介類を、店が専属で抱
える楽団の演奏を聴きながら楽しむことの出来る店だそうだ。値段
以上の特別感を味わえ、魚料理も港町の人間を満足させている良店
であるという。
夜風は体に毒だからと羽織るケープはいつも通りだが、ラティナ
リボン
はお気に入りのピンクのワンピースを着ている。
髪も直して、レースの飾り紐という彼女のとっておきを結んでい
た。気合い充分。彼女の期待度が伺える。
いつもは腰のベルトに止めている虎猫模様のポーチに、長い紐を
結びつけ斜め掛けのポシェットにしている。
くるぅりと部屋の中でゆっくり回転すると、スカートと白金の髪
が弧を描いた。
﹁はしゃいでるなぁ。ラティナ﹂
﹁うんっ。ラティナ、レストラン楽しみっ﹂
デイル自身もきれい目のシャツにズボンという、普段よりは改ま
267
った服装をしている。丸腰は逆に危険であるから腰にナイフを一本
絶対俺から離れるなよ﹂
下げていた。戦闘以外の用途の為に、彼は旅や仕事の際必ずこのナ
イフを携えているのだった。
﹁誘拐でもされたら大変だからっ!
宿を出る時、デイルはそんなことを言った。
何処から見ても愛らしい彼女の姿に心配になる。これだけ可愛ら
しい少女を見たら、悪い人間ではない者も魔が差してしまうかもし
れない。そういった不安がラティナの周囲にはあるのだ。
﹁あのね、ならね、デイル。手つないで良い?﹂
ラティナがそんな可愛らしいお願いをするのに、デイルは即座に
応じる。手のひらを通してぬくもりが伝わると、ラティナは嬉しそ
うに微笑んだ。
夕暮れが過ぎ、夜の気配が濃厚になった町の中を並んで歩く。
薄闇の中のクヴァレの町は、昼間以上に不思議な風景となってい
る。
赤い屋根は鮮やかさを潜め鈍く沈み、白亜の壁は薄青を帯びてい
た。壁に描かれた青の紋様が黒に近い濃い色に変わり、町を縦横に
走っている。
家々から漏れた明かりが、彼方此方で色彩を取り戻させる。それ
が淡く霞んで、再び青い世界に溶け込んでいく。
−−海底に沈んだ世界ならこういった感じだろうか。そんな幻想
的な光景になっていた。
﹁⋮⋮クヴァレは日が沈んだ直後のこの時間が、一番綺麗に見える
んだってさ﹂
﹁すごいね⋮⋮﹂
美しい光景に気圧されたのか、ラティナは囁くように感嘆の言葉
268
を発した。まるで大きな声を出せばこの世界が壊れてしまうとでも
思っているかのように。輝く眸で静かに感動を表に出す。
ちょうど人の通りも途絶え、二人はこの短い時間の美しい景色を
独占する贅沢を味わうことができた。
そんな静かな青い町中を通り抜けて来たからこそ、﹃寡黙な鴎亭﹄
というコンセプトと反するような名前のその店は、別世界のような
印象を受けた。
扉を開けた瞬間、夜であることを忘れさせるような目映い光が飛
び込んでくる。
たくさんの人々−−食事を楽しむ大勢の客と、忙し気に働く揃い
のお仕着せを纏う従業員たち。そしてそんな店の中央に一段高く誂
えられたステージで、穏やかながら華やかなメロディーを奏でる数
人の奏者の姿。−−そんな人々の熱気と音の奔流に数瞬呑まれた。
﹁うわああぁっ⋮⋮﹂
頬を薔薇色に染めて、ラティナはきらきらと眸を輝かせる。
今にもぴょんこぴょんこと、跳びはねてしまいたい衝動を堪えて
いるのが隣に立つデイルにはよくわかった。沸き上がった笑いを押
し殺す。
この小さな﹃お姫さま﹄は、お洒落をした分、今日はおしとやか
に振る舞いたいらしい。
テーブルに案内された時もラティナはとても行儀が良かった。
この子は元々行儀が良い方だが、普段なら周囲が気になって終始
キョロキョロしている筈だ。少し澄まし顔で椅子に座っている姿は、
珍しくも可愛いらしい。
だが、あまりに微笑ましい姿に、デイルは口元を緩めっぱなしだ
269
った。
﹃淑女﹄相手のエスコート役としては失格かもしれない。
普段行くような店では大皿から取り分けることが多い。だからこ
の店のように一皿ずつ盛りつけられて供される料理にも、ラティナ
は大喜びだった。
凝った盛りつけで、皿の上が鮮やかに彩られている。
彼女は目の前に置かれたポアレに、何処から手を付けようかとウ
キウキして眺めていた。
ラティナは量をあまり食べられない為に、頼むメニューは厳選に
厳選を重ねた。デイルが食べている皿にも興味があるという顔をし
ているが、ここであれもこれもと食べてしまうと、デザートに辿り
着けないことも承知しているらしい。
公爵家に出入りするデイルは、やろうと思えばきちんとした所作
で食事をすることが出来る。最低限の処世術だからだ。今までラテ
ィナの前でそんな姿を見せたことは無かったが、彼女はデイルの普
段とは少し違う食事の仕方に気付いたようだった。
ちらちらと彼の様子を見ながら、真似をしている。
デイルも勿論そんなラティナの様子には気付いている。だからこ
そ、今は彼女の手本になるように、殊更美しく見える所作を心掛け
ているのだ。
自分がそんな風に気負っていることなど、顔には出さない。
それが﹃保護者﹄としてのプライドである。
デザートもまた、凝った盛りつけでやって来た。
数種のケーキが並べられ、フルーツとソースで飾られた華やかな
一皿だ。
270
﹁うわあぁぁぁっ﹂
控えめな音量で喜びの声をラティナが上げる。
一口ケーキを切り分けて口に入れると、幸せそうな顔になった。
デイルはさっぱりした氷菓でデザートを終えていた。彼は嫌う程
ではないが、それほど甘い物を食さない。
むしろ幸せそうなラティナの様子がデザートだろう。それくらい
彼女の姿は心癒される。眼福である。
ちょうどその頃、音楽が変わった。
郷愁を誘うような静かなメロディーは、このクヴァレの町に溶け
込むような異国の空気を感じさせる物だった。
それに気を惹かれてステージを見れば、一人の女の奏者が、見慣
れぬ弦楽器を爪弾いていた。
頭には異国情緒溢れる紫の布を巻き、金色の飾りをシャラシャラ
と垂らしている。すらりとした体躯に纏うのもラーバンド国では見
ない様式のドレスだった。金の帯を巻いて、首には大振りのビーズ
を連ねたネックレスを掛けている。
そんな異国の姿の女が、異国のメロディーを奏でている。
﹁ねえ⋮⋮デイル⋮⋮﹂
彼が興味を惹かれたことに気付いたラティナもステージに顔を向
けて、そして小さく首を傾げた。
・
・
﹁どうした?﹂
﹁あのひと⋮⋮まじんぞく?﹂
﹁⋮⋮どうしてそう思うんだ?﹂
頭に巻かれた布の為に、魔人族の最大の特徴である角の様子は確
認出来ない。デイルにも断定は出来なかった。
ラティナは彼の問いに一点を指差す。
271
﹁あのひとの腕輪⋮⋮ラティナのと一緒だよ﹂
奏者は左の二の腕に、銀の腕輪を嵌めていた。
シンプルな金属の輝きだけを放つそれは、あまりに自然に彼女の
一部となっており、言われるまで気にも止めなかった。
﹁本当だな⋮⋮ラティナの持っている腕輪と⋮⋮よく似ている﹂
じぶんたち
重要な意味のある物だったのだろうか。
あまりにも﹃人間族﹄は、﹃魔人族﹄のことを知らない。その事
に気付かされてしまう。
﹁あの腕輪⋮⋮どういう物なのかなあ⋮⋮﹂
ぽつりとラティナは呟いた。
﹁ラグ、ちゃんと持ってなさいって言ってた。腕輪ね、内側になん
か書いてあるんだよ﹂
﹁そうなのか?﹂
﹁うん。⋮⋮でもね、ラティナ⋮⋮なんて書いてあるか読めないの。
ラティナ文字教わる前に、生まれたとこ、出たから⋮⋮﹂
少し寂しい笑顔を浮かべるラティナの姿に、デイルは即決する。
店の人間を呼んで、心付けと共に伝言を預ける。
自分たちが泊まる宿に返答を届けるように依頼した。
彼女が応じてくれれば、話を聞くことが出来るだろう。
魔人族のこと。−︱そして、もしかするとこの小さな魔人族の少
女に連なる情報を。
レストランを出る時に、沈んだ顔になりそうだった彼女に笑顔に
272
なって欲しくて、デイルは手を繋いだまま回り道をして帰った。
普段はしない夜道の散歩という特別感に、宿に着いたときにはラ
ティナの顔から暗さを払うことができていた。
ほっと安心する。
︵ラティナには⋮⋮笑っていて欲しいもんな⋮⋮︶
そう思ってデイルも穏やかな微笑みを浮かべた。
−−こうしてクヴァレ最初の日は過ぎていった。
273
幼き少女、同郷のひとと会う。︵後書き︶
誘拐されると大変。
誘拐されると︵怒り狂った﹃保護者﹄により、犯人と、とばっちり
でクヴァレの町が︶大変。
いつもお読み頂き、誠にありがとうございます。
274
幼き少女、雨音を聴く。
翌日は雨になった。
むしろ都合が良い。あちこちを見て回りたがり、じっとしていな
いラティナをゆっくりと休ませる良い機会だ。
そんな風にデイルは思う。
部屋の中で雨音を聴く。
激しい雨ではなさそうなので窓を開けて見れば、薄灰色に煙るク
ヴァレの町が静かに広がっていた。
ラティナはそんな町の様子を眺めている。
何かを見つけたのか時折身を乗り出してみたり、じっと一点に夢
中になったりしている。それはそれで、この静かな時間を楽しんで
いるようだ。
デイルはこれを機にじっくりと荷物の点検をすることにした。
食料のなどの消耗品の補充量だけでなく、道具類も劣化などして
いないか確認する必要がある。野営や一泊程度の宿泊では後回しに
しがちの為、こういう機会は貴重だ。
互いに会話をする訳でもなく、近くで存在を感じながら同じ時間
を過ごす。
穏やかで、閑かな、それでも悪くはない時間だった。
昼食も買ってきたもので簡単に済ました後、二人は並んでとろと
ろと午睡をした。雨音の中、緩やかな時間が流れていく。
275
﹃寡黙な鴎亭﹄から伝言が来たのは午睡の後、ラティナが便箋を前
にしてウンウンと唸っていた頃だった。書きたい事が多すぎて、便
箋に収まりきらないと難しい顔をしている。
デイルは渡されたカードを確認して、使者に心付けと共に返答を
委ねる。
﹁⋮⋮では、明日伺うとお伝え下さい﹂
﹁かしこまりました﹂
使者が立ち去った後、隣を見れば、いつの間にかラティナが佇ん
でいた。彼を見上げて尋ねる。
﹁今の人、昨日のお店のひと?﹂
﹁ああ。昨日の奏者の人に言付けて貰ったら⋮⋮明日の夜の営業の
前なら時間があるらしい。話が聞けそうだ﹂
﹁やっぱり﹃まじんぞく﹄だった?﹂
﹁そこまでは聞いてねぇけどな⋮⋮銀の腕輪について話を聞きたい
と伝えたら応じて貰えたよ。少なくとも、何か近い風習については
聞けるんじゃねぇかな﹂
ラティナはその言葉に少し考えて
﹁ラティナ⋮⋮知らないこと、いっぱいだね。﹃まじんぞく﹄のこ
とも全然知らない⋮⋮大人になるまでには、わかるようになるかな﹂
そんな風に言う。
﹁俺も知らないことだらけだよ。だからさラティナ。一緒に知れば
良いんじゃねぇかな﹂
﹁べんきょうといっしょかな?﹂
﹁そうかもな﹂
微笑みを交わす。
︵⋮⋮まだ、ラティナよりは、物事を知っていないといけねぇよな
276
ぁ⋮⋮俺も、うかうかしてらんねぇ⋮⋮︶
その裏でデイルは内心で汗をかきつつ、そんな独白をしていた。
この賢い少女はうっかりしているうちに、自分より先に行ってしま
いそうな恐ろしさを持っている。
﹃保護者﹄として、彼女に幻滅される訳にはいかない。せめてまだ、
︵ケニスも⋮⋮こんな心境なのかな⋮⋮︶
もうしばらくは。
日々レシピ開発と研究に勤しんでいる﹃兄貴分﹄の気持ちを痛感
する瞬間だった。
夕食も宿の一階で済ませ、早々に休む。
雨音は、いつの間にか途絶えていた。
翌日は曇りだった。
消耗品の買い出しに向かう為に準備をしていると、ラティナのき
あのね。お魚欲しいのっ﹂
らっきらした眸と目が合った。期待に満ち満ちている。
﹁デイル、デイルっ!
ケニスに使い方教わってきたの!﹂
クロイツにはあんまり無いけど、干したお魚もたくさ
﹁⋮⋮生魚は駄目だぞ?﹂
﹁干し魚!
んあるんだって!
ラティナらしいとは、思う。
だが普通、この位の少女なら、土産物とか雑貨等が気になるので
は無いだろうか。
そんな事を考える。
︵まぁ、良いか。ラティナ嬉しそうだし︶
ぴょんぴょんと跳ねるようにして歩く、上機嫌のラティナの姿の
前では、些末なことであった。
277
買い物と昼食を終え、買って来た物を宿の部屋に置いた後、約束
の時間が近づいていた。
二人は﹃寡黙な鴎亭﹄を再び訪れていた。昼食時を過ぎ、客の姿
が少なくなっている。そんな客席の隅に一昨日の奏者は座っていた。
派手な華やかさは無いが、涼しげな印象の女性だ。
今はごくありふれたシャツとロングスカートを着ていた。頭には
コロンとした形の帽子を乗せており、角の有無は確認出来ない。
デイル一人なら警戒されたかもしれないが、こちらにはラティナ
がいる。幼さを残す愛らしい少女が、少し緊張したようにデイルの
背中に半分その身を隠すさまは微笑ましい。
彼女もラティナを見て、表情を緩めていた。
二人は勧められた前の席に腰を下ろす。
﹁お時間を作って頂き、ありがとうございます。デイル・レキと申
します﹂
﹁いいえ。私に聞きたい事があるとか?﹂
﹁はい。貴女が今も身に付けていらっしゃる、その腕輪のことなの
ですが⋮⋮﹂
デイルは彼女が今も左の二の腕に嵌めている銀の腕輪に視線を向
ける。
彼女はゆったりと微笑みながら、首を傾げた。
﹁⋮⋮そんなに珍しいものでは無いと思いますけれど?﹂
﹁俺の知り合いもよく似たものを持っているのですが、何か謂われ
があるものならお伺いしたいと⋮⋮﹂
﹁あのねっ﹂
デイルの言葉を遮って、ラティナが声を上げた。
﹁ラティナ、﹃角﹄折られたの。まじんぞくなの﹂
﹁⋮⋮っ、ラティナ⋮⋮﹂
278
﹁⋮⋮まあ﹂
ラティナのその言葉に、デイルと女性は同時に驚いた顔で彼女を
見た。彼女は自分自身で髪をかき分けて、折れた角の付け根を露に
する。
﹁でもね。ラティナ子どもだから、わかんないこといっぱいあるの。
教えてほしいの﹂
彼女はデイルが自分の事を思い量って、その事実を隠そうとして
いてくれていたことは察していた。
だからこそ自分から口にしたのだ。
デイルは、その事実がラティナにとって危険や不利益をもたらす
ことを知っている。だがこうなってはもう隠そうとする方が不自然
だ。そう腹を括る。
﹁こんなに幼いのに、そんな事が⋮⋮?﹂
﹁⋮⋮俺にも詳しいことはわかりません。この子は親と死に別れて
いた所を俺が保護しました。その時のこの子は今より幼く⋮⋮手に
していた物は唯一、貴女が持つ物と似た腕輪だけでした﹂
﹁これは⋮⋮﹂
彼女は小さく呟いて、顔を上げると帽子を脱いだ。
ラティナとは形の異なる、横に垂直に伸びる角が左右に生えてい
た。
やはり彼女は魔人族であった。
彼女はそうして、まずこう告げた。
﹁この腕輪は、私の故郷では父親から子どもに贈られる物⋮⋮その
ひとのルーツを示すものですわ﹂
279
彼女はグラロスと名乗った。
ラティナのように追放されて魔人族の集落を離れた訳ではなく、
人間族の土地を旅していた後、人間族の夫と結婚してこの土地に定
住したのだという。
﹁まずお伺いしたいのですが⋮⋮あなた方は魔人族のことをどの程
度ご存知なのですか?﹂
﹁ほとんど知らないと言って良いと思います。この子も幼すぎて、
何も教えられていないまま故郷を出たようですから﹂
﹁そうですわね⋮⋮魔人族も、幼少期は人間族とほとんど成長度合
いに変わりはありませんもの。見た目通りの幼さですわ。そんな歳
の幼子が角を折られるなんて⋮⋮聞いた事がありません﹂
グラロスの表情も痛ましいものになる。
彼女から見ても、ラティナの状況はかなり異常なものであったら
しい。
﹁私の故郷はこの地より遥か南西。﹃一の魔王﹄が治める国﹃ヴァ
スィリオ﹄。魔人族の最大の勢力圏であるその国の片隅です。魔人
族は、ヴァスィリオ以外にも世界各地に独自の集落を作っています
が、国と呼べる程に確固とした政治形態を持ち、統治されているの
は﹃ヴァスィリオ﹄だけです﹂
﹁﹃魔王﹄は、やはり魔人族の王なのですか?﹂
﹁いいえ。人間族の言う﹃国王﹄と同じようなものは﹃一の魔王﹄
だけ。他の﹃魔王﹄は国家を治めているわけではありませんもの﹂
グラロスはそう答えた。
﹁ヴァスィリオの風習では、子どもは母親の元で育てられます。人
間族のように男女が結婚して共に暮らすという習慣はありませんの﹂
デイルにとってそれは初めて耳にする話だった。隣のラティナを
見れば、彼女は何か思い当たる節があるのか、はっとした顔をして
280
いた。
﹁けれども魔人族は子どもが授かりにくい種族。男親にとっても子
どもは歓迎する存在です。ですから男親は生まれた我が子に自分の
名を刻んだ腕輪を贈るのです。その子の生涯を祝福するという意味
を込めて﹂
グラロスは自分の腕輪をするりと外して彼等に裏側を見せる。デ
イルの見たことの無い記号のような模様が刻まれていた。
ここにはこう刻まれています。﹃我が名はコリダロス、我
﹁これが魔人族の文字。⋮⋮人間族の文字とは、だいぶ異なるでし
ょう?
が愛し子グラロスに此れを贈る。我が愛し子に幸多くあれと願う﹄
コリダロスは私の父の名。それと私の名グラロス。そして祝福の文
句を刻むのです﹂
グラロスは文字を指で辿っていく。
ラティナは腕輪の中を食い入るように見つめていた。
281
幼き少女、雨音を聴く。︵後書き︶
今週は更新が今回含めて二回程度かと。
あまり執筆出来ておりません。ちょっとゆっくりペースとなってし
まいますが、宜しくお願い致します。
282
幼き少女、銀の腕輪を見る。 ラティナの様子に、デイルは店の人間に頼み紙とペンを借りた。
それを渡されたラティナは、真剣な顔で銀の腕輪の中の文字を書
き写していく。
﹁腕輪に書いてあるの、みんな同じなの?﹂
﹁そうですね⋮⋮少し地域によって祝福の言葉は違うかもしれませ
ん。けれどもあまり大きな差はないはずですよ﹂
﹁そうなの﹂
こくん。と頷き、書き写した文字と腕輪を見比べている。
・
・
そのうちラティナは少し悩みながら紙の片隅に文字を綴り始めた。
﹁ラティナ⋮⋮これは?﹂
﹁ラティナの腕輪に書いてあったの⋮⋮こんな感じだったの。ラグ
の名前かなあ⋮⋮﹂
﹁見せて頂けます?﹂
グラロスにラティナは紙を渡す。彼女はしばらくラティナの書い
た物を眺めて考えていたが、その後隣に文字を書き付けた。
﹁こう⋮⋮だったのではありませんか?﹃スマラグディ﹄−−翠の
石を意味する言葉です﹂
﹁スマラグディ⋮⋮ラグの名前?﹂
ラティナは聞き慣れない単語に首を傾げているが、グラロスは﹁
恐らく﹂と頷いた。
﹁魔人族は幼子に名を略して呼ばせることもあるのですよ。あなた
のお父様は、幼いあなたに、略称のみを教えていたのかもしれませ
んね﹂
﹁ラティナは、﹃一の魔王﹄の国⋮⋮ヴァスィリオの生まれなんだ
283
な﹂
﹁恐らくそうではないでしょうか⋮⋮﹃三の魔王﹄や﹃六の魔王﹄
のもとにも大きめの集落はありますが⋮⋮このような習慣はないは
﹃六のまおう﹄?﹂
ずです。私も母より聞かされた限りですけれど﹂
﹁﹃三のまおう﹄?
ラティナが首を傾げたので、デイルが補足の説明をする。
﹁﹃三の魔王﹄は別名を﹃海の魔王﹄。東の辺境で﹃水鱗族﹄と共
存関係を築いているらしい。﹃六の魔王﹄は﹃巨人の魔王﹄。魔人
族の中でも大きな体格を持つ一派で⋮⋮同族の者を眷属として、定
住せずあちこちを放浪しているって聞く﹂
﹁ふぇぇ⋮⋮﹂
﹁そうですわね。後は本当に小さな集落が点在するだけだとか。そ
こまでいくと魔人族の私でも詳しくは存じあげません﹂
グラロスがそう言った時だった。
﹁でも⋮⋮﹃一のまおう﹄いるの?﹂
突然、ラティナは二人にそう問いかけた。
﹁え?﹂
﹁まあ⋮⋮﹂
﹃一のまおう﹄、﹃二のまおう﹄に殺されたんじゃ
⋮⋮﹃一の魔王﹄の国なら⋮⋮いるんだろう?﹂
デイルは呆気に取られ、グラロスは驚いた顔をする。
﹁え?
﹁そうなの?
ないの?﹂
ラティナはそう言って、不思議そうに首を傾げている。
デイルがグラロスを見れば、彼女は驚いた顔のまま頷いた。
﹁よくご存じですね⋮⋮こんなに小さいのに﹂
感心したように嘆息して言葉を続ける。
﹁私が故郷を離れる前の出来事でしたわ。﹃一の魔王﹄が﹃二の魔
284
王﹄により殺害されましたの。⋮⋮その時だいぶヴァスィリオも荒
れまして、私が故郷を出るきっかけになりました。もうだいぶ昔の
話です。それ以降は﹃一の魔王﹄不在のまま、遺された魔族の方々
により統治機構が維持されていたはずですわ﹂
﹁って事は⋮⋮ヴァスィリオには今、﹃魔王﹄はいないのか?﹂
﹂
﹁ええ。﹃魔王﹄は人間族の王のように世襲制などではありません
*****、********、﹃**﹄***
から⋮⋮﹂
﹁
グラロスの言葉を聞いて、ラティナが呟いた。デイルには聞き取
れない早口の言葉だったが、グラロスは大きく頷く。
﹁そうですわね⋮⋮他の﹃人族﹄のもとに、﹃神に愛されし覆す者﹄
として﹃勇者﹄と呼ばれる存在が現れるように、私たち﹃魔人族﹄
私たち
のもとには﹃神に選ばれし護られし者﹄−−﹃魔王﹄が現れる﹂
﹁新しい﹃一のまおう﹄は⋮⋮﹂
﹁神々がその時が来たと判断を下されたなら、魔人族は新たな﹃王﹄
を戴くのでしょう﹂
俺ら
デイルはそこまで話を聞くと、大きく息を吐いた。
・
・
・
﹁本当に人間族は﹃魔人族﹄のことを何も知らないな⋮⋮﹃魔王﹄
ってだけでこっちでは恐怖の象徴だ﹂
デイルのそんな様子にグラロスは微笑を向ける。
﹁それは仕方がないことかもしれません。ヴァスィリオは他国と交
流をほとんど持たない国。それに反して﹃厄災の魔王﹄は他国にも
積極的に関わっているのですもの﹂
﹁﹃厄災の魔王﹄?﹂
﹁こちらではあまり聞きませんね⋮⋮魔人族は、﹃魔王﹄の中でも、
他者に悪意と害意のみを運ぶ魔王たちをそう称するのですよ﹂
﹁戦乱の魔王⋮⋮﹃七の魔王﹄とかのことか?﹂
285
﹁ええ。後は⋮⋮死と殺戮を愛する冥王﹃二の魔王﹄、疫病を運び
病魔の化身である﹃四の魔王﹄などは、私たち魔人族にとっても、
恐れられている存在なのですから﹂
いつの間にか時間は過ぎて、﹃寡黙な鴎亭﹄の夜の営業時間が近
付いてきていた。
グラロスがそれに気付いたように周囲を見渡す。
﹁まあ⋮⋮もうこんな時間。申し訳ありませんが、私もそろそろ仕
事の準備に取り掛からねばなりません﹂
﹁いえ。こちらこそ、ありがとうございました。思っていた以上に
色々な話を伺うことが出来ました﹂
デイルは席を立つと、礼を言ってラティナを促した。
彼女がちょこんとお辞儀をすると、グラロスが表情を緩めた。ラ
ティナの頭をそっと優しい手つきで撫でる。
ラティナはじっとグラロスを見詰めていた。
﹁ほら、行くぞラティナ﹂
﹁うんっ﹂
デイルが﹃寡黙な鴎亭﹄の扉へと向かって行くのを追いかけて行
く途中で、ラティナはピタリと足を止めた。反転してグラロスの元
に駆け戻って行く。そして問いかけた。
﹁あのね⋮⋮あのねっ⋮⋮だんなさん⋮⋮どうしたの?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
静かな声で
ラティナの言葉に少し沈黙したグラロスだったが、彼女はその短
い時間の思考で眼前の少女の聞きたいことを察した。
事実を告げる。
﹁⋮⋮人間族としては、長く生きた方でしょう。最期まで⋮⋮私が
見送りましたわ﹂
﹁っ!﹂
グラロスの返答にラティナは息を飲み、それでもそれが予想通り
286
・
・
だとでも言うように、ぐっと感情を飲み込んだ顔をした。そしても
う一度問いを投げかける。
﹁⋮⋮子どもはいるの?﹂
・
・
﹁残念ですが⋮⋮魔人族は子どもが授かり難い種族⋮⋮それが他の
人族との混血であれば⋮⋮ますます難しいものになるのですよ﹂
グラロスはそう答えて、目の前の人間族の中で暮らす少女をもう
一度撫でた。魔人族が人間族の中で暮らすのには、習慣や生まれ以
外にも困難が伴うことをグラロスはよく知っている。
﹁あのね⋮⋮ね⋮⋮だんなさんと出会えて⋮⋮幸せだった?﹂
﹁⋮⋮ええ﹂
グラロスは微笑んだ。だからこそ彼女は今でもこの町で暮らして
いるのだから。
夫と共に暮らし過ごした、この港町で。彼が好きだった曲を奏で
ているのだから。
﹁ちゃんと私は、幸せですわ﹂
﹁⋮⋮それなら、良かった﹂
ラティナが泣き顔を堪えるようにして微笑んでみせると、グラロ
スは彼女をそっと抱きしめた。
自分と夫の元に子どもが授かっていたならば、こんな風に幼子を
抱きしめる時もあったのかもしれない。
そんなことを想いながら。
並んで歩きながら、デイルはラティナを眺めていた。
最後にラティナがグラロスの所に戻って何を聞いたのか、彼は知
らない。
けれども彼の隣を歩くラティナは、ぎゅっと力を込めて彼の手を
287
握っている。命綱でもあるかのように。離したら、失ってしまうの
ではないかと恐れているように。
せっかくの町の風景も、目に入らないまま、下を向いて。
デイル
−−だから彼は
﹁きゃっ!?﹂
急に視界が反転して、ラティナは驚いたように声を上げた。大き
な灰色の眸をぱちぱちとさせる。
﹁デイル?﹂
﹁ん?﹂
デイルはラティナを抱き上げていた。彼女がもう少し幼かった頃
歩けるよ﹂
は毎日のようにこんな感じで過ごしていたというのに、本当にずい
ぶんと久しぶりだった。
﹁重くなったなぁ⋮⋮﹂
﹁ラティナ、赤ちゃんとちがうよっ?
﹁赤ちゃんじゃないけどな。ラティナはもっと俺に甘えて良いんだ
よ。俺の可愛い、可愛い大事な女の子なんだからさ﹂
ぽふぽふと頭を撫でて、そのまま歩く。
ラティナはすぐに大人しくなって、デイルの首に腕を回してしが
みついた。彼女にとって、この場所は確かに慣れ親しんだ位置だっ
た。
視界が高くなると、それだけで風景は異なって見える。
下を向いたとしても、それは今までの地面とは違った距離の、異
なる景色になっていた。
﹁デイル⋮⋮﹂
﹁ん?﹂
288
彼の耳にラティナは小さな、想いを込めた声を囁き入れた。
﹁いつもありがとう⋮⋮だいすき﹂
−−と。
雲の切れた合間から、一番星がきらりと光っていた。
289
幼き少女、銀の腕輪を見る。 ︵後書き︶
37話にして⋮⋮ようやくタグの﹃勇者﹄の単語が出ました。
相変わらずゆるゆると話は進んで参ります。
今後もお付き合い頂ければ幸いと存じます。
290
幼き少女、春うらら。︵前書き︶
当方、花見大好き人間です。
291
幼き少女、春うらら。
クヴァレを出立したのは早朝だった。
昨日からの雲が残り、薄曇りの為時間よりも暗く感じる。
﹁残念だったなぁ。ここの街道は海が良く見える場所だったのに﹂
﹁帰りの楽しみにするの﹂
街道から見通せる景色は、灰色の空と鈍く沈む海の色が水平線で
別れていた。晴れていたならば美しいに違いないと思わせる風景だ
った。
だがラティナは、ぷるぷると首を振る。
建設的な意見を述べてにっこりと笑った。
﹁海からはまた南の方に向かうぞ。クロイツから大きく迂回して東
の方に向かう感じだな﹂
﹁どうして﹃うかい﹄したの?﹂
﹁直に向かうと、急な勾配の山越えが続くんだよ。街道もねぇから
獣道があれば御の字だし。俺一人でもやりたくねぇ﹂
﹁そうなの﹂
﹁俺の田舎は山の中だから、ずっと登って行く感じになるなぁ⋮⋮
王都からもどんどん離れて行くから、寂れていくし⋮⋮﹂
デイルの説明を聞きながら歩く街道は、それなりに旅人の往来が
見られる。だが、二人が昼近くに山側に向かう別れ道に逸れた途端、
人の姿が見られなくなった。道もはっきりと荒くなっている。
寂れた方向に向かっていることが、わかりやすい程のわかりやす
さだった。
﹁ラティナ、馬に乗るか?﹂
﹁まだ、だいじょうぶだよ﹂
292
ラティナはそれでも楽しそうに歩いている。
季節が春を迎えていることを示すように、道端には小さな花が咲
いている。それらを見つけては、ラティナは嬉しそうに微笑んでい
た。
そんな時だった。
薄紅色の花びらが視界を横切って、ラティナは視線を上げた。
﹁うわあぁっ﹂
思わす歓声を上げるのも無理はない。そこは満開に咲き誇った薄
紅色の花の並木道となっていた。灰色の空を背景に、淡く紅色を帯
びた小さな花が華やかに映え、頭上を覆っている。
﹁春だなぁ⋮⋮近くに村がある。誰かが植えたのかな⋮⋮﹂
デイルの呟きも今のラティナには届かない。
視線も意識も、今は盛りと咲く華やかな光景に奪われていた。
デイルは少し苦笑して足を止めた。
﹁ラティナ、休憩にするか﹂
﹁うんっ﹂
声をかけると、予想通りに嬉しそうにラティナが応じる。デイル
は手綱を近場に結びつけてから、並木道の下に腰を下ろした。ラテ
ィナも隣に腰を下ろす。
彼女はそのまま頭上を見上げている。きらきらした眸がひらひら
と舞い散る花びらを追っていた。
デイルが宿に頼んで用意してもらっておいた包みを取り出す。
包み紙を開ける音で、ようやくラティナは彼のその行動に気付い
たようだった。
そこにはサンドイッチが並んでいた。
クヴァレ特産の魚を具材にしたものばかりで、次に魚料理を食べ
る機会が何時になるかわからない事を惜しんで、作ってもらった弁
当だった。
293
﹁ラティナどれ食いたい?﹂
﹁えーと⋮⋮デイルは?﹂
﹁俺はどれでもいいぞ﹂
しばらく迷って、ラティナは魚を燻製にしたものと野菜を挟んだ
サンドイッチを手に取った。ぱくんと隅にかじりつく。
デイルも魚のオイル漬けを具にしたものを食べはじめた。
ブラオ
二人が食事をする静かなこの場に、ひらひらと花びらが落ちて来
る。
マイペースに草を食む馬の姿を目で追って、水筒の水で喉を潤し
た。
デイルが二つ目を食べ終わる頃、ラティナはようやく半分程を食
べ進めた所だった。ベロンと中身を引き出してしまって、慌てた顔
をしている。もっもっもっ。と、くわえた魚のスライスを少しずつ
引っ張り上げて口の中に収めていた。
本当にいちいち行動が愛らしい。
﹁おいしかった﹂
﹁そうか﹂
﹁お花、きれいだね﹂
食事を終えた後、しばし休憩して春の景色を楽しむ。
再び立ち上がって移動を再開するまで、ラティナはずっと満開の
花に見入っていた。
隣を歩くラティナの白金色の髪に、薄紅色の花びらが名残を惜し
むように一枚乗っているのを見付けてデイルは微笑んだ。
時間が経った後で教えてやるのも、悪くは無いような気がした。
294
数日後、街道の脇の草原が花畑となっていた時も、ラティナは足
を止めた。
確かにクロイツでは花壇や公園に花が咲いている所を見ることは
出来るが、こんな風に周囲一面を様々な花が覆い尽くしている光景
を見ることは出来ない。
﹁いいぞ。少し寄り道していくか?﹂
﹁いいの?﹂
﹁蛇とかには気をつけろよ?﹂
﹁だいじょうぶっ﹂
返事と共に花畑にラティナが駆け込んで行くと、彼女の腰までも
色鮮やかな花たちに隠れた。
嬉しそうに笑いながら、周囲全てを花に囲まれるという体験を満
喫しているラティナは、その容姿の愛らしさもあって
︵うん。間違いない︶
そんな親バカコメントを独白してしまう位には、可愛いらしく幻
想的な光景だった。
ラティナの目の前を大きな蝶が飛んで行く。
彼女は青空の向こうに向かうそれを、しばらくじっと見送ってい
た。
ラティナは旅を楽しんでいるようだった。
春というこの時期も良かったのかもしれない。気候も穏やかだし、
風景も何処か浮かれ気分となる華やかな季節だ。
これ程ラティナが喜ぶのなら、クロイツに帰ってからも何処かに
連れ出してやるのも悪くはないだろう。
そんな事を考えてしまう。
295
少しずつ山が近づき、道に傾斜が感じられてくると、又景色は趣
を変える。
深い森に入ったのだ。
だが、クロイツの南の森のような陰鬱さは感じられない。
魔獣や獣の姿や気配はあるが、人を脅かす程の脅威とはなってい
ないのだ。森の中に頻繁に手を入れているということだろう。
﹁この近くには﹃獣人族﹄の村があるからな。それで結構この辺り
は安全なんだよ﹂
﹁じゅーじんぞく?﹂
﹁ああ。ラーバンド国じゃ珍しいよな。もっと西の国なら結構いる
らしいけど。人間族と友好的な種族だから、結構混血も多いし、冒
険者やってる奴も多いぞ﹂
﹁へえ⋮⋮ラティナ気付かなかった﹂
﹁クロイツにはあんまりいないからなぁ⋮⋮クヴァレではたまにす
れ違ってたぞ?﹂
そう言えば、ラティナは少し気まずそうな顔をした。
彼女は町中のあちこちに夢中になりすぎて、そういった大きな点
を見落としがちなのだ。迷子になりやすい質だとも言える。
木々は若葉らしい明るい色調の緑の葉を付けている。
デイルはそんな森の中で、街道から、獣道を少しましにした程度
の細い道に逸れた。
茂みがちょうどラティナの顔に当たる位置に葉を繁らせているた
め、馬上に乗せる。ラティナは周囲をゆっくり見渡せるようになる
と、あちこちに視線を向けはじめていた。
﹁デイル、どこ行くの?﹂
﹁今日は獣人族の村に泊まるぞ。宿はねぇけど、知り合いが居るか
らそこに泊めて貰う﹂
296
﹁デイルのしりあい?
友だち?﹂
﹁友だちじゃなくって、一応親戚だなぁ⋮⋮そいつの母親が俺の親
父の又従姉妹なんだよ﹂
﹁ふぅん?﹂
ラティナにはあまりよくわからない関係であったらしい。こてん。
と首を傾げている。
﹁家族の家族みたいな感じだよ﹂
﹁ふぅん﹂
返事をしてはいるが、多分よくはわかっていないだろう。そんな
顔をしている。
森が急に拓けたのは、夕刻を迎える前のことだった。
小さな村がそこにはあった。今まで立ち寄って来た町とは比べも
のにならない。ぐるりと見回せば村の全貌が視界に入りそうだ。
石積の壁と木の色をそのまま残す屋根の小さな家々が、身を寄せ
合うように建ち並んでいた。
﹁ふぁあっ﹂
﹁暗くなる前に着けたな﹂
デイルはほっとしたように村の入り口へと向かう。今までの町の
ように壁を築くこともしていない。木々を組んだ柵で一応村の周囲
を囲んでいるといった様子だった。
入り口付近を歩いていた村人の姿に、ラティナはもう一度驚いた
﹃じゅーじん﹄のひとっ?﹂
ように嘆息した。
﹁ふぁっ!
﹁そうだぞ。特徴的だから、初めて見たら驚くか﹂
デイルはそんなラティナに笑みを向ける。
彼らの会話に気付いたのだろう。獣人族のその人は毛に覆われた
顔を彼らに向けた。
﹁珍しいな。客人か?﹂
297
﹁ああ。ビュンテの所に来たんだが。入っても構わないか?﹂
﹁ビュンテのところか﹂
デイルの上げた名に彼−−着ている服から年配の男性だと思われ
る−−は、何度か頷いた。納得して貰えたらしい。
﹁この時間なら家にいるだろう。案内が必要か?﹂
﹁いや、大丈夫だ。ありがとう﹂
デイルがそんな会話をしている間もラティナはまじまじと相手を
観察している。本来ならば失礼に当たるだろうそんな視線も、彼女
の場合、後ろ暗い感情の無い素直な好奇心だけのものだ。相手に悪
感情を抱かせ難いという得な性質である。
﹃獣人族﹄の外見は特徴的だ。
体格自体は他の人族と大差は無い。だが、その顔や身体のあちこ
ちは獣毛に覆われている。毛色には個人差があり、茶や黒など様々
だ。
それが﹃
顔立ちも獣を彷彿とさせる容貌だ。一番近い獣をあげるとすれば
犬だろうか。それと人とを合わせた見た目をしている。
天を向く三角耳と尾を持ち、獣毛に覆われた﹃人族﹄
獣人族﹄なのだった。
﹁⋮⋮デイル、﹃じゅーじんぞく﹄と家族なの?﹂
不思議そうなラティナにデイルは村の一軒を指さして答えた。
ミックス
﹁ほら、あそこがビュンテの家⋮⋮あいつは、人間族と獣人族の﹃
ミックス
混血﹄だからな﹂
﹁﹃混血﹄?﹂
﹁ああ。人間族と獣人族は﹃性質﹄が近いから、血が混ざるんだ。
外見も、人間族の見た目に獣人族の特徴である獣耳や尾を受け継ぐ
姿で産まれるんだよ﹂
298
299
幼き少女、春うらら。︵後書き︶
お花畑とちっさい娘。というシチュエーションはやらなければなら
ない。という使命感を感じたのですが⋮⋮当方の完全な趣味であり
ます。
今後もこんな感じに脇道にそれることでしょう。
300
幼き少女、獣耳に興味を奪われる。
七種存在する﹃人族﹄は、互いに子孫を残すことができることか
らも、広義では同じ種の存在である。
だが、それでもそれぞれに大きな特徴を持っており、﹃性質﹄が
遠い﹃種族﹄では﹃血が混ざる﹄ことなく、父親と母親どちらかの
﹃種族﹄として子どもは誕生する。
遺伝情報を受け継がないということでは無い。
例えば﹃水鱗族の母親﹄と﹃人間族の父親﹄の間には、﹃水鱗族﹄
か﹃人間族﹄の子どものみが産まれる。また、母親側の種族が産ま
れる割合の方が高くなる傾向があらわれる。
だが、﹃父親似の水鱗族﹄や、﹃母親似の人間族﹄のように種族
以外の点では両親の性質は交ざり合う。
ミックス
﹃性質﹄が近い﹃種族﹄は、それ以外に﹃混血﹄と呼ばれる存在が
産まれる。
﹃人間族﹄と﹃獣人族﹄の場合は、﹃人間族に近い外見に、獣耳と
ミックス
尾という所に獣人族の特徴を残す﹄といったように、互いの種族の
性質が交ざり合う。それら二つの種族の特徴を持つ者のみを﹃混血﹄
と言い表すのだ。
そんな話を聞いている間も、ラティナは目の前のぴこぴこ動く獣
耳が気になって仕方ないようだった。
血の繋がりはあるとはいえ、遠い親戚だ。デイルと似た容姿では
ない。強いて言えば耳や尾の先端に茶色を残して黒髪となっている。
301
そんな毛色位のものだろうか。
・
﹁だから、俺みたいな奴が居るわけだ﹂
相好を崩しながら彼はそう言った。
﹁それにしてもヨーゼフ⋮⋮お前また少し太ったんじゃねぇのか?﹂
ミックス
デイルの言葉にも全く動ずることなく笑っているのは、名をヨー
ゼフ・ビュンテという、中年の﹃人間族と獣人族の混血﹄の男性だ
った。ふくよかで、腕も腹回りもたっぷりとしている。元より細い
目がより細く見えるのは肉付きの為でもあるだろう。
短く刈り込まれた黒髪の頭から三角の耳が生えていた。
﹁幸せ太りだ。仕方ないだろう。ほら、可愛いだろう﹂
デイル
﹃親バカ﹄に負けじとヨーゼフは笑う。その腕のなかには幼い獣人
族の子どもが抱かれていた。黒いモフモフの毛玉のようなこの子は、
ビュンテ家の待望の第一子であった。
﹁って言われても⋮⋮人間族の俺には獣人族の見分けは⋮⋮﹂
そんなデイルの呟きを背景に、ラティナは手を伸ばして眠る幼子
を撫でる。
﹁かわいい女の子だね﹂
﹁そうだろう、そうだろう﹂
﹁目もとはおかーさんに似てるけど、顔はヨーゼフさんに似ている
ね﹂
﹁そうだろう、そうだろう﹂
満足そうなヨーゼフをちらりと見て、デイルは複雑そうな顔をす
る。
﹁えーと⋮⋮ラティナ?﹂
﹁ん?﹂
﹁⋮⋮獣人族の見分けつくのか?﹂
﹁ん?﹂
デイルの問いに、ラティナは不思議そうに首を傾げている。
302
人間族のデイルにとって、獣人族は毛色や体格で見分けることは
出来ても、顔だけでは男女の区別も付ける事は出来ない。
﹁だって、みんな違うよ?﹂
﹁そうか⋮⋮わかるのか⋮⋮﹂
予想外の所で、魔人族の凄さを感じた。
﹁おくさん、きれいなひとだね﹂
﹁そうだろう﹂
ラティナがそう言ったヨーゼフの妻は、生粋の獣人族だ。
白い毛並みが艶やかなのはわかるし、少し青灰がかった色が手足
に入っているのは珍しいな、とデイルは思う。だがそれだけだ。
﹁でもマーヤちゃんは、びじんさんより、かわいいって感じの女の
子になるね﹂
にこにこしながらラティナは言っているが、正直デイルには見分
けは全くつかない。黒い毛並みもあって男の子かなぁと漠然と思っ
ていた位だ。
﹁本当、凄ぇな⋮⋮﹂
﹁そういうお嬢ちゃんも、良い毛並みだなぁ﹂
わしわしとラティナの頭を撫でながらヨーゼフが言う。
︵褒める所そこなのか。獣人族的には⋮⋮︶
異文化コミュニケーションって難しい。
ヨーゼフが家族と暮らす小さな家は、村の北外れにあった。
リビングダイニングと居室のみの二部屋のシンプルな間取りとな
っている。この村では平均的な家屋だ。
303
木のぬくもり溢れる室内に、一枚板のテーブルが存在を主張する
リビングは、物が色々とあって雑然としている。
だが不快感を感じないのは、それも含めて日々の生活の一部であ
るからだろう。
﹁お前がここに寄ったって事は、﹃村﹄に帰る途中だろう?﹂
﹁ああ﹂
デイルが手土産に持参した、クロイツから持って来た酒瓶とクヴ
ァレで求めた干し魚を、妻のウーテに渡しながらヨーゼフは言った。
﹁婆さんは元気か?﹂
﹁死んだって話は聞かねぇからなぁ⋮⋮前貰った手紙では、まだま
だ親父に当主は任せられないって、カラカラ笑っていたらしいぞ﹂
﹁﹃らしい﹄な﹂
﹁だろう?﹂
男二人の会話にラティナはあまり興味を持てなかったらしい。
彼女は眠るマーヤの姿を眺めたり、キッチンで作業をするウーテ
の様子を伺ったりしている。
余所の家であるから手を出さないようにしているらしいが、獣人
族の暮らしぶりにも田舎の生活にも興味津々である様子だった。
ウズウズしている。
そんなラティナの姿に気付いたウーテが、微笑みかけながら招く
と、待ってましたとばかりに近付いていく。
﹁ふあぁっ﹂
ウーテが手慣れた様子で山菜の下拵えをする姿に、目を丸くする。
﹁これ、どうやって食べるの?﹂
﹁この辺りだとよく食べるんだけどね、珍しいかな﹂
﹁クロイツの近く、山ないから﹂
﹁ああ、そうだね﹂
304
ウーテのやり方を見よう見まねでラティナは真似る。
彼女の手つきがしっかりしていることに、ウーテは目を見張る。
ラティナは実年齢より幼くみえがちだし、この年代の子どもと比べ
て家事が出来る方だ。
一度手伝いはじめれば、ラティナはじっとしている方が苦痛であ
るらしく、ウーテの後ろをちょこちょこしながら仕事を探している。
自分の領域であるキッチンを他人に触られる事を嫌がる女性も多
いが、その点では幼いラティナは得だ。
彼女のような小さな子どもが、笑顔で働く姿は微笑ましい。
テーブルの上に木の皿と、肉を香草とともに煮込んだシチューが
並んだのは、デイルとヨーゼフの会話が最近の王都の噂話に移った
頃だった。クロイツでは見ない色のパンが添えられている。
その匂いに反応してヨーゼフの腕の中ですやすや寝ていたマーヤ
の鼻がひくひくと動いた。母親のウーテと同じ緑の眸がぱちりと開
く。
しばらくぼんやりした後で、知らない人間がいることに驚いた様
子だった。
﹁っ!﹂
ヨーゼフ
不安そうにぎゅっとヨーゼフに抱きつく。
うむ。と彼は頷いた。
うちのこ
﹁どうだ。可愛いだろう﹂
﹁何を言う。ラティナだって相当の物だ﹂
負けじとデイルは、山菜の和え物の入ったボウルを運ぶラティナ
を指し示す。
﹁ん?﹂
急に話を振られたラティナは、きょとんとした顔をした。
305
あてぃあ?﹂
﹁こんにちは、マーヤちゃん。ラティナだよ﹂
﹁うー?
﹁こんにちは﹂
そんな会話をしていた時は緊張気味だったマーヤであったが、ほ
どなくして彼女はすっかりラティナに慣れた。
そしてまた、ラティナも小さなマーヤに夢中の様だ。
今も覚束ない手つきでシチューを食べ、べたべたになったマーヤ
の口の回りを拭いたりと甲斐甲斐しく世話を焼いている。
今までクロイツでは、﹃世話を焼かれる﹄事が多かったラティナ
にとって、﹃お姉さん﹄であるというのは重大な事であるらしい。
ラティナ
﹁可愛いなぁ﹂
︵うちの娘︶
マーヤ
﹁可愛いだろう﹂
︵うちの娘︶
そんな少女二人の睦まじい姿に、男二人がうんうんとしたり顔で
頷き合う。ウーテは気にする様子も無く食事を進めていた。
ツッコミ不在であった。
皆幸せであるから、文句は出ない。
﹁ウーテさん。シチューおいしい。何のおにく?﹂
﹁﹃イノシシ﹄だよ。この辺り多いからね﹂
﹁へえー⋮⋮﹂
ラティナは匙を口に運んで、大きな肉のかたまりを咀嚼している。
香草はあくまで風味の為といった分量で、メイン食材は肉である
と主張しているような料理だった。
ラティナは幸せそうに食事をしているが、この面子の中では一番
の少食だった。まだ言葉もおぼつかないマーヤだが、ラティナと同
306
じくらいの量のシチューをもりもり食べている。
ウーテやヨーゼフに至っては、ラティナとデイルの分を合わせた
以上の量を食べていた。獣人族は総じて大食いの傾向があるのだ。
﹁お前等、明日出るのか?﹂
﹁一応そのつもりだが、なんかあるのか?﹂
﹁明日は村の男連中で狩りに出る。うまくいけば余剰の保存肉だと
か持たせてやれるぞ。その後にしとけ﹂
﹁そんなに大掛かりな狩りなのか?﹂
デイルが尋ねた問いに、なんてことも無いようにヨーゼフは答え
た。
バナフセギ
﹁紫の神の巫女さんのお告げが出たからな﹂
307
幼き少女、獣耳に興味を奪われる。︵後書き︶
ケモミミ中年親父のメタボ腹をぷにぷにする﹃娘﹄の姿が浮かんで
きたのです⋮⋮誰得かとかは考えていません⋮⋮浮かんでしまった
のですから⋮⋮
こんな残念仕様ではありますが、今後もお付き合い頂ければ幸いと
存じます。
308
幼き少女、自分の枷を青年に告げる。
その言葉を聞いた瞬間、ラティナの身体がびくりと跳ねた。
からんと大きな音をたてて、匙を落とす。彼女がこのように不作
ラティナ?﹂
法をするのは珍しい。
﹁⋮⋮?
﹁⋮⋮﹂
下を向いたまま彼女は動きを止めていた。
デイルの問いかけにも答えない。彼は彼女の突然の変調の理由に
見当が付かなかった。
﹁どうした?﹂
﹁⋮⋮なんでもないよ。だいじょうぶ﹂
重ねた問いかけに、取り繕った表情を向けてラティナは再び匙を
拾った。そのまま黙々と食事を再開する。
その後食事を終えるまで、ラティナは無言のままだった。
リビングの一角を借りて、就寝の仕度をする間もラティナは物静
かだった。快適な寝床とまではいかないが、天候や外敵を気にせず
暖かい場所で休める事は、野営が続いた後ではありがたい。
毛布にくるまったラティナがデイルの背中にこてん。と額を押し
当てる。
﹁大丈夫かラティナ?﹂
﹁⋮⋮ラティナ、だいじょうぶだよ﹂
繰り返した言葉にデイルはため息をつく。
本当にこの子は我慢強く、弱音を吐こうとしない。
身体を捻りラティナの方を向くと、毛布ごと彼女を抱きしめた。
ぽんぽんと背中をなだめるように叩きながら横になる。
309
﹁デイル?﹂
デイルは自分にも毛布を引き上げながら微笑む。彼女は自分の傍
にいること自体に安心を感じている。そのくらいの事はデイルも重
々承知しているのだ。
ならば自分は、不安になった時の彼女を支える存在であれば良い。
その思いが伝わったのか、ラティナはデイルの腕の中で目を閉じ
ながら呟いた。
﹁デイル⋮⋮ラティナと一緒にいてくれる?﹂
﹁ああ﹂
﹁それならね。⋮⋮ラティナ、本当にだいじょうぶなんだよ﹂
彼女が寝息をたてるのを見守りながら、デイルはラティナの怯え
た理由を考えていた。
彼の衣服をぎゅっと掴んで眠りにつくのは、出会った頃よくみら
れた行動だった。不安の現れなのだろう。
最近のラティナは甘えたり、隣で眠る事を求めても、ここまで不
バナフセギ
安そうな姿ですがりつく事はなかった。
﹁紫の神⋮⋮﹂
ラティナの様子がおかしくなったのは、彼の神の名が出た瞬間か
らだ。
︵じゃあ⋮⋮もしかしたら⋮⋮ラティナが故郷を追われたのは⋮⋮︶
バナフセギ
クロイツには﹃紫の神﹄の神殿はない。
それは神殿が、元々﹃加護﹄を持つ者が運営する施設であるとい
バナフセギ
う事が関係している。
﹃紫の神﹄の﹃加護﹄は﹃人間族﹄にはほとんど現れない。人間族
の街であるクロイツには、その為に神殿が存在しないのだ。人間族
の中での信仰も薄い。恩恵に与れる機会が少ない分、どうしても他
の神々に比べて印象が薄い存在になりがちだ。
310
バナフセギ
だが、﹃他の人族﹄にとってはそうではない。
﹃紫の神﹄の﹃加護﹄は、未来の一部を垣間見る事が出来るという
独特の物だ。
﹃何を見る事が出来るか﹄には加護の強さによって差がある。
それでも﹃天候﹄や﹃災厄﹄を事前に察知することが出来る存在
が、元々絶対数の少ない﹃他の人族﹄にとって、自分たちの身を守
る為にどれだけ重要な存在であるかは考えるまでもない。
バナフセギ
﹃紫の神﹄の祭司の言葉は重い。
おそらく﹃他の人族﹄にとっては、他の﹃神々﹄の祭司の言葉よ
りもずっと。
そうわかっていても呟かずにはいられない。
﹁⋮⋮人の未来なんて、高位の祭司でも、曖昧にしか読めねぇもん
だぞ﹂
そっと何度も何度も彼女の背中を撫でる。
﹁解釈の仕方で、幾らでもひっくり返る筈だ⋮⋮なんでお前の故郷
のやつらは、そんな曖昧な物で、お前の運命を決めつけたんだろう
な⋮⋮﹂
デイルの呟きには、苦しそうな哀しそうな響きが含まれていたの
だったが、夜闇の静寂の中、聞く者は誰もいなかった。
﹁気をつけろよ﹂
﹁期待して待ってて良いぞ﹂
朝靄の中出掛けて行くヨーゼフを見送るデイルの隣には、ラティ
ナがぴたりと寄り添っている。
まだ普段の彼女が起きる時間よりずっと早いのだが、デイルが身
体を起こした途端、ラティナも慌てたように跳ね起きてしまったの
311
だ。
デイルは苦笑を浮かべたが、何も言わずにラティナを撫でただけ
だった。
ウーテが朝食に用意した麦の粥も、普段のラティナならばクロイ
ツでは見かけない調理法だと、目を輝かせる筈のものだろう。それ
・
・
なのに、静かに無感動に食事を進めている。
何かから隠れているように。見付からないようにひっそりと息を
おいち?﹂
殺して、恐ろしいものをやり過ごそうとしているようだった。
﹁あてぃあ?
空気を変えたのは、幼い子どもの無邪気な笑顔だった。
匙をラティナへ差し出して、にこぉっと笑っている。残念ながら
匙の中身はその行動の過程で大半がこぼれおちてしまっていたが、
マーヤは気にしていないようだった。
﹁⋮⋮マーヤちゃん。うん、おいしいよ﹂
ラティナがまたもや取り繕ったように微笑むと、マーヤは不思議
そうな顔になった。そして悲しそうな顔に変わる。
﹁あてぃあ、いたいいたい?﹂
﹁っ!?﹂
ラティナが驚いたような顔になったのと、マーヤがくしゃりと泣
き顔になったのは同時だった。
﹁いたい?ふぇっ、えっ、えっ⋮⋮﹂
﹁マーヤちゃん?﹂
﹁うえぇぇあぁぁぁっ!﹂
ラティナの驚愕は、突然マーヤが泣き出した事に移行する。おろ
マーヤちゃん⋮⋮どうして?﹂
おろするラティナは、デイルにとっては新鮮だ。
﹁え?
312
﹁小さい子どもってのは、周りの感情に敏感だからねぇ﹂
ウーテは慣れた様子でマーヤを抱き上げると、号泣する我が子を
あやし始めた。呆然とするラティナへは少し困ったように微笑む。
﹁ラティナちゃんも、泣きたい時はちゃんと泣いとくべきだよ。痛
い時も、苦しい時も、怖い時もね。子どもってのは大人にそんくら
いの事はして良いんだから﹂
呆然としていたラティナの顔が、違う感情に揺れる。
大きな眸が潤み、あっという間に堪えきれなくなったように大粒
うあっ、あっ⋮⋮﹂
の涙が溢れる。
﹁っ!
デイルが黙って隣に立ち、いつものように頭を数度撫でると、ラ
ティナは嗚咽をあげながら彼に抱きついた。
少女二人分の泣き声はしばらくの間、響いていた。
マーヤは泣き止むとすぐに元の調子を取り戻し、冷めてしまった
朝食を気にした様子もなく完食した。
ラティナは流石にそう単純にはいかないらしく、泣き腫らした顔
のまま、今はウーテが淹れたハーブティーをすすっていた。
﹁⋮⋮すみません。ありがとうございます﹂
こん
﹁いいよ。ラティナちゃんが何に恐がっているのかはわかんないけ
どね。一度泣いてすっきりした方が良いことも多いだろう?
なに小さな子なんだ。頑張り過ぎないことだよ﹂
デイルには獣人族の表情は読み難いが、声の調子からきっとウー
テは微笑んでいるのだろう。
﹁ウーテさん⋮⋮ごめんなさい⋮⋮﹂
﹁謝ることじゃないよ。子どもってのは迷惑かけるのが仕事なんだ
からね﹂
313
ラティナにもそう言っている。
獣人族の容姿の件はデイルにはわからない事だったが、
︵ヨーゼフは本当に良い人を嫁に貰ったんだなぁ⋮⋮︶
そう心の底から思う。
﹁デイル⋮⋮﹂
﹁ん?﹂
﹁ラティナね、こわいの﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
・
・
ぽつりと漏らした彼女の弱々しい声を、ただデイルは静かに受け
止める。
・
﹁ラティナ⋮⋮悪い子なんだって、だからもう、生まれたところに
は帰っちゃいけないんだって⋮⋮ラティナ、そう﹃よげん﹄された
んだって⋮⋮﹂
﹁ラティナ⋮⋮﹂
﹁かぞくはね、違うって言ってくれたの。ラティナ、悪くないって。
⋮⋮でもね、でもね。ラティナのせいでラグ死んじゃったんだよ。
ラティナといっしょにいてくれたから⋮⋮っ﹂
・
・
・
再び潤んだ眸をデイルに向けて、それでもラティナは言葉を続け
た。
﹁﹃よげん﹄通りなの。ラティナきっと、悪い子なんだよ﹂
﹁⋮⋮ラティナは﹃予言﹄の詳しい内容は覚えているのか?﹂
デイルの問いに、しばらく考えてラティナは小さく首を振った。
﹁わかんない⋮⋮まわりの人にいっぱい言われて⋮⋮すごく怖かっ
たから⋮⋮﹂
﹁そうか。⋮⋮家族はラティナは﹃悪くない﹄って言ったんだろ?﹂
﹁うん﹂
デイルは微笑んでラティナの額にこつんと自分の額を付ける。驚
いたラティナの灰色の眸に、自分でも知らなかった慈愛を滲ませた
314
表情の自分が映っていた。
﹁﹃神のことば﹄は人には難しい物だ。人の運命を読み取るみたい
な高位の﹃予言﹄なんてものは特にな。だからな、ラティナの家族
が﹃ラティナは悪くない﹄って言った言葉の方が正しかったのかも
しれない﹂
﹁え⋮⋮?﹂
﹁少なくともラティナの家族は、﹃予言﹄の言葉をそうは捉えなか
ったんだ。ラティナのことを悪いと完璧に断言する﹃言葉﹄じゃな
かったんだよ﹂
デイルの言葉に、ラティナは本当に驚いたようだった。そんな可
能性を彼女は今の今まで考えたことがなかった。
﹁デイル⋮⋮﹂
﹁多分ラティナより、俺の方が﹃加護﹄については詳しいと思うぞ
バナフセギ
⋮⋮ラティナには﹃加護﹄はないだろう?﹂
﹁うん﹂
﹁⋮⋮俺には﹃加護﹄がある。紫の神のものじゃ無いけどな。⋮⋮
でも﹃加護﹄がどんなもんかは良く知っているよ﹂
デイルをじっと見ながらラティナは小さく微笑んだ。
・
・
・
・
・
﹁デイルがかみさまみたいだよ。⋮⋮デイル、いつもラティナを助
けてくれてる。ラティナの欲しいものいっぱいくれる⋮⋮デイルに
会わせてくれたのが﹃かみさま﹄なら、ラティナ怖がらなくても良
いのかな⋮⋮﹂
−−﹃加護﹄を持っていても、あまり信心深くは無い自分だが、
たまには祈りたくもなる。
この子が幸せになれるように。健やかでいられるように。
自分とこの子を出会わせてくれたのも、﹃神﹄の導きであるのな
ら。
315
幼き少女、自分の枷を青年に告げる。︵後書き︶
おかしい⋮⋮獣人族の村では、﹃娘﹄がもふもふを堪能する様子を
書くだけの筈であったのに⋮⋮何故深刻な空気になっているのだろ
う⋮⋮
次話はもふもふするだけです。今後こそ。
316
幼き少女、もふもふを堪能する。
マーヤと手を繋いだまま、村の中央広場でラティナはぽかんと口
を開けていた。
﹁いのちちっ﹂
﹁イノシシって大きいんだねぇ⋮⋮﹂
マーヤが指差すのは本日の獣人族の狩りの成果だ。
﹁おにきゅ﹂
﹁マーヤちゃんおにく好きなの?﹂
﹁ちゅき﹂
少女二人が睦まじく会話をするそんな様子は癒される。
そのためしばらくそのまま眺めていたのだが、デイルははっと我
に返った。
﹁⋮⋮ラティナ﹂
﹁ん?﹂
﹁あれ、魔獣だからな。﹃普通の猪﹄並べたら、あれの赤ん坊位に
しか見えないからな﹂
﹁そうなのっ?﹂
どうやら本気で驚いているらしい。
ラティナが誤った知識を身に付ける前に是正出来て本当に良かっ
た。
家屋と並んで見劣りしない体格の獣が、﹃普通﹄の猪であってた
まるか。
それが二体も並んでいる。
確かに狩りは大成功であったらしい。
317
バナフセギ
この村にいる﹃紫の神﹄の巫女の﹃加護﹄は、村の周囲−−限ら
れた範囲−−にある﹃危険なもの﹄の予知であった。
今回はそれで﹃魔獣﹄の存在を察知できたということだ。
バナフセギ
この村の周囲でこの猪型の魔獣はよく姿を見られるらしく、村で
は頻繁に食べられている肉となっている。
だが、危険ではないという訳ではない。
事前に危険の芽を摘むことが可能となる、紫の神の巫女の存在理
由は大きい。
﹁なぁ⋮⋮解体作業はグロいぞ?﹂
﹁これもべんきょうかなって思ったの﹂
﹁⋮⋮解体は肉屋にやらせれば良いんじゃねぇかな⋮⋮それに流石
にでかすぎてあまり参考にならねぇと思うぞ﹂
﹁うーん⋮⋮そうだね﹂
一人の男の獣人族が運んできた包丁は、もう包丁というより両手
持ちのグレートソードのような姿だった。
とてもじゃないが、ラティナでは大人になっても扱えるとは思え
ない。到底捌けるサイズではないのだ。
﹁あてぃあ。あちょぶ﹂
マーヤにとってはよくある光景で、面白くもなんともないらしい。
ラティナの手をクイクイと引いている。ラティナが視線を向ければ
満足そうな態度で歩き出した。
﹁デイル﹂
﹁ああ。気をつけろよ。村からは出るなよ﹂
﹁うんっ﹂
マーヤに引かれながらラティナはデイルに許可を貰う。
二人は村の中の散歩に出掛けて行った。
318
﹁マーヤちゃんはもふもふだね﹂
﹁くふゅふゅ﹂
散歩にもすぐに飽きたマーヤの相手をするラティナは、今は彼女
の柔らかな毛を堪能していた。マーヤも嫌がることなく、キャッキ
ャッと笑って身を捩っている。くすぐったがっているようだった。
﹁あてぃあ、もひゅもひゅ?﹂
﹁もふもふー﹂
特に意味の無いことを言って笑い合う。
首の下の辺りの毛が特に柔らかいことに気付いて、そこを撫でる
と、マーヤは気持ち良さそうにふにゅふにゅと笑う。
幼いマーヤは、全身の毛が柔らかい産毛状態だった。しかも父親
の溺愛具合が察せられる愛情一杯の丹精の込めようであった。もふ
もふ具合は最高のコンディションである。
マーヤもラティナに撫でられるのは心地良いらしい。
くすぐったいのを乗り越えた後は、どこかとろんとした表情とな
っている。途中でゴロンと寝返りをうち、もっと撫でろとばかりの
体勢をとっていた。
﹁あてぃあ。なでなでーっ﹂
﹁ここ?﹂
﹁もっとー﹂
﹁うん﹂
﹁くふゅふゅーっ﹂
獣人族をも虜とする撫でっぷり。ラティナの新たな才能の片鱗が
見られた瞬間だった。
満足気なマーヤと、疲れは見せているがやはり満足気なラティナ
が、手を繋いで帰って来たのは、半刻はゆうに過ぎた後であった。
319
﹁あてぃあーっ﹂
家の中でもマーヤはラティナの後を追いかけている。
﹁あちょぶ﹂
そんな微笑ましい様子に、家の中で地図を確認していたデイルも、
柔らかい表情を向けた。
﹁だいぶなつかれたなぁ、ラティナ﹂
﹁うんっ。マーヤちゃんと仲良しになったよ﹂
もぎゅっと小さなマーヤを抱きしめてラティナが微笑む姿は、ク
ロイツに帰ったら即座に巨大なぬいぐるみを求めるべきだとの天啓
を覚えるほどの衝撃だった。
何故自分は今まで彼女に、ぬいぐるみを買い与えるという行動を
成さなかったのだろう。
ガックリと項垂れてしまいそうだった。
なんでもないよ。デイルたまにああなるんだよ﹂
﹁へん?﹂
﹁ん?
意外にシビアなマーヤとラティナの状況判断は、デイルの耳には
幸いにも届かなかった。
マーヤは自分の寝床にもラティナを引っ張り込んだ。
少しデイルの方を見て悩んだラティナだったが、明日の朝発つ事
を考えるとマーヤとの別れを惜しみたくなったようだった。
親
バカ
ふたり
あどけない寝顔のラティナと、もふもふで満足そうな寝顔のマー
ヤが並んで眠る姿は、デイルとヨーゼフの相好を崩壊させた。
320
あてぃあ、やぁあだぁっ!!!﹂
そしてこれほど仲良くなっても、別れの時はやって来るのだ。
﹁いやああぁぁあぁあっ!!
早朝の獣人族の村に、マーヤの泣き声が響き渡った。
ラティナと引き離されて、ヨーゼフに抱かれたマーヤは、その腕
ちらいっ!
あてぃあ、いいのぉっ!﹂
から逃れようと暴れつつ全力で泣き喚いていた。
﹁やぁあぁぁっ!
愛娘に全力で拒否され、嫌いと言われ、ラティナの方が良いと言
われたヨーゼフのダメージは計り知れない。
常には天を向いている三角耳が、へにょんと情けない形になって
いる。
デイルが隣のラティナを見れば、マーヤの涙につられたのか、少
々眸が潤んでいた。小さく鼻をすすっている。
﹁⋮⋮お別れしてきな。また、帰りに寄るからってな﹂
﹁⋮⋮うん﹂
しょんぼりした様子のラティナがマーヤの近くに寄ると、彼女は
あてぃあっ!﹂
もがき暴れながら、短い腕を精一杯ラティナへと伸ばしていた。
﹁あてぃあ!
﹁マーヤちゃん⋮⋮﹂
ラティナは眉をハの字にして、言葉を探した。
﹁元気でね、マーヤちゃん⋮⋮また遊びに来ても良いかなぁ⋮⋮?﹂
﹁あてぃあ⋮⋮﹂
マーヤはラティナの言葉に、泣くのを止めると、笑顔となり手を
あてぃあ、やぁあだぁっ!!!﹂
振って別れの挨拶をした−−なんてことはなく。
﹁やぁああぁぁっっ!!
更に全力で泣くスイッチを入れただけだった。
言葉ひとつで聞き分ける幼児なんてものは存在しなかった。
321
﹁ああっ、もう!
るから!﹂
いいからお前等もう出発しろ!
あてぃあっ!
そのうち諦め
あてぃあっ!﹂
ヨーゼフが、ぐにゅんぐにゅんしながら脱出を試みる愛娘と格闘
しながら、声を張る。
﹁うわあぁぁあぁああっ!
﹁マーヤが泣き止むの待ってたら、夜になっても無理だからね。気
をつけて行きなよ﹂
娘の号泣具合にも、苦笑混じりではあるようだが、平然としたウ
ーテがデイルを促す。
﹁ああ。それじゃ⋮⋮お世話になりました。帰りも寄らせて頂くと
思います﹂
﹁わかったよ。気をつけてね﹂
﹁おせわになりました。⋮⋮マーヤちゃん、バイバイ⋮⋮﹂
ぺこんと頭を下げるラティナを、馬に乗せたのは彼女の足取りも
気ぃつけろよ!﹂
重くなるだろうことを見越してのことだった。
﹁ほら、良いから行け!
ヨーゼフの声を背中に聞いて、デイルは手綱を引いて歩き出す。
案の定ラティナは後ろを振り返り、ずっとマーヤの姿を目で追っ
ていた。
村の出口を抜け、ビュンテ家一同の姿が見えなくなっても、マー
ヤの泣き声だけはしっかりと届いていた。
︵近所迷惑だったかなぁ⋮⋮︶
少し冷や汗をかきながらデイルは森の中の小道に入る。
くすんくすんと、小さく鼻をすするラティナのことは、今は見な
いでおいた。
﹁⋮⋮帰りも一緒に遊べると良いな﹂
322
﹁⋮⋮うん⋮⋮﹂
別れが寂しいと感じるのも、ラティナにとっては良いことだろう。
そんなことを思いながら、歩く。
森の木漏れ日が細く幾筋も降り注ぎ、彼らの行き先を照らしてい
た。
323
幼き少女、もふもふを堪能する。︵後書き︶
半刻で約一時間位って考えてください。
もふもふ当方もしたいです。
いつもお読み頂き、誠にありがとうございます。
324
踊る虎猫亭の人々、幼き少女の手紙を受け取る。︵前書き︶
今回ちょっと短いです。
325
おなかの赤ちゃんの様子はどうですか?
踊る虎猫亭の人々、幼き少女の手紙を受け取る。
リタへ。
お元気ですか?
スやお客さんたちも変わりないですか?
ケニ
わたしもデイルもとても元気です。とてもじゅんちょうだってデ
イルも言っています。
って聞いたら、
わたしは、クヴァレを出てじゅうじんぞくの村に来ています。デ
イルの親せきのお家なんだって。親せきって何?
かぞくのかぞくだって教えてもらったの。デイルのかぞくってたく
さんいるんだね。
ここまで来る途中も、いっぱいいろんなものがあったよ。
ピンクのお花が木にいっぱい咲いてるのも見たよ。デイルとサン
ドイッチ食べながら休けいしたら、花びらがヒラヒラしてきれいだ
⋮⋮
⋮⋮
ったの。リタにも見せてあげたかったな。クロイツにもあればいい
のにね。
それにね⋮⋮
﹁ありがとう﹂
配達員が持って来た手紙を受け取って差出人を確認すると、リタ
は受け取りのサインをした。
モスグリーンのカバンを肩に掛けた以外は、普通の冒険者と大差
のない格好の青年が、サインを受け取り営業用の笑顔を向ける。
﹁いえ。今後とも宜しくお願いします﹂
モスグリーンの肩掛けカバンと﹃羽の付いた封筒﹄の意匠は、最
326
大手の手紙の配達員組合のトレードマークだ。
﹃央﹄属性の魔術適性はあるが、たいした能力を持たない者の最大
の就職先でもある。
彼らはその魔術で鳥−−魔力の強さにより、種類は様々で、魔力
が強いものは﹃魔獣﹄の一種を選ぶ時もある。−−を調教、使役し
て手紙を運ぶという業務を執り行っている。
クロイツやクヴァレのようなそれなりの規模の町には集積所であ
る支店があるので、そこに持って行って配達の依頼をすれば、国交
のある国などの制限はあるものの、かなり広い範囲の配達をしても
らうことができる。
獣人族の村のような小さな村の場合は、定期的に訪れる配達員が
来るのを待ち、そこで頼むのが基本的なスタイルだ。
リタは厚みのある手紙を慎重に開ける。
そこには更に二通の封筒が入っていた。それなりの料金がする手
紙の配達代を節約する為に、ラティナはリタとクロエへの手紙を同
梱して一括で送っている。
そのあたりラティナはしっかりしていた。
﹁ケニス。ラティナからの手紙が来たわ。仕入れの時お願いしてい
い?﹂
﹁ああ。わかった﹂
そしてその手紙を、東区に仕入れに行くついでにケニスがクロエ
の家に運んでいる。
﹁旅は順調みたいね。⋮⋮まぁ、ゆっくり進んでいるのは想定通り
かしら﹂
﹁今何処だって?﹂
﹁この日付で⋮⋮獣人族の村って書いてあるけど?﹂
﹁ああ。確かにデイルの親戚がいたな⋮⋮あの先、人家も少なくな
るし、ラティナが居るなら泊まっていくな⋮⋮﹂
327
デイル
軽く手紙に視線を滑らせて、ケニスはひとつ頷く。
﹁勿論、あいつ一人で行くのよりは遅いけどな⋮⋮出発前に検討し
たのよりはだいぶ早いな。ラティナがそれだけしっかり歩けてるっ
て事だろう﹂
デイルは出発前にケニスと行程の検討を重ねていた。
彼一人では何てこともない道のりも、ラティナという子どもを連
れてだと予想が難しい。
経験豊富なケニスに助言を求め、護衛の依頼時を基準に日程を計
算しておいた。
食料等も多目に運んでいるのはそのためだ。
﹁ラティナ⋮⋮楽しんでいるみたいね﹂
くすりと柔らかい微笑みを浮かべて、リタは便箋をゆっくり読ん
でいく。普段の書類仕事の際は、あっという間に読み終えてしまう
分量の文字を、大切にいとおしそうに眺めていた。
そんなリタの様子を見るケニスの表情も柔らかい。
﹁ラティナがいないと、こんなに静かになるなんて思わなかったわ
ね﹂
﹁⋮⋮すぐに、静かなんて言ってられない状態になるぞ﹂
﹁そうね﹂
妻の膨らみが目立ちはじめた腹部に視線をやってケニスが言えば、
リタも笑った。
﹁ラティナは良いお姉ちゃんになってくれそうよね﹂
﹁そうだな﹂
﹁店もずいぶん静かだしね﹂
・
・
・
・
リタがそう言えば、ケニスは今度はため息をついた。
﹁あいつら現金にもほどがあるよな⋮⋮売り上げにも出ているだろ
う?﹂
﹁ラティナが手伝ってくれる前に戻った感じかしら﹂
328
帳簿の管理もしているリタが苦笑する。
﹃踊る虎猫亭﹄はクロイツの冒険者の拠点となる店という特徴から、
常連客の冒険者は古参の者や、それなりに名の売れた実力者ばかり
だ。新参者は店に揃うそうそうたる面子に萎縮しがちだった。
ケニスの料理や、値段の安さも売りだが、今はそれに加えて可愛
らしい﹃看板娘﹄も売りになっていた。
愛らしいラティナの姿は、新人の冒険者にとっては、店の強面た
ちとの緩衝材になってくれていたのだ。
ラティナが旅に出た後は、新人連中の足は重くなり、常連連中も
またあっさり長居をすることなく帰って行く。
ラティナは当人の働き以上に、﹃踊る虎猫亭﹄の売り上げに貢献
していたのだった。
﹁デイルもラティナが来て変わったけど⋮⋮この店もだいぶ変わっ
たわね﹂
﹁そうだな﹂
﹁ラティナに調理の方も任せられるようになるんじゃないのかしら﹂
﹁そのうち昼の営業は任せられるようになるかもな﹂
ケニスの言葉にリタも微笑む。
﹁それは私たちが思っているより、早いかもしれないわね﹂
日々成長をするあの子は、今も様々なものを見て、感じて、大人
に近付いているのだろう。
きっと素敵な女性となるに違いない彼女の成長が、ケニスとリタ
にとっても楽しみになっていた。
329
⋮⋮
⋮⋮
⋮⋮
旅はとっても楽しいです。
でもね、リタやケニスに旅のお話をいっぱいできることが、今か
らすごく楽しみなの。
リタとケニスに、いってらっしゃいって見送ってもらえたのがす
ごくうれしかったの。
ただいまって言えるところがあって、おかえりなさいって言って
もらえるから、わたしは旅をね、本当に楽しいって思えるんだよ。
これからもデイルの言うことを聞いて、注意も忘れないようにし
ます。
ちゃんと元気でクロイツに帰るからね。
リタも体に注意してね。赤ちゃんもね。
ケニスとお客さんたちにも伝えてください。
ラティナ
かさり。と小さな音をたてて丁寧に畳まれ封筒に納められたラテ
ィナからの手紙を、リタは、引き出しの中にそっと仕舞った。
﹁馬鹿なこと言わなくても良いのに⋮⋮﹂
・
・
ここ
ちゃんと﹁おかえりなさい﹂くらい言うに決まっているじゃない
か。
・
・
・
﹁あなたが帰ってくる場所は、クロイツだけなんでしょう?﹂
自分の近しいかみ
あの子がそう思ってくれていてくれる間は、ここがあの子の﹃家﹄
で帰ってくる﹃場所﹄だ。
﹁気をつけてね⋮⋮﹂
リタは小さく呟いて、﹃緑の神﹄への祈りの文句を口の中で唱え
た。
330
踊る虎猫亭の人々、幼き少女の手紙を受け取る。︵後書き︶
次話もクロイツのメンバーの話となります。
331
ラティナから手紙が来たっ!﹂
クロイツの友人たち、幼き少女の留守の間。
﹁シルビアっ!
﹁へえ⋮⋮元気だって?﹂
アスファル
﹁まあね。ラティナだしっ、元気みたいだよ﹂
クロイツの﹃黄の神﹄の学舎の自分たちの教室に入って早々、ク
ロエは友人であるシルビアにそう声をかけた。
シルビア・ファルは学舎に入ってから出来た友人だ。父親が領主
館の憲兵としてそれなりの役職で勤めており、西区の高級住宅街に
暮らす彼女だが、性格はあっさりとしており、下町である東区や南
区に暮らすクロエやラティナとも気安く接している。その気性がク
ロエと馬が合い、クロエの親友であるラティナとも親しい。
ラティナがクロイツを旅立ってから半月以上がたっている。
行き帰りの行程だけでなく、着いた後しばらく向こうに滞在する
向こう
らしいラティナとは、季節が移る頃までは会うことはできない。
デイルの故郷に着いた後ならば、ラティナに手紙を送ることが出
来る。あまり勉強が得意ではなく、文章を書くことも不得手なクロ
エだが、少しずつクロイツで起こったことなどを書き溜めていた。
ミックス
︵ラティナが帰って来た時、あの子だけ﹃知らない﹄なんて、そん
なのイヤだしね︶
クロエはそう思っている。
﹁海の次は、じゅうじん族の村だって﹂
﹁獣人族かあ⋮⋮クロイツでは見たことないね。混血の冒険者はた
まにいる?﹂
﹁ラティナのとこ遊びに行っても見たことはないよ﹂
﹁そっかあ⋮⋮見てみたいな﹂
332
アクダル
シルビアはそう言うと、遠くを見るような顔をした。
シルビアは、弱いものではあるものの﹃緑の神﹄の加護を生まれ
ながら有している。そんな彼女は、旅と好奇心に惹かれるという性
質を持っている。
アクダル
知らない世界に行って、知らない情報を集めること。﹃知らない
場所を廻りたい﹄というのは、﹃緑の神﹄の加護持ちの半ば本能的
なものだった。
﹁シルビアは学舎出た後は、﹃神殿﹄に行くの?﹂
﹁どうしようかなあ⋮⋮﹂
クロエの問いにシルビアは手を組んで顎をのせた。
﹁﹃神殿﹄に所属すれば、一番手っ取り早いんだよねえ⋮⋮魔法の
勉強もさせてもらえるし﹂
﹁シルビア魔法使えるの?﹂
﹁ラティナのおかげで、適性があるのはわかったからねーっ﹂
魔法というものに興味があった友人たちは、ラティナの元で呪文
言語を習っていた。
やはりほとんどの者は扱えなかったが、シルビアは発音すること
が出来ていた。呪文ではなく、﹃魔人族﹄の挨拶などを教えてもら
ったのは、シルビアがいつかは魔人族の国であるヴァスィリオにも
行ってみたいという夢を持っているということも関係していた。
﹁そういうクロエは?﹂
﹁うちの仕事を継ぐよ。最近結構楽しくなってきたし﹂
﹁じゃあ、大人になったら服はクロエに頼むかあー⋮⋮﹂
﹁高いやつ頼んでね﹂
クロエとシルビアがそんな事を話していた時だった。
﹁クロエっ﹂
ぽん。とルディが脇を通りながら黒い欠片を投げてよこした。
瞬間的にそれが何かを悟ったクロエは、落とさないように慌てて
333
手を伸ばす。
﹁この⋮⋮ばかルディっ!
なんてことすんのっ!﹂
﹁なんだよ。⋮⋮うまく出来た方、ちゃんとわたしただろ﹂
クロエの文句にルディは首を傾げている。
﹁うまく出来た方って⋮⋮あんた﹂
﹁な、なんだよっ⋮⋮練習が必要だったから、二回に分けてけずっ
たんだよ。悪いか﹂
クロエがルディの返答に引っ掛かりを覚えて聞き返せば、彼は気
飾りもののパーツ?﹂
まずそうにそっぽを向いた。
﹁何それ?
シルビアがクロエの握るそれを指して問いかけると、クロエは握
り締めていた手を開いた。
黒い艶やかな輝きを放つ欠片は、削り出されて形を整えられた後
で丹念に磨かれた跡がある。
丁寧に、大切に加工された小さなそれをクロエは少し持ち上げて
みせた。
光を反射してキラリと光る。
﹁キレイだよね。ラティナにもらったの﹂
﹁ラティナに?﹂
﹁うん。大事にするからちょうだいって言ったら、私にだったらい
いよってくれたんだ﹂
﹁それを何でルディが持ってたのさ?﹂
﹁どうやって削ったりしようか考えてたら、あいつが自分の家にだ
ったら、ヤスリとかの工具があるからって、持っていったんだよ﹂
それはありがたいことではあったが、ちゃっかりと半分ほどをせ
しめていったらしい。
クロエはやれやれと肩を竦めてみせた。
334
﹁素直じゃないって面倒くさい生きモノだね﹂
﹁男ってのは、子どもだから﹂
そんなやり取りをするくらいには、この年頃の女の子というもの
はませた生きモノであった。
クロエがラティナからもらったのは、彼女が自分で折った﹃角﹄
だった。
クロエは初めて見た時から、ラティナの角を、本当に綺麗だと思
っていた。
そんな綺麗なラティナの一部を彼女が折ってしまったことが、悔
しくて、哀しくて仕方がなかった。
そのまま埃をかぶって放って置かれることが、なんだか凄く許せ
なくって、ラティナに頼んだのだ。﹁角を自分にくれないか﹂と。
はじめは自分でなんとかしようと思っていたのだが、思っていた
よりも硬いそれを加工することが出来なくて困っていた。そこに助
力を申し出たのが、ルディだった。
その言葉にクロエはラティナの角をルディに預けて、加工しても
らうことにしたのだった。
﹁そういえばルディは、学舎出た後はどうするの﹂
クロエがそう聞いたのには、特に深い意味はなかった。
たまたまシルビアとその話をしている最中にルディが来たから。
それだけだ。
﹁なっ⋮⋮べ、別にっ⋮⋮クロエには、か、関係ないだろっ﹂
だが、挙動不審な態度で過剰に反応したルディの様子に、クロエ
とシルビアは顔を見合せて、にやりと笑う。
﹁ふうん。何か考えてるんだ⋮⋮﹂
﹁べ、別にどうでもいいだろっ?﹂
335
﹁まぁね。どうでもいいけどさぁ⋮⋮﹂
﹁そういえば、ラティナから手紙が届いたよ﹂
﹁え?
そういうわけじゃ⋮⋮っ﹂
気にならないんだ?﹂
﹁な、な、何で、ラティナがここで出てくるんだよっ!?﹂
﹁っ!
﹁気になるならそう言えばいいのに。ねえ?﹂
﹁ねえ﹂
﹁ーーーっ!!﹂
声にならない叫びを上げて地団駄を踏むルディの姿を、少し離れ
たところから眺めながら、マルセルとアントニーは微妙な笑顔を交
わし合った。
﹁ルディも、クロエとシルビアにはやり込められちゃうんだから、
あきらめたらいいのにね﹂
﹁それはそれで、悟っている行動だよマルセル⋮⋮﹂
﹁ある程度は、人生あきらめが肝心だよ﹂
﹁それを笑顔で言い切る君は、大物なのかも知れないね⋮⋮﹂
穏やかな表情で、そう言い切った友人に、アントニーは笑顔をひ
きつらせる。
﹁アントニーは高等学舎に進むんだったよね?﹂
クロエたちの会話を思い出してマルセルが声に出せば、アントニ
ーは一つ頷いた。
﹁そうだよ﹂
﹁やっぱり、領主館で働くためかい?﹂
﹁父さんみたいにそうできれば、一番良いんだけどね。こればっか
りはわからないし。商館ででも働ければ良いよ﹂
アントニーの父親は、領主の所で下級役人をしていた。世襲制の
仕事ではないため、息子のアントニーが就けるとは限らない。だが
多少の便宜を図ってくれる縁故程度のものなら存在していた。
﹁マルセルは、やっぱりパン屋を継ぐのかな?﹂
336
﹁ちがうことをする理由もないからね。うちのパン好きだし﹂
マルセルはおっとりとそう答える。
クロイツに住む子どもたちの多数は、親の仕事を継ぐのが一般的
だ。
次男、三男ともなれば別の仕事を探す者も居なくはないが、特に
職人の子どもであれば、わざわざ余所の職種の門下になることは少
ない。
じぶんち
﹁ルディはお兄さんもいるしねえ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮でも、この間までは鍛冶の仕事するつもりだったはずなのに
なぁ⋮⋮急にどうしたんだろうね﹂
二人は一度言葉を切ったが、同時にうん。と頷き合った。
﹁ラティナ関連かな﹂
﹁ラティナ関連だろうね﹂
﹁わかりやすいからね﹂
﹁なんでラティナに気付かれてないんだろうねえ⋮⋮﹂
きょうし
﹁ラティナの前でだけ、必要以上に素っ気ない態度とるの⋮⋮徹底
してるからね。ある意味すごいと思うよ﹂
﹁端から見てるぼくたちには、わかりやすいけどね﹂
そこで二人は再び同時に頷いた。
﹁馬鹿だからね﹂
聞こえてるからなっ!﹂
﹁バカだよねえ﹂
﹁お前らっ!
半泣きのルディの叫び声が響いた瞬間に、教室の扉が開き、神官
が笑顔でルディを見た。
﹁ルドルフさん。教室は騒ぐところではありませんよ﹂
﹁っ!﹂
我に返ったルディが見渡せば、友人たちはしれっとした顔で席に
337
着いている。
ルディ
基本的に彼は要領が悪いのであった。
338
クロイツの友人たち、幼き少女の留守の間。︵後書き︶
クロエの台詞を、始め全部片仮名で打ってしばらく眺め⋮⋮平仮名
混じりに直しました。﹁ばかルディ﹂なんだか⋮⋮なんとなく⋮⋮
こんな感じの当作品ではありますが、いつもお付き合い頂きありが
とうございます。
339
青年、看病をするそんな日。
ラティナが、風邪をひいた。
﹁くちゅん﹂
くしゃみの仕方までなんだか可愛い。だが、アクセントがどこか
変なのはなんだか彼女らしい。
この子と暮らしはじめて数年経つが、頑強な種族ということもあ
ってか、ほとんど病気などしたことがなかった。
やはり疲れが出たということなのだろう。
後、考えられるのは、
﹁⋮⋮雨なのに、はしゃぐから、だぞ?﹂
﹁⋮⋮うん。そうだね。⋮⋮ごめんなさい⋮⋮﹂
昨日は雨の中の移動だった。
雨だからといって止むのを待つ訳にはいかなかった。あまり無理
はさせたくはないが、人家の少ない田舎だ。雨を避けて野営が出来
る場所まで移動する必要もあった。
デイルが普段から着ているコートは水を弾くように出来ている。
元より彼は荒天時の移動そのものにも慣れているために、フード
を被り首の辺りのベルトを締めれば、雨対策は終了だった。
ラティナのフード付きのケープも魔道具で水を弾くようになって
いるため、小雨程度ならばそのままでも構わない。だが、本格的な
雨の中の移動であったため、用意してある雨具を着させた。
340
ラティナは雨の中を歩くのさえ楽しそうだった。
山道を歩きながら見上げてみれば、深い森の木々の隙間から灰色
の空と重たい雲がのぞいていた。
顔にあたる雨粒すら、彼女は苦にしないようで、時々わざわざ上
を向いていた。
水溜まりを避けて通ってみたり、時にはわざと中に入って泥をは
ねさせ、しまったという顔をする。
﹁⋮⋮ラティナ、気をつけろよ。結構滑るんだからな﹂
﹁うん。だいじょうぶっ﹂
そう答えた瞬間だった。
ラティナはこけた。
足元の水溜まりに足を滑らせて、べちゃんと。それは見事なこけ
っぷりであった。
﹁っ!!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮いたい⋮⋮﹂
足を滑らせた瞬間足首をひねったらしく、困った顔をしたラティ
ナは、立ち上がる事が出来ずに泥の中に座りこんでいた。
﹁うわあぁぁ⋮⋮だから言わんこっちゃない⋮⋮﹂
デイルは直ぐに手を伸ばして彼女の足首に回復魔法を使う。
それで怪我は直ったが、泥にまみれて雨水の吸い込んだ衣類はど
うすることも出来ない。雨の中のこの状態では着替えさせることも
難しい。
デイルはラティナを馬に乗せると、移動のスピードを上げた。
故郷までの道程だ。
341
デイルはこの辺りの地理にはそれなりに詳しい。点在する小さな
村の位置だけでなく、猟師などが利用している小屋の位置。また、
自然に出来た洞窟などの場所もある程度は把握している。
ここから一番近くで雨宿りが出来る場所は、街道から少し反れた
位置にある小さな洞窟だろう。
元々今日の野営の場所として考えていたところだ。
少し急ぎ足で向かうしかない。
とはいえここは山の中だ。
春先とはいえ冷える空気が体温を奪う。
足場の悪い道を急ぐデイルが、ラティナが小さく震えたのに気付
かなかったのを責めることは出来ないだろう。そして、気付いてい
たとしても対処の仕様もなかったのだから。
目的の洞窟に辿り着いた時、ラティナは震えながら顔色を青くし
ていた。
﹁ああぁぁ⋮⋮俺は、薪に出来るもの探してくるからな。濡れた服
脱いで、体拭いたら毛布にくるまっているんだぞ!﹂
﹁うん﹂
ブラオ
そう答えたラティナだったが、再び雨の中に向かうデイルを見送
かれ
った後で、馬の側に近付くと、もそもそと荷物を下ろし始めた。い
つもデイルがやっているように、馬の負担を軽くするための行動を
なぞっていく。
その後で、ようやく服を脱いで濡れた下着を換えると、毛布にく
るまった。雨対策がされて乾いたままのそれに包まれると、ほっと
する。地面から伝わる冷気までは遮る事が出来なかったがそこは我
慢するしかないと考えた。
﹁ふあぁぁ⋮⋮﹂
342
ぽやんとする。ラティナはころんと横になった。
デイルが戻って来て、濡れた枝を﹃水﹄属性魔法で表層の水分を
払うことでなんとか薪の役目を果たせるようにし、火をおこした頃
には、彼女はすでに熱っぽかった。
この一連の行動が原因で、彼女は風邪をひいたのだった。
﹁あんまり良い宿泊場所じゃねぇけど⋮⋮明日も一日休むからな⋮
⋮次の村まで距離がだいぶあるんだ﹂
デイルはそう言って雨の様子を見ている。
彼は戻って直ぐに、毛布などを包んでいた防水性の布を地面に敷
くと彼の着替え等の荷物をその上に敷き、毛布にくるまるラティナ
をそこに移動させた。
近くに焚き火をおこし、汚れたラティナの服を外で、魔法で水の
球をぶつけるという手段で大雑把に洗う。
ラティナの服を荷物から取り出して着せた。普段なら自分で全て
やろうとするラティナだが、ぼんやりとした表情でされるがままに
なっていた。
その後すぐとろとろと転た寝をはじめた。あまり体調を崩さない
ラティナは、逆に言えば体調を崩すということに耐性が少ないとも
言える。
それがもう昨日の話だ。
翌日である今日は、雨はまだ降っているし、ラティナはやはり風
邪をひいたようだしで、無理をさせたくないデイルは足止めされる
ことを選んだ。
﹁デイル⋮⋮ごめんなさい⋮⋮﹂
343
﹁はしゃいで失敗したことなら、次から気を付ければ良い。風邪を
ひいたことは謝ることじゃねぇ。そうだろ?﹂
﹁うん⋮⋮﹂
﹁早く良くなると良いな﹂
デイルは微笑むと、ラティナの額に手のひらを滑らせる。
昨日は熱い感覚を覚えたが、平熱まで落ち着いた様子に安堵する。
この状態なら、無理さえさせなければ大事には至らないだろう。
﹁ごはん⋮⋮ラティナのしごとなのに⋮⋮﹂
﹁病気の時は甘えて良いもんなんだぞ﹂
鍋で粥を煮るデイルに、しょんぼりとしたラティナが呟けば、彼
は堪えきれずに小さく吹き出した。
こんな状態なのに、甘えることより、仕事が出来ないことを残念
がるのは、彼女らしくはあるが少しずれている。
獣人族の村でもらった塩漬け肉を味付けにも使ったスープに、干
し野菜を砕きながら入れて煮込み、チーズと堅焼きパンを入れた、
残念ながら見た目はあまり良くないパン粥が本日の食事だった。
﹁風邪の時は温かいもん食って、しっかり休んで、いっぱい甘えて
良いもんなんだ﹂
と言いつつ、デイルは自分で作った食事を口にして、少し微妙な
顔になる。
不味くはないし、本来野営の食事などこんなものでも上々のもの
だ。だが、微妙に何かが足りない感じがする。
︵⋮⋮いつの間にか⋮⋮口が肥えていた⋮⋮︶
ラティナが作る﹃野営にしては上等な食事﹄に慣れてしまってい
たらしい。
同じ材料を使っても、ラティナならもう少しうまく調理する気が
する。
それなのにラティナは一匙粥を口に運ぶと、微笑んだ。
344
﹁おいしい﹂
﹁いや⋮⋮おいしいかは⋮⋮ごめんなぁ⋮⋮﹂
﹁おいしいよ﹂
自分の作った物の評価は自分でもわかっている。そんなデイルが
苦笑するが、ラティナはそれを首を振って否定する。
﹁デイルがつくってくれたんだもん⋮⋮すごくおいしいの﹂
焚き火の赤い光に照らされた彼女の顔は、幸せそうな優しい笑顔
だった。
﹁⋮⋮でも、これはおいしくない⋮⋮﹂
﹁薬は旨いもんじゃねぇからなぁ﹂
食事の後に差し出されたデイルが煎じた薬湯に、ラティナははっ
きりとがっかりした顔をする。
一口すすって眉をしかめる。
﹁にがい⋮⋮﹂
︵⋮⋮一度で、一息に飲んじまった方が楽だと思うんだけどなぁ⋮
⋮これも職業病なのか⋮⋮?︶
少しずつ味見をする様子で飲み進めるラティナの姿に、デイルは
内心で首を傾げた。
後で聞いてみたら、ただの癖であったらしい。一息で飲むことを
勧めれば、﹁その手があったか!﹂的な顔をしていたのだから。
翌朝目を覚ましたのは、洞窟の入り口から日の光がさしこんでい
るのに気が付いた時だった。
﹁雨やんだね﹂
﹁そうだな。でも、まだ足場は悪いから気をつけるんだぞ﹂
﹁うんっ﹂
薄く日のさす淡い青空を見上げて笑うラティナは、全快とまでは
345
いかないが、動けるまでには快復したらしい。
︵次の村で⋮⋮少しゆっくり休ませるか⋮⋮︶
デイルはそう考えながら出立の準備をする。
ブラオ
昨日は足止めとなった為か、歩けるのが楽しそうな馬は足取りが
軽い。
ラティナを少し厚着をさせてその背中へとのせると、少々不満気
な顔をした。
どうやら自分で歩く気満々だったようだ。
いつも通りのラティナの姿が戻って来ていることに、デイルは安
心したように微笑むと、泥でぬかるむ道へと戻っていった。
346
青年、看病をするそんな日。︵後書き︶
次話で目的地につきます。
療養の話は⋮⋮書くほどネタにならなかったので⋮⋮
347
青年、故郷に着く。
ブラオ
デイルは、森の中の山道を全速力で馬を走らせていた。
襲撃者も片方が子どもとはいえ、小型種の馬に二人乗りの状態で
全力疾走させるとは思っていなかったらしい。
相手の虚を衝くことに成功した。
ラティナは︽重力軽減︾の魔法
囲みを突破した後で、体を捻り、後ろに﹃矢﹄を射ち放ったのは
デイルっ!﹂
牽制の為だ。
﹁ーっ!
﹁危ないから頭を下げておけっ!
を切らさないことに集中してろっ!﹂
背後を目で確認したのは、襲撃者たちが巧みに気配を森の中に隠
しているからだった。
デイルの察知能力をもってしても、全ての気配を読みきったとは
言い切れない。
﹁くそっ!﹂
毒づいて、飛来した矢を右手で握るロングソードで切り払う。バ
ラバラと地面に落ちたそれを確認することもなく、前進の速度を緩
めることもしない。
彼が襲撃者への対処にかなりの意識を傾けることができるのは、
ブラオ
ラティナが魔法を担当してくれているからだった。
馬の負担を軽くし、回復魔法すら時折交えているラティナのお蔭
当たって欲しくねぇも
で、二人乗りの全力疾走などという荒業を可能にしているのだから。
﹁そろそろ来るとは思っていたが⋮⋮っ!
んだよなっ!﹂
348
﹁デイル⋮⋮っ﹂
﹁わかった!﹂
ブラオ
ラティナの警告に片手で手綱を掴んで馬を跳ばせた。そこに疑問
も躊躇も抱かない。
後ろから追って来た襲撃者たちが戸惑う気配がする。
落とし穴でもあったということだろう。ラティナがいなければ彼
自身気付けたとは思えない。
これは彼女の﹃特殊能力﹄でもなんでもなく、ただの観察力の高
さによるものだ。周囲と何か違和感を感じる場所があれば声をかけ
る様、言い含めていた。それは正解であったらしい。
ブラオ
目の前に岩肌をくり貫いて造られたトンネルが見えてくる。
あの先まで行けばこっちのものだ。
﹁⋮⋮って、その手は食わねぇよっ!﹂
デイルは気合いを入れながら一声独白し、馬を急停止させる。反
動でラティナの身体が浮きかけた。自分の身体で抑えこみ、落ちる
のを押し留める。
本当っ!﹂
彼の予想通り、直後、唯一の道であるトンネルの前方が転がって
来た岩石で塞がれる。
﹁馬鹿じゃねぇのかっ!
﹂
大地に属するものよ、我が名の元命ずる、我の望むまま姿を変
彼は、再び馬を走らせると塞がれた前方に魔術を唱える。
﹁
えよ︽大地変化︾
攻撃魔法ではない。ただ変化を促すだけだ。
だが、それで充分。
前方の障害物が砕け散る。
砕け散ったという言葉にふさわしい小石と化した岩の欠片と、も
うもうとたちこめた砂埃から、ラティナを自分のコートの内側に抱
349
き締めるようにして庇う。
これで後ろは完全に視界を遮られただろう。
俺一人じゃねぇって、伝えてお
トンネルを潜り抜け、視界が開ける。
糞婆ぁっっ!
その瞬間デイルは叫んだ。
﹁こん⋮⋮のっ!
いただろうがぁぁぁっ!!﹂
﹁おやおや⋮⋮婆ちゃんに﹃糞婆ぁ﹄なんて言うもんじゃないよ﹂
久しぶりに会った息子をガチで殺
トンネルの向こうで初老の女性が、困り顔でデイルを迎えた。
﹁おふくろも、おふくろだっ!
る気かよっ!﹂
・
・
・
・
﹁やだねえ⋮⋮ちょっと入り口塞いだだけじゃないか﹂
﹁タイミングずれたら、ちょっとじゃ済まねぇよっ!﹂
﹁やだねえ⋮⋮そんな大袈裟に⋮⋮﹂
射ってくるなよっ!﹂
﹁⋮⋮そうだぞ。この位いつものことだろう⋮⋮﹂
﹁親父も、親父だっ!
﹁そういうお前もこっちに向かって射ってきてるじゃないか⋮⋮﹂
背後から聞こえた男の声に向き直ったデイルは、そっちへも怒声
を浴びせる。だが、返ってきた声はあっけらかんとしたものだった。
﹁こっちはちゃんと矢尻外してやってるっつうのに、お前って奴は
⋮⋮﹂
矢尻無くても当たったら痛
しかもそっちは本気で当てる気で射ってるだろっ!﹂
﹁ちゃんと外して射ってるだろうっ!
ぇんだよっ!
﹁まあな﹂
その声にも表情にも罪悪感はなかった。
彼らがそんなやりとりをしている間に、後続の残りの面々も追い
350
デイル
付いて来たらしい。
﹁ひでえなお前、埃まみれだよ﹂
俺の方なのか!?﹂
﹁本当、久しぶりに帰って来て、⋮⋮これはないよな﹂
﹁ひどいのは、俺か!?
並ぶ顔は従兄弟に幼なじみたちといった見知った面子ばかりだ。
﹁だって当主命令だからな﹂
﹁なあ﹂
責めるデイルにはそう答える。
﹁こんなのいつも通りなのにずいぶん突っ掛かるなあ⋮⋮﹂
と言いかけたデイルの父親は、彼が腕の中に庇う少女で視線を止
めた。ぴたりと動きを止める。そんな様子は息子と似通っているの
だが、今それを指摘するものはいない。
目を丸くして、周囲を見ていたラティナは、驚いた顔のまますぐ
そばのデイルを見上げた。
﹁⋮⋮デイル⋮⋮かぞくと仲わるいの?﹂
﹁⋮⋮いや⋮⋮あのな⋮⋮ラティナ⋮⋮﹂
デイルが返答を探している間に、彼の父親から始まった動揺は、
周囲の人々にも伝播する。
﹁女の子だった!!﹂
その叫びを向けられたラティナは、びくっと大きくはねあがった。
﹁ふあぁっ!?﹂
危うく落馬する所であった。
﹁いやあ⋮⋮婆ちゃんから、お前が連れを連れてはいるって聞いて
はいたんだけどね。みんな、またいつもみたいに﹃同業﹄の人だろ
うって思っていたんだよ﹂
困ったように、誤魔化すように笑ったデイルの母親は、そう言い
351
ながらぱたぱた手を振った。
﹁あの⋮⋮あのっ⋮⋮ラティナって言います。はじめまして。おせ
わになります﹂
﹁あらあらあら。可愛らしいこと。ごめんねえ、怖い思いさせちゃ
ったわねえ﹂
﹁本当だよ⋮⋮ラティナが怪我でもしたらどうする気だったんだよ
っ﹂
﹁⋮⋮それを守りきるのもお前の手腕だろう﹂
﹁反省してくれ、頼むからっ!﹂
今、彼らは他の面々とは別れて、デイルとその両親、そしてラテ
ィナの四人で歩いている。デイルは馬から降り、手綱をひいて歩い
ているが、ラティナは馬上のままだ。
他の面々は、デイルを落とす為に作った落とし穴や罠の類いを片
付けてくるそうだ。ここは辺鄙な村だが、全く外部からの客人がい
ないとも言えない。そのままにしておくのは流石に危険すぎる。
街道から唯一この村に入る道は、先ほど通った岩壁をくり貫いた
トンネルだけだ。
地属性魔法で造られたトンネルはかなり大きく、馬車も一台程度
なら難なく通れる大きさがある。
そこを抜けた先こそ、デイルの故郷だ。
入り口が限られているのに反して、村の規模はかなり広い。ここ
に至るまで存在していた村とは比べものにならない印象を受ける。
村の中央には街道から続く整備された道が延びており、その左右
にゆったりと建物が配置されている。
見渡せば周囲を囲む斜面には段々畑が作られて、村を取り囲んで
いた。
この空間は四方を山に囲まれた場所であるらしい。
352
いえ
﹁あそこが俺の実家だ﹂
﹁⋮⋮大きいねぇ﹂
﹁一応一族の当主屋敷だからなぁ⋮⋮古いだけかもしんねぇけど﹂
ラティナがぽかんと口を開けて見上げたのは、村の中央。一番目
に付く位置にあるひときわ大きな屋敷だった。デイルが言うように
古い建物ではあるのだが、それが重厚で歴史を感じさせるという趣
になっている。
﹁なんで、おうち、みんな他のところとちがうの?﹂
﹁んー⋮⋮﹂
彼女が疑問に思うのも無理はない。
この村の建物に、赤い屋根の建物はひとつもない。
普段ラティナが見慣れている風景では﹁屋根は赤いもの﹂だ。そ
れだけでも違和感として捉えられる。
田舎の風景らしい風雨に晒された鈍い色の建物たちだが、よくよ
コルモゼイ
く見れば、入り口には必ず金属製のレリーフが取り付けられ、一輪
の花が飾られていた。
アフマル
デイル、前に橙の神は、豊作をお祈りする神さまだから、
コルモゼイ
﹁⋮⋮ウチの村は、﹃橙の神﹄を祀っているからだよ﹂
﹁⋮⋮?
どこに行ってもほこらとかあるって教えてくれたよ?﹂
コルモゼイ
﹁ああ。なんて言うかなぁ⋮⋮﹃ラーバンド国が主神として赤の神
コルモゼイ
を祀っている﹄みてぇに、この村では﹃橙の神を祀っている﹄んだ
よ﹂
﹁ウチの村では、﹃橙の神の加護持ち﹄も多いからねぇ﹂
デイルの母親も何でもなさそうにゆったり笑う。
﹁魔法も半分くらいの者が使える。でも、地属性魔法が多いけどね﹂
そして、微笑みを浮かべながらこう言った。
﹁﹃大地に愛されし一族﹄の村へようこそ﹂
−−と。
353
青年、故郷に着く。︵後書き︶
当方に戦闘シーンを求めてはなりません。
旅も一区切り。
デイルの故郷につきました。いつも通りまったりとスローライフな
日々となると思われます。
354
青年、故郷で毒づく。
この村には名前はない。
強いて言えば﹃ティスロウ﹄というものを村の名前として使って
いるが、それは本来の意味では正しくない。
﹃ティスロウ﹄とは、元々この村に暮らす一族の名前なのだ。
﹁だから⋮⋮ウチの村では﹃家名﹄ってのも無いんだ。本当ならば
﹃ティスロウ﹄ってのが家名になっちまう。そうすると、村の全員
でもデイル、﹃デイル・レキ﹄っていつも名のっているよ
が同じ家名だから⋮⋮役にたたねぇんだよ﹂
﹁ん?
?﹂
﹁ああ。それでこの村では、家名の代わりに﹃役目﹄を名前に付け
るんだよ⋮⋮俺の﹃レキ﹄っつうのは、﹃外に出て戦う者﹄に付け
られる名称なんだ。一族に伝わる古い言葉で、元がどうだったかは、
もうわかんねぇけど、そういう言葉だったってことだけ伝わってる
んだよ﹂
デイルはラティナを連れて、屋敷の一室で荷ほどきをしていた。
元々彼の私室だった場所だった。かつての家具などは片付けられ
ていたが、勝手知ったる様子で、彼はもう寛いだ様子となっている。
ラティナも荷物とナイフなどを下ろしてから、今はおとなしく座
って彼の話を聞いていた。
﹁ずいぶん昔に余所の土地からウチの一族は流れて来たらしい。こ
コ
の山の中に定住して、土地を拓いて村をつくった。⋮⋮﹃大地に愛
ルモゼイ
されし一族﹄って二つ名を名乗る位、ウチの一族の連中は代々﹃橙
の神﹄の加護と地属性魔法の適性に秀でた者が多い。土木工事も開
墾も、ウチの一族のお家芸だからな⋮⋮﹂
355
地属性魔法に優れた者が多いということは、その魔法によって、
土木工事や建築−−特に基礎工事など−−といった作業に、大きな
労力を割かなくてもよいということだ。こんな辺鄙な山の中であっ
コルモゼイ
ても、建築材料にも、それを組み上げることにも魔法使いが複数い
れば困ることはない。
コルモゼイ
豊穣を願い奉る大地の神﹃橙の神﹄の加護も大きな力だ。全ての
加護持ちの力がそうではないが、﹃橙の神﹄の加護の中には、農作
物の育ちに大きな影響を与えるものがある。それだけでなく更に、
土地が回復するのも早まり、続けて作物を収穫することも可能にな
るものすらあるのだ。
一見すると不便な田舎の山の中だが、ここは﹃神の力に満たされ
た﹄加護の影響が出やすい土地。彼ら一族にとっては、この上なく
住み良い豊かな土地なのだ。
﹁だから、ウチの一族の習慣は﹃ラーバンド国﹄とは違うもんも多
い。建物の中で、靴脱いで過ごしていたりするのもな﹂
﹁あ⋮⋮﹂
ラティナがそういえば。といった顔をしたのは、彼女は普段から
デイルと共に暮らし、彼の﹁自室では靴を脱ぐ﹂という生活スタイ
ルに慣れていたからだろう。
この部屋にも敷かれている厚手でふかふかした敷物は、クロイツ
の彼の部屋にあるものと良く似ており、見慣れていたラティナにと
っては違和感を感じるものではなかったらしい。
デイルと共に部屋を出ると、木目が美しく、鏡のように磨かれた
廊下に続いている。
﹁こんな山の中だし、冬になると雪も多い。まぁ、俺ら一族はそう
356
いった土地を選ぶらしいんだけどな。だから靴は土や泥に常に汚れ
てる。それで家の中では、汚れた靴を脱いで過ごすんだよ。元々は
な﹂
ぺたぺたと足音を立ててデイルはそう言いながら先導する。ラテ
ィナにはふかふかの素材で作られた室内履きが用意されていたため、
彼女の足音はほとんどしない。
彼はしばらくして目的の部屋の前で立ち止まった。ノックなどす
ることもなく、ノブを掴んで開ける。
その部屋は、豪勢ではないが、一目で﹃上等の部屋﹄だとわかる
場所だった。雪深い土地の貴重な日の光をたっぷりと取り込める南
向きの部屋で、古くはあっても良く手入れのされた暖炉が設置して
あった。この部屋にも敷物は敷かれていたが、複雑な模様が織り込
まれた﹃特別﹄な一枚だ。歴代の一族の者の狩りの成果を誇るよう
に立派な動物の角や毛皮などが壁に飾られている。
そしてその部屋の中央には、一人の老婆が座っており、煙管で煙
草を吸っている最中であった。
﹁で。何か言うことはあるか。この糞婆﹂
﹁バカ孫か。ケツの穴が小せぇこと言いやがる﹂
呵呵と笑いながら部屋の主として、でんと座る老婆は、かなり小
柄だった。ラティナと並んでようやく勝るといった位の体格だ。
だが、ふてぶてしいほどの態度で、そんな小柄さは帳消しとなっ
ているようでもある。決して﹃小さく﹄見えない存在感だった。
わざわざ挑発するようにぷかぁと、手にした煙管をふかしてみせ
る。
﹁こんの⋮⋮っ﹂
デイルが苛立ったように拳を握った横で、ラティナは一度老婆を
見てから、続けてデイルを見上げた。
﹁⋮⋮デイルに、そっくりだね﹂
357
﹁っ!
ラティナ!?﹂
唐突な言葉に、デイルが呆気にとられてラティナを見れば、彼女
はとことこと老婆の前に進み出るところだった。
﹁はじめまして。ラティナです。デイルに助けてもらって、今いっ
しょにくらしています。しばらくの間、おせわになります﹂
そう言ってから、流れるような動作できれいな姿勢で一礼する。
正式なマナーに基づいたものではなかったが、彼女の誠意が伝わ
る挨拶だった。
﹁ほぅ⋮⋮﹂
﹁おばあさんは、デイルのおばあちゃんなの?﹂
﹁そうだよ。⋮⋮お嬢ちゃんの方が、うちのバカ孫よりもちゃんと
しているねぇ﹂
﹁デイル、ラティナにいっぱい良くしてくれてるよ。いっぱい教え
てくれたりもするよ。だからデイル﹃バカ﹄じゃないのっ﹂
ラティナは、そんな﹃巨大な﹄老婆の前でぷすっと小さく膨れた。
﹁ラティナ。デイルのおばあちゃんでも、デイルのこと悪く言うの
ダメだと思うのっ﹂
その後でくるりと後ろを向く。
﹁それでもね。デイルも、おばあちゃんのこと悪く言うのダメなん
だよっ﹂
少女の下した判断は、ケンカ両成敗であった。
祖母と孫は視線を交わしあった。
その中央には、小さく膨れたラティナ。
﹁⋮⋮膨れっ面も可愛いなぁラティナ﹂
﹁うむ﹂
﹁ラティナ可愛いだろう﹂
358
﹁何処で見つけて来たこの童っこ﹂
﹁拾った﹂
﹁たまにはお前も、ましなもん見つけて来んだな﹂
ラティナは初見で真理を見抜いていたのであった。
﹃似た者同士﹄の祖母と孫。﹃似た者同士﹄だからこそ反発もする
お互いであるが。
﹃可愛いと思うもの﹄の沸点も、近似しているのである。
﹁嬢ちゃん。飴っこ食うか﹂
﹁餌付けるなっ!﹂
﹁あめ?﹂
老婆が自分のそばの引き出しから琥珀色の飴を取り出して、ラテ
ィナを手招きするのをデイルは押し留めようとする。
彼にはわかっているのである。一度祖母の﹃攻撃﹄を許せば、ラ
ティナは陥落される。そして、そうなった後の相手の思惑も。
﹁駄目だからな。ラティナは俺んとこの子なんだからな﹂
﹁嫁もいねぇのに、何言ってやがる﹂
ラティナを背中から抱き締めながら、親猫が仔猫を守る時に毛を
逆立てているような様子のデイルを、祖母は鼻で笑う。
﹁ん?﹂
つい先ほどまでと雰囲気の変わった二人の様子に、ラティナは小
さく首を傾げた。
﹁ほれ。あーん﹂
﹁あーん?﹂
﹁ラティナっ!﹂
言われる通りに素直に口を開けたラティナに、飴が放り込まれる。
デイルの妨害も物ともしない、歳からは想像のつかない俊敏な動作
359
であり、一瞬の出来事であった。
﹁うまいか?﹂
﹁おいしい﹂
片方の頬を栗鼠のように膨らませた状態で、ラティナはこくん。
と頷いた。
知らない人から食べ物を貰うなってあれほどっ!﹂
デイルのおばあちゃんも、﹃知らない人﹄になるの
﹁ラティナっ!
﹁ふぇっ!?
っ!?﹂
﹁気にすんな。ただの餓鬼の戯言だ﹂
﹁え?﹂
え?﹂
﹁この婆の言うことを素直に聞くなよっ!﹂
﹁え?
﹁てめぇもちいせぇ頃は素直だったんだがなぁ﹂
﹁その結果が今の俺だ。わかったか﹂
﹁よくわかんないけど。デイルとおばあちゃんは仲よしなの?﹂
﹁悪くはないな﹂
﹁そうだな﹂
ラティナの理解をこえる祖母と孫の関係に疑問を口に出せば、祖
母と孫の二人は同じような表情で返答した。
﹁ふあぁ⋮⋮﹂
ラティナはしばらく考えこみ、
﹁なら⋮⋮良いのかなぁ?﹂
と、ころころと大粒の飴玉を口中で転がしながら独白したのだっ
た。
360
青年、故郷の父親と。
﹁前帰って来た時よりは、ましな面に戻ったか﹂
ぷかりと煙を吐き出して、デイルの祖母−−ヴェンデルガルトと
いう大層な本名で呼ぶ者は誰もおらず、主にはヴェン婆と呼ばれて
いる−−は、にやりと笑う。
﹁⋮⋮そんなに違うかよ﹂
﹁まぁな。前みてぇな顔のままなら、性根を叩き直せちゅうたら、
ランドルフたちが気張ってなぁ。面白れぇから放っといた﹂
﹁⋮⋮親父﹂
ランドルフとはデイルの父親の名前だった。
どうやら、祖母の命令だけでなく、他の面々も悪乗りした﹃襲撃﹄
であったらしい。デイルはわざとらしい程に一つ大きなため息をつ
く。
﹁まぁ⋮⋮ああいう﹃悪ふざけ﹄はいつものことだけどなぁ⋮⋮今
回はラティナを連れていたから、怪我させたくなかったんだよ。万
が一にもな﹂
﹁ちゃんと守れもしねぇのか﹂
﹁守ってるよ﹂
そんな二人の真ん中でラティナは飴を食べながら、話を聞いてい
た。
右の頬が膨らんでいたと思えば、普通の顔に戻り、今度は左の頬
が膨らむ。
ころころ。ころころ。という飴玉を転がす音が時折唇の隙間から
漏れていた。
当人は大人しく静かにしているつもりであるのだろうが、自己主
張は結構なものがある。
361
﹁⋮⋮ラティナ﹂
﹁ん?﹂
﹁飴⋮⋮うまいか?﹂
﹁うん﹂
﹁良かったな﹂
音に気を取られて彼女の様子を伺ったデイルだったが、彼女の非
常に満足気な表情に破顔した。
彼女が幸福であるのならば、彼に言うべきことなどないのだ。
そんな孫の姿に、ヴェン婆は満足そうに深く煙を吸い込んでいた。
廊下を歩きながら、ラティナはデイルに尋ねた。
﹁デイルはかぞくと仲わるいんじゃないんだよね?﹂
﹁ああ﹂
﹁じゃあなんで﹃ケンカ﹄してたの?﹂
﹁んー⋮⋮ケンカじゃねぇんだけどな。俺の﹃役割﹄が﹃役割﹄だ
から⋮⋮俺がちゃんとしっかりやれてるか、確認されたって感じか
なぁ⋮⋮﹂
デイルはそう答えて、苦笑いを浮かべた。
﹁前回帰って来たのは、ラティナと会う少し前だったからな。⋮⋮
俺が一番駄目になってた頃の話だ。⋮⋮心配かけてたんだろうな﹂
﹁え?﹂
﹁⋮⋮俺も、ラティナのお蔭で、幸せになれたってことだよ﹂
こてん。と首を傾げるラティナの頭を撫でながらデイルはそう言
った。あまり﹃格好の良くない﹄自分の話は、この子には聞かせた
くない。
362
・
・
・
・
︵家族から見ても、そんなんになってたんだな⋮⋮﹃会えて、救わ
れた﹄のは俺も同じだ⋮⋮︶
ラティナはよく﹃デイルに会えて良かった﹄と言ってくれている
が、彼にとっても﹃ラティナと会えたこと﹄は幸運だったのかもし
れない。
彼女と共に暮らす日々に流れる穏やかな優しい時間は、間違いな
く彼女がくれたものなのだから。
﹁だが、親父たちはやりすぎだと思うんだ﹂
﹁それよりお前。⋮⋮いつもそんな風にお嬢ちゃん連れて歩いてい
るのか﹂
﹁ふぇっ?﹂
﹁⋮⋮いきなり一人きりで知らない場所に放り出すような、酷ぇこ
とはしねぇだけだよ﹂
﹁⋮⋮いや。でもなあ⋮⋮﹂
リビングでは父親のランドルフが何らかの書状を流し読みしなが
ら、お茶を啜っているところだった。自分の部屋ではないというこ
とは仕事ではなく、私的な物なのだろう。
一族の当主であり、村の長であるのはヴェンデルガルド婆なのだ
が、流石にかなりの高齢だ。当主としての仕事のほとんどはランド
ルフが担っている。
そんな父親の斜め前にどっかりと腰を下ろしたデイルの隣には、
ラティナがちょこんと寄り添っている。リビングには広いスペース
があるのだが、中央に座るのは落ち着かないらしく、デイルの背中
に半分隠れるような位置を陣取っていた。
ちょろっと頭を覗かせて、また背中に隠れる。
当人には隠れているつもりはないのだが、リビングのインテリア
363
や何やらと気になる物を、右へ左へと見て回っている結果、ランド
ルフの位置からはそう見えるのだ。
一度気になると、つい目で追ってしまう。そんな存在だ。
そして久しぶりに会った息子は、そんな少女の微笑ましい様子を
温かく見守ってはいるが、当たり前のものとして﹃隣に居ることが
当然﹄という顔をしているのだ。
﹁何があった﹂とは聞きたい。
﹁⋮⋮親と死に別れたラティナを、仕事の途中で拾ってから、成り
その方がい
行きで面倒みてるんだよ。手紙には時折書いておいただろう﹂
﹁まあ⋮⋮だがなあ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ラティナじゃまだったら、お部屋行ってるよ?
い?﹂
デイルとランドルフの会話を聞いていたラティナは、そう口を挟
んだ。即座にデイルは答える。
﹁ラティナが邪魔になることなんてあるはずないだろう﹂
﹁お前⋮⋮﹂
﹁デイル、ラティナにはいつもこんな感じだよ。やさしいの﹂
﹁我が儘言うような子じゃねぇから、俺が甘やかしてやる位で丁度
良いんだよ﹂
﹁とりあえずお前がベタ甘なのはわかったよ﹂
何かを吹っ切った顔でランドルフは一つ頷いた。
﹁あのね。デイルのおとーさん?﹂
お名
ひと区切り付いたとみて、ラティナは少し前に出た。ランドルフ
を見上げるようにして、小さく首を傾げる。
﹁⋮⋮なんだ?﹂
﹁ラティナ、おとーさんのことなんて呼んだら良いかなぁ?
364
前知らないから、わかんないの﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
白金の髪をさらりと揺らし、大きな灰色の眸をまっすぐに向けて
くる少女は、改めて見れば驚く程に愛らしい顔立ちをしていた。初
めて会った時から﹃可愛い﹄少女だとは思ったが、こう向き直れば、
幼いながらも﹃美貌の主﹄と呼んでも差し支えはない整った造作を
していることを実感せざるを得ない。
ランドルフはしばらく言葉を無くし彼女を見ていたが、一呼吸遅
れて別の衝撃に気付いた。重く息を吐く。
﹁ん?﹂
﹁ウチには、娘は産まれなかったからな⋮⋮﹂
﹁親父⋮⋮﹂
﹁ん?﹂
デイルのおとーさん⋮⋮ラティナ、なんて呼んだら良いか
﹁⋮⋮もう一度質問してみてくれるか?﹂
﹁え?
な?﹂
﹁﹃おとーさん﹄も悪くないな⋮⋮﹂
﹁親父⋮⋮﹂
﹁お前の気持ちが少しわかったような気がするぞ﹂
やはり父と息子も変なところで似るものなのらしい。
﹁ああ。そうだった。﹃娘﹄で思い出した﹂
ランドルフはそう言って、デイルを改めて見た。
﹁下の村の長の娘を嫁に取ることに決めた﹂
﹁嫁?﹂
﹁そうだ。お前がここに居る間に済ませてしまおうとな。予定を早
・
・
・
・
良いのか?﹂
めることにした。近いうちに嫁取りの儀式をやるぞ﹂
・
﹁下の村の村長の娘って⋮⋮あ、フリーダか?
﹁問題はない。落ち着いたからな。向こうも願ってもないことだと
365
ウチ
言っている。﹃遠い領主﹄よりティスロウの方を頼りにしたいのは
普通の心理だろう﹂
﹁まぁ⋮⋮不作や魔獣、回復魔術も⋮⋮領主にお伺いたてても、こ
んな田舎じゃ後回しにされるのが、目に見えてるしなぁ⋮⋮ウチを
・
・
頼れば、ある程度のことは対処できるしな﹂
﹁領主とのいざこざも、お前の仕事で話は付いた。とりあえずしば
らくは問題ない﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
デイルは少し別の感情を含ませたまま笑ってみせた。
﹁なら、俺はちゃんと一族当主家の役割は果たしているってことだ
よな⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
ランドルフは息子の表情を見て、緩みかけた口元を誤魔化すよう
に茶器を運んだ。
﹁もう、﹃大丈夫﹄なようだな﹂
デイルがその言葉に応えなかったのは、否定ではなく、照れ隠し
・
・
である故であることは、言葉にせずとも親子間では共有する事実で
あった。
・
まだ仕事⋮⋮﹂
﹁⋮⋮嫁かぁ⋮⋮ヨルクに先越されたか。それじゃあいつ今大変じ
ゃねぇか?
﹁ふぇっ!?﹂
デイルの言葉の途中で、静かにしていたラティナから上がった驚
具合でも悪いのか?﹂
愕の声に、彼が驚いて彼女を見れば、彼女は血の気を無くしていた。
﹁どうしたラティナ?
ああ。まだ帰って来てねぇから紹介してねぇけどな。俺の
﹁ううん。だいじょうぶだよ。⋮⋮デイル、﹃ヨルク﹄ってだれ?﹂
﹁ん?
弟だよ﹂
366
﹁デイルのおとーとさん?
・
・
・
⋮⋮およめさん、もらうの?﹂
﹁ああ。ここに居る間に結婚式見れるぞ。ラティナの晴れ着も用意
させるからなっ!﹂
それは彼の中では、決定事項らしい。
﹁そっか⋮⋮﹂
そう呟くラティナの顔色はすっかり元に戻っており、表情もいつ
も通りだった。デイルが自分の見間違いだったかと、思ってしまう
ようなほんの僅かの時間の変化だ。
﹁花嫁さん。見てみたいなっ﹂
そう言って笑うラティナには、陰りは全く見えなかった。
367
青年、故郷の父親と。︵後書き︶
デイルさんの家族紹介が、想定以上に字数が増えております⋮⋮
いつもお読み頂き、誠にありがとうございます。
368
青年、故郷の弟と。
ラティナが欲しいならそうするぞ﹂
ラティナは並んだ﹃魔道具﹄を前にして、ため息をついた。
﹁きれいだねぇ﹂
﹁気に入ったか?
﹁ううん。見てるだけでいいの﹂
デイルの言葉に首を振って、彼女は隣に並んだ別の物を手に取っ
た。
﹁これも﹃魔道具﹄なの?﹂
﹁そうだぞ。ウチの村は﹃魔道具﹄の製作を生業にしているところ
だ。こういった細工物や俺の籠手みたいな仕掛け細工の入った武具
を得意にしているんだ﹂
今ラティナが見ているのは、どれも宝石をあしらった凝ったつく
りのアクセサリーに見える物だ。だが実際は護りの魔術が込められ
た魔道具なのだと言う。
表立って防具等を付けることの出来ない貴人に人気の品だ。
﹁本来は金属加工が得意だから、あんまり俺のコートみたいな皮革
製品はやってないんだけどな。特注品って奴だ﹂
それらは、対外的な売り物としては作っておらず、村の内部で消
費する程度にしか作ってはいない。
作られたそれらの革製品の﹃魔道具﹄は、狩りに出る者の為の装
備や日常用の衣服として使われている。他の地域では贅沢な話だが、
この村で暮らす者にとっては、自分たちで賄える物を自分たちで使
うのは当然だと考えている。
﹁ふぅん⋮⋮﹂
﹁前もって連絡はしといたけど、サイズ計測して完成するまで時間
369
はかかるからなぁ⋮⋮クロイツに帰るのはそれからだ。田舎過ぎて
退屈かもな﹂
﹁ううん。ラティナ楽しみだよ。クロイツには無いものいっぱいだ
もん﹂
﹁そうか。明日、俺も挨拶しなくちゃならねぇ所を回るから、そん
時村の中案内してやるからな﹂
﹁うんっ﹂
この村の特産品である﹃魔道具﹄を前にして、和やかに会話をす
るデイルとラティナの姿に、それらを見せる為に出してやった当人
であるランドルフは、呆れた感情の混じった複雑な表情をしていた。
彼にとってみれば久しぶりに会った息子が、幼い少女を溺愛して
・
・
・
・
いたのだからその位の対応にはなるだろう。
それでもその姿を見るに、溺愛するなんて感情を取り戻すことが
できる程度には、息子は元の彼らしい性格を取り戻すことができた
ようだ。
そのことには、安堵する。
外の世界で、命懸けの任務−−﹃普通﹄の冒険者たちでは一生関
わることも無い、﹃魔王﹄や﹃魔族﹄に関する危険な仕事ばかりの
もの。−−それらを幾度も行ううちに、心を磨り減らしていった彼
・
・
のことを、父親として心配していなかったわけではない。
ひとやひとに近しいものを殺し続けることを、﹁割り切れた﹂な
んて言えるようになるまで息子が苦しんだことは、ランドルフも察
していたのだ。
・
・
︵⋮⋮このお嬢ちゃんに、感謝と裏のない親愛を向けられて、自己
肯定出来たのか︶
それならば、親として、彼女には感謝しなくてはならないだろう。
息子の﹃恩人﹄なのだから。
370
せんせい
﹁親父。まだコルネリオ師父は現役か?﹂
﹁ん?⋮⋮最近村の子どもたちへの教育は娘のクラリッサの方が請
け負ってくれているがな。お元気だぞ﹂
アスファル
﹁そうか⋮⋮なら、ラティナ。ここに居る間はコルネリオ師父に勉
強を教わると良い。街の黄の神の神官とは、少し違った物の見方を
教えてくれる筈だ﹂
﹁この村にも、﹃学舎﹄あるの?﹂
アスファル
ラティナが首を傾げた。今まで旅の途中で立ち寄った村には、﹃
黄の神の学舎﹄は存在しないとデイルに聞いてきていたのだ。田舎
ティスロウ
の小さな集落にまでは、さすがに教育という事業は広まりきっては
いないのだ。
アスファル
けれども﹃この村﹄はずいぶんと規格外な土地であるようだ。
﹁コルネリオ師父は黄の神の神官だからな。一応名目上は﹃学舎﹄
になるかな﹂
デイルはそう言いながら、少し懐かしそうな顔になった。
﹁明日紹介するから楽しみにしとけ﹂
﹁わかった﹂
広い屋敷だが、夕食の支度をする香りはキッチンからリビングま
で届いて来る。それに気付いてラティナはそわそわしだした。
デイルは理由がわかっているので、緩んだ表情で見守るだけだっ
たが、ランドルフは心配するような顔をした。
﹁どうした?﹂
﹁えっ⋮⋮あの、あのっ⋮⋮﹂
ランドルフの問いにラティナがおろおろと困った顔をする。その
ままデイルの服の裾をクイクイと引いて、どうしたら良いか目で訴
える。
﹁デイル⋮⋮﹂
371
﹁今日くらいはゆっくり休んどけ。俺からおふくろに言っといてや
るから﹂
ぽふぽふと頭を撫でながら苦笑いを浮かべたデイルは、父親に状
況を説明する。
﹁ラティナは働いてないと落ち着かないんだよ。クロイツでもケニ
スを手伝って﹃虎猫亭﹄の仕事をやってる。ここまで来る間も調理
はラティナに任せてきた﹂
﹁ほう⋮⋮﹂
﹁﹃お客様﹄でいるのは嫌なんだろうよ。仕事させてやってくれ﹂
﹁働き者であるのは美徳だ﹂
ランドルフがそう言って柔らかい表情をすると、ラティナもほっ
としたようにデイルの服を離した。
それでもウズウズしているようなラティナの姿を、父と息子が小
動物を愛でるような視線で見守っていた後で、リビングの扉が開い
た。
基本的にティスロウの人々は﹃ノック﹄をする習慣はない。仕事
や私室に入る時は前もって声をかけるが、リビングなどの共有する
空間には全ての者を迎え入れるという考え方があるためだ。
ドアを開けてリビングに入ってきた青年は、一目見ただけでデイ
ルとよく似ているという印象を受ける人物だった。
年の頃もほとんど変わらない。
デイルよりも短く刈り込んだ髪を撫で付けおり、革の上着を脱い
だその下の体つきも、腕利きの冒険者であるデイルと比べても遜色
はない。
﹁ヨルク﹂
﹁兄貴⋮⋮帰ってたのか。今日だったのか﹂
﹁⋮⋮普通そういう反応だよなぁ。親父たち、どんだけ﹃悪ふざけ﹄
372
・
・
の為に労力かけてたんだよ﹂
﹁ああ。またやられたのか。兄貴も大変だな﹂
ヨルクはそう言いながら、デイルの隣のラティナに視線を向けた。
﹁その子が、兄貴が面倒みてる魔人族の子か?﹂
﹁ああ。ラティナ、こいつが俺の弟のヨルクだよ﹂
デイルのその言葉を聞いた後で、ラティナはぴょこんと立ち上が
った。きちんと一礼する。
﹁はじめまして。ラティナです。しばらくおせわになります﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ヨルクは少し驚いたような顔をしてから、ラティナを見て、その
後で兄を見た。
﹁驚いた。兄貴が面倒みてるとは思えないほど、ちゃんとした子だ﹂
﹁てめぇもそういう認識か⋮⋮﹂
弟の言葉にデイルは眉間に皺を寄せる。どうも家族にとっての自
分は、故郷を離れた頃の、半分子どもだったような時の印象の方が
未だに強いようだ。
クロイツや王都で﹃一流の冒険者として名前が売れている﹄なん
すまないね﹂
てことは、噂が届かないということもあって、全く評価対象になら
ないらしい。
﹁よろしく。兄貴がいつも世話になっているだろう?
﹁ふぇっ?﹂
﹁ヨルク⋮⋮﹂
ヨルクの挨拶に、ラティナがすっとんきょうな声をあげた。彼女
にとっては全く予想外の言葉だ。
﹁あのね。あのねっ。ラティナが、いつもデイルにいっぱいいっぱ
い良くしてもらっているんだよ?﹂
﹁こんな小さな子に気を使わせて⋮⋮兄貴⋮⋮﹂
﹁お前⋮⋮﹂
﹁冗談さ。半分くらいは﹂
373
そんなやり取りの間もずっと、少し首を傾げて、理解に努めてい
たラティナは、わかったとばかりに力強く頷いた。
﹁デイルのかぞくって、変わっているんだね!﹂
﹁ラティナ⋮⋮﹂
デイルはがっくりと項垂れるしかなかった。
否定する材料が見つからない。
﹁今日は準備が出来なかったから、歓迎の宴は明日にするからね﹂
﹁うわあぁぁっ﹂
デイルの母親であるマクダが卓の上に並べた料理の数々にラティ
ナは歓声をあげた。
宴は翌日と言うにも関わらず、卓の上には多くの料理が並んでい
る。ラティナが見たことのない料理や食材の物も多い。彼女が嬉し
そうになるのも仕方がない。
﹁婆ちゃん呼んで来ないとねえ﹂
﹁じゃあ、ラティナが行ってくるのっ﹂
ぴしっと元気良く挙手してから、ラティナはぱふぱふと小さな足
音をたててヴェン婆を迎えに行く。
デイルはその瞬間よぎった悪い予感を信じるべきであった。
一流と呼ばれるようになった彼の勘というものは、どんな時でも、
ある程度の理由に基づいた物なのだから。
悪い予感は当たった。
その後、食事の最中も食後も、ラティナはヴェン婆の隣から離さ
374
れることはなかったのだった。
375
青年、故郷の弟と。︵後書き︶
いつもお読み頂き誠にありがとうございます。
年末にかけて少々忙しくなっておりまして、年明けまで更新頻度が
落ちるかもしれません。週一は必ず更新したいのですが。多くても
もう一度程度かと思われます。
ご理解頂ければ幸いと存じます。
376
幼き少女、おねだりをする。
デイルのかつて私室だった部屋とその隣の部屋が、彼らの客室と
して割り当てられた部屋だった。
そして今現在、ラティナは当たり前のように、デイルの使う筈だ
った部屋の寝台で、すぴゅすぴゅと穏やかな寝息をたてている。
デイルも久しぶりの家族との再会ということもあり、つもる話も
あって部屋に戻るのは遅くなった。ラティナはいつも通りの時間に
眠そうな様子となったので、先に床につくように言ったのだった。
﹁うーん⋮⋮まぁ⋮⋮もう俺の部屋って訳でもねぇしなぁ⋮⋮﹂
ぽりぽりと頭を掻いて、デイルはぐっすり眠るラティナを覗き込
んだ。自然に表情が緩んでしまう。
元が自分の私室だったから、自分が使うつもりではあったけれど、
これだけ気持ち良さそうに眠るラティナを移動させるのも可哀想だ。
自分が隣の部屋を使えば良いだろう。
彼はそう思いながら、そっと音を立てないように部屋を後にした。
その時は、そうすれば良いと思ったのだ。
夜中、デイルはふと目を覚ました。
何故目が覚めたのだろうかと、自問する。仕事柄、彼は寝起きだ
からといってぼんやりとすることはない。
﹁⋮⋮?﹂
ラティナっ?﹂
呼ばれた、ような気がした。
﹁っ!
ガバッと跳ね起きて部屋を飛び出る。廊下に出たと思った瞬間に
は、すぐに隣の部屋のドアを開く。
377
部屋の中に飛び込んだデイルが見たものは、空の寝台だった。血
の気が失せる。
それでも、彼は自分を全て見失うことはなかった。残っていた冷
静な部分が気配に気付く。
部屋の隅。
寝台から離れたその場所で、荷物として下ろし片付けておいた筈
の、毛布が膨らんでいた。
﹁ラティナ?﹂
デイルが声を掛けると、毛布の塊は、もそっと震えた。
﹁⋮⋮⋮⋮デイル?﹂
﹁どうした?﹂
重ねて声を掛けると、毛布からラティナが顔を出した。
﹁デイルっ!﹂
ぽふんと毛布から飛び出して、デイルに抱きつく。戸惑うデイル
どうした?﹂
に、ぎゅっと力いっぱい泣き顔を押し当てた。
﹁泣いてたのか?
﹁目が、さめたけど、デイルいなくて。ラティナ、こわくなって。
でも、デイルどこだか、わかんなくて﹂
途切れ途切れに、彼女は訴える。時折鼻を小さくすすった。
﹁デイル、いないの、こわかったの﹂
﹁⋮⋮ごめんな﹂
彼は優しく謝罪の言葉を告げてから、彼女の少し寝癖のついた髪
を撫でる。
自分が隣の部屋にいる。ということは、眠っていたラティナにと
ってはわからないことだ。彼女はこの屋敷に着いてから荷ほどきの
時も、ずっとこの部屋にいたのだから。
デイルにとっては生まれ育った家で、間取りも良く知っている場
378
所だが、ラティナにとっては初めて訪れた見知らぬ場所だ。
不安にだってなるだろう。そんな当たり前のことを自分は失念し
ていたらしい。
︵⋮⋮久しぶりの里帰りで、俺も緩んでいたかな︶
﹁ごめんな。怖かったな﹂
ちゃんとラティナが眠るま
ラティナはただ、こくり。と頷いてデイルに抱きついたままだっ
た。離れようとはしない。
﹁ほら、布団の中に入れ。寒いだろ?
で側に居るからな﹂
デイルは宥めるようにそう言った。
山深いティスロウの土地は、クロイツに比べて季節が遅く、気温
も低い。夜遅いこんな時間は春先とは思えないほどに冷え込むのだ。
﹁⋮⋮デイル。行っちゃうのやだ﹂
だが、それを嫌々と遮りながら泣き声でラティナは訴えた。ぎゅ
っと更に抱きつく力がこもる。
﹁いっしょがいいの⋮⋮行っちゃうのやだ⋮⋮ラティナひとりぼっ
ち、やなの⋮⋮﹂
︵ラティナの⋮⋮おねだり⋮⋮っ︶
ラティナは甘えることはあっても、我が儘を言わない子だ。
そんなラティナの、泣き声の﹃おねだり﹄だ。
﹁⋮⋮仕方ないな﹂
彼が陥落するまでに要した時間は、ほんの数秒であった。
それを世間では即決と言う。
そして迎えた、明くる朝。
彼女は、どうしたもんかと、困った顔をしていた。
379
・
・
・
﹁母さんもね、人はそれぞれだと思うけどね。それでも、ラティナ
ちゃんはまだ小さいと思うのよ﹂
﹁おふくろの頭の中での俺が、どんなんになっているかは聞かねぇ
けどな。それ違うからな。絶対﹂
朝食の席で母が発した言葉に、息子は即座に反論する。
﹁街の暮らしは、結婚も遅いって聞くから、お前が嫁さん見つけて
こないのも、母さんそういうものかと思っていたんだけどね。さす
がに息子が少女趣⋮⋮﹂
﹁ラティナが聞いてるから、本当に止めろよ?﹂
デイルの母親であるマクダが見たものは、幼い少女と並んで眠る
息子の姿だったのだ。起こしに出向いた先のひと部屋に誰の姿もな
く、それを不審に思って開けた先の光景がそれであったのだ。
−−いい歳した息子が、幼い少女を抱きしめて眠る姿。心配には
なるだろう。
可愛いがっているとは思っていたが、まさかそこまでとは。親と
して、道理は正さねばならない。
デイルは座った目で母を見る。すると母子のやり取りを見ていた
父はお茶を一口飲んで重々しく頷いた。
﹁そうか。お前⋮⋮そういう嗜好だったのか﹂
﹁親父も、真面目な顔でそういうのいらねぇから﹂
その時、しゅんとした様子のラティナが声をあげた。
ラティナが本気にしちまっただろっ!﹂
﹁デイル⋮⋮ラティナわがまま言ったから⋮⋮ごめんなさい⋮⋮﹂
﹁ほら!
﹁まあまあ。本当に良い子だねえ﹂
﹁うむ﹂
﹁ラティナ、おふくろたちは俺をからかっているだけだから。心配
するなよ﹂
380
そう言ってから、デイルは両親に向き直る。
﹁ラティナには留守番させる時もあるから、一人寝が出来ねぇ訳じ
ゃない。今回は知らない場所に一人きりだったから、不安になっち
まったみたいだ。しばらくラティナが慣れるまではこうさせてやっ
てくれ﹂
﹁ラティナちゃんはまだ小さいものねえ。田舎の夜は真っ暗だし、
怖いわよねえ﹂
今までの態度をコロリと変えてマクダはラティナに笑いかける。
﹁うむ﹂
ランドルフも肯定して頷く。
﹁起きて知らない所にいたら怖いわよねえ。本当に駄目な息子だね
え﹂
﹁うむ﹂
﹁お前ら⋮⋮﹂
ラティナのわがまま、ごめんね﹂
﹁親に向かって﹃お前﹄とは何だ﹃お前﹄とは﹂
﹁朝から⋮⋮疲れた⋮⋮﹂
﹁デイル、だいじょうぶ?
﹁やっぱり⋮⋮っ、俺の癒しはラティナだけだ⋮⋮っ!﹂
そのデイルの声には、心の奥底からの思いが込められていた。
いまだにしゅんとしたままのラティナと手を繋いで屋敷を出る。
気温の低いティスロウの朝は、空気がきりっと冷えている。寒い
という感覚とは異なる清涼感だ。
道すがらの土地では春の盛りを感じてきたが、ティスロウはまだ
春を迎えたばかりだ。柔らかな新芽の色を付けた木々は黄色い気配
の濃い緑に彩られている。道端の草花もどこか柔らかい色だ。
遅い春を祝うように一斉に芽吹くのを待ちかねている。
381
大地の力の強いこの地は、そんな気配が色濃く噎せかえるほどに
感じられるのだった。
ラティナはいつものケープではなく、ストールを肩にかけている。
淡いピンクのストールは、起毛した厚手のもので、その肌触りま
で暖かい。それを花の形のブローチで留めていた。
ヴェン婆が屋敷の何処からか引っ張り出して用意したものだ。
昨日の今日で行動が早すぎる。
デイルは自分のことを棚に上げて、そんなことを内心で独白した
のだった。
﹁ラティナには、そういった色が似合うなぁ﹂
﹁デイル?﹂
﹁春の色だな。可愛いな。婆ちゃんも良くわかってるなぁ﹂
彼のその言葉を理解すると、少し照れくさそうにラティナは微笑
んだ。
﹁あったかいよ﹂
﹁良かったな﹂
デイルの微笑みに、ラティナの笑顔もつられたように明るくなる。
彼が繋ぐ手に少し力を込めると、ラティナもそっと握り返した。
デイルは屋敷を出た後、右回りで村を歩きはじめた。
﹁こっちは工房になってる。村の共同施設だ。危ないもんもたくさ
んあるから、勝手に遊びには行くなよ﹂
﹁うん﹂
デイルが指した方向には、少し大きめの建物が数棟並んでいる。
ティスロウの人々はこの施設で共同で魔道具の作成を行っているの
だ。
﹁この手前にあるのが事務所だから、どうしても用のある時はここ
に行け。その隣が﹃配送業者﹄だ。手紙、ここから出せるぞ﹂
382
そこには、彼女も見覚えのある封筒と羽の意匠のモスグリーンの
旗が下がっていた。ラティナは少し驚いた顔になる。
﹁手紙やさん。いるの?﹂
﹁ウチの村は、注文があちこちから入るからなぁ。必要だったんだ
よ。ラーバンド国としてもな﹂
デイルはそう言いながら、事務所の中に入った。彼は当主家の者。
次期当主ランドルフの長男として、帰ってきたからには顔を見せな
くてはならない人間があちこちに居るのだった。
383
幼き少女、おねだりをする。︵後書き︶
一週間ご無沙汰しておりました。しばらくは、基本的に土曜日投稿
となると思われます。
384
幼き少女、村を回る。
工房を後にして村の中の細い道を歩く。
家々の合間を通り抜けて行けば、各家にはそれぞれ庭があり、小
さな菜園や花壇があることも見て取れた。
まぁ、何処の家も花は育ててたりするかなぁ⋮⋮毎日
﹁ティスロウの村は、お花多いね﹂
﹁そうか?
コルモゼイ
替えなきゃならねぇし﹂
﹁かえる?﹂
﹁玄関のだよ。橙の神への捧げものだ﹂
﹁へえ⋮⋮﹂
そう言いながら視線を上げれば、離れた所には段々畑を見ること
が出来た。村の周囲を囲む斜面の多くは畑になっているのだ。
石垣を積みあげて造り上げたその光景は、彼女が今まで見た事の
階段みたいだね。すごいねぇ﹂
なかった風景だった。
﹁畑?
﹁そうか?﹂
きらきらと輝く眸の好奇心に満ちた様子のラティナに、デイルは
微笑みで応えた。
段々畑以外に村で目をひくのは、あちこちに走った水路の存在だ
った。淀み渇れることのなく清廉な水を豊かに流し続ける水路が各
家の側、あるいは畑の近くを走っている。
村の奥側、山の中から湧水を引き入れているのだった。生活用水
として使われているそれの存在もまた、この土地の﹃豊かさ﹄を示
していた。この村は、大地の力だけではなく、命を支えることに必
須の水の力にも満たされているのである。
385
時折すれ違った村人とデイルは立ち止まって挨拶を交わす。その
間、知らない人に気後れしたようにラティナが彼の背中に貼り付く。
そんな仕草も愛らしい。
ゆっくり歩き到達したのは昨日も通った村の入り口だった。
﹁ウチの村への入り口は、このトンネルだけだ。一応名目上はな﹂
険しい山越えをするルートも存在してはいる。
だが、それは代々当主家が管理する緊急事態の為の道だ。一族の
者でさえ全てを知る者は少ない。
村のメインストリートと言うべき街道から続く幅広の道を渡り反
対側に至ると、デイルは少し山の方へと向かった。
アスファル
﹁コルネリオ師父の家はこっちだから、覚えておけよ﹂
﹁黄の神の学舎?﹂
﹁自宅の一部を開放しているから、そうとも言えるな﹂
斜面となっている道を進めば、それは途中から階段となった。
登りきった先には、一軒の家が佇んでいた。
その建物は、﹃学舎﹄を兼ねているということで、やや周囲の物
よりは大きい。だがそれ以外では、村の他の建物とさほど変わりは
ない。玄関に一輪の花が飾られているのも同様だ。
﹁学舎?﹂
﹁一応な﹂
そんな様子にラティナが首を傾げたが、デイルは気にすることも
なくドアに近づいた。
ノックもせずに急にドアを開いたデイルに、ラティナが驚いた顔
になる。
せんせい
勝手にひとのおうち入ってだいじょうぶなの?﹂
﹁師父居るかーっ?﹂
﹁デイル?
386
ラティナが尋ねるのに、デイルは﹁ああ﹂と気が付くと。
﹁ウチの村の﹃家﹄っていうのに、ノッカーとかねぇし。鍵かけて
る家もねぇからな。中入って呼ぶのが、普通だ﹂
﹁ふぅん⋮⋮クロイツとは違うんだねえ﹂
﹁俺は生まれがこっちだからなぁ。クロイツとかのごちゃごちゃし
た様子に驚いたぞ﹂
﹁ラティナもクロイツはじめての時、びっくりした。ひと、すごい
いっぱいで!﹂
そんな会話をしている間に奥から人の気配がした。
顔を覗かせたのは、茶色の髪を束ねた女性だった。おっとりと玄
デイル?﹂
関まで歩いて来ると、デイルの姿を確認してゆっくりと口を開いた。
﹁あら?
﹁ああ。クラリッサ姉久しぶり﹂
せんせい
﹁帰って来てたの﹂
﹁昨日な。師父は居るか?﹂
﹁ええ。どうぞ中に入って。隣の可愛らしい子もね﹂
﹁ふぁっ⋮⋮はじめまして。おじゃまします﹂
マイペースな様子の彼女は、デイルよりも幾つか歳上の若い女性
だった。濃い茶色の眸はその性格を表しているように、穏やかな笑
みの形になっている。
﹁父さんに用事?﹂
せんせい
﹁しばらくの間こっちに居るからさ。ラティナ⋮⋮この子の事だけ
私じゃなくて父さんご指名なの?﹂
ど、師父にお願いしようと思って﹂
﹁あら?
靴をポイポイと脱ぎ捨てるデイルに比べて、ラティナは行儀良く
ちょこんと座って靴を脱ぎ、揃えるという行動をしている。
せんせい
ひと
そんな彼女を待ちながら、デイルとクラリッサは話を続けていた。
﹁師父みたいな神官は、街の神殿には居ないからさ﹂
387
﹁そうねぇ。それは否定できないわねえ﹂
クラリッサは、笑いながら奥へと案内する。
﹁ラティナさん、で良かったかしら﹂
﹁はいっ﹂
クラリッサに呼ばれて返事をするラティナは、少し緊張している
のか、他所行きの顔で少しおすまししている。
﹁デイルと一緒に来たの?﹂
﹁そうなの。ラティナ、デイルといっしょにクロイツで住んでいる
の﹂
﹁あら。デイルったらいつの間にこんな可愛い子見つけたの?﹂
﹁ラティナが可愛いのは否定しない﹂
大真面目にデイルがそう答えたが、クラリッサはのほほんとした
笑顔を崩さなかった。
﹁可愛い子だものねえ﹂
﹁そうだろ﹂
ボケと天然の間に、突っ込みは存在しないのだった。
クラリッサが二人を案内した先は、図書室のように書棚が幾つも
並び、膨大な書籍が溢れる場所だった。
アスファル
ラティナが驚いたように部屋の中を見回す。
クロイツの﹃黄の神﹄の学舎の方が総数量ではこれ以上の蔵書を
有しているだろう。それでもこの光景は圧巻だ。個人が所有する本
の量とは思えない。
棚の奥へと抜けて行くと、大きな窓が視界に入る。
その前には、窓の大きさに負けないほどの大きな机が据えられて
いた。几帳面に並べられ片付けられた書棚とは違い、机の上には資
料と書類が絶妙なバランスで均衡を保ち、山と積まれている。その
中で埋まるようにして一人の老人が作業をしていた。
388
﹁コルネリオ師父﹂
デイルが呼び掛けると、ようやく気付いたように顔を上げる。
白髪の老人は、丸硝子の眼鏡の奥の眸がクラリッサとどこか似て
いた。深く刻まれた皺のある顔を驚いたものに変える。
﹁おお。珍しいこともあるもんだ﹂
﹁ご無沙汰しております﹂
アスファル
デイルがきちんと頭を下げて挨拶する相手こそ、コルネリオ・カ
カーチェ。この村に住む唯一の﹃黄の神﹄の神官だった。
﹁街では活躍しているようだな﹂
コルネリオはそう言って穏やかな笑みをデイルに向けた。
部屋の入り口からは見えなかった位置にあったささやかな応接セ
ットは、この村の形式とは違い、ソファーとローテーブルというス
タイルのものだった。
デイルがどっかりと座った隣で、ラティナがちんまりと腰かける。
﹁師父はこの村に居て、良くそんな話までご存知ですね﹂
﹁伝手だけはあるからな﹂
そのまま二人が街や王都の噂話などをする間も、ラティナは少々
緊張気味だった。
それが終了したのは、クラリッサが茶器と茶菓子を運んで来た時
だった。
﹁ふぁあっ﹂
思わず感嘆のため息をついて見入ってしまってから、行儀良くす
ることを忘れてしまっていた自分に気が付いた。
はっとして周囲を見て、周りが微笑ましい目で自分を見ているこ
とに、恥ずかしそうに下を向いた。
そんな仕草すら周りの大人を和ませる。
﹁可愛いわねえ。村の子どもたちもこのくらい大人しくしてくれた
ら、助かるのだけど﹂
389
そう言いながらお茶の支度をするクラリッサは、ラティナが一瞬
で心を奪われた砂糖の入った容器を、よく見えるように彼女の前に
置いた。角砂糖の上に様々な色の花の飾りが乗せられている。
﹁ふぁぁ⋮⋮お砂糖にお花が付いてる⋮⋮かわいいねぇ⋮⋮﹂
︵そういうラティナが可愛い︶
流石のデイルでも、恩師の前では、その呟きを内心に留める程度
時間はあるのでしょう
作れるの?﹂
の自重は出来たようであった。
﹁これ、どうやってやるの?
﹁あら。なら今度教えてあげましょうか?
?﹂
クラリッサがそう言ってお茶の中に砂糖を落としてみせると、ぷ
かりと花飾りが水面に浮かぶ。ラティナはますます心を奪われたよ
うだった。茶器の中を覗き込み、ほのかに紅く染まった頬に歓喜の
表情を表して、両手を胸の前できゅっと握りながら呟く。
﹁うわぁぁっ。すごい⋮⋮かわいいっ⋮⋮﹂
﹁ラティナは本当に可愛いなぁ⋮⋮﹂
自重が終了した瞬間であった。
390
幼き少女、村を回る。︵後書き︶
いつの間にやら50話となりました。
皆さまお読み頂き誠にありがとうございます。当初の予定よりゆっ
くり進んでおりますが、今後もお付き合い頂ければ幸いと存じます。
391
青年、恩師と語る。
﹁そういえば、街でひと騒動起こしたそうだな﹂
﹁は?﹂
﹁その子関連か。魔人族の子どもが関わっていると聞いたが﹂
コルネリオの言葉に、それが何を指しているのか理解した後で、
せんせい
デイルは少し苦笑した。
﹁本当に師父は耳聡い。どこからそんな話を仕入れているんですか﹂
﹁﹃神殿﹄なんてものは狭い世界だ。そんな中で隠そうとするほど
不祥事なんてものは知れ渡るものだよ﹂
・
・
・
コルネリオは穏やかな表情のまま、お茶の香りをゆっくりと楽し
む。
﹁しかも、それに関わった者が特徴的だったからな。お前のことだ
とすぐにわかったさ﹂
﹁⋮⋮お騒がせしました﹂
﹁いや。お前がしたことを責めるつもりはない。たまには﹃引き籠
り﹄たちも外に目を向けた方が良いのだよ﹂
何でもなさそうに言うコルネリオに、デイルの方が恐縮する。彼
アスファル
も自分のしたことに微塵も後悔は無いが、恩師にこのように知られ
ているというのは面映ゆい。
せんせい
アスファル
﹁師父のように、﹃外﹄に出ていく﹃黄の神の神官﹄の方が少数派
でしょう﹂
﹁そうでもないさ。﹃黄の神﹄に属するものは二極化しておるのさ。
﹃神殿﹄に籠り学術を修めることに固執するものと、新たな知識を
得る為に﹃外﹄に自ら赴くものとな﹂
コルネリオはそう言って、お茶を一口飲んだ。
392
﹁まあ。﹃神殿﹄の中しか知らぬくせに学術を修めた気になってお
る狭量な者は、﹃神殿﹄を追い出されては生きる術すら知らないだ
ろうがな。直接手を下さないだけで、だいぶ﹃残酷﹄な裁きを下し
たものだ﹂
言葉の割には、コルネリオは面白がっているような気配がする。
﹁⋮⋮デイル?﹂
﹁⋮⋮っ、ラティナ⋮⋮コルネリオ師父。今日伺ったのは、ご挨拶
だけではなく、この子のことをお願いしたく思いまして⋮⋮﹂
﹁ほう﹂
露骨に話を変えたデイルの様子に、恩師も調子を合わせてくれた
ようだった。
﹃あの事件﹄をラティナに思い出させたくない。−−ということだ
けではない。彼は自分が﹃自分の権限﹄を利用して、相手に報復し
たことをラティナには告げていない。
彼女は心優しい子だ。
自分が原因で誰かを傷つける結果となったなら、深く悲しむだろ
う。彼女に非が無くとも。それが自分を傷つけた相手だとしても。
・
・
・
・
・
それならば、知られたくは無い。
あんな輩の為に、ラティナが悲しむなど、割りが合わない。
デイルにとっては何よりラティナの安寧が第一なのだった。
アスファル
コルネリオの言うように、﹃黄の神﹄の加護を持つ者は﹃知識を
得る為に自ら赴く者﹄と、﹃神殿の中で一生学問に耽る者﹄に二極
化される傾向がある。
後者は﹃神殿﹄という狭い世界しか知らない。幼少時より神殿で
学問一筋で生きている者も多い為、﹃世間﹄そのものを知らないの
だ。
393
それでも﹃神殿﹄の中だけならば生きていくことは出来るだろう。
だが、﹃加護﹄という今まで当たり前に使えていた﹃力﹄を失っ
た上で、﹃神殿﹄を追い出された﹃神官﹄が、﹃外の世界﹄で生き
ていけるかということは困難が伴う。労働というものをしたことも
無い生き方をしていたのだ。
教育といった職を求めても、不祥事を起こして﹃神殿﹄を追放さ
アクダル
れた者を好き好んで雇う者などいない。
これが例えば﹃緑の神﹄に属する者であったならば、神殿の外に
出たとしても、どうとでも生きていくだろう。
むご
デイルが行った報復は、﹃あの時の神官﹄のような限られた条件
の者に対しては、肉体的な罰則などよりずっと、酷いものなのだっ
た。
デイルは不安そうに自分を見上げたラティナへ、にこやかな笑顔
を向ける。
﹁クラリッサ姉は、料理は今一つだけど、茶菓子は村で有数の腕だ
からな。旨いか?﹂
﹁⋮⋮うん﹂
賢い彼女は、これ以上はデイルが話す気はないことを悟ったのだ
ろう。まだ納得した様子ではなさそうだったが、おとなしく頷いて
見せた。
﹁料理は今一つって酷いわねぇ﹂
﹁上達してたのなら、謝るけどな﹂
﹁むう⋮⋮﹂
﹁クラリッサ姉より、ラティナの方が料理上手だぞ?﹂
﹁ふぇっ?﹂
突然、自慢気に言い切ったデイルに、ラティナが驚いて顔を上げ
た。
394
﹁おや、そうなのか?﹂
﹁師父も今度ラティナに作らせてみれば良いと思いますよ﹂
﹁デイル、デイルっ。ラティナ、まだまだだよっ?﹂
可愛いし、
師父のところで見聞を広めるのは、ラティ
﹁ほら、この歳で謙虚さも身に付けているんですよっ!
凄ぇ良い子でしょう!
ナの為になると思うんですよね。だから、師父、お願いします﹂
真面目な顔となり、頭を下げたデイルは、﹃保護者﹄らしい顔つ
きとなっている。
ラティナと共に暮らしているこの数年で、彼もすっかり﹃保護者﹄
が板に付いてきているのだ。
そのことにコルネリオは満足そうに表情を緩めた。
師と呼ばれる立場として、教え子の成長は嬉しいものなのだ。
﹁お菓子もらっちゃった⋮⋮﹂
余った茶菓子を紙にくるんでラティナは持たされていた。
コルネリオ家の前の下り坂をぽてぽて歩くラティナは、困惑と喜
びの入り交じった表情で一歩前を行くデイルに声をかけた。
﹁もらって良かったのかな?﹂
﹁ラティナは旨そうに食べるからなぁ。だからだろ﹂
ラティナはあの後、クラリッサ謹製の焼き菓子を口にすると、見
ている方が幸せになるほどの満面の笑顔を見せた。
作り手冥利に尽きる反応だ。
﹁美味しい?﹂
と聞いたクラリッサに
﹁おいしい⋮⋮すごい、おいしいの⋮⋮っ﹂
にっこぉぉっと、満足そうな様子でお菓子を食べる姿は、強力で
あった。クラリッサも、自分の胸を押さえて頬を染める。
395
﹁村の子どもたちも⋮⋮っ、本当にこの子みたいにお行儀良くして
くれれば⋮⋮っ﹂
﹁ん?﹂
ゆっくり食べて﹂
ありがとうございますっ﹂
﹁残りも、持っていって良いからね?
﹁いいのっ?
といった様子で、彼女はお土産を手に入れたのであったのだ。
﹁ラティナが可愛いからだよ﹂
﹁んん?﹂
こてん。と首を傾けたラティナは、自分の﹃魅力﹄に気付いてい
ないのかもしれない。
クロイツという大都市でも、ラティナは群を抜いて愛らしい容姿
の少女だ。こんな田舎の村では﹃見たことのない﹄ほどの美少女な
のである。
性格も素直で、礼儀正しい。
そして、幸せそうに食べる子どもだ。
つい、構いたおし、餌付けたくなるのも仕方がないのかもしれな
い。
結果、デイルの挨拶回りが終了する頃には、彼女は山ほどの菓子
や果実を持たされていたのであった。
こんなに良いのかな?﹂
﹁しばらく、ラティナはおやつには困らねぇなぁ⋮⋮﹂
﹁なんでみんなくれるのかなぁ?
﹁良いんだよ﹂
話しながら歩く二人は、村を一周した後で、デイルの実家の裏手
にやって来ていた。
396
山の中に伸びる道は、小さいながらもしっかりと手入れが行き届
いている。木漏れ日が道の上に複雑な紋様を描く上を、ゆっくりと
歩を進めた。
そのうちに耳に届くようになったのは水の音だ。
何故離れた場所まで響いていたのかは、道の終わりに到達し視界
が開けた時に理解する。
滝だ。
ぽかりと開けた空間は、半円状に広がっており、その周囲を成し
ている岩盤から無数の清水が細く流れ落ちている。落差はそれほど
では無いが、数多の滝が、澄んだ豊かな水量を湛える滝壺へと落ち
ている風景は、神秘的な印象すら受ける。
﹁うわぁぁ⋮⋮っ﹂
ラティナが感嘆の声をあげると、デイルは満足そうに微笑んだ。
デイルは滝壺のそばまで行く。濡れた岩場であるそこは滑りやす
いので、ラティナへ手を伸ばし支える。
﹁すごいねっ、きれいだね﹂
滝壺のそばに来た彼女は嬉しそうに水の中に手を入れて、冷たさ
にびくっと驚いた。この水は全て湧き水である為に、季節によって
温むことは無い。
﹁冷たいっ﹂
ここ、﹃神殿﹄みたいだね﹂
それでもラティナは嬉しそうで、もう一度清水に両手を差し入れ
ていた。
﹁きれいだねっ!
コルモゼイ
彼女のその感想に、デイルは少々驚いた。
滝のそばには﹃橙の神﹄のほこらが設けてあるが、外見上は質素
で素朴なものだ。
それなのにラティナは﹃神の力が濃い場所﹄であることを、すん
397
ラティナには﹃加護﹄は無いんだよな?﹂
なりと見抜いてみせたらしい。
﹁⋮⋮わかるのか?
﹁うん。無いよ。ラティナ﹃神殿﹄に、にてるなぁって思ったの。
ばしょ
なんとなく、クロイツの﹃神殿﹄よりも﹃神殿﹄みたいだなぁって
思った﹂
﹁街の中の﹃神殿﹄は、神を崇める﹃ひとの為﹄の施設だからなぁ
⋮⋮ここみたいに、﹃力﹄が強い訳じゃねぇ﹂
﹁へぇぇ⋮⋮﹂
﹁﹃なんとなく﹄でわかるなんて、ラティナは不思議だなぁ⋮⋮﹂
デイルはそう言いながら微笑んだ。
仕方ねぇなっ!﹂
﹁ラティナは﹃神﹄にも愛されているのかもしれねぇな⋮⋮﹂
その台詞の後に﹁こんなに可愛いんだもんな!
と続いてしまい、﹃なんとなく良い雰囲気﹄は台無しとなった。
彼はいつも通りの残念仕様であったのだった。
398
青年、恩師と語る。︵後書き︶
感想で﹃あの事件の報復﹄についてあったりもしたので、ちょこっ
と補足も含めた話でした。
師父は移住してきた方なので、一族の人間ではありません。
399
幼き少女、もふもふする日常。
ラティナの朝は基本的には早い。
彼女は、朝食の準備をする時間から自分の仕事が始まっていると
思っている。たまに夜更かししたり疲れが出ている時は寝坊するこ
ともあるが、この年齢の子どもとしてはちゃんとしている方だろう。
この屋敷の奥を仕切っているのは、デイルの母親であるマクダだ
った。
ラティナはそんなマクダから見ても、充分働き手として数えられ
る存在であった。
﹁あんまりティスロウではパン食べないんだね﹂
粉に油と卵を入れて捏ねた生地を、マクダが麺棒で均一な厚さに
伸ばしていくのを、様々な角度からくるくると見て回りながらラテ
ィナは言う。
﹁ラティナちゃんは、やっぱり街みたいな食事の方が良いかな?﹂
﹁ううん。ラティナ、色んなところで色んなもの食べれるの、楽し
いよ﹂
伸ばした生地で、肉と香味野菜の具を包む。
今日の朝食はこれを具にしたスープだった。
瞬く間に作り上げていくマクダに比べて、ラティナの手つきはた
どたどしい。だが手順はしっかり覚えたようだった。
﹁ラティナね。マクダさんからいっぱい教わって、クロイツでデイ
ルにご飯作るのっ﹂
﹁まあまあ。じゃあ、デイルの好きなものたくさん教えなきゃねえ﹂
﹁うんっ﹂
﹁うちの男連中は単純だからねえ。胃袋押さえておけば、言うこと
400
聞かせやすいからねえ﹂
﹁うん?﹂
ラティナもうすぐ十歳だよ?﹂
﹁ラティナちゃんはいくつだったかねえ?﹂
﹁ん?
﹁そうかね。十歳かね。そうかね、そうかね﹂
﹁うん?﹂
﹁子どもは大きくなるのも、あっという間だからねえ﹂
﹁うん?﹂
マクダが一人納得している隣で、ラティナは首を傾げながら、出
来上がったパスタを鍋に入れた。
男性陣が仕事に出るのを見送った後も、ラティナはマクダの手伝
いをしている。
デイルも父や弟の仕事の手伝いをしたり、狩りに出る者たちの助
っ人をしたりと、あまり日中家にはいない。その代わり、田舎の生
活の長い夜の時間をラティナと共に過ごすことに決めたようだった。
当主家であるこの家は、生業としては農作業をしていない。それ
でも自分の家のお菜の分を賄える程度の畑は持っていた。
その管理もマクダの仕事だった。
ラティナにとっては初めての畑仕事だ。柔らかな新芽を付けた作
物を面白そうに覗きこんでいる。
﹁うわぁっ、ちっちゃいね﹂
﹁まだそれは早くて食べられんねえ﹂
笑いながらマクダはポイポイと害虫をつまみ上げる。それを見る
とラティナは真似をはじめた。彼女は虫相手に怯えることはないの
で、動きに躊躇は無い。
﹁うごうごしてる﹂
ひっくり返して観察し、ふむ。と納得した。別の虫にも手を伸ば
す。
﹁あ、そいつは触ったら、痒くなるよ﹂
401
﹁そうなの?
わかった気をつける﹂
ぴゃっと、驚いたような動きで手を引くと、ラティナは真面目な
顔で頷いた。
その後は、コルネリオ師父の元に行って勉強している。
彼はこの﹃ティスロウ﹄という一族に興味を持って移住してきた
﹃学者﹄だ。ラティナは﹃ティスロウ﹄のことや都のことなど、ク
ロイツの﹃学舎﹄では教えてもらえない様々なことを、学んでいる。
その専門知識の中には﹃他種族﹄のことも含まれていた。
彼女は知識としての﹃魔人族﹄についても学ぶ機会を得たのだっ
た。
﹁もうすぐお昼だね﹂
﹁そのようだね﹂
その言葉でラティナは帰路につく。
クラリッサの作った昼食をご馳走になって、午後も読書をする日
もある。ラティナは本を読んで静かに過ごすのも好んでいるのだ。
カカーチェ家から本を借りて帰って来る日もある。
その時、彼女が読書をするのはヴェン婆の部屋だ。
ぽかぽかとした日だまりの誘惑に負けて、そのままうとうとと居
眠りしている時も多い。
厚い敷物が敷かれたティスロウの家屋は、どこでも昼寝がしやす
いという点では、人を堕落させる恐ろしい誘惑の館なのである。
そうではない日は、ヴェン婆と共に散歩などをしている。
かなり高齢のヴェンデルガルトだが、四六時中家の中に籠ってい
るわけではない。
むしろ彼女は、一族全てから﹃神出鬼没﹄との認識を受けている。
402
村の何処にでも現れ、一族の誰よりも村のことを知る存在なのだ。
−−狩りに出掛けた若い男連中曰く、山の中で鳥を仕留め酒瓶を
隣に、焼いて食べていたのを見た。
−−女衆曰く、子どもの悪戯がずいぶんと手の込んだ物だと思っ
たら、ヴェン婆が混じっていた。
などなど、逸話には事欠かない。
そのため、それに付いていくラティナは、日を重ねるごとに、﹃
道ではない道﹄を覚えていくこととなった。
ラティナ自身にその自覚はなかったが。
ティスロウで﹃スナ﹄の役割名で呼ばれているところに、ラティ
ナを連れて行ったのもヴェン婆だった。
﹁犬だっ﹂
・
・
・
・
﹁そうだよ。ここみてぇな山ん中は、魔獣もそうでねぇ獣も多いか
らなぁ。こいつらに働いてもらってるんだ﹂
わふわふと小屋の中にいる何匹もの犬を前にして、ラティナの目
が輝いた。
﹁狩りの時なんかも、働いてくれとるよ。﹃スナ﹄の者は、こいつ
らの世話と調教をしとるのさ﹂
﹁﹃央﹄魔法じゃないの?﹂
﹁俺らの一族は﹃地﹄属性は多いがな、﹃央﹄属性が生まれるとは
限らん。魔力に頼らず、世話をせにゃあならん﹂
ヴェン婆にそう説明されると、ラティナはふむふむと頷いた。
別名﹃支配﹄の属性と呼ばれる﹃央﹄属性の魔術は、対象と意思
を通じ合わせたり、意識を操作するといったものだ。
テイマーと呼ばれる職種の者は、大多数が﹃央﹄属性持ちである。
403
﹁撫でてもだいじょうぶ?﹂
﹁そうだなぁ⋮⋮ザビーネ、どうだい?﹂
ヴェン婆が﹃スナ﹄の一人である女性に声を掛ければ、ザビーネ
と呼ばれた彼女は一匹の仔犬を連れてきた。
﹁じゃあ、この仔なら良いでしょう﹂
﹁うわぁっ。可愛いねぇ﹂
ラティナは嬉しそうに茶色の仔犬を抱き上げた。
﹁ブラッシングしてあげると喜ぶわよ﹂
﹁わかった﹂
ラティナは真剣な顔で、ザビーネからブラッシングの仕方を教わ
ったのであった。
そして
それから十日もたたずに。
彼女はティスロウ中の犬たちを、その手中に納めたのであった。
ゴッドハンドという特殊能力的なものを有するラティナが、ティ
スロウの口伝の業のひとつをマスターした結果、地を這う獣ごとき
が抗うことなど不可能であったのだ。
−−などという大層な話ではなく、彼女は撫でるのと、ブラッシ
ングがやたらと巧かった。それだけの話である。
かれら
時期的に換毛期であったことも一つの理由であっただろう。痒い
ところを絶妙な加減で掻いてくれる存在として、犬達に認識された
のだ。
それでも
﹁こいつは、凄ぇやねぇ⋮⋮﹂
と、ヴェン婆が感心半分呆れ半分で呟く程に、その光景は一種異
404
様であった。
﹁ラティナなつかれた!﹂
﹁そうだねぇ⋮⋮そうとしか言えねぇなぁ⋮⋮﹂
数回通ううちに貰ったマイブラシを片手に持つラティナは、得意
気で満足気な顔である。
その前には、大型犬が弛緩した体を横たえている。わふわふと幸
せそうなその黒犬は、この小屋のリーダー格の一匹だ。
完全に腹を見せているが、本来この犬は、主人である﹃スナ﹄に
こ
しか心を許さない。
﹁この犬が一番、仲良くなるの時間かかったの!﹂
それはそうだろう。
もの
そして腹を見せて弛緩しているのは、その一匹だけではない。
現在小屋の中にいた犬たち全滅といって良いだろう。
数匹はよっぽど心地良かったらしく、居眠りに移行しているよう
だった。
はずかしい⋮⋮っ﹂
﹁ラティナちゃんは凄ぇなぁ⋮⋮﹂
﹁ラティナすごい?
ヴェン婆が誉めながら撫でると、ラティナは照れたようにはにか
んだ。
デイル
ザビーネたち﹃スナ﹄が、この﹃事件﹄を目前にして、彼女のス
カウトをかなり本気で考えていた−−というのは後日﹃保護者﹄が
一連の出来事を聞いた後の話であった。
405
幼き少女、もふもふする日常。︵後書き︶
保護者の話を挟んだ後、モフモフ話続行です。
406
青年、故郷の弟へと思う。 久しぶりに自らの手で引いた弓だったが、空を切って走る一条の
矢は、彼の狙い通りに、目標へと至った。
﹁⋮⋮よし﹂
思わず満足気に声をもらす。
見事、彼の矢が落とした山鳥の姿に、彼の背後にいた同行者たち
デイル!﹂
は口々に称賛の言葉を送った。
﹁腕は鈍って無いようだな!
−−と。
今日、デイルは狩りのメンバーに加わっていた。
ティスロウには、専門に狩りを仕事とする﹃狩人﹄という者はい
ない。重要な食料となり素材にもなる鳥獣や魔獣を狩るというのは、
一族の者全てに課せられた役目の一つなのである。
若者数人と経験豊富な年長者、猟犬を操る﹃スナ﹄によって構成
されたグループで、ほぼ毎日誰かが狩りを行っている。
その行動自体が、村周辺の警戒行動も兼ねている。
最中に強力な魔獣を発見した場合は、村に応援を頼み、複数のグ
ループによる波状攻撃で難なく仕留める。
彼ら一族は、同時に優秀な狩人の集団でもあるのだった。
トップ
そして狩りにおける﹃責任者﹄は一族の次期当主の仕事だった。
﹁兄貴が指揮を執った方が、座りが良いんじゃないか?﹂
﹁馬鹿言うな。お前の仕事だろ﹂
407
後ろでその様子を見ていたヨルクの呟きに、デイルが呆れ声をだ
す。
確かに村を出る前までは、狩りの指揮を執るのはデイルの役割だ
った。当時の彼はまだ年若かったために、年長者の補佐を必要とし
ていたが、当主として人を動かすということを学ぶ場として研鑽を
積んでいたのだ。
﹁当主を継ぐのは、お前の役割だ﹂
・
・
・
・
・ ・
・
・
デイルの言葉に、ヨルクは複雑そうな様子で黙り込む。
まだ、割りきれていない弟の姿に、兄もまた、複雑そうな苦笑い
を浮かべたのだった。
ティスロウの周辺の山は﹃豊か﹄な土地である。
それは多種多様なたくさんの生き物の命を支える力があるとも言
い換えることができる。
狩りに赴いても、獲物を得ることは難しくない。それはティスロ
ウの人びとが優秀な狩人であるということでもあるのだが、彼らに
とってはそれが﹃普通﹄だ。特に彼らは自分たち一族の腕が優れて
いるとは思っていない。
けれども外の世界に出た今のデイルにはわかる。
そして一族の中でも、弓の腕ならば年長者たちにも称賛されてい
た自分は、かなり誇れる技量の持ち主であったということも。
﹃レキ﹄の名を頂く者は、外の世界に出て﹃戦う者﹄。
それは、限られた世界に視野が囚われがちになる﹃一族﹄のため
に、外の世界から一族を護る者なのだ。
狩りの成果は、充分過ぎるもので、デイルは自分が獲った鳥のグ
リルに舌鼓を打つラティナの姿に、目尻を下げっぱなしであった。
408
夜になるのを待って、デイルは父親の執務室を訪れていた。
実質的に当主の役目を受け持つランドルフの仕事は、村の雑事か
ら外部の商人との交渉まで多岐に渡る。夜間まで仕事部屋にいるこ
とも珍しくない。
ティスロウ一族の当主とは、彼ら全てを支配する者ではなく、一
族を維持し、繁栄させるために、運営を担う者なのだ。
﹁⋮⋮ヨルクはまだ、俺に負い目を感じてるのか?﹂
デイルの言葉にランドルフは苦笑を浮かべた。
﹁お前から見てもわかるか﹂
﹁ああ。嫁を迎えるってのも、あいつの後押しをするためなんだろ﹂
・
・
デイルも父親と似た苦笑で応える。
﹁当主を継ぐのは、お前だと⋮⋮周囲もお前たちも、当たり前のよ
うにそう思っていたな﹂
・
・
﹁ああ﹂
﹁当主命令で、﹃レキ﹄の役目をお前が担うことが決まった時、一
族の者からも疑問の声が上がったよ﹂
父はそう言いながら息子を見る。
﹁﹃レキ﹄を担うとすれば、ヨルクの方だと思われていたからな﹂
﹁⋮⋮通常の﹃レキ﹄なら、それでも良かったんだろうけどな。公
爵相手の交渉の機会なんて、俺の﹃稀人﹄としての能力がなければ
取り付けられなかっただろう。婆は正しいよ﹂
デイルの苦笑は、あくまでも弟のことと、過ぎた過去を思っての
ものだ。
﹃兄﹄である上の息子は、完全に自分の役割を受け入れ、そして進
むことの迷いを払ったのだとわかる表情だった。
この数年で、彼は大きく成長したのだと、父は胸の内で想う。
それを口にすることは、この父子間ではないのだが。
409
﹁公爵からも、お前の﹃仕事﹄ぶりは評価していると聞いているよ。
ティスロウは王家の後ろ盾を非公式だが得たと、各地の﹃レキ﹄か
俺は俺の仕事をしているだけなんだからな。ヨルク
らも報告が上がっている﹂
﹁⋮⋮だろ?
ももうそれで良いのに⋮⋮﹂
言いながら彼は自分の過去の状態が弟を苦悩させたことにも気付
いていたため、再び苦く笑った。
﹁⋮⋮もう俺は大丈夫だよ﹂
﹁あのお嬢ちゃんは、お前の救いになってくれたか﹂
かのじょ
父の言葉に息子は微笑む。
ちいさな愛し子を思い出す時、自分はいつも暖かい気持ちに満た
されているのだ。表情にもそれが自然にあふれでてしまう。
﹁⋮⋮ラティナは俺の﹃癒し﹄だよ。あの子は何時だって俺の欲し
い言葉を呉れるんだ﹂
部屋に戻ると、ラティナは自分の帳面を読み返しているところだ
った。ティスロウの夜は冷え込むため、もこもこした借り物のカー
ディガンを羽織っていた。袖が長いために指先だけしか出ていない。
部屋着のワンピースは、ヴェン婆がはやばやと彼女のために用意
した物だった。この数ヶ月の滞在のためにラティナに必要なものが、
デイルが手配する前にヴェン婆によって用意されていっているとい
う事態になっていた。
﹁⋮⋮なぁ、ラティナ﹂
﹁ん?﹂
﹁ラティナは今、幸せか?﹂
﹁デイル?﹂
ラティナがきょとんとした顔をする。さすがにいきなり過ぎたか
410
もしれない。なんと説明しようかと考えた彼に、彼女は微笑みかけ
た。
﹁ラティナしあわせだよ。デイルといっしょだもん﹂
・
・
信頼に満ちた眼差しが、彼の全てを肯定する言葉が、なにものに
も替えがたいものかなんて、この子は知らないのだろう。
﹁デイルはしあわせ?﹂
﹁⋮⋮ああ。ラティナが幸せでいてくれるなら、俺は凄く幸せなん
だよ﹂
デイルの答えに、ラティナは更に嬉しそうに微笑みを深くする。
自分が自分らしく在ることを支えてくれているのは、このちいさ
な彼女だ。
いつの間にか、かけがえのない大切な存在になっていたこの子だ。
﹁ラティナはよく、その帳面見ているよな⋮⋮日記だろ?﹂
﹁うん﹂
彼女は日記帳を胸に大切そうに抱いた。
﹁ラティナね。今いっぱいしあわせだから、忘れないように書いて
おくの﹂
大人びた表情−−自分の運命を受け入れたからこそ出来るのであ
ろう、達観にも似た表情を浮かべる。
﹁いつかデイルたちと﹃お別れ﹄しても、デイルがラティナのこと
嫌いになっても。ラティナ今いっぱいしあわせだから。そのこと忘
れないようにしておくの﹂
その言葉の意味を理解して−−それでもそれを肯定する気にはな
れなくて、デイルはわざと言葉を濁す。
覆ることのない理−−生まれ持つ時間の長さの差−−を否定する
ことに意味はない。
411
﹁俺がラティナを嫌いになることなんて無いと思うぞ﹂
﹁ラティナがおとなになったら、わかんないよ﹂
ほんの少しだけ苦しいような声でそう続けた。
﹁でもね。ラティナ、おとなになったとき、﹃悪い子﹄になっちゃ
ったらね。ちゃんとデイルにダメって言ってほしいと思うの﹂
彼女はやはり少しずつ﹃大人﹄になっている。
デイルに自分の﹃罪﹄すら肯定されて、それを真っ直ぐ見つめて
受け入れることも出来るようになっていたのだ。
﹁デイルがダメって言ってくれるのはね、ラティナのためだって、
ラティナ知ってるから﹂
﹁⋮⋮俺は、ラティナが思っているほど、出来た大人じゃねぇかも
しれないぞ?﹂
弱気な言葉が零れてしまってから、慌てて取り繕う言葉を探す。
それでもラティナは彼のその言葉すら肯定するのだ。
﹁それでもね、デイルは、ラティナのいちばんなの﹂
−−本当にこの子には幸せで在って欲しいと願う。
それは誰のためでもない、自分のエゴだ。
彼女の幸福を守ることが、今の自分を支え、進む最大の原動力と
なっているのだ。
﹁俺より⋮⋮ラティナの方が凄いんだよ⋮⋮﹂
聞き取れないほどの小さな声で呟いたのは、保護者としてのささ
やかなプライドからで、呟やかずにいられなかったのは、ちいさな
愛し子への畏敬の思いからだった。
412
青年、故郷の弟へと思う。 ︵後書き︶
久しぶりにちょっぴりしんみりする話でした。
とはいえ次回はモフモフに戻ります。
土曜日の朝予約投稿するつもりが⋮⋮間違えて決定ボタン押してし
まいました。いつもの時間と違うのはそんな理由なので、深く考え
ないで下さいませ。申し訳ない。
413
幼き少女、続もふもふする日常。
﹁ラティナちゃんは本当に犬っこが好きだなぁ﹂
﹁うんっ。可愛いねっ!﹂
今日も﹃スナ﹄の犬小屋で、せっせとブラッシング作業をしてい
るラティナを見て、ヴェン婆は言った。
ラティナは額に浮かんだ汗をぐいっと拭いながら、良い笑顔で返
答する。その言葉に微塵も迷いは無い。
﹁他の獣も好きかい?﹂
﹁あんまりクロイツにはどーぶついないよ。犬飼ってるひとは、下
町にはあんまりいないの。ネコは好きっ。ネズミは、﹃虎猫亭﹄は
食べ物を扱うお店だから﹃全力で排除するべし﹄なの﹂
それは師匠たるケニスの教えであった。
こいつ
﹁犬等も、ラティナちゃんにゃ、なついとるみてぇだしなぁ⋮⋮﹂
そう呟きながら何事かを黙考したヴェン婆は、暫く後で一人うん
と頷いた。
﹁じゃあ明日は、ラティナちゃんが好きそうな奴ん所連れて行って
やろうかね﹂
﹁ラティナの好きそうなとこ?﹂
﹁おうよ。他の奴等にゃ内緒だぞ﹂
・
・
・
﹁⋮⋮デイルにも?﹂
﹁あいつに知られたら、﹃行っちゃ駄目だ﹄って言ってくるなぁ﹂
﹁危ないとこ?﹂
﹁俺が、可愛いラティナちゃんを危ない目に合わせるわけねぇだろ
う?﹂
﹁やっぱりおばあちゃんは、デイルとそっくりだね﹂
414
それがラティナの感想であった。
そして翌日、ヴェン婆は宣言通り弁当を持参の上、ラティナを連
れて外出した。
周囲を山に囲まれているティスロウにおける﹃外出先﹄とは、山
の中である。魔獣も生息しているそんな場所だが、ヴェン婆を心配
する者は誰もいなかった。
そしてそれ以降。
ラティナはこそこそと、一人山の中に出掛けることが多くなった
のだった。
ヴェン婆は彼女のその行動にすぐに気づいたが、ニヤニヤするば
かりで何も言わなかった。
デイルは日中外出していたため、彼女がそんな行動をしていると
は気づかなかったし、彼女がそんな﹃危ないこと﹄をするとは全く
思っていなかった。
﹃賢くて聞き分けの良い彼女が、一人で山に行くなんてことはしな
い﹄それは彼の信頼故の考え方であるが、油断でもあったのだ。
結果、ラティナのその行動に気づいたのは、デイルの母マクダだ
った。
﹁デイル﹂
﹁なんだ?﹂
﹁最近のラティナちゃんなんだけどねえ﹂
不思議そうにマクダは首をひねる。
﹁おやつは婆ちゃんのとこで食べてるみたいなのに、干し肉時々出
してるみたいなのよねえ﹂
﹁干し肉?﹂
415
母の言葉にデイルも首を傾げた。
ラティナは好き嫌いはないが、小柄な体格の見た目通りの量しか
食べない。甘いものは好んでいるが、おやつを食べ過ぎることも無
い。
犬にでもやっているのか?﹂
そんな彼女が﹃盗み食い﹄なんてことはしないのだ。
﹁﹃スナ﹄に出入りしてるんだろ?
﹁でもあそこの犬は、﹃スナ﹄以外からの餌は受け付けないように
育てられているからねえ﹂
﹁⋮⋮そうだよな﹂
母子はそう言って首を傾げた。
ヴェン婆に問い質すという選択肢はこの母子にはない。あの﹃婆
ちゃん﹄は基本的に面白がっている間は、口を割ることはないのだ。
危険なことならば既に手は打っているだろう。そういった畏敬の念
もあるのだが。
﹁⋮⋮今度、俺が確認しておくよ﹂
午前はラティナは仕事と勉強の時間にしているため、何かするな
ら午後だと見当をつけたデイルは、こっそり昼食時間に合わせて帰
宅した。屋敷には入らず見張り始める。
幼い頃の遊び場所の中には、隠れるための場所も多々存在してい
る。彼が身を潜めたのはそんな場所の一つだった。
ティスロウの﹃かくれんぼ﹄はかなり本格的だ。大人が指導して
教えるその﹃遊び﹄は、そのまま山の中での狩りや村の警備の為の
訓練のはじまりなのでもある。
ほどなくして、ラティナが屋敷から出てきた。
キョロキョロと必要以上に周囲を気にしているということは、何
かやましいことをしている自覚があるらしい。
ピンクのストールごしに背中が膨らんでいるのは、リュックを背
負っているということだろう。それ以外に片手には袋を提げている。
416
あの中身が干し肉だろうか。
ラティナはもう一度屋敷の方を覗いてから、とことこと歩きはじ
めた。
デイルは充分な距離を保ちつつ尾行を始める。
彼女は時折小さな花や虫の姿に足を止めながら、迷いなく進んで
まさか?︶
行った。しばらくして、山の方向へと道を曲がる。
︵⋮⋮っ!
その時点でラティナが﹃一人で山に遊びに行っていた﹄という事
実を悟ったデイルは青くなった。
彼女の﹃危険を察知する能力﹄の凄さは、実際目にしたデイルは
よく知っている。それでも﹃絶対﹄はないのだ。
︵これは、きっちり叱らないとな⋮⋮︶
そう思いつつ、彼は尾行を続ける。ここで呼び止めては、まだ﹃
目的﹄がわからないからだった。
ラティナは山の中でも迷いは無かった。
細い道とも言えないような獣道を、時折周囲を慎重に確認して進
んでいる。デイルが後から彼女が目を止めた位置を探れば、巧妙に
隠された目印を見つけることができた。
︵婆ちゃんかっ!︶
その物証に、孫は一つの確信を得る。
どれも新しい目印だと言うことは、ラティナの為に新たに設置し
たのだろう。デイル以上に﹃大地の申し子﹄のようなあの祖母は、
山の中で﹃道に迷う﹄という現象には陥らないのだ。
デイルも知らない方向にラティナは進んで行った。
村からそう離れてはいないのだが、﹃こちら側﹄は﹃不可侵﹄と
されている場所だ。立ち入りが不文律で禁じられているのである。
実際、何故かこちら側からは、魔獣や獣は姿を現さない。狩りに
417
行くことも見回りの必要も無いのだ。
山の幸を採取に向かう者も、わざわざ禁じられている危険な場所
に行かずとも、他の場所で充分な恩恵を受けられる。
ティスロウの人々が子どもの頃から、当たり前のこととして﹃行
かない﹄場所であったのだ。
しばらくしてラティナは足を止めた。
少し拓けた場所だ。
彼女はキョロキョロと辺りを何か探すように歩いている。何かを
呼んでいるらしい声も聞こえた。
その声に応えるようにしてがさがさと茂みが大きく揺れると、下
草の辺りから﹃何か﹄が姿を見せた。
デイルが確認するより先に、ラティナが駆け寄って行ってしまっ
・
・
た為だ。彼女の体の陰になり、相手が何であるのかはわからない。
﹁うわぁっ﹂
だが、ラティナの歓声の様子から察すれば、目的はそれで間違い
ないようだ。
﹁今日も、ほしにく持ってきたよ。食べる?﹂
ごそごそと手に提げていた袋を探って中身を取り出す。
彼女はそれを差し出しながら、しゃがみこんで楽しそうに相手を
よかったねぇっ。もっと食べる?﹂
覗きこんでいる様子だった。
﹁おいしい?
更に袋の中身を取り出したあとで、ラティナはしきりに相手を撫
でている動きをしていた。
﹁かわいいねぇ。かわいいねぇっ﹂
普段のデイルならば、﹁そう言っているラティナが可愛い﹂位の
ことを呟くのだが、さすがに今はそんな心境では無かった。
﹁ラティナっ!﹂
隠れている場所から立ち上がりながら名を呼べば、やはりやまし
418
と飛び上がった。実際数センチは飛び上がっただろう。ちょっ
い自覚はあったらしいラティナが、背中を向けたまま、びっくんっ
!
とその動作は微笑ましい。
﹁野生の獣に、餌を与えるもんじゃない。クロイツに連れて帰って
飼うことも出来ないから、ひとに必要以上に馴らすことは相手の為
にもならねぇんだぞ﹂
﹁デイル⋮⋮﹂
おろおろとするラティナは、その獣をぎゅっと抱きしめて立ち上
がった。
﹁野生の獣は、知らない病気とかを持ってる時もあるんだから、不
用意に手を出すのも⋮⋮﹂
﹁ケモ、チガウ﹂
デイルのお説教を遮ったのは聞き覚えのない声だった。
﹁⋮⋮は?﹂
﹁ゲキオコ。ゲキオコ﹂
プスプスとご立腹の様子で言葉を発しているのは、ラティナの腕
の中の﹃獣﹄だった。
中型犬ほどの大きさのその獣は、もふもふの毛皮と尾を持ち、顔
立ちはやはり犬に似ている。だが、角度によっては獅子の雰囲気も
持つ獣だ。そしてその背には、翼がある。賢そうな金の眸がしっか
りとデイルを見据えていた。
﹁⋮⋮幻獣?﹂
デイルが呆然と呟けば、ラティナは、
﹁うん﹂
とはっきりと答えた。
419
幼き少女、続もふもふする日常。︵後書き︶
前回のシリアスなんてなかったかのような、モフモフ回であります。
いつもお読み頂き、誠にありがとうございます。
420
幼き少女、極もふもふする日常。
﹃獣﹄と﹃魔獣﹄の最も大きな違いは、﹃魔力﹄を使えるか否かで
ある。
代を経るにつれ、魔力の使い方を覚えた﹃獣﹄たちは大きな力を
持つに至った。鳴き声の微妙な加減で﹃風﹄魔術現象を起こすもの。
魔力による強化で身体能力を高めたもの。通常の獣たちとは比べも
のにならないほどの巨体を支えるもの。
それ
など、魔術現象とは異なる結果が起こっていても、原因として考
えられる可能性が﹃魔力﹄であるが故に﹃魔獣﹄という呼称が用い
られることとなったのだ。
そしてその更に上の存在として﹃幻獣﹄がいる。
幻獣は魔力だけでなく、高い知能を有する﹃獣﹄たちだ。
自分たちの言語と文化を持ち、独自の社会すら形成していると言
われている。その中には、人語すら解するものもいるという。
デイルは過去﹃幻獣﹄と相対したことがある。
幻獣はその知能の高さから﹃魔族﹄となることもあるのだ。使役
されるのではなく、配下の一人として﹃魔王﹄に迎えられる﹃存在﹄
なのである。
その能力は同系統の﹃魔獣﹄の更に上をいく。
無意識のうちにデイルは腰の剣に手を伸ばしていた。
相手もデイルのその反応に気づいたのか、ぶわっと毛を逆立て威
嚇状態に入る。互いに緊迫した空気が流れ⋮⋮
421
﹁ぶわぶわっ?﹂
デイルが何かした?
ごめんね﹂
もぎゅっと逆立った毛に顔を埋めたラティナの行動で、その空気
怒ってる?
はあっさり破られた。
﹁どうしたの?
﹁オコ⋮⋮シナイ﹂
・
・
・
ぽふっと音がしたかのような勢いで、威嚇状態と緊迫した空気は
霧散した。
・
ちなみに一部始終、幻獣はラティナの腕の中であった。
﹁⋮⋮ラティナ?﹂
﹁勝手に遊びに来てごめんなさい⋮⋮おばあちゃんにこの場所のこ
とはないしょだよ⋮⋮って言われて、でもラティナ来たくって⋮⋮
ごめんなさい⋮⋮﹂
しょぼんとラティナが頭を下げると、またもや幻獣は不機嫌そう
に尾を振った。
﹁イジメル、ボコル?﹂
﹁デイル、ラティナのこと心配してくれてるんだよ。いじめるのと
違うの﹂
﹁⋮⋮やっぱり婆の仕業か⋮⋮﹂
デイルは深々とため息をついてから、改めてラティナの腕の中の
幻獣に視線をやった。
﹁こんな村の近くに幻獣が居たなんて⋮⋮﹂
﹁珍しいの?﹂
ラティナはこてん。と首を傾げている。
﹁普通、幻獣は人里の近くには、おりて来ないからな⋮⋮﹂
﹁そうなの?﹂
ますますラティナは不思議そうに首を傾げている。
﹁近くにこの仔のかぞくもすんでるよ?﹂
﹁なっ!﹂
今度こそデイルは絶句した。
そして内心で怒声を上げる。もちろん相手は自分の祖母相手であ
422
った。
よく訓練された犬のように、その幻獣はラティナの数歩前を先行
して歩いている。
ラティナはその後をデイルと並んで歩きながら、ヴェン婆から聞
いた話をデイルに披露する。
﹁﹃天翔狼﹄って言うんだって。群れでくらしているんだって﹂
﹁こんな村の近くに⋮⋮幻獣の群れが⋮⋮﹂
﹁代々の当主だけのヒミツっておばあちゃん言ってた。ランドルフ
おとーさんは知ってるんだって﹂
﹁親父⋮⋮﹂
﹁ヨルクさんは、まだ当主みならいのみならいだから、教えられな
いんだって﹂
ラティナの話から察するに、代々のティスロウ当主と幻獣たち﹃
天翔狼﹄の間では取り決めがあるらしい。
それが互いの領域の不可侵だ。
天翔狼たちは村の人びとを襲うこともしないし、内部に入ること
もしない。そしてティスロウも天翔狼の領域たる山へは立ち入らな
い。
天翔狼たちは魔獣や獣を捕らえて食料にしている。豊かな山に支
えられたそれらの数は多い。ティスロウとしては村を魔獣が襲うと
・
いう危険を避ける有効な手段であったのだろう。
・
デイルのその推測は、相手により肯定された。
ラティナは﹁仔﹂と言ったが、それは正しい表現であったようだ。
デイルの前の﹃天翔狼﹄はその巨躯をゆったりと横たえている。
巨大な肉食獣の発する気配は、心弱き者なら眼前に佇むことも出来
ないだろう。獅子や虎のようなしなやかで強靭な獣だ。折り畳まれ
た翼を広げたら、どれほどの大きさになるのだろうか。
423
﹁そうだ。我等天翔狼は、ティスロウと遥か過去より契約を交わし
ている。どちらかが破らぬ限り、それは有効である﹂
重々しい威厳のある声音は、滑らかに人語を紡いでいく。
過去のティスロウの民は、どのような交渉をしたのだろう。デイ
ルは自分の先祖に思いを馳せて複雑な心境に至った。幻獣と交渉し
て隣人契約をしたなんて話は聞いたことがない。
−−デイルが現状から目を背けて思考に没頭したくなった理由は
もう一つあった。
﹁ここ?﹂
﹁⋮⋮ふむ﹂
﹁こっち?﹂
﹁成程、悪くない﹂
巨大で強力な能力を持つ稀有な存在である幻獣、﹃天翔狼﹄が。
だらり弛緩して無防備に腹を見せている姿。
初めは、初対面のデイルを警戒してそんな体勢ではなかった。
だが、ラティナがリュックから数本のブラシを取り出し、全身の
ブラッシングを始めると、その様子はだんだん変化した。
︵いや、普通、幻獣が身体を他者にやすやすと触らせることから、
おかしいからなっ!︶
デイルの突っ込みは、自らの心中に留められた。
犬科たる狼の名を持つ生き物であるためか、ラティナのブラッシ
ングに堪えきれずといった様子でパフパフと尾を振り、次第に彼女
がブラシを当てやすいように体勢を移行していった。
最終的には、この有り様である。
424
︵尾を振る天翔狼⋮⋮腹を見せる天翔狼⋮⋮︶
これをラティナは﹃央﹄魔法無しでやっているのだ。自らの純然
たる技能である。
﹁ラティナは⋮⋮凄ぇなぁ⋮⋮﹂
﹁ん?﹂
額に汗を光らせたラティナは、デイルの呟きに不思議そうな顔を
向けた。
更にラティナが手懐けた﹃彼﹄は、天翔狼たちのリーダー格の存
在であったらしい。
いつの間にかこの小さな少女は、街一つ落とせるような勢力を自
分の味方としていたのであった。
﹁この仔がいちばん仲良しっ﹂
笑顔でそう言っているラティナが抱きしめているのは、最初にデ
イルが見た仔狼であり、﹃天翔狼﹄のリーダーの仔だという。
耳や尾、手足の先にそれぞれ黒い毛色が混じっている以外は、﹃
リーダー﹄の灰色の毛色とそっくりであった。
﹁お腹がいちばんふかふかなのっ﹂
・
・
そう言いながら、巨大な肉食獣の腹毛に無防備に擦り寄ってみせ
る。﹃天翔狼﹄の長であるはずの﹃彼﹄は、小さなひとの少女が大
胆に行うその振る舞いを、完全に容認しているのだ。
デイルが、遠い目で現実逃避するのは、ある意味ではごく普通の
反応と言えるだろう。
そしてあの祖母が、この光景を仕組んだ当人であれば、想定以上
425
のラティナの出した結果に腹を抱えてゲラゲラ笑ったのだろう−−
そんな姿が容易く脳裏に浮かんだのであった。
﹁ラティナどーぶつ好きだけど、ネコとはあんまり仲良くないよ?﹂
帰り道で彼女はそう言ってデイルを見上げた。
﹁仲良くなりたくて近くに行くけど、にげられちゃうの﹂
﹁そうか⋮⋮﹂
﹁なでるの好きなのっ。もふもふするの気持ちいいの﹂
﹁⋮⋮そうか⋮⋮﹂
動物と戯れる少女という−−微笑ましい状況のはずなのに、素直
・
・
にそう思えないのは﹃規格外﹄だからだろう。何事も、過ぎれば良
くないのだなぁと未だに半ば現実逃避中の彼は思う。
﹁ティスロウの犬ともみんな仲良くなれたし﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
・
今までもその話は聞いていたが、自分の考えていた状況とはかな
り異なるのであろうと、彼は息を大きく吐いた。
︵ラティナは、まだまだ成長するんだろうな⋮⋮︶
自分の想像の外の範囲にも、彼女ののびしろは、あるらしい。
426
幼き少女、極もふもふする日常。︵後書き︶
これでモフモフ騒動終了です。
次話は、少し番外編を挟みます。
いつもお読み頂き、誠にありがとうございます。
427
閑話、クリスマス番外編。︵前書き︶
まさかのクリスマスが終わってからのクリスマスネタです。番外編
なので時間軸が異なります。
コメディ回なので、気楽にお読みくださいませ。
428
閑話、クリスマス番外編。
大晦日の夜は、﹃聖夜﹄と呼ばれている。
アフマル
﹃聖夜﹄は、親しいものや家族で、宴を開き、家の中でこの一年に
思いを馳せながら、新年を迎えるのだ。
一年間﹃善く﹄努めた者の元には、赤い衣を纏いし、赤の神の使
・
・
・
・
徒が訪れて祝福を授けてくれると言われている。
悪いものが入って来ないように、各家の扉には、神殿から授けら
れた護符が掛けられている。初めは質素だったという植物を束ね円
にしたその護符も、年々飾りとしての装飾性も高まり、華やかな気
分も高めてくれる。
何時から、どういう謂われではじまったのか、など多くの謎もあ
る習慣なのだが、いつの間にか多くの人々の間に広まっていたしき
たりだった。
そして同時に聖夜の夜には、もうひとつの話がある。
﹁聖夜は外に出ちゃ駄目なんだぞ。その夜だけは、街の中にも魔物
が出るからな﹂
﹁クロイツにも、まものでるのっ?﹂
ラティナが驚いた顔でデイルを見る。
因みに獣であったり、虫であったりは問わないが﹃生物﹄である
⋮⋮まぁ俺の故郷みたいな田
ものが﹃魔獣﹄であり、アンデッドや無機物等の﹃非生物﹄である
ものが﹃魔物﹄と呼ばれている。
﹁ラティナの故郷では出ないのか?
429
舎でもほとんど出なかったけどな、街では聖夜の時だけ特別なアン
デッドモンスターが出るんだよ﹂
﹁アンデッド?﹂
﹁そうだ。黒い服のアンデッドが、夜遊びしている悪い子や、親の
言うこと聞かない子に襲いかかってくるんだ⋮⋮ってラティナ、そ
んなに怖がるなよっ﹂
話を続けていたデイルは、真っ青で声も出せずにぷるぷる震える
ラティナの姿に、顔色を変えた。
子どもたちに﹃良い子にしていないと、使徒さまが来てくれない
し、魔物に連れて行かれてしまうぞ﹄ということを言い聞かせるの
魔物が出るのは本当だけど、護符を掛けた家の中に
は、この国では定番過ぎる常套句だ。これ程怯えられるとは思って
いなかった。
﹁大丈夫だ!
は入って来ないから、聖夜の日は早く家に帰って大人しくしてれば
大丈夫だから!﹂
﹁ラティナのとこ、まものこない?﹂
﹁ラティナみたいな良い子の所にわざわざ来たら、クロイツ中の子
どもたち、全滅だからな!﹂
﹁クロイツみんなおそわれちゃうのっ!?﹂
﹁違うから!﹂
クロイツに来て初めての聖夜を迎えたラティナは、そんな風に、
恐怖も共に刻み込まれていたのだった。
聖夜のみ現れるアンデッドモンスター。
その名を﹃ヘルブラックサンタース﹄と言い、生を謳歌する者た
・
ちに﹃メッセ・ヨリア・ジュウ﹄﹃ニク・シリア・ジュウ﹄という
謎の呪詛を唱えながら取り囲んで来る魔物である。
一年間溜め込んだ怨念の力で、街中にも出現するという強力な力
430
を持ちながら、被害としては、子どもにトラウマを与えて泣かせる
ことと、恋人たちの会瀬の邪魔をすること位だ。結構ショボいので
ある。
直接的に大きな被害をもたらさない為、結果的に放置されていた。
護符を掛けてその夜位家で大人しくしていろ。というのが、街の
上層部の考えなのであった。
そして数年後。
子どもという存在が、大人の﹃駄目﹄というものに反発すること
をささやかな冒険とする時期に、当たり前のようにこんな話の展開
となった。
こっそり家を出て、魔物を見てみよう。
そして、その結果。
彼らは﹃ヘルブラックサンタース﹄に取り囲まれていたのだった。
一体現れたと思ったら、気付くとわらわらと集まって来ていたの
だ。
明るい方をふさぐように先回りされ、薄暗い路地へと追い立てら
れる。
表情など読み取れないアンデッドモンスターだと言うのに、怯え
る子どもたちを追う姿は何処か楽しんでいるように見える。
ラティナは涙目だった。
デイルやケニスの言うことをよく聞き、ほとんど悪戯や反発もし
ないような彼女が、いつもの仲間たちと共に﹃サンタース﹄に追い
かけられているのは、彼女なりの責任感からだった。
子どもたちにとっては﹃大冒険﹄である夜遊びの話を学舎でして
いた時に、ラティナはまず皆を止めようとした。だが、押し止める
431
のが無理であると悟ると、今度はこう考えたのだ。
−−自分は友人たちよりは、身を護る手段も持っている。自分の
知らない所で仲間たちが危険な目に合う位ならば、いざと言う時は
自分が皆の盾になろう−−と。
大人が聞けば、止めるであろう穴だらけの計画も、子どもたちは
そうと気付かない。それでも勢いで成してしまうものだったりする
のだった。
物影で彼らは怯えながら、善後策を講していた。
﹃サンタース﹄たちは、わざとらしく時間を掛けて子どもたちを追
い詰めに向かっているのだが、それにはいっぱいいっぱいの彼らは
気付かない。
﹃サンタース﹄にとって、こういう反応をしてくれる子どもたちと
いうのは、﹃大好物﹄なのだ。それゆえ大量に集まって来るのだが、
それを子どもたちに言うのは酷だろう。
﹁どうしようっ!﹂
マルセルが悲鳴をあげる。
﹁大きい声出すな、気づかれちゃうだろっ﹂
そういうルディの顔色も悪い。アントニーも無言のまま、必死に
考えを巡らせている。
ラティナは親友であるクロエの手をぎゅっと握った。
涙目でぷるぷる震えながら、ラティナはクロエをまっすぐ見る。
﹁ラティナが、時間かせぐの⋮⋮クロエたちは、にげて﹂
﹁ラティナっ?﹂
﹁ラティナ、浄化の魔法は使えないけど。ちょっとだけならわかる
からっ、みんなの方には行かせないようにするから、その間に﹃虎
猫亭﹄に行ってほしいの﹂
決意を込めたキリッとした表情でラティナはそう言うと、仲間た
432
天なる光よ、願い奉る。道に迷いし魂に、安らかな安寧を与え
ちが止める間もなく飛び出して行った。
﹁
﹂
給え。天なる光よ、願い奉る。惑い乱れし魂に、安らかな安寧を与
え給え
故郷で聞き覚えた鎮魂の唄。
ラティナは必死で声を張り上げた。
ことば
﹃ヘルブラックサンタース﹄たちの足が止まる。強制的に浄化する
ほどの力は無いが、魔人族の唄は呪文と同じ言語だ。魔力を帯び、
霊的なものを遠ざける程度の力は秘めている。
﹃ナ・ミダメヨ・ウジョモ・エー﹄
﹃イエ・スロリー・タノータッ・チ﹄
呪詛とは異なる歓声にも聞こえる声が﹃サンタース﹄から上がっ
たような気もするが、必死のラティナには届かない。
ラティナ置いて行くのっ?﹂
少しでも早くっ
クロエは一度ラティナを見たが、きっと唇を噛むと、踵を返して
走り出した。
﹁クロエっ!?
﹁ラティナのために、助け呼びに行かないとっ!
!﹂
クロエはそう言って全速力で走る。
﹃踊る虎猫亭﹄ならば、ラティナの言う通り、アンデッドモンスタ
ーに対抗できる力を持つ者も沢山いるだろう。
怒られることは嫌だったが、今はそうするしかない。クロエはそ
の一心で必死に走った。
・
・
ラティナは魔物が怖い。
彼女はそういったものがどれほど恐ろしく、おぞましいものであ
433
るということを知っている。
こうして相対している今現在も、足が震えてうまく動かないこと
に気付かないようにしている。
気付いてしまえば、舌がもつれて、﹃唄﹄を紡ぐことが出来なく
なってしまうだろう。
健気な美少女が、涙目で必死に声を張り上げる姿。
恐怖で愛らしい顔を歪めながらも、震えを圧し殺して、毅然と唄
を紡ぐ姿。
彼女にとっては非常に残念な話ではあるが、ラティナが頑張れば
うちのこを泣かせた
頑張るほどに、﹃ギャラリー﹄は集まって来るのだった。
だが、その彼女の頑張りは報われる。
﹁ラティナを泣かせたのはお前等かぁ⋮⋮?
のはお前等かぁ⋮⋮?﹂
地獄の奥底から響いてきたかのような低い声が、彼女の背後から
聞こえて来たことが終了の合図であった。
殺気と怒気に溢れたその声に、ラティナは怯えることはなく、安
堵でぼろぼろと涙腺を決壊させた。
﹁デイルっ﹂
﹁ラティナ⋮⋮お前等、ただで、済まされるなんて思ってねぇよな
ぁ⋮⋮?﹂
泣きながら抱きつくラティナをあやすために撫でる手つきは優し
いものだが、彼の表情と声は、アンデットという魔物たちをも威圧
する。
434
彼は完全に、お怒りであったのだ。
威圧されて、何処か逃げ腰になっている﹃ヘルブラックサンター
ス﹄たちへと向かって行くデイルの方が、むしろ﹃地獄の使者﹄の
趣である。
アンデッドに対抗することが出来る手段は、基本的には魔法だ。
しかも﹃天﹄か﹃冥﹄属性に限られる。または﹃加護﹄の中にも対
抗手段となるものが無くは無いが、一般的ではない。
﹃天﹄属性が相手を諭し、道を示して迷いを払い浄化する。すなわ
ち迷いし魂を﹃救う﹄という面を持つのに対して﹃冥﹄属性のアプ
ローチは全く異なる。
死霊術でも用いられる﹃冥﹄属性でアンデッドを祓うというのは、
力づくで相手を叩きのめすという行為に等しい。
デイルが使える魔法属性で、アンデッドに対抗出来るのは、もと
より﹃冥﹄属性だけであったが、彼は﹃天﹄属性が使用出来たとし
ても、同じ選択をしただろう。
デイルは両の拳に﹃冥﹄属性魔法の魔力付加をした。
つまり、アンデッドを文字通りどつき倒したのである。
大量の﹃ヘルブラックサンタース﹄を掴み、殴り、張り倒し。
マウントポジションでアンデッドを殴り続けた彼の表情には、慈
悲など微塵もなかった。相手は魔物である。慈悲などもとより必要
ゴスッ
ゴスッ
ない。後日、彼は良い笑顔でそう語った。
ゴスッ
鈍い音が、夜のクロイツに響き渡った。
435
デイルが早くラティナの元に辿り着けたのは、クロエの手腕であ
った。
彼女は、仲間たちを路地の要所要所に留まらせた。
暗く、いつ魔物が再び襲って来るのかわからない場所だが、一人
奮闘するラティナの名を出して、厳命したのだ。
そして一人、ラティナの不在に気付いて大騒ぎとなっている最中
の﹃踊る虎猫亭﹄に辿り着いた。
クロエの知らせでデイルは走り出し、途中残っていた彼女の仲間
たちを案内にして、ラティナの元に辿り着いた。
友人たちは、表通りで待っていたケニスが今頃送ってくれている
だろう。
各家庭でお説教は覚悟して貰わねばなるまい。
﹁ごめんなさい、ごめんなさいっ⋮⋮﹂
泣きじゃくるラティナを抱き上げて歩きながら、デイルは苦笑し
ていた。
彼もお説教をするつもりではいたのだが、叱る前に、彼女は自分
の非を理解して謝罪の言葉を繰り返している。
その上充分すぎるほどに怖い思いをしたラティナを、今叱る気に
はなれなかった。
﹁心配したんだぞ。ラティナが無事で本当に良かった。もうこんな
ことはするなよ?﹂
遅くなってごめんな﹂
﹁もうしないよっ⋮⋮ごめんなさいデイルっ。ごめんなさいっ﹂
﹁⋮⋮怖かったか?
﹁デイル⋮⋮ラティナ、悪い子で、ごめんね⋮⋮っ﹂
﹁⋮⋮悪い子じゃあないさ⋮⋮少しぐらい悪い子でも良いけどな。
436
でも俺が心配するのはラティナが大切だからなんだから、そのこと
は覚えておいてくれよ﹂
それに、少し位ワガママや悪戯をしてくれるようになった今現在
のラティナの姿に、心底ほっとしているのだ。彼女は元々﹃良い子﹄
過ぎた。
デイルたちに必要以上に気をつかい、自分の居場所を息を殺すよ
うに探しているような姿は、彼の望むものではなかった。
子どもなんて、こんな物だ。
どんなに良い子でも、大人に叱られるようなことをしながら、成
長していくのものだ。取り返しのつかないような失敗でない限り、
それを許容するのも﹃保護者﹄の務めだろう。失敗したなら、次は
上手くやれば良いのだ。
歩きながらデイルは夜空を見上げる。
息が白く立ち上るのに気付いて、少し足を早めた。寒さでラティ
ナが風邪でも引いたら大変だ。
﹁ケニスが聖夜祭のために、ケーキとご馳走用意してくれていたぞ。
ラティナが手伝いに降りてこないから、変だって探してたんだ﹂
﹁⋮⋮ごめんなさい﹂
﹁じゃあ来年こそ、﹃使徒﹄が来てくれるように頑張ろうな﹂
虎猫亭が見えて来れば、入り口では、リタが心配そうに彼等を待
っていた。デイルは軽く手を振り、ラティナはデイルにぎゅっと抱
きついたまま、リタの方を向いた。
﹁ラティナ﹂
﹁ん?﹂
﹁一年間ありがとうな。来年も俺と一緒にいてくれるか?﹂
437
﹁⋮⋮うん﹂
ちらちらと落ちてきた小さな雪の結晶が、白金の髪にふわりと落
ちた。
﹁ありがとう、デイル﹂
二人は降り始めた雪を一緒に見上げてから、皆が待つ﹃踊る虎猫
亭﹄に入って行った。
−−この年の彼等の﹃聖夜祭﹄は、こんな風に過ぎていったのだ
った。
438
閑話、クリスマス番外編。︵後書き︶
色々酷い話ですみませんです。同時投稿の短編で、同世界の同じイ
ベントについて触れていますので、突っ込み入れたくなった方はそ
ちらもどうぞ。
いつもお読み頂き、誠にありがとうございます。
439
閑話、雪の降ったある日。︵前書き︶
明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願い致します。
番外編です。季節ネタだったので。
440
閑話、雪の降ったある日。
クロイツは雪が少ない。一年の内、数度、白くうっすらと雪化粧
が施されることがせいぜいで、はっきりと積もることは稀なことと
なっている。
それでもラティナは、はじめてクロイツに来た年の初雪などは、
非常に大興奮だった。彼女の郷里は雪がほとんど降らない地域なの
だという。
そしてその翌年。彼女が九歳の年の冬。
クロイツでは珍しいほどの大雪が降った。これはその時の話にな
る。
その日、ラティナは朝から大張り切りだった。今日はクロイツの
子どもたちによる雪合戦大会が開催されるのだ。
クロイツ中心部の広場は、子どもたちにとって重要な遊びの場だ。
今回のように、大雪などが降った後はちょっとした騒動になる。
皆が皆、雪遊びがしたいのだ。そこで広場の使用権が子どもたちの
間の重大な争点となる。
今回はクロイツの子どもたちの間に一大協定が結ばれた。
それが﹃雪合戦大会﹄である。
誰かが独占するのではなく、皆で一斉に遊ぼうという短絡的な企
画ではあったのだが、意外にもすんなりと実現の運びとなったのだ
った。
じょうれん
−−この突然の大雪で、冒険者たちへの街の人々からの依頼は、
大多数が雪かきとなっている。そんな街中に散らばる﹃冒険者﹄た
441
アイドル
ちが、﹃我らが姫君﹄が大層、雪合戦を楽しみにしていることを察
して、骨を折ったとか、折らなかったとか−−という噂もある。
昨日﹃踊る虎猫亭﹄の前の雪かきを兼ねて、特訓もしたのだ。そ
の途中作った大きな雪だるまは今朝になったら崩されてしまってい
て、少ししょんぼりしたが、今のラティナの闘志をくじくまでには
至らなかった。
﹁今日こそ、ルディをやっつけるのっ!﹂
お気に入りのもこもこの上着に、ピンクの毛糸の帽子とマフラー、
手袋の三点セットを装備したラティナは、﹃踊る虎猫亭﹄の入り口
の前で気勢をあげた。
今回の雪合戦は、子どもたちを二つのグループに分けて行う。
そこで珍しくラティナは、いつもの仲間たちと別れることになっ
たのだ。とはいえマルセルとは同じグループなので、そこまで緊張
はしていない。他にも顔見知りの友だちが、この一年半で出来てい
たことも大きい。
マルセルの隣で大量の雪玉を作りながら、ラティナはぷふぅと興
奮気味だ。
﹁そんなにルディをやっつけたいの?﹂
ラティナ、ルディに負けないもん!﹂
﹁ルディいっつもラティナのこと、よわいとか小さいとかとろいっ
て言うんだもん!
彼女はちいさいながら、矜持が高い。とはいえ、単純な追いかけ
っこなどの普段の遊びでは、体格と体力に秀でたルディの方に軍配
が上がる。それがこの少女には我慢がならなかった。
いつかぎゃふんと言わせてやる。
この子は愛らしい外見に似合わず、そのあたりの気は強いのだっ
た。
442
とはいえ、ルールはざっくりしたものだ。
雪玉に当たれば失格。相手チームの旗を取った方のチームの勝ち。
すでに広場にはあちこちにシェルターとなる雪壁が築かれており、
広場の端と端には本陣となる壁とフラッグが用意してある。
大人には、この規模で大勢が入り乱れるのは、クリア不可能なゲ
ームにしか見えないが、子どもたちにとっては、別にどうでもいい
らしい。
年齢層にも幅のある、なかなかにたくさんの子どもたちが今か今
かと開始の合図を待っていた。
﹁スタートっ!﹂
その声と同時にラティナは走り出す。まだ距離があるから、相手
の雪玉は届かない。ピンクの毛糸の帽子に付いたボンボンを揺らし
て、安全なルートを推測して走って行く。
始めに狙っていたシェルターの陰に滑り込むと、パシュンパシッ
とシェルターに当たった雪玉が砕けた。相手チームの間合いに入っ
たのだ。
︵ルディは、ぜったいまんなかに来るから、ここでねらうの!︶
確信を持っているのは、友人の性格をよく知るからでもある。小
手先の策など練らずに、持ち前のパワーで押しきるタイプなのだ。
普段はそんな彼に押しきられるラティナであったが、今日は違う。
味方の援護の雪玉に合わせて先を伺い、ターゲットを探す。
︵いた!︶
目的の人物の姿を確認したラティナは、早速﹃作戦﹄実行に移っ
たのだった。
一方ルディの方からも、ラティナの様子は確認できた。
開始直後、子どもたちの集団を飛び出したちいさなシルエットが、
見慣れたピンクの帽子とマフラー姿だったのだから仕方ない。仔兎
443
だってもう少し保護色というものを考えるだろう。よく似合ってい
るけれど。あの大きなボンボンが歩く度にぽふんぽふん揺れるのを
見ると、思わず鷲掴みにしてしまうのは、もう本能的な何かを刺激
するのだから仕方がない。そのたびちょっとむくれた顔で上目遣い
で睨んでくるのだ。そんな顔も可愛いかったりするけれど。
︵あれで隠れているつもりなんだから、とろくさいよな︶
シェルターの陰から、ピンクのボンボンがちょこんとはみ出てい
る。
彼女は勉強もできるし、頭も良いはずなのに、時々こんな風に抜
けているのだ。
ルディは相手チームの様子を伺いながら移動する。
ラティナのいるシェルターに迂回して近づいた。
︵一気に決めるっ︶
位置を決めると、後は一気に飛び出した。ラティナに反撃させず
にこの両手に装備した雪玉をぶつければ自分の勝ちだ。自分のこと
を気にした時に、上から山なりに投げた雪玉で頭上から襲うのだ。
ぱすんっ。と、弓なりの軌道を描いた雪玉は、呆気なくピンク色
の帽子に命中する。ルディは悔しがるラティナの顔を思い浮かべな
がら、シェルターの奥を覗き込んだ。
そこにあったのは、一本の棒と、それにのせられた雪をかぶった
ピンクの帽子。
﹁っ!?﹂
囮だとルディが理解した瞬間、シェルターの奥でちいさな体を縮
めていたラティナが立ち上がった。
視界の端で、キラキラと光の粒子が弾ける。
﹁ちょっ⋮⋮魔法は反そ⋮⋮﹂
ルディはその叫びの途中で、ラティナの生み出したぷち雪崩に巻
き込まれた。
444
ラティナが扱える天属性の魔法のうち、防御壁を作るものや、攻
撃魔法というものなどは、結局は同じ力の使い方の違いなのである。
魔力で盾を作れば﹃防御﹄に。魔力の弾を飛ばせば﹃遠距離攻撃
魔法﹄に。そして魔力の塊で殴れば﹃近接攻撃魔法﹄となるのだ。
そしてラティナは魔力の制御にかけては、大人たちも唸らせる技
量の持ち主だ。
彼女は、雪の層の下に展開した、広げた魔力の壁を一気に立ち上
げたのであった。雪乗せちゃぶ台返しである。
ルディを作戦通り雪に閉じ込めると、ラティナはシェルターの奥
で作っておいた特大雪玉を両手で持ち上げた。
彼の頭にぐしゃりと落とす。トドメである。雪玉を当てないと、
相手をアウトには出来ないという考え故にの行動であった。変なと
ルディに勝ったーっ!﹂
ころで彼女は律儀だ。
﹁やったーっ!
両手を上げて思わず万歳をする。
喜びのあまり、彼女はすっかり失念していた。
現在はまだ、合戦の真っ最中であることに。
﹁ふゃっ!﹂
ちいさなラティナの頭で雪玉がパシュンと砕けた。
パシッパシッ、パシュンパシッ。直後、何発もの雪玉の集中放火
攻めるぞっ!﹂
を浴びる。あっという間に、悲鳴を上げるラティナは雪まみれにな
った。
﹁ひゃあぁんっ!﹂
ラティナ
﹁敵の魔法つかいは討ち取ったっ!
さあ、行くぞっ!﹂
勝どきを上げたのは、彼女の﹃親友﹄だった。
﹁はじめから、ルディは捨てゴマよっ!
445
そのあたり、クロエに容赦は全くなかった。
結果。クロエ将軍率いるチームの勝利であった。
ラティナ勝ったの!﹂
観戦していた大人たちが、思わずその指揮に感嘆する采配であっ
た。
﹁やったのっ!
だが、ラティナは﹃踊る虎猫亭﹄で勝利の報告をした。チーム戦
では敗北したが、﹃彼女の戦い﹄においては勝利なのである。
夕食までのお凌ぎに、ケニスがホクホクの焼き芋を持たせてくれ
る。雪遊びと寒さで、鼻の頭を赤くして帰って来たラティナであっ
たが、着替えをし、砂糖を少し入れたホットミルクを一杯飲むと、
すっかり普段通りになっていた。
﹁帰り道で、雪だるまになってるひと見たけど、カゼひいたりしな
いのかなぁ﹂
ふと、そんなことを思い出したが、勝利の報告の方にすぐに意識
は向く。
芋をもふもふと食べて、新しく注いでもらったミルクを飲む。勝
利の美酒ならぬ勝利のミルクはいつもよりも美味しい。
﹁昨日練習してたもんな﹂
デイルにもにこやかに微笑まれ、ラティナはますます嬉しそうに
笑った。
デイルは行くことこそ出来なかったが、店の常連客たちが何人か
は彼女の雄姿を見物に行っていたので、既に話は聞いていた。それ
・
・
・
・
でもやはりこのちいさな彼女から、武勇伝は聞かなくてはならない。
・
南区のある子どもが作った、大作の雪だるまを蹴り壊したやんち
ゃ者が、強面の男どもにきついお灸をすえられたなんて噂は、デイ
446
ルの元にも来ていたが、まぁたいしたことではない。
﹁今度、一緒に雪だるま作ろうか﹂
﹁うんっ﹂
こんな笑顔のラティナと一緒なら、童心に返って雪遊びに興じる
のも悪くない。
いっそのこと、巨大雪像を作ってみるのはどうだろうか。
そんなことを思いながら、デイルはラティナから一口もらった焼
き芋を口の中に放り込んだ。
447
閑話、雪の降ったある日。︵後書き︶
現実的には大雪は大変なだけですが⋮⋮フィクションとしてお楽し
みくださいませ。
いつもお読み頂き、誠にありがとうございます。
時折告知も出しておりますので、活動報告もご覧頂ければ幸いと存
じます。
448
幼き少女、花に彩られる村の中にて。︵前書き︶
本編再開になります。
449
幼き少女、花に彩られる村の中にて。
デイルの弟であるヨルクの婚礼が近づくと、ティスロウ全体が何
処かそわそわとしてきた。
田舎であるこの村では、娯楽は限られる。やはり普段とは異なる
大きなイベントは村人総出の﹃ハレの日﹄なのだ。
しかも今回の主役は当主家の者だ。盛大なものになることがわか
りきっている。
村の各家では、晴れ着の虫干しが行われていたり、祝いの品の準
備が始まっていたりと、あちこちに華やかな気配が漂っているのだ
った。
ラティナの晴れ着はデイルの実家にあったものを手直しした。
元々頻繁に作り直したりせず、体型の変化や成長に応じて調整の
きくようになっているつくりである。ブラウスはかなり丁寧な直し
をしたが、それ以外は少し丈を詰めただけだった。
ちくちくちくちく−−と。
無心で針を運ぶラティナは、今日もヴェン婆の部屋にいる。
夜はデイルと同じ部屋かリビングで過ごす彼女だが、日中は台所
かこの部屋にいることが定番化したようだった。
因みに今のラティナは一人でデイルの隣の部屋で眠っている。眠
る寸前に隣に移動し、おやすみまで三秒という生活スタイルが確立
したのだった。
﹁できた!﹂
﹁どれどれ⋮⋮﹂
ラティナは晴れやかな顔で、縫い上げたスカートをヴェン婆に差
し出した。ヴェン婆も彼女の縫い目を確認し、フムと合格点を出す。
450
﹁なかなかだね﹂
﹁ほんと?﹂
﹁ああ。誰に教わったんだい?
﹁友だちのおかーさんにだよ﹂
ウチの馬鹿孫じゃできんだろ?﹂
ぐしぐしと撫でられているラティナは誇らし気な良い笑顔だった。
ヴェン婆は彼女のことを甘やかしてはいるし、ある意味ではデイ
ルより寛大だが、締めるところは締める人間でもある。
デイルは彼女のしたことを基本的に褒める。褒め称える。それは
それで嬉しいことではあるが、向上心溢れるラティナにとっては、
ケニスやヴェン婆のような合格点の厳しい人間に褒められることの
方が、より嬉しいことであるらしい。
彼女は増長したりせず、冷めた判断ができる子なのだった。
﹁花よめさん、どうやって来るの?﹂
﹁下の村から来た後、村の入り口んとこの家を借りて準備を整えさ
せるのさ。ウチにはウチのやり方があるからね。一族の一員になる
コルモゼイ
からには、ウチの流儀に合わせて貰わねばならん﹂
﹁そうなの。ラティナ、クロイツで、橙の神の神殿でやっているの
見たことあるよ﹂
アフマル
コルモゼイ
ラティナが少し遠くを見るようにして記憶をたどる。
ラーバンド国の主神は﹃赤の神﹄であるが、﹃橙の神﹄は豊穣を
司る神というところから子孫繁栄を願う神でもある。そこから派生
コルモゼイ
して、結婚を司る神としても考えられているのだった。
加護を持つ神官が居なくても、ほとんどの町や村に橙の神を祀る
物が設けられているのはそのためでもある。
結婚の為の施設でもあるのだ。
﹁街のやり方とも少し違うかねぇ﹂
﹁楽しみっ!﹂
合格の出たスカートを胸に抱いて、ラティナは嬉しそうだった。
451
ティスロウの文化は独自のものだ。
その風習だけでなく、服装にもそれは反映されている。
厚手の布地のスカートは、裾に刺繍飾りのリボンが縫い付けられ
た装飾が施されている。儀礼の時以外はその上にエプロンを付ける
ことが多い。
男女共にブラウスやシャツの上に、ベストを着て、精緻な刺繍を
施した帯を締めるのが正装となっていた。
大地の神を奉ずる民であるため、正装のための衣装の刺繍の図案
は草花の意匠のものと決まっていた。一朝一夕に作ることのできな
いそれらは、各家で引き継いできたものであったり、長い時間をか
けて母が我が子のために仕上げていくものでもある。
見慣れぬ衣装を纏えることも、楽しみのひとつのようだった。彼
変じゃないかな?﹂
女もお洒落に興味のある﹃女の子﹄なのである。
﹁ラティナ似合うかなあ?
﹁ラティナちゃんは可愛いらしいからな。よう似合うだろ﹂
そのコメント自体は、祖母も孫と大差はなかったようだ。
﹁ラティナは本当に可愛いなぁ﹂
﹁うむ﹂
﹁ウチの一族の衣装もラティナが着たら、特別みてぇだよなぁ﹂
﹁うむ﹂
﹁花嫁より、主役みてぇだよなぁ﹂
﹁うむ﹂
﹁そこの馬鹿兄貴。婆ちゃんもいい加減にしろ﹂
そんな似た者同士な孫と祖母に、ヨルクが突っ込みを入れたのは、
いよいよ花嫁が輿入れする当日のことだった。
ラティナは、自分で直したティスロウの服を一式身につけていた。
452
更に正装の決まりとして胸元に大きな宝石のブローチをつけている。
工芸師の一族であるティスロウでは、宝飾品も身近な存在であるの
だ。ラティナのそれは勿論借り物だが、当主家の格にふさわしい立
派な一品だった。
未婚の男女は更に生花を飾る。女性は主に髪に差し、男性は帽子
に差している。未婚と既婚の差は腰に巻く帯にも表れており、未婚
の者は花の意匠。既婚の者は実りの意匠と定められていた。
本日の主役であるヨルクも衣装の形式自体は、他の男性と変わり
はない。ストールを宝石飾りで留めているのも、腰にナイフをさげ
ているのもティスロウの様式にそったものだ。
唯一彼が主役だとわかるのは帯の紋様だ。花婿だけはその意匠が
花と果実両方が縫いとられているのだ。
﹁お前はまだ﹃花付き﹄か。弟に先を越されたな﹂
というのが、主役の兄であるデイルが、本日受けとる祝辞なので
ある。
親バカな台詞も出てしまう程に、ラティナは愛らしい。
白金の髪に色鮮やかな生花はよく映える。ティスロウの民族衣装
という見慣れぬ姿だと言うのも、新鮮な驚きを感じさせた。
﹁デイルもかっこいいよ﹂
﹁﹃花付き﹄なのが情けないけどな﹂
軽口を交わしていられたのは儀式が始まるまでで、遠くから先触
れが鳴らす鈴の音が聞こえて来ると、どこか緊張した空気に切り替
わる。
先触れとして鈴を鳴らして歩くのは、花嫁の親族だ。
ティスロウの流儀に慣れぬその人が、酷く緊張した様子でぎこち
なく鳴らす鈴に応じて、道の左右で迎えたティスロウの人びとが道
に花びらを散らしていった。
453
結婚の儀式は、雪に閉ざされる冬以外の季節を問わず行われるが、
やはり春に行われる儀式が最も華やかだ。本格的に春を迎え、咲き
誇る花の種類も多いこの時季は、祝福を込められて撒かれていく花
びらもたっぷりとしている。
先触れが花婿の家の前にたどり着くと、更に鈴の音を高らかに鳴
らす。花婿の家族が外に出たのはこの時で、ラティナは、ティスロ
ウの中に描かれた、色鮮やかな一本の道に目を大きく見開いた。
黄色、赤、桃、白⋮⋮濃淡も含めれば、そんな単純に言い表せる
ものではない、数多くの色彩によって、これから花嫁が通る道が塗
り替えられているのだった。
風に花びらが舞い上がると、芳香もあたりに漂った。
﹁きれいだね⋮⋮﹂
嘆息する彼女の視線が、吸い寄せられるように一点に向かう。
ティスロウの男たちが担ぐ棒に装飾の成された座席が吊るされ、
そこに花嫁が座っていた。
コルモゼイ
複雑な刺繍が美しい衣装と豪華な装飾品で飾られた花嫁は、橙色
の帽子を頭にのせている。橙の神の色だ。そこにもふんだんな生花
が飾られていた。
ゆるゆると。花嫁を乗せた駕籠は、花の道を進んで来る。
その後には、ティスロウの衣装とは異なる数人の人びとが続いて
いた。花嫁の親族なのだろう。
﹁花よめさんだ⋮⋮きれい⋮⋮﹂
ラティナは頬を薔薇色に染めて、憧れの眼差しでその様子を見て
いた。
デイルといえば、その花嫁の後ろに、ティスロウとの婚儀という
村にとっての慶事を村長という立場として喜びながら、それでも複
雑そうな表情の﹃花嫁の父﹄に、軽い自己投影をしていた。
454
ラティナが﹃花嫁﹄に憧れてしまうなんてどうしよう。このひと
と結婚しますなんて、何処の馬の骨かもわからない輩を連れて来た
ら、文字通り骨にしても構わないだろうか。少なくとも自分より優
れた奴でないと許さない。でも、反対したら、それはそれでラティ
ナに嫌われてしまったりするのだろうか。
どうしよう。泣きそう。
﹁何でお前がそんな顔になっているんだ﹂
ランドルフの突っ込みは的を射ている。
先触れが持っていた鈴をランドルフが受け取り、互いに一礼で応
じる。門扉は大きく開け放たれて、花嫁を乗せた駕籠は花婿の家族
の先導で中に入った。
屋敷の中に足を踏み入れる花嫁の履く布靴には、かすかな土の汚
れもついていない。ティスロウにとって、大地は畏怖する存在であ
る神そのものだ。この一連の儀式は、花嫁を神に奪われることなく
花婿の家まで送り届けるという儀式なのである。
その後は、祝宴が始まる。
雛壇に並んだ新郎新婦の元には、入れ代わり立ち代わり村人たち
が祝福に訪れる。大人たちは祝いの品を持っているが、それ以外に
全ての人びとが花を一輪持参していた。
ラティナも薄桃色の花を胸に抱いて、はにかむようにしてお辞儀
をした。
﹁おめでとうございます﹂
彼女の差し出した花を受け取った花嫁は、緊張したような笑顔で
応じ、背後に設けられた脚付きの台の上にそれを置いた。数多くの
人びとが訪れたことを証明するように、もう溢れるほどに山盛りと
なっていた。
455
コルモゼイ
最後にこの花−−周囲の人びとからの祝福の証−−を、橙の神の
神前に供えて、儀式は終了するのだ。
ティスロウの文化は、花の存在がとても重要視されているのだっ
た。
456
幼き少女、花に彩られる村の中にて。︵後書き︶
まだ色々忙しく、更新頻度を元に戻せるとは断言できないのですが、
最低でも毎土曜日には投稿したいと思っています。
457
青年、幼き少女を前に想う。︵前書き︶
この度、書籍化が決定致しました。詳しくは活動報告に記載してお
ります。
皆さまお読み頂き、誠にありがとうございます。
458
青年、幼き少女を前に想う。
儀式が終わった後の祝宴は、文字通りの宴会と化していく。
老若男女問わず、山盛りのご馳走に舌鼓をうち、この時とばかり
に当主秘蔵の酒瓶を空けていく。
すでにマクダや女衆の幾人かは、エプロンを身に付け忙しく立ち
働いている。そんな活気溢れる人びとの中、ヴェンデルガルト婆の
隣にちょこんと座り、取り分けてもらった川魚のパイ包みをもぐも
ぐしていたラティナは、デイルの姿が無いことに気付いた。
右を見る。ヴェン婆が肉のハーブ焼きを噛み千切りながら、酒盃
をぐいぐい空けている。その奥では、酒に酔ったらしく、ふらつい
ている新婦のフリーダを労るヨルクの姿がある。
左を見る。酒が入るにつれ村の人びととの討論に、次第に熱の入
ったランドルフがいる。とはいえ討論の内容は、初孫は男が良いか
女が良いかという、議論するにはあほらしい内容だ。
前を見る。たくさんの人びとが宴を楽しんでいる。今、マクダが
新しく運んで来た大皿の料理は、ラティナも手伝って作ったものだ。
自分が作ったものを美味しそうに食べてもらえるのは彼女もとても
嬉しい。
﹁⋮⋮デイル?﹂
けれども、そこに彼の姿が無いことが、途方もなく寂しく感じら
れた。
ラティナがキョロキョロとデイルを探していることには、ヴェン
婆もすぐに気付いたようだった。
459
﹁ラティナちゃん﹂
﹁ふぁ?﹂
﹁馬鹿孫なら外だろ。追いかけるなら、ちゃんと暖かい格好するん
だぞ﹂
ヴェン婆は手近にあったストールを渡しながら言う。ラティナは
しばらく考えると、ぺこんと頭を下げ、ストールを巻いて大勢の人
びとの合間を縫って外に出た。
屋敷の外に一歩出ると、人びとの熱気に火照っていた顔に当たる
夜風が心地良かった。
中の賑やかさが嘘のように、静寂さが漂っている。
そこに彼はいた。
ラティナはほっとしながら近づいて、何処かいつもと違う彼の様
子に困惑した。
﹁⋮⋮デイル?﹂
外は寒いから、中に入ってろよ﹂
その呟き声に気付き、顔を上げた彼は、いつもと同じように笑顔
を浮かべてみせた。
﹁⋮⋮﹂
﹁どうした、ラティナ?
﹁デイル、おしえてくれたよ。⋮⋮笑いたくないときは、笑わなく
ていいんだよ?﹂
そ
彼女の言葉に、驚いた顔をした後で、彼は笑みを苦みの混じった
ものに変えた。
﹁⋮⋮大丈夫だよ、ラティナ。心配かけちまってすまないな﹂
﹁⋮⋮デイル⋮⋮さびしいの?﹂
﹁今日は祝いの席だぞ⋮⋮そんな訳ないだろ?﹂
︵⋮⋮ラティナがもっと大人だったら、よかったのかな?
否定するデイルに彼女はぎゅっと抱きつく。
したらデイルのこと、もっと助けてあげられるのかな︶
460
ほんの少し悲しくなって、ラティナは潤みかけた眸をまたたいた。
いつも彼が自分にそうしてくれているように、自分も彼の救いに
成れたら良いと、願った。
自分がもっと大人だったら、きっと、こんな辛そうな微笑みを見
なくて済んだのかもしれないと思った。それでも、せめて、自分が
彼にしてもらえて﹃救われた﹄ように、抱きしめてあげようと思っ
た。
﹁ラティナ⋮⋮早くおとなになれたら良いのにな⋮⋮﹂
頑張
そう呟けば、デイルは今度こそ﹃いつものように﹄苦笑した。
﹁ラティナはもっとゆっくり、大人になれば良いと思うぞ?
り過ぎるなよ﹂
ラティナを撫でようとした彼は、彼女が泣きそうな顔になってい
ることにも気付いたようだった。
髪を撫でた手のひらを、そっと頬に滑らせる。
﹁本当に⋮⋮優しい子だな、ラティナは⋮⋮﹂
ラティナにこんな風に﹃見抜かれる﹄とは思っていなかった。
﹁寂しい﹂のかと問われて、自分の感情がそれに近いのだと自覚し
た。
弟の婚礼。祝いの言葉を次々告げる大勢の村人たち。一族の更な
る繁栄を願う声。
その中心に居るのは自分ではない。自分が知らない時間を、皆が
ここ
語り合っている。
自分が故郷にいない間も確実に時間は流れて、自分がいなくても、
この後も続いていくのだろう。
割りきったはずなのに、寂寥の思いが胸を占めた。
物心付いた頃から、一族の当主を継ぐのは自分だと思っていた。
461
周囲もそういう視線で自分を見ていたし、そういう風に扱われてい
た。
一族の為に生きるのを苦痛だと思ったことはない。父も祖父母も
そのまた前も⋮⋮代々の当主たちが守ってきたものを継ぐことは、
自分の根幹を為すものだ。
ここ
その﹃当主﹄に連なる座を弟に譲ったのもまた、一族の為だ。
ここ
一族を、﹃ティスロウ﹄を守る為に、自分は故郷を離れた。
ここ
﹃レキ﹄の名を負い、故郷を外から守る道を選んだ。
ちから
それでも思う時はある。
こんな﹃加護﹄なんて無ければ、自分はずっと故郷に居られたの
あ
そ
こ
かもしれないと。
﹃次期当主の座﹄に居るのは、自分だったはずなのにと。
﹁ちょっと⋮⋮酒に酔ったんだよ。少し酔いざましに散歩でもする
か?﹂
﹁⋮⋮うん﹂
手をつないで歩くのも、いつの間にか当たり前の行動になってい
た。
このちいさな少女が隣に居てくれることが、当たり前であること
が何より尊い。
ティスロウは昔から、この周辺の土地の﹃領主﹄に疎まれている。
こ
の
自分たち一族は、独自の文化と掟を以て生きる者たちだ。本来の
意味では﹃ラーバンド国﹄にすら属していない。
それでも反乱分子として排除されてこなかったのは、ひとえにテ
462
ィスロウの技術が高く独自のものであるためだ。
﹃ティスロウ﹄を名乗る集落は他国にも存在している。
過去、その地を権力者たちが求めたことがあった。その地のティ
スロウは、徹底して抗戦し、最後には一夜にして村から一人残らず
撤収し、もぬけの殻となっていたという。
一族が最も大切にしているものは﹃一族﹄自体だ。そのためには
土地を捨てることも選択の一つにしてしまう。
ティスロウが去った土地は、その潤沢な﹃加護﹄も失われ、比類
なき肥沃な土地もすぐに普通のものへと戻ってしまう。ただの辺鄙
な山の中の土地に過ぎなくなってしまうのだ。
強固な土地の利を活かした守りを破る為に消耗戦を強いられ、テ
ィスロウの一族という優秀な戦士にして魔法使いたちと戦い、最後
に得られるものは捨てられた村が一つ。割りがあまりに合わない。
ティスロウは流れた先で、新たに村を興すことも苦にしない。
地属性魔法は、土地の開墾に大きな力を持っているのだから。
そしてどんな土地でも、ティスロウの﹃技術﹄は大きな商品価値
を持っている。魔道具の独自技術とは、それこそ金の卵を産む鶏の
ような存在なのだから。
この国でも、領主は﹃ティスロウ﹄のことを疎んじている。−−
それは無理もない。この周辺地域の村々などは、すでに領主よりも
﹃ティスロウ﹄を重要視している。
高い知識と知恵を持ち、豊かな土地がもたらす収穫量も食料の備
蓄も、非常時に籠城戦を行えるものであるのと同時に、周辺の集落
すら支えることが可能な量を確保していた。
魔法使いも多い。﹃地属性﹄魔法は、回復魔法が使える属性であ
る。そして薬草類もまた大地の一族にとっては近しいものだ。田舎
の集落では致命的な怪我も病も、この一族ならば、救うことの出来
463
る可能性を持っていた。
権力者が疎まないはずがない。それほど﹃ティスロウ﹄という一
族の力は大きいのだ。
だが、国の中核にいるものたちにしては﹃ティスロウ﹄が他国に
去られては困るのだ。
貴重な魔道具の製造元を失い、国内の魔道具が不足する事態にな
どなっては国策にも関わる。﹃ティスロウの魔道具﹄がラーバンド
国にもたらす利益もまた、無視することは出来ない。多くの流通業
や販売業に過大な影響を与えることになるだろう。
そして土地を捨てた﹃ティスロウ﹄が他国に移住先を定めれば、
それほどの利益を生む﹃ティスロウの魔道具﹄も他国のものとなる。
それだけは避けたい事態と言って良いだろう。
中枢の権力者たちにしてみれば、現状を維持してもらうことが何
よりも﹃最善﹄だった。
長らくそんな関係を続けてきた﹃ティスロウ﹄と﹃ラーバンド国﹄
、﹃地方領主﹄の三者だが、領主が代替わりし、新たに周辺地域を
治め始めたその者が、﹃ティスロウ﹄への反発を隠そうとしなくな
ったことで、均衡は揺らぎ始めた。
一手を打ったのは、ティスロウの当主たるヴェンデルガルトだっ
た。
464
青年、幼き少女に告げる。
アスファル
ヴェンデルガルトは各地に存在する﹃レキ﹄−−ティスロウから
出て、外の世界から一族に関わるものたち−−を経て、﹃黄の神﹄
の高位神官であったコルネリオ・カカーチェを村へと招いた。
彼は文化人類学の分野では権威である。独自の文化を持つ﹃ティ
スロウ﹄に興味を持っていることを聞いたヴェンデルガルトの判断
が、彼を招致することだったのだ。本来ティスロウは、﹃一族﹄の
中に他者を入れない。−−新たに﹃一族﹄の一員として迎えること
は、やぶさかではない。集落の中に移住者を迎え入れることはしな
いのだ−−
アスファル
コルネリオは王都にある神殿中枢にも発言力を有しているほどの
神官だ。
ヴェンデルガルトは彼と﹃黄の神﹄の神殿を経て、最終的にはエ
ルディシュテット公爵という、ラーバンド国でも最高ランクの権力
者にコンタクトを取るに至った。
そのために﹃ティスロウ﹄が提示したものが、当主家嫡男である
デイルの存在だった。
﹃魔王﹄の影響力が増し、﹃七の魔王﹄や﹃二の魔王﹄の脅威が日
々強まる現状では、権力者が切望していた﹃存在﹄だった。
﹃神の寵愛を有する者﹄−−ただひとつの﹃加護﹄ではなく、複数
の神の﹃加護﹄を有するというかたちで表出する﹃稀人﹄。
﹃魔王﹄を唯一害せる﹃対存在﹄−−すなわち﹃勇者﹄と呼ばれる
能力を有する彼を。
﹃稀人﹄と呼ばれるほどには珍しい存在だが、﹃勇者﹄は唯一の存
465
在ではない。だが﹃勇者﹄と呼ばれる能力を持っている存在が、戦
場に慣れた戦士であるとも限らない。
好戦的で危険な思考を持つ﹃魔王﹄の脅威に対抗したいラーバン
ド国にとっては、デイルのように﹃戦う力を持つ﹄勇者こそ、何に
代えても必要とする存在であったのだ。
確かにデイルは﹃戦う力﹄を持つ。
コルモゼイ
彼の﹃加護﹄は、戦いに於いて有利に働く特性を持っている。彼
が、一族にも深いつながりを有する﹃橙の神﹄から与えられている
﹃加護﹄は、﹃大地に関する魔法に於いての守護﹄だった。デイル
は地属性魔法だけならば、ほとんど魔力を消費しないのだ。
そして優秀な狩人であった彼は、武器の扱いにも長けていた。
コルネリオに師事し、学術も街の者に劣らないほどに身に付け、
冒険者としての研鑽を若き優秀な冒険者の元で積んだ。
確かにデイルは優秀な戦士と言えた。
デイルがラティナを連れて散歩に出たのは、裏の滝の方だった。
ラティナが明かりの魔法を唱えると、彼女の性格のような柔らか
な灯りの珠がふわりと浮いた。それに照らされた道を並んで歩く。
滝まで辿り着けば、辺りには幾つもの灯籠が光を灯していた。
水面に灯りが反射して、いくつもの光が周囲を取り囲んでいる。
元々の神秘的な空間とも相まって、現世の光景ではないようだった。
﹁うわぁっ⋮⋮﹂
﹁さっきヨルクとフリーダが儀式のために来たからな﹂
最後の儀式は、新郎と新婦の役目だ。ラティナは屋敷で待ってい
コルモゼイ
たためにここには来なかった。見せることが出来て良かったと思う。
橙の神を奉るほこらの前には、山盛りの花が奉納されている。こ
の花の数だけ、祝福が寄せられたという証だ。
﹁⋮⋮ヨルクは、きっと良い当主になるな﹂
466
﹁⋮⋮﹂
デイルを見上げたラティナは、揺らめく灯籠の灯りに複雑な影を
表情に落としながら、何かを考えているようだった。一足飛びに大
人になってしまいそうな雰囲気を感じ取って、デイルは彼女の頭を
くしゃりと−−撫でようとして、せっかく整えられた髪を乱さない
ようにそっと触れる。
確かにデイルは﹃戦うこと﹄が出来る。
だが、彼がそれまで郷里で武器を取ってきたのは、狩りのため獲
物を捕るときと、外敵から村を守るときだけだった。
﹃ひと﹄の命を奪ったことは、なかった。
魔族が、全て獣の姿をしていたのなら、こんなにも苦しむ必要は
なかっただろう。
じぶんたち
魔王の眷属となり、魔族となったとしても、外見上の変化はない。
魔族の多数を占める魔人族は、角の有無以外は﹃人間族﹄とほとん
ど姿にも変わりはない。
﹃人間族﹄の元に争乱をもたらすため、攻め入って来た﹃七の魔王﹄
の眷属と戦ったことに、後悔はない。
生きているものとは思えない異形と化している﹃二の魔王﹄の眷
属が上げる、怨嗟と懇願−−言葉がわからずとも、そうとしか思え
こ
ない呻き声−−を受けて、その命を奪ったのは、相手にとっては救
いであったのかもしれない。
ころ
それでも、﹃ひと﹄を殺すことが−−奪うだけの行為が、彼の精
神を磨り減らしていった。
デイルの本質は﹃ティスロウの当主﹄−−一族を守るためにその
力を尽くすもの、だ。彼は﹃守るべきもの﹄のために、力を発揮す
ることの出来る性質を持っている。
467
﹃守るべき﹄郷里から遠く離れた地で、ただ国のため人々のためと
言われながらも、行うことは﹃殺すこと﹄のみ。郷里はあまりにも
遠く、﹃守る﹄実感の持てないままに、それでも﹃守りたい﹄から、
逃げることは出来なかった。
名誉も高額の報酬も、彼の﹃救い﹄にはならなかった。彼はそれ
らを自分の心の拠り所には出来なかったのだ。
感情を殺し、﹃仕事﹄として割りきることで、﹃殺すこと﹄に慣
れる方法を探った。だがそれは、彼の彼らしい心を押し殺す選択だ
った。
そんな時、彼は、ちいさな彼女と出会った。
彼が﹃命を救った﹄少女だ。
今にも折れてしまいそうな、頼りなくか弱い存在が、自分の庇護
の元、日に日に健やかに成長するのを見守った。
もの
自分の腕の中で、安堵の表情を浮かべ、幸福そうに微笑んでくれ
た。
−−この子は、自分が﹃守るべき存在﹄だ。
不特定の誰かのためが、彼女のために戦うということになった。
もの
見知らぬ他人の住む街が、彼女が心穏やかに暮らす場所になった。
明確な﹃守るべき存在﹄を得た彼は、戦うために必要なモチベー
ションを得たのだった。
彼女が幸福でいてくれるためならば、自分は﹃戦うこと﹄が出来
るのだ。
それでも心が折れそうになるときも、このちいさな少女は、﹃救
い﹄になる言葉を呉れる。そのぬくもりで癒してくれる。
彼が前を向き、﹃保護者﹄としての虚勢をはることが出来るよう
になる程度には、彼女の言葉は大きな力を呉れるのだ。
468
﹁ラティナがしあわせなのは、ぜんぶデイルのおかげなの﹂
彼女のその言葉は、向けてくれる笑顔は、彼のモチベーションそ
のものなのだから。
﹁大丈夫だよ、ラティナ﹂
こんなにちいさいのに、誰よりも優しい少女。どうかこのまま綺
麗な心を育んで欲しいと願う。
﹁⋮⋮俺は、ラティナに救われているんだよ﹂
その言葉に彼女は大きな灰色の眸を不思議そうにまたたいた。
たまには、弱気な言葉を吐いても良いだろうか。久しぶりに呑ん
だ強い酒精を理由にすれば良い。
﹁デイル?﹂
﹁ラティナは、よく、﹃俺と出会えて良かった﹄と言ってくれてい
るけど、それは俺もだよ﹂
彼女と出会えていなかったら、今の自分はどんな風になっていた
だろう。ちゃんと笑えていただろうか。
弟にちゃんと﹁おめでとう﹂と、祝いの言葉を言えただろうか。
守りたいはずの場所を、その思いを、見失わずにいられただろう
か。
﹁俺は、ラティナと出逢えて良かった﹂
﹁⋮⋮ラティナも、デイルと出逢えて良かったよ﹂
ふわりと微笑んでくれた彼女を抱きしめる。いつもと同じように
・
・
体温を分け合う距離なのに、少しだけいつもと違うように感じられ
た。
﹁ラティナ⋮⋮デイルのためになってるなら⋮⋮嬉しいな﹂
優しい声を聞きながら、この子はどんな大人になるだろうかと考
える。
469
いつか自分ではない誰かの隣でも、こんな風に幸せそうに笑って
くれるだろうか。
−−きっとその時がくるまで、守ってやるのが﹃保護者﹄の務め
なのだ。
俺はやられぬっ!﹂
﹁だが、どこぞの馬の骨にラティナを嫁にはやらん﹂
﹁うむ﹂
﹁ラティナが欲しくば、俺を倒してみろっ!
﹁うむ﹂
宴の席に戻ったデイルは、すっかりいつも通りに戻っていた。ヴ
ェン婆と酌み交わすペースは、ラティナが見たこともないほどに早
い。
やらないぞっ
本当にラティナは優しいなぁっ!﹂
﹁ふえぇ⋮⋮だいじょうぶ?﹂
﹁心配してくれるのかっ!
捕まった。
明らかに酔っていた。
﹁ふぁあっ!?﹂
嫁になんてやらないぞっ!﹂
﹁あーっ、本当ラティナは良い子で可愛いなぁっ!
!
触らぬ酔っぱらいに祟りなし。
デイルは酒に弱くは無いが、さすがにヴェン婆と二人で、樽を空
にするペースで呑めば、泥酔もする。
ラティナは、普段の薄めたワインを呑み、乱れることも無いデイ
ルの姿しか知らない。危機管理意識が薄かった。
ガバッと抱きつき、グリグリグリグリグリと頬擦りをされまくる
のは、さすがに初体験であった。
﹁ふにゃぁあぁぁっ!?﹂
ラティナから変な声が出たが、眼前の二人の酔っぱらいは、それ
にも大喜びだった、
470
﹁ラティナちゃん。嫁に行きたくなったら、俺に言え。このバカ孫
婆の人脈だったら、本当に見つけてきそうじゃねえ
ボコれる良いの見つけてやっからな﹂
﹁やめろよ!
か!﹂
それでも、いつも通りに笑ってくれるから。
デイルは
ラティナは
笑顔を交わしあったのだった。
471
幼き少女、お別れの挨拶をする。
完成した革のコートは、以前のものとさほど変化は無い。いくつ
これ
かの要望を通して改良してもらいはしたが、デザインはほとんど同
じ物だ。半ば自分のトレードマークにもなっているコートを今更変
えるのも、なんだか気恥ずかしい。
弟の結婚式も無事に見届け、目的のものも完成した。
それはつまり、そろそろクロイツに帰る時が来たと言うことだっ
た。
そうなると急に慌ただしくなっていく。帰る準備が手早く進めら
れた。クロイツを出発した時には春の初めであったというのに、既
に季節は移りつつある。
﹃元の生活﹄もある。目的を果たした以上、ゆっくりと逗留して
いる訳にもいかないのだ。
﹁おせわになりました﹂
コルネリオの元で学ぶ最終日。ラティナはそう言ってぺこん。と
頭を下げた。
﹁いや。なかなか楽しかったよ。学ぶ意欲のあるものの姿はこちら
も襟を正す思いになるからね﹂
穏やかな顔のコルネリオは、ちいさな教え子を見た。デイルの言
う通り、とても賢く利発な少女だった。コルネリオが見るところ、
何事かを色々と秘めているようではあったが、自分の教えがその一
デイル
助になっていれば良いとも思う。
過酷な重荷を負った教え子の助けになってくれるならば、とも思
ってしまう。
472
デイル
この少女がコルネリオに望んだことは﹃彼を理解すること﹄だっ
た。﹁いつかデイル自身から聞きなさい﹂と、デイルの﹃能力﹄に
ついては語らなかったが、その代わりデイルのルーツである﹃ティ
スロウ﹄については、様々なことを教えた。
コルネリオが教えはじめて間もなく、この少女は、ティスロウが
領主と反目していることにまで、推測に至った。
流石のコルネリオも瞠目した。
﹁ラティナがりょーしゅさまだったらね⋮⋮ティスロウはすごく﹃
怖い﹄ところだと思うよ﹂
そう言った彼女に試しに幾つか尋ねれば、困った顔で答えを探し
た。正しい解答に至るとは限らなかったが、幼い少女の﹃視点﹄で
はない答えも多い。ひとの上に立つ者としての素養すら感じさせる。
それもこの少女の秘め事に関わることだろうか。
﹁⋮⋮でもね、ラティナ。戦うのとかしないでくれた方が良いなぁ
って思うの﹂
﹁戦いたくなくとも、攻められる時だってあるだろうね。その時、
蹂躙されるのを良しとするのかな﹂
﹁⋮⋮ラティナ、相手のひとも、ケガしたりするのイヤだな。⋮⋮
でもね。大切なひとは守りたいな。ぜんぶのひとはムリだけど、大
切なまわりのひとのことは、守れると良いなぁって思うの﹂
そう答えた後で、少女は自分の胸を押さえて言うのだった。
﹁ラティナのせいで、みんなをひどいことにあわせたりするのは、
絶対にイヤだから﹂
−−賢い彼女にしては、少し違和感のある返答だった。だが敢え
て問いただすこともしなかった。
かねてより感じていた、何かの一端に触れたような感覚を覚えた
からだ。その一言は、きっとこの優しい少女の負う﹃しがらみ﹄か
らでているのだろう。そう、推測出来たからであった。
﹁ラティナはね。デイルみたいに、やさしいおとなになりたいの﹂
﹁そうかい﹂
473
デイル
教え子がこの少女を慈しみ、溺愛している理由がわかる気がする。
外見だけでなく、性根も﹃美しい﹄少女だ。
﹃清らか﹄ではないだろう。完璧ではないだろう。だか不完全だか
らこそ、きっと彼女は周囲を強く惹き付けるのだ。
いつものように、ヴェン婆の部屋でちょこんと座っていたラティ
ナに向かい、ヴェン婆が言い出したのは突然だった。
﹁帰る前にラティナちゃんに土産でもやろうかね﹂
﹁なあに?﹂
ラティナは、そう答えてヴェン婆を見る。
すっかり見慣れた﹃いつもの﹄光景が、﹃いつもの﹄ものではな
くなってしまうまでは、後、ほんのわずかだ。
﹁嵩張るもんじゃねぇから、土産には丁度良いだろ。バカ孫呼んで
来い﹂
﹁ん?﹂
不思議そうに首を傾げて、ラティナは、とぺとぺとちいさな足音
をたててデイルを呼びに向かう。彼は帰りの旅の為に準備の最終確
婆。あんまりラティナを甘やかすなよ﹂
認をしているはずだった。
﹁なんだ?
﹁おめぇがそれ言うんか﹂
ほどなくしてヴェン婆の部屋を訪れたデイルは、そう言って眉を
しかめた。
そんなデイルを笑い飛ばしたヴェン婆は居住まいを正す。
いつもと様子の違う祖母の姿に、デイルも表情を改めた。
﹁ティスロウ当主として、﹃名﹄を授ける﹂
厳かなヴェン婆の言葉に、デイルとラティナが驚きで声を失う。
デイルだけではなく、ラティナもまた、ティスロウの﹃役割名を
与えられる﹄という意味を知っている。
﹁⋮⋮ティスロウはいつでも一族を受け入れる。これで、ラティナ
474
ここ
ここ
ちゃんは、いつでも﹃ティスロウ﹄に帰って来ることができっから
な﹂
﹁おばあちゃん?﹂
﹁俺が死んだ後も、バカ孫がいなくなっても、今﹃ティスロウ﹄に
いる奴等が皆代替わりしてもな。ここから別の処に移住したとして
も、﹃ティスロウ﹄は﹃一族﹄を何より大事にしとる。いつでも帰
って来て良い﹂
ヴェンデルガルドはそう言って、デイルがよくするように彼女の
頭を撫でた。
﹁本当なら﹃名﹄は、大人になった時に授けるもんだ。だがそん時、
そ
ん
俺がラティナちゃんの近くにいるとは限らねぇ。だからそれまで大
事にこんなかに持って置いて、意味は成人した時にデイルに聞けば
良い﹂
そう言ってトンと一度、ラティナの胸を指先で示す。
ティスロウの﹃役割名﹄を授けるのは、一族当主の役割だった。
そして名を授かることこそが、この一族にとっての﹃成人の儀﹄、
一人前になった証なのである。
現在のティスロウの中で、ヴェンデルガルドのみに認められてい
る権限だった。
ティスロウは、外部の者を﹃一族﹄として受け入れることを禁じ
てはいない。
繁栄を司る神の祭司の一族にして、多くの知識を有する彼らは、
血筋に固執し、狭い環境で代を重ねる事が及ぼす不利益を理解して
いる。淀み濃くなることの無いように、﹃一族﹄に新しい血脈を迎
えることも、一族繁栄の為には欠かせないことであるのだ。
フリーダのように婚姻によって迎えることが一番多いが、それだ
けとは限らない。唯一にして絶対とも言える最大の掟は﹃一族とし
ての矜持を持って生きること﹄だ。それを受け入れることができる
475
者を迎え入れること。更にはそれができる者を見極めることもまた、
﹃当主﹄に求められる能力だった。
名の意味を尋ねることを禁じたのは、別に秘匿するべき慣習があ
るわけではない。彼女の目指す道と心根から、﹃この名﹄を与える
ことに迷いは無いが、それを今伝えてしまえば、まだまだ多くの可
能性を持つ幼い少女の今後の生き方を縛ってしまいかねない。それ
はヴェンデルガルドの本意ではなかったからであった。
デイルに問うことを禁じるのも同じ理由だ。
孫が彼女の﹃名﹄に引きずられて、可能性を狭めないでいられる
確証は無いのだ。まだまだヴェンデルガルドから見れば、孫は青く
若い。
彼女が大人になった時に、﹃名﹄と違う生き方をしていても、そ
れはそれで良いだろう。一族の一員として役割を与えられ、認めら
れていることこそが必要なのだ。
少なくとも、﹃ティスロウ﹄は、自分の孫が懐に受け入れたこの
子を、護る存在にはなれるだろう。帰って良い場所にはなれるだろ
う。
生まれ故郷に帰ることが出来ずとも、新たな場所で、自分の居場
所を作れるということを肯定することは出来るだろう。
孫が望んでいても、当主ではない彼には与えることの出来なかっ
た﹃それ﹄を、祖母は彼女に与えるのだ。
重たい役割にもがき苦しみながらも、それでも一族の矜持を持っ
俺がもっと良い奴見つ
て生きている孫に、祖母としてしてやれる贈り物だった。
﹁バカ孫が嫌んなったらすぐに言え。な?
けてやっからな﹂
﹁デイルが、いちばん、だよ﹂
476
ラティナは涙声で、そう言って笑った。
・
・
﹁デイルのおかげで、ラティナ、おばあちゃんにも会えたんだよ。
デイルはいつも、ラティナの欲しいもの。たくさん、たくさんくれ
るんだよ﹂
涙ぐむラティナをよしよしと撫でながら、ヴェン婆は普段の様子
で朗らかに笑う。
﹁ラティナちゃんは大人になったら、きっと良い女になるからなぁ。
絶対だ﹂
いや、ラティナ。それは考え直せ﹂
﹁ラティナ、おばあちゃんみたいな、おばあちゃんになりたいな﹂
﹁え?
ラティナの言葉にデイルは本気で慌てた顔をする。全力で首を横
に振るデイルの姿にヴェン婆ははっきりと舌打ちし、ラティナはき
ょとんとした顔をした。
﹁さぁて、今日はご馳走だ。ラティナちゃんが﹃次に帰って来るま
で﹄暫しのお別れだからな﹂
﹁うん﹂
泣き顔ではなく、笑顔で夕食の席を囲み、こうしてティスロウで
過ごす最後の一日は過ぎていく。
かたちのあるものだけでは無い、たくさんの﹃土産﹄を抱えて、
二人はクロイツへの帰路につくのだった。
477
幼き少女、お別れの挨拶をする。︵後書き︶
故郷編これにて終了です。
いつもお読み頂き、誠にありがとうございます。
478
幼き少女、クロイツに帰る。
二人がクロイツに帰って来たのは、ティスロウの村を出てからほ
ブラオ
ぼ予定通り、初夏を過ぎ夏に変わった頃だった。
﹁ただいまっ﹂
ラティナは、馬の手綱をデイルに任せ、﹃踊る虎猫亭﹄が見えた
途端に駆け出す。満面の笑みで店の入り口をくぐった。
いつも通りの定位置で書類作業をしていたリタが、手を止めて顔
を上げる。驚きと喜びの混ざった笑顔になった。
﹁ラティナ﹂
﹁ただいま、リタっ﹂
﹁おかえりなさい﹂
そのリタの言葉に、ラティナは更に嬉しそうな顔になる。﹃満面
の笑み﹄には更に上の笑顔があるらしい。
﹁あのね、あのねっ、いっぱいおみやげあるのっ﹂
﹁それはとても楽しみね。ところでデイルは?﹂
﹁⋮⋮あれ?﹂
リタに聞かれて、少し冷静になったラティナが首を傾げて後ろを
ブラオ
振り返る。すぐ後ろにいたはずの彼はそこにはいない。
首を傾げた姿勢のまま、思案する。
﹁あれ?﹂
﹁俺がどうかしたのか?﹂
カウンターの向こう、厨房からデイルの声がした。馬を連れて店
内に入る事が出来ない為、彼は裏口へと回っていたのだった。
479
﹁っ!﹂
なんだか非常に慌てたような様子で、ラティナは厨房に駆け込む。
そこではケニスがいつものように仕込みの作業をしていた。デイル
と話していたケニスは、彼女に気付くと微笑みを向けた。
﹁帰って来たか、おかえり﹂
﹁ふあぁっ!﹂
ぴょこぴょこと二回跳び跳ねて、ちょっとがっかりした表情で彼
女は、
﹁ただいま、ケニス﹂
と言う。言われたケニスの方は首を捻るしかない。
﹁なんだ?﹂
﹁ラティナ、リタとケニスに、いちばんに、ただいま言おうと思っ
てたのに⋮⋮デイルに先取られちゃった⋮⋮﹂
﹁それはデイルの気が利かないな﹂
﹁悪いのは俺か﹂
﹁ラティナが﹃悪い﹄のか?﹂
﹁ラティナの楽しみを奪った俺に、全責任があるに決まっているだ
ろう﹂
﹁変わらないな﹂
相変わらずのデイルの様子にケニスは苦笑して、一区切りしたと
リボン
ころで作業の手を止める。
ずいぶん凝った意匠の飾り紐を結んでいる彼女の頭を﹃いつも﹄
のように撫でる。
﹁無事で何よりだ。おかえり、ラティナ﹂
繰り返された言葉に、ラティナは再び笑顔を取り戻した。
再び店内に戻ったラティナは、改めてリタを見て目を丸くする。
﹁リタのお腹おっきいっ﹂
カウンターの内側のいつもの場所に座っている状態からはわかり
難かったが、旅に出る前は、妊娠している事が外見からもようやく
480
わかるようになったという程度であったリタが、今でははっきりと
大きなお腹を抱えている。
﹁もう、赤ちゃん動いているの、お腹の外から触ってもわかるのよ﹂
﹁うわあぁっ、赤ちゃん⋮⋮っ、すごいねぇっ﹂
興奮気味の顔でリタのお腹をそっと撫で、その後に何かに気付い
﹂
たように真面目な表情でラティナはリタを見上げた。
﹁お腹こんなにおっきいなんて⋮⋮重たい?
﹁重たいわよ。腰とか背中とか痛くて大変﹂
﹁回復魔法かける?﹂
﹁⋮⋮ラティナが帰って来てくれたから、それも頼めるのねえ﹂
わざわざ腰痛程度で﹃回復魔法﹄をかけてくれる職業魔法使いは
いない。だが、この優しいちいさな少女相手なら、大人相手では頼
み難いことも気楽に頼めるという利点もある。
お手紙書けなかったこともいっぱいあったの﹂
﹁旅は楽しかった?﹂
﹁うん!
荷物も下ろさねぇといけね
そのまま土産話をはじめようとするラティナに向かい、デイルが
苦笑いを浮かべて声をかける。
﹁着替えて来たらどうだ、ラティナ?
ぇし﹂
﹁うんっ﹂
くるり。と反転して厨房に駆け込むラティナの姿に、大人たちは
穏やかな表情を交わし合う。
﹁ラティナ、元気ねぇ﹂
﹁興奮しているな。はじめての遠出だったしな﹂
﹁大きな怪我とか病気とかしないでくれて、ほっとしているよ﹂
デイルの報告にも、無事に帰って来れた安堵が滲む。
﹁リタもその様子じゃ、順調みたいだな﹂
おやじ
アクダル
﹁初めてだから、わからないことばっかりよ﹂
﹁義父さんに、今は﹃緑の神の伝言板﹄の業務は手伝ってもらって
481
いる。俺一人じゃ、厨房と同時に回すのは難しいしな﹂
リタの結婚を機に、彼女の両親は店を若夫婦に委ね、南区の住宅
アクダル
街で隠居生活を送っていた。だが﹃踊る虎猫亭﹄の業務の中でも、
﹃緑の神の伝言板﹄の操作に関しては、扱える人員が限られている。
﹃神殿﹄への許可を必要とする、ある種の免許が必要となるのだ。
臨時の従業員を雇えば良いという訳にはいかなかった。
そのため、他ならぬ娘と孫の為にと、先代、リタの父親が、せっ
せと通勤し補助をしていてくれているのだ。
﹁⋮⋮ケニス、大丈夫だったか?﹂
﹁俺はできる大人だから、大丈夫だ。だが、ここにラティナが居れ
ば良かったと何度かは思った﹂
あの愛らしい少女の、場を和ませる能力は、もう既に特技の域で
ある。
一人娘であるリタの婿として、先代に認められているケニスでは
あるが、だからといって全てに円満の関係とは言い切れない。不仲
ではない。それでも共に居れば反発することも起こる。
先代夫婦が隠居したのも、それが理由だ。
﹁そんなに父さん怖いかしら?﹂
・
・
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮俺には怖くねぇ、親父さんだったぞ。俺には﹂
冒険者連中相手の商売で、一歩も引かない性格の男だ。ケニスと
デイルが奇妙な表情を交わし合うのも、無理はない。
ぱたぱたという足音で、ラティナが戻って来た事が察せられる。
旅装を解き、普段着のワンピースに着替えたラティナがひょこんと
顔を覗かせた。
﹁デイル、お洗濯まとめてやるから、置いておいてね﹂
482
﹁おう﹂
すっかり、家事の大半をラティナがやるスタイルが確立していた。
旅に出る前からラティナは働き者だったが、この数ヶ月の故郷の滞
在中、ラティナはマクダの元で家事スキルを磨いたのだった。実家
という気安さから、家事から遠ざかったデイルとは真逆だ。その結
デイル
果、自然な流れで、家事の多数をラティナに依存しかけていること
には、保護者はまだ気付いていない。
﹁なんか⋮⋮ラティナ、ますますしっかりして来たわねえ﹂
リタが思わず、といった様子で呟いた。
ラティナは﹃虎猫亭﹄の卓の上に、荷物をせっせと広げ始めた。
客の少ない時間帯であることを知っているからこその行動だ。
﹁リタにおみやげっ﹂
そう言って袋の中から出して掲げたのは、片手で持つ事が出来る
程度の大きさの護符だった。複雑に編み込まれた紐によって形作ら
コルモゼイ
れ、素朴な風情を感じさせる。
﹁これは⋮⋮橙の神の護符か?﹂
コルモゼイ
﹁まあ。ありがとう、ラティナ﹂
﹃橙の神﹄は、豊穣を司る神。安産祈願や子孫繁栄の信仰を集める
神である。妊婦やその周囲の者が護符を求めるのはよくある行動と
なっていた。
﹁⋮⋮これ、お前が作ったのか?﹂
ぽつりとケニスがデイルに問いかければ、デイルは少し気恥ずか
しそうに視線を背けた。
﹁ラティナが、リタに護符贈りたいって言うし⋮⋮一応、俺、神官
位だからな⋮⋮﹂
﹁そうか﹂
デイルが自分の﹃加護﹄をあまり好意的に考えていないことを知
るケニスは、短く答えて穏やかな表情となっただけだった。
483
︱︱それは、二人がティスロウに到着して、滞在時間の半ばを過
ぎた頃。
﹁うん、リタはね。赤ちゃんお腹にいるんだよ﹂
ラティナがヴェン婆に向かい言ったのは、コルネリオ師父から借
りた本をヴェン婆の部屋で読みながら、クロイツでの暮らしを話し
コルモゼイ
ていた最中のことだった。
お守り?
ラティナ作れるの?﹂
﹁ほお。じゃあ、﹃橙の神﹄の護符でも作れば良い﹂
﹁ごふ?
﹁護符を作れるのは﹃加護持ち﹄、つまりは神官だけだな。だが、
まわりの飾りの部分はラティナちゃんが作りゃあ良い。中身はバカ
孫にやってもらえ﹂
﹁デイルに?﹂
﹁おう。あいつでも、そんぐらいの﹃神官らしい﹄ことは出来るだ
ろ﹂
普段のデイルの様子に﹃神官らしい﹄行動は欠片もない為に、ラ
ティナは首を傾げる。だが、ヴェン婆はカラカラと笑っただけだっ
た。
﹁婆がそんなこと言ったのか?﹂
﹁うん。ラティナ、リタにお守り作りたいな。デイルお願いしても
いい?﹂
夜更けて二人きりとなった室内でラティナはそう言って﹃お願い﹄
の顔をする。当人に自覚はなさそうだが、少し上目遣いの小首を傾
げた表情は、幼さの分を差し引いても破壊力抜群だ。
このまま成長すれば、この子は数多の男を泣かすに違いない。だ
じぶん
が、ラティナのそんな表情を余所の野郎などには見せる筈がない。
ラティナに﹃お願い﹄されるのは﹃保護者﹄の特権なのである。
﹁うーん⋮⋮材料は、まぁ、あるよな﹂
とりたてて珍しい材料を使う訳ではない。
484
コルモゼイ
﹃橙の神﹄に近しい存在、すなわち大地の実りの一部として考えら
れている植物を護符の制作には用いる。
とはいえ草花をそのまま使うのではなく、護符の材料は植物性の
繊維を草花で染めた物を使用するのだった。
街の神殿のような大きな場所では、複雑な紋様を織り込んだ豪華
な布を使用する。だがティスロウ流の護符は、もっと素朴な、紐を
編み込んで装飾を形作るものだった。
﹁⋮⋮俺が、﹃中身﹄、祈祷して作る護符の本体を作るから、ラテ
ィナはそれを入れる袋の部分を作ってくれるか?﹂
﹁うん!﹂
デイルが用意した材料は、驚くほど色とりどりの紐の束だった。
ラティナの前で、デイルはそれを数本抜き取ると、器用に編み上げ
ていく。
﹁デイル、すごいっ﹂
﹁⋮⋮ここじゃあ、子どもの頃から、結構手伝わされるからなぁ﹂
冠婚葬祭の際の飾り物の制作には、子どもたちも駆り出される。
そうやって代々受け継ぐ飾り物の作り方などを伝承しているのだ。
﹁ゆっくりやるから、よく見てろよ﹂
﹁うんっ﹂
かつて自分が親からそう教わったように、デイルはちいさな少女
の手を取って、模様を生み出す独特の紐の編みかたを教えていった
のだった。
ラティナが作った﹃護符﹄は、いくら彼女が器用な質とはいえ、
拙さが見て取れる。それでも通常神殿で授与される﹃護符﹄とは比
べ物にならないほどに﹃思い﹄が込められたものだ。
リタはそれを嬉しそうに胸に抱いて、微笑んだ。その笑顔には今
までにはなかった﹃母親﹄としての感情がのぞいている。
﹁本当にありがとう、ラティナ﹂
485
かお
そうして、めったに向けない笑顔をデイルにも向けた。
﹁デイルも、ありがとう﹂
リタのまっすぐな感謝の言葉を、受け流すことも茶化すこともで
きなかったデイルは、隣から見ていても、はっきりわかるほどに動
揺したのだった。
486
幼き少女、クロイツに帰る。︵後書き︶
お土産と、お土産に関するエピソードという形式で、帰りの旅の様
子などを語って参ります。
お付き合い頂ければ幸いと存じます。
487
幼き少女、モフられる。︵前書き︶
今月はしばらく週二回投稿となります。
488
幼き少女、モフられる。
干した物じゃなくて?﹂
﹁ケニスにはね、クヴァレでお魚と香辛料買ってきたの﹂
﹁魚って⋮⋮生の魚か?
ラティナが差し出した包みを確認したケニスが驚いた表情を見せ
る。新鮮そのものとは言えないが、傷んだ様子もない大きな魚が氷
の箱に閉じ込められていた。
﹁干したお魚ものこってるよ﹂
﹁いや、そうじゃなくって⋮⋮﹂
ラティナが不思議そうに別の包みを見せる。それには移動の間の
食事に使った干し魚の残りが包まれていた。
ラティナ水
﹁ラティナに聞かれたんだよ。﹃どうやって港からクロイツまで、
海産物を輸送しているのか﹄ってな﹂
そう答えたデイルの表情には、一種の諦めがある。
﹁お店で使っている﹃まどーぐ﹄といっしょだよね?
の魔法使えないけど、デイルにお願いしたらだいじょうぶだった!﹂
ケニスとリタのなんとも言えない表情に、デイルも微妙な顔で首
を振る。
﹁いや、俺一人じゃ絶対無理。普通の魔法使いじゃ出来ねぇ。ラテ
ィナ、俺が作った氷をクヴァレからクロイツまで、ずっと維持して
きたんだよ﹂
﹁デイルに何回も、氷作り直してもらったよ?﹂
こてん。と首を傾げて不思議そうにするラティナは、自分がどれ
だけ規格外のことをしているのか自覚していないようだった。相変
わらずこの少女の魔法における﹃制御技術﹄はずば抜けている。
489
・
・
﹁普通は維持の為の魔道具を使うもんだからなあ⋮⋮﹂
何事も一定の力を継続して行うということは、集中力と技量を必
要とする。この少女はそれすら片手間の行動であるらしい。
﹁クヴァレで食べたお料理も、すごくおいしかったけど。ケニスの
作るお魚料理も食べたいのっ﹂
﹁⋮⋮それなら、今日の夕食はこれを使うか﹂
言いたくなることは多々あるが、そんな事を言われては、﹃師匠﹄
としては気張るしかないだろう。
﹁後ね、イノシシのお肉もあるよ﹂
﹁猪?﹂
﹁⋮⋮猪?﹂
ラティナが引っ張り出した塩漬け肉と干し肉の包みに、リタは珍
しそうな表情を向け、ケニスは少々眉をひそめた。
クロイツの周辺には山が無いため、﹃森﹄などで大型の魔獣を見
これ﹂
ることがあっても、﹃普通の獣﹄の種類は限られている。
﹁デイル、猪なのか?
﹁あー、いわゆる﹃お化け猪﹄だよ。うちの田舎の方じゃよくいる
魔獣だ﹂
肉の塊の大きさから、不審そうな表情となっていたケニスは、デ
イルの返答に納得した表情となる。普通の﹃猪﹄のサイズからは少
々不自然な大きさだったのだ。
ミックス
﹁ヨーゼフの所でもらってきた﹂
﹁えーと⋮⋮獣人族の混血の、お前の親戚だったか?﹂
﹁ああ﹂
ケニスは現役時代、ティスロウを訪れる商隊の護衛をしていたこ
ともある。それが元でヴェン婆に見込まれ、駆け出しのデイルの面
倒を見ることとなったのだ。道中に獣人族の村があることもよく知
490
っている。
﹁ラティナね。マーヤちゃんと仲良しになったの。すごくかわいか
ったんだよっ﹂
﹁良かったわね﹂
﹁それでね、すごくもふもふだったのっ﹂
笑顔で報告するラティナに比べ、デイルの表情には少し微妙な影
がある。
﹁⋮⋮何かあったか?﹂
﹁いや⋮⋮ラティナが、楽しかったならいいんだ⋮⋮﹂
遠い目をして、デイルは獣人族の村での出来事を思い返した。
ティスロウの村を出てから、行きと同じ道筋を逆にたどり、二人
は再び獣人族の村を訪れていた。ラティナは村に向かう森の中の道
を行く最中から非常に上機嫌だ。
﹁マーヤちゃん、ラティナのこと、忘れちゃったりしてないかなぁ。
だいじょうぶかなぁ﹂
あんなにすぐ仲良くなった
かと思えば、立ち止まって不安そうにデイルを見上げる。
﹁ん、すぐに思い出してくれるだろ?
んだしな﹂
﹁そうかな﹂
リボン
ぴょっこん、と嬉しそうな動きに複雑に草花の意匠が縫いとられ
た飾り紐が揺れる。ヴェン婆からもらったそれは彼女の今一番の﹃
お気に入り﹄だ。
ティスロウ滞在中に季節は初夏へと移っている。緑の深い土地だ
けあって暑さを感じるほどではない。以前より濃い深い色の葉を繁
らせた木々の間を縫うようにして進む。やがて見えてきた素朴な風
情の村の姿に、ラティナは歓声を上げた。
491
﹁村だっ﹂
﹁走るなよ﹂
ラティナが走り出す寸前に釘を刺すことに成功して、二人はその
まま並んで獣人族の村へと入っていった。
﹁ヨーゼフ、悪いが今回も泊め⋮⋮﹂
﹁あてぃあーーーっ!!﹂
デイルの口上は途中までしか続かなかった。扉を開けて出迎えた
ヨーゼフとほんの一言二言、言葉を交わしている間に、黒い毛玉の
マーヤっ﹂
ヨーゼフ
弾丸が襲来したのである。
﹁っ!
慌てて手を伸ばした父親を嘲笑うように、そのふくよかな体型の
死角を狙ったように足元をくぐり抜ける。
ぴょーん。と、モフモフの毛玉︵夏毛仕様︶は、ラティナ目掛け
て飛びかかってきたのであった。
−−が、
﹁あっ⋮⋮ぶねぇっ!﹂
寸前でデイルが捕獲に成功していた。いくら幼児とはいえ、この
でっぷり
勢いで飛び付かれたりしたら、ラティナ共々倒れてしまうだろう。
そ
彼女の華奢な体格では、全力の幼児弾丸を受け止めきれない。父親
のようにはいかないのだ。
﹁あてぃあ、あてぃあっ!﹂
こ
デイルの腕の中でマーヤはじたばたと暴れる。どうやら彼の腕の
中は大層お気に召さないらしい。
﹁やあぁっ!﹂
﹁ぐぅっ!﹂
デイルの顎に暴れたマーヤの頭突きがクリーンヒットする。荒事
のプロであり日頃から鍛えているデイルでも、急所への強襲は、幼
児の一撃であってもそれなりに痛い。
﹁あてぃあーっ﹂
492
﹁マーヤちゃんっ﹂
ぷるぷるするデイルが、それでもなんとかマーヤを落とさずにラ
ティナに渡すことに成功する。はじめはさすがに心配そうな顔をデ
イルに向けていたラティナであったが、彼が微笑んでみせると、安
心したようにマーヤのフカフカの毛に顔を埋めて抱きしめた。
もちろんデイルの笑顔はやせ我慢である。無論回復魔法などを使
う痛みではないが、それでも地味に痛いものは痛いのだ。
﹁マーヤは本当に、嬢ちゃんをお気に入りだなあ⋮⋮﹂
ヨーゼフの声には、若干の哀愁が漂う。愛娘の﹃最愛﹄の座を奪
われた父親の悲哀が滲む声だった。
﹁あてぃあーっ⋮⋮﹂
幸せそうにラティナに抱きついていたマーヤが、急に何かに気付
いたように首を傾げる。
﹁あてぃあ?﹂
フスフスフスと彼女の小さな鼻が忙しなく動いた。ラティナのに
おいをしきりに嗅いでいるらしい。そのうちにだんだんとマーヤの
表情が険しくなっていく。
﹁マーヤちゃん?﹂
﹁なんだ?﹂
﹁お?﹂
獣人族の表情の変化を読み取れないデイルでさえ、マーヤの雰囲
気が険しいことに気が付いた。ヨーゼフは少し身を乗り出してフム
と、顎に手をやった。
﹁デイル。お前等、でっかい獣かなんかと出くわしたか?﹂
﹁は?﹂
ヨーゼフの言葉にデイルが聞き返したタイミングで、ラティナの
においを嗅いで結論に至ったらしいマーヤが不機嫌そうな声を上げ
た。
493
﹁やあーーーっ!﹂
﹁マーヤちゃん?﹂
驚くラティナに構うことなく、マーヤは全力でラティナに体を擦
りつけはじめた。
ぐりぐりぐりぐりぐりぐり−−と、それはそれは全力であった。
﹁ふぁあっ!?﹂
驚きつつ体勢を崩したラティナの上にのし掛かり、においつけ行
動としか思えないことをしているのだった。
もみくちゃにされたラティナは目を白黒させたまま、されるがま
おれたち
獣人族
まだった。どう対処して良いかわからなかったとも言える。
﹁⋮⋮えーと、なんだこれ?﹂
﹁だからお前等、でっかい獣かなんかと出くわしただろ?
はなんとなく﹃におい﹄っていうか、そういった気配みたいなもん
を嗅ぎ取れるんだよ。まあ、本当、なんとなくなんだけどな﹂
﹁へぇ⋮⋮で、それがどうしてこうなるんだ?﹂
﹁なんちゅうか⋮⋮あれだな。喩えるなら⋮⋮浮気がバレた時の嫁
さんがあんな顔になるっちゅうか⋮⋮﹂
﹁浮気したのか?﹂
﹁喩えだ、喩え﹂
デイルがかいつまんで、ラティナがティスロウでしでかした行為
−−ティスロウ中の犬を手なずけ、更には幻獣すらもその手に収め
た事実−−を聞くと、ヨーゼフは呆れ半分の顔で頷いた。
﹁それだな﹂
﹁それか﹂
つまりはマーヤは、自分以外の﹃何者か﹄のにおいが、親しげに
ラティナに付いていることが気に入らないらしい。それが自分より
も﹃弱い存在﹄とは限らないことすら本能的に察知して、なおのこ
494
とご機嫌斜めなのだ。
呆けたように座り込むラティナに抱きつくマーヤは、フスーフス
ー。と、少々鼻息荒く、どこかやり遂げた表情だった。
495
幼き少女、モフられる。︵後書き︶
496
幼き少女、モフられた。その後。
﹁や!﹂
はっきりそう言って、マーヤはぶんぶんと首を振る。
あてぃあ、いいの!﹂
﹁そんなこと言わず、こっちおいでマーヤ﹂
﹁やぁの!
﹁マーヤ⋮⋮﹂
ヨーゼフの三角耳は、もうなんとも言えない情けない形になって
いる。それに比べてマーヤの方は、なんと言うか臨戦態勢だ。
﹁あてぃあ、マーヤのっ!﹂
﹁ふぁぁああ⋮⋮﹂
そしてそんな父子に挟まれたまま、マーヤにがっちりと捕獲され
ているラティナは、未だ混乱の中にいた。
﹁ラティナ⋮⋮モテモテだなぁ⋮⋮﹂
デイルは遠い目で、そんな様子を眺めていた。若干現実逃避気味
である。ティスロウ滞在中に色々と学んだ。人間諦めることも肝心
だ。
﹁あんまり、罪作りなこと、するなよー⋮⋮﹂
現実逃避中だからこそ、出てくるコメントも、今一つ子ども相手
にはそぐわないものだ。だが、今のデイルは深く意味など考えてい
なかった。また言われたラティナも、考えることなど出来ていなか
った。
﹁あてぃあ、マーヤ、いっちょっ!﹂
﹁ふぁあ⋮⋮﹂
ラティナはおろおろと、所有権を声高く主張するマーヤと抱き合
うだけだったのである。
497
﹁あら、来てたのかね﹂
﹁ウーテさん。すみません、お世話になります﹂
﹁ウーテさ⋮⋮﹂
﹁あてぃあ、めっ!﹂
出かけていて、この騒ぎの最中留守だったヨーゼフの妻のウーテ
が、デイルとラティナの姿に、驚いた声を出す。デイルが挨拶する
のに合わせてお辞儀をしようとしたラティナは、マーヤにそのまま
ぺちょっと潰された。
みたいですよ﹂
今の状態では、どうやら他のひとに意識を向けるのすら、嫉妬の
対象となるらしい。
﹁マーヤはどうしたんだい?﹂
﹁ああー⋮⋮ラティナを独占したい?
﹁父親が甘いから、甘えん坊に育ってねえ﹂
マーヤのこの暴走具合を前にしても、ウーテは相変わらず動じな
いようだった。良くも悪くも懐が深い。
﹁⋮⋮ヨーゼフ﹂
﹁なんだ?﹂
ぐったり風味なしょんぼりとなったヨーゼフにデイルは声をかけ
る。二人の視線の先では、マーヤが大儀そうな様子でラティナに腹
毛をモフモフされているところだった。
﹁前回、あの後すぐ、泣き止んだのか?﹂
﹁いや⋮⋮﹂
ヨーゼフの視線が泳いだ。
﹁伝説が生まれた﹂
﹁⋮⋮それは、大変だったな﹂
敢えてどんな﹃伝説﹄なのかは聞かない。男二人はしばらく沈黙
した。
﹁今回は⋮⋮﹂
498
﹁マーヤが起きる前の早朝出発というのはどうだ﹂
その後
追い出したい訳ではないのだろうが、そう切り出したヨーゼフの
声には必死さが滲む。相当前回の大泣きは堪えたらしい。
﹁好物で腹一杯になれば、マーヤはおねむさんだからな!
が引き離すチャンスだ﹂
さりげなく赤ちゃん言葉混じりとなっている親戚の中年男相手に、
自分もいつか子どもが出来たらそうなってしまうのかなどと、頭の
親バカ
隅っこで考えるデイルは、自分も端から見れば大概であることは自
覚していない。
そんなどっちもどっちな二人の男の前では、うつぶせで撫でられ
ながら、ぱったぱったと尾を振るマーヤの姿があったのだった。
さすがに父親と言うべきか、ヨーゼフの言葉通り、お肉たっぷり
スープと、果物の砂糖煮クランブルのせを食したマーヤは、まぶた
をとろんとさせていた。好物という話を裏付けるようにラティナの
倍近い量を食べていた。少し張り合ったのか、お代わりを所望した
ラティナの皿にはまだたっぷりのデザートが残っている。
因みに今もラティナはマーヤの隣に座っている。これすらマーヤ
にとっては妥協であるらしく、彼女は元々ラティナの膝の上を要求
していたのだった。
ラティナの足が痺れて限界となった為、現状が認められたという
経緯が存在している。
男たちが目配せし合う。
ヨーゼフが体格に似合わず機敏に立ち上がると、マーヤをひょい
と抱き上げた。慣れた様子で揺り動かす。
﹁うにゅう⋮⋮うぅ⋮⋮﹂
もぞもぞとしていたマーヤであったが、自分のベストポジション
にたどり着いたらしく、父親の腕の中で落ち着くと、気持ち良さそ
499
うな寝息をたてはじめた。
同時にデイルはラティナを確保する。
﹁デイル、ご飯の途中に遊ぶのは、おぎょーぎ悪いんだよ﹂
おさなご
正論で叱られた。それでも名残惜しいように、ラティナの隣を陣
取り座り直す。マーヤ相手に、同等で張り合う気のあるところが駄
目っぽい。
﹁ラティナ、明日は朝早く出発するからな﹂
﹁そうなの?﹂
﹁ああ。天気が心配だから、早く森を抜けておきたいんだ﹂
全くの嘘ではない。ラティナも納得したのか、うん。と頷いた。
前回同様リビングの一角で毛布にくるまり就寝する。その際、デ
おさなご
イルが当たり前のようにラティナを抱きしめたままであったのは、
やはりマーヤにずっと独占されていた鬱憤であったのかもしれなか
った。
親バカ
やはりヨーゼフと大差はなかった。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
翌朝、男二人が敗北感でぐったりと項垂れていた。
すいよすいよと熟睡するラティナの毛布が、何故か不自然に膨ら
んでいた。捲ってみたところ、いつの間にか潜り込んでいたマーヤ
が、ラティナにがっちりと抱きついて眠っている姿があったのだっ
た。
幼児を出し抜くことに失敗した瞬間だった。
﹁朝ご飯用意するから、しっかり食べていきなよ﹂
ウーテの声が、そんな項垂れている背中にかけられるのであった。
−−そんな記憶を辿った後で、デイルは目の前の自分の﹃兄貴分﹄
500
を見た。
﹁ケニスも、赤ん坊の前では、赤ちゃん言葉使うようになるのか⋮
⋮﹂
﹁突然何だ﹂
﹁知っているか、ケニス。子どもってのは⋮⋮あれだな⋮⋮うん。
凄ぇぞ⋮⋮色々とな⋮⋮﹂
﹁本当に何がどうした﹂
マーヤの大爆発は前回以上のものであった。完璧にもらい泣きを
始めたラティナと爆弾のようなマーヤを男二人で必死に引き離し、
その場を離脱したのだった。森の向こうからこだまのようにかすか
に泣き声が届き、聞こえた時には、どうしようかと思った。
﹁子ども育てるのって、大変なんだと思ってさ⋮⋮﹂
﹁それは、脅しか﹂
﹁ラティナは、ほんとーーーっに、手の掛からない良い子だなぁっ
て、痛感した﹂
﹁まあ、ラティナを基準にしてはいかんだろ﹂
ケニスの評価から言っても、ラティナは良い子過ぎるほどの良い
子である。
ラティナの差し出した土産の肉の塊を受け取ったケニスは、それ
を片手に持ったまま彼女に尋ねた。
﹁ラティナ、これ、どうやって使う?﹂
﹁あのね、お塩いっぱい使っているの。保存用のお肉だから。その
ままだとしょっぱいから、お水に浸けてお塩ぬいてから使うんだよ﹂
ケニスのこの質問は、使用法がわからないからではない。一種の
抜き打ちテストだ。
﹁お野菜いっしょに入れて、スープとかにするんだって﹂
﹁そうか﹂
501
きちんと使用法も理解していることを確認すると、ケニスは少々
表情を緩めた。まずは及第点と言って良いだろう。更に自分で工夫
した結果の料理を作ることが出来れば合格点だ。
﹁道中の食事はちゃんと作れたのか?﹂
﹁うん。ケニスに教わったように、出来たよ。時々失敗しちゃった
けど⋮⋮﹂
﹁失敗か﹂
﹁うん。火の強さとかね、むずかしかったの。こがしたりしちゃっ
た﹂
ケニスとラティナが、師匠と弟子としての会話をする途中、一度
同時にデイルを見た。
だって、本当にラティナ、いつもちゃんとやってたぞ?﹂
﹁⋮⋮デイルはね。いつもみんなおいしいって食べてくれたの﹂
﹁え?
だから、本当に旨かったから﹂
﹁⋮⋮まあ、何も反応しないよりは、作り甲斐はあるがな⋮⋮﹂
﹁え?
そんなデイルを尻目に、料理の点では妥協することのない師弟は
同じように頷いた。
﹁今回のことで、ちゃんと課題は見えたか﹂
﹁うん。ラティナ、もっとがんばらないといけないって思った﹂
キリッ。とした表情で少女は師匠に今後の抱負を告げる。
﹁野営の度、毎回ラティナが飯作ってたんだぞ﹂
﹁頑張ったのねえ﹂
﹁それだけじゃ⋮⋮不服なのか⋮⋮﹂
﹁ラティナ⋮⋮変なところで、ケニスの影響大きいみたいね﹂
そんな会話をするデイルとリタのところとは、微妙以上の温度差
が生まれているのであった。
502
幼き少女、モフられた。その後。︵後書き︶
暴走幼児って何でこんなに書くの楽しいのか⋮⋮
いつもお読み頂き誠にありがとうございます。
活動報告などで、時折書籍情報など語っております。
503
幼き少女、不機嫌になる。
リボン
﹁そういえば、ずいぶん可愛い飾り紐ね﹂
リボン
﹁あのね、お守りなんだよ。旅の間、つけておきなさいって言われ
たの﹂
リタがラティナの髪に結ばれている飾り紐に目を留めて尋ねれば、
ラティナは嬉しそうに答えた。
﹁ティスロウのほうでね、出来た友だちにね。もらったものでね、
作ってもらったの﹂
﹁友だちも出来たのね。本当に楽しかったみたいね、良かったわね
ラティナ﹂
リタの笑顔とそれに答えるラティナの笑顔には屈託は無いが、デ
イルの表情は再び微妙なものとなる。ケニスはそれに気付くと何と
も言えない顔となった。
﹁⋮⋮ラティナ、何か仕出かしてきたのか﹂
﹁その前に、ウチの村の隣には幻獣の生息地が存在していた事実に
愕然とした﹂
﹁⋮⋮それは、なかなかな土産話だな﹂
﹁下手に手ぇ出したら、危ねぇからな。繁殖地どころじゃねぇ。群
れで定住していた﹂
﹁お前自身で確認してきたのか?﹂
﹁一応、見ては来た。場所も場所だから、欲を出した冒険者なんか
が乗り込んだりしたら、間違いなく骨の一本も残らねぇだろうな﹂
﹁お前でも無理か?﹂
﹁群れのリーダー格と話してきたが⋮⋮あんまりやり合いたくはな
かったな⋮⋮一体だけならやってやれなくはないかもしれねぇが、
なにせ数も多い。じり貧になるなぁ﹂
504
﹁そうか﹂
﹁その群れのリーダーに気に入られたらしい﹂
﹁誰がだ?﹂
﹁ラティナがだよ﹂
﹁そうか﹂
デイルの話の途中から、そういう結論に至る推測をしていたケニ
スの表情も、デイルと同じような微妙なものとなっていた。
しこたま怒られた後、同じことを繰り返す程ラティナは、物分か
りの悪い子どもではない。天翔狼のもとへ遊びに行きたいのならば、
ちゃんと保護者に許可を取り、山の中に勝手に一人で遊びに行くこ
ともしない。そういった約束を交わせば、彼女はきちんとそれを守
るのだった。
存在自体が﹃当主﹄の秘密ということもあり、ヴェン婆かデイル
の時間が取れる時のみに限られたが、ラティナはそれなりに天翔狼
との交流をあの後も楽しんでいたのだった。
﹁ラティナ、クロイツに帰るの。楽しかったよ。元気でね﹂
﹁プウ?﹂
帰る日程が決まった後で、その事を告げに行くと、仔狼は不思議
そうにラティナを見上げた。
﹁クローツ?﹂
﹁クロイツだよ。あっちの方にある、人間ぞくの街だよ。ひと、す
ごくいっぱいいる、大きな街なの。ラティナそこにすんでるんだよ﹂
太陽の位置を確認した後で、ラティナは腕を伸ばして北西を指し
た。途中に険しい山岳地帯があるが、確かに直線で結べばクロイツ
はそちらの方向にある。
505
﹁ひとの子は空を駆ける事が出来ぬから、不便よな﹂
天翔狼の長の心配の矛先はラティナに限られているらしい。まあ、
別に構わないが。
﹁あのように、毛皮も牙もなき、か弱き姿では、小さき獣にも害さ
れる事があろうな﹂
パフンパフン忙しなく尾を動かす巨体の肉食獣だが、何故だか、
最初に感じた威圧感はもう感じられない。
デイルはそんなことを考えながら、﹃長﹄と共に﹃子どもたち﹄
を眺めていた。
﹁此れをやろう﹂
﹁⋮⋮羽?﹂
﹃彼﹄はそう言って、自分の座する定位置に落ちていた数本の羽を
デイルに指し示した。
﹁我等の魔力を帯びた物を持てば、知恵なき獣でも、我等を恐れて
傍に来ることはないだろう﹂
﹁それはありがたいな⋮⋮感謝する﹂
ラティナを可愛がるという共通事項の元では、彼等は種族を越え
て異文化コミュニケーションを成立させる事ができるのだった。
デイルがそんな風に﹃羽﹄を貰った事をヴェン婆に告げれば、
﹁狩りの時は使えんが、旅や畑仕事用に獣避けの外套があるだろう
?﹂
﹁そういえば、あったなそんなの﹂
﹁あんなかにゃ、天翔狼の毛が織り込まれておる﹂
さらっと言われたとんでもない言葉に、思わず吹いた。
﹁な⋮⋮﹂
﹁今年はラティナちゃんが、ずいぶんたくさん集めてくれたからな
ぁ。しばらくは材料に困らんな﹂
そういえばラティナは、ブラッシング作業の後、抜けた山盛りの
毛を袋にせっせと詰めていた。祖母の指示であったらしい。
506
例年は換毛期に自然に抜け落ちた物を貰い受けて来るのだという。
魔獣の皮や牙、骨等は、魔力を帯びていることもあり、﹃素材﹄
としての価値が高い。魔道具の材料となる物も多いのだ。冒険者た
ちの手っ取り早い現金収入源でもある。
更に強力な存在である﹃幻獣﹄の素材であれば、価値は更にはね
あがる。
それを使用した﹃魔道具﹄を、畑仕事用の作業着に使う。街の冒
険者たちが血涙を流す話だろう。
﹁原料の入手法は公にできん。﹃外﹄用の売り物にはできんからな﹂
﹁⋮⋮確かにそうだな﹂
その後、ごそごそとヴェン婆は自分のそばの引き出しの中から細
長い布を引っ張り出した。
﹁試しに作らせた。できるだけ細い毛を選別してな、織り込んどる﹂
リボン
織りの一部は模様になっている。ティスロウでは伝統的な意匠で
ある植物の図案だ。そこに更に刺繍を施してある豪華な飾り紐だっ
た。
﹁帰りの間、着けさせれば良い。気休めにはなるだろうさ﹂
﹁⋮⋮値段を付けたら、とんでもないことになるな﹂
細い毛を使ったという為か、サテンのような艶々とした質感が生
まれていた。魔道具でなかったとしても、一目見ただけで高価な事
がわかる。
﹁街中では使わせない方が良いかもな⋮⋮﹂
﹁祭りの時なんかの﹃特別﹄にすりゃあ良い﹂
それ
呵呵と笑う祖母に呆れたような表情を返しながら、デイルはきら
きらと穏やかな輝きを保つ布を、少し高く掲げて光にかざした。
リボン
﹁ってことで、新作﹃魔道具﹄の飾り紐だ﹂
507
﹁とんでもない代物だな﹂
魔獣退治を生業にする冒険者には不要だが、行商人や旅人には欲
しがる者も多いだろう。
過信するのは禁物だろうが、安全性を高めてくれるならばどんな
ウ
チ
ものにでもすがりたいと思わせる程には、世間は危険で溢れている。
﹁装飾にも、ティスロウの本気が感じられる一品だ﹂
﹁俺は装飾品のことはわからんが、気合いの入った代物ってことは
わかるな﹂
﹁本当に綺麗な仕事ねえ﹂
﹁⋮⋮﹂
突然加わった女の声に、デイルは声を無くす。一度動きを止めて
からぎこちなく振り返った。
﹁⋮⋮ヘ、ヘルミネ⋮⋮?﹂
﹁久しぶりね、デイル。そろそろ帰って来る頃だと思って迎えに来
たのよ﹂
そこには、にっこりと笑顔を浮かべるブロンドの妙齢の美女の姿
があったのだった。
﹁だれ?﹂
デイルと親しげな様子に、ラティナが首を傾げてヘルミネを見る。
普段なら初対面のひとならば、すぐに挨拶に向かうラティナにし
ては珍しい。
そんな不躾なラティナの声にも、クスクスと笑うヘルミネは堪え
ていないようだった。
﹁この子が﹃ちいさな魔法使いさん﹄ね。話に聞いていた通り可愛
いらしいお嬢ちゃんね﹂
﹁ラティナ、ちいさくないもん﹂
プスっ。と、不機嫌そうに少し頬が膨らんだ。
﹁な、何でお前ここに⋮⋮﹂
﹁だから迎えに来たのよ。あなたが帰って来たら、王都に連れて来
508
るようにって言付けを届けに来て、そのまま待っていたの。次の﹃
仕事﹄は私も参加することになるから﹂
デイルは動揺のあまり、ラティナのその不作法を咎める余裕がな
かった。彼は本音を言えば、この美女が苦手なのである。
そんな相手が不意討ちで目の前に居るのだ。
動揺の一つや二つ、するだろう。
﹁⋮⋮相変わらずお前、ヘルミネ、苦手なんだな﹂
﹁に、苦手っていうか⋮⋮﹂
﹁あら、酷い。私のこと苦手なの?﹂
ケニスの声には呆れというより同情の響きがある。ヘルミネはそ
・
んなデイルやケニスの様子にも気を害した様子はない。
﹁昔はあんなに可愛いこと言ってくれたのに﹂
﹁⋮⋮だから、苦手にされるんだろう。本当にお前は、俺が駆け出
しの頃からも変わらんな﹂
﹁あなたは私のこと、相手にしてくれなかったじゃない﹂
呆れるケニスに向かいヘルミネが小首を傾げる仕草で答える。首
から肩ヘの華奢なラインが艶かしい。自分をどう見せるかに慣れた
仕草だった。
﹁俺の好みは、うちの嫁さんみたいな女だからな﹂
﹁はっきり言うのね﹂
クスクスと笑うヘルミネには、そこまで言われても不愉快そうな
表情はない。
リタがラティナを見てみれば、相変わらず彼女は、不機嫌そうに
頬を膨らませたままだった。
﹁⋮⋮まあ﹂
確かに、このヘルミネという女性は、同性の反発を覚えるタイプ
の女性だろう。
リタはビジネスライクに接することに徹しているため、そこまで
509
大きな不快感は覚えていない。
クヴァレ
﹁ラティナも女の子ですものねえ﹂
ラティナが港町で買い求めた土産の小物を手の上でくるりと回し
ながら、リタは小さく苦笑するのであった。
510
幼き少女、不機嫌になる。︵後書き︶
ヘルミネさん前出は29話となります。少しずつ﹃娘﹄も色々な意
味で成長しております。
511
青年、幼き少女の前で動揺する。
しばらく膨れっ面のまま沈黙していたラティナであったが、何事
かに気付いたらしい。椅子から降りると、デイルの傍にととと、と
また、長くかかるの?﹂
向かいぎゅっと抱き付いた。
﹁⋮⋮ラティナ?﹂
﹁デイル、お仕事?
その表情には、寂しさと哀しさが漂っている。この数ヵ月の旅の
間というのは、ラティナがデイルを独占できた最長の期間でもあっ
た。日中出掛けても、必ず夜には一緒の時間を過ごす。共に食事を
とり、話をし、時には体温を分け合って眠る。
それが﹃特別﹄だとわかっていた筈なのに、終わってしまうと思
うとあまりに切ない。
﹁⋮⋮ああ。ごめんな、また、留守番ばっかりさせちまうな﹂
﹁ううん。だいじょうぶ。ラティナ、お留守番ちゃんとする﹂
その言葉と行動は伴っていなかった。ラティナは、自分の顔を更
に強くデイルに押し付ける。そしてそのまま顔を上げることが出来
なくなってしまったようだった。
デイルの表情が揺れる。葛藤している。
﹁⋮⋮珍しい。耐えているわね﹂
﹁ヘルミネが居るからだろ﹂
リタとケニスの夫婦が小さな声で実況解説を入れる。
﹁ラティナ⋮⋮デイルのことちゃんと待ってる。⋮⋮でも、もうち
ょっとだけ、いっしょがいいな﹂
512
﹁⋮⋮っ!﹂
デイルの両手が、わきわきと怪しい動きをした。何とも言えない
微妙な表情になる。
﹁あら。甘えん坊さんなのね﹂
こんなに
その瀬戸際で踏みとどまっていたデイルの背中に、一撃を入れた
のはヘルミネの一言だった。
﹁いつも、留守番ばっかりさせてる俺が悪いんだよっ!
⋮⋮こんなに、頑張ってくれてるんだからなっ!﹂
﹁成程ね。甘えん坊さんなのは、あなたの方みたいね﹂
しょんぼりとするラティナを、がばっと抱き上げ抱き締める。そ
の間にヘルミネを威嚇するように言葉を投げ掛けた。
ころころと笑うヘルミネは、いかにも面白いものを見付けたとい
う表情だった。
このまち
﹁さすがに、長旅から戻ってすぐに出発しろとは言わないわ。私も
クロイツで用事があるもの﹂
そう言いながらヘルミネは踵を返し、にっこりと微笑んで、ひら
りと手を振った。
﹁じゃあ、また後でね。デイル﹂
ヘルミネが向かった先は、﹃踊る虎猫亭﹄の階段だった。二階に
は客室がある。ヘルミネはそこに滞在しているらしい。
﹁⋮⋮デイル、今のひと、お仕事でいっしょのひと?﹂
ヘルミネの姿が完全に二階に消えると、ラティナがちいさな声で
尋ねてきた。
﹁ああ。あれでヘルミネは魔法使いとしては一流だよ﹂
デイルはため息混じりに答えると、ラティナを床に下ろした。
﹁お仕事だけ?﹂
自分のことを大きな灰色の眸でじっと見て、更に尋ねてきたラテ
ィナの言葉に、デイルは少し視線を泳がせる。
513
﹁仕事だけ、の関係だよ﹂
嘘ではない。
何だか、尋問されている心境になるのは何故だろう。
﹁⋮⋮﹂
ラティナは少し何かを言いかけて、口をつぐんだ。何処か普段と
は異なるラティナの反応にデイルは更に動揺した。
﹁ラ⋮⋮ラティナ?﹂
﹁ラティナ、おとなになったら、おっきくなるもん。まだ子どもだ
からちいさいんだもん﹂
ぷすっ。と膨れているのをみれば、彼女の矜持は傷付いているら
しい。
この子は若干同い歳の子どもたちよりも小柄だ。種族的な理由で
はなく、個人差だと思われる。身長も体重も、しっかり健康的に成
長していた。問題にならない範囲だろう。
それでも周囲に﹁ちいさい﹂と言われることが多い分、彼女なり
に気にしているようだった。
デイルもその気持ちはわかる。
能力ではなく、若さを理由に侮られることに、憤りを覚えたこと
は少なくはないのだから。
﹁ラティナはちいさいままでも良いのに⋮⋮可愛いんだから﹂
﹁ラティナ、ちいさいまま困るよ。おっきくなりたいんだもんっ﹂
それでも、ラティナが気にしていることを理解していても、思わ
薄々勘づくものよ﹂
ず口に出してしまう。仕方ない。ちいさいことすら可愛いのだから。
﹁ラティナだって女の子よ?
﹁女の勘って奴は恐ろしいな⋮⋮﹂
デイルとラティナの様子を横目で見ながら、リタとケニスが言っ
たのはそんなことだった。デイルとヘルミネの﹃関係﹄が、﹃仕事
514
・
・
・
・
上﹄だけの関係であることは、二人もよく知っている。
−−そこに但し書きが付くことも、知っていた。
どうやらラティナの機嫌は回復していないらしい。
今日のラティナは、ケニスの手伝いはせず、久しぶりに帰ってき
た屋根裏部屋で荷ほどきと片付けをしている。黙々と作業に打ち込
んでいた。
デイルが口と手を出す間もなく、着々と進んでいるのは、この沈
黙の時間の成果だろう。
﹁⋮⋮ラ、ラティナ⋮⋮?﹂
﹁なあに﹂
﹁き⋮⋮機嫌、直して、くれるか⋮⋮?﹂
﹁べつに悪くないよ﹂
会話が止まった。
︵ラティナの⋮⋮機嫌がここまで悪いっての⋮⋮い、今までなかっ
たからな⋮⋮︶
たらり、冷や汗を感じながら独白するデイルは、いっそ、﹃機嫌
が悪い﹄と言い切って貰えた方が気が楽であったのにと、涙を飲ん
だ。
﹁デイル﹂
﹁はいっ?﹂
声が裏返った。ラティナはそんな動揺を隠さないデイルをピタリ
と見据える。
﹁ラティナ、怒ってないよ。だからね、デイル気にしなくて良いの﹂
﹁⋮⋮で、でも﹂
﹁気にしなくて良いの﹂
言い切られた。この少女は、もっと幼かった頃より、頑固なとこ
ろがある。こういう時のラティナは、恐らくこれ以上のことは話さ
ないだろう。
515
した
﹁⋮⋮俺、一階に居るからな⋮⋮﹂
﹁うん。片付けラティナがやっとく﹂
返事をしてくれたこと、という些細なことに喜びを噛みしめなが
ら、デイルはそそくさと戦略的撤退を選択する。
だから彼は、一人になった屋根裏で、ラティナが再び頬を膨らま
せた姿を見ることはなかった。
﹁ラティナ⋮⋮やっぱり、早くおとなになれたら良いのにな⋮⋮﹂
そう呟く彼女の不満の矛先は、﹃子ども﹄である自分自身なのだ
から、﹁気にしなくて良い﹂という言葉も本心からのものであるの
だった。
﹁ラティナに⋮⋮ラティナに邪険にされた⋮⋮﹂
すいしょく
店ではなく、厨房のテーブルでがっくりと項垂れるデイルの前に、
・
・
・
ケニスはコトリと湯気の立つカップを置く。深い水色の茶が静かに
揺れた。
・
・
・
﹁濃いめに入れてやったからな。酒は控えて、万が一に備えろ﹂
﹁⋮⋮そんなヘマはしねぇよ。あの頃とは、違うんだし﹂
ぶすっと膨れてみせるが、無論ラティナのような可愛らしさは、
いい歳の野郎には存在しない。
丁度仕事の手が空いているらしく、ケニスはそのままどっかりと
デイルの前に座った。
﹁もう未練は無いんだろう?﹂
﹁とっくに、んなもんねぇよ。ひとつ勉強したなってぐらいだ﹂
﹁だろうな。だから、まあ問題にはならないと、ヘルミネを泊めた。
ウチは宿屋だからな﹂
﹁それがそっちの商売なんだから、俺に気ぃつかう必要はねぇよ﹂
デイルはそう言って茶を啜り、苦さに顔をしかめた。
516
﹁⋮⋮まあ、お前の様子を見るに、ヘルミネのことより、それでラ
何で⋮⋮ラティナ、あんなにご機嫌ななめな
ティナの機嫌が悪くなったことの方が、重大事項みたいだからな﹂
﹁そうなんだよっ!
んだよ⋮⋮っ﹂
﹁そりゃあ⋮⋮﹂
言いかけて、ケニスはそれ以上を言うのを止めた。
・
・
﹃娘﹄が﹃父親﹄に再婚話などが出て、相手の﹃女性﹄に嫉妬する
というのはよくある話だが、どう見てもラティナのあれも、今まで
自分が独占していたデイルの、近くに現れた女性に対する警戒と嫉
妬のあらわれだろう。
だが、何故かそれに気付いていないデイルに、その事を指摘すれ
ば﹁そこまでラティナ⋮⋮俺のことが⋮⋮っ﹂とでも、感涙に咽び
ながら叫ぶことだろう。そのままラティナを抱きしめてべったべた
になるに違いない。
鬱陶しい。面倒くさい。
そして何だか腹立たしい。
その為、ケニスはポットの蓋を開け、みっちりと詰まった茶葉を
見るという意味のない行動で﹃茶を濁し﹄た。
﹁どおしたの?﹂
﹁⋮⋮ラティナっ!﹂
そんな二人の大人の姿に、階段を下りて来たラティナが首を傾げ
る。両手で抱えている荷物は、洗濯や掃除の必要な道具類だった。
どうやら、もうある程度の片付けは仕分けが済んだらしい。
﹁⋮⋮ラティナの方が﹃大人﹄だな⋮⋮﹂
思わずケニスが呟いたのは、仕事に打ち込むことで、気持ちの整
理も付けたらしい少女が、普段通りの表情に戻っていたからであっ
た。
517
青年、幼き少女の前で動揺する。︵後書き︶
ヘルミネさんとの昔話は⋮⋮書けたらそのうち書きますが、しばら
くは濁しておいてくださいまし。
518
幼き少女、久しぶりの友人たちと。
アスファル
数ヶ月ぶりの﹃黄の神﹄の学舎というものは、なんだか気恥ずか
しい。見慣れた場所である筈なのに、妙に落ち着かない気持ちにさ
せる。
せんせい
ラティナは学舎の前で、少し躊躇うように扉を見上げた。
アスファル
﹁おんなじ﹃黄の神﹄の学舎なのに、師父のところとは、やっぱり
全然ちがうの⋮⋮﹂
呟きながら改めて自覚するその事実に、ふむふむと納得する。世
の中には、自分の知らないことがたくさんあるのだと思うのだった。
そんなことを考えて、気恥ずかしい気持ちから目を背けようとし
ていたラティナの背中に、良く知る声がかけられた。
﹁ラティナっ!﹂
﹁クロエっ﹂
クロエ
喜色を浮かべて振り返るラティナの顔には、安堵がある。
親友を見た瞬間、胸の中に詰まっているようだった重たい気持ち
元気そうで良かった。お土産話いっぱいよろしくね
が溶けて消えるのを感じた。
﹁お帰りっ!
!﹂
﹁うんっ。ただいま、クロエっ﹂
だからこそ、クロエと並んで扉をくぐった時には、ラティナの表
情は数ヶ月の時間を感じさせない普段通りのものになっていたのだ
った。
﹁久しぶり、ラティナ﹂
﹁シルビアも元気そうで良かった﹂
﹁クロイツはいつも通りだったからね。変わりないよ﹂
519
教室に入って、久しぶりに会うもう一人の仲の良い友人の姿に、
ラティナの表情が更に明るくなる。
ラティナの反応にはお構い無しという様子で、シルビアはマイペ
ースに身を乗り出した。緑色の眸が内面の好奇心を示すように、き
らきらと輝いている。
﹁それより、旅の話聞かせて。クロエに聞いて大体ルートはわかっ
それに⋮⋮﹂
たんだけど。装備とか、食料とかはどのくらい揃えていったの?
やっぱり魔獣ってたくさん出た?
アクダル
﹁いっぺんには難しいよ﹂
﹃緑の神﹄の加護持ちであるシルビアの旅への憧れを知っているラ
ティナは、困ったような笑顔で応じた。
﹁はじめに﹃森﹄に行ったから、魔獣はたくさん見たよ﹂
﹁大丈夫だったの?﹂
﹁へえっ、どんな?﹂
全然大丈夫だった。ラティナ
ラティナの答えに、クロエは心配、シルビアは興味を返す。
﹁デイル、すごぉーく強かったよ!
も防御魔法覚えたから、お手伝いできたの﹂
﹁ラティナも戦ったの?﹂
あそこ
﹁ちょっとお手伝いしただけだよ。デイル、一人でも大丈夫だった
から﹂
﹁怖くなかった?﹂
﹁ラティナ、クロイツに来る前、﹃森﹄にいた時、すごく怖かった
の。でも、デイルといっしょだから、怖くなかったの﹂
ゆうじんたち
そんな風に、﹃保護者﹄のことを語るラティナの表情は信頼と愛
情に溢れている。
相変わらずのラティナの姿に、クロエとシルビアは苦笑に近い表
情を浮かべた。
﹁街道の近くでは、魔獣出なかったよ。山の中に入ったら、時々出
たけど。盗賊には一回だけ会った﹂
520
﹁大変じゃない!﹂
クロエの反応は正しいだろう。だがラティナは少し首を傾げると、
﹁デイルの魔法で全部捕まえて、近くの村に連絡しておしまい。魔
獣より怖くなかったよ﹂
そう、ひどくあっさりと答えた。
盗賊団の目的は彼らではなく、その後ろを移動していた商人の馬
車であったようだった。だが、ラティナの﹃能力﹄で潜む盗賊団の
存在に気付いた彼らは、そうなれば見て見ぬふりも出来ぬ−−ラテ
ィナの前で、人死にが出るような戦闘を起こさせる訳にはいかない
−−と、いうデイルの判断により、先手を打って捕縛に動いた。
とはいえあっさりとしたもので。
デイルの魔法により、足元の地面を崩落させて一網打尽であった。
﹁お前ら運が良かったなぁ⋮⋮﹂
サーガ
穴の上から、もがき、苦しみの声をあげる盗賊たちに冷たい視線
を送るデイルの姿は、物語だったならば、悪役そのものの表情だっ
ただろう。
ラティナの目があるため、血生臭い残酷な光景は避けたのである。
慈悲などでは決してなかった。万が一にでも報復の対象になっては
ならない為、ラティナにはフードを被らせ顔を隠し、盗賊たちから
は見えない位置に立たせている。
︵⋮⋮埋めたら、ラティナに怒られるだろうなぁ⋮⋮︶
一瞬面倒くさいからそんな考えも過ったのだったが、隣の少女の
目を気にして、口にはしないでおいたのだった。
﹁怖いこと、なんもなかったよ﹂
521
ラティナがそう首を傾げるのも仕方のない話で、派手な戦闘シー
ンというほどのものもなく、身に迫る危機感は魔獣相手の方が大き
い。
﹁あのね、二人にね、お土産なのっ﹂
そう言ってラティナは、手にしていた鞄の中から二つの包みを取
り出した。幾重にも薄紙に包まれ丁寧に梱包されたそれを、クロエ
とシルビアにそれぞれ渡す。
二人が紙を開けて中身を取り出せば、貝細工の小物入れが入って
いた。タイルの様に真珠層を貼り付けて作られ、きらきらと柔らか
な輝きを帯びるそれは、手の内に収まる大きさでありながら目を惹
く美しいつくりだった。
﹁きれいだね﹂
﹁ありがとう、ラティナ!﹂
﹁ラティナもね、自分に同じの買ったの。ちょっとだけ色違いなの﹂
クロエが持つものは、ほのかなクリーム色で、シルビアのは青み
を帯びている。ラティナが自分用に買い、部屋に飾ったのは淡いピ
ンクのものだった。
﹁クヴァレはね、いろんなものがあったよ﹂
にこりと笑い、ラティナは教師が来るまでの残り時間を、港町の
思い出話に費やすのだった。
クヴァレ
再び訪れた港町で、二人は宿を決めると、初日はゆっくりと休ん
だ。
﹁今回も少しクヴァレではゆっくりするぞ。でも、観光ってより、
ゆっくりする為だからな﹂
﹁うんっ﹂
元気な返事をしたラティナは、宿の一室で荷ほどきをし、リュッ
クの奥をごそごそと探っている。デイルが不思議そうにその姿を見
守っていたところ、彼女はしばらくして財布を取り出した。リュッ
522
クの内側の隠しの中にしまっていたらしい。
机の上にぱちんぱちんと、銀貨を並べて数えている。
今まで彼女は旅に必要なもの以外の買い物もしていなかった為、
所持金もあまり減っていないようだ。
ラーバンド国で、普段子どもたちがおやつや雑貨などを買うのに
握り締めているのは、数枚程度の銅貨だ。日常の生活に必要な額も、
銀貨の使用範囲でおさまる。
金貨を使う機会なんてものは、一般庶民にはまずない。冒険者た
ちは報酬や高額な魔道具の武器防具などの購入時などで、金貨を扱
う機会もあるのだが、普段財布に入れているのは銀貨と銅貨が主だ。
アズラク
一般の店舗で金貨を使おうものなら、釣りを出させるのにも嫌がら
れる。
高額な財産は﹃青の神の神殿﹄に預けた方が安全だ。よほどの田
舎でもない限り、全財産を金品で所有している者はまずいないのだ
った。
﹁⋮⋮結構、持ってるな﹂
﹃虎猫亭﹄で給金をもらっているというラティナは、この年齢の少
女としては金を持っている方だろう。
﹁あのね。クロエとシルビアにね、お土産買いたいの。リタにも。
クヴァレにはいっぱいきれいな物売ってたから、ラティナ、お土産
買いに行きたいのっ﹂
﹁わかった。明日、ゆっくり市場回ろうな﹂
﹁うんっ﹂
前回クヴァレに来た時、ラティナが購買意欲を示したのは食材の
みだった。少々不安に感じていたが、それは﹃行き﹄の行程であっ
たかららしい。ちゃんと年相応の少女らしい興味を持っていること
に、どこかほっとした。
彼女はキラキラしたものや可愛らしいものが好きだ。どういった
523
所に連れて行けば喜ぶだろうかと、デイルは脳裏に幾つか候補をあ
げるのだった。
翌朝、宿で食事を済ませると、二人はゆっくりと町の中に繰り出
して行った。前回同様人混みにはぐれてしまわないように、手をつ
ないでいる。今日のラティナは、旅の間は邪魔にならないようにし
っかり束ねていた髪を背中に流していた。少しいつもよりは、よそ
いきの姿に見える。
﹁今日の夕飯はまた﹃寡黙な鴎亭﹄にするか?﹂
﹁本当っ?﹂
﹁それとも色々食い歩きして、夕飯は軽く済ますか?﹂
﹁それも、楽しそう⋮⋮﹂
ラティナにとっては、かなり難易度の高い二者択一らしい。真面
目な顔でウンウン唸っていた。そんな仕草も愛らしく、隣でデイル
は表情を緩ませる。
悩む時間も旅の楽しさだろう。
デイルは結論を急がせることもなく、ラティナの手を引きながら、
ゆっくりと海に向かう道を歩いて行った。
524
幼き少女、薔薇色の姫君を見る。
結局ラティナは、買い食いという誘惑の前に敗北することとなっ
た。日中は控えめに我慢して、夜美味しいものを食べるという選択
は、あちこちから漂う様々な香りに気付いてしまった後では、拷問
に等しい辛さであったらしい。
今ラティナが、もぎゅもぎゅっ。と、一生懸命咀嚼する小粒の貝
の串焼きも、そのうちのひとつだった。元々行儀の良い彼女は、歩
きながら食べるということは出来ないらしく、道の隅で見た目より
しっかりした歯ごたえのそれと格闘している。
﹁ラティナ。残り、俺が食うよ﹂
﹁んんっ﹂
口の中の貝を噛んでいるため、ラティナは首を振る動きでデイル
に答える。彼女の胃の容量では、一串でかなり満腹になってしまう
だろう。それでは﹃食べ歩き﹄の楽しみは半減だ。
デイルが、自分が苦戦する貝を簡単に飲み込んでしまった様子に、
ラティナは未だに咀嚼し続けるまま、驚いた様子だった。
彼らが今回訪れた市場は、前回そぞろ歩いた海産物を扱う店々と
同じようでいて、少々趣は異なる。
クヴァレの町は旅人が多い。その中には観光目的の者も少なから
ずいるのだ。そのため観光客相手の商売というものも多い。クヴァ
レの名物である海鮮の屋台もそのひとつだろう。
﹁飲み物買って来るか?﹂
﹁ん﹂
こくん。と頷くラティナを連れて、すぐ近くの異国の果実を並べ
る屋台に行く。見慣れぬ実の果汁であったが、思っていたよりはさ
525
っぱりとした喉ごしだった。デイルは自分の分を飲みながら、ラテ
ィナにも同じものを渡す。彼女はごくんと喉を鳴らし、ようやく口
の中の貝を飲み込むことができたようだった。
﹁ぷはあっ﹂
ようやく息をつけた、という様子だが、思っていた以上に大きい
声が出てしまったようだ。ラティナはパッと口を押さえて恥ずかし
そうに、デイルを見上げる。
﹁固かったっ﹂
食ってみるか?﹂
﹁そうだな。貝は貝でも、あっちのワイン蒸しとかだと柔らかいぞ
?
﹁うん。おいしそうっ﹂
次に買い込んだニンニクの香りが漂う酒蒸しに、デイルはジュー
スではなく酒の購入を検討する。クロイツでは見ることがないが、
海の近くの土地では定番のつまみだ。
デイルが貝殻で身を摘まんで食べる姿に、ラティナは驚いた顔を
した後で、早速真似を始める。
﹁おいしいっ﹂
噛み締めた身から旨味が口の中に広がった。ニンニクの風味も強
くなりすぎずアクセントとして効いている。まだ熱い貝をはふはふ
と食べていく。
﹁しばらく土産物屋でも見て、また珍しいものがあったら食うか﹂
﹁うん。こういうごはんも楽しいね﹂
笑顔のラティナは、本当に食事をするということを楽しんでいる
ようだった。
観光客相手の土産物屋は屋台の通りの先にあった。
異国から集められた小物や雑貨の店。逆に異国の民や観光客相手
に置いているらしいラーバンド国産の雑貨などの店が並んでいる。
﹁この道の先には、ちょっと高級な宿なんかが並んでいるからな。
他国の商人とか、裕福な平民層が滞在してる﹂
526
﹁そうなの﹂
﹁貴族とかはめったにいないんだけど、まぁ下級貴族だといたりす
るかな。仕入れ以外にも土産や珍しい物が欲しいって客がいるって
ことだよ﹂
﹁市場のお店覗くのも楽しいけど、お店に並んでるの見るのも楽し
いっ﹂
浮き立つラティナが、勝手にあちこちに行ってしまったりしない
ように、デイルはしっかりと手を握る。
﹁こんな風に浮かれたひとも多いからな。掏りとかもよくいるんだ﹂
ぴしっと指を向けられて、ラティナは少ししまった。という表情
になった。
数軒の店を覗き、リタの土産として人形の置物を選んだ頃、表が
どこかざわめいた。その気配に、デイルとラティナは顔を見合せて
から店を出ると、人々のざわめく先へと向かう。
人々が注視する先には、華やかな装いの少女がいた。
護衛らしい人物と、女中を従えている姿からも、彼女がそれなり
の家の人物だということがわかる。
だが、高貴な身分の者とは思えないのは、店を覗きながら軽い足
取りで歩いているという、悪戯っぽい仕草のその行動だろう。
まだ﹃少女﹄という呼称を使うに適した、幼さを残した女性への
過渡期の姿の彼女は、清楚な印象の衣装でほっそりとした体躯を包
んでいた。ドレスと呼ぶには少々丈が短い。足元をしっかりとした
革のブーツで固めている様子からも、深窓の令嬢というイメージで
はない。
愛らしい顔立ちの彼女は、品物ひとつひとつに、くるくると表情
を変えている。人目を惹く少女だ。
﹁⋮⋮﹃薔薇姫﹄だ﹂
527
ぽつりとデイルが口にした言葉に、ラティナが首を傾げる。
﹁デイル、知ってるひと?﹂
・
・
・
﹁あ、いや。会ったことはねぇ。噂を聞いてただけだ。⋮⋮でも、
間違いないだろう、あの髪の色⋮⋮他にはねぇ﹂
周囲の人々の視線を集めていたのは、少女が美しいからだけでは
なかった。
光を含んで艶やかに輝く彼女の髪−−光当たる部分はペールピン
いろ
クに輝き、影を落とす部分は深いローズピンクの長いそれ−−は、
本来ひとが持つことの無い鮮やかな色彩だ。
﹁⋮⋮魔力形質?﹂
その言葉をあげたのは、小さな少女だった。
せんせい
﹁よく知ってるな⋮⋮コルネリオ師父に教わったのか?﹂
﹁うん。師父に教わった。ラティナ、生まれたとこでも﹃魔力形質﹄
出てるひといたよ。まじんぞくは﹃魔力形質﹄出やすいんだって﹂
﹁後、種族的には水鱗族も多いな。あの種族は皆、水の魔力を強く
持っているから﹂
・
﹁魔力が生まれつき強いひとは、鮮やかなキレイな色の髪とか目に
なるんだよね﹂
﹁⋮⋮ラティナの髪は違うのか?﹂
・
・
﹁ラティナ、魔力強くないよ。ラティナの髪はラグとおんなじ。い
でんだよ﹂
あっさりとラティナは答える。
強い魔力を持つ獣が﹃魔獣﹄という比べものにならない脅威と化
すように、﹃魔力﹄は多くの事象に影響を与える。
強い魔力を持って生まれた人族に、わかりやすい姿で表出するの
は﹃魔力形質﹄と呼ばれる鮮やかな色彩だった。
髪や眸に多く現れるが、時には肌の色にも影響を与える。
親から子、孫にと受け継がれる遺伝とは全く異なる色彩。それど
528
ころか、本来﹃人﹄という種が持つはずの無い鮮やかな色素の表れ。
それが﹃魔力形質﹄と呼ばれる現象なのだ。
デイルが例にあげた﹃水鱗族﹄は、水の魔力に特化した種族だ。
多くの者が鮮やかな青や碧の髪をしているという。
﹃魔人族﹄も魔力形質が表れやすい。
魔力が強い者全てが、鮮やかな色彩を持つ訳ではない。それはや
はり種族によって割合に大きな差があらわれる。﹃人間族﹄は、﹃
稀に表れる﹄程度だった。
﹁﹃薔薇姫﹄って言っても、地方領主のお姫さんだよ。階級的には
そんなに高くない家格だ﹂
﹁キレイな色だね﹂
ニーリー
﹁確か、眸にも魔力形質が出てるはずだ。藍色の⋮⋮持つ﹃加護﹄
の神を象徴する色⋮⋮彼女は高位の﹃藍の神﹄の神官なんだよ﹂
・
・
﹁⋮⋮デイル、詳しいね﹂
﹁友達の知り合いなんだよ。噂だけは色々聞かされていたからなぁ﹂
生真面目な性格の友人の姿を脳裏に浮かべる。よし、次に会った
時は、この話題でさんざん揶揄うことにしよう。と、胸の内で決定
した。
﹁それにしても⋮⋮ラティナ、自分の魔力量知ってるのか?﹂
﹁はっきりとはわかんない。でもね、ラグ、魔法上手だったの。で
もね、魔力はそんなに無いってよく言ってた。ラティナはラグとそ
ういうとこ、おんなじだよって教えてくれた﹂
確か﹃ラグ﹄というのは、ラティナの父親だったはずだ。彼女が
魔力の制御技術に秀でているのは父親譲りだったのだろうか。
︵それもそうかもしんねぇなぁ⋮⋮いくら賢いって言っても、俺と
会う前のあんなちっさかったラティナに、回復魔法と魔力制御の基
礎コントロール教えた術者だったら⋮⋮︶
529
おそらく優秀な人物であったのだろう。
﹁⋮⋮ラティナの故郷でも、魔力形質出てるひと居たのか?
な感じだったんだ?﹂
﹁⋮⋮紫の髪﹂
どん
デイルの何気ない問いに、ラティナは少し大人びたような静かな
表情でぽつりと答えた。
﹁すごく、すごくキレイな紫の髪だったよ﹂
どこか遠くを見るような、表情だった。
ニーリー
﹁﹃薔薇姫﹄の話なら、聞いたことあるよ。﹃藍の神﹄の強い加護
持ちで、普通の回復魔法じゃ効かない重傷でも治しちゃうんだって﹂
﹃薔薇姫﹄を見たという話題に食いついたのは、シルビアだった。
ラティナとクロエは﹁へえ﹂と頷く。
﹁いいなあ。やっぱり私も旅に出たいなあ⋮⋮﹂
帰って来てたのか?﹂
うっとりと呟くシルビアに、クロエとラティナが苦笑を交わしあ
う。
そんな時、
﹁ラッ、ラティナっ!?
すっとんきょうな大きな声が響いた。一同が顔を向ければ、そこ
には声の主が驚きと抑えきれない歓喜の表情で立っている。
﹁久しぶり、ルディ﹂
せんせい
﹁ああ。ラティナ、いつ帰って⋮⋮﹂
﹁神官来たから、後でね﹂
ラティナも笑顔だったが、二人のテンションには大きすぎるほど
の隔たりがある。
更にさらっと付け加えられた一言に、ルディは硬直し、周囲はこ
やはり、彼は、色々と要領が悪いのだった。
ルディ
らえきれずに吹き出した。
530
幼き少女、薔薇色の姫君を見る。︵後書き︶
たぶんその頃グレゴールが悪寒を感じていたとか。
本日書籍版発売日です。皆さまのお蔭でこの日を迎えることが出来
ました。本当にいつもありがとうございます。
とはいえこれからもまったりマイペースに進んで参ります。今後も
どうぞ宜しくお願い致します。
531
閑話、限定SS的おまけの話。︵前書き︶
書籍版、店舗限定特典SSなるもののあらすじ
∼﹃娘﹄がお菓子を作った。﹃保護者﹄はいつも通りだった。∼
そんなエピソードの閑話となります。時間軸は﹃ちいさな娘﹄時代
です。
532
閑話、限定SS的おまけの話。
−−これはラティナがまだ﹃踊る虎猫亭﹄に来た年の事。仕事で
留守がちのデイルの為に、菓子を作った時の話。
ラティナがケニスに教わって作った、ドライフルーツをふんだん
に入れた焼き菓子は、甘味はあるが、どちらかと言えば保存食に分
類されるものになる。バターと卵をたっぷり使った柔らかなケーキ
は、味は良くとも旅先で食するにはあまりにも日持ちがしない為だ
った。
﹁嬢ちゃんが作ったのか﹂
﹁うん。デイルのぶん、つくるまえに、れんしゅーしたぶんなの﹂
今日も﹃虎猫亭﹄で雑談に耽る常連連中。そのなかでも髭面が厳
めしい初老の男は、その凶悪な外見に反してラティナに優しい。
ラティナが彼に早々になついたからこそ、向こうも甘くなったの
かもしれないが、とにかく﹁ジルさん﹂と名前で呼ぶ程度には、彼
女は彼に打ち解けていたのだった。
﹁さーびすなの。ジルさん、どうぞーっ﹂
お茶のカップと一緒に差し出すラティナに、ジルヴェスターと言
う名前だけで、駆け出しの冒険者連中を縮み上がらせる彼は、目尻
を下げる。
ラティナの歳の頃の孫がいてもおかしくない彼ではあるが、いた
としてもこれ程愛らしい幼子であったかどうかは別の話だ。
練習作という為か、少々形が不揃いな茶色の菓子は、固い食感で
はあるが、味は悪くはない。
533
ボリボリと咀嚼音をさせながら、ジルヴェスターは二つ目を手に
みせ
取った。
プレミアつき
ファン
﹁﹃虎猫亭﹄で売りゃあ、嬢ちゃんの小遣い稼ぎになるんじゃねえ
のか﹂
味も品質も悪くない上に﹃ラティナ作﹄だ。看板娘の固定客が付
きつつあるこの店では、よく売れることだろう。
﹁?﹂
だが、ラティナはジルヴェスターの言葉に不思議そうに首を傾げ
る。
﹁ラティナのより、ケニスつくったほうのが、おいしいよ﹂
﹁ケニスのじゃ、あんまり売れんだろうな﹂
たっぷりとドライフルーツを入れているだけあって、値段を付け
れば、通常の保存食より割高となるだろう。それならば味より安さ
で選択する者の方が多い筈だ。
﹁なんで?﹂
﹁嬢ちゃんが頑張って作ったからだろうな﹂
﹁んー?﹂
どうやら納得していないようだ。この真面目な幼子は、品質以外
で査定されること、プレミア加算は理解の範疇外らしい。
﹁しいれのおみせのひと、もってきてくれてる、しょくりょーのほ
うが、きっといっぱいうれるよ?﹂
﹁そうじゃねえんだがなあ﹂
困ったように笑いながら、更にジルヴェスターは皿の上の菓子に
手を伸ばした。残してこの少女をがっかりさせることも、チラチラ
とラティナに物言いたげにしている他の客どもに分けてやるつもり
もない。
デイル
﹃ジルさん﹄と名前で呼ばれる程度には、自分はこの少女の﹃特別﹄
な客なのだと、自負する彼は、﹃保護者﹄がこの子に骨抜きにされ
たことの理解者でもあるのだった。
534
﹁かったいなーっ、ラティナ、失敗したんじゃないのか?﹂
﹁ちがうもん。ながもちのために、かたくしてるんだもん﹂
いつもの友人たちと遊ぶ際にも、ラティナは練習作の残りを持参
・
・
した。一口かじり、ルディはそう言って顔をしかめる。
﹁堅焼きパンよりはやわらかいね。きじもちゃんとできてると思う
よ﹂
パン屋の息子だけあって、マルセルの批評はどこか専門的だ。ラ
ティナも真面目な顔でフムフムと頷く。
﹁甘みを入れると、こげやすくなっちゃうんだよね。でも、これく
らいなら、大丈夫だよ﹂
﹁よかった﹂
にこっ。と、マルセルの評価にラティナは笑顔となる。単純に褒
められるよりも、批評の方を喜ぶあたり、この子の業は深い。
配っても良い?﹂
﹁ちょっとアゴ疲れるけど、けっこうおいしいね﹂
﹁ラティナ、お茶持ってきてたよね?
﹁うん﹂
クロエも好評価を出し、アントニーは菓子が水分控えめに作られ
ている様子に気付き、ラティナが菓子と共に持参した水筒からお茶
を注ぐ。
その間ずっと、ルディは無言であった。
アントニーと共にお茶を配り、ごくんと美味しそうな顔でそれを
ラティナ、まだいっこだけなのに!﹂
飲み干したラティナは、菓子を入れて来たカゴをのぞいて驚きの声
を上げる。
﹁ふぁっ!
みんなで食べるために少なくない量を持って来た焼き菓子が、も
うカゴの中に残っていないのだった。
﹁ルディっ!?﹂
535
﹁ん?
よ﹂
ちゃんとできたもん!﹂
ラティナの失敗作、もったいないから、食ってやったんだ
﹁しっぱいしてないもん!
﹁次はもっとふわふわしたケーキが良いよな﹂
﹁ラティナ、ルディのためにつくるのとちがうもん。デイルにだも
ん!﹂
﹁チョコのが良い。チョコの﹂
ぷすっ。と膨れたラティナを意に介さず、ルディはマイペースに
リクエストを出す。
マルセルはしっかりと自分の分を確保していたらしい。ボリボリ
と焼き菓子を食しながら苦笑いを浮かべた。
﹁ルディは相変わらずだねえ﹂
﹁ほんと、バカだよね﹂
クロエも固い音をたてて焼き菓子を噛み砕く。
音だけを聞くとあまり美味しそうではないが、ルディの言うよう
な﹃失敗作﹄では決してない。そしてそれが本心なら全部を独り占
めにする勢いで食べ尽くしたりはしないだろう。
﹁⋮⋮ルディなら、ラティナが本当に失敗しちゃった奴でも、同じ
ように食べちゃうかもしれないよね﹂
ポツリとアントニーが呟いた言葉を否定する言葉が見つからなく
て、彼ら三人は同時に呆れたため息をついたのだった。
536
閑話、限定SS的おまけの話。︵後書き︶
特典を手に入れた方はニヤリとして頂き、手に入れてない方は﹁こ
んな話だったのかー﹂程度に受け止めて頂けたらな、と存じます。
当方、本屋行脚し、挙動不審化致しました。
537
師匠、幼き少女の話に困惑する。
昔からラティナの相談相手はケニスだった。
あれだけ﹁大好き﹂を公言しているデイルでも、同性のリタでも
なく、ケニスなのだった。
理由も一応推測できる。
デイルはラティナにとって﹃特別﹄大好きな存在だ。同時に彼女
はデイルに嫌われることを恐れていた。困らせることで嫌いになら
れることを不安に思っていた。
その為、ワガママや相談などでデイルの手を煩わせ、彼を﹃困ら
せてはいけない﹄という意識があったらしい。
最近は、年単位でたっぷりすぎる愛情を注がれて、以前ほどはデ
イル相手に気負ってはいない。﹃子どもらしくない﹄気のつかいか
たをしなくなっていた。それだけこの少女が気を許してくれたのだ
と思えば、悪戯や失敗のひとつひとつがいとおしく思える。
リタはいつも﹃踊る虎猫亭﹄のカウンターで客の応対と書類仕事
に追われている。
ラティナは基本的にとても真面目だ。仕事中のリタの邪魔はして
はいけないと思っているようだった。
ラティナは﹃虎猫亭﹄に来た当初から、ケニスの側で過ごす時間
がとても長かった。彼女が料理に興味を持ち、ケニスの手伝いをし
ながら﹃修行﹄に励んでいることも大きな理由だろう。
そんな頼れる﹃師匠﹄であり、元々面倒見の良い性格で、包容力
のあるケニスをラティナが頼るのは、自然なことであったのだとも
言えた。
538
だが、今ケニスは非常に困惑していた。
このちいさな少女が、未だ多くの隠し事を胸のうちに秘めている
ことは気付いていたが、その秘密のひとつ。今まで一言も話そうと
しなかった、彼女の﹃母親﹄の話が原因だった。
︵⋮⋮俺に、一体、どうしろと⋮⋮︶
しょんぼりと下を向いているラティナの前で、ケニスは半分だけ
皮を剥いた芋を手の内で弄んでいた。
ヘルミネはまだクロイツに滞在している。
デイルも帰還の連絡をエルディシュッテット公爵の元へ送ったが、
ヘルミネの言葉通り近々﹃魔族﹄討伐の作戦が行われるという。王
都に来るのは﹃仕事﹄のその時で構わないとの返信を貰っていた。
周辺の小国がなにやらキナ臭いことになっているらしく、ラーバ
ンド国摂政である公爵は、今、大変多忙であるらしい。
そのあたりは、﹃魔王・魔族﹄対応専門であるデイルにとっては
管轄外だ。
友人であるグレゴールは、父や兄の護衛任務に就いたりし、忙し
くしていると、公爵の書簡と共に送られて来た私信に書かれていた。
用事があるというのも本当らしく、ヘルミネはあちこちで旧知の
者と会っているらしい。何かと派手な女であるし、﹃虎猫亭﹄の特
性上噂が集まりやすい。
ヘルミネの動向は探るつもりなどなくとも、それなりに耳に入る
のだった。
そして相変わらずラティナは不機嫌だった。
今回のことで皆認識したのだが、ラティナはあまり感情を隠すこ
539
とが出来ないようだった。今まで基本的に他者に好意的な感情を向
け、にこにこしている少女であったから、そんな意識をしたことが
なかった。
笑顔が標準であったラティナが不機嫌そうな顔、もっと単純に言
えば﹃ヘルミネが苦手﹄という顔をしている。
わかりやすすぎる為に、当人であるヘルミネだけではなく、店に
出入りする客連中にもすぐさまその事実は拡がった。
−−これは余談だが、ラティナとデイルの帰宅当日は、客足が今
一つの﹃踊る虎猫亭﹄であったが、その翌日は尋常でない賑わいと
なった。
﹃看板娘帰還﹄のニュースは、常連の一人であるクロイツ南門の門
番より拡がり、どのような情報網であるのか、常連客たちに共有さ
れていたのであった。
そして彼等は事前に申し合わせていたらしく、帰宅当日は旅の疲
ラティナのファン
れもあるだろうと、店に行くのは控えていたらしい。だからこその
翌日の大盛況であった。
クラブ
﹃踊る虎猫亭﹄常連客及び、クロイツの冒険者たちの間に非営利組
デイルやケニス
織が設立されているという噂も、あながちデマでは無さそうだと、
保護者連中を呆れさせた。
そんなラティナの不機嫌さと、面白そうにしているヘルミネの間
で、デイルが時折胃のあたりを押さえていることにも、誰も突っ込
みを入れなくなった頃だった。
ラティナはヘルミネに﹃ちいさな子ども﹄扱いされることを、こ
とのほか嫌がる。
元々ラティナは小柄なことを気にしていることもあり、﹃ちいさ
い﹄という言葉に敏感だ。デイルやケニスに﹃ちいさい﹄と言われ
ても、別に彼女は不快感を示さない。その言葉が愛情から出ている
540
ことも感じとっているからだ。だが、誰からの言葉も許容できるわ
けではないらしい。
ヘルミネは﹃駄目な相手﹄だ。
その時も﹁すぐに、大きくなるもん﹂とヘルミネの前で、頬を膨
らませたラティナだったのだが、厨房に入り、自分の定位置に座る
と、沈んだ顔で下を向いた。
その何処か思い詰めたような様子に、ケニスは野菜の入った桶を
どん、と置きながら彼女の隣に座る。
静かに、問いかけもせずに作業を始め、ラティナが話そうとする
までただ隣で待つ。
﹁ケニス⋮⋮﹂
﹁どうした?﹂
﹁ラティナ、おとなになったら、おっきくなれるかなぁ⋮⋮﹂
ちゃんと大きくなってい
﹁ラティナは確かに友だちよりもちいさいがな、ここに来た時から
比べたら背だってかなり伸びただろう?
るぞ﹂
﹁うん⋮⋮﹂
それでも表情は明るくならない。ラティナは自分の胸に手を当て
ると、深くため息をついた。
・
・
﹁ラティナ、おとなになっても、おっきくならないかもしれない⋮
⋮ラグ、ラティナはモヴに似てるってよく言ってたから⋮⋮﹂
﹁﹃モヴ﹄?﹂
﹁うん。⋮⋮モヴ、ちいさいから。⋮⋮ラティナもちいさいまんま
なのかもしれない⋮⋮﹂
・
初めて聞く単語だった。ケニスは当たりを付けて聞き返す。
﹁モヴって誰だ、ラティナ?﹂
﹁⋮⋮ラティナの、女の親⋮⋮おかーさんだよ﹂
541
彼女の答えは、自分の母親だと言うものだった。ラティナが、何
故か自分の母親の話をしないことには、ケニスも気付いていた。唐
突なその話題に驚いたが、彼の手元は慣れたナイフ捌きのそのまま
で、動揺を悟られることはない。
﹁ラティナの母親は、どんなひとだったんだ?﹂
﹁モヴちいさいの。ラティナのね、髪と角の色はラグとおんなじだ
けど、角のかたちとか顔とかはね、モヴに似てるって言われてた﹂
ぽつぽつと答えた後で、ラティナは再びため息をついた。
﹁モヴ、おとななのに、ちいさかったの。お客さんが言ってたよ。
大きい方が良いって。デイルもおっきい方が良いって言うのかな⋮
⋮﹂
﹁⋮⋮ん?﹂
何か変だ、とケニスは気付いた。自分の認識には何か齟齬がある
気がする。
・
芋を半分剥いたところで手を止めて、ラティナを観察する。
彼女は下を向いて、落ち込んだ顔をしている。−−両手を胸に当
てて。
﹁⋮⋮ラティナ?﹂
﹁なあに?﹂
﹁お前の母親が小さかったって⋮⋮何のことだ?﹂
﹁⋮⋮お胸﹂
初めて聞かされた、ラティナの実母の情報が、貧乳。
リタ
あまりにあまりな情報に、流石のケニスも混乱する。
せめてこういう話は、同性相手にするのではないだろうか。
﹁⋮⋮リタに、相談してみたら、どうだ?﹂
ケニスが思いついたまま、そう口にすれば、ラティナは何故だか
542
青くなった。
﹁リタ、おっきくないよ﹂
まあ、確かに、自分の嫁はスレンダー美人だ。決して無いわけで
は無い。無いわけでは無いのだ。
﹁おっきくないひとに、聞いたらダメなんだよ。昔、ラティナ、モ
ヴに﹃なんで?﹄って聞いたら、ほっぺた取られちゃうところだっ
たんだよっ﹂
おしおき
どうやら幼き頃のラティナは、実母にストレートな問いをぶつけ
・
・
・
て、折檻されたらしい。よほどに恐ろしかったのか、彼女は両手で
自分の頬を押さえてぷるぷる震えている。
﹁そうか⋮⋮﹂
そういえばヘルミネは、そのあたりは非常に女性らしいラインの
持ち主だ。きっとわかりあえない何かがあるのかもしれない。
﹁牛乳でも⋮⋮飲むか?﹂
﹁おっきくなれる?﹂
﹁俗信だがな⋮⋮﹂
デイル
気休め程度にはなるだろう。
バカ
そしてこの情報は、﹃保護者﹄と共有するべきなのだろうか。そ
して﹁でかい方が良い﹂などと、ラティナに吹き込んだ客はどいつ
だ。
ケニスは芋の皮の続きを剥きながら、答えのでない問いの回答を
探すのだった。
543
師匠、幼き少女の話に困惑する。︵後書き︶
しんみりなんて気のせいなコメディ回でした。
普段の﹁おっきくなるもん﹂は、体格の話。
今回の﹁おっきくならないかもしれない﹂の心配の矛先は、局所的
な話。
ということで宜しくお願い致します。﹃未来﹄が確定した訳ではあ
りませんので悪しからず。
544
赤毛の少年、幼き少女と。
﹁そういえば。何でルディは、ラティナの﹃角﹄持ってるの?﹂
ラティナのいきなりすぎるその言葉に、ルディこと、ルドルフ・
シュミットはランチを口から吹き出した。
﹁ルディ⋮⋮きたない⋮⋮﹂
ラティナが眉をひそめるのを気にする余裕もなく、他の友人たち
を見回す。まず疑ったクロエも驚いた顔をしていた。次点のシルビ
アも﹁面白そうなことになった﹂という顔になっている。
アントニーも驚いているし、元々こいつはそういった点では自分
を裏切らない。そこは長年の友人として信頼している。マルセルは
にこにこと笑っている。まあ、これもいつも通りの表情だろう。
﹁な、な、な⋮⋮﹂
その結果、ルディは髪に負けないほどに顔を赤くして、意味の成
さない声をあげたのだった。
アスファル
クロイツの黄の神の学舎は、最低限の教育を担うという観点から、
それほど難しい学問を長期に行っている訳ではない。
基本的な読み書きと、算術。ラーバンド国の歴史と周辺諸国を含
めた地理程度がカリキュラムの全てだ。
家によっては子どもも大きな労働力だ。学問のために長期に拘束
されることを喜ばない家も存在する。その為、余裕のある家や更に
学問をしたい者は、基礎学舎卒業後、高等学舎に進むという選択を
するのだった。
一日の拘束時間もそれほどではなく、朝、学舎に行くと昼過ぎに
は帰宅となる。家に帰宅してから昼食をとる子どもたちも多いが、
ルディの友人たちは集まって皆で食事をすることが基本的だ。
545
というか、ルディがそうするように、友人たちを誘導したのだっ
た。
露骨なアピールとも言う。
ラティナは、調理の練習のために、自分で自分の昼食を用意して
いるのだった。
﹃虎猫亭﹄でケニスの手伝いという形で腕を磨く彼女だが、忙しい
調理場で最初から最後まで彼女一人に調理をさせる時間はなかなか
取れない。
その為に朝の仕込みを終えた後、片隅を借りて、ラティナは自分
の昼食作りという形で、日々せっせと精進しているのだ。
作ったからには、他人の評価も気になる。
ランチ
そこで自然な流れで、ラティナは親友であるクロエやシルビアに
自分の作品を披露するようになった。
それに気付いたルディが、なんとかラティナたちを言いくるめて、
一緒に食事をするようになったのだ。
ラティナ以外のメンバーからの、揶揄い混じりのなんとも言えな
い生温かい視線に耐えることと引き換えに、彼は時にはラティナの
何で?﹂
手料理を味見する機会を得たのだった。
﹁ん?
・
だって、それラティナのだよ。見ればわかるよ﹂
・
﹁何でって⋮⋮ラ、ラティナの気のせいじゃ⋮⋮﹂
﹁ん?
反射的に首飾りを押さえたルディ相手に、ラティナは不思議そう
に首を傾げる。
今、自分が首から下げている黒い欠片のことは、よく磨き込まれ
た貴石だと思う者ばかりだった。だからルディは﹃それが何である
か﹄知らない者相手ならわからないと高をくくっていたのだ。
だが、あっさりとラティナに見抜かれてしまったことに、よりに
546
ラティナ?﹂
もよって、一番ばれたくなかった相手に見抜かれたことに動揺する。
﹁見ればわかるの?
﹁うん﹂
シルビアが不思議そうに聞き返す。ラティナはどうして皆が不思
議そうにしているのかが、わからないといった顔だった。
﹁みんなはわからないの?﹂
﹁石みたいに見えるよ。動物の角より真っ黒だから、よけいだね﹂
﹁うーん⋮⋮あのね、魔力の気配みたいなのが見えるの。みんなは
見えない?﹂
﹁わからないよ﹂
みんな
シルビアとクロエに口々に言われ、首を傾げていたラティナは、
そういえば、と顔を上げた。
﹁あのね、デイルに言われたよ。ラティナの見てるものと、人間族
の見てるものはちょっと違うのかもしれないなって﹂
獣人族の村で、容易く個々を見分けるラティナの様子にデイルが
下した判断がそれだった。﹃魔人族﹄は総じて他の人族よりも能力
それで、何でなの?﹂
が高い種族だ。﹃人間族﹄ではわからない何かを見分けているのか
もしれない、と。
﹁凄いんだね﹂
﹁そうなのかな?
話がうやむやなまま流れてくれることを祈っていたルディは、祈
りが通じぬことを嘆きながら、視線を右から左に動かして突破口を
探した。
﹁それは⋮⋮だから⋮⋮﹂
﹁だから?﹂
可愛らしく首を傾げたラティナに、ルディはごくりと唾を飲んで、
﹁⋮⋮珍しいからだっ﹂
547
と答えた。
友人たちが、駄目な何かアレなものを見る目で自分を見ている。
うん。自分でもわかっている。この答えは無い。わかっているか
ら、今はそっとしておいてほしい。
だが、目の前の愛らしい少女は、皆の予想の上をいっていた。
にっこりと微笑むと、晴れやかな様子で言ったのだ。
﹁そうだね。珍しいもんね﹂
︵納得した、だと⋮⋮︶
それぞれがそれぞれの心の中で、思わず同じことを呟く。
この少女は、賢いのだが、妙なところでずれている。
﹁クロエも持っててくれてるんだね﹂
﹁うん。ラティナの角、キレイだもん﹂
﹁なんか嬉しいな。ありがとうクロエ﹂
照れたように笑うラティナは、ルディが自分の角を持つ理由は、
それ以上はないのだと、あっさり過ぎる判断を下してしまったよう
だった。
アントニーとマルセルが両脇から同時にルディの肩をぽん、と叩
いた。
お願いだから、今はそっとしておいてほしい。
ランチの話題は、最近のラティナの﹃天敵﹄へと移っている。﹃
保護者﹄たち相手では言わない愚痴も、親友相手だと気軽に口に出
来る。
ひどいのっ!﹂
﹁いっつもラティナのこと、﹃ちいさいわね﹄、﹃ちいさいからね﹄
って言うの!
ぷすっ。と膨れっ面をしているのも、クロエやシルビアにとって
548
は見慣れた表情だ。
﹁ラティナ、見習いだけど、お仕事もしてるのに。ケニスにちゃん
と上手になってるって褒めてもらったりしてるのにっ。ちっちゃい
子どもだって言うの!﹂
確かにラティナ手製のランチを見ただけでも、彼女の料理の腕前
が確かな成長を遂げていることがわかる。働き者のラティナは、怠
け者の大人より、ずっと頼りになる働き手だ。﹃虎猫亭﹄の仕事も
ヘルミネ
家事も日々こなしている。そういった点では年齢以上に彼女は充分
自立していた。
﹁⋮⋮ラティナ、早く大人になりたいな⋮⋮﹂
そう言って、しょぼん。と下を向いてしまうのも﹃天敵﹄が来て
からよくある行動だ。
﹁ラティナ、大人だったら、留守番しなくてもすんだし⋮⋮きっと
もっといっぱいデイルのこと、助けてあげられるのに⋮⋮もっとい
っぱいデイルのこと﹃わかる﹄のに⋮⋮﹂
彼女が不機嫌なのも、しょんぼりしているのも、﹃保護者﹄の為
だ。
大人の女性相手にやたらと張り合おうとするのも、﹃自分が子ど
も﹄であることが悔しいからだ。
ルディが、今胸の中で抱くモヤモヤしている感覚が、ラティナと
同種のものである自覚もなく、彼はその﹃モヤモヤ﹄のままに口を
開く。
﹁だってラティナ、ちっちゃいもんな﹂
﹁ラティナ、ちゃんとおっきくなってるもん!﹂
﹁ほら、そうやって、自分のことだって名前で呼ぶだろっ、赤ちゃ
んみたいにさ﹂
その彼女の癖も可愛らしいのだが。
思いついたままに、心とは裏腹な言葉が飛び出てしまう。
549
え⋮⋮?
赤ちゃんみたい?﹂
だが、ルディのその一言は、ラティナに大ダメージを与えた。
﹁ふぇ⋮⋮?
よろっと、少しよろけて考え込む。
︵⋮⋮リタや、クラリッサさんや⋮⋮おばあちゃんはちょっと違う
けど⋮⋮︶
ルディなのに、言った通りなのかもし
ぐるぐるしながら、彼女の知る大人の女性を思い浮かべる。次に
友人たちの顔を見回す。
﹁ふぇっ⋮⋮﹂
なんと言うことだろう!
れない!
最後に仲良しの可愛らしい小さな女の子を思い出した。
﹁ラティナ、マーヤちゃんと一緒っ!?﹂
該当者は、幼児だけだった。
ルディなのに、正しかった!
ガーン。と、ショックを受けたことがよくわかる表情で、ラティ
ナはがっくりと、力なく伏せたのであった。
550
青年、ある夜の片隅の席で。
夜も更けて、客足も減り、喧騒が遠退いた時刻。
﹃踊る虎猫亭﹄へと入って来た、細い肩の女の姿に、彼はちらりと
・
・
・
視線をそちらへ向けて、再び手元のグラスへと戻した。
﹁また、昔の男と会ってるのか?﹂
﹁あら、妬いてくれるの?﹂
﹁んな訳ねぇだろ。相手の男に同情するだけだ﹂
そう言ってカウンターでため息をつけば、ヘルミネは笑いながら
隣に座った。
初めて会った時から、彼女は本当に変わらない。
当人は否定するけれど、こうやって時折会う程度では、変化を見
分けることなど出来ない。
でもそれは、ケニスなど年長の面子にとっても同じことらしい。
﹁⋮⋮いい加減、適当な男捕まえて落ち着きゃあ良いのに﹂
おれら
﹁そんなこと言うようになったなんて、あなたは﹃歳﹄をとったわ
ね﹂
﹁﹃人間族﹄にとっては、十分な時間だよ﹂
﹁そうかもしれないわね﹂
クスクスと微笑むヘルミネに、デイルは呆れ混じりの顔で、酒杯
を口に運んだ。自分を見失うほど飲む気はさらさらないが、こんな
女狐相手に素面ではいられない。
ヘルミネもリタを呼び止めて酒杯を運ばせる。細い指が視界の隅
で翻った。
あなたたち
﹁簡単に、﹃人間族﹄の常識に、﹃私たち﹄を収めようとしてはい
けないわ﹂
﹁説教か?﹂
551
﹁忠告よ﹂
あなたたち
カランとグラスの中で涼やかな高い音を鳴らしてヘルミネは言葉
を続ける。
﹁無理なのよ。﹃人間族﹄みたいに、﹃一人を一生思い続ける﹄こ
とを美徳のように言われても、現実的ではないの﹂
長い睫毛が影をおとす横顔には、外見以上の深淵さのようなもの
がある。
﹁考えてもみて。同族であっても、数百年の歳の差があってもおか
残酷な話だわ。⋮⋮だから﹃私たち﹄のよう
しくないのよ。先に逝かれたら、残りの年月をそのひとを想って生
きろとでもいうの?
に、寿命の長い種族は特定の相手を求めないのよ。深く想えば想う
程に、﹃別れ﹄は辛いものだもの﹂
ヘルミネの言葉に、デイルは黙って酒杯に視線を落とす。
愛し子の笑顔を思い出した。
いつかきっと、自分は彼女を遺して逝くだろう。その時までに、
自分は何が出来るだろうか。
﹁⋮⋮それでも、お前は節操がねぇだろ。どんだけの男の弱みを握
ってるんだよ﹂
﹁あら、そんな言い方はないじゃない。﹃あなたたち﹄が私を置い
てすぐに歳をとってしまうだけよ﹂
﹁だからって、餓鬼みたいな歳の奴ばかり狙う理由にはなんねぇだ
ろ﹂
﹁それはたまたまよ。それに、男を見る目には、自信があるのだけ
れど?﹂
ヘルミネの言葉はあながち的外れでもなく、彼女に﹃弱み﹄を握
られている﹃男ども﹄は、多くが名の知れた一流どころの人物にな
っている。
そんな﹃彼等﹄が﹃一流﹄になる前の、まだ未熟だった時期の、
なんとも言えない甘酸っぱく苦い思い出。それが﹃ヘルミネ﹄とい
552
う女なのだった。
﹁それに私、結構誠実よ?
二股かけたことなんて一度もないもの﹂
﹁そういうことやる女だったら、もっと簡単に⋮⋮嫌えたんだろう
がな﹂
﹁そう?﹂
クスクスと再び笑う。
苦手ではあっても、憎むことも嫌うことも出来ない。きっと、他
折角ならば、産んで
の﹃男﹄たちにとっても、彼女はそんな存在なのだろう。
﹁女は男と違って、リスクを負う生き物よ?
おや
も良いって思える男を相手にしたいじゃない﹂
﹁⋮⋮はっきり言うんだな﹂
﹁あなたが大人になったから⋮⋮﹃保護者﹄になったからよ﹂
そう言ったヘルミネの表情には、歳上の余裕がある。歳の離れた
ハーフ
エルフ
弟や子どもに語るような気配が声音に滲んでいた。
ミックス
﹁なんで﹃私﹄みたいな存在を﹃半分の妖精族﹄と呼んで忌避する
のだと思う?﹂
ハーフ
二つの人族の特徴がまざったものを﹃混血﹄と呼ぶが、﹃人間族﹄
と﹃妖精族﹄の間に産まれた存在だけを﹃半分﹄と呼び、忌避する
習慣は確かにある。
ミックス
理由までは知らないデイルは静かに首を横に振る。
﹁妖精族は人間族の他には、翼人族との間に﹃混血﹄が産まれるわ。
でも、翼人族と妖精族はあまりに価値観が違いすぎて、まず二つの
種族が交わることはないの﹂
翼人族は、人間族よりも、更に短命な種族だ。
自分たちだけの集落で、自分たちだけのサイクルで生活をしてい
る上に、数も少ない。
ミックス
妖精族との生活区域が重ならないこともあり、﹃妖精族と翼人族
の混血﹄は、ほとんど存在しなかった。
553
ハーフ
エルフ
﹁﹃半分﹄なのよ。﹃半分の妖精族﹄は純粋な﹃妖精族﹄の﹃半分﹄
しか生きられない。でもそれは、﹃人間族﹄には充分過ぎる程の長
い時間だわ。⋮⋮だから、疎まれる。わかる?﹂
おとなになる
デイルが無言で首を振ると、ヘルミネは教師が諭すように言葉を
続けた。
﹁﹃妖精族﹄は﹃魔人族﹄とは違うわ。成熟するまで時間がかかる
ハーフ
エルフ
のよ。﹃人間族﹄には長すぎる時間がね。﹃人間族﹄の片親では﹃
半分の妖精族﹄の子どもは育てることが出来ない。そして⋮⋮﹂
エルフ
表情に深い影が落ちる。ヘルミネの声にも苦いものが混じった。
ハーフ
﹁﹃妖精族﹄の親にとっては、﹃半分の妖精族﹄の子どもは、自分
よりも先に老いて死ぬ存在だわ﹂
エルフ
私は、﹃人間族﹄か﹃半分の妖精族﹄以外の子ども
ハーフ
﹁⋮⋮それと、お前の男遍歴が関係あるのかよ﹂
﹁あるわよ?
は要らないの。﹃人間族﹄以外の男を相手にすると、他の種族の子
どもを身籠る可能性が出来るでしょう?﹂
生々しい台詞をさらりと言って、ヘルミネは苦い表情を、悪戯っ
ぽい仕草で誤魔化した。
﹁他の種族の男との子どもだと、﹃妖精族﹄を身籠る可能性がある
のよ。そうしたら、私はその子を育てられない。﹃時間﹄が足りな
いから。⋮⋮まあ、どっちにしても、﹃可能性﹄は低いのだけれど
ね﹂
長寿種の人族は妊娠率が低い。
彼女がその上で﹃遊んでいる﹄のだと思う面もあった自分を、デ
イルは反省した。
苦い思いを、手の内の酒で流し込む。
﹁⋮⋮なんで、急にこんな話、したんだよ﹂
﹁さあね。なんでかしら﹂
554
そう言ってクスクス笑うヘルミネは、先ほどまでの苦い表情を隠
してしまっている。
まだまだ彼女は、自分では﹃届かない﹄場所にいるのかもしれな
い。
あなたたち
﹁﹃長寿種﹄には、長い時間を生きるなりの、辛さも、理由もある
おや
ものよ。﹃人間族﹄だけの理由では、苦しめることになるっていう
ことも覚えておいて。あなたは﹃保護者﹄なのでしょう?﹂
その言葉が﹃誰﹄を指しているのか、わからない筈もない。
ヘルミネの観察力ならば、目にすれば﹃気付いて﹄しまうだろう
と思っていた。
﹁⋮⋮いつか、俺が死んだ後、ラティナの助けになってくれるか⋮
⋮?﹂
﹁嫌よ﹂
ヘルミネはあっさりと答えた。目元を穏やかな笑みのかたちに細
めてデイルを見る。
﹁大切ならば、せいぜい長生きすることね﹂
飲み干されたグラスの中で、氷が高い音を響かせた。
555
幼き少女、想う。
大人になりたいな。
そう、思う。
自分を救いあげてくれた、大切な大好きなひと。
あの森の中、怖くて、寂しくて、お腹もぺこぺこで、苦しくて、
きっとこのまま死んじゃうんだと思っていた⋮⋮
⋮⋮でも、最期に願ってくれたのが、﹃生きる﹄ことだったから、
頑張らないといけないって思っていた、あの時。
自分を救いあげてくれた、大切なひと。
家族以外で、﹃大好きだよ﹄って言ってくれるひとも初めてだっ
た。
家族以外のひとに、抱きしめてもらうのも初めてだった。
あったかくて、しあわせな、安心できる場所に連れて来てくれた。
みんなみんな、大好きなの。
新しいことができるようになって褒めてもらうことも。
ダメだって、叱ってくれることも、みんなありがとうって思って
いる。
だから、早く大人になりたいの⋮⋮
辛そうな時、苦しそうな時。きっと自分が大人だったらわかって
あげられるのに。﹁大丈夫だ﹂なんて、言わせなくて済むのに。
ケガするかもしれないお仕事の時だって、そばにいられるのに。
自分の知らない時間のことを知る、他のひとに、負けなくてすむ
556
のに。
最近多いなぁ⋮⋮ラティナはもっとゆっくり大
﹁ラティナ⋮⋮早く大人になりたいな⋮⋮﹂
﹁また、それか?
人になっていいくらいなんだぞ。無理に大人になんてならなくてい
いんだ﹂
最近の口癖になりかけている文句を呟く少女の頭を撫でながら苦
笑する。
郷里を出てすぐに﹃大人﹄にならなくてはならなかった自分のこ
とを思い出す。
﹃大人﹄にならなくてはならないことも辛かったし、﹃大人﹄とし
て扱われなかったことも辛かった。
この少女と、どこか似ている自分に苦笑が浮かぶ。一緒に暮らす
自分たちは、どこか似てくるものなのかもしれない。
だからこそ、思う。
ゆっくり大人になって欲しい。背伸びをすることを悪いとは言わ
ないが、﹃大人﹄になってしまった後では﹃子ども﹄には戻れない
のだから。
リタはすごく格好いい。お仕事もいっぱいしているし、お店に来
るおっきな男のひとたち相手でもぴしっとしている。
そして大きなお腹の中で、ケニスとの大切な赤ちゃんを守ってい
る姿もすごく格好いい。
お手伝いできるの嬉しいよ﹂
﹁ラティナのお蔭で本当に助かるわ﹂
﹁そうなの?
﹁あんまり、私、針仕事得意じゃないしね﹂
﹁リタ、忙しいからだよ﹂
557
産まれてくる赤ちゃんの為に、たくさんたくさん、おむつを用意
しなくてはいけないんだって。クロエのお家で教えてもらって、お
ばあちゃんにもいっぱい教えてもらったから、リタにも褒めてもら
えて嬉しい。
おむつはまっすぐ縫うだけだから難しくない。
リタは今日もたくさんの書類を片付けている。書類を読むスピー
ドも、ペンを走らせる姿も、依頼料や仕入れなんかの計算も、とて
もとても早い。
いつか、リタのお手伝いもできるようになるかな。
﹁赤ちゃんいつ頃産まれるの?﹂
﹁秋になったらよ。夏バテしないようにしないとね﹂
﹁リタ暑いの苦手だものね﹂
冷たいものばっかり食べるのもよくないって言われちゃうから、
リタが元気な赤ちゃん産めるように、いっぱいお手伝いしよう。涼
しく過ごせるにはどうしたら良いか、今から考えなきゃ。
﹁赤ちゃん男の子かな、女の子かな﹂
わら
﹁どっちでも良いわ。元気で産まれてくれれば﹂
そう言って微笑うリタは、本当に格好いい。
アスファル
友だちと、一緒に毎日過ごせるのも夏が終わるまで。
秋になったら二年間の黄の神の学舎通いもおしまいで、みんなそ
れぞれ別の時間を過ごすことになる。
なんだか少し、寂しい気持ち。
お別れする訳ではないから、今までみたいに一緒に遊んだりでき
るのに、ちょっとだけ、違う感じがする。
クロエはお家でお母さんと同じように、仕立てのお仕事をするっ
て言ってた。﹃虎猫亭﹄のお給金で、クロエに服頼むからねって言
ったら、﹁ラティナに似合う特別製作るからね﹂って笑ってた。
558
可愛いピンクやふわっとした服が好きだけど、いつもクロエは、
﹁それだけじゃもったいないよ!﹂って言う。
クロエみたいに格好よく、お洋服着ることができるようになるか
な。
アクダル
アクダル
シルビアは、緑の神の神殿に行くんだって。あまり会えなくなっ
ちゃうねって言ったけど、﹃虎猫亭﹄は緑の神の旗のある所だから、
連絡とる方法はいっぱいあるよって、なんだか﹃悪い﹄笑顔で言っ
てた。シルビアらしいと思う。
アクダル
魔法の勉強と、護身術の訓練もするって言ってた。
﹃緑の神の神官﹄たちは、世界中のあちこちで旅をしている。危険
アクダル
な場所も、誰も行ったこともない場所も目指して行く。
﹃虎猫亭﹄で扱う﹃情報﹄も、そういうかたちで﹃緑の神の神官﹄
ヴァスィリオ
たちが集めたものもいっぱいある。
いつか、﹃魔人族の国﹄にも行きたいって言ってた。
シルビアがヴァスィリオに行く頃には、新しい﹃一の魔王﹄が居
るのかな。そうだったら、きっと、シルビアも少し安全にあの国に
行けるのかもしれないよね。
マルセルはお家のパン屋さんで修行するんだって。
お昼ごはんの度に、マルセルのお家のパンもらってたから、とっ
ても美味しいことはよく知ってる。﹃虎猫亭﹄の仕入れは別のお店
だけど、たまに買いに行こうって思ってる。
今もお店のお手伝いをしているマルセルとは、よく味や材料のお
・
・
・
話とかで盛り上がる。今度パンの作り方も教えてねって約束した。
ケニスも、こーぼや焼き釜の関係で、プロにはかなわないって言
ってたから、本格的に勉強できる機会は大事だから!
せんせい
アントニーは高等学舎に進むって言ってた。
そういえば、学舎の神官たちに、コルネリオ師父の所でお勉強し
559
せんせい
てたって言ったら、凄く驚かれた。
師父はすっごい大神官だったみたい。
高等学舎でも教えてもらえないこと、いっぱい勉強してたみたい。
全部じゃないし、算術とか外国語とかは全然やらなかったけど。
アントニーが高等学舎に通うようになったら、どんなこと勉強し
たのか聞いてみようって思ってる。
そしてルディは、お家のお仕事とは別のことをやるんだって。
﹁憲兵隊に行くの?﹂
﹁そうだよ。学舎卒業後だと、予備隊ってとこで、訓練と下働きし
て、憲兵になれるか準備するんだ﹂
首を傾げた彼女に向かい、そう答えるとルドルフは少し視線を反
らした。
何でクロイツの治安を維持する憲兵隊に入りたいか、聞かれでも
したら気恥ずかしい。
﹃冒険者﹄相手に、真っ向から立ち向かえるのは、この街では﹃憲
兵隊﹄だけだ。
生来特殊な能力を持たず、武器と近しい場所で生まれ育ってはい
るが、それを扱う技能を学ぶことのできた訳でもない自分では、﹃
冒険者﹄を志しても腕を上げる前に死んでしまう可能性の方が大き
い。
ならば、大きな街で生まれ育ったという利を活かして、立派な規
模の憲兵予備隊として、訓練を受けることの方がよほど合理的だ。
バカと呼ばれるルドルフだが、彼女が目の前にいなければ、ある
程度は真面目に物事を考えることができるのだ。
560
﹁﹃虎猫亭﹄のお客さんにも、憲兵さんたくさんいるからね。ルデ
ィのこと、よろしくってお願いしておくね﹂
けれどもにっこりと微笑む少女は、特に志望理由には興味を抱か
なかったようだ。ほっとする半面、残念でもある。複雑だ。
﹁あの店来るのって、﹃冒険者﹄だけじゃないのか﹂
﹁うん。憲兵さんも門番さんもよく来るよ。門番さんは、他の門は
遠いから、南の担当のひとばかりだけど﹂
﹁⋮⋮予備隊のやつは、来るのか?﹂
﹁うーん⋮⋮前に、憲兵さんたち言ってたけど、予備隊のひとは、
毎日くたくたになるまで頑張ってるんだって。あんまりお外に遊び
に行く時間ないんだって﹂
憲兵予備隊は、宿舎に泊まり込みで寄宿生活を送る。
訓練だけでなく、規律と共に縦社会の関係をも叩き込まれる為だ
った。
まったく余暇の時間がない訳ではないが、今までのようには﹃会
えなくなる﹄のは確かだ。
それでも、無事に憲兵にさえなれれば、﹃踊る虎猫亭﹄に大手を
振って日参しても不自然ではないらしい。
当面の目標はそれだろう。
この段階のルドルフは、まったく想像すらしていなかった。
﹃虎猫亭﹄の常連客たち−−憲兵隊の中でも、役職と実力に於いて
周囲から一目も二目も置かれる者たち−−に、﹁よろしくお願い﹂
かれら
されるという意味を。
常連客のアイドルであり、一部の者たちから﹁白金の妖精姫﹂の
二つ名で呼ばれる少女に、﹁お願い﹂される少年という﹃自分﹄が
どのように目にうつるか、ということなどまったく考えていなかっ
たのだ。
561
彼は色々な意味で、予備隊入隊直後から、そうそうたる面々に目
を付けられることとなったのである。
一概に悪いとは言えない。訓練などでも目を掛けて貰えたという
ことは、他の訓練生たちよりもよほど熱心な指導をして貰えたとい
うことでもある。
ただ、それが、想像を絶する程に厳しいものであっただけだ。
大好きなひとにぎゅっと抱きついて、今日も﹁おやすみなさい﹂
を言う。
一番安心できる場所。ぽかぽかして、ほっとして、ふぁーってな
る大好きな場所。
﹃赤ちゃん﹄みたいかもしれなくて、何回も自分一人で眠れるよっ
て言おうと思ったけど、出来なかった。
お留守番の度に、一人だけのベッドに入る時、いつも、きゅっと
した気持ちになる。冷たいシーツにからだを丸めて、枕をぎゅっと
抱きしめて目を閉じる。
時々、夜中に目が覚める。真っ暗な部屋の中で、自分がどこにい
るのかわからなくなる時がある。真っ暗な﹃森﹄で怖いモノから逃
げている夢を見て、怖くて仕方がない時もいっぱいある。
﹁んー⋮⋮どーした、ラティナ?﹂
﹁ううん、なんでもないよ﹂
﹁そーか、怖い夢でも見たのかぁ⋮⋮?﹂
・
・
そう言って、よしよしと撫でて貰えたら、本当に大丈夫。怖いこ
・
・
となんて何もない。ここは、世界で一番安心できる場所だから。
・
だから、わたしは、早く大人になりたいけれど、それだけは今の
ままで良いなって、思ってるの。
562
幼き少女、想う。︵後書き︶
次話から思春期編ということで、少し大きくなった﹃うちの娘﹄を
お送り致します。
とはいえ今後も、閑話の形式でちっさい姿も書くと思われます。お
付き合い頂ければ幸いと存じます。
563
白金の乙女、ある一日の光景。︵前書き︶
少しおっきくなりました。
564
白金の乙女、ある一日の光景。
朝起きたら、まず髪を結ぶ。
長く伸ばした髪は、ちょっとした自慢でもあるので、毎日手入れ
は欠かさない。それでも仕事の邪魔になったりしないように、きっ
ちり束ねる必要があるのだ。
規則正しい寝息が聞こえるから大丈夫だと思いながらも、衝立の
陰に行き、手早く着替えを済ませる。
大きな音を立てないように階下に下りるのも、もう慣れた行動だ
った。
店の裏手で顔を洗い、洗濯ものを済ませる。溜め込む前に片付け
ているので、そんなに時間はかからない。パンと、皺を伸ばす音が
小気味良く響いた。うまく音が鳴るとなんだか嬉しい。
厨房の中に戻ると、ケニスが食物倉庫から野菜の桶を運んでいる
ところだった。
﹁おはよう﹂
﹁ああ。おはよう﹂
挨拶だけを交わして、それぞれ桶の前に座る。﹃いつも﹄の仕事
だから余計な会話は必要ない。まだ、スピードは﹃師匠﹄にはかな
わないけれど、丁寧かつ遅くならないように作業を進めていく。
ケニスが店用の大量の仕込みをする横で、自分たち用の朝食を作
りはじめる。卵を片手で割るケニスの姿が格好良いと思うのに、手
の大きさの関係からか、思ったようには上手くいかない。
軽く味付けをして、バターでふんわりと焼き上げる。
思った通りの形のオムレツを、失敗なく作れるようになるまでは、
だいぶ時間がかかった。
565
具沢山のスープに、トーストしたパンを添えた頃、聞こえてきた
足音に笑顔を向ける。
﹁おはよ、ラティナ﹂
﹁おはよう、デイルっ﹂
顔を洗いに行くデイルを見送って、二階のリタたちを呼びに行く。
三歳のテオドールの世話だけでも忙しいのに、お腹の中に二人目の
赤ちゃんがいるリタは本当に大変だと思う。
﹁おはよう、リタ、テオっ。朝ごはんだよ﹂
﹁おはようラティナ﹂
嫌がるテオを布団から引きずり出しながらリタが笑う。この光景
も毎日のことだからもう驚かない。
くるり踵を返して一階に戻る。ゆっくりする時間はない。
そして、この時間を逃すと、﹃仕事﹄に行くデイルとの時間も取
れなくなってしまうのだ。
待っていてくれたデイルの隣。昔から変わらない﹃定位置﹄に座
り、﹁いただきます﹂の声を同時に発した。
﹁今日も﹃森﹄での魔獣退治?﹂
﹁ああ。あんまり深いところまではいかねぇから、結構早く帰れる
かな﹂
お金に困っている様子もなく、生活に余裕のあるデイルが、頻繁
に仕事を受けて﹃森﹄に行くのは、腕や勘を鈍らせない為だという
ことを教えてもらえたのも、最近のことだった。
デイルが強いことは知っている。でも、心配するのは仕方がない
ことだと思う。
そんな感情を呑み込んで、笑顔を作った。
﹁無理しないで、気を付けてね﹂
﹁大丈夫だよ﹂
返してもらった笑顔に、嬉しくなりながらトーストをサクリと噛
566
む。
パンの上にジャムをたっぷりとのせるのは、﹃朝﹄だからだ。今
日もこれから忙しくなる。元気の素をお腹に入れておかないと倒れ
てしまう。
リタとテオが下りて来た頃には、朝食も終わっていた。デイルの
分の食器も手にして流しへ運ぶ。
﹁ケニス、どこからやれば良い?﹂
﹁スープの仕込みは終わった。今、芋を煮てるところだ﹂
﹁わかった﹂
簡潔に進行を聞いてから、ケニスと替わる。幼いテオの面倒をみ
ながらの食事は本当に大変であるということもあって、リタとケニ
スは二人がかりで自分たちの食事をしながらテオの世話をしている。
だからこそ親子揃って食卓を囲む時間を作る。それも﹃仕事﹄のう
ちの一つだ。
鍋の様子を確認して進行状態を把握すると、その間に出来る作業
を始める。大量の玉ねぎはスクランブルエッグに入れる為のもの。
涙が溢れるのを時折拭いながら、リズミカルに包丁を振るう。ボウ
ルの中に山盛りの玉ねぎを入れた頃、芋が煮えるタイミングがやっ
﹂
冥なる闇よ、我が名のもと叶えよ、星の縛りを断ち切り給え︽
てくる。
﹁
重力軽減︾
口ずさむように簡易式の魔法を唱えて大鍋を持ち上げると、中身
をザルへと空ける。視界が一瞬真っ白になるほどの湯気があがる。
お湯をきってボウルに移し、熱いうちに潰し始める。バターを入
れて更に潰しながらまぜる。毎日やっているがかなりの重労働だ。
ケニスが、いつも自分がやると言ってくれるのだけれど、大変だか
らといって避けてしまうのは、何だか違う気がするのだ。
ミルクを入れて柔らかく伸ばして味付けをする。自分で味を確認
567
した後、朝食を終えたケニスのところに小皿に入れて持って行く。
味を見たケニスが一つ頷いてくれる。合格だ。毎日の儀式のよう
なものだけれど、やっぱり緊張する。
テオがケニスの持つ小皿に手を伸ばす。テオにはこの毎日のやり
とりのお芋が特別なものに見えるようで、欲しがるのだ。だから﹃
味見﹄に必要な分よりも少し多めに盛りつけている。
父親の真似をして、厳めしいような表情でお芋を食べるテオの姿
に、緩みそうな顔を引き締める。
赤ちゃんの時から毎日見てきたテオは、弟みたいな存在だ。イヤ
・
と言ってくる時すら可愛いらしい。
︵デイルもこんな気持ちで、私のこと、育ててくれてたのかな︶
たっぷり愛情を注いでもらった自覚はある。
今の自分があるのは、大切なひとたちと、大切なこの場所。そし
て何より一番大好きなひとの存在あってのものなのだ。
お客さんたちが徐々に入店して来ると、フロアの担当が自分の仕
事だ。ケニスのようにたくさんのお皿をいっぺんに運ぶことはでき
ない。そのぶんテーブルの間をクルクル行き来する。
﹁お待たせしましたっ﹂
﹁おう、嬢ちゃん。今日も元気だな﹂
﹁ジルさんも、だねっ﹂
そう常連さんと笑い合って、隣のテーブルに笑顔を向ける。
﹁こちら、お下げしてもよろしいですか?﹂
﹁ああ、構わねえぞ﹂
﹁失礼しますっ﹂
傷薬の在庫取って来てくれる?﹂
空の皿をお盆にのせたところで、リタの声がかかる。
﹁ゴメンね、ラティナ!
﹁うん、わかった﹂
568
うえ
厨房に戻り、皿を流しに置きながらケニスに声を掛ける。
﹁ちょっと屋根裏に薬取りに行って来るね﹂
﹁わかった﹂
ぱたぱたと足音を鳴らして階段を上る。
ねぇ
毎朝がこんな感じで過ぎていく。忙しいけど、だからこそやりが
いのある毎日。
朝のピークをやり過ごし、店の裏庭を覗く。
﹁テオ﹂
﹁ラティナねぇ﹂
声を掛けると、遊んでいたテオドールがこっちを見た。﹃姉﹄と
呼んでもらえるのは、照れくさいような幸せなような気持ちだ。
﹁ヴィントもありがとう﹂
・
テオの面倒をみてくれていたのは、大切な﹃友だち﹄だ。本当の
名前は違うらしいけど、﹃ひと﹄には発音出来ない音だというから、
通称のようなものだ。
﹁わん﹂
ここ
一言答えて、黒いしっぽがぱたぱたと揺れる。
一年前、急に﹃虎猫亭﹄に来た﹃彼﹄は、もうすっかりここに馴
染んでいる。テオにとっても良い遊び相手だ。
幼いテオを任せても安心出来る、頼れる﹃お兄さん﹄だ。
ヴィントが来た当初はデイルもケニスもびっくりしていたけど、
一緒に暮らすことを良いよと言ってくれたのもあの二人だ。
テオを抱き上げて絵本を読んだり、一緒に遊んだり。﹃お姉さん
業﹄も少しは板に付いてきたかな、と思う。
﹁ラティナ、買い出し頼めるか?﹂
﹁うんっ﹂
少しだけ、食材の買い出しなども任されるようになってきた。生
569
鮮食品なんかは値段の交渉もある為に、ケニスと一緒の時だけだっ
たが、
値段の変動の少ない品物は一人で行くようになっている。まだ﹃
おつかい﹄の延長のようなものだけど、任されるのは、とても嬉し
い。
ケニスがテオを抱き抱えると、ヴィントが隣に寄ってきた。
﹁今日も一緒に来てくれるの?﹂
﹁わん﹂
﹁ありがとう﹂
ふかふかの毛並みを撫でてから、エプロンを外し上着を羽織る。
﹁じゃあ、ケニス。行って来ます!﹂
﹁おう。気を付けてな﹂
大きく声をあげてから、東区の方に向かって歩いて行く。今日は
良い天気になりそうだ。
570
白金の乙女、ある一日の光景。︵後書き︶
思春期編は、少し今までよりも﹃娘﹄視点も増えるかなーと、思い
ます。今後もお付き合い頂ければ幸いと存じます。
571
白金の乙女、灰色のもふもふと。
ラティナに買い出しを頼んだ後、じたばたと嫌がる息子を、ケニ
スは軽々と抱き上げたままあやす様に揺らす。
じぶん
赤ん坊の時から、辛抱強く優しい﹃姉﹄のポジションにいるラテ
ィナの言うことは素直に聞くのに、父親相手だと、少し異なるらし
い。
そんなラティナの足元には、灰色の﹃大型犬﹄が、先の方が黒く
なっている尾を振って付き従っている。ラティナ手製の服を着せら
れたその姿は、この辺りではすっかり見慣れた一種の名物と化して
いる。
一年近く前、この﹃犬﹄がクロイツに現れた時は、物凄い騒動だ
った。
−−幻獣が街中に現れたのだ。そりゃあ騒動位にはなるだろう。
門番や見張りはどうしていたと、後日調べれば、街壁のほんの小
さな割れ目の隙間から入り込んだらしい。成獣ならば不可能だった
だろう。大きな事件がなかったとは言え、修繕予算を後回しにして
いたツケが出てきた。緊急で議題に上がったことは致し方ない。
仔狼は、人目の少ない早朝であったとは言え、においをたよりに
迷いもせず、表で騒ぎになることもなく﹃踊る虎猫亭﹄にたどり着
いたのだった。そして、まだ客の少ない時分の店に、ひょっこりと
こんな所に?﹂
不意討ちで顔を出したのだ。
﹁どうしたの?
警戒する冒険者連中を意に介さず、灰色の獣を抱き締めたラティ
ナは、そう言って首を傾げた。
572
﹁嬢ちゃん!
離れろ!﹂
きゃく
常連の中でも屈指の実力者で、古株のジルヴェスターが悲痛な声
をあげたが、ラティナは武器に手を掛ける冒険者たち相手に首を振
る。
﹁あのね。この仔、私の友だちなの。たぶん、私に会いに来たのっ﹂
﹁と⋮⋮友だちって、嬢ちゃん⋮⋮﹂
﹁ラティナ、ニオイきた﹂
幻獣から出てきた﹃看板娘﹄の名前に、常連連中がぎょっとする。
勝手に来たら、心配してると思うよ?
﹁ニオイ、おいかけた。ココ、ついた﹂
﹁お山から来ちゃたの?
大丈夫?﹂
−−いや、問題はたぶんそこではないぞ。
注目を集めながら、マイペースに会話をするラティナを、客たち
はツッコミを堪え、固唾を飲んで見守る。
﹁へいき。ラティナとこ、いく。いい、いってた﹂
﹁そうなの。なら、大丈夫なのかな?﹂
−−大丈夫、じゃないと思うんだがなっ!
だらだらと汗をかく、大の男連中の様子にはラティナは気付いて
いない。ジルヴェスターは、厨房からようやく顔を出したケニスに
渋い表情を向ける。
﹁ケニス、あれは⋮⋮﹂
﹁そういや、前、デイルから聞いたな。あいつの故郷の近くの﹃天
翔狼﹄の群れを、ラティナが手なづけたってな⋮⋮﹂
﹁嬢ちゃんはなんてことをしとるんだ!?﹂
さすがの百戦錬磨の冒険者でも、度肝を抜かれたらしい。声が若
干裏返っていた。
﹁それにしても、天翔狼とは⋮⋮﹂
﹁ああ。不味いな﹂
ジルヴェスターとケニスは頷き合う。
573
いきもの
﹃天翔狼﹄は群れで暮らし、仲間意識の強い幻獣だ。この仔狼一匹
なら、なんということはない。だが、下手に手を出せば、群れ総出
で報復に来る可能性が否定できなかった。
しかも、この仔狼は﹃行き先﹄をしっかり告げているらしい。ラ
ティナのニオイを辿ったなどと、とんでもないことを言っていたが、
それは他の﹃天翔狼﹄も、同じ手段でここまで来る可能性があると
いうことだ。
﹁でも、クロイツまで遠かったでしょ?﹂
﹁クローツ、とおくない。いちどねて、ついた﹂
−−遠くないらしい。
地上を行くものは大きく迂回し、ひと月近くかかる距離だが、﹃
天﹄の種族特性を持ち、飛行能力を有している﹃天翔狼﹄にとって
は、最短の直線では一泊二日で来ることの出来る距離らしい。
しかも、仔狼が、だ。成獣ならばどれだけの時間なのかはかり知
れない。
その上、その言葉を信じれば、辿って来た﹃ニオイ﹄とは、道々
に付いていたものという訳ではないのだろう。魔法的な幻獣の能力
の一つかもしれない。
ケニスとジルヴェスターは再び顔を見合せ、黙考する。
﹁⋮⋮嬢ちゃんに、完全になついてるっていうのは、本当らしいな﹂
ぱふぱふと尾を振り、頭をラティナに擦り寄せている姿は、よく
飼い慣らされた犬と変わりない。
﹁デイルにも聞いておくが⋮⋮﹃ラティナに預けておく﹄のが、一
番無害かもしれん﹂
ケニスの言葉に、ジルヴェスターは更に苦い表情になったが、否
定はしなかった。
触らぬ神になんとやら、だ。しかもラティナならば、幻獣という
﹃脅威となりうる存在﹄でも悪用することはないだろう。
574
﹁⋮⋮俺の方で、話は通しておく﹂
伝達しろ!﹂
しばらく後、ジルヴェスターが絞り出すようにして口にしたのは
そんな台詞だった。
﹁緊急﹃総会﹄を開くっ!
みせ
そばにいた冒険者連中にジルヴェスターが声を張ると、それで幾
人かは意味を悟ったらしい。数人が﹃虎猫亭﹄を出て行ったのは、
その言葉を何処かの誰かに伝えるためのようだ。
一体何の﹃総会﹄だ。と、ツッコミは入れてはいけないのだろう
か。とケニスは思った。
そんなこんなで、仕事を終え帰宅したデイルの前には、服を着せ
られた一匹の獣と、可愛い養い子が並んでいたのだった。
﹁おかえり、デイル﹂
﹁わん﹂
ラティナの笑顔は可愛いが、なんだその、わざとらしい棒読みの
﹁わん﹂は。
﹁ラ、ラティナ⋮⋮?﹂
﹁ん?﹂
﹁そいつって⋮⋮﹂
﹁あのね。﹃犬﹄なんだって。大人の事情だから、﹃犬﹄なんだっ
て!﹂
﹁わん﹂
﹁え、ええと⋮⋮﹂
困った顔のまま、デイルが助けを求めるようにケニスを見れば、
﹃兄貴分﹄も力強く頷いた。
﹁あれは﹃犬﹄ということになった、﹃犬﹄だ﹂
﹁わん﹂
﹁⋮⋮おい?﹂
﹁﹃犬﹄ならば、街中で飼われていても不自然はない。だから、﹃
575
犬﹄だ﹂
と、デイルは
現実から目を背けそうになる意識の片隅で、﹁獣呼ばわり﹂はご
立腹だったのに、﹁犬呼ばわり﹂は構わないのか?
思ったのだった。
居着いた当初こそは大混乱だったが、居着いてしまえば慣れるも
ので。
その上﹃幻獣﹄の名は伊達ではなく、非常に賢い獣だ。
﹃しつけ﹄というものは必要なかった。ラティナが幾つか﹃ルール﹄
を教えたらすんなり覚えていた。寝床と食事の世話はラティナの仕
事だったが、逆に言えばそれ以上の世話を必要としない。ブラッシ
ングや撫でるなどのスキンシップは、むしろラティナが嬉々として
行っている。
それだけではなく、幼児であるテオの面倒まで見てくれる。群れ
で暮らす生き物である為、﹃小さいもの﹄への面倒見が良いらしい。
そして何より大きな﹃役割﹄は、ラティナの﹃護衛﹄だ。
ラティナは十四歳になった。
幼い頃から愛らしい少女だったが、それに拍車がかかっていた。
まだ未成熟な肢体は、同じ歳の娘たちと並んでも、少々幼い体型
だ。
だからこそとも言えるが、﹃美少女﹄という表現にふさわしい外
見に育っている。大人には届かないからこその魅力を持っていた。
長く伸ばした髪は腰まで届き、折れた角を隠すために、髪を編み
込んだり結い上げることもあるが、目を惹く美しい輝きを放ってい
る。
顔つきも少し大人っぽく成長し、﹃愛らしい﹄だけではなく﹃美
しい﹄容貌になりかけていた。
576
ラーバンド国での﹃成人﹄は、十八歳とされている。だが、貴族
社会、もしくは田舎の地区等では、十五を過ぎた娘が嫁入りするの
は珍しくもない出来事だ。
クロイツのような都会では、男女ともに適齢期は遅めだが、全く
ない訳ではない。
そんな意味では、もう充分ラティナは、﹃そういった﹄目で見ら
れている年頃なのだ。
だが、この少女は、自分自身に対する危機意識が薄い。
デイルという﹃親バカ﹄に、真綿でくるむように守られ、守られ
まくり。普段過ごす﹃踊る虎猫亭﹄でも、ケニスが目を光らせるそ
ばで、冒険者や憲兵隊の大御所どもが睨みを利かしている。
こんな状況で彼女を﹃口説こう﹄とする、命知らずはさすがにい
なかった。
その為に、自分のことを﹃美少女﹄だと思っていない節がある。
﹁だって、デイル。いつもいっぱい﹃可愛い﹄って言ってくれるも
の﹂
そう笑っていたことがある。あまりにも日常会話になりすぎて、
事実だと捉えていないのだ。
﹁友だちとか、男の子の話したりしてるけど。私、そういった風に
男の子と仲良くなったこともないし。友だちだけだよ?﹂
天然であり、鈍感であり。そして若手の冒険者をはじめとする、
ラティナに気のある面子は、背後に控える﹃保護者ども﹄を恐れる
あまり、ぎこちなく雑談を交わせれば御の字だ。
確かに、異性にはっきりと好意を寄せられたこともない。
﹃もてる﹄﹃もてない﹄で分類すれば、彼女は異性に﹃もてない﹄
のだ。
577
高嶺の花として見られているからだという理由に気付かず、その
結果だけに意識を向けるラティナは、自分のことを﹃異性にもてな
い女の子﹄だと捉えている。
クロイツの街中のほとんどの範囲をカバーする﹃保護者ども﹄の
神通力だが、完璧ではない。彼女に何時どのような形で危険な状況
になるのか心配で仕方がなかった。
特に﹃親バカ﹄は。
﹁ラティナに万が一のことがあれば、死すら生ぬるい思いを味あわ
せても足りねぇ﹂
最近﹃虎猫亭﹄を訪れる若手の冒険者たちに、笑顔でそう言って
威嚇するのがデイルの日課となっている。だが、それだけでは到底
足りない。
どこぞの悪い虫だとか害虫だとかが寄って来ないか、心
﹁だって、ラティナ、あんなにあんなに、あーっんなに、可愛いん
だぞっ!
配で心配でっ!﹂
普段はそんなデイルを流すリタもそれには同意する。
﹁確かにね。ちょっとラティナ⋮⋮隙があるというか、おっとりし
そんなところも可愛いんだがっ!﹂
ているところがあるから心配ね﹂
﹁だろっ!
﹃保護者﹄たちのそんな意見と、一匹の﹃獣﹄は志を同じくしてい
たらしい。
いつもありがとう﹂
﹁ラティナ、いっしょ、いく﹂
﹁そうなの?
荷物持ちなども手伝っているため、ラティナ自身は﹃彼﹄をお手
伝いしてくれている。という認識で考えている。
けれどラティナ以外の面子にとっての﹃彼﹄は、お目付け役であ
り、ボディガードであるのだった。
578
白金の乙女、灰色のもふもふと。︵後書き︶
モフモフ目線の閑話とかも、タイミングが合えば、書いてみたいか
もしれません。
お読み頂き、誠にありがとうございます。
579
白金の乙女、親友と共に。
毎日学舎に通っていた時とは異なり、それぞれ別の生活を営む友
人たちと過ごす時間は明らかに減った。
だが、全くないという訳ではなく、ラティナは頼まれた幾つかの
買い物を済ませた後で、東区の職人街へと道を曲がった。
今は﹃虎猫亭﹄も忙しくない時間だ。ケニスは、ラティナが少し
寄り道をすることも見越して買い物へと出してくれているのだった。
﹁クロエ、今度のお休みの話なんだけど﹂
自宅で針仕事をしていたクロエの元に、茶菓子を持参して顔を出
す。
お菓子は手土産というよりも、単に自分が食べたかっただけだっ
たりする。
クロエもその事は承知しているらしく、仕事道具を隅へと追いや
り場所を作ると、お茶を飲むスペースを作った。ラティナは悪びれ
もせずに自ら持参した包みを開ける。
﹁この間、少し太ったって気にしてたのに、良いの?﹂
からかう口調でクロエが問えば、ラティナは少し口を尖らせた。
﹁平気だもん。食べ過ぎないし、これからの時間もいっぱい動くか
らっ﹂
そう言いながらも、気になっているのか、二の腕の辺りを擦って
いる。クロエから見て、ラティナに余計な肉が付いているようには
見えないのだが、やはり乙女心というのは繊細だ。
﹃気にしてる﹄
自分で持って来たクッキーを前に、複雑そうな表情になったラテ
ィナに、クロエは堪えきれずに吹き出した。
﹁もう少しラティナは肉付いても良いんじゃない?
部分も﹃付かない﹄よ﹂
580
﹁成長期が、みんなよりゆっくりなだけだもんっ﹂
友人たちがだんだんと大人になりはじめて、身体つきに丸みを帯
びているのに対して、身長こそ伸びたものの、未だ幼さの感じられ
るストンとした体型は、今のラティナの悩みの種だ。
﹁ちょっと、だけなら、大きくなりはじめてるものっ﹂
当人の主張に反して、服の上から見る限り、ラティナの変化は確
認できなかった。
これ以上この話題を続けると、涙目になってしまうラティナをよ
く知るクロエは、あっさりと話題を転換することを選択する。
﹁で、今度の休みだっけ?﹂
﹁え、うん。そうなの。シルビアもね、お休み取れるって言ってた
の﹂
﹁シルビア⋮⋮いくらラティナが﹃虎猫亭﹄にいるからって⋮⋮﹃
シルビアは、﹃これ位できないと、この世
伝言板﹄にメッセージ送りつけるのって⋮⋮まずいんじゃないの?﹂
﹁どうなんだろうね?
界では生き残れないのよっ﹄って言ってたけど⋮⋮神殿勤めも大変
なんだね﹂
アクダル
アクダル
﹃緑の神﹄の神官たちの職務は、﹃情報を収集すること﹄だ。旅人
の守護神でもある緑の神の﹃加護﹄を持つ者たちは、その影響も大
きく、生来、知らない土地や知らない情報に強く惹かれる性質を持
っている。
神殿に勤める者たちは、収集した情報を管理し、場合によっては
広く広めることを職務としていた。
また、﹃神殿﹄では、情報を集める為に旅に出る﹃神官﹄たちの
育成や訓練も行っている。
シルビアはそんな訓練生の一人として、勉学と訓練に励んでいる
のだった。
アクダル
﹃踊る虎猫亭﹄は﹃緑の神の伝言板﹄と呼ばれる端末のある、いわ
581
ば﹃神殿出張所﹄だ。神殿との関わりは深い。その関係もあって、
アクダル
時折神官も店を訪れる。見習い神官であるシルビアの様子も人伝に
聞くことができた。
それだけでなく、どうやっているのか、﹃緑の神の伝言板﹄にラ
ティナ宛の個人的なメッセージを送りつけてくるのだった。シルビ
アの﹃加護﹄はそれほど強いものではなく、特殊なものでもないは
ずなのだが、よっぽど要領が良いらしい。
ラティナとクロエは、学舎時代から、そんなところがあった友人
を思い出して苦笑を交わす。
アフマル
﹁赤の神の夜祭り、楽しみだなっ﹂
クロイツでは四季折々に祭りや催しが行われている。領主主宰の
アフマル
ものや東区の商工会主宰のものなどもあるが、中でも最も盛大に行
ニーリー
われるものこそ、ラーバンド国の主神たる赤の神を奉る神殿が行う
コルモゼイ
﹃夜祭り﹄だった。
他の神殿も橙の神の神殿が豊穣祭を行ったり、藍の神の神殿が鎮
アフマル
魂祭を行ったりするなど、市井の人びととも縁深い存在ではあるの
だが、赤の神の神殿の規模には到底及ばなかった。
ラティナも毎年のようにデイルに連れられて見物していた祭りで
あったが、今年は初めて友人たちと見物に行くことが許された。
デイル
親バカは許可を出しながらも不安ではあるらしく、友人たちと予
定を立てるラティナを前にしては、五月蝿い程に口を出している。
おとこ
曰く、一人では絶対行動はしない。曰く、人通りの少ない道には
入らない。曰く、知らない輩が近付いて来たら、油断しないこと。
むしろ攻撃魔法を使って撃退しても構わない。いや、どうせなら先
⋮⋮等々であった。
手必勝だ。変な男も、変じゃない男も全て敵とみなして攻撃しろ!
良いなっ!
﹁デイル、それは、憲兵さんに私が怒られちゃうと思うな﹂
まっすぐ灰色の眸でデイルを見たラティナは、真っ当な返答をし
582
た。
そんなラティナにも、デイルは臆することない清々しい程の笑顔
を向ける。
﹁いいや、世の中ってのは弱肉強食なんだ。それぐらいの心構えは
必要だ﹂
全く悪びれなかった。
ラティナ自身は、デイルは心配しすぎだと思っている。
そして周囲は、デイルは心配しすぎだが、心配するのも仕方がな
いと思っていた。
彼女のその認識の齟齬こそが、デイルの不安を更にかきたてるの
だが、デイルが過剰に反応するからこそ、ラティナは深刻に考えな
いという、残念な結果が生まれていた。
クッキーにトッピングされた、表面がキャラメリゼされたナッツ
の食感に嬉しそうな顔をしながら、ラティナはクロエが縫っている
最中の服を眺める。
﹁どうかなあ。似合うかな?﹂
﹁布選びの時から、何回も当ててみたじゃない﹂
﹁それでも、完成は楽しみだよっ﹂
照れたようにえへへと、笑ったのは、それが自分が注文した物だ
とわかっている為だ。
楽しみにしている夜祭りに合わせて、新品の服に袖を通したいと
思うのも、女の子としては当然の心理なのである。
﹁クロエに見立ててもらったから、いつもと雰囲気違うもの。ちょ
っとどきどきするよ﹂
﹁私の見立てじゃ不安なの?﹂
クロエのふてくされたような表情はわざとだ。ラティナもそれぐ
らいのことはちゃんとわかっている。
﹁だって、自分じゃこういう色とか選ばないもの⋮⋮﹂
583
﹁ラティナは極端なの!
子どもっぽいふわふわフリフリが好きか
と思えば、大人っぽいの着ようとして、似合わないセクシー系選ぼ
うとしたりして﹂
両手を腰に当て、ため息混じりにクロエは言う。
﹁だって⋮⋮﹂
﹁﹃だって﹄じゃないの。ちゃんと自分に似合うのを着ないと!
ラティナはこういったラインの服で、色合いでシックなの選んだ方
が良いんだから﹂
クロエがため息をつくのも無理はない。彼女は服を作るという仕
事に就き、日々流行やデザインといったものに敏感に生きている。
表店からの注文商品を縫うという仕事が多いとはいえ、売れないも
のは作っても売れないというシビアな現場と密接に関わっているの
だ。
そんなクロエにしてみれば、羨むのも馬鹿らしい程の美少女たる
親友は、着飾らせればそれだけ、当人も服の方も映えると感じてい
る。
それなのに、彼女の好みはゆるゆるの甘めのコーディネート一辺
倒だ。まあ、それは良い。ほやんとした所のある親友には、そうい
った服装は確かに似合っている。
問題は、そんな子どもっぽい好みの自分を改めようと、大人っぽ
い服装に手を出す時だ。
そのこと自体は悪いとは言わない。だが、何故だかそんな時のラ
ティナは、セクシーな、大人は大人でも非常に着る人を選びそうな
服を手に取ろうとする。
同年代の娘の中でも、体型に幼いところのあるラティナには、全
く似合わない。後もう少し待って、彼女の望むように女性らしい身
体つきになれたのならば、また話は変わるのだろうが、現段階では
全く駄目だ。
584
おおごと
服飾の世界に生きるクロエにとっては、見過ごすことの出来ない
大事だ。
その為、今回ラティナが服を新調する際には、クロエの監修が入
ったのだった。
甘めの装飾を排してはいるが、凝ったデザインでシンプル過ぎな
いように。レースも子どもっぽくならないように、上等な黒のもの
を。更にシックな色合いにして、ラティナの艶やかな白金の髪が引
き立つように。
﹃大人﹄ではないが、現在のラティナを年相応以上には、見せてく
れるデザインに決めたのだった。
チョイスしたクロエの自信は相当なものだ。
西区のお嬢様や、北区のお姫様にも、我が親友は負けぬといった
心境である。
その一言で、耳たぶまで真っ赤に染まった。
﹁一番見せたい人に、驚いてもらえたら良いね﹂
そんな幼い頃からの親友の恋心を知る身としても、気合いは入る
のだった。
585
白金の乙女、親友と共に。︵後書き︶
フロランタンって書こうとしたら、地名由来の菓子名であることに
気付いて、使うことが出来なかったり。とはいえ食に関しては、相
変わらず緩め設定でお送りしております。
586
白金の乙女、薔薇色の姫君と会う。
クロエの家を出ると、玄関の横で腹這いになって目を閉じていた
ヴィントが、むくりと起き上がってラティナを見た。
﹁待たせてごめんね﹂
彼女の言葉には、ふさっとした尾を振って返答とする。
一人と一匹で並んで歩き始めて間もなく、ラティナはその人物に
気が付いた。若い女性だ。目を惹いたのは、旅人らしい服装である
為だ。この職人街では旅人はあまり見かけることはない。ここも商
業地区の東区ではあるが、街の人や一部の冒険者以外は、表店の商
店を利用する事が普通だからだ。
﹁迷子かな?﹂
﹁わふ?﹂
ぽつり呟いたのは、かつて自分も、この職人街で迷子になった事
があった為だ。酷く心細かったことを思い出す。ここはまるで迷路
のように入り組んでいるのだ。無理もない。
女性は、キョロキョロと周囲を見回しては、足を止めている。そ
んな仕草を見れば見る程、自分の推測が正しく思えた。
﹁あの⋮⋮お困りですか?﹂
﹁え?﹂
濃い栗色の髪を揺らして女性が振り返る。彼女の顔を見た途端、
ラティナは思わずぽかんと口を開いた。
︵ふあぁ⋮⋮凄い綺麗なひとだぁ⋮⋮︶
彼女の方も何だか驚いているようだが、ラティナはそれには気付
なんか何処かで⋮⋮︶
かず、別の事を考えていた。
︵んー⋮⋮?
思考に没頭しながら、眼前の女性の深く色濃い青い眸を見る。そ
587
の瞬間、思い出した。
妖精姫ね!﹂
﹁薔⋮⋮﹂
﹁まあ!
ラティナが、ビクッ。と飛び上がってしまったのも仕方ないだろ
う。
﹁ふえぇ?﹂
情けない声を出して、目の前の女性を見る。自分より年上の優し
そうな顔立ちの綺麗な女性だ。長い睫毛の下の藍色の眸は、悪戯っ
ぽく煌めいている。ほっそりした華奢な容姿と繊細な美貌の持ち主
・
・ ・
・
・
・
なのに、深窓の姫君という印象ではない。
・
そうなのだ。姫君なのだ。
以前見た時の特徴的な髪の色とは違うのだがーー恐らく隠してい
るのだろう。そういった目で見れば何処か不自然だーー顔と眸の色
には、見覚えがある。
その貴族の姫君であるはずの彼女に、下町の一庶民である自分が
よりにもよって﹃姫﹄と呼ばれるとは、どんな冗談なのだろう。
白くてすらりとした手を、胸の前でぽふんと合わせて微笑んでい
る﹃彼女﹄の前で、ラティナはぐるんぐるんと混乱していた。その
動揺は相手に伝わっているらしく、彼女は可笑しそうに更に微笑み
を深くした。ますます優しそうな眸が印象的になる。
﹁⋮⋮恥ずかしいので、その言い方は⋮⋮止めてください⋮⋮﹂
結果、ラティナが絞り出す事が出来たのは、その一言だった。
﹁私の方こそ失礼致しました。お噂以上に愛らしい方でしたので思
わず⋮⋮﹂
﹁ふあぁぁ⋮⋮デ、デイル⋮⋮他所で何を⋮⋮﹂
両手で頬を押さえると火照っていることがわかる。
自分が、可愛がってくれている常連客たちに﹃妖精姫﹄との渾名
588
を付けられている事は知っている。
あの店の中での自分はまだま
だ﹃おちびさん﹄なのだ。だから、﹁お嬢ちゃん﹂だし﹁お姫さま﹂
扱いをされて猫可愛がりされるのも、あの店の中でなら、まだわか
る。
デイルは確か、この女性の事を﹃友人の知り合い﹄だと言ってい
た。
という事は、この愛称混じりに自分の事を少なくとも、その﹃友
人﹄にも話しているのだろう。どんな事を話しているのだろうか。
とにかく恥ずかしい事は、間違いなかった。
﹁⋮⋮薔薇姫さま⋮⋮ですか?﹂
﹁まあ⋮⋮私の事をご存じですか?﹂
にっこりと微笑む彼女の様子からして、自分の勘違いではないら
しい。ラティナは数度周囲を見回した。連れらしきひとの姿は見つ
けられない。
﹁以前、お見かけした事があります。⋮⋮お一人ですか?﹂
ラティナの問いに、彼女は静かな視線を向ける。すっと心の奥底
まで見られているような、落ち着かない気持ちにさせられる。
﹁ええ。不案内なもので、門を間違えてしまったようですの。貴女
にお聞きするのが早いですわね。⋮⋮デイル・レキ様のところに案
内してくださいませんか?﹂
不自然だ。
そう、すぐに理解する。恐らくあまりよくない出来事に関わって
いる気がする。
とはいえ、断る理由も見つからない。ラティナは数瞬沈黙し、作
り笑いではあるものの微笑みを浮かべてみせた。
﹁デイルは今、仕事で他出しているはずです。とりあえず、デイル
の拠点にしているお店の方にご案内しますね﹂
﹁ありがとうございます﹂
589
微笑む薔薇姫に笑顔を向けながら、ラティナは身を屈めた。傍ら
にいるヴィントにそっと囁く。
南の森にいるはず
﹁⋮⋮ヴィント、ケニスにこの事伝えて。私は大丈夫だから﹂
﹁わふ?﹂
﹁その後、出来ればデイル探して来てくれる?
だから﹂
﹁わん﹂
一言答えて踏み出す前に、ヴィントは、ぱふっとラティナに尾を
擦りつけた。ちゃんとしろよと言われているようで、ラティナは小
さく苦笑する。
クロイツ南の森は、ヴィントにとっては遊び場だ。たまに街を抜
け出しては色々遊んでいるらしい。だいぶやんちゃな遊び方をして
いるらしく、初めの頃ヴィントが遊びに行った後でデイルが、﹁そ
のうちお前が退治されるから﹂とお説教していたのだった。それ以
降は街から離れた奥地で遊んでいると言っていた。
誰に頼むよりも、ヴィントに任せるのが一番早いだろう。
﹁変わった獣ですね﹂
﹁とても賢い仔なんです﹂
そう答えながら、ラティナはもう一度周囲を見る。今回見回した
のは、さっきとは異なる種類の者がいないかどうかを探る為だ。不
自然にこちらを窺っている者はいない気がする。とりあえずは大丈
夫だろうか。
﹁東門から入って良かったのだと思います。⋮⋮南門だと、あんま
それとも人目に付かない方がよろしいですか?﹂
り素行の良くないひとも多いですから。⋮⋮表通りで向かいますか
?
﹁まあ﹂
彼女は小さく驚いたような声を発し、再び優しい微笑みに表情を
590
変える。
﹁追っ手は撒いて参りましたから、大丈夫だと思いますけれど。あ
まり人目に付かない方が良いのかもしれません﹂
やっぱり、あまり良くない出来事っぽい。
ラティナは若干ひきつる笑顔をはりつけた状態で、薔薇姫を先導
し、帰路につくのだった。
﹁買い物に行って、予想外の土産を持って帰って来たな⋮⋮﹂
呆れ顔のケニスが店の前で待っていた。ヴィントは先触れの役割
をちゃんと果たしてくれたらしい。
・
・
・
﹁ヴィント、行ってくれた?﹂
﹁ああ。あいつはラティナの言うことしか、基本的に聞かないから
な⋮⋮言ってくれて助かった﹂
ケニスもデイルを呼び戻すべきだと考えたらしい。ラティナの判
断を否定しなかった。
﹁とりあえず中に入れ。奥が空いてる﹂
﹁わかった。⋮⋮どうぞ、こちらに﹂
﹁ありがとうございます﹂
そう言って笑う薔薇姫は、下町の﹃踊る虎猫亭﹄という、決して
上等ではない店の雰囲気にも嫌がる素振りもなかった。
固い木の椅子に背筋を伸ばして座る所作は美しいが、あまり﹃貴
族のお姫さま﹄らしくはない姿だ。
﹁デイル・レキ様が戻られる前に、私の事をお話しするべきですね。
名乗るのが遅くなりました。私はローゼ・コルネリウス。コルネリ
ニーリー
ウス家は領地と爵位を預かる家柄ではありますが、私自身の立場は、
﹃藍の神﹄の神殿の元にあります。ですから、あまり畏まらないで
591
くださいまし﹂
ニーリー
そう微笑むローゼは、確かに気安い雰囲気のある穏やかな女性だ。
﹃藍の神﹄の神殿は市井に門扉を開き、病や怪我を治療する施設を
兼ねている。そこで働いているなら、﹃貴族﹄らしくない親しみや
すさもその為なのだろう。
﹁高位の﹃加護﹄を持つ、稀代の神官として名高いとは聞いた事が
ある﹂
﹁それほどの事はないのですけど、生まれつき﹃珍しいもの﹄を持
っておりますので、良くも悪くも目立ってしまいますの﹂
かつら
そう言って、自分の髪に触れる。濃い栗色の髪はよくよく見れば、
・
・
鬘であるようだった。
﹁そのかわり、それさえ隠してしまえば、皆、私のことに気付かな
いのですけどね﹂
クスクスと微笑んだローゼには、いたずらっ子のような雰囲気が
ある。
﹁⋮⋮デイルに何のご用ですか?﹂
﹁言付けを託したいのです。私、この街の領主である伯とは、面識
がございませんので﹂
警戒心を滲ませるラティナにも、不快そうな表情を見せずローゼ
そもそも一人で遊び歩くような
は答えた。年齢以上に落ち着いた気配の微笑みを浮かべる。
﹁何故、わざわざデイルに頼む?
立場の﹃姫君﹄ではないだろう﹂
ケニスの声にも警戒の色がある。それにすら当然とばかりな顔を
して、ローゼは静かに答えた。
﹁私、つい先日まで、﹃二の魔王﹄の元におりましたの﹂
592
青年、薔薇色の姫君と。
﹁⋮⋮ローゼっ!?﹂
﹃踊る虎猫亭﹄に帰って来たデイルは、奥で茶器を傾けるローゼに、
すっとんきょうな声をあげた。その後ろに付き従って来たヴィント
は、マイペースに前に進み出て、ラティナに頭を擦りつける。褒め
ろという事だろう。
﹁ありがとうヴィント。デイル、お帰りなさい⋮⋮あのね、よくわ
かんないんだけど⋮⋮ローゼ様と、会っちゃった﹂
﹁確かにその説明じゃ、なんもわかんねぇな⋮⋮﹂
ラティナは、膝を折りヴィントを撫でながらデイルを見上げる。
少し首を傾げているのは困惑の現れだった。
やはり困惑するしかないデイル相手に、ローゼは微笑み、略式の
礼をする。何気ない動きであっても彼女の動作は洗練されている。
埃っぽい旅装姿であっても上流階級の人間である事が伺われた。
﹁ご無沙汰致しております、デイル様。﹂
﹁ああ⋮⋮何でこんなところに?﹂
﹁私、こう見えましても困っておりますので⋮⋮単刀直入に申しあ
げますわね。私、つい先日まで拐かされておりましたの﹂
うえぇっ!?﹂
爆弾発言であった。
﹁え?
デイルから妙な悲鳴が上がった。ラティナに至っては驚き過ぎて
声も出ない。ヴィントは相変わらずマイペースにしっぽをぱふんぱ
ふん振っていた。
﹁に⋮⋮二の魔王に?﹂
﹃虎猫亭﹄到着後、ローゼが一言告げて、その後沈黙していた事を
593
思い出して、ラティナが呟く。ローゼはそれには首を横に振った。
﹁いいえ。私を拐かした者は違う者です。⋮⋮もう、誰であったか
たのですか?﹂
を探る事は難しいですけれど⋮⋮二の魔王がその者たちを殺めてし
まいましたので﹂
﹁ローゼ様は⋮⋮どうして無事だっ
ラティナの声は硬い。
彼らのおう
幼い頃より、この子は﹃二の魔王﹄の話題が出るとこういう表情
になる時がある。
﹃一の魔王﹄の国ヴァスィリオの者にとって、﹃一の魔王﹄を殺し
た二の魔王は仇敵だ。その為だろうかと、デイルは推測する。
﹁気まぐれ、であったようです。私が魔力形質持ちで⋮⋮﹃面白そ
う﹄だからであると﹂
﹁⋮⋮その後何事もなく解放されたのか?﹂
﹁二の魔王の側近として控えていた方が、逃がしてくださいました。
私も詳しい事情までは存じませんが⋮⋮あまり、二の魔王に忠心を
持って仕えていらっしゃるようには見えませんでしたの⋮⋮﹂
﹁⋮⋮二の魔王は、自分の﹃魔族﹄⋮⋮自分の眷属を恐怖で支配し
ているんだよ。奴隷であって、玩具なんだって。⋮⋮一の魔王みた
いに、自分を助けてくれるひとを魔族に迎えて、一緒に﹃生きる﹄
のとは違うの⋮⋮﹂
ぽつりと答えたのは、表情を強張らせ、抑揚の無い声で告げるラ
ティナであった。
﹁ラティナ?﹂
﹁二の魔王は怖いんだよ。⋮⋮昔、一の魔王を殺した時も、簡単に
死ぬひとは殺しても面白くないからって⋮⋮それだけの理由だった
んだよ﹂
﹁⋮⋮どうしてそんな話を知っているんだ?﹂
デイルの問いに、彼女は一つまばたきして表情を取り戻した。デ
イルを見上げて少しだけ悲しげな顔になる。
594
﹁昔、生まれたところにいた頃、聞いたよ。二の魔王は、とてもと
ても怖いから気をつけなさいって。出会ったら、殺されてしまうか
もしれないから、ちゃんと隠れていなさいって﹂
﹁⋮⋮父親にか?﹂
﹁ラグだけじゃ無いよ。魔王のお話してくれたのは、⋮⋮おかーさ
んの方が多かったから﹂
﹁⋮⋮私を逃がしてくださった方も、似たような事を仰っていまし
た。﹂
ローゼはそう言ってから、改めてデイルを見る。
﹁そのような経緯がありまして、私も不用意に自らの所在を公には
出来ませんでしたの。⋮⋮デイル様のことを思い出して、この街ま
でたどり着きましたけども、何処にいらっしゃるのかわからなくて
困っておりましたところを、﹃妖精姫﹄に助けて頂きましたの﹂
﹁⋮⋮デイル﹂
ローゼが再び出した呼称に、ラティナが若干据わった目でデイル
を見る。ちょっとだけ冷や汗をかきながら、デイルはそっと視線を
外した。
最近のラティナは、声高に﹃うちのこ可愛い﹄を叫ぶと、どこか
嫌そうな反応をしてくるのだ。大人になってきたということなのか
もしれないが、何だか寂しい。
そこで最近では、ラティナに気付かれないように、彼女のいない
ところで﹃うちのこ自慢﹄とそれに関する威嚇行動を繰り返してい
るのだった。自重する気はさらさらなかった。そこは改めない。
﹁最初に私を拐かした者の背後関係もわかりませんので⋮⋮誰に頼
るべきなのかも⋮⋮ですから、デイル様に﹂
﹁あ、ああ。そういう話なら、きっとあいつ、心配してるなんて話
じゃ済まないだろうな⋮⋮今すぐ書簡を送ったとして、返信が来る
595
までも何日か掛かるかもしれないぞ?
その間どうするんだ?﹂
﹁何処か紹介して頂ければ、そちらに参ります。この街でしたら、
旅人相手の宿も数多くあるのでしょう?﹂
﹁⋮⋮俺も、ローゼに紹介出来るような、高級宿はあまり⋮⋮﹂
﹁あら。私、あまり持ち合わせがありませんので、安価な宿の方が
助かります。この街に来るまでも、そのような宿に泊まって参りま
したし﹂
﹁⋮⋮ローゼ﹂
﹁ふえぇ⋮⋮﹂
笑顔でとんでもない事を言っているローゼ相手にデイルはため息
をつき、ラティナは、動揺も露に口癖が漏れ出ている。
最近のラティナは幼さの感じる口癖も改めようとはしているらし
・
デイル
いが、動揺した時などつい出てしまうらしく、あまり改善は見られ
なかった。
・
そのままで良いのに。可愛いんだから。と、親バカは思う。
・
﹁軽はずみな行動すると、あいつ何するかわかんねぇから⋮⋮﹂
﹁だって、拐かされておりました私ですもの⋮⋮持ち合わせがある
はず無いではありませんか。冒険者の皆さまの真似事をして、幾ら
何したんだ?﹂
か路銀を得ることは出来ましたけれど、それも覚束無くて⋮⋮﹂
﹁ちょっ⋮⋮待て、ローゼっ?
﹁途中の町で、お仕事を受けましたの。魔獣退治と、それらの転売
ですわね。この街までの路銀はそのようにして得ましたが⋮⋮それ
が?﹂
﹁え、えーと⋮⋮デイル⋮⋮﹂
途中、耐えきれなくなった様に、ラティナが口を挟んだ。その表
情は既に困惑一色だ。
﹁ローゼ様って⋮⋮お姫様、なんだよね⋮⋮?﹂
﹁⋮⋮貴族の娘という意味ではそうだな﹂
596
﹁なんだよね?﹂
ころころと笑うローゼは姿形も物腰も﹃姫君﹄の呼び名に偽りは
無い。だが、中身はだいぶ異なる様だ。
﹁⋮⋮途中で絡まれたりしなかったのか?﹂
﹁デイル様。その様な御仁は黙らせましたので、ご心配なく﹂
むしろ、心配しか無いが。
﹁魔法使いは近接戦闘が出来ないというのが定説ですが、私の様に
魔力に余裕の有るものは、簡易式の連続詠唱で、多くの事象に対応
出来るものですわよ﹂
デイルも魔法に関しては﹃加護﹄の恩恵で魔力量に余裕がある。
その事はわからなくとも無い。つまりは、発動の早い簡易式でのご
り押しだ。
それでもそれは、この様な、か弱い外見の女人の発言ではないだ
ろう。
デイルはローゼと面識はあったが、友人を交えての通り一遍のも
ので、そこまで親しくしている訳ではない。ここまでぶっ飛んだ性
質を持っているとは思わなかった。外見を裏切り過ぎている。
︵優秀な魔法使いだって事は知ってたが⋮⋮︶
独白と共にため息が出た。
ここ
﹁それなら、せめて、﹃虎猫亭﹄に泊まれよ⋮⋮大丈夫だろ、ケニ
ス?﹂
﹁部屋はなんとかなるが⋮⋮周囲の部屋の客迄は動かせんぞ?﹂
・
・
・
﹁他所の宿に行かせるよりは、マシだろ⋮⋮これで、目を離したな
んて言ったら、俺があいつに殺される⋮⋮﹂
友人の技量は、デイルも認めるものだった。怒らせて本気でやり
合うのは勘弁したい。
597
﹁持ち合わせ足りますでしょうか?﹂
シビア
﹁⋮⋮そのくらい、俺が持つから⋮⋮﹂
なんだか金銭感覚も非常に庶民的な﹃薔薇姫﹄は、その二つ名に
ふさわしいほどに、華やかな微笑みを見せた。
598
白金の乙女、薔薇色の姫君に乞う。
ローゼはあれから﹃虎猫亭﹄の一室で暮らしている。ほとんど部
かつら
屋から出て来ないのは、やはり自分の立場を弁えているからだろう。
たまに外に出る時は栗色の鬘を着けている。
そんな生活をする彼女に外の湯屋を使わせに行く事も出来ない為、
﹃虎猫亭﹄裏手の簡素な風呂を使ってもらう流れになった。ラティ
ナの言い付けでヴィントがしっかりと見張る中という、安全面だけ
はある程度保証された状態だった。
ローゼはそれにも不満をこぼすことはなかったが、濡れた髪の上
から鬘を被ることだけは、やはりあまり心地の良い事ではない為、
そのまま華やかなローズピンクの長い髪を露にして、乾かす姿が見
られた。
ローゼは髪を乾かす間は、人目の付かない場所に居るようにして
いる。その場所が初めは厨房の奥であったのが、やがて屋根裏のデ
イルの部屋へと移っていったのは、魔法使いとしても優秀なローゼ
の教えを、ラティナが乞うようになったからであった。
ラティナ
ローゼも引きこもり、することもなく過ごす日々に退屈していた
らしい。教えればそれに応えてくれる真面目な生徒の様子に、だん
だんと熱を入れた。
言い方を変えると、ローゼは存外スパルタであった。
実はラティナは、今まで穏やかな環境でしか﹃学んだ﹄ことがな
い。学舎時代はもとより、彼女に魔法を教えたデイルや、ティスロ
ウでのコルネリオ師父等も教え方は穏やかだ。
それに反してローゼは手厳しい。理不尽な厳しさではなく、彼女
は大きな﹃武力﹄である魔法を扱う者として、自らにも他者にも、
599
律した姿勢でいるのだった。
﹁⋮⋮ええ。やはりラティナさんは、基本理論は問題ないようです
ね﹂
前日にラティナが書いたレポートを講評するローゼの前で、ラテ
ィナは背筋を伸ばしている。不愉快な感じではなく、自然に姿勢を
正すそんな雰囲気があるのだ。普段のローゼはどちらかというと穏
やかで気安い雰囲気を周囲に与える。それだけローゼが﹃魔法﹄と
いう物に真摯な姿勢を持っている証拠とも言えるだろう。
周りの大人のひとたち⋮⋮言葉に厳しいひとも
それにしては難しい語句の理解度が高いように感じられます
﹁魔人族とはいえ、ラティナさんは幼い頃に故郷を離れたのでしょ
う?
が?﹂
﹁そうなのかな?
多かったから⋮⋮からかな?﹂
とはいえ、ラティナの言葉遣い自体は、当初に比べてだいぶ砕け
たものになっている。
そういった点ではローゼは寛容で、ラティナは人懐こい性格の主
だ。友人というよりは、ローゼにラティナが甘え、ローゼはローゼ
で嫌そうともせず面倒をみているという姉妹のような関係になって
いた。
デイル
親バカとローゼが決定的に違うところは、ローゼは厳しい面はと
てもはっきりと厳しいという所か。
まあ、二人はそんな風に概ね仲良くやっているのだった。
﹁それに比べて、あまり攻撃魔法の術式はご存知ないようですね﹂
﹁うん。デイルがね、危ないから覚えなくて良いって、教えてくれ
なかったから﹂
﹁私たちのような、純粋な力では他者に及ばぬ者にとって、魔術は
自衛の大きな手段です。使い方を誤れば危険な力とはなりますが、
600
だからこそ深く理解し、使いこなす事が重要になります﹂
ローゼがラティナの丁度良い教師になったのは、二人とも魔法属
性が﹃天﹄と﹃冥﹄であり、使用出来る魔法が同じであったという
面も大きかった。
﹁ラティナさんは魔力制御も得意でいらっしゃいますから、状況に
応じた呪文の選択肢を増やす事が、危険性を軽減するのではないか
と思います﹂
﹁はいっ﹂
表情を引き締めて良い返事をする姿も真面目なのだが、どことな
く微笑ましく見えるのは、当人の資質なのだろう。
そんな中、ラティナが要望してまで、ローゼから教わったのは、
﹃浄化魔法﹄−−いわゆる﹃天﹄属性の対アンデッド魔法−−であ
った。
ラティナは幼い頃怖い思いをした為に、アンデッドモンスターが
苦手なのだった。若干のトラウマである。
デイルは天属性の適性を持っていないため﹃浄化魔法﹄は使用出
来ない。彼の使える対アンデッド魔法は、﹃冥﹄属性魔法を物理攻
撃に付加するという形式になる。それはアンデッドモンスターを直
視し、間合いに入ってぶん殴るという事が出来るか、という話だ。
怖いからこそ対抗手段が知りたいラティナにとっては、難易度が高
すぎるのであった。
頑張って覚えるっ﹂
﹁ラティナさんなら、一度で複数に範囲を広げる事も出来ると思い
ますよ﹂
﹁そうかなっ?
トラウマ克服の為に、ラティナは呪文の鍛練に勤しむのであった。
﹁なぁ、ラティナ﹂
﹁なあに?﹂
601
そんなラティナの姿を見ていたデイルは、ある夕食の席で疑問を
口にした。
﹁⋮⋮そんなに魔法、一生懸命覚えて⋮⋮将来冒険者になるとか言
わねぇよな?﹂
不安に思う。彼女は既に﹃魔法使い﹄として一流とまでは言わな
いが、平均以上の能力は持っているだろうとデイルは見ている。
冒険者のような仕事をしようと思えば、出来るだけの能力はある
のだ。
だが、そんな不安定で危険な仕事など就いては欲しくない。それ
うーんとね⋮⋮私はね、﹃虎猫亭﹄みたいなご飯屋さんが
が﹃親心﹄なのだろう。
﹁え?
やれたら良いなぁとかって思うの。でもね、また旅には出てみたい
なっ。あちこち知らない町とか見て回ったり⋮⋮おばあちゃんやマ
ーヤちゃんに会いに行ったりしたいの﹂
とりあえずその返答にほっとする。
﹁⋮⋮昔はね、デイルのお仕事に一緒に行きたいって思ってたんだ
よ﹂
﹁え?﹂
ラティナがそんな風に、少し困ったような寂しそうな苦笑を浮か
べて言った言葉に、デイルは呆気に取られた。
﹁お留守番するのが嫌だから⋮⋮デイルのお仕事に一緒に行けるよ
うになれば、お留守番しなくて済むでしょ﹂
ラティナはそう言って、笑う。幼い頃から彼女に我慢をさせてき
た自覚のあるデイルは困った顔をした。
﹁⋮⋮ごめんな﹂
﹁ううん。デイルを困らせたいんじゃないの﹂
えへへと、誤魔化すような笑顔を作った後で、ラティナは不意に
真面目な顔になった。
﹁でもね、私だと無理だってことも、大きくなったらわかっちゃっ
602
た﹂
﹁え?﹂
﹁もし、私がデイルのお仕事に付いて行ったら⋮⋮邪魔になるだけ
そんなに自分
だよ。だからね、ちゃんとお留守番するって決めたの﹂
﹁ラティナは魔法使いとしても、かなり優秀だぞ?
のこと卑下しなくても⋮⋮﹂
﹃冒険者﹄等にはなって欲しくないと思いながらも、それと反する
ような言葉を口にしたのは、ラティナに自分への評価を必要以上に
下に見て欲しくなかった為だ。
彼女には何よりも自分のことを大切に思って貰いたい。
﹁ううん。デイルが本当に凄いんだって事がわかるようになったか
ら。私、魔力もそんなに多くないし⋮⋮デイルを守れるような大き
な﹃力﹄はないもの。それに、きっと、本当に危ない時も、デイル
は自分のことより、私のことを気にしちゃうんだろうなぁって思っ
たの﹂
﹁当然だろ﹂
デイルは即答した。そんな予想通りの自分の﹃保護者﹄に、ラテ
だから私は、デイルのお仕事はお手伝い出来ないんだ
ィナは微笑んだ。
﹁でしょ?
よ﹂
我慢させていることも、寂しい思いをさせてきたこともわかって
いた。
でもこの子は、幼い頃から聞き分けの良い賢い子だったから、自
分はそれに甘えている面もあったのだ。
﹁⋮⋮ラティナなら、わかると思うけどさ﹂
﹁ん?﹂
﹁ラティナが﹃おかえり﹄って迎えてくれるのは、俺にとって、凄
ぇ嬉しいことなんだぞ?﹂
603
デイルの言葉に驚いたような表情になったラティナは、穏やかで
柔らかい笑顔になった。
﹁うん⋮⋮そうだね。﹃おかえりなさい﹄って﹃場所﹄は大切だよ
ね﹂
﹁ああ。ラティナはちゃんと、俺の﹃力﹄になっているんだからな
⋮⋮﹂
表情が明るくなったラティナに安堵しながらも、心の片隅で考え
る。
︵本当にこの子は⋮⋮色んなことを、よく見ているな⋮⋮︶
なのに何故、自分のことは﹃無自覚﹄の事が多いのだろうかと、
﹃保護者﹄は心配半分のため息をつくのだった。
604
白金の乙女、薔薇色の姫君に乞う。︵後書き︶
この連休でストック作れるように、努力します⋮⋮
いつもご覧下さりありがとうございます。
605
くりくり幼児、灰色のもふもふと遊ぶ。
アフマル
赤の神の夜祭りが近付いて来たことで、クロイツの街のあちこち
に、賑やかで落ち着きない空気が漂っていた。大都市クロイツ屈指
の祭りだ。各商店も祭り目当ての旅人を見越した準備に勤しんでい
る。それに合わせて訪れる商人を護衛して来た冒険者たちの数も増
え、﹃踊る虎猫亭﹄の忙しさもいつも以上になっているのだった。
﹁ラティナねぇね﹂
﹁なあに、テオ?﹂
﹁あそぼ﹂
﹃虎猫亭﹄の裏手で幼いテオドールがそう言って来たのに、ラティ
ナは少し困った顔をした。ラティナは今、﹃虎猫亭﹄で使用してい
るシーツを山盛り抱えている。洗濯は非常に重労働な作業だ。魔道
具などで簡易化できるということもない。その為、衣類程度なら自
ら洗うが、このような大物の場合は、まとめてそれを職としている
者に委託している。
ラティナは現在、そのお使いに向かう途中だったのだ。
﹁⋮⋮ごめんね、テオ。今は無理なの﹂
気を抜くと落としてしまいそうな量だ。リタ一人では到底無理で、
元々はケニスが請け負っていた仕事であった。ラティナは魔法で重
量を変化させることが出来る為、細い腕には不釣り合いなほどの荷
物を運べるのだ。
﹁あそぼー﹂
﹁ごめんね、お洗濯頼んで来たら遊べるからね。ちょっと待ってね﹂
ラティナの繰り返した言葉に、テオはぷくっと頬を膨らませた。
︵テオのぷくぷく頬っぺた可愛い⋮⋮︶
606
幼児のぷにぷにすべすべ頬っぺが膨らむ様に、困りながらも表情
を緩ませるラティナは、テオのその仕草そのものが、﹃大好きなお
姉ちゃん﹄の真似だということには気付いていない。
﹁やーだーっ、あそぶのーっ﹂
﹁テ、テオっ、危な⋮⋮﹂
それでも駄々を捏ねて、ラティナのエプロンにぶら下がったテオ
に、ラティナが慌てた声を出した瞬間、急にその負荷が軽くなった。
﹁はなせーっ﹂
じたばたと暴れるテオをものともせず、ヴィントがその首根っこ
をくわえているのであった。締まらないように絶妙な位置を選んで
くわえるヴィントは、テオに対するこの動作に﹃手慣れて﹄いるの
だった。
﹁ヴィント﹂
ぱふん、としっぽを振って、﹁早く行け﹂との意思表示をするヴ
ィントに、ほっとしたような表情を向けて、ラティナはもう一度テ
オに声を掛けた。
﹁ごめんね、テオ。帰って来たら遊ぼうね﹂
﹁やーだーぁっ﹂
それでもごねるテオの姿に後ろ髪を引かれながらも、ラティナは
洗濯物を抱え直して出掛けて行った。
ラティナの姿が見えなくなると、ヴィントはテオをようやく地面
に下ろした。ぽとっといった様な、割合乱暴な落とし方だったが、
テオは泣き出すことはなかった。
﹁ねぇねっ﹂
尻餅をついた状態から立ち上がると、ラティナの向かった方向へ
と追いかけようとする。そのテオの前をヴィントがするりと塞いだ。
﹁ヴィー、じゃまっ﹂
﹁わふ﹂
607
回りこもうとするも、ヴィントはそれも身体で邪魔をする。テオ
がぷくっと膨れてみせても、ヴィントはそれで手を緩めることはし
ない。
なにぶん﹃彼﹄にとっては、ラティナに不利益が起こらないか否
かが最大の観点なのだ。テオの面倒をみるのも、ラティナがテオを
可愛いがっているのを知っているからだ。
このちいさなひとの子に何かがあれば、ラティナが悲しむ。それ
は避けねばならない。
だからこそ、今、手の離せないラティナの邪魔をこの幼児にさせ
ることも、ラティナが離れたこの時に何事かを起こさせることも、
あってはならないのであった。
﹁うーっ﹂
唸り声を不機嫌そうに上げたテオだったが、やはり泣き出すこと
はなかった。この幼児は、外見はどちらかと言えば母親似だ。幼子
特有のふわふわした髪の毛が黒いことが、その印象を強めている。
だか、性格の方はどちらに似てるかは断定できない。
あの夫婦はどちらも気が強い。リタはわかり易いが、ケニスもか
なりのものだ。なにせケニスは、﹃虎猫亭﹄を訪れる冒険者の大御
所どもも、一目置く程の男なのである。
そんな両親のあちらこちらを引き継いでいるテオは、この位の妨
害で泣きべそなどはかかないのであった。
ヴィントへ向かい、突進する。
ひょいっとかわされ、バランスを崩したところを前肢でぺちょっ
と倒された。
流石に少し涙が滲む。
背中に感じる肉球の感触がなおのこと腹立たしい。﹁触らせて﹂
と頼んでも嫌がるのに、自分から押し付けるのはありなのか。
608
テオが起き上がろうとすることには、ヴィントは邪魔をしなかっ
た。
更に再び挑んで来るのを、格上の余裕を持って相手をする。
テオがコロンコロンと転がされ、土まみれになるのはいつも通り
の﹃彼ら﹄の遊びだった。
テオが当初の目的を忘れて、ヴィントに挑むことが目的にすりか
わった頃、﹃虎猫亭﹄の裏口からデイルが顔を出した。
﹁⋮⋮何やってるんだ、お前ら?﹂
﹁わふ﹂
﹁デイル﹂
ねぇね
声を掛けたデイルに一人と一匹が返答する。
テオドールは、ラティナのことは﹃姉﹄と呼ぶのに、何故だか彼
のことは呼び捨てにするのだった。不条理じみたものをデイルは感
じていた。全く解せない。
﹁ヴィントと遊んでたのか?﹂
﹁ぼく、ヴィーにかつのっ﹂
﹁⋮⋮まだテオには、難しいんじゃないかなぁ﹂
﹁わふぅ﹂
まだ仔どもとはいえ、ヴィントは魔獣よりも更に強力な﹃幻獣﹄
の個体だ。幼児が敵う相手だとは思えない。どこかどや顔をした雰
囲気のヴィントもそれに同意しているようだった。
﹁できるもんっ﹂
﹁⋮⋮難しいと思うぞ﹂
それでも言い張るテオドールに、小さく肩を竦めたデイルは、そ
ばに落ちていた棒を拾う。一度振ってしなり具合を確認すると、ヴ
ィントの方を見た。
﹁ヴィント、来るか?﹂
609
﹁わんっ﹂
一言答えた次の瞬間には、灰色の獣はデイルへと躍りかかった。
すい、とデイルが慌てた様子もなく避けるところに、着地と同時に
体勢を整えたヴィントが再び飛びかかる。
上体を捻る動きだけでデイルはそれを避ける。その時に手にした
枝を振り切った。
ヴィントも身体を伏せてそのデイルの攻撃をやり過ごす。
目まぐるしく移る攻防にテオドールが口を開けたまま、そのやり
取りを見詰める。
ヴィントはまだ仔狼だ。単体ではデイルには敵わない。だからこ
そヴィントにとってもデイルは、やりごたえのある﹃遊び相手﹄な
のだった。
﹁⋮⋮ヴィー、デイルよりつよい?﹂
﹁テオにはそう見えるかぁ﹂
ヴィントの攻撃を、デイルは時折手で受け止め払っている。だが
デイルの棒は、ヴィントにかすりもしない。
その理由は、デイルとヴィントは、本気を全く出していない。あ
くまでも﹃遊び﹄の範疇内であるからだった。
本気で﹃こういうこと﹄をしていれば、次第に熱が入り、そのう
ちどちらかが怪我をすることになるだろう。
命をどうこうする大怪我にはならないだろうが、一人と一匹が危
惧するのはそこではない。
怪我をするような事態になったことが、ラティナにばれると、た
ぶん叱られる。
並んで正座させられて、腰に手を当てたラティナにお説教される。
もしかしたら、怒ってしばらく口を利いてくれなくなるかもしれ
ない。
610
それは絶対に避けねばならぬ事態なのであった。
しばらくデイルはヴィントの遊びに付き合うと−−物分かりの良
い獣ではあるが、あまりそれに甘えて押し付けるばかりもいかない。
ストレスを溜めないうちに発散させることは大切だ−−今度はテオ
の方を見た。
﹁テオ、ひと相手に棒は振り回すなよ﹂
﹁ダメ?﹂
﹁当たったら痛ぇだろ。やられちゃ嫌なことはするもんじゃねぇ﹂
やはり男の子らしく、デイルの真似をして細い棒切れを振り回し
て遊び始めたテオに釘を刺す。
﹁⋮⋮もうちょい大きくなったら、剣でも教えてやるからさ﹂
デイルはそう言いながら、それは父親であるケニスの役割なのか
なぁなどとぼんやり考えていた。でも、幼児に手解きするには、い
きなり戦斧というのは難易度が高い気がする。
−−別にケニスは斧しか使えない訳ではないのだが、やはり印象
というのは大きいらしい。デイルは、剣を扱うケニスの姿が想像出
来なかったりするのであった。違和感しかない。
そんなことを考えながらぼんやりと眺めているデイルの前で、幼
児は、灰色の仔狼により、棒切れをしっぽの一撃で叩き落とされた
後で、再び転がされているのであった。
611
くりくり幼児、灰色のもふもふと遊ぶ。︵後書き︶
いつも適当なサブタイトルですが⋮⋮だんだん、名付けに困ってき
ました⋮⋮
いつもお読みくださり、誠にありがとうございます。
612
くりくり幼児、青年と遊んであげる。︵前書き︶
幼児と休日的な話その二。
613
くりくり幼児、青年と遊んであげる。
みせ
テオドールは、ご立腹だった。
﹃踊る虎猫亭﹄が近頃忙しいために、大好きなお姉ちゃんが遊んで
くれないのだ。それだけではなく、﹃おべんきょう﹄だと言って、
店にいる﹃お客さん﹄と話ばかりしている。
自分とは遊んでくれないのに、ずるい。お客さんと話をする時間
があるなら、自分と遊んでくれたら良いではないか。そう、思って
いた。
ヴィントと遊ぶのは楽しいが、テオは﹃大好きなお姉ちゃん﹄に
もっと甘やかして欲しいのだった。
﹁デイルじゃなく、ねぇねがいいのー﹂
﹁悪かったな、俺で﹂
その結果、テオは小さな四肢を突っ張って抵抗しながら、自己主
張するのだった。
アフマル
現在のクロイツは、赤の神の祭りが近付き、旅人が集まっていた。
冒険者と呼ばれる者の数も増えており、結果、相対的に仕事が不足
しがちになっていた。これは例年の一過性のものだ。その為、ある
程度以上の格の冒険者たちは、よほどの難易度の高い仕事以外は自
粛し、経験や金銭的な余裕の無いものに優先的に仕事を回していた。
この暗黙のルールも、冒険者たちによる一種の互助なのであった。
﹃余裕のある者﹄に分類されるデイルもまた、暇そうに﹃虎猫亭﹄
で時間を潰す姿が見られたのである。
この数年あまり、ラティナと共に暮らすようになってからのデイ
ルは、このような暇が出来ると、ラティナとべったりの﹃楽しい時
614
間﹄を過ごしていた。結果、彼には﹃暇﹄という自覚がなかったの
だ。
それなのに今回は、ラティナは日々の仕事に追われ、更に魔法の
勉強をするという多忙な時間を過ごしている。
今のラティナには、デイルの相手をする時間がなかったのだった。
大人になってきたと、喜ぶべきなのに、何だか時々泣きそうにな
る。
そしてやはり暇をもてあましているテオの面倒を見るという役割
が回ってきたのだ。だがテオドールの方は、それに対して不服そう
に頬を膨らませている。そんな姿を見るたびデイルは、つくづくラ
ティナは素直で可愛いらしくて、良い子だったのだと思うのだった。
﹁まぁ、ガキんちょなんてこんなもんだけどなぁ﹂
﹁はなせーっ﹂
店の中にいると、ラティナの後を追いかけようとするテオドール
を捕まえておくのにも限度がある。ラティナの仕事の邪魔になって
は何の意味もない。
﹁ヴィント、お前も散歩行くか?﹂
﹁わふっ?﹂
テオを片手で持ち上げて−−抱き上げるというより運搬している
という姿だったが−−歩き出しながら、デイルはごろりと身体を転
がしていた仔狼に声をかける。
﹁ラティナは今日はこれから外には出ねぇだろうから、お前が留守
にしても平気だろ﹂
﹁わふぅ﹂
ヴィントはラティナ以外からの﹃命令﹄は聞かない。ラティナも
﹃命令﹄している訳ではないのだが、基本的にヴィントは﹃ラティ
ナのお願い﹄を聞き入れるので、結果としては似たような状態とな
615
る。
だが、ヴィントはヴィントなりに、デイルやケニスには敬意を払
っているようだった。ラティナが彼らに敬意を払っている姿を見て
いることと、ヴィント自身よりも﹃強い個体﹄だという事がその理
由だ。犬的な生きモノであるヴィント内の﹃階級﹄では、彼らもそ
れなりの上位に存在しているのだった。
だが、ヴィントの階級的に、﹃虎猫亭﹄内のラティナの次の存在
はリタだったりする。﹃命令﹄には従わないが、リタの叱責には例
外的に従うヴィントの姿を時折見ることができるのだった。
デイルが小脇に幼児を抱え、仔狼を従えて向かったのは、クロイ
ツの中央広場だった。今日もたくさんの住民たちが思い思いに憩い
の時間を過ごしている。
開けた空間に、灰色の仔狼が黒いしっぽを嬉しそうにぱふぱふと
振っていた。デイルは、多くの人びともいる事だしと、先に念を押
す。
いいつける
﹁ヴィント、魔法は使うなよ。後、やたら掘るのも止めとけよ﹂
﹁わふ﹂
﹁ラティナにちゃんと報告するからな﹂
﹁わんっ﹂
良い返事だ。なんというか自分の言葉が軽んじられている気がす
るが、そこは気にしたら負けだろう。
デイルがテオを地面におろすと、テオはとっとこ走り出した。
そんな幼児を眺めながら、デイルは少し表情を緩めた。ぼんやり
と考えを巡らせる。
﹁⋮⋮そういや、ヨルクのとこもそろそろ二人目だっけな⋮⋮祝い
の品何にするかなぁ﹂
弟は嫁のフリーダともそれなりに睦まじくやっているらしい。故
郷と定期的にやり取りしている手紙は、互いの近況だけでなく、世
616
界情勢を故郷に伝える報告書としての意味も持っている。誤字脱字
を赤字訂正されて、送り返されて来た時はイラッとした。そういう
ことをするのは、だいたい祖母である。
ヴィントが何処からか棒切れを拾って持って来たので、ぽいと投
げてやる。ヴィントはテオの前でそれをキャッチすると、どや顔で
しっぽを振ってみせた。負けず嫌いなテオがぷくっと膨れてやる気
の顔になっている。
︵⋮⋮良いのかなぁ⋮⋮︶
﹃犬﹄と張り合って遊ぶのは、幼児の教育的にどうなのだろうか。
だが、幻獣相手の毎日の遊びは、運動量としては充分なものだろ
う。
︵まぁ、親も止めねぇし⋮⋮良いか︶
自分が再びぽいっと投げた棒切れを奪い合う一人と一匹の姿を見
ながら、デイルはそんな平和な光景を眺めていた。
﹁デイルっ﹂
聞こえた声にデイルが顔を上げたのは、遊び疲れてうとうとして
いるテオを連れて木陰で休んでいる時だった。
ヴィントが迎えに走って行ったのを見ていたので、ラティナが近
くに来ているだろうとは思っていた。
﹁仕事は良いのか?﹂
﹁そんなにお仕事ばかりしている訳じゃないよ﹂
そう答えて笑ったラティナは、藤のカゴを提げていた。ちょこん
とデイルの隣に座り、居眠りしているテオを微笑みながら覗き込ん
でいる。
﹁テオにおやつ持って来たんだけど。こんなに気持ち良さそうだと
起こせないね﹂
﹁ラティナもよく何処ででも寝てたもんなぁ﹂
﹁⋮⋮今は、しないもん﹂
617
﹁そうだな﹂
デイルの言葉にラティナがほんの少しだけ頬を膨らませたのは、
不機嫌になったからではなく、照れているからだ。だいぶ成長した
というのに、そういった仕草が幼さを感じさせて、なんとも言えな
いほのぼのとしたものに胸が満たされる。
﹁⋮⋮やっぱりラティナは本当に可愛いなぁ⋮⋮﹂
﹁急だね?﹂
﹁テオの面倒みてるとつくづく思うさ。ラティナは本当にいつも頑
張ってくれてたんだな﹂
幼い頃にしていたように頭を撫でると、ラティナが少し困ったよ
うな表情をした。もう、この歳の女の子にする行動ではないのかも
しれない。
︵⋮⋮寂しいなぁ︶
そのうち﹃保護者﹄である自分と一緒に居ることも嫌がるように
なるのだろうか。
寂しいと感じるのは、自分だけなのだろう。
子どもというものは、そんな大人の感傷を置いてきぼりにして、
どんどん大きくなってしまうのだ。
灰色の眸でラティナは、不思議そうにそんな独白をする自分を覗
き込んでいる。
﹁⋮⋮夜祭りの予定はもう立てたのか?﹂
﹁うん。クロエのお家に集まるの。帰りは遅くなるから、クロエと
シルビアを送ってから帰って来るね﹂
﹁!?⋮⋮ラティナが送って行くのか?﹂
﹁遅い時間に二人を帰すの危ないもん。私、最近護身用の魔法も覚
えたし。憲兵さんも、警護の依頼を受けた冒険者のひともいっぱい
いるから、大丈夫だよ﹂
間違ったことは言っていない。確かに単体での攻撃力という観点
618
からは、ラティナは友人たちよりずば抜けているだろう。だが、や
はり危機意識が薄いのではないだろうか。
﹁や、やっぱり、俺が迎えに行こうか?﹂
﹁大丈夫だよ。もう、ちっちゃい子どもじゃないもの﹂
だからこそ、不安にもなるのだが。何故自覚してくれないのだろ
うか。
とはいえ、ラティナに、世の男の危険性を滔々と語ることも憚ら
れる。それで自分のことも、汚わらしいものでも見るように見られ
でもしたら、立ち直れない。
﹁難しいなぁ⋮⋮﹂
﹁ん?﹂
思わず呟くデイルに対し、ラティナは本当に不思議そうに首を傾
げている。それでも彼女には、このまま素直に育って欲しいとも思
ってしまうのだ。
﹁いや、ほら。テオ起きたみてぇだぞ﹂
ねぇね?﹂
﹁本当。テオ、起きた?﹂
﹁んー⋮⋮?
誤魔化すように、丁度もぞもぞと起き出したテオへとラティナの
意識を向ける。
テオは目を覚まし、ラティナがいることに気付くと、すぐにラテ
ィナへと腕を伸ばして、抱っこをせがんだ。ラティナはラティナで
テオに甘えられて嬉しそうにしている。
﹁ねぇね﹂
﹁なぁに、テオ?﹂
テオは答えずに、ただ、えへへと嬉しそうに笑っていた。
そんな二人を見るデイルに、ヴィントがぐりぐりと頭を擦り付け
た。
619
﹁⋮⋮なんだよ﹂
﹁わふぅ﹂
﹁別にテオ相手に嫉妬はしねぇよ﹂
﹁わん﹂
なんだか悟りきったような視線を向けてくる灰色な獣を、指で掻
いてやりながら、デイルは自らの今後の在り方について、答えが出
ずとも考えを巡らせるのであった。
620
薔薇色の姫君、氷色の青年と。
アフマル
その客人が﹃踊る虎猫亭﹄を訪れたのは、赤の神の夜祭りが行わ
れるまで、後数日という時だった。
涼しげな容貌の青年ではあるが、急いで来たことがわかる程に、
その旅装束は何処か乱れている。彼が店内を見回すと、常連客たち
の間に緊張が走った。
﹁いらっしゃいませ﹂
見知らぬ青年が、かなりの実力者であることも見抜いた上での常
連たちの緊張感だと言うのに、相変わらずこの店の看板娘はマイペ
ースだった。
ててて。と、小走りで迎えて笑顔で青年に向かう。
﹁初めてのお客さんですね。クロイツは初めてですか?﹂
﹁⋮⋮ああ﹂
そのラティナの笑顔が凍りついたのは、青年の次の台詞を聞いた
瞬間だった。青年はアイスブルーの眸を驚いたように少し見開くと、
こう呟いたのだ。
﹁君がデイルの言っていた﹃妖精姫﹄か﹂
﹁⋮⋮﹂
ギャラリー
吹き出すのをポーカーフェイスで堪えているリタの方を、ラティ
ナは固まった笑顔のままで振り返る。
﹁リタ、私、デイルに対して怒っても良いよね﹂
﹁思う存分、やっても良いわよ﹂
良い笑顔でサムズアップするリタだけでなく、周囲の常連客たち
も、一斉にラティナへエールを贈ったのであった。
自分に被害が及ばなければ、他人がやり込められるのを見るのは、
一種の娯楽なのである。
621
ラティナが厨房へと普段よりも足音荒く向かうのを、一同はなん
とも言えないウズウズしたような雰囲気で見送った。
一人、状態が掴めない青年を置き去りにして。
﹁⋮⋮どうした?﹂
﹁⋮⋮どうしたも、お前のせいだろうが﹂
しばらくして、自室から店へと姿を現したデイルは、憔悴しきっ
た様子だった。
ぷくっと膨れた怒る顔も可愛らしくって、お説教の途中で表情筋
を緩めてしまったのもいけなかった。完全におかんむりになったラ
ティナに謝り、謝罪して、謝り倒した。そうしてなんとか赦しをも
ぎ取ったのであった。
だが、﹃もうしません﹄だけは交渉スキルを総動員して回避して
みせた。ラティナに嘘はつきたくない。
前提条件がおかしいのではない。改める気がないだけだ。
﹁それにしても、早かったなグレゴール。書簡が届いて直ぐにこっ
ちに向かったって感じだろう﹂
﹁ああ。俺だけなら、割合自由が利くからな﹂
﹃虎猫亭﹄の一角で腰掛け、デイルを待っていたグレゴールは、周
囲の視線にも動じることもなく、悠然と佇んでいた。
グレゴールの纏う雰囲気は武人そのものだ。常連たちが興味深げ
に、彼を不躾な視線で見るのも無理はない。冒険者というには血統
の良さが滲み出ているところがあるが、グレゴールは実力者の興味
を抱かせる程には、抜きん出た剣士なのである。
彼もこの店の常連たちがある程度以上の凄腕たちだということに
も気付いている。内心で感嘆していたのだった。王都でもこれ程の
実力者はそうそういない。やはりクロイツというこの街は、旅人と
冒険者たちの集客力にかけて、この国有数の存在なのだと再確認し
622
ていたのだ。
﹁ローゼは無事か﹂
﹁今は二階の客室にいる。ざっくりと事情は聞いたが⋮⋮誘拐され
たって、本当か?﹂
﹁⋮⋮領地から王都に向かう途中の馬車が襲撃された。コルネリウ
ス家はあまり裕福な家ではない。護衛も従者も相応にしか連れてい
なかった⋮⋮襲撃者は、ローゼの性格も調べていたらしい。先に周
囲を人質にしたそうだ﹂
﹁ああ⋮⋮﹂
あの薔薇姫が大人しく誘拐されるとも思わなかったが、それなり
に理由があるらしい。
ローゼのコルネリウス家は子爵位にあたり、グレゴールのエルデ
ィシュテット公爵家とは家格が異なる。それでも互いに交流があっ
たのは、領地が隣接しており、コルネリウス領の特産物の取引先も
エルディシュテット公爵領が主である−−といったように密接な関
係を有していたからであった。
そして、魔力形質を有し、稀代の神官としての加護を有するロー
ゼ誕生後、その関係は更に密なものとなった。
ローゼの後ろ楯のひとつとして公爵家の庇護を受けたのである。
これはエルディシュテット公爵にとっても悪い話ではない。有力な
カードと為りうる高位の加護を持つ美貌の姫を、自分の影響の及ぼ
す範囲に留めることは、大きな意味を持っていたのであった。
ローゼとグレゴールに面識があるのは、そういった事情があった
為だった。
人形のように愛らしいローゼを、グレゴールの姉が可愛いがった
という理由もある。二人は年少の頃より交流を持つ関係なのであっ
た。
623
﹁とりあえずローゼの無事を確認したいだろう?
呼んで来させ⋮⋮﹂
﹁いや、俺が行く。部屋を教えろ﹂
グレゴールの返答に、一瞬デイルは絶句する。
ローゼの
今、ラティナに
﹁いや⋮⋮いやいやいや。流石にそれはまずいだろっ?
名前的にもさっ。お前が何かするって訳じゃなくてもっ﹂
年頃の姫君が密室で男と会った−−なんて事実ひとつで、出ると
ころに出れば、充分なスキャンダルだ。
﹁お前が黙っていればローゼの名誉は守られるだろう﹂
微かな笑みも浮かべていないアイスブルーの冷ややかな眼光は、
余計なことを他言すれば切り捨てるぞ、と言外に脅迫を滲ませてい
る。
ラティナ
ひと
こいつは常々自分のことを﹁養い子至上主義の﹃親バカ﹄﹂と冷
と背中に汗をかきながら独白するデイルの脳裏に、﹃類は
ややかな講評を賜ってくるが、お前もあんまり他人のこと言えない
よな?
友を呼ぶ﹄という言葉が過った。
そうだよな﹂
﹁えーと、ローゼの部屋は二階の手前の個室だけど⋮⋮俺は同席⋮
⋮しない方が良いよな?
グレゴールの一瞥ひとつで、デイルは即座に自分の行動を決定す
る。
友人が階段を昇る背中を見送りながら、デイルががっくりと肩を
落とすと、心配したラティナが水の入ったグラスを運んで来てくれ
た。ついさっきまで怒っていたはずなのに、その優しさが身に沁み
る。
﹁デイル大丈夫?﹂
﹁⋮⋮うん、多分⋮⋮大丈夫、だろ?﹂
互いに心配する相手が異なっていたが、細かいことは気にせずに、
624
デイルは珍しく自分の属する神相手に、祈りの文句を呟いた。
扉をノックされた音だけで、ローゼは相手が誰であるのかを察し
ていた。驚いて手にしていた借り物の書籍を取り落としかける。
・
当人も気付いていないだろう、ほんの少しだけの節。幼い頃から
いつも心待ちにしていたからこそ、気付くようになった彼の癖。
﹁ローゼ﹂
声が聞こえた瞬間、ローゼは弾かれたように扉へと向かう。鍵を
外すという簡単な動作が逸る心のせいで覚束ない。
﹁グレゴール様⋮⋮っ﹂
扉の向こうにいたそのひとの姿を改めて確認すると、声が震えた。
﹁ローゼ、よく、無事で﹂
﹁グレゴール様っ﹂
あまり大きな感情を表にあらわさないグレゴールが、それでも安
堵に声音に優しい響きを滲ませる。それと同時にローゼがグレゴー
ルの胸へとその身を投げ出した。
﹁⋮⋮っ、グレゴール様っ、私、私⋮⋮﹂
﹁⋮⋮無事で良かった﹂
細い肩を震わせ、涙を浮かべたローゼを抱き寄せて、グレゴール
は静かに扉を後ろ手に閉めた。
ローゼにとって、デイルはあくまでも﹃面識のある知人﹄だ。
誘拐、そして﹃二の魔王﹄という恐怖の体現者との接触などとい
う出来事に、怯え、傷ついて焦燥していても、彼女はその様子をデ
イルに見せることはなかった。
それだけローゼは高い矜持の持ち主であり、気丈である故だった
が、決して平気であるという理由にはならない。
グレゴールという自らが幼い頃より心を寄せる、信頼する存在を
前にして、押し留めていたものが決壊した。
625
ローゼは言葉もなく、ただすがり付いて、泣きじゃくった。
グレゴールもまた、ローゼのことをよく知っている。彼女が今ま
で、泣くことも出来ずに耐えていたことを察していた。だからこそ、
部屋を一人で訪れることを押し切ったのだ。
その名の由来となった、稀有なる薔薇色の髪に手のひらを滑らせ、
グレゴールは無言で腕の中の彼女を見守っていた。
626
薔薇色の姫君、氷色の青年と。︵後書き︶
地味にグレゴールさん初出の時に、ローゼさんのことをデイルと語
っていたりしてます。
627
氷色の青年、白金の乙女と。
グレゴールの前に茶器を運んで来たラティナは、ぺこりと頭を下
げて謝罪を発した。
デイル
﹁先ほどは失礼致しました﹂
グレゴールは、友人が溺愛しているその少女の言葉をしばし考え
て、言おうとすることに遅れて気付いた。
﹁いや、こちらこそ不躾だった。最近のデイルは、君のことを﹃う
ちの妖精姫世界一可愛い﹄と何憚ることなく言っていたものでな。
つい口にした﹂
﹁⋮⋮デイル﹂
ラティナの愛らしい顔に似合わぬような、覇気にも似た静かな怒
りのオーラを感じて、グレゴールは思った。
︵⋮⋮面白い︶
今までさんざん友人の﹃うちの娘自慢﹄に付き合ってきたのだ。
この位の意趣返しは許されるだろう。
少女に叱られて、憔悴した友人の姿も新鮮だった。彼を英雄視し
ている王城の兵士たちにも見せてみたい。
﹁先日は到頭父上にも、君のことを自慢していたからな﹂
﹁⋮⋮﹂
ラティナはひとつため息をついて、平静を取り戻した。グレゴー
ル相手に怒っても仕方のないことを彼女はちゃんと理解している。
−−近くにいたリタの方が、ラティナの分まで微妙な表情になっ
ていた。リタは薄々ではあるがグレゴールの身分を察している。そ
のグレゴールの父親というのが誰を指しているのかにも気付いてい
628
るのだ。
﹁あの馬鹿⋮⋮見境無いわね⋮⋮﹂
因みに、一連の出来事だが、デイルに言わせれば、﹁自重した!﹂
のだった。﹁五年以上も!﹂なのである。どうやら自重期間が終
了のお知らせをしてしまったらしい。その頃、グレゴールの姉に子
どもが産まれ、公爵閣下が孫可愛いモード寄りになっていたことも、
原因のひとつであった⋮⋮とは、誰も気にしない事実であった。
﹁私もデイルから、よく貴方のお話は聞いていました。一番信頼し
ている戦友だって⋮⋮初めまして、ラティナと申します。ご挨拶が
遅くなりました﹂
﹁⋮⋮グレゴール・ナキリという﹂
﹁不思議な響きのお名前ですね﹂
﹁東方の辺境国由来の家名でな﹂
グレゴールは偽名を名乗った訳ではなく、エルディシュテットの
名が及ぼす影響力が強すぎる為に、彼は外では母方の姓を使う。
ラティナは別段疑問にも思わず、初めて耳にした響きの言葉を反
芻してにこりと笑った。
デイルが誇張していた訳でもなく、愛らしい容姿の少女だと、グ
レゴールにもつくづく思わせる笑顔だった。
﹁それにしても意外だったな﹂
﹁え?﹂
ラティナが不思議そうに首を傾げると、グレゴールはほんの少し
苦笑した。
﹁デイルの話から想像していた君は、小さな子どもという印象だっ
たからな﹂
﹁⋮⋮そうですか﹂
﹁言われてみれば、最初に君の話を聞いてから、もう何年も経つの
だから⋮⋮成長していて当然なのだがな﹂
629
﹁⋮⋮デイルにとっての私は、まだまだ目の離せないちいさな子ど
もなんだと思います﹂
ラティナは、初対面のグレゴールを前にして、普段よりも澄まし
た余所行きの顔をしている。そんな風にしていると、彼女は年齢以
上に大人びた雰囲気を感じさせる。元々賢いラティナは、きちんと
場にふさわしい対応ができる為だ。
普段のぽやんとした、どこか幼さを感じさせるラティナの姿とい
うのは、彼女が気を抜いている素の表情だからこその姿なのだった。
だが、やはり初対面のグレゴールは、そこまでラティナのことを
知らない。その為に想像以上に大人びた、落ち着いた物腰の少女だ
という印象を持った。
ローゼはグレゴールとの対面を果たした後、少し時間が欲しいと
部屋に引きこもった。泣き腫らした顔で人前には出られぬと言い張
ったのだ。親しいグレゴール相手でも、そこは譲れないところだっ
たようだ。矜持の高いローゼらしい。
その為、グレゴールはラティナを前にして、茶器を傾けていたの
であった。彼もここまで、休みを最小限にした急ぎの旅をして来て
いる。ローゼの姿を確認し、安堵したことで、疲れも感じていた。
下町の、しかも酒場で出しているとは思えないほど、供された茶
はグレゴールにしても悪くないと思わせる物だった。
無論公爵家で使用する物とは、品質は大きく異なるだろう。
それでもそれは、店主が自らの店に置く物に対する吟味の証だ。
腕の良い料理人であるのだな、とグレゴールはとりとめも無く考え
る。
眼前の少女もそうだ。
このような下町の酒場には不釣り合いなほどの、美しい少女だ。
友人がでれんでれんの骨抜きになったのも、理解−−したくはない
630
が、理由はわかったような気もする。
王都の貴族の姫君たちの中に在っても、この少女は目立つだろう。
珍しい白金の髪は、艶やかに輝きを放ち、それだけでどんな宝石や
金銀の細工より目を奪う。
それだけ華やかな美貌を持ちながら、纏う気配は野の花に似た、
穏やかで心和ませる暖かなもの。陰謀渦巻く宮中に彼女のような者
が在れば、それだけでどれだけ癒されるだろうか。
︵⋮⋮そういえば、常々言っていたな︶
帰る
一刻も早く、俺は俺のラティナの元に帰るぞっ!﹂で、あっ
友人曰く、﹁ラティナが⋮⋮俺の癒しが足りないんだっ!
っ!
たような気がする。末期になるとかなり追い詰められた表情で、養
い子の名前を呟きながら、剣を研いでいたりもするのだが⋮⋮なん
だか思い出してはいけなかった残念な姿であった気がするが、まあ、
思い出してしまったものは仕方ない。
仕事の能率自体は、末期の友人の方が上がってしまうのも、残念
なところだ。
普段も別に手を抜いている訳でもないのだろうが、末期になると
本当に一刻も早く帰る為に、全力を尽くすのだ。
元々デイルはグレゴール−−国内でも、実力主義であり高い能力
を持つエルディシュテット家の者−−から見ても、高い評価を受け
ている存在なのだ。彼の有する稀少な﹃勇者﹄と呼ばれる能力を別
にしても、攻守の魔法を使いこなし、剣技と合わせて、変則的だが
状況に応じた柔軟な戦闘を得手にしているデイルは、武芸と魔術を
奨励しているラーバンド国で称賛を受けるに値する人物だ。
彼の出自を田舎者と蔑んでいた貴族も当初はいた。けれどもデイ
ルは、そんな輩からの嘲笑すら、功績と完璧な礼節の振る舞いを以
て黙らせた。
631
彼個人の能力は、デイル本人の負けず嫌いな質もあってか、非常
に優秀なものなのだ。
だからこそ、奇行が尚のこと非常に残念な友人ではある。それで
も、養い子と共に暮らす以前にあった、追い詰められたような精神
的な余裕の無さがなくなった。﹃発作﹄を起こしていない時は、落
ち着きのある、貫禄のような気配さえ漂わせているようになってい
るのだ。
周囲の評価も、益々上がり、今や公爵の信篤いデイル・レキの名
を王城で知らぬ者はいない。
一概に﹃悪い﹄とは言えないのだろう。
﹁君はデイルの﹃仕事﹄については知っているのか?﹂
﹁いいえ。デイルのお仕事は大切な機密に関わっている時もあるっ
て聞きました。だから、聞かないようにしてます﹂
思いを巡らせているうちに、眼前の少女が異種族であることを思
い出して、グレゴールは問いかける。
その返答を聞き、グレゴールは﹃仕事﹄に関わることは、少女に
は聞こえないようにした方が良いようだと判断した。
デイルが公爵家と契約し、魔王やその眷属を討伐しているという
こと自体は機密になっていない。
だが、友人が、この少女相手に自分の仕事内容を語っていないの
であれば、それは尊重するべきだろう。﹃自分たち﹄の﹃仕事﹄は、
この少女の﹃同族﹄を屠るということと限りなく同義なのだから。
グレゴールとラティナの会話が少し途切れたタイミングで、丁度
自室を片付けていたデイルが店へと顔を出した。
﹁待たせたな、グレゴール。狭い所だけど俺の部屋でローゼの話を
聞こう﹂
632
きれい好きなラティナがこまめに掃除をしている為、散らかって
いるということはなかったが、やはり生活感のあるものが表に出て
いる。それらを仕舞いこんでいたのだった。
﹁ラティナ、失礼なことしなかったか?﹂
その言葉は﹃保護者﹄そのものだ。だが、グレゴールは表情ひと
つ動かさず切り返す。
﹁した、と言ったらどうする?﹂
﹁お前が余計なことしたんだろうって思う﹂
﹁そんな所だろうと思ったさ﹂
そんなグレゴールを前にして、デイルはラティナの方を向く。
それまで待っててくれる?﹂
﹁ラティナ、ローゼを呼びに行ってくれるか?﹂
﹁うん。その後、上にお茶運ぼうか?
﹁⋮⋮そうだな、長くなるかもしれねぇな。じゃあ頼む﹂
﹁わかった﹂
交わされた幾つかの言葉だけで、二人の仲が本当に睦まじいこと
がわかる。自覚しないまま表情を緩めていたグレゴールに、デイル
の方が気付いた。
﹁なんだよ、ニヤニヤして﹂
﹁いや⋮⋮お前が育てたにしては、きちんとした淑女に育っている
な、と思ってな﹂
﹁お前まで、そういう反応なのかっ!?﹂
グレゴールが照れ隠し半分で口にした言葉は、なんだか友人のス
イッチを抉ったようだった。
633
氷色の青年、白金の乙女と。︵後書き︶
弟に言われた事を、結構引き摺っています。
634
薔薇色の姫君、二の魔王との邂逅を語る。︵前︶︵前書き︶
この作品には警告タグが付いております。
635
薔薇色の姫君、二の魔王との邂逅を語る。︵前︶
デイルとラティナが暮らす部屋は、彼の郷里風の設えであり、ラ
ーバンド国貴族であるグレゴールやローゼには物珍しい。
デイル一人で暮らしていた頃より、ラティナの趣味の小物やファ
ブリックで調えられた今の方が、心地良さそうな雰囲気の場所にな
っていた。
ラティナに魔法を教える為に何度もこの部屋を訪れていたローゼ
は、既に馴れた様子で腰を落ち着けた。グレゴールは少し戸惑いつ
つも、デイルの流儀に倣う。
しばらくしてラティナがティーセットを運んで来る。彼女が無駄
口を挟むことなく一同に茶を配り階下へと降りると、ローゼは唇を
湿らせて自らの身に起こったことを語り始めた。
ローゼは神殿に所属しているという立場から、あまり社交界には
ニーリー
姿を見せない。自らの領地にいるか、神殿の求めに応じて各地の慰
シンボル
問に回っているか−−美しく珍しい容姿のローゼは、﹃藍の神﹄の
神殿にとっても、象徴的な存在だ。治療院の役割を持つ神殿にとっ
て、奇跡とも呼べる回復魔法の使い手のローゼが、市井の人びとに
与える印象は大きな価値を持っているのである。−−であった。
ローゼの生家であるコルネリウス家はそう裕福な家ではない。
その為、政略結婚の相手にするには、ローゼという姫はあまり有
意義な存在とはならなかった。だが、同格の家に嫁がせるには、彼
女自身の価値と才能が大きすぎる。
そういった理由で、自分が若干もて余されていることも知るロー
ゼは、余計に神殿での活動に身を入れていたのであった。
636
その移動の最中の馬車が襲われた。
自らの侍女を人質に取られたローゼは、大人しく賊に従った。彼
女自身を拐かす事が目的である以上、すぐさま命を脅かす事態には
ならないだろうという判断の上だった。−−辱しめを受ければ、自
ら命を絶つ覚悟のあるローゼ相手に、賊は一応は紳士的だった。
今となっては、賊の目的もわからないが、恐らく目的はローゼの
後見人であるエルディシュテット公爵との交渉だったのだろう。大
掛かりな誘拐騒ぎを起こすには、コルネリウス家はあまり旨味のな
い相手なのだから。
賊はローゼと彼女の侍女を、元は豪商の別邸か何かであったのだ
ろう、田舎町の片隅の古い屋敷に連れて行った。
ローゼは表面上は素直に賊に従っていたが、内心では隙を見て脱
出する機会を窺っていた。魔術の補助具は取り上げられていたが、
彼女はそのような物が無くとも魔法を使うことに不具合は無い。
田舎町−−とはいえ静か過ぎることに気付いてさえいれば、状況
は変わっていたのだろうか。
屋敷の中に入った一同が見たものは、一人の少女の姿だった。
屋敷の中、階段の手すりに腰掛けて、膝上のスカートから覗く、
エナメルの靴をはいた細い足を、ぶらりと揺らしていた。
無邪気そうな幼い顔はかなり整っていて、長い金の髪とぱっちり
とした碧の眸は人形のような印象すら受ける。実用的とは思えない
豪奢な服装に細い体躯を包んでいた。
人間族で言うところの10代前半といった少女だ。というのも、
少女には白亜の角が頭の左右に存在しているからだった。はっきり
と魔人族としての特徴を持っていた。
637
ローゼは、少女を見た瞬間、言い様の無い不気味さを感じた。
この場にいる、という不自然さを遥かに越えた、奇妙さだ。
﹃それ﹄を感じたことこそが、ローゼと賊たちの差であり、決定的
なその後を変える﹃差﹄だったのかもしれない。
少女に、誰何しようと近付いた男が最初の犠牲者だった。
あまりにも可憐な少女の姿にはそぐわないにも関わらず、あまり
にも当たり前な物として存在していた為、意識の外にあった﹃それ﹄
−−少女が両の手に握る巨大な刃物−−が翻った。
血煙があがる。
現実味のない程の優雅さで、少女が舞う。
・
・
状況を理解して、誰かが悲鳴と怒号をあげた時には、幾人か分の
骸が−−確認する必要も無く、事切れていることのわかるものが−
−床に徐々に血溜まりを作っていった。
抵抗することも出来ないままに、圧倒的な﹃存在﹄によって、目
の前の﹃弱き者たち﹄は蹂躙されていく。
幼子が、捕らえた虫の羽をもいで笑うように、根源的な残酷性そ
のものの笑顔を、少女はその整った顔に浮かべていた。
ローゼは、対処出来た少数派の存在だった。
だが、彼女の侍女はローゼのようには出来なかった。無理も無い
のかもしれない。いくら使用人としての教育を受けていたとしても、
眼前の﹃存在﹄は、ひとの根底にある恐怖心を掻き立てる。
制止しようとしたローゼを振り切り、恐慌状態の侍女は逃げよう
とした。まともに立つことも出来ずに、床を這う姿は、必死である
からこそ滑稽にも見えた。
﹁あら、みっともないこと﹂
場違いな程に愛らしい声で少女は呟き、無造作に凶器を降り下ろ
638
した。
ローゼは、その光景を見ているだけしか出来なかった。
彼女は優秀な魔法使いではあるが、戦場に身を置いていた訳では
ない。そして優秀だからこそ、自分の力では目の前の﹃存在﹄に抗
う事が出来ないことも理解してしまっていた。
彼女は何も出来なかった。恐怖で、身体が動かなかったのだ。
﹁⋮⋮そのままに、していなさい﹂
少しだけ独特のイントネーションがある声が背後から掛けられて、
自失しかけていたローゼは我に返った。
視界の隅に鮮やかな紫が過る。
﹁あなたは、﹃今﹄はまだ、死にゆく運命にありません。今は大人
しく、耐えなさい﹂
こんな状況にも関わらず、ローゼはその女性の声に安堵を抱いた。
落ち着きを聞く者に与えるような、静かな響きの声の主だった。
そっと振り返り確認すれば、そこにいたのも魔人族の特徴を持つ
若い女性だった。長いまっすぐの髪は鮮やかな紫色で、金とも呼べ
る艶やかな色の巻き角があった。整った美しい顔は、表面上は感情
に揺らめいてはいない。
細い白い首には、記号のような、不思議な文字列がくっきりと刻
まれていた。
﹁⋮⋮何故、このようなことを⋮⋮?﹂
かすれた声で呟いたローゼに、やはり静かな囁き声で女性は答え
を返した。
﹁﹃我が君﹄に、意味などはありません。意味があるとするならば、
その目的は﹂
﹃主﹄と口にしながらも、女性の声や表情には冷ややかなものが漂
639
う。
﹁殺すことそのものなのですから﹂
﹁⋮⋮二の、魔王⋮⋮っ﹂
ローゼが相手の正体を正しく悟った時を同じくして、賊の一人が
懇願の叫びを上げた。声を上げる事が出来るだけ﹃剛胆﹄であった
のかもしれない。
﹁こっ⋮⋮殺さないでくれっ﹂
との声に、二の魔王はにこりと微笑んだ。
﹁あらあら。ならば殺さないでおきましょう﹂
いかにも、楽しそうに。
凶器を降り下ろす。
﹁大丈夫、わたくしは、どうすれば死なないのかもよく知っていま
してよ﹂
何度も、何度も。切り刻む。
男の悲鳴に隠れるようにしても、しっかりと届いた、少女の声音
で紡がれた音。それが何であるのかに気付いたローゼが、更に顔色
を悪くする。
﹁回復魔法⋮⋮っ﹂
それもかなり強力なものだ。二の魔王は回復魔法を使いながら、
相手を切り刻んでいた。治しながら、殺さないようにしながら、−
−死ぬ事が出来ないようにしながら。
男が絶望に満ちた声音で呟いた﹁殺してくれ﹂との言葉が出るま
で、ずっとその行為は続いた。
自分を支えるように背後に立つ女性がいなければ、ローゼも自分
を保つことは出来なかったかもしれない。
ほんの僅かな時間に過ぎない出来事でありながら、とうにその感
覚は失っていた。
640
ローゼ以外の者が全て屍となった後、鮮血を浴びた愛らしい少女
はローゼを見た。視線を向けられたローゼはびくりと震える。それ
でも生来の矜持を奮い立てて負けじと前を向いた。
﹁あら?﹂
首を傾げた二の魔王が、ローゼを見て不思議そうな声を上げ、無
造作に近づいて来た。
﹁あらっ、美しい色。まるで瑠璃のようね﹂
嬉しそうに言う少女は、無邪気そのものだった。
見せて頂戴﹂
かつら
この眼前の惨状を引き起こした張本人だと言うのに。その事自体
が非常に歪でおぞましい。
どんな色?
﹁⋮⋮我が君。この者は、髪も魔力形質の持ち主です﹂
﹁まあ!
賊が、ローゼが目立つことを嫌い、用意していた栗色の鬘。それ
を着けたままであったというのに、紫色の魔人族の女性は、まるで
知っていたかのように淀みなく、そう告げた。
もっと見せて!﹂
ローゼは大人しく自分の本来の髪が、露にされるに任せた。
﹁まあ、本当に美しい色!
単純なローズピンクではなく、光の加減によって複雑な濃淡に見
えるローゼの髪は、魔力形質の中でも珍しく美しい色だ。
触ろうと、二の魔王は細い腕をローゼへと伸ばした。
﹁我が君﹂
﹁なにかしら?﹂
﹁下郎の血で、汚すことを厭われるのでは?﹂
その瞬間かけられた女性の言葉に、少女は自らの両手がべったり
と血糊に汚れていることを、未だ大振りな刃を手にしていたことを、
思い出したようだった。
641
﹁そうね。こんなに綺麗なもの、汚すのは勿体ないわ!﹂
ぱっと手を引っ込めると、二の魔王は笑顔でくるりと踵を返した。
﹁湯浴みをしてくるわ﹂
﹁ごゆっくりなさいませ﹂
屋敷の奥に二の魔王が向かうのを見届けると、ローゼはくたりと、
床に崩れ落ちそうになった。
642
薔薇色の姫君、二の魔王との邂逅を語る。︵後︶
﹁しっかりなさい﹂
紫色の女性の叱責で、ローゼは何とか踏みとどまることが出来た。
床一面は誰のものかも知れぬ血で覆われている。今、ここで気を
失えば、彼女はその中に倒れ込むことになってしまう。
﹁⋮⋮っ、何故、何故このような⋮⋮っ﹂
自らの侍女だけでなく、自分を害した賊相手だとしても、ローゼ
は悪戯に奪われた命を悼まずにはいられなかった。見せられた残虐
な光景にローゼは苦し気に呻いて、両手で顔を覆った。
だが魔人族の彼女は、ローゼにそんな悲嘆に暮れる時間を与えて
はくれなかった。
﹁今はそのような暇はありません。一刻も早くこの場より離れなさ
い﹂
ローゼの肩を掴んで、やや強い口調で言った彼女の表情は厳しい
ものだった。
﹁﹃我が君﹄は、魔力形質を持つ者を愛でる嗜好を有している。け
れど、それはあくまでも玩具として。お気に入りの玩具を側に留め
ておくという意味に過ぎません﹂
苦々しい彼女の声には、二の魔王の側近くに仕えることが、自分
の本意でないということも能弁に表れていた。
彼女が、ローゼの魔力形質を二の魔王に示したのは、二の魔王が
﹃それに興味を持つこと﹄を知っていたからだ。そのことで、二の
魔王は即座にローゼを殺すことは無くなる。一時的なその場しのぎ
のものだが、ローゼの命を守るためには、そうすることが一番確実
だったのだ。
643
だが、だからといってこのままローゼが二の魔王に﹃捕まれ﹄ば、
彼女は﹃死﹄以上の責め苦を負うことになる。
−−自分のように。
﹁貴女は、まだ﹃この場で死すべき時﹄ではありません。抗いなさ
い、さすれば、逃れることが出来るでしょう﹂
ローゼもまた、高位の神官位にある者だ。目の前の魔人族の女性
が、非常に強い﹃加護﹄を有していることに気がついていた。
ローゼをしても﹃強い﹄と言わしめる、﹃加護﹄
バナフゼキ
自分と同等−−もしくは、自分より上位の神官だろうと察する。
﹁⋮⋮貴女は、﹃紫の神﹄の神官なのですか﹂
バナフゼキ
﹃紫の神﹄の加護を持つ者の能力は﹃予知﹄だ。
ローゼは、先ほどからの女性の言い回しに、違和感を感じていた。
だからこそ、確認の為に言葉にし、それに女性は静かに頷くことで
答える。
﹁けれども⋮⋮私が逃れることが出来たとしても⋮⋮貴女は?﹂
ローゼの声に、明らかに自分を気遣う声音が含まれていることに
気付いて、女性はほんの少しだけ表情を柔らかいものにした。
﹁私は﹃我が君﹄から逃れることは出来ません。この﹃枷﹄がその
証﹂
そう言って自分の首に刻まれた﹃文字﹄に触れる。
﹁これは﹃魔王﹄が自らの眷属に刻む﹃名﹄−−その魔力を分け与
え、その魔力に以て支配している証。﹃魔王﹄の眷属たる﹃魔族﹄
となるということは、自らの生殺与奪の権利を、﹃主﹄に委ねると
いうことと同義なのです﹂
﹁ならば、尚更⋮⋮私を逃がしたと知れば、貴女がどのような目に
あう事か⋮⋮っ﹂
悲痛な声を発したローゼに対して、聞き分けの悪い子を諭すよう
に優しい声で彼女は告げる。
644
﹁先程も見ていたでしょう。﹃我が君﹄は﹃殺して欲しい﹄と懇願
するまでは殺めることもないのです。私は﹃我が君﹄とそのような
約定を交わしているのです﹂
そして、一言付け加えた。
﹁⋮⋮そして、それは私にとって﹃いつも﹄の事。﹃我が君﹄は私
が何時そう懇願するかを楽しんでいるのです﹂
そのあまりの異常性に、更に顔色を悪くしたローゼの背中を、女
何故⋮⋮二の魔王はこのように酷いことを⋮⋮っ?
性はそっと押す。一歩を踏み出させるというかのように。
﹁何故です?
何故、二の魔王であるからといって、あのような少女がこのよう
な恐ろしい真似が出来るのです⋮⋮っ﹂
ローゼの苦し気な困惑に満ちた声に、女性ははっきりとした声で
否定の言葉を発した。
﹁魔王であるから、行うのではありません。﹃魔王﹄は、そのよう
な性質を持つ、﹃資格﹄がある者が﹃成る﹄のです。わかりあえる
とは思ってはなりません﹂
﹃二の魔王﹄であるから殺戮と死をもたらすのではない。そのよう
な嗜好を、初めから有することこそが﹃二の魔王﹄となる﹃資格﹄
であると、告げる。
﹃魔王﹄は魔人族の中より、現れる。生まれながらにして﹃魔王﹄
であるのではなく、生まれ持って﹃魔王﹄と呼ばれる大きな力を有
・
・
しているのではなく−−魔人族の中の、﹃資格﹄を持つ者が﹃魔王﹄
と成るのだ。
﹃王たる資格ある者﹄が﹃一の魔王﹄に、﹃戦乱と争乱をもたらす
力を望む者﹄が﹃七の魔王﹄に、﹃病を畏れ死を克服したいと願う
者﹄が﹃四の魔王﹄にといったように。
645
笑顔で殺戮を楽しみ、断末魔を聞き喜ぶ﹃少女﹄の行動理由など、
初めからローゼには理解できないのだ。あまりにも価値観が違うの
だから。
ほんの少しだけ微笑んだ女性は、ローゼを再び押し出した。
強ばっていたローゼの脚が、呪縛を解かれたように動き出す。侍
女を弔いたい心境はあったが、この状況では到底無理であった。ロ
ーゼは心の中で謝罪と祈りの言葉を呟く。
そして後は振り返ることもせずに、その場を逃れたのだった。
−−語り終えて、ローゼは力なくその細い肩を落とした。
﹁⋮⋮彼女の言葉通りに、私は生きてあの場を離れることが出来ま
した。途中、抜けた小さな町の中に、ひとの気配はありませんでし
たから⋮⋮恐らくは⋮⋮﹂
﹁⋮⋮父上に報告した後、確認の為に向かう必要があるだろうな。
早急に隊を編成することになるだろう。お前もそのつもりでいてく
れ﹂
﹁そうだな﹂
ローゼの語った内容から、グレゴールは重苦しい様子で呟いた。
デイルも短く答える。
ローゼがクロイツを目指し、デイルを頼ることを決めたのは﹃二
の魔王が恐ろしかった﹄からだった。ローゼはグレゴールから聞き、
デイルが﹃勇者﹄と呼ばれる稀人であることを知っている。
﹃勇者﹄とは、唯一﹃魔王﹄を制することが出来ると言われている
﹃存在﹄だ。
646
﹃魔王﹄の脅威に心の底から畏れを抱いたローゼは、﹃勇者﹄の存
在に心の安定を求めた。
その結果、﹃勇者に護られている﹄という状況と、﹃周囲を和ま
せる天才﹄であるラティナと接していた為に、ローゼはだいぶ平静
を取り戻したのだった。
付き合いの浅いデイルは気付くことは出来なかったが、﹃踊る虎
猫亭﹄に辿り着いた当初のローゼは、平素の﹃彼女﹄ではなかった
のだ。
虚勢をはり、強気なふりをして、自らを鼓舞していたに過ぎない。
その後はグレゴールとデイル主体で話を進めていった。
ローゼはとりあえず、事件の背後関係がはっきりするまで、王都
のエルディシュテット公爵家預かりになることになった。
グレゴールと共に王都へ行き、その後、公爵家に滞在することに
なる。王家の次に権威のある家の屋敷だ。ローゼの実家よりも遥か
に強固な警備が敷かれた安全な場所だと言えるだろう。
自分を案じ、そっと隣に居てくれるグレゴールの存在に、その声
に−−ローゼはようやく心の底から、自分は生き残れたのだという
実感と安堵を感じることが出来たのだった。
ローゼが屋敷を逃れて、しばらく後のことだった。
湯浴みの後、着替えを済ませて姿を見せた﹃二の魔王﹄は、周囲
を見回してローゼが居ないことに少し落胆したような表情をする。
だがそれも一瞬のことだった。
幼い外見は、﹃魔王﹄となった時にその年齢であったからだ。そ
の頃より歪んだ価値観を持ち、そのまま永い年月を絶対的な存在と
647
じゅみょう
して在る彼女にとって、自分の意のままにならぬことすら退屈を紛
らわすスパイスに過ぎない。
うまれこきょう
﹃人間族﹄の風俗を好み、その言葉を操るのもその為だ。永い時間
を持ちながら、現状の維持に努め停滞することを選んだ﹃魔人族﹄
の文化も風習も、退屈なものでしかない。
﹁あら、逃がしてしまったのね﹂
だからこそ、少女の放つ高い声は、いかにも楽しそうだった。
﹁あんなに愛らしく美しかったのに、剛毅なこと。ますます逃した
のが残念だわ﹂
ころころと笑い、目の前の女性の紫の髪を指先で絡め取った。
このような惨状を見せられても尚、自失することもなく、逃げる
という反抗をすることが出来る者自体が稀だ。そういった意味では、
ローゼの器を計り損ねた自分のミスでもあると、二の魔王はかすか
に残念そうな表情を作った。
﹁本当に酷いひと﹂
恋人に告げるかのような甘い声を発しながら、自分の足元で膝を
つく﹃女性﹄を見下ろす。
腹部を刃で貫かれても、悲鳴一つ上げない、お気に入りの﹃玩具﹄
を。
﹃二の魔王﹄の眷属であり、普通の魔人族よりも遥かに強靭な﹃生
命力﹄を有する﹃魔族﹄は、この程度では死なない。死ぬことは出
来ない。
﹁殺してって頼んでくれたら、楽にしてあげるのに。解放して欲し
いのでしょう?﹂
﹁⋮⋮﹂
苦しい息の合間に血の塊を吐き出してから、﹃彼女﹄は強い意志
648
のこもった視線を、二の魔王へと向けた。
﹁﹃約定﹄は違えることは無いのでしょう﹂
﹁ええ。ルールの守らない﹃遊び﹄は退屈なものですもの﹂
﹁ならば、無駄なこと。私は屈することはありません﹂
二の魔王の碧の眸をまっすぐに見詰めて、﹃彼女﹄は不敵に微笑
む。
﹁私の生命がある限り、私の﹃娘﹄に手を出さない。⋮⋮その約定
がある限り、私は屈することはありません﹂
護るべき者の為に強く在り続ける﹃彼女﹄の姿に、少女は、心底
嬉しそうな笑顔を浮かべて、赤く濡れた凶器を振り上げる。
二の魔王は、再びお気に入りの玩具による﹃遊び﹄に興じるので
あった。
649
薔薇色の姫君、二の魔王との邂逅を語る。︵後︶︵後書き︶
警告タグや恋愛タグが、徐々に仕事をはじめました。﹃娘﹄の成長
に伴って、シリアスっぽいシーンも増えて参ります。基本はいつも
通りですが。
650
白金の乙女、赤の神の夜祭りに行く。壱。︵前書き︶
いつも通りな感じに戻っております。
651
白金の乙女、赤の神の夜祭りに行く。壱。
赤の神の夜祭りは、その名前からもわかるように、祭礼のメイン
は日が暮れてから行われる。
とはいえ、祭り当日は、朝からクロイツの街全体が高揚した落ち
着かない気配に満ちている。ラーバンド国第二の都市の、最大級の
祭りだ。仕方もないことだろう。
﹁じゃあ、行って来ます!﹂
﹁気をつけてね、ラティナ﹂
﹁うん﹂
まだ日のあるうちに出掛けるラティナを見送るのはリタだ。
あれだけ必要以上に心配しまくっていたデイルは、留守であるの
だった。ローゼは、この大勢の旅人などの人びとに紛れてクロイツ
を出発し、王都に向かうことになった。そのローゼの護衛として同
行を求められてしまったのだ。
とはいえ、王都まで送って行く訳ではない。デイルの仕事は、ク
ロイツから少し離れた場所にある、飛竜の到着予定地まで連れて行
くことだ。
そこで飛竜が来るのを待ち、王都へ飛竜で向かうローゼとグレゴ
ールを見送るまでが、今日のデイルの仕事となる。
グレゴールは単騎で、何度も馬を換えクロイツにたどり着いてい
た。その後、改めて王都とやり取りをし、公爵が飛竜を遣わせてく
れることになったのだった。﹃空﹄を利用出来るものは限られてい
る。他の手段よりもかなり安全な王都への旅になるだろう。
ローゼの事情や、グレゴールの素性等を、ラティナは詳しくは知
652
らない。
ラティナにとっては、今日のデイルの﹃仕事﹄も、普段の魔獣退
治とさほど変わらない﹃仕事﹄として受け止めている。ローゼが﹃
二の魔王﹄と関わったことに不安のようなものは覚えたラティナで
あったが、それもローゼが、しばらく﹃虎猫亭﹄に滞在していた間
に薄れている。
そんな彼女にしてみれば、必要以上に心配性のデイルがいない間
に、ちょっとした﹃大人﹄の真似事−−初めての﹃夜遊び﹄−−が
出来るという状況に、もう心はだいぶ逸っているのだった。
ヴィントは、リタの足元で寝そべっている。拗ねているのだ。
﹃彼﹄とラティナの間には、今日朝からひと悶着あった。ヴィント
は、祭りに行くラティナに付いて行くつもりだったのだが、それを
ラティナが拒んだのだ。
﹄だ。ほんの少し大人になった
ラティナにしてみれば、久しぶりの友人たちとの﹃お出かけ﹄で、
初めての﹃自分たちだけの夜遊び
ような高揚を覚えている。そして年頃の乙女としては、友だちと色
々語り合いたい事もあるのだ。ヴィントには遠慮して欲しいところ
だった。
リタやケニスは、内心ではヴィントに付いて行ってもらいたいと
思っていた。留守であるデイルに至っては、ヴィントが付いて行く
から大丈夫だろうという前提を持っている。
だが、ラティナは最終手段をヴィントへ突き付けた。
﹁⋮⋮そんなこと言うヴィントには⋮⋮ブラッシングしないから⋮
⋮﹂
ぽつりと、小さな声だったが、目は笑っていなかった。そばに居
たリタとケニスが同情してしまう程に、ヴィントはその言葉に物凄
653
く動揺した。
﹁ラ⋮⋮ラティナ?﹂
オコ?﹂
﹁しないもん﹂
﹁オコ?
﹁しないもん﹂
﹁ゲキオコっ!?﹂
ぷいっ。と顔を背けたラティナの周囲をぐるぐる回るヴィントの
声音には、必死さと悲壮さが漂っていた。
︵⋮⋮それは、脅迫だぞ、ラティナ⋮⋮︶
︵ラティナ⋮⋮昔から、たまに頑固だからねえ⋮⋮︶
内心で独白しながら見守る夫婦の前で、決着はついた。
ケモ
﹁オコ⋮⋮つらたん⋮⋮るすばん⋮⋮する⋮⋮﹂
がっくりと獣にも関わらず器用に肩を落としたヴィントは、ラテ
ィナの脅しの前に屈したのだった。
そんな風に決着がついた後では、ヴィントは、リタやケニスがい
くら頼んだとしても、ラティナに付いて行ってはくれない。
ラティナは彼女の要望通りに、保護者抜きの夜遊びを勝ち取った
のだった。
リタとケニスは、正直不安だ。
とはいえ、デイルほど極端ではないこの夫婦は、いつか大人にな
るこの少女を、いつまでも保護者同伴のままにしておくことが出来
ないことも理解している。たくさんの警護が街中にいる今日のよう
な日が、そのひとつの﹃段階﹄を経るにふさわしいことも知ってい
るのだった。
﹁本当に、気を付けてねっ!﹂
リタは、ラティナが初めて学舎通いをした時以上に念を押すと、
嘆息しながら、内心で呟いた。
654
︵⋮⋮ラティナに何かあったら⋮⋮血の雨が降るのかしらね⋮⋮︶
あまり胎教に良くなさそうな想像だった。
ラティナは、旅人らしい人びとの姿や、あちこちで祭礼の為に組
まれた櫓などに足を止めては、浮き立つ気分でそれらを眺めていた。
六年前にクロイツに来てから、毎年のように見ていても、普段とは
アフマル
異なる街の様子や、雰囲気に心が躍る。
ヴァスィリオ
︵ヴァスィリオでは、赤の神のお祭り見たことなかったな⋮⋮︶
クロイツでの生活に慣れて、最近では故郷での事を思い出すのも
難しくなってきていた。
そして、今が幸せだからこそ、故郷での日々も辛いことだけでは
なかったのだと、思えるようにもなってきていた。
﹃追放﹄された当初は、故郷の事を思い出すことすら、辛くて悲し
いことだった。だからこそラティナは、出来るだけ考えないように
していたのだ。それが最近はふとした時に、楽しかった思い出を思
・・
い返すことが出来るようになったのだった。
︵そういえば⋮⋮ラグと一緒に、お祭り行ったんだよね⋮⋮あれは、
何の神様のお祭りだったんだろう⋮⋮︶
向かい側から、幼い子どもが父親と手を繋いで歩いて来る。それ
に視線を止めながら、ラティナは首を傾げた。
バナフセギ
﹁⋮⋮﹃神殿﹄から出たのはあの時だけだったから⋮⋮紫の神以外
の神様だったのかなぁ⋮⋮﹂
しんみりとしてしまいそうな自分に気が付いたラティナは、首を
振って切り替えると、クロエの家へと再び歩きはじめた。
東区の表通りは、普段とは比べものにならない程の沢山の人出で、
まっすぐ歩くのも難しいくらいだった。だが、一本裏道に入ると途
655
端にひとの姿は疎らになる。他所から来た者が多いという証拠だろ
う。
呼吸が楽になった錯覚を覚えながら、ラティナは更に道を奥に入
って行く。
辿り着いた職人街は相変わらず静か−−作業音などの物音はあち
こちの家屋から聞こえてきていたが−−だった。
入ってっ﹂
その中の一軒、通い慣れた親友の家の扉を叩く。
﹁いらっしゃい、ラティナ!
﹁お邪魔しますっ﹂
クロエの先導で作業場を抜けて、クロエの私室へと向かう。
﹁もうシルビアは来てるよ﹂
﹁ごめん、遅れたかな?﹂
﹁ううん。シルビアは仕事が早く終わったって言って、入り浸って
たんだよ。家に帰る気分じゃなかったんだってさ﹂
クロエの言葉を裏付けるように、彼女の私室では、シルビアが行
儀悪く足を伸ばしていた。ラティナに気付いて学舎時代から変わら
ない笑顔を向ける。
本当久しぶりだね。あんまり⋮⋮変わってないね﹂
﹁シルビア、久しぶりっ﹂
﹁ラティナ!
﹁今、何処見たの?﹂
そこのコメントを掘り下げると、泣くよ。
という、やけに具体的なラティナのオーラ的なものを察したのか、
シルビアは少し視線を逸らした。
﹁本当、久しぶり。元気そうだねっ﹂
再びラティナの方を向いたシルビアは、何事もなかったように仕
切り直した。ラティナも友人に笑顔を向ける。
﹁シルビアはちょっと大人っぽくなった?﹂
656
アクダル
﹁ふふふ⋮⋮緑の神の神殿では、日々様々な最新情報が集まるから
ね﹂
にやりと悪そうに笑う友人のそんなところは、学舎時代からあま
り変わらないようだった。
﹁ふっふふーっ、今日は色々持って来たからねーっ﹂
﹁ん?﹂
﹁さぁて、ラティナ。注文の服は完成してるよ!﹂
﹁うん。凄く楽しみにしてたのっ!﹂
クロエとシルビアがアイコンタクトを交わしたことには気付かず、
ラティナはおっとりと微笑んでいた。
クロエが取り出した新しい服を、ラティナは受け取ると、いそい
そと着替え始める。人前で着替えることが恥ずかしくないという訳
ではないのだが、クロエはこういう時は、職人としての顔になり、
ちゃんと採寸通りになっているかの確認もしてくれるのだ。
﹁⋮⋮ごめん、ラティナ⋮⋮本当にちゃんとおっきくなってるんだ
ね⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ちゃんと成長期来てるもん﹂
その最中、ある一部分を確認したクロエが、採寸時と、多少なり
とも変化があることに気付いて謝罪を発すると、ラティナは、ぷく
っ。と幼い頃から変わらない仕草で頬を膨らませたのだった。
657
白金の乙女、赤の神の夜祭りに行く。壱。︵後書き︶
測定してようやく何とかわかる程度⋮⋮
658
白金の乙女、赤の神の夜祭りに行く。弐。
﹁ふふふ⋮⋮クロエ、これはちょっと楽しいね﹂
何?﹂
﹁でしょう。これ程の逸材⋮⋮そうそう弄くることは出来なくてよ﹂
﹁何?
﹁やっぱり、ラティナにはオレンジ系よりもピンク系の方が良さそ
うだね﹂
ねぇ、本当、どうなってるの?﹂
﹁ふふふ⋮⋮﹂
﹁何?
アクダル
持参したシルビアと共に、道具類を目一杯に広げるクロエは、非
常に楽しそうだった。それは、緑の神の神殿経由で仕入れた、最新
アクダル
かつおすすめの化粧品であったのだった。
緑の神の神官たちが集める情報には、風俗や流行も含まれる。そ
アクダル
して、神官の半数は女性である。各神殿の中でも世俗に深く接した
緑の神の神殿であるからには、自ずと最新のファッション等の情報
も集まって来るのだ。
あそば
新品のワンピースを着たラティナは、生まれて初めてのメイクの
真っ最中なのであった。
とはいえ、鏡を見せてもらうことは出来ず、二人に色々試されて
いる。クロエとシルビア的には、美少女を好き勝手に装わせるとい
う、人形遊びの延長のような、またとない機会なのであった。
二人も年頃の少女だ。並みの美少女相手ならば、妬みや謗りを抱
くこともあるだろう。
だが、それが﹃次元の違う﹄立ち位置ならば話は別で、もう羨む
のも馬鹿らしくなってしまうのだ。一種の諦めの境地へと至ってい
659
るのである。その上、この幼なじみは天然娘だ。ぽやんとしていて、
放っておくのは危なっかしいし、どこかずれていて憎めない。
そして何よりも、ラティナが幼い頃からずっと変わらず、自分た
ちよりも歳上のひとを、一途に見ていることも、クロエとシルビア
はよく知っている。
一生懸命背伸びをしようとしている、幼なじみを応援したいのは、
友人として当然といった心境なのだった。
﹁いえーい﹂
﹁いえーい﹂
と、クロエとシルビアがよくわからないテンションで、互いの手
をパチンと合わせる。置いていかれたままのラティナは二人を不安
そうに見詰めていた。説明が欲しいところである。
ラティナは早くから働きはじめ、堅実な性格をしていることもあ
り、金銭的な余裕はある。その為、自分で化粧道具などを揃えるこ
とも出来た。それなのにそうしなかったのは、自分のことを﹃子ど
も﹄扱いしているデイルの前で、そういった物に興味があるとは、
なんとなく言い難かったからであった。
リタにはそれとなく言ってみた。だが、リタは毎日仕事と育児で
忙しい。自分の為に時間を作って買い物に付き合って貰いたいとは、
強く頼むことも出来なかった。そういった経緯で、ラティナは興味
があっても、化粧品店等に入ることが出来なかったのだった。
初めて過ぎて、何をどうすれば良いかも、何を揃えるべきかも、
わからなかったのである。
いつもの相談相手であるケニスにも、流石に言えなかったのだっ
た。言われても、多分ケニスは困惑するだろうが。
660
それを友人たちに話したところ、情報通のシルビア主導で、今日
このように準備して貰うという流れになったのだった。
シルビアはメイク方法も知識を仕入れており、クロエもラティナ
よりはずっと造詣が深いジャンルだ。
自分たちの﹃作品﹄を満足そうに眺める二人は、本当に楽しそう
だった。
﹁やだ、この子ったら、本当に美人﹂
﹁私たちの腕前はそんなに無くても、素材の持ち味を活かすだけで、
この通りって感じだね﹂
﹁ほら、ラティナ、笑ってーっ﹂
﹁ねぇ、本当、どうなったか教えてよ⋮⋮っ﹂
ニヨニヨする二人からやっとのことで鏡をもぎ取る。そこを覗き
込んだラティナは驚きで言葉を失った。
長い睫毛と大きな灰色の眸を更に印象深くするアイメイク。その
分他の部分は色味を控えて全体的に派手にしたりしないようにバラ
ンスをとっている。上気したように仄かに色付く頬。微かに開いた
唇も淡い桃色の紅がひかれ、常よりも艶やかな光を装っている。
大人になりきれていないが、幼い子どもからは抜け出そうとして
いる愛らしい少女の顔。
クロエとシルビア会心の出来であった。
﹁⋮⋮⋮⋮か⋮⋮顔が濃いよ⋮⋮っ﹂
だが、しばらくしてラティナから出たコメントは、残念仕様ない
つも通りの彼女らしいものであった。
そんな、がっかりクオリティ発言も、おそらく育ての親の影響だ
と思われる。
﹁うー⋮⋮、なんか恥ずかしい⋮⋮﹂
661
﹁なんでそこで恥ずかしがるのさ﹂
﹁ラティナだからでしょ﹂
わいわいと、三人の少女は表に出る。最後にクロエの家から出た
ラティナは少し困った顔で下を向いていた。
いつもの自分と違う﹃顔﹄。誰かにそれを指摘されそうで、妙な
気まずさを抱いていた。周囲が気にすることも無いのだろうが、慣
れていないからこその、落ちかつかなさ、である。
そんなラティナの性格を知る親友たちは、明るく笑い飛ばした。
﹁まあ、いつもより周りのひとに﹃見られちゃう﹄かも知れないけ
どねぇ﹂
﹁ふぇっ!?﹂
﹁そうそう。だから今のうちから、気にしてたら持たないよお?﹂
﹁やっぱり、変なのっ?﹂
﹁ふふふ⋮⋮﹂
﹁おほほ⋮⋮﹂
﹁その笑い方、何っ!?﹂
アクダル
揶揄いがいのあるラティナのリアクションを楽しみながら、三人
は赤の神の神殿のある、街の中央地区へと向かうのであった。
その途中で街のあちこちに足を止める。
東区の人混みも、大勢の見物客目当てに、各商店がセールや売り
込みをしている結果の光景だ。
買う気はなくとも、互いに商品を指差し、笑い合うだけで楽しい
時間が過ぎていく。
普段なら立ち入ることの出来ないアクセサリー屋が、店先に手頃
な価格の商品を並べて展示しているのに、クロエが足を止めた。皆
リボン
で、ああでもないこうでもないと言いながら、予算内で一番良い物
を吟味する。
別の小物の店では、ラティナが飾り紐を手にして二人に見せた。
662
リボン
甘めの普段の服装にも合うが、いつもよりも大人っぽいものをと二
人が勧めたのは、織り地の綺麗な黒い飾り紐だった。
三人が少し寄り道をと、道を逸れた先には、繁盛しているパン屋
があった。店内も混みあっているが、それ以上に店の前に設えた屋
台が混雑している。
その屋台で忙しく働く幼なじみに、三人は笑顔を向ける。
﹁マルセル、忙しそうだね﹂
﹁ラティナ、クロエとシルビアも。シルビアはお久しぶりだね﹂
幼い頃より変わらぬおっとりしたような口調だが、彼の手元はて
きぱきと作業をしている。
祭りの見物客相手に、軽食用に具材を挟んだパンを売っているの
だ。雑談の合間もマルセルは、注文に応じた具材をせっせと挟んで
いる。
丸顔でやや身長が低いマルセルは、その見た目がなんとなく﹃角﹄
がない。エプロンを着けて穏やかな表情をしている彼が売る食べ物
は、なんだかとても美味しそうな印象を受ける。
彼も自分の見た目が及ぼす印象を知っている。だからこそ、こう
いう日は店内ではなく外で働いているのだ。将来有望な跡取り息子
なのである。
﹁みんなはこれから、祭りの見物かい?﹂
﹁うん、そうなの﹂
﹁マルセルは忙しそうだね﹂
シルビアの言葉に、パンにマスタードを塗りながらマルセルは苦
笑した。
﹁そうなんだよ。いつも忙しいんだけどね、今年は店で働いてくれ
てるひとが、お産で休みなんで。手が足りないんだよ⋮⋮はい、お
待たせしました﹂
663
マルセルが客に差し出した、たっぷりの野菜と肉のスライスが自
慢のパンに挟まれているそれは、確かにとても美味しそうだった。
小腹が空いてくる時間帯だ。祭りの本番に向けて、それを満たし
ておきたいという欲求を掻き立てる。
﹁僕は今年は見に行けなさそうだよ。アントニーは、居るんじゃな
いかな?﹂
﹁アントニー?﹂
﹁うん。アントニーのお父さんが領主館で働いているからさ、祭り
の進行にも詳しいんだよ。見物にお勧めの良い場所も詳しい筈だよ
⋮⋮って、はい。これはサービス﹂
マルセルが笑顔で差し出した三つのパンを、クロエは悪びれずに
受けとる。
﹁ありがとっ﹂
﹁どーも﹂
﹁マルセル、いいの?﹂
﹁いいの、いいの。でも、出来たら店の近くで食べてね。飲み物も
出そうか?﹂
ラティナは首を傾げていたが、若き跡取り息子の判断は的確であ
ったようで、彼女たちが店先でパンを食べ終わる頃には、屋台の前
には行列が出来ていたのであった。
664
白金の乙女、赤の神の夜祭りに行く。弐。︵後書き︶
お忘れかもしれませんが。彼女は、非常に幸せそうに、美味しそう
な顔で物を食べます。
665
白金の乙女、赤の神の夜祭りに行く。参。
マルセルと別れた三人は、街の中央広場へと辿り着いていた。や
はり普段よりもひとの姿が多い。日が傾き初め、夕焼け色を帯びつ
アフマル
つある空を背中に先を急ぐ。
アズラク
アスファル
普段の生活の中で﹃赤の神﹄の神殿は行く機会が少ない。銀行の
業務を行う﹃青の神﹄の神殿や、幼い頃通った﹃黄の神﹄の神殿と
アフマル
は異なり、一般庶民が行く理由自体があまり無いからである。
﹃赤の神﹄の神殿に所属する神官兵の姿は、街中でも時折見かける
ことが出来た。
アフマル
アフマル
クロイツの街の治安維持を任務とするのは、領主に仕えている憲
兵たちだが、法の番人である﹃赤の神﹄故に、﹃赤の神﹄の神官兵
たちも、憲兵に協力して街中の事件の鎮圧に関わることもあるので
あった。
﹁アントニー、何処かな?﹂
﹁うふふ⋮⋮その前に、先輩に聞いたけど、式典が始まる前の神官
兵の様子がこっちから見られるらしいよ﹂
﹁へぇ⋮⋮舞台裏って感じ?﹂
﹁そうそう﹂
シルビアが含み笑いをしながら指を向けた方向に、三人で顔を見
合せてから向かう。なんとなく共犯めいた秘密の行動をしているよ
うな、どきどき感が胸を高鳴らせた。
アフマル
﹃赤の神﹄の神殿からも裏手にあたるそこでは、大勢の神官兵たち
が整然と並びながらも、本番直前の慌ただしさと熱気を感じさせる
空気に包まれていた。
666
三人で並んでこっそりと覗く。
別に咎められることではないのだが、なんとなく息を殺して、声
を潜める。
﹁こうやって改めて見ると、神官兵の制服とかも、ちょっとずつ違
うんだね﹂
﹁本当だ﹂
﹁確かねー⋮⋮所属する隊とかで、ちょっと違うんだった筈だよ﹂
こそこそと、会話をするだけで楽しい。大人が見たら何というこ
とのない出来事や話題も、この年頃の少女にとっては一瞬一瞬が弾
けるような﹃特別﹄なのだ。
﹁あのひと、結構格好良いよね?﹂
﹁どのひと?﹂
﹁ほら、肩に二本のラインがあって⋮⋮焦げ茶の髪の⋮⋮﹂
﹁へぇ⋮⋮シルビアって、ああいうひとが良いの?﹂
﹁えー⋮⋮そのひとより、あっちの金髪のひとの方が良くない?﹂
﹁んー⋮⋮あのひとは駄目。あちこちの女の子口説いて、問題起こ
しているから﹂
﹁⋮⋮シルビアは何処からそういう話、聞いて来るの?﹂
﹁ふふふ⋮⋮﹂
いかにも楽しげに、年頃の少女らしい話を、きゃいきゃいと交わ
す。
ラティナも話には加わっているが、友人たちは﹃彼女の好み﹄に
ついては、あまり尋ねない。答えが決まりきっている為と、ラティ
ナ自身が、ひとを美醜では判断しない性質をしている為だった。
ラティナは持って生まれた﹃危険を察知する能力﹄もあって、見
た目よりも何よりも、そのひとの中身を価値基準にする。
そんなラティナの﹃好み﹄というのは、枠に当てはめ難いのだっ
た。
667
﹁そろそろ行こうか?﹂
﹁うんっ﹂
クロエの言葉に頷いて、今度こそ中央広場の祭りのメイン会場へ
と向かう。三人の少女は人混みの中へと向かって行った。
アントニーは、まだ高等学舎に通う身だ。その彼が領主館の近く
であるこの場所で、愛想笑いを浮かべているのは、周囲を父親の上
司や同僚に囲まれているからであった。
領主館の下級役人の職に就く彼の父親だが、アントニーが学舎を
卒業後同じ職に就くことが出来る訳ではない。
だが、可能性が全くないということでもない。その﹃可能性﹄を
多少なりとも上げる機会として、父親について挨拶回りをしている
のだった。
そんな時、久しぶりに耳にした声に、アントニーは後ろを振り返
った。
﹁アントニーっ、久しぶりっ!﹂
声の主を間違える筈もない。
幼い頃から変わらない邪気のない笑顔で、にこにこしているラテ
ィナと、その後ろに立つクロエとシルビアの三人組であった。
直ぐにピンと来た。
見知らぬ大人たちに囲まれている今の自分の状況は、友人たちに
してみれば﹃声が掛け難い﹄状況である筈だ。だからこその﹃ラテ
ィナ﹄である。
恐らくはシルビアあたりの判断だろう。
ラティナ当人は自覚してなさそうだったが、彼女の容姿は、多少
の突飛な出来事すら周囲を黙らせる威力を発揮する。
668
・
・
友だちたちだよ﹂
・
現に、自分の父親を初めとした、周囲の大人たちがぽかんと呆け
た顔になっていた。
アスファル
﹁父さん、﹃黄の神﹄の初等学舎で一緒だった
あえて﹃友人である﹄というのを強調するのは、色んな意味で、
自分の身が可愛いからだ。
﹁え⋮⋮お⋮⋮?﹂
アントニーの父も、クロエには気付いた様だった。家が近くにあ
る上、小さい頃遊び仲間であったことは父親も知っている。
﹁⋮⋮﹃妖精姫﹄だよ﹂
ぽつりと友人の二つ名を口にすれば、父親だけでなく、その周囲
の大人たちもざわついた。
﹁なっ⋮⋮﹃あれ﹄が、噂のっ⋮⋮﹂
﹁実在していたのか⋮⋮﹂
どうやら幼なじみは、珍獣や都市伝説並の扱いをされているよう
であった。
領主館にも、彼女の噂は届いているのだ。
この﹃クロイツ﹄という街では、﹃冒険者﹄という者たちの動向
は重要な意味を持っている。その彼らを中心に支持を集めている﹃
存在﹄に、この街の治世者に仕える領主館の役人たちが、注意を払
わぬ訳がなかった。
冒険者という、大きな武力を持つ者たちを、煽動する反乱分子に
ならぬ保証はないのだ。
だが、﹃妖精姫﹄の場合は、領主館に所属する憲兵たちから、﹁
無害であるので、問題ない﹂という報告もまた、上がっており、問
題視はされていない。
ファンクラブ
−−まさか、憲兵たちの隊長が、親衛隊のトップの片割れである。
なんてことを知る者は、領主館の役人たちの中にはいないのだった。
669
ラティナの行動範囲も、﹃虎猫亭﹄のある南区と、商業地区であ
る東区が主だ。役人たちの多くが暮らす西区に行く機会はないし、
そこに暮らす人びとは、ならず者たちが集う﹃虎猫亭﹄のような店
は訪れない。
ラティナの﹃存在﹄が、あくまでも﹃噂﹄に留まっていた理由で
あった。
﹁ここに来る前に、マルセルのところに寄ったらね。アントニーが
ここにいるって聞いたから﹂
にこにこと笑うラティナは、だいぶ大人っぽくなっているが、笑
い方などは変化がなかった。
﹁本当に久しぶりだね、みんな。変わり無さそうで、何よりだよ﹂
﹁アントニーは、背が伸びたね﹂
﹁なんか、見下ろされるのって、腹立たない?﹂
﹁成長は止められないけどさ、這いつくばらせれば、大丈夫だよ?﹂
﹁クロエとシルビアも、本当変わらないみたいだね﹂
身長や体格では、男である自分の方に分がある筈なのに、何故だ
かこの二人には、勝てる気がしない。アントニーは内心で汗をかい
た。
﹁いつもは、デイルと一緒だったから、何処でお祭り見るのが良い
のか、よくわからないの。アントニーなら知ってるかもって、マル
セルに言われたんだけど⋮⋮﹂
﹁ああ、成程ね⋮⋮女の子たちだけだと、冒険者たちが集まってい
るようなところじゃ、危ないもんね⋮⋮﹂
ラティナが、例年夜祭りを見ていたのは、デイルと共にだった。
彼は群衆の中に紛れて、時には彼女を肩車して、祭り見物をした。
顔見知りが陣取っている、見物席の一角に紛れさせて貰ったことも
670
ある。だが、そういった手段は今日の自分たちには使えない。
﹁常連さんたちのところだと、デイルと一緒と変わんないもん﹂
ぷすっ。と、拗ねたように言うラティナは、アントニーの言葉を、
彼の意図とは異なる意味で受け取ったようだった。
﹁どうしたの、ラティナ?﹂
アントニーがこっそりと、一番付き合いの長い相手に問いかけれ
ば、クロエは苦笑を浮かべて声を潜めて答えた。
﹁ラティナのとこ、心配性だらけだから。今日の外出にも、結構色
々言われてきたみたいだよ﹂
﹁ああ、成程﹂
﹁ラティナが、天然だから、心配されるんだろうけどね﹂
﹁箱入りなのが、拍車を掛けてるんだと思うんだけど﹂
話しながら、愉快な気分になってくる。﹃久しぶり﹄であること
を忘れる程に、馴染んだ会話だった。
﹁父さんたちに聞いてみるよ。嫌じゃなければ、このあたりで見て
いけば良いと思うよ﹂
アントニーがそう言ったのは、父親を初めとした大人たちが、噂
の﹃妖精姫﹄に、興味津々であることに気付いているからだ。
そして、この幼なじみをふらふらさせて、万が一のことがあれば、
大いに彼方此方が荒れるということも、彼は知っている。
アクダル
﹁紹介するよ、父さん。彼女はラティナ。﹃緑の神﹄の旗のある店
で暮らしている娘だよ﹂
﹁はじめまして、ラティナです。家名の無い地域の生まれなので、
名前だけで失礼致します﹂
﹁それで、彼女はシルビア・ファル。憲兵隊のファル副隊長の娘さ
んだよ﹂
671
﹁はじめまして﹂
そう笑顔を向ける少女たちは、アントニーの思惑通り、領主館の
人びとが祭り見物のために確保した場所の一角に招かれたのであっ
た。
アントニー、英断であった。
672
白金の乙女、赤の神の夜祭りに行く。肆。
アフマル
夜祭りの本番は日が暮れた頃に訪れる。
それは﹃赤の神﹄を象徴する色を、自然界でイメージさせる存在
−−すなわち炎−−が最も映える時間だからであった。
アフマル
整然と列を成してクロイツの街を進む﹃赤の神﹄の神官兵たちが
纏う磨きあげられた鎧に、掲げ持たれた灯火が映り込む。
戦の神でもある彼の神が誇る、勇猛たる兵たちの整然とした行進
だけでも目を奪うというのに、隊の途中途中では、戦勝祈願の舞い
の踊り手でもある、薄絹を靡かせた巫女たちが華やかな彩りを加え
ている。
神殿を出発した一行は、領主館を中心としたこの一帯の大通りを
ぐるりと周回し、最終的に街の中央広場に集まる。
最終的な儀礼は神殿で行われるのだが、敬虔な信徒を除いた一般
的な民衆たちは、行進が通る大通り沿いか、中央広場で、その様子
を楽しむのが一般的だった。
アフ
ゆらり揺らめきながら、街を明るく照らす炎は、教義の象徴その
マル
ものでもある。暗がりに隠れ疚しい行いを行おうとしても、﹃赤の
神﹄の前では隠れることは出来ぬと−−だからこそ、篝火は数多く
焚かれ、普段は夜の静寂に包まれる筈の街を、ことさら明るく照ら
すのだった。
﹁凄いねぇ﹂
人混みに押され阻まれることもない、安全な場所を確保した少女
たちは、そんな﹃特別﹄な光景を眺めていた。
大勢の人びとがいるが、本質的には神事であるために、羽目を外
673
して大騒ぎするものはいない。それでも互いに顔を寄せあわなけれ
ば、声を届けることは出来なかった。
人びとのさざ波のようなざわめきの中で、彼女たちは、日常から
離れた空気を楽しんでいた。
そんな﹃特別﹄な時間だからこそ、クロエは、親友に普段は言え
ない言葉を、投げ掛けることが出来たのかもしれなかった。
﹁ねぇ、ラティナ﹂
﹁なあに?﹂
﹁何時になったら、告白するの?﹂
クロエの言葉に、ラティナは声を詰まらせた。赤い炎に照らされ
・
・
・
・
・
・
あのひとの周りに、特別な女のひとの話
たラティナの顔は、その言葉でどのような反応を示したのかはわか
らない。
﹁そうだよね。なんで?
も無いよね。なのに何に遠慮してるのさ?﹂
シルビアにも重ねて問われて、ラティナは恥ずかしそうに下を向
く。
﹁言ったもん﹂
幼さの残る口調で、彼女はそう主張した。
﹁ずっと、ずっと⋮⋮言ってるもの。デイルのこと、大好きだって
⋮⋮誰よりも、一番、大好きだって⋮⋮皆とは違う、特別なんだっ
て⋮⋮でも、伝わらないんだもの⋮⋮っ﹂
ずっと前から、変わらない﹃想い﹄。
だからこそ、今までも何度も伝えた気持ち。
篝火の下でなければ、耳まで真っ赤に染めていることがわかる表
674
情で、ラティナは親友たちに想いを告げる。
﹁私は、デイルにとって、まだまだ﹃ちいさなラティナ﹄だから。
⋮⋮だから、伝わらないの。﹃大好き﹄だって言葉も、﹃特別﹄だ
よって言葉も⋮⋮まだ⋮⋮届かないの﹂
愛の告白も、言葉が届かない時は、どうしたら良いのだろう。
ただの﹃好き﹄だけでは届かない−−一番﹃好き﹄。他のひとへ
の﹃好き﹄とは異なる﹃特別な好き﹄。そう言葉を重ねても、伝わ
らない気持ちはどうやったら届くのだろう。
そして、どうして、届かないのだろうか。
ずっと前からそのことを理解していた彼女は、﹃大人﹄になるこ
とに、その答えを見出だした。
子どもの自分では、届かない言葉も、大人になったら、大きくな
ったら届けることがきっと出来るだろうと、考えた。
早く大人になりたかった。
彼と自分の間にある年齢の差は大きく、精一杯必死で背伸びをし
ても、まだ届くことはない。
それでも、せめて、自分の想いが伝わる程度には、自分のことを
一人前の女性だと見て欲しかった。
﹁⋮⋮ラティナ﹂
隣でクロエが、きゅっと、手を握る。そのクロエが飲み込んだ﹃
言葉﹄を、もう一人の親友は躊躇することなく口にした。
﹁本当に、それだけ?﹂
﹁⋮⋮シルビア?﹂
﹁ラティナはさ、本当は、どうして告白が伝わらないのかもわかっ
ているんだよね。⋮⋮でも、怖いんでしょ?﹂
﹁え⋮⋮?﹂
675
﹁今までと、同じでいられなくなることがさ﹂
シルビアの言葉に、ラティナは驚いた顔をした。
それは図星を突かれたから、というよりも、自分の中にそういう
﹃想い﹄があることに、気付かされたという顔だった。
﹁私⋮⋮﹂
ラティナが動揺しながらも、自分を冷静に見直すことが出来たの
・
・
・
は、隣のクロエが、ただ、無言で寄り添ってくれたからだった。
・
ラティナが何よりも、﹃周囲をうしなうこと﹄を恐れていること
を、親友たるクロエは知っている。
﹁⋮⋮そうなのかな﹂
﹁たぶんね﹂
しばらくしてラティナが出した結論を、シルビアは肯定し、クロ
エは黙って支持してくれた。
﹁大人になるよりも前に、ラティナが自分の想いを伝える為に必要
なのは、今の関係を壊すことなんだよね﹂
﹁⋮⋮そっか⋮⋮﹂
大好きなひとに、﹃可愛いちいさなうちのこ﹄として扱ってもら
うことは、今までの自分を支えてくれた、大切で、心地好い時間だ
った。
でも、自分がその関係以外を望むならば、まずはそこを改めなけ
ればならないのだろう。
﹁でも、良いのかな⋮⋮私、デイルに好きって、本当に言っても、
良いのかな⋮⋮?﹂
何を言っているのかと、弱気な言葉を糾弾しようとしたシルビア
も、ラティナの切なそうな表情に言葉を飲み込む。クロエは心配そ
うな顔になった。
676
﹁⋮⋮ラティナ?﹂
﹁私は、魔人族だから⋮⋮どう頑張っても、人間族にはなれないか
ら⋮⋮だから⋮⋮﹂
﹁それも含めて、ラティナはラティナだよ﹂
クロエが抑え切れないように言ったのは、過去のラティナがした
ことを、知っているからだった。
﹁うん⋮⋮だから、不安になるの。私とデイルに流れる時間は、同
じなんだけど違う。⋮⋮私は、それでもデイルが良いって言っても、
デイルは優しいから、きっと、苦しむ﹂
頭では理解している事実。でも、それは同時に直視することを避
け続けている事実でもある。
いつか、自分は、大切なひとたちと共に過ごす時間に終わりを告
げる。
皆が老いて逝く中、独り遺される。
避けていても逃れることは出来ないが、今が幸せだからこそ、考
えたくはない﹃現実﹄だった。
﹁それにね⋮⋮魔人族は、⋮⋮子どもが出来にくい種族なの﹂
・
・
その事実を告げたラティナは、泣き出しそうにも見えた。
﹁デイルは私に、本当にたくさんのものを呉れたの。それなのに、
私は、私の気持ちをデイルが受け入れてくれたとしても、デイルに
赤ちゃん⋮⋮見せてあげること、出来ないの﹂
ラティナは、デイルが子ども好きであることを知っている。
幼い自分を受け入れて、育ててくれたことだけではない。
﹃虎猫亭﹄でも、なんだかんだと言いつつも、テオの面倒を厭わず
にしていることも、故郷で弟夫婦に子どもが産まれる話を聞く度に、
穏やかな優しい表情になることも、知っている。
677
そんな彼に、彼の子どもを見せてあげることが出来ない自分は、
本当は彼の傍に在ることを、﹃望む﹄べきではない。
それは、ずっと前から、ラティナの中に巣食っていた﹃考え﹄だ
った。
その時、
﹁痛っ﹂
スコン。と、頭の上に落とされた衝撃にラティナは驚いて顔を上
げる。
目の前には、親友の怒った顔があった。
﹁バカラティナ﹂
もう一度スコン。と、ラティナの頭へとクロエは手刀を落とすと、
呆然としたラティナの間抜けな表情に、毒気を抜かれて苦笑する。
﹁頭良いくせに、どうしてそう、悪い方に考えるの﹂
﹁クロエ⋮⋮﹂
﹁人間族同士だって、子どものいない夫婦なんて珍しいものじゃな
いじゃない。それでも幸せだって、暮らしている人たちだっている
でしょう﹂
﹁でも⋮⋮﹂
﹁そんな下らないことで、女の価値を決めるつまんない男には、私
の親友は、初めっから勿体ないだけなんだから!﹂
言い切ったクロエに、ラティナは驚きの顔を別のものに変える。
ラティナ、泣いちゃ駄目っ。化粧が崩れて酷いことにな
それに気付いたシルビアが、慌てた声を出した。
﹁駄目!
っちゃう﹂
﹁帰ったら﹃見てもらいたいひと﹄がいるんでしょ?﹂
﹁⋮⋮うん﹂
熱いものが溢れてしまわないように、視線を上に向けたラティナ
678
は、隣にいる親友たちの手を、固く握った。
−−この夜の思い出も、このぬくもりも、忘れたりしないでいら
れるようにと。
﹁⋮⋮デイルは、﹃つまんない男﹄じゃないよ﹂
﹁そう﹂
﹁だから⋮⋮頑張ってみるね﹂
心を決めたラティナの前では、祭りが最高潮を迎えようとしてい
た。魔術でつくられた大きな炎が、細かな火の粉を散らしながら、
街の中をまるで生き物であるかのように踊りうねっている。
人びとの興奮もどよめきと共に上がっていき、炎の熱気と共に肌
を焼いた。
そんな中、シルビアはいつも通りの何処か底意地の悪い何かを企
んでいるかのような笑みを向けた。
﹁あのさ、ラティナ。確かに長寿種の﹃人族﹄は出生率低いけど、
可能性が全くないって訳でもないよ﹂
﹁でも⋮⋮﹂
﹁ならさ、一日でも早く、そーいう関係になって、少しでも可能性
上げてっちゃえば?﹂
﹁え?﹂
﹁それもそうだね。今晩にでも、ラティナの方から迫っちゃえ﹂
﹁ふえぇっ!?﹂
あまりにもあまりな、親友たちの無責任な提案に、すっかり涙の
ことも忘れたラティナは、上擦った悲鳴を上げたのだった。
679
白金の乙女、赤の神の夜祭りに行く。肆。︵後書き︶
実は恋愛タグは、割りと前から仕事をしておりました。
680
白金の乙女、赤の神の夜祭りに行く。伍。
アフマル
祭りの最後を締めるのは、大掛かりな炎の魔術による﹃花火﹄だ
った。﹃赤の神﹄の祭礼に相応しく、色味こそ赤に限られているが、
夜空を大輪の炎の花が彩る光景は、他では見られない。
大勢の人びとが、皆、同じように空を見ていた。
ふと、そんな中、呼ばれたような気がして、ラティナは振り返っ
た。
友人たちも彼女のその行動に気付いて首を捻る。
﹁どうしたの、ラティナ?﹂
﹁ん⋮⋮今、ちょっと⋮⋮﹂
振り返った先には、この場を提供してくれた領主館で働く人びと
がいる。その中に幼なじみであるアントニーの姿を見つけたラティ
ナは、少し首を傾げた。
幼なじみの隣には、憲兵の制服を着た数人の男性がいる。とはい
え、普段﹃虎猫亭﹄を訪れる常連客たちに比べると、だいぶ線が細
い。
﹁憲兵のひと?﹂
﹁げっ﹂
不思議そうにするラティナと違い、シルビアははっきりと嫌そう
な表情をした。
彼女の父親は憲兵隊の副長だ。平民ではあるものの、﹃良いとこ
ろのお嬢さん﹄であるシルビアの実家は、それなりに厳しい、格式
アクダル
ばった家であるのであった。
﹃緑の神﹄の神殿という﹃外の世界﹄に出たシルビアにとって、実
家の生活は﹁正直言って息が詰まる﹂のだ。
681
憲兵隊に所属する者は、彼女にとって、そんな実家を象徴する﹃
父親﹄に属する存在なのである。
アントニーと話をしていた、憲兵のひとりがこちらを向いた。
びくり、と動きを止める。
彼女たちが、自分の方を見ていることに、驚いているようだった。
その隣の憲兵たちも驚いた顔をしているが、その驚き方は少し意味
が異なるもののようだった。何か信じられないものを見た、という
雰囲気がある。
何か不思議なものでもあるのかと、自分の後ろを確認したラティ
ナは、夜空を見上げる群衆の背中に、何に驚いたのか理由を見つけ
られず、再び、こてん。と首を傾げた。
﹁あれ、ルディじゃない?﹂
﹁え?﹂
クロエの言葉にラティナは再び視線を戻し、そこでようやく、ア
あいつもう予備隊から出たんだ﹂
ントニーと話し込む憲兵が幼なじみであることに気がついた。
﹁あ﹂
﹁本当だ。何?
シルビアが呟くように、クロイツの憲兵隊は正規の隊員になる前
に、予備隊員として訓練と教育を受ける。
そこで認められてようやく、憲兵隊の制服を着て任務に就く事が
許された。憲兵隊の中にも階級があるが、ひとつの街の組織である
為に、大掛かりな軍隊ほどの複雑さはない。
青年と呼ぶにはまだ頼りない風貌の幼なじみは、制服に﹃着られ
ている﹄といった雰囲気を有していた。細い体躯もまた、成長途中
の幼さ故のものだろう。それでも均整のとれた体つきに、彼がしっ
かりと鍛えている事が伺われた。
682
幼少期は仲間たちより大柄だった体格も、周りが成長するにつれ、
目立つ特徴ではなくなっている。どちらかといえば、並んだアント
ニーの方が身長では追い抜いてしまっているのだ。
ラティナは、久しぶりに見た幼なじみのもとに、向かって行った。
その足取りは、幼い頃から変わらず﹃とことこ﹄といった形容がし
たくなるものだった。彼女は基本的に好奇心が強い為、気になった
ものの傍に、臆することもなく向かうのだ。
﹁ルディ、久しぶり。元気そうだね﹂
笑顔を向けると、幼い頃の名残を残しながらも、青年へと向かい
つつある容貌の少年は、何だか妙な顔をした。
﹁⋮⋮いい加減、﹃ルディ﹄は止めないか?﹂
挨拶も無しに、幼なじみが、記憶の中にあるものよりも低い声で
絞り出したのは、そんな一言だった。
ラティナは不思議そうに、こてん。と首を傾げる。
﹁ルディは、ルディじゃないの?﹂
るどるふ?﹂
﹁⋮⋮この歳で、ガキみたいな呼ばれ方するのは、ちょっと⋮⋮﹂
﹁⋮⋮?
言い慣れない単語をラティナが口にすると、何故だか、そう呼ん
何か、変﹂
で欲しがっていた筈の彼は、再び動きを止めた。
﹁んー⋮⋮?
ほんの少しだけ眉間に皺を寄せて呟いたラティナは、そう言って
再び表情を戻す。
﹁ルディは、ルディじゃ、ダメ?﹂
﹁⋮⋮好きにすれば、良いだろっ﹂
至近距離で見上げたラティナの顔を直視できなくなって、ルドル
フはそっぽを向いて言い捨てる。昔からの友人たちは、生温かい顔
になっていた。
683
﹁でかくなったのは、図体だけか。仕方ないわね、ルディだし﹂
﹁へたれは予備隊の訓練でも治らなかったか。仕方ないよ、ルディ
だもん﹂
っていうか、隠す気ないだ
﹁クロエもシルビアも、あんまり過度な期待をかけるのは、酷だよ。
ルドルフだよ?﹂
﹁そうね、酷ねー﹂
聞こえてるからなっ!
﹁そうだねー﹂
﹁お前らっ!
ろっ!?﹂
半泣きこそにはならなかったが、言い返すルドルフのそんな姿に
は、あまり成長は見られなかった。
憲兵隊のもとに行ったのは、アントニーだった。
おおごと
彼は﹃白金の妖精姫﹄が、万が一暴漢に襲われたり、鼻の下を伸
ばした好き者に声を掛けられたりしでもしたら、大事になることを
知っている。
−−恐らく、相手は、生きてこの街を出られないであろうことも、
悟っているのだった。
ラティナは当人が思っている以上に、どこか危なっかしい。
魔法使いでもある彼女は、確かに﹃攻撃能力﹄は有しているが、
恐怖や驚きで声を失うことだってあるのだ。そうすれば、細い華奢
な少女に出来る抵抗は限られてくる。
それなのに、この様子では、この幼なじみたちは、いつも以上に
余所者がうろうろしている夜の街を、少女だけで彷徨くつもりでい
クロイツ
るのだろう。
街の平穏と安寧の為にも、手を打っておくべきだと思った。
684
それで憲兵隊の詰所に相談に行ったのだが、彼が思っていたより
トップ
も呆気なく、予備隊を出たばかりの新人数人を貸し出して貰えるこ
ととなったのだった。
そのした
−−アントニー以上に﹃妖精姫﹄の安全を心配する﹃隊長﹄と、
最近帰宅するのを嫌がる娘を案じる﹃副隊長﹄の意見が合致した結
果であった。
ただの職権乱用であるが、それを今、指摘出来るものはこの場に
いなかった。
ルドルフがその中に含まれているのは、上の指図であったりする。
し
彼の想い人が﹃誰﹄であるのか。憲兵隊の上層部で知らぬ者はい
ない。
ご
か
だからこそ、彼は、予備隊入隊後のこの四年間、みっちりと可愛
がられてきたのである。
常連連中が愛でてやまない﹃妖精姫﹄は、﹃保護者﹄や師匠の影
響からか、どちらかといえば冒険者たちの方に馴染んでいる。それ
が、憲兵隊側の常連客にとっては、残念でならなかった。
そこに入隊してきたのが、﹃妖精姫﹄の幼なじみたる少年であっ
た。
少年を目当てに憲兵隊の詰所に、日参してくれたら。愛くるしい
笑顔で、上司である自分たちに、挨拶してくれたら。時には、ラン
チ等を差し入れなどに来て、﹁皆さんで召し上がってください﹂な
んて言われたら。
そんな、毎日が来たら、良いなぁ−−という、おっさん連中の願
し
ご
い
望なのであった。分か悪いのは重々承知の上でも、上層部が少年を
デイル
みっちりと可愛いがってきたのも、そんな理由があってのことだっ
た。せめて最低限、﹃保護者﹄に瞬殺されないようにならなければ、
話にもならない。
685
ご
く
し
保護者的視点で感じる、苛つくものは、まあ、より一層少年を可
愛がる方向で発散すれば良いと思われていた。
ルドルフ
どちらに転んでも、当人にとっては地獄であるような気もするが、
もとより彼が選んだ道そのものが茨の道である。
﹁ルディ、憲兵さんになれたんだね。いつから?﹂
﹁⋮⋮まだ、なったばかりだよ。今日の夜祭りは人手が足りないか
お店では見たことないね﹂
ら、新人連中も駆り出されるんだ﹂
﹁後ろのひとたちも、新人さん?
﹁と⋮⋮﹃あの店﹄の常連客の憲兵は、ほとんどが上の役職のひと
たちだからな﹂
﹁ふぅん。はじめまして、南区の﹃虎猫亭﹄のラティナです。ルデ
ィとは子どもの頃からの友だちなの﹂
ルドルフが﹃虎猫亭﹄の店名を敢えて伏せた努力をあっさり無視
をして、ラティナは彼の同期たる青年たちに笑顔を向ける。年齢に
は若干の差があるが、同時に正規の憲兵隊に昇進した残り二人の青
年たちは、ラティナの姿にまだ度肝を抜かれた表情になっている。
ルドルフも、本音を言えば、非常に驚いていたのだった。
幼い頃からの想い人である少女が、﹃可愛いらしい﹄少女である
ことは知っていたが、しばらく離れている間に、自分の思い出補正
を入れて美化しているのかもしれない−−なんてことも、考えてい
た。
ちょっと色々達観してしまう程に、予備隊の訓練は過酷なものだ
った。なんだか、他の訓練生たちよりも、自分の訓練は厳しい気も
したけれど、理不尽なしごきとも言い切れなかった為に、何とも言
い難かった。
それなのに、ラティナは、そんな自分の想像を越えて美しく成長
686
していたのだった。
同僚たちも、ラティナの容姿に言葉を失っている。男社会である
憲兵隊の中では、どこぞの酒場の看板娘が美人だとか、良い女がい
ただとか、のような話をよくする。だが、彼女はそんな次元を遥か
に越えているのだ。
それでいて、仕草のひとつひとつやころころ変わる表情は、幼い
頃そのままの愛らしさだった。
直視するのも眩し過ぎる。
なのに、当人には、相変わらずそんな自覚は無いらしい。
﹁うわぁっ﹂
最後の﹃花火﹄が夜空一面を覆うのを、歓声をあげて見上げるラ
ティナの隣で、そんな彼女の顔を窺い見る彼が、緊張故に強張った
表情をしていたのは、無理からぬことであったのだ。
687
白金の乙女、赤の神の夜祭りの後で。
﹁じゃあね、また今度﹂
﹁うんっ、お店の方にも来てね﹂
シルビアが、副隊長の娘だと聞かされた新人隊員の表情は、非常
に硬い。そんなお供を引き連れてシルビアはあっけらかんとした笑
顔で帰路についた。
今日は流石にまっすぐ帰る気になったらしい。
﹁クロエも﹂
﹁うん。ラティナ、しっかりね﹂
そう言った親友に笑顔を向けて、ラティナはルドルフと共に南区
へと向かう。服等の荷物を後日取りに行く時に、﹃結果報告﹄もし
なくてはならないだろう。
残されたクロエは、隣の青年を見上げて苦笑を浮かべた。
﹁ゴメンね。何だか、とばっちりみたいに残り物の護衛なんて﹂
﹁⋮⋮いえ。任務は任務ですから﹂
カラリと明るい気性が表に出たクロエの笑顔は、ラティナのよう
な相手の言葉を失わせるような美貌こそないが、充分に魅力的だっ
た。
絶世の美少女たるラティナの親友という立ち位置に居ながら、彼
女の容姿に劣等感を抱くこともなく、自分をしっかり持って胸を張
るクロエという少女もまた、ラティナとは異なる理由で﹃魅力的﹄
なのである。
先行するクロエの一歩後ろを歩く青年が、その笑顔に何を思った
のかは、当人のみぞ知る。
688
﹁予備隊の訓練、大変だった?﹂
﹁ああ﹂
﹁そうだね、ルディすごくがっしりしてる。お店に来る、新人さん
の冒険者さんたちよりずっとたくましいよ﹂
ラティナの笑顔は無邪気で、無防備だ。
自分が周囲からどう思われているかに、鈍感であるが故の危なっ
かさだった。
彼女は、幼い頃からずっと一人だけを追いかけている。一人だけ
を見詰めている。
その為に周囲の好意に鈍く、想い人に﹃子ども扱い﹄されている
自己への評価が低い。故郷から﹃追放﹄された身であると言う過去
もまた、自己評価を低くさせている一因であった。
更に言えば、彼女は﹃好意﹄自体には敏感なのだ。生まれ持った
﹃能力﹄の影響で、﹃敵意﹄に対して非常に鋭敏な感覚を有してい
るラティナは、その正反対の感情である﹃好意﹄にも、結果的に敏
感なのだ。その反面、﹃好意の内容﹄には非常に鈍いようだった。
ルドルフもラティナのそんなところには、薄々気が付いている。
黙って﹂
数年の時を経ても、そういうところは変わらなかったようだった、
と思う。
﹁なあに?
﹁いや⋮⋮﹂
﹁変なのっ﹂
眩しい錯覚を覚える彼女だが、流石に隣に憲兵の制服を着た者が
いる状態では、近付いて来る不埒な輩はいなかった。それでもラテ
ィナへと向けられた、下心も含まれた多数の人びとからの視線を感
じて、ルドルフは威嚇するように周囲に目を配る。
仄かな光を含んで煌めく長い髪を靡かせたラティナは、後少しで
689
目的地、というところでその足を止めた。
中央広場は混み合
﹃踊る虎猫亭﹄では、デイルが、そわそわそわそわそわそわと、落
ち着かない状態で歩き回っていた。
正直、邪魔だった。
﹁ラティナ⋮⋮お⋮⋮遅くないかっ?﹂
﹁さっき﹃火の花﹄が終わったばかりでしょ?
ってるんだから、そこから帰って来るまでには時間がかかるわよ。
その上、ラティナは友達送って来るって言ってたんだし﹂
﹁そんなことはわかってるけどよっ﹂
﹁わかってるなら、大人しくしなさいよ﹂
リタがいくら正論を述べようと、デイルの行動は改められない。
グレゴールとローゼを見送ってからクロイツに戻って以降、ずっ
とこの調子なのだ。リタの堪忍袋もそろそろ限界を迎えようとして
いた。
﹁そんなに心配なら、店の前で待ってれば良いだろう﹂
呆れ顔のケニスが言ったのは、意訳すれば、鬱陶しいから視界に
入らない所に行っていろ、ということである。
夜の街なのに、人通りは普段と比べることも出来ない程に多い。
その中から、目的の少女の姿を探して、目を凝らしていたデイル
の表情が強張ったのは、彼女が一人ではなかったからだった。
見慣れぬワンピースを着ていたが、彼が彼女を見誤るはずもなか
った。その彼女が、隣の同年代の少年相手に親しげな笑顔を向けて
いる。
憲兵だろうが、冒険者だろうが、デイルにとっては大差は無いの
であった。若き男なんて者は、ラティナ相手に色目を使った段階で、
害虫と同じ立ち位置なのである。
690
﹁デイルっ﹂
﹃踊る虎猫亭﹄の前に、佇むひとの姿を見付けた途端に出た声が、
弾んでいた。
ラティナのそんな隠し切れない嬉しそうな声に、ルドルフは苦し
いような胸の疼きを感じた。
わかっていたこと、だ。だから、これ位では、へこたれない。
以前、この店に遊びに来ていた時に、﹃友人のひとり﹄として扱
われていた時とは異なる、訝しげな視線には、寒気のようなものも
感じたが、耐えられない程のものではない。
殺気にも似たデイルの垂れ流す気配に、抗うことが出来ることこ
そが、地獄の訓練に耐えきった結果だとも知らないまま、ルドルフ
は額に浮かんだ汗にも素知らぬふりをした。
ラティナは、デイルの機嫌が悪いことには、気付いていなかった。
彼女にとっては、隣にいるのは﹃幼なじみのルディ﹄だ。久しぶ
りに会った友人と、楽しくお喋りすることも、並んで睦まじく歩い
て帰って来たことも、何も疚しいことはない。
デイルも、ラティナが、誰彼構わず付いて歩く少女だとは思って
いない。それでも、こんな風に無防備な姿を見せていることに、心
穏やかでは、いられない。
彼の不機嫌は、心配故の当然の反応だった。
﹁ラティナ﹂
だからこそ、デイルから出た声は、何処かトゲのある硬い声だっ
た。
﹁遅かったな﹂
デイルの言葉に、ラティナは不思議そうに首を傾げる。
その彼女の態度は、別に違和感も何もない行動であったが、﹃心
691
配﹄に﹃安堵﹄を加え、﹃知らない男﹄が付いて来た﹃状況﹄に頭
に血をのぼらせているデイルは、ますます冷静さを欠いていった。
﹁ほら、早く中に入れっ﹂
まるで小さな子どもに対するような、彼の様子に、ラティナは表
情を曇らせた。
冷静さを欠いているという点では、ラティナもまた、そうであっ
た。
初めての﹃夜遊び﹄に、高揚感溢れる祭りの空気。それに友人た
ちに煽られて来た彼女は、通常よりもずっと﹃興奮気味﹄になって
いる。
デイルの不機嫌さに呼応したかのように、思考を感情的なものに
振り切らせる。
ただ、それは﹃怒り﹄という形では現れなかった。
﹁⋮⋮デイル、私、もう、ちっちゃい子どもじゃ無いよ﹂
﹁そう言うことを、言ってるうちは、だいたい子どもなんだよ﹂
﹁違うもん⋮⋮っ﹂
ぎゅっ。と拳を握って力をこめる。
まだ、本当は心の準備は出来ていなかった。だが、友人が背中を
押してくれた今日この日に、新しい大人びたワンピースとメイクの
力を借りた、﹃今﹄でなければ、無理だと思ったのだ。
うちのこ
自分の想いを伝える為に、今までの﹃関係﹄を変える為の一歩を
踏み出そうと思った。
うちのこ
自分は、もう、幼い﹃ちいさなラティナ﹄では無いのだと。自分
が彼に求める愛情は、﹃ちいさなラティナ﹄に向けられる、親愛の
ものとは異なるのだと。
692
﹁私、もう、子どもじゃ無いっ⋮⋮それにっ﹂
それでも、デイルの顔をまっすぐ見ることだけは出来なかった。
目を固くつぶり、想いの丈を精一杯の声で高らかに告げる。
﹁デイルにそんな風に、言われたくないのっ⋮⋮、デイルは、私の、
﹃お父さん﹄じゃ無いものっ⋮⋮私、デイルのこと、お父さんの代
わりだなんて、思ったこと無いもの⋮⋮っ﹂
ルドルフは、目の前のラティナが耳まで真っ赤に染めて、言い切
った言葉に、ショックを受けていた。わかっていても、目の前では
っきりと彼女の想いを口にされるのは、聞かされるのは、辛い。
だが、彼は、一歩引いた立ち位置であるからこそ、その﹃現状﹄
に一番最初に気付いた。
﹁⋮⋮ラティナ﹂
ちょいちょいと、幼なじみの少女を呼ぶ。
だがいっぱいいっぱいの彼女は、ルドルフの声に気付かないよう
だった。−−目の前の﹃惨状﹄にも。
しばらくして、デイルから何も反応が無い状態に耐えきれなくな
ったラティナが、そろそろと目を開けて前を見る。
そこで彼女もようやく気付いた。
デイルは真っ青だった。
ラティナは、歳上の大人として、自分よりも落ち着いた余裕のあ
る彼の姿をいつも見ている。こんな風に蒼白になっているデイルを
見るのは初めてだった。
﹁え?﹂
驚いて、一歩近付いた自分から、逃げ出すように一歩後ろに引い
たデイルの姿に泣きたくなる。
693
自分の言葉は、彼にとってそんなにも受け入れ難いものであった
のかと。
だが、泣きたくなっていたのは、デイルの方であった。
﹁ラティナが﹂
震え声で絞り出した言葉が、その全てを物語っていたのだ。
﹁ラティナが⋮⋮っ、とうとう⋮⋮っ、反抗期に⋮⋮っ!﹂
ある意味安定の、酷いコメントであった。
﹁え?﹂
一拍遅れて、デイルの呟きの意味を理解したラティナは、盛大な
悲鳴を心の中で上げた。あんまりにもあんまり過ぎて、声にするこ
とが出来なかったのである。
︵えええええぇぇぇぇっっっ!?︶
硬直して内心で絶叫するラティナの様子に気付かぬまま、デイル
は半泣きの表情で頭を抱えていた。頭を抱えたいのは、自分の方だ
とラティナは思った。
大惨事であった。
﹁酷え﹂
ルドルフが思わず呟くが、それぞれパニック状態となっている、
この場の残り二人は、それに気付くことはなかった。
﹁ラティナがとうとう噂で聞いていた、﹃反抗期﹄に⋮⋮っ。噂に
は聞いていたけどっ、思春期の女の子特有の反応が⋮⋮っ、どうし
よう⋮⋮どうするべきだっ!?﹂
そう言って、もう一度ラティナを見たデイルは、なんとも言えな
い情けない表情をして、くるりと踵を返した。
挙げ句の果てに、この場から逃亡したのである。
一流の名に恥じない機敏な動きで、止める間もなかった。
694
︵ええぇぇぇっっ!?︶
あわあわと、再び内心で悲鳴を上げるラティナに、ルドルフが、
ぽん、と肩に手を置いた。
首の皮一枚で繋がったような立場の自分が言うのも、非常にどう
かとも思ったが、考えるよりも先に声が出ていた。
﹁まあ⋮⋮なんだ。頑張れ?﹂
﹁ふえぇぇっ﹂
ルドルフは、育ての父娘とはいえ、変なところは似ているものだ
なぁ、等と思っていたのであった。なんというか、他人事では無か
った。本当に、自分で言うのも何なのだが。
クロイツ
ラティナは泣きそうな顔でルドルフを見ると、先ほどのデイル以
上に情けない声を、夜の街に響かせたのであった。
695
白金の乙女、赤の神の夜祭りの後で。︵後書き︶
そう簡単には、うまくいかないのであります。
696
青年、そして白金の乙女。大惨事の後で。
デイルは、何時か来る、何時か来てしまうと思っていた、恐怖の
瞬間がとうとう来たのだと、思ったのだった。
一度そうではないかと思ってしまうと、最近のラティナが、自分
とどこか距離を取るような仕草をしていたことも、前兆であったよ
うにしか思えない。
﹁ラティナに⋮⋮っ、俺の可愛いラティナに、とうとう反抗期が⋮
⋮っ﹂
﹃踊る虎猫亭﹄に飛び込んだかと思えば、デイルは、そんな血を吐
くような声を発し、力なく崩れ落ちた。途端、すすす、と数人の常
連客が彼を取り囲んだ。
顔には同情のようなものを浮かべているが、そう言い切れない程
に、その背後には黒いものを漂わせている。
﹁⋮⋮年頃の女の子は難しいからな﹂
﹁うちだって大変だぞ﹂
口々にかける声は、デイルを慰めるというより、不安を煽る為の
ものだった。
﹁っ!﹂
﹁俺の服は臭いから、一緒に洗濯しないでくれなんて言われるんだ
ぞ﹂
﹁っ!!﹂
それまで嫁と子どもたちでリビング
﹁洗ったばかりのだって言っても、俺の存在自体が臭いとかってど
うしろとっ!﹂
﹁うちだって変わらんぞっ!
で談笑してたって言うのに、俺が入った瞬間に、無言で、そそくさ
697
と部屋に引きあげて行くんだっ!
だっ﹂
長期の仕事を終えて、やっ
俺の相手はペットのインコだけ
﹁俺だって言いたいことはあるぞっ!
俺が全部出してやるっ!
と帰れたと思ったら、子どもたちに、﹃いらっしゃい﹄って言われ
今日は全部俺が出すっ!
たんだぞっ!﹂
﹁飲めっ!
思う存分飲んで良いぞっ!﹂
真の﹃勇者﹄たる者は、思春期の娘に邪険にされても耐えている、
﹃父親﹄であるに違いないっ!
デイルのそんな独白を聞くことが出来た者がいたならば、﹁お前
がそれ言ったら駄目だろう﹂と、誰かしら突っ込みを入れてくれる
だろう、残念っぷりだった。
デイルが半ばもらい泣きをしながら叫び、世の﹃父親﹄たちを沸
かせた頃。
﹁リタっ!﹂
綺麗にお化粧出来たのね。崩れちゃう
店の厨房では、ラティナが泣きながらリタに抱き付いていた。
﹁どうしたの、ラティナ?
わよ?﹂
﹁リタ⋮⋮っ、私、デイルに、告白しようと、したの⋮⋮っ﹂
﹁告白?﹂
その割には、店の表側から聞こえてくる惨状は、色恋とは、ほど
伝わらなかったのっ!
告白だって、気付いて
遠い状況だ。そんな艶めいた気配は欠片もない。
﹁ダメだったの!
ももらえなかったのっ!﹂
﹁⋮⋮うわぉ﹂
リタの顔にはありありと、﹃あの馬鹿やりやがったな﹄と書いて
698
あった。
﹁恥ずかしくて、デイルの顔、見れないのぉっ!﹂
よしよし、とラティナの頭を撫でるリタは、呆れた表情をしてい
るが、それは勿論眼前の少女に向けたものではない。
この少女が幼い頃から、ずっと自分の﹃保護者﹄を﹃異性﹄とし
て見ていることには、リタはとっくに気付いていた。
リタから言わせれば、気付かないデイルの方こそどうかしている
のだ。夫であるケニスも、だいぶ鈍いことを言っていたが、何故男
連中はそんな馬鹿ばかりなのか。
まあ、デリカシーなどとは無縁の、冒険者なんて生物に、期待す
ること自体がいけないのだろうなぁ−−等と達観してしまう程度に
は、リタもこの商売が長かった。
﹁そうね。恥ずかしいわよ。女の子が告白しようとするってのは、
それだけ大変なことなんだもの﹂
リタは苦笑して、ラティナを覗き込む。
リタは、妹分とも言うべき立場のこの少女に対しては、店に来る
客たち相手へと向けるものとは、比べることも出来ない優しい顔を
向けるのだった。
リタは一人っ子であり、兄弟はいない。幼い頃にふとした時に思
親バカ
った﹃可愛い妹が居れば良い﹄という願いを体現したかのような、
思いがけない経緯で得たこの﹃妹﹄を、﹃デイル﹄とは異なる立ち
位置で可愛いがってきたのも、当然と言えば当然なのであった。
普段見慣れたむさ苦しい野郎どもには無い癒しを、若き女性であ
るリタが求めて何が悪いのか。
﹁逃げたくなるのだって、仕方ないことよ。顔を見たくないっての
も、無理ないわ。ね?﹂
699
−−別にラティナは、顔が見たくないとは言っていないのだが、
リタにしてみれば、﹃馬鹿﹄に対しての風当たりは強くて当然なの
である。
﹁無理しなくても良いのよ。あなたがいつも頑張っているのも、私
はちゃんと知ってる﹂
﹁リタ⋮⋮っ﹂
お肌に悪いからね﹂
ぼろぼろと本格的に泣き出したラティナを抱き締めるリタは、彼
女を裏手の方へと誘った。
﹁お化粧は、しっかり落とさないと駄目よ?
﹁うん⋮⋮﹂
ラティナが、店の裏手にある流し場で顔を洗うのを見守ったリタ
が、厨房内へと戻って来た。
夫であるケニスは、そのリタの表情に、自分は決して余計な口は
挟むまいと心に決めた。
店内は狂乱の宴会の様相を呈してきている。混乱しているあのデ
イルの様子だけからでは、何事が発生したのか理解しかねた。状況
デイル
を把握する為に、ラティナが帰って来たらしい厨房に戻ってみたも
のの、妻の様子を見る限り、﹃馬鹿なことをした﹄のは﹃弟分﹄の
方らしい。
﹁リタ⋮⋮﹂
﹁ケニス、明日から、ラティナにお休みあげようと思うの。あの子、
ずっと真面目に働きっぱなしなんだし、たまには良いわよね?﹂
そんな彼女の﹃休日﹄は、他でもない本日ではなかっただろうか。
思ったことを表情に出す愚策を取らない程度には、ケニスの﹃危
ね?﹂
機感﹄は現役時代並みの仕事をしていた。
﹁ラティナ、もう、部屋に戻りなさい?
700
くるりと、肩を落として泣き顔になっている少女に向き直った妻
は、別人のように、優しい表情だ。
ラティナと連れだって階段をのぼって行くリタの背中を見送った
ケニスは、酒が入って収拾がつかなくなりかけている店の中を見て、
ため息をついた。﹃夜祭り﹄の終了に合わせて来店した新たな客も
加わって、ますます混沌としてきている。
それは、妻の少女に向けるものとは大きく異なる﹃別人のような
表情﹄を向けられるであろう、自分の﹃弟分﹄への、憐憫のこもっ
たため息なのであった。
本格的に飲んで騒いだ後、いつものように、屋根裏部屋に戻った
デイルは、しんと静まりかえった室内の様子に、ごくりと唾を飲ん
だ。
ラティナの姿が見えなかった。
恐る恐る寝台を覗き込む。てっきりラティナがふて寝しているも
のだと思っていたデイルは、そこも冷えきったまま、誰もいないこ
とを確認すると、無言のまま、おろおろと周囲を探る。
屋根裏にのぼった瞬間に感じて然るべき、違和感を見落としたの
は、やはり酔いのせいだったのだろう。
倉庫となっている場所の、荷物の一部が、動かされていた。
積み直された荷物が壁となって、そこの一部を区切っているらし
い。
﹁!?﹂
それでも声を出せぬまま、そっとその奥を覗いてみようと試みる
も、デイルのそんな行動を遮るように、衝立が扉の代わりに佇んで
いる。
普段、ラティナが着替えをする時に使っている衝立だ。
701
﹁っ!
っ!﹂
そのことがもう十分答えであるような気もするが、デイルは息を
整えて、ゆっくりと気配を探る。本来ならば、そんなことをする必
要も無く、間違えることもない彼女の﹃気配﹄なのだが、それら全
反抗期とは、ここまで、俺から全ての癒しを奪う
てが、デイルの狼狽を表していた。
︵ーーーっ!!
のかぁっ!︶
結果、熱いものを双眸から垂れ流しながら、声にならぬ絶叫を迸
らせたデイルは、力無く、がっくりと膝をついたのだった。
−−声を心中に留めたのは、ラティナが既に眠りについている時
間であるが故の配慮なのである。それこそ、彼はどうしようもない
程に根っからの﹃親バカ﹄であると、言っても良い証拠なのかもし
れなかった。
702
青年、そして白金の乙女。大惨事の後で。︵後書き︶
﹃うちの娘﹄本日で投稿一周年を迎えました。
これも、いつもお読み下さる皆さまのお蔭と存じます。いつもあり
がとうございます。
ささやかな記念と称しまして、明日より3日間に渡り、閑話を連続
投稿致します。お付き合い頂ければ幸いと存じます。
703
閑話。とある暑い日。︵前書き︶
夏の閑話祭り第一弾。
時間軸は﹃ちいさな娘、ある夏の日﹄の直前となります。
704
閑話。とある暑い日。
﹁ケニス、なぁに、それ?﹂
ラティナがそう言って、こてん。と首を傾げたのは、彼女がクロ
イツに来た最初の年の夏の日のことだった。
魔道具により冷やし凍らせた果汁を、ガリガリと音をさせてかき
混ぜながらケニスは笑った。
﹁完成してからの﹃お楽しみ﹄だ﹂
﹁そうなの?﹂
﹁ちょっと触ってみるか?﹂
﹁ん?﹂
不思議そうなラティナは、何気なく手を伸ばして果汁の入った容
器に触れ、びくんっ。と飛び上がった。
﹁つめたいっ!?﹂
﹁よく冷えてるだろう?﹂
ラティナの予想通りのリアクションに破顔して、ケニスは再び容
器を﹃冷蔵庫﹄へとしまった。魔道具であるこの道具は、氷を作り
だすことで内部を冷やしている。その為、この道具の核とも言うべ
き部分の側ならば、物を凍らせることも可能になるのであった。
今までのラティナを見ていても予想出来たことであったが、彼女
は冷菓の類いをそれまで口にしたことはなかったらしい。
その日のおやつにケニスが出したのは、よく冷えた器に盛られた
シャーベットだった。
不思議そうな顔で観察しているラティナに、ケニスは苦笑に近い
ものを浮かべて匙を渡す。
﹁あんまりゆっくりしてると、溶けちまうからな﹂
705
﹁そうなのっ?﹂
ラティナは慌てたように匙を突き刺し、それが想像よりも軟らか
い感触であることに驚く。そのまま、ぱくん。と頬張った。
味を感じるよりも何よりも、キーン、とした。
−−ラティナ。生まれて初めてのアイスクリーム頭痛の体験であ
った。
﹁ラティナ?﹂
﹁いたい。なんで?﹂
食べ物に攻撃を受けるだなんて、思ってもいなかったラティナが
驚愕の表情でケニスを見上げる。あまりのショックに、小動物のよ
うにプルプルしていた。ちょっと面白い。
﹁⋮⋮慌てて食わずに、ゆっくり口の中で溶かすように食ってみろ﹂
素直に、言われた通りに再び匙をシャーベットの中に入れたラテ
ィナは、恐る恐るそれを口に入れた。
﹁っ!﹂
つめたくて、甘いのっ!﹂
先ほどとは違った驚きの顔で、ケニスを見上げる。
﹁とけたっ!
温度を下げて凍らせるって
ラティナなら、自分で作ることもできるぞ﹂
﹁これからもっと暑くなるからな。冷たいものが欲しくなるだろう
?
﹁本当っ?﹂
﹁デイルに魔法を教わったんだろう?
いうのも、魔法だと難しくないからな。知らないなら、デイルに聞
いてみれば良い﹂
﹁うんっ﹂
その後、ケニスが作ってみせた、卵とミルクたっぷりのレシピで
作ったアイスクリームを味見したラティナは、すっかり冷菓の虜に
706
なった。﹃冥﹄属性魔法で凍らせるという作業も問題なく出来た彼
女は、早速教えてもらったレシピでいそいそと、氷菓作りに勤しむ
のだった。
ラティナが最初に﹃食べてもらいたい﹄相手というのは決まって
いる。
その日、デイルが帰宅すると、ラティナが、早速作ったアイスク
リームを山と盛り付けた器を持って駆け寄って来た。溶ける前にデ
イルに食べさせたいと、心は逸っている。
そんな心境からか、彼女は、つん、と躓いた。
ほんの少しの衝撃であるが、何故だかアイスクリームというもの
は−−その衝撃で吹っ飛んで行くものであったりする。
ぺちゃん。と、放物線を描いて飛んで行った白い塊は、デイルの
目の前の床に、小さな山を作ったのであった。
﹁ーーっ!!﹂
大丈夫か?﹂
声にならない悲鳴を上げたラティナは、空になった器を前に、が
っくりと膝をついた。
﹁え、えーと⋮⋮ラティナ?
悲壮感の塊となったような、ラティナの背中に向かい、デイルが
声を掛けるが、返事は返って来なかった。
攻撃を仕掛けて来るだけでなく、逃走までするなんて。自分はア
イスクリームというものを侮っていた。次はこうはいかない。克服
してみせる。
下を向くラティナが考えていたのは、そんなことであった。何処
かずれているが、本人的には大真面目である。しばらくして、決意
707
のこもったキリっとした顔を上げたラティナは、デイルにこう宣言
した。
﹁ラティナ、次はまけないっ!﹂
﹁お⋮⋮おお。頑張れよ﹂
ラティナが泣き出さなかったことに安堵しながらも、何故そうい
う結論に至ったのか、デイルはさっぱり理解出来ないまま、笑顔を
作った。
彼女の決意表明は確かなもので、夏の間中ラティナはせっせと氷
菓を作り続けた。結果として、かなり彼女の氷菓作りの腕は上達し
ていった。そのことは、ご相伴に預かることになった、暑さを苦手
とするリタを大層喜ばしたのであった。
708
閑話。とある暑い日。︵後書き︶
短めですが、以前活動報告に書いた﹃アイス﹄ネタでありました。
書籍版二巻の告知などを、活動報告の方にあげております。ちょっ
とばかりでも、興味を持って頂ければ有り難く存じます。
709
閑話。夏の肝試し的な話。︵前書き︶
夏の閑話祭り第二弾。
時間軸は﹃幼き少女﹄時代となりますが⋮⋮
﹃娘﹄の実母に、なんだか素晴らしい女性的なイメージをお持ちの
方はご注意ください。
710
閑話。夏の肝試し的な話。
ラティナは﹃魔物﹄が苦手であった。
﹁﹃魔獣﹄はそんなに怖がらないよね。なのにどうして?﹂
アスファル
﹃黄の神﹄の学舎にて、いつもの友人たちと雑談している最中、親
友のひとりであるシルビアはそんな疑問を口にしたのであった。
日頃交わす、雑談などの節々で感じることであったが、ラティナ
は﹃魔獣﹄はそれほど﹃恐れる﹄様子は無い。危険な存在であるこ
とは理解しているし、かつて﹃森﹄に居た経験から、直接的に恐ろ
しい目にもあっている筈だが、無闇矢鱈と恐れてはいないのだ。
危険だからこそ、正しく理解し、対処するべきだ。と、考えてい
る事が透けて見える程に。
それに反して﹃魔物﹄は﹃単純に存在自体が、恐ろしい﹄と考え
ているように感じられる。
﹃魔獣﹄も﹃魔物﹄も、﹃どちらも危険で恐ろしいモノ﹄である街
住みの者にとっては、その差がどこにあるのか全くわからないとこ
ろであった。
−−街住みの者に限らず、デイルたち﹃冒険者﹄にしてみても、
各々﹃やりにくい相手﹄というものはあるにつれ、ラティナのよう
なはっきりとした差は、理解の外にある事項である。−−
・
ってモヴ⋮⋮ラティ
・
シルビアの問いに、暫し躊躇した後で、ラティナは重い口を開い
た。
﹁⋮⋮ラティナ、昔ね、﹃まもの﹄って何?
711
・
・
ナのおかーさんに聞いたの⋮⋮﹂
﹁ラティナのお母さん?﹂
・
・
・
﹁そしたらね⋮⋮ラティナ、あんでっどはこういうものだよって教
えてもらった後で⋮⋮﹂
・
・
・
友人たちの前のラティナは、普段の快活さは見る影も無い様子で、
青い顔で下を向いていた。
・
・
・
・
・
﹁じっさいに本物見てきなさいって、ごーすとまみれのお墓に、ぽ
いっ。ってされた﹂
実践主義にも程があった。
・
・
・
・
﹁ラティナ、がんばって、帰ったら、⋮⋮次は、すけるとんの前に、
ぽいっ。ってされて⋮⋮ここから無事に帰ったら、次はぞんびだよ
って言われたところで、おとーさんに助けてもらった﹂
あまりにあまりな話に、友人たちも突っ込みを入れそこねた。
﹃魔獣﹄と﹃魔物﹄の最大の差は、﹃生物﹄か﹃非生物﹄かである
ことである。
﹃魔物﹄の多数を占めるものは、アンデッドの類いのモンスターた
ちだ。無機物に魔力を込めた、もしくは魔力が影響して発生した、
ゴーレムやガーゴイルを初めとした﹃魔法生物﹄たちは、かなり限
定された場所にしか存在しない為、冒険者などの職種の者でもなけ
れば、関わる機会は無い。
それに対してアンデッドの元となる﹃もの﹄は、﹃ひと﹄である。
ならば、ひとの生活圏とそれらの発生地点が重なることも道理で
あり、存在を疑う必要の無い程度には﹃ちかしいもの﹄であった。
712
ゴースト
特に﹃幽霊﹄等は、街中でも珍しくは無い。
存在感が希薄なものの場合、波長の合う者にしか気付かれること
すら無いが、生前、魔力が高い者であったり、﹃冥﹄属性を有した
者であった場合などならば、周囲に影響を及ぼすこともあった。
ゴースト
ゴースト
強い思いを遺して死を迎えた者は、﹃幽霊﹄となる場合がある。
もの
だが、肉体という器を持たぬ思念体である﹃幽霊﹄は、アンデッ
ドの﹃本質﹄たる﹃死﹄に引かれる。その為、多くの存在は、生前
の自我も理性も失って、次第に﹃死﹄を体現した存在へとなるのだ
﹂
うむ、言葉のみの説明を聞くよりも、実際に実物を見て、体験
−−
﹁
する方が良かろう
ん?
﹂
﹁
﹂
己が知らぬことに興味を持ち、学ぼうとすることは、善きこと
﹂
よわい
﹁
ん?
だ。学ぶが良い
﹁
ゴースト
と、いう会話を実母と交わした、当時齢五歳になったばかりの彼
女は、ある夜、﹃幽霊﹄スポットとでも言うべき古い時代の墓所に
放置された。
それこそ、ラティナの表現を借りるならば、﹃ぽいっ﹄といった
感じの気軽さであった。
ラティナは他者の﹃悪意﹄−−自らに対して危険を及ぼす存在へ
の危機感−−に敏感である。そんな彼女を、死者の怨念渦巻く只中
に、﹃ぽいっ﹄である。
ぴきゃああぁぁっ
﹂
崖下に我が子を落とす獅子並の過酷さと言えよう。
﹁
静寂に包まれた墓所の中に、幼子の悲鳴が響き渡った。
713
﹂
ぐしょぐしょの泣き顔で、やっとのことで実母の元にたどり着い
たラティナに母は、素晴らしい笑顔を向けた。
うむ。なれどアンデッドは﹃幽霊﹄だけではないぞ
ゴースト
﹁
ふぇっ!?
﹂
﹁
より学ぶが良い
﹂
﹁
ラティナの実父たるスマラグディが駆けつけたのは、我が子が、
薄汚れた動く骸骨を前に、ガクガクブルブル、となっている時であ
った。
アミュレット
質が悪いと言うべきか、ラティナの実母には悪気は全く無いので
あった。−−もとより低級霊に出来ることは少なく、持たせた護符
の効果で、傍に寄ることも不可能である。それよりも、新たな経験
﹂
をすることで、我が子の成長に大いに役立つ筈である。−−と、大
それでも、ちいさな子どもには、刺激が強すぎる!
真面目な顔でスマラグディに対して彼女は宣った。
﹁
かれ
温厚で知られるスマラグディであったが、悲鳴じみた声で、反論
かれ
をする程であった。父の腕の中には、もう、声を出すことも出来ず
に、泣き顔でガタガタ震える愛娘が居るのだ。確実に、父の方が正
しかった。
魔人族は、寿命が長く、子どもの数が少ない。
それでも、これは、駄目でしょう
︶
その為、﹃子ども﹄というものに接する機会も少なかった。
︵
内心でそう呟いた後で、﹃父﹄は、我が子の前で、﹃母﹄に対し
て説教をするのであった。
然るべき時の為に、アンデッドモンスターへの抵抗力を付けたい。
・
・
アンデッド如きで動揺することの無い強い平常心を養いたい。
そう、彼女が思うのも理解出来る。自分だって思いは同じだ。
714
−−だが、何事にも、段階があるだろう。まだ愛娘はこんなにち
いさな五歳児なのだ。ようやく身の回りのことが、一人でもちょも
ちょと出来るようになったばかりだったというのに、何てことを。
スマラグディの心配はまっとうなもので、愛娘は、夜一人でトイ
レに行くことが出来なくなり、とっくに卒業していたおねしょが再
発した。
そしてしっかりと、恐怖心というトラウマを残したのであった。
はっきり言えば、しっかり逆効果なのであった。
﹁⋮⋮ラティナって、何て言うか⋮⋮大変だったんだね﹂
﹁⋮⋮モヴ、良いひと、なんだよ⋮⋮そこは、本当なんだよ⋮⋮﹂
親友たるクロエの、同情の籠ったコメントに、視線を泳がせた後
で、ラティナは実母に対してフォローを入れた。
なんだか、フォローの入れ方も微妙過ぎて、普段実の両親の話を
しないラティナ相手に、友人たちも、その事についての突っ込みを
入れることが憚れたのであった。
715
閑話。夏の肝試し的な話。︵後書き︶
何せ⋮⋮﹃娘﹄のほっぺた取っちゃいそうなことする方なので⋮⋮
﹃娘﹄とは別系統の天然さんだったり致します。
活動報告もたまにはご覧くださいませ。宣伝以外にも、小ネタ書い
てる時もございますよ。
716
閑話。辛いものと戦う話。︵前書き︶
夏の閑話祭り第三弾。これにて打ち止めです。
時間軸は﹃ちいさな娘、ある夏の日﹄のエピソードから﹃幼き少女﹄
となります。
717
閑話。辛いものと戦う話。
﹁デイル、それ、なあに?﹂
そう、ラティナがデイルの食べている皿を指差して尋ねたのは、
まだ彼女がクロイツに来た最初の年の夏のことだった。
﹁うーん⋮⋮まだこれは、ラティナには早いから⋮⋮﹂
﹁ん?﹂
こてん。と首を傾げるラティナは、興味津々といった様子だった。
﹁あかいね﹂
﹁辛いからなぁ⋮⋮﹂
﹁あかいの、おいしいよ﹂
ラティナは隣の椅子によじ登って、デイルを見上げて笑顔で言う。
その表情には﹃知っているんだよ﹄という誇らしげな様子が覗いて
いる。
どや顔するラティナも可愛かった。
﹁いや、トマトの赤とは、違うから⋮⋮﹂
だから
先日トマトソースのパスタを幸せそうに食べて、頬にソースを付
けていたラティナの姿を思い出して、デイルが答える。
﹁ラティナたべてみたい。ダメ?﹂
﹁ラティナには⋮⋮辛すぎて⋮⋮まだ、無理だと思うぞ?
⋮⋮﹂
﹁ダメ?﹂
重ねて尋ねるラティナは、﹃何で駄目なの?﹄という疑問符を浮
かべている。多分ラティナは﹃辛い﹄という言葉の意味を理解して
いない。味覚を説明するのは難しい。ならば、体験させるのもひと
つの手かも知れない。
718
﹃ちょうだい﹄と見上げて来るラティナが可愛い過ぎるのも問題な
のだった。﹁駄目だ﹂なんて言える訳がない。
﹁ちょっぴりだけだぞ、本当に辛いからな﹂
デイルは、匙の先にほんの一嘗めほどのせて、あーん、と口を開
けているラティナへと差し出した。
−−結果。直後、真っ赤になったラティナは、厨房へと水を取り
に駆け込んで行ったのであった。
その時から、ラティナは辛い食べ物を苦手にしている。
それが当人的には、残念で仕方がないらしい。
﹃嫌い﹄ではなく、﹃苦手﹄であるというのがポイントで、ラティ
ナは食べることが出来るのであれば、辛い食べ物も食べたいと思っ
ている。
辛い料理を調理するためには、味見をしたいし、より美味しいも
のを作る為に、﹃美味しい辛い料理﹄の味を知りたいとも思ってい
る。
ケニス等に言わせれば、また別の答えを持っているのだろうが、
この真面目でやる気充分の少女は、そんな前向きな姿勢であるのだ
った。
十歳のラティナは、そんな向上心を以て、本日の挑戦を準備した
のである。
﹁ラティナ⋮⋮それって⋮⋮﹂
﹁今日のラティナの夜ごはん、ケニスにお願いしたのっ!﹂
﹁それ⋮⋮大丈夫か?﹂
﹁ラティナ、がんばるのっ﹂
食事を頑張るってなんだろう。
719
デイルはラティナの皿に盛られた、チョリソーと煮た豆が添えら
れたチリを見て眉を寄せた。この﹃虎猫亭﹄は、辛党で酒飲みのお
っさん共が常連として名を連ねる店である。つまみとしては珍しい
メニューではない。
けれども、辛い物が苦手なラティナには難易度が高い気がして、
デイルは不安でしかなかった。だが、ラティナのやる気に水を差す
ことも出来かねて、デイルは口をつぐんだ。
はらはらと見守る態勢に入る。
ラティナがチョリソーにナイフを入れると、ぱりっと小気味良く
皮が破れ肉汁が弾けた。ケニスが、厳選して仕入れている店の腸詰
めの味は、ラティナも良く知っている。いかにも美味しそうだった。
ぱくりと口に入れる。
﹁んー⋮⋮っ!﹂
ぎゅっ、と眉を寄せた後で、ラティナはハフハフと口を開いた。
デイルのはらはら度が増す。
﹁おい⋮⋮しい⋮⋮﹂
﹁そんなに頑張って、﹃美味しい﹄って言うもんじゃねぇと思うぞ
?﹂
ラティナの額には既に汗が浮いている。肉汁の旨味が強いとはい
え、スパイスと辛子が良く利いた腸詰めは、彼女には充分過ぎるほ
どに辛口なのだった。
そんなデイルの心配を振り切って、次にラティナはチリに匙を入
れた。過去の自分が乗り越えることの出来なかった料理だ。
たっぷりの辛子により赤く染められたその先には、過去の自分が
読み取ることの出来なかった、肉と野菜の旨味があるという。
そこに到達するのだ。
と気合いを入れた表情でラティナは匙を口に運んだ。
今の自分ならば、出来る筈だ。
かっ!
720
悶絶した。
﹁ラ⋮⋮ラティナっ!!﹂
おろおろするデイルの声を、意識の端で感じながら、ラティナは
用意周到に準備しておいた﹃秘密兵器﹄に手を伸ばす。
ヒリヒリする舌を甘く冷たいミルクが癒してくれる。
ラティナは、自分が辛い物を苦手なことを誰よりも知っている。
だからこそ、そんな辛味を中和するために、たっぷりのミルクを用
意しておいたのだった。更にその中には蜂蜜を入れておいた。この
甘さが辛さを和らげてくれるだろうという算段だった。
﹁⋮⋮だいじょうぶ!﹂
その返答は、食事中の会話ではない。
デイルの突っ込みは、内心に留められた。
もう、今の一口で、ラティナは涙目になり、額は汗でぐっしょり
である。そんな状態でも、頑張るラティナを応援したいという心境
も、デイルにはあるのだった。
ラティナは果敢にも再びチリに匙を入れた。
確かに、甘い蜂蜜ミルクは、辛さに痛みを訴える舌や口を癒して
くれる存在ではあるだろう。
−−だがしかし、それは諸刃の刃だ。
その後の辛さを、更に倍増させる、ブースターと成りうることを、
辛い物初心者のラティナは知らなかったのである。
凄かった。悶絶した。駄目だった。
721
ラティナは匙を置いて、残りの蜂蜜ミルクを一気に飲み干したの
であった。
敗北であった。
﹁⋮⋮やっぱり駄目だっただろう﹂
しばらくして厨房から姿を見せたケニスは、両手に皿を持ってい
た。
ラティナの前にコトリと置いたそこには、大きなオムレツが鎮座
していた。そこに、今ラティナが断念したチリをベースに、野菜を
増やした辛さ控えめのソースが掛けられている。
﹁デイル、お前はラティナが駄目だったそれ食え﹂
﹁やっぱり、最初からそのつもりか﹂
少食のラティナの分にしては、量が多かった。ケニスははじめか
らラティナが完食できるとは思っていなかったらしい。もう一枚の
皿はデイル用の追加の料理と二人分のパンが盛られていた。
﹁ほら、ラティナ、たまごと一緒なら平気だろう﹂
﹁⋮⋮とろとろたまご⋮⋮おいしい﹂
﹁そうか、良かったな﹂
未だ涙目のラティナに、優しい声を掛けながら、食事をする。
大好きなオムレツに、ケニスがラティナの味覚を見極めて作った
ほんのりピリッと程度のチリソースは、非常に美味しいものだった。
それでも、明らかな敗北に、しょんぼりとするラティナは−−
デイル
それでも、可愛いなんて、駄目な﹃保護者﹄は思ってしまうので
あった。
−−因みに、その後もラティナが、何度も辛い物に挑戦する姿を
﹃踊る虎猫亭﹄内で、確認することが出来た。
722
だが、克服出来たという姿は、誰も目撃していない。
彼女の挑戦は、現在も未だ続いているのであった。
723
閑話。辛いものと戦う話。︵後書き︶
閑話祭り、多少なりともお楽しみ頂けましたでしょうか。次回から
通常通り土曜日の投稿に戻ります。
今後も﹃うちの娘﹄を宜しくお願い致します。
724
白金の乙女、他所のお店で働く。︵前書き︶
本編再開です。
725
白金の乙女、他所のお店で働く。
朝から、﹃踊る虎猫亭﹄の一角には、重苦しい絶望的な空気が漂
っていた。
いつも通りの筈の、毎日繰り返してきた朝食の風景。
−−だが、そこには、いつも笑顔を振り撒いていた少女の姿はな
かったのである。
テオ
空気を読むことを未だ知らない幼児が、あっさりと傷心のデイル
を抉る。
﹁ねぇねは?﹂
びっくぅっ、と跳ね上がったデイルを気に止めないテオは、母親
を見上げて、不服そうに口を尖らせた。彼にしてみれば、﹃大好き
なお姉ちゃん﹄がいないこの状態は﹃異常事態﹄である。疑問は当
然であった。
笑顔のリタがそれに答える。
﹁しばらくラティナは﹃お休み﹄よ﹂
﹁なんでー?﹂
﹁なんでも、よ﹂
﹁ヴィーは?﹂
﹁そういえば、昨日から姿が見えないわね。遊びに行ってるんじゃ
ないかしら?﹂
どこか
ヴィントがふらりと、外に遊びに行くことは、割合よくあること
なので、あまり気にされないことであった。ラティナに邪険にされ
た鬱憤でも晴らしに行ったのだろう。
朝食を一緒に摂る。これが今までのデイルとラティナの﹃当たり
726
前﹄だった。デイルが仕事で留守にしている時は無理だったが、そ
れ以外の時は必ずそうしてきたのだ。
それなのに、今朝、起きて階下に降りた時には既に、ラティナの
姿は﹃虎猫亭﹄の中には無かった。
夜寝る時は、もう、年頃の女の子なのだから仕方が無いのだと、
涙ながらに自分を納得させたデイルであった。だが、まさか、﹃当
たり前﹄の筈だった朝食の席にまで、ラティナの姿が無いとは思っ
てもいなかった。
﹁ねぇねはー?﹂
テオが繰り返す度に、デイルの表情は微妙なかたちに歪んでいく
のだが、リタの﹃笑顔﹄は揺るがなかった。
働き者の助手がいない分、倍増している仕事量に忙殺されながら、
ケニスは、やっぱり自分の嫁は怒らせたらいけないのだと、再確認
していたのであった。
その頃ラティナは、幼なじみの家たる﹃裏通りのパン屋﹄と呼ば
れる店の中にいた。
﹁ウチは助かるけど、本当に良いの?﹂
﹁うん。折角の機会だから、パン作りも本格的に教わって来たら良
いってケニスも言ってくれたの。マルセル、人手が足りないって言
ってたから、ダメかもしれないけど、頼んでみようって来たんだけ
ど⋮⋮朝早くからごめんね﹂
各家の朝食の時間に、焼きたてのパンを提供するこの店の、開店
時間は非常に早い。
焼きたてのパンの良い匂いに充たされた店内で、店の人びとの朝
食の席に交じりながら、ラティナは友人の家族に笑顔を向ける。
727
昨日の今日で、ラティナはデイルの顔を見る勇気は無かった。デ
イルは自分の言葉を﹃告白﹄とは、捉えていないのだが、それでも、
振り絞った勇気を空振った恥ずかしさも含めて、まだ心の整理もつ
いていない。
リタやケニスは、時間を置けば良いと、﹃虎猫亭﹄の仕事を休む
ことを許してくれた。とはいえ部屋でぼんやりしていたら、余計な
ことを考えてしまう。その上、あの店の中に居れば、どうしてもデ
イルと顔を合わせることになるだろう。
どうしようかと考えた時、友人のもらした一言を思い出した。
そして、駄目で元々という気持ちで朝から訪ねて来たのだった。
ケニスには、ちゃんと﹃虎猫亭﹄を出る前に相談してきた。デイル
にもケニスの方からうまく言ってくれるだろう。
出産は大変な仕事だといえ、一般庶民は、その為に長期間仕事を
休むことはできない。福祉制度がある訳でもない為、生活費を稼い
でいく必要はあるのだ。
だから、マルセルの家たる﹃裏通りのパン屋﹄でも、今出産とそ
の経過の為に休んでいるひとの欠員を安易に新たな雇用で賄うこと
はできない。ラティナの申し出は、彼らにもありがたい話だった。
﹁じゃあ、短い間だけど、宜しくお願いします﹂
何よりも長年の客商売で鍛え上げられた、ラティナの笑顔は、非
常に好感度の高いものであったのだ。
この国に於ける﹃パン﹄は主食である。
マルセルの家である﹃裏通りのパン屋﹄が取り扱うパンは種類は
多いが、ほとんどが食事パンと呼ぶべきものである。
形、材料である粉の配合、表面につけられた風味豊かな種子の種
類。そういうものの違いによって、様々な種類を作っているのだっ
728
た。
生地の中にドライフルーツやスパイスが練り込まれたものなどは
あるが、菓子パンや調理パンと呼ばれるようなものは、基本的には
取り扱っていない。
先日の﹃夜祭り﹄の時に売っていた具材を挟んだものは、昼食時
に限って取り扱っている。この﹃東区﹄は、商店や職人としてなど、
働く女性も多い。軽食の需要も多いのだった。
﹁後は焼き菓子だね。全部の値段を覚えるまでは、時間がかかると
大丈夫だよ。このお店には、何回も来たことあるもん。覚
思うんだけど⋮⋮﹂
﹁ん?
えてるよ﹂
改めて店内の商品の説明をしていたマルセルは、ラティナのその
それもそうかと思い直した。
返答を聞くと、一瞬言葉を詰まらせた。だが直ぐに、友人の非凡さ
を思い出して、
この少女の友人を長年やっていれば、そのあたりの割り切り方も、
うまくなってくるのであった。
﹁計算も⋮⋮ラティナなら問題ないよね﹂
﹁﹃虎猫亭﹄でも、お金扱わせてもらってるからね﹂
その返答は、販売業務に於いては、彼女を即戦力として考えても
良いということであった。
﹁いらっしゃいませっ﹂
﹁おや、見ない娘だね。新しい店員さんかい?﹂
﹁しばらくお手伝いで入ることになりました。宜しくお願いします。
何になさいますか?﹂
店に入った老婆は、見慣れぬラティナの姿に驚いたようだったが、
彼女の笑顔につられたように笑顔を浮かべた。
﹁私はいつもこればかりだよ﹂
﹁そうですか。いつもありがとうございます﹂
729
老婆が指したパンを袋に入れて、差し出し、コインを受けとる。
﹁マルセルちゃんと同じくらいかねぇ?﹂
﹁マルセルとは、﹃学舎﹄で一緒だったんです﹂
老婆の探るような言葉にも、全く動じることはなく、ラティナは
笑顔を返す。
そんなやり取りに、冷や汗をかくのは、焼き上がったばかりのパ
デイル
ルディ
ンを店頭に運んで来る仕事を負っているマルセルだったりする。
そんな噂の断片が、﹃保護者﹄や﹃幼なじみ﹄のもとに届いたら、
自分の身が危ない。
主食であるだけあって、大多数の人びとは、﹃いつもの店﹄を決
めているものだ。極たまに、別の店のものを食べてみようという気
にはなっても、﹃毎日食べる味﹄というのは、各々決まっている。
その為、この店に来る客も、多数が常連客となっている。
朝のピークが過ぎてから、次に忙しくなるのはやはり昼食時だ。
それまでの間、ラティナは手が空いたからといって、ぼんやりす
ることはない。店の周辺の掃除など、出来ることをする。
幼い頃から東区を遊び場にしているだけもあり、見知った友人が
通りかかる時もある。だがやはり彼女のことを知らない者が多数で
ある。
ある程度は予想の範囲内であったが、彼女が掃除をしている間、
初来店の男性客が微妙に増えていた。
ラティナは、昼が近づき、新たなパンを成形、焼き上げるといっ
た一連の作業を興味深そうに見ていた。
まだ初日ということもあって、作業場に入ることは許されていな
かったが、長年ケニスの助手を務めてきた彼女は、マルセルの父親
730
が主に作業をし、マルセルが補助に入る−−そんな彼等の距離や動
線を確認することも忘れなかった。
給金は必要ないので、パン作りの基礎を教えて欲しい。−−ラテ
ィナが友人に頼んだのは、そんな彼女らしい願いであった。
本来、﹃パンを作る﹄というような技術も、一種の企業秘密と呼
んでも良い。誰彼構わず教えているようなものではない。
それでもマルセルが、そんなラティナの願いを両親に通したのは、
かつて﹃学舎﹄時代に、彼女の話を聞いていたからだろう。
マルセルは、彼女の郷里である﹃ヴァスィリオ﹄では、パンを食
べる文化が無いと聞いていた。ラティナはラーバンド国に来て初め
てパンを食べたのだった。
﹃パンが無い国﹄−−自分にとって、考えたことも無い、想像も付
かない世界がある。
そして、自分の友人は、そんな全く異なる﹃国﹄で産まれた少女
なのだと。
そんなラティナが抱いた、﹃パンがどうやって出来るか﹄という
疑問に、答えを与えたい−−と、少年は思ったのだった。
731
白金の乙女、他所のお店から帰宅して。
昼の忙しいピーク時も、ラティナはなんとか乗り切ることができ
た。
マルセルの母親と、日中だけ販売員として雇われている女性が一
人。本来は産休をとっているもう一人を加えた三人で回しているそ
んな慌ただしい時間帯であった。さすがにベテラン勢の手際には敵
わないが、初日にしては、ラティナもかなり働いた方だろう。
﹁疲れたかい?﹂
﹁疲れましたけど、大丈夫です。いつもと違うお仕事で、何だか楽
しいです﹂
昼のピークの後に取った遅めの昼食を頬張るラティナに、マルセ
ルの母親が心配そうに声を掛ければ、彼女はそう答えた。
丸いパンに、チーズと燻製肉をたっぷりと少なめのオニオンを挟
んだそれを、彼女は一口かじっては、幸せそうな顔をする。
﹁ラティナちゃんは、ちいさな頃から、本当に美味しそうに食べる
ねえ﹂
マルセルの母親がそう言って微笑むのに、ラティナも笑顔で答え
た。
﹃裏通りのパン屋﹄の営業時間は、日暮れ前には終わる。一般家庭
の夕食用のパンを買う時間を過ぎて店を開けていても、客は来ない
し、防犯の上でも危ない。何より翌日も作業は朝早くから行われる。
翌日の仕込みをするマルセル親子の様子を見ながら、ラティナは
幾つか我慢できないように疑問を口にする。
特に彼女が気になっているのは、パン作りの肝とも言うべき、酵
母の作り方とそれを用いたパン種の使い方であった。
732
ラティナは基本的に﹃新しいことを学ぶ﹄ことが好きだ。
だからこそ、﹃裏通りのパン屋﹄から、帰路を進む彼女は、少し
気持ちを上向きにさせていた。
手を出すことこそ出来なかったが、パンを作る工程をそばで見る
ことが出来たことは、彼女の好奇心を非常に満足させていた。それ
だけでなく、普段の﹃虎猫亭﹄の接客とは異なる、客層や仕事内容
は、とても新鮮な体験だった。
暗くなる前に、帰らなければならないし、明日も朝早くから、パ
ン作りの様子を見せてもらう約束になっている。いつもならば、夜
の営業時間をケニスと共に回しているのだが、今日は早めに休んで
おいた方が良さそうだ。
そんなことを考えながら、南区の﹃踊る虎猫亭﹄に戻って来る。
彼女の姿を見かけた常連客が、妙に気まずいような顔をしたり、
苦笑のようなものを浮かべていることには気付かず、そのまま裏へ
と回る。
﹁ケニス、ただいまっ﹂
﹁おう﹂
﹁忙しそうだね。やっぱり手伝おうか?﹂
﹁いや、休みは休みだ。そのあたりはきっちりしておけ﹂
忙しさのピークを迎えつつある厨房で、一人奮闘するケニスに、
申し訳なさそうに言ったラティナであったが、ケニスは笑顔で応え
た。
あれだけ落ち込んでいたラティナが、ずいぶんすっきりとした表
情で帰って来たことに、ケニスは安堵していた。
リフレッシュの方法も、勤労だというのは、どれだけ仕事が好き
なのかと呆れる気もするが、自分も料理は仕事であり趣味なのだか
733
みせ
ら、あまり大差はないのかもしれない。
リタにも迷惑かけちゃってるし⋮⋮夜の間くらいは、
﹁夕飯は表で食べるか?﹂
﹁テオは?
テオのお世話するよ﹂
﹁なら頼む。テオなら、お義母さんのところに預けてる。そろそろ
帰って来る筈だ﹂
ケニスにとって、義理の親にあたるリタの両親は、若夫婦が店を
継いだのを機に、南区の住宅街で暮らしているのだった。
アクダル
普段、店に姿を見せることは無いが、手が足りない時に、テオを
預けたり、店の﹃緑の神出張所﹄の業務を手伝ってもらうことは多
々ある。
今日はヴィントも留守の為、わんぱく盛りの息子を預けたのであ
った。これが毎日となると、祖母にあたるリタの母親の体力がもた
ないので、たまにしか頼めない手段であった。
﹁ねぇねっ﹂
しばらくして帰宅したテオは、父親でも母親でもなく、ラティナ
の元へ駆け寄って行った。
振り返りもせず、ラティナの方へ行ってしまった孫の様子に、送
って来た先代−−祖父−−が、若干しょんぼりしている。
﹁テオ、お風呂は?﹂
﹁まだー﹂
﹁じゃあ、ごはんの前にお風呂だね﹂
先代が帰って行くのを見送った後で、ラティナはテオと手を繋い
で厨房に入る。
﹁あたまあらうの、やだー﹂
﹁ダメ、洗ってあげるから、大人しくしてね﹂
口ではそんなことを言いつつも、テオはべったりとラティナに甘
えている。朝から﹃大好きなおねえちゃん﹄に甘えることが出来な
734
かった彼は、一日分を取り戻す気でいるかのようであった。
仕事の片手間に、そんな息子の様子を見るケニスは、苦笑を浮か
べた。
本当に自分の息子は、﹃お姉ちゃんっ子﹄過ぎるだろう。ただ、
自分たち両親が厳しい分、ラティナのように甘やかしてくれる存在
がいても良いのではないかと思っている。
それにしても、ラティナが帰って来ただけで、空気というか、周
囲の雰囲気が和んだ。やはり彼女のそういった生来の気質は、得難
い美徳と言えるだろう。
ラティナは、テオの着替えを持って来ると、裏手の風呂場へと向
かって行った。やはりその足元には、テオがちょこちょこと付いて
歩いている。
目に石鹸が入るのを嫌がり、頭を洗うのを嫌っているテオは、ケ
ニスが頭を洗うなどと言えば、大騒ぎだった。母親であるリタの場
合では、きつく叱られ、半泣きになるのが常である。それに対して
ラティナには、当人も素直に大人しく洗われるという点もあって、
非常に上手くやってもらっているようだった。
親としては、非常に楽が出来るのである。
﹁ねぇね﹂
﹁テオ、ひとりでお洋服脱げたね。偉いねぇ﹂
﹁えへへー﹂
裏手から聞こえて来るラティナとテオの声は、実の姉弟以上に睦
まじいとも言えるもので、ケニスの表情を緩ませたのであった。
湯上がりのテオを連れて、﹃虎猫亭﹄の客席側へと向かうと、顔
馴染みの客たちの間を、忙しくたち働くリタの姿があった。
﹁リタ、ただいま。お休みしてごめんね﹂
﹁お帰りラティナ。良いのよ、私もたまにはしっかり動かないとい
735
けないしね﹂
ゴトンと、客席にジョッキを置くリタは、ラティナの接客に比べ
て大雑把だったが、この店の元々の接客はそんなものであった。
・
・
・
﹁テオ、良い子にお座りできるかな﹂
﹁ぼく、いーこだもん﹂
むふんと、どや顔をするテオを椅子に座らせて、ラティナは厨房
に向かう。ケニスが入浴中に用意してくれた料理を盛り付けて、再
び店へと戻った。
テオの世話をするラティナに、常連であるジルヴェスターが微妙
ぼん
に歪んだ、何か気を遣った笑顔を向ける。
﹁嬢ちゃんは、本当に坊の世話をするのが上手ぇなあ﹂
﹁そうかな?﹂
ジルヴェスターの気まずそうな表情には、何も言わず、ラティナ
は笑顔を向ける。その間も、食事をするテオに、さりげなく手を貸
していた。
﹁あー⋮⋮、嬢ちゃん⋮⋮あのなぁ⋮⋮﹂
﹁ジルさん、あのね⋮⋮﹂
言い難そうに、それでも言葉を探すジルヴェスターを遮って、ラ
ティナは笑顔を困ったものに変えた。
﹁ちょっと、待ってね。⋮⋮まだ、ちょっと⋮⋮あのね、無理なの﹂
﹁お、おぉう⋮⋮﹂
えへへと、それでもラティナは笑顔を作る。
ジルヴェスターも昨夜、この店で行った﹃大惨事﹄の顛末は聞い
ていた。彼自身はその際店内にはいなかったが、今日のこの店の主
な話題は、デイルの狼狽ぶりと焦燥ぶり、そして、﹃看板娘﹄の不
在についてなのであった。
ジルヴェスターは、幼い頃から見守ってきたこの少女が、自分の
保護者へと﹁大好き﹂という感情を向けていたことを、ずっと見て
736
きた。
デイルに対してなら、思う存分からかうことが出来るが、この少
女には非常に気を遣ってしまう。
・
・
地雷を踏んで、嫌われることが恐ろしいのである。
・
﹁またね、たぶん元通りに出来るようになるから、ちょっとだけ、
整理する時間が欲しいの﹂
﹁嬢ちゃん⋮⋮﹂
ジルヴェスターはため息をついて、気持ちを切り替えた。意図的
に表情と声を明るいものへと変える。
﹁困ったんなら、力になるからな。俺みたいなおっさんでも、出来
ることはあるぞ﹂
﹁うん、ありがとう、ジルさん﹂
そう答えたラティナの笑顔は、本心からのもので、ジルヴェスタ
ーを安心させた。
家主一家の居室へと、テオを寝かしつけに行ったラティナは、彼
が穏やかな寝息をたてるのを見計らうと、そっと部屋を出た。
起こしてしまったりしないように、音をたてずに扉を閉める。
そして、振り返った時だった。
ばったりと、出先から帰宅したデイルと、出くわした。
いつもの外出用の装備で無いことを一瞬で見て取って、今日は﹃
森﹄へは行かなかったのだと思いながら、ラティナは、ぱっと、踵
を返した。
自分で思っているよりも、まだ、﹃心の準備﹄は出来ていないこ
とを、思い知ってしまった。
デイルの顔を直視することすら、今の自分には出来ないのだ。
心臓の鼓動が五月蝿い。両手で頬を押さえると、熱くなっている
のがわかる。耳まで赤くなっていることだろう。
737
足音を潜めることすら忘れて、屋根裏部屋へと駆け上がった。
そんな彼女の行動に、
︵顔すら⋮⋮顔すら、まともに見てくれねぇとはっ⋮⋮反抗期って
奴はぁっ⋮⋮︶
がっくりと、力なく項垂れ、双眸から心の汗を垂れ流すデイルの
ことは、気付くことはなかったのだった。
738
白金の乙女、他所のお店から帰宅して。︵後書き︶
ぼちぼちそれぞれの心情を掘り下げて参りますので、このグダグダ
にも、もう暫しお付き合いくださいませ。
739
どうしたの、ルディ﹂
なんでマルセルのとこに
白金の乙女、他所のお店で働く。二日目。
﹁あれ?
﹁それを言うなら、ラティナの方だろ?
居るんだよ﹂
そんな会話をラティナが幼なじみと交わしたのは、彼女が﹃裏通
りのパン屋﹄で働く、二日目の昼を過ぎた頃だった。
ピークの忙しさを過ぎて、店がほっと一息つく時間帯だった。
ルドルフの質問に、ラティナは困ったように笑う。その彼女の表
情にあの﹃大惨事﹄を思い出した彼は、気まずそうに視線を泳がし
た。
・
そして、とってつけたように、ここに来た理由を述べる。
﹁お、俺はだな。頼まれたんだよ、上の人たちにさ。軽食になるも
ん、買って来いって﹂
彼は、憲兵隊の上司から、この店を名指しで、買い物に行くよう
に命じられたのであった。基本的に上下関係が叩き込まれた社会で
ある為に、上の命令に口を挟むことも聞き返すこともしない。彼が
働く職場はそういう場所なのであった。
﹁私、まだ不慣れだから、少し時間かかっちゃうよ。たくさんだし
ね﹂
﹁それはそうだろ﹂
ルドルフがそう答えるのを聞きながら、ラティナはパンの準備を
始める。
注文の個数のパンを取り出し、ナイフを横に入れる。マスタード
を混ぜたバターを塗る手つきが様になっているのは、幼い頃からず
っと料理の腕を磨いてきた結果だろう。
﹁嫌いな具材とかってあるの?﹂
740
﹁いちいちそんなの気にしてられないから、いいよ﹂
﹁そっか﹂
たっぷりの野菜を彩り良く敷いた上に、スライスされた燻製肉を
並べていく。瞬く間に、見るからに美味しそうなサンドイッチが完
成していく。
注文が多いと見て、手伝いに出て来たマルセルの母親が、出来上
がったそれを薄紙にくるみ始める。それを確認すると同時に、ラテ
ィナは再び具材を挟む作業に戻る。
﹁⋮⋮これ⋮⋮ルディひとりで持って行けるの?﹂
しばらくして完成したサンドイッチは、ラティナが首を傾げる程
の、山と積まれた量になっている。
﹁う⋮⋮﹂
﹁⋮⋮手伝おうか?﹂
﹁だ、大丈夫だよ、この位。ラティナの方こそ、店番してる奴が、
簡単にそこを離れるなんて言うなよ﹂
﹁そうだね、気を付けてね、ルディ﹂
大量のサンドイッチが入った袋によって、両手がふさがったルド
ルフを扉を開けてラティナは見送る。
しばらく心配そうに憲兵隊の詰所に向かう彼を見ていたが、それ
以上自分に出来ることはないと、ラティナは店の中へと戻っていっ
た。
−−ラティナの方から、手助けを言い出したというのに、それを
断ったルドルフの午後の訓練は、妙に過酷を極めた。
臨時の看板娘お手製のサンドイッチにより、エネルギーを補給し
た上層部のおっさんどもは、非常に元気であったのである。
酔っぱらい状態
−−ラティナが運ぶのを手伝い、ルドルフと共に詰所を訪れたと
しても、﹃普段﹄とは異なる自分たちの姿を、彼女に張り切って見
せようと気張るおっさんどもによって、ルドルフの午後の訓練はや
はり過酷なものになった筈なのであった。
741
どちらに転んでも、悲惨なのである。
﹃裏通りのパン屋﹄での仕事を終えた後、ラティナはクロエの家へ
と向かった。
夜祭りの日に、クロエの所で新しいワンピースに着替えたラティ
ナは、それまで着ていた服をそのままクロエの家に預けている。揃
えて貰った化粧道具等もそうだった。
引き取りに行かなければならないことはわかっていても、少々気
は重い。
そんな予感を裏付けるように、ラティナを出迎えたクロエは、夜
祭りの日に、あの後別れた後に起こったことを聞くと、大きなため
息をついて肩を落とした。
てしっ。と、ラティナの頭頂部に手刀を落とす。
﹁痛っ﹂
﹁ラティナって本当、頭良い割りに、変なとこでおバカさんだよね﹂
﹁で、でもねっ⋮⋮﹂
﹁﹃でも﹄じゃないの﹂
もう一度、てしっ。と、手刀が落ちた。
衝撃に潤んだ灰色の眸にも、彼女の親友は全く動じることはなか
った。
﹁なんで、そんな言い方しちゃったの﹂
クロエが呆れるのは、﹃保護者﹄に﹃反抗期呼ばわり﹄された彼
女の﹃告白内容﹄についてだった。色々、大切な言葉が足りていな
い。
﹁だって⋮⋮﹂
呆れた親友の声に、ラティナはしょんぼりとした様子で下を向く。
だが、口をつぐむことはしなかった。ポツポツと事の顛末を語る。
﹁﹃大好き﹄だよって、﹃言葉﹄は、いつもたくさん言ってたんだ
742
もん⋮⋮だからね、﹃それ以外の言葉﹄を伝えようって思ったの⋮
⋮﹂
だからこそ、あの時ラティナは、﹃父親の代わりだとは思ってい
ない﹄と、デイルに告げた。
自分にとっての彼は、大切な大好きな﹃男のひと﹄。
それは、決して﹃父親﹄に向ける親愛のものではないのだと、伝
えようと思った。
﹁なのに、﹃大好き﹄を、疑われるだなんて、思ってなかったんだ
もん⋮⋮っ﹂
自分の言葉を聞いたデイルの反応は、﹃彼の全てを拒絶するうち
のこ﹄へのもの。
・
・
今まで何度も伝えてきた﹃大好き﹄という言葉は、自分の中では
揺るがぬものだと思っていたというのに、デイルはそこにも疑問を
抱いてしまった。
あまりにあまりな衝撃に、二の句を告げることも出来なくて、彼
女もまた、盛大な混乱の中に巻き込まれていったのだった。
﹁﹃違う﹄ってのも、﹃だから私は、大好きなんだよ﹄って続ける
べきなんだってことも、⋮⋮頭、真っ白になって⋮⋮なんて言った
ら良いか⋮⋮わかんなくなっちゃったんだもん⋮⋮﹂
しょぼん。と、下を向く姿は、幼い頃から良く見る姿だった。
﹁だからって⋮⋮何でその後も、ずっと拗ねてるの﹂
﹁ふぇ⋮⋮﹂
緩まぬクロエの追及に、ラティナは下を向いていた視線をそろそ
ろと上げて、泣きそうな顔になった。
﹁その後⋮⋮自分でも、自分が、わかんなくなっちゃったの⋮⋮﹂
743
﹁え?﹂
﹁告白するって、決めて⋮⋮デイルと、今までと違う﹃関係﹄にな
りたくて、それは﹃本当﹄だった筈なのに⋮⋮なのに⋮⋮っ﹂
抑えた、決して大きくは無い声で、それでも思いの丈を叫んでい
るかのようにして、ラティナは本心を親友に告げた。
﹁デイルが﹃告白﹄に気付かなかったことに、私、凄く安心しちゃ
ったの⋮⋮っ﹂
﹁ラティナ⋮⋮?﹂
﹁﹃このまま﹄で⋮⋮﹃今まで通り﹄で、いられることに、安心し
ちゃったの⋮⋮シルビアに言われた通りに、でも、本当は、それ以
上に⋮⋮私はデイルと﹃今のまま﹄でいたいんだって、気付いちゃ
ったの⋮⋮﹂
ラティナにとって、デイルの﹃腕の中﹄は、﹃世界で一番安心出
来る場所﹄だった。
全てをなくして、自分自身のいのちさえ諦めかけていた自分を、
救いあげて、抱き上げてくれたあの時から、ずっと、そうだった。
寂しい時も、苦しい時も、いつも自分を支えてくれた暖かな﹃場
所﹄。辛い時も、涙が止まらない時も、大丈夫だよと優しい声をか
けて、抱き締めて貰った﹃場所﹄だった。
これからもデイルは、自分のことを、大切に護ってくれるだろう。
その両の腕で抱き締めて、暖かな手のひらで優しく撫でてくれる
だろう。
自分が、﹃可愛いうちのこ﹄でいるのならば。
もしも、デイルに、恋人が出来て、結婚して家庭が出来たとして
も−−彼は自分を見棄てたりはしないだろう。彼がとても優しく、
愛情深いひとであることは、誰よりも自分は知っているのだから。
744
−−でも、もしも、自分が﹃可愛いうちのこ﹄ではなくなってし
まったならば−−
デイルは、元々自分のことを﹃異性﹄として考えていない。彼の
中の自分は、未だ﹃ちいさなちいさな女の子﹄のままなのだから。
でも、それだけではなくて、デイルにとって、自分は﹃恋愛感情﹄
おとなの 女性
を抱ける対象ではないかもしれない。
以前見た﹃仕事仲間﹄のような、大人っぽさも、落ち着きも、男
性を魅了する容姿も−−自分には無いのだから。
せめて同じ﹃人間族﹄であったなら、良かったのに。
彼と同じ﹃人間族﹄であるというだけで、周囲全ての女性たちが、
自分よりも﹃素晴らしく﹄思えてしまう。
自分には無いものばかり、数えてしまう。
そんな自分に愛を告白されても、デイルを困らせるだけかもしれ
ない。そして−−その結果、﹃関係﹄が、今までとは異なるぎこち
ないものになってしまったならば−−
デイルに﹃拒まれた﹄ならば。
自分は、唯一の﹃安心出来る場所﹄を、帰ることの出来る﹃場所﹄
を失うのだ。
それは、ラティナにとって、恐怖以外の、何物でもない想像だっ
た。
﹃告白﹄に気付いて貰えないことに、消沈したのも、顔を見ること
が出来なくなるほど、羞恥を覚えたのも﹃本心﹄だ。
745
それでも同時に、安堵してしまったのも、紛れもない﹃本心﹄な
のだった。
﹁だから⋮⋮時間が少し欲しかったの。デイルとちょっと距離を置
いて、ごめんね、もう、いつも通りだからって、笑えるようになる
まで⋮⋮﹂
思いを伝えたい、関係を変えたいという気持ちも、このまま伝わ
らないならば、そっと今の関係のままでいたいという気持ちも、両
方心の奥底からのものだった。
シルビアに指摘されて自覚した、自分の﹃本心﹄は、同時に矛盾
する様々な感情も自覚させてしまった。
乱れに乱れたラティナの心は、自分でもどうすることも出来なか
ったのだった。
﹁もう少し⋮⋮時間が欲しいの⋮⋮﹂
自分がどうしたいのか、答えを出すことが出来るようになるまで。
746
白金の乙女、他所のお店で働く。二日目。︵後書き︶
﹃大惨事﹄の理由、﹃娘﹄バージョンであります。彼女は自己評価
が低いです。故郷で﹃罪人﹄認定されておりますし。
747
青年、﹃動く死体﹄状態のある日。︵前書き︶
とうとう百話目前となりました。皆さま、いつもお読みくださり誠
にありがとうございます。
748
青年、﹃動く死体﹄状態のある日。
ラティナが﹃裏通りのパン屋﹄に出掛けて行くようになり、5日
が過ぎた頃。それは、デイルがラティナと会話をほとんどしなくな
ってから、5日が過ぎたと言い換えることが出来る期間でもあった。
その間、何度も、東区に﹃裏通りのパン屋﹄の様子を見に行くこ
とを考えたデイルであったが、それを見咎められたならば、本格的
に彼女に嫌われてしまうような気がして、実行に至れないでいた。
どんな巨体の怪物に向かった時よりも恐ろしい。
ラティナは、存在そのものがデイルにとって、﹃癒し﹄だった。
彼女の笑顔を見て、会話をして、体温を感じる距離で穏やかな時
間を分け合って−−全てが日々の活力であり、幸福を感じる瞬間だ
った。
それを急に失った彼は、げっそりと−−痩せ細ってはいないが、
生気は失っていた−−廃人のような佇まいで、﹃踊る虎猫亭﹄の客
席の隅で、埃を被っていたのであった。
﹁ラティナが⋮⋮ラティナが足りない⋮⋮﹂
﹃友人﹄が言うところの﹃末期症状状態﹄であった。
−−ある意味残念極まる話であるのだが、この状態でもデイルは、
そこが﹃戦場﹄であるのならば、戦闘能力や判断力を低下させるこ
とはない。常の感情を切り離して冷静さを保つことが出来るからこ
そ、彼は若くして、﹃一流﹄と呼ばれる域に達しているのだ。
だがそれは、戦場での話であり、今、衆目の中で燃え尽きかけて
いる青年は、どうしようもない駄目っぷりしか、主張していないの
749
であった。
﹃反抗期﹄とは言わない
﹁リタ⋮⋮女の子の反抗期って⋮⋮何時終わるんだ⋮⋮﹂
﹁少なくとも数日単位で終わるものを、
わよ﹂
﹁死ぬ⋮⋮死んでしまう⋮⋮うあぁぁぁ⋮⋮世間の﹃父親﹄っての
は、どれだけの苦行に耐えているんだあぁ⋮⋮﹂
﹁大丈夫よ、﹃父親とは思っていない﹄って言われたんでしょ﹂
﹁うあぁぁぁあああ⋮⋮﹂
棘のあるリタの言葉の﹃棘﹄の意味を理解していないまま、デイ
ルは悲壮な声を出してテーブルに突っ伏した。
デイルのそんな反応に、書類仕事の手を休めないリタの﹃笑顔﹄
あれ
に、ますます苛立ちが含まれていく。
﹁ケニス⋮⋮﹂
﹁なんだ﹂
﹁いいのか、あれ﹂
常連のジルヴェスターが指差す﹃デイル﹄に視線を向けて、ケニ
スは大きなため息をついた。
﹁⋮⋮ラティナが落ち着くまでは、静観するつもりなんだが﹂
﹁嬢ちゃんはなぁ⋮⋮﹂
ジルヴェスターは、難しい顔をして腕を組む。
﹁頭良い子、だからなぁ⋮⋮﹃諦める﹄ことも、出来ちまう気がし
てなぁ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ああ﹂
ラティナの成長を見守り、慈しんできたのは、デイルだけではな
かった。ジルヴェスターは、その筆頭とも言える。
﹁心配なんだよ。嬢ちゃんは、﹃何もなかった﹄ことにして、﹃良
い子﹄の仮面を被っちまうような気がしてな﹂
750
ケニスもまた、ずっとラティナを見守ってきた。ジルヴェスター
の危惧は、彼にも良くわかる。
彼女が幼い頃から、﹃良い子過ぎる﹄ことには、ケニスも気付い
ていたのだ。
ラティナは賢い子だ。
元より素直で聞き分けが良いという、本人の資質はあるだろう。
だが、それだけではなく、彼女は﹃自分の立場﹄を、幼い頃から常
に理解していた。だからこそ、﹃良い子﹄であらねばならない、と
すら考えてしまっているようでいて、周囲の大人たちは心配してい
たのだ。
・
・
・
・
そんなラティナのことだ。
あれだけ明らかな恋慕すら、相手に伝わらないのであればと、飲
み込んで、﹃いつも通りの﹄笑顔を作ってしまうことだろう。
・
あの子は、器用な賢い子だから、きっとそんなつらい選択すら、
上手くこなしてしまう。
・
﹁嬢ちゃんは、本当に良い子だからなぁ⋮⋮せめて、ちゃんとけり
つけてやりてぇよな﹂
﹁⋮⋮そうだな﹂
リビングデッド
﹃失敗﹄だとしても、彼女にしっかりと﹃結論﹄を出させてやりた
い。そこで動く死体と化している輩はどうでも良いのだが。男たち
・
・
・
は少女の心境を思って、再び腕を組んだまま、ため息をつくのであ
った。
・
﹁デイル⋮⋮お前いつまで、そうしているつもりだ?﹂
その夜ケニスは、階段をのぼる軽い足音に聞き耳をたてて、恨め
しいような顔になっている﹃弟分﹄に、そう声をかけた。
751
彼女の帰宅や存在が気になって仕方がないというのに、直接対峙
する度胸の無い、情けない姿であった。
﹁⋮⋮ラティナが⋮⋮﹃反抗期﹄⋮⋮終わるまで、かぁ⋮⋮?﹂
﹁ラティナ次第だ、と言いたいのか?﹂
ケニスの問いに、デイルは心底困っているといった表情になる。
﹁だってさ⋮⋮俺、弟しかいねぇし⋮⋮女の子のこういった微妙な
時期ってのと、どう接して良いか⋮⋮本当にわかんねぇんだよ⋮⋮﹂
どうやら、本気で言っているらしい﹃弟分﹄に、ケニスは息を吐
く。
このままでは、ジルヴェスターの危惧する通りになってしまいそ
うだ。あの賢い子が、こいつの﹃この状態﹄に気付いていない筈が
自分の気持ちに蓋をして、こいつの望むように微笑んでみせる
ない。
ことだろう。あの子は、そういう子だ。
ならば、彼女の﹃心の準備﹄が出来るまで待ってしまったら、﹃
手遅れ﹄なのかもしれない。
−−だが、それでもと、躊躇う気持ちが残ってしまうのは、﹃そ
れ﹄が決して﹃不幸な結末﹄ではない、からだった。
恐らく、﹃それ﹄−−今のままの﹃関係性﹄でいること−−を選
んだら、ラティナは苦しい思いを飲み込むことになるだろう。
・
・
・
・
だが、暖かな日だまりのような﹃幸福﹄の中にずっと居られるこ
とだろう。
この先も、穏やかで優しい﹃幸福﹄を、二人とも享受することが
できるのだろう。
それもまた、ひとつの﹃選択﹄だ。
ならば、自分のしようとしていることは、お節介であり、自己満
752
足しか生み出さないのかもしれない。
ケニスはそう思いながらも、氷を入れたグラスに琥珀色の酒を注
いだものを、自分と﹃弟分﹄それぞれの前に置いた。
どっかりと自分の前に腰を据えたケニスの姿に、デイルが疑問を
浮かべた表情で彼を見た。
﹁ケニス?﹂
﹁⋮⋮客もほとんど帰ったからな、俺の仕事も、もう終わりだ﹂
そう答えて、グラスの中身で唇を湿らせる。
﹁デイル、お前、いい加減自覚しろ﹂
﹁⋮⋮何をだよ﹂
﹁ラティナはお前のことを、﹃父親﹄だとは思っていない。それは、
思春期だから言い出した訳じゃない﹂
﹁ケニス⋮⋮何を⋮⋮?﹂
﹁あの子はもっと前から、お前のことを﹃保護者﹄だとは思ってい
ても、﹃父親﹄の代わりだとは思っていなかったぞ﹂
・
・
・
・
・
そこまで言ってやっても、理解できないように、呆けた表情にな
っているデイルに、ケニスはつくづく﹃弟分﹄の厄介な性質に呆れ
たくなった。
﹁本当にわからないのか?﹂
﹁だから、何を、だよ﹂
﹁ラティナはずっと前から、お前のことを﹃男﹄として見ているっ
てことだよ﹂
﹁⋮⋮は?﹂
更に間抜けそのもののような表情をして、妙な声を出したデイル
は、暫し言われた言葉の意味を考えて−−苦笑を浮かべた。
﹁な⋮⋮何言ってるんだよ、ケニス。そんなこと⋮⋮﹂
753
﹁あるわけない、なんて何で言える﹂
﹁だって、ラティナは⋮⋮俺にとって、可愛い﹃子ども﹄で⋮⋮そ
りゃあ⋮⋮血の繋がりとかはねぇけど⋮⋮﹂
﹁ラティナはお前が思っている程、﹃子ども﹄じゃないぞ。⋮⋮﹃
魔人族﹄は寿命が長い種族だが、あの子が﹃大人﹄になるまでも、
あとほんの僅かだ﹂
﹁知ってるさ、だから、俺はいつも心配して⋮⋮﹂
本当に自覚していないらしいデイルに、ケニスはもう一度グラス
を口に運んでから、彼の言葉を遮った。
﹁口ではそう言いながら、お前はラティナをずっと﹃子ども﹄扱い
しているだろう﹂
・
・
・
反論しようとするデイルに、口を挟むことを許さず、ケニスはず
・
・
っと前から気付いていた、﹃弟分﹄の厄介さを本人に突き付けた。
・
﹁それは、お前が、ラティナを﹃子ども﹄のままでいさせたいから
だ﹂
754
青年、兄貴分に諭される。︵前︶
ケニスの言葉に、驚いた顔をした−−と、思った次の瞬間には、
デイルは再び苦笑いに表情を戻した。
﹁何言ってるんだよ⋮⋮何で、そんなこと⋮⋮﹂
﹁ラティナが大人になったことを認めたら、お前はラティナを﹃手
放さないといけない﹄⋮⋮だからだろう﹂
デイルは、ケニスのその言葉には、ギクリとしたように表情を強
ばらせる。
ただそれは、ケニスの言葉の本質を理解してというよりも、考え
ることを避けている現実を、本能的に拒否したという反応に過ぎな
い。
﹁お前はラティナと過ごす、今の生活を失いたくないんだろう。
それでは、まだ﹃自分の厄介さ﹄を、自覚したとはいえない。
端から見ていても、ラティナが来てからのお前は、はっきりと﹃変
可愛いラティナと一緒にいたい
わった﹄からな。そう思うのも無理はない﹂
﹁そ⋮⋮そりゃあ、そうだろっ!
ってのの、何が悪いんだよ⋮⋮っ﹂
﹁あの子が大人になったら⋮⋮あの子を嫁にしたいって奴は、ごろ
ごろ出てくるだろうな。﹃魔人族﹄だっていうことを差し引いても、
だから俺は、変な﹃虫﹄が付かない
あの子は性格も容姿も、﹃並﹄と比べることも出来ない優良物件だ﹂
﹁それも、そうだろ⋮⋮っ!
・
ように、目を配って⋮⋮﹂
﹁ラティナが、嫁に行っても良いって奴が現れたら、どうする気だ﹂
755
﹁⋮⋮っ!﹂
・
・
・
はっきりと表情を歪ませて、−−それでもデイルは﹃保護者﹄ら
しい言葉を低い声で絞り出した。
﹁⋮⋮ぶち殺してやりてぇ気持ちは、あるが⋮⋮ラティナが望んだ
なら、そうしてやるさ﹂
あの子が幸せになれるならば。
自分がずっと願っているのは、彼女の幸福なのだから。
﹁だろうな。お前ならそう言うだろうと思ったさ﹂
ケニスはそして、こう続けた。
﹁あの子が大人になったことを認めたら、必ず﹃この事﹄を直視し
ないといけなくなる。それがお前が﹃認めたくない﹄ひとつめの理
由だ﹂
﹁ひとつめ⋮⋮って、まだ何か、あるのかよ⋮⋮﹂
﹁リタがあれだけ怒っている理由を考えたことがあるか?﹂
﹁んなもん、わかる訳ねぇだろ⋮⋮﹂
﹁リタはずっとラティナの﹃相談相手﹄だったからな。俺やお前に
は聞けないことが、女の子にはあるものだろう﹂
成長に伴う身体の変化や、それによって起こること。
男性相手では聞き難く、聞かれても答えることが出来ない様々な
こと。ラティナがそれらを相談する相手は、一番身近な大人の女性
であるリタだった。
リタは、ラティナにとって、ケニスとは異なる立ち位置での﹃相
談相手﹄なのだ。
リタは、ラティナが﹃大人になる﹄ことを、間近に見てきた。
756
幼い頃から自分の﹃保護者﹄相手に、恋をしているちいさな少女
が、年相応の幼い恋心を抱いていたことも。
大人になりつつある少女が、自分のその恋心を、無邪気な好意だ
けのものから、切なく苦しい気持ちを併せ持つものへと、育ててい
る姿にも。
リタは、ずっと傍で、そんな彼女の成長を見守っていたのだ。
﹁リタに言わせれば、お前がラティナの恋慕に鈍感なことが、何よ
・
・
り許せないんだろうさ﹂
﹁だから、それだって⋮⋮ケニスやリタの気のせいだって可能性も
⋮⋮﹂
﹁俺から見ていても、ラティナがお前にそういう感情を持っている
っていうのは、よくわかっていたぞ﹂
﹁な⋮⋮っ﹂
﹁俺がはっきり気付いたのは、あの子がお前と﹃旅﹄に出て、帰っ
た後位だったがな。リタに言わせれば、もっと前からあの子は、お
前にそういう感情を向けていたらしい﹂
動揺して、愕然とした表情になっているデイルは、本当にラティ
ナのその様子に、﹃気付いていなかった﹄らしい。
﹁ラティナはお前への恋慕を隠してはいないんだよ。表情も、声も、
ひとつひとつの仕草も⋮⋮あの子がお前へ向けるものは、それほど、
はっきりしたものだった。それなのにお前が﹃気付こうとしないこ
と﹄に、リタは怒っている﹂
﹁そんなこと言われても⋮⋮俺は⋮⋮﹂
﹁お前が﹃気付かない﹄のは、さっきと同じ理由だ。お前はラティ
ナを﹃ちいさな子ども﹄という枠の中に収めている。そういう目で
あの子のことを﹃見ている﹄からだ﹂
デイルは、ラティナのことを﹃可愛いちいさなうちのこ﹄として
757
見ている。彼女が大人になりつつある今も、﹃ちいさなラティナと
いうフィルター﹄を通して彼女を見ている。
周囲が気付いている程に、明らかなラティナの思慕も、﹃フィル
ター﹄に阻まれたデイルの視野には入らない。
リタでなくとも、ラティナの想いを知る者からすれば、ひとつや
ふたつ、詰りたくもなる。
−−恋心に気付かれない、ラティナの切ない表情にも、それを飲
・
直情的になるのも、もっとも
み込んだ笑顔にも−−デイルが気付こうとしない、少女の健気な様
と、リタが、
子を、周囲は見てきたのだ。
何故気付かない!
なのであった。
・
﹁ここまで言われたら⋮⋮いくら今のお前でも、ラティナが﹃反抗
期﹄だなんて馬鹿なことは、言わないだろう﹂
﹁でも⋮⋮だって⋮⋮俺、は⋮⋮﹂
視線を泳がせながら、途切れ途切れの単語を呟いたデイルは、し
ばらくして、ようやく意味のある言葉を絞り出した。
﹁でも、やっぱり、俺にとってのラティナは、﹃可愛いちいさなラ
ティナ﹄で⋮⋮そういう相手には、思えねぇ⋮⋮から﹂
確かにそれも一理はある。まだ彼女は成長途中の少女なのだから。
だが、それも﹃答え﹄にならないことをケニスは突き付けた。
﹁あと、数年後には、そんなことは言えなくなるだろうな。その時
も、お前はそう言ってられるのか﹂
﹁そんなの⋮⋮なってみなけりゃ、わかんねぇよ﹂
ケニスがデイルに﹃逃げること﹄を許さないのは、まだデイルが
自分の最も厄介な性質を自覚していないからだった。
758
﹁何でそんなに、﹃ラティナの気持ちを受け入れる﹄ことを、避け
るんだ﹂
﹁だ、だから⋮⋮それは、まだ、ラティナが⋮⋮っ﹂
﹁ラティナが﹃誰かの嫁になって﹄も、⋮⋮お前が﹃誰かを嫁に貰
って﹄も、お前たちの﹃今の生活﹄は終わりになる。だが、﹃お前
がラティナを嫁にしてしまえば﹄、﹃今と同じような生活﹄を続け
ることが出来るだろう﹂
端から見ていても、デイルとラティナ二人の生活に、他者が入る
余地など無いように思えるのだ。
二人は互いに精神的にも支え合って、寄り添うことで幸福を分か
ち合っている。
それだけでなく、デイルは日々の生活の家事や細々としたことを、
当人が意識している以上に、すっかりラティナに依存している。彼
女はデイルのことをよく知っているからこそ、当人が望む以上に、
甲斐甲斐しく細やかな気遣いをしてみせているのだ。
食事だってそうだ。ラティナの作る料理は、デイルの好みを良く
知った上で作る物だ。
−−正直に言って、デイルが伴侶を求めた時、ラティナ以上に自
分の好みを熟知した、快適な生活を整えてくれる女性なんて存在が
現れるとは、思えない。デイル自身がそこまでを求めないとしても、
﹃比べられる相手﹄が、ハイスペック少女であるラティナとなる、
その女性の方が嫌がるだろう。
男女としての相性というものは、それこそ、そうなってみないと
わからない。今の段階でどうこう言うものでもなかった。
・
・
・
﹁今すぐじゃなくても、後、数年たったらそうすれば良い。なのに、
何故、そうする可能性を考えようとしない?﹂
今のまま、二人で幸福を分け合う生活を続けたいのならば−−デ
759
イルには、そうするという﹃選択﹄もあるのだった。
すぐさまそういう関係になれとは言わない。だが、﹃可能性のひ
とつとして考慮する﹄位のことはしても良いだろう。
元よりデイルには、ラティナ以上に﹃共に居たい﹄存在もいない
のだから。
﹁だから⋮⋮これは、﹃お前の問題﹄だ。お前が何で昔っから、﹃
・
・
・
特定の相手﹄を作ろうとしないかは⋮⋮俺もだいたいは察している。
たぶんあの子は、そんなことは、とっくに覚悟を決めていると、俺
は思うぞ﹂
760
青年、兄貴分に諭される。︵後︶
デイルは、真面目で優しい人間なのだ、と、ケニスは思っている。
彼が少年であった頃から、見てきたケニスは、デイルのプライベ
ートに属するところも、だいぶ知っている。
どちらかといえば、同性の輪で馬鹿話をしている方を好むデイル
だが、全く女性受けが悪い訳ではない。
深い関係になったであろう、女性の存在を匂わせている時もあっ
た。
血気盛んな仕事をしている健康な男に、そういった欲求が無いこ
との方が、おかしい。
・
・
・
・
・
だが、デイルは、﹃特別な女性﹄というものを作ろうとしなかっ
た。
互いに割り切れる間柄になれる相手としか、一時でも、そういっ
た﹃関係﹄になろうとはしなかった。
真面目な性格のデイルにしては、不自然だ。
それでも、デイルは真面目だからこそ、そういった﹃距離﹄を選
び続けていると、ケニスは見ていた。
﹁お前は⋮⋮昔っから、﹃自分が何時死んでも良い﹄ように、周囲
を整えていたからな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
沈黙したデイルの顔には、苦いものを無理やり飲まされた、幼子
のような気配がある。
﹁だからお前が、ラティナを傍に置いた時⋮⋮俺も安心したんだ。
761
あの子を置いては逝けないと、お前が自分の生にしがみつく理由が
出来たからな﹂
﹁⋮⋮っ、俺は⋮⋮﹂
元々、危険と隣あわせの生き方の代名詞とも言える﹃冒険者﹄は、
刹那的な享楽を求めて生きる者が少なくない。
明日、何があるかもわからないのだ。次の機会が訪れるとは限ら
ない。楽しめる時に楽しまなくては、生を謳歌しなければ、何も残
らないのだ。
デイルは、それとも、少し異なっていた。
彼は、真面目なのだ。周囲−−彼とそれなりに親しくなっている、
周りの﹃大人﹄−−が、心配になってしまう程に、真摯なのだ。
ラティナだけではなく、ケニスやジルヴェスターにとって、デイ
こども
ルもまた、﹃心配するべき対象﹄なのだ。ラティナの幼い頃の姿を
皆が知っているように、デイルもまた、﹃少年﹄であった頃を知ら
れている。
デイルは、自らが﹃殺されるだけの理由がある﹄ことを、受け入
れている。
ラーバンド国との契約で、﹃魔王﹄の脅威を排除するという仕事
を負うようになった頃から、ずっと、そうだった。
彼は、魔王の眷属たる﹃魔族﹄にも、魔王に従う民である﹃魔人
族﹄にも、彼らなりの﹃理由﹄があることを、承知している。彼ら
にも、仲間がおり、家族がいることも、目を背けることなく直視し
ている。
﹃殺してきたこと﹄を後悔することはしない。自分たちにも、譲れ
ない﹃理由﹄がある。
だからこそ、彼は、恨まれることも、憎まれることも、−−相手
が自らを殺そうとする行動すら、肯定する。
762
殺されることを、簡単に受け入れるつもりはなかったが、何時殺
されても仕方がないと、受容していた。
だからデイルは−−
﹁だからお前は、初めから、﹃ラティナの相手﹄から、﹃自分自身﹄
を省いているんだろう﹂
﹁⋮⋮っ!﹂
息を飲んだデイルは、ケニスの言葉を否定しようと口を開きかけ
−−呆然と、言葉を失った。
﹁お前が願っているのは、あの子が幸せになること、だ。﹃先に死
ぬ自分﹄は、あの子を幸せには、出来ない。お前はそう考えている
んだよ﹂
それこそが、最も厄介なデイルの﹃性質﹄だった。
真面目で優しいからこそ、デイルは﹃何時死ぬかもわからない自
分﹄には、特別な相手を作らない。遺して逝く自分では、幸福には
出来ないから、初めから距離を置くことを選択する。
それは、ラティナに対しても言えることだった。
彼女を幸せにしてくれる相手が現れたなら、自分が死んだ後も護
ってくれる相手が現れたなら−−彼女を託すことが出来る、﹃自分
以外の誰か﹄が現れたならば、﹃保護者﹄としての自分の役割は終
了する。
けれども、離したくない。失いたくない。
だから−−もうしばらく、﹃このまま﹄でと−−﹃ちいさな子ど
も﹄と﹃保護者﹄のままでいたいと望んでしまっているのだ。
763
﹁ちょっ⋮⋮と、待ってくれ、⋮⋮俺は⋮⋮っ﹂
﹁ラティナは、とっくに覚悟を決めているぞ﹂
﹁な⋮⋮っ!﹂
﹁あの子は、自分が﹃魔人族﹄だと言うことを受け入れているから
な⋮⋮お前だけじゃない、俺も、リタも⋮⋮テオすら⋮⋮皆、自分
よりも先に老いて逝くことを、あの子は覚悟しているさ﹂
それでも、彼女は−−
幸せなのだと−−
今、一緒に居られる、限りのある時間を大切なのだと−−
いつも、いつも微笑んでくれて−−
ゴトン、と。テーブルの上に叩きつけるようにして置かれたグラ
スの中には、氷だけしか残っていなかった。
決して度数の低くないそれを一気にあおった相手を見て、ケニス
は、言おうとした言葉を忘れた。
﹂
﹁デイル⋮⋮お前⋮⋮﹂
﹁っ!
椅子を蹴るようにして立ち上がり、逃げるように自室へ向かう﹃
・
・
・
・
・
弟分﹄の背中を見送りながら、ケニスは片手に持つ自分のグラスの
中を見た。
ほとんど空のそれに、自分も酒の勢いでやり過ぎたかと、反省す
るケニスは、グラスを軽く揺らしながら小さく呟いた。
﹁やっと﹃自覚﹄したか﹂
これで、少しは状況が変わるだろう。
元より﹃あの二人﹄は睦まじいのだ。﹃彼女﹄の心を理解し、﹃
自分﹄の本心に気付けば、きっと悪いことにはならないだろう。。
自分が、おせっかいにも口を出してしまいたくなるほどに−−無
意識の行動の節々に滲み出ていた﹃本音﹄を見て、わかってしまう
程度には、﹃弟分﹄の願いはシンプルなのだから。
764
−−そんな風に考えて、ケニスは残り少ないグラスの中身を飲み
干した。
そして、翌朝。
いつものように、朝の仕込みをしようと階下に降りて来たケニス
は、呆気にとられることになった。こそこそと、まるで夜逃げでも
しそうな不審っぷりの人物がいたのである。
なんで⋮⋮っ﹂
﹁⋮⋮お前⋮⋮何、やってんだ?﹂
﹁ケ、ケニスっ!?
すっかり旅装を調えたデイルが、悪戯を見咎められた悪餓鬼その
もののような態度で、ギクリと振り返った。
その反応を見るに、本当に﹃逃げ出す﹄気であったようだ。ラテ
ィナが﹃休み﹄である現在、その分を補う為には常よりも早い時間
から作業をする必要がある。﹃いつも﹄よりも、ケニスが階下に降
りて来た時間は早いのであった。
その隙を狙うかのような行動を取ったということは、自分にすら
そろそろ﹃依頼﹄が届く筈だか
何も言わずに出立するつもりであったらしい。
﹁⋮⋮し、仕事っ、だからなっ!
ら、ちょっと、今回は、俺の方から出向いてみようと、思っただけ
だからなっ!﹂
慌ただしく、言い訳を述べるデイルは、なんと言うか、非常に必
死であった。
﹁いや、お前、だが⋮⋮﹂
﹁ーーーっ!﹂
呆れ返ったケニスが、馬鹿な真似をしようとしている﹃弟分﹄を
諌めようとする。
だがそれにも、それ以上何も言ってくれるな、とばかりに、デイ
ルは、−−ケニスに半泣きのような表情を向けた。
765
はた、と、そこでケニスはようやく思い至った。
人生経験もそれなりに積んできたはずのこの﹃弟分﹄であるが、
﹃特別な関係の女性﹄を作らないように、避けてきていた。それは
うぶ
すなわち、そういった方面にかけて、この男。
−−自分が思っていたよりも、初心であると。
﹁ラ、ラティナには、ちゃんと、書き置き、置いておいたからっ!
後は頼むっ!﹂
リビングデッド
叫ぶように言い残すと、扉を開けて全力で駆け出していった。先
日まで動く死体化していたとは思えない程の、敏捷な動きであった。
逃げ出した。逃避した。ある意味、ラティナと同じ行動をした。
本当に妙なところで、この二人は似ている。しかも、逃避行動の
先に打ち込むことが、﹃労働﹄であるところまで同じであった。
︵だが、お前がそれやっちまったら、いかんだろう⋮⋮︶
ケニスが我に返って、突っ込みを心中に浮かべた時には、既に言
うべき相手は、その姿を消していたのであった。
766
青年、兄貴分に諭される。︵後︶︵後書き︶
デイルはこんらんしている!
デイルはにげだした!
作中全エピソード内で、彼の最も情けない行動となります。彼の心
中や何やらは、後に描写致しますので、暫しお待ち下さいませ。
状況を整理する時間が欲しかったのだと思われます。
書籍版二巻、来週19日発売となります。皆さまのお蔭であります。
767
閑話。にゃんこをモフモフしたい話。︵前書き︶
皆さまのお蔭により、書籍版二巻発売目前です。今週末19日発売
となります。
店舗特典SSの一部にて、﹃デイルの剣技は祖父と父親から学んだ﹄
という設定を出しましたので、関連閑話となっております。
768
閑話。にゃんこをモフモフしたい話。
ラティナは動物好きである。
そのうち、犬系の動物には動物側からも好かれやすいようだった。
ティスロウで起こしたあれやこれやの﹃事件﹄を除いたとしても、
散歩途中の犬が、向こうの方から寄って来て、彼女にじゃれつくな
んて光景も珍しくはないのだ。
だが、猫には距離を置かれてしまうようだった。距離の取り方が
下手なのだと思われる。触りたい、撫でたい、という気持ちが先走
り過ぎて、逃げられてしまうのだ。
動物園のようなものはこの世界には存在しない。その為に街に住
む者が、目にすることのできる動物の種類というものは、かなり限
られている。ペットや家畜として飼われているものが、せいぜいな
のである。
ラティナは、妙なところで、かなりシビアな判断をするようであ
った。家畜は家畜として捉えているらしく、﹁可愛いけど、お肉は
おいしい﹂と考えていた。
ベジタリアンにはなれない。何故なら美味しいからなのである。
アスファル
そんなある日、ラティナは毎日通う﹃黄の神﹄の学舎で、親友の
一人であるシルビアからこんな話を聞いた。
﹁ネコ集会⋮⋮っ!﹂
夢のような﹃集会﹄の話であった。
﹁そうそう。ネコはね、夜になると皆で集まったりしてるんだよ。
769
中央広場の、昼間、市が出てるとこで見たことあるよ﹂
﹁ネコ⋮⋮ネコ、いっぱいいるの?﹂
﹁いるいる。すっごいいる﹂
シルビアの話の中程から、ラティナの表情は、かなり上気した興
奮気味のものになっている。
﹁ネコ⋮⋮ネコっ⋮⋮﹂
﹁さっきからラティナ、﹃ネコ﹄しか言わなくなってるけど、大丈
夫?﹂
冷や汗混じりのクロエの台詞に、シルビアは笑い声をあげたが、
ラティナには聞こえてすらいないようであった。
たくさんいたら、一ぴきくらい、なでたりできるかなっ︶
︵いっぱいのネコ⋮⋮っ。虎猫も、白いのも、黒いのもいるかなっ
!
心は、にゃんこパラダイスに逸っていたのである。
だが、大きな障害があった。
時間である。
ラティナは、ひとり歩きは許可されているが、それは日中に限ら
れている。
以前−−いつもの仲間たちと共に、﹃聖夜﹄の夜に魔物見物に行
くために−−抜け出して怒られたこともあったが、怒られたことよ
りも、デイルだけでなく、リタやケニスにも﹃心配をかけた﹄こと
の方が堪えたらしい。それ以後は、勝手に夜遊びをしようとしたこ
とはなかったのだった。
﹁⋮⋮ネコ集会見たいの⋮⋮でも⋮⋮﹂
だが、夜は﹃踊る虎猫亭﹄は営業時間中だ。仕事をするリタやケ
ニスに、自分勝手な我が儘で中央広場に行きたいとねだることはで
きない。
デイルは毎日帰宅時間が不規則だ。
770
その上、疲れて帰って来るデイルに、余計な手間を掛けさせるこ
とは出来かねた。ラティナは昔から﹃大好き﹄だからこそ、デイル
には我が儘が言えないという面を持っていた。
どこかしょんぼりとして、夕飯を食べるラティナを、大人たちは
不思議そうに見ていた。
その夜、ラティナは夢を見た。
辺り一面に様々な猫が思い思いに身体を伸ばし、好き勝手に遊び
まわる光景だった。
楽園はここにあったのか、と思った。
どきどきしながら、茶色の虎模様のふわふわな仔猫に手を伸ばし
た瞬間に目が覚めた。
目が覚めてしまうので有れば、もう少しじっと眺めていれば良か
ったと、布団の中でラティナは思った。
気がついた時には、枕が涙で濡れていた。
﹁ラティナに何があった?﹂
デイルの突然の台詞であったが、それは﹃踊る虎猫亭﹄に集う大
人たち一同の共通の認識であった。
何かぼんやり考えているかと思えば、ふう。とため息をつく。
悲しげな表情に問いかけても、﹁何でもないの﹂と首を振る。
かと思えば、物思いに耽りながら、楽しそうな微笑みを浮かべて
みたりしているのだった。
ラティナには﹃前科﹄がある。
彼女の異常を察知していながら、後回しにして様子を見た為に、
﹃自ら角を折る﹄なんてことをしてしまうまで、彼女が追い詰めら
771
れる結果にしてしまったことを、大人たちは悔いていた。
今回の﹃異常﹄を放置しておく訳にはいかない。
だからこそ必死に、ラティナの﹃理由﹄を聞き出した瞬間−−デ
イルは安堵で、崩れ落ちた。
︵可愛い過ぎる⋮⋮っ!︶
﹁デイル?﹂
肩を震わせ、下を見る自分を気遣うラティナの声にも、答えるこ
とは出来ない。真面目なラティナには申し訳ないが、笑い転げる自
信がある。それも安堵故なのだが。
﹁⋮⋮猫が見てぇんなら、夜遊びしなくても、俺ん家の隣が西区で
も有名な﹃猫屋敷﹄だぞ﹂
常連客のジルヴェスターの声に、ラティナが﹁なんと!﹂という
表情で振り返った。
﹃ネコ集会﹄だけでなく、世界にはそんなパラダイスがあるだなん
て、まだまだ自分の﹃世界﹄は狭いのだと感じ入った。
我に返ったデイルが顔を上げた時には、ラティナの関心はジルヴ
ェスターの元へと向かってしまっていた。
出遅れた。
仕方ねぇなぁと、言いつつ、OKを出して﹁やっぱりデイルが一
番大好きっ!﹂と、言って貰えるチャンスを逸脱した。
ハンカチをギリリと噛みたい気分だ。
﹁ジルさんのお家のお隣さん、ラティナ行くこと出来るかなぁ?
ダメかなぁ?﹂
ジルさんありがとうっ!﹂
﹁隣だからな。それなりに付き合いはある。俺の方から話しておい
てやるよ﹂
﹁本当っ!?
772
満面の笑みを浮かべるラティナに、礼を言われるジルヴェスター
の顔はだらしなく緩んでいる。相好を崩しているという普通の表現
を使うことを憚ってしまう程には、凶相のジルヴェスターが浮かべ
る笑みの威力は凄まじい。
﹁ゴジョ・シヘスっていう独り暮らしの爺さんでな、海の向こうの
ジルヴェスター、もう一度、その爺さんの名前聞いて良い
島国出身らしい。変わった名前だろう?﹂
﹁ん?
か?﹂
デイルが聞き返すと、ジルヴェスターは不思議そうにしながらも、
繰り返した。
﹁ゴジョ・シヘスっていう元冒険者の爺さんだよ﹂
﹁⋮⋮もしかしたら、俺、その爺さん知ってるかもしんねぇ﹂
記憶を辿った後でデイルがそう呟けば、ジルヴェスターだけでな
くケニスも驚いたようであった。
﹁シヘス老って言えば⋮⋮俺の上の世代の冒険者なら世話になった
奴もいるが⋮⋮デイルが冒険者になった頃には、完全に引退してい
ただろう﹂
ケニスが首を捻るのは、デイルに冒険者としての手解きをしたの
が自分自身であるからだ。
﹁俺の爺さんの葬式に⋮⋮そんな名前の爺さんが来てたんだよ。俺
の爺さん、婿に入る前は剣士として世界を回ってたって聞いたこと
があったから、その頃の仲間なのかもしんねぇ﹂
デイルの記憶は確かであったらしく、ジルヴェスターが仲介して
引き合わされたシヘスという老人は、デイルがティスロウの出身で
あることを聞くと、
−−はっきりと表情を歪めて叫んだ。
﹁ヴェンデルガルドの孫だと⋮⋮っ!﹂
773
老人の様子に、反射的にデイルは頭を下げた。
﹁すいません。祖母が、その節はご迷惑をおかけしました!﹂
・
・
﹃どの節﹄かなど、知ったことではない。だが、間違いなく、あの
祖母が何かやらかしたに違いない。何せあの婆さんだ。
デイルが即座に謝罪に走ったことに、ラティナは驚いて声を無く
し、シヘス老は何だか複雑そうな、しょっぱいような顔をした。
﹁⋮⋮そ、そうだな。ヴェンデルガルドの孫ということは、ライナ
ルトの孫ということでも、あるのだな﹂
そうして、デイルの祖父﹃ライナルト﹄の名を呟いたのだった。
シヘス老は、デイルの祖父ライナルトが、冒険者であった頃のパ
ーティーメンバーであったらしい。
ヴェン婆も一時期彼らに同行していた為、面識があるのだという。
﹁婆が、冒険者の真似事をしていたことを聞くのは初めてです﹂
﹁ライナルトは剣の腕だけでなく、魔術にも長けていたが、属性の
関係で回復魔法の適性がなかった。そこで、回復魔法を得手とする
魔法使いを探したのだが⋮⋮﹂
﹁あぁー⋮⋮﹂
ああ見えて、ヴェン婆の有する属性は﹃天﹄﹃水﹄﹃地﹄。魔法
を使う技術に長けたティスロウ育ちの彼女は、回復魔法と防御系の
魔法のエキスパートであったりするのだ。
﹁何故、戦闘補助系の魔法を専門にする小娘が、前衛よりも前に出
て、魔獣を殴り殺すとかするのだ﹂
﹁あぁー⋮⋮あー⋮⋮本当、すみません⋮⋮﹂
小柄な若い娘であった、当時のヴェンデルガルドが、自分よりも
遥かに巨大な魔獣をフルボッコにする姿。
774
腕に覚えのある男連中が心を折られ、若干トラウマになる光景で
あった。
コルモゼイ
孫であるデイルは、自分の祖母のでたらめっぷりを知っている。
祖母ヴェンデルガルドは﹃加護﹄を持っている。﹃橙の神﹄一柱
だけではあるが、その﹃加護﹄はデイルよりも高位のものであった。
巨体の魔獣を殴り倒すなんていう、常識はずれの行動を可能にし
ていたのは、その高位の﹃加護﹄が成せるわざであった。
そして、﹃あの﹄性格である。
仲間内で、紅一点であることを覚えていられた者は皆無だ−−と、
思われていた。
﹁友人の贔屓目があるとしても⋮⋮俺から見ても、ライナルトはで
きた奴だった。色男だったから、相手も選び放題だったろうに⋮⋮
何でよりによってヴェンデルガルドだったんだ?﹂
というか、一族の中でも皆が首を傾げる事実であった。
ティスロウ
﹁それは、孫の俺から見ても、謎だと思います﹂
外部から婿入りしたという﹃余所者﹄だった祖父ライナルトでは
あったが、デイルの記憶にある祖父は、一族の誰からも尊敬され、
慕われている人物だった。
コルネリオ師父が来る前であった故に、一族の子どもたちへの教
育役を担い、息子のランドルフや孫のデイルに剣術の手解きをした
のも祖父だった。狩人の集団であり、弓を得意にする一族出身のデ
イルが、剣を扱う姿が板についているのは祖父の教えがあったが故
なのである。
775
・
・
人格者で、何でも出来る非の打ち所のないひと。ただひとつ残念
なのは、あのヴェンデルガルドの婿だということ。
−−いや、あのひとだからこそ、ヴェンデルガルドさえ受け入れ
ることが出来たのかもしれない−−
当時をよく知るティスロウの年配者たちが、遠い目をして呟く思
い出話であった。当時、ヴェン婆と同年代だった一族の男性陣は、
全員一致で﹁無理!﹂であったらしい。
−−若きヴェンデルガルドが、﹃外﹄で冒険者じみたことをして
いたのは、婿探しが理由であったことは、孫であるデイルは知らな
い。
祖父の昔話を聞いているデイルの前では、ラティナが猫じゃらし
を片手に、大きな白猫との距離を詰めようと、じりじりと進んでい
た。
クロイツ西区の高級住宅街に邸宅を構えるだけあって、シヘス老
は使用人を幾人も雇う生活をしていた。独り暮らしの無柳を慰める
為に飼うたくさんの猫という獣が居ても、部屋の中に荒れた印象は
ない。
ラティナはリビングに通されて、のびのびと過ごすたくさんの猫
の姿を見た瞬間、はしゃいだ。
デイルっ!
デイルっ!!
ネコ、ネコっ!
いっぱい
デイルも見たことの無い、はしゃぎっぷりで、ちょっと驚いた。
﹁ーっ!
っ!﹂
ぴょんぴょん跳びながら、半周回り、台詞に全て感嘆符が付いて
いる勢いだった。
デイル以上に驚いたのは、部屋の猫たちで、その一瞬でラティナ
は警戒対象にされてしまった。一部の猫は、即座に部屋から逃げ出
した。
776
︵それは悪手だぞ⋮⋮ラティナ⋮⋮︶
だが、興奮気味のラティナは冷静に状況を把握することが出来な
いらしく、逃げ腰の猫たちを追い詰めるように追いかけてしまった。
恐らく、普段も上手くいかないが故に、溜まっていた衝動が、抑
えきれないのであろう−−なんて、デイルは分析してみたりする。
その結果、完全に猫たちに﹃危険人物﹄扱いされてしまったラテ
ィナは、なかなか距離を縮め切れずに逃走されていた。
だが、彼女もそれくらいでは諦めることもなく、何度も挑戦を繰
り返している。
今も、大きな体に似合わぬ機敏な動きで白猫が、ラティナの届か
ない棚の上へと飛び上がったところだった。
ラティナががっかりと肩を落とす。
﹁頑張るラティナも可愛いなぁ﹂
そう呟くデイルの膝の上では、黒いぶちのある猫がのんびりと居
眠りしている。デイルはその獣をゆったりと撫でながら、どうやっ
てラティナに声を掛けるかを考えていた。
今の状態のラティナでは、大きな声を出して猫を起こして逃げら
れてしまうだろう。寝てくれているままならば、ラティナに思う存
分撫でさせることが出来るのだから、どうにかラティナを落ち着か
せなければならない。
そんなデイルを、老人は、久しぶりに思い返した古い友人の面影
を重ねながら、眺めていた。
深い皺の刻まれた顔を、穏やかな熱いものに満たされた感情を飲
み込むような表情にして、過ぎたかつての時間に、そっと思いを馳
せたのだった。
777
閑話。にゃんこをモフモフしたい話。︵後書き︶
ゲリラ投稿でありました。
二巻の内容は、旅∼故郷編でありますが、改めて見て﹁﹃娘﹄ちっ
さっ!﹂と思う当方であります。
おっきくなっちゃった現行の﹃娘﹄も合わせて、今後も宜しくお願
い致します。
778
白金の乙女、落ち込む。︵前書き︶
書籍版二巻発売日。
皆さま、いつもお読み下さり誠にありがとうございます。
779
白金の乙女、落ち込む。
だから嫌だったのだと、ケニスは背中に嫌な汗をかいていた。
全力で追いかけて、取っ捕まえるべきであった。肝心な時に判断
を誤るとは、現役を引退して長い時間が経ったつけが出てきた。
そんなことを思うケニスの前には、ラティナがいる。
﹁⋮⋮なんで⋮⋮こんな、急に、行っちゃうことなんて⋮⋮なかっ
たのに⋮⋮行ってらっしゃい⋮⋮って、言えなかったこと、なかっ
たのに⋮⋮﹂
真っ青な顔をして、呆然と呟くラティナは、ケニスを見上げる眸
に涙を滲ませていた。
にげだし
デイルが仕事の為に、王都へと旅立った。その話を伝えた結果が
このラティナの状態だった。
﹁デイルにも、考えがあるんだろう。急に呼び出された⋮⋮んだろ
うさ。ラティナの事を、よろしく頼むって言っていたからな﹂
﹁⋮⋮なんで、直接、言ってくれなかったの?﹂
本当の理由なんて言える訳はない。ラティナの本心を理解した結
果、逃げ出したなどと言えば、余計に拗れる予測しか出来ない。何
我が儘だったから?⋮⋮私が、
と言うべきか、うまい言葉が浮かばなかった。ケニスの汗の量が増
えた。
﹁私が、デイルから離れてたから?
ちゃんと、﹃良い子﹄に出来なかったから⋮⋮?﹂
彼から距離を取っていたという非があるにせよ、それで自らを責
め、震え声で呟くラティナは、あまりにも痛々しい姿だった。
780
自分がいくら否定しても、ラティナには、届かない。
この子が幼かった頃から、この子を本当の意味で動かすには、自
分の言葉では足りないことをケニスは知っている。
とりあえずケニスは、﹃最悪﹄の手を打ったデイルに対して、内
心で呪詛を吐くのだった。流石にこれには、フォローする言葉がな
かった。
﹁⋮⋮マルセルのところ⋮⋮行って来る、今日までの約束、だから
⋮⋮﹂
倒れそうな程に蒼白なのに、ラティナはそう言うと、朝食もとら
ずに出掛けて行った。
ケニスは彼女を見送りながら、この更なる悪手を打ったデイルの
所業を、どう妻に伝えるべきか、頭を抱えたのであった。
明らかに様子がおかしいと伺わせても、彼女はそれを、仕事には
持ち込まない。﹃裏通りのパン屋﹄で接客をするラティナは、﹃い
つものように﹄微笑んで作業をしていた。
それでも、付き合いの長いマルセルは、すぐにラティナの不調に
気付いた。
ほんの少し手を止めた瞬間に、ため息をつく姿。潤みかけた眸を
歯を食い縛るようにして、気持ちを切り替える姿。
最近では、寂しいという感情を誤魔化すことがうまくなっていた、
﹃留守番﹄の時の彼女の姿だ。
それでも、ここまで落ち込むことは珍しい。どうするべきかと考
えあぐねていた時に、最近の﹃常連﹄−−恐らく期間限定なのだろ
う−−である幼なじみが来店した。
781
﹁⋮⋮どうしたんだ、ラティナ?﹂
ルドルフもまた、一目でラティナの不調を見抜いた。
ラティナは、それでも幼なじみに微笑んでみせる。
﹁大丈夫だよ。なんでもないから。⋮⋮いつも通りで良いの?﹂
﹁なんでもないってことはないだろ。顔色も、すごく悪いぞ﹂
﹁なんでもないから!﹂
強い調子が出てしまったことに、はっとする。取り繕おうとする
かのように微笑みを浮かべて声の調子を和らげた。だがそれすら、
長年幼なじみである彼にしてみれば、ぎこちない痛々しい態度だっ
た。
﹁⋮⋮ごめんね、ルディ。本当になんでもないの。大丈夫なの﹂
︵ああ、﹃留守番中﹄か︶
と、ルドルフは彼女の状態の理由に見当を付ける。普段は朗らか
に毎日を心から楽しんでいる彼女が、意欲も何もかもを縮ませて、
引きこもってしまう﹃状態﹄だ。
子どもの頃から、いつもそうであったから、すぐにわかる。
クロエなどに半ば無理矢理、外に引っ張り出されても、心此処に
あらずといった様子で、すぐに下を向いてしまっていた。それが見
ていられなくて、つい、いつも以上にちょっかいを出してしまった
のも、もう良い思い出と言って良いだろう。
−−何もない時も、からかっていたではないか、とも言われそう
だが、それすら仕方がないではないか。とも思う。
だって、この大きな灰色の眸をちょっぴり潤ませて、自分の方を
見てくれるのだ。赤くした頬を少し膨らませて、文句を言う声すら
愛らしい。少なくとも、その間だけは、他の友人たちではなく、自
分ひとりだけを見てくれる。
幼いからこその、純粋な独占欲のあらわれだった。
782
今、サンドイッチをてきぱきと作る、ラティナの頬をいきなり摘
まんでみたら、どんな顔をするだろうか、なんてことを考える。
まず、間違いなく怒るだろう。
それでも、落ち込んだ﹃今の気持ち﹄を、一時でも忘れてくれる
ならば、それも良いのではないだろうか−−そんなことを考えなが
ら、ルドルフは注文したサンドイッチが完成するのを無言で待つの
であった。
ラティナが驚いた声をあげたのは、﹃裏通りのパン屋﹄の仕事を
終えて、一週間程の短い期間ではあったが世話になった挨拶をし、
店を出た時だった。
﹁ルディ?﹂
﹁ん﹂
マルセルなら中だよ﹂
憲兵の制服ではなく、私服姿の幼なじみが外にいた。
﹁どうしたの?
﹁ラティナを待ってた﹂
﹁私?﹂
﹁送って行くよ﹂
﹁ふぇ?﹂
道、わかるよ?﹂
ルドルフの言葉に、ラティナは不思議そうに首を傾げる。
﹁なんで?
﹁迷子になる心配してるんじゃないって﹂
呆れ顔のルドルフだが、その位でへこたれていては、この天然娘
の幼なじみはやってられない。
﹁本当に顔色悪いぞ。途中で動けなくなりでもしたら大変だろ。ま
だ﹃夜祭り﹄の影響で、余所から来た奴も結構居るんだからな﹂
ルドルフは、詰所に買い込んだ軽食を届けた後、雑談の一貫とし
て上司にラティナの不調のことを伝えた。彼女が﹃虎猫亭﹄で常連
783
客である上司たちに可愛いがられていることは、ルドルフも非常に
よぉく知っている。
そして、﹃不調﹄の原因が、﹃保護者﹄の不在であるだろうこと
も伝えた結果−−彼は何故だか、調子の悪い幼なじみを、不埒な輩
に付け入る隙を与えないように送って行く、という流れが出来上が
っていたのであった。
断る理由もなかったので、﹃命令﹄なら致し方なしと、ルドルフ
は再び﹃裏通りのパン屋﹄を訪れたのである。
﹁⋮⋮そんなに、具合悪そうに見える?﹂
﹁いつものラティナは、もっと能天気な顔してるだろ﹂
﹁のっ⋮⋮?﹂
﹁ぽけーって、ニコニコしてるじゃないか﹂
﹁ルディ、ちょっと大人っぽくなったのかなって思ったのに、意地
悪なのは変わってない⋮⋮﹂
ぷすっ。と膨れたラティナは、感情の高ぶりに応じて、少しだけ
表情にも生気が戻った。
ルドルフは安堵したことを表に出さずに、更に減らず口をきく。
﹁ラティナ相手に、猫かぶっても、仕方ないだろ﹂
ルドルフも、上司相手には、それなりに気を遣っている。ため口
などでついうっかり話しかけでもしたら、大変な目に遭う。﹃指導﹄
という名のしごきである。
ニーリー
文字通り何回か死ぬような目に遭った﹃地獄の訓練﹄であったが、
﹃藍の神﹄の神殿が近く、憲兵隊内にも、回復魔法を扱うことの出
来る魔法使いが所属している。﹃地獄﹄から、しっかり引き戻す体
制がばっちり出来上がっていたのであった。
﹁憲兵隊のお仕事、大変?﹂
﹁まだ、正規隊の仕事は始まったばかりだから。覚えるだけで精一
784
杯だよ。訓練は、予備隊の時からきつかったし⋮⋮慣れたかな﹂
﹁⋮⋮頑張ってるんだね、ルディ﹂
﹁⋮⋮ラティナだって頑張ってるだろ﹂
そう、ルドルフが言うと、ラティナはまたもや不思議そうな顔に
なった。
﹁頑張ってるかな?﹂
﹁ああ﹂
ラティナの表情が少しだけ緩む。相手が誰であれ、自分の努力を
褒められ、認められるのは嬉しいことだ。
﹁ありがとう、ルディ﹂
そう、ほんの少しだけ微笑んだラティナは、ルドルフが、彼女の
手を握ろうと自分の手を伸ばしかけては、途中で断念して握り直す
という行動を繰り返していることには、気付くことはなかったのだ
った。
785
白金の乙女、落ち込み中。
﹃踊る虎猫亭﹄にルドルフと共に帰ると、入口の前には、しばらく
姿が見えなかったヴィントが居た。店の隅でのんびりと寝そべって
いたのだが、ラティナの気配を察知して、しっぽをパフンパフン振
りながら迎えに出たのだった。
そんなヴィントが、ルドルフを見て、動きを止める。
ラティナは、ヴィントのその反応に、不思議そうに首を傾げた。
一方ルドルフは、眼前の獣から発せられる妙なプレッシャーに、身
構える。
ヴィントは−−襲いかかるべきか否かを−−暫し考えて、﹃見知
らぬひとのオス﹄を無視する方向で結論を出す。ルドルフの横を素
通りすると、ラティナに自分の頭をぐりぐりと擦りつけた。
ラティナに近付く﹃見知らぬひとのオス﹄には、襲いかかって良
し、と、周囲に言われているヴィントである。けれども今日のよう
に、ラティナが、相手と親しげに話しているような時に、相手を倒
そうとすると、ラティナに叱られてしまうことをヴィントはしっか
り理解していたのだった。
ニオイ
その上何故か、この﹃見知らぬひとのオス﹄からは、ラティナの
﹃気配﹄が察せられる。
判断に困る時は、放置しよう。
・
それがヴィントの出した結論であったのだった。
・
ヴィントは⋮⋮犬だよ?﹂
﹁⋮⋮ラティナ⋮⋮それって⋮⋮?﹂
﹁え?
﹁何で疑問形なんだ?﹂
786
﹁うーんと⋮⋮ちょっと変わった犬?
だからだよ﹂
見るからに怪しげな生き物であるヴィントを前にした、ルドルフ
の当然の疑問に、ラティナはそそくさと、ヴィントの翼を隠す着衣
を正しながら、答えたのであった。
送ってくれたルドルフに礼を言って別れると、ラティナはヴィン
トと共に屋根裏部屋へと向かう。
急にいなくなるから心配したよ﹂
約一週間ぶりのブラッシングをしながら、ラティナはヴィントに
留守の理由を尋ねた。
﹁何処に行ってたの?
﹁ダディのとこ、行ってた﹂
﹁だでぃ?﹂
﹁ダディ、マミィにかまれて凹んでた。マミィさいつよ﹂
﹁?﹂
幻獣の言語文化は、独自に発達した面があり、﹃人間族﹄の中で
最も使われている言語である西方大陸語を一週間で話せるようにな
ったラティナでも、理解に困る事があった。比較する語句や表現が
無いのだから無理はない。
ラティナは時折首を傾げながらも、ヴィントがどうやら里帰りし
ていたことに見当をつける。
夫婦喧嘩の顛末を、知らぬところで我が仔に暴露されていること
を、天翔狼の長は知るよしもなかった。
ふかふかになったヴィントの毛皮に、ラティナはぎゅっと抱きつ
き、顔を埋めた。
﹁ラティナ?﹂
﹁⋮⋮ごめんね、ヴィント⋮⋮ちょっとだけ、こうしてても、良い
?﹂
ヴィントが嫌がることもなく、しっぽをぱっふぱっふ振る様子に
787
安心して、再びラティナは、ヴィントの毛皮の感触とぬくもりに頬
を寄せた。
﹁⋮⋮どうして、うまく、出来ないのかなぁ⋮⋮﹂
ぽつりと呟いた言葉には、隠すことの出来ない悲哀の響きが含ま
れていた。
今日一日頑張ってみたけれど、弱気な言葉を漏らした途端に、視
界が滲む。鼻の奥にツンとしたものを感じながら、彼女はぎゅっと
目を閉じた。
ちいさな頃、周りの大人は、皆、凄くしっかりしているように見
えていた。何でも容易くやっているように思えた。
早く大人になって、自分もその仲間入りが出来るようになりたか
った。
身長も伸びて、テオの﹃お姉さん﹄になって、以前よりは大人に
近付けていると、思っていた。
だが、まだまだ自分は、﹃ちいさなうちのこ﹄のままであったら
しい。留守番ひとつ上手く出来なくて、涙が出るなんて、全然成長
出来ていない。子ども扱いされても、仕方が無い。
きっと、ちゃんとした大人になれたら、自分も上手く出来るよう
になるのだから。
﹁いつになったら⋮⋮私、ちゃんと⋮⋮大人になれるのかな⋮⋮﹂
﹁わふ﹂
小さな声で慰めるように声をかけてくれた﹃友だち﹄の優しさに、
零れた涙を手のひらでごしごしと擦りながら、ラティナはその後も
しばらく動けないでいた。
﹁あの馬鹿、どうしてくれようか﹂
788
自室から一階へと、戻ってきたラティナの目が、真っ赤になって
いることを見たリタの第一声はそれであった。
﹁⋮⋮確かに、何も言えない位に馬鹿な行動だとは思うがな⋮⋮あ
いつも、あいつなりに思うところがあるみたいだから⋮⋮多少は手
心を加えてやってくれ﹂
﹁良いのよ。ケニスが、何だかんだ言って、あの馬鹿に甘いんだか
ら。私はラティナだけの味方で良いの﹂
夫へとそう言ってから、リタは器用に片方の眉だけ上げてみせる。
﹁あの馬鹿に、文句やら何やらを言えないラティナの分まで、私が
罵倒してあげる位で丁度良いのよ﹂
﹁ねぇね?﹂
﹁そうよ。テオもそう思うわよねー?﹂
﹁ねー﹂
口を挟んだ息子に同意を求めるようにリタが言えば、大好きな﹃
姉﹄のことだということだけを理解したテオドールは、母親を真似
て声をあげた。
どうしたの?﹂
ケニスは複雑そうにはするものの、デイルの行動をフォローする
ケニス?
言葉はなかった。
﹁⋮⋮リタ?
﹁なんでも無いわよ。ヴィント、ふわふわになったわねえ﹂
赤くなっている目を除けば、普段通りの表情を作っているラティ
ナが、険のあるリタの雰囲気に首を傾げる。リタはラティナの問い
に、笑顔で左右に手を振った。
リタの返答に不思議そうにするものの、ラティナはケニスを見上
げると、何気なさを装って、声をかけた。
﹁ケニス、夜の営業手伝おうか?﹂
﹁明日の朝から戻ってくれれば良いぞ。慣れない環境での仕事で、
自分で思っている以上に疲れている筈だ。きちんと休め﹂
789
ケニスの返答に、ラティナは少し沈んだような表情をする。
ケニスはため息をついて、﹃弟子﹄に言葉を続けた。
﹁﹃何も考えなくて良い位に、働く﹄みたいな、無茶な働き方はす
るなよラティナ﹂
﹁⋮⋮ごめんなさい﹂
﹁謝るところでは、ないな﹂
﹁でもね⋮⋮あのね⋮⋮私⋮⋮﹂
そう、尚も言葉を続けようとする﹃弟子﹄の頭に、ケニスはデイ
ルよりも大きな手のひらをのせる。彼女が幼い頃からそうしていた
ように、デイルよりも強めの動作で撫でる。
俺たちはラティナほど、テオを甘やか
﹁リタがフロアに入るのも今晩までだ。その分、テオのことをたっ
ぷり甘やかしてくれるか?
すことは、出来ないからな﹂
﹁ねぇね?﹂
父親の言葉をなんとなく理解して、テオが嬉しそうな声をあげる。
とことこと、ラティナを傍に駆け寄って、期待するような表情でラ
ティナを見上げた。
﹁ケニス⋮⋮﹂
﹁ラティナが居てくれて、助かっている﹂
ケニスのその言葉に、ラティナはじわりと、止まっていた筈の涙
を滲ませる。
自分の存在に、行動の全てに、自信を失いかけていた今の自分は、
・
・
何よりも自己を肯定して欲しかったのだと、気付かされた。
自分は、ここに居ても良いのだと、理由が欲しかった。
﹁ありがとう⋮⋮﹂
泣き声を響きに含ませて、ラティナは﹃ごめんなさい﹄ではない、
言うべき言葉を呟いた。
790
リタと、デイルとの間にある﹃温度差﹄も、ラティナのこんな性
質が根底にあるのだろうと、ケニスは思っている。
ラティナにとって、﹃デイルの存在﹄は、何よりの精神安定をも
たらしている。デイルが傍にいる時のラティナは、多少の不安も何
もかも、デイルにべったべたに甘やかして貰えるうちに、忘れるこ
とができるのだ。
ラティナが不安定になるのは、普段の朗らかな姿とは別人のよう
に、落ち込んでしまうのは、﹃デイルがいない時﹄だ。
それは、周囲が知っていて、デイルだけが知らない、彼女の姿だ。
いくら周囲から話で聞いていても、実際のこの姿を見ていないと、
想像することは難しい。それほど﹃普段の﹄ラティナとは大きな隔
たりがある。
こんな彼女の姿を知っていたならば、いくらデイルでも、自分の
感情に任せて飛び出るなんて、行動はとらなかっただろう。
﹃子ども扱い﹄をしていながら、幼い頃より同時に年相応以上にし
っかりしていたラティナに﹃甘えている﹄デイルだからこそ、とっ
てしまった﹃ラティナへの無意識の甘え﹄だ。
﹁ねぇね﹂
無邪気に慕うテオをぎゅっと抱き締めるラティナを、ヴィントが
羨ましそうにぐるぐる回りながら見ている。
ケニスは、そんな姿を見ながら、今後どうするべきか、考えを巡
らせるのであった。
791
赤毛の少年、﹃虎猫亭﹄を訪れる。
翌日から、﹃踊る虎猫亭﹄の業務に戻ったラティナは、表向きに
は、だいぶ持ち直したように見えた。
だが、普段の﹃留守番﹄中は、寂しさをこらえながらも、独りで
屋根裏部屋で過ごす彼女が、昨夜はヴィントを伴って部屋に戻って
いた。それでもケニスたちは、何も言わなかった。少しでも、他者
のぬくもりで癒されるのならば、そうするべきだろう。
ラティナにいつも以上に構って貰えるヴィントは、彼女の沈んだ
様子は別にして、それなりに上機嫌であった。
くるくると忙しなく、店の中を往き来するラティナが戻って来た
ことに−−本日、朝食の為に店を訪れた常連客たちの表情が、二割
増しで明るくなっている。
今晩は、この一週間分を取り戻せるほどに忙しくなりそうだと、
客の様子を見たケニスは、仕込みの量を増やすことを決定した。
図らずとも、ラティナの願い通りに、余計なことを考える暇もな
く、忙しく働くことになるだろう。
必然的に昼間の作業の量も増える。リタが妊娠中であることもあ
って、ケニス一人では手が回らなかった諸々の仕事も溜まっている。
仕入れや備品の買い出し、リネン類の洗濯等、ラティナと二人がか
りで片付けていく。
ラティナの不在が堪えたのは、デイルだけではなかった。
ケニスも、かつては夫婦二人でこなしていた筈なのに、これだけ
大変だったのかと思うことになった。ぴたりと息を合わせて働いて
くれる﹃弟子﹄が、どれだけ自分の仕事の助けになっていたのかを
792
痛感することになったのである。
デイルが逃げ出したのは、馬鹿な行為だとは思う。
とはいえケニスは、﹃弟分﹄にも、頭を冷やす時間が必要だとは
思っていた。やり方を間違えただけだ。たぶん今頃、移動中の何処
かで、自分のしたことに頭を抱えていることだろう。
︵ラティナも、もう少し我が儘を言って、寂しいとか、嫌だと言っ
ておくべきだったんだな︶
我慢強く、良い子であった彼女に、知らず知らず周囲の﹃大人た
ち﹄は、頼っていたらしい。
自分にも、反省する点はあったなと、ケニスは仕事をする手は休
めずに、考えるのであった。
ケニスの予測した通りに、その夜の﹃踊る虎猫亭﹄は早い時間か
らぼちぼちと、客が入り始め、酒場の稼ぎ時である﹃いつもの時間﹄
には、満席どころか、立ち飲みでも構わないという客まで出る始末
であった。
ラティナひとりでは間に合わず、リタも結局フロアに出ることに
なった。ヴィントもまた帰って来てくれた為、テオの﹃お目付け役﹄
がいたのも助かった。
複数から同時に飛ぶ注文を聞き分け、聞き返すこともなく、一瞬
で把握する。卓だけでなく、客の顔も覚えているため、料理を運ぶ
先は間違えることは無い。釣り銭の計算に必要な時間も一瞬で、気
持ちの良い笑顔で応対してくれる。
ラティナとは、そんな﹃看板娘﹄なのである。彼女がいるからこ
その混雑ぶりだが、彼女がいなければ、到底捌くことの出来ない仕
事量でもあった。
793
﹁リタ、赤ちゃんいるんだし、あまり無理しないでね。私ひとりで
も、何とかなるよ﹂
﹁無理するつもりは、始めから無いから大丈夫よ。そんなこと言う
ラティナの方こそ、頑張り過ぎちゃダメよ﹂
﹁大丈夫だよ﹂
無理はしないよっ﹂
﹁無茶してるって思ったら、店主権限で強制的にお休みにするから
ね﹂
﹁大丈夫!
若干仕事中毒者であるラティナにとって、むやみやたらな﹃休暇﹄
は、決してありがたいものではないのであった。
ラティナは、リタの言葉に、ぶんぶんと慌てて大きく首を振る。
﹁本当に、頑張り過ぎちゃうんだから﹂
ぱたぱたと早足で回る少女の姿を目で追いながら、リタは呆れた
顔をした。
そんな時、新たな客が訪れた気配に、ラティナは反射的に笑顔を
向け、その表情を素のものへと戻した。
﹁いらっしゃ⋮⋮⋮⋮ルディ?﹂
﹁お⋮⋮おう﹂
少し気まずげに、ルドルフはキョロキョロと店の中を見回す。混
雑する店の様子に、呑まれているようだった。
﹁どうしたの?﹂
﹁⋮⋮酒場に来る理由なんて、酒か飯だろ﹂
じょうれん
彼の返答をたまたま聞いた、幾人かの憲兵が、生あたたかい表情
今、混雑しているから⋮⋮席、空いてなくて﹂
になった。彼の目当てがそのどちらでもないことは、周知の事実で
ある。
﹁そうなの?
−−﹃当人以外には﹄の、注訳が必要である。という文面を周囲
の脳裏に浮かばせつつ、ラティナは困った顔で幼なじみに応対した。
794
﹁構わないぞ、こっちに来い﹂
そこに常連の一人から声が掛けられる。
ラティナは幾分ほっとした表情となったが、ルドルフの背筋は若
干反りぎみになる程に伸ばされた。
﹁たいちょーさん﹂
ラティナは、幼い頃からの、何処か拙い口調で声の主へと笑顔を
向ける。
﹁相席でも大丈夫ですか?﹂
﹁知らない相手でも無いしな。良いから此処に座らせろ﹂
﹁ありがとう﹂
ラティナにとっては、クロイツの荒くれ者の一翼﹃憲兵隊﹄を取
り纏める壮年の男も、幼い頃から自分を可愛いがってくれる気の良
いおっちゃんの一人でしかない。
だが、ルドルフにとっては話は別だ。
組織の下っぱである見習い隊員にとって、雲の上である組織のト
ップ。しかも彼と共に席を囲む面子も、憲兵隊で実力と役職の上層
部にいる者たちだ。
一緒にテーブルを囲んでも、ものが喉を通る気がしない。
コレ
おっちゃんどもにしてみれば、面白い玩具を捕まえた程度の心境
であった。しかも﹃幼なじみ﹄をそばに置いておけば、いつも以上
に多忙な﹃看板娘﹄も、この卓に頻繁に来てくれるだろう。
そんな打算を持って少年は、店内でも有数の﹃恐ろしい卓﹄に留
められたのであった。
﹁ルディ、何にする?﹂
﹁えーと⋮⋮﹂
はいっ!﹂
﹁おいシュミット。遠慮することはない。ほら、呑め﹂
﹁っ!?
795
﹁まだ半人前だからな、この位から初めとけ﹂
﹁はいっ!﹂
どほどぼと注がれる酒を、渡された酒杯で受ける幼なじみの姿を
見たラティナは、慌てた様子で、厨房へと身を翻した。あの状況で
は、あっという間に潰されてしまうだろう。大ぶりのグラスを掴む
と、水をなみなみと注いだ。
パワハラも、アルハラの概念なんてものも存在しない。﹃上﹄の
言ったことは白が黒くはならなくても、濃いグレー位で考えなけれ
ばならない。社会とは理不尽なものなのである。
﹃子ども﹄の飲酒は、基本的には不可とされているが、それなら何
を以て﹃大人﹄とするのか、という問題に直面する。
ラーバンド国では、基本的に大人として扱われる目安は18歳だ。
だが、デイルの故郷ティスロウのように15歳を以て成人として扱
われる文化圏も存在している。その為、年齢を一律の基準としては
いない。
概ねその程度の年齢で、職に就き、自立し、男女共に結婚の適齢
期を迎えるという一種の目安に過ぎない。
初等学習を終えたクロイツの大多数の子どもたちは、各々下働き
という体で職に就く。それが﹃見習い﹄という期間を経て、とりあ
えず﹃一人前﹄という状態となりはじめた頃、﹃大人﹄としての名
目で扱われはじめる。
自らの力で稼ぎ、自立した生活を営んでいる者ならば、﹃常識﹄
の範囲内であれば、その行動もまた、当人の自己責任の範囲内なの
だ。
憲兵隊で一般隊員として認められたルドルフや、同じ年頃でも、
冒険者として依頼をこなしている﹃若手﹄たちが﹃踊る虎猫亭﹄で、
飲酒を含んだ飲食をしても、咎める理由にはならないのである。
796
とはいえ、まだまだ幼さを残すルドルフが、百戦錬磨のおっちゃ
んどもの勧める、呑み易さの配慮など欠片もない強い酒精を受け入
れることなど出来もせず、酒杯を口に運んだ後、彼は盛大に噎せた。
﹁っ!﹂
涙目でゲホゲホと噎せるルドルフの姿に、かつてその洗礼を受け
ルディっ﹂
てきたおっちゃんどもは、大笑することで応じたのだった。
﹁大丈夫?
そこに、水を持ってきたラティナが慌てた様子で駆け寄る。彼の
背中を擦り、早口で簡易式の﹃解毒﹄の呪文を唱える。
﹁無理な飲み方しちゃダメだよ。危ないんだよ﹂
ルドルフに水を飲ませると、ラティナは眉間に少し皺を寄せて、
周囲の常連たちを見る。
﹁たいちょーさんたち、わざとでしょ﹂
﹁おお、怖いな﹂
ラティナが凄んでみせたところで、残念ながら、おっちゃんども
コレ
を喜ばせるだけであったのだった。
そして、﹃幼なじみ﹄を弄ることで、性根の優しい﹃看板娘﹄が、
心配して様子を見に来るということを、実証することになってしま
ったのだった。
合掌である。
因みに、幼い頃から、酔っぱらいのおっちゃんに囲まれて育った
ラティナは、﹃酔っぱらい﹄という生き物には、道理が通じないこ
とも理解している為、ある程度達観しているのであった。
おっちゃんたちもそれを知っている為、この程度では﹃彼女に嫌
われることもない﹄ことを知っているので、その辺、遠慮はなかっ
たのである。
797
赤毛の少年、﹃虎猫亭﹄を訪れる。︵後書き︶
お酒は二十歳になってから。
酒はのんでも、のまれるな。
今作品は、ファンタジーであります。
798
赤毛の少年と、白金の乙女と。壱
初日は酔いつぶれて、再びラティナの﹃解毒﹄呪文の世話になる
という醜態を晒したルドルフであったが、彼はそれでめげることな
く、翌日も﹃踊る虎猫亭﹄を訪れた。
﹃保護者﹄不在の隙に、看板娘に近づくことができないかと、虎視
眈々とチャンスを狙っている若手の冒険者たちは、彼等のアイドル
たるラティナと妙に親しげなルドルフに、はっきりとした敵意を向
けている。
どこかギスギスとした周囲の雰囲気に、ラティナは不思議そうな
表情をしていた。
﹁周りのひとと、ケンカにでもなったの?﹂
﹁いや。そうじゃない﹂
﹁ふぅん⋮⋮なんかあったら、言ってね﹂
ラティナとそんな会話をする今日のルドルフは、甘口の果実酒を
口に運んでいる。
他の店ならば、それこそ﹃子ども﹄だと笑われるような、女性が
好みそうな品であったが、﹃踊る虎猫亭﹄では人気メニューのひと
つとなっていた。
アルコール
理由は非常に簡単で、看板娘が仕込んだメニューであるからだっ
た。そんなラティナは、味はさておき酒精を苦手にしているようで、
小さなグラスに半分程を舐め、真っ赤になっている姿が確認されて
いた。味見をするのも、ままならないらしい。
﹁嬢ちゃんは、あの坊主と仲良いな﹂
ルドルフと語り合うラティナの様子に気付いた、常連のジルヴェ
799
スターが、そう声をかける。ラティナは少し首を傾げて彼の卓へと
昔、よく来てたルディだよ。今は
近づくと、なんということもないように答えた。
﹁ジルさんも知ってるでしょ?
憲兵さんになったの﹂
﹁⋮⋮嬢ちゃん、あのなぁ⋮⋮﹂
﹁見習いの期間が終わったから、﹃虎猫亭﹄に来てくれるようにな
ったんだって﹂
なんの裏もなく、そう言って笑うラティナに、ジルヴェスターは
・
・
微妙な笑顔で応えた。
・
﹁嬢ちゃんも、あいつの事を⋮⋮どうこう言えねぇなぁ⋮⋮﹂
彼女の背中を見て、ため息をついたジルヴェスターの呟きは、周
囲に聞こえないように、グラスの中へと向けられた。
そんな風に周囲が、気を揉んだり、嫉妬したりと、はっきりとし
ているルドルフの感情に気付いているというのに、当のラティナは
鈍感さを周囲に振り撒いていた。
それを以てルドルフを嘲笑する輩もいるにはいたが、あまりに明
確過ぎて、同情すら誘った。
それでもルドルフは、めげることなく、﹃虎猫亭﹄への日参を続
けたのであった。
彼は幼なじみの少女のそんな鈍感さも、理解の上で挑んでいるの
である。
この程度でへこたれることはなかった。
そして、その過程で彼は気付いた。
﹃夜祭りの大惨事﹄以降、ラティナとデイルの関係が微妙にぎこち
なくなっていたこと。そして、その関係が改められることのないま
800
まに、現在デイルは、仕事の為に留守にしているということ。
−−それらのことに。
ルドルフは、ラティナがずっと、誰を見ていたのかを知っていた。
仲間たちよりも小柄で、外見や口調から、幼なく見えたラティナ
だったが、その実、精神面では仲間たちの誰より大人びていたこと
を、友人たちはよく知っていた。
そんな彼女が、﹃保護者﹄ではあっても、﹃異性﹄であるデイル
に寄せる好意が、幼いながらも﹃恋心﹄と呼ぶべきものであること
も、彼らは知っていたのだった。
ラティナは一度も友人たちに、デイルのことを、﹃親の代わり﹄
として語ったことがない。
幼い頃から賢かった彼女は、彼が自分の後見人で、﹃保護者﹄で
あることを理解した上で、﹃大好きなひと﹄として、﹃デイルのこ
と﹄を嬉しそうに語るのだ。
そして、ずっとその背中を追いかけていた。
歳の差を縮めることはできなくても、早く﹃大人﹄になりたいと、
﹃大人﹄として扱ってもらえるようにと、家事も仕事も、年齢以上
にこなしていた。働き者であるという性根もあるが、それ以上に、
彼女はいつも、ずっと彼の隣に立ちたいと、背伸びをしていたのだ。
それをルドルフは知っていた。
それは、ラティナの想い人がデイルであることを知っている為に、
彼が追いかける﹃背中﹄もまた、﹃同じもの﹄であったからだった。
801
追いかけても、背伸びをしても、簡単に届くことの無い、大きな
遠い﹃背中﹄。それでも諦め切れない﹃想い﹄の為に、必死に努力
して自分を磨き、力を付けてきた。周囲にそれなりの評価を貰い、
認められても、まだ足りないと更に励んだ。
だからルドルフは、誰よりも、ラティナの﹃想い﹄に気付いてい
たのだ。
自分の﹃想い﹄と、ラティナの﹃想い﹄は−−追い付く為に重ね
てきた時間は−−異なるけれども﹃近しいもの﹄であったから。
思いをそんな風に巡らせた後で、ルドルフは深くため息をつく。
︵⋮⋮どう考えても、今しか機会が無いような気がする⋮⋮︶
何度考えてもそこに至る結論に、再びため息が漏れそうになるの
を飲み込んだ。
︵普段のラティナに完全に﹃戻った﹄ら⋮⋮言える機会がある気が
しない⋮⋮︶
﹃保護者﹄の留守も、数日が過ぎ、ラティナは一見﹃普段通り﹄に
戻っているように見える。だが、ルドルフの目からは、やはりどこ
か無理をしているように見えた。
彼女をそんな風に、落ち込ませることのできる﹃彼﹄に感じてい
るものが、嫉妬であることを自覚したのも、ずいぶん昔のことだ。
ルドルフはグラスの中身に視線を落としながら、更に思いに耽る。
周囲の喧騒は遠くなるが、それでも自分の耳は、無意識にラティ
ナの声を拾っていた。
︵弱みにつけこむ⋮⋮なんて、言ってられない⋮⋮よな︶
ラティナが弱っている隙につけこむことはできないなんて、格好
802
つけて言っていられる立場ではない。
自分の条件は、そんなことを言っていられるほどに甘くはない。
機会はどんなものでも使うのが、﹃戦場﹄の心得だ。
︵何もしないうちに、諦めることができたら⋮⋮何年も、こんな風
アフマル
にやってない︶
﹃赤の神の夜祭﹄の夜。ラティナが耳まで赤く染めて、かすかな震
えを押し殺しながら張り上げた必死な声に、目眩がした。
あの声や表情を向けられる羨望と、何もせずに自分の﹃想い﹄が
終わってしまうのかという絶望に。
だからこそ、今この時を逃して、みすみす再び与えられた機会を
失ってはならない。
﹃保護者﹄が見張る最中は、流石に恐すぎて、できる気もしない。
万が一のチャンスは、ラティナが弱っている今しか、ない。
独白の中に、かなり情けない台詞をちりばめながら、ルドルフが
決意の表情で顔を上げれば、そこには驚くぐらい近い距離に、ラテ
ィナの顔があった。
驚きで、グラスを落としそうになり、慌ててテーブルに置く。ガ
なんか難しい顔してる。悩みごと?﹂
チャッと、心情を示した騒がしい音が、小さく響いた。
﹁どうしたの、ルディ?
整った愛らしい顔を心配そうに曇らせて、大きな灰色の眸でまっ
すぐに物怖じすることもなく見詰めてくる。
たにん
幼い頃から変わらない仕草。
異性が、自分へと向ける、好意や欲望に無頓着である故の、幼い
頃と変わらない距離間だった。
少し手を伸ばせば触れることのできる近さで、無防備に微笑む彼
女がどれだけ自分を煽るのかも、ラティナは気付いていないのだ。
803
﹁ルディ?﹂
重ねて問われて、我に返る。ゴクリと大きく喉を鳴らして、思わ
ぬ緊張感も飲み込んだ。
ラティナは、ルドルフのそんな様子に気付かずに、ルドルフが大
きな音をたてて置いたグラスに視線を向けた。その中身がほとんど
空になっていることに、嬉しそうな表情になる。
美味しい
それとも、もう少し甘さ控えめの方が良いと思う?﹂
﹁ルディ、それ、よく飲んでくれてるよね。どうかな?
?
﹁ああ。これ位で良いと、思う﹂
自分の任されているメニューの様子が気になるラティナが、更に
前のめりになる様子に、若干押されながらルドルフは首肯して応じ
る。
彼のその返答を聞くと、ぱあっと花咲くように、ラティナは憂い
の無い笑顔になった。
素直に、可愛いな、と思った瞬間−−ルドルフは、ついさっきま
で抱いていた煩悶を忘れた。
残ったのは、本当に単純な言葉と、言わなければ後悔するという、
強迫観念に似た、決意だけだった。
﹁ラティナ﹂
﹁なあに?﹂
﹁好きだ﹂
﹁え?﹂
あっさりと、簡潔に告げられた言葉の意味を理解できないように、
ラティナは、大きな眸をぱちぱちとまばたいた。
﹁俺は、ラティナに会いに、この店に来てる﹂
804
﹁⋮⋮ふぇ?﹂
﹁ずっと、ラティナのこと、好きなんだ。⋮⋮それだけだから﹂
﹁ふぇ⋮⋮﹂
妙な声音で返答するラティナの顔を直視することが出来かねて、
ルドルフはそこまで言い切ると席を立った。
ルドルフが扉から外に出た瞬間、店内から、テーブルをひっくり
返したような、ものすごい大きな物音がした。だが、自分のばくば
くする心臓の音でいっぱいいっぱいになっていたルドルフは、それ
に気付くことはなかったのだった。
805
赤毛の少年と、白金の乙女と。壱︵後書き︶
このルディの告白エピソードは三回位で終わります。たぶん。
806
どうしたっ!?﹂
赤毛の少年と、白金の乙女と。弐
﹁なんだ?
物音に、ケニスが厨房から店内に飛び込むと、散乱した皿やグラ
スの中央にへたりこむラティナがいた。
﹁どうしたっ!?﹂
﹁ふぇっ!﹂
普通では無い状況に、強張った表情でケニスが誰何すると、何故
かお盆を抱き締めていたラティナは、びくん。と飛び上がった。そ
こで改めて、散乱した食器類をおろおろと見回し始めた。
﹁お⋮⋮落っことしちゃった⋮⋮ご、ごめんなさい⋮⋮っ﹂
﹁怪我は無いか?﹂
どうやら事件性はなさそうだと、表情と声を和らげたケニスが尋
ねる。ラティナは遅すぎるタイミングであるが、ようやく、食器類
が割れたことに気付いたようだった。
﹁ふわあぁ⋮⋮ごめんなさい、お皿、割れてる⋮⋮っ!⋮⋮⋮⋮痛
っ!﹂
ラティナは、反射的に破片へと手を伸ばし、びくりと手を引いた。
どうやら今の拍子に切ってしまったらしい。
﹁大丈夫か?﹂
﹁ちょっと切っただけ⋮⋮﹃回復魔法﹄あるから大丈夫⋮⋮﹂
﹁そのまま動かないで少し待ってろよ。今、掃除道具取って来るか
らな﹂
﹁ふえぇ⋮⋮ごめんなさい⋮⋮﹂
情けない声でがっくりと肩を落とすラティナを置いて、ケニスは
再び厨房へと戻って行った。
807
幼い頃から、﹃踊る虎猫亭﹄の手伝いをしていたラティナだった
が、このような大きな失敗をしたことはない。
ケニスは首を傾げながら、箒を掴んだ。
そして、そんな看板娘の失敗を目にした常連客たちもまた、ケニ
スとは異なる理由で、慌てていた。
彼らは、自分たちのアイドルである少女が、告白された瞬間を目
撃していた。
全ての客ではないが、彼らの最も愛する﹃この店の酒の肴﹄は、
看板娘の愛くるしい一挙一動だ。誰かしら、ラティナの様子は見て
いるのが、この店の﹃通常﹄なのだ。
そこで発生した﹃告白﹄だ。場合によっては制裁の対象となる少
年のその行動を、咎める隙も無く当の本人は店を出て行ってしまっ
たが、その直後のラティナのこの狼狽ぶりである。
揶揄う隙もなかった。
ファンクラブ
茶化す暇もなかった。
﹂
親衛隊発足以来、初の大事件なのであるが、突っ込みを入れ損ね
たのであった。
﹁ふきゃっ﹂
﹁ラティナっ!?
床にできた小さな水たまりに足を取られて、ぺちゃんと転んだラ
ティナの姿に、ケニスが再び慌てた声を出す。
誰もが初めて目にする、ラティナの姿なのであった。
その後も、心ここにあらずという状態で、ラティナはミスを連発
した。
808
例えば−−注文を忘れた。同じ品を客の元に運んだ。少し間を挟
んだ間に、自分がついさっきまで何をしていたのかを忘れて、キョ
ロキョロした。そして何度か、ぺちゃんと転んだ。−−といった具
合であった。
﹁ふえぇぇぇ⋮⋮ごめんなさい⋮⋮ごめんなさい⋮⋮っ﹂
その度に、情けない声を出して、赤くなった顔でぺこぺこと謝る
のである。
レア
希少なものを見た。−−と、彼女のそんなミスとぽんこつぷりす
ら許容する空気が、﹃踊る虎猫亭﹄の常連客の間に完成しているこ
とを実証したことが、何よりも業が深い﹃事件﹄であった。
﹁ねぇね。たまご、にがい﹂
﹁ごっ⋮⋮ごめんね、テオ⋮⋮﹂
こ
の
﹁ねぇねは、しかたないなあ﹂
﹁わふぅ﹂
翌朝も、ラティナのぽんこつ状態は続いていた。
いつもの朝食作りのオムレツも失敗して、半分はスクランブルエ
ッグになり、残りの半分は更に一部を焦がした。
パニクっ
オムレツを作るという、いつも通りの慣れた作業すら失敗した自
分に対して、更に混乱した−−という悪循環がもたらした結果であ
った。
テオはもぐもぐと朝食を食べながら、幼子の特権である遠慮の無
さで、思ったままの評価を口にする。
何故か上から目線であったが、横から見ていたヴィントも同意し
たことで、ますます情けなさそうにラティナは肩を縮ませた。
809
そんな一連の事態を引っ提げて、ラティナは朝の営業を終えた直
後、親友の家を訪れたのである。
﹁えーと⋮⋮今更?﹂
﹁今更なのっ!?﹂
通常よりも早い時間に訪れたラティナを、驚きの表情で迎えたク
デ
ィ
ロエは、昨夜の話を聞くと、開口一番そう答えたのであった。
ル
﹁まあ、あのヘタレなら⋮⋮告白しただけマシと言うか⋮⋮今更よ
え?
クロエ、知ってたの?﹂
うやくと言うか⋮⋮﹂
﹁え?
﹁知ってるも何も、たぶんラティナ以外、みんな気付いてたって﹂
﹁えええぇっ!?﹂
ラティナは驚きの声をあげてから、頬を赤くしたまま、何とか状
況を把握しようと試みる。
﹁夜祭りの時、久しぶりに会って⋮⋮そこで、とかなの?﹂
だが、ラティナから出た推測は、かなり見当違いのもので、クロ
エは静かに首を横に振った。
﹁違うって。ルディはずぅーっと、初恋を拗らしてたの﹂
﹁⋮⋮?﹂
更に首を傾げるという反応になった親友に、クロエは、はあっ、
と音をたててため息をついてみせる。
﹁ルディがラティナのこと、好きだって言うのは⋮⋮学舎通いする
前からだってば﹂
﹁えええぇっ!?﹂
わかってはいたが、予想通りのラティナの反応に、クロエの表情
は、より微妙なものになる。
﹁そんな、だって、ルディ、いつも意地悪ばっかりするし﹂
﹁わかりやすいね﹂
810
﹁私のこと、いっつも揶揄うし﹂
?
何がわかりやすいの?﹂
﹁うん。だから、わかりやすいよね﹂
﹁?
﹁うん。やっぱり、そこからなんだ﹂
ラティナの中に、﹁好きだからこそ意地悪をしてしまう﹂という
発想そのものが無いことは、長年の付き合いであるクロエは、薄々
察していた。
この天然娘は、自分たちが﹃常識﹄だと思っていることが、スコ
ンと抜けている時がある。たまに忘れてしまいそうな時があるが、
彼女は異種族人であり、生まれも他国である為に、価値観そのもの
が、ずれていることがあるのであった。
﹁ルディがあーいう態度取ってたのも、全部、照れ隠しみたいなも
じゃあ⋮⋮ルディ⋮⋮ずーっと⋮⋮?﹂
のだってこと﹂
﹁え⋮⋮?
﹁そう。ずーっと﹂
﹁全然⋮⋮気付かなかった⋮⋮﹂
﹁まあ。ルディも気付かれていないことに、ちゃんと気付いてたし
ね﹂
﹁クロエ⋮⋮さっき、﹃みんな﹄って言ってたけど⋮⋮﹂
﹁そう、﹃みんな﹄。シルビアだけじゃなくって、マルセルもアン
トニーも。⋮⋮他の奴らも気付いてたんじゃないかな﹂
﹁ふえぇぇぇ⋮⋮﹂
赤い顔で、なんだか泣き出す前のような表情をして、ラティナは
おろおろと視線を泳がせた。
﹁今度みんなと、どんな顔して会ったら良いか、わかんない⋮⋮﹂
﹁その前に、ルディと会うこと、考えてあげなよ﹂
811
﹁ふえぇ⋮⋮っ!
そうなの、ルディ、最近毎日お店に来るの⋮⋮
っ。どうしよう⋮⋮﹂
﹁⋮⋮だから、ラティナに会いに来てたんでしょ﹂
﹁そ、そう、言ってた⋮⋮どうしよう⋮⋮っ﹂
心底戸惑った様子で、狼狽えるラティナは、親友としても驚く事
態だが、本当にこういった状況に免疫が無いようだった。
︵とりあえず、過保護過ぎるんだよね。ラティナの周りは︶
クロエは呆れ半分の表情のまま、もう一度ため息をついた。
これだけ美少女で、何処に出しても自慢の親友だと、クロエとし
ても胸を張れるラティナだが、今の今まで、異性から告白されると
いう状況になったことはなかったらしい。
⋮⋮どんな顔したら良いかな⋮⋮?﹂
周囲が徹底的に排除していたとしか、考えられない。
どうするって?
﹁で、どうするの?﹂
﹁⋮⋮?
﹁そうじゃなくって、ルディのこと。どうするの?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮ルディは、聞いて欲しかっただけって、言ってたけど⋮
⋮﹂
﹁それで良い訳ないじゃない。どう返事するの?﹂
﹁⋮⋮やっぱり⋮⋮返事しないとダメだよね⋮⋮﹂
ラティナは困りきった表情で、視線を下に向けた。
﹁考えたことなかったの。ルディが私のこと、好きだなんて﹂
﹁⋮⋮うん﹂
﹁どうして、私なのかな?﹂
﹁⋮⋮それはルディに聞くべきじゃない?﹂
﹁⋮⋮だって⋮⋮私は、魔人族で、寿命も違うし⋮⋮赤ちゃんも作
れないし⋮⋮﹂
812
﹁あのさ、ラティナ。本来ならラティナの方が言うべきじゃないの
?﹂
﹁⋮⋮?﹂
魔人族みたいに、長い寿命を
クロエの問いかけに、ラティナは少しだけ視線をあげて、親友の
顔を見上げた。
わたしたち
﹁ラティナは﹃人間族﹄で良いの?
持たないし、魔法を使えるとは限らない、弱い種族だよ﹂
﹁クロエ?﹂
﹁ラティナは自分のこと、下に考え過ぎってこと。美人であるのは、
それだけで特権なんだから。その上、﹃いつまでも若い綺麗なまん
まなんて、男の理想でしょ﹄位でいても良いんじゃない﹂
﹁ふえぇ⋮⋮?﹂
もちろんこの親友がそこまで達観できるとは、クロエ自身、思っ
てはいない。それでも、一応口に出してみる。
﹁ラティナは、自己評価が低過ぎるの﹂
﹁だって⋮⋮私⋮⋮﹂
﹁私の﹃大切な親友﹄だよ。﹃大切な親友﹄を低く言うような輩は、
私が許さない。それがラティナ当人でも、許さないからね﹂
﹁クロエ⋮⋮﹂
﹁それともラティナは、私に人を見る目が無いって言いたいの?﹂
﹁ううん﹂
慌てたようにぷるぷると首を振ったラティナに、ほんの少しだけ
表情を緩ませて、クロエは言葉を続けた。
﹁ラティナが故郷でどんな目にあったかは、知らない。私が知って
るのは、クロイツで出会った﹃大切な親友﹄のことだけ。でも、そ
れだけで充分だし、それだけでも胸を張って、ラティナのこと大事
なんだって言える﹂
﹁クロエ⋮⋮﹂
813
﹁だから、自信を持って良いの。自分を馬鹿にするような発言ばっ
かりしたら、ルディのことも馬鹿にしてるようなもんでしょ﹂
ルディ
﹁うん⋮⋮わかった。⋮⋮ちゃんと、考える﹂
﹁まあ。あいつが馬鹿なのは、事実って言えば事実なんだけど﹂
﹁ふぇっ!?﹂
真面目な顔で、幼なじみを貶める発言に繋げたクロエに、ラティ
ナは驚きで、深刻さを一瞬忘れた。
思った通りのラティナの反応に、内心の笑いを押し留めながら、
クロエは親友へと、意地の悪い笑顔を向ける。
﹁次、シルビアと会う時はこの話で盛り上がるから、覚悟していて
ね﹂
﹁ふえぇ⋮⋮﹂
真っ赤になって慌てる親友が、どうやらいつも通りの彼女に戻り
つつあることも察して、クロエは更に何を言って揶揄おうかと、思
考を巡らせた。
真面目過ぎる親友は、周囲が、たまに混ぜ返してあげる位で丁度
良いのだ。それが長年﹃親友﹄をやっているクロエの主張なのであ
る。
814
赤毛の少年と、白金の乙女と。参
新たな客の気配に視線を向けて、反射的に声を出す。
﹁いらっしゃいま⋮⋮﹂
その相手がある意味﹃待ち人﹄であることに気付くと、ラティナ
は今度は落としたりしないように、お盆を持つ手に力を込めた。
﹁⋮⋮ルディ﹂
﹁⋮⋮よお﹂
互いにぎこちなく応対する少女と少年に、店内全ての人間の関心
が向いてしまうのも、昨日の今日では、仕方の無い状況なのかもし
れなかった。
クロエの家から戻った後、ラティナは素直にケニスに昨夜のこと
を相談した。
幼なじみに告白され、それで動揺して、調子を崩したことも話す
と、改めて昨日からの失敗の数々を謝罪した。
﹁⋮⋮たぶん、今日もルディ来ると思うの。そこで少しお仕事抜け
て、お話しても良いかな?﹂
﹁⋮⋮わかった。その時は声を掛けろ﹂
酔っぱらい
ケニスはため息を押し殺して、そう答えた。店内で彼女の﹃お話﹄
をされた日には、あの客どもがどんな反応をするか、予想がつかな
い。少なくとも、相手の少年の心の傷を、今後とも抉らせるような
トラウマ事項とさせる訳にはいかないだろう。
何しろ﹃相手﹄は、彼女にとっても親しい﹃幼なじみ﹄という﹃
特別枠﹄の人物なのだから。
︵とうとう、来てしまったか︶
815
その思いで、ケニスはため息を連発しそうだった。
今の今まで、ラティナの周囲に、彼女に好意を寄せる若い男たち
が群がらなかったのは、﹃保護者たち﹄が睨みを利かせていたのと
同時に、彼らの間にも﹃抜け駆け禁止﹄の空気があったからだった。
それが、﹃最初のひとり﹄が現れたことで、今後崩れていくだろ
う。
︵こうなる前に、デイルにも、はっきりして欲しかったんだがな⋮
⋮︶
ラティナに懸想する連中が、最も﹃活性化﹄するのは、デイルが
留守の時だ。
幼いままではいられないラティナを、今後どこのラインまで守れ
ば良いのか。どこから彼女の﹃経験﹄だと、任せれば良いのか。
デイルが留守の間、ラティナの最大の後ろ盾である﹃師匠﹄であ
るケニスも、現在岐路の上に立つ自覚をしていたのである。
ルドルフを誘って店の裏手、厨房から続くそこへと誘う。
いつもテオとヴィントが遊ぶ裏庭のようなそこには、店の表側に
は無い、生活感のようなものが漂っていた。
そこでラティナは、ぎこちなく言葉を切り出した。
﹁あのね⋮⋮あのね、ルディ⋮⋮昨日の⋮⋮﹂
﹁⋮⋮おう﹂
﹁びっくりしたの。私、全然気付かなかったから﹂
﹁⋮⋮わかってる。ラティナが俺のこと、そういう目で見たこと無
いこと、気付いてたから﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁ラティナがずっと、誰を見てたのかも、知ってる。だから、返事
して貰おうとは、思ってなかった。⋮⋮でも、気持ちだけでも、伝
えておこう。そう、思った﹂
816
﹁ルディ⋮⋮﹂
ラティナは恥ずかしそうに頬を染めて、少し上目遣いで、彼が予
想はしていたものの、﹃一番聞きたくなかった﹄言葉を口にした。
﹁ごめんね、ルディ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
掠れた声でも、答えることが出来たのは、それがある程度﹃わか
っていた﹄答えだったからだろう。
﹁ごめんね、私、デイルが好きなの﹂
﹁⋮⋮知ってる﹂
﹁まだ、デイルに、子ども扱いされてて、全然、相手にもして貰え
ないけど、諦められないの﹂
﹁⋮⋮知ってる﹂
﹁だから、ごめんね。私⋮⋮ルディの気持ちには、そう答えること
しか、出来ないの。でも﹂
少し、ぎこちなく。普段とは少しだけ異なる、どこか魅惑的な微
笑みを、ラティナはルドルフへと向ける。
﹁ありがとう、ルディ。⋮⋮私のこと、好きになってくれて⋮⋮あ
りがとう﹂
上気した顔も、潤んだ眸も、甘く優しい声も−−今のラティナが
浮かべるものは、﹃自分が向けて欲しかった﹄ラティナの姿だった。
だから、ルドルフはもう少しだけ﹃頑張る﹄度胸が持てた。
﹁諦められないのは、俺も同じだから﹂
そう言って、真っ直ぐラティナの眸を見る。
たぶんラティナに負けじと赤くなっているだろう自覚はあるが、
声を震えさせることはなかった。
﹁ルディ⋮⋮?﹂
817
﹁ラティナが誰を好きなのかも。ラティナが、まだ、相手にされて
ないってことも、知ってるから⋮⋮ラティナが諦めても、良いって
時まで、待つつもりだから﹂
﹁⋮⋮っ﹂
﹁その時、俺のこと、思い出してくれれば、良い﹂
ちらり、と、店内の明かりを反射して、ルドルフの胸元で光が見
える。
もの
それが何であるか、彼女がわからない筈は無い。
かつて自分の一部であった存在。それを大切に彼が持っていてく
れる理由も、彼女はようやく理解した。
細い指を伸ばして﹃それ﹄に触れると、距離が近くなったことに、
ルドルフがびくりと、身体を強張らせた。
﹁ありがとう、ルディ﹂
感謝と、喜びの想いを、﹃かつての自分の一部﹄へとのせる。
﹁ごめんね。でも、本当に、ありがとう⋮⋮﹂
−−彼女の指が離れても、何故か仄かなぬくもりが残されたよう
な気配がした。
ラティナが﹃踊る虎猫亭﹄の中に戻るのを、見送ると、ルドルフ
はずるずると背中を壁に付けて座り込んだ。
﹁⋮⋮っ!﹂
声は、飲み込む。
ラティナから伝えられるだろう言葉がわかっていても、辛くない
筈がない。苦しくない筈がない。
それでも、自分の想いを伝えたことを後悔はしていない。﹃ただ
の幼なじみ﹄から、自分のことを﹃異性﹄だと意識して貰えただけ
で、現状では上々だ。−−そう、自分に言い聞かせる。
ラティナの前では虚勢をはり続けた。
なんとか、そうすることが出来た。
818
好きな彼女の前で、情けない姿は見せたくない。追い付きたい﹃
背中﹄に、負けたくない。格好をつけることが、今のルドルフにで
きる最大限の﹃精一杯﹄なのだった。
﹁もう、良いのか?﹂
﹁うん﹂
厨房に戻ると、ケニスが心配そうに、声を掛けてくる。ラティナ
はそれに頷きながら答えた。
ラティナはずいぶんすっきりとした様子で、落ち着きを取り戻し
ている。デイルと関係を拗らせる前の、彼女に戻った様子だった。
仕事をてきぱきとこなす姿も、陰りのない笑顔も、元のものだ。
﹁デイルにちゃんと伝えようって、決めたの﹂
﹁わふ?﹂
屋根裏部屋で、伏せていたヴィント相手に、寝間着に着替え髪を
とかすラティナは、そう言った。
そばにいた幼なじみの気持ちに、気付かなかった自分。
デイルに足りない言葉で、想いを伝えたつもりになっていたなん
て、とても都合が良いものであることも、自覚した。隣にいつもい
ても、気持ちの全てがわかる筈なんて無いのだ。
簡単に諦められない想いなら、何度でも、挑まなければならない。
簡単に、デイルに受け入れて貰える想いだなんて、自分でも思っ
ていなかった筈だ。
﹁もう一回、ちゃんと頑張るの。次がダメでも、また頑張れば良い
の﹂
﹁わん﹂
﹁その前に、デイルにごめんなさいって言わないと。困らせて、ご
めんなさいって。そして、ちゃんとやり直すの﹂
819
ヴィントに、もぎゅ。と抱き付いても、その表情には、悲壮感も
辛さも既に無い。ただ、はっきりとした決意だけを眸に宿していた。
﹁デイルに﹃子ども﹄だって思われていることだって、私、わかっ
ていたんだもん。それくらいじゃ、へこたれちゃダメだったの﹂
﹁わふ﹂
﹁だから、また、明日から頑張るの﹂
自分の想いが諦められないものだと、再確認した。
へこたれて、いじけている暇などなかったのだ。
まだ﹃理想の大人の女性﹄には、程遠い自分なのだ。もっともっ
と頑張ってもまだ足りない。
それでも、自分のことを﹁好き﹂だなんて言ってくれるひとだっ
ているのだ。自惚れることはできないけれど、少しだけ、自信を持
とうと決めた。頑張ってきたことは、無駄などではないのだ。
﹁諦めるつもりは、無いもん。それなら、頑張るしか無いのっ﹂
﹁わん﹂
応援してくれる﹃友だち﹄のぬくもりを感じながら、ラティナは
決意を改めたのであった。
−−その数日後。
クロイツの﹃踊る虎猫亭﹄の元に、王都から一通の手紙が届いた。
そこには、デイルが病に倒れたと、簡潔な文章で記されていたの
であった。
820
青年、療養中。壱︵前書き︶
この作品には、警告タグが付いております。悪しからず。
821
青年、療養中。壱
もの
﹃病気﹄には、回復魔法は効かない。そしてありとあらゆる﹃病﹄
を束ねる存在は、﹃四の魔王﹄である。−−というのは、誰もが知
る当たり前の﹃常識﹄だった。
病をもたらすものは、﹃四の魔王﹄の魔力−−独自の能力を有す
ることから﹃魔素﹄との呼称を以て呼ばれている−−と、考えられ
ている。
正式には﹃魔素障害﹄と呼ばれるそれは、対象の魔力や生命力と
いった﹃気﹄の流れを狂わせる。干渉するべきそれらが乱れている
為に、直接魔法で治すことが困難になるのであった。場合によって
は、﹃魔法﹄の干渉が悪い方向に働く場合もある。
その為、症状を薬で抑え、可能ならば﹃体力回復﹄の系統の回復
魔法を併用しながら、魔素による影響が身体から抜け、本来の﹃気﹄
の流れに戻ることを待つしか無い。
ニーリー
﹃魔素障害﹄以外の病気には、回復魔法が効くものもあるのだが、
それは一見してわかるものでも無く、﹃藍の神﹄の神殿という、専
門機関に判断を委ねる必要があるのであった。
ごろごろと宛がわれた大きなベッドの上で、だらしなく身体を伸
ばしたデイルは、手にしていた分厚い書籍を、ぽいと隣に投げた。
﹁あー⋮⋮飽きた⋮⋮﹂
療養の為、大人しく寝ている生活に、三日目で既に飽きた、デイ
ルなのであった。
﹁身体動かしてぇ⋮⋮剣は、さすがにばれるだろうけど⋮⋮トレー
822
ニングくらいなら⋮⋮﹂
普段、仕事で公爵邸に滞在する期間も、デイルは書籍などを以て、
公爵家という最高峰の環境で得られる、最新の知識に触れていた。
些細なことで軽んじられるような貴族相手の﹃仕事﹄である。付
け入られる隙を簡単に与えるつもりはなかった。
その為、デイルはかつてコルネリオ師父に受けた教育を背景に、
今でも折を見ては、﹃学習﹄を続けているのであった。
それでも、それしか出来ないという状況は、飽きがくる。
﹁よし、なら⋮⋮こっそり⋮⋮﹂
﹁お前がそう言い出す頃だと、使用人から連絡があったぞ﹂
扉を開けて遠慮なく入室してきたグレゴールが、呆れた声音を滲
ませて言う。
グレゴールの気配には、とっくに気付いていた。だからこそわざ
とらしく、デイルはごろごろと転がりながら、うらめしそうな顔を
友人へと向けることで応じる。
﹁飽きた﹂
﹁ローゼの﹃加護﹄による治療で、魔素の影響が最小限に抑えられ
ていても、治ったわけではないことも、お前ならわかっているだろ
う﹂
﹁わかっているから、大人しく寝てるだろう⋮⋮﹂
﹁お前の判断で隔離していた、二人の罹患者も、快復期に入ったそ
ニーリー
うだ。ローゼも、お前の対応に感心していたぞ﹂
﹁ウチの田舎じゃ、﹃藍の神﹄の神殿は無いからな⋮⋮薬学と病理
学も、自衛の為に、ある程度修めとく必要があるんだよ﹂
それは、かつて﹃一族の次期当主﹄として受けた教育の一部だっ
た。一族を護るべき当主として、デイルが受けた教育は、多岐に渡
る。
823
そして、そんな教育を当たり前に受けさせる土壌があるのが、周
辺諸侯に恐れられるティスロウという一族なのである。
実力主義のエルディシュテット公爵の眼鏡にかなったのは、それ
らの深い教養も影響していた。
﹁﹃二の魔王﹄には、してやられたという結果だったがな。隠蔽で
保身に走った該当者は、父上が制裁を与えると仰っていた﹂
﹁なんかそれは、相手に同情できそうだな⋮⋮﹂
﹁周囲の集落も確認したが、特に異常は無く、罹患者も出なかった
ようだ。明らかな異常事態に、好奇心を出さず、慎重に距離をおい
た結果だろうな﹂
﹁ある意味、隠蔽工作の為に、街道を封鎖したってのも、良い方向
に働いたのかもしんねぇよな﹂
クロイツから王都に着いたデイルは、そのまま任務に就くことに
なった。
誘拐された後、連れて行かれた先で﹃二の魔王﹄と遭遇したロー
ゼの証言の確認である。赴いた先で﹃魔王﹄と遭遇する可能性があ
る以上、本来なら斥候隊に先行させるところではあるが、﹃勇者﹄
の能力者であるデイルの同行を必要としていたのであった。
ローゼの証言を元に割り出した該当する集落は、街道が封鎖され、
﹃なかったこと﹄にされていた。
一夜にして村人全てが惨殺され、確認に向かった者も戻らない明
らかな異常事態。この地を治める地方貴族は、エルディシュテット
公爵の言うところの﹃小者﹄であるが故に、確認することや国に報
告することよりも、隠蔽という選択をしたらしい。
一見すると、集落の中は﹃綺麗﹄だった。
824
ただ、えもいわれぬ不快感が、空気として漂っている。ひとの気
配ひとつしない静寂さが、当たり前の田舎の光景と、あまりにもそ
ぐわない。
それが、建物を開けて確認する度、﹃異常さ﹄を露にする。
どの死体も、﹃遊ばれて﹄いた。
・
・
・
幼子が玩具を並べるように。玩具を弄ぶように。−−おそらく﹃
二の魔王﹄にとって、それらは紛れもない﹃玩具﹄なのだろう。
・
・
ある一軒の家の中で、壁というキャンパス一杯に描かれた、原型
を留めぬ程に擂り潰されたそれを絵具として用いた、﹃芸術﹄の姿
には、戦場に慣れた一行も表情を歪めた。
全てが、建物の、場合によってはその中の一室のみで行われてい
る凶行だった。
だからこそ、この惨殺の舞台は、一目見ただけでは何ごとも無い
ように、ただ静寂さを纏っているのだった。
緊張感をはらんだまま、目的の館−−かつて豪商の別荘として建
てられたことが調べた結果わかった−−に到着する。
扉を開けた瞬間広がっていた予想外の光景に、彼らは一瞬判断に
迷った。
ローゼの誘拐犯たちの惨殺の舞台となった玄関ホール。そこには、
おびただしい数の死体は−−なかった。
肉片ひとつ残さず片付けられ、壁にも血糊ひとつ飛んでいない。
ただどす黒く変色したカーペットの染みだけが、この場で起こった
ことを証明していた。
そして、時間の経過を感じさせない、傷んだ様子の無い﹃若い女﹄
の死体が、飾りたてた豪華な衣装を着せられて、彼らを迎えるよう
に、腰掛けていた。
825
罠だ。と、はっきりしている状況。
それでも、﹃彼女﹄がローゼの侍女だと推測されることから、確
・
・
認しなくてはならない。
・
・
−−結果として、それはやはり罠であった。
高濃度の﹃魔素﹄を仕込まれたそれは、病の爆弾という効果をも
って、彼らの目前で四散したのである。
逃したローゼの性格から、必ず確認に再訪するだろうということ
を見越した、﹃二の魔王﹄の﹃置き土産﹄だった。
先行した二人の斥候が、直撃した。
後ろにいた残りの者たちは、﹃一流﹄の名に恥じぬ迅速な判断で、
簡易式の﹃障壁﹄と、正しく周辺を隔てる為に﹃発生元﹄を囲む障
壁という二重の魔法で、難を逃れた。
結局﹃二の魔王﹄の姿も、それに繋がる手掛かりも無く、﹃二の
魔王がここにはいない﹄という現状を、確認するに留まる結果とな
った。
最終的に、領主の判断と同じかたちで、この集落は放棄されるこ
ニーリー
とになった。高濃度の魔素がその能力を失うまでには、途方も無い
時間が必要となる。高位の﹃藍の神﹄の神官が幾人も浄化作業に当
たれば、可能とはなるが、それも一朝一夕に行えるものではなかっ
た。
罠の直撃で、﹃魔素障害﹄に陥った二人の治療にあたったのは、
デイルだった。
高位の加護持つ神官などは、﹃魔素障害﹄になり難いという特徴
をもっている。﹃最善﹄がそれであると、デイルは即座に判断を下
した。
彼らは、治療にあたるデイルと、罹患した二人を、馬車を以て隔
826
ニーリー
離した状態で、王都−−最高位の﹃藍の神﹄の神殿−−へと戻った
のである。
ニーリー
その過程で、デイルもまた、軽度の﹃魔素障害﹄にかかることに
なった。とはいえ王都には、ローゼを始めとした高位の﹃藍の神﹄
の神官が多数いる。治療に最高の環境が整っているのもまた、この
都市なのである。
その為、重症化することも無く、病らしい症状もほとんど出てい
ない体調で、デイルは退屈な療養生活を強いられていたのであった。
﹁クロイツには、連絡入れてくれたか?﹂
﹁一応、最低限の状況は伝えたが⋮⋮お前自身で私信を綴れば良い
だろうに﹂
﹁あー⋮⋮俺、さぁ⋮⋮報告書は書けるんだけど、手紙って微妙に
苦手で⋮⋮それに、今、なんとなく、送り難いって言うか⋮⋮﹂
﹁⋮⋮痴話喧嘩でもしたか﹂
﹁ち、違っ⋮⋮﹂
わかり難いテンションではあるが、グレゴールとしては珍しく挟
んだ﹃冗談﹄だった。だがそれに、デイルは過剰に反応した。
ベッドからガバッと起き上がり、グレゴールに押し返されて再び
横になる。
そんな彼の反応も含めて、グレゴールは、今回、呼び出される前
にデイルが王都を訪れたという、不可思議な行動から始まる一連の
彼の言動が−−彼の養い子が原因だと確信するのであった。
−−本来、呼び出されても、養い子と離れたくないと、駄々をこ
ねるデイルが、自主的に王都を訪れた。そのこと自体考える、不審
を抱かせるには充分過ぎる﹃異常事態﹄なのである。
827
青年、療養中。壱︵後書き︶
﹃回復魔法﹄では﹃病気が治らない﹄という設定説明であります。
相変わらず、ざっくりとした設定となっております。
828
青年、療養中。弐
﹁何かあったのか?﹂
﹁う⋮⋮﹂
口ごもりながらもデイルは、友人相手に、簡潔に事態を語る。
他にすることも無いし、何度もぐるぐると回るそのことが、頭の
中を占めているのだった。吐き出させて貰えるならば、そうさせて
貰おう。
﹁ラティナが⋮⋮﹂
﹁ああ﹂
﹁俺のこと、ほら、なんつぅか⋮⋮異性として、考えてるって⋮⋮
告白された﹂
﹁そうか﹂
﹁あっさりしてるな⋮⋮﹂
﹁まあ。不思議でもない話だろう﹂
淡々としたグレゴールの返答に、デイルは微妙な顔で更に言葉を
継いだ。
﹁それに動揺して、ちょっと頭冷やそうと⋮⋮飛び出して来た﹂
﹁子どもか﹂
・
﹁反省はしてる⋮⋮﹂
・
自分でも、あれは無いな、と思う。動揺して衝動的に飛び出して
しまったが、丸一日が過ぎた頃には、いくら何でも、あの行動はな
かったと、思い至る程度には頭が冷えていた。
とはいえ、そこからすごすごとクロイツに戻る訳にもいかず、予
定通りに王都へと向かったのである。
829
﹁俺はこれから、ラティナとどうしたいのかって聞かれて⋮⋮今ま
で、考えないようにしてたってことを自覚した﹂
﹁そうか﹂
グレゴールは、デイルの話が長くなりそうだと、侍女を呼んで茶
の用意を命じた。自身は、彼のベッドの横に椅子を置いて腰掛ける。
﹁⋮⋮そこで改めて、気付いたんだけどさ﹂
デイルはそこで、本当に微妙な表情になった。
﹁俺とラティナ。10歳そこそこしか、離れてねぇんだなって﹂
﹁今更だな﹂
﹁そうなんだよ﹂
本当に今更な、基本的な情報なのであった。
﹁ほら、ラティナ、初め本当にちっさくて。いつも俺の膝の上で、
にこぉっ、ってしてたから、その印象強すぎたんだけどっ。⋮⋮改
めて考えると、せいぜい歳の離れた兄弟位で⋮⋮親子の歳の差じゃ、
ねぇんだなぁって⋮⋮﹂
﹁⋮⋮俺が彼女と、初めて会ったのは、つい先日のあの時だが⋮⋮
お前の話の印象だと、本当に小さな幼子といった具合だったから⋮
⋮驚きはしたな﹂
グレゴールは、先日クロイツで会ったラティナの姿を思い出す。
彼の目から見たラティナは、未だ外見には幼いという印象はあるが、
それを以ても余りある、落ち着いた物腰の大人びた少女だった。
﹁そうだろ。ラティナ、可愛いだろっ﹂
﹁⋮⋮まあ、確かに﹂
﹁だろぉ﹂
そこでデレっと表情を緩めるのは、以前から全く変わらないデイ
ルなのであった。
830
﹁改めて考えるとさ⋮⋮そんくらい離れた夫婦ってのは、珍しくも
無いんだよな⋮⋮﹂
デイルはそう言って、表情を真面目なものに戻す。
彼の﹃兄貴分﹄たるケニスとリタの夫婦も、その位離れた夫婦な
のだ。幼い頃は大きな差だと思われても、年齢を重ねるうちに、気
にならなくなる、その位の差なのだった。
﹁最初の出会いが幼すぎたんだよな⋮⋮だから、その印象を引き摺
っていたんだけど⋮⋮もう、ラティナは、﹃子ども﹄じゃなくなっ
ちまうんだよな﹂
ふう、とため息をついて、デイルは視線を泳がせた。
﹁﹃保護者﹄であっても、﹃他人﹄で﹃男﹄である俺が、ラティナ
と常に一緒にいるっていうのは⋮⋮しちゃならねぇこと、なんだよ
な﹂
﹁⋮⋮下衆な勘繰りをする輩というのは、何処にでもいるからな﹂
﹁そうだよな。俺が、ラティナの﹃保護者﹄なら、俺が考えるべき
ことだった⋮⋮﹂
ケニスが﹃ラティナの想いを受け入れるか、はっきりしろ﹄と迫
ったことを考えているうちに、同時に、その裏にある﹃受け入れな
いのならば、その立場も明確にしろ﹄ということにも、考えが至っ
た。
このまま自分が、﹃保護者﹄のままでいることを選択するならば、
きちんと彼女との間に線を引く必要があるということだ。
彼女が﹃大人﹄になる前に、明確な﹃距離﹄を開けなくてはなら
ない。周囲が悪意ある推測を彼女に向ける前に、芽を摘まなくては
ならない。
男である自分は、どんな下卑た噂を向けられても、何とでもなる。
でも、﹃女の子﹄である彼女に、そんなものを向けさせることにな
ってはならなかった。
831
・
・
﹁ラティナと俺。べったべたしてるの、普通だし﹂
﹁お前⋮⋮﹂
﹁客観的に見たらそれは、まぁ⋮⋮そーいう関係にも、見えるよな﹂
﹃幼い子ども扱いをしている﹄というのも、確かに自覚すればそう
なのだろう。自分は全く意識もせずに、彼女とひとつ布団で安眠し
ていたりするのだから、そうなのだ。
年頃になった﹃女の子﹄相手に、する行動ではない。
﹁それで、お前はどうしたいのだ?﹂
﹁んー⋮⋮﹂
侍女が用意をした、茶器を口元へと運ぶグレゴールを横目に見て、
デイルは言葉を選んだ。
﹁俺は、たぶん⋮⋮ラティナと一緒に居たいんだよ⋮⋮な。これか
らもずっと⋮⋮ラティナが誰かのものになるのは嫌だし、このまま
俺のそばに居て欲しいって思ってる﹂
それが、たぶん、自分の中の一番シンプルな答えだ。
周囲から見ても、はっきりしていた、シンプルな望みだった。
﹃いつか死ぬこと﹄を受け入れて、何も求めようとしなかった﹃自
分﹄が、唯一望んだ﹃存在﹄、それがラティナだった。
今でも﹃いつか遺して逝くこと﹄は、心苦しい。だが、それも受
け入れてくれるのならば−−その限りある時間だけでも、自分の我
が儘に付き合って貰えるだろうか。隣で幸せそうに微笑む﹃癒し﹄
でいてくれるだろうか。
﹁それなら、﹃そうする﹄のが、一番手っ取り早いんだよな⋮⋮﹂
832
問われて、思い至ってしまったのだ。
今よりも、もう少し大人になった彼女が−−自分の隣で幸福そう
に微笑んでくれるのなら−−それは、なんて幸福な未来なのだろう
かと。
その、﹃幸福﹄を与えるのが、他でもない自分であるならば、代
えるべきものはないのだと。
自分が誰よりも、幸せにしてやりたい少女を、幸せにする役目は、
自分自身でも良いのだと、思い至ってしまったのだ。
﹁元々、俺⋮⋮自分は、政略結婚することになるだろうって思って
いたんだけどさ﹂
﹁ああ﹂
グレゴールも特異な﹃一族﹄であるティスロウのことは知ってい
る。﹃ティスロウ﹄は、ラーバンド国内の下位の貴族よりも、よほ
ど力を有する﹃一族﹄なのだ。公爵家として、注意を払わぬ理由が
無い。
デイルは、一族の次期当主の義務として、一族の益となる相手と
縁を結ぶ為の政略結婚を受け入れることに、何の疑問も持っていな
かった。
年齢や美醜はもとより、場合によっては初めて会う相手と婚姻を
結ぶことになったとしても、そういうものだろうと達観していた。
﹁感情は別にして、どんな相手だったとしても、誠実ではあろうっ
て思ってたんだよな。それこそラティナより年下の相手でも、気に
するつもりはなかった﹂
﹁政略結婚ならば、珍しくもないな﹂
﹁そうなんだよ﹂
次期当主の役割を弟に委ねて、そのしがらみからは逃れたが、自
分の﹃結婚相手﹄を探すという考えには至らなかった。
833
﹁だからきっと、﹃俺の大切なラティナ﹄と、一緒に居られる選択
は、俺にとっても﹃幸福﹄な選択だ﹂
じゅみょう
周囲が五月蝿く言うのは、自分のことを心配していたのだろう、
ということにも、想像がつく。
ラティナは﹃魔人族﹄だ。
﹃人間族﹄である自分たちよりも、ずっと長い時間を持っている彼
女。その彼女の幸福を見守ることが、自分の幸福だと、それに時間
を費やしていけば、だんだんと﹃時間の差﹄が現れていくだろう。
︵気がついたら、俺は爺ぃになってるんだろうからなぁ⋮⋮︶
﹃若いままの彼女の隣で、自分自身の幸福を二の次にして、年老い
ていく自分﹄という姿を、周囲は容易く想像してしまえるのだろう。
心配させる理由になる。
冷静に考えれば、自分自身そうなる未来しか見えない。
﹁でも、それはそれとして、置いといて﹂
﹁は?﹂
デイルの声のトーンが変わる。呆気に取られたように聞き返した
グレゴールに、デイルはいつも通りの気楽な口調で答えた。
﹁まぁ、それは、まだ、﹃先の話﹄だ﹂
﹁⋮⋮そうなのか﹂
﹁だってラティナ、まだ﹃子ども﹄だからさぁ﹂
デイルは、宙に浮かせた手の動きで、なだらかな曲線を示す。ほ
とんど起伏の無いその曲線が何を意味しているか、グレゴールも聞
き返すことはなかった。
﹁本格的に﹃どうするか﹄ってのは、ラティナがもうちょい育って
834
からだよなぁ﹂
デイルには、﹃少女﹄を対象にする性癖は無い。
そのこともあって、困ったようにデイルが浮かべる笑いは、照れ
と本心からの苦笑が半々ずつといった様子であった。
そこに、ノックの音が響く。
グレゴールが応じると、部屋に入って来たひとりの侍女は、この
館の使用人らしからぬ慌てたような気配を発していた。
静かな声の報告を聞いたグレゴールも、表情を驚きのものに変え
る。
その理由をデイルが聞き返す前に、﹃その理由﹄が室内に入って
来る。
グレゴールは直立することで応じたが、ベッドの上のデイルには、
身形を調える暇は無かった。
起き上がり、畏まろうとするデイルの動きを、相手が片手ひとつ
で制する。
﹁父上﹂
グレゴールがそう呼ぶ相手は、白髪の老境に差し掛かった人物だ
った。グレゴールの父親と言うだけあって、整った容貌をしている。
存在するだけで、周囲の姿勢を正させる風格を有している男性だ
った。恐ろしげな表情をしている訳ではない。どちらかといえば、
穏やかそうな印象の方が強いだろう。だがそれだけの筈が無いのも、
明らかだった。
エルディシュテットの家名を背負う男性。この国でも、王に次ぐ
権力を有する男なのだ。
その彼が、わざわざ自分の元に、足を運んだ理由が思いつかなく
て、デイルは困惑したのだが、それは、一瞬にして−−吹っ飛んだ。
835
公爵閣下の背中に隠れるようにして、見慣れた白金色の輝きを戴
く少女が、彼を見ていたのだった。
836
青年、療養中。弐︵後書き︶
次話、直接対決。
837
青年、療養中。参。
﹁どうやら、容態は安定したようだな﹂
﹁はい﹂
動揺で、脳内はぐわんぐわんしているというか、ぐるぐるしてい
るというか。とりあえず混乱の極致まで押し上げられているのだが、
ぬし
それでもデイルは、表面上は取り繕って、公爵の言葉に答える。
﹁噂に名高い主の﹃愛娘﹄が、来ておるぞ。心配をかけおってから
に。愛されておるなあ﹂
﹁⋮⋮は﹂
上手い返しも思いつかなくて、短く応じる。
絶賛混乱中の脳内は、それどころではないのだ。
色々な意味で、まだ心の準備が出来ていない。
︵⋮⋮逃げたら、駄目か?︶
情けない結論が、ちらりと浮上してきたのを、全力で沈め直す。
﹁公爵閣下におかれましては、過分な厚情を賜り、深く御礼申し上
げます﹂
見慣れている筈の少女が、見慣れない姿で、エルディシュテット
公爵相手に礼の言葉を述べている。
﹃普通﹄の平民であるならば、御前に立つことすらままならぬ雲上
人相手だと言うのに、緊張した様子は有っても、挙動のひとつひと
つに、震えも怯えも無かった。
教えたことの無い、正式な動作で礼をする。
その凛とした美しい容貌も合わせて、気品ある振る舞いであると、
上流階級の者も認めるだろう姿だった。
838
﹁構わぬ。目の保養となったわ﹂
目元を優しげに緩めて、公爵が答えるのを意識の隅で理解しなが
・
ら、デイルは、少女に付き従ったモフモフが、ぱふんぱふんと、尾
を振る姿にも気付いてしまった。
危うく吹き出すところだった。
・
彼女がいくら可愛らしくとも、それだけではあの公爵閣下が興味
を持つことはないだろう。見目麗しい姫君なら、上流階級には、天
然物かは別にしてそれなりに居るのだから。
ということは、それだけではない﹃興味﹄を抱くだけのものを、
彼女は示してしまったということだ。
まずひとつは、﹃自分の養い子﹄だと言うことだろう。
自分の最大の弱点にして、最大の﹃逆鱗﹄だ。下手に触れば、全
力で報復するとは常々伝えてある。
彼女の長い髪が、珍しい色彩であるということも、興味は惹くだ
ろう。﹃魔力形質﹄ではない、珍しい色。それだけで宝飾品のよう
あれ
に美しい﹃それ﹄は、珍重なものが集まる宮中だからこそ、より珍
しく感じられるものだ。
だが、そんなことより。
わんこ
︵ラ、ラティナ⋮⋮何故、﹃犬﹄連れてるんだ⋮⋮?︶
彼女が連れて歩いている﹃幻獣﹄の姿に、興味を惹くなという方
が難しいだろう。いつもは隠している翼をのびのびと伸ばして、後
ろ肢でカシカシと首のあたりを掻いているヴィントは、デイルが悔
しくなるほどにマイペースな様子で寛いでいる。
彼女が突然現れたことよりも、その彼女が﹃わんこ同伴﹄である
ことに疑問を持つことこそ、現在のデイルの混乱ぶりを饒舌に示し
ていたのかもしれない。
839
後で詳しく聞かせて貰うぞ、とでも言いたげな表情の公爵閣下が、
退室するのを見送りながら、デイルは未だ内心で状況把握に励んで
いた。
と更に発想
と発想が至るのは、混乱具合の表出だろう。実際
いくらでも話してやろう。ラティナの可愛さと愛らしさと、良い
子具合ならな!
に目にしたならば、可愛いらしさは実証された筈だ!
が至るに到っては、﹃混乱﹄はあまり関係無かったのかもしれなか
った。
くわぁ、と、大口開けて欠伸をするヴィントがうらやましい。
ラティナはもの静かな様子で、あくまで礼節ある物腰を崩さない。
﹃見たことの無い﹄姿だった。
可愛い少女だと、思っていた。
なじ
だが、今、眼前に居る彼女は、その言葉では言い表せないほどに
﹃綺麗﹄な娘だと思った。
︵⋮⋮って、こんな時に⋮⋮︶
周囲に散々目が曇っていると詰られたのも、こんな彼女の姿を見
れば、返す言葉も無い。
﹃目を瞑っていたからだ﹄と言われるだけのことを自分はしていた
のだろう。
−−そんな風に感じるほど、今、目の前に居る﹃彼女﹄は、デイ
ルから見ても大人びて見える。幼い頃からの愛らしさは残していて
も、それだけではない﹃綺麗な女性﹄へと育ちつつあるのだと、実
感してしまった。
グレゴール相手に再会の挨拶をしている彼女の声を遠くに聞きな
がら、デイルはあまりにも今、自分が﹃現実味﹄を感じていない理
由に気がついた。
840
﹁⋮⋮ラティナ?﹂
﹁なあに?﹂
﹁何で、⋮⋮居るんだ?﹂
呆けていた為に、端的な言葉で問いかけたのだが、それを引き金
にラティナの表情が歪んだ。
整い過ぎた容姿故に、恐ろしさを抱きそうなほど﹃綺麗﹄な容貌
が、崩れたことで、彼女本来の周囲を惹き付ける﹃愛らしい﹄もの
へと変わる。
﹁⋮⋮デイル、が、病気だって、聞いて⋮⋮﹂
﹁ああ﹂
しまった、と思ったのは、彼女の声が掠れたようになった瞬間だ
った。
ぼろぼろと、灰色の大きな眸から大粒の涙が溢れ出す。
改めて自覚する必要もなく、デイルは、この子の﹃涙﹄には、非
常にものすごく滅法弱かった。
﹁で、でも、ちょっと療養することには、なるけどっ。大事にはな
らないって、伝えてあっただろっ!?﹂
﹁うん﹂
デイルの顔見な
しゃくりあげながら小さく頷き、ラティナは言葉を継いだ。
﹁でも、でも⋮⋮っ、怖くて⋮⋮怖くって⋮⋮!
いと、安心できなくって⋮⋮!﹂
ただおろおろと狼狽するデイルは、彼女の﹃恐怖﹄の理由を、続
・
・
けられた言葉でようやく理解する。
﹁ラグみたいに、いなくなったらって⋮⋮怖くなって⋮⋮っ﹂
ずいぶん昔に聞いた、彼女の実父の話だ。
語彙も少なかった幼い彼女の語る話では、不十分な部分もあった
が、それでも理解出来たこともある。
あまり身体の強い質では無かった彼女の実父は、彼女を庇いなが
841
ら続けた旅の結果、重ねた無理も祟り、あの森の中で力尽き倒れた
のだと。
その直接的な死因となったのは、﹃病﹄−−﹃魔素障害﹄だった。
彼女はかつて、大切なひとを、﹃病﹄で喪っていたのだ。
自分が思っていたよりも、彼女の受け取った﹃病﹄という言葉は、
重いものだったのだ。
﹁ラティナ⋮⋮﹂
﹁ごめんなさい⋮⋮ごめんなさい、デイル。もう、我が儘言わない
から。困らせることも、言わないから⋮⋮っ。だから、だから⋮⋮
いなくならないで⋮⋮っ。お願いだから、そばにいさせて⋮⋮っ﹂
こ
ああ、そうだった。この娘はいつもそうだった。
﹁ただ、そばにいさせて⋮⋮﹂
幼子が無条件で与えられる居場所である筈の、﹃家族﹄も﹃故郷﹄
も失った彼女は、いつも﹃自分の居場所﹄を守ろうとしていた。
幼子らしい我が儘も、癇癪も起こさずに、良い子でいなければな
らないと在る娘だった。
自分は、彼女のそんな部分が嫌だったのだ。
たっぷり甘やかして、我が儘も悪戯も、子どもらしくあれと許容
した。彼女が彼女らしく在れるように心を砕いた。
こんな風に、自分の本音や望みを飲み込んでしまう彼女の、本心
を言って貰いたいと−−自分はいつも望んでいたのだった。
だから﹃この答え﹄は、自分の聞きたいものではない。
842
肩を震わせて泣くラティナを、腕を伸ばして抱き寄せる。
気を利かせてグレゴールが部屋を出るのを視界の隅で捉えながら、
強ばる彼女の身体を、すっぽりと腕の中に抱き締めた。
﹁ラティナ⋮⋮﹂
囁くように名を呼べば、びくり。と、身体を竦める。
﹁謝るのは、俺の方だな。⋮⋮ごめんな、ラティナ⋮⋮心配かけた﹂
﹁っ!﹂
返事をしようと息を飲むが、声にすることが出来なくて、ラティ
ナはデイルの腕の中で、ただ、喘いだ。
﹁ごめんな⋮⋮言いたいことも、言わないとなんねぇこともいっぱ
いあるけど⋮⋮ごめんな﹂
ぷるぷると、小さく首を振る、ラティナの髪を撫でる。
いつの間にかこんなにも長くなっていた髪。するりと指先を通り
抜けるそれも、幼い頃は石鹸の香りだけを纏っていたのに、気が付
・
・
・
・
・
くと、甘い香油の香りを纏わせるようになっていた。
・
﹁ラティナ⋮⋮俺は⋮⋮俺は、お前の父親じゃないけど、ずっとお
前のそばにいるから⋮⋮いや⋮⋮﹂
ぎゅっ。と、すがるように服を掴む仕草は、彼女の不安の表れだ。
そんな不安を溶かすように背中を撫で、長い睫毛に溜まった涙を指
先で拭う。
﹁これからも、俺のそばにいて欲しい⋮⋮だな。ラティナ、これか
らも、俺と一緒に居てくれるか?﹂
﹁デイル⋮⋮?﹂
照れくさい思いを飲み込んで、微笑を浮かべる。
こんな風に近い距離で、涙に濡れた灰色の眸に写りこむ、自分の
姿をいつか見たなと、思い出した。
そして、かつてこんな風に、泣きじゃくる彼女を抱き締めたこと
があったことを、思い出した。
843
・
・
・
・
・
・
﹁いつか、きっと、俺はお前よりも先に死ぬけれど﹂
お前がもう少し
あの時も伝えた言葉を、あの時とは異なる意味で彼女に囁く。
﹁﹃その時﹄まで、ずっと一緒にいよう﹂
﹁デイル⋮⋮っ﹂
﹁とりあえず今は、﹃そこまで﹄でも、良いか?
大人になったらな⋮⋮その、あのさ、もっとちゃんと⋮⋮言うから
さ﹂
照れと、妙なプライドのようなものが邪魔をして、それ以上を続
けることは、出来なかった。
言葉を濁して視線をさ迷わせるデイルに向かい、ラティナは涙に
濡れた眸を真っ直ぐに向けて来た。
﹁デイル、デイル⋮⋮あのね⋮⋮っ﹂
﹁おう﹂
﹁好きなの﹂
﹁おぉう﹂
声が上擦った。言葉を濁した直後に、こう率直に言われるとは思
わなかった。
﹁好きなの。ずっと、ずっとデイルのこと、好きだったの。私にと
ってのデイルは、﹃お父さん﹄じゃなくて、一番大切な大好きなひ
となの⋮⋮っ﹂
﹁うぅっ⋮⋮﹂
至近距離で見上げられると、改めて意識をしてしまった身には毒
なほど、この娘の容貌は麗しすぎる。
それでも、最初の衝撃をやり過ごすと、彼女が耳まで、可哀想な
ほど赤く染めていることに気が付いた。
潤んでいる眸も、男心を震わせる充分過ぎる破壊力を示している
844
が、同時に幼い頃からの泣き顔も思い出させる。
彼女の仕草の中に、﹃未だ幼いもの﹄があることに、心底ほっと
する。
それは、まだ、﹃自分の心と向き合うまでの猶予期間﹄があると
いうことだ。
彼女から、﹃それ﹄が抜けてしまうまでに、自分が彼女との関係
が変わってしまうことを受け入れれば良い。
﹁デイル⋮⋮私⋮⋮デイルとずっと一緒に居たいの⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ああ。約束しよう。最期の時が来るまで⋮⋮一緒に居よう﹂
だからデイルは、少し余裕を取り戻して、﹃あの時﹄のように、
ラティナの頬にキスを落としたのだった。
845
青年、療養中。参。︵後書き︶
デイルの﹃何でいるのか﹄発言についての説明は、次話にて。悪気
はありません。
846
青年、改めて疑問を口にする。前︵前書き︶
王都に来るまでの顛末前編です
847
青年、改めて疑問を口にする。前
﹁はぜろ?﹂
﹁なんだかよくわかんねぇが、腹の立つこと言われてるのはわかる
からな﹂
ベッドの下から見上げて言うヴィントに向かい、デイルは据わっ
た目で答える。獣相手にデリカシーを求めるのは、筋違いであるの
かもしれないが、﹃規格外の獣﹄相手にそれを求めたくなるのは、
本当に駄目なことだろうか。
う
﹁⋮⋮そうだ、ラティナ。後でちゃんとローゼの診察を受けるんだ
つ
ぞ。俺は軽度とはいえ﹃魔素障害﹄にかかっているんだから⋮⋮伝
染らないとは言いきれねぇんだからな﹂
可能性としては低いものだが、大切なラティナ相手だからこそ不
安になる﹃可能性﹄だ。だが、そんな心配そうなデイルに、ラティ
ナは微笑みながら答えた。
﹁大丈夫だよ。私、﹃魔素障害﹄にはならないもの﹂
﹁は?﹂
呆気にとられて聞き返すデイルに向かい、ラティナは当たり前の
ことのように答える。
﹁軽い病気位にはなったりするよ。でも、本当に大変な﹃魔素障害﹄
にはならないの。命を落とすような重症の病気にはならないんだよ﹂
﹁何だ、それ?﹂
聞いたことも無いような話だった。それでもラティナは、デイル
の反応に不思議そうな顔をする。
﹁ラグ、言ってたの。﹃神に護られし証持つ者﹄に、﹃魔王﹄のち
848
さだめ
からが及ばぬように、﹃運命に護られし者﹄も、﹃魔王﹄のちから
が及ばないって⋮⋮﹃ラティナは、運命に護られているから、大丈
夫だよ﹄って⋮⋮言ってたの﹂
﹁いや⋮⋮聞いたことも、無い話だ﹂
﹁そうなの?﹂
﹃神に護られし証持つ者﹄とは、おそらく高位の﹃加護﹄を有する
者という意味だろう。
だが、﹃運命に護られし者﹄とは何を意味しているか、見当がつ
かない。そういえば彼女は以前も﹃運命に護られている﹄という言
葉を使っていたような気がする。
﹁ラティナ⋮⋮お前を護る﹃運命﹄って⋮⋮何だ?﹂
﹁⋮⋮よく、わかんない⋮⋮﹂
答える前に、少し間があった。
問い質したい気持ちを、ぐっと飲み込む。感情に任せて問いを投
げ掛ければ、彼女は答える前に萎縮して怖がるだけだろう。
この娘は、妙なところで頑固だ。選択を誤れば、たぶん今後も﹃
そのこと﹄について語ろうとしない。
﹁ラティナ⋮⋮それは、お前にとって⋮⋮悪いこと、なのか?﹂
﹁わかんない⋮⋮﹂
ラティナはもう一度繰り返して、デイルを見た。彼の中にあるも
のが﹃心配﹄であることも見届けると、少し表情を困ったものにす
る。
﹁あのね⋮⋮本当に﹃よくわかんない﹄なの⋮⋮私にとっては、生
まれた時からの﹃普通﹄のことで、私の親も、﹃当たり前﹄みたい
に言ってたことだから⋮⋮それが﹃他のひとと違う﹄ことが、よく
わかんないの﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
そう言われてしまえば、デイルも更に追及することは、出来かね
849
た。
彼の持つ﹃加護﹄も、﹃そういうもの﹄だと知られているものだ
からこそ、理解されている﹃ちから﹄だ。それを持たない者に、言
葉だけで説明することが難しいことには、彼にも覚えがある。
そこで、デイルは先程聞きかけて、答えに至らなかった別の疑問
に、矛先を移動することにした。
﹁じゃあ⋮⋮ラティナ﹂
﹁?﹂
﹁何でお前⋮⋮此処に居るんだ?﹂
﹁え?﹂
﹁だって、グレゴールに頼んで、クロイツに連絡してもらったのは、
俺が王都に着いてからで⋮⋮まだ3日程度しか経ってねぇ筈だ。計
算が合わねぇだろう﹂
デイルが﹃ラティナが此処に居る﹄ことに、違和感を感じていた
理由がそれだった。乗馬の技術を持つデイルが、回復魔法の併用と
いう形で、騎馬に無理をさせても2日はかかる。乗馬が出来ないラ
ティナならば、乗り合い馬車を使うとして、乗り継ぎがうまくいっ
たとしても、最低でも一週間は必要になるだろう。
どう考えても、計算が合わないのだった。
デイルの指摘に、ラティナはぎくり。と、身体を強張らせた。
その反応と、この表情には覚えがある。友人たちと遊ぶようにな
って、歳相応の悪戯や悪巧みを覚えたラティナの、﹃わかりやすい
反応﹄だ。
と、思いつつ、どきどきしているラティ
もう、そんな風に、わかりやすいところすら可愛いところなんだ
が。何か企んでるなっ!
ナの目の前で﹃悪戯﹄にわざと引っ掛かってやったりしたのも、反
応が可愛いかったからなのだがっ。
850
デイルはそう思いつつも、表情には出さずに、更に質問を重ねた。
﹁⋮⋮ケニスたちに黙って、クロイツから出て来たのか?﹂
でも、それだったら正直﹃飛び出して来た﹄自分は怒ることは出
来ない。内心で少々汗をかく。
だが、ラティナはデイルのその言葉には、首を横に振った。
﹁ううん。ちゃんとケニスの許可はもらったよ。王都に行くんなら、
ちゃんと準備をしなさいって言われた﹂
続いたラティナの言葉に、内心だけでなく汗が出た。
﹁反射的に飛び出そうとして、それはダメだって怒られたけど⋮⋮﹂
﹃育ての親子﹄である訳だが、妙なところで似ているとでも、思わ
れたに違いない。
﹁じゃあ⋮⋮ラティナ。お前、何したんだ?﹂
﹁あのね⋮⋮ええと⋮⋮ヴィントとね⋮⋮﹂
わんこ
ラティナはおどおどと視線を泳がせると、やがて観念し、白状す
るかのように、経緯を語り始めた。
﹁わん﹂
その隣で、清々しいほどに、悪びれない幻獣が、良い返事をして
いた。
クロイツで受け取った、王都から届いた便り。それには、簡潔な
ニーリー
飾り気の無い言葉ではあったが、デイルの病状と大事には至らない
こと、そしてローゼたち高位の藍の神の神官により治療が行われて
いることも記されていた。
それでも、ラティナは激しく狼狽した。
衝動的に﹃踊る虎猫亭﹄から飛び出そうとするのを、察知したケ
851
デイルっ、デイルのところに行くのっ!﹂
ニスに強く止められる。
﹁ラティナ!﹂
﹁やだ、離してっ!
掴まれた腕にこめられた力は、ラティナが振りほどけるほどに緩
くは無い。それでも彼女は眸に力を込めてケニスを見上げた。
﹁離してっ!﹂
剣呑な光が、強く、灰色の眸の中に灯ることもケニスは見て取っ
て、彼は静かな、それでも強い意志の籠った声を響かせる。
﹁駄目だ﹂
びくっ。と、少しラティナが怯んだ。かつて、冒険者としてパー
ティーを率いていたケニスの声には、そうさせるだけの﹃力﹄があ
る。
﹁ラティナ⋮⋮っ。王都に行くなんて、無茶なこと⋮⋮﹂
声を挟むタイミングを失っていたリタが、青い顔でラティナを後
ろから抱き締める。妊娠中のリタを、力づくで振り払うことは、ラ
ティナには出来ない。ケニスはそこで彼女の腕から手を離した。
﹁でも⋮⋮でもっ﹂
﹁王都に行くなら、準備をきちんとしてからだ。旅装も行程も整え
ずに行けるほど、旅は甘くは無いこと、ラティナは知っているだろ
う﹂
﹁え?﹂
﹁ケニス?﹂
ケニスの答えに、リタだけでなくラティナも驚く。
ケニスは二人の反応は気に留めず、店の常連客たちへと視線を向
ける。
﹁ジルヴェスター、王都の方に、信頼出来る知り合いは居るか?﹂
﹁心当たりが無い訳じゃない﹂
﹁それなら、ラティナに紹介状を書いてやってくれ。王都側の街道
に詳しい奴は居るか?﹂
852
﹁おう、俺の得意先はそっちの方だ﹂
﹁最近の街道の動向と、女の旅人でも安心して泊まれる宿が知りた
い﹂
﹁それなら、夜まで待ってくれ。他の奴等にも聞いて、詳しくまと
めておく﹂
﹁頼む。後⋮⋮﹂
てきぱきと指示を出すケニスの姿に、ラティナが慌てたように口
を挟んだ。その表情からは、いまだ驚きが抜けていない。
﹁ケ⋮⋮ケニス﹂
﹁なんだ?﹂
﹁止めたんじゃ⋮⋮無いの?﹂
﹁止めて欲しいのか?﹂
﹁ううん。行きたい⋮⋮﹂
﹁なら、準備はきちんとしろ。旅装と装備も整えろよ。後で俺が確
認を入れる﹂
﹁う⋮⋮うんっ﹂
弾かれたように、自室へと駆けのぼって行ったラティナを見送っ
てから、我に返ったリタが咎めるように夫に向かう。
﹁ケニス、何考えて⋮⋮っ﹂
﹁あの様子なら、無理に止めても、一人で抜け出して王都に向かい
かねん。無茶をさせるなら、ちゃんと準備をさせて、確実性を高め
た方向で﹃無茶をさせる﹄方が建設的だ﹂
追い詰められたラティナの表情には、止めるならばケニスを打ち
倒しても、自分の意志を通す。という危うさがあった。
今、なんとか説得し、納得したように見えても、目を盗んで一人
おおごと
で王都に向かうだろう。見張っていても限度がある。門番に話を通
すこともできるだろうが、そこで押し問答にする大事に発展させた
くはない。
853
﹁本当は、女だけのパーティーにラティナの付き添いを頼みたいと
ころだが⋮⋮﹂
ケニスの呟きに、ジルヴェスターも苦い顔をする。
﹁さすがにそれは難しいな⋮⋮﹂
男性に比べ、女性の冒険者の数自体が少ない。その上で、信頼で
きる女性だけのパーティというのに、これだけ急には、話はつけら
れない。
﹁下手な男にラティナを任せるよりは⋮⋮ヴィントの方がまだまし
か﹂
﹁わふ?﹂
表の騒ぎに顔を出した﹃わんこ﹄に顔を向けて、ケニスが少々苦
々しそうに言えば、ジルヴェスターも溜め息まじりに応じた。
﹁こればっかりは、歳も関係ねえからな﹂
心配で不安定になっているラティナを慰めるという理由で、元々
紳士性とは無縁の職である冒険者なんていうものが、彼女に良から
ぬことをしないとは限らない。
﹁ラティナ一人でも、王都までは街道も整備されているから、なん
﹂
とかなるとは思うがな。一番心配なのが、ラティナの身の安全だ﹂
﹁嬢ちゃんの魔法使いとしての能力は、どんぐらいなんだ?
﹁攻撃魔法や防御壁系の魔法も覚えたらしい。自衛の手段は持って
いる。だから、後は詠唱の時間を稼ぐ手段があれば良い﹂
﹁なら⋮⋮この﹃犬﹄の方が安心なボディーガードか﹂
﹁わふぅ?﹂
話題の中心になっていることだけを察したヴィントは、不思議そ
うに首を傾げていた。
854
青年、改めて疑問を口にする。後
テイマー
﹁ジルヴェスター、獣使いとかは、どうやって使役獣を街中に入れ
てるんだ?﹂
ア
﹁俺も詳しくはないがな。確か専門の魔道具があった筈だ。おい、
ケヴィンの奴、呼んで来てくれ﹂
ジルヴェスターはそう言って、知人の獣使いの名前を出す。
﹁ああ、もうっ﹂
クダル
しばらく押し黙っていたリタも、心の整理をつけたらしい。﹃緑
の神の伝言板﹄に向かうと、最近の周辺の動向を調べ始める。
リタも、ラティナが﹃頑固﹄な子であることを知っている。そし
て、﹃無理﹄を押し通してしまうだけの能力を持っていることも、
知っていた。どうしても危なっかしいことになるのであれば、協力
する方が﹃建設的﹄であることはリタも理解してしまう。
これが、初めから無茶で無謀であるのならば、何が何でも止める
というのに。スペックが高過ぎるのも、問題であるのだった。
ジルヴェスターが名を出した﹃獣使い﹄ケヴィンは、黒毛の狼を
連れて﹃踊る虎猫亭﹄に現れた。彼の﹃相棒﹄である狼は、もう一
匹おり、連れている狼のつがいに当たる。その牝狼が、この春に初
産を行い、現在は仔育ての様子見の為に休業中であるらしい。
その為にすぐ話を聞くことができたと思えば、こちらとしては助
かったタイミングだった。
見知らぬ獣が自分のテリトリーに侵入してきたと、ヴィントが、
カウンターの陰からじっと黒狼を睨んでいる。黒狼の方は、気にし
ていない様子を装っているが、耳がピクピクと激しく動いていた。
855
﹁これが、その魔道具だ﹂
ケヴィンが、狼の首のあたりを示すと、狼の太い首には、金属の
プレートがさがった首輪が嵌められていた。
﹁端的に言うと、﹃これ﹄は、獣が﹃本能的に嫌がるモノ﹄になっ
ている。だからこそ﹃これ﹄を着けている﹃獣﹄は、﹃央﹄魔法で
支配されているか、厳しく訓練された﹃使役獣﹄って証明になる。
街中に﹃使役獣﹄を連れ込む際の最低限の証だ﹂
﹁なら、ヴィントにも﹃これ﹄を着けさせれば、ラティナに同行さ
せることができるか﹂
ケヴィンが予備として持っていた﹃魔道具﹄を、片手で転がして
いたケニスが、ヴィントへと差し出して見せる。
魔道具に顔を近付け、フンフンと臭いをかいだヴィントは、如何
にも嫌そうな顔を、獣にも関わらず器用にして見せた。
﹁やだ。これキライ﹂
﹁ラティナと離れて留守番するか、これを着けて一緒に行くか、選
べ﹂
﹁がまんできる。やればできるこ﹂
即答だった。
予想通りだった。
﹁噂には聞いていたが⋮⋮﹃央﹄魔法どころか⋮⋮幻獣の自由意志
とはな⋮⋮どんだけ規格外なんだ?﹂
﹁たぶん考えると負けだと思うぞ。嬢ちゃんだからなあ﹂
本職だからこそ、常識では考えられない光景に、頭を抱えかけて
いるケヴィンに、ジルヴェスターが生温かい視線を送った。
そんな具合に、準備は慌ただしく進められた。
ラティナの用意した旅装は、かつてティスロウに向かった際に調
856
えたものが主になっていた。ケープはだいぶ丈が短くなっているが、
それを差し引いても、﹃魔道具﹄としての性能の優秀さを選んだの
だった。
元々サイズの大小があまり気になりにくいデザインなのと、寒い
季節ではないことから、それで良いだろうと、判断された。
﹁ラティナ、魔法使い用の杖も持っていただろう?﹂
﹁うん。でも、私、無くても魔法使うのにあんまり困らないよ﹂
﹁そうだろうな。だが、﹃お前が魔法使いだ﹄ということを周りに
示す手段になる。かたちだけでも、﹃冒険者﹄らしく見せておけ﹂
﹁﹃女の旅人は舐められる﹄から?﹂
﹁そんなところだ﹂
デイルがかつて彼女に買い求めた﹃杖﹄は、子どもの練習用では
あるが、﹃駆け出しの冒険者の装備﹄に比べれば、充分良いものな
のだ。
一人旅の女の子でも、簡単には侮れないという、箔付けの一部に
はなるだろう。
ケニスや常連客、リタのバックアップを受けて準備を調えたラテ
ィナは、クロイツの馬車乗り場−−王都への直通馬車は無く、途中
の町で乗り換える必要があった−−へと向かいかけた足を、ぴたり
と、止めた。
キョロキョロと、見送ってくれた人びとの姿も、もう見えないこ
とを確認する。その後、ヴィントの隣にしゃがみ込んだ。
﹁ねえ、ヴィント﹂
﹁わふ?﹂
﹁みんなには、内緒で⋮⋮試してみたいことがあるの﹂
﹁わふぅ?﹂
﹁ヴィントに乗ること、出来ないかなぁ?﹂
857
かつて彼女は、コルネリオ師父から、学んでいた。
クロイツと王都の間の街道は、わざと回り道をするルートで整え
られているのだと。
それは、有事の際、防衛の時間を稼ぐ必要があるからだ。橋や地
形上の理由もあり、直線距離で移動出来る飛竜が、他の手段に比べ
て圧倒的に早いのも、その為なのであった。
それを知っていたラティナは、馬車という陸路ではなく、﹃友人﹄
の能力で空路を行くことが出来ないかと考えたのである。
﹁防壁魔法と、重力軽減魔法の併用でね、ヴィントの邪魔しないよ
うに頑張ってみるから、ちょっと試してみても良いかなぁ?﹂
﹁わふっ﹂
長時間の複数の魔法の維持ということ自体が、常識外れなのだが、
突っ込みを入れる役割の者は、同行していなかった。
そして、﹃保護者﹄である大人たちが、全く考えていなかった﹃
無茶で無謀﹄な行動を、やり通してしまうスペックがこの少女にあ
ったことが、何よりの想定外と言えるだろう。
彼女はヴィントと共にクロイツの外に出ると、数度、低空でその
思いつきを練習した。
その後、空の旅に出掛けたのであった。
彼女は、出来てしまったのである。
仔狼であるヴィントの飛行能力は、飛ぶことに特化した飛竜ほど
早くも無く、長く長距離を飛ぶことも出来ない。
ラティナの魔法の休憩も必要だった。
一人と一匹は無理をせず、適切に休みを挟んだ。途中の町で一泊
して、その翌日王都に辿り着いたのである。
それでも充分過ぎるほどに早い到着だった。
858
自分が﹃普通で無いこと﹄をしている自覚のあるラティナは、王
都から離れた場所で地上に降り、徒歩で街へと向かうという﹃常識
的な﹄判断もしていた。王都の警備兵たちに、不審な存在として撃
墜されるなどという失態は犯さなかったのであった。
クロイツに比べると、周囲を囲む街壁の内部に入ることも難しい
王都だったが、﹃踊る虎猫亭の常連客﹄という、ラーバント国でも
有数の﹃冒険者たち﹄の能力も侮れないものがある。
ジルヴェスターが自分の知人宛てに用意してくれた複数の紹介状
は、どれも王都で身元がはっきりした相手に向けられた物だった。
ジルヴェスター自身の﹃名﹄も、日頃安酒をかっくらっている姿か
らは想像もつかない程に、高名なのである。
ヴィントに着けられた﹃魔道具﹄も、正規の高品質の物であるこ
とが見て取れると、彼女たちの審査は、初めての王都入りだと思え
ば、かなりすんなりと許された。
そこで、初めての王都の街並みに浮かれる前に、ラティナは途方
に暮れた。
﹁この後、どうしよう⋮⋮﹂
﹁わん?﹂
隣に﹃友人﹄が、居てくれるからこそ、不安には押し潰されずに
済んだ。
ケニスたちには、あらかじめ言われていたことだ。
−−王都に行ったからとはいえ、デイルと会えるとは限らない−
−のである。彼が身を寄せているのは、王都の中でも上流中の上流
階級。エルディシュテット公爵家なのである。一介の庶民の少女が、
押し掛けても門前払いされるのが当然だろう。
ジルヴェスターが複数の紹介状を用意したのも、難しいが、ラテ
ィナ一人であるよりは、公爵家に話を通せる可能性が高いだろうと
859
いう観点もあるのだった。
﹁どうしよう⋮⋮﹂
呟きながら考える。そこでラティナは今、王都に滞在している筈
の人物のことを思い出した。
どうしたの?﹂
﹁−−でね。ローゼさまなら、私のことも知っているだろうって、
ニーリー
﹃藍の神﹄の神殿を訪ねたの。⋮⋮デイル?
﹁⋮⋮いや、ちょっと待ってくれ⋮⋮状況の把握が⋮⋮﹂
思っていた以上に、﹃わんこ﹄の役割が大きかった。
ラティナが﹃白状した﹄行動を聞いたデイルは、文字通り頭を抱
えていた。
﹃央﹄魔法使いでもないのに、専門の訓練を受けた訳でもないのに、
空路を移動手段として使うことがどれだけ規格外なのか、わかって
いるのだろうか。
−−それを言ったなら、幻獣と主従関係ならまだしも、友人関係
を結ぶという前提自体が﹃規格外﹄なのだが、長年彼女を見ていた
デイルは、そのあたりの﹃常識﹄が麻痺しかけていたのである。
そして、何より、公爵閣下になんて説明するべきだろうか。頭痛
がしそうだった。
ウンウンと唸るデイルを、少し首を傾げるようにして、ラティナ
が覗き込む。目が合うと、彼女は幸せそうな笑顔になった。
﹁⋮⋮なんだ?﹂
﹁何でもないよ﹂
そう言いながらも、彼女の幸せそうな表情は変わらない。
そこまで考えて、デイルはラティナの口癖を思い出した。
−−﹁だって、デイルといっしょだもん﹂彼女はいつもそう言っ
860
て、幸せそうに微笑んでくれているのだった。
﹁まぁ、なんとかなるか﹂
改めて気が付いてしまえば、﹃可愛い過ぎる﹄ラティナと﹃一緒﹄
なのだ。どうにかなるというか、どうにかすれば良い。
デイルは自分の頬が、少し熱を帯びるのを自覚しながら、呟くの
だった。
861
青年、改めて疑問を口にする。後︵後書き︶
連休ですし、早々の後編投稿でした。
862
夢と現と幻の間で。︵前書き︶
時間軸は思春期が終わった直後位となり、少し前後しています。
863
夢と現と幻の間で。
−−不思議な空間だった。
くろ
それでも﹃自分﹄は、此処を﹃不思議﹄だとは考えていなかった。
しろ
全ての光と全ての色を集めた。そしてそれだけで創られた、空間。
なにひとつ色彩が無いというのに、全てを内包しているモノトー
ンの﹃せかい﹄
ある
見回すと、此処は途方も無く広いようであり、限られた箱庭のよ
うでもあった。そして﹃自分﹄は此処に存在ものが何であるかも知
っていた。
円形に等間隔に並べられた﹃椅子﹄。形も大きさも様々なそれら
には、ある共通性があることも﹃自分﹄は理解していた。
・
・
・
・
・
此れらは、﹃玉座﹄だ。
七つ並んだ此れらには、それぞれに座するべき﹃主﹄が存在する。
姿かたちこそ、見ることは出来ないが、濃くはっきりと、それぞ
れの﹃玉座﹄には、﹃主﹄の気配が漂っている。
ひとつひとつ見て回る。
ある﹃玉座﹄の前には、血塗られた刃があり、ある﹃玉座﹄の前
にはなみなみと水を湛える水瓶が設えてある。枯れた樹が絡みつく
・
・
・
・
﹃玉座﹄に、分厚い書籍が鎮座する﹃玉座﹄を見て−−そうやって
順に﹃玉座﹄を巡り、ひとつめの﹃玉座﹄の前で足を止めた。
そこは、そこだけは、﹃主﹄が存在しなかった。
864
・
・・
・
・
・
・
・
・
・
・
そして﹃自分﹄は、これから﹃その玉座﹄は、﹃主﹄を迎えるの
だと、知っていた。
・
・・
・
・
・
そして﹃自分﹄が、此処に来てしまったのは−−﹃条件﹄を満た
してしまったのだと言うことも、﹃自分﹄は知っていたのだった。
それは、﹃自分﹄が最も忌み嫌う選択の筈だった。
かつて全てを失った理由であり、未だ護りたい思いを裏切る選択
でもある。
﹁要らないの﹂
・
・
・
・
・
だからこそ、小さく首を振って、否定の言葉を呟く。
﹁私は、こんなもの欲しくないもの﹂
﹃自分﹄が欲しいのは、求めるものは−−
﹁どーした、ラティナ?﹂
優しい声に、覚醒する。
ぱちぱちとまばたきして、彼女は自分が、﹃世界で一番安心でき
る場所﹄に居ることを思い出した。
暖かいもので満たされた部屋。大切な思い出と共に在る部屋。そ
の中でも、最も﹃暖かい大好きな場所﹄。
﹁怖い夢でも見たのか?﹂
幼い頃から、いつも彼は、そう言って優しく髪を撫でてくれる。
大きな暖かな手のひらの感触に、怖い思い出も、悪夢も全て溶けて
いく。
彼に撫でて貰えることが嬉しくて、﹁綺麗な髪だな﹂と言って貰
えるのが嬉しくて、切ることが出来なくなった。きっと彼は気付い
ていないのだろうけれど、彼の何気ない言葉も行動も、自分にとっ
865
ては、どれもとても大切なものだった。
﹁大丈夫﹂
何も怖いことなんて無い。
﹃ここ﹄ならば、彼のぬくもりのそばなら、何ひとつ怖いことは起
こらない。﹃ここ﹄は、世界で一番安心できる場所なのだから。
﹁だから、大丈夫なの﹂
彼女は幸せそうに微笑んで、仔猫のような仕草で、ぬくもりに頬
を寄せて、暖かな微睡みの中におちていく。
考えたくなかったから。
いつか、自分は、﹃このぬくもり﹄をなくしてしまう。
たったひとつだけ欲しい﹃もの﹄。たったひとつだけ自分が望ん
でいる﹃もの﹄。今は溢れる程の幸福と共に、自分のそばにある﹃
もの﹄。けれど、自分はいつか必ずなくしてしまうのだ。
・
−−なくしてしまった後、自分はどうしたら良いのだろう。
・
それを考えないようにして、彼女は深い眠りの中に入り込んで行
ったのだった。
866
青年、そして白金の乙女。変わる、これから。︵前書き︶
本日はこの前にも一話投稿しております。
867
青年、そして白金の乙女。変わる、これから。
改めて自覚してしまえば、周囲が散々自分を詰ってきたのも無理
もないことだと、デイルは思ったりするのだった。
何これ。この娘すげぇ可愛い。
なのである。
とはいえ、その文面だけでは、あまり今までと変化はない。
驚く位に、改まった後の自分の心境も、端的にキーワードを並べ
てみれば、今までとあまり変わりのない単語が並ぶ。
それでも明らかに﹃今までと異なる﹄心境を以て、接しているの
だった。
デイルは一週間を待たずに床上げし、王都からクロイツに戻るこ
とになった。
王都に滞在していた間のラティナは、公爵家の書物を読んでいた
り、ローゼにマナーを仕込まれていたりと、それなりに忙しく過ご
していた。
ラティナが、公爵閣下相手にそれなりの応対が出来たのは、いつ
の間にかローゼに躾られていたからであったらしい。公爵家に出入
りするデイルの身内として、何があっても恥ずかしい思いをしない
ようにと、魔術と共に厳しく指導されていたのだった。
公爵閣下からの夜会への遠回しな出席要請は、デイルが全力で拒
んだ。何かと有名な﹃自分﹄の縁者で、見目麗しい超絶美少女であ
868
るラティナを、わざわざ噂好きの貴族どもの前に出す気はなかった。
と言われれば、
そりゃあ、ラティナが、夜会にふさわしい格のドレスを纏って、
宝飾品と化粧で装った姿を見てみたくないのか?
心は揺れる。可愛いに決まっている。万人の目を奪うに違いない。
それは確定事項だろう。
それでも、いやだからこそラティナに余計な注目は集めさせたく
ない。
他所の男なんてものは、デイルにとって全て﹃敵﹄である。
デイルは、ラティナを﹃特別な異性﹄として考えていないと言っ
ていたにも拘らず、﹃ラティナが他所の男と一緒にいる﹄という光
景に、不快感しか示さなかった。
﹃保護者﹄としても、不思議ではない反応なのだが、少々自分でも
大人気ないと思う感情的な部分が表出してしまっていたのは、本当
に﹃保護者﹄だけの﹃感情﹄だったのか、明確に断言は出来ないな
−−と少々視線を泳がせることになる。
誰にも、彼女を奪われたくないと願うのは、﹃父親ならば﹄当然
のようでいて、﹃父親ではない﹄のであれば、別の意味を持つ感情
だ。
ヴィントはマイペースに公爵家の庭で、散策する毎日だった。
大貴族の邸宅にふさわしい広大な敷地である為、ヴィント的にも
楽しんでいるようである。
庭の片隅に大穴を掘っていたという報告には、デイルを青くさせ
た。それでも、﹃ラティナを連れて来てくれた﹄という貸しがある
分、デイルは強気に出ることが出来ず、平謝りすることになった。
ヴィント当人は、全く悪びれなかった。もしかしたら、わざとで
あるのかもしれない。
869
ラティナが隣にいるという状態は、デイルの快復を早めた。
元々軽症だったというのもあるが、それだけでは説明出来ぬほど、
彼の自己治癒力を高めたのである。
そしてその間、デイルはラティナに対する認識を日々改めていく
ことになったのであった。
ベッドの横に腰掛けて話相手になってくれる、ふとした瞬間。
目が合うだけで、ふわりと柔らかく微笑み返してくれる。
こぼれた髪の一房にデイルが触れると、少しびくりと身体を竦め
た。
それも思春期故の、﹃男親﹄への﹃拒否﹄の動作ではなく、頬を
微かに染めた、恥じらいの仕草であることに気付かされてしまうこ
とになる。
暖かな灰色の眸は、時折潤んだようになって、その中に熱のよう
なものを含んで自分を見ている。理解した今となっては、眸に宿る
熱の意味にも気付いてしまう。
少し気恥ずかしくなって視線を逸らすと、彼女は微かに切な気な
吐息を漏らして、何事もなかったように再び微笑んでみせるのだ。
﹃ちっさなラティナ﹄という﹃枠﹄の仕事は、想像以上のものだっ
た。その存在を意識した今のデイルが、フィルターを外して﹃見た﹄
彼女は、何処からどう見ても﹃恋する乙女﹄だった。
気恥ずかしさをおして、または今までの癖で、彼女の髪をするり
と撫でると−−幼い頃からラティナの髪は、すべすべとして、どん
なに上等なシルクでも敵わないような手触りと艶を持っていた。あ
まりに触り心地が良い為に、﹃良い子の彼女を撫でる﹄以上に、デ
イルが癖となっていった動作であった。−−ラティナは、いかにも
幸せそうに嬉しそうに表情を緩める。信頼故のそんな無防備な表情
も、手のひらに頬を無意識に擦り寄せる仕草に、色気のようなもの
870
の片鱗を見出だしてしまった。
この娘は、無防備だった。
驚く程に、﹃異性﹄である自分に対しても−−それこそ﹃手を出
そう﹄と思えば、いつでも﹃いただきます﹄と言える気がする程に、
無防備なのだった。
それを﹃幼さ﹄と言ってしまうこともできるかもしれないが、そ
の危うさに、デイルは色々思うのである。
︵この娘は、その気になれば、男泣かせになるなぁ⋮⋮︶
それも、無邪気で無防備な仕草すら、男と言うモノを煽ることに気
付いていない彼女が、それを理解して﹃使う﹄ようになったならば、
それこそ﹃傾国の美女﹄と呼ばれても仕方のない状態になるからだ。
そして、当人に全くそんな意識がないことをわかっていながら、
﹃いつでも手を出せる﹄という発想を持つ自分に頭を抱える。
まだ早い。まだ早いからそうじゃない。と、念仏のように脳裏で
呟くデイルの百面相にも、ラティナは裏のない笑顔を向けていた。
まだ、ラティナは﹃幼い﹄。
−−微かに、身体つきに丸みを帯び初めている気がする−−なん
てことは、きっと気のせいだ。友人たちに比べて発育が遅いことを、
自らでも気にしていた彼女は、まだ幼い体型のままなのだから。
﹃反抗期﹄の云々以降、ラティナに距離を置かれて−−更に仕事を
口実に逃げ出したから、ラティナとは実質一月以上まともに向き合
っていなかった。だからといって、それだけの期間で彼女が変わっ
てしまうことなんて、きっとない。
そう、自分自身に必死に言い聞かせているデイルの煩悩には、全
871
く思い至らずに、微笑みを浮かべているラティナは−−かねての当
人の主張通りに、﹃成長期﹄を迎えつつある。−−なんてことは、
この段階のデイルの知るよしのないことなのであった。
羽化する直前の﹃サナギ﹄であった彼女は、本当に驚く位のスピ
ードで大人びていくことになる。
かねてよりの懸念であった﹃母親の遺伝﹄は、あまり影響を与え
ず、月を経るごとに、年を経るごとに、非常に魅力的に成長してい
った彼女は、デイルを大いに悩ませることになる。
そうして、ラティナが﹃大人﹄になる頃−−デイルが、﹃彼女と
の関係﹄に、本格的に向き合うことを決意した頃−−
彼女の﹃夢﹄は、その様子を少し変えた。
872
青年、そして白金の乙女。変わる、これから。︵後書き︶
これにて思春期編終了です。
ようやく﹃娘﹄も大人扱いされる年齢となります。物語の結末まで、
お付き合い頂ければ幸いと存じます。
873
黄金の王と、白金の−−
もう、この﹃場所﹄に﹃来る﹄のは、何度目だろうか−−と、﹃
くろ
彼女﹄は考える。
しろ
・
・
全ての光と、全ての色もて、全てが在る世界。
その中の空位となっている唯一の﹃玉座﹄の前。
何度も、何度も繰り返し訪れた。
﹃自分﹄が﹃決めてしまった﹄時から。
﹄に−−﹃自分﹄は、決
叶わぬ想いだと、心の何処かで思ってもいた幼い頃からの﹃願い﹄
。それを、受け入れてもらった﹃あの時
めてしまったのだ。
そして、それが﹃条件﹄だった。
ふと、目の前で﹃ひとつめの玉座﹄に気配が満ちる。
天を仰げば、﹃七色の虹﹄が十重二十重と、﹃世界﹄に新たな王
の誕生を告げていることを﹃理解﹄する。
・
・
・
﹂
−−色濃くなった﹃気配﹄を、﹃自分﹄はよく知っていた。
わたしたち
・
おめでとう。⋮⋮﹃魔人族﹄が戴きし、新たな王。
だからこそ、呟いた。
﹁
返事が、聞こえたような気がした。﹃自分﹄がこのひとの声を聞
﹃黄金﹄の名を持つ、新たな王。﹃予言﹄通りに⋮⋮あなたが
き誤る筈がない。
﹁
﹂
﹃選ばれて﹄本当に、良かった。﹃選ばれなかった﹄のが、私で、
本当に良かった⋮⋮
更に﹃聞こえた﹄返答に、静かに首を左右に振る。
874
﹁
・
・
・
・
﹂
・
・
・
・
・
﹂
ううん。本当に良かったの。私は大丈夫だから。王と成るべき
はあなただった。だから⋮⋮
・
そう、呟いて﹃彼女﹄は、
この﹃玉座﹄を、求めたりしたりしないから⋮⋮大丈夫だよ
ちから
七つの玉座の中心に現れた、新たな玉座に視線を向ける。
﹁
零、もしくは八と呼ぶべき﹃理の外に在る数﹄を、冠する﹃玉座﹄
の前で、﹃彼女﹄は、そう、呟いた。
875
青年、白金の娘と。︵前書き︶
本日もこの前に一話投稿しております。
またまた少しおっきくなりました。
876
青年、白金の娘と。
﹁どうした、ラティナ。ぼんやりして﹂
﹁んー⋮⋮﹂
そう問いかけると、彼女は数度まばたきして、少し首を傾げた。
﹁⋮⋮わかんない﹂
﹁最近多いな。そうやってぼんやりしてること。身体の具合でも悪
いのか?﹂
﹁ううん。それはないよ。本当に、大丈夫﹂
ぷるぷると、幼い頃を思わせる仕草で首を振る。それでも、微笑
み返したその顔からは、もうほとんど﹃幼さ﹄は抜けかけている。
彼女の微笑みの中に、思い悩むものの片鱗を嗅ぎとりながらも、
殊更深刻にならないように、気を配る。
﹁そうか﹂
自分は、いつでも彼女の味方だと、それだけは伝えようと手を握
る。
その時、ふと、空の異常に気付いた。どうやらそれは自分だけで
はないらしく、窓の外からもざわめきが聞こえてくる。
﹁虹⋮⋮?﹂
それは、不思議な光景だった。
空を虹が覆っている。
ただひとつの虹ではなく、幾筋もの様々な角度の虹が空一面を覆
っていた。虹自体は見たことがあるが、こんな﹃空﹄は初めてだっ
た。
﹁﹃虹﹄は、神さまが、見ていて下さる時に架かるんだよ⋮⋮﹂
﹁ああ。⋮⋮魔人族の間でも、そう言われているのか?﹂
877
﹁うん。⋮⋮私が産まれた時も、空には虹が架かっていたって、教
えてもらったの。神さまに見守られながら、産まれてきたんだよっ
て⋮⋮ラグ、よく言ってた﹂
﹁そうか﹂
﹃七色の神﹄と呼ばれる神々の神威の一端とされている﹃虹﹄。神
々の司る色を全て内包していることから、虹が空に架かる時は、世
界の何処かに、神が干渉した証とも言われている。
デイルもまた、産まれた時、虹が出ていたらしい。高位の﹃加護﹄
を持つ者には、稀に起こる現象であるらしい。
それでも、この数多の﹃虹﹄は、聞いたこともない現象だった。
信心深い者は地に跪き祈りを捧げ、あるいは畏れおののいている
姿が、窓から見える。
半ば無意識に隣のラティナを抱き寄せると、彼女は頭をデイルの
肩へと擦り寄せるような動作をした。
*******、****
﹂
デイルへと、聞き慣れない言葉を囁く。
﹁
﹁ラティナ?﹂
聞き返すと、彼女は、最近よくする夢の中に居るような表情で、
灰色の眸を煙らせるようにして、答えた。
﹁⋮⋮﹃王﹄が⋮⋮新しい王が、うまれたの﹂
・
・
﹁え?﹂
﹁これは、それを示しているの⋮⋮﹂
﹁ラティナっ!﹂
強く名を呼んで、肩を掴んだ。
明らかに普通ではないラティナの様子に、言い様のない不安を掻
き立てられる。
咄嗟に﹃呼び戻さなければならない﹄と、考えた。
878
﹁ふぇ⋮⋮?﹂
ぱちぱちと大きくまばたきする。大きな声に驚いた、という顔を
して、ラティナが自分の顔を見る。
びっくりした⋮⋮﹂
毒気の抜かれた、その普段通りの彼女の表情に、心の底からほっ
とした。
ラティナ?﹂
どうしたの、デイル?
﹁大丈夫か?
﹁なあに?
﹁びっくりしたのは、俺の方だ。ぼんやりして⋮⋮本当にどうした
んだ?﹂
﹁⋮⋮?﹂
デイルの言葉に、ラティナは不思議そうに首を傾げている。
﹂
⋮⋮この﹃虹﹄はね、新しく﹃魔王﹄が現れたことを示し
﹁⋮⋮﹃王﹄って、なんのことだ?
﹁え?
ているんだよ﹂
当たり前のようにラティナが告げた﹃答え﹄に、デイルは眉間に
皺を寄せる。
わかんない﹂
﹁魔人族には、そんな言い伝えがあるのか?﹂
﹁⋮⋮?
誰に聞
問われて、ラティナは再び不思議そうに首を傾げている。
デイルじゃないんだよね?﹂
﹁ラグ⋮⋮じゃないし⋮⋮モヴ⋮⋮だったのかなぁ⋮⋮?
いたんだっけ⋮⋮?
﹁俺は、聞いたこともない話だ﹂
﹁そっか⋮⋮誰に聞いたんだろう⋮⋮?﹂
並んで空を眺めながら、ラティナは考え込んでいたが、その答え
が出ることはなかった。
次の6の月が訪れると、ラティナは16歳になる。
デイルが彼女を異性であると、認識を改めてから一年と半年以上
が過ぎた訳だが、二人の関係は変わったような変わっていないよう
879
な、微妙な距離を保っていた。
デイルとしては、ラティナのことを、﹃自分にとって特別な女の
子﹄として認識していても、同時にまだ﹃幼い少女﹄だとも思って
いた。
彼女が成長していることは、ちゃんと直視するようにはなってい
たが、だからといって直ぐさま﹃手を出す﹄気にはなれない。
それはなんか人として駄目なような気がする。
その為、なんだかんだと理由を付けて、現状維持を選んできた−
−のだと思う。
ラティナ当人も、自分から何かを望むような発言はしない。
ただ、デイルの言葉を信じて、穏やかに微笑んでくれている。そ
のことを考えれば、デイルは年下の彼女に、すっかり甘えていると
も言えた。
とはいえ、デイルにそんなに余裕がある訳でもない。
思春期を迎えた頃は、同年代の娘たちより、成長が遅めだった彼
女だったが、それは本当に、遅いだけであったらしい。
身長はそれほど伸びなかったが、それ以外の﹃部分﹄は、なんと
言うか、だいぶ大きくなった。
あれだけ心配していた母親の遺伝は、それほど大きな影響を与え
なかったらしい。父方の遺伝子の成せるわざだろうか。
毎日くるくると、働く彼女の運動量はかなりのもので、手足には、
折れるようなか弱さはないが、すらりと細く長く伸びている。腰も
運動のお蔭でだいぶ括れており、女性特有の曲線を悩ましく描いて
いる。
はっきり言えば、だいぶスタイルが良いのであった。
880
少し童顔という印象を受けるのは、彼女の表情が、無邪気さの残
る幼い印象を与えるものだからだ。
時折物思いに耽る姿は、歳の離れたデイルでさえ、ドキリとさせ
られる。﹃美しい﹄や﹃綺麗﹄という表現を素直に使うことができ
る容貌だった。
育ったラティナは、−−率直に言わずとも、美人と言わずして何
と呼べば良い。という感じなのであった。
それなのに、ラティナは幼い頃から変わらない無防備さで、デイ
ルに甘えてくる。安心しきった表情で、仔猫めいた仕草で擦り寄っ
て、幸せそうに見上げてくる。
これが計算でやっていたとしたならば、どんな悪女となるだろう
か。−−と、デイルが現実逃避しかける程の攻撃力である。
彼とて、聖人でも枯れている訳でもない。自分を慕う美しい魅力
的な女性を前にして、何も感じないなんてことはないのだ。
全ては、自分がはっきりしないことが原因であることも、自覚し
ているデイルは、日々をそんな風に、時折悶々と、過ごしているの
であった。
﹁くっつかないなら、俺のところに来れば良いのに﹂
﹁デイルが良いの。大人になるまで、待ってるって言われたから、
待ってるだけだもん﹂
﹁俺は今すぐでも良いのに﹂
﹁デイルが良いのっ﹂
この一年半ほどで、すっかり﹃踊る虎猫亭﹄で定番となった光景
が、ラティナとルドルフのこのやり取りだった。
881
諦めるつもりのない発言をした彼であったが、その宣言通りに﹃
踊る虎猫亭﹄の日参を止めることはなかった。
告白直後こそ、ぎこちなかった二人だが、ルドルフがそれを吹っ
切ってラティナを毎日のように口説き、ラティナがあっさりと断る
というやり取りに変化するまでは、そう時間はかからなかった。
とりあえずルドルフは、常連の強面のおっさんどもに、吊し上げ
られた。
だが、それにもめげない気概と、ラティナ当人が、彼とのやり取
りを重く受け止めていないことから、次第におっさんどもの態度は
軟化した。
ルドルフが、率先してラティナの周囲の露払いをしていることに
も、気付いた為である。
ルドルフ当人が、諦めないという意志をラティナに見せていると
いう理由はある。
だが、それだけなら、衆目の中繰り返す必要はない。ルドルフが
敢えて﹃虎猫亭﹄の中でこのやり取りをしているのは、ラティナを
狙う周囲の男たちへの牽制だった。
﹃憲兵隊の重役たちに可愛いがられている若手の有望株﹄として認
識されている自分自身と、﹁デイルが好き﹂というラティナの発言
をおして、彼女に近付けるのか、と問うているのであった。
﹃保護者﹄連中が案じていた告白ラッシュが、それによって防がれ
たという功績が、ルドルフの現在の地位を確立していたのである。
彼は、頑張っていた。
﹁そういえば、ラティナ﹂
﹁何?﹂
甘口の果実酒以外の味も、この一年で覚えたルドルフが、酒杯を
882
舐めながらラティナを呼び止めた。
﹁今、この街に、﹃魔人族﹄の旅人が来てるぞ﹂
﹁え?﹂
ルドルフの言葉に、ラティナは不思議そうに、こてん。と首を傾
けた。
883
青年、白金の娘と。︵後書き︶
気にしていた﹃ところ﹄は、少しじゃない程度におっきくなれた様
です。
884
白金の娘、自らの郷里のこと。
﹁魔人族だって、よくわかったね。人間族の街で、角出して歩いて
いるって⋮⋮あんまり聞かない話なのに﹂
﹁いや、角は隠れてた。三人組で、皆、南の国風の帽子被っていた
から﹂
・
・
﹁なら、何でわかったの?﹂
﹁これに反応した﹂
・
・
そう言ってルドルフは、自分の胸元にさがる黒い欠片を持ち上げ
た。
﹁その連中は、これが﹃角﹄だってわかったからだよ﹂
ルドルフが示したのは、ラティナがかつて自らで折った角だった。
一見しただけでは、黒い貴石のように見えるそれを、角であると
見破ってみせたのも、ラティナ自身だった。
﹁私の角?﹂
﹁元々は、言葉にだいぶ訛りがある、他所の国の者らしいひとだっ
て、東の門番から応援要請が入ってさ﹂
他の街に比べると、旅人に寛容だと言われるクロイツの街だが、
全ての来訪者を無条件で中に入れている訳ではない。
街壁を守る門番の役割は、内部に入る者から通行税を取るのと同
時に、不審な人物がいないかを見張ることなのである。
そこで、言葉も不自由そうな他国者に、門番が不審を覚えた。
他国の者だからといって、不審とはならない。
だが、ラーバンド国の公用語は、世界中で最も使用する者の人口
が多い、﹃西方大陸語﹄と呼ばれる言語だ。
885
その言葉に不自由な者という存在は、目を引く。
そこで憲兵隊本部に問い合わせが入り、その過程で伝令を引き受
けたルドルフが、東門を訪れた。
彼等は、ルドルフを見て、顔色を変えた。
三人組のうち、一人は、はっきりと激昂する表情となり、別の一
人も、抑え切れないように、憎々しげに表情を歪めた。
最後の一人だけが、何事かを考え込む様子で一点を−−ルドルフ
が首からさげる小さな欠片を見ていたのだった。
その反応で、ルドルフは彼等が、﹃魔人族﹄だと思い至った。
﹁ラティナから、魔人族の言語は違うって聞いていたし、﹃角﹄に
不愉快そうな反応するのも、無理のない話だしな﹂
﹁え?﹂
ルドルフの言葉に、ラティナの方がきょとんとする。
彼女の反応に少し驚いたルドルフは、呆れたような表情をした。
﹁だって、﹃角を折る﹄って行為の結果だろう﹂
﹁あ。そうだね﹂
魔人族にとって、﹃角を折る﹄ということは、最大の侮蔑行為に
あたる。
罪を犯した者を追放する際に、角を折るという以外にも、相手を
侮辱する為に、勝者が敗者の角を奪うこともあるという。戦士にと
っては、生き恥を晒すことと同義であり、その際には、自決して果
てる者も少なくないという。
﹃角﹄という物そのものが、そういった行為の先にしか発生しない
存在だった。
﹃魔人族の角﹄を所有するルドルフに対して、怒りの感情を見せる
のも、無理からぬことだった。
886
﹁その中の一人が連れを制したから、何事も起こらなかったけどな﹂
魔人族の年齢差は、外見ではわからない。ただ、ルドルフの持つ
角を見て考え込んでいた者が、一行のまとめ役であったらしい。
﹁嬢ちゃん、﹃角﹄手離してたのか?﹂
そばのテーブルで、いつも通りに安酒を煽っていたジルヴェスタ
ーが驚いた顔で、二人の会話に口を挟んだ。
おれら
﹁そんなもん持ってたら⋮⋮魔人族に喧嘩売ってるようなもんだし
⋮⋮人間族の間でも、﹃呪いのアイテム﹄の代名詞扱いされてるも
んだぞ﹂
そっち
﹁そうなの?﹂
﹁鑑定方面に聡い奴に聞いた話だと、怨念とか呪詛が籠められてる
って話だ。元々折られる過程を考えりゃ、無理もない﹂
クロイツ育ちで、魔人族の習慣や考えに疎いラティナは、ジルヴ
ェスターの言葉に、なるほどという反応になった。
自分のことだというのに、若干他人事のような反応である。
エンチャント
﹁私は、人間族じゃないから、﹃魔力付与﹄は出来ないんだけど⋮
⋮﹂
そう呟きながら、ちょん。と、ルドルフが、首からさげる自らの
角の欠片に触れる。
﹃魔力付与﹄という、技術であり能力と呼べるものは、人族の中で
は人間族のみが有する﹃種族特性﹄だ。
﹁これは﹃私の一部﹄だから⋮⋮私の魔力が残っているの﹂
﹁そうなのか?﹂
﹁うん。たぶん、呪いって呼ばれるのは、普通なら﹃角に残る魔力﹄
が、苦しいとか、嫌だとか⋮⋮絶望に満ちたものになるからじゃな
いかな﹂
・
・
ラティナはそう言ってから、ルドルフに笑顔を向ける。
﹁でもね、これは、たぶん大丈夫だよ。クロエに﹃綺麗だ﹄って言
887
って貰えて嬉しくて、そんなの全部塗り替えちゃったから﹂
﹁そ⋮⋮そんなの気にしてないからな﹂
ラティナの﹃残り香のようなもの﹄が宿っていることを知って、
ルドルフがそれを嫌だと思う筈もなかった。
﹁私が、これに籠めたのは、大切な友だちのそばに居れて嬉しいっ
て気持ちだから。たぶん、お守りみたいな感じになってると思うの。
これのこと、じっと見てたってひとには、わかったんじゃないかな﹂
それを聞いてルドルフはそそくさと、首飾りをしまい込んだ。
そ
﹃呪いのアイテム﹄と、﹃ラティナ謹製のお守り﹄では、周囲の目
が明らかに違う。
﹁ただ、しばらく外出は控えめにした方が良いんじゃないか?
の⋮⋮あのさ、ラティナは、あんまり故郷の奴と会わない方が⋮⋮
良いかと思ってさ﹂
ルドルフがそう言ったのは、憲兵隊に所属するようになって、彼
が魔人族の﹃罪人を片角を折って追放する﹄という習慣を知ったか
らだった。
彼を初めとして、﹃踊る虎猫亭﹄に通う者たちの中でも、特に幼
い頃のラティナを知る面子は、彼女を罪人だとは考えていない。
こんな良い子を以て罪人と呼ぶのであれば、世の中ほとんどの者
が大罪人であるという認識なのであった。
それでも、彼女が郷里を追放された以上、そこには何かしらの理
由がある筈だった。
どう考えてみても、厄介事であるだろうそのことに、ラティナを
関わらせたくはないと願ってしまうのである。
﹁私ね、小さい頃、本当に限られたひととだけ、過ごしてたから⋮
888
⋮私のこと知ってるひとって、少ないとは思うの。﹃私が追放され
ることになった﹄ってことは⋮⋮知られたかもしれないけど﹂
ラティナはそう答えて、ルドルフに笑みを向ける。
﹁でも、心配してくれて、ありがとうルディ﹂
﹁お⋮⋮おう﹂
赤面したのをごまかすように、ルドルフは再び酒杯を口へと運ん
だ。
その後、他出から戻ったデイル相手に、ラティナはルドルフから
聞いた話を報告した。
﹁ルディにそんな風に教えて貰ったの﹂
私は要らないもの。欲しいって言ってくれた、クロエや
﹁それより⋮⋮角って、自分で持ってたんじゃなかったのか﹂
﹁何で?
ルディに持ってて貰う方が嬉しいよ﹂
﹁ラティナがそれなら、良いけどな⋮⋮﹂
デイルも、魔人族が﹃角﹄を神聖視しているという文化を持つこ
とを知っているからこそ、自ら折ったとはいえ、ラティナはそれを
大切にしまっているのだろうと思っていた。
いくら親友相手でも、あっさりと他人に譲っているとは思ってみ
なかった。
かえ
﹁ヴァスィリオに、お前を捜している奴はいるのか?﹂
﹁わかんない。⋮⋮でも、私は戻ったらいけないの﹂
デイルの言葉に、ラティナは寂しそうに微笑んだ。
﹁私の存在は、ヴァスィリオでは、災いにしかならない。あの国は
今、ようやく皆が待ち望んでいた新しい﹃一の魔王﹄を戴いたんだ
お前⋮⋮?﹂
もの。⋮⋮きっと、皆が望んでいた、良い国にしてくれる⋮⋮﹂
﹁ラティナ?
﹁私は、﹃災い﹄になんて⋮⋮成りたくないの﹂
889
﹁⋮⋮それが、お前の受けた﹃予言﹄か?﹂
ラティナの呟きの中に含まれる、不穏な響きに、デイルは彼女を
抱き寄せた。幼い頃からずっとそうであったように、自らの腕の中
に囲いこむ。守られているという安心感を与えることができるよう
に。
かつて、﹃予言﹄の内容を覚えていないと答えた彼女は、デイル
の問いかけに、かすかに首を横に振る。
﹁わかんない。でも、大人になって⋮⋮考えて。両親が言ってたこ
ととか思い出して⋮⋮そうじゃないかって、思うこともあるの﹂
隣で自分を抱きしめてくれるデイルを見上げて、ラティナは小さ
な声で言葉を継いだ。
﹁私の両親は、私のことを守ろうとしてくれてたって⋮⋮あの国に
あのまま居たら、私はきっと﹃災い﹄をもたらした⋮⋮だから、私
を守る為に、外へと連れ出したんだって思うの﹂
かえ
﹁⋮⋮ラティナを見てたら、よくわかる。お前は愛されて育ったん
だろうってことぐらいはさ﹂
﹁だからね、私は⋮⋮あの国に、戻ることはできないんだよ﹂
寂し気に微笑んだラティナを抱き締める腕に、無意識に力をこめ
ながら、デイルは彼女の失ったものの多さを改めて考えていた。
890
青年、年貢をおさめることを考える。
﹁ラティナと結婚することを、最近真面目に考えてる﹂
﹁今更感もあるな﹂
﹁今更ね﹂
﹁ふられちゃっても、良いのに﹂
﹁わふぅ﹂
おもむろに切り出したデイルの一大決心に、大家一家と一匹は、
一斉にそんな返答を上げたのだった。泣いても良いですか。
﹁あーうー﹂
ケニスの腕に抱かれていた、テオの妹であるエマが、小さな手を
デイルの頭へと伸ばす。黒髪に触れてくしゃくしゃとかき混ぜると、
満足そうに笑った。慰めてくれているらしい。
﹁それで、本格的に家を探している訳なんだが⋮⋮﹂
﹁デイルはいなくなって良いけど、ねぇねは、このままで良いのー﹂
﹁親とおんなじようなこと言いやがって⋮⋮﹂
﹁デイルが﹃ふりょのじこ﹄にあったら、ぼくが、ねぇね、およめ
さんにするの﹂
﹁前々から思ってたんだけどさ、この店に来るおっさんども、幼児
教育には最っ低だよな﹂
﹁ラティナは、本当にまっすぐ育ってくれて、安堵している﹂
デイルのその言葉には、ケニスも同意した。腕に抱くエマへと微
妙な視線を送っている。
﹁俺は、そう簡単には、くたばらねぇよ﹂
﹁ねぇね﹃まじんぞく﹄だから、チャンスはいっぱいあるんだよ。
ぼくの方が、わかいから、先はながいのー﹂
891
﹁⋮⋮本当にあのおっさんども、なんてこと吹き込んでるんだ⋮⋮
﹂
むふん。と、ドヤ顔をするテオは、デイルの反論にもへこたれな
かった。幼児の強気の発言に、デイルの方が頭を抱える。
﹁それにしても、結婚って⋮⋮なんだか色々すっ飛ばすわね、あん
た。ぐでぐで先送りにしてるって思ってたら、急にそこに行くんだ﹂
リタが呆れるのも、致し方無い。ラティナは兎も角、良い歳した
デイルが、プラトニックにも程があるような、生ぬるい関係を続け
ていたのだから。
﹁俺はさ、なんつうか⋮⋮今でも﹃ラティナの保護者﹄ってところ
が残っている訳なんだが﹂
﹁まぁ⋮⋮今でも﹃保護者﹄ではあるしな﹂
﹁﹃保護者﹄としての俺は、こう考える訳だ。﹃遊びでラティナに
手ぇ出した奴はぶっ殺す﹄﹂
お前、﹃遊び﹄じゃなくとも、彼女に手を出す輩には容赦しない
だろう。という突っ込みは、大家夫妻の胸の内に留められた。
﹁だから、﹃俺自身﹄に対しても、そーいう感じでさ。ラティナ相
手に中途半端なことしたくなかったんだよ。ラティナ、結構良くな
い方向に物事考えるしな﹂
﹁それで、﹃結婚﹄か﹂
﹁ぶっちゃけ、なし崩し的に手ぇ出しそうで、最近怖い﹂
﹁ラティナ⋮⋮育ったものねぇ⋮⋮﹂
﹁育ったなあ⋮⋮﹂
・
・
・
﹁当人、あんなに気にしてたのに⋮⋮気が付くとあっという間だっ
たものね⋮⋮授乳中の私より、今じゃ大きいし⋮⋮﹂
幼い頃を知るからこそ、﹃大人たち﹄の目が、遠くを見るように
892
なる。
リタに至っては、自らの胸元に視線を向けて、かすかにため息を
ついた。別に、大きいものが秀でているという訳では全くないし、
気にしているつもりも無い。それでもあれだけ小さかった﹃妹分﹄
に、大きな差を付けられるというのは、微妙な心持ちになるもので
ある。
﹁一緒に寝ている訳だけどさぁ﹂
一時期﹃寝床﹄が別れていたデイルとラティナであるが、彼らの
暮らす﹃踊る虎猫亭﹄の屋根裏のスペースは、﹃二部屋﹄作るには
狭い。デイルから距離を置くためにラティナが作っていたスペース
は、本当に一時避難の為の狭い小さな空間だった。
その結果、仲直りと共に、ラティナはデイルの元へと戻った。
元々、特に田舎などでは、部屋数や暖房器具の関係で、一家族で
ベッドを共有するというのも、珍しい話ではない。
そう考えれば、デイルとラティナが同じ布団にくるまっているこ
とも、別に不審を抱く行動ではないのだ。
自分の隣に潜り込んだラティナが、幸せそうにぬくぬくとしてい
る姿は非常に可愛らしく。無意識なのか、暖を求めるように自分の
背中に擦り寄って来る仕草にも、デイルは癒されていた。であるが、
いつの頃からか、その行動の過程で、柔らかな感触を感じるように
なった。
それが何であるか、気付いた時から、デイルは微妙に距離を取ろ
うと、試みてはいたのだ。だが、睡眠中の無意識下の行動を、完全
に制御できる特殊能力は、デイルにはない。
﹂
﹁柔らかくて気持ち良いなぁって思って起きて、ラティナを抱き締
めてることに気付くってのが、最近のパターンだ
893
﹁惚気か﹂
﹁惚気もするさ﹂
相変わらずこの男は、そういった点では悪びれなかった。
﹁ラティナが可愛いのは、揺るがないからな﹂
その辺のスルースキルも、周囲は年々上がっている。
﹁良さそうな物件はあったのか?﹂
こ
こ
﹁それが難しくってさ⋮⋮一応西区で探してるんだけど⋮⋮絶対、
ラティナ、﹃虎猫亭﹄に通うって言うだろう?﹂
﹁ラティナがいないと、ウチとしても大変だしな﹂
﹁ラティナのお蔭で、テオも赤ちゃん返りしなかったし﹂
両親、特に父親であるケニスやリタの父親である祖父などは、新
しく産まれたエマにでれでれになった。母親であるリタはそのあた
りは一線を引いていたが、それでも赤ん坊にどうしても手は取られ
てしまう。
テオが拗ねて、いわゆる﹃赤ちゃん返り﹄を起こさなかったのは、
その分ラティナが、テオにかかりきりになったからであった。
彼女も、赤ん坊に興味を持たない訳ではない。
それでもラティナは、妹が産まれたことで、寂しい思いをしてい
るテオに敏感に気が付いた。その為、テオをたっぷりと可愛いがっ
てくれたのだった。
親より﹃姉﹄大好き。な、テオにとっては、結果オーライであっ
た。
このへん
﹁だからといって、南区だと、俺が仕事で留守の間、心配だしさぁ
⋮⋮往復時の安全を取るか、留守中の治安を取るか⋮⋮悩みどころ
で⋮⋮﹂
過去何度か、デイルはラティナと共に、新居を構える計画をして
いた。
その度に断念したのは、そういった懸念材料をクリア出来なかっ
894
たからであった。
特に今より幼かったラティナを、自分が長期の仕事で留守にする
間、一人きりで生活させるのか、という問題点は大きかった。
﹃虎猫亭﹄の屋根裏部屋という環境は、ラティナの身の安全を考え
るならば、どんな高級住宅街の豪邸よりも安心であったのだ。
西区の高級住宅街で、それなりの邸宅を求めた場合、環境的な治
安は良いが、強盗などの不安も出来る。維持の為に使用人を雇うと
したならば、人物の見極めも必要だ。
﹃虎猫亭﹄での仕事の為に、ラティナが通勤する時間は、人通りの
少ない早朝や夜間になるだろう。女の一人歩きを心配して当然の時
間だ。
だからといって、﹃虎猫亭﹄の近場に家を探せば、どうしても治
安の良くない地域になってしまう。南区には、素性も定かではない
旅人やならず者が多いのだ。全ての者が善人であるなどと、寝言を
言う気にはならない。
﹁ラティナ自身の魔法使いとしての技術で、ある程度の自衛が出来
るってのは、わかっているけどな。それでも、危ねぇことは変わり
ないし。⋮⋮ラティナ、根っこが優しい娘だから、暴漢相手でも、
躊躇しちまうかもしんねぇし⋮⋮ぶっ殺してやる位で良いのになぁ﹂
﹁普通はそこまで、吹っ切れないわよ﹂
﹁ぶっころすーっ﹂
﹁お前も、あんまり幼児教育には、良くないよな﹂
小さな握りこぶしを掲げて、宣言した息子の姿に、父親は冷静な
判定を下した。
﹁お前の留守は、どうしても知られ易いしな⋮⋮色々な意味で、お
前は﹃有名﹄だ。最近の若い奴等の間では、﹃王都で高名なデイル・
レキ﹄として、お前の事を英雄視してる奴も少なくないからな﹂
895
そして大抵の若者たちは、﹃実物﹄を見て、驚愕するのである。
もはや、クロイツ名物と言っても過言ではない﹃親バカ﹄として
の彼の姿は、彼の名声程には知られていないのであった。
﹁お前が留守で⋮⋮ラティナが一人で暮らしてるだなんて言ったら
⋮⋮﹂
﹁変質者が日替わりで現れても、驚かないわね﹂
﹁だろう?﹂
﹁ヴィントが居たら、番犬にはなるだろうが⋮⋮正直、それでも、
やってられないな﹂
﹁わふっ?﹂
﹁⋮⋮だからさ、せめて、しっかり周囲にラティナは俺のだって事
をアピールする為にも、関係を明確にする必要もあるかなって思う
んだよ﹂
・
・
そうやって、理由をやたらと求めるのも、デイルの一種の照れ隠
しであることを知る﹃兄貴分﹄とその妻は、そこを抉るような真似
はしないのであった。
896
青年、白金の娘に申し込む。
デイルがラティナを誘って、クロイツ中心部の広場に向かったの
テオも誘う?﹂
は、穏やかな気候のある春の日だった。
﹁お散歩?
﹁いや⋮⋮たまには二人で行こう﹂
﹁わふっ?﹂
﹁だから、お前も留守番だ﹂
﹁わふぅ﹂
ヴィント相手にデイルが釘を刺すと、ラティナが可笑しそうに、
クスクスと笑った。
ゆっくりと手を繋ぎ並んで歩く。かつて幼い彼女を腕に抱いて、
東区に向かった道筋を途中まで辿る。
﹁初めてラティナを東区に連れて行った時の事、覚えてるか?﹂
﹁凄く驚いたことは覚えてるよ。こんなにたくさんのひと、見たこ
となんてなかったから﹂
﹁俺も、田舎から出てきた頃は驚いたもんなぁ﹂
﹁あのね、デイルに連れて行ってもらった靴屋さん。テオやエマの
靴もあそこで買ってるんだよ。子ども用の靴が得意なの﹂
﹁ラティナは、今は、違うところで買ってるのか?﹂
﹁クロエに勧められたお店に行ってる。リタにも教えたの。新しい
店だけど、どれもデザインが凝ってるから﹂
﹁へぇ⋮⋮﹂
話す内容は、他愛ない日常のものだ。時折ラティナが、落ち着か
なさげに、服の上から左の二の腕に触れる。何気なく触れたそこに、
硬い感触を覚えて、デイルは暫し思案した。
897
﹁あぁ、﹃腕輪﹄か?﹂
﹁うん。ずっと仕舞っていたんだけど、そろそろ着けても良いかな
って、出してみたの﹂
それは、彼女の父親の名が刻まれた、彼女が唯一持つ﹃故郷のも
の﹄だった。成人用の腕輪であった為に、幼い頃の彼女には大き過
ぎ、無くしてしまう訳にはいかないと、部屋に仕舞っていた姿をデ
イルも見ていた。
﹁慣れてないから、落ち着かなくって⋮⋮﹂
﹁﹃魔人族﹄の習慣か⋮⋮﹂
﹁私が、小さい頃見た大人たちも、みんな着けていたから。大人に
お前の父親の﹃お守り﹄なんだしな﹂
なったら着けてみようって思ってたの﹂
﹁良いんじゃねぇか?
﹁うん﹂
ゆったりとした上着の上からは、彼女の腕の様子は見えない。そ
れでも以前見た腕輪の姿を思い浮かべる。
幼い細い手足には、ぶかぶかだった腕輪が、いつの間にか嵌めら
れることの出来る程に成長したんだな、と、感慨深くなった。
クロイツの中央広場は、今日も大勢の街の人びとが、それぞれ憩
いの時間を過ごしている。
過去の自分もそうであったように、歓声を上げて走り回る子ども
たちの姿をラティナは目で追って、表情を優しげに緩めた。
そうなのかも﹂
﹁ラティナは、子ども好きだなぁ﹂
﹁そうかな?
テオやエマの面倒をみることを厭うこともなく、こうやって子ど
もの姿を見る度に、優しい表情になる彼女を、デイルも見てきた。
﹁私も、いつか⋮⋮﹂
﹁ん?﹂
﹁⋮⋮ううん、何でもないのっ﹂
ラティナが呟きかけた言葉を察しながら、デイルは彼女と繋ぐ手
898
にそっと力を込めた。
そよぐ風に頬を撫でられ、ラティナが目を細める。降り注ぐ日差
しは、軽く汗ばませる程に暖かい。木陰を選んで、芝生の上に腰を
下ろした。
﹁ラティナ﹂
﹁なあに?﹂
デイルが名を呼ぶと、その声に振り返ったラティナは、目映い程
に、綺麗だった。
長い髪を緩やかに編んでたらし、化粧の必要もないほど、張りの
ある肌理の細かい肌は、輝くばかりにみずみずしい。
灰色の眸を飾る長い睫毛も、桜色の唇も、幼い頃から変わりない
ようでいて、幼さの抜けた今では、﹃美しさ﹄をかたち作るパーツ
の一つになっていた。それでもあどけなさを感じさせる表情が、彼
女が﹃綺麗なだけ﹄ではない、豊かな感情を持つ存在であることを
主張していた。
素直に、﹁綺麗だな﹂と思う。
彼女が微笑んでくれていることに、幸福感で満たされる。
何かあった?﹂
自分が﹃選んだ﹄選択肢が間違っていないと、確信した。
﹁良い天気だね﹂
﹁そうだな﹂
﹁急にどうしたの?
﹁⋮⋮やっぱり、変か?﹂
﹁それはそうだよ。私、ずっとデイルのこと、見てきたんだよ﹂
隣で自分を見上げるラティナは、そう言って、可笑しそうに笑う。
どこかぎこちない今日の自分の様子に、彼女が気付かない筈が無い
ことはわかっていたけれど、それを上回る気恥ずかしさに視線を少
899
し逸らす。
﹁ラティナ、これ受け取ってくれ﹂
﹁え?﹂
渡した小箱に、ラティナが不思議そうな顔をする。
﹁私の誕生月には、まだ早いよ?﹂
九年前の﹃
﹁そうだな。でも、﹃今日﹄は、﹃特別﹄な日だろ?﹂
﹁⋮⋮うん﹂
デイルの言葉に、ラティナはそっと胸を押さえる。
今日﹄、彼女はデイルにあの森の中で出逢った。全てがはじまった
日から、丁度九年経ったのだ。
﹁俺たちにとって、特別な日だ﹂
﹁そうだね﹂
ラティナはそう答え、素っ気ない外見の小箱を、ぱかりと開けた。
眸に飛び込んできた煌めく輝きに、驚く。精緻な細工の宝石飾りは、
見事としか言いようのない程に美しい。
﹁す、凄く⋮⋮高そうな、アクセサリーだよ?﹂
﹁何でお前は、そういうこと言うかなぁ⋮⋮﹂
おどおどと言うラティナの、あまりにも堅実な性格のコメントに、
デイルは苦笑を浮かべた。
促して、箱から取り出させる。
ラティナの手を取って、彼女の細い手首にするりと嵌めた。
﹁綺麗⋮⋮﹂
﹁﹃魔道具﹄になってる。とはいっても、装身具としての意味合い
の方が強いけどな﹂
腕輪に光る輝く宝石は、花弁に見立てられて、満開の花を刻んで
いた。どの角度から見ても、美しい花と艶やかな果実の、植物の意
匠で埋めつくされている。
900
﹁⋮⋮結婚しよう﹂
﹁え?﹂
﹁﹃父親代わり﹄と﹃養い子﹄じゃないかたちで⋮⋮﹃家族﹄にな
ろう﹂
﹁デイル⋮⋮?﹂
デイルの言葉に腕輪から顔を上げたラティナは、呆然とした顔を
した。驚きで感情すら読み取れない表情のラティナに、デイルは気
まずそうに視線を泳がせた。
百戦錬磨で知られる、一流の冒険者である彼だが、どんな苛烈な
プ、プロポーズして、無言で返されるのは、
戦闘時でも、感じたことのない緊張感に襲われる。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁ラ、ラティナ⋮⋮?
結構キツイもんが、あるんだが⋮⋮?﹂
﹁⋮⋮だって、でも、いきなりだから⋮⋮﹂
掠れた声は、震えていた。
﹁嫌か?﹂
﹁そうじゃない⋮⋮そうじゃないけど⋮⋮っ。でも、﹃結婚﹄なん
て、考えたことなかったから⋮⋮﹂
﹁俺のこと﹃好き﹄だって言ってくれたのに、﹃結婚﹄の方は考え
た事がなかったのかぁ⋮⋮﹂
﹁だって、私は、﹃魔人族﹄だから⋮⋮っ。赤ちゃん、出来るかも、
わかんないから﹂
﹁知ってるよ。ラティナの子どもなら、すんげぇ可愛いとは思うけ
ど、俺は﹃子どもが欲しいから﹄結婚したいんじゃない﹂
長寿種である﹃魔人族﹄の出生率が低いことは、デイルも知って
いる。子ども好きだからこそ、子どもを授かることが出来ないかも
しれないということを、ラティナが思い悩んでいることも、察して
いた。
901
・
・
﹁デイルが良いって、言ってくれても、⋮⋮デイルの家族は⋮⋮﹂
﹁これが答えだろう﹂
たった今、彼女の手首に通した腕輪に触れる。花と果実が共存す
る意匠は、彼の故郷では、伝統的な特別な意味を持つ紋様だ。
﹁親父とおふくろには、﹃ようやくか﹄って言われたし、婆なんか
⋮⋮﹃ラティナちゃんを逃したら、お前なんか一生結婚相手が見つ
からねぇ﹄って言ってたよ﹂
﹁おばあちゃん⋮⋮﹂
・
⋮⋮本当に、私で良いの?﹂
ラティナは小さく呟いて、潤んだ眸を彼へと向ける。
﹁良いの?
﹁⋮⋮俺は、ラティナが良いんだ﹂
私
その途端、抑え切れなくなったように、大粒の涙が、ぼろぼろと
溢れた。
﹁どうして⋮⋮デイルは、全部、私の願いを叶えてくれるの?
の﹃欲しいもの﹄みんな、みんな、叶えてくれるの⋮⋮?﹂
零れた涙を指先で拭うが、間に合うこともなく、後から更に涙が
どんどん溢れてきた。
﹁私⋮⋮なりたかったの。ずっと⋮⋮ずっとデイルの﹃特別な女の
子﹄になりたかったの⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ああ﹂
﹁デイルが好き、デイルと一緒にいたいの⋮⋮デイルに何も返すこ
との出来ない私だけど、これからもデイルのそばにいさせて⋮⋮﹂
﹁ラティナが﹃何も返すことが出来ない﹄なんて、ことはねぇから
⋮⋮俺のそばにいてくれるだけで⋮⋮ずっと俺を支えてくれている
んだから⋮⋮だからな⋮⋮﹂
照れも羞恥も、後で言わなかったことを後悔するよりはずっと良
いだろう。
﹁これからも俺のそばにいて欲しい﹂
だからこそはっきりと灰色の眸を覗き込んで言ったデイルに、ラ
902
ティナは涙に濡れた顔を、満開に花咲くように綻ばせて、答えた。
﹁⋮⋮はい﹂
そのまま顔を近付けると、ぎこちなくラティナが眸を伏せた。
重ねるだけの、児戯のような口付けなのに、耳朶まで真っ赤に染
めたラティナに釣られるように、デイルもまた、その頬を赤く染め
たのだった。
903
青年、白金の娘に申し込む。︵後書き︶
最大級の糖分投下で、本年の﹃うちの娘﹄を締めたいと存じます。
今年も一年ありがとうございました。良いお年をお迎えください。
904
白金の娘、幸福と夢の間で。︵前書き︶
新年明けましておめでとうございます。
今年もマイペースな投稿となりますが、お付き合い頂ければ幸いと
存じます。
905
白金の娘、幸福と夢の間で。
ずっと、自分の気持ちに﹃嘘﹄をついていた。
幸福だからこそ、今まで目を背けていた、そのことに気付いてし
まった。諦められるなんて、﹃嘘﹄だ。耐えられるなんて、﹃嘘﹄
だ。
今が﹃幸福の絶頂﹄であるのならば−−後は、やっと手に入れた
﹃幸福﹄は、失われていくだけなのかもしれない。
なくしてしまったら、自分は、どうしたら良いのだろう。どうや
ってのこされた時間を過ごせば良いのだろう。
−−﹃彼女﹄は、そう呟いて−−目の前の﹃椅子﹄に、透明な雫
をこぼしたのだった。
また、ぼんやりとしている。
デイルは心配そうな表情で、夢うつつな表情のラティナの髪を撫
でた。最近ぼうっとしていることの多いラティナであったが、正式
に結婚を申し込んだ以降も、この状態になることは、多かった。
妙な、不安感に襲われるのだ。
彼女の体調を心配するだけでなく、自分の根底にある﹃何か﹄が、
警鐘を鳴らすのだ。
だからデイルは何度も彼女の名を呼ぶ。
自分の元に帰って来いとばかりに、彼女を﹃呼び戻す﹄。
﹁ラティナ﹂
906
﹁⋮⋮デイル?﹂
﹁ああ、俺は、⋮⋮此処に居るぞ﹂
その答えに、力なく微笑んだラティナの顔が、迷子になった後の、
彼女の泣き顔のように見えたからかもしれない。
ラティナの手首に嵌められた高価な腕輪の存在は、すぐさま周囲
の注目を集めた。
仕事中に傷を付けることなどを恐れたラティナは、初め、仕舞い
込もうとしたのだが、デイルがそれを拒んだ。
ただのアクセサリーでなく、﹃魔道具﹄なのである。簡単に傷が
付いたり欠けたりはしない。
﹁ラティナがもう、俺のもんだってことを、きっちり示す必要があ
るんだからな﹂
そう言ってやれば、彼女は真っ赤に頬を染めた。
アクセサリー
高価な腕輪だからこそ、意味があるのだと、理解したのだろう。
これだけ高価な贈り物を贈ることの出来る﹃相手﹄が、自分には存
在しているということと、それを身に着けるということで、相手の
好意を受け入れているのだと、周囲に知らしめることになるのだ。
それも、彼女の場合、﹃相手﹄が誰であるかは、はっきりしてい
る事実だろう。
とりあえず、その晩のルドルフの酒量は増えた。
彼だけでなく、何人もの若い連中−−時々良い歳の野郎も含めて
−−の酒量が増えた。
常連客であるおっさんどもは、揶揄いとセクハラじみた言葉を贈
りながら、何時にも増して、大酒をかっ食らった。
この晩の﹃踊る虎猫亭﹄は、全体的に客単価が良く、大いに売り
907
上げがアップしたのだった。
正規の料金に足された常連たちからの祝儀は、真面目でそういっ
たものを固辞しそうなラティナを避けて、店主夫婦に託ける程度の
ことをしてのける程度には、常連客たちは世慣れていた。
揶揄われても、ラティナは幸福そうだった。恥ずかしそうに頬を
染めて、時には口を尖らせて見せていたけれど、そんなことでは抑
え切れないように、表情から、仕草のひとつひとつから、幸せであ
る事が見て取れる。
ただでさえ﹃美しい﹄娘であるというのに、内面の幸福感が、彼
女をより美しく見せていた。
因みにデイルは、複数のおっさんどもに、波状攻撃を食らい、潰
された。それも、一種の寿ぎであると、﹃解毒魔法﹄は使わず、甘
んじて酔いに身を任せることを選んだのだった。
下手に魔法を使った事がバレても、後が面倒だったというのもあ
る。
それからの日々も、ラティナは、幸福そうにしていた。
デイルに抱き寄せられても、口付けを受けても、可哀想になるほ
どに、恥じ入る姿すら可愛いらしく、デイルの悪戯心を大いに刺激
することになった。
彼は今の今まで、﹃保留﹄にしていたことの反動のように、歳下
の﹃婚約者﹄をべったべたに溺愛しだしたのである。
ちょっと周囲は、イラッとした。
そして、﹃溺愛﹄と言葉にしたら、あまり今までと変わらない単
語であることに、微妙な気分にさせられた。
908
﹁ラティナが可愛い過ぎて、仕事に行きたくない﹂
﹁あの娘が可愛いのは、知ってるわよ﹂
何故か、書類仕事の最中のリタを相手に、デイルは緩みに緩み切
った表情で報告したりするのであった。
事務仕事をするリタは、﹃定位置﹄で仕事をしている。捕まえて
話相手にするには、丁度良いのかもしれない。
とはいえ、連日のように聞かされるリタとしては、たまったもの
ではない。
﹁可愛いいんだよぉーっ、本当に、ラティナ、可愛いんだよっ﹂
﹁あんたの惚気、聞かなきゃ駄目なの?﹂
﹁ちょっと、ぎゅーって、してやるだけで照れちまうし、急にキス
とかしてやると、もう真っ赤になっちまうんだよぉ。﹃怒ったか?﹄
この馬鹿、思う存分やっ
って聞いてみると、﹃怒ってないよ﹄って、超可愛い声で答えてく
ヴィントはいないの!?
れるんだよぉ﹂
﹁ヴィント!
てしまって構わないわよ!﹂
﹁今の俺に、怖いものは無いぞ﹂
はっはっは、と高笑いしてみせるデイルに、リタの堪忍袋がブチ
リと音をたてそうになる。
﹁あぁーっ⋮⋮でも、ラティナの﹃嫌い﹄は、怖いなぁ⋮⋮だが、
いい加減、このお花畑男、なんとかして!﹂
ラティナはそんなこと言わねぇけどな!﹂
﹁ラティナ!
厨房の方にリタが声を張ると、ラティナが恐る恐る顔を出した。
﹁ふぇぇ⋮⋮リタ⋮⋮今、デイルに近付くと、私⋮⋮﹂
か細い声で答えるラティナは、最後まで答え切る事が出来なかっ
た。
﹁ラティナっ﹂
﹁ふゃあぁぁぁっ!﹂
一瞬にして、捕まった。
909
一流の冒険者にして戦士であるデイルの体術は、一般人であるラ
ティナが反応できるものではない。あっという間に膝の上に乗せら
れ、抱きすくめられる。ただ抱きしめているだけのように見えると
いうのに、抵抗はおろか、満足に動くことすら出来ないように﹃拘
束﹄される。
羞恥に耳朶まで赤く染めて、助けを求めるように周囲をおろおろ
恥ずかしいから、止めて⋮⋮っ﹂
と見回すラティナに、デイルは何度も口付けを降らせた。
﹁デイル、デイルっ!
﹁恥ずかしがるラティナも本当に可愛いなぁ⋮⋮﹂
駄目だ、こいつ、自重する気が無い!
リタの目が、光を失った。諦めの極致に至ったとも言う。
﹁⋮⋮せめて、人目の無いところで、いちゃつきなさいよ⋮⋮﹂
﹁リ、リタっ!﹂
﹁じゃあ、そうするな﹂
・
・
・
ひょいと、軽々とラティナを抱き上げて、自室へと向かうデイル
の腕の中で、ラティナが半泣きのような声を上げた。
そんな背中を見送りながら、二人の﹃関係﹄が、今以上に進んだ
デイル
時に、彼女の身体は無事で済むのだろうかと、リタは何だか、微妙
な気分になった。
あのこ
︵魔人族⋮⋮子ども出来にくい体質だからって、あの馬鹿の方が、
コルモゼイ
調子に乗るんじゃないかしら⋮⋮︶
﹃橙の神﹄は、豊穣と子孫繁栄を司る神。デイルはその神の高位の
﹃加護﹄持ちなのである。
ちょっと想像するのが、生々しくなってきたので、リタは考える
ことを意図的に放棄した。
︵⋮⋮まあ、ラティナ⋮⋮﹃回復魔法﹄使えるしね⋮⋮︶
﹃妹分﹄へと人生の先輩としてリタが出来ることは、ささやかに、
910
心の中でエールを贈ることだけだった。
自分の腕の中で、ついさっきまで、恥ずかしそうに身を捩ってい
たラティナであったというのに、今はもう、ぼんやりと、夢とうつ
つをさ迷っている。
ぎゅっと、腕に力を込めたまま、彼女の肩口に顔を埋める。反応
を返さない彼女の様子に、恐ろしさに似た不安を覚える。
﹁⋮⋮ラティナっ﹂
名を呼んだ時だけ、かすかな反応が返ってくる。煙る灰色の眸を
ゆっくり動かして、他の誰でもなく、デイルの姿を捜す仕草をする。
﹁デイル⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ラティナ﹂
瞼に、頬に、口付けを降らせる。
何度も繰り返す内に、眸に力の戻ったラティナが、声を上げる。
﹁デイル、デイル⋮⋮擽ったい⋮⋮っ﹂
甘い抗議の声に、泣きたくなる程の安堵を覚える。だからこそ、
彼女への口付けも、抱擁も、緩める気にはなれなかった。
何度も尋ねた。
その度に彼女は﹁具合は悪くない﹂と答える。それどころか、自
分が頻繁に意識を混濁させていることすら、気付いていないのだ。
記憶に欠落があれば、賢い彼女のことだから、自分の異常に気付
く筈だろう。けれども﹃異常﹄にすら気付かない。だからこそ、よ
り恐ろしい。
何か、取り返しのつかない事が、起こってしまいそうな気がする。
だから、ほんのわずかな時間すら、手の中から離す事が恐ろしい。
﹁俺は、お前と一緒に、居るからな⋮⋮﹂
911
﹁⋮⋮?
⋮⋮うん﹂
デイルの言葉に、不思議そうに首を傾げながらも、ラティナは嬉
しそうに微笑んで、頷いた。
先に追い立てられるように、急くように。
・
・
・
・
ゆっくりと彼女の心と身体の成長を待っていた筈のデイルが、正
式な婚約から時間を経ずして、彼女と、更なる深いつながりを求め
たのは、彼のそんな不安故の行動だった。
どんな手段を用いても、少しでも深く、少しでも彼女を自分の元
に繋ぎ止めたいと−−願った故の行動だった。
瞼だけでは、頬や、唇だけでは足りないと、彼女の隅々まで口付
けを降らしたのも、自分自身を刻みつけたいと、望んだのも−−
彼女を手放したくないと、共に在りたいと、願う故の行動だった。
912
白金の娘、求める。
全身に残る気だるさは、幸福を分かち合った結果だった。
ずっと前から望んでいた。他の誰でもなく、彼とこうなることを、
望んでいた。
選んで貰えた幸福に、胸が一杯になる。
愛して貰えた幸運に、目が眩みそうな程に、くらくらする。
幸せだった。
いつもよりも距離の近いぬくもりに頬を寄せて、自分にとって、
﹃安心﹄を意味する香りに溺れる。
幸せ、だからこそ−−
ラティナは、ぽろぽろと、彼の腕の中で涙を溢した。
−−気が付くと、見慣れた﹃光景﹄の中にいた。
円形に並んだ七つの﹃玉座﹄の中央、定められた﹃玉座﹄の前に
座り込む。
止まらない涙を流し続ける。
肩を震わせ、嗚咽を漏らして、涙を溢れさせる。
抑え切れなかった。
幸福だからこそ、うしないたくないと、思ってしまった。
なくしたくないと、願ってしまった。
自分がたったひとつだけ願うこと。彼と、愛するひとと、共に生
きること。共に在ること。
自分の長い寿命を受け入れたなんて﹃嘘﹄だ。いつか訪れる、彼
913
との別離を受け入れたなんて﹃嘘﹄だった。
喪いたくなんて、無い。亡くした後の時間を、独りになってしま
った後の時間を、生きるなんて、きっと出来ない。
ことわり
細い指を、震えながら、伸ばす。
理の外の﹃玉座﹄の背に触れて、びくりと手を引いた。
けれども、知っていた。
知っていたから−−彼女は、もう一度震える指を﹃玉座﹄へ伸ば
す。
﹃求めない﹄と誓っていた筈の﹃ちから﹄。
それでも、求めてしまったのは、自分の願いを叶えるたったひと
・
・
・
・
⋮⋮プラティナ
・
﹄
つの﹃ちから﹄でもあったからだった。
﹃
ごめんなさい、ごめんなさい⋮⋮違うの、違うの⋮⋮でも、で
かつて呼ばれたことのある、懐かしい響きで﹃名﹄を呼ばれる。
﹁
も、私⋮⋮あなたを、あなたを害するつもりは無いの⋮⋮ごめんな
﹂
⋮⋮其方には、余の名を赦す。我が⋮⋮愛しき﹃白金の姫﹄よ
さい、ごめんなさい⋮⋮新たな﹃一の王﹄
﹃
﹄
・
・
・
もの
朧気に気配のかたちしか感じることの出来なかった、一つ目の﹃
・
⋮⋮フリソス⋮⋮私は⋮⋮
﹂
玉座﹄に座る﹃存在﹄の姿を幻視する。
﹁
愛する﹃白金の姫﹄よ。余は其方に⋮⋮
﹄
涙に濡れた眸で、名の通りに黄金の輝きを抱く存在を見上げる。
﹃
続いた言葉に、彼女は何度も頭を振った。
﹁私は⋮⋮私は⋮⋮﹂
泣き声が響く﹃世界﹄の空を、数多の虹が覆っていた。
914
多くの者が寝静まる時間に世界を包む虹は、ひっそりと、月の光
と共に煌めいていた。
腕の中のぬくもりに、﹃違和感﹄を覚えたのに、理由を求めるこ
とは出来なかった。強いて言うならば、それが自分の持つ﹃理﹄で
あるからだろう。
ざわざわと、波打つ不安、そして不快感。本能に近い部分が、最
愛の存在を否定していた。
﹁⋮⋮ラ⋮⋮ティナ?﹂
自分の目に見える彼女は、全く変わってはいなかった。
とろんと、眠そうに。普段に増してあどけない表情をしていると
ころや、柔らかな白い肌を、悩ましげに露にしているという昨晩を
想起させる姿に、表情を緩ませることも出来ずに。それでも﹃変わ
ってしまった﹄彼女を凝視する。
﹁⋮⋮デイル?﹂
声も、変わっていない。彼女が変わっていないからこそ、デイル
は泣きそうな声を絞り出す。
﹁⋮⋮﹃魔王﹄﹂
・
・
・
・
その単語に、びくり。と、身体を跳ねさせて、彼女は愕然とした
表情をした。
それだけの反応で、デイルは自分が見抜いたことが、事実である
何で、お前が⋮⋮﹃魔王﹄に?﹂
ことを確信してしまった。
﹁何で⋮⋮?
﹁ど⋮⋮して⋮⋮、何で⋮⋮デイル、わかっ⋮⋮?﹂
がくがくと震えるラティナを、気遣う余裕もデイルにはなかった。
それでも、拒む﹃本能﹄を叩き伏せて、彼女を抱き締めることだ
915
けは出来た。
ティスロウ
﹃勇者﹄と呼ばれる能力者は、複数の﹃神﹄の﹃加護﹄を有してい
る。
コルモゼイ
デイルの持つ﹃加護﹄は、ひとつは、彼の一族にとっての主神た
る﹃橙の神﹄。彼の神よりデイルは、﹃大地に関する魔法に於ての
アズラク
守護﹄を賜っている。戦うという彼の生業を支える、大きな力だっ
た。
そして彼にはもうひとつ、﹃青の神﹄の﹃加護﹄があった。その
加護以てデイルが成せることこそ、ラーバンド国が﹃対魔王の勇者﹄
として、彼を優遇した力だった。
・
・
デイルは、﹃魔王﹄と﹃その眷属﹄を見抜く。
本来の﹃ひととしての理﹄を外れた存在を、知覚する。
自分の能力を知っているからこそ、デイルは事実を見なかったこ
とには出来なかった。逃避して、気付かない振りをすることは出来
なかった。
ニーリー
−−自分は、きっと薄々、﹃何が起ころうとしているのか﹄に、
気付いていたのだ。
だから、様子のおかしい彼女を藍の神の神殿に連れて行こうとも
あちら
せずに、ただ、自分の腕の中に隠した。
﹃彼方﹄に行かないでくれと−−ただ、愚昧なまでに﹃呼び戻す﹄
ことを選んだ。
理由はわからない。
何故、この娘が、変じてしまったのかはわからない。
﹁ご⋮⋮ごめんなさい、ごめんなさい⋮⋮っ﹂
泣きじゃくりながら、ただ謝罪の言葉を繰り返すラティナを、抱
916
き締める。
﹃魔王に対する存在﹄であるデイルは、本能的に﹃魔王﹄を拒む。
それでも今、自分の腕の中に居るのは、間違いなく﹃ラティナ﹄な
のだ。
幼い頃から、ずっとずっと、見守ってきたラティナなのだ。
自分は、彼女と共に在ると誓った。彼女の居場所であると誓った。
−−ならば、彼女が彼女である以上、自分の在り方は、変えない。
自分の心が決まり、腹が据わると、デイルは冷静さを取り戻した。
﹃魔王﹄が、どうした。﹃魔王﹄であろうがどうだろうが、ラティ
ナが可愛くて良い娘で、自分にとって大切な女の子であることには、
変わりないではないか。
魔王になったからと言って、ラティナはラティナだ。
そこまで考えたら、ちょっと現在、昨夜の名残を残した−−乱れ
た、肌も露な格好の−−ラティナを抱き締めていることを思い出し
た。
今、それに反応するのは、さすがに人として駄目なんじゃないか
な、なんて思ったりした。
﹁ほら、泣くなって⋮⋮ラティナ﹂
﹁私⋮⋮っ、私⋮⋮ごめんなさい⋮⋮ごめんなさい⋮⋮﹂
﹁怒ってねぇから。どっちかと言えば、心配はしてるけど、怒って
はねぇから、泣かないでくれって⋮⋮﹂
改めて説明する必要もないほどに、デイルは、ラティナの泣き顔
には非常に弱かった。
泣き続けているラティナへの罪悪感は、とてつもないものなので
917
ある。
別に自分に落ち度はなくとも、そんな理屈でどうこうならないか
らこその感情なのだ。
その感情の示すままに、思うことを腕の中のラティナへと告げる。
﹁お前が﹃魔王﹄になっちまったのは、驚いたけど。もうそれは良
いから﹂
﹁ふぇ⋮⋮?﹂
デイル⋮⋮?﹂
﹁別に、﹃魔王﹄になっちまったのは、もうなっちまったんだから、
え?
仕方ねぇから﹂
﹁え⋮⋮?
さすがに、問われることもせず、そう断言されるとは思ってもい
なかったラティナが、驚きの声をあげた。
﹁ラティナが、ラティナなら、俺はそれで良いんだ﹂
ラティ
デイルはもう、悪びれることもなく、言い切っていた。表情もい
っそ清々しい。
ナ
﹃勇者﹄という﹃魔王と相対する存在﹄としての本能を、﹃うちの
元
親
バ
カ
娘大好き﹄というアイデンティティーが上まった瞬間であった。
彼は、﹃勇者﹄である前に﹃うちの娘最優先﹄であったのだ。
﹁だって、私⋮⋮駄目だって、わかってたのに⋮⋮﹂
﹁そうか﹂
﹁求めちゃ⋮⋮駄目だって⋮⋮なのに⋮⋮﹂
﹁うん﹂
抱き締めてくれるまま、幼い頃からそうだったように、ただ優し
何で、怒らないの?﹂
く自分の言葉を聞いてくれるデイルに、ラティナは涙に濡れた眸を
向けた。
﹁何で⋮⋮?
918
﹁怒る理由も、まだわかんねぇし。俺は、ラティナが、いっぱい考
えた結果﹃選んだ﹄んなら、理由がちゃんとあるってことも知って
る﹂
﹁デイル⋮⋮﹂
優しい声に、涙が再び溢れる。
ラティナはデイルにすがりついたまま、途切れ途切れに、自分の
想いを訴えた。
デイルは彼女の髪を撫でながら、その声を受け止める。
﹁デイルが好きなの﹂
﹁そうか﹂
﹁デイルと、離れたくないの⋮⋮っ﹂
﹁うん⋮⋮そうか﹂
﹁だから、だから⋮⋮﹃魔王﹄のちからを、求めたの⋮⋮っ﹂
﹁んん?﹂
その発言は、よくわからなかった。
919
白金の娘、﹃世界﹄を語る。
日常と異なる事態が襲って来ても、やはり世界はいつも通りに動
いているものなのである。
すなわち、普段ならば、とっくに階下に降りて来る筈のラティナ
が来ない状況を不審に思ったケニスが、下から声を掛けたのだった。
﹁どうしたーっ、ラティナ?﹂
・
・
・
・
そこで二人は、氷入りの冷水をぶっかけられたように、我に返っ
た。
﹃魔王﹄云々の前に、今の状態を見られるのは、色々不味い。
デイルは兎も角、ラティナは特に不味い。
二人の暮らす屋根裏は、荷物や衝立で区切られてはいるものの、
壁で明確に仕切られている訳ではない。基本的にプライベートな時
間に家主夫婦は上がってくることは無いが、上がって来られると色
々見えてしまう。
ラティナは、自分があられもない姿であることをようやく思い出
したらしく、全身を一瞬で羞恥の色に染める。
寝坊だ、寝坊っ!﹂
下から足音が聞こえてきた瞬間に、デイルが反射的に声をあげた。
﹁ケニス、すまないっ!
その隣では、ラティナが慌てて着替えを始めていた。慌て過ぎて、
片足に絡みついた夜着に足をとられて、ぺちゃん。と転ぶ。
さっきまでとは異なる理由で、半泣きになっていた。
その姿に、﹃魔王﹄らしさの片鱗もなかった。
︵というか⋮⋮﹃魔王﹄とは何だろう⋮⋮?︶
920
外見上の変化は、ラティナには全く無い。﹃魔王﹄と一口に言わ
れているが、例えば、﹃二の魔王﹄と﹃四の魔王﹄では持つ能力も
性質も、全く異なる。ラティナがどんな魔王になって、どんな能力
を持っているのかまでは、デイルにはわからなかった。
そして、そんな変じてしまった彼女は−−
今日もいつも通りに、山盛りの芋の皮を剥いているのである。
ちょっと冷静に状況を考えてみようと思ったが、ますます混沌と
しただけだった。
自分の想像力が、﹁玉ねぎに泣かされる﹃魔王﹄﹂というものま
で到らない。事実は小説よりも奇なりと言うが、こんな﹃現実﹄と
相対する日が来るとは思ったこともなかった。
うん、だがやっぱりラティナは可愛いな。なんて、現実を見よう
と思ったら、現実逃避になってしまった。
かつて、魔人族の女性であるグラロスから聞いた話では、﹃魔王﹄
という存在そのものが、人間族と敵対している訳でも、破壊と殺戮
の化身という訳でもないらしい。
ローゼが﹃二の魔王﹄と接した際に耳にした話も、﹃魔王﹄だか
ら他種族と敵対するのではなく、当の本人の資質が関係していると
言うものだった。
ならば、ラティナが﹃変じた魔王﹄が、いわゆる﹃災厄の魔王﹄
だとは思えない。
−−と、考えるうちに、デイルは疑問を抱いた。指折り数えて、
首を捻る。
﹁ラティナが成った﹃魔王﹄って⋮⋮何だ?﹂
世界各地に居を構える﹃魔王﹄は、七色の神が定めた世界の理通
921
りに、﹃七つ﹄である筈だ。全ての魔王と相対したという訳でも無
いが、デイルの元には、仕事の関係上、話程度は集まってくる。
先日ラティナは、﹁新しい﹃一の魔王﹄が現れた﹂と、言ってい
た。
その言葉が事実であるならば−−現在空位の魔王は存在しない筈
だ。
ローゼが遭遇した、殺戮愛好家である﹃二の魔王﹄。
東の地で、海鱗族と共存しているという﹃三の魔王﹄。
病を司る存在であり、その座する土地では、蔓延した死病が国す
ら滅ぼそうとしているという﹃四の魔王﹄。
別名を﹁塔の魔王﹂と言い、居城たる塔の外に出ないとも言われ
ている﹃五の魔王﹄。
通常の魔人族たちよりも、遥かに秀でた体格の自ら一族を、眷属
−−魔族とし、世界を放浪しているという﹁巨人の魔王﹂たる﹃六
の魔王﹄。
そして、戦乱と争乱そのものを求める﹃七の魔王﹄。
−−全て、存在している筈だった。
人間族の知らないところで、﹃一の魔王﹄がそうであったように、
何処かが空位となっているのだろうか。
デイルは浮かんだ疑問の答えを得るすべがないままに、紛れもな
い﹃新たな魔王﹄である彼女を見つめていた。
やっぱり、改めて見てみても、ラティナは可愛いかった。
昨夜の、何時にも増して﹃可愛いかった姿﹄も、ついつい思い出
してしまって鼻の下を伸ばす。引き締めようと試みるも、一度緩ん
だ緊迫感は、新たに更新された溺愛しても足りない程の感情に駆逐
された。
922
彼もまた、いつも通りであったのだった。
﹁⋮⋮で、一日考えてみたんだが⋮⋮﹂
﹁うん⋮⋮﹂
サ
夜を待ち、部屋に二人きりになると、デイルはラティナと向かい
合い、そう切り出した。
ーガ
魔王と勇者が余人を交えず相対する−−それだけを抜き出せば英
雄譚の一篇のようだが、現在二人の間に漂う空気は、微妙な反省会
のような雰囲気なのであった。
﹁ラティナはラティナのまんまなんだな﹂
﹁⋮⋮そうだよ。﹃私﹄の人格とか、考え方が変わっちゃうって訳
では無いの﹂
むしろ、デイルが発していく疑問に、ラティナが答えていくとい
う姿から考えれば、尋問−−程、緊迫していない、せいぜい質疑応
答という程度なのであった。
﹁﹃魔王﹄になることは、お前が選んだこと、なのか?﹂
﹁⋮⋮うん﹂
その問いの答えは、泣きそうな顔でのものだった。
もの
﹁ダメだってわかってたの。﹃魔王になること﹄を選んだら、もう、
戻れない⋮⋮﹃私﹄が⋮⋮今までの私とは﹃別の存在﹄になってし
まうことも⋮⋮わかっていた、から⋮⋮﹂
﹁よく考えたこと、なのか?﹂
﹁⋮⋮うん﹂
﹁なら、良いさ﹂
デイルは微笑んで、ラティナの頭を撫でる。幼い頃からずっとそ
うしてきたように、彼女の味方であることを伝えるように。
923
﹁デイル⋮⋮﹂
﹁ラティナが選んだ道ならば、俺はそれを頭ごなしには否定しない。
だから、ちゃんと話してくれ。お前がその﹃選択肢﹄を選んだ理由
⋮⋮後、﹃魔王﹄のこと﹂
﹁⋮⋮うん﹂
こくり。と、素直に首を振り、ラティナは語るべきことを考え始
めた。
﹁﹃神さまに選ばれ、護られる者が、魔王となる﹄⋮⋮私がヴァス
ィリオで聞いていた言葉⋮⋮魔王はね、神さまから与えられた﹃運
命﹄に護られている。﹃魔王と成り、魔王であり続ける﹄って運命
によって、魔王はあらゆるものから護られる﹂
﹁⋮⋮知っている﹂
デイルが短く答えたのは、彼が﹃対存在﹄である﹃勇者﹄だから
だった。
どんな英傑も武術の達人でも、魔王の元には剣も魔法も届かない。
それを打ち消すことそのものが、対存在である﹃勇者﹄の﹃能力﹄
だった。複数の加護があるから﹃勇者﹄なのではなく、神に与えら
れたその能力こそが、対存在としての真価なのである。
﹁﹃魔王﹄は、神さまからその権能の一部を与えられた、﹃ひとか
ら産まれる下位の神さま﹄なの﹂
ラティナはそう言って、灰色の眸を揺らめかせた。
﹁だから、魔王は、何人からも傷付けられない。ひととしての命の
区切りも、魔王を滅ぼすことはない⋮⋮魔王を傷付けることができ
るのは、同じように﹃神のちから﹄を持つ他の魔王と、﹃神さまか
ら覆すちからを与えられた者﹄だけ﹂
924
ことわり
﹁⋮⋮それも、故郷で聞いていたこと、なのか?﹂
﹁ううん。違うの。⋮⋮魔王は、世界の﹃理﹄そのものであり、世
界の運営と維持を担っている﹃七色の神﹄さまから、
世界を動かす権限を与えられているの⋮⋮魔王になったこと
で、世界の根幹の一部を識ることが許されるの﹂
ラティナはそう言いながら、デイルが知覚することの出来ない、
ひとつ隣の次元と言うべき﹃場所﹄に在る、自らの﹃玉座﹄を見た。
万物全てとはいかないが、許可された範囲内であるならば、今の
自分は、この﹃端末﹄を使うことで、様々なことを知る事が出来る。
魔王としてのちからの全てや、多くの知識について得ることが出来
ることも理解していたのだった。
﹁⋮⋮﹃魔王﹄の能力の一つ、として考えても良いのか?﹂
﹁うん﹂
ラティナが頷くのを見て、デイルは不本意なものもあるが、一部
に於ては納得もする。
魔王が魔王としてのちからを振るうことが出来るのは、魔王に成
ったのと同時に、その在り方を知ることが出来るからなのだろう。
それを可能にしているのも、﹃神々﹄の成せるわざだ。
﹃魔王﹄を生み出すのは、﹃世界のルール﹄そのものである﹃神々﹄
だ。魔王もこの世界の内に在る存在のひとつである以上、神々の干
渉なくては存在出来ないのだから。
﹁⋮⋮何で、魔王なんて存在してるんだ?﹂
﹁世界の停滞を防ぐ為⋮⋮神さまは、﹃ルールそのもの﹄だから、
直接﹃世界﹄⋮⋮社会には干渉しないの。ただ、正しく﹃世界﹄が
在るように、停滞しないように循環させて、運営することだけを担
925
っている。⋮⋮だから、ひととしての価値観の中で、世界を掻き回
すことの出来る存在を定めた。それが﹃魔王﹄なの⋮⋮﹂
﹁厄災すら⋮⋮定められているっていうのか?﹂
憤りに、かすかに刺のある声音になったデイルに向かい、ラティ
ナはあくまでも落ち着いた声で答えた。
﹁だから﹃対存在﹄がいるの。魔王は﹃魔人族﹄から産まれる。魔
人族から生まれし王だから、﹃魔王﹄。魔王を生み出すひとである
・
・
・
・
から﹃魔人族﹄⋮⋮そして、他の人族からは﹃勇者﹄が生まれる。
魔王を護る運命を覆す、神さまの深い寵愛を持つ者として⋮⋮﹃魔
王を世界から排除するちから﹄も、神さまが定めた存在だから﹂
﹁覆す者⋮⋮﹂
それも以前聞いたことのある単語だった。勇者の能力−−魔王に
対することの出来るちからこそ、それを指すのだろう。
﹁⋮⋮でも、何で⋮⋮魔王になることを選んじまったんだ?﹂
しかも、それが﹃自分﹄のせいだとはどういうことだろうか。
問いかけたデイルに対し、ラティナは困った顔をして、下を向い
た。
926
白金の娘、﹃世界﹄を語る。︵後書き︶
説明回、長くなったので途中で分かれてしまいました。
活動報告の方に、書籍版の告知を載せております。宜しければご覧
くださいませ。
927
青年、選ぶ。
やがて口を開いたラティナは、なんとなく叱られた後のような、
しゅんとした顔をしていた。
﹁本当はね⋮⋮デイルに、気付かれちゃうなんて、思わなかったの。
だから、もっともっと後に⋮⋮心の準備が出来たら、話そうって思
ってたの⋮⋮﹂
初心者﹃魔王﹄の彼女自身も、色々心の準備は出来ていなかった
らしい。
こちらも非常に動揺したのだが、﹃見抜かれてしまった﹄彼女に
とっても、大混乱な事態であったようだ。何だか申し訳ない。
ことわり
﹁私は、﹃魔王﹄だけど、﹃理の外の魔王﹄だから⋮⋮ほとんど﹃
ちから﹄らしい﹃ちから﹄は持って無いの⋮⋮でも、全ての魔王が
持つ⋮⋮魔王にだけ、赦されている﹃能力﹄がある⋮⋮﹂
そして、彼女は、ゆっくりと言った。
﹁魔王は、自らの眷属をつくることが出来る﹂
−−魔族。
魔王に従う、魔王の眷属。あらゆる種族の者から、−−ひとだけ
でなく幻獣や亜人といった、知恵あるものならば、どんな種族から
も−−﹃生まれる﹄存在。
それは、外見に﹃元の種族﹄との変化は無くとも、比べものにな
らない程の、強大な﹃ちから﹄を有する存在だった。
﹁それは⋮⋮﹂
928
ラティナはそこで、再び言い淀んだ。
デイルは促すように、彼女の髪をそっと撫でる。泣きそうな顔を
したラティナは、デイルを潤んだ眸で見上げた。
﹁それは、私の﹃願い﹄を叶えることの出来る⋮⋮唯一の可能性だ
ったの﹂
﹁お前の⋮⋮願い?﹂
ぎゅっ。と、ラティナはデイルの服を掴む。幼い頃からの彼女の
癖に、デイルは彼女の不安を感じ取った。
﹁魔族は⋮⋮魔族なら⋮⋮﹃定められた時間﹄という理を、変える
ことが出来る⋮⋮だから⋮⋮だから、私は⋮⋮ダメだってわかって
いたのに⋮⋮それなのに⋮⋮ごめんなさい、ごめんなさい⋮⋮﹂
ぽろぽろと、泣き出しながら、彼女は再び謝罪の言葉を繰り返す。
・
・
小さく嘆息して、デイルはラティナを抱き締めた。
﹁⋮⋮それが⋮⋮﹃俺が理由﹄である訳か⋮⋮﹂
じかん
彼女がずっと、﹃人間族﹄である自分と、﹃魔人族﹄である己の、
﹃寿命の差﹄に思い悩んでいることは、知っていた。
だが、それはどうすることも出来ないことであったから−−いつ
か訪れるその時が来るまで−−そして、その後の時間に委ねて−−
流れる時間に任せるしかないことだとも思っていた。
諦めるしかないことであったから。
けれども彼女は、諦めなくても済む方法を、差し出されてしまっ
た。
必ず訪れる永久の別れを、孤独を、絶対のものにしなくて済む方
法を見出だしてしまった。
ずっと切望していたその唯一の可能性を目の前にして、彼女は、
ようやく得た幸福をこのまま失ないたくはないと、望んでしまった。
本来の種族の能力を遥かに超える﹃魔族﹄は、その寿命すら、元
929
。
あるじ
々持つものと変質する。主である魔王に付き従える時間を与えられ
る
﹃魔族﹄となれば−−元が﹃人間族﹄であっても、﹃魔王﹄と同じ
時間を生きることが出来るのだ。
﹁俺のせいで⋮⋮﹂
・
呟きかけて、首を振った。
﹁俺の為に、﹃魔王﹄になったんだな﹂
﹁私っ⋮⋮ごめんなさい、デイル⋮⋮ごめんなさい⋮⋮﹂
﹁謝らなくて、良い。謝らなくて良いんだ⋮⋮﹂
きつく、抱き締める。揺れ動く心の中から、言葉を探した。
﹁ラティナは⋮⋮俺を、﹃眷属﹄に、したいんだな⋮⋮?﹂
﹁っ!﹂
デイルのその言葉には、何故だか彼女は、大きく目を見開いた。
﹁ラティナ⋮⋮?﹂
ぷるぷると、首を横に振ったラティナに、デイルが驚いた顔にな
る。
﹁⋮⋮デイルに、﹃人間族じゃないもの﹄に、なれなんて、言えな
い。﹃理から外れたもの﹄に、なれなんて⋮⋮言えない⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁﹃可能性﹄を否定しきれなくて、弱い私は手を伸ばしてしまった
けれど⋮⋮だからといって、大好きなデイルを⋮⋮私が﹃違うもの﹄
になんて⋮⋮出来ないよ﹂
その返答に、何故か笑いがこみあげた。
すとんと、あるべきところに、﹃答﹄が嵌まった感覚がした。
もう一度、彼女を抱き締める。柔らかな白金色の髪に顔を埋め、
優しい甘い香りを感じる。
﹁⋮⋮デイル?﹂
930
﹁ラティナは、ラティナなんだな﹂
変わっていなかった。彼女は、自分の大切なラティナのままだっ
た。
なら、自分も﹃自分﹄のまま、変わることはないだろう。
﹁良いぞ﹂
﹁⋮⋮え?﹂
﹁俺を、ラティナの眷属に⋮⋮﹃魔族﹄にしても構わない﹂
自然に微笑むことが出来た。作った笑顔では無く、心の底からそ
うすることが出来た。
﹁俺も、ラティナを﹃独り﹄にはしたくない﹂
それならば、﹃それ﹄は、自分にとっても選ぶべき﹃選択肢﹄な
のだろう。
ひと
﹁ダ⋮⋮ダメだよ⋮⋮デイルっ﹂
﹁何でだ?﹂
﹁だって⋮⋮だって⋮⋮﹂
こんなにあっさりと、﹃人間をやめる﹄という発言をされたラテ
ィナの方が、真っ青になる。慌てふためいて、デイルを説得しよう
と試みる。
本来ならば、立場が逆では無いのだろうかと思えば、更に笑いが
こみあげそうだった。その﹃ちから﹄が欲しくて、求めてしまった
後でも、彼女は自分を慮っていてくれる。こんな優しい彼女が−−
自分は、本当に大切なのだ。
﹁俺は、ラティナと同じ時間を生きたい﹂
だからデイルは、自ら望んでみせた。
﹁ラティナが俺が良いと言ってくれる位に⋮⋮俺もラティナが、大
931
切なんだ﹂
そのデイルの言葉に、ラティナの灰色の眸から、抑え切れなくな
った涙が溢れ出す。ただ、彼にすがり付いて、声をあげて泣きじゃ
くった。
優しい言葉に。赦されたことに。そして、﹃願い﹄が叶う喜びに。
﹁デイルだけ、デイルだけで良いの﹂
新たな﹃魔王﹄となった彼女は、そう言って泣き顔に微笑みを浮
かべた。
大切なひとは、彼女にはたくさん居る。それでも、その全てのひ
とと、共に在れるとは思っていない。それを求めてはいない。
﹃魔王﹄が神に類するちからを持っていても、万能ではない。
だからこそ、彼女は、彼だけを求めた。
俺の最期の時まで、一緒にいようってな。だか
うしないたくない、最愛の存在に、共に在って欲しいと願った。
﹁約束しただろ?
ら、これも全部﹃約束﹄の中のことなんだ﹂
﹁ごめんなさい⋮⋮﹂
﹁謝らなくて良い。俺自身が選んだことなんだからな﹂
﹁⋮⋮ありがとう、デイル﹂
ラティナは、そっと、手を伸ばした。
自分よりも、大きな彼の手を握る。
それを、頬に寄せて眸を閉じた。
これは、自分を救いあげてくれた、手だった。
あの時、彼が差し出してくれたこの手に、自分は命も−−心も、
救われてきたのだ。
932
﹁私の最大の幸運は、デイルに、救われたことなの﹂
あの時彼と出逢っていなければ、あの時出逢ったのが、彼以外の
他の誰かだったとしたら−−今の自分は無かった。
・
・
今、幸せだと言えるのは、全てあの時に彼と出逢ったから。自分
の幸せは、全て彼が呉れたものだった。
暖かな手のひらの感触に、自分は何度も救われた。
手を繋いで歩いたこと、全てが、自分にとって大切な思い出にな
った。
だから、そこに
・
・
・
・
・
−−自分と彼を﹃繋ぐ﹄象徴であるそこに−−
・
八、もしくは零の数を冠する﹃理の外の魔王﹄たる、彼女は−−
自らの眷属としての新たな﹃名﹄を−−﹃魔族﹄としての名を、
刻んだのであった。
933
青年、自らの主と呼ぶべき存在と。
・
デイルは自分の左手を目の前にかざした。握ってみた後で、開く。
・
数度その行動を繰り返した後で、彼は、体内に循環する魔力をそ
こに集中させた。
淡く揺らめくような文字列が、手の甲に浮かぶ。それは、彼には、
読み取ることが出来ない語句だった。
﹁魔人族の言葉は、呪文言語でもあるように、魔力との親和性が高
いの﹂
﹁だから、﹃刻む文字﹄も、魔人族の言葉なんだな⋮⋮﹂
﹁本当は、デイルの名前そのものを刻めれば良かったんだけど⋮⋮﹂
﹁まぁ、良いさ。お前にとって﹃大切な名前﹄を貰ったんだ。問題
ねぇよ﹂
ラティナを右手でわしわしと撫でる。
利き手は右であるデイルだが、彼はだからこそ、﹃彼女に差し出
す手﹄は、左手が多かった。咄嗟の事態が起こった際に、守らねば
ならない存在を隣にして、利き手を塞ぐことは命取りになる為であ
る。
﹁⋮⋮本当、驚く位に﹃自我﹄に変化がねぇもんだなぁ⋮⋮﹂
そう呟いたのは、自らの中に、今までの自分に無かった﹃ちから﹄
が渦巻く感覚はあるが、今までとの差異は、それだけでしか無いと
しか、言い様が無いからであった。
その新たに得た﹃ちから﹄も御しきれないものではなさそうだっ
た。元々優秀な魔法使いであり、高位の加護持ちであるデイルは、
﹃大きなちからをコントロールする術﹄に長けている。得たちから
が強大なものであれ、振り回されるようなことを起こす気は無い。
934
﹁デイルの﹃自我﹄には、干渉して無いもん﹂
ラティナは、ちいさく口を尖らせて、抗議するように呟いた。
デイルはそれを聞き止めて、詳しく尋ねる。
﹁⋮⋮干渉することも出来るのか?﹂
﹁精神的に、逆らうこともが出来ないように、支配することも出来
るの。自分の眷属を、奴隷みたいにしている魔王は、みんなそうな
の。⋮⋮他の魔王も、﹃制限﹄はかけているんだと思う﹂
﹁制限?﹂
﹁魔族のひとたちが、自分の主である魔王を、⋮⋮得たちからで殺
したりは出来ないように﹂
﹁ああ⋮⋮成る程なぁ﹂
どんな忠心を誓ったものでも、心変わりしないとは言い切れない。
寝首をかかれるようなリスクを避けたいのは、当たり前の感覚だ。
﹃魔族﹄と成ったことで得られる強大なちからに対して、代償も必
要なものとなるのだろう。
﹁でも、デイルには、してないの﹂
﹁は?﹂
ラティナの答えに、デイルの方が呆気に取られた。
﹁何で?﹂
﹁私がデイルに求めたのは、私が﹃悪いこと﹄をした時に、止めて
くれる存在であることだから﹂
それは、信頼の籠った言葉だった。
もしも、自分の﹃心﹄が変わってしまったら−−そんな、浮かん
だ言葉を飲み込む。だが、賢い彼女はデイルの葛藤すら、気付いて
みせた。
﹁私は、私が大好きなデイルを、私自身が変えてしまうことをした
くないの。
﹃支配﹄してしまったら、私は何時か、デイルを変えてしまうかも
935
ひと
しれない。私だけを見てって⋮⋮私だけのデイルでいて欲しいって
⋮⋮望んでしまうかもしれない。
でも、それは嫌なの。
私は、私が大好きなデイルを、デイルじゃない存在にはしたくな
い。
だから、デイルはデイルのままで良いの。
⋮⋮何時かデイルが、私のことを嫌いになったとしても、それが
デイルが選んだことなら、私はちゃんと受け入れるから﹂
﹁こんなこと言う、ラティナを⋮⋮裏切れる筈ねぇなぁ⋮⋮﹂
もう、なんと言うか健気で可愛い過ぎた。
﹃彼女が彼女のまま﹄隣にいてくれるのであれば、きっと自分も﹃
同じまま﹄であれるだろう。
ぎゅっ、と抱き締めて、とりあえず額にキスを落とす。一度や二
度では到底足りない。
﹁⋮⋮スマラグディ﹂
抱き締めているラティナを解放しないまま、自分の左の手の甲の
文字に、再び視線を向ける。
呟いたのは、ラティナの父親の名前であり、﹃魔族としての自分﹄
に刻まれた﹃名﹄であった。
魔王は、自らの眷属に﹃名﹄を刻む。それこそ、魔王の魔力を与
えらた魔族と成った証であり、魔王によって支配されている証であ
る。
その事実は知っていたが、自分にそれが刻まれる日が来るとは思
わなかった。
ラティナが、﹃スマラグディ﹄という父親の名前を使ったのは、
彼女が知る﹃魔人族の文字﹄のうち、名前に類する物が、自らの名
前とそれだけであったからである。
936
魔王と成ったからと言って、世界中の全てを知ることが出来る訳
ではないらしい。そして﹃初心者魔王﹄の彼女は、未だ自らの能力
の全てを、理解している訳ではないようだった。
少なくとも﹃現在﹄の彼女は、知らないことは知らないままであ
るのだ。なんというか、そんな少し抜けているところも、彼女らし
い。
﹁俺のこと、﹃スマラグディ﹄って呼んだりするのか?﹂
﹁ううん、しないよ。ただ、魔族や、高い魔力を持ったひとには、
文字として読み取れると思うから⋮⋮そう呼ばれちゃう時があるか
もしれない﹂
﹁成程なぁ﹂
魔力を注ぐことを止めると、﹃文字﹄が姿を消す。
﹁これって無意識のうちに、出たりするのか?﹂
﹁⋮⋮精神的なものも、関係するかもしれない﹂
﹁曖昧だな﹂
先ほどから、彼女の返答は、どれも何だか頼りない。
どこの﹃魔王﹄も、初心者の段階ではこんなものなのだろうか。
威厳の欠片もないのだが。それとも、魔王というものが威厳や威圧
感を備えた存在であるという発想そのものが、人間族の思い込みな
のだろうか。
もの
そんなことを考えるデイルは、魔王は曲がりなりにも、﹃神のよ
うな存在﹄であるという事実を、すっかり失念しかけている。
あまりにも、ラティナはラティナのままであるのだった。
﹁⋮⋮﹃普通﹄は、消えることもないかもしれない﹂
﹁そうなのか?﹂
﹁それは﹃支配﹄の証でもあるから⋮⋮デイルは﹃主﹄である私の
影響は受けるけど、﹃支配﹄はされてないし﹂
937
﹁⋮⋮そうか﹂
とりあえずのこの娘は、﹃普通ではない﹄ことをしているらしい。
まぁ、今更驚くことではない。この娘は幼い頃から、自分をはじ
めとする大人たちの予想を、遥かにぶっ飛んだ行動をしてきたのだ。
そう考えれば、﹃魔王になった﹄こと程度、想定出来る範囲内な
のかもしれなかった。
そう考えるデイルも、長年のラティナとの関係で、色々感覚がず
れていた。元々彼自身の家庭環境も、﹃常識はずれ﹄が多い。
︵それにしても⋮⋮普通に、﹃魔族﹄になれちまうもんなんだなぁ
⋮⋮︶
そう独白するのは、デイルが本来持つ﹃能力﹄の為だった。
別に後悔するつもりも、間違ったことをしたつもりも無いが、や
はり勢いで決断した部分はあった。
その最たるものが、﹃魔王の対存在﹄である自分が、﹃魔王の眷
属﹄になることが出来るか否かということであった。
受け入れることが出来ない可能性や、デイル自身が危険な状況に
なる可能性が思い浮かんだ。
それに対してデイルが口をつぐんだのは、彼の身に危険があるか
もしれないということを知れば、ラティナは決して実行に移さない
だろうという確信があった為だった。
デイルが予想していたよりも、彼女の魔王としてのちからによる
﹃干渉﹄は、不快なものでは無かった。初めに感じていた﹃魔王﹄
に対する拒絶反応も、それがラティナであると割り切った頃から、
薄れてきている。
間違いなく彼女は﹃魔王﹄であるのだが、それ以上に﹃彼女らし
・
・
い﹄のだ。うまく説明出来ないのだが、﹃彼女という魔王﹄を、自
分の根底は、緩やかに許容している気がする。
938
まぁ、ラティナだから仕方が無いな。とも、デイルは思ったりす
るのである。
そう言いきってしまえる程に、自分の心は、彼女と共に在ること
を望んでいるのだから。
︵後は、何て言うべきかだなぁ⋮⋮︶
実家には、この顛末を伝えなくてはならない。寿命の在り方が変
化した以上、周囲に隠し切れることでもない。公爵閣下の方にも報
せることになるだろうが、当主である祖母の判断待ちとなるだろう。
﹁まぁ、何とかなるか﹂
﹃彼女を選ぶ﹄と決めるまで、自分は散々悩み、時には逃げ出して
みたりしたのだ。決めた以上、もう自分は揺るがない。
その思いを忘れなければ、その思いを支えてくれるラティナが一
緒ならば−−きっと自分は、何でも出来る筈だ。
ずっと心変わりしないなんて、今の自分には、先のことはわから
ないから言い切ることは出来ない。
それでも﹃この選択﹄は、自ら選んだことだ。誰かのせいにした
りはしない。
−−そして、自分も本当は、遺して逝くことを恐れていたのだ。
可愛い大切なラティナ。自分の寿命よりも遥かに長い時間を持つ
彼女。自分はいつか彼女に、﹁俺のことを忘れて、誰か良い奴の元
に行っても良い﹂と告げなくてはならない日が来るだろう。
最期に格好をつけたいならば、そう言うべきだ。
彼女のことを想うならば、そう赦すべきだ。
でも、言いたくなかった。彼女が﹃自分以外の誰か﹄の腕の中で、
幸せそうに微笑むなんて−−赦せる筈がなかった。
939
勝手な思いだ。だからそんな思いを口にするつもりは無い。
それでも、そんな思いを抱える自分にとっても−−彼女という﹃
魔王﹄が差し出した﹃選択﹄は、﹃自分の願いを叶える可能性﹄で
あったのだ。
940
青年、自らの主と呼ぶべき存在と。︵後書き︶
糖分過多もここで一息。
そろそろシリアスタグが本格的に仕事を始めますが、乗り切るまで、
気長にお付き合い下さればと存じます。
941
白金の娘、逢う。
﹁何かラティナ雰囲気変わった?﹂
﹁え?﹂
・
・
久しぶりに会ったシルビアの一言に、ラティナはびくり。と、反
応する。思い当たる節は色々とあるのだ。
﹁そうかな⋮⋮?﹂
﹁まあ。とうとうはっきりしたんだしねぇ。ちょっとは変わるかぁ﹂
にやりと意地悪く笑うシルビアは、ラティナの嵌める婚約記念の
腕輪を見ていた。その果実と花が共存する美しい細工は、ティスロ
ウの伝統的な﹃結婚﹄を意味する意匠だった。
﹁ラティナの花嫁姿見れないのは、残念だけどねー﹂
﹁まだ、全然そういう予定は決まってないの﹂
アクダル
アクダル
今二人がいるのは、﹃緑の神﹄の神殿に程近いオープンスタイル
のカフェだった。寝食を忘れて仕事に没頭しがちな緑の神の神官た
ち御用達の店のひとつだった。
ラティナがデイルと正式に婚約したことを聞いたシルビアが、話
と惚気を聞くという祝いの席を設けたのである。
そして、シルビアの﹃旅立ち﹄も近付いていた。
﹁シルビアは、まずは何処に行くの?﹂
﹁初めは、先輩に付いて近場からだね。旅そのものに馴れないとい
アクダル
けないし﹂
長年﹃緑の神﹄の神殿で訓練を積んできたシルビアも、正式な神
官として、旅に出る日が近付いていた。
待ち望んでいたその時を間近にして、シルビアの表情も輝いてい
る。
942
﹁気をつけてねって言いたいけど、シルビアがずっと頑張っていた
ことも知ってるから、おめでとうって言っておくね。楽しんで来て
ね﹂
アクダル
﹁もちろん﹂
﹃緑の神の加護持ち﹄にとっては、知らぬ土地に向かい知らぬもの
を感じるという、自らの欲求を満たすことは、何に代えることも出
来ない至上の喜びなのである。
二人がそんな会話をしながら、飲み干したお茶のお代わりを貰お
うと視線を上げた瞬間だった。
異国の服を着た帽子を被った男が、二人を−−正確には、ラティ
ナを−−見ていることに気が付いた。シルビアは初め、そのことに
注意を払わなかった。親友たるラティナの美少女ぶり−−最近はそ
れに女らしさが加わった美人ぶりには、道行く多くのひとが目を留
める。それが異性ならば、ますます珍しくもない。
ラティナは、何故見られているのかと、少し首を傾げただけだっ
た。
だが、次の瞬間−−男がラティナの前に膝を付いて頭を垂れた時、
さすがに二人は驚きで顔を見合わせた。
﹁ふぇっ!?﹂
﹁な⋮⋮っ、ラティナ、知り合いっ?﹂
﹁し、知らないひとだよっ!?﹂
白金の姫君
﹂
そう答えたラティナだったが、男が発した声にびくり。とする。
﹁
﹁⋮⋮っ!﹂
・
ぱっと、再び男の顔を見たラティナは、やがて、大きく目を見開
き、顔色を蒼白にした。震える声は、懐かしい音で絞り出された。
943
貴方は⋮⋮
﹂
﹁
覚えていて下さいましたか。スマラグティ導師は、貴方様を無
﹂
﹁
事、護られたのですね。今、導師はどちらに?
ラグ⋮⋮スマラグティは、⋮⋮もう、ずっと前に⋮⋮
﹂
﹁
そう、でしたか⋮⋮姫神子様の神託は、やはり成立してしまわ
﹂
﹁
れたのですね⋮⋮
﹁ラティナ?﹂
シルビアの声に、ラティナははっとしたように、友人の顔を見た。
白金の姫
﹂
﹁シルビア⋮⋮あのね⋮⋮﹂
﹁
﹂
困惑し、戸惑うラティナの姿に、異国の姿の男は再び彼女を呼ん
﹃我が主﹄がお出でになっております
だ。
﹁
﹁っ!?﹂
男の言葉に、ラティナはシルビアの存在を忘れた。
愕然とした表情で、男をただ、凝視する。
﹁⋮⋮何で⋮⋮﹂
掠れた声で、呟いた。
﹁何で、フリソスが⋮⋮?﹂
そうしてラティナはふらりと、前に進んだ。シルビアが慌てて肩
を掴む。
誰か呼んできた方が良い?﹂
シルビア⋮⋮﹂
﹁ラティナ?
﹁っ!
なつかしい
シルビアは状況がわかっていない顔をしていた。ラティナは、自
分が無意識のうちに﹃故郷の言葉﹄を発していたことに気が付く。
ようやくシルビアのことを思い出したラティナは、膝付きの姿勢
から立ち上がる男に視線を向ける。そして再びシルビアに、沈痛そ
944
うな面持ちで向き直った。
﹁ごめんね、シルビア⋮⋮私、行かなきゃいけない⋮⋮﹂
﹁ラティナ?﹂
﹁⋮⋮お願い、今日のことは、誰にも言わないで。私が﹃このひと﹄
に、付いて行くことも⋮⋮誰にも、言わないで﹂
ラティナがわざわざ念を押す以上、﹃それ﹄が、彼女の最愛のひ
とも含まれるだろうことを察したシルビアは、眉を寄せる。
だが、シルビアは頷いた。
﹁わかった﹂
﹁ありがとう、シルビア﹂
﹁大丈夫なんだよね、ラティナ?﹂
﹁うん⋮⋮私に、危険なことは、ないよ﹂
﹂
ぎこちなく微笑んだ友人が、見知らぬ男の後を追いかけて行くの
フリソス
を見送ったシルビアは、小さく疑問の声を上げた。
﹁黄金⋮⋮?﹂
そして、音もたてずに、椅子から立ち上がった。
何故、フリソス⋮⋮﹃黄金の王﹄が此処に?
﹂
主は、スマラグティ導師と共に、ヴァスィリオを離れられた貴
﹁⋮⋮
﹁
方様の行方をずっと捜しておられました
異国の男が向かうのは、西区の方だった。ラティナは普段あまり
﹂
来ない地域であるのに、道を確認しながら歩くことすら忘れて、男
そして、貴方様を、我らは見付けた
の背中を追いかける。
﹁
﹁⋮⋮っ!﹂
ラティナはその答えに、一度びくり。と身を引く。唇をぎゅと噛
んで男を見上げた。
945
・
・
・
・
﹂
・
・
・
・
・ ・
・
・
・ ・
何で⋮⋮?
・・
﹁
・
貴方様のお姿を見誤る筈が御座いません。この街に貴方様が居
・
﹁
﹂
るのがわかった以上、見付ける事が出来るのは、時間の問題である
と、主には報告致しました
男はそう言いながら、ラティナを見た。
痕跡を見付けたのは、偶然だった。
この街の住人が手にしていた﹃角﹄の欠片。ヴァスィリオにある
筈の﹃姫君﹄のものと同じ魔力を纏う欠片だった。捜すそのひとが、
非業な立場に在り、奪われたにしては、角が纏う魔力は、穏やかな
温かな気配のものだった。
ならば、過程はわからないが、姫君は自ら己の角の欠片を、ひと
に譲ったのだろう。そしてその﹃魔力﹄は、そう長い時間を経てい
ない程に、色濃く残っているのだった。
同時にこの街には、詳しいことはわからぬが、﹃白金の姫﹄の噂
が出回っている。今まで回ったどの土地よりも、捜しひとの居る可
能性は高かった。
真っ青になって、かすかに震えるラティナは、どう見てもこの邂
逅を喜んではいなかった。それも仕方がないだろうと、男は考えた。
この﹃姫君﹄は、﹃主﹄の前に再び姿を現す気はなかったであろう
ということは、彼にも察する事が出来たからだ。
かつて自分を初めとする多くの者を、教え諭す立場であったスマ
ラグティ導師のことは、彼もよく知っていた。あのひとならば、娘
であるこの﹃姫君﹄に、言い含めていたに違いない。
主の望みは、﹃姫君﹄を連れ戻すことだ。
そして﹃姫君﹄と導師はそれを望まなかった。﹃災厄をもたらす
予言の姫﹄として、国に、王に、仇なす存在になることを望まなか
ったのだ。
946
彼とて、稀代の姫神子が残した災厄の予言に、恐れを抱いていな
いという訳ではない。だが﹃主の命﹄はそんな自らの感情よりも優
先される。
﹃王﹄が予言など恐れぬと言う以上、その言葉に逆らうことは、主
の力を疑うことでもあるのだから。
ヴァスィリオ
﹃一の魔王の国﹄を導く、太陽の如き黄金の王。
全ての民が待ち望んだ。輝かしい未来を照らす、光そのもののよ
うな存在の言葉を、疑う必要など無いのだ。
西区の一軒の屋敷の前で、男は足を止めた。
火の入っている気配の無い何処か寒々しい様子から、ラティナは
ここが、ひとの住まぬ空き家であることを察する。
だが男が扉に鍵を差し込む姿に、正規の方法でこの館を借りてい
ることにも想像が至った。彼らは宿ではなく、この館を借りて仮の
住居としているらしい。
中は、しんと静まりかえっていた。だが目に入る空間は埃を払い
清めているらしい。生活感は無かったが、荒れ果てた気配もまた無
かった。
先導する男の後を付いて、階段を上がる。扉の前で男は立ち止ま
り、扉を開いてラティナを通した。
開け放たれた扉の向こうで、目映い程の陽光が入る窓を背にして、
その人影は佇んでいた。
﹁⋮⋮⋮⋮っ!﹂
ここ
声に出来ない思いを飲み込んで、ラティナは立ち竦んだ。
見間違い様が無い。
幼い頃の面影を色濃く残すその顔に。﹃現実﹄ではない﹃場所﹄
フリソス⋮⋮
﹂
で邂逅したそのままの姿に。
﹁
947
﹁
プラティナ
﹂
彼のひとは、若い外見には似つかわしくない、低い威厳のある声
音でラティナを、かつて呼ばれていた名で呼んだ。既に遠い、幼い
頃の記憶の中で、両親以外の大人たちから呼ばれていた名前だった。
立ち竦むラティナは、気がついた時には、息も出来ない程に強く
抱きすくめられていた。
自分のものでも、慣れ親しんだひとのものとも異なる香りに包ま
﹂
れる。ラティナは困惑する表情のまま、自らを拘束せんとする腕か
離して、お願い、フリソス⋮⋮っ
ら逃れようと身を捩る。
﹁
何故だ?
やっと逢えたのだ⋮⋮我が愛しのプラティナ。もう
﹁
﹂
フリソス、離して⋮⋮っ、私はもう⋮⋮あの国には
﹂
離さぬ。即位した今なれば、もう余に命じる者はおらぬ。そなたは
⋮⋮っ!
余が全ての力もて守ってみせる⋮⋮
﹁
戻らない、私の居場所はもう別のところにあるのっ!
﹂
その返答に、ラティナを抱きすくめる腕に更に力が籠った。感情
余はこの時をどれだけ待ち望んでいたことか⋮⋮
を示す様に、眸が昏く翳る。
﹁
私だって⋮⋮私だって⋮⋮
﹂
﹁
会いたかったという言葉を、ラティナは飲み込んだ。いくら本心
からそう思っていたとしても、自分はこのひとと共に、故郷に向か
うことはできないのだ。
948
余が、どれほどそなたを捜したと思っている⋮⋮
白金の娘、決意する。
﹁
﹁⋮⋮っ!﹂
﹂
わかっている。﹃一の魔王﹄となり、一国を預かる身となった以
・
・
上、他国においそれと出掛けることの出来る立場である筈が無い。
・
それは﹃王の候補﹄として、神殿の奥深くで育てられていたあの
頃からそうであった事だが。
それなのに、今、此処に居るということは、他でもなく自分を迎
えに来たのだという推測は、簡単に出来る。
私⋮⋮っ、大切なひとが、出来たの⋮⋮一緒に生きていきたい
その事は、嬉しく思う。
﹁
﹂
⋮⋮ずっと一緒にいたいひとなの⋮⋮だから、フリソスとは、行け
ない⋮⋮
だからこそ、ラティナははっきりと自分の想いを相手に告げた。
大切な相手だからこそ、誤魔化さずに自分の気持ちを伝えようと
﹂
﹂
ごめんなさい。⋮⋮私はもう、フリソスの元に、帰ることはで
思った。
﹁
っ!
きない⋮⋮っ
﹁
ラティナを抱き締める腕に、痛い程の力が籠る。それが、離さな
﹂
い逃がさないという心境を饒舌に示していて、ラティナの表情もま
⋮⋮駄目だ。認めぬ
た曇った。
﹁
⋮⋮フリソス⋮⋮
﹂
﹁
表情を泣き出す前のように歪めたラティナの様子に、フリソスの
表情も少しだけ困惑めいたものになる。だが、腕の力は緩められる
ことはなかった。
949
余ならば、そなたを護ることができる
﹂
﹁
フリソス⋮⋮?
﹂
﹁
そなたの存在は、﹃魔王の理﹄を覆す。それが﹃理の外の魔王﹄
零もしくは八
﹁
﹂
の唯一にして、絶対的な能力だ⋮⋮それを他の魔王たちは、本能的
﹂
⋮⋮っ、私の能力は、そこまで凄いものではないのに⋮⋮
・
に忌避するであろう
﹁
七という理の数で定められた﹃魔王﹄を、揺るがし、絶対的な
フリソスの言葉に、ラティナは泣きそうな声を絞り出す。
﹁
うまれ
存在から変質させる。そなたの存在は、在るだけで﹃魔王﹄にとっ
﹂
﹂
ては脅威だ。全ての魔王が揃ったことで発生する﹃理の外の魔王﹄
⋮⋮なんで、フリソス⋮⋮?
は、神が世界に与えた魔王の制御装置なのだから
﹁
ラティナ自身よりも、彼女の能力について深く知るフリソスの様
子に、ラティナが戸惑ったような声をあげた。﹃魔王﹄と成った時
間に差があるとしても、それほど深く﹃世界の情報を理解﹄するこ
⋮⋮そなたを失ってから、余は王となるべく、ヴァスィリオで
とができるものだろうか。
﹁
努めてきた。その最中に﹃王に災いを為す﹄という呪われた予言に
﹂
ああ⋮⋮
ついての考察も、過去の歴史より推測をしてきたのだ
﹁
七までの魔王が世に現れた時のみ、世界に現れた﹃八の魔王﹄
﹂
﹁
は、魔王であって魔王ではない存在⋮⋮魔王に対してのみ力を振る
うことを許された、﹃勇者﹄とは異なる神が魔王を制する為に作り
﹂
し機構だ。⋮⋮余は可能性のひとつとして、ほとんど伝承も残され
ていないそれを、考慮していたのだ
その可能性でないことを、願いながら。
フリソスの表情から、ラティナはそれを読み取って涙を滲ませた。
950
それでもフリソスは、自分を護ると言ってくれたのだ。道を違え
たあの時から、ずいぶん時間を経てしまったというのに。
そんなフリソスの共に生きたいという願いに、自分は応えること
ができないというのに。
デイル
﹂
それでも自分は、自分の想いに嘘は付けない。自分が隣に在りた
ごめんなさい⋮⋮ごめんなさい、フリソス⋮⋮
いひとは、もう彼以外はあり得ないのだから。
﹁
そして、様々なことを理解してしまったからこそ、ラティナはフ
﹂
フリソスは、﹃一の魔王﹄で在らねばならない⋮⋮魔人族は、
リソスの申し出に甘えることは出来なかった。
﹁
ずっと新たな王を待ち続けていたのだもの⋮⋮だから
・
・
いつか、その時が来たら、フリソスは﹃私﹄を切り捨てないと
・
ラティナは涙に濡れた眸を真っ直ぐにフリソスへと向ける。
﹁
いけない。そうしなくちゃダメだよ。私情の為に、国を、民を護る
﹂
プラティナ
自分の在り方を歪めてはいけないんだよ⋮⋮
﹁
だからその時が来たら、フリソスは何よりも、王として国を護
﹂
﹁
﹂
﹂
ることを考えないといけない。私は、それで良いから。私はフリソ
嫌だ⋮⋮プラティナっ
スのその在り方を肯定するから⋮⋮っ
﹁
幼い頃すら、見たことのない駄々っ子のような声をあげたフリソ
スに、ラティナは強い意志の籠った灰色の眸をまたたかせる。溢れ
﹃八の魔王﹄が全ての魔王にとって﹃敵﹄となるなら⋮⋮﹃一
わたし
た涙が一筋頬に流れた。
﹁
﹂
の魔王﹄も私を敵として扱わなくてはならない。私を匿うことで、
ヴァスィリオ
国を戦禍に遇わせてはならないよ
それは、悲痛な決意だった。
ラティナは優しい娘だ。そして、強く自らの意志を胸に抱く娘だ
951
った。
自分ひとりと国ひとつを、天秤にかけることは、彼女にはできな
い。そして、それは﹃故郷﹄だけに言えることではなかった。
﹁⋮⋮ごめんなさいじゃ、届かないね⋮⋮許してなんてことも言え
ない⋮⋮ごめんね、デイル⋮⋮﹂
小さく絞り出すように呟いて、ラティナは眸を閉じて涙を再び頬
に流した。
・
・
・
﹁私は、出来ることで、クロイツや大切なひとたちを護りたい⋮⋮
だからその時が来たら⋮⋮私は⋮⋮﹂
全ての魔王と敵対する存在を捜して、大切な場所が蹂躙されるよ
うな目にあってはならない。戦場となるようなことになってはなら
ない。
全ての魔王が﹃私﹄を捜す時がきたならば、私は逃げることも
それならば−−
﹁
隠れることもしない。だから﹃私﹄ひとりで、場をおさめて。この
﹂
街を⋮⋮私にとってのもうひとつの故郷であるこの街を、護って。
このことを頼めるのはフリソスだけなの⋮⋮だから
その時が来たら私を滅ぼして
﹂
決意が籠った声は、震えることもなく静かに響いた。
﹁
デイルと共に在りたいという想い以上にラティナが抱くのは、彼
の無事への願いだった。
ラティナは、彼が冒険者として、高名で実力があるということを
知っていても、怪我や命の危険に、ずっと心を痛めて過ごしてきた。
デイルは、自分の眷属化−−魔族となったことで、様々な能力が
向上している。それでも、全ての魔王を敵に回したら無事で済むと
は思えない。彼が自分のせいで危険な状況になることを、ラティナ
952
は安穏と眺めていることは出来なかった。自分の為に死地に赴いて
くれなんて、言える筈がなかった。
デイルがラティナを護りたいと大切に思うのと、変わらない程の
強さで、ラティナもまた、デイルを護りたかった。
眷属であっても、デイルの﹃生命﹄をラティナは支配していない。
彼の彼としての独自性を残していたことに、心の底から安堵した。
﹃主﹄である自分が、この世から存在しなくなっても、彼がそれに
殉じることはない。
じゅみょう
魔族としての長い生は失うかもしれないが、本来の﹃人間族﹄と
しての生は残されている筈だ。
元に戻るだけ。
きっと、そうしてくれるだろう。
痛む心に蓋をして、ラティナはそう考える。
逆の立場ならば、そうする筈はない。自分の命を失うことになっ
ても、全身全霊で護ろうと足掻くだろう。自分と彼は何処か根底の
・
・
在り方が似ている。そうしてしまうことはわかっている。
だから、デイルにそれを選ばせることは出来なかった。
﹁ごめんね⋮⋮ごめんね、デイル⋮⋮﹂
ごめんなさい⋮⋮フリソス
﹂
そして、それを選ばせてしまうもうひとりに。
﹁
あの﹃森﹄の中で朽ち果てていれば、自分は大切なひとたちを苦
しめることはなかったのに。やはり自分は災いを呼ぶ存在であった
のかもしれない。
﹁ごめんなさい⋮⋮﹂
それでもと、願ってしまう自分は、なんて罪深い存在なのだろう
かと、ラティナは肩を震わせて涙を溢れさせたのであった。
953
白金の娘、決意する。︵後書き︶
ラティナは、デイルが﹃勇者﹄であることを知らなかったりするの
であります。
954
閑話。﹃橙の神﹄の豊穣祭。︵前書き︶
皆さまのお蔭により、明日、書籍版三巻発売です。毎度変わらずの、
店舗特典SSつながりの閑話となります。
時間軸は思春期編︵14歳夏︶よりも少し前。﹃娘﹄13歳の秋と
なります。
955
閑話。﹃橙の神﹄の豊穣祭。
アフマル
ラーバンド国、ひいてはクロイツに於て主神として大きな信仰を
コルモゼイ
集めるのは﹃赤の神﹄であるが、他の神々が蔑ろにされているとい
うことはない。
アズラク
ニーリー
その中でも﹃橙の神﹄などは、他の神よりも深く信仰を集めてい
ると言えるだろう。青の神や藍の神のように、神殿が人びとの生活
に密に関わっていないにも関わらず、恩恵を賜ろうと神殿を訪れる
コルモゼイ
ひとが絶えることはない。
それは、橙の神が、豊穣を司る神であり、子孫繁栄、安産祈願を
司る存在であることが大きい。目に見えることはないが、頼りすが
ることを求める事象である。本来的な意味の宗教として、人心を集
める存在であるのだ。
コルモゼイ
どんな小さな村でも、﹃橙の神﹄の社は築かれているものである
し、彼の神を奉る祭礼が行われるものである。
コルモゼイ
それは大都市クロイツに於いても、例外ではなかった。
﹁今年も来やがった⋮⋮﹂
コルモゼイ
デイルがため息をついて放り投げたのは、橙の神の神殿からの依
頼書だった。
こう見えてデイルは、定期的にクロイツの橙の神の神殿を訪問し
ている。加護を有し、神官位を持つ彼は、故郷で神官としての所作
コルモゼイ
をしっかりと叩き込まれていた。立場上彼は、一端の高位の神官な
のである。
彼の故郷は、﹃橙の神﹄の神域扱いされている深き恩恵を受ける
場所である。同じ神に仕える者たちにとって、決して田舎扱いして
蔑ろにして良い場所ではなかった。その土地出身のデイルは、それ
956
なりに下には置かれぬ扱いを受けていた。
とはいえデイルは、クロイツの神殿とは、一定の距離を保ってい
る。それは彼の信仰心云々ではなく、多くのひとが集まる組織であ
る以上発生する、派閥やら利権問題などに、全くもって関わる気が
無い為であった。
それでも時折要請が届く。
この豊穣祭が近付く時期に於ては、以前は一神官に対しての、祭
事への参加要請だった。だが、この数年はそれに別の要請が加わっ
ている。
﹁毎年断ってるのに、懲りねぇよな⋮⋮﹂
その要請は、他でもない彼の大切な養い子たるラティナに対する
ものなのである。
﹁初めに来たのって、ラティナが十歳の時だったっけ?﹂
リタが首を傾げるのに、苦々しい表情を隠さず、デイルは答える。
﹁そうだったな。その時から毎年断ってるのに、もう三年目だよ﹂
﹁まあ、ラティナなら⋮⋮﹃華娘﹄の舞台映えしそうだものねぇ。
噂の﹃妖精姫﹄を呼ばずして、何が﹃華娘﹄かって話も出てるって
聞いたわよ﹂
﹁余計な噂広げやがって⋮⋮﹂
コルモゼイ
﹃橙の神﹄の豊穣祭に於て、重要な役割を務めるのが、﹃華娘﹄と
呼ばれる少女たちであった。
神殿で行われる祭事でありながら、﹃加護﹄の有無を問わない市
井の人びとから人員を求めるのは、それが元々は年頃の娘を着飾ら
せて御披露目する、婚姻の為の習慣から行われるようになった祭事
であるからだった。現在でも地方の村々等では、そうやって一種の
集団見合いをする風習が残っている。
クロイツのような大都市の﹃華娘﹄は、地方のそれとは、少々意
味合いが変わってくる。
957
大勢の人びとの前で奉納の儀を行う少女は、衆目を集めることに
なる。
ならばそれが、見目麗しい少女を選ぶようになっていくのも、道
理であった。
﹃華娘﹄に選ばれる少女とは、美少女の代名詞なのである。
﹁ただでさえ最近、ラティナの周りに﹃害虫﹄が増えてきてるのに、
わざわざ面倒ごと起こさせる訳ねぇだろ⋮⋮﹂
当初﹃華娘﹄の打診を断ったのは、異なる理由であったのだが、
最近はこちらの理由の比重が大きくなっている。
余計なことをする必要がわからない。わざわざ表に出して、彼女
を﹃御披露目﹄する必要など全く無いのだ。
﹁この店ん中だけでも、ラティナ目当ての糞野郎ども増えてきてる
だろ﹂
﹁ラティナ、そろそろ年頃だもの。まだ子どもっぽさの方が目立つ
けれど⋮⋮そんなこと言ってられるのも、後ちょっとでしょ﹂
ラティナは、このままで良い
このまま俺のそばに居れば良いんだから!﹂
﹁いいや、まだまだ子どもだから!
から!
﹁また馬鹿言って⋮⋮﹂
﹁嫁になんてやらんっ!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁嫁になんて、絶対にやらんからなぁっ!﹂
そのデイルの声には、悲壮感すら滲んでいた。
コルモゼイ
コルモゼイ
何だかんだと言いつつ﹃橙の神﹄の神官として、しっかり修めて
いたりするデイルにとっては、﹃橙の神の豊穣祭﹄の元来の意味で
ある、﹃集団見合いに於る若い女性の御披露目の儀﹄というのを無
視することが出来ないのである。
その儀式に、自分がラティナを出すということは、自分がラティ
958
ナの結婚相手を募集しているという意味になってしまうではないか。
絶対に認められることではなかった。
﹁ラティナに﹃華娘﹄なんて、絶対に駄目だっ!﹂
だが、デイルのその心境と、﹃クロイツに暮らす少女﹄の心境は
異なるものとなる。
﹁⋮⋮﹃華娘﹄?﹂
通りかかったラティナが、リタとデイルの会話を聞き止めて足を
止めていたのだった。
﹁ラ⋮⋮ラティナ?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ラティナの表情が曇ったことにデイルが気付いた時には、彼女は、
デイルが放り投げていた神殿からの書状に、視線を留めていた。
さっと書状に視線を滑らせて、ラティナの表情が更に暗くなる。
﹁⋮⋮﹃華娘﹄⋮⋮無理だよね、私じゃ⋮⋮﹂
しょんぼりとそう呟いたラティナの姿に、デイルはようやく自ら
の失言を悟る。
﹃クロイツに暮らす少女﹄たち、すなわち、デイルのような神官位
の者とは異なる一般的な人びとにとっては、﹃華娘﹄は、あくまで
も祭りの為に選抜された﹃美少女﹄の代名詞だ。
と、なれば、自分の今の発言は、彼女が﹃華娘﹄を務められる﹃
美少女﹄ではないと自分が思っている、と取られても致し方ない。
そんなことが、ある筈ないというのに。
ラティナ程、可愛くて可愛くて仕方のない美少女は、この街どこ
ろか国中を探してもいる筈がない。
その目ぇ腐っているに違いないから、俺が見てやろう。いや、
ラティナのことを可愛くないとでも言う輩がいたなら、連れて来
い!
959
もしかしたら目じゃなくて、腐っているのは性根かもしれないよな。
うん、やっぱり俺がしっかりと見て矯正してやろう。
なんてことを、今すぐにでも大通りの真ん中で声高に宣言できる
程である。だが、実行に移すとそれはそれでラティナに怒られてし
まったりするのだ。解せぬ。
﹁う⋮⋮うぇえぇ⋮⋮﹂
微妙にも過ぎる情けない呻き声を上げたデイルは、消沈したまま
下を向くラティナを前に、おろおろと視線を泳がせた。
だからといって、﹁ラティナを今年の﹃華娘﹄として神殿に推す﹂
ということが出来ないのもまた、デイルの本心なのである。彼はそ
ういったところで、自らを曲げることの出来ぬ業を背負っているの
だ。
デイルはなんとか助けてくれないかと、この場にいるもう一人で
あるリタに、すがるような目を向けた。
リタは呆れ返ったまま、溜め息をついて、ちょいちょいとデイル
を招いた。愛らしいラティナならともかく、いい年した野郎に棄て
られた仔犬のような目を向けられても、嬉しくとも何とも無いので
ある。
﹁真面目に誠意をもって、本心を伝えれば大丈夫よ﹂
﹁そ、そうか?﹂
﹁⋮⋮茶化しちゃ駄目よ、あくまでも真面目に。⋮⋮そうね、それ
でいつもみたいに抱き締めて、謝ってみたらどう?﹂
リタの言葉に、デイルは再び不安そうに視線を泳がせる。最近の
ラティナは、幼い頃のようにぎゅーっと抱き締めて頬擦りしたりす
ると、明らかに困惑するような仕草をしてくるのだ。決してそれが、
﹃自分に対する拒否の仕草﹄であるとは認めない。認めたくない。
それなのに、こんな機嫌を損ねたラティナ相手に、更に微妙な行
動をとって、大丈夫なのだろうか。
960
悶々と悩み、なかなか実行に移さぬデイルに向かい、リタは笑顔
を作り、ジェスチャーで簡潔に意を伝えた。
早く行け−−リタのその笑顔は、デイルには、まるで死刑宣告の
ようにも見えたのだった。
背中側から腕を伸ばして抱き締めると、びくんっ。と、肩が上が
った。華奢な細い体躯は、両の腕を回すとすっぽりと簡単に収まっ
てしまう。
﹁ラティナ﹂
大きな声を出せば驚かせてしまうだろうと、囁くように名を呼べ
ば、更に腕の中の身体は震えた。
﹁ごめんな。勘違いさせて⋮⋮ラティナを傷付けたい訳じゃないん
だ﹂
出来るだけ優しい声で、きちんと謝る。
年下の彼女相手に、素直に謝罪の言葉を紡ぐことが出来るのは、
歳が本当に離れているからこそだと思う。下手に意地を張る必要が
ない相手なのだ。間違いを犯した時には、ちゃんと謝らなくてはな
らないと、躾けたのも自分だ。大人である自分がきちんと彼女の手
本となるようにと、心掛けて過ごしてきたそんな習慣もあるだろう。
悪いことをした時は、しっかりと叱る。だが、そこに必要以上に
自らの感情を入れて﹃怒る﹄ことはしない。知らず自分が意識して
いたのは、やはり故郷にいる父親の在り方だったのかもしれないな
んて、思う。
﹁ラティナは、凄ぇ可愛いぞ。でも、﹃華娘﹄はやらせたくないん
だ。それはラティナに理由があるんじゃねぇ。ただの俺の我が儘だ﹂
﹁な⋮⋮何で?﹂
消え入りそうなちいさな声も聞き逃さずに、デイルは更に腕に籠
める力を強めた。声の調子をみるに、ラティナはそれほど機嫌を悪
くしていない。折角の彼女との触れあいの機会だ。堪能したいと思
961
ってしまうことの何が悪いのか。
﹁ラティナは、俺のラティナでいれば良いから。﹃華娘﹄なんてや
って、他の奴等に見せたくねぇからだよ﹂
しばらくそのままデイルに抱き締められていたラティナは、彼の
腕に軽く触れた。
﹁デイル⋮⋮もう、大丈夫だから⋮⋮離して﹂
﹁本当にごめんな。怒ってねぇか?﹂
﹁怒ってないよ。本当だよ﹂
﹁そっか﹂
ほっと安堵の笑みを浮かべるデイルは、ようやくラティナから腕
を離した。安心した後で、今度はきちんと神殿と話を付けなくては
ならないことを思い出した。来年からは、もうこんな寝言を言うこ
とが出来ないように、きっちり関係者の目を醒まさせてやらねばな
らないだろう。
普段使うことのな
すっきりした心持ちで、デイルは鼻歌交じりに部屋へと向かう。
神殿に行くには着替える必要までは無いが、
い聖印は必要になってくる。何処にしまったのだったかと記憶を辿
った。
そんな風に、上機嫌で踵を返したデイルがいなくなった後、ラテ
ィナはぺたんと床に座り込んだ。
﹁本当にあいつ、どうしようもない馬鹿よねぇ⋮⋮﹂
リタの呟きに反応することも出来ずに、ラティナは真っ赤になっ
た頬を押さえる。手のひら位では、この熱を冷ますことは出来ない。
﹁ふえぇ⋮⋮﹂
本当にちいさな情けない声を上げて、リタを見たラティナの灰色
の眸はうるうると潤んでいた。
ラティナは、デイルの言葉が﹃ちいさな可愛いうちのこ﹄への他
意の無いものだと、ちゃんとわかっている。そこに特別な感情が含
まれているなんて、勘違いして図に乗ることはしない。
962
それでも、彼女が欲しい賛辞の言葉は、﹃彼からの﹄ものだ。不
特定多数の称賛なんて必要無い。唯一人だけから﹁可愛いよ﹂と褒
めてもらいたいのだ。
デイルに他意が無いことを理解していても、彼の体温を感じなが
ら、両の腕に抱き締められて、優しい声で求める言葉を囁かれる−
−のは、恋する乙女には少々刺激的に過ぎるのである。
﹁本当に馬鹿よねぇ⋮⋮?﹂
﹁ふえぇ⋮⋮﹂
呆れたリタが繰り返した言葉には、優しい響きが含まれており、
ラティナは再び情けない声で応じながら、火照りの冷めない頬を押
さえたまま、下を向くのであった。
コルモゼイ
﹃橙の神の豊穣祭﹄当日、デイルはラティナと共に見物客に紛れて
﹃華娘﹄の奉納舞の舞台を見上げていた。
﹃話し合い﹄の結果、今年は神官としての参加も免除されたデイル
は、人混みにはぐれないように手を繋ぐ、可愛い養い子を隣にして、
非常に上機嫌であった。
きらきらと美しい装飾の衣装に身を包んだ﹃華娘﹄たちが、舞台
上に姿を見せると、周囲の見物客たちと同時にラティナも歓声を上
げた。
舞の伴奏が聞こえてくると、デイルは無意識のうちに指先でリズ
ムを取り始めた。故郷の祭事でも使われる曲に反応してしまうのは、
やはり染み付いた習慣のようなものなのだろう。
﹁綺麗だね﹂
﹁そうか﹂
幸せそうなラティナを見ていると、少々罪悪感のようなものを覚
963
えた。
﹁⋮⋮やっぱりラティナも、﹃華娘﹄の舞台に、のぼりたいか?﹂
彼女なら、あそこにいるどの少女たちよりも、大きな称賛を得ら
れるだろう。美しい装束に憧れを持つのも、年頃の少女には当たり
前のことだ。
その機会を、自分の我が儘で奪うことは、﹃保護者﹄として決し
て褒められる行為ではない。
だがラティナは、デイルの言葉にきょとんとした顔をした後で、
にっこりと笑顔になった。
﹁私はね、舞台の上でよりも、デイルの隣でお祭り見る方が嬉しい
んだよ﹂
やっぱり彼女は、世界で一番可愛いかった。
抱き締めたい衝動を堪えて、繋ぐ手に力を籠める。
そんなデイルの行動に不思議そうに首を傾げたラティナは、照れ
コルモゼイ
隠しに微笑んだデイルと目が合うと、再び笑顔になった。
デイルが、優しい時間をくれた﹃奉ずる神﹄へと、感謝を籠めて
呟いた祈りの言葉は、大勢の人びとのざわめきの中に紛れて他に聞
く者はいなかった。だがデイルは、神の元にはちゃんと届いただろ
うと、そんな敬虔な信徒らしいことを考えてみたりしたのであった。
964
閑話。﹃橙の神﹄の豊穣祭。︵後書き︶
重い展開直前に投稿しようと思ったら、反動で、いつも以上に甘口
となりました⋮⋮
当方⋮⋮重い展開終わったら、また甘々書くんだ⋮⋮
いつもお読み頂き、誠にありがとうございます。
965
白金の娘、−−消滅る。︵前書き︶
本日三巻発売日です。ですが、今回からしばらく、ほのぼのを封印
したシリアス要素ましましでお送り致します。
当方のハッピーエンド主義だけは、曲げる気がしないということだ
けは、主張しておきます。
966
白金の娘、−−消滅る。
−−その日が来たのは、突然だった。
少なくとも、﹃その日﹄が来ることを知らない人びとにとっては、
前触れもなく訪れた出来事だった。
フリソスとの邂逅の後、ラティナは思い悩む様子で塞ぎこんだ。
数少ない故郷での、﹃良い思い出﹄に繋がる知己であるフリソス
との再会は、その意にそえぬ事がわかっていても尚、嬉しさも感じ
るものである筈だった。
これが、永久の別れでさえなければ。
悲しんでくれる存在が故郷にいることに、喜びのようなものも感
じながら、ラティナはフリソスと別れた。
最後の最後までそれに納得した様子では無かったフリソスだった
が、扉の外で待っていた部下のひとりである魔族−−ラティナをこ
こまで連れて来た男性だった−−が、室内に入って来たことで表面
上は冷静さを取り繕った。内心の激しい感情を隠して、ラティナを
抱く腕を離した。
まだ即位して間もない﹃魔王﹄である以上、部下の前でも気を抜
くことは出来ないのだと察して、ラティナは表情を曇らせた。
その内面をさらけだすことを許される唯一の存在として、自分は
求められていたのだろう。
自分の選択は、大切なひとたちを苦しめてしまう。共に生きるこ
とだけを願った愛するひとを裏切り、幼い頃の約束を守ってくれた
ひとの願いを叶えることも出来ない。
﹁やっぱり、私は、災いをもたらすんだね⋮⋮モヴの﹃予言﹄通り
967
に⋮⋮﹂
稀代の姫神子と呼ばれた、故郷でも最高位の神官の下した神託。
それに抗うことは出来なかったのだと、ラティナは背中にフリソ
スの視線を感じながら、涙を溢した。
ラティナの様子がおかしい事には、﹃虎猫亭﹄の人びとも気が付
いた。だが現在の彼女の状況から、多少塞ぎこんでいても、マリッ
ジブルーではないかと、納得される面もあったのだった。
デイルだけは、ラティナの様子が明らかな異常であることに気が
付いた。デイルが何度問い掛けても、ラティナは当たり障りのない
返答を重ねてはぐらかそうとする。それを看過出来る筈がなかった。
その夜デイルは、二人きりになった部屋で、厳しさすら感じる声
音で問い掛けた。
﹁ラティナ、何があった?﹂
﹁デイル⋮⋮﹂
幼い頃から、彼女は嘘を付く事が下手だ。
表情や仕草のひとつひとつから、確信することが出来る位には、
デイルは長年彼女を見て来たのだ。
﹁お願いだから、言ってくれ﹂
﹁⋮⋮大丈夫だよ、デイル⋮⋮心配しないで﹂
﹁ラティナ!﹂
デイルの強い口調に、ラティナの肩がびくりと上がる。怯えたよ
うな表情に罪悪感を覚えても、ここで引き下がる訳にはいかなかっ
た。
﹁お前が隠し事をしている位、わかるから⋮⋮だから、お願いだか
ら言ってくれ。お願いだから⋮⋮っ﹂
﹁デイル⋮⋮﹂
968
ラティナの表情が歪んだ。潤んだ眸から、大粒の涙が溢れる。
﹁ごめんなさい⋮⋮デイル、私、私⋮⋮﹂
﹁謝って欲しい訳じゃない、話して欲しいだけだ、だから⋮⋮っ﹂
﹁ごめんなさい⋮⋮ごめんなさい⋮⋮﹂
それでも頑なに、ラティナは﹃理由﹄については語ろうとしなか
った。ただ謝罪だけを繰り返す。
ラティナはぎゅっと唇を噛んだ。
言う訳にはいかなかった。
言ってしまえば、自分は彼にすがって頼りきってしまうだろう。
大丈夫だと抱き締めてくれるぬくもりに、全てを委ねてしまうだろ
う。
そうする訳にはいかない。彼を、デイルを、自分の破滅に巻き込
みたくない。
共に生きたいと望んでくれただけで、満足だ。
それが、ただの自分の我が儘であることはわかっている。
それでも自分は、彼がこの世界からいなくなるのは嫌なのだ。大
好きなひとたちと大切な場所。自分が何に代えても護りたいそれら
の中でも、一番にそう願うのは、他の誰でもなく愛しい彼なのだか
ら。
だからラティナは頑なに口を閉ざす。
自分が、他の魔王たちに滅ぼされてしまうことを、受け入れてく
れ−−デイルは、きっと、そんな自分の望みを伝えても、許してく
れることはないだろう。
だからこれは、ただの自分の我が儘だ。
それでもと再び口を開いたのは、伝えたい言葉があったからだっ
た。
直ぐ後ろに感じる﹃破滅﹄の気配に、今を逃せばもう伝えること
969
が出来なくなることを悟ったからだった。
﹁デイル⋮⋮私⋮⋮﹂
涙に濡れた灰色の眸で、彼を見上げる。
本当は微笑みたかったけれど、うまく出来なかった。きちんと彼
の顔を見ておきたかったのに、視界が滲んでよく見えない。
﹁デイルに逢えて良かった。私、本当に幸せだったよ﹂
彼女の言葉に、デイルは寒気のようなものを感じた。何故、今そ
んなことを言うのか。何故、その言葉が−−過去形なのか。
デイルは反射的に腕を伸ばした。抱き締めようとした彼の腕が、
彼女に触れる寸前−−
反転する意識の片隅で、ラティナは、最後に抱き締めてもらえば
良かったな、と考えた。
再び取り戻した意識の前に広がる﹃空間﹄は、慣れ親しんだ暖か
い場所ではなかった。それが実際ではないはずなのに、心身を凍え
させる冷気に充たされているように感じる。だがそれも、気のせい
しろ
くろ
では無いのかもしれない。
全ての光と全ての色で創られた世界。その中心に存在するちいさ
な華奢な﹃玉座﹄。その上に座る﹃理の外の数﹄を冠する魔王は小
さく震えた。どうしても手放すことが出来なくて、﹃自らの象徴﹄
として定めた宝石細工の腕輪を、お守りのように胸に抱く。
そうでもなければ、呑み込まれてしまいそうだった。
自らの周囲に配置されている七つの﹃玉座﹄。そこに座する﹃王﹄
たちの存在感に。
周囲全てから向けられるものの多くは、観察するような視線と、
明確な敵意だった。
970
はっきりと他の﹃王﹄の姿を見分けることは出来ない。ただ、そ
こに存在しているという気配を感じるだけだった。
唯一、﹃一つめ﹄の玉座に座る王の気配だけが自分を気遣うもの
であることに気付く。だからこそ彼女は、そちらに視線を向けるこ
とはなかった。自分たちが知己であることを、他の王たちに気付か
れてはならない。自分に向けられる害意を、彼の王に向けさせる訳
にはいかない。
﹃声﹄であるけれど、そうではないもの。自分の意識が理解しやす
い概念として﹃声﹄であると認識する、他者の放つ思念を理解する。
﹃これが、理の外の⋮⋮﹃八の魔王﹄﹄
﹃﹃魔王﹄でありながら、魔王を蝕み魔王のちからを削ぐ、﹃神﹄
が用意した存在﹄
﹃嫌、死ぬのは、嫌。魔王となって死から逃れられたのに﹄
重なる幾つもの﹃声﹄に、彼女は腕輪を握る手に力を籠める。自
分の我が儘で、彼を欺き、裏切ってしまったも同然であるのに、弱
い自分は、最期の最期まで彼にすがってしまうのだなと、心の中で
呟く。
彼のように、強く優しい大人になりたかった。少しだけでも、そ
んな理想に近付けていたら良いと願って、毅然と振る舞うことを決
める。
渦巻く怨嗟の﹃声﹄は、彼女の﹃破滅﹄を望んでいく。
質量すら感じる程の敵意に晒されて、息をするのも苦しい。
﹃私が直々に殺して差し上げましょう。なかなかない機会ですもの﹄
﹃面白い。儂も一口乗ろうか﹄
逃げて逃げて、逃げ惑ってくれても良いのに﹄
届いた﹃声﹄の内容を理解して、顔をあげる。
﹃隠れもしないの?
彼女は口を開き﹃声﹄をあげた。そんなことはしない、私は此処
971
にいると声高に告げる。
破滅するのは、自分だけで良いのだ。誰ひとりとして巻き添えに
はさせない。弱い自分のそれが唯一の矜持だった。
﹃厄災の魔王﹄が動けば、屍が積まれ街は焼き払われる。彼女にと
って大切なひと、大切な場所、それらは恐らく優先的に狙われるこ
とだろう。街を、国を滅ぼすことすら、災禍の化身たる﹃厄災の魔
王﹄にとってそれは容易いことだ。ひとつの魔王だけでもそうだと
いうのに、複数の魔王たちに狙われてしまえば、きっと自分の大切
なものは、ひとは、痕跡すら残らず奪われてしまう。
だから彼女は自らの身を差し出すことを選んだ。抗うことなく、
断罪されるこの場に、召喚されることに応じた。
私の破滅を望むならば、そうすれば良い。
毅然とした彼女の﹃声﹄に、幾つかの気配がたじろぐのがわかっ
た。だが、獰猛な獣が舌舐めずりをするように、甘い毒そのものの
ような﹃声﹄が嬉しそうに答える。
﹃あら。ならば、この﹃玉座﹄の上で死になさい。私もこの﹃場﹄
で殺めるのは初めてのこと。楽しみだわ﹄
更に自らの死の気配が強くなる。震える身体を叱咤して、俯くこ
ともせずに前を見続けようと、腕輪を強く握った。
﹃滅ぼすことは、最適であるとは思えぬ﹄
響いた静かな﹃声﹄に、場の空気が変わる。一つめの玉座の主が、
悠然と王たちの視線を受け止めた。
﹃どういうことかしら?﹄
﹃﹃八の魔王﹄は、他の魔王たちが揃うことで生まれる存在。今、
この場でこの者を滅ぼしたとしても、時間を経ずに次の者が玉座に
座ることだろう﹄
972
あくまでも静かな調子を崩さないその声を聞き、彼女は、必死に
堪えていた涙腺を緩ませ熱いものを滲ませる。
﹃﹃八の魔王﹄を疎うのであれば、我等は滅ぼす以外の方法を用い
るべきであろう﹄
﹃次代の﹃八の魔王﹄が、今代のように従順であるとは限らない。
与し易い者を制するべきでは?﹄
賛同の﹃声﹄が他の魔王からも上がったことで、場の意見がそち
らに流れていく。
声を出さないようにして、彼女は泣いた。
自分の滅びを望まない彼のひとが、自らの立場を変えることなく
それでも自らの意思を通した、それが最大の譲歩であったのだろう。
滅ぼしてくれと願った自分を、微かな可能性で在っても救う為に。
自らの国を預かる身では、表立って﹃厄災の魔王﹄と敵対すること
は出来ない。守るべきものが重すぎて、私情の為には生きられない。
それなのに、守ろうとしてくれたのだ。
﹃ならば、我等の名の元に封印を﹄
重なる幾つもの﹃声﹄が、その結論へと至る。
彼女はいよいよ近付く自らの﹃終わり﹄の時に、涙に濡れた灰色
の眸を閉じた。
抗うことなく、受け入れるつもりでいても、恐怖に心が重いもの
に占められそうになる。
だからこそ彼女は−−
﹁本当に、幸せだったの﹂
そう、呟いた。
アフマル
﹁最期にラグが願ってくれたように⋮⋮私は幸せになれたよ。
行く場も無い私を救ってくれた、赤の神を奉る国で、本当に毎日
幸せだったの。もう生まれたあの国よりも、長い時間を過ごしたこ
973
の国が、この街が、私にとって、もう一つの﹃故郷﹄だって言える
コルモゼイ
くらいに。
橙の神の元での結婚式⋮⋮花嫁さん綺麗だったな⋮⋮たくさんお
祭りも見に行ったの。神殿の奥で暮らしていた頃には、思いもしな
アスファル
かった位に、キラキラしたもので世界は溢れていたの。
黄の神の学舎で、毎日皆と過ごせたことも、勉強も出来たことも
楽しかった。
アクダル
旅に出て、本当にたくさんのものが見れた。知らなかった広い綺
麗な世界を知ることが出来た⋮⋮緑の神の旗の元で暮らした毎日に、
可愛いがってくれたお客さんたちに、色々なお話聞けたことも凄く
嬉しかったの⋮⋮私がいなくなったら、心配してくれるかな⋮⋮ち
アズラク
ゃんとお別れ言いたかったな⋮⋮
ラグは、青の神の司どるお仕事を、大人になったらって言ったけ
ど、私、もっと早くからお仕事するようになったんだよ。ケニスも
リタも、凄く優しくしてくれたの。たくさん教えてくれたの。⋮⋮
ニーリー
テオやエマが大きくなるの、見たかったな。ヴィントが私の分まで
二人を守ってくれると嬉しいな⋮⋮
自分で角を折ったことも後悔していないの。藍の神の治療院で抱
き締めてもらった時に、私は全部決めてしまったんだもの。私はあ
の時にはもう、﹃魔人族﹄としてではなく、﹃人間族﹄と共に在る
バナフセギ
ことを選んでしまったんだもの。
紫の神の巫女たる、モヴの予言通りに、私は災厄を招いてしまっ
たけど⋮⋮モヴが私を案じてくれてたこともちゃんとわかってる。
⋮⋮私は本当に、幸せだったの﹂
恐怖に心が折れてしまわないように、自分にとって大切なものを、
大切な思い出を心に浮かべる。そして、何よりも−−
﹁デイルに逢えて、幸せだった﹂
手を組んで祈るのは、最愛のひとのことだった。憎悪でも、哀し
974
みでも無いもので心を満たし、最後の最後まで自分が、﹃彼が好き
だと言ってくれた自分﹄のままで在る為に。
い
﹁本当に、私は、幸せだったんだよ﹂
だから、せめて、自分が存在しなくなっても、幸福になって欲し
いと祈る。何のちからも持たないちいさな存在である自分だけれど、
﹃神﹄の末席に連なる者であるならば、願いを叶えることは出来な
いかと、祈った。
﹁⋮⋮それに⋮⋮本当に、ごめんなさい﹂
意識が色の無い世界へと沈む瞬間、彼女は最後にそう呟いた。
−−抱きしめようと伸ばした手が、宙を切った。
あり得ないことが起こったことに、彼は目を見開いた。
忽然と、そこにいた筈の白金色の少女は、姿を消していた。髪の
一筋も残さずに、そこにいたことすら、無かったことのように。
きえ
この瞬間、この﹃世界﹄から、彼女は消滅たのだった。
975
青年、−−赴く。
きえ
ラティナが、消滅た。
後、ほんの少し早く、抱き締める腕が届いていれば、繋ぎ止める
ことが出来たのだろうか−−と、根拠も無い思考を巡らせる一方で、
デイルは奇妙な程冷静に状況を確認していた。
魔術を使用しても、こんな現象は起こせない。もしも自分の知ら
ぬ何らかの魔術だとしても、この場に他者の気配は無い。外部から
の魔法による干渉を疑うには可能性が低すぎる。
そうやってひとつひとつ思い付く可能性を、検討を重ねて否定し
ていく。
そして何より、ラティナはこうなることを予見していたようだっ
た。
﹁⋮⋮魔王﹂
呟きを漏らした後で、無意識のうちに奥歯をギリと鳴らす。
﹃神﹄のちからの断片たる数多の﹃加護﹄でも、このようなこと
を起こせるとは思えない。ならばそれを振るうことが出来るのは、
ひとならぬ存在でしかあり得なかった。
彼女は﹃魔王﹄を、下位の﹃神﹄であると表した。
矮小なるひとの身では、起こせぬ奇跡の如きちからでも、﹃神﹄
ならば、話は変わることだろう。
ラティナは、こうも言っていた。
﹃魔王﹄を害することが出来るのは、魔王を護る運命を覆すことの
出来る存在たる﹃勇者﹄と、同じく神の末席に連なる同等の存在で
ある﹃魔王﹄だけであると。
そうであるならば、現在﹃魔王﹄となった彼女を害することが出
976
来る存在は限られる。
﹃勇者﹄のちからでは、何処に居るかもわからない﹃魔王﹄を、消
し去るなんて現象を起こすことは出来ない。それは、誰よりも自分
がよく知っている。﹃勇者﹄なんてちからや加護は、そんな万能の
ものでは無いのだ。そうであったならば、自分は、あれだけ必死に
腕を磨くことも、精神を磨り減らしながら屠ることを繰り返す必要
も、無かった筈なのだから。
ならば、ラティナを害したのは、﹃魔王﹄でしかあり得ない。
更に上位の存在である﹃神﹄は、直接世界の事象に関わらない。
それも彼女が語ったことだ。
理由はわからない。方法もわからない。だが、可能性のある﹃相
手﹄だけはそうであると結論付けた。
﹁ラティナ⋮⋮﹂
夜更けた屋根裏部屋の中、暗がりの中で思考を巡らせる自分の身
体は、睡眠欲求を訴えることは無かった。
それは、﹃魔族﹄と成ってから薄々感じていた自分の変化だった。
今まで通りに眠ることも食事をすることも出来る。だがそれは﹃
生命を維持する為に本当に必要な行為﹄ではなくなっていた。必要
ではあるだろう。それでもそれは、﹃人間族﹄であった頃とは比較
に出来ない程に少ない時間、少ない量で事足りる行為となっていた。
き
身体も精神も、魔族と成って強化されているということだろう。
え
朝が来るまでに、まだ時間はあった。繰り返し考えることは、消
滅てしまった愛しい少女のことだった。
自分は、どうするべきだ。
思考がそこに至る。
どうしたら良い。何が起こったかもわからない。
977
彼女に仇なした者が﹃魔王﹄だとしても、どの魔王が何を理由に
彼女を害したのか、わからないのだ。
ー−そして、この身ひとつで﹃魔王﹄相手に事が成せるとは思え
ない。
冷静さを残した思考は、そんな真っ当な回答を導き出す。今まで、
ラーバンド国との契約で剣を振るい続けてきたからこそ、わかるの
だ。
﹃魔王﹄は複数存在している。だからこそ、互いに互いを牽制しあ
って微妙な現状を維持しているのだ。﹃厄災の魔王﹄が何かを切っ
掛けに活性化したとすれば、それは多くの国を巻き込む大災害とな
るだろう。
きえ
ひとりの少女が消滅た。それを受容してしまう事が、最も穏便な
選択なのだろう。
そう彼の論理はひとつの選択を彼に示す。それが、最も誰も不幸
にしない選択だ。
その時、ふと、視界の隅に﹃それ﹄を捕らえた。普段の自分なら
ば決して手に取ることの無い﹃それ﹄。厚い布張りの表紙の一冊の
ノート、彼女が時折胸に抱いて微笑んでいた彼女の日記。
半ば無意識にそれを開く。無くしてしまった彼女の面影を捜すよ
うに、彼女の痕跡を宿すものへと引き寄せられた。
彼女らしいちいさな読みやすい几帳面な字で綴られているのは、
他愛ない日常のことだった。日によって長さも文章もまちまちで、
時には日付も飛んでいる。
﹃他愛ない﹄と、そう言ってしまえる何気ないことばかりであるの
に、彼女にとっての﹃世界﹄は、穏やかで優しい光に満ちている。
﹃自分﹄のことを、そこに見つける。彼女の視点からの自分は、こ
う見えていたのか。こんな些細なことも見ていたのか。こんな風に
想ってくれていたのか。
978
気が付くと、次の一冊を手にしていた。そしてその次に。日付が
遡るにつれ、拙さが見える文字となっていくのは、今まで見守って
きた、彼女の成長具合を巻き戻していく錯覚すら覚えさせる。
手が止まったのは、﹃彼女の名﹄についての記載のところだった。
祖母が彼女に与えた﹃一族の役割名﹄は、自分たちの一族にとっ
て、大人になった証だ。彼女から、その﹃名﹄を聞いた事がなかっ
た事を思い出す。﹁大人になったら、だよね?﹂そう言って照れ臭
そうに微笑んでいた彼女の姿を思い出す。
・
・
﹁ムト⋮⋮﹂
それは、ティスロウにとって、決して珍しい﹃名﹄ではなかった。
ありふれていると言っても良い。家を、家庭を護る女性の多くが有
する名だ。
だがそれは、ティスロウにとって最も尊い﹃役割﹄だ。ティスロ
ウにとっての最上のものは一族そのものだ。﹃ムト﹄が護るものは、
一族そのものであり、更には一族の次代ということなのだから。
そして、﹃レキ﹄という一族の外に出る事を役割とした自分の側
に、その隣に居てくれることを望んでくれた彼女に﹃ムト﹄の名が
授けられた意味。
それは、自分にとっても、彼女が﹃自分の居場所であれば良い﹄
という祖母の願いだ。
・
・
・
・
生まれ故郷に帰ることが出来ずとも、新たな場所で新たに﹃一族﹄
を築く事が出来るだろう。−−それは、彼女だけに向けられた﹃願
い﹄ではなかった。
文字が、滲んだ。
諦めることなんて、出来る筈が無かった。
彼女は、ラティナは、自分にとっての﹃居場所﹄だ。帰るべき場
所だ。代えるものなどありはしない。代えられるものなどありはし
979
ない。自分にとっての唯一の存在だ。
彼女がこの日記に綴ってきた今までの時間、同じだけの時間を、
自分も彼女を想って過ごしてきた。大切に愛しく想ってきた。簡単
きえ
に捨てられる想いでは決してない。
きえ
彼女が消滅てしまったことを、受け入れることなんて出来る筈が
無い。
﹁ーーっ!﹂
その時、気付いた。
自分の思考を振り返る。
無意識のうちに自分は、﹃彼女が消滅た﹄と考えていた。その事
ころされて
実を確認する。自分は、何故そうであると﹃確信していた﹄のか、
と考えを巡らせていく。
自分は、決して、彼女が﹃滅んでしまった﹄とは考えていないの
だ。
あり得ない事象である以上、そういう可能性を考えても然るべき
であるのに、自分は、初めからその可能性を除外していた。
左手を、見る。
可能性に思い至ってそこに魔力を点す。
﹁⋮⋮っ!﹂
文字が浮かんだ。
﹃主﹄である彼女との、明確な繋がり。自分が彼女の眷属であり、
彼女の影響を受けているという証。
それは、彼女が﹃何処かに存在している﹄という証だった。
﹁諦める必要なんて、ねぇよな⋮⋮﹂
眷属と成っていて良かったと、心底思った。自分にはまだすがる
ものがある。この﹃証﹄がある間は、ラティナは必ず﹃何処か﹄に
存在している。
980
﹁奪われたなら⋮⋮取り戻せば良い﹂
日の光がクロイツの街に朝が来た事を告げる頃、デイルは顔を上
げて呟いた。
リタは、階段を下りて来たデイルを見咎めて声を上げた。
﹁どうしたのよ、そんな格好して﹂
旅装束を調えた黒い魔獣のコート姿のデイル。こんなに早い時刻
に仕事に出るという話は聞いていなかった。そんなリタ自身、この
時刻に一階にいることは珍しい。テオもエマも起こすにはまだ早い
この時刻、少し羽を伸ばそうと二人を置いて部屋を出て来たのだ。
﹁リタか﹂
その短いデイルの声に、リタは背筋に寒気を感じた。聞いたこと
の無い程に、冷えきった声だった。
それは、﹃踊る虎猫亭﹄という、デイルにとって自分のままで居
られる場所では見せたことの無かった﹃仕事中﹄の彼の姿だった。
感情を殺し、周囲を威圧する。普段のデイルとは異なるもうひと
きえ
つの彼の姿だ。
﹁ラティナが消滅た﹂
﹁な⋮⋮﹂
何を言っているのか、と、問い詰めることも出来ない。気の強い
リタですら、まともに声を出させる事を、今のデイルは赦そうとし
なかった。
﹁取り戻す。絶対に﹂
﹁っ!﹂
何が起こったのか、リタにはわからなかった。茶化すことも冗談
として流すことも出来ないことを、彼女は既に察していた。声の調
子も表情も平坦であるというのに、デイルが激しく怒り狂っている
ことがひしひしと伝わってくる。
何か、自分の預かり知らぬところで、取り返しのつかないことが
981
起こってしまったのだ。それだけを理解する。
だからこそリタは、最大限の虚勢を張って声を上げた。
﹁なら、ラティナと一緒に、帰って来なさいよ﹂
﹁⋮⋮っ﹂
﹁待っててあげるから﹂
デイルはそのリタの言葉には返答せずに、裏口から外に出た。足
元に視線を向けて、寝そべる獣に声をかける。
﹁ヴィント、お前も行くか?﹂
問われたヴィントは数度鼻を動かして、再び地に伏せた。
﹁ラティナまってる。るすばんする﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
短く答えたデイルは、もう振り返ることはしなかった。
ラティナに何があったの?﹂
足に力が入らなくて、崩れ落ちそうになったリタを支えたのは、
夫の力強い腕だった。
﹁ケニス⋮⋮﹂
﹁ああ﹂
﹁何が⋮⋮何が起こったの?
﹁俺にもわからん﹂
夫の腕に力が籠った。だが彼は、リタよりも強靭な心身を持つ﹃
戦士﹄だった。不安に怯え、足を止めるのではなく、前に進むこと
を選択する男だった。
﹁だからこそ何が起こったか、知ることから始める必要があるだろ
う。デイルが何をしようとしているのか、知る必要があるだろう﹂
﹁ケニス⋮⋮﹂
﹁俺たちに出来ることは少ない。だが、何も出来ない訳じゃない﹂
きえ
白金色の少女が消滅たことが、平穏な幸福だった日々の終わりで
あることだけは、現在のケニスとリタにもわかる唯一のことだった。
982
塔の魔王。︵前︶
何が起こったのか、彼女には理解が出来なかった。
数多の年月を、知識の追求に費やしてきた。その貪欲なまでの執
念にも似た欲望こそが﹃鍵﹄となり、彼女は﹃永遠﹄ともとれる時
間を手に入れた。
﹃魔王﹄は、衰えて死ぬことは無い。
魔王が滅ぶ時とは、対存在である﹃勇者﹄の干渉を受けた時だけ
だ。
その力を得るということは、老いどころか寿命も超越するという
じゅみょう
こと。世界中の万物を知る為には、長寿種と呼ばれる自らの本来の
時間でも到底足りることはなかった。彼女は知識を得る為に、喜ん
で差し出された﹃魔王というちから﹄を手にしたのだ。
もつれそうになる脚を動かして、階段をのぼる。螺旋につながる
階段は彼女の居城である﹃塔﹄の壁に沿って上へ上へと延びている。
普段急ぐことのない、−−何せ時間は悠久に持っているのだ。急
ぐ必要など無い−−彼女にとっては、階段を息を乱しつつ走ること
など起こり得ないことだった。階段の左右の壁は大量という形容で
は収まらない膨大な書籍が収められた本棚となっている。そこに視
線を走らせることもなく、ただひたすら上へ上へと階段をのぼる。
意味の無いことだと数えることを止める程の時間を経て、世界に
七つの魔王が揃った時、彼女にとっての﹃日常﹄は、綻び始めた。
魔力が、流出する感覚。
983
正確には、﹃魔力﹄ではないだろう。自分を﹃魔王として定め魔
王として在る﹄為のちから。それが水瓶の底に空いた小さな穴から
水が溢れていくように、少しずつ流出しているような感覚を覚えた。
それが意味することを悟った時、恐怖した。
この﹃ちから﹄が全て流出した時、自分は恐らく﹃魔王﹄として
存在していることは出来なくなる。
−−それは、まるで﹃寿命﹄のようではないか。
限りのある時間から逃れ、自らの望みの為に魔王となったという
のに、再び時間の制約に縛られるのは、許容できることではなかっ
た。
原因を探した。
自分は、知識を集めし﹃魔王﹄だ。得られぬ知識などある筈がな
一から七までの
い。その一心で膨大な知識の奔流の中から、自らが求める情報を取
捨選択した。
そして、見つけ出した。﹃八の魔王﹄−−全ての魔王が世界に現
れた時のみを、発生の条件とする八つめの﹃玉座﹄。そこの主−−
の情報を。
﹃七色の神々﹄は、世界の均衡を司どっている。神々は、魔王の力
が強くなりすぎることも望まないのだ。対存在である﹃勇者﹄だけ
では魔王の力を削ぎきれなかった時、新たな魔王の制御機構として
﹃八の魔王﹄を遣わせるのだ。
﹃八の魔王﹄は、﹃魔王の存在するちから﹄を奪う。何をする訳で
もなく、唯在るだけで、﹃魔王の命の時間﹄を限らせる。
一から七までの
理の数魔王と同種の、﹃魔王﹄と呼ぶ以外に無い存在でありなが
ら、限りなく異質な存在。それが理の外の魔王という存在だった。
﹃八の魔王﹄の存在を許すことは出来なかった。
984
だから、本来一同に会することなどない、全ての﹃理の魔王﹄を
玉座の元に召集したのだ。本来同じ目的を持つことなどない魔王だ
が、共通の害悪相手ならば、それにも変化があるだろう。
﹃神﹄が自分たちを世界から排除する為に用意した﹃八の魔王﹄を、
先にこの世界から排除する為に。
下に居る自らの眷属たちは、役目を果たすことが出来るだろうか。
息を調える為に、階段をのぼる速度をおとしながら考える。
・
・
それでも脚を止めることが出来なかったのは、恐怖の為だった。
︵なんだったのだ⋮⋮あれは⋮⋮︶
思い返しただけで怖気が走る。
ひっ⋮⋮!﹂
彼女にとって、﹃理解出来ないもの﹄程、恐ろしいものは無い。
﹁⋮⋮っ!
喉に引っ掛かったひきつった声を上げたのは、自らの呼吸音の合
間に、遠くから響く足音を聞き分けたからだった。
決して少ない数ではない眷属たちがどうなったのか、考えたくも
無かった。
自分は﹃魔王﹄であるが、能力は知識を追及するという在り方に
特化している。彼女自身の﹃戦闘能力﹄というべきものは皆無だっ
た。その代わり、眷属たちには、戦うことを得手とする者たちを従
えている。﹃二の魔王﹄や﹃七の魔王﹄のような戦闘特出型の魔王
が直々に来たならば難しいだろうが、他の魔王の﹃魔族﹄相手だと
・
しても遅れを取ることは無い。
・
あれは、何だ?
もの
その﹃可能性﹄は、彼女は膨大な知識の中から回答を導き出して
いる。だが、否定する。あり得ない。そんな存在が居る筈がない。
985
自らの知識を自らで否定するという愚行を理解していても、呼吸
に応じるように乱れた彼女の心は、そうあって欲しいという願望を
答えとしたのだ。
塔の最上階は、がらんとした空間になっていた。
ここまで上がって来る者はめったにいない。使われた様子の無い
数点の家具が、なんとか部屋としての体裁を保っている寂れた空間
だ。従僕が清めていることもあり、埃が舞うことだけは無かった。
﹁はぁ⋮⋮っ、はぁ⋮⋮っ﹂
乱れた息を必死に調える。こんな風に追い詰められる心情になる
ことすら理解が難しい。
扉を塞ぐなどと、無駄な行為はしない。障害物を積んだとしても
一瞬で魔法によって蹴散らされるだろう。時間稼ぎにもならない行
﹂
冥が司るものよ静謐たる安寧を護りしものよ闇よ、我が名のも
動に労力を費やすことは意味が無い。
﹁
と我が敵を討つちからとなりて我に従え
言葉を重ね、時間の許す限り魔力を最大限までに練る。これが自
分に出来る最大限の抵抗だ。眷属によって手負いであるならば、討
ち取ることも出来るだろう。戦闘を不得手とする自分でも、相手が
﹂
向かって来る場所がわかるこの場所であれば、仕損じることなく事
星を縛りしちからを⋮⋮
が成せる筈だ。
﹁
その彼女の算段は、あっさりと覆された。
﹁⋮⋮ひっ﹂
息を呑む。
何が起こったか、理解出来ない。瞬きする程の間で、自分の喉元
に冷たく光る刃が突き付けられていた。
︵わざと⋮⋮︶
遅れて気付く。大きく足音をたてて、追っ手の存在を自分に気付
986
かせていたのは、自分を威圧する為ではない。距離を誤認させ正確
な間合いを見失わせる為だ。
自分と異なり、見るからに強靭な体躯を持つ眼前の﹃存在﹄が、
階段の途中で自分に追い付くことなど、簡単に出来ることだった。
相手にとっては、自分が動きを止めた場所を、終点であると察す
ることなど容易いだろう。そこで一気に足を早めるだけで、自分は
簡単に手玉に取られてしまうのだ。
後から気付いても全ては無駄なことだった。
ごくりと唾を飲み込み、彼女は必死に脳を働かせる。刃の先端が
チリチリと喉を掠めるが、それ以上、突き入れられることはない。
じ
ぶ
ん
どうやら、予想の通りらしい。相手の目的は直ぐさま自分を殺め
ることではなく、この塔の魔王たる﹃五の魔王﹄に用があるようだ。
彼女は、ほんの少しだけ落ち着きを取り戻して、眼前の侵入者を
観察する。
黒い革のコート姿の若い人間族の男だ。黒い眸に感情の揺らぎは
感じられず、ひどく静かに冷えた輝きを灯している。
︵⋮⋮人間族、なら︶
条件を満たすと彼女は考えた。魔王を生む一族たる魔人族以外の
人族なれば、﹃勇者﹄の発生条件を満たしている。
・
・
・
・
・
魔王たる自分に届く刃を握る存在は、対存在である﹃勇者﹄以外
にはあり得ない。
人間族の国に、自分は害を成した記憶は無い。
他の魔王と、思い違いをしているのではないだろうか。﹃魔王﹄
という存在を畏れ敬うが故に、誤った流言が罷り通っていることも
知っていた。
﹃魔王﹄だからといって、全てが人間族と敵対している訳ではない
ことを、伝えるべきだろう。
987
先ずはこの窮地を乗りきらなくてはならない。
人間族の言葉の中から、この塔の在る地区で主に使用されている
東方諸国語を選んで声を出す。
﹁何が、望みだ?﹂
﹁⋮⋮東方語か﹂
男は同じ響きの言語で低く呟くと、ほんの少しだけ刃を引いた。
これで、声を出しただけで喉を裂かれる心配はなくなった。だが男
は刃を納める気はないようだった。今も、自分が僅かなりとも意に
沿わぬ行動を取れば、簡単に命を奪えるとばかりに、ぴたりと冷え
た眸で見据えている。
よく見れば、刃には血と脂の曇りがある。黒いコートで見極める
ことが難しいが、コートから流れ落ち、床に滴りを作る血潮を見れ
ば返り血を相当量浴びているようだ。
極度の緊張から麻痺していた嗅覚が、視覚に応じて血の臭いを嗅
ぎとる。
自分の眷属たちの末路を悟っても、怒りや憎悪を抱くよりも、恐
怖が全ての感情を駆逐した。
﹃魔王﹄を害せる者は、魔王と勇者以外には存在しない。
彼女は、﹃自らの命の危機﹄というものを魔王となってから初め
てひしひしと感じていた。﹃八の魔王﹄に対する恐怖の比ではない。
いつか来るであろう未来への不安と、直前に突き付けられた死その
ものを比べることなど出来ないのだった。
988
塔の魔王。︵後︶
生き残ること、それが今の彼女の思考の最優先事項だった。
その為には、眼前の﹃勇者﹄をなんとか説得しなくてはならない。
彼の望むものを全て差し出すことも厭わない。知識を司る魔王たる
自分が差し出せる主なものは﹃情報﹄だろう。
そう思考を巡らせる彼女には、目の前の勇者を打ち倒して生き残
るという選択肢は既に除外されていた。
いくら対存在とはいえ、﹃勇者﹄であれば無条件で﹃魔王﹄を討
てるということは無い。﹃勇者﹄の持つちからは、あくまでも﹃魔
王を護る運命﹄というちからを無力化することだ。その先は、純然
たる互いの能力が雌雄を決することとなる。
﹃五の魔王﹄たる彼女は、眼前の男を討ち果たすだけの力が、自分
に無いことを理解していた。
自分よりも純然たる戦闘能力に秀でた多くの眷属たちを、打ち倒
し無力化してこの塔に侵入したにも関わらず、無傷であるこの﹃化
け物﹄には、抗う力など無い。
し
滅んでしまえば、知識の追求という自らの願いは全て絶たれる。
眷属はまた追々増やせば良い。
﹁私は、﹃五の魔王﹄⋮⋮人間族の勇者が、何用か?﹂
男は無言のまま、自らの左腕を口元に寄せた。視線も剣先も微塵
も彼女から動かさず、腕を包む籠手の金具を、口を使い幾つか外し
緩めていく。
男の行動の理由がわからないまま、息を詰める魔王の前で、彼は、
左手の手袋を外した。
989
﹁⋮⋮ひっ﹂
男の手の甲を見て、﹃五の魔王﹄は息を呑んだ。
それは、先程彼女が﹃可能性﹄として考えて、あり得ない存在と
して除外したものである証明だった。
﹁あり得ぬ⋮⋮そんな、そんなこと⋮⋮﹂
﹃魔王の眷属﹄となる﹃勇者﹄がいるなど、あり得ないことだった。
勇者の本質とは、神によって定められたものだ。それが﹃魔王を削
ぐ﹄という本来の理から、歪められ逸れた時には、神による加護も
失われる。あり得る筈がない。
﹃可能性﹄としては思い浮かんでいた。
魔族として強大なちからを授けている自分の眷属を、圧倒した存
在。どんな英傑でも武術の達人でも簡単に成せることではない。な
らば、自分の眷属よりも大きなちからを与えられている﹃魔族﹄の
・
・
行動とも考えられた。
だが、それと勇者は両立しない概念だ。
だから可能性を除外し、存在を理解出来ないと混乱した。
そこで彼女は、気付いてしまった。
魔王であっても、﹃勇者﹄の存在と相反することの無い唯一の存
在に。
血の気が失せる。
その事実は、決して自分にとって状況を好転させるものではない。
﹁は⋮⋮八の魔王の、眷属⋮⋮かえ?﹂
﹁何故そう思う﹂
男の声には、疑問を挟むことを許していない、冷たい拒絶の意思
が感じられた。だからこそ彼女は、問われた言葉の回答のみを絞り
出す。恐らくはこれが、男の目的だろう。男が求める問いに応じる
もの
ことだけが、今の自分を少しでも延命させる手段であるのだ。
﹁﹃勇者﹄を、眷属と出来る可能性を持つ存在は、﹃八の魔王﹄の
990
みだからじゃ﹂
﹁⋮⋮﹃八の魔王﹄とは、なんだ﹂
男の問いに、疑問を感じつつも、声を震わせながら彼女は答えを
継いだ。眷属でありながら、自らの主が何であるかを知らないこと
などあるのだろうか。
﹁﹃八の魔王﹄とは、神が魔王のちからを削ぐ為に作りし玉座の主
⋮⋮永遠を約束された魔王のいのちの時間を、有限のものにする⋮
⋮魔王を喰らいし存在じゃ﹂
彼女のその答えを聞いた後で、男は表情を少し緩めた。笑みと呼
ばれる表情への変化であるのに、彼女は自らの体温が数度下がる錯
覚を覚えた。
そして男は、再び問いを口にした。
﹁⋮⋮俺の﹃主﹄を奪ったのは、お前か?﹂
﹁ひ⋮⋮っ!﹂
襲撃は、誤解でも勘違いでもない。
正当な理由に基づいた復讐だ。
その瞬間、彼女は男への説得が不可能であることを理解してしま
った。
自分たちによって、﹃八の魔王﹄は封印され、外界への干渉が出
来ぬようになっている筈だ。ならば、この男、﹃八の魔王の眷属﹄
は、支配されていることによって、主の為に動いているのではない。
自主的な判断だ。何処からその忠誠心が出ているかもわからない状
況で、それを覆すことはまず不可能だ。
﹁私だけではない⋮⋮っ﹂
咄嗟に出たのは、その言葉だった。
私だけで為し
私だけの力で封じたのではないっ﹂
﹁﹃八の魔王﹄を封じたのは、魔王の総意⋮⋮っ!
たことではないっ!
991
自分に掛けられた責任を、転嫁する為の言葉を重ねる。他の魔王
にこの男の憎悪が向くことなど、知ったことではなかった。
お前は何なのじゃ⋮⋮っ!
﹃八の魔王﹄は幾人
ただ、眼前の恐ろしい存在から逃れたかった。
﹁何なのじゃ?
の眷属を生み出しておったのじゃ⋮⋮っ!?﹂
﹁⋮⋮安心しろよ⋮⋮俺は、俺の﹃主﹄にとって唯一の眷属だ﹂
男の声音には、揶揄いが籠められていたのだが、彼女はそれには
気付かず、言葉の内容を理解して、真に絶望した。
﹁なんと⋮⋮﹂
﹃八の魔王﹄はなんという﹃化け物﹄を生み出していたのか。﹃八
の魔王﹄が何を考えているのか、全く理解出来なかった。
従順に自らの滅びを受け入れる様子を示していながら、このよう
な眷属を用意していた理由が、全くわからなかった。
魔王が、眷属を生み出す為のちからというのは、限られている。
制限なく眷属をつくることは出来ないのだ。
そのちからを使い切った後で、回復するまでには、途方もない時
間が必要となる。﹃魔王﹄といえど、自らの眷属たる﹃魔族﹄を使
い捨ての道具にするには、リスクが大きなものとなるのだ。
多くのちからを与えれば、より強大なちから持つ魔族となるが、
従えることの出来る個体の総数が少なくなる。あまりにも多数を魔
族とすれば、個々の能力は低いものとなる。
無論全ての眷属に同じちからを与えなければならないということ
は無い。それらの配分も含めて、各々の魔王の個性となっていくの
だ。
その、眷属を生み出す全てのちからを、唯一人に。
それならば、全て納得してしまう。戦闘能力に秀でた自分の眷属
992
を圧倒した力にも。魔王である自分をこれほどまでに威圧する、存
在感にも。
﹁あ⋮⋮あ⋮⋮﹂
間違えた、のだ。自分たちは間違えたのだ。
﹃命を惜しむ﹄のであれば、﹃八の魔王﹄を排除する為に動くので
はなかった。﹃八の魔王﹄から離れるべきであった。決して触れて
はならなかった。
自分たちの天敵は、﹃八の魔王﹄ではない。−−この男の方だ。
黒いコートの男が降り下ろした刃が煌めくのを、ひどくゆっくり
と感じる刹那の間で眺めながら、﹃五の魔王﹄は、自らの長い生の
終わりを、その思考で締めくくったのだった。
﹃塔﹄を出ると、冷たい風が頬を撫でた。自分の国ではそろそろ夏
を迎えるというのに、季節が異なるこの土地では、まだ春は先の事
だという。
幾つも重なる屍に鼻先を向けて、生死を確認していた巨体の灰色
の獣が、彼の気配に視線を向けた。
﹁どうであった?﹂
﹁やはり、予想通りだった﹂
・
・
獣の発した問いに、短く答える。
﹁ラティナを奪ったのは、魔王たちだ。⋮⋮俺の敵は、全ての魔王
だ﹂
・
・
その男−−デイルの言葉に、獣−−天翔狼という種族の群れを率
いていた巨体の﹃彼﹄は、低く喉を鳴らす。この凄惨な光景の中と
は思えぬ含み笑いにも似たその声に、デイルは訝しげに眉を上げる。
﹁良かったではないか﹂
ヴィントの父であり、ハーゲルと仮の名を呼ぶことを許した天翔
993
狼は、デイルに低い声で言った。
﹁憎むべき相手が、我等の敵が、明らかとなった﹂
﹁⋮⋮そうだな﹂
ハーゲルは立ち上がると、翼を広げ身体を伸ばした。
いくさ
﹁﹃魔王﹄が相手か。不足もなし。命を賭けるに値する戦として興
に乗る相手よな﹂
﹁⋮⋮付き合ってくれるのか?﹂
ほとんど表情の動かなかったデイルが、ハーゲルの言葉に、さす
がに驚きを面に出した。ハーゲルは、再び含み笑いのように喉を鳴
らした。
﹁我が群れのことは、次代に継いできた。一生に一度くらいは、自
らの力を無我の境地で試すことも面白い﹂
﹃彼﹄は、自分の祖母の﹃友人﹄だ。あるいは祖母の代わりに自分
の行く末を見守るつもりなのかもしれない。
デイルはそんなことも考えたが、何を言っても野暮になりそうで、
唯、謝意のみを伝えた。
﹁⋮⋮感謝する﹂
屠った魔族の遺体を塔の中に放り込み、ハーゲルの魔術で火を放
つ。﹃彼﹄は、更に風の魔術で塔の内部に、新鮮な酸素を送り込ん
でいった。塔は瞬く間に、炎が渦巻き、赤く輝く一本の柱と化した。
内部に蓄えられていた大量の蔵書の中には、失うことすら世界の
損失と言われる希少な物もあるのかもしれないが、知ったことでは
なかった。
焼き付くしてやりたいという衝動を、堪える必要性が見出だせな
かった。
正義、などではない。
全ては自分の思いの為に。
﹁必ず、取り戻すからな⋮⋮﹂
994
・
・
彼女がそこには在ないことを理解していても、燃え上がる塔の炎
が天に向かうのを見上げたデイルは、蒼天に呟きをもらしたのだっ
た。
995
巨人の王。︵前︶
クロイツを出たデイルがまず向かったのは、故郷の方向だった。
本来の街道のルートではなく、険しい山脈地帯に力尽くで分け入
った。﹃地属性魔術﹄で、方向を確認しながらならば不可能ではな
いとはいえ、道無き険しい場所を単身突き進むことは、本来自殺行
為だ。
それでもやれると確信めいていたのは、ラティナが呉れた﹃眷属﹄
としての力があればこそだった。
体力や筋力、魔力といった基礎能力に、今までにはなかった程の
余裕が自らの中にある。睡眠や食事への必要性が最小限で済む今の
自分であれば、この険しい道ですら休むことなく踏破出来るだろう。
勝算が無いことはしない。無謀ではないからこそ、最善を選んだ。
故郷では、短く父と祖母にだけ面会した。
デイルが急に姿を見せたことや、淡々と状況を語る様子に、何か
言いたそうな顔をした父だったが、今、深く問い質すことはなかっ
た。その事は正直有り難かった。
普段と何も変わらない様子で、煙管をふかしていた祖母は、静か
にいつも通りににやりと笑った。
﹁思うまま、やりゃあ良い﹂
祖母ヴェンデルガルドは、そう言った。
﹁なんも心配することはねぇ。面倒なことは、俺に任しときゃあ良
い﹂
祖母の声は、本当にいつも通りのものだった。デイルの父ランド
・
・
・
ルフも、ヴェン婆の姿に何か腹を据えた様子に変わる。
﹁あの娘はもう、俺らの﹃一族﹄の一員さ。手を出したことは、後
996
悔させてやらないとならねぇ﹂
カツンと鳴った煙管の音に、祖母が決して怒っていない訳ではな
いことを聞き取ることが出来たのは、やはり家族であるからだろう。
﹁相手が魔王だろうが、そんなことは関係ねぇ﹂
﹃ティスロウ﹄が、敵を定めた瞬間だった。
とはいえデイルは、故郷の人びとに、直接魔王と戦う尖兵になっ
て欲しいという訳ではなかった。
公爵閣下との契約関係の調整の為に、祖母の協力は不可欠だった
し、何よりも﹃ティスロウ﹄という一族の持つ、独自の情報網と協
力者の存在は、世界中に散らばる﹃魔王﹄と事を為すのに重要な事
柄だった。
アクダル
一族から出ても、尚一族の為に働く﹃レキ﹄たち、そして父祖を
同じくする他国の﹃ティスロウ﹄という存在は、﹃緑の神﹄の神殿
とは異なる巨大な情報ネットワークなのである。
そしてもう﹃ひとり﹄、故郷には協力して欲しい存在がいた。
天翔狼の集落で、デイルと面会した群れを率いるヴィントの父狼
は、デイルの話を聞いて低く唸った。
﹁御子が⋮⋮﹂
その絞り出された声音に、彼女は本当に多くのものに愛されてい
たという事を再確認する。
﹁ラティナの身に起こった事を知る為に、ラティナを取り戻す為に
⋮⋮俺に力を貸して欲しい。空を駆ける翼を貸して欲しい﹂
かつてラティナは、クロイツと王都の間を、ヴィントに乗って移
動してみせた。彼女程の魔術の制御能力を持たない自分では、全く
同じ手段を取ることは出来ないだろう。
だが、それが成体の天翔狼であれば、話は変わってくる。
難しいことは理解している。協力が得られなかったとしても、ど
れだけの時間が掛かっても成し遂げるつもりだ。それでも、協力が
997
得られるのであれば、どんな英傑よりも心強い味方となるだろう。
ヴィントの父狼、ハーゲルが同行してくれたことは、デイルにと
っても予想外だった。
ハーゲルは群れの長としての役割を、次位のものに譲渡し、デイ
ルの翼と成る役割を負ってくれたのだった。
ヴェン婆の友人であり、ラティナを深く思ってくれる﹃彼﹄以外
のものでは、恐らくデイルのこんな馬鹿げた行動に付き従ってくれ
るということにはならなかった。そう考えれば、これが唯一の可能
性であったのかもしれない。
ハーゲルの背は、飛竜のように鞍が無い事もあり、乗り心地自体
は快適とは良い難い。文字通り空を駆けるように飛ぶ天翔狼は、馬
よりもなお、激しく揺れ動く。
それでも、ヴィントと異なり巨大な体躯を有するハーゲルは、デ
イル程度の重量を負担とは考えていないようだった。魔術にも長け
た幻獣の中でも強力な個体である﹃彼﹄は、風の魔術でデイルの身
を護ることも忘れなかった。
国を幾つも挟んだ遠方にデイルが何の困難もなく、短期で辿り着
くことが出来たのは、ハーゲルの協力があって以外の何物でもない。
﹃五の魔王﹄を討った後、彼らが向かったのは、見たことも無いほ
ど広大な草原の中、乾いた風の吹く土地だった。青い草の臭いは、
デイルの知るどの土地のものとも異なる。
どんなちいさな出来事にも、灰色の眸を輝かせていた彼女が隣に
いたならば、この初めて見る風景を前にして、どんな顔をしたのだ
ろうか。
知らず握り締めた左腕で、籠手が小さな金属音を立てた。
998
﹁⋮⋮﹂
﹁﹃五の魔王﹄のように、奇襲はしないのか﹂
ハーゲルが不思議そうに問いかけたのも仕方が無い。デイルは静
かに目的の一団の方に歩みを向けていた。
﹁理屈じゃねぇよ⋮⋮ただ、俺にも敬意を向けるだけの理由がある
相手って奴がいる﹂
何の遮蔽物も無い草原だ。遠く移動している一団を見分けること
は、難しいことではなかった。向こうからも巨大な獣を従えるデイ
ルの姿は確認出来るだろう。
距離を詰めるに従い、逆に距離感は狂っていく。
その一団は、老若男女の区別なく、全て巨躯の一団だった。見上
げる程に長身で、身体の厚みもそれに応じたものがある。
行き先を塞ぐデイルに気付き、先頭を歩く最も体格に優れ、雄々
しい角を有する男が足を止めた。
﹁⋮⋮﹃六の魔王﹄か﹂
魔王を見抜く能力を持つデイルにとっては、確認にも満たない行
動であるのだが、その言葉を向けられた男は、面白そうに表情を緩
めた。
﹁﹃人間族﹄が、このような場所で何用だ﹂
彼の魔王が返した言葉が、西方大陸語である事を聞き取って、デ
イルはそのまま自らの母国語を紡ぐ。
デイルは、﹃東方諸国語﹄ならばある程度は話せるし、南方の少
数言葉も最低限は理解出来る。だが、やはり母国語であれば有難い。
デイルは左腕の籠手を外し、目の前の男に左の手の甲を見せる。
﹁⋮⋮スマラグディ﹂
﹃六の魔王﹄は、小さく呟いて、居住まいを正した。
手袋をはめ直し、籠手を再び着けるデイルを咎める真似もしない。
﹁それで、何れかの魔王の僕が、何用だ﹂
﹁⋮⋮我が﹃主﹄の報復に﹂
999
デイルの静かな答えに、﹃六の魔王﹄は笑みを消して彼を見据え
﹃八の魔王﹄の眷属よ﹂
た。デイルが微塵も揺るがずその視線を受け止めると、今度は苦笑
して彼を見る。
﹁何故、馬鹿正直に面と向かって来た?
﹁﹃一族の長﹄である貴方に敬意をと﹂
デイルは、自分が﹃魔王﹄たちに向ける敵意と憎しみを否定する
ことはしない。だがそれが、自分本位な感情に基づくものであるこ
とも理解している。
その在り方を変えることが出来ない為に、かつての彼は、自分自
身を見失う程にもがき苦しんだのだ。
故郷からもたらされた情報から、巨人の王と呼ばれる﹃六の魔王﹄
の正確な所在を掴んだ。
それは同時に、彼の魔王が、自らの一族を率いる善き主であるこ
とをも知ることだった。
彼ら巨躯を有する一族は、﹃魔人族﹄の中でも少数の部族だ。
その彼らが、この厳しい環境の土地で生活しているのを支えてい
るのは、﹃六の魔王﹄による眷属への加護に他ならない。
彼の魔王は、自らの一族を正しく導く善き長なのである。
デイルの行動は、彼の一族にとって、災いでしかあり得ない。憎
まれて当然の行動だろう。一族の全てを敵に回してもおかしくはな
い。
だからこそ、デイルは自分の中のひとつの矜持を通した。
一族の長という在り方に、共感してしまったが故に。彼の一族へ
と敬意を示す事を選んだのだ。
それは彼の魔王が、誇り高きひとりの戦士であるという生きざま
を示しているという情報を、共に得ていたからこそ選んだ行動だっ
た。
1000
巨人の王。︵後︶
デイルが振り払った剣を、﹃六の魔王﹄は曲刀で受け止めた。業
物とは言い難い曲刀である。巨大な金属板を加工したかのような、
切ることを目的としていない、叩き壊し破壊する為の武器であった。
﹃六の魔王﹄の巨躯による強力な一撃を、最大限に活かす為の武器
とも言えた。
数度の打ち合いで、互いの力量を計った二人は、一度距離を取る。
ハーゲルと﹃六の魔王﹄の一族たちは、離れ囲むようにして二人
の戦いを見ていた。﹃六の魔王﹄は、自らの一族にデイルとの戦い
に手を出すことを禁じた。
デイルが見極めていたように、戦士として長として誇り高き王で
ある男は、デイルの敬意に真っ当に応じることで応えてみせたのだ
った。
﹃六の魔王﹄が振り下ろした曲刀を、デイルは剣ではなく籠手で受
けた。強度に劣る自らの剣よりも、自分の故郷の技術の粋を集めた
この防具に、彼は全幅の信頼を置いている。
﹁ぐっ﹂
短く息を吐いたのは、王の一撃の重さ故だった。今までの自分な
らば、決して耐えることが出来なかったその強力な打撃を、﹃魔族﹄
として強化された彼の肉体は強くしなやかに受け止めてみせた。
王もまた、自分の一撃が受け流されたことに、驚きの様子を見せ
た。今まで自分の全力の攻撃を耐えた存在は、ひとも魔族もいなか
った。
獰猛さを感じる笑みは、無意識のうちに浮かんだものだった。﹃
魔王﹄と成ってから、自らの全力を以て戦ったことは無い。そして
1001
この時を逃せば、次が何時訪れるかはわからない。
自分と同等の能力を持っていたとしても、﹃二の魔王﹄や﹃七の
魔王﹄は、彼のこの矜持を尊重しない。目的が異なる彼の存在たち
は、戦士としての生きざまなどに頓着せずに、彼の一族を枷と呼び、
彼を討ち取る手段とするだろう。
毅然と前を向き、﹃理の魔王﹄たちの脅威から、護りたいものを
護ってみせた、﹃八の魔王﹄の眷属だけのことはあった。
﹂
殺されるつもりは無い。自分は自らの一族をこれからも率いらな
ければならない。
大地よ、我が名のもとに命じる、我が敵を討て﹃石槍﹄
だが、今は、その責務を忘れて刀を振るうことを選んだ。
﹁
デイルは正確に呪文を紡ぎながら、連続で剣を振るう速度は緩め
なかった。魔力を練ることに必要な集中力も、今までの非にはなら
ない負担で済むことを直感的に理解する。
ならばと連続して呪文を口中で唱えていく。
同じ呪文を使うのは、咄嗟の際にも使うことが出来るように、反
復して叩き込んだ一文であるからだった。ほとんど意識せずとも、
口は勝手に呪文を紡ぎ出す。
剣の連撃に加えた、呪文の連続攻撃。
そのほとんどを﹃六の魔王﹄は曲刀で切り払いいなしていく。戦
士として一流以上の存在である離れ業であった。
デイルの﹃勇者﹄としての能力で、魔王としての防護は失われてい
る。純粋な﹃六の魔王﹄自身の力量が成せることだった。
デイルはひとりの戦士として、腕にも、在り方にも、この﹃王﹄
自身には尊敬に似た念すら抱いてしまう。
唯一、彼女を奪った存在でさえなければ。
1002
戦いを始めた当初には、天にあった太陽は、既に傾き始めている。
数時間にも及ぶ死闘を経ても、デイルの剣を握る腕に疲労はなか
った。回復魔法の力を借りずとも、まだ自分は戦うことが出来る。
彼女が呉れた力には、それだけの力があった。
反して﹃六の魔王﹄には、疲労の色が見え始めていた。
彼は近付く自分の限界に、勝機を見出だす為にはもう猶予の無い
ことを悟って、決着を付けるべく力強く踏み込んだ。
−−長き戦いの決着は、ひどくあっさりと、ほんの僅かな交錯の
後についた。
地に倒れた﹃六の魔王﹄は、自分を斬った男を見上げた。
色めく一族たちは、自分にとって孫に当たる青年が抑えている。
自分が死した後でも、あいつならば一族を率いることが出来るだろ
うと、漠然と考えた。
こうべ
﹁⋮⋮勝者には、﹃角﹄を奪う権利がある﹂
魔王の言葉に、デイルは頭を振った。
﹁俺が必要とするのは、命だけだ。⋮⋮誇りはいらない﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
王は、デイルの後ろに広がる薄紫色の空を見上げる。美しい空だ
った。自分が魔王となる以前より天に在り、魔王となってからもず
っと広がる空だった。
この空の下で、一族に見守られながら−−戦士として死ぬ。悪く
は無い死に方だ。そう思った。
﹁感謝する。誇り高き﹃八の魔王の眷属﹄よ﹂
一撃で首を断ち切ってくれることも、敗れた戦士への慈悲である。
最期を委ねるに足る善き相手に巡りあった幸運を、微かに口元を緩
めて、彼は静かに目を閉じたまま考えた。
﹁⋮⋮俺は、誇り高くなんかねぇよ⋮⋮﹂
1003
ぽつりと呟いたデイルが、それでもその言葉を否定しなかったの
は、今の自分は﹃彼女の名﹄を負っていることを知っているからだ
った。
自分の誇りなんて物はどうでも良い。でも、彼女を貶めることは
許さない。それが自分自身であっても許すことはできない。
視線を周囲へと向けると、ハーゲルが静かな金の眸で自分を見て
いた。自分が討った王の一族たちは、怒りと憎しみ、そして何より
も哀しみに充ちた声をあげている。そのさざ波のような慟哭に、﹃
六の魔王﹄が真に慕われていたことを知る。
一触即発となったとしてもおかしくない雰囲気であるのに、デイ
ルの前に進み出た﹃六の魔王﹄と何処か似た風貌の青年は、静かな
表情でデイルに頭を垂れた。
﹁王の亡骸は、こちらに渡して下さりますか?﹂
﹁さっきも言った通りだ。⋮⋮俺は﹃主﹄の報復が出来ればそれで
良い﹂
恨んでも当然のデイル相手に、青年は礼節ある様子を崩さなかっ
た。
少々訝しげなデイルの様子に気付いたのか、青年は言葉を継いだ。
﹁強き戦士には敬意を。戦の果ての死は名誉と。我等の理です。そ
れを汚すことは、王の誇りを汚すこと﹂
決して、心の中が凪いでいる訳ではないだろう。だが、青年はそ
れよりも自らの王と自分の矜持を以て理知的な様子を崩さなかった。
﹁王の誇りを尊んで下さった貴方にも、最大限の敬意を﹂
次に、もしもまみえる時があれば、彼等は仇敵として自分に刃を
向けるだろう。
だが今この時、彼等は、強きひとりの戦士としてデイルに敬意を
示した。デイルが彼等の王にそうしたように。
﹁⋮⋮再び会うことの無いことを祈っている﹂
1004
デイルが最後にそう言い残したのは、この誇り高い不器用な生き
方をする一族を、滅ぼすような戦いはしたくないと思ったからだっ
た。
ハーゲルと共にデイルが彼等に背を向けても、彼等は奇襲を掛け
ようとする素振りすら見せなかった。
﹁お主が敬意をと、言った意味がわかったような気もするな﹂
やがて翼を広げたハーゲルは、背に乗るデイルにそう声を掛けた。
徒歩で充分に距離を取ってから翼を広げるのは、飛び立つこの瞬
間が一番無防備となるからだ。ハーゲル単体ならばそうでも無いが、
デイルを背に乗せる以上、無理な体勢での回避行動は取れなくなる。
﹃彼﹄は、﹃六の魔王﹄の一族たちをずっと警戒していた。恐らく
はデイル以上に彼の分まで。
﹁恨みがない訳じゃねぇ⋮⋮でも、俺が俺でなくなっちまったら⋮
⋮きっと許してもらえないだろうからな﹂
﹁そうか﹂
ハーゲルもそれが誰を指しているのかと、問いかけることはしな
かった。
﹁魔王は全部殺す。⋮⋮ラティナを取り戻す為に﹂
﹃魔王﹄を全て殺すことが出来ても、彼女を取り戻すことが出来る
と言い切ることは出来ない。本当はそのことにも気付いている。
だが、彼女を﹃封じた﹄のが魔王である以上、可能性があるのな
らば、それにすがるまでだ。彼女を封じている枷を壊すまでだ。
必ず取り戻せると、信じて。そうしなければ、きっと自分はそれ
こそ自分のままではいられない。
力強いハーゲルの羽ばたきと風の音の中で、デイルは左手をぎゅ
っと握り締めた。
1005
災厄の魔王。︵前書き︶
全体的に巻きで進めているのは、仕様となっております。
1006
災厄の魔王。
クロイツの﹃踊る虎猫亭﹄は、その日ひとりの客人を迎えていた。
細い体躯を旅装束に包んだ若い女性。胸元には、﹃虎猫亭﹄が掲
アクダル
げる旗と同じ天馬の意匠の聖印をさげている。
﹃緑の神﹄の正式な神官となったシルビアだった。
﹁ラティナがいなくなったことに、あの子の故郷が関係しているの
は間違いないと思うの﹂
シルビアは、緑の眸に理知的な光を宿しながら、ケニスや常連客
たち、厳つい外見の男たちに怯むことなく、自分の考えを述べる。
﹁ルディに確認したら、たぶん間違い無いって言ってた。ラティナ
がいなくなる前にあの子に接触してたのは、魔人族の旅人たちのう
ちの一人。しかもラティナは、そのひとと面識があるみたいだった﹂
﹁ラティナは確か、ヴァスィリオの出身だった筈だ﹂
﹁一応、他の地域の魔人族の集落のことも調べるべきだろう。嬢ち
ゃんは、故郷のことどころか、魔人族のこと自体をあまり知らない
子だったからな﹂
地図を広げ、互いの情報を交換していく。
﹁気になっていることは他にもあるの。そっちはルディにも頼んで
いるけど⋮⋮確認にもう少し時間が欲しい﹂
シルビアがそう言い、ケニスも何かを思い出したように頷いた。
﹁そういえば、以前気になる噂は聞いたな⋮⋮俺も話を集めておこ
う﹂
アクダル
現状で足りていない情報こそ、緑の神の神官であるシルビアにと
って、目指すべきものだ。だからこそ、互いの情報を突き合わせ、
ラティナを捜す為に必要なことのヒントを探る。
1007
目標を定められたならば、シルビアにとって、それが困難であれ
ばあるほど、目指す価値があることとなる。
﹁デイルの奴が今、何処にいるかはわからんが、恐らく何かを仕出
かしてることだろう﹂
ケニスがそう言い切ってしまうのは、姿を消したあの日のデイル
に、それだけの危うさがあったからだった。
デイル自身にも色々と尋ねたいところだが、飛び出したきり、連
絡のひとつも寄越さない。相手の居場所がわからない状態では、連
絡を付けることは、まず不可能だった。
﹁俺の伝手も使えば良い。シルビア嬢ちゃんだけじゃ難しい場所で
も、護衛を受ける冒険者の算段は付けられる筈だ﹂
ジルヴェスターがそう言ったのは、彼の個人資産とは別に、動か
せる予算の当てがあるからでもある。
ラティナを見守ってきたのは、デイルや﹃虎猫亭﹄の夫婦はもと
より、ジルヴェスターだけでもない。彼を初めとしたクロイツでも
名士と呼ばれる幾人もの者が、彼女を見守り続けていたのだ。
ラーバンド国屈指の都市クロイツで、富裕層に分類される人びと
も多い。ひとりひとりにとっては大したことの無い資金を回収して
いっても、総額はかなりのものとなる。そして資金という形でなく
とも、彼女の為ならば、採算度外視で依頼を受けても良いという冒
険者も多い。
﹃白金の妖精姫﹄と呼ばれるまでに至った彼女の人徳は、クロイツ
の多くの冒険者たちに浸透している。
彼女は本当に、多くの人びとに愛されていたのだ。
﹁いずれはヴァスィリオに直接向かってみせるから﹂
アクダル
シルビアはそう言い残して、クロイツを旅立って行った。定期的
に﹃踊る虎猫亭﹄の﹃緑の神の伝言板﹄に情報を送ると約束し、行
動を開始したのである。
1008
そうして、ほどなく。本当に急と言える程の早さで、﹃世界﹄は
日に日に危うさを増していった。
﹃神﹄という、自らの絶対的な上位者から与えられた制約たる﹃八
の魔王﹄を封じたことは、﹃災厄の魔王﹄たちの自制を外した。
神すら、自分たちを諌める力を持たない。
その事実は、魔王となった時以来の万能感となった。﹃災厄の魔
王﹄が、自らの思うままに力を振るうことを善しとした。魔王とし
ての在り方のままに、好き勝手に行動することを肯定されたと捉え
られた。
その結果、玩具−−壊すことを楽しむ﹃魔王﹄にとって−−のよ
うに、世界は侵されていったのだった。
﹃二の魔王﹄により、一つの街が一夜にして血の海に沈んだ。
﹃七の魔王﹄により、彼の王の率いる軍が、数多のひとの営みを蹂
躙し、攻め滅ぼし、場合によっては自らの軍の一部に呑み込んで、
国の形を変えていった。
それは、大国ラーバンドに於いても、余談の許さぬ状況となって
いった。
﹃四の魔王﹄が、領土の一角を蝕んだのだ。
ある日ふわりと前触れなく降り立った﹃四の魔王﹄は、その二つ
名通り、周囲に死の病を振り撒いた。
本来ならば、国の中枢まで到達しかねない魔王の脅威を、一地方
の被害に留めたのは、その地を治める者が高潔で優秀であったから
こその結果であった。
その地は、ラーバンド国大貴族、エルディシュテット家の領地だ
った。ラーバンド国宰相たる公爵の継子である長男が、自らも魔素
に侵されながらも、最期の最期まで、領民と国の為に指示を出し続
けた。
凡庸ではない人物であるからこそ、﹃四の魔王﹄の脅威を一時期
1009
にでも封じめることに成功したのである。だが、これ以上後手に回
れば、大国とはいえ、取り返しのつかない打撃を受けることだろう。
国の存亡にすら関わる災禍だった。
即急に、﹃四の魔王﹄を討伐する必要があった。
そして、その討伐軍には、﹃勇者﹄の姿があった。
眼前に現れた、絶望を形にしたかのような﹃魔王﹄という存在。
脅威そのものであるそれは、民の人心を乱し、国家に属する兵士た
ちからも戦意を奪う。
だからこそ、彼は、英雄を演じることを求められた。
サーガ
陽光に目映く輝く白金の鎧を纏い、同じ白金の部分鎧を着けた幻
獣を従えた彼は、まさしく英雄譚の勇者そのままの姿だった。
人びとはその姿に歓喜し、安堵する。理由などは要らない。勇者
という存在であるだけで、必ずや魔王を打ち払ってくれると、願い
を掛ける。
魔素障害に耐性を持つ、高位の神官により編成された小隊は、羨
望と期待に満ちた歓声の中、送り出されていった。
勇者が自らの旗印として掲げた紋章には、白金色の長い髪をなび
かせた、薄い羽持つ妖精が描かれていた。
その紋章は、ラーバンド国第二の都市クロイツを発祥に、冒険者
を主体として発生しつつある義勇軍の象徴として定められた紋章だ
った。
クロイツに住むひとりの仕立て屋の女性が作り出し、拡げたとも
言われていたが、その由来を知る者は、王都にはほとんどいなかっ
た。
ただ、その紋章の女性が、勇者の恋人の面差しをうつしているの
だという噂が、ひっそりと拡がっていく。
1010
悪化する世界情勢に、重く暗くなる世論を緩める美談が求められ
ていた。勇者が恋人の為に戦っているのだという、まるで民衆が求
めるお伽噺のような﹃物語﹄は格好の話題だった。
−−いつしかそれは、﹃勇者と妖精姫の物語﹄という名で世間に
拡がっていったのであった。
1011
病の王。
﹁お前は加護がないのに、何で同行してるんだよ﹂
﹁兄上がこの度のことで亡くなったことで、俺にも後継の可能性が
出てきた。俺には母方の後ろ楯はないからな。明確な実績を積むこ
とを求められている﹂
精鋭を集めた彼らの隊は、強行軍を強いても足取りが衰えること
はなかった。その夜営時に、デイルはグレゴールにそう話し掛けた。
口先だけは軽口を叩いているように見えるが、その実、全く気を
緩めていないデイルの姿に、グレゴールは内心で危惧を抱いていた。
だが、それを面に出すことはなかった。
それは、かつてのデイルにあり、ラティナと出逢ってから薄れて
いたデイルの危うさだった。
詳しいことをデイルは語ろうとしない。
それでもラティナが行方不明となっていることは、グレゴールも
知ることだった。
父であるエルディシュテット公爵は、他にも情報を得ているよう
であったが、まだ自分には与えられない情報であるらしい。
嫡男である長男が一家諸とも﹃四の魔王﹄による影響で命を喪い、
エルディシュテット家は非常に混乱の極致にあった。だが国の重臣
たる公人として、公爵家の者たちは、死を悼むのは今ではないと毅
然としていた。領地の被害も甚大であるし、このままでは国すら危
うい。
グレゴールもまた、その一員として為すべきことを為すだけだっ
た。
1012
次兄は、長兄に子が生まれたのを機会に、ラーバンド国の辺境伯
の一人娘の元に望まれて婿に入った。この混乱している世界情勢の
中、次兄を今、戻すことは益にならない。魔王による脅威だけでな
く、ラーバンド国と国境を隣接する他国とも緊張状態は続いている。
次兄には、国境を守る辺境伯を支えて貰わねばならない。
グレゴールに求められているのは、英雄として祭り上げられたこ
の友人の隣で、自分もまた英雄として振る舞うことだ。
いずれこの混乱期を乗り切り、国が復興を掲げる時に、民衆の支
持を集める象徴のひとつとなることだ。
本来ならば、自分にこういう役割が向いているとは思えない。
それでも、﹃友人﹄として、勇者という役割を演じてみせている
デイルに比べれば何と言うこともないように思う。
︵﹃勇者﹄か⋮⋮今のこいつは、﹃英雄らしさ﹄や﹃高潔さ﹄とは
かけ離れているように思えるが︶
危うげな雰囲気を醸し出しているデイルの眸は昏い。
かつてのデイルのようなと、思ってはいたが−−と、グレゴール
は自分の認識を訂正する。今のデイルには、以前のものよりも、深
い狂気のようなものがある。かつてのデイルは、自分の心と行いの
間の隔たりに苦しんでいたが、今のデイルは、本懐を遂げられるの
ならば、自分の心すら、引き換えにしても惜しくはないという気配
がある。
おそらくは、それは、彼女の為だ。
そして、デイルがそれでも自分の心を手放そうとせずに、己のま
まで在るのも、彼女の為なのだろう。
ニーリー
︵何処にいるのか⋮⋮彼女は︶
ニーリー
グレゴールは、胸にさげた藍の神の護符を掴み、溜め息をついた。
これは、藍の神の高位神官であるローゼが手ずから作ったものだ
った。彼女はこの隊には従軍していない。その自分の変わりにグレ
1013
ゴールを守れるようにと、彼女は自らの髪と血潮を媒介に強力な護
符を作った。このローゼの護りがある以上、グレゴールは四の魔王
でさえ恐れる気はしない。
そして王都にいるローゼを守る為に、退くつもりはない。
だから、グレゴールは祈る。
友人の愛する唯一の少女が、彼の元に無事に戻るようにと、願う。
自分が、もしもローゼを喪ったなら、どうなってしまうかわから
ない。狂ってしまえれば、楽になれると思っても、ローゼ自身が、
それを赦してくれないとわかっている。ならば自分は自分のままで、
苦しみ続けることになるだろう。
デイルの狂気の一端を、理解出来てしまえるからこそ、グレゴー
ルは友人を案じるのだった。
﹁死にたくない﹂
白金色の鎧を纏った自分にとっての﹃死の化身﹄を前にして、長
い黒髪を乱して﹃四の魔王﹄は、自らの魔力−−全ての生あるもの
を蝕む病そのもの−−を、周囲に振り撒いた筈だった。
﹁なんで、なんで、なんで﹂
壊れた玩具のように、その言葉を繰り返す。﹃四の魔王﹄と成っ
てから、当たり前のように使えていた力が、当たり前のものではな
くなっていた。魔力が、自分の能力が、思ったように振るえない。
﹃勇者﹄という対存在と、初めて相対した﹃四の魔王﹄は、勇者の
能力を知らなかった。﹃四の魔王﹄にとって興味のあることは、己
のことだけだった。何も欲しない、誰も必要としない。眷属を生み
出したのも、それらがかつての己と同じ存在であった為だった。
1014
か
もの
死の病に侵され、絶望の縁にいた存在。それが﹃四の魔王﹄とな
る以前の彼の存在だった。生への渇望は、自ら﹃死の病﹄そのもの
となることを引き寄せた。かつての自分が抱いていた絶望そのもの
と成ることで、﹃四の魔王﹄は生まれた。
死の病を誰よりも深く恐れていながら、死の病を振り撒くことを
厭わぬ存在。歪んでいるからこそ、魔王と成り得たのである。
自らのことにのみ興味を持ち、周囲の誰を理解しようともしない
四の魔王にとっては、﹃勇者﹄すら、興味の外の事柄だった。
魔王が魔王であり続ける神に与えられた運命を覆す理。
だからといってどうということもない。﹃人間﹄が、病そのもの
である自分に抗える筈がない。
﹃五の魔王﹄だと名乗った女が、自分たち魔王を滅ぼしてしまうと
いった﹃八の魔王﹄というものの存在について語ってきた時は慌て
理解できな
たが、あっさりと排除することが出来た。恐れる必要もなかった。
それなのに、何故、今自分は追い詰められている?
かった。
﹁死にたくない、死にたく⋮⋮﹂
見苦しいほどに生への執着を喚きながら、﹃四の魔王﹄は、グレ
ゴールの振り切った一閃の刃の前に倒れ伏した。
﹁⋮⋮思っていたよりも、呆気なかったな﹂
﹁そうか﹂
困惑したように呟いたグレゴールの隣で、デイルは自分の左手を
見ていた。かすかに熱を帯びているような気がする。手袋の奥の素
肌を見ることは出来ないが、この様子だと﹃名﹄が浮き出ているに
違いない。
グレゴールが﹃四の魔王﹄を討ったことは、不思議でも何でもな
い。
1015
魔王を倒すことが出来るのは、﹃勇者﹄だけという訳ではない。
デイルは自ら戦う力を有しているが、そうではない﹃勇者﹄も、過
去の歴史の中には存在している。戦いに秀でた仲間を導く聖女と呼
ばれる存在などが最も有名だった。
デイルと共に戦場にたつ者たちに、彼の持つ﹃勇者﹄の加護は働
く。
剣士として一流の域にあるグレゴールの刃が、魔王を断ち切った
ことは、当然とも言える結果であった。
だからグレゴールが疑問とするのは、そこではない。
魔素と呼ばれる﹃四の魔王﹄独自の魔力が、想定していたよりも
終始鈍かったのだ。デイルやグレゴールたち前衛型の戦士以外の者
たちは、後衛で防御魔法を何重にも構築していた。そのように取れ
る防護策は講じていたが、それでも不思議な現象だった。
﹁⋮⋮魔王の力を削ぐ⋮⋮か﹂
﹁何か言ったか?﹂
﹁⋮⋮いいや。何でもねぇよ﹂
デイルは左手から視線を逸らすと、グレゴールに素っ気なく答え
る。
それは恐らく勇者としての力ではないだろう。﹃八の魔王﹄の唯
一の眷属である自分は、彼女と似た形質の力を与えられているのか
もしれない。
魔王の魔王として在る為の力を制する存在の力。
彼女を取り戻せる力となるのであれば、どんな力でも使うまでだ
った。
綻んだのは、圧倒的な力に蹂躙されて、歪んだからだったのか。
1016
−−目が、覚めた。
なんでだろうと、考えようとしたが、頭がうまく働かなかった。
まぶたが酷く重い。眠くて眠くて仕方のない時みたいに、動くこ
ともうまく出来ない。
けれども、ここで諦めてしまうのは、絶対にいけない。−−と、
それだけがぼんやりと心に残っていて、彼女は必死に溶けて消えそ
うな意識を繋ぎ止めた。
モノクロの
長い、長い時間をかけて、目を開ける。
色のない世界は、まるで夢の中のようだった。
﹁デイル⋮⋮﹂
魔王のみが存在することの出来る世界の、中心にあるちいさな玉
座の上で、彼女はそう呟いた。
1017
灰色のわんこ、くりくり幼児と暗躍する。
︵ここ、どこ⋮⋮?︶
うまく働かない頭は、現実味のない風景と相まって、彼女に現状
を把握する力を与えてくれなかった。再び落ちてしまいそうなまぶ
たを精一杯の努力で抉じ開けて、何が起こったのかを思い出そうと
する。
﹁デイル⋮⋮どこ⋮⋮?﹂
無意識のうちに溢れ出た名前に、少し意識がはっきりとした。
それは、自分にとって大切なひとの名前。誰よりも大好きな−−
何に代えても守りたかったひとの名前だった。
そこまでを思い出すと、ラティナはようやく自分の状況を思い出
すことが出来た。
︵わたし⋮⋮なんで⋮⋮︶
自分は﹃理の魔王﹄により、封じられた筈だった。自分も含めた
全ての魔王の総意により成された呪縛は非常に強力なもので、再び
目覚めることは、ないものだと思っていた。
何故、今自分の意識はあるのだろうか。
︵なんで⋮⋮?︶
その時、霞む視界に入った、あるひとつの玉座の様子に、ラティ
ナは息を呑んだ。
意識を失う前に見た、枯れた樹が絡みつく玉座。その樹が大きく
裂けていた。無惨なものだと背筋に冷たいものを感じるほどに、酷
く痛々しい姿になっていた。
︵な⋮⋮なに⋮⋮?︶
うまく動かない身体を、もどかしいほどにゆっくり起こし、ラテ
ィナは他の玉座も視界に収めた。
1018
その玉座だけではなかった。その隣の玉座に置かれていた分厚い
書物はびりびりに裂かれ、頁は散乱し、表紙の一部には焦げた跡が
あった。
その更に隣の玉座に置かれていた巨大な刃は、途中で滑らかな断
面を見せて断ち切られている。玉座の上に落ちた柄の様子に、何故
だかぶるりと震えた。
︵なにが、おこったの⋮⋮?︶
あれからどれだけの時間が経ったのかもわからない。
だか、何か異常な事態が起こってしまったのだと、そんな気がし
た。
﹁デイル⋮⋮﹂
不安な気持ちのままに、呟くと、それが答えであるように思う。
自分は、彼以外に、彼以上に、何かをしてしまいそうなひとを知
らない。
︵どうしよう⋮⋮︶
考えようとしたが、頭はうまく働いてくれなかった。夢の中にい
る時のように、脳内に何重にも霞みがかかって、筋道をたてて思考
することが出来ない。
︵どうしよう、どうしよう⋮⋮︶
・
・
・
混乱したまま、それでも視線を動かして目的の玉座を見つけ出す。
一つめの玉座は、意識を失う前と変わりなくそこに佇んでいる。す
っと真っ直ぐ在る王笏は、かすかな傷も、歪みも見つけることは出
来ない。
﹁フリソス⋮⋮﹂
無事を確信して、安堵する。
そして彼女はすぐに再び混乱していった。
︵どうしよう⋮⋮デイル⋮⋮フリソス⋮⋮︶
二人を争わせたくなかった。ラティナにとって最愛のひとは間違
1019
いなくデイルだったが、フリソスも大切な存在だった。ラティナに
とって二人の立ち位置は異なり過ぎて、同じ価値ではかることは出
来ない。
︵どうしよう⋮⋮まもらなきゃ⋮⋮まもらなきゃ⋮⋮︶
ぐるぐると回る思考の中で、それだけを繰り返す。
デイルが、自分の為にフリソスを傷付ける。それだけはさせては
ならない。ラティナにとって、二人とも守りたいひとだった。大切
な二人を争わせたくないと、動かない頭で必死に考える。
身体を起こす。
自分のものとは思えないほどに重たい身体を動かし、ラティナは
玉座の上から天を見上げる。
﹁ここから⋮⋮でなきゃ⋮⋮デイルを、とめなきゃ⋮⋮﹂
ラティナは自分の﹃魔王﹄としての力も能力も、未だほとんど把
握していない。彼女が欲してしまったのは、﹃魔王として得られる
大きな力﹄ではなく、魔王と成ることで得られる﹃眷属をつくる力﹄
だけだった。他の能力に興味はなかったし、そのうちに、長い時間
をかけてゆっくり知っていけば良いものだとも思っていた。
それでもラティナは、知っていた。
自分の中に在る﹃力﹄を制御して、思うままに扱う能力。自分が
本来持っていたものではない、自分の魔力とは異なる魔王としての
魔力を選別して練り直す。精緻としか言えない精度のコントロール
を繰り返す。
動かない頭でも、感覚的に行えるそれは、ラティナにとって最も
得意とする類いのものだった。
魔王としての力の多くを、自分から切り離す。
﹃八の魔王を封じる﹄という呪に、自らのほとんどの力を委ねて、
1020
ラティナは自我を浮上させた。
目が開けられなかった。
重たい。身体も、まぶたも、重たくて動かすことが出来ない。
息をうまくすることが出来なかった。吸っても吸っても、うまく
酸素が入ってこない。
やらなければいけないことがあった筈だった。沈んでしまいそう
な意識を、その一念だけで繋ぎ止める。
﹁デイル⋮⋮フリソス⋮⋮﹂
二人のところに行かないといけない。そう思うのに、身体は言う
ことを聞いてくれない。
動かないまぶたの裏がじんわりと熱くなる。鼻の奥がつんとする。
どうしてこんなに自分は何も出来ないのだろうと、涙が溢れた。
どれだけの間、そうしていたのかもわからない。
涙が何かに拭われる感覚がして、ラティナはほんの少しだけまぶ
たを開けた。
灰色の柔らかな毛皮の感触が頬にあたる。
お日さまのにおいがする。
﹁ヴィント⋮⋮?﹂
﹁わん﹂
変わらない声が答えてくれて、ラティナは再び涙を溢れさせた。
ヴィントが涙を拭うように舐めてくるのを、そのまま受け止める。
﹁ヴィント⋮⋮デイル⋮⋮デイル、どこ?﹂
﹁デイルいない﹂
﹁なんで⋮⋮いつ、かえって、くる⋮⋮?﹂
﹁わからない。ずっとかえってこない。みんな、わからない、いっ
てる﹂
再び思考がぐるぐる回る。
1021
どうしようと、それだけを繰り返す。
何処にいるのかわからないデイルを、どうやって止めれば良いの
かもわからなかった。
今、自分がいる場所すら曖昧なラティナは、心の中に残されてい
たもうひとりの大切な人物の名を絞り出す。
﹁フリソス⋮⋮﹂
﹁わふ?﹂
﹁ヴィント⋮⋮おねがい、フリソスのところに⋮⋮ヴァスィリオに、
つれていって⋮⋮﹂
﹁わん﹂
﹁ヴァスィリオに⋮⋮﹂
意識が混濁する前に、ラティナはそう繰り返して、ヴィントの毛
皮に顔を埋めた。
デイルの居場所がわからないのならば、後は居場所のわかるフリ
ソスの元に行くしかない。動かないラティナの頭は、その結論を導
・
・
・
・
・
き出すのが精一杯だった。
階下にいる、大人たちの誰かが、今の彼女の言葉を聞くことが出
来たならば、ラティナにもっと適切な方法を提示しただろう。きち
んとした精神状態のラティナであれば、助けを求めることが出来た
筈のことだった。
﹁わん﹂
﹁ヴィー、ぼく知ってる。ねぇねの生まれた国、あっちなんだよ﹂
だか、彼女のその言葉を聞いていたのは、忠実なわんこと、黒髪
の幼児だけであったのである。
﹃踊る虎猫亭﹄の屋根裏部屋に、突然現れたラティナの気配に、い
つものようにテオと過ごしていたヴィントはすぐさま駆けつけた。
放り置かれておかんむりになったテオは、慌ててその後を追いか
1022
けたが、行方不明になっていた大好きなラティナの姿に、ヴィント
に対して怒ることは直ぐに弾け飛んでしまった。
抱き付いて、何処に行っていたのか聞きたかったが、具合の悪そ
うなラティナの様子にそれは我慢する。
テオは、大好きなお姉ちゃんのお願いは、叶えてあげるべきだと
思った。あんなに苦しそうで、泣きながらお願いしているのだ。い
つも自分に優しくしてくれるお姉ちゃんに、自分も優しくしてあげ
るのだ。
幼いながらも抱く責任感で、テオはヴィントと協力して事を成す
為に動き出した。
テオが屋根裏部屋の窓を開けると、ヴィントはそこから顔を出し
て鼻をフスフスと動かした。テオの指した南の森よりも更に先の方
向のにおいを嗅いで、何かに得心したように頷く。
﹁わかった。あっち﹂
﹁ヴィー、ねぇね、おんぶする?﹂
﹁わふ﹂
ぐったりとしているラティナを、ヴィントの背に乗せる。五歳の
テオにとっては大仕事だったが、なんとかやり遂げることが出来た。
テオはしばらく考えて、ラティナが落ちてしまっては大変だと、紐
でヴィントの身体と結びつける。妹のエマを母親がおぶっている様
子などを見ていたから、なんとなくうまくやることが出来た。
﹁ヴィー、まどから出れる?﹂
﹁むり﹂
﹁そっか﹂
テオは、少し考える。そして先に自分が降りて行って父親の姿が
ないことを確認して、合図を出すことに決めた。
お姉ちゃんのお願いを叶える為には、父親たちに見つかってしま
う訳にはいかない。毎日の幻獣との遊びで身体能力が向上していた
五歳児は、機敏にその諜報活動をやってのけた。
1023
翼を広げて空に舞ったヴィントに向かって、テオは大きく手を振
る。
﹁いってらっしゃいー﹂
ラティナの魔法の補助がない状態では、ラティナを乗せて空を飛
ぶことはヴィントにとって大仕事だが、全く不可能ということでは
なかった。
何度も休憩すればなんとかなるだろうと、深いことは考えずに、
マイペースわんこは目的の方向に羽ばたきはじめた。
そんなひとりと一匹を裏庭で見送っていたテオに、店の掃除をし
ていたケニスはようやく気付いた。
﹁どうした、テオ?﹂
何処かに出掛けたのか?﹂
﹁ヴィーに、いってらっしゃいしてた﹂
﹁⋮⋮ヴィントに?
息子は、何かをやり遂げたような、満足そうな顔をしていたのだ
が、ケニスはその理由にまではさすがに気付くことは出来なかった。
大人たちが必死に行方を捜している、白金色の少女は、こうやっ
て一匹のわんことひとりの幼児の活躍により、ヴァスィリオへと向
かって行ったのであった。
1024
海の魔王。
﹁そろそろ来る頃だと思っていたよ﹂
老境に入った男性の外見をした魔王は、夜更けに訪れた約束も無
い﹃彼﹄を相手に、落ち着き払った声で迎えた。
別名を海の魔王と呼ばれる﹃三の魔王﹄は、東の辺境の地で、海
鱗族と共存関係を築き、集落を作っている。
水鱗族は、種族特性により、水中での呼吸を可能としている種族
だ。だからといって陸上での生活が出来ないという訳ではない。そ
れでも、水中での機動力に比べ、やはり陸上での動きは不得手とし
ている面がある。海での狩猟を水鱗族が主に担い、陸上での耕作作
業などは魔人族が主に担っている。
海の魔王が治めるこの土地は、彼に仕える少数の魔人族と多数の
水鱗族によって成り立っているのであった。
満潮時には半分以上を水没させる独特の建物群が作り出す光景は、
他の文化圏の人族にとって非常に珍しい独特な景色となっていた。
その建物の中でも、最も高く、大海原を見渡すことの出来るもの。
城という訳ではなかったが、王の住まいし場所という意味では王宮
と呼べなくとも無いそこで、﹃三の魔王﹄は、黒いコート姿の青年
を迎えた。
﹁座ったままで、すまないね。足が悪いものだから﹂
穏やかな笑みを浮かべた老人は、深く腰掛ける椅子の傍らのテー
⋮⋮まあ、そういう気にはなれないかな﹂
ブルの上のディキャンタを掴むと、深い色の葡萄酒をゴブレットに
注ぐ。
﹁飲むかい?
﹁⋮⋮﹂
1025
誰何することもせず、誰かを呼ぼうともしない魔王の様子に、青
年の表情にかすかに訝しげな様子が混じる。直ぐさま切り捨てる気
でいたものの、ここまで敵意の無さを見せられると、彼も相手の真
意を図りかねた。
﹁君と話がしてみたかったんだよ。﹃白金の勇者﹄⋮⋮四の魔王を
討った君は、私ら他の魔王にとっても大きな存在だ﹂
老人はそう言いながら、黒いコートの青年を見る。
・
・
・
﹁それに、五の魔王と六の魔王を討ったのも君だね⋮⋮﹃勇者﹄が、
彼らを害する必要がわからない。だから、私は君をただの勇者では
無いのだと考えたのだよ﹂
﹁⋮⋮なら、どうする?﹂
低く静かな声にも穏やかな様子を崩さず、魔王は微笑みすら返し
てみせる。
﹁それは、君が、私の元にも来るであろうということだね。君は⋮
⋮﹃八の魔王﹄の縁者なのかな﹂
﹁⋮⋮俺は﹂
右手で自らの左手をぎゅっと握り、彼は一瞬言葉に迷った。
﹁⋮⋮彼女は、俺の最愛のひとだ﹂
そして彼は、他の魔王に対して答えたように﹃眷属﹄という言葉
を使わず、彼女のことを語る。
なんとなく、そうしたいと思った。
﹁﹃勇者﹄と﹃魔王﹄が恋仲になるとは⋮⋮珍しいことも起こるも
のだね﹂
魔王はゴブレットの中身で唇を湿らせ、彼を真っ直ぐに見る。
﹁君にとって、私は仇となるのだろう。討つが良いよ。⋮⋮ただ、
幾つか聞かせてくれないか﹂
﹁⋮⋮﹂
警戒を緩めぬままに、青年は魔王を見た。
剣の柄から手は離さず、何時でも一太刀で討ち取れる距離を計る。
1026
相手が魔術に長けていたとしても、この距離では切りつける方が早
い。決して討ち漏らすことはない。
老人の姿をした魔王は、それにも微かな苦笑を浮かべただけであ
った。
﹁﹃八の魔王﹄は⋮⋮﹃彼女﹄であったのだね。まずは謝罪を。彼
女を犠牲に、自分たちが救われようとしたこと、本当に申し訳なく
思っている﹂
魔王の言葉に、青年の表情に憎悪が過った。
冷静さを保っていた青年が見せた激しい感情を、魔王は静かに受
け止める。
﹁⋮⋮そうだね。これは、ただの此方の罪悪感の現れだ。謝罪なん
てものを、君が欲していないことはわかっているよ。⋮⋮忘れてく
れて構わない﹂
﹁⋮⋮何故、彼女を犠牲にした⋮⋮っ﹂
その怒りの籠った声は、彼の本心からのものだった。
彼も、理解はしていた。﹃三の魔王﹄や、﹃六の魔王﹄。そして
魔人族の王たる﹃一の魔王﹄は、自らの民を守る立場にある。
恐らくは、ラティナ自身も、そうだったのだろう。
守る者を持つ身では、﹃災厄の魔王﹄と敵対することは大きなリ
スクを伴う。曲がりなりにも﹃魔王﹄である以上、単一の魔王を相
手にすれば、遅れは取らないかもしれない。だが、今回は条件が異
なる。
﹃全ての魔王﹄にとって、敵であるとみなされた﹃八の魔王﹄を庇
う側に回れば、他の複数の魔王を同時に敵に回すことになりかねな
い。
﹃他人﹄である﹃八の魔王﹄よりも、自らの守るべき者たちの安寧
を取ったことは、彼等の立場では、致し方ない行動だ。
だから、デイルは、自分の行動を肯定しない。正義の旗を掲げよ
1027
うとは思わない。
復讐だと、報復であると、自分の行動を宣言する。
これは、自分の感情を満たす為の独り善がりな行動−−別の立場
の者たちにとっての﹃悪行﹄−−だと、自覚している。
それでも自分の感情は、赦せないと叫ぶのだ。
﹁彼女は⋮⋮っ﹂
腕の中に、傍らに、いつも居てくれたぬくもりが、どうして今、
自分のそばにいないのだろうかと思うのだ。
相手にとっては、魔王が守る民たちにとっては、自分の行動の方
が、理不尽極まりない暴挙であるだろう。それでもデイルは、自分
が自分のままでいる為に、魔王に憎悪を向ける。
憎しみを向ける相手がいなければ、きっとなくした自分は壊れて
しまう。
﹃三の魔王﹄は、彼のその感情すら、受け止めるような顔をしてい
た。
全てを呑み込む静寂さを以て、憎悪も怒りも当然のものだとして
いた。
﹁⋮⋮っ!﹂
デイルは左手を強く握り締め、ギリと音がするほどに、歯を食い
しばった。これ以上は言うべきではない。自分がどれだけ奪われた
彼女を大切に想っていたのかなど、眼前の魔王に告げる必要のない
事だと、彼はそんなことはわかっているのだった。
それでもデイルのそんな姿は、多くの言葉を重ねるよりも能弁に、
失った大切な存在のことを﹃三の魔王﹄へと伝えた。
長く生きてはきたが、死が恐ろしくないはずがない。ゴブレット
の中の水面は、細かく震え揺れている。
1028
激昂する﹃勇者﹄の姿に、久しく感じる、恐怖という感覚を抱い
た。
それでも、と、思う。
あの時、﹃玉座﹄の場で、﹃理の魔王﹄に断罪された﹃八の魔王﹄
の放つ﹃声﹄は、怯え震えていた。だというのに、毅然と最期まで
自分の運命を受け入れてみせたのだ。
眼前の青年の好いひとであったというのならば、年若い女性であ
ったのだろう。
長い若い時を過ごし、老いた自分のようなものとは、比べものに
ならない短い時間しか生きていないだろう。それでも﹃彼女﹄は、
災厄たちとも、まみえてみせたのだ。
老いた自分も、退く訳にはいかない。
守るべき存在の為に。
だから﹃三の魔王﹄は、穏やかな表情を崩さぬままに、それでも
緊張に乾く喉を葡萄酒で湿らせる。
﹁彼女は、﹃魔王の総意﹄によって封じられた。恐らくは前例のな
いことだよ。魔王が、神によって許されている神の末席としての力
は、限定的なものだ。今回は全ての魔王の力を束ねたからこそ、成
せた事柄だ﹂
静かな声で、魔王は告げた。
謝罪は自分が楽に成りたいから出たものでも、それは紛れもない
本心でもあった。救えなかったことを後悔していた。
だから今度は、﹃彼女﹄を救う一端となろう。
﹁封印を解くのにも、﹃魔王の総意﹄が必要となるだろう。だが、
それは不可能なことだ。災厄たちが自らの力を削ぐ存在を解放する
ことに同意する筈がない。だから﹂
﹃彼女﹄を誰よりも大切に思う存在の背中を押そう。それは、そう
であって欲しいという自分の願望も含まれているのだが、確認する
術は無いことだ。
1029
﹁君の行為には、可能性がある。前例も準備もなく行った封印術式
は、完璧なものではないだろう。魔王を強制的に排除したことで、
封印に綻びが生じていてもおかしくはない﹂
青年の眸に、落ち着きと覚悟が灯るのを見て取ると、﹃三の魔王﹄
は、ゴブレットの中身を飲み干して、傍らのテーブルにそれを置い
た。
﹁このようなことを頼める立場でないことは、わかっている。だが、
出来れば次は、﹃七の魔王﹄を討ってはくれまいか﹂
﹃三の魔王﹄が治めるこの土地は、﹃七の魔王﹄の軍勢の影響下に
ある。彼の魔王の本拠地がすぐそばに在るのだ。
それでも平穏を保っていられるのは、ここが他の魔王の地である
からだった。
絶対的な力で蹂躙することを好む﹃七の魔王﹄は、僅かなりとも
自らの絶対的な勝利を覆す可能性を持つ、他の魔王との直接対決を
好まない。万が一にでも、敗北なんて不快な思いをしたくはないの
だ。別名を﹃海の魔王﹄と呼ばれる﹃三の魔王﹄は、海の側であれ
ば、戦いに秀でた魔王とすら渡り合える大きな力を行使できる。
﹃三の魔王﹄を失えば、この土地はあっという間に蹂躙されるだろ
う。
彼を生にしがみつかせていたのは、その一事だけだった。
﹁我が民には、罪がない⋮⋮勝手な申し出ではあるが、聞き入れて
はくれまいか﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
デイルが微かに浮かべた表情は、泣き笑いのような気配を有して
いた。
﹁彼女は⋮⋮﹂
呟いてデイルは、灰色の眸の誰よりも優しい少女を想う。
﹁彼女は、子どもが好きだったから⋮⋮子どもたちの未来が奪われ
るような真似は⋮⋮したくねぇな⋮⋮﹂
1030
﹃三の魔王﹄にとっては、その一言だけで、充分だった。
﹁そうか⋮⋮感謝する﹂
そして、夜の闇の中、静寂だけが残された。
1031
戦乱の魔王。
不穏な空気は、クロイツの街の中にも漂っていた。
クロイツには直接的な被害はなかったが、ラーバンド国内で起こ
った﹃四の魔王﹄による疫病の話題は、この街まで届いている。﹃
魔素﹄という目に見えないものへの恐怖と言うのも大きい。旅人と
いう外部から訪れる者に寛容な街であるが故に、知らず病を持ち込
まれているのではないかという不安はどうしてもつきまとう。
﹃四の魔王﹄が滅びても、世の全ての病が姿を消す訳ではない。魔
王によって﹃魔素﹄が活性化することはなくなる為、広大な範囲で
迅速な流行ということは起こらなくなるが、病自体が無くなるとい
うことはないのだ。
人心が乱れれば、本来なら起こり得ないトラブルも多発する傾向
となる。
ニーリー
それでもそれが﹃不穏な空気﹄で済んでいるのは、治療院として
の役割を持つ﹃藍の神﹄の神殿と治安維持を担う憲兵隊。そして旅
人の代表格である冒険者たちが何よりも規律を以て街の警護をして
いたからだった。
﹁﹃四の魔王﹄の次は、﹃七の魔王﹄の討伐に向かうことが決まっ
たみたいよ、あの馬鹿は﹂
﹃踊る虎猫亭﹄でそう言ったリタの言葉の響きには、呆れと不安の
アクダル
感情が滲んでいた。デイルが姿を消してから、彼の動向を﹃虎猫亭﹄
の皆に伝えているのは、﹃緑の神の伝言板﹄を扱うリタだった。本
心からどうでも良いと思っていれば、わざわざそんなことはしない。
妻の口の悪さの裏にある心配に、夫であるケニスは苦笑だけで応じ
た。
1032
﹁﹃七の魔王﹄は、ラーバンド国からは離れているとはいえ、幾つ
かの国を滅ぼしただろう。東の方では、難民で混乱しているって話
も流れて来ている﹂
﹁流通にも影響が出て来ているわね⋮⋮いつになったら、落ち着く
のかしら﹂
リタは不安を抱いた表情のまま、腕の中で眠る愛娘を見詰めた。
すやすやと穏やかな寝息をたてる娘の姿に、胸の中の不安は大きく
なる。
それは親であるからだった。
我が子がこれから生きる世界が、穏やかな平和なものであって欲
しいと望むことは、当たり前の心理だった。
﹁あの馬鹿に、全部負わせたくなんて、ないんだけどね⋮⋮﹂
ぽつりと呟いて、リタは溜め息をついた。
客の数も少なかった為か、ちょうど途切れた会話の間、しんと静
まった店内に、裏庭で遊ぶテオの歓声が響く。変わらず健やかに育
ってくれる息子のことは、親である二人にとって、紛れもない安堵
できる﹃良い話題﹄であった。
﹁おかえりー﹂
﹁わふぅっ﹂
﹁ん?﹂
﹁あら?﹂
息子の声に、ケニスとリタが同時に声をあげた。
暫く姿を見せず、声も聞いていなかった何者かが、返答していた
ような気がする。
顔を見合わせた夫婦は、更に続いた息子の声に、同じような顔で
硬直した。
﹁ねぇね、ふるさと、つれて行けたのー?﹂
1033
﹁わんっ﹂
そして何を知っている!?−−と、
﹁おつかれーっ。ヴィーすごいねぇ﹂
息子は何を仕出かした!?
互いの顔色だけで意志の疎通を交わした﹃虎猫亭﹄の夫婦ではあっ
たが、あまりにも急な状況に、問い質す言葉に迷った。
何が起こっているのか、少々理解に苦しむ。自分たちの息子が﹃
ねぇね﹄と呼ぶ相手が、唯一無二に限られることを知っていても尚
である。
そんな大人の常識など知ったこともないとばかりに、テオの言葉
は続いた。
﹁ねぇねのふるさと、ヴァスィリオって言うんだよ。ぼく知ってる
もん﹂
﹁わんっ﹂
﹁ねぇね今、そこにいるの?﹂
﹁わふっ﹂
﹁ぼくお手紙かくねー。ヴィー、はこんでくれる?﹂
﹁わふっ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
現実逃避は、するべきではない。夫婦は無言のまま、その結論へ
と至った。
お前、一体何を知ってるっ
ジルヴェスターを呼べ!﹂
事実をそうやって呑み込むと、ケニスは店内の数少ない客相手に
声を張った。
﹁状況が変わった!
テオっ!
﹁シルビアにも、声を掛けるわねっ﹂
﹁っと、その前に、テオ!
?﹂
1034
幼児とわんこが共謀していたことを大人たちが知るのは、この直
後のことであった。
罪悪感の欠片もなく胸を張る幼児の前で、大人たちが−−泣く子
もひきつけを起こして泣き声を失う程の強面たちも含まれる−−項
垂れるという、世にも珍しい光景に、たまたまそのタイミングで﹃
踊る虎猫亭﹄を訪れた一般の客が、びくりとするなんて一幕もあっ
たりしたのであった。
余談だが、ヴァスィリオで意識を取り戻すこととなったラティナ
も、心底混乱した。彼女は、朦朧とした意識の中で、自分が発言し
た言葉をはっきりと把握はしていなかった。その上、口に出したか
らといって、それが実現しているとは思ってもみなかった。
ヴィントは、ただのわんこではなく、幻獣たる天翔狼、最強の個
体ハーゲルの総領息子わんこであったのであった。
クロイツで、そんな阿鼻叫喚な騒ぎが起こっていることも、遠き
地にいるデイルには、届くことはなかった。
今のデイルにとって、﹃踊る虎猫亭﹄は辛すぎる場所だった。彼
方此方に、ラティナとの優しい思い出が残っている。彼女が過ごし
た痕跡が残っている。それを見ることは、今のデイルには出来ない
ことだった。
﹃虎猫亭﹄の人びとと距離を取ったのも、似た理由だ。あの店はデ
イルが﹃自分のままでいられる場所﹄だった。兄貴分であるケニス
と、喧嘩友だちであるリタのいる、自分の感情を無理に圧し殺す必
要のない場所だった。ラティナと出逢う前のデイルが、自分の仕事
に心を磨り減らしても、心折れることがなかったのは、あの店があ
ったからだった。
1035
だから、今は帰れない。
今の自分は、﹃自分﹄ではいられない。
そして、そんな自分を、あの店の人びとに見せたくはなかったの
だった。
まさかそこの、更に幼児と仔狼が自分の求める最重要な情報を握
っているだなんてことは、デイルは全く予想もしていなかった。
﹃七の魔王﹄は、戦乱の魔王。戦そのものを愛し、圧倒的な武力で
蹂躙することを望む存在。
そこには確かに支配欲もあるだろう。だが、彼の魔王には、自ら
の領土を安寧を守る為に統治しようという考えは無い。あくまでも
領土は自らの軍の糧として、搾取する為だけに存在することを許さ
れる。
目的からして破綻しているのだ。
領土を拡げる為に戦を起こすのではない。自らの支配欲を満たす
為に戦を起こすのではない。領土が拡がることも、支配者として君
臨するのも、結果でしかない。目的はあくまでも戦乱そのものだっ
た。
だから﹃七の魔王﹄の領土は、皆、疲弊し、荒れ果てている。滅
ぼされることを回避する為にその軍門に下っても、食い荒らされる
のを待つだけの絶望の中に身を置くこととなるのだ。
﹃魔王﹄の対存在としては、反則級の力を有する今のデイルでも、
﹃七の魔王﹄と対するには、独りで事を成すことは困難だった。
相手は﹃軍﹄だ。
個人の能力で雌雄を決するのではなく、大軍を相手にしなくては
ならない。戦いではなく、戦争をしなくてはならない相手だった。
﹃四の魔王﹄を討った、白金の勇者と呼ばれる対存在を擁するラー
1036
バンド国は、周辺諸国と連合して対﹃七の魔王﹄の軍を興した。
ラーバンド国に比べ小国であり国力の低い諸国は、このまま﹃七
の魔王﹄の軍が攻め入れば、蹂躙されるのを待つだけになる。
ラーバンド国も、自らの領土内で、彼の魔王との決戦を行いたく
はなかった。
各国の思惑が絡み合う中で、協定が素早く結ばれたのは、もう一
刻の猶予もなかったからだった。
﹁名目上は、お前は俺の配下となる。単独行動は控えてくれ﹂
﹁わかってるよ﹂
エルディシュデット公爵家の者として、一軍を預かる身であるグ
レゴールに、デイルはかすかな笑いを向けて答えた。
﹁お前も大変だな﹂
﹁⋮⋮別に、ラーバンド国貴族として、こういう機会は何時かある
とは思っていた﹂
騎乗してグレゴールの隣で言葉を交わすデイルは、象徴としての
仕事をこなす為に今日も白金の鎧に身を包んでいる。
ハーゲルは、その存在が軍馬を怯えさせるので、距離を取って同
行していた。いくら勇猛な軍馬とはいえ、強力な肉食獣たる幻獣の
プレッシャーは荷が重いのであった。
そのデイルの姿に、周囲の騎士や歩兵の士気は明らかに上がって
いた。過剰な程の周囲の期待に、容易く応じる生きる伝説。日に日
に高まる期待と名声に、デイルは重圧を感じている様子はない。
は真っ直ぐ前を向いて馬を進めた。
︵⋮⋮違うな、重圧を感じていないのではなく、自らの評価に興味
が無いのか︶
内心で嘆息したグレゴール
自分たちの煩悩を、周囲の兵たちに気取られてはならない。
自分たちの役割は、象徴だ。揺るぎなく人心を支える象徴として
存在しなければならない。
1037
自分たちの心を支えてくれる存在を求めることは罪だろうかと、
考えながら。
1038
人間族の軍が、﹃七の魔王﹄と対したか
白金の姫と、黄金の魔王。遠き地にて。
﹁
はい、陛下
﹂
﹁
あざな
﹂
配下の報告に、玉座と呼ぶべき壇上の御簾の向こうで、﹃黄金の
王﹄の字を有する存在は眸を閉じて黙考した。
ヴァスィリオは、ラーバンド国よりも乾燥した暑い気候の土地に
ある。
﹃魔人族﹄は、絶対数が人間族よりもかなり少ない。彼らの盟主た
る﹃一の魔王﹄が居城を置くこの街が、最大の都市であった。
白亜の石と日干し煉瓦で築かれた街並みは、整然と清められてお
り、生活感よりも厳かさを感じさせる。それは街の中心にある巨大
な白亜の石造りの神殿の存在により、その印象を強めていた。
そこは神殿であると同時に、王城だった。
ヴァスィリオは、﹃一の魔王﹄が元首として治めている国家であ
る。だが﹃魔王﹄とは、神によって資格ある者が成る存在。在位期
バナフセギ
間が数百年と続く場合もあれば、王の不在の期間もあり得た。﹃魔
まつりごと
王﹄不在の期間は、﹃紫の神﹄の高位神官たちが中心となって統治
機構を維持することとなる。神殿こそ政の中心であり、王と神を迎
える人心の集約する場所でもあるのだった。
この大神殿を有する街を中心にして、小規模な町もしくは村とい
った集落が周辺に点在していた。地理的環境により、他国と隔絶さ
れているこの地域は、鎖国政策を取ることが容易となっていた。
この世界では、全ての土地が、国家として区分けされている訳で
はない。
国と呼べる場所というのは、あくまでもひとが支配する領域だけ
1039
だった。未開の土地も数多にあり、魔獣の生息域であるためひとの
立ち入りを拒む土地は、どの国にも属していない場合がある。
幻獣や七種存在する﹃人族﹄とは異なる人型の生物−−亜人族−
−などが支配する土地もまた、人族の国家としては数えられること
はない。
条件の良い場所には、複数の国家がひしめき合い、領土争いをし
ているものだが、空白の地域というものも広く分布しているのであ
った。
ヴァスィリオにとって最も近い国家はラーバンド国となるが、両
国間は、魔獣の生息領域で隔てられている。ヴァスィリオは他の方
向には、広大な砂漠を有しており、過酷な環境は、種として強い力
を有する魔人族でなければ、住み続けるのには困難が伴う。
他国の侵略を受けることなく、ただ平穏を望んで同じ暮らしを営
むには、障りのない土地であった。
ヴァスィリオの大神殿は、幾重にもなる区域を以て築かれていた。
神殿内部だけで、小さな町程の規模があるかのような錯覚すら覚え
る広大な敷地である。中心に向かうにつれ、立ち入る事が出来る者
が限られる重要な区域となっていく。
離宮は、その中心の区域の中にあった。
乾燥したこの土地で、最も貴重であるはずの清流が、澄んだ響き
を奏でていた。細い糸のような湧水の滝が、浅く玉石を敷き詰めら
れた人工の泉に注ぎ込んでいる。その泉の中に、離宮は築かれてい
た。
大きさこそ小さいものの、雅やかさだけを集めたような美術品の
如き建物だった。見た目の派手さや豪華さではなく、細やかに施さ
れた彫刻のひとつひとつや使われた材質に、見る者が見れば、全て
1040
が最上級の品である事がわかるという建造物である。
それもその筈で、この離宮は先の﹃一の魔王﹄が、寵愛した妃の
為に、富と技術の粋を集めて造らせたものであったのだった。
﹃魔王﹄が代替わりしたことで、この離宮も主を失ったが、今は再
び美しい姫をその内に抱いていた。
フリソスは、奧の宮と呼ぶべき神殿の中心区域を歩んでいた。
薄布を重ねた衣服は、風通しが良く、この土地の気候に適してい
る。その衣類の内に、冷たい空気がふわりと通った。
﹃寵妃の離宮﹄と呼び表されているこの場所は、温くなることのな
い湧水に冷やされ、どれだけ暑い日でも冷たい風が通っている。離
宮に続く渡り廊下を歩むフリソスの姿に気付いた女官たちが、頭を
垂れて王を迎える。
この離宮に立ち入る事を許されているのは、離宮の現在の主であ
る﹃姫﹄に仕える限られた女官と、王たるフリソスだけであった。
フリソスが入った離宮の中には、最低限の家具しかない。元より
魔人族は、多くの家財や装飾を積み立てることを良しとする文化を
有していない。人間族の﹃王﹄のような絢爛豪華な風俗は、魔人族
には無いのだった。
その部屋の大部分を占める寝台の上に横たわる女性が、ひとの気
﹂
配に身動ぎした。薄く目を開けると、灰色の眸が気配の主を認めて
フリソス⋮⋮
優しげに緩む。
﹁
起きていたのか、プラティナ
﹂
﹁
﹂
フリソスの声に応えようと、身体を起こそうとした彼女は、すぐ
無理をするでない。まだ動けるような状態ではない筈だ
に力尽きたように、ぱたりと手を寝台の上に戻した。
﹁
ごめんなさい⋮⋮
﹂
﹁
ぐったりと身を投げ出したまま、彼女−−ラティナは、ようやく
1041
少しは、目を覚ましていられるようになったの⋮⋮フリソスの
聞き取れる程度の弱々しい声を絞り出した。
﹁
﹂
﹂
綻びがあったとはいえ、﹃封印﹄を無理に突破するとは⋮⋮無
お蔭だね
﹁
事で済んだから良かったものの、無茶をする
そう言ってフリソスは、ラティナの額に掛かる髪を指先で払うと、
そのまま彼女の折れた角の根元のあたりをそっと撫でた。
魔人族にとって、﹃角﹄は種族の特徴であり、神性視されている
﹂
ものである。そこに触れるということは、非常に親しい相手にしか
もう二度と、余に其方を失う選択をさせてくれるな⋮⋮
許されていない行為であった。
﹁
苦し気なフリソスの表情と声に、ラティナもまた、表情を曇らせ
ごめんなさい⋮⋮フリソス⋮⋮
た。
﹁
良い。其方が戻っただけで、何よりだ
﹂
﹁
フリソスは微かに笑みを浮かべると、ラティナの額にその手を
﹂
置いた。その途端、ふわりと周囲の﹃空気﹄が変化する。
弱々しく苦し気に、浅い呼吸を繰り返していたラティナが、深く
息をつく。元より白い肌を、不健康そうに青ざめさせていた顔に、
血の気が微かに戻った。
ヴィントによってヴァスィリオに連れて来られたラティナは、僅
かな時間、フリソスとの邂逅を果たすと、そのまま意識を失った。
﹃八の魔王﹄としての彼女を縛る呪は、強力なものだった。
ラティナはそれを不完全な形で突破する代償に、多くの力を﹃玉
座﹄の元に置いて来た。
その結果、ラティナは自らが存在する力−−生きる力そのものす
ら、ほとんど失いかけてしまったのだった。
それを自らの魔王としての力で補い、支え、整えたのが、フリソ
スだった。
1042
﹃一の魔王﹄とは、最も﹃魔王﹄らしい力持つ魔王。神の末席とし
ての﹃魔王の力﹄を操る術に、最も長けた存在だった。フリソスが、
力操る術に長けた﹃一の魔王﹄でなければ、不可能なことであった。
そのフリソスでも、ラティナと同じように﹃封印﹄を突破出来る
かと問われれば、不可能だと断言せざるを得ない。力操る術に長け
ているからこそ、ラティナがどれだけの無理をおして、あり得ぬこ
とを成してしまっているのかを理解していた。
フリソスによってラティナは少しずつではあるが、回復の兆しを
見せ、一日のほとんどを横になって過ごしてはいたが、ヴァスィリ
﹂
私、フリソスに話さないと⋮⋮いけないこと⋮⋮いっぱいある
オに着いた当初のような危機的な状況は、脱していた。
﹁
﹂
良い。余に全て委ねよ。其方は、自らのことだけ考えておれば
のに⋮⋮
﹁
良い
深い睡魔に誘われて、ラティナの身体から力が抜ける。
プラテ
規則正しい寝息が聞こえて来たことで、フリソスはラティナの額
﹂
話さねばならぬこととは、自らの﹃眷属﹄のことか?
から手を離した。
﹁
ィナ
夢の中にいるラティナに声が届かぬことは承知の上で、フリソス
﹂
余から、其方を奪おうとするとは⋮⋮どのような輩か、まみえ
は感情の籠らぬ声で呟いた。
﹁
る時を心待ちにしておるよ
やっと自らの元に戻った最愛の存在。
何年もかけて捜し求めてきた。やっと再会出来たと思った矢先に、
再び別離を体験することになるとは、思っても−−理性では理解し
ていても、受け入れたくは−−なかった。
1043
彼女を失った時は、半身を抉られたような苦しみを味わった。
﹃一の魔王﹄としての自分は、﹃八の魔王﹄を封印しなくてはなら
なかった。最愛の彼女を殺させない為には、そうせざるを得なかっ
た。
それでも、その選択は、血を吐くような苦しみを伴っていたのだ。
再び自らの傍に、最愛の姫たる彼女を取り戻した以上、もう失う
ような真似はしない。全身全霊を以て護ってみせる。
フリソスは、そう決意を胸に秘めながら、語り掛けるように、此
のう、﹃白金の勇者﹄よ
﹂
処にはいない存在へと声を発した。
﹁
1044
白金の姫と、黄金の魔王。遠き地にて。︵後書き︶
GWの書き溜めで、対魔王話を書ききりました。カウントダウンは
始まっております。後暫し、お付き合い下さいませ。
1045
薔薇色の姫君、紫の巫女と再会する。
ラーバンド国が有している飛竜の部隊は、決して少なくない。だ
が、現在多くの飛竜は、遠方の﹃七の魔王﹄との戦に駆り出されて
いた。飛竜は魔獣に分類される竜種ではあるが、単体の攻撃能力だ
けをみれば特出したものはない。討ち取るのは簡単では無いが、戦
況をひっくり返すような強大な力は有していないのである。
飛竜部隊の最も重要な役割は、ひとや物資の運搬だった。空路を
行ける存在というものは限られている。簡単に不足を補える存在で
もない。前線に出して失えば、代わりを担う存在がないのだ。安易
に戦闘に関わらせるのはリスクを伴うのである。
そのラーバンド国が有する一体の飛竜が、悠然と翼を羽ばたかせ
ていた。
大型の雄の飛竜は、背に御者である緋色の装備の兵士を乗せてい
たが、更に自らの身体の下に大型の箱状のものを抱えこんでいた。
一見するとその箱は、船にも似ている。それはひとを運搬するため
の、客室にあたる部分なのであった。
﹃船﹄を運ぶ飛竜の前には、一回り小型の飛竜が先導していた。輸
送している乗客たちを護る為の、護衛だった。
﹁⋮⋮閣下は、何をお考えなのでしょう﹂
その飛竜が運ぶ﹃船﹄の中で、ローゼは首を傾げた。私的な時間
に於ては、エルディシュデット公爵のことを﹃小父様﹄と砕けた様
子で呼ぶローゼなのだが、今は公人としての立場を崩さなかった。
﹁私たちには、何も。ただ、ローゼ姫をお守りするようにとのご命
令でしたので﹂
﹁そうですか⋮⋮﹂
1046
ローゼの周囲に侍るのは、公爵が、個人的に契約を結んでいる冒
険者たちだった。デイルと同様に、魔王や魔族の討伐に赴くことも
ある、実力と素行に信頼のある者たちである。侍従も連れることを
許されぬ、護衛のみの道行きであるのは、﹃船﹄に乗ることの出来
る人数には限りがある為であった。
普通の貴族子女であるならば、拒んでも無理のない不自由な旅路
であるが、元々下級貴族の出自で、旅に慣れたローゼは顔色ひとつ
変えることはなかった。
数人の冒険者のうち、ローゼの隣に侍るのは、女性の冒険者たち
だった。一行に女性の割合が多いのは、護衛対象であるローゼが年
若い女性である為だと思われた。
︵小父様は、何を考えておいでなのか⋮⋮このような時に⋮⋮︶
ニーリー
ローゼに命を下したのは、エルディシュデット公爵であったが、
今ラーバンド国では、﹃四の魔王﹄が残した爪痕により、﹃藍の神﹄
の高位神官であるローゼの仕事は数多にあった。この時に、飛竜を
使ってまで遠き地に赴かせる理由が、ローゼには見当が付かなかっ
た。
︵グレゴール様は、ご無事でしょうか⋮⋮︶
戦地で兵を率いるグレゴールを思うと、ローゼの表情は曇る。無
事であることを祈ることしか出来ぬ己がもどかしい。
窓の外は、穏やかな風が流れる蒼空であったが、ローゼの心は、
その美しさにも晴れることはなかった。
飛竜は夜間の飛行に適していない。
それは、夜目が発達していない飛竜は、夜間の視野が大きく制限
される為である。御者もまた、人間族であるからには暗視の能力は
有していない。よほどでなければ、地上に降り、休息を取ることを
求められた。
1047
飛竜が降りることの出来る土地は、ある程度の広さが求められる。
適切な場所を見定めた頃には、すっかり陽が落ちていた。明かりの
魔術で視界を確保し、兵士たちや冒険者たちが、夜営の準備を始め
る。
−−その時だった。
護衛である冒険者たちから、大きく距離を取った訳ではない。そ
してローゼもまた、不用意に気を緩める質はしていない。
それであるのに、確かにローゼはその時、単独で行動を取ってい
た。
﹁この時を待っていました﹂
だからこそ、唐突に闇の中から聞こえた声を聞いたのは、ローゼ
ひとりだけであった。
その声に、ローゼは常の冷静さを失った。
聞き覚えのある声だった。忘れる筈がない。
﹁貴女は⋮⋮っ﹂
闇に目を凝らし、問う。その中でゆらりと気配が動くのを察して、
ローゼは反射的に闇の中に踏み込んだ。
視界が悪い中である為に、体感での距離はかなりのものであった
が、実際には夜営地から離れていることもないだろう。
林の中を進んで行った先を行く気配は、やがて足を止め、手のひ
らの上に小さな魔術の明かりを灯した。
﹁やはり貴女は⋮⋮﹂
相手の顔を確認したローゼから出た声は、複雑な心情をうつして
いた。
整った美しい顔。明かりを反射して淡く輝く金色の角。そして何
より忘れることの出来ない長く艶やかな鮮やかな紫の髪。−−かつ
て﹃二の魔王﹄の元より、ローゼを救った魔人族の女性であった。
﹁私は、﹃この時﹄を待っていたのです。薔薇の色持つ貴女と、こ
1048
まみ
の場所で見えるこの時を﹂
﹁⋮⋮っ﹂
バナフセギ
ローゼは、眼前の女性が﹃紫の神﹄の高位の神官であることを知
っていた。彼の神がひとに与えし異能とは、﹃予知﹄である。なら
ば、彼女の言葉の意味も、ローゼは自ずと理解してしまう。
﹁貴女は⋮⋮私と、﹃今﹄、会うことを知っていたのですね⋮⋮﹂
だからこそ、あの﹃二の魔王﹄との邂逅の際に、彼女はローゼが
生き残ることが出来ることを﹃知っていた﹄のだ。更にその先の未
来で会い見えるのならば、それは確信へと至るだろう。
﹁⋮⋮我が神の﹃予知﹄とはいえ、全てがその通りになるとは限り
ません。私が﹃この時﹄に貴女と出会う﹃未来﹄は、私にとって待
ち望んだ﹃未来﹄の途中にありました⋮⋮私は、ようやく⋮⋮この
﹃未来﹄にたどり着くことが出来た⋮⋮﹂
紫色の女性は、微かに声を詰まらせたが、ローゼを静かな眸で真
っ直ぐに見た。
﹁﹃白金の勇者﹄は、﹃七の魔王﹄を討つでしょう﹂
畏怖すら感じさせる、揺るぐことない声音で、預言者は告げた。
﹁その時、未来は確定する。﹃二の魔王﹄はこの地にいることにな
る﹂
そう言った彼女がローゼへと手渡したのは、簡易な地図だった。
紙の切れ端に走り書きで綴られた線は、ラーバンド国の外れの地理
を描いていた。
﹁﹃二の魔王﹄は、在所を気紛れに変える存在。﹃白金の勇者﹄が、
行方を捜しても、通常の手段では相対することさえ難しい⋮⋮だか
らこそ私は、﹃この時﹄を待っていたのです。薔薇の色持つ貴女に、
この地図を渡すことで、この未来は﹃白金の勇者﹄の元に至る⋮⋮
ならばこれで私の役割も終わる﹂
1049
バナフセギ
ローゼには、﹃紫の神﹄の加護の在り方はわからない。だが、女
性の言葉に何か胸騒ぎを覚えた。彼女の言葉には、苦しい程の決意
があった。
﹁⋮⋮貴女は以前仰いました。﹃魔王の眷属は、自らの生殺与奪の
権利を主に委ねている﹄と⋮⋮﹃二の魔王﹄が滅べば、貴女は救わ
れるのですか⋮⋮?﹂
﹁ある意味では﹂
問いかけたローゼに答える女性の声は、静かなものだった。
﹁﹃我が君﹄が滅べば、眷属たる私も殉じることとなるでしょう﹂
息を呑んだローゼに、微笑みさえも向けて、彼女は言葉を継いだ。
﹁それを知っていて私は、﹃我が君﹄のもとにくだったのです。全
て覚悟の上のこと﹂
彼女には、感情の揺らぎすらなかった。
もう、とうに決断してしまった者の、達観にも似た気配を有して
いた。
﹁この機を逃せば、﹃我が君﹄はまた、多くの者を殺めるでしょう。
私の母国も、﹃我が君﹄によって大きな犠牲を出してきました﹂
それが自らの仕事だとばかりに、彼女はあくまでも毅然として告
げる。美しいとすら感じてしまう、揺るがない姿だった。
﹁貴女ならどうしますか。自らの命を賭けても護りたい存在を、自
らの命を賭けさえすれば、護れることを知っているのならば﹂
その言葉に、ローゼは答える言葉を持たなかった。
﹁きっと貴女も同じ選択をするでしょう﹂
女性が背を向けて、闇の中に歩んで行くことを見届けたローゼは、
しばらくして踵を返した。夜営地は、魔術の明かりが煌々と照らし
ている。見失うことはない。
﹁デイル様に⋮⋮これを委ねれば⋮⋮﹂
1050
﹃二の魔王﹄は、神出鬼没に殺戮を楽しむ悪鬼。デイルは﹃二の魔
王﹄の討伐に向かうことになるだろう。居場所が杳として知れない
﹃二の魔王﹄を討つことの出来る機会は、そうそうにあるものでは
ない。
それは同時に、ローゼにとって恩人である﹃彼女﹄の死をも意味
する。
手の中の紙片を見詰めたローゼは、一度目を瞑り、短い間黙考し
た。
ローゼが﹃彼女﹄ならば。
最大の好機を自らの命で購えるのならば、それを安易な同情で無
為にして欲しくはなかった。
彼女は、おそらくはずっとその為に生きてきたのだ。
自らの信念の元、役割を果たそうとする彼女の矜持を、汚しては
ならない。
きっと﹃自分﹄も、﹃彼女﹄と同じ選択をするというのならば、
そうだった。
目を開き、夜営地へと戻るローゼの足取りには、既に迷いは払わ
れていた。
1051
殺戮の魔王。︵前︶
﹃七の魔王﹄との戦争は、人間族の諸国連合軍の勝利で終わった。
戦争の爪痕は、戦地となった国土には、痛々しく刻まれ、既に蹂
躙された地に活気が戻ることはない。
それでも紛れもない勝利であり、これ以上の侵略も蹂躙も受けず
に済むという事実は、人びとに希望を抱かせた。
希望は、妖精姫の御旗を掲げる﹃白金の勇者﹄という象徴と共に、
人びとに語られていくのであった。
デイルがエルディシュテット公爵から秘密裏に、﹃二の魔王﹄の
情報を受け取ったのは、勝利に浮き立つ戦地の自軍の陣営の中であ
った。
﹁﹃二の魔王﹄の居場所がわかった⋮⋮?﹂
デイルもずっと﹃二の魔王﹄の行方は捜していた。世界各地に伝
のあるティスロウの情報網を用いても、具体的な情報は何ひとつ集
まることのない状況に、微かな苛立ちを感じていた矢先だった。
公爵閣下は、独自の情報網を有しているということだろうか。デ
イルはそう結論付けて思案した。
残る魔王は、﹃一の魔王﹄と﹃二の魔王﹄のみ。﹃一の魔王﹄は、
魔人族の国家ヴァスィリオの元首だ。居場所は特定出来ている。な
らば優先するべきは﹃二の魔王﹄の方だろう。
ラーバンド国としても、﹃二の魔王﹄が国内に潜んでいるという
事態は、危機感を覚えて然るべきな話であった。
対存在である﹃勇者﹄がいない土地で、﹃二の魔王﹄が人びとに
牙を剥けば、数多の戦士がどれだけ奮闘しても、魔王への決定打を
放つことは出来ないのである。
1052
被害を最小限に留めることが出来たとしても、被害は甚大なもの
になるだろう。
そして﹃二の魔王﹄の、最大の脅威は、人心に及ぼす﹃恐怖心﹄
だ。
被害の大きさだけならば、軍を有し、全てを蹂躙していく﹃七の
魔王﹄や、目に見えぬ﹃魔素﹄の広がりにより、死病を撒き散らす
﹃四の魔王﹄たちの方が大きい。
それでも﹃二の魔王﹄が、それらの魔王たちに劣ることなく恐れ
られているのは、その性質が大きい。
神出鬼没で、最も残忍な殺戮者。自らの快楽と愉悦の為に殺戮を
行う彼の魔王の行動は、予測することすら難しい。
いつ現れるかもわからず、現れた時には、その地は血臭と屍で埋
め尽くされる。
ただ、人びとを恐怖のどん底へと落とす存在なのだった。
デイルも今まで、直接﹃二の魔王﹄と相対したことはない。
デイルがかつて戦ってきたのは、﹃二の魔王﹄の眷属のみだった。
﹃二の魔王﹄の眷属は、敵であるデイルすら、憐憫を覚える存在た
ちばかりだった。配下と呼ぶには歪な存在ばかりで、ただひたすら
に身体のみを強化した哀れな﹃生き物﹄たちだった。
壊れない。死なない。
だが痛覚ははっきりと残されている。許容範囲外の苦痛にのたう
ち回っても、壊れることが赦されずに、死ぬことを奪われている存
在たちだった。
デイルは、﹃彼等﹄の命を奪ってきた。簡単に死ぬことのない存
在たちが死ぬまで、剣を振るい、魔法を行使して、その命を奪った。
﹃彼等﹄が死の間際に浮かべた表情は、紛れもない安堵であること
が、どうしようもないほどにやりきれなかった。
1053
﹁デイル、行くのか?﹂
﹁ああ⋮⋮早急に向かうようにとの閣下からの命令だ﹂
グレゴールはデイルの返答を聞くと、少し何かを考えるような仕
草をした。
お前はこれから帰還の指揮を執る必要があるだろ?﹂
﹁俺も同行しよう﹂
﹁は?
﹁帰還だけならば、名代に任せることが出来る。だが、﹃二の魔王﹄
の討伐に赴ける人員はそうそういないだろう。飛竜による移動のこ
とを考えても、数人の精鋭で向かうことになるだろうしな﹂
﹁⋮⋮そうだな﹂
デイルは、妙に静かな眸でグレゴールの言葉を受け入れた。
デイルは﹃二の魔王﹄相手でも、今の自分なら、遅れを取るとは
思っていない。単騎で向かうことも否とはしない。だがそれを、自
分が﹃魔族﹄となったことを知らないグレゴールやエルディシュテ
ット公爵には、説明出来ないことだった。
グレゴールは、直感的に、デイルを独りで行かせるべきではない
と思った。
自分でなくとも良かったが、﹃二の魔王﹄が相手ならば、よほど
の腕がなければ、同じ戦場に立つことすら出来ないだろう。急を要
する今だからこそ、自分が行くべきだと思った。
公爵家の名の下率いた軍に対する責任はあるが、﹃七の魔王﹄を
・
討った今、脅威となる存在はいない。帰還だけならば、父に補佐と
して付けられた副官に委ねても問題はない筈だった。
・
ラーバンド国公爵家の者として、友人として、﹃勇者﹄を失う訳
にはいかない。
不安定な今のデイルを、独りで﹃二の魔王﹄の元に行かせてはな
らない。
自分では、デイルの求める﹃存在﹄の代わりにはなれないだろう
1054
し、なるつもりはない。それでも、支えなければならない。
﹁⋮⋮俺にも、俺の役割がある﹂
﹁そうか⋮⋮なら、止めねぇよ﹂
デイルが向かう先には、白金の鎧を着けた灰色の幻獣がいる。
幻獣の眸には、自分と同じような色があるように感じられて、グ
レゴールは微かなため息をついた。
﹃二の魔王﹄の元に赴くことになったのは、デイルとグレゴール。
そして数人の精鋭たちだった。﹃七の魔王﹄との戦直後の慌ただし
さのなかで、秘密裏に動かせる飛竜はそれが限界であった。
飛ぶことに特化した魔獣である飛竜にすら、ハーゲルは遅れを取
らなかった。デイルの故郷であるティスロウが、ハーゲルに合わせ
て誂えた部分鎧は、鞍の機能も備えており、不安定な体勢を支える
のが容易になっていた。
不眠不休で幾日も剣を振るうことすら、負担ではない今のデイル
だが、それを周囲に強いる訳にもいかない。逸る心を落ち着かせて
夜営の輪の中に交ざる。
そのデイルの視線の先では、グレゴールが本国と頻繁に文を交わ
している姿があった。
戦後処理を委ねてきた関係もあるのだろう、彼は非常に忙しそう
にしていた。
﹁⋮⋮﹂
﹁どうした﹂
﹁いや、何でもない﹂
時折考え込む様子となるグレゴールの姿にデイルも不審を覚えた
が、それ以上を問い質すことはしなかった。
グレゴールもまた、自らの立場上、それを簡単に他者に漏らすこ
とは許されなかった。
1055
グレゴールを困惑させたのは、本国からのとある情報だった。
それは、﹃一の魔王﹄が、ラーバンド国に使者を送ったことから
始まっていた。
﹃災厄の魔王﹄たちによる人間族への侵略に、﹃魔人族﹄という種
を束ねる﹃一の魔王﹄は憂いを抱いた。﹃災厄の魔王﹄と﹃魔人族﹄
の意思はイコールではない。だが、﹃魔人族﹄が、長年他種族との
交流を絶ってきた現在の状況では、その偏見が﹃人間族﹄の間に蔓
延していることも事実である。
いたずらに不安と不審を煽ることにより、﹃魔人族﹄と﹃人間族﹄
の種そのものの対立に発展することを案じた彼の魔王は、この大戦
最大の功労者であるラーバンド国に使者を送ったのである。
魔人族の国家ヴァスィリオは、正式に国交をラーバンド国との間
に拓く。ラーバンド国もそれに応じ、準備も水面下で行われている
のだった。
その外交関連の情報の断片を知ることになったグレゴールは、父
である﹃ラーバンド国宰相エルディシュテット公爵﹄が、自分に何
をさせたいのか−−と、思案を巡らせるのであった。
﹃二の魔王﹄が、潜伏していると目されている館は、貴族の別荘と
リボン
いう印象の豪華で繊細な外観をした館であった。
その中庭の薔薇園の中で、金の巻き毛に赤い飾り紐を結び、同じ
赤のドレスを纏った少女は幸福そうな笑顔を浮かべていた。
白磁の器で供された茶の香りを楽しみ、小さな笑い声を漏らして
それを花の蕾のような愛らしい唇へと運ぶ。
﹁楽しいわ。楽しいわね。﹃白金の勇者﹄ですって﹂
な
クスクスと笑い、細い指先で用意されている焼き菓子を弄ぶ。
﹁他の魔王たち、ほとんどみぃんな殺されちゃっているのよ!
1056
んて素敵なのかしら﹂
金の少女が視線を向ける先には、数人の男女がいる。
返事をすることもないその人物に向かい、﹃二の魔王﹄は、いか
にも楽しげに言葉を継いだ。
﹃勇者﹄な
﹁﹃神﹄に、魔王を殺すことを赦されている﹃勇者﹄と、ひとを殺
わたくし
すことを赦されている﹃魔王﹄何処が違うのかしら?
ら答えを持っているのかしら?﹂
行儀悪く指先の菓子の欠片を、紅い舌で艶かしく舐め取って、金
の少女は笑う。純真無垢であるからこそ、狂気を含んだ歪な微笑み
だった。
﹁﹃勇者﹄を殺すのは、楽しそう﹂
紅い唇が三日月のような笑みを作る。
﹁﹃一の魔王﹄を殺すのは、簡単だった。呆気ないくらいに。その
後に﹃一の魔王﹄の候補を殺すのも、簡単だったわ。あれは、周り
の慌てる様子が少し面白かったかしら﹂
金の少女の言葉に、倒れ伏していた幾人かが、暗い眸で﹃魔王﹄
嬉しい。もっとわたくしを楽しませ
を睨む。憎悪の籠ったその視線に、少女は欲情したかのようにぞく
りと熱に身体を震わせる。
﹁まだ、壊れていないのね?
てね﹂
ティーセットの隣に当たり前のように並んでいた、磨き込まれた
銀の小さなナイフを手に取り、躊躇の欠片もなく、自分への憎悪の
視線の先へと投げる。自然すぎる動作の結果は、狙い外れることな
く一人の男の眼を貫いた。
﹁わたくしをもっと恨みなさい。﹃あの﹄小さな子どもは、確かに
時が満ちれば﹃王﹄となれる資格を得た。でも、貴方は﹃あの﹄子
どもを護れなかった。その、奪ったわたくしの玩具となる絶望は、
1057
何れ程のものなのかしら﹂
クスクスと笑う金の髪の少女には、罪悪感は微塵もなかった。
﹃一の魔王﹄が、﹃二の魔王﹄に惨殺された後、ヴァスィリオには、
﹃一の魔王﹄と成ると目された﹃候補者﹄が生まれた。
その時のことは、はっきり覚えている−−と、紫色の長い髪を揺
バナフセギ
らしつつ﹃彼女﹄は眼前の光景を見ながら独白した。
高位の紫の神の加護を有していても、全ての未来を上手く選びと
る事が出来る訳ではないと、自分の無力さを痛感したのもその時だ
った。
その子は王とはなれなかった。﹃王﹄となる資格を得る前に、先
代と同様に﹃二の魔王﹄に害されたのだ。
今、目の前で﹃二の魔王﹄に玩具とされている男女は、その幼子
の護衛と乳母だった男女だった。彼等は命懸けで護ろうとし、護れ
なかった。そして、﹃死ぬこと﹄を奪われ、今ここに在る。
簡単に壊れる﹃玩具﹄は、﹃二の魔王﹄の興味を惹かない。強き
モヴ
心あるからこそ、お気に入りの﹃玩具﹄と成ってしまう。
神の色たる﹃紫﹄の名を持つ巫女は、憐憫の籠った眸を微かに伏
せることで、自らの心の内を悟られないようにした。
目の前の者たちも自分も、同じ一念の元、心を保っている。
目の前の者たちは、喪われた主の為に。自分は、喪わない為に。
そして、母国とそこに住む民の為に。
この﹃災厄﹄に、一矢を報いること。来るべき時に、この﹃魔王﹄
を確実に討つこと。
今度は、仕損じない。仕損じる訳にはいかない。決意は揺るぐこ
となく、心は定まっていた。
︵後⋮⋮少し。そうしたら⋮⋮︶
心の中で呟いて、かつて無力さにうちひしがれる自分を慰めてく
れた優しいひとの−−もう、二度と逢うことの出来ないひとの、優
1058
モヴ
しい微笑みを思い出した彼女は、祈りの形に指を組んだ。
1059
殺戮の魔王。︵中︶∼紫の巫女∼︵前書き︶
書籍版四巻の告知など、活動報告の方にあげております。二人の甘
々空間の表紙イラストで、残りのシリアス期間を乗り切ってくださ
いませ。
1060
巫女姫⋮⋮
殺戮の魔王。︵中︶∼紫の巫女∼
﹁
後、僅かです。私たちは、呪に縛られている。けれども心は売
﹂
﹁
﹂
ヴァスィリオ
り渡しはしなかった
かつて、王無き魔人族の国家で、民を導く立場にあった女性は、
私たちの役割は、この場に﹃我が君﹄を留め置くこと。玩具と
毅然として託宣を告げた。
﹁
﹂
呼ばれようと耐えてきたのは、この時の為。私たちの命は私たちの
ものです
彼女の周りには、数人の魔人族の男女がいた。どの者も、身体の
一部が失われ、傷が塞がっていないのか、血が滲んでいる者もいた。
けれどもその眸には、力があった。
彼等を支えてきたのは、この美しい紫の色持つ女性であった。彼
﹂
女の予言によって、彼等は絶望に心折れることなく、自我を保って
きた。仇敵に報いる時を信じて、生き抜いてきた。
決して、﹃我が君﹄に殉じる為のものではない
皆、同じ思いだった。
﹁
それは、一つの戦いの形だった。
デイルたち一行が、たどり着いた先には、白壁の豪華な館があっ
た。
田舎町にそぐわないという程には、派手派手しさはなく、上品に
周囲に溶け込んだ趣味の良い館だった。
繊細な飾りが施された鉄製の柵の内側には、緋色の薔薇が咲き乱
れている。
それなのに感じる不快感に、デイルとグレゴールは眉を潜めた。
1061
﹁なんだ⋮⋮これは﹂
﹁血の臭い⋮⋮後は死臭だな⋮⋮﹂
香しい薔薇の香りに混じる微かなその臭いこそ、違和感の正体だ
った。
デイルたちが知るよしもないことであったが、この美しい庭園や
館の彼方此方で、﹃二の魔王﹄による﹃玩具﹄による﹃遊び﹄は、
何度となく繰り返されてきた。隠しきれないその残虐な行為が、こ
の館に何処か暗い陰を落としていた。
﹁よう、お出でくださいました﹂
敵陣で唐突に掛けられた声に、デイルとグレゴール、そして他の
同行者たちが身構えたのは無理がない。デイルたちも内心では狼狽
していた。これほど近い距離で、自分たちが気配を察しないことな
ど、あり得ない。此処は﹃敵陣﹄だ。常よりも警戒は怠ってはいな
かった。
︵⋮⋮え?︶
ふわりと靡いた紫の色彩に、隣のグレゴールの力が少し緩む。自
いろ
分たちは﹃この女性﹄を知っていた。話に聞いていた、ローゼを救
ったひとだと察するには充分過ぎる、美しい魔力形質の紫だった。
︵でも、なんだ?⋮⋮なんだか⋮⋮︶
ふわりと微笑む彼女には、周囲を安心させる気配がある。小動物
のようにそばに在ることが自然過ぎて、溶け込んでしまう。毅然と
している時はどんな誰よりも存在感を放つというのに−−と、自分
の抱く感覚に、デイルは戸惑った。この女性を自分は知っている気
がした。
﹁薔薇の色持つ姫は、私の願いを聞き届けて下さったのですね。お
初にお目に掛かります。﹃白金の勇者﹄よ﹂
そう言って彼女は、見慣れぬ作法で頭を垂れた。
﹁どうぞ﹃我が主﹄を、討ってくださいませ。それが我等にとって
1062
も悲願の成就と成ります﹂
﹁ローゼを介して⋮⋮この場のことを内通したのは、貴女か?﹂
グレゴールの言葉を、紫の女性は静かに肯定した。
﹁その通りです﹂
相手が﹃二の魔王﹄の眷属であり、その者に招き入れられた以上、
まず疑うべきは罠である可能性だった。
デイルもグレゴールも、ローゼの伝聞でしか目の前の女性を知ら
ない。他の同行者にとっては、信頼するべき理由も見出だせないだ
ろう。
ローゼを救ったことすら、何かの奸計である可能性も、否定する
べきではなかった。
それなのにデイルは、目の前の女性を疑うことが出来なかった。
そんな自分に微かな動揺を抱きながら周囲を見れば、彼女に無条
件の信頼を委ねようとしているのは、自分だけであるらしい。
どうやら﹃央﹄魔法などで、惑わそうとしている訳ではないのだ
と判断する。
その行動の過程でデイルは、ハーゲルの様子に気付いた。
自分と同じように微かな戸惑いを浮かべつつも、彼女に対して敵
意を表そうとはしていない﹃彼﹄の姿に、デイルは自分の直感を信
じることに決めた。
時間を無駄に使うことは出来ない。
次に好機が訪れる事があるかも、わからないのだ。
そう決めてデイルは、彼女の提案を受託した旨を伝える為に口を
開いた。
紫の女性は、デイルだけを館の隠し通路に案内した。
貴族の館というのは、往々にして彼方此方に通路を設けているも
1063
のだった。秘密裏の脱出用に限らず、使用人のみが使うものもある。
それを確実に把握している﹃二の魔王﹄に対して、侵入者たるこち
らの分は悪い。
﹁﹃我が君﹄にとっては、全てが遊び。今は自らの﹃玩具﹄と侵入
者の命のやり取りを眺めていることでしょう﹂
デイルと別行動となったグレゴールたちは、正面から侵入を果た
した。今は﹃二の魔王﹄の眷属たちと交戦になっている筈だった。
﹁自分を心から憎んでいる者たちに、自らの身を守らせて、悦に入
っているのです﹂
﹁⋮⋮悪趣味だな﹂
﹁ええ。その通りです﹂
相槌など入れるつもりもなかったのだが、デイルは半ば無意識に
言葉を発していた。そんな自分に驚く。
紫の女性は、自嘲めいた微笑みを浮かべて、眼前の壁に触れた。
あのもの
開ける為の仕組みを、複雑な手順を踏んで動かしていく。
﹁それを、﹃眷属﹄たちも承知しております。﹃我が君﹄の命に逆
らうことは出来ませんが、少しでも長く﹃我が君﹄の興味を惹くよ
うに、素晴らしい剣舞を舞ってくれることでしょう﹂
手を抜けば、﹃二の魔王﹄に気付かれることだろう。だからこそ、
双方命を賭けて、真剣勝負を演じるのだ。
﹃白金の勇者﹄の剣を、確実に﹃二の魔王﹄の元へと届ける為に、
その時間を稼ぐ為に。
﹁﹃我が君﹄は、この先に﹂
壁の向こうには、薄暗い通路が続いていた。その先は飾り気のな
い扉で行き止まっている。
﹁なんだ⋮⋮?﹂
静かな眼差しで自分のことを見る彼女に、デイルは戸惑ったよう
1064
いろ
・
・
・
な声を出した。その目に、自分はとても弱かった。
・
・
纏う色彩は、何れも異なるというのに、目元が、笑い方が、彼女
をどうしようもなく思い出させる。
﹁貴方は、﹃八の魔王﹄の眷属ですね﹂
それは、確信している言葉だった。
グレゴールもローゼも知らない筈の情報を、目の前の女性が知っ
ている事実に、デイルは動揺することもなく推測を口にした。
﹁それは⋮⋮﹃予言﹄で知り得たことか?﹂
﹁はい﹂
﹁﹃二の魔王﹄は、このことを知っているのか?﹂
﹁いいえ﹂
彼女の返答を聞き届けると、デイルは左手の手袋を外し、彼女に
自らの﹃証﹄を示した。そこに刻まれた﹃名﹄を見ると、落ち着い
ていた様子だった彼女は、初めて驚きの表情を浮かべた。
︵そんな表情をすると⋮⋮よく⋮⋮︶
浮かんだ感傷に蓋をして、デイルは彼女を見る。
﹁⋮⋮お願いがあるのです﹂
﹁何だ?﹂
﹁私を殺して下さいませんか﹂
手袋をはめなおすデイルの様子を見届けた後、ほんの少し躊躇す
るようにして彼女が切り出したのは、自らの死を望む言葉だった。
デイルはその言葉に驚かなかった。彼女は﹃それ﹄を望むような気
がした。
﹁﹃二の魔王﹄が滅べば、私もそれに殉じることになるでしょう﹂
﹁﹃命﹄を、縛られているんだな﹂
﹁はい﹂
デイルの﹃主﹄である﹃彼女﹄のように、眷属の何も縛らずにお
1065
く存在の方があり得ない。﹃主﹄亡き後、眷属の命もまた喪われる
という制約を掛ける位、﹃災厄の魔王﹄ならやりそうなことであっ
た。
﹁私は⋮⋮最期くらいは、自由になりたいのです。﹃我が君﹄に殉
じるなど⋮⋮望まない﹂
悔しげな感情を呑み込んで、彼女は静かに声を発した。
﹁私は、﹃我が君﹄に刃を向けることと、自ら命を絶つことを禁じ
られています。⋮⋮ですが、無理にとは、申しません﹂
﹁⋮⋮それは⋮⋮貴女にとっての救いなのか?﹂
わかっていても、デイルはそう問いかけた。
﹁はい﹂
彼女の返答には、微かな迷いも感じられなかった。
﹁他に⋮⋮貴女が助かる術はないのか?﹂
﹁﹃理﹄を歪めることは出来ません。それこそ、七色の神の御業で
もない限り﹂
﹁そうか⋮⋮﹂
デイルは自嘲めいた微笑みを浮かべた。
ここで自分が直接手を下さなくとも、眼前の女性は死ぬ。﹃二の
魔王﹄を自分が討つとはそういうことだ。
最期まで、﹃魔王の玩具﹄ではいたくはない。その、彼女の尊厳
ひと
と矜持を守る為の唯一の願いを叶えるには、そうするしかなかった。
﹁俺は、無力だな﹂
﹁そんなことはありません﹂
優しい微笑みに、取り戻したい女性の面影がかぶる。
﹁貴方は、私にとって希望でした。貴方の進む道の先に、私の望む
未来があった。⋮⋮それに、最期に﹃貴方﹄に逢えた﹂
彼女の声もあまりに優しくて、デイルは息苦しいような感覚を覚
1066
・
・
えた。それでも彼女を救う為に、﹃左手﹄に力を籠める。
・
﹁私の最後の﹃予言﹄です。貴方はあの娘と、もうすぐ逢えますよ﹂
剣を振るう必要がなかったことが、デイルにとっては救いだった。
彼女は、﹃二の魔王﹄の力により、﹃不自然な状態﹄で﹃生かさ
れていた﹄。
デイルの中に宿る﹃八の魔王﹄の力の断片で、その力を打ち消す
だけで、彼女から急速に生気が失われていった。
デイルの腕の中で、彼女は静かに眸を閉じた。苦しみもない、安
堵を感じさせる穏やかな表情だった。彼女は確かに﹃救われた﹄の
だと、思わせてくれる姿だった。
目覚めることのない眠りに落ちる直前、彼女は混濁した意識の中、
微かな声で呟いた。
﹁⋮⋮ありがとう⋮⋮スマラグディ⋮⋮﹂
それは、感謝の言葉だった。
1067
殺戮の魔王。︵後︶
眼下で繰り広げられている生死を賭けたやり取りを、娯楽物の演
劇の舞台でも楽しむように眺めていた少女は、扉が開く音に背後を
振り返った。
モヴ
扉の先にいる人物の姿を認めると、その愛らしい顔に驚愕という
感情が浮かぶ。たちまちそれは、憎悪に歪んだ。
﹁モヴ⋮⋮っ﹂
少女の姿をした魔王は、他の眷属たちと異なり紫の巫女には、最
低限の制約しか課していなかった。
それは、自分を﹃裏切る﹄余剰を残す為だった。
魔王が眷属を縛る制約とは異なり、﹃約定﹄には、強制力はない。
それはあくまでも互いに交わされた約束事に過ぎない為である。
﹃二の魔王﹄は、モヴと約定を交わしていた。
それは、彼女が自分を裏切らない限り、﹃彼女の娘﹄には不干渉
の立場でいるというものだ。
だからこそ、魔王はモヴに﹃自由﹄を与えた。彼女が自分を裏切
る。若しくは束縛からの解放を願えば、自分は彼女の最愛の﹃娘﹄
を殺すことを許されることとなる。
ただ殺すことよりも、ずっと心躍らせる遊戯だった。
それが、裏目に出た。
そして何よりも魔王の怒りに火を付けたのは、﹃そのこと﹄が意
味することを理解したからだった。
﹁わたくしを侮るなど⋮⋮っ﹂
1068
バナフセギ
﹃紫の神﹄の高位神官たるモヴが、自分を裏切り、この男を自分の
元に送り届けた。−−この男を此処に送り届けたのは、モヴ以外に
は、あり得なかった−−それは、この男を自分の元に送れば、彼女
が護りたい存在は喪われないということだ。
それは−−この男ならば自分を殺せるということを、﹃予言﹄し
たということだった。
一瞬で距離を詰め、白金色の半身鎧の男に向かい二振りのナイフ
を振り下ろす。
﹃二の魔王﹄は、小柄な体躯もあり、扱い易い短い長さの得物を好
んで使ってきた。皮膚や骨を断ち切る感触が伝わる、手に持つ得物
を好んでいた。
体格で勝る、大人も男も屠ってきた。
相手が﹃勇者﹄という、﹃神﹄に定められた対存在だとしても、
殺める自信があった。
金の長い髪が軌跡を描き、重力に従いふわりと降りる。甲高い金
属音を認識した時に、魔王は自分の一撃が男の籠手で防がれたこと
を知った。
勇者の視線には、畏れも怯えもなかった。
真っ直ぐに射抜くような視線を向けられて、魔王は微かに動揺を
覚えた。
すぐにそんな自分を否定する。
魔王と成ってから、全ての者は自分に畏れおののく弱者であり、
自分は絶対的な強者だった。そんな自分が、いくら相手が﹃勇者﹄
とはいえ、心乱すことなどあり得ない。
銀の煌めきだけを認識出来る程の鋭い剣筋で、幼い少女の姿をし
た魔王は、勇者の命を刈り取るべく、その刃を振るった。
自らの心を鼓舞するかのような、その反応を、魔王は決して認め
ていなかった。
1069
息をつかせぬ程の剣戟を、デイルはひたすらに捌いていく。﹃二
の魔王﹄の幼い容姿に惑わされることはなかったが、これだけ小柄
な相手は、勝手が違ってやり難かった。短いリーチを活かした素早
い動きは、その外見からは予想出来ない程に、一撃一撃が酷く重い。
永き時、殺戮に耽っていた魔王の剣筋は、洗練されている。殺す
ことを突き詰めた結果の、恐るべし冴えだった。
だが、その全てをデイルは捉えた。全てに応じてみせた。
魔族となって得た力は、魔王の攻撃を見切る目も、それに反応出
来る身体も与えてくれていた。
そして故郷謹製の防具は、魔王の一撃すら耐えてくれている。そ
れはデイルが力をただ受けるのではなく、巧みに受け流していると
いう技量があってのことでもあった。
﹁は⋮⋮っ!﹂
攻撃のスピードが緩んだ瞬間に、腹部に叩き込まれたデイルの籠
手での殴打に、魔王は身体の中の空気を吐き出した。
﹁あ⋮⋮﹂
その一撃で、ガクガクと足が震える。
膝を付き、手に馴染んだ刃が床に落ちるのを呆然と見る。
﹃魔王﹄は、永き時の間、絶対者だった。
幼い容姿は、この年齢の時に﹃二の魔王﹄としての資格を得て覚
醒したということだった。
それまでも、それからも、魔王は自らの痛みという感覚に無縁で
過ごしてきた。
それでも絶対者としての自我が、跪く自分を、見下ろす存在を許
・
・
・
・
せなかった。だから再び刃を掴み、勇者へと躍りかかる。
・
その明らかな隙を見逃されたことに、気付いてしまったからこそ、
激昂に我を忘れた。
1070
デイルは一連の魔王の反応で、外見通りの幼児性を相手が有して
いることを理解していた。
剣筋の冴えや、残虐性は、幼い姿には似つかわしくないものだろ
う。
それを取り払えば、後は自らの力に溺れた傲慢さしか残らない。
確かに恐ろしい程の腕前だが、﹃六の魔王﹄との戦いの中にあった
ような高揚も感じられなかった。
金の髪を乱し、愛らしい顔を紅潮させ碧の眸に涙を浮かべた少女
−−という容姿にも、何も感じることはなかった。
ただ冷静に、見下ろし、観察する。
その視線こそが、少女の姿をした魔王の矜持を深く傷つけていた。
デイルの殴打を受けて以降、明らかに魔王の動きは鈍っていった。
そこに彼は、容赦のない追撃を与える。剣すら抜かない殴打だけ
の攻撃であるということに、魔王は身体に受ける痛苦以上の憤りに、
彼を憎悪の籠った視線で睨む。
幼い少女を一方的に殴打する大人という光景である。何も事情を
知らぬ者ならば、デイルの方を糾弾することだろう。それほどにい
たぶられる少女は可憐であったし、デイルには容赦の欠片もなかっ
た。
﹁この程度か﹂
倒れ伏した少女に向かい、初めて口を開いたデイルの声は冷えき
っていた。浮かべた侮蔑の表情も合わせて、どちらを﹃魔王﹄と称
して良いのか判別に困る程のものである。
そこでゆっくりと彼は、剣を抜いた。
少女の眸に、明らかな怯えの色が過る。認めたくはないが、自ら
の死の気配に気付かぬ程、愚鈍ではない。
1071
魔王は自らの容姿が可憐であることを知っていた。それを用いて
獲物を油断させて屠ってきたこともある。自らの矜持よりも、今は
この状況を覆す為に、潤んだ目を男に向け、殊更憐れを誘う声を出
した。
﹁ゆるし⋮⋮﹂
だがそんな少女の頭を、彼は容赦なく踏みつけた。
更なる屈辱を魔王が感じた時、彼は最終宣告とも言うべき死刑通
告を述べた。
﹁ならば、ここまでだな﹂
それでもと、悪あがきをする暇もなく、﹃災厄﹄と呼ばれた少女
の意識は闇に堕ちた。
﹁⋮⋮﹂
冷静では、あっただろう。
それでも必要以上に相手をいたぶった行動を取ったのは、怒りの
感情が自分にあったからに違いない。
デイルは、自分の感情をそう分析して息を吐いた。
動かなくなった少女の躯をもう一度蹴り付けたのは、死んでいる
のを確認するのと同時に、自らの憤りをぶつけたからでもあった。
紫の色を持つ女性。彼女を救う術はなかった。
それでも、彼女に手を掛けざるを得なかった−−その状況に追い
やったこの﹃魔王﹄を、許せる筈がなかった。
魔王が最初に居た金属の柵のある場所へと向かうと、そこは舞台
を眺める桟敷に似た風情の場所であった。階下を見下ろすデイルの
視界に、グレゴールたちの姿が見える。戦闘の名残がある荒れた室
内の中、倒れた幾人もの魔人族の特徴を持つ人びとの姿も見えた。
デイルの視線に気付いたグレゴールが視線を上げ、デイルに声を
掛けた。
1072
﹁終わったのか?﹂
﹁ああ﹂
その短いやり取りだけで首尾を確認すると、グレゴールは静かに
剣を納めた。
﹃二の魔王﹄がデイルに討たれるのと前後して、グレゴールたちが
戦っていた魔族たちは、その命を喪うことになっていった。
主を喪い、それに殉じることを強制されていた眷属たちの表情は、
それでも酷く穏やかなものだった。
館の外に出ると、入口で番をしていたハーゲルが、薄く夕暮れに
染まりつつある空を見上げて、緩く尾を揺らしていた。
それが﹃彼﹄が、考えことをする時の癖であること程度は気付け
るようになっていたデイルが、疑問の声を出す。
﹁どうした?﹂
﹁いや⋮⋮﹂
ハーゲルには珍しく、考えあぐねているようだった。
デイルを見て、彼に強く纏わりついている血の臭いに、更に悩む
ように唸り声を発する。
﹁御子が⋮⋮﹂
ニオイ
やがてハーゲルが発した言葉に、デイルの表情が変わった。
ラティナが、何処にいるんだっ!?﹂
﹁御子の気配が⋮⋮遠き地にある﹂
﹁何処に⋮⋮っ?
ニオイ
激しい感情を露にするデイルに、ハーゲルは困ったように視線を
少し反らした。
﹁⋮⋮我よりも、遠き地の気配を探る術は、我が仔の方が長けてお
る。我はそこまでは詳しく追えぬ﹂
﹁ヴィントなら⋮⋮っ﹂
1073
苦々しそうに、顔を歪めたデイルに向かい、グレゴールが静かな
声を響かせた。
﹁落ち着けデイル﹂
﹁これが、落ち着いて⋮⋮っ﹂
沸騰しそうな自分の感情を、デイルはなんとか押し留める。それ
は、グレゴールの静かな視線に、自分を微かにでも客観視すること
が出来たからであった。
﹁俺の元にも、気になる情報がある。まだ、確かなものとは言えな
いので黙っていたのだが⋮⋮﹂
﹁なんだ?﹂
﹁今、ラーバンド国は、ヴァスィリオの開国宣言を受けて、正式に
国交を開始する準備を初めている﹂
グレゴールの言葉に、デイルは隠しきれない焦りと憎しみのよう
なものを表情に覗かせた。それにも怯むことなくグレゴールは言葉
を続けた。
﹁ヴァスィリオの元首は、﹃黄金の王﹄と呼ばれているらしい。彼
の王は⋮⋮﹂
グレゴールの声には、高ぶりは全く感じられなかった。それに対
してデイルは、抑え切れないように、激情をより露にする。
﹁﹃白金の姫﹄と呼ばれる麗人を寵愛しているとか﹂
グレゴールの表情に、ハーゲルのものと同様の困惑が滲んでいる
ことに、常のデイルなら気付いただろう。
デイルは一行に無断で、ハーゲルと共に夜更けに姿を消した。
グレゴールは、そのデイルの動きに気付いてはいても、止めるこ
ともせずに見送ることを選んだ。止めようとしても、今のデイルは
止まることはないだろう。
アフマル
︵この不自然さは⋮⋮デイルを招いているということか⋮⋮?︶
グレゴールは、月を見上げて溜め息をつき、﹃赤の神﹄の祈りの
文句を呟いた。
1074
殺戮の魔王。︵後︶︵後書き︶
次回11日︵土︶の更新後、少し変則的な投稿となります。詳しく
はその際、活動報告にてスケジュールを出しますので、ご了承くだ
さい。
1075
黄金の王と、白金の勇者。︵前︶︵前書き︶
書籍版四巻発売は今月22日となっております。それまでの10日
程、発売日まで投稿回数を増やしますので、詳しいスケジュールは
活動報告をご覧ください。
1076
黄金の王と、白金の勇者。︵前︶
ラーバンド国クロイツの南の森の更に先に、魔人族の国ヴァスィ
リオはある。
デイルがヴァスィリオについて知ることは、その程度のことだっ
た。
長年鎖国政策をとり、他国と交流を持たないヴァスィリオのこと
は、ほとんど知る機会すら得ることが出来ないのだった。
それでもデイルたちが迷うことなく彼の国を目指すことが出来た
のは、ハーゲルの﹃鼻﹄があったからであった。
ニオイ
ヴィント程の精度を持たないハーゲルであるが、距離を詰めるに
従い、ヴァスィリオに居るラティナの気配を捉えた。
ニオイ
それを以て正確に彼の国の方向を知ったのだった。
︵ヴィントがあまりにも普通に⋮⋮ラティナの気配で何事も把握し
てきたの見てきたけど⋮⋮あいつのしていること、やっぱり﹃普通﹄
じゃなかったんだな⋮⋮︶
ニ
逸る気持ちと激情の中、それでもデイルはそんな突っ込みを内心
に浮かべたりもしたのである。
オイ
ハーゲルに言わせれば、ティスロウの地からクロイツまでを、気
配を辿って向かうことすら、条件が合わなければ厳しいことである
らしい。
ヴィントは常々﹁やればできるこ﹂と、自称していたが、それは
単なる自称ではなかったのだった。
夜明けの早朝を待って、ヴァスィリオの上空をハーゲルで駆ける。
ヴァスィリオの都市の様子は、空から見下ろすデイルにも、ラー
バンド国とは大きく異なるものだった。
1077
王城に当たる場所は分からなかったが、﹃神﹄の気配が強い場所
は直ぐに察知する。クロイツなどの﹃ひとの為の神殿﹄とは異なる、
神の恩寵篤いからこそ設けられた、彼の故郷と同様の﹃神を奉る為
バナフセギ
の場所﹄だった。
ニオイ
﹁﹃紫の神﹄の神殿⋮⋮﹂
﹁⋮⋮御子の気配は、そこに在る﹂
ハーゲルの返答に、デイルの心は直ぐに決まった。
﹁ラティナの元に向かってくれ﹂
邪魔をするものが在れば、全て薙ぎ倒す。
自らの背でその意志を隠そうともしないデイル相手に、ハーゲル
は複雑そうに喉の奥を鳴らした。
本当に此所が、﹃魔王﹄の住む場所であるのかとデイルが戸惑う
程に、彼は何者にも妨げられることなく神殿の内部を進んでいた。
他の﹃魔王﹄を討つ際に、居城に侵入してきたデイルだったが、
ここまでひとの気配が感じられないのは初めてだった。
神殿とはいっても単一の建物ではなく、広大な敷地の中に、幾棟
もの建造物が築かれている。
空の上でハーゲルが示し、ジリジリと疼く自分の左手の感覚を信
じてデイルは奥へと進む。
その豪勢な離宮の前へと辿り着いた時、デイルは胸に迫るものを
感じた。
左手を自分で握り締める。
理屈などはわからないが、自分は確信していた。此所には、自分
のなくしてしまった﹃欠片﹄がある。
熱いものを押し留めて、浅く水の張られた泉の上に架かる橋を渡
る。緩やかな風に揺れる薄布を手で押さえ、入り口を潜った。
1078
ラティナが、いた。
息が止まるかと思った。
見慣れぬ風情の衣装は、ヴァスィリオの様式のものなのだろう。
寝台にその身を横たえて、柔らかな寝具に包まれていた。
そっと、近付く。夢ではないのかと、夢だったらどうしようと、
目にしても信じることが出来なくて、息を殺して傍らに立つ。
触れたくて、仕方がない。抱き締めたくて、仕方がない。
それでも、彼女が目覚めた瞬間に消えてしまうのではないかと思
うと、怖くてそれも出来なかった。
長い睫毛は伏せられていて、灰色の優しい色の眸は見えない。
記憶にあるよりも、痩せているように見える彼女は、あまり顔色
は良くないようだった。それでも、規則的に上下する胸に、堪らな
い安堵を感じる。
震える指を恐る恐る伸ばす。
柔らかな頬に微かに触れて、慌てて手を引いた。彼女が消えてし
まわないことを確認して、もう一度手を伸ばす。
暖かい、彼女のぬくもりが伝わる。
当たり前過ぎる程に、ずっと自分の傍に在ったそのぬくもりを感
じて、デイルは自分の理性を総動員することになった。無茶苦茶に
抱き締めて、キスをしてしまいたい自分を、押し留める。
こんな風に穏やかに眠る彼女を、驚かせる訳にはいかない。
だからデイルは、ずっとそうしてきたように、彼女の頭を撫でた。
滑らかで触り心地の良い彼女の髪を撫で、擽ったがるものの、彼女
にとって﹃気持ちの良い﹄場所である角の根元のあたりに手のひら
を滑らせる。
﹁ん⋮⋮﹂
1079
微かにラティナが身動ぎした。仔猫のように、上機嫌な吐息を漏
らす。
変わらない彼女の愛しい仕草に緩んだデイルの表情が、彼女の声
を聞いた瞬間に強張った。
﹁フリソス⋮⋮?﹂
他人の名を呼ぶ彼女の姿に、脳が一瞬で沸騰した。
こんな無防備な寝起きの姿で、薄絹だけを纏った身体の線も露な
姿で、自分ではない他人の名を呼ぶ彼女に、他の全ての感情が塗り
替えられる。
此所が、特殊な宮であることぐらい、一目でわかる。
他の﹃魔王﹄にとって害悪である筈の﹃八の魔王﹄たる彼女を、
匿い留める﹃一の魔王﹄の心情など、考えないようにしていた。自
分が知らない故郷での彼女のことを知る可能性を、考えないように
していた。
寵愛を受ける姫。その言葉に感じた昏い感情も、彼女を見た瞬間
には、忘れていられた。
それを、彼女のたった一言の言葉が、思い返させた。
﹁⋮⋮っ!?﹂
痛みといってもよい強い力に、両の腕を拘束されて、ラティナの
意識は微睡みの中から浮上した。
反射的に逃れようと身を捩るも、強い力は緩められることもなか
った。
︵何⋮⋮何⋮⋮?︶
恐怖に涙が滲んだ眸をまばたきして、焦点を合わせる。驚く程に
近い距離にいる存在が、男性であることに気付くと同時に、自分は
身体から力を抜いていた。
身体の反応に、頭の方が追いつかない。
1080
無意識のうちに、相手が誰であるのかを理解して受け入れる身体
に対して、頭は状況を理解しきれない。
此所にデイルが居ることすら、彼女は把握しきれていなかった。
﹁デイル⋮⋮?﹂
ラティナを更に戸惑わせたのは、デイルの表情だった。
会いたかったという言葉も、話したい、話すべきことがあった筈
だったことも、全て忘れてしまう位に、混乱する。
デイルが、今自分に向ける剥き出しの感情を、激しい程の嫉妬だ
と理解出来ないラティナは、息苦しさを覚えて喘ぐ。
ずっとデイルは、ラティナに、穏やかで優しい感情を向けてきて
いた。ラティナは、彼の暖かな愛情にくるまれて過ごしてきていた。
初めて向けられるデイルの怒りに近い激情の理由がわからなくて、
彼女は、怯えた顔で自分を組み敷く彼を見上げた。
ラティナのその反応すら、今のデイルの感情を逆撫でる。
疚しいことがあるからこその反応だと、結論付ける。
﹁なんで⋮⋮?﹂
﹁ラティナ﹂
詰問するデイルの声に、びくりとラティナは身体を竦める。普段
ならばどれだけ怒っていても、彼女がそんな反応をすれば、デイル
は声を和らげてくれた。それなのに、今のデイルは怒りを隠そうと
はしなかった。
﹁フリソスとは、誰だ?﹂
﹁デイル⋮⋮?﹂
何故、デイルがフリソスの名を知っているのかもわからなくて、
ラティナは言葉に詰まった。一度詰まると、声がうまく出せなくな
ってしまった。
怖くて涙が滲む。大好きなひとに逢えた喜びよりも、不安定な今
1081
の彼女は、怒りの感情に晒された恐怖に大きく揺り動かさされてし
まった。
﹁⋮⋮﹃一の魔王﹄の名か?﹂
﹁⋮⋮っ﹂
声が出ないラティナを、じっと睨むようにして、デイルは見据え
る。
隠し事は出来ても、嘘の付けないラティナは、揺らぐ眸が能弁に
本心を綴る。それで求める答えの確信を得た彼は、更なる質問を彼
女にぶつけた。
﹁﹃一の魔王﹄は、何処に居る?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮っ!﹂
ラティナの眸が大きく揺れる。さっと走った視線の先が求める答
えだと、デイルは昏い笑みを浮かべた。
﹁もう少しだけ、待ってろ⋮⋮ラティナ。﹃一の魔王﹄で最後だ。
そうしたら、俺の元に帰って来るんだろう﹂
﹁で⋮⋮いる⋮⋮?﹂
掠れた声で問い掛けるラティナは、押し潰される程の不安に身体
を震えさせた。それほどに深い狂気にも似た感情が、今のデイルに
は宿っていた。
﹁そうしたら、全部、赦してやるから、大人しく待ってろ﹂
身を起こし、踵を返して部屋を出るデイルの姿に、ようやくラテ
ィナは、起こって欲しくなかった出来事が起ころうとしていること
に気が付いた。
﹁や⋮⋮ダメ⋮⋮っ、お願い、デイル⋮⋮フリソスは⋮⋮っ﹂
デイルの怒りの理由を理解していない彼女は、そうやってフリソ
スを庇う言葉を彼女が発したことが、更にデイルの感情を煽ること
に気付いていなかった。
背中に受けたその声に、デイルは憎悪を隠そうともせずに、ラテ
1082
ィナが視線を向けた先へと足を速めたのだった。
1083
黄金の王と、白金の勇者。︵後︶
空から見ていた建物の配置と、ラティナが視線を向けた方向から、
玉座のある謁見の間というべき場所の見当は付いていた。執務室な
どの場所はまた別だろうが、違うならば次はそこに向かえば良い。
邪魔をする輩が居れば、全て斬り殺すのも躊躇わない。
求めるラティナの姿を確認した以上、彼女を取り戻すには何を引
き換えにしても惜しくはない。
それでも、決して、彼女を奪おうとした存在を赦せる筈がない。
裏切られたのかもしれないと、心は疼くが、それでも自分は彼女
を憎む事は出来ない。
だから相手を憎む。
八つ裂きにしても足りることはない。
ラティナはそれで、悲しみ、自分を憎むだろうか。
それでも止める事は出来そうもなかった。
辿り着いたのは、ひどくがらんとした、殺風景な空間だった。
壁や柱に施された繊細な装飾は、今のデイルの視界には入らなか
った。広い空間の先には、数段上に設けられた壇があり、天井から
垂らされた御簾が空間を区切り、その先に居る人物を、直接見るこ
とが出来なくなっている。
そこに、ひとの気配が動いた。
明らかに貴人の居る場所だと察した瞬間に、デイルは剣を抜き放
って駆けた。小さな金属音を耳が拾う。素早く唱えられた魔術が防
御壁を生み出すものであることを聞き分けて、そのまま距離を詰め
た。
1084
﹁そんなもの⋮⋮っ﹂
魔術で生み出された防御壁を、力任せに打ち砕く。甲高い音と共
に光で出来た壁は打ち砕かれ、振り切られた剣が御簾を斜めに切り
裂き後方へと払う。
そのまま返す刃で、目的の人物を切り裂こうとしたデイルは−−
ぴたりと、動きを止めた。
﹁な⋮⋮っ!?﹂
呆然と−−怒りも憎しみも全てを忘れて、動くことすら忘れたよ
うに、デイルは立ち竦んだ。
そこに、ちいさな軽い足音が背後から響く。
振り返る必要もなく、デイルには、それが誰の足音かはわかって
いた。
息を乱して謁見の間へと駆け込んで来たラティナは、デイルの横
・
・
・
をすり抜け、御簾の奥のフリソスを庇うように抱き締めた。
﹁デイル、お願い、やめて⋮⋮フリソスは⋮⋮リッソは⋮⋮っ﹂
・
・
﹁⋮⋮プラティナ﹂
・
・
・
・
・ ・
・
・
・
ラティナよりも低い声が、彼女の名を優しげに呼んだ。
頬が触れる程に寄せられた為に、同じ色の白金の髪が、どちらが
どちらのものかもわからない程に混ざり合う。
共に嵌めている同じ形の銀の腕輪が、同時
面差しも、背格好も−−元は同じものであったと言われたら信じ
てしまいそうだった。
・
・
に光を反射して、輝きを放っていた。
・
・
・
唯一の違いは、涙を浮かべた優しい灰色の眸と、それを案じて見
詰める金色の眸だけだった。
1085
比べるまでもなく。こうして並べて見れば尚、二人はよく似てい
た。
﹁双子の⋮⋮姉妹⋮⋮?﹂
呆然と呟くデイルの前で、ラティナから急に、糸が切れたかのよ
うに力が抜けた。我に返ったデイルよりも先に、フリソスが、ぐっ
たりとしたラティナを抱き止めた。フリソスは気遣わしげな表情で、
王笏を傍らに置き、ラティナを両腕で抱き締める。
﹁その様子を見るに⋮⋮やはりプラティナは、余のことを其方に、
何ひとつ語ってはおらなかったようだな﹂
フリソスは微かに苦笑を浮かべ、剣を納めることすら忘れたデイ
ルを見上げた。
﹁あ⋮⋮﹂
戸惑うデイルの前で、フリソスは優しげにラティナの額の汗を拭
う。そこでデイルはやっとラティナが苦し気に呼吸をしていること
に気が付いた。
﹁ラティナ⋮⋮っ﹂
﹁プラティナを寝台へと運びたい。手を貸してはくれまいか﹂
剣を放り捨てる勢いで床へと落とし、デイルはラティナを抱き締
めた。ようやく、ようやく腕の中に取り戻した彼女は、記憶の中よ
りもだいぶ痩せ細っていた。
フリソスは、デイルにラティナを預けると、当然のようにデイル
に背を向け、彼を先導して歩き出した。ラティナと同じ白金色の髪
がデイルの前で靡く。
かつてラティナが戴いていたものと同じ、黒い巻き角には、金銀
の細工と色石が輝く見事な装飾品が掛けられていた。だがそれより
も、艶やかな角が持つ、光を含む煌めきこそが美しかった。
1086
やがて、先程の離宮の前へと戻ると、デイルはそこに涼やかな風
が通っていることに気が付いた。頭に血ののぼった自分は色々と視
野が狭くなっていたようだが、この美しい宮は、ずいぶんと過ごし
やすく造られているらしい。
それは、療養にも適しているということだろう。
寝台へとラティナを寝かせると、フリソスが寝台の隅に腰掛け、
ラティナの額へと手を伸ばす。周囲の空気が明らかに別のものへと
変わり、苦し気だったラティナの呼吸が安定した。
そこでフリソスは改めてデイルを真っ直ぐに見た。
ラティナよりも少し気の強そうな表情をしていると、デイルは、
反射的に感じた。金色の眸は、魔力形質によるものだろう。﹁魔力
が多くない﹂と言っていたラティナとは異なり、保有魔力量が多い
ということだろうか。
珍しいことではあるが、魔力形質は遺伝とは関係なく現れる現象
だ。双子に同じく現れるとは限らない。二人の眸の色の差異は、そ
の為だろうと、ぼんやりと考えた。
状況に理解が追い付かなくて、どうしても思考が纏まらず、間の
抜けた反応になってしまう。
さっきまで自分を焼き尽くすようだった感情が、全くの見当違い
のものだと悟って、混乱状態が治まらない。
ラティナが、油断しきった姿を見せている相手が、眼前の女性で
あるならば仕方がない。
この甘えん坊の天然娘は、姉−−双子でも、ラティナはどう考え
ても末っ子気質の甘えん坊だと、半ば断定してしまう−−相手に甘
えきってしまうに違いない。
1087
そう自分の感情と折り合いをつけようとしているデイルの前で、
フリソスは口を開いた。
プラティナ
はらから
ラティナと似た、それでもラティナよりも静かで低い響きの声が、
デイルの元へと届く。
フリソス
﹁余は﹃黄金﹄。ここなる﹃白金﹄の同胞にして、﹃一の魔王﹄の
資格を有する者だ﹂
﹁プラティナ⋮⋮﹂
魔人族は、幼子に愛称で名を呼ばせるのだと、かつて耳にしたこ
とを思い出す。﹃ラティナ﹄というのも、愛称だったのかと理解し
た。
﹁ラティナは⋮⋮一度も、双子の姉妹がいるだなんて⋮⋮﹂
デイルは、過去一度だけ気に掛かったことがあった。
幼いラティナに﹃友だち﹄について問われた時のことだ。彼女は
﹁一緒に遊ぶ子どもはいなかったのか﹂というデイルの問いに対し、
﹁かぞく﹂と答えたのだ。それでもその後、兄弟姉妹はいないと答
えた。だから語彙の少ないラティナとの、意志の疎通の問題だろう
と、納得してしまった。
そして何よりもデイルが疑問に思っていたのは、ラティナが﹃父
親と共に在ったこと﹄だった。
魔人族の女性グラロスに教えられた魔人族の習慣では、魔人族の
子どもは母親の元で育てられる。完全な母系社会の筈だった。なら
ば何故、故郷を追放されるラティナと共に故郷を出たのが、母親で
はなかったのだろうかと疑問に思っていた。
ラティナの母親には、両親には、守るべき子どもがもう一人いた。
それが答えだった。
﹁プラティナは、余を護る為、そして自らの身を護る為に、余のこ
とを語ることを禁じられておった﹂
1088
﹁護る為⋮⋮?﹂
﹁余の先代、先の﹃一の魔王﹄が殺められたことは、知っておるか
?﹂
﹁あ⋮⋮ああ、﹃二の魔王﹄に、殺されたと⋮⋮﹂
デイルの答えに小さく頷き、フリソスは言葉を継いだ。その間も、
指先でラティナの角のあたりを優しく撫でている。
フリソス
ラティナが自分のそこを撫でる感覚に、フリソスの名を呼んだ理
由がわかった。この場所で、自分にそうやって触れる相手が﹃姉﹄
に限られていたからだ。デイルがいる可能性は、ラティナにとって
は予想の外にあった。改めて考えれば仕方がない。
﹁先代が殺められたのは、この神殿の中だ。そして、先代だけでは
なく、その後生まれた﹃一の魔王の候補者﹄もまた、﹃二の魔王﹄
に殺められた。内通者がおるのだろう。余の二親は、それを何より
危惧しておった﹂
﹁警備は⋮⋮﹂
侵入したデイルが言うのも何だが、まともな警備が敷かれている
ようには感じられなかった。不自然だとは思ったが、自分の侵入に
気付かれる理由がわからない。
﹁プラティナになついておる幻獣が教えてくれた。其方が来ること
はな﹂
﹁⋮⋮ヴィント⋮⋮﹂
該当する幻獣が﹃誰﹄なのか、直ぐに理解した。
ハーゲルが時折微妙な反応をする筈だ。ハーゲルは、我が仔が此
処にいることを察していたに違いない。
﹁誰の血を流させるつもりもなかった。それに其方は、余が誰であ
るのかがわかれば、決して傷つける真似はするまいと思っておった
よ﹂
初対面の相手に断言されると、デイルとしては不本意だった。
1089
だが確かに、今、フリソス相手に、敵意を維持出来るかと問われ
ると、微妙だ。
フリソスは、あまりにラティナと似すぎている。
可愛くて、大好きな、愛するラティナと同じ顔だというだけで、
どうしようもなく、害意が削がれてしまう。
明らかな敵だと認識出来れば、話はまた別なのだが、ラティナが
フリソスを大切に思っている姿を見てしまった。そしてフリソスも
また、ラティナを大切に扱っている。
それでも尚、フリソスに刃を向ける事は、デイルには難しい。
︵実力では圧倒できるが⋮⋮殺れる気はしない⋮⋮俺、負けるんじ
ゃねぇか⋮⋮︶
そんな残念クオリティを思い出せる程度には、デイルは急速に、
平時の自分を取り戻しつつあった。
﹁余とプラティナは、神殿の奥で、秘密裏に育てられた。余が﹃一
の魔王﹄となると予言で確定された時を同じくして、プラティナが
受けた予言は、﹃災い﹄と呼ばれるべきものではあった。それでも
その予言を受け入れ、プラティナを罪人とすることに余の二親が同
意したのは⋮⋮﹂
フリソスはそう言って、労るように折れてしまったラティナの角
に触れる。根元しか残らないラティナの角は、フリソスと同じ輝き
を持つ漆黒のものだった。
﹁それがプラティナを、この国の外に出すことに最も自然であった
からだ﹂
﹁罪人は⋮⋮追放される⋮⋮﹂
﹁そうだ。⋮⋮双子は、魔人族にとって吉事であるが、非常に珍し
い。﹃二の魔王﹄に、余の同胞たるプラティナの存在を悟られれば
⋮⋮﹂
フリソスの表情はそこで翳った。
﹁プラティナは、余を弄ぶ為の玩具として、連れ去られる。稀代の
1090
巫女姫はそう予言を下したよ﹂
﹃二の魔王﹄が、次の﹃一の魔王﹄を新たに付け狙う予想は簡単に
出来た。そこに珍しい双子の妹の存在を知られれば、﹃二の魔王﹄
は、間違いなく彼女を狙う。
最も効果的に、﹃一の魔王﹄を弄ぶ為に、血を分けた姉妹での殺
し合いを演出するかもしれない。ただ殺されるよりも酷い目に合わ
されることだろう。
魔力形質と共に、強大な魔力を継ぐこともなかったラティナは、
フリソスよりも自らの身を守る術も持たない。彼女たちの両親は、
そんな自分たちの娘を引き離し隠すことを選んだ。そうすればそれ
だけで、﹃双子﹄という事実はわかり難くなる。魔人族にとって、
それほど﹃双子﹄というのは珍しい存在だった。
﹁だから、プラティナは余のことを誰にも語らなかった。余とプラ
ティナが、同胞であることを誰にも知られぬこと。それが遠き地に
いる余を護る為に、プラティナが出来る唯一のことであったからだ﹂
﹃二の魔王﹄の眷属や内通者が、何処にいるのかはわからない。
いくら信頼出来る相手でも、情報は何処から漏れるかはわからな
い。秘密を知る者は、極力少ない方が良い。
幼い頃から利発だったラティナは、両親の教えを理解し、しかと
それを守った。
大切なフリソスを護りたいから、デイルにさえも、その秘密を抱
えたのだった。
ラティナにとって、自分に出来ることは、それだけであったから。
そしてそれが、彼女にとって、最後に家族と交わした約束となった
からだった。
1091
黄金の王と、白金の勇者。︵後︶︵後書き︶
14話﹃ちいさな娘、ほんの少しだけ過去を語る。﹄で、デイルが
した説明をご覧下されば、﹃娘﹄が嘘をついた訳ではないことがわ
かるかと存じます。
また、今までのフリソス登場シーンとフリソスがらみの感想返信に
当方の苦労が滲んでおります。
1092
青年、黄金の王と。
幼い頃のフリソスとラティナは、それこそ何処で何をするのも一
緒だった。
神殿の奥に秘匿されて、信頼出来る限られた者のみとしか接触す
ることのない毎日。狭い小さな世界が全てだった姉妹にとって、物
心付く前から共に在るお互いは、何に代えることも出来ない存在だ
った。
だから、フリソスは、王と成るべく全力を尽くした。
追放することでしか護れなかった双子の妹を取り戻す為に、今度
こそ自分の力で護る為に、努力を重ねた。
﹁ヴァスィリオには、何処に﹃二の魔王﹄の眷属が紛れているかも
わからない。だから魔人族の少ない人間族の土地に、プラティナを
逃がしたのだと思うておった⋮⋮余が表立って配下に命を下せるよ
うになったのは、﹃一の魔王﹄として即位した後。プラティナを案
じておっても、余にはどうしようもなかった﹂
フリソスの言葉には、切ない程のラティナへの思いが籠められて
いた。
﹁ラティナは⋮⋮何故、此処にいるんだ?﹂
自分の隣から、唐突に姿を消したラティナ。本来ならば最初に抱
くべき疑問にようやく思い至って、デイルはフリソスに問い掛けた。
﹁プラティナは⋮⋮﹃八の魔王﹄は、全ての魔王からなる呪によっ
て封じられた﹂
デイルに答えるフリソスは、そして微妙な表情をした。
そういった顔をすると、本当にこの姉妹は似ていると思う。
1093
﹁プラティナは、その封印が、僅かに綻んだといって⋮⋮自力で抜
け出たようだ﹂
﹁⋮⋮そういうことって、出来るものなのか?﹂
﹁本来ならば有り得ぬことだ﹂
どこか憮然とフリソスは答えたが、デイルの妙な表情に気付き、
更に微妙な表情になった。
﹁⋮⋮プラティナは、何ぞ⋮⋮してきたのか?﹂
﹁いや⋮⋮ラティナなら、そういうことも、あるかなぁ⋮⋮って⋮
⋮﹂
﹁プラティナ⋮⋮﹂
﹁ずっと⋮⋮俺は、ラティナを見てきた訳だが⋮⋮驚かされぱなし
フリソス
だったからなぁ⋮⋮﹂
フリソス
どうやら実の姉から見ても、ラティナは規格外の行動を取ってい
デイル
るらしい。
﹃育ての親﹄と﹃実の姉﹄との間で、何か通じ合うものを感じてし
まった。
﹁とはいえ、プラティナを縛る呪が、完全に解けた訳ではない﹂
フリソスはそう言葉を継いだ。
﹁プラティナは今、ひどく不安定な状態だ。プラティナは余の力で、
辛うじて安定を保っている﹂
そうしてフリソスは、安堵が籠った微笑みを浮かべた。
﹁余とプラティナが﹃限りなく似ておる﹄事が、幸いと成った。他
の者なれば、不可能であっただろう。プラティナは無意識だったろ
うが⋮⋮余の元に来てくれて、本当に良かった﹂
フリソスが﹃一の魔王﹄という、神の末席としての力を操るに長
けた存在とはいえ、本来は他人の失われた力の代行をすることなど
出来はしない。
だがフリソスは、ラティナと自分が、﹃他の魔王﹄たちとは異な
1094
ることに気が付いていた。
魔王のみが認識出来る﹃玉座﹄の空間で、他の魔王のことは、存
在を感じる事が出来ても、姿を見ることは出来なかった。
それなのに、フリソスとラティナは、互いに互いを﹃見る﹄事が
出来たのだ。
魔人族では生まれることも珍しい双子が、共に魔王と成ることが、
どれだけ低い確率であるのかなど、考えるまでもない。
そんな自分たちは、前例のない存在なのだろう。
深い理由などは、どうでも良かった。
唯一の同胞たる彼女を救えるのならば。
﹁余は、これほどにプラティナを愛しく思うておったというのに、
プラティナは其方を選んだ﹂
急にフリソスにそんなことを言われて、デイルは内心で焦った。
ラティナのように頬を膨らませることはなかったが、じっと睨む
ような金の眸に、落ち着かない気分にさせられた。
﹁余の元には、帰れないなどと言いおる﹂
﹁ラ⋮⋮ラティナが﹂
デイルは、ちょっとどころではなく嬉しかったが、表情をにやけ
させてしまうと、フリソスに更に睨まれそうだったので精一杯に引
き締めた。
﹁余からプラティナを奪うなど、許せぬ﹂
﹁そんなこと言っても⋮⋮﹂
そう言い掛けたデイルは、かつて聞いた話を思い出した。
﹃魔人族﹄には﹃婚姻﹄という習慣がないのだ。
ラティナが自分と結婚するから共にいるということを、眼前のフ
リソスにどうやって伝えたのだろうか。伝えられたとしても、フリ
ソスはそれを理解することが出来たのだろうか。
人間族が魔人族の習慣をほとんど知らないように、魔人族も人間
1095
・
族の習慣をほとんど知らないだろう。
・
最愛の妹姫を奪われてたまるかと、デイルに不機嫌そうな目を向
けたフリソスは、毛を逆立てた猫を思い出させる。
何だか、そういう雰囲気もラティナと似ていた。
そんな風に、ラティナとの相似を見つけてしまう為か、デイルは
初対面で一国の王であるフリソスを相手に、すっかり自分を取り繕
うことを忘れていた。
剣を突きつけて切りつけたことも考えれば、今更でもあるのだが、
デイルは本来、場に応じて礼儀を弁える人間である。
それなのに素の自分で接してしまうのは、自然にラティナと似た
フリソス相手に気を緩めている証拠だった。
﹁ラティナの封印は、解けないのか?﹂
デイルは、フリソスに疑問を向けた。
﹁封印は﹃全ての魔王の認証﹄の元、構築された﹂
答えながらフリソスは、眠るラティナの頭を優しく撫で続けてい
る。
﹁余は、其方が我等以外の﹃魔王﹄を討つのを待っておった﹂
そう微笑むフリソスには、ラティナには無い非情さが微かに覗い
た。
﹁今、存在する﹃魔王﹄は、余とプラティナだけだ﹂
その冷たさは、ラティナとは異なり、自分の目的の為には犠牲を
払うことを厭わぬという気配を感じさせる。
﹃一の魔王﹄という王の資格は、ラティナではなく、フリソスが得
たものだということを納得する気がした。
そしてそれと同種のものは、デイルも有しているものだった。
1096
ことわり
ことわり
﹁全てを解くことは難しいやもしれぬ。だが、余は、理の初めたる
﹃一の魔王﹄。そしてプラティナは理の外にして終わりたる﹃八の
魔王﹄⋮⋮我等二人の力以てば、呪を変質させることは出来るだろ
う﹂
﹁⋮⋮俺が、他の魔王を排除することを待っていたのか﹂
﹁最低でも、﹃二の魔王﹄が排されなくては、余自身も、プラティ
ナも表に出ることは出来ぬ。其方のように﹃災厄﹄に易々と対峙す
ることなど、通常は出来ぬのだ﹂
フリソスは呆れたようにため息をついた。
﹁プラティナのように、﹃勇者﹄を眷属とし⋮⋮大きな力を与える
など⋮⋮そのような対抗手段は本来講じられぬ﹂
﹁あ﹂
思わず出たデイルの声に、フリソスが訝しげな顔をする。
﹁如何した?﹂
﹁いや⋮⋮﹂
そこでデイル自身も、気付いた。
︵ラティナ⋮⋮俺が、﹃勇者﹄の能力者だって⋮⋮知らねぇんじゃ
⋮⋮︶
それだけでなく、デイルが通常の眷属以上の力を持たされている
ことすら、あの天然娘は気付いていないかもしれない。
それを、フリソスに伝えるべきだろうかと考えると、なんだか変
な汗が出てきた。
﹁⋮⋮今代の﹃二の魔王﹄を討つ為に、余は⋮⋮この国は多くの犠
牲を払ってきた。いくら愛しいプラティナの為とはいえど⋮⋮それ
いたいけ
だけは余が、後世の為に果たさねばならぬことだった﹂
幼気な愛らしい姿をした魔王を、デイルは思い出す。
今の自分だからこそ圧倒出来たが、それは魔族となったからこそ
1097
の結果だった。
そして﹃魔人族﹄の元には﹃勇者﹄は、存在しない。
﹃二の魔王﹄が、魔人族を標的と定めた時、それを止めることの出
来る存在は、他の﹃魔王﹄しかいないことになる。
フリソスは魔術に長けているようだったが、デイルは、﹃二の魔
王﹄と戦うことになったら敗北することになるだろうと、見て取っ
た。近接戦闘に長けるデイルから見ても、それだけあの﹃災厄﹄は、
殺す術に長けていた。
フリソスは、先代を屠られた時からのヴァスィリオの悲願を、果
たさねばならない立場にあった。
﹁﹃勇者﹄が、我等が悲願を果たしてくれるならば、その機を逃す
理由はない﹂
﹁そういうことかよ⋮⋮﹂
冷静さを取り戻した頭が、状態を把握していく。
今にして思えば、恐らくグレゴールも不自然さを理解していたの
だろう。
﹃二の魔王﹄を討った直後に、ラティナがこの場にいることを自分
が知ることになったことも、情報が調整されていた結果だった筈だ。
ヴァスィリオと国交を拓くという重大な事項に、ラーバンド国宰
相たる公爵閣下が関わっていない筈がない。
﹁⋮⋮﹃二の魔王﹄の元で、俺は⋮⋮紫の髪の高位の神官に逢った﹂
﹁そうか﹂
・
・
デイルの漏らした言葉に、フリソスはあまり感情の籠らない声で
応じた。
﹁その神官は⋮⋮俺が⋮⋮﹂
﹁稀代の巫女姫は、全てを知っている上で、﹃二の魔王﹄の元に赴
いた﹂
デイルの言葉を遮るように口を開いたフリソスは、金の眸を微か
1098
に揺らしていた。感情を感じさせないのではなく、自分の感情を隠
す術に長けているのだと、デイルはフリソスを理解する。
自分の感情を素直にあらわすラティナと、一国の王としての決断
を強いられるフリソスの、それは大きな差だった。
フリソス
﹁余に、何人たりとも揺るがされぬ力があれば、必要のなかったこ
と﹂
モヴ
母は、我が子を守る為にその身を差し出した。
・
・
フリソスが、王として立つことの出来る時間を得る為に。自分の
願う未来の先で、娘たちを脅かす災厄を払う﹃勇者﹄の案内人とな
るために。
﹁本来ならば、余が果たすべきことであった。⋮⋮其方には、感謝
しておる﹂
金の眸に、薄く膜が張り、揺らめきが大きくなる。
灰色の眸の彼女ならば、とうに大粒の涙を溢すところなのに、フ
リソスは声を震わせることもなかった。
それでも、彼女に何の感情がないということはない。デイルはラ
ティナをよく知るからこそ、フリソスが、自らの感情を耐えている
ことを察することが出来た。
﹁其方は、救ってくれたのだ﹂
フリソスの赦しの言葉に、デイルは自分がしてきたことが、少し
だけ報われるような思いを感じていた。
1099
くろ
白金 、そして黄金。
しろ
全ての光と全ての色で構築させた世界。
その中でラティナは、周囲を見渡していた。
本来ならば、自分が座るべき﹃玉座﹄の上では、大切な宝石細工
の腕輪が寂しげに光を放っている。
そこでラティナは、自分がいる場所が、﹃本来の自分の玉座﹄で
フリソス⋮⋮
﹂
はないことに気が付いた。
﹁
如何した?
﹂
﹁
優しい声がすぐ背後から聞こえる。
視線を後ろに向けて、自分とよく似た顔のひとを見る。長い時間
・
離れていたけれど、一目でわかった。他人と見間違える筈のない、
私⋮⋮ずっと、フリソスと会いたかったんだよ
生まれる前から共に居た、大切な存在だった。
﹁
余もだ
﹂
﹁
フリソス⋮⋮あのね⋮⋮ラグは⋮⋮私を守って旅をする間に、
﹂
﹁
﹂
・
・
﹂
﹂
そうなるだろうと⋮⋮モヴも、言っていた。⋮⋮ラグもモヴも
身体を壊して⋮⋮
﹁
・
じゃあ⋮⋮やっぱり⋮⋮モヴも⋮⋮?
・
全てを納得した上で、我等の先行きを案じてくれたのだ
﹁
⋮⋮余には、もう⋮⋮其方しかおらんのだ⋮⋮
﹂
震えたラティナの声に、フリソスは妹をその腕に抱いた。
﹁
フリソス⋮⋮
﹂
﹁
再会した時は、互いの状況を語る余裕がなかった。ヴァスイリオ
に辿り着いた後も、ラティナが、満足に意識を保っていられなかっ
た為に、ゆっくりと会話をすることは出来なかった。
1100
﹂
ようやくに交わせた会話の中で、ラティナはつい先ほど再会する
あのね、フリソス⋮⋮デイルは、私を救ってくれたひとなの
ことが出来た愛するひとの名を口にする。
﹁
フリソスが自分にとって大切な存在だからこそ、ラティナは、今
﹂
私は、デイルに救われて、共に過ごして⋮⋮デイルを好きにな
度もフリソスに、自分の思いを真っ直ぐに伝えようと思った。
﹁
ったの
ラティナにとって、フリソスとは全く違うところに、デイルへの
想いはあった。
諦めることも出来ず、﹃魔王﹄としての力すら求めてしまった想
﹂
フリソスのことは、大切なの。でも私は、これからもデイルと
い。それはラティナにとって、自分自身の根幹をなす想いだった。
﹁
共に在りたい⋮⋮デイルと一緒にいたいの
フリソスは妹の髪に頬擦りするような仕草をすると、溜め息を付
ならば、先ずは其方を自由にせねばならぬ
いた。認めたくないラティナの言葉に、返答を避けることを選ぶ。
﹁
フリソス⋮⋮
﹂
﹂
﹁
それが、モヴとラグの願いでもあるのだから
﹂
﹁
七つ並んだ﹃玉座﹄の上に、もはや気配は他にはない。
それも束の間の事だろう。﹃玉座﹄が空けば、次に資格ある者が
現れれば、﹃魔王﹄としてその座に着くこととなる。
それが何時になるかは、予測出来ない。
フリソスがラティナを自由にする為に、使える猶予がどれほどな
のかはわからなかった。
血塗られた刃は砕かれ、水瓶は割れた。樹は大きく裂け、書物は
焦げ、大剣は折られた。王を表す記章の旗は、原型がわからぬ程に
引き裂かれている。
1101
﹂
私が眠っていたうちに⋮⋮何
唯一主を有する﹃玉座﹄の上で、フリソスは、自らの象徴でもあ
フリソス⋮⋮何が起こったの?
る王笏を握る手に力を込めた。
﹁
﹂
全ては、其方が目覚めてからだ
が起こってしまったの?
﹁
不安そうに言うラティナをもう一度抱き締めて、フリソスは身体
を離した。トンと、突き放すようにした一瞬の衝撃で、ラティナは
﹃自らの玉座﹄の上にいた。
其方の封印を解く。やれるな、プラティナ
﹂
﹁
え⋮⋮
﹂
﹁
無理に封印の隙間を破る程に、己の力を制御出来る其方ならば、
﹂
﹁
﹂
フリソス⋮⋮
成せる筈だ
﹁
それでも不安そうなラティナに、厳しさのある毅然とした顔を向
余に合わせよ、プラティナ
﹂
けて、フリソスは王笏を掲げる。
﹁
かつて、﹃八の魔王﹄たるラティナを封じた時よりも、魔王とし
ての力を複雑に操っていく。
力操る術に長けた﹃一の魔王﹄だからこそ出来るという、自負の
ある複雑な術法に応えるように、戸惑うラティナが自らの﹃玉座﹄
に在る自分の力を繰る。
﹃災厄﹄以外の魔王が討たれることを、フリソスが静観した理由が
これだった。
封印を解く正規の手段たる﹃全ての魔王の同意﹄が得られない以
上、条件の隙間を縫うような歪なかたちで、ラティナの封印を解く
ことになることはわかっていた。
それには、封印を成す時よりも、遥かに高度で繊細な力の制御が
1102
必要となる。ラティナひとりならば、自分の補助で導くことも出来
ようが、他の魔王は不安要素としかならなかった。
フリソスは、自分が、求めるものの為ならば、他を切り捨てる冷
酷さを持っていることを否定していない。
本来ならば、国家元首という公人として使うその資質を、フリソ
スは今回は私人として用いた。
一度は公人として切り捨てた最愛の自分の半身を、今度こそ救う
為に、他の者を切り捨てた。
初めは戸惑っていたラティナが、そのうちに、フリソスに導かれ
るままに、巧みに自分の力を行使ようになるまで、そう時間はかか
らなかった。
フリソスが驚く程に、ラティナは﹃力を繰る技術﹄に優れていた。
遠い記憶の中、父親であるスマラグディから、初めて魔術の基礎
を学んだ時のことを思い出す。魔力の制御がなかなか理解出来なく
て悩む自分の隣で、ラティナはあっさりと魔力を繰ってみせた。
膨大な魔力を母親から受け継いだ自分のように、ラティナは天才
的な魔力制御を父親から受け継いだのだと、二親たちは笑っていた。
自分たち双子は、瓜二つであるようで、眸の色のように様々なも
のが異なっていた。
それは、﹃魔王﹄としての性質にも表れている。
﹃王となる﹄という予言を受けて、生まれた自分たちが双子であっ
たことに、ヴァスイリオの神殿に在るものたちは、大いに混乱した
という。﹃八の魔王﹄は、存在をほとんど知られていない。それ故、
たった一つだと思われていた﹃魔王の座﹄に対して、候補者が二人
となれば、混乱も致し方ない状況だった。
ただ、出生率が低く、子どもの誕生を重んじるヴァスイリオでは、
双子の誕生は慶事とされていた。
1103
だからフリソスとラティナの二人は、二人共に神殿の奥に秘匿さ
れたのだった。
結果として予言は成った。
フリソスもラティナも、共に﹃魔王﹄と成った。
だがそれは、全く異なる条件を満たした結果だった。
魔人族という民を率いる王。文字通りの魔王であり、公人として
の立場を重んじ、非情さも資質として求められる﹃一の魔王﹄と成
ったフリソス。
自らの民ではなく、他の民へと心を向け、魔王という存在を否定
することも辞さぬ存在。魔王でありながら、最も魔王という存在と
遠い存在である﹃八の魔王﹄となったラティナ。
全く異なる自分たちだが、同じ−−限りなく似た存在であるから
・
・
・
・
こそ、出来ることもあった。
︵だからこそ、今、ラティナを救える︶
﹃魔王の力﹄という不可視のものの発動だというのに、二人の間に
流れる力場は、まるで定められた譜面を奏でるように響きあってい
た。
美しく完成された芸術のように、構築された互いの術式に、フリ
ソスは成功を悟って安堵に表情を優しげに緩めたのだった。
−−目を開くと、すっかり見慣れてしまった離宮の天井が視界に
入った。
無意識に大きく呼吸をして、新鮮な酸素に肺が喜ぶ感覚に少し驚
いた。弱ってしまった身体は、ずいぶんと重く感じられるが、動か
すこともままならない今までとは、明らかに違う。
﹁ふぁ⋮⋮﹂
1104
吐息を漏らすと、自分が目覚めたことに気が付いた隣にいた人び
とが、安堵の息を吐いた。
﹁ラティナ⋮⋮っ﹂
﹁プラティナ﹂
デイルとフリソスの姿に、ラティナは微笑みで応えた。
﹁デイル⋮⋮リッソ⋮⋮﹂
微笑むラティナの手首で、草花の意匠の腕輪が光を反射して煌め
いた。
1105
青年、白金の娘と自らの想い。
フリソスがラティナの封印を解く為に、自らの意識を﹃玉座﹄の
もとへと向けていた間、デイルは自分の無力さに歯噛みする思いだ
った。
魔族としての強大な力を得ても、﹃魔王﹄ではない自分ではどう
することも出来ない事実に苦しくなる。
頭では理解している。
出来ることと出来ないことは、必ず誰にでも存在しているし、そ
れぞれに役割というものはあるのだろう。
それでも、祈ることしか出来ぬことは、待つしか出来ぬことは、
酷く苦しい。
︵だから俺は⋮⋮全てを薙ぎ払っても、剣で成せるなら⋮⋮そうす
ることを選んだんだな⋮⋮︶
デイルは、ラティナとフリソスに視線を向けた。ラティナを抱き
締めたい衝動も、自分の余計な干渉が不確定要素となるとフリソス
に言われれば、耐えることしか出来なかった。
寝台の上に並ぶ二人の姉妹は、不安に揺れるデイルから見ても、
嘆息する程に美しい。
上質なシーツの上に広がる白金の髪は、光を優しく含んで輝きを
放っており、改めて見れば少し体型の異なる二人の肢体は、それぞ
れに柔らかな曲線を描いている。
二人の最大の違いである眸の色は、今は見えない。
︵プラティナ⋮⋮白金と、フリソス⋮⋮黄金⋮⋮か、二人の名も対
になっていたんだな︶
フリソスと言葉を交わしたのは短い時間だが、ラティナを預ける
1106
ことに不安を抱かないでいられる程には、彼女が妹姫であるラティ
ナを大切に思っていることがよくわかった。
﹃一の魔王﹄として、ラティナを封じたことに憤りがないかと自問
すると、複雑にはなる。
それでも、今は、フリソスを斬らなくて良かったと思えた。
先に目を覚ましたのはフリソスだった。
﹁⋮⋮っ!﹂
﹁そのような顔をせずとも、余が仕損じる筈などなかろう﹂
根拠の無い虚勢だろうと、フリソスの声には相手を言い含める力
があった。
フリソスは半身を起こし、ラティナの頭をそっと撫でた。
﹁全ての封印を解いたとは言えぬ。プラティナは、﹃魔王﹄として
行使できた筈の多くの力を、代償とすることになる﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
﹁それでも今のように、動くこともままならぬ状況は脱する筈だ。
他の﹃魔王﹄が再び現れ、その力を強めればプラティナは影響を受
けるやもしれぬが⋮⋮もう、命の危機には陥ることはなかろうよ﹂
フリソスの回答に、デイルもようやくに肩に入った力を抜く。ラ
ティナの頭はフリソスに独占されてしまった為に、彼女の手をそっ
と取った。
いつも繋いで歩いた手。この手を再び取る事が出来た安堵に、息
苦しさすら覚えた。
フリソスとデイルが見守る中、ラティナがゆっくりと眸を開いた。
ぼんやりと天井を見ていたラティナが、数度まばたきした後で、
デイルたちの姿に気付く。ふにゃらと緩んだ彼女らしい微笑みに、
デイルは震える声で彼女の名を呼んだ。
﹁ラティナ⋮⋮っ﹂
﹁プラティナ﹂
1107
フリソスの声にも、隠そうとしない喜びと安堵がある。
﹁デイル⋮⋮リッソ⋮⋮﹂
フリソスを幼い頃の愛称で呼んだラティナが、その姉のことより
も先に、自分の名を呼んだことを理解した時が、デイルの我慢の限
界だった。
﹁ラティナっ!﹂
﹁ひゃ⋮⋮ぁんっ﹂
ぎゅっと力を込めて抱き締める。常人を遥かに越えた膂力を得た
デイルだったが、それを制御出来ずに、彼女を苦しめる程に締め付
けることはなかった。
驚きの声をあげたラティナにも、不満そうな視線を向けるフリソ
スにも、引くことは出来なかった。
﹁ラティナ⋮⋮ラティナっ!﹂
﹁デイル、あのね、デイル⋮⋮﹂
困惑するようなラティナの声も、デイルは、彼女の声を聞くこと
が出来ること、そのものに喜びを感じてしまう。
﹁デイル⋮⋮あのね⋮⋮私、言わなきゃいけないこと⋮⋮謝らない
といけないこと⋮⋮﹂
﹁良いんだ﹂
声が、喉の奥に絡んだ。
微かに肩を竦めたフリソスが、寝台の上から下りる。静かに部屋
を後にするのを背中に感じて、デイルは心の中で感謝の言葉を呟い
た。
自分もラティナから離れたくないだろうに、先にその時間を譲っ
てくれたことを有り難く思う。
﹁お前が、無事に⋮⋮帰って来てくれただけで⋮⋮俺は、それで良
いんだ﹂
1108
デイルの声が震えていることに気付いて、ラティナが表情を変え
た。
戸惑いで、もがくようにしていた身体から、力を抜いてデイルの
するがままに委ねる。
﹁デイル⋮⋮﹂
ラティナは腕をデイルの背中に回し、抱き締めた。
そっと労るように、その背を撫でる。
﹁ラティナ﹂
肩を震わせるデイルの姿に、ラティナは言葉を呑み込んで、唇を
噛んだ。
ラティナは−−デイルが涙を流す姿を初めて見た。
デイルはいつも、泣き虫の自分を、抱き締めて慰めてくれる側だ
った。
ラティナは、こみあげてきた﹃苦しいもの﹄を必死に呑み込んだ。
それは自分自身が泣く時よりも、辛くて苦しい﹃もの﹄だった。
言うべき言葉が見付からない。いつもデイルがしてくれたように
したいと思うのに、どうすれば良いのかわからなかった。
﹁デイル⋮⋮ごめんなさい⋮⋮ごめんなさい⋮⋮﹂
﹁っ⋮⋮!﹂
自分の肩に感じる、濡れた感覚に、押し付けられたデイルの顔か
ら熱いものが溢れていることを理解する。ラティナがなんとか口に
した謝罪の言葉に、デイルは微かに首を振った。
﹁護れないことが、何より、怖い⋮⋮お願いだから、護らせてくれ
⋮⋮俺に、何もさせない苦しみを、味わさせないで、くれ⋮⋮っ﹂
息が苦しい。
強く抱き締められていることよりも、胸を締め付けることに、ラ
ティナは自分のしてしまったことを悟って、喘いだ。
1109
﹁ごめんなさい⋮⋮﹂
ラティナには、他の言葉が見付からなかった。
零れそうな涙を堪える。今、泣いて良いのは自分ではないと思っ
た。
﹁ごめんなさい⋮⋮﹂
もう何の言葉もなく、ただ自分を抱き締めるデイルを、ラティナ
は背を撫で、労ることしか出来なかった。
やがて顔を上げたデイルは、赤くした目以外には、泣いていたこ
とすら隠すように微笑んだ。
剣を振るい、魔王を屠り続けた時の、狂気を含んだ冷酷さはその
表情にはない。
ラティナも、デイルに応じて微笑んだ。
それは、心の底からの笑みとは言えないものだった。ラティナは、
自分がしてしまったことの一端を理解して、内心をざわめかしてい
た。胸の中が苦しくて、涙が零れそうだった。
それでも、今、自分が出来ることは、彼の為に微笑むことだけだ
とラティナは思った。デイルがそれを望んでくれることがわかるか
ら、自分に出来ることで応じなくてはと、思った。
﹁デイル⋮⋮﹂
何度繰り返しても、決して足りることのない謝罪の言葉以外のも
のを探す。デイルの為に自分が言うべき言葉は、きっとそうではな
い。
﹁会いたかった⋮⋮﹂
﹁俺も会いたかったよ、ラティナ﹂
決して自分を責めようとはしないデイルは、自分が謝罪すること
も望んでいないのだと、ラティナは涙を必死で堪える。
︵私は、間違えてばかりだ⋮⋮どうして、うまく出来ないのかな⋮
⋮︶
1110
そう、自責しているラティナの煩懊を感じとりながらも、もうデ
イルには全てがどうでも良かった。
彼女を腕の中に取り戻して、つくづく思う。
魔王たちを屠ってきたことも、﹃災厄﹄により大きな打撃を受け
た世界情勢も、全てがどうでも良かった。
大切な愛しい存在の前では、些末なことだと、切り捨てることを
自分の心は許容している。元々抱いてきた自分の心境を、彼女を﹃
主﹄とする﹃唯一の眷属﹄としての在り方が肯定する。
彼女ではなく、自分自身で、そう定めてしまった。
彼女を全てに於て最優先して良いのだと、自分の背中を押す理由
として、左手の証は何よりの免罪符だった。
だから、良いのだ。
﹁ラティナ⋮⋮本当に、良かった。⋮⋮もう、勝手に、何処かに行
かないでくれよ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮うん。デイル⋮⋮﹂
ラティナが自分の腕の中で、微笑んでくれる。それだけで全てが
報われる。自分にとって当たり前だったぬくもりが戻ってきたこと
は、自分の何よりの望みだった。
︵私⋮⋮きっと、たくさん⋮⋮自分で思っているよりも⋮⋮間違え
ちゃったんだ⋮⋮︶
ぎゅっと手首の腕輪を掴んで、自分の罪に思いを馳せて震えるラ
ティナのことも、責める気はなかった。
責められる方が、場合によっては楽になると−−わかっていても、
そうするつもりはなかったのだった。
1111
青年、白金の娘と自らの想い。︵後書き︶
皆さまのお蔭をもちまして、明日22日、書籍版四巻発売日です。
次回から通常通り、毎土曜日の投稿に戻ります。
1112
青年、ほぼ通常仕様に戻る。︵前書き︶
気付いたら150話です。皆さまいつもお付き合い下さり、誠にあ
りがとうございます。
1113
青年、ほぼ通常仕様に戻る。
デイルは、ラティナを抱き締める腕は緩めぬまま、視線だけを部
屋の入り口の方へと向けた。
本当は、ラティナ以外の何物も、自分の視界に入れたくはない心
境ではあるのだが、彼女の安全を思えば仕方がない。
出入口は扉がなく、薄布が風に揺れるだけとなっている。それは、
暑いこの土地に適応した造りとなっているのだろう。
先ほどまでは、ひとの気配がほとんどなかったこの場に、今は複
数の気配が動いている。
︵ひとり、ふたり⋮⋮敵意は無い、な。後は⋮⋮あれはフリソスか︶
気配だけを辿っても、フリソスのことはすぐにわかった。彼女は
改めて気配を探れば、それもまた、ラティナと似たものを纏ってい
る。
−−似ているとはいえ、無論ラティナのことは、誰とも間違える
つもりはなかったが。
デイルは、フリソスが従えていることから考えて、他の気配が侍
女であろうと推測する。
︵後宮みてぇな建物の位置関係だったし⋮⋮女王の生活空間と隣接
してるんだ⋮⋮衛士がいるにせよ、男の出入りは制限されるだろう
からなぁ⋮⋮︶
まごうことない侵入者である自分の事は、棚に上げて考える。
︵そう考えりゃ⋮⋮ラティナは安全な場所に隔離されてたんだなぁ︶
こんな可愛いラティナが、弱った姿で無防備に眠っているのだ。
もう、庇護欲を煽りまくるに決まっている。それだけならまだしも、
滅茶苦茶にしてしまいたい欲望に火を付けてしまっても致し方ない。
1114
けれども、今は我慢だ。
長く具合を悪くした結果、少し痩せてしまったラティナの身体は、
最高だった抱き心地を損ねてしまっている。痛々しくて、辛い。
甘やかして、甘やかして、甘やかそう。
療養させて、たっぷり一緒に過ごそう。もう、べったでたで過ご
そう。
そういえば、纏う香りが少し異なる。いつも使っている香油と違
うのだろうか。でも、やっぱり彼女は良い匂いがした。
ざんねん モード
そんなことを考えるデイルは、すっかり通常仕様に戻っていた。
ラティナを幼い頃にしていたように自分の膝にのせ、横抱きにし
て腕の中に収める。髪の匂いを嗅ぐついでに、肩のあたりに顔を埋
め、唇を押し当てた。
凄く癒された。ぬくもりとアロマのダブル効果はてきめんだった。
本気で、何もかもがどうでも良くなってきた。
このまま寝台に二人で転がって、全身全霊で彼女を甘やかしたい
欲求に駆られる。とはいえ、本調子で無い彼女相手に、何処まで﹃
甘やかせる﹄かの自制心に信用が置けない。
そんな理性的な判断だけが、今のデイルを押し留めていた。
︵でも、ちょっとだけなら、良いかな⋮⋮︶
理性は風前の灯で、ぐらぐらしていた。
緊張の糸は、ぷっつりと切れていた。反動で、全力でだらだらし
たいと思ってしまう。ぶっちゃけた言い方をすれば、今はラティナ
とイチャイチャだけしていたい。
︵良いよな⋮⋮︶
と、デイルが肉食獣に通じる気配を滲ませ始めた時、入り口の向
こうから涼やかなガラスを鳴らすような音がした。
デイルが疑問に思った時、腕の中のラティナが声を上げる。
1115
﹁
﹂
疑問、かな︶
*****
︵ん⋮⋮?
ラティナが誰何した声は、呪文言語と同じものだった。﹃魔人族﹄
にとって母語であるその言葉は、魔法使いであるデイルは、使うこ
とが出来るものの、会話に於ては完璧とは言い難い。端的に単語の
意味を拾うこと程度までは可能だった。
角に細い金細工の飾りを垂らしたふたりの女性たちが入って来て、
頭を垂れる。
﹂
揃いのシンプルな衣装を着た魔人族の女性たちに、ラティナは静
*****?
かに声を掛けた。
﹁
********
﹂
﹁
﹁
**⋮⋮?
******、**************
﹂
交わされる会話を、デイルは半分も聞き取れなかった。
﹁
*************
﹂
﹁
*********
﹂
﹂
﹁
********
﹂
﹁
首を傾げたラティナは、デイルを見上げる。
﹁あのね⋮⋮ヴァスィリオでは、神殿にいるひとだけが、角に飾り
を付けているの。角の飾りを見れば、だいたい役割もわかるんだよ。
﹃魔王﹄であるフリソスと魔族のひと、後は高位の神官たちだけが、
その飾りに、複数の色を使うことが許されているから。人間族の王
様みたいに、冠は着けないんだよ﹂
単色の金細工の飾りを着ける眼前の女性たちは、やはり侍女にあ
たる女性たちであるらしい。
人間族の王侯貴族に相当する特権階級が、﹃魔王﹄とその眷属と
なるらしいと、デイルは理解する。
﹁私に、お客さんみたい。フリソスが通したってことは、ちゃんと
1116
﹂
理由があるんだろうけど⋮⋮どうしてだろう﹂
********
﹁そうか﹂
﹁
﹂
デイルに会話を通訳してから、ラティナは侍女に了承の意を告げ
**
た。
﹁
それを受けて、片方の侍女が頭を下げて部屋を出る。
残った侍女を見てから、ラティナは困った顔をデイルに向けた。
﹁デイル⋮⋮﹂
﹁なんだ?﹂
﹁お客さん、来るんだって⋮⋮﹂
﹁そうか﹂
だきしめら
﹁⋮⋮おろしてほしいんだけど⋮⋮﹂
﹁嫌だぞ﹂
膝の上でデイルに拘束されているラティナの困惑の様子にも、デ
イルは全く動じなかった。
何を言っているのかとばかりに返事をされて、ラティナはますま
す困った顔になる。
﹁あのね⋮⋮今着てるの、寝巻きなの﹂
﹁そうか。そうだよなぁ﹂
﹁着替え⋮⋮したいんだけど⋮⋮﹂
﹁そうか﹂
﹁デイル離してくれないと⋮⋮着替え⋮⋮できないの﹂
﹁そうかぁ﹂
当たり前のことを懇切丁寧に告げられても、デイルはラティナを
放そうとはしなかった。
それでもこの無防備極まり無い格好を他人に晒すことはデイルに
も出来かねた。そんな理解は出来るのだが、一秒でも、もう離れな
いと決めてしまったのだから、仕方がなかった。
1117
﹁着替えできないなら、無理じゃねぇか?﹂
﹁え⋮⋮えぇと⋮⋮﹂
﹁無理だから仕方ないよな。だから、このまま一緒に、ぎゅってし
てような﹂
一言で言うなれば、﹃激しく悪化している﹄デイルの様子に、ラ
ティナは自分のしたことの﹃罪﹄に更に戦いた。
元々、ラティナの記憶は、魔王による﹃封印﹄以降、ほとんど無
いのだ。大部分の時間を眠り続け、起きている間も、朦朧としてい
て思考するのもままならなかった。
その為、ラティナにとってのデイルとの別離の体感時間は、つい
先日からのものだった。それでもデイルの様子から、決してそれが
短いものではなかったことは察しはじめていた。
あまり感情が見えない侍女も、困惑している様子がわかる。
自分の着替えの為に、そのひとが控えていることがわかっている
ので、ラティナはおろおろと視線を泳がせた。
訪いも告げずに、そこに再びフリソスが入って来た。
﹂
頭を垂れる侍女の方に見向きもせずに、寝台の上で抱き合う二人
フリソス⋮⋮
に、据わった目を向ける。
﹁
やはり、こんなことになったか
﹂
﹁
情けない声を出すラティナにため息をついたフリソスは、人目を
憚るという言葉に全く頓着しないデイルに、低い声を向ける。
﹁プラティナを放して貰おうか﹂
﹁嫌だな﹂
﹁左様か﹂
意外にもあっさりとそう受けたフリソスは、背後を振り返る。
﹁だそうだ。入ることを許す﹂
フリソスの言葉に、ラティナは驚いた様子で更におろおろとした
1118
が、デイルは全く頓着しなかった。
だがそんなデイルも、入室してきた客人の姿に、ぎょっとしたよ
うな顔をする。
少なくとも、客人の方に意識を向けることが出来るという判断に
至る程度には、衝撃となった。
﹁ご無沙汰致しております、デイル様﹂
鮮やかな薔薇色の髪を揺らしたローゼが、静かな微笑みを浮かべ
て貴婦人らしく礼をした。
﹁ラティナさんも、無事に﹃戻られた﹄ようで何よりです。﹃黄金
の王﹄陛下には、予めご許可を頂いておりますが、プラティナ姫と
お呼びした方が宜しいのでしょうか?﹂
﹁お客さんって、ローゼさまだったんですね⋮⋮﹂
驚いた表情をしたラティナは、ローゼへと目礼をした。
きっちりと頭を下げることすら、現状ではままならないのである。
﹁フリソスは﹃王﹄だけど、私には何の権限も無いの。ヴァスィリ
オは、ラーバンド国とは違って世襲制で権力を受け継ぐ訳ではない
ので⋮⋮﹂
少し困った顔をして、ラティナは更に言葉を継いだ。
﹁公式な場では、本当の名前の方を使うべきだろうけど⋮⋮私、あ
んまりそっちの名前に慣れていないので、今まで通りの方が良いで
す﹂
﹁わかりました。では、そのように﹂
ラティナとローゼは、歳の差もあって友人というよりは姉妹のよ
うな関係になっている。それでも二人の仲が良いことには変わりな
かった。
﹁ご挨拶が遅くなってすみません、ローゼさま。久しぶりに会えて
嬉しいです。それに⋮⋮﹂
ラティナはそう言って、ローゼの後ろで使用人の如く控える妙齢
1119
の美女を見た。
﹁ヘルミネさんも、お元気そうですね⋮⋮﹂
ブロンドの髪を結い上げた碧眼の美女は、にこりと微笑むことで
ラティナの言葉に応じたのだった。
一方、苦手とする美女の急な出現に、デイルは、ほんの少しだけ
ラティナから身体を離すという行為に出た。
それでもラティナは未だデイルの膝の上であり、束縛から解放さ
れた訳ではないのであった。
1120
青年、裏側で行われていた事を知る。壱
ラティナを離そうとはしないデイルに向かい、ローゼは微笑みを
崩さなかった。
﹁デイル様﹂
﹁久し振りだな⋮⋮ローゼ。ヴァスィリオに来ていたのか﹂
﹁その事も含めてお話を致します﹂
﹁そうか﹂
そこで、沈黙が落ちた。
ローゼは変わらず微笑みを浮かべてデイルを見ていた。
無頓着を貫こうとするデイルはともかく、ラティナは狼狽も露に
おろおろとする。
﹁デイル様﹂
﹁何だ?﹂
﹁幾ら婚約者とはいえども、親密に過ぎるのでは?﹂
﹁別に、普通だろ﹂
ローゼの笑顔は揺るがない。だからこそ、ラティナの狼狽は激し
くなっていった。流石のデイルも、一筋汗を流した。
﹁デイル様﹂
声も決してきつくはない。ローゼらしい優しく物静かなものだ。
それなのに、妙に座りが悪いような心持ちにさせられる。
﹁⋮⋮何だよ﹂
﹁公爵閣下の御命令で、私はこちらに参りました。それと同時に、
デイル様宛の書状を預かって来ております﹂
﹁俺に⋮⋮閣下からか?﹂
﹁いえ。デイル様の故郷からのものだとか。内容は、私も存じてお
ります﹂
1121
﹁ティスロウから⋮⋮?﹂
﹁当主名代として、一の魔王陛下との会談に臨むようにとのことで
す﹂
ローゼの言葉に、デイルは舌打ちして、ようやく表情をまともな
ものに戻した。
﹁婆か⋮⋮どこまで知ってたんだ?﹂
﹁そこまでは私は存じません。私自身も、こちらに来るまでは、ほ
とんど何も知らされておりませんでした﹂
ローゼに応じる姿に、落ち着きを取り戻しつつも、それでもデイ
ルはラティナを抱く腕を緩めなかった。
ラティナはデイルのその腕にそっと触れた。
﹁デイル⋮⋮﹂
﹁⋮⋮はなしたく、ない﹂
﹁うん⋮⋮勝手にいなくなって、ごめんなさい﹂
平坦な声音で言うデイルに、ラティナはまた零れそうになった涙
をぐっと堪える。
﹁だから、ちょっとだけ放して⋮⋮デイルと一緒にいるために、部
屋から出れる格好をするから﹂
﹁はなさないと、駄目、なのか?﹂
﹁あのね⋮⋮私⋮⋮あんまりヴァスィリオの服⋮⋮着方がわからな
くて⋮⋮﹂
ラティナの返答に、デイルは少し呆気に取られた顔になった。
﹁子どもの頃は、簡単なワンピースだったから⋮⋮今のフリソスの
服見ても、着方がよくわかんないの⋮⋮自分ひとりじゃ、出来なく
て⋮⋮﹂
風通しの良さを重視した造りとなるヴァスィリオの服は、ラーバ
ンド国のものとは大きく異なる。釦等はほとんど見られず、ゆった
りとした衣類は、どうやって留められているのか、一見してはわか
1122
り難い。
今さっきまで、起きていることすら難しかったラティナは、ヴァ
スィリオに来てからずっと、侍女に全ての世話をされて過ごしてい
た。
どうされていたのか、今一つ記憶にない。
﹁⋮⋮そうかぁ﹂
苦笑を浮かべるデイルは、元通りに見えて、ラティナは少し安堵
する。
﹁だからちょっとだけ、待ってて﹂
﹁ちょっとだけ⋮⋮か?﹂
﹁うん。ちょっとだけ﹂
繰り返されたラティナの言葉に、デイルはようやく腕を緩めた。
まるで無理に引き剥がすようなデイルのぎこちない動作に、ラティ
ナは気付かない振りをした。
デイルのそんな仕草を見る度に、胸が苦しくなった。
息がうまく出来なくなる。それを気取られないように、ラティナ
は微笑んだ。
﹁じゃあ⋮⋮すぐ、戻るんだよな?﹂
﹁うん﹂
歩き出したフリソスに従い、ローゼたちが退室するのを追いかけ
る直前、更に念を押したデイルをラティナは微笑んで見送る。
デイルの姿が見えなくなると、ラティナは寝台にぱたりと倒れて、
苦し気な呼吸をした。
ラティナの身体は、まだ本調子ではない。これだけ長く起き上が
っているのも久しぶりのことで、既に疲労で全身が気怠い。
だが今これだけ苦しいのは、そんな身体の不調が理由ではなかっ
た。
﹁ふ⋮⋮ぇく⋮⋮っ﹂
1123
ぽろぽろと、今まで堪えていた涙を流す。
このほんの短い時間でも、自分がどれだけデイルを苦しめてしま
ったのか、わかってしまった。
守りたかっただけなのに、うまく出来なかった。
︵⋮⋮わかってた。きっとデイルを苦しめることになるって、わか
ってた⋮⋮なのに、私は⋮⋮︶
ぐしぐしと手の甲で涙を拭って、起き上がる。
﹃白金の姫﹄⋮⋮
﹂
ずっとこんな風に泣いている訳にはいかない。
﹁
大丈夫。気にしないで
﹂
﹁
服を用意していた侍女へと答えると、ラティナは彼女の手を借り
て着替え始めた。
デイルをこれ以上待たせることは、出来ない。
︵私は⋮⋮どうするのが、正しかったんだろう⋮⋮︶
これ以上、彼を苦しめることは出来ない。
胸を締め付ける疑問には、答えはまだ出そうもなかった。
フリソスがデイルとローゼを連れて行った部屋は、先ほどデイル
と交戦した謁見の間ではなかった。
魔人族の文化としては﹃上等﹄の部屋だが、ラーバンド国の文化
圏から見ると、非常に質素で飾り気のない部屋だった。
ベンチのような形状をしている長椅子が壁を背にして設えてあり、
その前に石で出来た長方形のテーブルと、低い背もたれの椅子が並
んでいた。
一見するとシンプルな家具であったが、よく見れば脚の部分には
彫刻が施されている。
ほうとばかり
ふとデイルはあることに気付き、驚いた顔で呟いた。
﹁この石⋮⋮珍しいな﹂
テーブルに手を滑らせるデイルに、フリソスは、
1124
に嘆息した。
﹁わかるか﹂
﹁結晶を削り出して作っているのか?⋮⋮これだけの大きさのもの
となると、相当だろう?﹂
﹁ヴァスィリオは、気候が厳しく農耕に適さぬ土地も多いが、こう
いったものは有しておる﹂
フリソスに言われて、そう言えば空中から見たヴァスィリオの街
並みは、石造りのものも多かったことを思い出す。
フリソスは長椅子に腰を据えて、デイルに自分の前の椅子を勧め
た。その後、ローゼをデイルと同じ並びの椅子に座らせる。
﹁ヴァスィリオは、人間族の国家、ラーバンド国との国交を求めて
おる﹂
それは、デイルもグレゴールから伝え聞いた話だった。
もの
どうほう
﹁この度の﹃災厄﹄どもの行動で、﹃魔人族﹄全体への不信は高ま
っておろう。余は民を率いる存在として、我が同胞を護らねばなら
ぬ﹂
魔人族は、長い間、閉鎖的に過ごしていた為に、偏った知識しか
他の人族に知られていない。そのことで生まれる偏見が、今後の﹃
魔人族﹄という種族全体の迫害に繋がりかねないと、フリソスを初
めヴァスィリオの首脳陣は判断を下した。
ヴァスィリオにとって、最も近い国家はラーバンド国であり、彼
の国は、この度の﹃災厄﹄で大きな役割を果たした国だった。
ラーバンド国に受け入れられれば、他の国にも働きかけ易くなる。
これもひとつの好機であると、フリソスはラーバンド国に使者を
送ったのだった。
﹁公爵閣下は、その調整の為に私をヴァスィリオに向かわせました
の。多くが機密でしたので、私自身もこちらに着いてからそのこと
1125
を知ったのですけれど﹂
そう言ったローゼに、デイルは問いかけた。
﹁ローゼは、貴族階級ではあっても、外交官ではないだろ?
閣下はローゼを⋮⋮?﹂
何で
﹁閣下が即座に動かせる人材の中で、私が最も秀でた﹃魔術士﹄だ
ったからです。魔法を使うことが出来ることが、最低条件。そして
魔術士を名乗る私のような者は、言語の意味に通じていなくてはな
りませんから﹂
﹁あ⋮⋮﹂
魔人族が母語として用いる言語と、魔法を使う際に使用する呪文
言語は同じものである。
だが、魔法が使うことが出来る者全てが、語句の意味や文法を理
解しているとは言い難いものもあった。ただ優秀な魔術士は、臨機
応変に魔法を操る為に、魔術言語にも秀でているものだった。
ローゼをはじめ、護衛にもヘルミネのような魔術士を送ったのは、
語学の面で、それが魔人族の国への使者に必要であった為である。
﹁女王であらせられる﹃一の魔王﹄陛下に配慮して、女性であるこ
と。更には、ラティナさんと面識があったことが、閣下が私にこの
役目を申し付けた理由です﹂
﹁え?﹂
ローゼの言葉に、デイルは呆気に取られる顔になった。
﹁何で、ラティナが?﹂
﹁私は、デイル様がご存知なかったことに驚いております。閣下の
元に﹃黄金の王﹄と、ラティナさんとの間に血縁があるということ
を伝えたのは、クロイツの﹃踊る虎猫亭﹄だったそうですよ﹂
﹁は?﹂
更に呆気に取られたデイルに、ローゼは念を押すように繰り返し
た。
1126
﹁恐らく現在のラーバンド国内で、最もヴァスィリオの詳細な情報
を有しているのは﹃踊る虎猫亭﹄ですもの﹂
﹁⋮⋮は?﹂
デイルが、彼の預かり知らぬところで、﹃虎猫亭﹄の面々が暗躍
していたことを知った瞬間であった。
1127
青年、裏側で行われていた事を知る。弐
デイルたちを見送った後、ラティナは着替えを済ませていた。
デイルのことは心配だが、今この場での自分の立場には、フリソ
スに大きく責任があることもラティナは理解していた。ヴァスィリ
オでの礼儀作法は、遠い記憶の彼方であり、かなり曖昧だった。そ
れでもタブーとされていることなど、覚えていることもあった。
薄い布を重ねたようなヴァスィリオの服は、見た目では非常にシ
ンプルな造りであるようでいて、それと知らぬものにはわかりにく
い造りとなっていた。
強く締め付けないようでいて、要所要所はしっかと結ぶ。表に出
ている帯の結び方にも意味があり、﹃一の魔王﹄の妹姫として扱わ
れているラティナは、貴人のみに許された形で仕上げられていた。
泣いた瞼を冷やして、髪を整える。
最後に侍女は、フリソスがラティナの為に用意をしていた、繊細
なつくりのベールを彼女の髪に留めた。
魔人族にとって、﹃角﹄は大切な存在だ。
それを﹃折られた姿﹄というものは、酷く生々しい傷痕の印象に
似ている。気の弱い者なら直視することすら難しく、具合を悪くす
る場合もある。
罪人として折られる以外にも、怪我や事故で角を失う場合もある。
そういった者が周囲の目を慮って被るのが、このような頭飾りだっ
た。
装飾として用いられているものは、金銀の鎖に七色の色石。王で
あるフリソスに準じたものになっている。これだけで現在のラティ
ナが、フリソスの深い寵愛のもとにあることが誰にでもわかるよう
1128
になっていた。
部屋を出ると、別の侍女が控えていた。
彼女が一礼して先導して進み出すのにも、ラティナは問い掛ける
ことすらなく続く。幼い頃は、確かにこんな風にあまり多くを語る
こともない人びとに、仕えられていた記憶があった。
﹁わふっ﹂
ラティナがそこで足を止めたのは、聞き慣れた声を聞いたからだ
った。
視界の多くはベールに隠されている為、少し顔を上げる。
見慣れた灰色の毛皮は、予想したものだけのものではなかった。
﹁ヴィント﹂
﹁わんっ﹂
ヴィントは、だらんと自分と同じ色の毛皮の上で、四肢を伸ばし
アクダル
ていた。背に我が仔をのせたハーゲルは、既に鎧は外していた。そ
して足音もたてずにラティナの傍らに立った。
そのハーゲルの隣で。
﹁久しぶり、ラティナ﹂
これだけの別離の後とは思えない軽い口調で、﹃緑の神﹄の神官
何で⋮⋮?﹂
服に身を包んだシルビアが笑っていた。
﹁シルビア⋮⋮?
﹁何でって⋮⋮強いて言うなら、ラティナを捜しに、かな﹂
驚いた顔のラティナに、含みのあるような独特な笑顔を向けてシ
ルビアは言った。
﹁そこのわんこが、ラティナが此処にいるって教えてくれたからさ﹂
﹁わん﹂
﹁来ちゃった﹂
非常に軽い口調であった。
1129
ラティナと共にシルビアと二匹の天翔狼が一同の前に姿を現すと、
流石に成体の幻獣の姿に、ローゼとその護衛の立ち位置にいるヘル
ミネは驚いた様子になった。
ハーゲルの背からおり、とっとことマイペースに進んだヴィント
は、フリソスに一度だけぐりっと頭を擦りつけ、再びラティナの元
に戻った。
﹁ヴィント⋮⋮?﹂
﹃虎猫亭﹄では見たことのなかった光景に、デイルが首を捻ると、
ハーゲルも表情には出さないようにしながらも、微妙にパフパフと
尾を揺らしている。
デイルの視線に気付くと、気まずそうに言った。
ニオイ
﹁うむ⋮⋮遠き地でも感じてはいたが⋮⋮この地の王は、御子とよ
く似た気配の持ち主よな﹂
﹁にてる。だから、まあ、しかたない﹂
うんうんと、頷いたヴィントも同意見であるらしい。
デイルも、ラティナとフリソスの二人の相似に驚かされていたが、
それは、天翔狼という幻獣の観点からもそうであるらしい。
ヴィントが、テオの﹁あっち﹂という曖昧な情報のみで、クロイ
ニオイ
ツからヴァスィリオまで迷うことなく辿り着いたのも、ヴァスィリ
オに﹃ラティナと似た誰か﹄がいた為であった。
基本的にラティナの言うことしか聞かない、マイペースなヴィン
トだが、フリソスの前では﹁しかたないなぁ﹂という顔になる。
ラティナとは別人だが、似ているのでこれで我慢してやろうとい
う、上から目線の対応をするのである。
鎖国状態である為、ヴァスィリオには、﹃郵便﹄組合の支店がな
い。魔人族にも﹃央﹄属性の魔法使いはいるので、魔人族間での連
絡手段は有している。だが、ラーバンド国やそこの個人に向けての
1130
連絡手段というものはない。
そこでヴィントの能力が役立った。
ヴィントの﹃鼻﹄の探知能力は、父狼であるハーゲルの上をいく
ものである。
クロイツとヴァスィリオ間を行き来して、通信手段を担うのも、
もっと遠くに目的の人物を捜しに行くのも可能としていたのであっ
た。
デイルたちが﹃二の魔王﹄と交戦している最中、ハーゲルの元に
ヴィントはひょっこり姿を見せていたのだった。
ヴィントはフリソスに頼まれて﹁しかたないなぁ﹂という反応で、
お使いに向かったのであった。
急に現れた我が仔に、﹁ラティナ、まじーぞくのくに、いるよ﹂
という端的な情報のみを告げられたハーゲルは、非常に反応に困っ
た。
﹁つたえたから、ラティナとこ、かえる﹂と、あっさりと立ち去ろ
うとするヴィントを慌てて捕まえたものの、ヴィントの説明だけで
はハーゲルには理解ができなかった。
﹁デイルつれてくれば、いいとおもう﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
﹁せつめーむずかし。みればわかるし﹂
それでぱたぱたと飛びさってしまった我が仔を見送った後、ハー
ゲルがデイルに詳しい話を省いたのは、この混沌さを、どのように
説明するべきかわからなかったという点が大きい。
何故、我が仔がその情報を知ったのかも、何故、今それを伝えに
来たのかも、ハーゲルは答えを持っていなかったのである。
見ればわかるというし、とりあえずそうしてみるか。−−という
心境になってしまったのだった。どうせ次に向かうのは、その国で
もあるし、とも思った。
1131
マイペースわんこ
ハーゲルは、やはり根っこの部分では、あのヴィントの父狼なの
であった。
﹁クロイツでは、もうみんなラティナと王様が姉妹だって知ってる
し﹂
シルビアはそう言ってニヤリと笑う。そんなシルビアの無礼な態
度も、この場で最も貴い立場であるフリソスが咎めていないことか
・
・
・
ら、ローゼも何も言うことはなかった。既にフリソスとローゼ、シ
ルビアの三者は何度も顔を合わせているのである。
﹁何で?﹂
フリソス
驚いたラティナにシルビアはあっけらかんと言い放つ。
﹁私の前で、﹃黄金﹄って言ったのはラティナじゃない。あの時、
ラティナは﹃白金の姫﹄って呼ばれてたし。何か関係あるのかなっ
て思うのは当然でしょ﹂
﹁あの時⋮⋮って⋮⋮?﹂
スクープ
きょとんとしたラティナに、シルビアはふふふと笑いながら指を
アクダル
振る。
﹁緑の神の使徒の、情報を嗅ぎ付ける能力を侮ってはいけなくって
だってシルビア、
よ、ラティナ。面白そうな話してたら、ちゃんと聞いてるに決まっ
てるじゃない﹂
﹁え、ええと⋮⋮あの時って、﹃あの時﹄!?
言葉わかんない様子だったのに⋮⋮﹂
﹁ふふふ⋮⋮﹂
驚くラティナと含み笑いのシルビアの会話も、他の面々には何事
かは理解が出来ない。そして今のラティナは、そんな周囲を気にす
る余裕がなかった。
アクダル
﹁私に、﹃魔人族の言葉﹄教えたのラティナじゃない﹂
緑の神の神官の情報に対する執念は、ラティナの理解を越えてい
たのである。
1132
ラティナが、フリソスの命を受けてクロイツを訪れた魔族のひと
りと遭遇した時、その場にはシルビアがいた。
ラティナは相手と魔人族の言葉で会話をしていたが、シルビアが
それがわからないような反応をしていた為、注意の外にあった。
だがシルビアは、﹃ラティナ自身から魔人族の言葉の基礎﹄を学
んでいたのだ。全てを聞き取ることは難しい。けれども単語の断片
アクダル
を聞き取る程度は出来た。
シルビアには﹃緑の神﹄の加護がある。強いものではないが、彼
女に宿るその力は、向かうべき道を指し示してくれる。
それに従い、シルビアはあの時、ラティナたちの後をつけた。西
アクダル
区の地理は、生まれ育ったシルビアはラティナよりも詳しい。元々
尾行は、緑の神の神官にとって重要なスキルだ。注意力散漫なラテ
ィナや異邦人たる魔族の男性に対して、地の利があるシルビアの方
に分があった。
そこでシルビアは、遠目でもわかる程に、ラティナと瓜二つの存
在を確認したのだ。
二人の血縁を確信するのは、当然の結果だった。
ラティナが行方不明になった後、シルビアはルドルフの協力を得
て、﹃ラティナと瓜二つの女性﹄の存在を確認した。
クロイツに入るひとは、街壁の中に入る際、必ず四方の門の何処
かを使う。ラティナと面識のある南門以外の門番でも、珍しい白金
の髪の美人というだけで、恐らく記憶には残っているだろうと思わ
れた。憲兵隊に所属するルドルフなら、調べる事が出来る内容だっ
た。
条件に合致する女性の存在を確認し、﹃虎猫亭﹄を中心とする面
々は、﹃ラティナには、姉妹。恐らく双子の姉妹がいる﹄という結
論に至っていた。
1133
これ以上の情報を得る為には、ヴァスィリオに直接向かう必要も
あるだろう−−と、なり、ヴァスィリオの情報を集めている矢先、
ヴィントとテオによる爆弾発言。﹃ラティナはヴァスィリオにいる﹄
となったのであった。
シルビアがまず、ヴァスィリオ行きを志願した。
それでもラティナのように、ヴィントに乗って行くことには不安
が残った。ヴィント自身も﹁なんか、うまくできたー﹂と信憑性に
欠けるコメントを発していた為である。
そこで力を発揮したのは、﹃虎猫亭﹄に集う﹃妖精姫親衛隊﹄の
面々だった。ベテランが采配を振るい、若手も、経験を積むまたと
ない機会だと志願した。
﹃四の魔王﹄による混乱も平定化の兆しが見えていた為、憲兵隊が
アクダル
クロイツの防衛に今以上に努めることと、後援を担うことを明言し
た。
アクダル
更に﹃緑の神﹄の神殿も、全面的な協力を申し出た。ヴァスィリ
オという新たな情報の新天地である。緑の神の使徒が知らぬ振りを
出来るプロジェクトではなかった。
﹃踊る虎猫亭﹄の常連客を中心としたクロイツ発の冒険者の大一団
は、クロイツ南の森を踏破したのである。
ヴィントという高性能レーダーのお蔭で、ヴァスィリオの方向は
決して見失うことはなかった。現在もヴァスィリオ手前で面々は拠
点を築き、ラーバンド国との補給や休憩の拠点となる、そこを防衛
している。
−−現在は﹃七の魔王﹄との戦争に兵を取られている為難しいが、
正式にヴァスィリオとの国交が決まれば、公爵閣下より兵の派遣も
されるはずだった。後々には、町として開拓する要所となるだろう。
シルビアは、そこから、ヴァスィリオとコンタクトを取るべくヴ
1134
ィントと共に彼の国に赴いたのである。
クロエに借りた、ラティナの角の欠片を胸に下げて。
1135
青年、裏側で行われていた事を知る。参
ヴァスィリオでは、﹃角﹄の欠片は、敵愾心を以て迎えられる。
シルビアはそれを百も承知だった。
だが、ルドルフからシルビアは、同時に興味深い話も聞いていた。
﹁俺の持ってるラティナの角の欠片を見た三人組の内、一番立場が
上の奴の反応は、不快だって反応じゃなかった﹂
記憶を辿りつつも断言したルドルフに、シルビアは首を傾げる。
彼女の知る﹃常識﹄とは、外れた事象だった。
﹁そうなの?﹂
﹁ラティナは、そいつは角に籠められたラティナの﹃思い﹄まで見
私が見たラティナを捜してたって奴
てるんじゃないかって言ってた﹂
﹁⋮⋮立場が上の奴、よね?
と同じなら⋮⋮﹂
シルビアの前で、魔人族の男は、公衆の面前だというのに、躊躇
いもなくラティナの前で膝をついて頭を垂れた。
それはどう見ても、貴人に対する臣下の行動だった。
﹁ラティナ⋮⋮若しくは、ラティナのお姉さんか妹は、かなりヴァ
スィリオで良い身分ってことだよね﹂
﹁前に﹃虎猫亭﹄で聞いたことがあるし、俺たちも思ってたことだ
けど⋮⋮ラティナは、良いところ出のお嬢様なんじゃないかって﹂
ルドルフとラティナの付き合いは、シルビアよりも早い。
学舎に通う前の、言葉も不自由だったラティナは、ちいさく幼か
ったが、下町育ちのルドルフたち友人たちに、﹃お姫さまみたいな
女の子﹄という印象を持たれていた。
異種族人であり、他国出身のラティナは、﹃常識知らず﹄で天然
1136
の面が目立つ。だが、礼儀作法はしっかりしていて、考え方が一般
庶民のものとはずれていた。
帝王教育等は受けていない為、だんだんと庶民派少女と化してい
ったラティナだったので、その印象はより幼い頃を知る者の方が強
い。
﹁ラティナを捜してた奴は、どう見てもラティナを﹃罪人﹄として
扱ってはいなかったんだけど﹂
﹁それは﹃虎猫亭﹄でも言われてた﹂
シルビアの疑問に、ルドルフは答える。
彼は﹃虎猫亭﹄に出入りをする間に、常連客たちと話をする機会
もあったし、憲兵隊の一員として﹃罪﹄について考える機会も多い。
﹁元々ラティナが追放された時って、あいつが七歳の時だぞ。それ
で魔人族にとっての最高刑にあたる追放刑って、普通なら執行され
る筈がないだろ﹂
ルドルフはそう言った。魔人族と人間族の価値観が同じとは限ら
ないが、魔人族は子どもを大切に扱う種族だと聞く。ならば子が罪
を犯したら、親の責任を問うのが当たり前の考え方だろう。それに、
過失ならともかく、あれだけちいさくお人好しなラティナが、重罪
を犯せる筈がない。
﹁ラティナの﹃父さん﹄は、罪人とはされてなかったらしい﹂
デイルがラティナの父親だと思われる遺体を埋葬した時、両方の
角があることを確認している。幼馴染みたちは、ラティナからそん
な話も聞いていた。
﹁だからラティナが追放された﹃罪﹄っていうのは、宗教か⋮⋮政
治的な何かの可能性が高いんじゃないかって言われてたな。そんな
の、﹃普通の子ども﹄に起こる﹃罪﹄の筈がない。ラティナはお家
騒動が起こるような家の子だってことだろう﹂
1137
ヴァスィリオは権力を世襲制で受け継ぐことのない国ではあるの
だが、彼らはそうやって当たらずとも遠からずの結論に至っていた。
その為にシルビアは、クロエの持つ角の欠片を借りたのだった。
ラティナを知る者、出来ればラティナの姉妹というヴァスィリオ
の上層部のひとと会えた際、この欠片は自分が﹃ラティナにとって
親しい相手﹄である証明となってくれるだろう。
ラティナがルドルフに伝えた﹃お守りになっている﹄という言葉
を信じたかったというものもある。
クロエは借りに来たシルビア相手に、こう言った。
﹁無事に帰って来てよ、シルビア。出来ればラティナも連れて帰っ
て来て。全力で一発ぶん殴ってやるんだから﹂
−−と。
シルビアがヴァスィリオに侵入した最終手段は、ヴィントに乗る
ことだった。短い距離ならシルビアの魔術でも何とか対応出来ると、
賭けに出たのである。
わんこ
ヴィントはラティナの居場所を知っている。そしてヴィント当人
は、﹃白金の姫﹄の忠実なる獣として認識されている。魔術で撃墜
されることはなかった。
シルビアにとって予想外だったのは、﹃ラティナの姉﹄であるフ
リソスが、ヴァスィリオの国主﹃黄金の王﹄であったことだった。
フリソスは侵入者に色めき立つ護衛たちを、静かに制した。
﹁シルビア、ラティナともだちー﹂
ヴィントに紹介されるというシルビア的に微妙な状況の中、ラテ
ィナと同じ顔をした女王はシルビアをまっすぐに見た。
私はシルビア。ラティナとは、クロイツ⋮⋮ラーバンド国の街
﹁⋮⋮プラティナ、人間族、知人か?﹂
﹁
1138
で会いました
﹂
人間族が使う西方大陸語を、ぎこちなく使うフリソスと、難解な
単語は扱えないが、魔人族の言葉を最低限は操れるシルビア。基本
的なコミュニケーションは交わせる素養は出来ていた。
﹂
フリソスは、シルビアが差し出したラティナの角の欠片を驚いた
これが、証
顔で見た。
﹁
プラティナ⋮⋮
﹂
﹁
フリソスの目にははっきりと、角が纏う優しい気配が見えた。
自分自身の魔力と似た、自分のものよりも柔らかな魔力。この欠
片を持つ者の幸せを純粋に願う、祈りを具現化したかのようなもの
私はラティナを捜しに来ました。ラティナは此処にいますか?
だった。
﹁
﹂
ラティナ
物怖じすることのない強い眼差しを向けるシルビアの言葉を聞き
ながら、この相手を害することは妹は決して望まないだろうという
ことを、フリソスは悟ったのだった。
そして、フリソスも人間族との繋がりを求めていた。
﹃玉座﹄の間から、日に日に魔王の気配は失われていく。
タイミング的にも、﹃八の魔王﹄の縁者が関わっているだろうこ
とはわかっていたが、当のラティナは未だ会話が出来る状態でない。
人間族との伝がないフリソスには、集められる情報が限られてい
た。
どうほう
そして、﹃災厄﹄による人間族への干渉により、﹃魔人族﹄とい
う種の状況は悪化していっていた。ヴァスィリオの外にも同胞はい
る。﹃王﹄であるフリソスは、救いを求められれば、それらをも救
うべき立場にあった。
1139
﹃災厄﹄との戦いに最も大きく貢献している﹃勇者﹄を抱えし国、
ラーバンド国。隣国でもあるその国に、フリソスは使者を送ること
にしたのである。
アクダル
フリソスが送った使者は、シルビア。シルビアは緑の神の神殿を
経て、ラーバンド国首脳部、すなわちエルディシュテット公爵の元
にヴァスィリオの意向を伝えた。
この時からシルビアは、両国の間を取り持つメッセンジャーの役
割を担ったのであった。
エルディシュテット公爵が、フリソスからの使者としてシルビア
を受け入れた背後にも、﹃踊る虎猫亭﹄が関わっていた。
行方不明のデイルだが、彼が世界中を転戦しながら﹃勇者﹄とし
ての役割を果たしていることはクロイツにも伝わってきていた。
それでも﹃手紙﹄を送ることは難しい。
居場所がわからない相手では、世界中の多くの地域をカバーする
﹃手紙の配達組合﹄でも、それを可能とはしないのである。
ラティナに関わりのある人物がヴァスィリオにいること、更には
行方不明のラティナがヴァスィリオにいるらしいこと。﹃虎猫亭﹄
の面々は、それらが明らかになるたび、デイルと連絡を取るべく試
みていたのだった。
その結果、デイルがおそらく連絡を取っている相手。
彼の故郷ティスロウと、雇用主であるエルディシュテット公爵の
元に一部の情報を送ったのである。
﹁は?﹂
そこまでを聞くと、デイルは思わずといった様子で、すっとんき
1140
ょうな声をあげた。
﹁ちょっと待て⋮⋮ケニスたち、ラティナが此処にいるって⋮⋮何
時から知ってたんだ?﹂
﹁うーん⋮⋮確か、﹃七の魔王﹄との戦争が始まるって頃に、そこ
のわんこが教えてくれたから。あの店はその時には知ってたよ﹂
シルビアに断言されて、呆気にとられたデイルの隣でヴィントは
えへんと胸を張った。
﹁やればできるこ﹂
﹁⋮⋮ヴィント、私のこと⋮⋮クロイツから運んで来たの?﹂
﹁できた﹂
記憶が曖昧なラティナも、冷や汗混じりに問い掛けると、ヴィン
ラティナ⋮⋮?﹂
トははっきりと肯定する。
﹁え?
﹁私⋮⋮気付いたらヴァスィリオにいて⋮⋮どうやら、封印から出
た直後はクロイツにいたみたいなんだけど⋮⋮此処までヴィントが
運んでくれたみたいなの﹂
そんな事情を全く知らなかったデイルが問い質せば、ラティナは
困った顔でそう答えた。
﹁あー⋮⋮﹂
デイルは天を仰いで息を吐いた。
精神的にきついだとか言っていないで、一度でも﹃虎猫亭﹄に戻
っていたならば、状況は全く変わっていた筈だ。と、デイルは自ら
を省みる。
あの店の面子の能力を侮っていた訳ではないのだが、もっと頼っ
てしまっても良かったのだ。
ラティナを大切に思っているのは、自分だけではない。
ラティナの為に何かをしたい者は、あの街に大勢いたのだ。
1141
青年、裏側で行われていた事を知る。肆
﹁公爵閣下は、ヴァスィリオの要求を簡単に受け入れたのか?﹂
﹁もちろん、それがラーバンド国にとって利が大きいからですわ﹂
にこやかにローゼは、デイルに答えた。
﹁私も詳しい事情は知らされず、こちらに来ましたの。シルビアさ
んと魔王陛下から事情をお聞きして、閣下からの命令書もこちらで
受け取りました﹂
僅かな護衛のみを連れて、飛竜でヴァスィリオに入ったローゼを
迎えたのは、両国の連絡役であるシルビアだった。
﹃二の魔王﹄が健在であり、﹃紫の巫女﹄たるモヴが命を賭けて成
就に挑む﹃刻﹄を間近に控えたヴァスィリオは、情報の管理に過敏
な程に慎重になっている最中だった。
エルディシュテット公爵が、ローゼにすら詳しい事情を語らなか
ったのは、それへの配慮だった。
﹁私の役割は、正式な外交ではありません。両国の違いを閣下にお
伝えし、調整をはかること。まずはヴァスィリオに受け入れて頂く
ことが私の役割でしたので、魔王陛下の妹姫であるラティナさんと、
面識のある私に申し付けたのです﹂
ローゼが、高位の加護を有する神官であることは、魔人族だとし
ても加護を有していればわかることだった。奉じる神は異なれど、
神殿が重い役割を担うヴァスィリオでは、神官は尊ばれる存在だっ
た。
優秀な魔術士であれば、ヴァスィリオでの最低限の会話を交わす
ことができる。
未だ水面下での調整であることもあり、公爵は官吏や軍属の者の
1142
派遣には慎重だった。それらもあって、ローゼにこの任を命じたの
である。
﹁ラティナさんは、クロイツに来てすぐに、西方大陸語を覚えてし
まわれたとか﹂
﹁あ⋮⋮ああ。一週間位で、日常会話は出来るようになってたな﹂
﹁魔王陛下も、私やシルビアさんと会話を交わすうちに、どんどん
上達されて⋮⋮今では、神殿内の誰よりも西方大陸語に通じてらっ
しゃいますの﹂
ローゼが感嘆するように言えば、フリソスはラティナよりも薄い
胸を張った。
﹁プラティナが通じておる言葉だ。故国を長く離れておったプラテ
ィナと言葉を交わせぬなどとなったら、いたたまれぬ﹂
薄々デイルも悟っていたが、どうやらフリソスは筋金入りのシス
コンであるようだった。
今もデイルの隣に座ろうとしたラティナを、自分の隣に招き座ら
せている。デイルの苛立つような視線も鼻で笑い、それが当然とば
かりにラティナに触れる。
他の誰にやられても、立腹する行動なのだが、それでもデイルは、
瓜二つの姉妹の仲良しぶりに和んでもしまう。
無論、フリソスはデイルのようにひたすらにスキンシップをはか
りたいのではなく、体調の優れぬ妹を案じてそうしているのだった。
ラティナは、そのことがわかっていたので、傍らのフリソスに感
謝の籠った視線を向けていた。フリソスも、それに微かな笑みで応
える。
とりあえず醸し出しているほんわか空気からも、この姉妹が非常
に仲が良いことは、よくわかる事実だった。
1143
﹁ラーバンド国がすんなり了承した利ってのは、何なんだ?﹂
﹁魔王陛下が提示した要件は、ヴァスィリオが有する資源ですわ﹂
デイルの疑問に、ローゼはそう答えた。
﹁私も専門外ですので、あまり詳しくはないのですが⋮⋮ヴァスィ
リオは宝石類を初めとした鉱脈と、﹃魔金属﹄の鉱脈を有している
とか﹂
﹁⋮⋮それが、婆が俺に話を聞けといった理由か﹂
ローゼの言葉に、デイルの表情が改まった。
﹃魔金属﹄と呼ばれる金属類は、魔力との親和性が高い金属の総称
だった。﹃地﹄属性魔法は、鉱石などの召喚も可能にしているが、
稀少な鉱石や、魔力との親和性が高い鉱石程、その召喚の難易度は
増す。
貨幣に用いられる銀が、アンデッドに効果の高い武器の材料に用
いられたり、金の何物にも侵されない性質から、護符の制作に用い
られることからも、その断片が伺われる。
そういった金属類は、やはり鉱脈を有する土地で直接にそれらを
掘り出す必要があった。
ラーバンド国にも鉱山はあるが、採れる鉱石の種類は限られてい
る。今まで遠方の諸国から買い付けるしかなかったものが、隣国で
あるヴァスィリオで採取出来るとなれば、その益は無視することは
出来ない。物が物であるだけに、移送のコストは距離に応じて大き
なものとなっているのだ。
﹃魔金属﹄は、つまりは﹃魔道具﹄の原材料だ。
それを生業とするティスロウにとっても大きく関わる話であり、
専門外であるローゼよりも、当主教育を受けていたデイルの方が詳
しい話でもある。
1144
﹁ヴァスィリオでは、石に価値は見出だしていても、それほど金属
エンチャント
に興味は抱かれておらなんだ﹂
﹁﹃魔力付与﹄は、人間族の種族特性だからな⋮⋮魔人族にとって
は、価値はそれほど高いものではないんだな﹂
﹁そうだな⋮⋮魔法の発動体として使うことはあるが⋮⋮人間族ほ
ど価値は見出だしておらぬな﹂
フリソスはそう答え、シルビアを見た。
ラーバンド国との交渉を優位とは言わずとも円滑に進める為に、
鉱脈資源の有効性を助言したのは、人間族であるシルビアだった。
価値観が異なる故に、魔人族だけでは、出てくることのない発想
だった。
魔人族は全ての者が魔法を使うことが出来る。日常の様々な事柄
に於いても、道具よりも魔法に頼る面も大きい。生活様式も異なる
この国では、他国の﹃常識﹄は理解の範疇外なのである。
だからといってラーバンド国が一方的な搾取に走れば、個の能力
が高い﹃魔人族﹄の反抗にあった際の危険性が増す。
ラーバンド国宰相たるエルディシュテット公爵の、危惧と慎重さ
は、そこに起因していた。
永き時間を生きる魔人族との最初の交渉には、適切な妥協点を見
付ける必要があった。これからの永き時間を善き隣人として在る為
には、重要な案件なのだった。
﹁公爵閣下⋮⋮ラーバンド国が、ヴァスィリオと交流することを受
け入れた理由はそれでわかったが⋮⋮﹂
そんな風に、デイルたちが互いの立場から会話を交わす間、ラテ
ィナは黙って話を聞いていた。
ラティナはフリソスの実妹だが、ヴァスィリオの中での権力は皆
無と言っても良い。発言を許される立場にないと、彼女は判断して
いた。
1145
ヴァスィリオは、神によって選出される﹃一の魔王﹄と神殿によ
って統治されている国家。他の国々よりも、﹃神﹄への信仰の篤い
国だ。
高位の神官であるローゼやデイルは、この国ではそれだけで下に
置かれぬ扱いを受けることになる。
ラティナ自身には﹃加護﹄はなく、﹃八の魔王﹄という特殊な立
場であることを明かすつもりもなかった為、本来ならばなんの後ろ
楯も権限もない。だが、﹃一の魔王の寵愛﹄という状況は、それら
をも簡単に覆す立場を保証していた。
この国に於いて、﹃魔王﹄とは﹃神﹄の代弁者なのである。
︵でも、それはフリソスの力であって、私が凄い訳じゃない⋮⋮そ
れをちゃんとわかっておかないと︶
そんな独白をしながらラティナは、会話に集中していた。
端々の単語を繋ぎ合わせて、自分の知らない情報を導き出す。
空白の時間を埋める為の作業をする。
モヴ
一国の主として、国益と人民の為に交渉の席につくフリソスの姿
は、幼い頃に憧れた、堂々とした母の姿にも似ていて、ラティナは
そっと息を吐いた。
︵頑張ったんだ⋮⋮フリソス⋮⋮︶
自分には到底真似出来ない姿だった。
︵⋮⋮それでもきっと⋮⋮だからこそ、フリソスは私に帰って来て
貰いたかったんだろうな⋮⋮︶
それでも、年若いフリソスが、独りで負うには重すぎる責任だっ
た。
周囲に有能な者がいないということや、部下に恵まれていないと
いうことではない。
1146
フリソスが、ただの一人の個人として、素のままで在れる場所を
欲しても、無理はなかった。
神ではなく、一人の﹃自分﹄として受け入れてくれる相手を。
ラティナにはデイルがいた。
ただのちいさな女の子として、そして誰よりも大切な女性として
扱ってくれる相手がいた。
だからラティナは、﹃魔王﹄と成っても、自分の根幹は揺るぐこ
とはなかったのだ。﹃ひと﹄としての自分を失わずにいられたのだ。
ラティナ
フリソスにとっての﹃その相手﹄は、生き別れた妹だった。
魔王としての重圧も、周囲よりの視線も、全てを乗り越えるよす
がとして、妹を心の支えにした。
︵私は⋮⋮フリソスも、苦しめちゃったんだ⋮⋮︶
フリソスは、ラティナが多くの守りたいものの狭間で、自分を犠
牲にすることを理解する存在ではあった。
けれどもその決断は、酷く苦しいものであったのだと、改めて振
り返り、ラティナは胸を痛めるのだった。
1147
青年、裏側で行われていた事を知る。肆︵後書き︶
皆さまのお蔭をもちまして、コミカライズ版の配信も始まったよう
でございます。詳しくは活動報告をご覧くださいませ。
いつもお読みくださり、誠にありがとうございます。
1148
白金の娘、知る。
かこ
優しさに託つけて、見ないでいるという選択もあった。
デイルだけでなく、フリソスもとても優しく甘い。何も知らなく
て良い、無事に還ってきてくれただけで満足だと笑ってくれる。
それも間違いなく本心なのだろう。
それでも、ラティナは−−﹃知らないままでいる﹄という選択を
することは出来なかったのだった。
デイルを交えての最初の会談を済ませてすぐに、ラティナは離宮
に戻された。フリソスには、ラティナの体調が万全でないことは見
通されていたのだった。
始めは大丈夫だと言い張ったラティナも、離宮の寝台に戻ると、
すぐに意識を失うように午睡をとることになった。
もちろんと断言してしまえる如く、寝台までの移動はデイルの腕
の中である。どれだけ自分で歩けるとラティナが訴えても、デイル
は聞き入れる素振りすらなかった。
療養の為に離宮で過ごすラティナは、以前のようにほとんど意識
がないという状態ではない。だが、それでも当人にしてみれば、そ
れとあまり変わりのない日々を過ごすことになった。
疲れやすい身体は無理が利かず、頻繁な休息を必要とした。
政務の合間を縫って顔を出すフリソスも、変わらない笑顔を向け
るシルビアも、現在どのような調整をラーバンド国とヴァスィリオ
がしているかを話すことはなかった。
難しいことは考えず、ゆっくりと自分の静養にだけ意識を向けれ
ば良いという、姉と友人の想いも透けて見えて、ラティナも詳しい
1149
話を聞き出すことは出来なかった。
時折離宮から離れて散歩をするも、勿論街に出ることは許されず、
神殿の敷地の中に限られた。それも必ず侍女が付き従っている。
仕事中毒者たるラティナにとっては、どうしようもなくもどかし
い毎日だった。
それも療養の為だと、我が儘も言わずに呑み込んだ。
ラティナは、我が儘を言える程、今の自分は満足に動くことも出
来ないことも、しかと理解していたのである。
昼も夜も関係なく、疲れやすい身体はとろとろとした微睡みへと
誘われる。
そんな微睡みから目覚めたラティナが最初に見るのは、いつもデ
イルの姿だった。
どうした、ラティナ。目ぇ覚めちまったか?﹂
﹁デイル⋮⋮?﹂
﹁ん?
﹁暗い⋮⋮?﹂
﹁夜だからな﹂
デイルはそう言って笑い、硝子細工の杯を取って水を満たす。
ラティナの半身を起こして背中に枕をあて支えにすると、杯を唇
に寄せた。まるで風邪をひいた幼子にするような行為に、ラティナ
は、暗がりの中でもわかる程に頬を紅く染める。
﹁デイル⋮⋮自分で出来るよ?﹂
﹁ほら、そんなこと言ってないで、とにかく飲んどけ。声、掠れて
るぞ﹂
あまりにもデイルはいつも傍にいた。
優しく甲斐甲斐しく世話をやく。そのことに羞恥を覚えるよりも、
﹃常に﹄ということに疑問を抱く。
﹁⋮⋮私のことよりも⋮⋮デイルが倒れたりしたら大変だよ。私の
1150
ことはいいから、ちゃんと休んで﹂
いつ食事や睡眠をとっているのだろうかと、心配になって問いか
けたラティナだったが、デイルは微笑んで、幼子にするようによし
よしと彼女の頭を撫でた。
﹁ん⋮⋮俺もちゃんと休んでるよ。心配するな﹂
﹁でも⋮⋮﹂
﹁それより、ラティナを見てたいって言うのが本音だ。⋮⋮俺が倒
んなことにする訳ねぇよ﹂
れでもしたら、ラティナの世話を他の奴にさせることになるだろう
?
心配してくれるラティナは本当に優しいなぁと、デイルは緩んだ
微笑みを浮かべて彼女の頭を撫で続ける。
﹃子ども返り﹄ならぬ﹃親バカ返り﹄したかの如き、でれでれ甘々
モードであった。
デイルは、魔族となったことで、睡眠も食事もほとんど取らずに
活動し続けることが可能であるというスペックを、無駄に活用して
いた。数日単位ならば、不眠不休でラティナを見守り続けることが
可能なのである。
あるじ
そんな常識外れの存在とデイルが化していることを、﹃魔王﹄た
るラティナは、知らないのであった。
そんな緩やかな日々を過ごしているうちに、ラティナは少しずつ
自分が眠っていた間に起こった出来事を悟っていった。
自分が﹃してしまった﹄ことにも気が付いたラティナは、それに
目を背けることが出来なかった。
﹁デイル様は、今日はこちらにはいらっしゃらないのですね﹂
﹁今はフリソスの所にいると思います﹂
デイルがフリソスの元に﹃魔王﹄について−−ラティナに聞かせ
1151
たがらない裏工作も含めて−−の話をしている最中、ラティナは侍
女を使いにやってローゼを呼んだ。
知らないでいても良いと、ちいさな幼子を甘やかすかの如き﹃親
バカ﹄と﹃シスコン﹄とは一線を画したローゼならば、耳に痛いこ
とも告げてくれるだろうという確信があった。
もっと早くこうするべきだったとも思う。
それでも先送りにしていたのは、保身の為なのだろうなと、ラテ
ィナは、きゅっと締め付けるような痛みに、心臓の上に手を当てた。
私が⋮⋮私がデイルの傍
だが、俯かないで真っ直ぐにローゼを見る。
﹁ローゼさま、何が起こったんですか?
を離れてから⋮⋮何が起こってしまったんですか?﹂
﹁⋮⋮デイル様は何と?﹂
﹁デイルは何にも話してくれません⋮⋮心配しなくて良いって⋮⋮
大丈夫だって⋮⋮でも、そんな筈がないことくらい、私にもわかり
ます﹂
ラティナはそう言うと、ぎゅっと両の手を握りしめた。
﹁教えてください。何が起こってしまったのか﹂
ローゼはラティナを無言のままに、じっと見つめた。数十秒の沈
黙の後にローゼは静かな口調で言葉を発した。
﹁ラティナさんが思っている程、私は多くを知りません。小父様や
グレゴール様であれば、また知ることもあるのでしょうが、私が知
ることは、市井の噂と大差ないものに過ぎません﹂
エルディシュテット公爵のことを、私的な時間であるために﹃小
父様﹄と親しげに呼んだローゼは、まずそう前置きをした。
ローゼも、デイルやフリソスが、ラティナに意図的に情勢を伝え
ていないような疑念は持っていた。
だが、ラティナにとっての﹃保護者﹄であるデイルと、姉であり
1152
ヴァスィリオの国主であるフリソスの意に反することを、今のロー
ゼの立場で行うことは難しい。その為、静観している向きもあった
のだ。とはいえ、はっきりと禁じられている訳でもない以上、望む
ラティナに語らないという理由もなかった。
﹁それでもよろしいのですか?﹂
﹁はい﹂
ラティナの返答を聞くと、ローゼは今度は何から語るべきか、考
えをまとめる為に沈黙した。
﹁ラティナさんが、デイル様の傍を離れたという詳しい時期を、私
は存じません。私が最初にその事を聞いたのは、グレゴール様にデ
イル様が行方知れずとなったことを聞いた時でした﹂
﹁え?﹂
﹁小父様はあまり詳しい事情を教えてくださいませんでしたが、グ
レゴール様がデイル様を案じておりましたので、私もそれを知るこ
とになったのです﹂
﹁デイル⋮⋮行方知れずって⋮⋮何を?﹂
﹁その際、デイル様が何をしていたのかはわかりません。ですが、
その後﹃四の魔王﹄討伐の為に小父様がデイル様を呼び戻した時に
は、デイル様は、ハーゲルと呼ぶ天翔狼の成獣を伴われていらした
とか﹂
﹁﹃四の魔王﹄⋮⋮?﹂
震えたラティナの声に、ローゼは言葉を補った。
﹁ヴァスィリオでは、﹃災厄の魔王﹄と呼ばれているそうですね。
彼の魔王たちは、急に活動を活性化させましたの。ラーバンド国も
﹃四の魔王﹄の襲撃を受け、大きな被害を出しました﹂
真っ青になってローゼの言葉を聞いたラティナは、ひとつの疑問
に立ち返った。
﹁なんで⋮⋮なんでデイルが、﹃魔王﹄討伐の為に呼ばれたんです
1153
か?
いくらデイルが、優秀な冒険者だからって⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ラティナさん?﹂
ラティナの様子に、ローゼは驚いた顔をした。そしてラティナが
﹃何故知らないのか﹄を考えこむ。
直ぐさま理由に思い至ることは出来なかったが、デイルが意図的
に隠していた事実のひとつであることはわかることだった。
﹁デイル様は、七色の神より複数の加護を賜し方。魔王の対存在に
して、魔王を打ち払う刃となれる力を持つ方です﹂
﹁⋮⋮え?﹂
え?﹂
﹁デイル様は、﹃勇者﹄と呼ばれし能力を持つ方ですからですわ﹂
﹁⋮⋮え?
きょとんとした顔でローゼの言葉を聞いたラティナは、一拍置い
てその意味を理解すると、何故だか汗をだらだらと流して狼狽した。
おろおろと落ち着きなく混乱していることが、はっきりと見て取れ
た。
﹁デイル⋮⋮﹃勇者﹄なんですか?﹂
﹁はい﹂
﹁﹃魔王﹄⋮⋮倒せちゃいますね⋮⋮﹂
﹁簡単なことではないのでしょうが、デイル様がおられれば、可能
性がないことではなくなります。ですからデイル様同行の元、グレ
ゴール様たちは魔王や魔族の討伐に赴いていらしたのです﹂
﹁﹃四の魔王﹄も⋮⋮デイルが?﹂
﹁はい﹂
その後、﹃七の魔王﹄討伐にデイルが﹃妖精姫﹄の旗を掲げて参
戦し、幻獣を従え白金の鎧を纏いし﹃白金の勇者﹄として名を馳せ、
獅子奮迅の活躍と共に世界中に名を轟かせたことを、ローゼは語っ
1154
た。
更に﹃二の魔王﹄を、﹃紫の巫女﹄の協力の元討ち果たしたこと
を聞いたラティナは、寝台の上に倒れた。
ラティナはデイルが、﹃玉座のある空間﹄の惨状の理由であるこ
とを、確信したのであった。
デ
イ
ル
︵デイルな、気がしていたけど⋮⋮やっぱりデイルだったんだ⋮⋮︶
ラティナ
魔王が、自らの眷属の最も重要な能力を知った瞬間であった。
1155
白金の娘、知る。︵後書き︶
後3日で、﹃うちの娘﹄投稿二周年を迎えます。この間、書籍化し
たりコミカライズしたり⋮⋮と、色々ありましたが、全てはお読み
くださる皆さまのお蔭だと存じます。
いつも本当にありがとうございます。
1156
閑話。ちいさな娘、はじめての﹃夜祭り﹄の日。︵前書き︶
﹃うちの娘﹄投稿二周年記念、閑話ゲリラ投稿にございます。いつ
もお読みくださり誠にありがとうございます。
時間軸は﹃ちいさな娘﹄時代、﹃赤の神の夜祭り﹄に初めて行った
話となります。
1157
閑話。ちいさな娘、はじめての﹃夜祭り﹄の日。
クロイツの南にある森でデイルに拾われ、虎猫亭で暮らし始めた
当初のラティナは、本当に我が儘を言わない子どもだった。
与えられた物を喜びはするが、何ひとつ自分からは欲しいと言い
出さない。強いて自分からやりたいと言い出したものを探してみれ
ば、それは﹃虎猫亭﹄の仕事や家事を手伝いたいというものだった。
既にというか、即座に彼女に骨抜きのでろんでろんにさせられた
デイルは、そんな彼女の姿に首を傾げるのであった。
﹁本当にラティナって⋮⋮我が儘ひとつ言わねぇんだよなぁ⋮⋮﹂
自分がこの位の歳の頃はどうだっただろうと考える。
当初彼女の外見から考えていた、五歳という歳の頃の記憶は既に
遠い。八歳という自己申告の頃は、一族の次期当主教育は二の次と、
弟と遊びに行くことばかり考えていたような気がする。
それも直ぐに父と祖母にばれて、連れ戻されて、よりきつい訓練
を課せられるのだが、めげずに毎日どうやって出し抜こうかという
ことばかりを考えていた。
﹃良い子﹄過ぎね
とてもではないが、ラティナのような聞き分けの良い子どもでは
なかった。
﹁そんなところは間違いなく可愛いんだけど!
ぇか?﹂
デイルの疑問に、ケニスも眉間に微かに皺を刻んだ。
﹁あの子は、ずいぶん賢い様子だからな。自分の立場もわかってい
るんだろうな﹂
﹁子どもが気にする必要もねぇのにな⋮⋮﹂
1158
ケニスの言葉にデイルも溜め息をつく。
ラティナは歳不相応に賢い子だ。本来なら縁も所縁もないデイル
が、自分の面倒をみてくれている現状が、﹃幸運な出来事﹄である
ことを理解している。
あの幼さで、我が儘を言わないのではなく、我が儘を言える立場
ではないと考えていても驚かない。
﹁子どもが子どもらしくねぇって生き方は、嫌だな﹂
﹁デイル⋮⋮﹂
﹁子どもは、大人に甘えるもんだろ﹂
まだ幼さが残る年齢で郷里を出て、その頃から﹃大人﹄の振りを
してきた青年を知るケニスは、微かに溜め息をついた。
周囲の大人に甘えることも頼ることも苦手だったその青年は、だ
からこそ、ちいさな彼女にはそんな思いをさせたくないのだろうと、
思い至ってしまう。
﹁ラティナの為なら、俺、頑張っちまうんだけどなぁ﹂
﹁お前なら際限なくやりかねないから、自重は忘れるな﹂
それでもケニスは、釘を刺すことだけは忘れなかった。
アフマル
﹁ラティナ、﹃赤の神の夜祭り﹄の日は、俺も休みだから一緒に行
アフマル
こうな﹂
﹁﹃赤の神の夜まつり﹄?﹂
繰り返して首をこてん。と傾けたラティナに、デイルは笑顔で言
葉を継いだ。
﹁この街で一番賑やかな祭りだよ。夜が本番だけど、昼間のうちか
ら賑わうからな。色々見て歩こう﹂
﹁デイルといっしょ?﹂
﹁ああ。俺と一緒に、だ﹂
その言葉にラティナの表情が緩む。そんな彼女の様子にデイルは、
1159
単純に笑顔とは形容し難い、緩みきった笑みを浮かべた。
﹁友だちと一緒に遊びたいかもしんねぇけど、祭りの間は余所者も
多いから、子どもだけでうろつくのは危ねぇからな﹂
﹁クロエといっしょも楽しいけど、デイルといっしょだと、もっと
うれしいの﹂
えへへと笑うラティナを見た途端、デイルの自制心メーターは振
りきれた。
ラティナをぎゅうっと抱きしめて、ぐるんと一周振り回す。
﹁本当にラティナは可愛いなぁ⋮⋮ごめんな、本当は俺も毎日毎日
ラティナと一緒にいたいんだけどな。仕事なんて全部ほったらかし
て、ラティナと一緒にいたいんだけどなっ!﹂
﹁デイル、デイルっ、ラティナおるすばん大丈夫だよ﹂
﹁ラティナは、俺と一緒にいたくねぇのか?﹂
少し寂しげに問いかけたデイルに、ラティナはちょっとだけ下を
向いて考えた後、答える。強がって我慢しているだけだと、表情が
能弁に語っていた。
﹁ラティナ、デイルといっしょ、いっぱいいっぱいうれしいよ﹂
幼子の方が明らかに我慢と自制をしている様子であったが、自重
することを放棄している駄目な大人には関係なかった。
﹁早く引退して、ラティナと毎日べたべたするだけの生活がしたい
⋮⋮﹂
発言が既に末期であった。
デイルの言葉に、ラティナは少し首を傾げて考えこみ、うん。と
決意のこもった顔をした。
﹁そしたらね。ラティナがいっぱいはたらいて、デイル、はたらか
なくても大丈夫にするね﹂
その言葉には、素直に頷くことの出来ないデイルではある。彼は
彼女に養われたいのではないし、何より彼女が仕事に勤しんでしま
1160
えば、べたべたする時間が限られてしまい、本末転倒である。
だが、そんな健気な発言を否定できるはずがないではないか、と
も思う。
結果、デイルはラティナを抱き締めたまま、つむじのあたりにう
にうにと頬擦りするのであった。
﹁ラティナは本当に良い子だなぁっ⋮⋮なんでこんなに可愛いんだ
ろうな⋮⋮っ﹂
いつも通りと言ってしまえる二人の様子に、ケニスは店の卓を拭
く手は休めずに、呆れ半分の溜め息をついた。
﹁ラティナなら本当にやりかねんな⋮⋮﹂
そんな想像が簡単過ぎる程に出来て、ケニスは手にした布巾を、
バケツに微妙な顔で放り込んだ。
アフマル
﹃赤の神の夜祭り﹄の当日、ラティナは新品の服に袖を通していた。
誕生月祝いにクロエの家に注文した、よそ行きの淡いピンクのワ
ンピースである。花の飾り刺繍が施されている、見るからに上等な
服だった。
勿体ないような気持ちと、新しい服を嬉しく思う気持ちに、ラテ
リボン
ィナは、落ち着かなさげに服の裾を皺を伸ばすように撫でていた。
﹁よく似合っているわね、ラティナ﹂
﹁へんじゃない?﹂
﹁ちゃんと可愛くなっているわよ﹂
リタに髪を結い上げてもらい、大きな飾り紐を結んでもらう。蝶
結びのはねの形を微調整してから、リタは満足そうに微笑んだ。
リボン
﹁はい、出来た。でもちょっと残念ね。ワンピースがとても綺麗な
色だから、合わせた飾り紐があったら、良かったわね﹂
1161
リボン
ラティナの白金色の髪に映える桃色の飾り紐は、彼女が愛用して
いる濃い色の物だった。充分に彼女の愛らしさを引き立ててはいる
のだが、ワンピースが上等であるからこそ、小物も合わせた物があ
れば良いと思ってしまう。
﹁まあ、そういう発想は男どもにはないからね⋮⋮﹂
冒険者なんて生業の男どもに、そんな繊細な配慮がないことは、
リタは百も承知である。
﹁うすい色?﹂
﹁ラティナの髪は淡い色だから、あんまり薄すぎる色もよくないか
しら⋮⋮﹂
﹁むずかしいねえ﹂
﹁そうね﹂
うーん。と唸ったラティナに、リタも苦笑する。だが、その後す
ぐに、表情を優しげに緩めた。
﹁でも、女の子の特権だからね﹂
﹁とっけん?﹂
﹁だって特別なひととのお出かけで、いつもより可愛い格好をした
いっていうのは、女の子の﹃当たり前﹄だもの﹂
そうリタに言われて、ラティナは少し照れくさそうに、ふにゃん。
と微笑んだ。
いつもよりもおめかしをしたラティナを見たデイルは、相好をゆ
るっゆるに崩しまくって、彼女を迎えた。
﹁どうしよう、可愛いって言葉じゃ足りねぇ位に可愛いなぁっ﹂
レ
デイルの称賛しかない言葉に、ラティナは恥ずかしそうに微笑ん
で彼を見上げた。
﹁あたらしいふく、ありがとうデイル﹂
﹁どーいたしまして、だな﹂
ディ
ラティナの﹃いつもの返答﹄を真似てから、デイルはちいさな淑
1162
女をエスコートするべく手を差し出した。
﹁じゃあ、行くか﹂
﹁うんっ﹂
﹃虎猫亭﹄を手を繋いで出ると、二人は祭りの見物客で賑わう中央
方向へと歩き出したのであった。
まだ﹃夜祭り﹄が始まるまでには時間がある。
その為にデイルは、商業区域である東区へと足を向けた。普段と
は比べものにならない人びとの数に、ラティナが目を丸くする。
そんな彼女の反応も愛でながら、デイルはラティナを抱き上げた。
﹁いつもよりひとが多いからなぁ。疲れるか?﹂
﹁ううん。ラティナ、びっくりしただけ。いっぱいだねえ﹂
﹁祭りの為に、見物客が集まって来てるからな﹂
ゆっくりと進みながらラティナの様子を見れば、彼女は人酔いを
することもなく、活気溢れる街の空気すら楽しんでいるようだった。
ラティナは自らねだることがないので、デイルは彼女を観察する
目に力を入れる。興味を抱いたらしく視線を止めた先を察する度に、
該当する店の前では、殊更歩く速度を落とした。
デイルが足を止め、更に数歩後ろに戻ったのは、ラティナが何物
かを、熱心に見ていることに気づいたからだった。
デイルの行動に、ラティナが驚いた顔をする。デイルは彼女に微
笑みを向け、店の扉を開けた。
﹁おお⋮⋮﹂
そこは、レースを扱う店だった。
デイル一人では、決して入ることのない種類の店である。表の喧
騒が嘘のように静かな店内には、ところ狭しと、まるで額装された
絵画を展示するかのように、様々な品物が並べられている。
デイルは、抱いて歩いていたラティナを床におろす。
﹁見事なもんだなぁ﹂
1163
興味があっても、言い出さない彼女の為に、彼は水を向けた。そ
こでようやくラティナは品物を近くで眺め始めた。
﹁きれいだねえ﹂
ラティナは、繊細な細工にうっとりとした表情を見せた後で、ど
のように出来ているのかを確認するかのように、しげしげと眺めて
いる。
ウィンドウショッピングのように、目的意識もなく、品物を眺め
るだけで満足出来る女性に対して、目的を見出だせない買い物に興
味を抱くことが出来ず、苦痛を感じるのが、男性の性質であるとい
う。
デイルも本来ならば、購買意欲の欠片も掻き立てられない、この
ような店では、数分経たずに飽きても然るべきであった。
だが、
︵ラティナを眺めているだけで、俺、いつまでも大丈夫だなぁ︶
彼は、相変わらずの通常運転であった。
﹁ラティナ、気に入ったのはあるか?﹂
﹁見てるだけで、たのしい。きれいだねえ﹂
ある意味予想通りの返答に、デイルは少し困った顔で、それでも
﹃微笑み﹄に該当する表情を浮かべた。
﹁そーか﹂
デイルは軽く答え、店員を呼んでレース作りの花飾りを注文した。
﹁デイル?﹂
﹁ちょっと動くなよ﹂
リボン
こてん。と不思議そうに首を傾げるラティナを制して、店員に頼
んで彼女の飾り紐の結び目に飾りを付けてもらう。
﹁うん。やっぱりラティナは可愛いなぁ﹂
濃いピンクの上の白いレースの花飾りは、色彩の明度差もあって
よく映えた。元々愛らしい容姿の彼女に、その装飾は印象をより強
1164
める。
デイルのいつも通りのコメントも、無理がないと思わせる説得力
が生じる程である。
少し遅れてラティナは、ふにょん。と嬉しそうに微笑んだ。
リボン
もう、デイルにとっては、心臓を撃ち抜かれて悶絶してしまう程
の微笑みであった。
﹁後、これもプレゼントだな﹂
ラティナが、殊更熱心に見ていたレースの飾り紐を包んでもらう。
口にしないだけで、ラティナがそれに目を奪われていたこと程度、
そばで彼女をずっと見ていたデイルにはわかることであった。
ラティナは驚いた顔で包みを受けとると、ぎゅっとそれを胸に抱
いた。
﹁ありがとうデイル﹂
その笑顔の為ならば、この店の品物全部を買い占めても良いと、
デイルが思ってしまう表情だった。
夜の帳がおり、﹃夜祭り﹄が本格的に始まる頃、デイルはラティ
ナを抱いて人混みの流れの中、祭り見物をした。
きらきらと、鎧が篝火を反射して煌めく神官兵の行列にも、薄物
を靡かせる巫女の舞にも灰色の眸を輝かせたラティナであった。そ
んな彼女が、一番好奇心を抑えきれないように見入ったのは、夜空
を彩る﹃火の花﹄だった。
はじめは爆発の音が雷のようで怖いと、デイルにぎゅっと抱き付
いていたラティナだったが、それが大輪の炎の花となって夜空を照
らすと、いつの間にか恐怖を忘れてしまったようである。
﹁なぁ、ラティナ﹂
﹁なあに?﹂
1165
腕に抱く彼女の耳元に口を寄せて、問いかけた。
大勢の人びとのざわめきと﹃火の花﹄が生む喧騒に、邪魔をされ
ることなく声を届ける為に、大きな声を張り上げるのではなく、距
離を詰める。
﹁楽しんでるか?﹂
﹁うん﹂
﹁そうか﹂
迷いのない返答に、デイルは表情を緩める。
︵ラティナがもっと自分の気持ちや、我が儘を言えるようになって
欲しいって言っても⋮⋮そんな焦る必要もねぇよな⋮⋮︶
﹁ラティナ、また来年も一緒に見に来ような﹂
﹁デイルといっしょ?﹂
﹁ああ﹂
自分の首のあたりに、ぎゅっと抱き付いてくれるという反応だけ
でも、今は充分だ。
デイルはそう思って、大切なちいさな少女を抱く腕に、ほんの少
し力をこめた。
焦る必要はない。来年もそのまた先も−−彼女と共にいられる時
間をゆっくり使って、彼女が彼女らしく健やかにあれるように、心
を配っていけば良い。
まだまだ新米の﹃保護者﹄である自分だが、そうやって年数を重
ねるうちに、ひとかどの﹃保護者﹄となれるだろう。
同時に見上げた空で、咲き誇った一際大きな大輪の炎の花の見事
さに、デイルは、ラティナと微笑みを交わしあったのだった。
1166
閑話。ちいさな娘、はじめての﹃夜祭り﹄の日。︵後書き︶
コミカライズ版の確認などで、最初部分を読み返していたら、ちっ
さかった﹃娘﹄書きたい欲求にかられました。だが、あまり﹃保護
者﹄は変わらないという謎⋮⋮
三年目突入の﹃うちの娘﹄となりましたが、今後もお付き合い頂け
れば幸いと存じます。
1167
白金の娘、向き合う。
初めて知る情報に、混乱の極地に追いやられたラティナは、しば
し寝台の上で倒れたままだった。
ぐるぐると視界が回る感覚を覚えながらも、なんとか上体を起こ
す。
﹁失礼しました、ローゼさま⋮⋮びっくりしちゃって⋮⋮﹂
﹁どうやら本当にデイル様は、ご自身が﹃勇者﹄の能力をお持ちの
ことを、ラティナさんに伝えていられなかったのですね⋮⋮デイル
様が、小父様の元で行っている﹃仕事﹄とは、魔王とその眷属に関
するものですから、てっきりラティナさんはご存知のことだと思っ
ていましたの﹂
﹁私、デイルのお仕事の話は聞かないようにしていたので⋮⋮国の
偉いひとから受けた大切な仕事ってことは、漏らしてはいけない機
密事項が含まれているかもしれないって思って⋮⋮﹂
現にラティナは、デイルの契約主がラーバンド国宰相エルディシ
ュテット公爵であることも、デイルが病に倒れ、王都に向かうこと
にしたその時まで知らなかった。
グレゴールの素性を知ったのもその時で、ラティナは直前に直接
会ったグレゴールの自己紹介を、何の疑問も持たずに受け入れてい
る。
ラティナのこの思考も、幼少期、ヴァスィリオの最高位の神官た
る母モヴと、教育者として大きな発言力を有していた父スマラグデ
ィという両親が、その立場上知り得た情報の管理に厳格であった姿
を見ていたことも影響していた。
﹃普通の町娘﹄とは根本的な思考が、ラティナの場合、少しずれて
いるのであった。
1168
﹁デイル⋮⋮﹃災厄の魔王﹄⋮⋮倒しちゃったんですね﹂
﹁デイル様の偉業は、世界中で有名になっていますわ。﹃二の魔王﹄
のことは、現状では小父様とヴァスィリオしか知らないことですが、
ころ
﹃四の魔王﹄や﹃七の魔王﹄をデイル様が中心となって討ったこと
は、他国にも知れ渡っておりますから﹂
﹁デイル⋮⋮無事で良かった⋮⋮﹂
呟きながらラティナは、﹃理の魔王﹄に消滅されたのではなく、
封印されるに留められたことで、自分の﹃加護﹄が、デイルに残っ
ていたのではないかと、思い至った。
﹃神﹄が、ひとに与えた﹃力﹄の一端を﹃加護﹄と呼ぶのなら、﹃
魔王﹄という下位の神が自らの眷属に委ねる﹃力﹄もまた﹃加護﹄
と呼べるものなのかもしれない。
ラティナがデイルに委ねたのは、祈りに似たものだった。
彼の無事への願い。自分の持つ力全てを用いても、彼が何物から
も護られるようにという、常にラティナが抱いていた想いだった。
﹃魔王﹄が臣下に与えるものとは、次元の異なる規模の力を籠めら
れた結果、デイルが規格外の﹃魔族﹄と化していることまでは思い
至らずに、ラティナは自分の力が、少しは彼の助けになっていたな
ら良いと、そっと息を吐いた。
︵でも、あの﹃玉座﹄の様子は⋮⋮デイル、﹃災厄﹄以外の魔王も
⋮⋮?︶
デイルが﹃勇者﹄であるならば、﹃魔王﹄である自分を害したの
が、勇者の力ではないことに、デイルは直ぐに気付いてしまったの
だろう。﹃勇者﹄以外に魔王を害することが可能である存在が、他
の魔王であることは、ラティナ自身が彼に伝えたことだった。
︵私の封印が緩んだのは、﹃勇者﹄の力によって封印が揺り動かさ
1169
れたから⋮⋮?︶
朧気な意識を振り返ってみれば、ラティナが意識を取り戻した時
に、既に三つの﹃玉座﹄の主は壊されていた。半数近い魔王が討た
れたことにより、封印の効力は低下していたのだろう。
元より、﹃八の魔王を封じる﹄という共通の目的のもと突貫で組
み上げられた封印式である。﹃勇者にして魔族﹄というイレギュラ
ーな存在によって、少なくはない影響を受けることになったのだっ
た。
﹁﹃災厄の魔王﹄は、急に活性化したんですか?﹂
﹁ええ﹂
﹁理由は、わかりますか?﹂
﹁いいえ。ですが、元々﹃災厄の魔王﹄は、自らの思惑のみで周囲
に仇なす存在。幼子の癇癪のような行動に、理由を求めることが出
来ないというのが、多くの方の解釈です﹂
﹁⋮⋮﹂
︵私のせいなのかな⋮⋮そうじゃなきゃ、あんなにデイルとフリソ
スが、私に知られたくないって思うことはないもの⋮⋮︶
優しいひとたちが、誰よりも自分を大切に想ってくれていること
を知るからこそ、ラティナは自分のその考えに胸を締め付けられた。
﹁﹃災厄の魔王﹄による⋮⋮犠牲者は⋮⋮たくさん、出たんですね
⋮⋮﹂
︵それだけじゃない⋮⋮災厄以外の魔王も、私のせいで⋮⋮何もし
ていないのに⋮⋮私のせいで⋮⋮︶
酷い顔色になったラティナを見て、ローゼはそっとその背を撫で
た。びくりと跳ね上がったラティナは、泣き出す寸前の子どものよ
うな表情をしていた。
ラティナの手を包み込むようにしてローゼは握る。
1170
温かいローゼの心まで、手のぬくもりと共にじんわりと伝わって
くるようだった。優しい藍色の眸が、近い距離でラティナを見てい
た。
﹁私は、何故そこまでラティナさんがご自身を責めているのかがわ
かりません。話してくださりますか?﹂
少し口を開きかけて、ラティナは口をつぐみ、左右に首を振った。
ラティナのその反応も、予想の内であった為、ローゼは微かに苦
笑して握る手に力を籠めた。
お二方はきっと、ラティナさんに頼られることを望ん
﹁私に話せないことならば、デイル様や魔王陛下に話してみたら如
何ですか?
でらっしゃると思いますよ﹂
﹁ローゼさま⋮⋮﹂
掠れた声が出たのと同時に、ラティナは大粒の涙を溢した。
ラティナはその後、何も聞こうとしないローゼの優しさに甘えて、
泣きじゃくるだけだった。
︵きっと⋮⋮私⋮⋮﹃予言﹄の通りに、たくさんのひとを不幸にし
たんだ⋮⋮︶
やはり自分は罪人であったのだと、罪人とされるに相応しい存在
なのだと、ラティナは自責の念に、息も出来ない程に押し潰されそ
うだった。
そう考えてしまったからこそ−−ラティナはある意味では、自分
を糾弾してくれる存在を待ち望んでいたのかもしれなかった。
ぐすぐすと幼い子どものように泣いていたラティナは、自分を酷
く静かな視点で見ている存在に気が付いた。
ぶるりと、怯気にも似た感触に総身を震わせながら、視線の元に、
涙で滲む視界を向ける。
﹁ヘルミネさん⋮⋮﹂
1171
掠れたちいさな声は、自分で思っていたよりも怯えを含んでいた。
侍女のひとりも連れずヴァスィリオを訪れたローゼは、同性のヘ
ルミネに、それに準じた仕事も任せているようであった。また護衛
でもあるヘルミネは、常にローゼに付き従っている。
だからこそ、ラティナの現在の私室であるこの離宮の隅で彼女が
静かに控えていることは、咎める理由にはならない。
だが、ヘルミネに、それこそ何も出来ない子どものように泣いて
いる姿を晒していたことに、ラティナは頬に朱を走らせた。
精神的にも体力的にも弱っている現在のラティナだが、それでも、
苦手な人物の冷静な姿に、生来の矜持の高さを取り戻した。
ぐしぐしと、反射的に、頬に流れる涙を両手で拭う。
このひとの前では、情けない姿を晒したくないと、負けん気の強
さが頭をもたげた。
ヘルミネはそんなラティナの様子も、酷く冷静な視線で見詰めて
いた。
彼女のことが、ラティナは苦手だった。
悠然とした、歳上の女性。大人になりきることの出来ない自分に
無いものを、たくさん有している綺麗なひと。
彼女を前にすると、ラティナは、どうしても自分の足りないもの
を突き付けられるような気分になる。
いくら自らでもわかっていることでも、自分のそういった部分を
直視させられるのは、心が重くなった。
そして何より、自分の知らないデイルのことを、知っているひと
だった。
彼女にだけは、負けたくない。
その一心で、顔を上げたラティナに、ヘルミネはどこか酷薄な印
1172
象の微笑みを向けた。
1173
白金の娘、対峙する。
様子の変わったラティナが、ヘルミネの視線を気にしていること
には、ローゼも直ぐに気が付いた。それでも彼女は何も言わなかっ
た。ローゼは、この状況を見守ることに決めたらしい。
何よりもラティナは、もう俯こうともせずに、涙で濡れた灰色の
眸で、真っ向からヘルミネの視線を受け止めていた。
﹁⋮⋮ずいぶん大きくなったものだと思ったけれども、まだまだち
いさな、お嬢ちゃんのままみたいね?﹂
やがてヘルミネが発した言葉に、ラティナはぎゅっと眉間を寄せ
たが、否定することはなかった。
﹁ヴァスィリオの王妹殿下に、このような口の利き方をするなんて
⋮⋮と、叱責してくれても構わないのよ?﹂
﹁⋮⋮この国で、私は何の権力も権限も持ちません。﹃黄金の王﹄
の意向を軽んじるようなことさえしないでくだされば、私個人には
何を言ってくださっても構いません﹂
ラティナは、フリソスが自分のことを誰よりも大切に想ってくれ
ていることをわかっていた。そしてこの国の﹃王﹄であるフリソス
のその意向は、重んじるべきであるとも、ラティナは理解していた。
だが、同時に自分には何の権限もないと、自らを戒めているラテ
ィナは、フリソスの権勢によって自分が過剰に甘やかされることを
是とは考えていなかった。
だから今、ヘルミネの言葉がどれだけ自分にとって﹃痛い﹄もの
でも、フリソスの名を出して逃れようとは思わなかった。
ラティナの返答に、ヘルミネは薄く微笑む。
1174
その表情だけでは、彼女がラティナをどう思っているのかはわか
らなかった。
﹁ラーバンド国は、﹃四の魔王﹄の侵食により、南部地域は大きな
被害を被った。復興までに、国力は大きく削がれることになる。国
境を接する他国はこれを機にと、不穏な動きを見せているようだわ﹂
ヘルミネの言葉は、ラティナにとって﹃聞きたい話﹄の筈だった。
それでも起こってしまったことを聞くのは、想像以上に苦しいこと
だった。
﹁﹃七の魔王﹄により、ラーバンド国から東の方にある小国は幾つ
か滅んだそうよ。多くの犠牲が出たなんて、軽々しくも口に出来な
い程の惨状ね﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
それとも、
青い顔のまま、関節が白くなるほどに手を強く握るラティナを、
ヘルミネは見た。表情は薄い微笑みのままだった。
﹁だからといって、あなたが泣く理由もないでしょう?
﹃泣くだけの理由﹄があるのかしら?﹂
﹁⋮⋮っ﹂
ラティナは呼吸をするだけでも、辛い痛みを覚えた。反論するこ
とも出来ない自分自身に、ヘルミネの言葉を自分も認めてしまって
いることを自覚する。
﹁﹃理由﹄があったとしたとしても、それはそれで、泣くことしか
出来ないなんて⋮⋮﹃お嬢ちゃん﹄だから仕方のないことかしら﹂
ヘルミネが浮かべる微笑みが、明らかな嘲笑のものへと変化する。
ラティナは俯きかける自分を叱咤して、顔をしっかりと上げた。
﹁⋮⋮私は﹂
掠れた苦し気な声だが、ラティナはヘルミネから視線を逸らさな
かった。
﹁確かに、未熟です。何も出来ないことも⋮⋮事実です﹂
1175
少しだけヘルミネは、その碧い眸を見開いた。
﹁泣くことしか出来ない、未熟者だというのは、事実です⋮⋮それ
でも、それでも⋮⋮﹂
浮かんだ涙をぐいと拭い、ラティナはだんだん声に力を入れてい
った。
﹁ちゃんと、考えます。自分がしてしまったこと。どうするべきだ
ったのかということ⋮⋮そして、これから自分に何が出来るのかを﹂
もう、俯くこともせず、しっかりとした意志の光を宿した眸をヘ
ルミネに向けて、ラティナは言い切った。
そんなラティナの姿にヘルミネは、クスリと笑い、挑発するよう
に答える。
﹁そう。やってご覧なさいな﹃お嬢ちゃん﹄﹂
離宮を出て少し離れてから、ローゼは自分の背後の人物を振り返
った。
﹁あまり意地の悪いことをされませんように﹂
ローゼの言葉に、ヘルミネは微笑みを浮かべ少し肩を竦めてみせ
た。
﹁少し意地悪をしたくなってしまったのよ﹂
﹁ラティナさんが﹃幼い﹄というのは、年齢を考えても、まだ無理
もないことでしょう﹂
﹁そうねえ﹂
クスクスと笑い、ヘルミネは少しだけ遠くを見るような顔をした。
﹁けれども、思っていたよりも﹃子どもの成長﹄とは早いものね。
前に会った時は、何に対しても噛みつく仔猫のようなお嬢ちゃんだ
ったけれど﹂
ヘルミネは、自分の言葉に﹁ちいさくないもん﹂と全てに反発し
ていた幼い少女を思い返す。客観的な視点ではなく、自分の主観で
しか物事を見ることが出来ない、全てに於いて相応の、幼い少女だ
った。
1176
﹁ちゃんと自分の﹃未熟さ﹄を認めることが出来る程度には、大人
になったということね﹂
ヘルミネはそう言って微笑んだ。ローゼは溜め息をついて、自分
よりも遥かに長い時間を生きてきた女性を見詰める。
甘やかし過ぎるつもりは無いが、それでもローゼにとってラティ
ナは、自分を慕ってくれる可愛い﹃妹分﹄である。一方的にやられ
ているのを見るのは、あまり面白い光景ではなかった。
﹁意地悪をされるというのも、﹃大人げ﹄が無いことだと思います
が﹂
﹁そうねえ。私もまだまだね﹂
クスクスと笑うヘルミネは、ローゼの言葉にも動ずることは無く、
微笑むだけだった。
﹁あんなデイルの顔を見てしまったから、つい意地悪したくなって
しまったのよ﹂
・
・
少しだけ、今までとは異なる感情の籠ったヘルミネの声に、ロー
・
ゼは反論する気持ちを失って彼女を見た。
﹁本当に追い詰められていたみたいね、あの子。あんな様子見たの
久しぶりだったから⋮⋮つい、ね⋮⋮私もまだまだねえ﹂
ローゼに同行してヴァスィリオに向かうことになった直前、ヘル
ミネはエルディシュテット公爵家でデイルと会っていた。
トレードマークの黒いコートを脱ぎ捨て、輝く半身鎧を纏い﹃白
金の勇者﹄と称える声に応えるデイルは、外見上には、何の気負い
も見られなかった。新たに得たふたつ名に相応しい、輝くばかりの
英雄然とした表情で応じてみせていた。
だが、ヘルミネの目には、﹃少年﹄の頃のデイルの面影が被った。
1177
﹃勇者﹄として負わされた役割に、﹃ひと﹄を殺した感触に、思い
悩み苦しむ﹃少年﹄の頃の面影をそこに見た。
その時のヘルミネには、デイルが﹃何﹄に追い詰められているの
かはわからなかったが、ヴァスィリオで再会して確信した。
ラティナを抱き締め、依存に近い様子で、溺愛する姿。
もう二度と失いたくないと、失ってしまったならば、自分は自分
ラティナ
のままではいられないと−−必死にすがり付くその姿は、詳しい事
情などわからなくとも、デイルが壊れかけていたのが﹃彼女が理由﹄
であることを察するには、充分過ぎる光景だった。
昔馴染みとしては、少々﹃意地悪﹄したくなってしまったのだ。
ラティナが、何に嘆き悲しんでいたのかは知らないし、知る必要
もないことだと思っている。何をしてしまって、その結果デイルが
あれだけ苦しんでいたのかもわからない。
だから、説教をするつもりはないし、論法でやり込めようとは思
わない。あくまでも自分の主観と感情に基づく﹃意地悪﹄だ。
貴女のしたことで、デイルがあれだけ苦しんでいたのだと−−ヘ
ルミネなりの、多少の意趣返しなのだった。
﹃大嫌い﹄な相手に、自分の未熟さと非を認めることは、あの矜持
の高い少女には堪えたことだろう。
だが、それを認めることが出来たことは、評価してあげなくては
ならない。﹃お嬢ちゃん﹄という認識を改めるまで後一歩というと
ころか。
ヘルミネはそう考えて、もう一度繰り返して呟いた。
﹁本当に﹃子どもの成長﹄とは早いものね﹂
1178
白金の娘、対峙する。︵後書き︶
コミカライズ二話、本日配信予定であります。ちっさい﹃娘﹄は、
安定の可愛さだと思っております。
1179
白金の娘、省みる。︵前︶
ヘルミネとローゼが離宮を出た後、ラティナはしばらく寝台の隅
で膝を抱えていた。ころりと転がり、ごろごろと寝返りをうつ。衣
服が乱れることも気にせずに、転がった拍子に裾が捲れ、脚が際ど
い位置まで露となるのもそのままにする。
﹁⋮⋮ふぁ﹂
溜め息が溢れた。
誰も聞く者がいないからこそ、自分自身に言い聞かせるように呟
く。
﹁⋮⋮失敗ばかり。成長できてないなぁ⋮⋮私⋮⋮﹂
ヘルミネには、ああ言ったが、どうすれば良かったのかはわから
なかった。
じぶん
け
結果として、フリソスの助力で自分は助かったが、他の魔王たち
に﹃敵﹄として認定された﹃八の魔王﹄は、あの時、消滅されてし
まってもおかしくはなかった。
隠れて逃げても、逃げ切れるとは思えなかった。そしてそうした
ら、自分が見付かる時まで、魔王たちは、それこそ全てを焦土にし
ても自分のことを捜し出そうとするだろうと思った。
デイルに、自分が他の魔王に﹃敵﹄として狙われていることを打
ち明ければ、彼は自らの身を犠牲にしても自分を護ろうとしてくれ
ただろう。デイルが自分のことをそう想ってくれるのと同じくらい
に、自分も彼を護りたかった。﹃犠牲﹄になんて、なって欲しくは
なかった。
デイルだけではない。自分が暮らすクロイツも、直接、魔王たち
1180
の標的とされたことだろう。友人たちも街の人びとも、長い時間自
分を育んでくれた優しい思い出に溢れる街並みも、全てがラティナ
にとって護りたいものだった。
そして、フリソス。
共に生まれ共に在った、大切な自分の半身。全てをわけあって生
まれた、唯一同じ血が流れている、たった一人の姉妹。
大切な全ての存在と、ちっぽけな自分一人の命。
秤にかけることなんて出来はしない。大切なひとたちを護れるな
らば、自分の命なんて惜しくはなかった。
﹁でも⋮⋮私でもそうするかもしれない⋮⋮デイルが、だからとい
って、簡単に諦めちゃうなんてなかったよね⋮⋮﹂
無理をして欲しくはなかった。
それに、冒険者として一流と呼ばれるデイルが、全ての魔王を敵
に回すなんて、無謀なこと、実行に移すとは思っていなかった。
−−だが、可能性が全くないなどと思っていなかったのも事実だ。
﹃デイルならしてしまうかもしれない﹄そう思っていたからこそ、
何の事情もわからなくとも自分は、﹃玉座の間の惨状﹄をデイルの
所業だと、直感的に考えてしまったのだから。
﹁どうすれば良かったのかなぁ⋮⋮﹂
自分だけがいなくなれば、状況は﹃元﹄に戻ると思った。
﹃災厄の魔王﹄が、彼方此方を蹂躙していくなんて、考えていなか
った。
何の罪もない災厄以外の﹃魔王﹄を、デイルが傷つけていくなん
て、思ってもいなかった。
﹁⋮⋮それを、考えなかったのが、私の一番の﹃罪﹄だったのかな
⋮⋮﹂
1181
あまりにも目まぐるしく変化した状況に、ただ流されていた自分
自身を振り返り−−ラティナは力無く、枕に頬を押し付けた。
﹁ラティナ?﹂
そのまま、うとうととしてしまったラティナは、自分を呼ぶ声に
目を覚ました。心配そうなデイルの顔が近くにある。
﹁どうした?﹂
優しい声には不安が滲んでいて、ラティナはその理由を考えた。
デイルは手のひらで、彼女の頬をすっぽりと包む。指先があやすよ
うに目尻のあたりを撫でた。そこでラティナは、自分が泣いた跡も
そのままに、眠ってしまったことを思い出した。
﹁大丈⋮⋮﹂
﹃答え﹄はまだ出てはいない。それでも、
答えかけて口をつぐむ。
考えてみたものの、
もう俯いて泣くだけの自分ではいないと、決めたのも事実だった。
﹁⋮⋮考えてたの。私は、いっぱい間違えちゃったんだなって﹂
﹁ラティナ?﹂
﹁デイルのことも、いっぱい傷つけた。いっぱい苦しめた。ごめん
なさいだけじゃ、とても、とても足りないけれど⋮⋮私はどうする
べきだったのか、考えることをやめちゃいけないって思ったの﹂
自分の言葉に、微かに苦笑したデイルは、そのまま優しく頬や頭
を撫でてくれる。
優しい慈愛の籠った視線も、優しい愛撫も、大好きな彼の仕草で
あるけれど−−そこでラティナは、はっとしたように灰色の眸を見
開いた。
︵⋮⋮私が、間違えちゃったのは⋮⋮忘れてたのは、それだけじゃ
なかったんだ︶
1182
ふと、降ってきたのは、そんな考えだった。
﹃間違えていた﹄−−もっと昔の自分はわかっていたこと。﹃子ど
も﹄だった頃の自分は、いつも思っていたはずなのに、いつの間に
か忘れてしまっていたこと。
︵私は⋮⋮︶
デイルに﹁結婚しよう﹂と言われて、幼い頃からの想いが叶って
−−浮かれて夢心地になってしまった自分は、いつの間にか忘れて
しまっていたのだ。
自分がなりたかったのは、デイルに﹁可愛い﹂と、一方的に可愛
いがられる存在ではなかった。それでは、﹃可愛いうちの娘﹄だっ
た時と何一つ変わらない。それだけでは、自分のなりたかった﹃大
人の女性﹄には、足りていない。
・
︵私はデイルの⋮⋮隣に在れる大人になりたかった⋮⋮デイルを、
支えることが出来る存在になりたかった⋮⋮︶
・
・
今の自分は、デイルに一方的に可愛いがられているだけだ。幸せ
だと、それに満足してしまっていた自分は、﹃なりたかった自分﹄
の姿すら、見失ってしまっていたのだ。
﹃お嬢ちゃん﹄と、呼ばれてしまっても仕方がない。自分はそう呼
ばれてしまうだけの、﹃子ども﹄であったのだ。
﹁⋮⋮やっぱり、私は、いっぱい間違えちゃったんだね⋮⋮﹂
﹁そうか?﹂
﹁そうだよ。私は間違えてばっかりなの⋮⋮だからデイルも、ちゃ
んと駄目な時は駄目って言って⋮⋮こうして欲しいって、デイルの
思うことをちゃんと言って⋮⋮﹂
ヴァスィリオで目を覚ました自分に、デイルが血を吐くような声
1183
で言った言葉を思い出す。
あまりにも辛そうで、胸が張り裂けそうになったデイルの言葉。
﹁護らせてくれ﹂それは、自分にとっても同じことで、だからこそ、
どうするべきだったのかわからなくなってしまった、彼の本心だっ
た。
﹁私は、間違えちゃったけど⋮⋮デイルのことを護りたかったのは、
本当なの﹂
﹁⋮⋮ああ。そうだな⋮⋮ラティナなら、そうしちまうだろうなっ
てのは⋮⋮俺にもわかった﹂
困った顔で、自分のことを肯定してくれるデイルの両の手に、ラ
ティナはそっと触れた。
﹁デイルがそうやっていつも優しいから⋮⋮私、デイルにたくさん
甘えてしまっていたの。デイルならきっと、私のすることを、全部
許してくれるって⋮⋮甘えていたの。それが、デイルを苦しめても
⋮⋮わかってくれるって思っていた﹂
﹁甘えてくれる⋮⋮のは、良いんだけどな﹂
デイルも理性や思考の一部では、ラティナのとった行動の全てを
否定することはできなかった。
﹃魔王﹄という脅威の代名詞を全て敵に回したラティナが、誰も犠
牲にせずに場をおさめようと願った時、自分を犠牲にと考えるのは
あり得る行動だ。
実際に自分も、﹃この状況を認めること﹄が、一番犠牲を出さな
い結論であると、自覚もしていたのだ。
とても認めることが出来なくて、全てを力でなぎはらってでもと、
足掻いてみせたのだが。
そんなことを考えて、苦笑したデイルを、ラティナはそっと覗き
込んだ。自分がしてきた血にまみれた残虐な行動すら、見付かって
1184
しまいそうで、デイルは少し落ち着かない気持ちにさせられる。
﹁もし⋮⋮また、同じようなことがあったら、私は、また同じ選択
をしてしまうかもしれない⋮⋮﹂
﹁それは⋮⋮困るな⋮⋮﹂
﹁デイルがそうであるように、私がデイルを護りたいのも、本心だ
から⋮⋮でも﹂
ラティナはそう言って、デイルの手に触れる自分の手に力を込め
た。
﹁ちゃんと、デイルと話すから。どうしたいのか、どうするべきな
のか、デイルと一緒に考える﹂
﹁⋮⋮ん﹂
﹁私は、デイルと一緒に在りたいの。⋮⋮私は、一方的に護られる
存在じゃなくて、デイルのことも護れる存在になりたかった。だか
ら、これからの私が、ちゃんとデイルの隣に在れる存在でいられる
ように⋮⋮次からは、デイルの気持ちもちゃんと聞いて、デイルと
一緒に考えたいの﹂
ラティナの言葉を聞き終えて、デイルは苦笑を浮かべた。
それは今まで浮かべていたものとは、少しだけ異なる意味を含ん
だ﹃苦笑﹄だった。
﹁反省しなくちゃなんねぇのは⋮⋮俺もだよな﹂
﹁デイル?﹂
﹁俺も、ラティナとちゃんと話すべきだったこと、たくさんあるも
んな⋮⋮﹂
腕の中に収めた愛しい少女を、目映い錯覚を感じながら見る。
﹁俺は、ラティナにプロポーズしたんだ。辛いことを分け合ってこ
その夫婦だよな﹂
﹁⋮⋮うん﹂
1185
﹁だから、今度がもしもあったら⋮⋮俺に隠そうとはしないでくれ。
ラティナが無理だって思ってることでも、なんとかしてやるから﹂
﹁うん﹂
とはいえ、俺としてはそこんところは、格好つけておきた
﹁そうだな、俺がしんどい時は⋮⋮その時はラティナを頼っても良
いか?
い部分なんだが⋮⋮﹂
﹁デイルのぶんまで、その時は私が頑張るよ。いつも助けてもらっ
てばかりだから⋮⋮ちゃんと返せる自分になりたいの﹂
彼女の返答に、デイルは表情を緩める。
幼い頃からずっと、彼女は隣にいてくれるだけで、自分にとって
の支えであり救いだった。
それでもきっと彼女は、﹃それだけ﹄では足りないと答えるのだ
ろう。
﹁⋮⋮もう姉妹がいたりはしねぇか?﹂
﹁それは、いないよ﹂
﹁お前の家族の話⋮⋮聞いてみてぇな。フリソスのことを隠してた
から、話せなかったんだろ?﹂
﹁フリソスに聞いたの?﹂
﹁ああ﹂
デイルが答えると、ラティナは少し苦しいような顔をした。
﹁話せなくてごめんなさい。でもね、私にとってフリソスは、デイ
ルとは違う意味で、誰よりも大切な存在なの﹂
﹁たった一人の姉妹だもんな﹂
魔人族は、本来仲間意識の強く、身内を大切にする種族だ。
唯一の姉妹にして唯一残された血の繋がった家族。ラティナとフ
リソスが、互いに互いを深く思いあっていることは、デイルにもよ
くわかっていた。
1186
﹁隠しごとは、もうねぇか?﹂
﹁⋮⋮恥ずかしい内緒のことは、あるよ﹂
﹁それは、夫婦でも隠していて良いかもなぁ⋮⋮﹂
﹁デイルは?﹂
﹁ん?﹂
﹁デイルは⋮⋮私に内緒のこと、ある?﹂
﹁あー⋮⋮﹂
思わず反射的に言葉を濁そうとして、思い直す。
彼女に強いておいて、自分のことだけ棚上げにするのは、いくら
なんでも都合が良すぎると反省した。
彼女はもう、自分に護られるだけのちいさな幼子ではないのだ。
そして自分は、彼女をそういう存在として扱うと決めた筈だった。
﹁俺、実は﹃勇者﹄なんだ﹂
だからデイルは、今更にも程のある情報をラティナに告げたのだ
った。
1187
白金の娘、省みる。︵中︶
デイルの今更ながらの告白に、ラティナはしばらく無言でデイル
の顔を見た。ローゼから聞いていたこととはいえ、やはり驚きは並
大抵のものではない。
﹁えーと、ラティナ?﹂
﹁ん?﹂
﹁大丈夫か?﹂
﹁びっくりした⋮⋮﹂
デイルに声をかけられて、ようやく再起動したラティナは、ぷし
ゅう。と音をたてる勢いで肩の力を抜いた。
﹁ローゼさまにもね、聞いたの⋮⋮デイルが﹃勇者﹄だって﹂
﹁そうなのか?﹂
言われてみれば、別に口止めをしていた訳でもないので、そうい
うこともあるかと、デイルは改めて思った。むしろ今の今までラテ
ィナに知られていなかったことの方が、驚くべきことだと思う。
﹁ローゼさまには、聞けなかったんだけど⋮⋮魔族になって大丈夫
なの?﹂
﹁たぶんそれは、俺よりもラティナが知ってる筈の情報じゃねぇか
なぁ?﹂
あるじ
流石のデイルも、困惑するしかなかった。ラティナは、一応自分
にとって﹃魔王﹄たる存在である。
確か彼女は自分で、﹃魔王は世界の根幹の一部を知ることができ
⋮⋮あ。そういえば、そうだね⋮⋮﹂
る﹄と言っていた筈だった。
﹁え?
自分の﹃魔王﹄としての恩恵を、使うことを放棄していたラティ
ナは、すっかり自分にそういった能力があることを失念していた。
1188
﹁まあ⋮⋮お前が﹃八の魔王﹄で⋮⋮﹃勇者﹄という魔王を排する
存在と相反しねぇから、成立したんだろうとは言われたけどな﹂
﹁そっか⋮⋮﹂
成程と頷いているラティナには、やはり﹃魔王﹄らしさの欠片も
ない。
﹁やっぱり私は、もっとしっかりしないといけないんだね﹂
そうきっぱりと答えたラティナの姿に、反射的に﹁ラティナはこ
のままで良い﹂と、言いかけたデイルは、なんとかその言葉を飲み
込むことができた。
如何にも真面目な顔で頷くラティナは、可愛いなぁなんて思って
しまうのだった。それはもう一種の条件反射である。
だが、大人になる為に省みようとしている彼女に、そう扱うと決
めた前言をまるっと撤回したその発言は、さすがにないだろうと留
まることに成功した。
成長する必要があるのは、どちらだろうかと、内心で汗をかく。
﹁デイル?﹂
﹁いや⋮⋮本当にラティナは大きくなったなぁって思ってさ﹂
﹁⋮⋮?﹂
自分の未熟さを痛感した直後に言われ、ラティナは少し首を傾げ
た。
﹁俺も、ちゃんとしねぇといけねぇな﹂
﹁デイルはもう、充分大人じゃないの?﹂
﹁んー⋮⋮﹂
あるじ
ラティナを対等の伴侶として扱うということや、自分にとって唯
一の﹃魔王﹄として見ることは置いておいて、やはり彼女には頼っ
てもらえる自分でありたいと思う。
それは男としての矜持であり、譲れぬところである。
1189
だが、せっかくまたこうして共に在ることが出来るのだ。
﹁これからは、ちゃんとやっていこうな﹂
﹁うん﹂
失敗を重ねても、いつかそんなことがあったと、二人で語り合え
るようになれれば良い。
そう思って互いの手を握りあった。
デイルとは、そう話しあったラティナだったが、夕食の後、フリ
ソスの私室を一人で訪れた。
かつて幼い頃、共に暮らしていた部屋ではない。
王としての権威を感じる上等の部屋ではある。だが、侍女や護衛
が、隣室に常に控えているという為に、完璧なプライバシーという
人間族のことば
ものが存在しない窮屈な空間だった。
片言ならば理解
﹁フリソスを前にしてるのに、﹃西方大陸語﹄を使っているなんて
⋮⋮なんだか変な感じだね﹂
﹁あまり、他人に聞かれたくない話なのだろう?
出来るものもおるが、全てを解せる者は少ない。内緒話には適して
おるだろう﹂
少し悪戯っぽい表情を浮かべたフリソスは、ラティナが淹れた茶
を目を細めて口に含んだ。
本来ならば、茶を用意するということも侍女がやる仕事だった。
だが、二人きりの時間を作りたかったラティナは、シルビアから分
けて貰ったラーバンド国のお茶を理由に、侍女を下がらせることに
成功した。ヴァスィリオとラーバンド国では、茶器の使い方も茶葉
の扱い方も異なるのだった。
ラティナが自分に話があって、そうしていることを察したフリソ
1190
スも、特にそれを制することはなかった。
﹁ラーバンド国との国交が始まった折りには、我が国の者に、言葉
を学ばせることが必要となるだろうがな﹂
﹁魔人族の言葉は、他の種族のひとは、適性がないと発音出来ない
からね⋮⋮﹂
魔法を扱えるかどうかの判定基準は、﹃呪文言語﹄とも呼ばれて
いるその言葉を、発音出来るかどうかというところにある。魔人族
の言葉は、適性がない者には、扱うことが根本的に不可能なのであ
る。
だが、他の人族の言語は、単純に学べば扱うことが可能となるの
だった。
﹁⋮⋮で、どうした、プラティナ?﹂
﹁デイルには、聞けなかったの⋮⋮﹂
ぽつり呟くように言ったラティナは、自分の手にする茶器の中を
デイルが⋮⋮﹃勇者﹄だって﹂
じっと見詰めた。淡い褐色の水面の中で、落ち込んだ顔の自分がこ
っちを見ていた。
﹁フリソスは、知っていたの?
﹁⋮⋮﹂
少し沈黙したフリソスだったが、双子の妹に嘘をつく気にはなれ
なかったらしく、直ぐに肯定してみせた。
﹁そうだな。プラティナを封じた後⋮⋮間を置かずに、﹃魔王﹄を
葬る存在が現れた。余の立場では、それが誰の仕業であるのかは知
ることが出来なかったが⋮⋮シルビアたちの話で直ぐにそれと知れ
たよ﹂
﹁シルビアが⋮⋮﹂
﹁プラティナの傍に﹃勇者﹄がいた。それが、本来ならばあり得ぬ
ほどの勢いで、魔王を駆逐して回っている。其方との関係を聞いた
1191
後ならば、其方がその﹃勇者﹄を眷属にしたのではないか⋮⋮とい
う推測は出来たな﹂
﹁そっか⋮⋮﹂
﹁プラティナが、余の元に帰れぬなどと言いおった理由が、其奴が
理由だということもな﹂
ぷう。と、どこか膨れたようになったフリソスは、ラティナとや
はりどこか似ていた。
・
・
・
ラティナは、ほんの少しだけフリソスのその仕草に表情を緩め、
再び視線を下に向けた。
﹁やっぱり⋮⋮﹃魔王﹄を⋮⋮倒したのは、デイルなの?﹂
﹃殺した﹄という単語を出すことを躊躇って、ラティナは言葉を濁
した。
フリソスは妹の様子に、内心で溜め息をついてから、平然とした
声音で答えた。
﹁そうだな﹂
﹁﹃玉座﹄の様子⋮⋮あの姿からわかるように⋮⋮デイルは、他の
魔王を皆⋮⋮?﹂
﹁⋮⋮今更、否定しても仕方がないな﹂
妹の聡さに、嘘をつく気にもなれず、フリソスは答えた。
ラティナの表情が苦し気なものになる。
﹁それは⋮⋮私のせいなんだね﹂
周囲からの話を聞いて察していたことではあったが、フリソスは
改めて思った。ラティナは、優しく素直な幼い頃の性質を残したま
ま成長している。それは、安堵と幸福な思いを抱く事実だった。
この国を追放され、父親を亡くしたラティナが、それでも健やか
に安寧と、歳を重ねることの出来た証明にも思えたからだった。
1192
﹁
⋮⋮あの男には、感謝するべきなのだろうな
﹁え?﹂
﹁いや、何でもない﹂
﹂
フリソスが発した小さな呟きは、ラティナの元にも届かなかった
らしい。そのことに、ほっとする。あの残念勇者に甘い発言を自分
がしたことは、妹が大切だからこそ、誰にも気付かれる訳にはいか
ないのだった。
﹁⋮⋮プラティナは、やはり﹃一の魔王﹄には、なれそうもないな﹂
﹁フリソス?﹂
小さく笑って、フリソスはラティナと目を合わせる。
﹁何も気に病むことなぞないぞ、プラティナ﹂
﹁だって⋮⋮﹂
﹃厄災﹄と呼ばれる魔王以外の者たちは、殺されるだけの咎などな
い。理不尽に殺され、その魔王が守護していた眷属や民たちも不幸
にした。
それを気に病まなくて良いと言われても−−といった内心の独白
・
・
・
がありありと面に出ているラティナの様子に、再びフリソスは小さ
・
く笑った。
・
﹁其方という﹃魔王﹄⋮⋮下位とはいえ﹃神﹄を害しようとしたの
だ。それを﹃罪﹄と呼ばずして何と呼ぶ?﹂
﹁でも⋮⋮﹂
・
・
・
・
・
・
﹁それによって起こったことは、云わば﹃神罰﹄⋮⋮﹃魔王﹄を排
することが赦されているのは、対存在たる﹃勇者﹄のみなのだから﹂
それは上位にして世界のそのものである﹃七色の神﹄が定めた理
だった。
フリソスは微かに笑い、妹の頭を撫でた。甘えん坊な双子の妹を、
親の仕草を真似て慰めていた、幼い頃そのままの動作だった。そん
な仕草がすんなりと出てくる自分に、微かに驚き、同時に安堵する。
1193
﹁魔王が魔王を害することは、可能ではある。同列の存在であるか
らな。だが、それは﹃赦されてはいない﹄こと。相応のしっぺ返し
を受けて然るべきことだ﹂
唯一﹃魔王﹄の中で、他の魔王に干渉することが赦されているの
は、﹃八の魔王﹄であるラティナだけであった。それは﹃魔王を制
する﹄という性質の中、発生する存在なのだから当然だった。
かつて﹃二の魔王﹄が﹃一の魔王﹄を殺めたように、魔王が他の
魔王を滅ぼすことは、可能となっている。だがそれは、同時に﹃世
界﹄にとってはイレギュラーな事態でもあった。
滅ぼしたのならば、同様に滅ぼされる可能性も高まる。
モヴ
それをフリソスに教えてくれたのは、稀代の神官と呼ばれ、魔人
族の歴史の中でも例のない力を有していた﹃紫﹄−−神の色の名を
有した−−女性だった。
語られた当時は、詳しい意味などわからなかった。
今にして振り返り、ようやくそれと察することが出来た。
﹁だからいわば因果応報。其方が思い悩む必要はない。この結果は、
当然の帰結であるのだからな﹂
1194
白金の娘、省みる。︵後︶
とはいえフリソスも、ラティナがそこまで簡単に割りきれるとは
思っていなかった。
フリソスは﹃一の魔王﹄としての見地から、他の魔王が賛同せざ
るを得なかった立場は重々承知している。
だが、ラティナの唯一の姉としては、大切な自分の妹に手を出し
た以上報復されて然るべしとも考えてしまうのだった。
立場はどうあれ、﹃報復される﹄のは、仕方のない状況だ。
﹃二の魔王﹄は、それすら娯楽としていた悪趣味さと、﹃魔王﹄に
よる報復では自分は害されないという増長した自信があったようだ
が、本来だからこそ﹃魔王﹄は、﹃他の魔王﹄に基本的に不可侵の
立場を崩さないのだから。
自分も、滅ぼされる可能性を覚悟していた。
﹃八の魔王﹄であるラティナ自身が、自分を敵対者として見ていな
いことによる﹃理﹄の加護。そして、彼女の為に動く眷属たる﹃勇
者﹄が、筋金入りの﹃親バカ嫁バカ﹄であることから、即座に断罪
されることはないと、見越していた。それでも﹃絶対﹄ではない。
だが、それも仕方のないことだろうと、思っていた。
どんな咎となったとしても、妹を取り戻す為に自らの手を汚すこ
とを厭わないと覚悟していた自分には、何も言うことは出来ない。
それでも優しい性質のこの妹は、簡単にそう切り捨てることは、
出来ないのだろう。
そしてそのことを喜ばしく思ってしまう。
1195
﹁プラティナ、﹃魔王﹄とは﹃神﹄だ。ひとの理を超えて傲慢であ
るのも致し方あるまい?﹂
﹁⋮⋮でも﹂
﹁それでも同時に﹃ひと﹄の視点で在ることも求められている。な
らば、其方の煩悩もまた、正しいものだろうよ﹂
﹁フリソス⋮⋮﹂
姉の声に、ラティナは複雑になりながらも顔を上げた。しっかり
と前を見据えている姉に対して、どうしても優しいひとたちに甘え
てしまう自分のいたらなさに、心が縮む。
﹁そのままで在れ、プラティナ﹂
フリソスは敢えて言い切った。
﹁余が、ひとの視点を忘れた傲慢な存在と成らぬように。其方の唯
一の眷属が、万物を切り捨てる修羅と成らぬように﹂
ラティナが悩んでいても尚、そう思う。
自分も、この妹の傍にいる時だけは、﹃一の魔王﹄ではないフリ
ソスという﹃ひと﹄の心のままでいることが出来る。
王という責務の中、押し潰されることもなく、﹃自己﹄を支える
ことが出来る。
﹁我等の枷で在れ﹂
だからこそ、ラティナには今のままでいて欲しいと願う。
そう微笑むフリソスに、ラティナは困惑した表情を向ける。自分
の未熟さを自覚しているラティナにとって、それを肯定されること
は、すぐさま頷けることではなかった。
﹁今の私のままじゃ⋮⋮駄目だと思うのに?﹂
﹁成長することは必要だろう。そして全く変わらないでいるのも不
可能なことだ﹂
1196
フリソスは、真面目過ぎる妹をぎゅっと抱き締めた。誰かの温も
りをこれほど近くに感じることは、今のフリソスにはまずない。そ
れがどれだけ自分の救いであることを、どうしてこの妹はわかって
くれないのだろうか。
・
・
余が其方の﹃姉﹄のままで在って欲しいと願うので
﹁けれども、プラティナ。そのままで在ってくれ。⋮⋮其方にもわ
かるだろう?
あれば﹂
﹁⋮⋮そうなのかな﹂
﹁そうだ﹂
・
妙に腹立たしいから認めたくはないのだが、あの男もそうなのだ
妙に苛立つので認めた
あの男にとっても、この優しい性根の妹は、救
ろう。自分と同じように思っているなど!
くはないのだが!
いであるのだろう−−と、フリソスは思う。
﹁其方が、﹃今のままで在れる﹄ように護れることこそ、我等の糧
だ。⋮⋮それは、ある意味ではひどく困難なことかもしれんがな﹂
自分が歩む道が、どれほど泥をかぶり、血にまみれ、屍を積み上
げたものだとしても−−この守りたい存在だけは、それらとは無縁
のままでいさせたい。
重荷を分け合う方法は、同じ荷を負うことだけではない。
この大切な妹は、優しい世界の中にいて欲しい。
だが、きっと聡いこの妹は、自分が守られていることも、周囲が
その分の重荷を負っていることも理解してしまうのだろう。
−−理解してくれているだけで、それで充分なのに。
そして、それだけ辛く苦しい業を、大切に想う相手に負わせない
で済むことこそに、自分は救われるのだ。
おそらく、あの男も同じなのだろう。
非常に認めたくないことなのだが。−−と、フリソスは内心で憮
1197
然とした。わかりあえてしまう己にも、微妙な心持ちとなるのだっ
た。
﹁⋮⋮わかったとは、言えないけれども⋮⋮フリソスの言ったこと、
考えてみる﹂
その返答すら真面目過ぎると、フリソスはくすりと微笑んだ。
﹁先ずはそれで良かろう?﹂
そして、ぎゅーっと抱擁する腕に力を籠めた。
﹁だからこのまま、余の傍におれ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
フリソスの言葉に、ラティナは妙な反応をした。視線が泳ぎ、何
か言いにくいことがあるような顔をする。そんな妹の思考が面に出
る素直なところも、フリソスにとって、自分には望めない部分であ
るので微笑ましい。
フリソス自身も気付いてはいたが、ラティナは、ヴァスィリオに
滞在することを望んでいない節があった。
知らず眉間に皺が寄る。その身を守る為とはいえ﹃罪人﹄とされ
て追放されたラティナを、厭う者はいるだろう。だが、そんな輩か
ら守れるだけの権力を今のフリソスは得ている。ラティナに対する
非礼を許すことはない。
ラーバンド
それとも、政治に巻き込まれることを厭っているのだろうか。
シルビアやローゼの話を聞いた感触では、ラティナは、人間族の
国の貴族子女相当の学問と作法を学んでいる印象を受けた。だが、
治世者としての教育とは無縁であったようだ。一般庶民の中、平穏
に暮らしていたのだから、無理もない。
ならば、欲深い者と接しない環境で、穏やかに暮らせるように計
らおう。
だからプラティナが、心配することなどないのだ。−−と、フリ
ソスは考えを巡らせる。
1198
最近少し動けるようになったからと、手ずから洗濯を始めたり、
厨房に出入りしたり、挙げ句の果てには、厨房中の金属鍋を磨きあ
げるなんて行動をしていたらしいが、そんな苦労はしなくても良い
のだ。
なんて、思うのだった。
ワーカホリック
無論、ラティナが﹃帰りたい﹄理由はそのあたりにある。
ラティナは、忙しいと尚更燃える、仕事中毒少女である。
ラティナは、現在の自分の立場と、控える侍女にとっての仕事が、
自分の身の回りの世話であることを理解している。いちいち侍女に
かしずかれることも受け入れていたが、もどかしくて仕方がないの
が本音である。
それでもついつい、デイルとのことを落ち着いて考えようと思っ
たら、洗濯をしてみたり、厨房中の金属鍋を磨きあげてしまったり
した。特に鍋磨きは、無心で打ち込むのには最適な作業であり、尚
且つ鍋もピカピカになるという、一石二鳥で合理的な作業である。
そのうち楽しくなって、鍋を磨くことに集中してしまったが、達成
感ですっきりとした。
﹁⋮⋮いつか、フリソスの傍で暮らす時も来るかもしれないけど⋮
⋮今はクロイツに帰るよ。あの街は、私にとって、もう故郷って言
える街なの﹂
無論、働きたいことだけが理由ではないのだが、ラティナはそう
やってフリソスに自分の意思を伝えた。
﹁プラティナ⋮⋮﹂
﹁私のこと、心配してくれるひとがたくさんいる街なの。⋮⋮それ
はとても嬉しいことだと思ってる﹂
﹁其方が⋮⋮そのように言える場所があるということが、幸いだと
思うべきなのだろうな﹂
1199
変わる様子のないラティナに、フリソスはため息を飲み込んで答
えた。
ヴァスィリオとラーバンド国の国交を、一刻も早く進めなくては
ならないと心に決める。
ラティナはラティナで、フリソスの気持ちは嬉しいが、もう自分
は、﹃魔王陛下の妹姫﹄としての生活は出来ないな、と考えていた。
︵子どもの頃から⋮⋮﹃お姫さま﹄よりも﹃お嫁さん﹄の方が、素
敵だなって思ってたもんなあ⋮⋮︶
ラティナが最も憧れている女性は、デイルの祖母ヴェンデルガル
ドであったりする。たくさんの孫や一族に囲まれて、多くの人びと
に愛されながら穏やかに歳を経る。あんな風な﹃おばあちゃん﹄に
なりたいと、ラティナは願っているのだった。
綺麗なドレスやきらびやかな社交界に憧れる気持ちはあっても、
その中の一員になりたいとは思わない。
そんな風にラティナは、骨の髄まで庶民派思考に染まっているの
であった。
・
﹁前みたいに、もう会えないお別れじゃないから⋮⋮﹂
﹁⋮⋮そうだな﹂
﹁また、必ず﹂
﹁ああ。必ず﹂
自分を抱き締めるフリソスを、ラティナもまた抱き締めた。抱き
合う二人の同じ色の髪が、同じように白金の輝きを含む。
かつて別れの挨拶をした時は、慌ただしく、状況もよくわからな
いながら、もう会うことはないのだと−−苦しくて哀しいだけの別
れだった。
けれども今は違う。
1200
会うことは必ず出来る。
魔王を害することが出来る者は限られている。二人の魔王が望む
ことを邪魔だて出来る者などありはしない。
︵あの男にも、それだけは邪魔はさせぬ︶
内心で﹃唯一妨害をすることが出来る﹄であろう者相手に、啖呵
を切る。そうしながらフリソスは、ラティナと共に過ごせる同じ時
間を、より深いものにしようと妹を抱く腕に力をこめたのだった。
そして、そう長く日にちを挟むことなく、ラティナはデイルと共
にクロイツに帰ることになった。
ラーバンド国の正規の使節団が来た際、デイルがその場にいたこ
とを確認されるのは問題がある。救国の英雄とされている﹃勇者﹄
が、痴情のもつれで親善国の君主を暗殺しに行ったなどと、未遂で
あっても公式な記録に残される訳にはいかない。
帰宅の日。それはとても天気の良い朝だった。
ラティナにとっては知らない期間、移り巡った季節は動いて、暑
い気候のヴァスィリオでも、春の比較的過ごしやすい気候になって
いた。広がる空は、優しい淡い青で、見送るフリソスは日の光に目
を細めた。
クロイツ
ぱさり−−逆光の中、黒い影絵となった灰色の幻獣は翼を動かし
て、目的の方向へと向かって行ったのだった。
1201
青年、白金の娘と帰還する。︵前︶
デイルとラティナ二人を乗せても、ハーゲルは問題なく空を駆け
た。勿論それは、魔術に長けたラティナの存在も大きい。
無理するなよ?﹂
重量を軽減する魔術を継続し続けるラティナに、デイルは不安気
な声を掛けた。
﹁まだ本調子じゃねぇだろ?
﹁そんなに心配ばかりしなくても平気だよ。寝てばっかりで、寝惚
け癖、ついちゃったかもしれないくらい﹂
そう言って微笑むラティナは、デイルの腕の中にいた。
ハーゲルが纏う鎧は、見目を重視した白金色のつくりであったが、
同時にデイルを背に乗せる際、鞍の役割を担う機能性も有したもの
だった。
デイル一人で乗るには充分なそれも、ラティナと二人となれば少
々手狭である。
だが、手狭であるならば、彼女とぎゅっとくっ付けば良いという
発想に至るデイルにとっては、問題は全くなかった。
﹁わふ﹂
ぱさぱさと、マイペースな調子で先行していたヴィントが速度を
落とし並走した。一言発して高度を落として行く。
﹁ヴィント?﹂
﹁なんだ?﹂
﹁何かあっちにあるの?﹂
首を傾げるラティナには申し訳ないが、デイルに心当たりはない。
ヴァスィリオに向かう往路のデイルは、頭に血の気がのぼりまく
った上で、彼女に知られる訳にはいかない程のどす黒い感情に充た
1202
されていた。悠長に周囲を見渡す余裕なんてものはなかったのであ
る。
﹁行ってみるか?﹂
﹁お願い出来る?﹂
﹁承知した﹂
デイルが口を挟む必要もなく、ハーゲルは即座にラティナの﹃お
願い﹄に応じた。
うん、そうなることはわかっていた。と、デイルは微妙な顔にな
る。そして、降下の為に体勢が不安定になるハーゲルの上で、ラテ
ィナがバランスを崩したりしないようにと、意識を向けた。
高度が落ちるにつれ、地上には複数のひとの姿があることを見分
けることが出来るようになった。町ではない。天幕が複数張られ、
見張りが周囲を警戒している。デイルはそれを見て取ると、シルビ
アの話にあった、クロイツとの間にある拠点であることに気がつい
た。
﹁あれが⋮⋮﹂
ならば、クロイツまでの帰路の最中、長旅となる途中安全に休息
が取れる場所となるはずだ。自分は問題ないが、ラティナを休ませ
る必要はある。などと、デイルは変わらずラティナ中心の思考回路
で考えていた。
地上の見張りたちも、空から下降して来たのが二匹の幻獣−−そ
のうちの一匹が見慣れたヴィントであることに気が付くと、警戒体
勢を解いて彼等を迎えた。
デイルは自分たちを迎える人物の姿に、多少驚いた顔となった。
﹁グレゴール﹂
﹁どうやらすっかり、元の通りであるようだな﹂
﹁どういう意味だよ﹂
﹁どういう意味も何も、そのままの意味だが﹂
1203
グレゴールはデイルと目が合った瞬間にそう言い、デイルは憮然
とそれに応じた。
﹁ご無沙汰してます、グレゴールさま﹂
﹁ヴァスィリオの王妹殿下に、敬称を付けられる立場ではないが⋮
⋮﹂
﹁グレゴールさままで、そういうの止めてください⋮⋮﹂
どこまで冗談なのか、グレゴールの動かない表情からはわからな
かった。ラティナは頬を赤くして、困ったような顔をした。
﹁⋮⋮ラーバンド国の軍が到着したのか?﹂
﹁ああ。魔獣の生息域なだけあって、安全性の問題は山積みだ。だ
ここ
が、思っていた以上に進んでいるようだ﹂
﹁クロイツの冒険者たちが、拠点を整備し、防衛してるって聞いて
いたんだが⋮⋮﹂
グレゴールから視線を反らし、デイルが周囲を見れば、見覚えの
ある冒険者連中が、遠巻きにこちらを窺っている姿を確認出来た。
思わず、反射的にラティナを抱き締める。デイルのその様子に、
ラティナは不思議そうに、こてん。と首を傾げた。
−−が、デイルのその動きで、相手はそこに目的の者が存在する
ことを確信した。
大地がどよめいた。
グレゴールに同行していたラーバンド国兵士は、後日、そう形容
した。
﹁妖精姫だーっ!!﹂
﹁うおおおおおおっ!!﹂
﹁やっほおぉぉぉっ!﹂
彼等にとっては、デイルなんてどうでもよいことが清々しい程に
はっきりとしている反応であった。正規の軍隊よりも迅速かつ的確
1204
に、﹁﹃妖精姫﹄発見﹂の報が拠点中に駆け巡る。
﹁ふぇっ!?﹂
驚いてびくり。としたラティナの反応すら、即座に伝達されてい
った。
﹁ふえっ、確認しました!﹂
﹁ふえっ、いつも通りです!﹂
﹁あいつら⋮⋮﹂
半目で唸るデイルに対して、ラティナはおろおろと、デイルを見
上げた。
﹁そんなにいつも、言ってる?﹂
気にするところは、そこであるらしい。子どもの頃からの幼い印
象の口癖だが、当人の心境をよそに、全く改善の目処はたっていな
い。
﹁⋮⋮可愛いから良いんじゃねぇか?﹂
﹁デイルのその言い方⋮⋮いつも言ってるってことだね⋮⋮っ﹂
ショックを受けた顔をしているラティナには悪いが、デイルもそ
こを否定してやれる度量はない。嘘だとわかりきっている言葉は、
彼女に対して使いたくないのだった。
﹁わふっ﹂
デイルが逸らした視線の先では、ヴィントが、大きな骨をがしが
しかじっていた。
デイルが、ヴィントがこの拠点を立ち寄る度に、おやつとして魔
獣の骨をもらっていたことを知るのは、もう暫く後のことである。
﹁心配かけて、ごめんなさ⋮⋮﹂
﹁構わない、構わないっ﹂
﹁気にするなっ﹂
﹁あの、でもね⋮⋮っ﹂
﹁無事な姿見れて、安心だからな﹂
1205
﹁これも俺たちにゃ仕事だ。気にするな﹂
そんなデイルから離れて、見覚えのある常連客の元に向かい、謝
罪をしようとしたラティナの声は、厳つい野郎どもの歓喜の声に呑
み込まれていった。
それに負けじと張り上げた声も、おっさんどもの大笑する声に掻
き消されていった。
そんな様子を見るデイルの表情も、知らないうちに緩んでいった。
彼女が、それだけ周囲から愛されていたのだと確認できることは、
彼にとっても感慨深い。
だが、どさくさに紛れてラティナの肩に触ったお前と、馴れ馴れ
しく手を握ったお前。それと、必要以上に近付くお前とお前。一度
天国を味わったんだから、ついでに地獄を見るのも乙なものだよな。
覚悟しておけ。
なんて、考えるデイルは、完全に通常仕様に戻っていた。
冒険者たちが騒ぐ姿を見て、呆気にとられていた兵士たちが、何
かに気付いたようにざわめきだした。
デイルが、疑問に思ったのとほぼ同時に、眼前のグレゴールが手
を打った。
﹁そういえば、デイル﹂
﹁なんだよ﹂
・
・
﹁無事に再会出来たことは喜ばしいが﹂
﹁が?﹂
﹁彼女には、あれのことは伝えたのか?﹂
﹁あれ?﹂
何のことだと問い掛けようとしたデイルの耳に、近場にいた若い
兵士の呟きが届いた。
1206
﹁⋮⋮妖精姫?
本物?﹂
︵﹃本物﹄って、どういう⋮⋮あ?
あぁっ!︶
ラティナは幼い頃から、﹃妖精姫﹄の二つ名を戴いている。愛く
るしいという言葉程度では到底足りない彼女は、﹃虎猫亭﹄の客た
ちにとって﹃看板娘﹄だけでは、とても言い表せなかった。
デイルもそれには同感だった。
だからラティナを指して﹃妖精姫﹄の呼称を出されても、﹃それ
は普段通りのこと﹄として、受け入れてしまった。
現在に於けるその呼称に別の意味が含まれることに気付くのが、
遅れた。
﹁あ⋮⋮﹂
だらだらと冷や汗をかきながら、視線を逸らしたデイルに、グレ
ゴールは溜め息をついた。
﹁言ってなかったのか﹂
﹁⋮⋮ああ﹂
肯定したデイルの後ろで、冒険者たちの歓声に、兵士たちの歓声
が加算された。
﹁な、何?﹂
目を白黒させるラティナは、何が起こっているのかは把握してい
ない。
冒険者の中の常連客−−﹃ちっさな娘親衛隊﹄の面々−−は、即
座に事態を把握していた。臨戦体制をとってラティナを守るような
布陣をはる。
﹁お前が、彼女をモデルにした意匠を使った為に、彼女の顔は諸国
の軍隊に知れ渡ってしまったからな﹂
﹁⋮⋮そうだな﹂
﹁幻獣を連れたお前の隣に彼女がいて、﹃妖精姫﹄の異名で呼ばれ
1207
ていたならば、このような反応にもなるな﹂
﹁うえ⋮⋮﹂
苦虫を噛み締めたような顔をするデイルの隣で、グレゴールは普
段よりも饒舌に現状の指摘をしていった。
追い詰められ、危うげだったデイルから、すっかり陰は払われて
いる。安堵すると同時に、まだ自分はもう一仕事終えた後でなけれ
ば、ローゼを迎えに行くことができない。その八つ当たりもある。
噂の﹃妖精姫﹄を前にして、たちまち混沌としていった現場を鎮
めようともせず、グレゴールはくつくつと、小さな笑いをこぼした。
デイルがどうやって誤魔化そうかと考えている間に、ラティナは
近くにいた常連客に大まかな話を聞いてしまったらしい。
説
級
遠目でもはっきりと、あわあわと、パニックになっていることが
見て取れる。
伝
自分のことが、尾びれ背鰭が、リバィアタンの如くついた状態で、
世界各国の間に広まっていることを知った結果−−今のラティナに
出来ることと言えば、
︵フリソスのところ⋮⋮帰ろうかな⋮⋮︶
引き籠ってしまうことも正解かもしれないと、遠い目で独白する
ことだけなのであった。
1208
青年、白金の娘と帰還する。︵後︶
大量の野菜を刻むラティナの周囲は、親衛隊によって警護がされ
ていた。なんだか﹃親衛隊﹄としては、正しい仕事だな、などと玉
ねぎの皮を剥くデイルは思ったりするのである。
包丁を振るうリズムは、リズミカルであるようで、時折妙なタイ
ミングで変調する。そんなところも彼女らしい。
﹁なんだか楽しそうだな﹂
﹁うん。楽しいよっ﹂
つい呟けば、満面の笑みで即答された。
気心知れた冒険者連中に厳戒体制が敷かれていたが、本日炊事を
担当していた者は、ラティナのそばで働いている。
普段ほやん。としたラティナであるが、自分の仕事に関わること
では非常にシビアである。その為、彼女に気を取られて自分の仕事
を疎かにでもすれば、ラティナからの評価は直滑降する。
ケニス
﹃客﹄であれば、多少の粗相にも寛大だが、仕事に関してはかなり
厳しい。師匠にそうやって仕込まれた彼女をよく知るデイルは、現
在に限ればラティナに見とれてしまうのも善し、としていた。
お触りは無論厳禁である。
﹁こういう役割も全部決まってるのに、我が儘言ってごめんなさい﹂
大丈夫なの
﹁まぁ、冒険者連中の場合、だいたい得意な奴が中心に持ち回るか
ら、仕事が楽出来て御の字って思うんじゃねぇか﹂
﹁でも、今回は、軍の人たちの分も一緒なんでしょ?
?﹂
﹁その辺りはグレゴールがうまくやるだろ﹂
世界規模のアイドル相当と化した、ラティナの手料理を、冒険者
1209
連中が独占したとしたならば、今後のこの場の運営に支障が出る予
測しか出来ない。
特別なことは出来ないけれど、自分のことを案じてくれた人びと
に、せめてお礼の気持ちを伝えたい。
そう思ったラティナがとった手段は、包丁を握ることだった。
握ったら、止まらなかった。
ヴァスィリオの生活は、よほど抑圧されたものであったらしい。
材料も限られ、設備も最低限の炊事場であるのに、嬉々として働
いている。
この様子を見ると、心配だからと安静にさせていたのが、回復に
手間取った理由であるのかもしれない。忙しい位が彼女にとっては
丁度良いようであるようだった。
﹁わんっ﹂
﹁ん?﹂
天幕の外から聞こえた声に、デイルが外を見ると、ヴィントとハ
ーゲルの父仔が獲物をくわえて佇んでいた。
駆け出しはおろか、中堅の冒険者でも、チームと装備を調えて挑
む大型の魔獣である。ちょっと暇だから狩ってきたという顔をする
のは止めて貰いたい。
﹁凄いねぇ。貰って良いの?﹂
﹁わふっ﹂
﹁ありがとう。ヴィントたちのぶんも何か作るからね﹂
ラティナはその辺りには頓着せずに、にこにこと笑っている。彼
女が楽しそうなら致し方なしと思いつつ、デイルは袖を捲って立ち
上がった。
﹁ラティナ、お前こういうの捌けねぇだろ?﹂
﹁うん。やっぱり出来るようになりたいなぁ﹂
1210
即答する彼女は、どこまで食のプロフェッショナルになるつもり
なのか。
﹁俺の方で下処理しとく﹂
﹁ありがとう﹂
デイルの郷里であるティスロウは、狩りが盛んな土地である。
子どもの頃から当たり前のように、仕留めた獲物を処理する様子
を見てきた。大人の男なら、誰もがある程度出来て当然であるとい
う生まれなのであった。
そんな一種の職業病なのか、自分でも納得のいく皮剥ぎが完了し
たとき、ちょっと楽しくなってしまった。
ラティナのことをあまり言えなかった。
この夜の夕食は、ラティナが張り切り過ぎたことがわかる豪勢な
ものとなった。ヴィントたちの狩りの成果を用いた肉料理も、彼女
はうまく調理してみせた。
魔獣の生息域内であるため、本来は見張りに幾らかの人員を割い
ているのだが、現在は全ての人びとが集って食事を楽しんでいる。
現在は、ヴィントとハーゲルの父仔も、﹃食事﹄の最中なのであ
った。
ひとを遥かに越えた探知能力を有する幻獣が二匹、周囲を遊撃し
て回っているのだ。そこに下手に交じれば、自分が﹃食事﹄になり
かねない。
多くの人びとが自分の作ったものを食べ、笑顔になる様子に、ラ
ティナは表情を緩ませていた。
﹁デイル﹂
﹁なんだ?﹂
﹁私、本当に幸せものだね﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
1211
ラティナはそう言って、こてん。と、デイルの肩に頭を載せた。
その為、デイルから彼女の表情は見えなくなったが、彼は肩に感じ
る幸福な温かい重みに、自分の表情を穏やかな微笑みにする。
﹁ありがとう、デイル﹂
﹁ん?﹂
﹁私のことを、諦めないでくれて。私を、温かい場所に戻らせてく
れて﹂
﹁⋮⋮ん﹂
﹁ありがとう﹂
酒精が入ったのか、視界の中の人びとの様子は、宴会の様相を呈
し始めていた。﹃虎猫亭﹄でいつも見ていた光景に重なるその様子
に、胸の中が充たされていく。
はぜる焚き火の音も聞こえない程の、賑やかな人びとの和やかな
声に、ラティナは幸せそうな顔で眸を閉じた。そのまま、こくりこ
くりと船をこぐ。やはり頑張り過ぎていたらしい。
デイルは苦笑−−穏やか過ぎて決して﹃苦﹄と言えるものではな
かったが−−して、彼女を腕の中にすっぽりと収めた。仔猫めいた
仕草で、無意識に自分にとって心地良い体勢を探したラティナは、
子どもの頃から変わらない調子外れの寝息をたて始める。
﹁⋮⋮デイル﹂
﹁なんだ?﹂
それを見計らった後で、グレゴールはデイルに声を掛けた。
両の手に持っていた杯の一つをデイルに渡す。仄かな酒精の薫り
がするが、デイルと同様戦場で泥酔することを良しとしないグレゴ
ールの持つ酒が、強いものだとは思わない。それ故、デイルは素直
に受け取った。
﹁クロイツに戻るのか?﹂
﹁そのつもりだ﹂
﹁これから大変だな﹂
1212
﹁⋮⋮お前こそ﹂
面倒くさい名声がつきまとうだけのデイルと異なり、グレゴール
には、公爵家直系の仕事も増える。﹃大変﹄の規模が異なる。
﹁父上は、しっかり俺の前にも、﹃御褒美﹄をぶら下げている。相
当こきつかうおつもりらしい﹂
だがグレゴールは微笑んでいた。苦になどしていないという表情
だ。
﹁御褒美?﹂
﹁たった一言だが、言質を下さった。﹃現状、我が家に今以上の権
力が集中するのは宜しくない﹄⋮⋮俺は、父上の跡を継いでも、政
略の為に名家の子女をめとる必要がないようだ﹂
それは、グレゴールを発奮させるには、充分な発言だった。デイ
ルもそれがわかっていたので、抑え切れないように小さく笑った。
本来ならば公爵家とは家格が釣り合わない女性を、グレゴールが
想っていることは、父親たる公爵閣下もよく知ることである。
﹁ヴァスィリオに向かわせたのも、父上の思惑の一端だろう。国内
の権力は弱いが、これから重要な意味を持つ隣国の後ろ楯だ。価値
は重い﹂
﹁ラティナは、ローゼになついてるからなぁ﹂
そしてそんな妹姫に甘いフリソスも、ローゼとそれなりに打ち解
けていた。国益に反することにまで手を貸すことはないだろうが、
利権を得ようと、今後蠢くだろうラーバンド国の諸侯よりは、圧倒
的に信頼を得ていると言える。
﹁まぁ、頑張れ﹂
﹁ああ。そのつもりだ﹂
杯を軽く合わせて飲み干す。
それだけのやり取りで立ち去った友人の背中を見送って、デイル
は、腕の中のラティナを、抱いたまま立ち上がった。
静かな、とは程遠い環境だが、このくらい賑やかな方が彼女は幸
1213
せそうに眠ることが出来るようだった。
﹁お騒がせしました、グレゴールさま﹂
﹁落ち着いたら、王都に来ると良い。その頃にはローゼもいる筈だ﹂
﹁はい﹂
和やかに別れの挨拶をするラティナとグレゴールを見守っていた
デイルは、ハーゲルの鞍に既に腰を据えていた。
昨夜早く寝たからと、朝早く起きたラティナによって、ハーゲル
は念願のブラッシングを受け、艶々のふかふかとなっている。
ラティナの隣で尾を振っているヴィントも、ふかふかであり、二
匹の幻獣のコンディションは最高潮だった。
見送る人びとに手を振るラティナを引き寄せ、鞍に乗せる。その
まま手を振り続けているラティナが落ちたりしないように、デイル
は彼女をしっかりと抱き締めた。
﹁ハーゲル、頼む﹂
﹁わん﹂
﹁それは止めろ⋮⋮﹂
急にヴィントを真似るという小ネタを交えながらハーゲルは翼を
広げた。ばさりと重い音をたてて、空へと高く舞う。少し遅れてヴ
ィントがその後を追うように飛び上がった。
その後は、特に夜営をすることもなく。−−ラティナは、ハーゲ
ルの上で時折居眠りをしており、ヴィントも、ハーゲルの頭の上で
休憩していたりしたのだが−−彼等はクロイツにたどり着いた。
空高い位置にある獣の影が、何であるのかかが見分けられるよう
になったのと同時に、クロイツを守る憲兵隊は警戒体制を別のもの
に変化させる。
1214
ある意味では、臨戦体制は続行である。
そして懐かしいクロイツの街並み。﹃踊る虎猫亭﹄のある風景。
胸いっぱいに迫るものを感じて、声を詰まらせるラティナとデイ
ルは−−
﹁ただいま﹂を言う前に、並んで正座でお説教を受けることになっ
ハーゲル
た。
成体の幻獣を街中に連れ込むのは、流石にアウトであった。
元親バカ
因みに、クロイツ南門の門番の職務放棄の点については、﹁幻獣
二匹と最凶の勇者という過剰戦力を前に、どうしろと﹂という当人
の主張が認められ、咎められることはなかったのだった。
1215
青年、白金の娘と帰還する。︵後︶︵後書き︶
コミカライズ三話配信されております。本当に﹃娘﹄は可愛いです
ねぇ︵駄目っぽい︶
1216
白金の娘、﹁ただいま﹂を言う。
﹁本当、いつになっても駄目なんだから、あんたは﹂
柳眉を逆立て、腰に手を当てるリタは、変わらない調子でデイル
とラティナに声を張る。
情報が集約されていたのが、﹃踊る虎猫亭﹄であった以上、ラテ
ィナがヴァスィリオの王妹であることも、デイルが国家規模の英雄
とされていることも承知のことだろう。
それでもリタは、﹃変わらない﹄姿で彼等を迎えた。
王妹や勇者といったシンボルではなく、ラティナとデイルという、
個人のままで彼等に接することを示したとも言える。
かつてこの場所を後にした時、デイルはリタに﹁待っているから
帰って来い﹂と言われた。それを実行してくれるのだと思った。
だからデイルは、自分でも驚く程すんなりと言葉が出た。
﹁リタ﹂
﹁何?﹂
﹁すまない﹂
﹁⋮⋮っ﹂
デイルがリタ相手に、こういったことを素直に言うことは少ない。
リタは呆気に取られた後で、言われた方が恥ずかしい、という顔を
する。
﹁ありがとう。⋮⋮ただいま﹂
﹁ちゃんと⋮⋮帰って来たんだから、良いのよ。⋮⋮お帰り﹂
リタの声が詰まったことは触れず、デイルは、ただ笑った。邪気
も照れもなく、素直に笑うことが出来た。
1217
﹁ラティナも、勝手にいなくなっちゃ駄目って、いつも言ってたで
しょう﹂
子どもの頃のお小言のように、リタはラティナに言う。
どれだけ大変だったかなど、おくびにも出さずに。空白の時間な
どなかったのだとでも言うように。
﹁出掛ける時は、行き先をちゃんと言う。約束だったでしょ?⋮⋮
心配、するんだからね⋮⋮﹂
﹁うん⋮⋮ごめんなさい、リタ﹂
デイルと違い、ラティナは笑うことは出来ないようだった。
ぽろぽろと大粒の涙を溢し、肩を震わせている。それでも泣き顔
をリタにしっかりと向けて、ラティナは微笑んでみせた。
﹁ただいま。長く留守にして、ごめんなさい﹂
﹁お帰りなさい、ラティナ﹂
お帰りなさいと迎えてくれる者がいるからこそ、﹁ただいま﹂と
言うことが出来る。
ようやく二人は、帰って来たかった﹃場所﹄に、帰って来たのだ
った。
﹁ねぇね!﹂
リタの小言が終わるまで、ケニスによって捕まっていたテオが、
歓声を上げて駆け寄って来た。
記憶の中にあるよりも大きくなったテオの姿に、ラティナは共に
過ごすことの出来なかった時間を察して、涙を更に溢れさせた。
﹁ねぇねは泣き虫だなぁ﹂
テオは困った顔で笑いながら、ラティナにぎゅっと抱き付いた。
柔らかく良い匂いがすると、デイルが常日頃賛美するラティナの胸
元に、幸せそうに顔を埋める。
1218
﹁ごめんね。ごめんね、テオ⋮⋮っ﹂
﹁ごめんじゃないよ?﹂
﹁⋮⋮ただいま、テオ﹂
﹁お帰りなさい、ねぇね﹂
ちいさな弟分にこんなことを言われては、ラティナが泣くのを止
めることなど出来なかった。
ラティナは、テオにすがり付くようにして、本格的に泣き始めた。
釣られたように泣くリタの隣には、いつの間にかケニスがいる。
気の強いリタが、泣き顔を周囲に見られなくて済むように、自分
の胸を妻に貸している。ケニスの足元では、ちいさな幼児がきょと
んとした顔で、泣く母親とラティナを見ていた。
﹁⋮⋮子どもがいると、時間が経ったのがよくわかるな﹂
﹁そうだろ﹂
ケニスも静かに笑い、よちよちと歩く自分の娘を片手で抱き上げ
る。父親と同じ色の髪をした女の子は、ここからデイルが旅立った
日には、まだ言葉も覚束無い赤ん坊だった幼子だ。
﹁まあ、それでもやり遂げたんだから、良いだろう﹂
ケニスはそうやって、及第点を﹃弟分﹄に告げる。デイルも口元
を歪めて笑みを返した。
﹁⋮⋮ただいま﹂
﹁ああ。よく無事に帰った﹂
二人の声に気付いたラティナが顔を上げる。
⋮⋮
ケニスの姿を確認すると、泣き声のまま、必死に声を張り上げた。
﹁ただいま﹂
﹁ああ。仕事は溜まってるぞ。また頑張ってくれるんだろ?
お帰り、ラティナ﹂
そんな父親の姿を見て、幼いエマが親と兄を真似て声を出す。
﹁おきゃーりなちゃい?﹂
1219
﹁ただいま、エマ﹂
帰って来られて良かったと、失わなくて済んで良かったと−−ラ
ティナは大切な温かい場所に、ようやく帰って来られた幸福を胸い
っぱいに感じていた。
改めて周知する必要もなく、ラティナとデイルが帰って来たとい
う話は、クロイツ中の﹃必要な場所﹄に広まっていった。
緊急事態に精度を磨きあげられた、クロイツの某組織の仕業であ
る。末恐ろしさすら感じた。
ただ﹃広まっていった﹄だけならば、救国の英雄たる﹃白金の勇
者﹄を一目見たいという輩も集まって来るだろう。だが、そういっ
た野次馬は一切現れなかった。
﹃白金の勇者﹄というふたつ名を、意図的に広めた意思も感じた。
何せ普段のデイルは、茶色まじりの黒髪に黒いコートという、地味
な外見なのである。﹃白金﹄とは程遠い。
そして事実を知る人びとには、﹃白金の勇者﹄のふたつ名も世間
とは異なって捉えられている。白金色の鎧を纏っているからの異名
ではなく、白金色の少女の為だけに働くという、事実故の残念な異
名であることも、同時に知れ渡っているのである。
わんこ
﹃虎猫亭﹄の裏庭には、テオと遊ぶわんこが二匹に増えていた。あ
とうにん
れは幻獣などではなく、﹃犬﹄である。
当犬が﹁我が﹃犬﹄とされるのも、それが流儀であるならば致し
方なし﹂と言っていたので﹃犬﹄なのである。
大人たちが、一斉に視線を泳がせる無理のある設定であったが、
﹃誰が何と言っても犬﹄で押しきる口裏合わせは済んでいたのであ
った。
常連客の誰よりも先に、一報を聞き付けて﹃虎猫亭﹄に駆けつけ
1220
たのはクロエだった。
仕事を途中で放って来たのだろう。普段着のワンピースの裾には、
まち針が何本か留められている。息を乱したクロエは、何故だか大
きなクッションを抱き締めていた。
﹁クロエ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮この⋮⋮っ﹂
ラティナの姿を確認すると、クロエは抱きかかえていたクッショ
ンを振りかぶる。
﹁バカラティナっ!﹂
ぱすんと、ラティナの頭にクッションを振り下ろした。
﹁ひゃっ﹂
クッション
ぱすんぱすんと、クッションによる殴打は連続した。
どうやらこのために、打撲武器を持参したらしい。
また、勝手に悩んで、勝手に独りで突
ごめんなさい、クロエっ!﹂
﹁本当に、本当にバカっ!
っ走って!﹂
﹁ごめんなさいっ!
﹁心配する方のことも、考えろって、いつもあんなに言ってるのに
!﹂
本当にバ
クッションによる殴打の間隔が狭くなる。ぱすんぱすんが、ぱす
反省しても繰り返したら、意味ないのっ!
ぱすぱす程度の間隔になった。
﹁バカっ!
カっ!﹂
﹁ごめんなさい、ごめんなさいっ﹂
それでもラティナは、クロエの攻撃から逃げようとはしなかった。
頭を庇う仕草のまま、クロエの殴打にされるがままとなる。
﹁バカっ!﹂
﹁ひゃんっ﹂
最後にクロエが、力いっぱいクッションをぶつけると、流石にラ
ティナは驚きの声を発した。
だがその直後、クロエによってぎゅっと抱き締められる。
1221
顔は見えない。それでも視界に入る親友の肩は震えていて、ラテ
ィナは、自分もまた涙を滲ませた。
﹁バカラティナ⋮⋮﹂
﹁ごめんなさい、クロエ⋮⋮﹂
心配してくれたひとがいる。
それがこれだけ嬉しいなんて言ったら、この親友に、当たり前の
ことを言うなと、また怒られてしまうだろう。
だからラティナは何も言わずに、親友をただ抱き締めた。
クロエが泣き止むまで、ずっと、そのままでいた。
﹁ただいま、クロエ﹂
﹁⋮⋮お帰り。帰って来るのが遅いのっ⋮⋮バカラティナ⋮⋮っ﹂
掠れた親友の声は、罵倒の言葉だというのに、優しい響きを含ん
でいた。
払い
満員御礼という言葉で言い表せ無いほどに、本日の﹃踊る虎猫亭﹄
は、客が押し寄せる事態になっていった。
﹁これは、会計も注文も受けるのは、無理だな﹂
﹁大丈夫よ。今日の分は全部デイルが払ってくれるから﹂
﹁そうか。なら良いか﹂
﹁相変わらずお前ら、俺に対して酷ぇよな﹂
スポンサー
﹃虎猫亭﹄の夫婦は、そうそうに、本日は酒も料理もデイル
の無礼講とすると決める。デイルは、半目でそんな夫婦を見た。
﹁国から報償金のふたつやみっつ出てるだろう﹂
﹁それを、俺抜きで勝手に決められるのが⋮⋮﹂
文句を言おうとしたデイルの言葉は、
﹁ケニス、リタ。私が、今日の分のみんなのお支払するよ。心配し
てくれたお礼がしたいの﹂
﹁ラティナに払わせる訳ねぇだろっ!?﹂
ラティナが口を挟んだことで、あっさりと転回された。
1222
たたかい
デイルも本心から嫌がっているわけではない。ラティナとイチャ
イチャ出来ない分を、労働に勤しみまくっていたデイルの財布は、
一晩やそこら、下町の酒場を貸し切っても痛まないのである。
ケニスが次々と作る料理を、ラティナは両手でせっせと運んで行
く。客で埋め尽くされた店内は、移動することすら難しいが、彼女
は危うげなく大盛の皿を空いたテーブルに並べていった。
﹁嬢ちゃん、こっちにもつまみだ!﹂
﹁はーいっ、ちょっと待っててっ﹂
明るい声で答え、視界に入った空いた皿を掴んでひょいひょいと
重ねていく。下げようと踵を返したラティナに、周囲の客たちは隙
間を作り協力した。
﹁ラティナっ﹂
﹁嬢ちゃん﹂
と、彼方此方から声が飛ぶ。名を呼ばれる度に、彼女は心底嬉し
そうに微笑んで、元気の良い返事をして回っていた。
﹁はいっ、すぐに行きますっ﹂
長い不在の期間のことを、聞きたくはないという訳ではないだろ
う。
それでも皆、今は、明るい笑顔の少女がこの場所に戻って来たこ
とを、ただ噛み締めていた。
﹁ラティナ、次のつまみ上がったぞっ﹂
﹁はいっ﹂
厨房で張られたケニスの声にも、楽しげな響きがある。
軽い足音で厨房に戻って来たラティナは、空になった皿を洗い場
に置いて、新しく完成した料理を受け取った。
そんなラティナの姿に、ケニスの目元は自然に下がった。
これほど忙しいのは、この店開店以来初めてのことだろう。だが、
苦痛ではない。
1223
それにこれだけ楽しそうに働く少女の前で、店主たる自分が情け
ない姿を見せる訳にはいかない。そんな思いが胸を占める感覚も、
久しいものだった。
リタはひたすら酒を注いでいた。
樽を幾つか放出して、勝手に飲めるようにもしていたが、それだ
けでは、この大酒飲みは満足しないようだった。
ごめん、新しい樽出すの手伝って!﹂
頭の中で在庫と金額を計算しながら、奥から新しい酒瓶を並べる。
﹁ラティナ!
﹁うん、わかった!﹂
酔っぱらいどもが文句を言う前に、補充の樽を運び出す。リタで
は重くて動かせないそれも、ラティナは魔術を使い、難なく店の中
まで運んでみせた。
﹁ありがとう、ラティナ﹂
﹁うんっ﹂
リタの礼の言葉に、目映いばかりの笑顔が帰ってくる。リタもそ
れに応じるように、にこりと優しい笑みを浮かべた。
デイルは、そんな様子を見ていた。
ラティナを中心に、皆優しい表情をして、笑っている。
かつての自分もそうであったように、彼女にはいるだけで、周囲
を癒し笑顔にする力がある。
そして、中心にいるラティナも、幸せそうだった。
︵なら、それで良いよな︶
無理はするなよ﹂
心の中で呟いて、手の中の杯を飲み干した。
﹁デイルっ﹂
﹁大丈夫か?
﹁大丈夫だよ。忙しいけど、凄く楽しいの﹂
1224
ほんの一時、手が空いた時を見計らって、ラティナはデイルの元
に駆け寄って来た。手首に嵌めた婚約記念の腕輪が髪をかきあげた
瞬間に光る。
デイルは微笑みながら、誰よりも大切な女性の頬に口付けを落と
す。頬ぐらいで留めて置かなければ、止まらなくなってしまうので、
今は我慢するしかなかった。
﹁ん?﹂
﹁なあに?﹂
その時デイルが首を傾げたのは、この店では本来ご法度である筈
サーガ
なのに、吟遊詩人が商売道具を広げたからだった。周囲もそれを咎
めることなく、様子を窺っている。
やがて流れ出したのは、﹃最も新しい英雄譚﹄だった。
﹁悪趣味なことしやがって⋮⋮﹂
眉間に深い皺を寄せるデイルに対して、ラティナはよくわかって
いない顔をしている。
こいびと
サーガ
﹃勇者﹄が、奪われた﹃妖精姫﹄を取り戻すべく、数多の障害を打
ち払い、邪悪な魔王すら打ち倒す−−何処にでもありそうな英雄譚
である。深く考えず、聞き流してくれれば良いだろう。
デイルは、転げ回りつつ、周囲のテーブルをひっくり返したいよ
うな衝動を、そうやって考えることで誤魔化した。
﹁でも、まあ、良いか﹂
﹁ん?﹂
サーガ
不思議そうに首を傾げるラティナを、腕の中に抱き締めて、デイ
ルは笑った。
﹁こういった物語の結末は、だいたい﹃末永く幸せに暮らしました﹄
ハッピーエンド
だもんな﹂
﹁物語は幸せな結末の方が良いよね﹂
1225
﹁だな﹂
あまりよくはわかっていなそうだが、ラティナも微笑んで答えた。
サーガ
流れる英雄譚は、クライマックスを迎え、﹃勇者﹄は無事に愛す
・
・
る姫との再会を果たしている。
この曲に続きが作られる日が来たとしても、それはきっと幸福な
物語であるに違いない。
﹁めでたし、めでたし、の後も、幸せでいような﹂
囁くデイルに、ラティナは、微かに恥ずかしそうな色を浮かべて、
答えた。
﹁デイルと一緒なら、私はいつも幸せなんだよ?﹂
﹁じゃあ、ずっと一緒にいれば良いな﹂
﹁うん﹂
﹁そうして、心優しき﹃妖精姫﹄は、愛する﹃勇者﹄といつまでも
サーガ
幸せに暮らしました﹂
英雄譚の調べが、そう締め括られた時−−二人は幸福そうな笑顔
を交わしあって、誓いの口付けのように、唇を寄せ合ったのだった。
1226
白金の娘、﹁ただいま﹂を言う。︵後書き︶
これにて﹃うちの娘﹄本筋のストーリーは締めとなります。
長く書き続けることが出来たのも、お読み下さる皆さまのお蔭と存
じます。一つの節目をもちまして、深く御礼申し上げます。本当に
ありがとうございます。
こう書くと最終回のようですが、まだ、当分終わりません。
まったり日常話の﹃後日譚﹄と、﹃娘﹄が故郷にいた頃の﹃前日譚﹄
を、暫し続けて参る予定となっておりますので、今後もお付き合い
下さいませ。
CHIROLU
1227
後日譚。白金の娘と、美味しいごはん。壱︵前書き︶
更新は、基本、今まで通り毎週土曜日の朝を予定しております。
後日譚というよりは、裏話となる今回です。
1228
後日譚。白金の娘と、美味しいごはん。壱
色々とあった−−と、簡潔に言い表しては後年の歴史学者が嘆く
ような出来事を経て、無事にクロイツへとデイルとラティナが帰っ
て来た日。
夜の酒場の本営業の前に、早めに夕食をとることになった。
来るなと言っても、今晩は、死ぬほど多くの客が詰めかけること
になるだろう。現に今も、特にすることもない癖に、常連どもは帰
ろうともせずに客席を陣取って待ちの態勢に入っている。
﹁ふあぁぁぁぁああっ﹂
そこでラティナから発せられた声は、感嘆というよりも、歓喜の
声だった。弾むような足取りで皿を運び、テーブルに置く。椅子に
座っても尚、彼女は、うきうきとはしゃいでいる。
﹁そんなたいしたもんでもないだろう﹂
困惑しながら更に料理の皿を置いたケニスに、ラティナはとんで
もないと、顔を勢いよく上げた。
﹁久しぶりのケニスのごはんだよ!﹂
﹁⋮⋮まあ、俺の料理は久しぶりだろうが⋮⋮﹂
﹁これがどれだけ素晴らしいことか、どうしたらわかって貰えるん
だろう⋮⋮っ﹂
ラティナの目には、ちょっと涙が滲んでいた。
あまりのラティナのテンションの高さに戸惑って、ケニスが彼女
の隣のデイルを見れば、彼は苦笑を浮かべていた。
﹁あっちは⋮⋮ちょっと大変だったからなぁ⋮⋮﹂
﹁フリソスには悪いけど、やっぱりヴァスィリオでは暮らせない⋮
⋮﹂
1229
行儀の良さでは定評のあるラティナが、珍しくぱくりと、パンの
切れ端をつまみ食いした。そのまま文字通り噛み締めて、じーんと
感動に浸っている。
﹁デイル、ごはんが美味しいよ⋮⋮っ﹂
﹁良かったなぁ﹂
元親バカ
未だ﹃親バカ返り﹄から戻りきっていないデイルは、よしよしと
彼女の頭を撫でた。とはいえ、今のラティナには、デイルでなくと
も、思わずそうしてしまいたくなる雰囲気があった。
﹁⋮⋮何があった?﹂
自分たちの知らない何が起こっていたのかと、深刻になりかけて
いるケニスに、デイルは苦笑を浮かべたままの顔を向ける。
﹁何て言うか⋮⋮ヴァスィリオは、飯が異常に不味かった﹂
﹁⋮⋮は?﹂
﹁そりゃあ、びっくりするくらい、不味かった﹂
﹁⋮⋮はあ﹂
あまり深刻ではない話題だった。
だが、その事態に直面した当人たちにとっては、決して﹃深刻で
はない問題﹄ではなかった。
﹁ごはん⋮⋮美味しいよ⋮⋮美味しいよ⋮⋮﹂
感涙しながら食事を始めているラティナの姿は、その一端をあり
ありと語っている。
本格的にえぐえぐと泣きながら、彼女はケニス謹製のジャムをパ
ンに山盛りに載せて頬張っていた。その直後に香辛料とハーブでマ
リネした鶏肉のグリルを一口食べて、溢れる肉汁に頬を押さえ感動
に震える。
甘いものとしょっぱいものを交互に食べることは、如何なものだ
ろうかなどと思ってしまうのは、常のラティナは、研究の為にか、
1230
それぞれの料理の味をじっくりと確かめながら食事をしていくから
である。このように、とりとめなく思いつくままに口に入れること
は、非常に珍しい。
﹁⋮⋮お前ら、ヴァスィリオの王城にいたんじゃないのか?﹂
﹁ごはん、美味しい⋮⋮﹂
フリソスラティナ
﹁一応城になるんだろうし、扱いも悪いもんじゃなかった﹂
姉が妹を溺愛している為に、貴人相当の扱いをされていたのはデ
イルにもわかる。
﹁だからこそ、あの不味さは驚きだ﹂
﹁そこまで言われると、逆に興味が湧くな⋮⋮﹂
真顔で考え込むケニスに、ラティナは口の中のものを飲み込んで、
きっぱりと答えた。
﹁ヴァスィリオのごはんを食べると、美味しいごはんの幸せさを凄
く感じる﹂
﹁言い切ったな⋮⋮﹂
﹁フリソスは、頑張って、ラーバンド国との文化交流するべきだと
思うの。特に食文化⋮⋮お願いだから、食文化⋮⋮改善して欲しい
⋮⋮﹂
ラティナが手にした次のパンにも、ジャムがこんもりと載せられ
た。
﹁ごはん⋮⋮美味しい⋮⋮﹂
・
・
﹁さっきからそればっかりだなぁ⋮⋮﹂
﹁ちいさい頃は、あれが普通だったし⋮⋮クロイツに来て、自分が
暮らしていた環境は、ちょっと普通じゃないものだってわかったか
ら、ああいうごはんも、だからだったからなのかなって思ってたの﹂
﹁そうか⋮⋮﹂
遠い目をして言うラティナの顔には、ある種の達観があった。
﹁ヴァスィリオでの私の立場は微妙だから⋮⋮政治に関わるのは怖
1231
いし⋮⋮フリソスが、私の言葉で左右されちゃうのは、もっと怖い﹂
ラティナが、頑なにクロイツに帰ることを主張したのは、そうい
った恐ろしさを感じていた為だった。
フリソスは否定し、ラティナもかつてほど深刻には考えていなか
ったが、﹃罪人﹄とされ、追放された過去は覆ることはない。それ
ヴァスィリオ
を心良く思わない者は、あの国には多く存在しているだろう。
あの国で﹃角を折られる﹄ということは、それだけ大きい意味を
持っている。
﹁会えない訳じゃないし⋮⋮フリソスの治世が安定したら、状況も
変わるだろうけど⋮⋮今はまだ、私の﹃ただいま﹄を言う場所は、
クロイツなの﹂
にこり。と微笑んだラティナは、たっぷりの野菜を煮込んだ﹃虎
猫亭﹄定番のスープを飲んで一息つく。無論ケニスは母親ではなか
ったが、この味はラティナにとっての﹃おふくろの味﹄のようなも
のだった。
﹁それに⋮⋮ヴァスィリオのごはんが美味しくないのは、本当につ
らい﹂
﹁そこに戻るんだな﹂
﹁流石に、フリソスには言えなかったの⋮⋮ごはんが美味しくない
から、ヴァスィリオでは暮らせないって⋮⋮﹂
クロイツでも料理自慢で知られた﹃踊る虎猫亭﹄育ちのラティナ
にとって、食事のクオリティは非常に重要である。
﹁いっそ、私にやらせてくれれば良いんだけど、そういう訳にもい
かなかったし⋮⋮﹂
﹁流石にそういう訳にはいかんだろう﹂
ラティナがヴァスィリオの元首、﹃黄金の王﹄の妹姫であること
は、﹃虎猫亭﹄の面々も既に知るところである。
1232
﹁そう言いながらラティナ、お前時々、厨房に入り込んでいただろ﹂
デイルがそう口を挟めば、ラティナは気まずそうに、さっと視線
を逸らした。
デイルは﹃八の魔王の眷属﹄となったことで、ほとんど食事や睡
眠を取らずとも行動を続けることが可能になっている。
その為、ヴァスィリオの食事事情には、当初、全く意識を向けて
いなかった。
最低限の栄養さえとれれば、味など気にする暇もない。全ての時
間は、未だ一日の長い時間を夢の中で過ごすラティナを見守ること
に割いていた。
ラティナ
というよりも、彼女を見ているだけで、この時のデイルは何より
も満たされた。三大欲求よりも優先されるのは、﹃うちの娘欠乏症﹄
の特効薬だった。
やがてラティナの体力が回復しはじめ、動き始めるようになった
頃、デイルもようやく﹃食事﹄を気にするようになった。
不味そうな顔というよりも、非常に悲しそうな顔をして、食物を
咀嚼するラティナの姿を見るようになったからとも言える。
﹁⋮⋮ラティナ?﹂
﹁ごはんが⋮⋮美味しくない⋮⋮﹂
初めは、彼女の体調が優れないのだと思った。
デイルが、ずっと幼い頃から見てきたラティナは、毎日、見てい
る方すら幸せになる様子で食事をしていた。
食事を楽しむことが出来ないほど、まだ回復していないのだと思
った。
1233
そんなデイルも、ラティナと共に食卓を囲み、出された食事を口
にして理解する。
﹁不味っ!﹂
思わず叫びつつ、ふと気付いた。
どうやらラティナは﹃不味い﹄という表現が嫌いであるようであ
る。つくづく﹃食事﹄が好きな娘であるようだった。
﹁うわぁ⋮⋮驚くぐらい不味いな⋮⋮﹂
人間族の
デイルが、ずけずけと本音を漏らすのは、離宮にいるのがラティ
ナと魔人族の侍女たちだけであるからだった。
ことば
フリソスならばともかく侍女たちは、デイルが普段使う﹃西方大
陸語﹄を解さない。
元々卓の上の料理は、外観からしてラーバンド国のものとは異な
って言われてる。
魔人族言語
****
******
***
******
で漬け込んで焼くの﹂
だったと思う。
を
の肉
と一
っていた。その為、味の想像もつかなかったのだが、これは想定外
だった。
***
﹁ラティナ⋮⋮これ、なんだ?﹂
﹁
緒に煮込んだもの⋮⋮だったはずだよ﹂
と
******
﹁⋮⋮じゃあ、こっちは?﹂
***
﹁確か⋮⋮
を
必要な情報の大半は伏せ字だった。
全くわからなかった。
デイルが始めに指したのは、恐らく何らかの穀物で使った粥のよ
うなものだった。粒が所々に浮いた糊のような、よくわからない物
体である。味はほとんど無い。だが飲み込むことも難しいねとりと
した食味が、非常に理解しがたい。ざらざらと粒が残っているのも、
尚更理解できない。
1234
次に指したのは、一応肉料理であることがわかる物体である。
狩人の一族であるデイルは、まず食肉の処理が悪いことに気が付
いた。この獣の肉は、満足に下処理もされていないらしい。酷く臭
みが強い。しかも、肉汁が抜けきってパサパサした食感のところに、
ハーブというには癖の強い、薬膳のような香りと苦味が付いていた。
正直に言って、不味い。
デイルが、人間族であるからそう思う訳ではないようで、ラティ
******
って果物
ナは、悲しい顔をして、もそもそと硬い肉を咀嚼していた。
﹁ヴァスィリオで⋮⋮一番のご馳走は、
だよ⋮⋮﹂
﹁そのまま食うのか?﹂
﹁うん。そのまま⋮⋮﹂
それは料理とは言わない。
デイルはそんな風に、ヴァスィリオが非常に飯マズ文化圏である
ことを知ったのであった。
1235
後日譚。白金の娘と、美味しいごはん。弐
﹁子どもの頃もね⋮⋮ごはんは、こういうのだったから⋮⋮これが
﹃普通﹄だったの。だから初めてケニスのごはん食べた時びっくり
したんだよ。色々なものが色々な味がして﹂
ラティナが初めてクロイツで食事をした時−−と、記憶を辿って
デイルは思い出した。彼女はあの時、ケニスが作ったデザートに目
を輝かせていたはずだ。
﹁⋮⋮甘いものってのは⋮⋮?﹂
﹁果物くらいしか思い出せない⋮⋮﹂
﹁そうか⋮⋮﹂
森の中の生活で、満足な食事が出来ていないからだと思っていた
が、それ以上の衝撃であったようだ。
﹁ヴァスィリオは⋮⋮あんまり作物が採れないみたい。でも、魔人
族は、大人の男のひとでも、人間族ほどごはんの量食べないから⋮
⋮なんとかなっているんだと思う﹂
昔を思い出すようにして、ラティナは言った。
﹁そういや、乾燥地帯に囲まれてたな⋮⋮﹂
ハーゲルから見た地上の光景は、広大な荒野に囲まれているとい
コルモゼイ
う印象のものだった。
﹃橙の神﹄の加護でもあれば、こういった場所でも充分な収穫が見
込めるだろうが、それは恒常的な手段とは言いがたい。
環境の厳しいヴァスィリオは、作物の収穫量が少ない。
しかも、他国との交流を断っている為、食物を輸入することが出
来ない状況である。
とはいえ魔人族は、元々頑強な種族であり、他の人族に比べて摂
取するべき栄養分が少なくても、生命維持に支障がない。
1236
結果、得られるものが限られているが故に、食事とは、必要最低
限の栄養を摂取する目的を重んじて、楽しむという観点を取り除い
ていった背景がある。
更に幼いラティナは知らなかったことだが、先代の﹃一の魔王﹄
は、だいぶ保守的な考え方をしていた王であった。新たな魔王であ
るフリソスが即位するまでは、その治世を基本的なスタンスとして
置かれているといった政治情勢も関わっていたのである。
一方、クロイツはラーバンド国でも栄えている街だ。王都と港の
中継点にあり、物流の要所で、物資は豊かである。
更にラティナが師事したケニスという男は、様々な地域の料理と
食材を研究することの方に、人生の目的を置いていた男だ。優秀な
冒険者であり、重戦士として一流の腕を持っていた−−というのも、
目的の為の手段に過ぎない。
事実、まだ現役を退くには早い年齢にも拘らず、あっさり﹃踊る
虎猫亭﹄の入り婿になって冒険者を引退してしまった。
そんなケニスが腕を振るう﹃虎猫亭﹄は、様々な料理とレシピに、
下町の酒場の基準ではあり得ないほどに、触れることの出来る店な
のである。
ラティナは、そんな環境で育ってしまった。
ヴァスィリオ
もう今のラティナは、生まれ故郷の食文化に、戻ることは出来な
いのである。
﹁そういや⋮⋮ローゼは食事どうしてるのかな⋮⋮?﹂
ふと漏らしたデイルの呟きに、ラティナの目が泳いだ。
酷く葛藤している顔をして、やがて力なく下を向いた。本当に感
情が全て面に出る娘である。
﹁⋮⋮フリソスの出したごはん⋮⋮私が食べないって⋮⋮問題ある
1237
気がする⋮⋮﹂
﹁まぁ、今のお前の立場じゃなぁ⋮⋮フリソスはあんまり気にしね
ぇかもしんねぇけど、周りがそう見るとは限らねぇからなぁ﹂
定期的にラーバンド本国と、やり取りしているローゼたちのもと
には、あちらの食材があってもおかしくはない。
そのことに思い至ってしまったことは、ラティナに更なる葛藤を
与えることになったのだった。
そして彼女は、わりかしあっさりと欲望の前に屈服した。
ふーん♪﹂
彼女は聖人君子でも雲上人でもない、俗世間にまみれた庶民派少
ふん♪
女なのである。
﹁ふん♪
跳ねるような足取りで廊下を進む。
毎日の神殿内の散歩の結果、厨房の場所を見つけてしまったのも、
我慢できない所以だった。
鍋を磨くのは、楽し過ぎた。手をかければそれだけ、ピカピカに
なっていく成果が視覚でも確認出来る。厨房の隅に置かれていた、
焦げ付いた鍋を見掛け、どうしても気になってしまったのが発端で
あったが、ついつい目につく鍋を磨きまくってしまった。
後悔はしていない。すっきりした。
元々この場は神殿であるが故に、娯楽と呼べるものがほとんど無
い。
読書をするにも、ラティナは魔人族の言葉を、話すことは出来る
が読み書きは出来ない。学ぶことの無いままに故郷を出てしまった
のだから、そこはどうしようもなかった。
することが無さすぎるのであった。
仕事中毒気味のラティナを大人しくさせておくには、適度な仕事
を与えることが最も有効であることを、フリソスはまだ理解してい
1238
ない。
−−フリソスが国主としてこなしている仕事量と、妹と過ごす時
間の為に鬼気迫る様子でそれらを解消していく姿を見ると、やっぱ
りこの姉妹の根底は似通っているのかもしれないと、デイルなどは
思っていたりする−−
ローゼ相手に﹁ごはんください﹂とは言えないラティナであった
が、現在ヴァスィリオには親友たるシルビアもいる。
子どもの頃から﹃良い子であらねばならない﹄という姿勢を崩す
ことの出来なかったラティナは、歳相応の愚痴や文句を、友人相手
に漏らすことの方が多かった。それもあって、彼女はシルビアに割
りと素直に愚痴をこぼしたのである。
しょんぼりと萎れるようにして、ラティナは訴えた。
﹁ごはんがおいしくない⋮⋮﹂
それを聞いたシルビアは、大笑いした。
因みにシルビアが、これ以前にラティナから聞いた愚痴は、﹁面
倒くさい﹂だった。全ての動作、着替えのひとつからちょっとそこ
まで散歩に行くことにさえ侍女が関わることが、ラティナとしては
非常に面倒くさいのである。
それは、向こうにとっても仕事であるから、ラティナも妥協とい
う名の我慢をしている。
唯一入浴だけは、ラティナは、我が儘を通して一人で入っている。
気を抜く時間がなければ、やっていられないのが本音なのであった。
﹁笑えるくらい、まっずいよね⋮⋮って言うか、魔人族の味覚から
も、まずいんだ?﹂
﹁おいしくないとか、おいしいとかってのは、他と比べることが出
来るからわかるんだよ。ここだと﹃ごはんはこういうもの﹄なんだ
1239
もの⋮⋮﹂
﹁飲み込めないくらい、まっずいって訳じゃ無いのが、絶妙なまず
さだよね﹂
一応食料としての役割は果たしているのだった。
最低限のみが保証されているという、印象でもある。
﹁飴ならあるよ﹂
﹁うわあぁぁぁっ﹂
シルビアが、何気なく手持ちの飴を与えてみれば、ラティナは目
をきらっきらに輝かせた。
小動物に餌付けをしたくなる気持ちがよくわかった。
﹁美味しい?﹂
﹁うんっ﹂
﹁良かったねえ﹂
食事の楽しみを奪われたラティナに、甘味を与えた結果、彼女は
若干幼児化していた。ひたすらに幸せそうな顔をして、小さなキャ
ンディを口中で転がしている。
﹁そういえば⋮⋮﹂
﹁ん?﹂
ごそごそと自分の荷物を漁ったシルビアは、平たい缶を取り出し
た。かぱりと開けると、独特の匂いが立ち上る。
﹁このくらいしか今はないけど、持ってく?﹂
王
そんなシルビアに、ラティナは、手を祈りのかたちに組んで、潤
んだ眸を向けた。
﹁シルビアっ⋮⋮神さまみたい⋮⋮﹂
魔
塩気が強いから、ちょっとだ
そのコメントは、曲がりなりにも﹃神の末席﹄に連なるものが発
して良いものではなかった。
﹁牛酪、うっれしいな、嬉しいな♪
け♪﹂
1240
スキップと呼称するには、独創的過ぎる足取りで、ラティナは廊
下を歩み、厨房へ突き進んでいった。
ラティナに従う侍女は、おろおろと後を追っていたが、今のラテ
ィナの意識の中には入って来なかった。
侍女の視点でのこのラティナの行動は、﹃白金の姫様の突然の奇
行﹄である。
軽やかな足取りで、神殿内部でも貴人の立ち入ることの無い区画
に突き進み、人間族の文化なのか、聞いたこともない不可思議な旋
律を口ずさんでいるのだった。
侍女が慌てるのも致し方ない状況であった。理解の範疇外の行動
であるのだ。
そして更に状況を混沌としているのは、妹姫に甘い﹃黄金の王﹄
から、ラティナの意向を出来るだけ汲むように命じられていること
だった。とはいえフリソスの価値観の中では、仕えられ傅かれるの
が当然であって、下働きのような仕事をするというものはない。
ましてやラティナが好き好んでそういった仕事をやりたがってい
るとは、フリソスも侍女たちも思ってはいなかった。
育ちの差が、そのあたりに出ていたのである。
結果として、侍女はラティナを止めるに止めれず、その意図もわ
からないという状況であった。侍女の心痛はかなりのものなのであ
る。
ラティナとしては、はしゃぎたくなるのも致し方ない状況であっ
た。
﹁蜂蜜までくれるなんて、本当にシルビアは優しいなぁ♪﹂
あまりのラティナの喜びぶりに、シルビアは、虎の子の蜂蜜の小
瓶も出したのだった。ラティナの様子は、とても使いかけの牛酪一
缶に対する喜び方ではなかった。それ故、シルビアもなんだか申し
訳なくなってしまったのである。
1241
そして、そこまでラティナが追い詰められている事実に、ちょっ
と同情したのだった。
片手に牛酪の入った缶、片手に蜂蜜の小瓶を持ったラティナは、
遠慮やそこで働く者の領分だとかといった、普段、気を遣っている
部分を全て明後日の方向に放り投げて−−厨房に突入したのであっ
た。
1242
後日譚。白金の娘と、美味しいごはん。参
牛酪の欠片を口に入れて確かめる。
クロイツで普段使っていたものとは、比べものにならないくらい、
ケニス
塩気が強い。保存性を高める為に、缶入りのものの中にはそうなっ
ているものもあると、師匠から聞いたことのあるラティナは、驚く
ことはなかった。
﹁やっぱり新鮮な牛酪よりも、風味は落ちるんだなぁ⋮⋮﹂
それでも久しぶりの味に、心は踊った。
﹁これだけしかないから、お菓子は難しいかな⋮⋮蜂蜜もこれだけ
だし﹂
呟きながら、厨房内を物色する。
フリソスの権限を悪用しないと心に決めていたラティナだが、今
この時に限っては、権限だろうが虎の威だろうが、使えるものは全
て使う心意気であった。
その結果行ったことは、厨房内の食材をちょろまかすという、糾
弾するのも困惑する、ささやか過ぎる横領なのである。
﹁穀物だし⋮⋮味はあんまりないから⋮⋮焼いてみようかな﹂
主食を作る穀物の粉に、適当に水を加え、かき混ぜて様子を見る。
せめてミルクの類いが欲しかったか、それらしいものは見つからな
かった。
小麦粉よりも粘りの強い生地となった穀物の粉は、均一に挽かれ
ていないのが見ただけでわかった。
﹁⋮⋮ふるいにかけたら、もうちょっと何とかなるかな﹂
思いは、どんな調理をして、どんな料理にするかというものに馳
せる。
1243
熱した金属鍋に大切な牛酪を少し落とし、溶けて良い香りが立ち
上ったところに生地を流した。ジュッと、高い音が鳴る。普段なら
ば一度鍋を火からおろして温度を下げるが、予想通り粘りの強い生
地は分厚く流れている。この程度の火力があっても良いだろう。
粉を水で溶いて焼いた、クレープもどきであった。
結論としては、余計な味が元々ないこともあり、焼きたてはヴァ
スィリオ方針で食べるよりも、よほど食べ物らしいものに仕上がっ
た。
焼きたてに牛酪を薄く塗り、蜂蜜を少しだけ垂らす。
塩気が強い方が、味のない生地には丁度良い。蜂蜜の甘みは、甘
さに飢えていたラティナにじんわりと染み渡った。
﹁⋮⋮うう﹂
ちょっと泣けた。
残った生地を焼き上げると、ラティナは冷めてしまう前にと、デ
イルの元へと走ったのであった。
﹁デイル⋮⋮作ってみたの、食べる?﹂
﹁ラティナの手料理をいらないって言う筈ねぇけど⋮⋮作ったって
お前⋮⋮﹂
皿を差し出して微笑んだラティナに、笑顔を返しながらも、デイ
ルは状況を察してしまった。
﹁厨房に⋮⋮入り込んだんだなぁ⋮⋮﹂
﹁ちょっとだけだもん。ちょっとだけっ﹂
デイルの妙に生あたたかな視線に、ラティナは必死で、情状酌量
の余地をアピールした。
﹁冷めちゃうと、たぶん美味しくないから、温かいうちに食べてみ
て﹂
﹁おう﹂
もちっとした生地は、小振りなサイズで半分に畳まれていた。
1244
デイルが、勧められるままに口に運ぶと、ふわりと甘い香りが立
ち上る。
牛酪の塩気と蜂蜜の優しい甘みが口中に広がった。
﹁ラティナの作ったものだから、なんでも旨いって言ってやりたい
んだが⋮⋮﹂
﹁うん﹂
デイルの前のラティナは、同じものを両手で持って、もちもちと
頬張っていた。
﹁すっげぇ旨いもんではないよな﹂
﹁うん。ちょっといまいち﹂
有り合わせにも程がある適当な材料で作った自覚のあるラティナ
は、自分の作ったものに、的確な判定を下していた。
﹁でも⋮⋮食いもん喰ってるって⋮⋮久しぶりだなぁ⋮⋮﹂
﹁うん⋮⋮﹂
頷くラティナは、ちょっと眸を潤ませていた。
﹁ごはんって大切だね⋮⋮﹂
しみじみと言うラティナの姿に、デイルは何かが壮絶に間違って
いるような気もしたが、指摘することはなかったのだった。
その直後、ラティナは何かを離宮の片隅に並べ始めた。
デイルがちらりと覗いて見れば、幾つもの容器の中に、果物らし
きものが水の中に沈んでいる。
﹁なんだ⋮⋮?﹂
﹁ちょっと実験してみるの。動かさないでね﹂
﹁お⋮⋮おう﹂
ラティナがここまではっきりと、拒絶の単語を出すことは珍しい。
***、********
﹂
デイルは、伸ばしかけていた手を引っ込めて、ひとつ頷いた。
﹁
**
﹂
﹁
ラティナはその後で、部屋の入り口のところにいた侍女を相手に、
1245
ややきつい声音で念を押していた。
﹂
おそらく自分と同じように、容器に触れるなと言っているのだろ
**********
う。
﹁
目が据わるラティナは、明らかに声に脅しを含ませていた。
穏やかな質のラティナが、ここまで強い口調で命じることは珍し
い。
﹁⋮⋮﹂
デイルは、無言のまま納得して頷いた。
︵食べ物関連なんだろうなぁ⋮⋮︶
推測できる理由は、あまりにもあんまりな性質のものだった。
きっちりと蓋をした後、ラティナはこまめに魔法も使い、温度管
理をしながら、それを観察しているようだった。
デイルから見ても、雅やかな離宮の一角にずらりと容器が並ぶ様
子は、異様である。
魔人族である侍女たちにとっては、デイル以上に理解の出来ない
行動だろう。現に、対処に困ってチラチラとこちらを窺っている時
がある。
﹂
ラティナは全くその視線を意に介さず、容器の様子を楽しそうに
***、***********⋮⋮
毎日観察しているのだった。
﹁
**⋮⋮
﹂
﹁
こそこそと侍女たちが言葉を交わしている。
︵人間族の習慣かって⋮⋮変な誤解だけはするなって⋮⋮︶
途切れ途切れにしか魔人族の言語を解さないデイルでも、侍女た
ちがそういった疑念を持っていることはわかった。
だが、それを否定することができる程には、デイルは彼女たちと
﹃会話﹄が出来ないのだった。
1246
︵俺も⋮⋮魔人族言語、覚えておくべきだなぁ⋮⋮︶
そんな風に、デイルは今後の目標を立てたりするのである。
ラティナの﹃実験﹄は、ぶしゅぶしゅと時折音を立て、きっちり
と紐で縛り密封された蓋が、パンパンに張っている。
︵腐ってるんじゃねぇのかなぁ⋮⋮︶
デイルから見て、日に日に異様な雰囲気を漂わせているのだった。
とても﹃食べ物﹄に関わるものとは思えない。
そんなデイルの前で、ラティナは、どきどきしている顔で容器を
一つ手に取り、蓋を開けた。
﹁ふやぁっ﹂
﹁うわ﹂
腐っていた。
ラティナは慌てて蓋を閉め直し、服の裾をぱたぱたと振って、異
臭を外に出そうと試みている。
︵まぁ、そうだよな︶
ある程度覚悟していることだったので、デイルも気にせずラティ
ナの行動に手を貸した。
﹁温度が高かったのかな⋮⋮﹂
ラティナはそう言って首を傾げている。
﹁他のは、もう少し低い温度で管理したから、まだ大丈夫﹂
そう呟き、気を取り直して二つ目を開けたラティナは、しばらく
してがっかりと肩を落とした。
﹁カビ⋮⋮﹂
呟きから察すれば、カビが生えてしまったようだった。
それでも彼女は諦めることなく、更に隣の容器を手にした。
蓋を開けた後、じっと中身を観察し、クンクンと臭いを嗅いでい
る。一度離して考えこみ、もう一度臭いを嗅いだ。
﹁出来た!﹂
1247
出来たよ!﹂
やがてラティナから上がったのは、歓喜の声だった。
﹁やったよ、デイル!
﹁お⋮⋮おう﹂
﹁やったぁ!﹂
デイルにしてみれば、ラティナの歓喜の理由が全くわからない。
ラティナは残りの容器も確認し、万歳をしてくるりと回ると、ラテ
*******
﹂
ィナの異常なテンションにドン引きしている侍女を一人捕まえた。
﹁
フリソスに通じる、命令する者の顔だった。こういう時だけ、生
まれながらの上に立つ人品の片鱗を見せるのも、如何なものかと思
う。
コクコクと、侍女が首肯して命令に従う意を示す。ラティナの勢
いに、逃げ腰になっていた。
ちょっとデイルは侍女に同情した。
自分で持ちきれない分の容器を侍女に持たせ、ラティナは最大限
のスピードで厨房へとひた走ったのである。
﹁ありがとうマルセル⋮⋮ありがとうっ﹂
クロイツにいる幼友達を思って、ラティナは涙を滲ませる。
目をつけていた穀物の粉は、あらかじめふるってキメを揃えてい
る。ふるいもなかったので、代用できるものを探すことから始めな
くてはならなかったが、時間は充分にあった。
﹁始めはこれと粉を混ぜて⋮⋮種を作ることから⋮⋮うまくいけば
⋮⋮﹂
短い期間であったが、本職からしっかりと基礎の指導を受けたこ
とは、ラティナの確かな実となっていた。
﹁パンが食べれる⋮⋮っ﹂
デイルの予想通り、やはり食欲に直結していたのであった。
1248
彼女は以前、パン屋である幼友達の家で、短期ながらも働いたこ
とがあった。
その際、成形や焼き方という目に付きやすい事柄だけでなく、パ
ンを作る根幹である酵母と、それから作るパン種のことも教わって
いた。比較的簡単である果物と水から作る酵母に至っては、実際に
作らせてもらい、経験を積んだ。
それ以後パンを作る機会はなかったし、自信の程はあまりない。
それでも記憶を辿って、なんとかそれらしいものを作ることには
成功した。
何をおいても、主食の再現。
現在のラティナの悲願はそこにあったのであった。
1249
後日譚。白金の娘と、美味しいごはん。参︵後書き︶
天然酵母の作り方は、実践したことがないので、聞き齧った知識で
す。悪しからず。
1250
後日譚。白金の娘と、美味しいごはん。肆
果物で作った酵母と、粉を混ぜ合わせ、更に発酵を待つ。
状態によっては何日もかかる工程だが、焦って全てを台無しにす
る訳にもいかない。
﹁うまくいくと良いなぁ⋮⋮﹂
ラティナは、天属性と冥属性のそれぞれの魔法で、温度を上げる
ことも下げることも対応出来る。持ちうる能力の全てを、ラティナ
はこの作業に費やしていた。
それくらい、のめりこんでしまうほど、食事事情は切迫していた
し、する事が無さすぎて毎日がしんどかったのである。
数日を経て、無事にパン種が膨らんで来たのを見たとき、ラティ
ナは歓喜の舞いを踊った。相変わらず彼女にリズム感はなかった。
クロイツで作った酵母よりも、発酵の力は弱いようだった。クロ
イツでは当たり前のように手に入る果物も、ヴァスィリオでは見る
ことすらも出来ない。小麦粉もまた同様で、異なる材料を使うと料
理の成功率は大きく下がる。
﹁でも、ちゃんと膨らんだし⋮⋮発酵してるから、なんとかなって
るかな﹂
呟きつつ、粉とパン種を混ぜ合わせる。
弱い発酵を強める為に蜂蜜を加え、レシピを思い出しながら塩も
足す。
﹁ふん、ふん♪ふーん♪﹂
混ぜる。べたべたする材料が、混ぜるうちにまとまっていく感触
が楽しい。思わず鼻歌が出た。
つるりと丸めて、乾燥しないように濡れ布巾をかける。気温の高
1251
いヴァスィリオでは、室温でも充分の温度が保てるように思い、ラ
ティナは様子を見ることに決めた。
その間に、鍋磨きの際に目星をつけた厚手の鍋を引っ張り出した。
調理場で働く下働きたちが、ラティナの行動にどうして良いかわか
らない顔をしているが、ラティナはそれには気付かない振りで押し
通した。
﹁焼き釜から作るのは、さすがに無理があるものなぁ⋮⋮﹂
ラティナの独り言が少々多いのは、彼女を﹃姫君﹄扱いをする侍
女や下働きの者が、親しげに語りかけてくることも無いからである。
シルビアやローゼは忙しいので、自分の退屈ばらしに四六時中付き
合わせる訳にもいかない。現在のラティナは、会話をする相手がだ
いぶ限られているのであった。
焼き釜が本当に必要ならば、ラティナ同様、現在まともな仕事の
無いデイルあたりに頼めば、不可能ではないかもしれない。だが、
残念ながらラティナは、焼き釜の詳しい設計を知らなかった。
その為、見事発酵して数倍の大きさになった生地を、複雑な成形
もせずに、数等分に分け、各々丸めるに留める。鍋の中に等間隔に
並べた。
﹁蓋をして⋮⋮後はじっくり焼いてみる⋮⋮﹂
ラーバンド国のような魔道具が無い厨房は、勝手が異なり扱い難
い。
ヴァスィリオの厨房には、まともな、かまどすら無いのだった。
どうやって調理をしているかと言えば、﹃火﹄属性を持つ者が加
熱調理を行い、﹃水﹄属性を持つ者が水瓶に並々と水を満たしてい
る、といったように、魔法属性に応じた分業制となっているのであ
る。
それはすなわち、調理の技術を持っているから調理場で働いてい
るというよりも、﹃火﹄属性の魔法適性を持っているから、この場
1252
に配属されているという面の方が大きいと言うことでもある。
ヴァスィリオでは、市井の人びとも、各々の家庭で調理はせず、
加工された食品を用いて食事にしているのだった。それも、この土
地の環境が影響している。近くに森や林の無いこの土地では、人間
族と同じような生活をすれば、燃料とする薪も不足してしまう。ヴ
ァスィリオで、最も安易に得られ、安定している﹃燃料﹄は、﹃魔
力﹄なのである。
﹃火﹄属性を持たないラティナには、加熱調理すらままならないの
だった。先日のクレープもどきを作った時は、魔人族の下働きを問
答無用の勢いで捕まえたのだが、今回は弱火でじっくり焼き上げた
い。他人を長時間拘束するのは、少々申し訳なく思う。
だが、ラティナはそれくらいでは諦めなかった。
﹁ヴィント、出来る?﹂
﹁むー⋮⋮﹂
忠実たるわんこをこの場に召集したのである。
﹃踊る虎猫亭﹄では、基本的にヴィントを厨房で遊ばせないという
スタンスのラティナであるのに、もうなりふり構っていなかった。
﹁我が仔は、﹃火﹄の魔法はあまり得手としておらぬぞ﹂
珍しく言い淀んだヴィントの姿に、ハーゲルが助け船を入れる。
﹁そうだったの?﹂
﹁﹃かぜ﹄まほーなら、へいき﹂
﹁﹃風﹄魔法はそのようなことも無いのだが、﹃火﹄は、細かな制
御が出来ぬようだ﹂
﹁どかーん、する。できる﹂
﹁それはダメ⋮⋮﹂
困った顔をしたラティナに、ハーゲルは何でもないように提案す
る。
1253
﹁我が請け負おう﹂
その尾は、父仔共に、ぱっふぱっふ揺れていた。
﹁ありがとう﹂
笑顔となったラティナが、いっぱい撫でてくれるという期待に、
尾が更に激しく揺れる。何処からどう見ても、褒められるのを待っ
ているわんこであった。
そして、世にも珍しい、幻獣によって焼き上げられた、ラティナ
謹製のパンが完成したのであった。
蓋を開け、こんがりと焼き色の付いたパンが姿を現す。遅れて熱
い湯気と香ばしい香りが漂った。
小麦を使っていない為、香りは少し思っていたものと異なる。そ
れでも、思っていたよりも良い出来に見えた。
﹁とりあえず、味見⋮⋮﹂
熱々のパンを、火傷に気をつけて取り出す。手で千切るには少々
固い。ナイフで一切れ切り出し、口に運ぶ。
﹁んー⋮⋮﹂
もちもちと噛む。予想していたよりも、もっちりした重みのある
生地だった。酵母の香りが嗅いだことの無い香りなので、少し不思
議な感じがする。
シルビアに貰った牛酪を少し多めに塗る。熱いパンにあっという
間に溶け、吸い込まれるように消えていった。
﹁パン、だぁ⋮⋮っ﹂
涙が出た。
主食というものの重要さを痛感した。
﹁粉が違うから⋮⋮もしかしたら、冷めたら硬くなって食べられな
くなっちゃうかもしれない⋮⋮﹂
そのことに思い至ると、ラティナは、もういてもたってもいられ
1254
なかった。
焼き上がったパンを抱え、デイルと親友の元に走ったのである。
やはり、下働きの者たちにとっては、奇行にしか見て取れない行
動であった。
そして余談ではあるが、この後魔人族の下働きの間に、﹃人間族
の文化﹄として、妙な曲調のメロディが流行した。原因は明らかで
ある。だが更にそれを聞き留めたデイルは、
︵ラティナに問題があるんじゃなくて⋮⋮魔人族のリズム感が独特
なのか⋮⋮︶
以前会った奏者
という失礼にも程がある勘違いをするのであった。彼の思考の中
からは、すっかりグラロスのことは抜けていた。
鍋いっぱいのパンは、予想を越える勢いで無くなった。
﹃主食を噛み締める﹄という当たり前の行為が当たり前ではない状
況になっていた為、久しぶりの感触に一同は夢中になったのである。
﹁凄いねラティナ⋮⋮作っちゃうんだもんね⋮⋮﹂
﹁パン美味しい⋮⋮﹂
﹁本当、久しぶりだなぁ⋮⋮こういうの⋮⋮﹂
﹁サンドイッチにしてみるのとか、どう?﹂
﹁⋮⋮挟める具が⋮⋮無いよ⋮⋮﹂
﹁いっそ、自分で何か狩って来た方が、まともなもん喰える気がす
るよな⋮⋮﹂
牛酪と蜂蜜だけで、充分な﹃ご馳走﹄だった。比喩ではなく、毎
日の食事を振り返れば致し方ない感想である。
夢中になってしまっていたが故に、大きなミスを自分がしていた
ことに、ラティナはこのタイミングでようやく気が付いた。
お腹がくちくなって、やっとのこと意識をそこに向けることがで
1255
きたとも言える。
﹁酵母全部使いきっちゃった!﹂
パン種も同様に、使いきってしまった。
再びパンを作る為には、最初から同じ工程をやり直しである。流
石のラティナも、目に見えて凹んでいた。再びパンを口にするため
には、数日単位の工程を経る必要がある。
﹁⋮⋮クロイツ帰る⋮⋮﹂
初めて本気の﹃帰りたい﹄がラティナから漏れた瞬間であった。
一連の話を聞き終えて、ケニスは微妙な顔でラティナを見た。
彼女は再び、パンにジャムを載せる作業に夢中になっている。
ジャムに固執するのも、甘党のラティナが甘味絶ちを強いられて
いたからだと思えば、同情どころでない切ない感傷に満たされる。
ケニスは一度二人に背を向け、手早く一品を作り、ラティナの前
にそっと差し出した。
﹁わあぁぁぁぁっ﹂
ラティナから、思った以上の歓声が上がる。
新鮮な卵と牛乳を使い、たっぷりの牛酪でふんわりとろとろに焼
き上げたオムレツは、彼女の大好物なのである。
﹁美味しい⋮⋮たまご美味しい⋮⋮﹂
﹁良かったなぁ﹂
ラティナが幸せそのものな笑顔でオムレツを頬張り、それを見る
デイルも非常に幸福そうな顔になっていた。
未知なる国家の妹姫と世界規模の英雄である。
その二人が嬉々として囲む食卓には、ごくごく普通の﹃当たり前
の料理﹄が並んでいるのである。
ケニスは、自分の作るものに喜んで貰えるという事実に喜ぶ前に、
1256
なんだか涙が出そうな心情になった。
その日以降、しばらく﹃虎猫亭﹄の食卓には、必ずラティナとデ
イルの好物が添えられるようになったのは、ケニスのささやかなが
らの心遣いなのであった。
1257
後日譚。白金の娘と、美味しいごはん。肆︵後書き︶
活動報告にて、書籍版5巻表紙イラストを公開しております。だい
ぶ大人っぽくなった﹃娘﹄でございます。
1258
前日譚。序、白金の娘、青年に語る。︵前書き︶
今回、少し短いです。
これからしばらく、﹃娘﹄の故郷での様子も含めた過去編をお送り
致します。
1259
前日譚。序、白金の娘、青年に語る。
﹁ラティナとフリソスは、双子の姉妹で間違いないんだよな﹂
﹁そうだよ。急にどうしたの?﹂
デイルが問いかけたのは、﹃虎猫亭﹄の屋根裏部屋でのことだっ
た。何時も通りの一日を終え、当たり前の日常が戻って来たことに
ようやく慣れてきた日のことである。
部屋着に着替え、髪を下ろしたラティナは、普段は隠している折
れた角の根元をちらりと覗かせている。
﹁いや、眸の色も違うし⋮⋮なんとなく気になったからさ﹂
﹁フリソスだけ﹃魔力形質﹄持って生まれたから⋮⋮私の灰色の眸
は、両親のどちらとも違うんだけど⋮⋮たぶんモヴの方の遺伝なん
だろうって聞いてる﹂
﹁ああ⋮⋮﹂
直接ラティナの実母であるモヴと会ったデイルはその言葉で納得
してしまったのだが、そんなデイルの様子にはラティナは気付かな
かった。デイルは少し遅れてそのことに安堵する。
ラティナの姉であるフリソスには、モヴの臨終の場に立ち会った
ことを伝えたデイルだったが、ラティナには直接まだ伝えていない。
お互い隠し事をしないでちゃんと向き合うと決めた二人だったが、
デイルにとってモヴの死は、少なくはない心の傷になっている。
︵ちゃんと言うべきだって⋮⋮わかってはいるんだが⋮⋮︶
自分が、殺した−−と、最愛の彼女に言い出すのは、なかなか簡
単なことではなかった。
ラティナの実母であるモヴは、﹃魔力形質﹄−−魔力が強いもの
に現れる、本来人族が有さない鮮やかな色彩−−を持っていた。目
1260
を奪うのは、はっとするほど鮮やかな紫の長い髪だったが、彼女は
眸にも魔力形質を有していた。
彼女の眸は、フリソス同様、美しい黄金の色をしていた。
﹁ラティナの髪は、父親と同じ色だって言ってたよな﹂
﹁うん。ラグと同じ色。角もね⋮⋮ラグは真っ黒だったの。私の角
の形はモヴと同じ形。魔人族の角は、両親から形と色をそれぞれ受
け継ぐから﹂
﹁そうか﹂
失った角にそっと触れ、ラティナは静かに微笑んだ。
﹁両親から受け継いだものなのに、折ってしまったことは⋮⋮少し
後悔する時もあるの。でもそれは、今が幸せだからそう思えるんだ
とも思ってる﹂
﹁ラティナ⋮⋮﹂
﹁フリソスにも、凄く悲しい顔させちゃった⋮⋮お揃いの角だった
のに、私は両方無くしちゃったから⋮⋮﹂
﹁あの時、俺がもう少し気にしていたら、あんなことさせなかった
のにな⋮⋮﹂
﹁デイルのせいじゃないよ﹂
慌てたように言うラティナの角のあたりを、デイルはそっと撫で
る。よしよしと幼子にするような仕草だったが、ラティナは嬉しそ
うに目を細めた。
﹁もう、どうすることもできねぇことだから⋮⋮今更どうこう言っ
ても仕方ねぇよな﹂
﹁うん﹂
﹁ラティナ﹂
呼び掛けに不思議そうに首を傾げたラティナに微笑んで、デイル
は彼女にずっと聞いてみたかった質問を投げ掛けた。
﹁お前の両親は⋮⋮どんなひとだったんだ?﹂
1261
﹁⋮⋮魔人族は、母親の元で子どもを育てるって前に聞いたけど、
バナフセギ
私とフリソスはラグに育てられたの⋮⋮モヴはいつも忙しかったか
ら⋮⋮﹂
あざな
稀有なほどに強い﹃紫の神﹄の加護を持つが故に、﹃巫女姫﹄と
いう特殊な字を与えられた﹃彼女﹄と−−
アスファル
﹁ラグは、﹃先生﹄なんだろうって思ってた。﹃黄の神﹄の加護は
無いはずだけど、ラグのことを尊敬しているたくさんのひとのこと
は、私たちから見てもよくわかったから⋮⋮﹂
稀有な力を持たないからこそ、多くの者を教え諭すことが出来、
﹃導師﹄の尊称で呼ばれるようになった﹃彼﹄が−−
﹁私の知っているヴァスィリオでの生活は、凄く狭いの。両親とフ
リソスと一緒に過ごした、神殿の中だけだから⋮⋮﹂
・
・
・
箱庭のようなちいさな、神殿の奥深くに隠れるような日々ではあ
ったけれども、確かにそれは幸せな時間だった−−
そんな物語が始まる前の物語。
1262
前日譚。壱、導師、紫の姫巫女と出会う。︵前書き︶
過去編となります。しばらくは﹃娘﹄の両親の話です。
1263
前日譚。壱、導師、紫の姫巫女と出会う。
魔人族には、人間族のような家名は無い。元より﹃婚姻﹄という
習慣がなく、母系社会を基盤として暮らしている魔人族の家族形態
は、他の人族とは大きく異なる。母親の名を取り、﹃某の子﹄と呼
ばれることで表されるものであった。
同じ母親から生まれた兄弟であっても、父親が同じであることは
少なく、人間族ならば親子程の歳が離れていても珍しくは無い。
それは、やはり幼年期と老年期は人間族と同等の期間でありなが
ら、成人期をその数倍の期間有しているという、種族の特性が影響
していた。子を成せる期間が長く、実年齢の差があまり大きく関わ
ってこないのである。
バナフセギ
そして、﹃一の魔王﹄とその眷属、及び﹃紫の神の神殿﹄が統治
機構を維持し、人びとは百年前から変わらない営みを綿々と紡いで
いる社会。
ヴァスィリオとは、そんな国だった。
バナフセギ
ヴァスィリオは、同名の都を中心にして、小規模の町や村が点在
していた。王が座する土地であり、治世を行う﹃紫の神の神殿﹄が
ある都は、唯一にして最大の都市である。
﹁導師﹂
整然と清められたその街並みの片隅で、そう呼び止められた若い
男性は足を止めて声の主を見た。
珍しい白金の色の髪が揺れる。黒い角は男性にしては小振りで、
雄々しい猛々しさはない。穏やかな性質の彼の人柄を表しているか
のようだった。
1264
﹁アスピダかい。久しぶりだね﹂
﹁ご無沙汰致しております﹂
呼び止めた青年と、導師という尊称を以て呼び止められた男性に、
外見上の年齢差は見られない。だが、頭部に一対の角を戴く彼等魔
人族は、若い期間を長く有する種族故に、見た目だけで二人の年齢
差を計ることは不可能になっていた。
﹁本当に久しぶりだね。君を教えていたのは⋮⋮もう二十年は前に
なるのかな?﹂
﹁はい。導師も壮健そうで何よりです﹂
﹁そう言えるほど、丈夫でないことも、相変わらずだよ﹂
穏やかな笑みと優しい翠の眸は、外見の線の細さも相まって、威
圧的なものが感じられることはない。だが、アスピダと呼ばれた青
年の、相手を尊重している様子が崩されることはなかった。
﹁神殿の勤めは順調なのかな?﹂
﹁そのことで⋮⋮導師にご相談が﹂
表情を曇らせた教え子の姿に、導師−−スマラグディは、近くに
ある己の住処へと彼を誘ったのだった。
神殿から距離が離れた、ヴァスィリオにおける下町にあたる区域
に、スマラグディの住居はあった。
日干し煉瓦を積んで作られた、飾り気のない一般的な住居である。
室内も殺風景なほどに、必要最低限の家具しか設えてられていない。
それでも、この国の男性としては、ごく普通の暮らしぶりと言える
だろう。
乾いた気候のこの土地は、日が遮られたところに風が通るだけで
だいぶ体感気温が下がる。
水差しから各々の前に置かれた器に注がれた水は、まだ冷たさを
保っていて、街の各地に設えられている給水場から汲まれたもので
ないことが伺われた。
1265
﹁それで⋮⋮相談とは何かな﹂
﹁今神殿で、姫巫女と呼ばれている神官のことはご存知ですか?﹂
稀代の﹃加護﹄持つ神官だと、
アスピダの問いかけに、スマラグディは少し首を傾げた。
﹁まだ年若い女神官のことだろう?
市井にも噂は聞こえてきているけれど⋮⋮彼女がどうかしたのかい
?﹂
﹁実は、導師に、彼女の教師役を勤めて頂けないかと思いまして⋮
⋮﹂
アスピダの言葉に、スマラグディの顔に更に疑問の色が浮かぶ。
ヴァスィリオにおける神殿とは、信仰の場であると共に行政機関
のトップでもある。そこに在籍する神官は優秀な者が数多い。わざ
わざ市井に暮らすスマラグディを招集する必要が見出だせない。
﹁不思議に思われるのも、仕方がないかと存じます﹂
スマラグディの疑問は想定内のものであるようで、アスピダは説
明の為の言葉を継いだ。
﹁神殿で、若い女神官たちに魔法学の教師役を勤めてきたのは、グ
ノスィ女史なのですが⋮⋮現在姫巫女は、同性である女性相手に、
恐怖を抱く心理状態となっているのです﹂
アスピダの言葉に、スマラグディの眉が少し動いた。異性ならば
ともかく、同性に恐怖心を抱くというのは、理由が直ぐには浮かば
ない。
﹁だからといって異性で教師役が勤められる者は⋮⋮外見が少々厳
ついものが多く⋮⋮若い姫巫女が、萎縮してしまうだろうと⋮⋮任
せることが出来ない状況です﹂
﹁君では勤まらないのかな?﹂
アスピダの外見は、男らしいものではあるが、厳めしいというほ
どではない。スマラグディの質問に彼は微かに首を横に振った。
﹁グノスィ女史を姫巫女が拒絶するようになって以降、自分たち、
1266
魔法学を修めた者が教える役を担ってはいるのですが、正直、荷が
重い状況です﹂
その返答には、スマラグディは少々驚いた顔をする。
自分の教え子の能力は、彼はよく知っていた。アスピダの能力が
あれば、教師役も充分勤まるようにも思える。
アスファル
他国では教職の大多数を占める﹃黄の神﹄の神官であるが、ヴァ
アスファル
スィリオでもその傾向は強いものとなっている。
とはいえスマラグディには﹃黄の神﹄の加護はなく、彼は通常の
意味の﹃教師﹄ではない。﹃魔法学﹄と呼ばれている、魔法を使う
為の基礎学習や魔力を操る術、それらの精度をより高めるコントロ
ール術を教えていた。魔法に於けるトレーナーというべき職務を負
っているのだった。
魔人族の社会では、魔法は日々の生活に非常に密接したものにな
っている。強い魔力を持つ者に対しては適切なコントロール術を。
弱い魔力しか持たない者であれば、より効率良く使えるように精緻
な技術を−−と、求めるのは無理からぬことであった。
﹁そこで⋮⋮導師でしたなら、能力も人格も申し分なく、穏やかな
お人柄で姫巫女を怯えさせることもないのではないかと⋮⋮上に提
案した次第であります。考えて頂けませんか﹂
確かにスマラグディは、穏やかな気性であり、あまり丈夫でない
アスピダ﹂
体質も相まって、外見も厳めしさからはほど遠い。
﹁⋮⋮何があった?
ぴしりと告げた声には、眼前のアスピダの姿勢を正させる気配が
こめられている。
ひたすらに甘く優しいだけでは、﹃導師﹄と尊称で呼ばれるまで
の教育者にはなれる筈がない。どれだけ穏やかな質であっても、自
らの芯を揺るがされぬ強さもまた、スマラグディは有していた。
1267
アスピダも、そのことはよく知っていた。
﹁神殿の奥に秘匿された﹃姫巫女﹄から、異性を遠ざけようとする
のならばともかく⋮⋮異性のみとしか相対出来ず、更にはそれを、
周囲が認めているというのは、明らかにおかしい﹂
更に問い質したスマラグディの言葉に、アスピダは必要以上に事
実を隠蔽しようとは思わなかった。
少し躊躇する様子こそ見せたが、アスピダは低い声で現状を語る。
﹁姫巫女は⋮⋮先日、﹃二の魔王﹄に襲われたのです﹂
微かに、スマラグディは息を呑んだ。
先のこの国の君主﹃一の魔王﹄を惨殺した快楽殺人者たる魔王の
ことは、彼もよく知っていた。
﹁姫巫女は無傷でしたが⋮⋮彼女の眼前で、同じ歳の頃の幼子が一
人、惨殺されました⋮⋮﹂
﹁それは⋮⋮﹂
眼前で見知った者が殺された。それだけでも心に傷を負うには充
分な出来事だろう。それに加えて、恐怖を体現したかのような存在
と、年若い身で相対することがどれだけ心に負担を掛けるのか、考
えるまでもないことだった。教育者として今まで数多くの幼子たち
と接してきたスマラグディは、彼女を想って胸を痛めた。
﹁﹃二の魔王﹄は⋮⋮若い女の姿をしているそうです﹂
﹁それで⋮⋮﹂
﹁反射的に﹃二の魔王﹄のことを思い出してしまわれるのでしょう。
姫巫女は己からは何も仰ろうとはされませんが⋮⋮だからこそ一層
痛々しいのです⋮⋮﹂
いくら教え子の推薦といえども、市井に暮らす自分を、神殿の奥
に簡単に通すとは思えない。
1268
バナフセギ
そう思っていたスマラグディは、後日アスピダに伴われてとはい
え、ヴァスィリオの中枢たる﹃紫の神﹄の大神殿の中に簡単に通さ
れたことに率直に驚いた。
街の人びとが参拝することが許されている区画とは、明らかに異
なる奥の院へと通される。幾つもの建物が築かれ、幾重もの区画に
別れている神殿の内部は、奥に行くに従い警備も厳重となり、何処
か浮世と離れた雰囲気が感じられた。
そこに、彼女はいた。
まだ少女と呼ぶべき、年若い女性だった。
だが、その黄金色の眸は、世の全ての絶望を見通してしまったか
のように、諦観のような気配を宿している。外見通りの幼さを、何
処かに忘れてきてしまったかのような印象を受けた。
長く真っ直ぐな髪は、くすみの全くない鮮やかな紫の色をしてい
た。
バナフセギ
説明など必要なかった。神を表す色である紫を、これほどまで美
しく発現させた彼女こそ、﹃紫の神﹄の深い寵愛を給いし姫巫女だ
と、一目でわかった。
﹁立ち去りなさい﹂
姫巫女から発せられたのは、拒絶の意味の言葉だった。
幼さが残る外見からは窺うことの出来ない、冷静で平坦な声音だ
った。
﹁私に関われば、貴方は死することになります。立ち去りなさい﹂
けれども、だからこそスマラグディは、そんな彼女を放り出すこ
とが出来ないように思えた。
平坦な感情が感じられない声だからこそ、彼女が必死に自らの中
の感情と戦っているように思えたからだった。
﹁⋮⋮全ての者は、いつか死ぬ時が来る。それまでに、何を遺すこ
1269
とが出来るか⋮⋮ぼくはそう思っているよ﹂
穏やかな翠の眸で、微笑みながら死の託宣すらも受け入れる。そ
んな彼に、姫巫女の表情は驚きに揺れた。年齢相応の幼さが微かに
覗く。
スマラグディと、起こりうる可能性という数多の未来を見通して
しまう故に、絶望に囚われた少女との、これが初めての出会いだっ
た。
1270
前日譚。弐、導師、紫の姫巫女と過ごす。︵前書き︶
駆け足気味でお送りしておりますので、今話内で、数年ほど経過致
します。
1271
前日譚。弐、導師、紫の姫巫女と過ごす。
同時に、教え子がこれほどまでに彼女の﹃魔法学﹄の教師を探し
ていた理由も、スマラグディは理解していた。
﹃魔力形質﹄と呼ばれる、本来、人という種が持たない色彩の発現
が、複数の色で、複数の箇所に出ているということは非常に珍しい。
魔力が高い者全てに魔力形質が表れるとは限らないが、魔力形質を
有する者は全て、生まれ持った魔力が高い。
強い力は扱いが難しい。だが、制することが出来なければ己の力
に振り回されることになるだろう。
幼い頃より訓練を受けさせることは、彼女の力が大きいからこそ、
必要なことだった。それほどに魔人族にとって、魔力を扱い魔法を
使うことは、日々の生活にも密接に関わってくる事柄である。
﹁はじめまして﹂
﹁⋮⋮﹂
スマラグディの声に、困惑したかのように、姫巫女は表情を動か
す。
死の運命を宣告されて拒絶されても、尚穏やかに微笑む彼が、理
解できないようであった。
スマラグディは、姫巫女のその様子以上に気にかかることに、表
情を曇らせた。
﹁とはいえ⋮⋮ぼくのような外部の者を、すんなりと姫巫女付きに
するとは思えないが⋮⋮﹂
﹁それには心配することはないかと﹂
﹁アスピダ﹂
バナフセギ
嘆息まじりのスマラグディの呟きに答えたのは、教え子だった。
﹁導師が姫巫女付きになることは、複数の﹃紫の神﹄の加護持つ神
1272
官によって承認されていますので﹂
アスピダのその言葉に、スマラグディは微かに眉を潜めた。
ちらりと姫巫女を見れば、彼女もアスピダのその言葉には、疑問
を抱いていないようにも思える。
︵これが﹃神殿﹄の考え方か⋮⋮先王が崩御されてから、長く神殿
による統治が続いていたが⋮⋮このような歪みを抱えていたとは⋮
⋮︶
スマラグディには﹃加護﹄はない。
神殿と神によって選定される魔王によって統治されているヴァス
ィリオは、他の国よりも民衆の信仰が深い。
それでも、スマラグディは市井に暮らす者だからこそ、神の意志
を全てに優先する在り方に疑問を抱いた。
そして何よりも、神の意志であれば、何に対しても疑問を抱こう
としない、神殿の者の在り方に、危惧を抱いた。
︵神の力による予言を全てと⋮⋮会ったこともない人物を無条件で
信用するなど、普通ではあり得ないというのに⋮⋮それを疑問にも
思ってもいない⋮⋮︶
それは、逆に﹃予言﹄されてしまえば、何事を起こしていない存
在であっても、断罪されてしまう危険性を含んでいるようにも思え
た。
この眼前の少女は、高位の加護持つ神官として、今後の神殿を担
う存在となるだろう。
ならばそこに、神殿の者とは異なる価値観を与えることも、教育
者としての自分に出来ることかもしれない。
スマラグディは穏やかな表情の奥で、自分が彼女の生き方に関わ
ることで、何を為せるかを考えるのだった。
姫巫女の名は、モヴと言った。
1273
﹃紫﹄という意の語句である。
彼女の年齢を聞いたスマラグディは、少々驚いた。モヴは外見を
見る限りではもう少し幼く見えた。逆に表情は酷く大人びて、実年
齢よりも上に見える。
魔人族は長寿の種族であり、幼年期と老年期は相対的に短く、大
人の期間である青年期が長い。まだ老年期に入るには早いが、長く
青年期を生きてきたスマラグディには、幼年期の者の姿は、ずいぶ
んと微笑ましく思えるものだった。
﹁モヴは、ずいぶんと覚えが良いね﹂
﹁⋮⋮﹂
スマラグディに穏やかに言われて、モヴは少し俯いた。
出会いの時から拒絶の意思を見せた彼女は、彼に心を開いてくれ
たようには思えないが、教師としての能力は認めているようだった。
︵才能と呼ぶものならば、モヴの方がぼくよりも遥かに大きいもの
を持っているね⋮⋮ぼくは彼女よりも長く生きているぶん、扱い方
を心得ているだけだから︶
独白するのは卑下ではなく、スマラグディの本心だった。
身体が強い方ではなく、魔力も平均以下しか有していない自分は、
魔人族という種の中で、決して秀でていない。スマラグディはそう
考えていた。状況を冷静に判断する力を持っているからこそ、的確
に現実を見据えていた。
とはいえそれで卑屈になることなく、自らの持つ力を有益に使い
こなす方向に意識を向け、深い知識を得るに至ったことも、才能に
は違いなかった。そして、挫折や才能豊かな者への羨望も知るから
こそ、彼は他者に物事を教える術に長けているのだった。
モヴを教えるにつれ、スマラグディは彼女の身に起こった出来事
についても詳しく知ることになった。
高位の加護持つ神官であるモヴだが、彼女はこの神殿の奥で、と
1274
ある幼子の側付きを勤めていたらしい。
・
・
・
・
年齢が最も近いということがその理由であったようだが、﹃姫巫
女﹄とも呼ばれる貴人である彼女が仕える相手というのが﹃誰﹄で
あったのか、スマラグディにも想像はつく。
そして、想像がつくからこそ、それを安易に口にすることが出来
ないことも理解していた。
その幼子が、﹃二の魔王﹄の犠牲となったらしい。
﹁私は、何も出来なかった⋮⋮姫巫女などと呼ばれていても⋮⋮私
はたった一人、護ることも出来なかった⋮⋮﹂
ぽつりと漏らしたモヴの言葉に、スマラグディは、彼女が負った
傷がどれだけ深いものであるのかも、察することが出来た。
彼女は、殺戮の現場という恐ろしい記憶だけでなく、己の力に対
しての不信感や無力感にも苛まれているのである。
スマラグディは緩やかに微笑んで、彼女の弱音も愚痴も全て聞き
入れることにした。風の通る涼やかな神殿の奥の一室で、二人だけ
の時間は静かにゆっくりと流れていった。
ここ
﹁⋮⋮モヴは、ずっと﹃神殿﹄にいるのかな?﹂
問いかけに、こくりと頷いたモヴを見て、スマラグディは彼女の
髪を数度撫でる。
﹁そうか⋮⋮頑張ってきたんだね﹂
優しい声に、モヴは俯いたまま、スマラグディの服の裾をきゅっ
と掴んだ。これは最近の彼女が、時折見せるようになった仕草だっ
た。
﹁⋮⋮確かにモヴは、ぼくよりも遥かに強い力を持っているだろう
し、神殿の誰よりも、強い加護を持っているのかもしれない⋮⋮で
も、君はまだ子どもだからね﹂
スマラグディの翠の眸も、声も、どこまでも柔らかく優しい。
1275
﹁大人は、子どもに甘えられることを喜ぶものだよ﹂
﹁⋮⋮﹂
魔人族にとって、角に近い場所に触れるという行為は、親しい間
柄の者にしか許さない行動である。だが、それに拒否反応を示さな
い程度には、彼女はスマラグディに心を開いている証拠であった。
︵この子は⋮⋮まだ幼いというのに、一人の神官としての責任を負
わされているように思える⋮⋮︶
思わず出そうになるため息を呑み込む。
それはこの眼前の少女に見せるべき姿ではない。
出した課題に順調な成長を見せる彼女の様子に、教育者としての
手応えも感じながら、彼はゆっくりと彼女の心を癒していったのだ
った。
それがはっきりと示されたのは、数年を経て、スマラグディがモ
ヴに、穏やかながらもはっきりと告げた時だった。
﹁モヴに、ぼくが教えることが出来ることは、もうあまり無いのか
もしれないね﹂
別離を意味する言葉に、あまり感情を強く面に出さない彼女に、
驚きの表情が浮かぶ。
辛そうな彼女の様子に、少し決意は揺らぐが、スマラグディは彼
女の様子に危惧も抱いていた。
﹁⋮⋮もう、昔ほど女性に対しても怯えることはないだろう?﹂
﹁⋮⋮でも﹂
﹁ぼくだけではなく、君はもっと、色々なひとから学ぶべきだよ﹂
ぎゅっと、自分の服の裾を握るモヴの様子に、スマラグディも表
情を曇らせた。振り払うような真似はせず、彼女の手をそっと握っ
た。
ここ
﹁君は、多くの人びとの声を聞き、たくさんのひとと関わることに
なる。いくら﹃神殿﹄が閉じた狭い世界だと言っても、ぼくとだけ
しか関わらないように、自分から世界を狭めないで欲しい﹂
1276
心に深い傷を負ったモヴが、それを見守り癒すことに尽力したス
マラグディに依存してしまうことは、彼も予測できたことだった。
切り捨てるような真似はしたくない。
だが、彼女はこれから、神殿で大きな権力を持たされる子だ。誰
かに依存して、その言葉に全てを委ねるようなことはしてはならな
い。
彼女は、幼さが抜け、大人の女性へと変わりつつある。それを鑑
みても、今がひとつの区切りだろう。
スマラグディのその判断は、間違ったものではない筈だった。
スマラグディ自身も、恩師として彼女に関わり続ける心積もりで
いる為に、定期的な神殿を訪れることはやめなかった。
それでもそれは以前までのような、二人きりの親密な時間ではな
く、訪問する者と迎える者、双方の距離を明確に示したものだった。
モヴが成長するにつれ、彼女を経て権力を握ろうと邪推されるこ
ともスマラグディにとっては本意ではなかった為、聡明に成長して
いくモヴを見守ることが出来る今の状態は、彼にとっては適度に感
じる距離感だった。
それが揺らいだのは、モヴが完全に青年期に入り、成長の止まっ
た数年後だった。
とある深夜だった。
市井で暮らすスマラグディの家に、訪いを告げる声が響いた。
声の主に想像がついて、愕然としつつ彼は扉を開ける。そこには、
夜闇の中でも室内の淡い光だけで美しく煌めく紫の髪を、薄紗で覆
ったモヴが立っていた。
神殿の奥深くで、秘匿されている筈の彼女が、供も連れずに街中
にいること、時刻が夜半であること、自分の家を知っていたこと−
1277
−問い質したいことは数多くあった。
それでも彼は、その言葉を全て呑み込んだ。
幼い頃の彼女にそうしていたように、穏やかに微笑み、優しい声
音で名を呼ぶ。
﹁⋮⋮どうしたんだい、モヴ?﹂
たったその一言で、大粒の涙を目尻に溜めていた彼女は、声を上
げて泣き出した。
角に下げた銀細工に飾られた貴石が、溢れる涙と共に、きらきら
と光を含んで煌めいた。
1278
前日譚。参、導師の思い、紫の巫女の願い。
バナフセギ
発端は、ひとりの高位神官による予言であった。
﹃紫の神﹄の加護持つ者の能力は﹃予知﹄であるが、それは各々に
よって、知ることの出来る内容に差がある。
天候や災害を事前に知ることの出来る者。危険を事前に察知する
者。それぞれ加護の高さによっても精度は変わる。
その中でも、数多の事象が複雑に関わり合う、ひとの未来をよむ
能力は、最も高位の加護を有する神官にしか発現しないものだった。
その発現の仕方も、個人差がある。
﹃紫の姫巫女﹄の異名を以て呼ばれるモヴは、数多の可能性の筋道
を見ることが出来た。
﹃二の魔王﹄の恐怖に晒された直後の彼女は、見える可能性の全て
が、﹃死の運命﹄に塗り替えられてしまっている状態だった。生物
に等しく死という運命が訪れる以上、誰であっても死の可能性とい
うものはついて回る。自らの能力に振り回された彼女が、凄惨で陰
鬱な未来の光景に囲まれて、心に深い傷を負ったのも無理のないこ
とだった。
いずれ﹃神殿﹄で、重い役割を担うことが定められているモヴで
はあるが、彼女はまだ若い。故に現在の﹃神殿﹄は、やはりひとの
運命を知ることが出来る、高位の加護を有する大神官がまとめ役を
担っていた。
先王が存命中からずっと、大神官と呼ばれているエピロギという
女性の能力は、モヴとは少々異なる。
運命と成りうる未来を言葉で得る力。託宣と呼ぶべき能力だった。
詩にも満たない断片の言葉ではあったが、誤ったことはなく、現に
1279
多くの者の指針となってきた力だった。
﹁エピロギ様が⋮⋮予言を為された⋮⋮﹂
細い肩を震わせて泣き出したモヴは、スマラグディを見て安堵し、
気が抜けたという様子であるようだった。
スマラグディはそのことに少し安堵して、自らの住居の中に彼女
を招いた。神殿の奥で日頃暮らすモヴは、街中に不案内であると思
われる。その彼女をこんな夜半に追い返す訳にもいかない。
﹁水よ、我が名のもとに我が願いを示せ、現れよ︽発現:水︾﹂
スマラグディは、唄のように滑らかに呪文を紡ぎ、水差しの中に
ハーブ
魔術で呼んだ水を満たす。そこに棚から取った容器から、一掴み乾
燥させ保存していた花を入れる。
器に注ぎ、モヴの前に置くと、そこから仄かに甘い香りがした。
﹁この花の香りには、落ち着く効果があると言われている。少し飲
むと良いよ﹂
﹁ありがとうございます⋮⋮﹂
エピロギ様が何か?﹂
一口飲み、彼女はほっとしたように、少し表情を緩ませる。
﹁一体何があったんだい?
﹁予言を為されたのです⋮⋮私のことに関して⋮⋮﹂
﹁良くないこと、だったのかな?﹂
言い難いように下を向いたモヴの姿に、スマラグディは推測の声
を発した。変わらない優しい響きのスマラグディの声に、モヴは幼
い頃のように少し甘える声を出した。
﹁悪いことでは⋮⋮ないと思います。国にとっては吉事でしょう﹂
﹁⋮⋮ぼくは、﹃神殿﹄に属する者ではないからね。神官としての
モヴの答えではなく、モヴ自身が思うことを告げれば良い﹂
少しだけ、モヴの眉が下がる。
高位神官としての立ち振舞いを求められ続けている彼女にとって、
1280
彼女自身の声を聞いてくれる彼は、とても貴重な存在だった。
モヴも、優しいスマラグディに自分が依存してしまっていること
はわかっていた。そしてそれを案じた彼が、自分から距離を取った
ことも理解している。
それでも、彼女は自分の心を抑えきれなかった。
数多の人びとが、未来を導く姫巫女だと、自分の言葉を聞こうと
する。
だが、その中の誰ひとり、モヴ自身の言葉を聞いてくれようとは
しない。
わかっていることだった。それでも、スマラグディと共に過ごし
た時間を知ってしまったが故に、それがとてつもない孤独であるこ
とも理解してしまった。
自分はずっと、普通の子どものように、甘やかして貰いたかった
のだ。
そんな自分が、唯一甘えることの出来る相手。泣き言を言っても
良いのだと、甘やかしてくれることを知っていた相手。
そんなスマラグディだからこそ、モヴは、彼の元に走ったのだっ
た。
神殿の奥から抜け出すことすら、数多の未来の可能性を読み解く
モヴの力を使えば、可能となることであった。
﹁私は⋮⋮﹃王﹄を産むと﹂
モヴの言葉に、スマラグディの翠の眸が驚きに見開かれた。
﹁私の子は﹃王﹄となる⋮⋮それが、エピロギ様が発せられた予言
ヴァスィリオ
です﹂
この国に於いて、﹃王﹄とは、国主である﹃一の魔王﹄を意味し
ている。
﹃二の魔王﹄により殺められて以降、空位となっているその存在を、
多くの者が待ち望んでいることは、改めて説明する必要もないこと
1281
だった。
それは、確かに﹃吉事﹄の予言である。
言い換えれば、新たな王の誕生を予言したとも言えるのだから。
だが、
﹁それ以降⋮⋮王の﹃父親﹄の候補者が、連日、私の前に現れるよ
うになりました﹂
﹁そうか⋮⋮﹂
苦し気に表情を歪めたモヴは、掠れた声でスマラグディにそう訴
えた。
起こったことを悟り、スマラグディも表情を陰らせる。
ヴァスィリオに暮らす魔人族は、母系社会で子どもは母親の元で
暮らしている。とはいえ、父親が全く己が子に関わらない訳ではな
い。
人びとが皆、身につけている銀の腕輪は、父親が自分の子に贈る
ものである。それは、父親からの己の子であるという認知も意味し
ており、魔人族にとっては一種の身元証明になるものだった。
我が子が王となるとわかっているのならば、野心を抱くものが、
名乗りを上げることは、起こりうる事態であった。
これを機にと、神殿の中でより強い発言力を求める者、国政に関
わることを望む者。野心のかたちはひとつではないが、王となる子
の父親に名乗りを上げることが出来る程には、己に自信のある者た
ちであると窺われた。
﹁誰かと契り、王となる子を宿すことが私の役割ならば⋮⋮受け入
れるまで⋮⋮﹂
﹁モヴ、それは⋮⋮﹂
神殿の奥で静かに暮らしていた彼女が、急に、野心溢れる男たち
の欲望の前に晒されたのだ。それは恐怖に近い感情を持っても、仕
1282
方のないことだろう。スマラグディはそう考えて、表情をより曇ら
せた。
﹁でも、私は⋮⋮それでも、私は⋮⋮﹂
ぽろぽろと涙を溢しながら、モヴは黄金色の眸で、スマラグディ
を見た。
紫の髪の上で、透明な貴石が涙とよく似た輝きを放つ。本来、高
位神官が飾りに用いる貴石は紫のものだが、彼女は自ら宝石よりも
美しい色彩を有しているが故に、余計な色を必要としないのだった。
﹁私の名すら、呼ぼうとしない者と、契ることが⋮⋮どうしても⋮
⋮どうしても⋮⋮っ﹂
﹁良いんだよ、モヴ。そう思うことは、当たり前のことだ﹂
優しい手のひらが、紫の髪を撫でた。
﹁君がそう思うことは、当然のことだよ﹂
欲しかった優しい言葉が彼女に向けられる。
そうやってスマラグディは、我が儘を言うことが許されない筈の
自分の弱音を、否定することなく受け入れてくれる。
嬉しさと少しだけの罪悪感に、モヴは、幼い頃にも出来なかった
程に、声を上げて泣きじゃくったのだった。
︵⋮⋮モヴが逃げ出したくなるのも、無理はない︶
泣き疲れたような顔で眠るモヴを、スマラグディはそっと撫でる。
あの場
幼子にするような行動であるが、今の彼女にはそうすることが正し
いようにも思えた。
︵だがそれも⋮⋮﹃神殿﹄では、当然のことだと言うのだから⋮⋮︶
ため息をつきながら手を伸ばし、灯りの光量を調節する。眩しさ
に微かに眉が寄っていたモヴの寝顔が、穏やかなものになる。
︵﹃神殿﹄では、誰もモヴのことを名で呼ぶ者はいなかった。仕方
ないとも言えるが⋮⋮彼女を望む者すら、そうであるとは⋮⋮︶
1283
稀代の加護持つ尊い存在だからと、敬われている一方で、彼女は
あの場で、あくまでも﹃姫巫女﹄として扱われていた。
彼女個人の人格を二の次にしていることを、﹃神殿﹄の者たちは、
悪意がなく敬意を持っているからこそ、自覚していない。
そんな輩を相手に、そんな相手の子を宿す。
︵⋮⋮役目と言ってしまえば、それまでだが⋮⋮感情では認めたく
なくても、仕方のないことだろう︶
政略上必要ならば、そうやって子を為すことは、珍しいことでは
ない。
それでもスマラグディは、この、幼い頃から自らの務めの為に、
多くを耐えてきた彼女の数少ない我が儘を、叶えてあげたいと思っ
た。だからスマラグディにあったのは、好意ではあるが、燃え上が
るような恋愛感情ではなかった。
それでもそう思ったからこそ、翌朝目を覚ましたモヴに、スマラ
グディは問いかけた。
﹁ぼくのところに逃げてきたのは⋮⋮モヴは、ぼくとなら、子を為
しても良いと思ったと⋮⋮考えても良いのかな?﹂
スマラグディの言葉に、モヴは頬を染め、嬉しそうな顔をした後
で、ぎゅっと、己の服の裾を握り締めた。
そして、首を横に振った。
表情と動作が、全く一致していない様子で、自分の感情を振り切
るように否定の意志を示す。
そんなモヴの様子をじっと見ていたスマラグディは、微かに苦笑
して、首を振るモヴの頭をそっと撫でた。
1284
﹁それは、ぼくに、良くない未来を導くのだね﹂
スマラグディの言葉に、愕然とした表情でモヴは顔を上げる。
肯定も否定も彼女の口からは出なかったが、スマラグディには、
彼女の表情だけで充分な答えになっていた。
﹁かつて君は、ぼくに言ったね。自分に関われば、ぼくは死ぬこと
になると⋮⋮君との間に子を為すことは、ぼくに死の運命を引き寄
せるのかな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮っ﹂
初めて会った日に、穏やかな微笑みでその宣告を受け入れたよう
に、スマラグディの表情には絶望も悲観もなかった。
だからこそ、モヴは自分の﹃見た可能性﹄を素直に彼に告げる。
黙っていれば、スマラグディは自分の願いを叶えてくれる。この
﹃未来﹄を告げなければ、自分の願いが叶う可能性は高くなる。
わかっていたが、わかっていたからこそ、モヴは彼を欺くような
真似だけはしたくなかった。
震える声は、そんなモヴの心情を示していた。
﹁スマラグディは⋮⋮私との間に子を為せば⋮⋮その子の為に、命
を失うことになる。その子を護る為に、命を費やすことになる⋮⋮
けれども、子を為さなければ⋮⋮一生を穏やかに全うすることが出
来る﹂
﹁それが、モヴが﹃見た﹄未来なんだね﹂
みらい
初めて会った日には、モヴにも、そこまではっきりとした可能性
は見えなかった。
今回のエピロギの託宣を受けて、自らの選択の先にある可能性を
見据えて、ようやく理解した。
自分の願いこそが、スマラグディの死の未来を引き寄せる。この
優しいひとを失う可能性を引き寄せる。
だから彼女は、願いが叶わない可能性を理解した上で、彼に決断
1285
を委ねた。
﹁⋮⋮大丈夫だよ、モヴ。それはぼくにとって、不幸な予言ではな
いよ﹂
優しい微笑みと共に、望む言葉を呉れる可能性に賭けた。
﹁望んでも得られるとは限らない我が子を、君はぼくに見せて呉れ
る。そういう幸福な予言だよ﹂
そうして、涙を溢すモヴを、スマラグディはそっと抱き締めた。
1286
閑話。赤茶の髪の本の虫、来襲する。︵前書き︶
本日、書籍版五巻発売日につき、感謝も籠めての閑話投稿となりま
す。
毎度お馴染みな、店舗特典SSネタ合わせとなっております。
1287
閑話。赤茶の髪の本の虫、来襲する。
スファル
ア
ラーバンド国は、都市部に於て高い識字率を誇る国である。﹃黄
の神﹄の神殿という、基礎教育を受けさせる施設が普及しており、
国民のほとんどがその恩恵に与ることが出来ることがその理由であ
った。情報などの周知も文章によって示され、アウトローの代名詞
たる、冒険者相手の依頼書すら文章で掲示されていることからも、
その一端は窺えた。
そんなラーバンド国であるからには、書物を読むという行動も、
娯楽の一種として確立していた。
だが、書物というものは、庶民が娯楽の為に買い集めるには高価
なものとなっている。元々発行部数が限られていることに加え、印
刷、製本の全工程に於て、職人が手を掛ける必要のある品物になっ
ている故である。本とは、手工芸品であるのだ。革の表紙に飾り文
字が施された、見るだけでうっとりとするような装丁のものとなれ
ば、芸術品の一種に数えても良いだろう。簡易な装丁のペーパーバ
ックならば比較的安価であるが、書物とはそういったものであるか
らして、ペーパーバックは専門の職人に頼み、己好みの装丁に仕立
てて貰う前提のものなのである。
アスファル
ならば、庶民が娯楽として本を手にする機会がないのかと言えば、
そうということもなく、一つには﹃黄の神﹄の神殿が有する図書館
がある。蔵書が学術書や資料集に偏っている上に、基本的に持ち出
すことは禁止されていたが、金銭を費やすことなく、書物に触れる
ことが出来た。
そしてもう一つは、﹃貸本屋﹄という商いを利用することであっ
た。
1288
アスファル
こちらは、﹃黄の神﹄の図書館とは異なり、娯楽に主目的を置い
ており、小説や伝記、紀行文なども数多く扱っている。
デイルがクロイツで利用している貸本屋は、﹃ホルスト貸本店﹄
という初代の店主の名をそのまま用いた、飾り気もない店で、中央
広場近くの西区にある。
クロイツで営業する貸本屋の多くは、扱う品が品であるからして、
火事を警戒し、下町である東区と南区を避けて営業しているのであ
る。
幼いラティナを初めて﹃ホルスト貸本店﹄に連れて行った時など
は、彼女は天井近くまで陳列された蔵書の姿に、興奮してくるくる
回って歓声を上げるほどであった。
デイルが﹃ホルスト貸本店﹄を、本好きなラティナに紹介したの
にも理由がある。この店は顧客の元を定期的に巡回して、返却と新
しい本の貸し出しを担ってくれるのだった。幼い頃のラティナでも、
わざわざ西区まで向かわずとも、本を借りることが出来たのであっ
た。
ハーフエルフ
﹃踊る虎猫亭﹄を訪れる店員は、ゾフィという赤茶の髪の女性で、
半妖精族という出自故に、初代店主の時代から店に座する、現店主
よりも蔵書を知り尽くす女性であった。
サーガ
その日もゾフィは、本の詰まった木箱を背負って﹃虎猫亭﹄に姿
を見せた。
テオが興味を惹きそうな子ども向けの英雄譚として、最新のヒッ
ト作だと﹃妖精姫と白金の勇者﹄の物語を差し出すという嫌がらせ
を交えながら、彼女は本題を切り出した。
﹁商売柄、作家志望の奴に会ったり、資料として書き付けみたいな
もんを買い取ることもあるんだけどさ﹂
1289
遠慮なく﹃虎猫亭﹄の客席に座り、ゾフィはデイルに語り出した。
商売道具である木箱は、テーブルの上に置いたままだが、故郷で
長い間娯楽を断たれていたラティナが、貪るように中身を検分して
いた。
﹁新刊が⋮⋮新刊がこんなに⋮⋮っ。あっ⋮⋮こっちはこのひとの
新作⋮⋮どうしよう⋮⋮﹂
それでも全部を借りてしまうと、時間を忘れてしまい仕事に支障
が出てくる。そんな自らの業を知るラティナは、何を優先して借り
るべきかに、頭を悩ませているのである。
その木箱とは別に肩に掛けている鞄から、ゾフィは擦りきれた手
帳を取り出した。
﹁こんなのを最近手に入れたんだけど⋮⋮デイルなら、これに書か
れているのが、創作なのか真実なのか、判断出来るんじゃないかな
ーって思ってさ﹂
﹁どういうことだよ?﹂
﹁﹃二の魔王﹄についての記述文なんだ。とある商人の手帳って体
なんだけどさ。実際に﹃二の魔王﹄の姿を見た奴ってほとんどいな
いし⋮⋮それに対して、噂の方は多いんだけど﹂
﹁あー⋮⋮だから、直接対峙した俺のところに⋮⋮﹂
﹁うん。本物なら、これを資料に面白いもんが書けるんじゃないか
ってね﹂
﹃二の魔王﹄は、噂に対して、当人を知る者は少ない。出会ったら
最後、犠牲となるのがほとんどとなる。それが理由であった。
﹃二の魔王﹄の討伐を行った英雄と称されているのは、デイルの他
には、貴族であるグレゴールとその庇護下にある神官たちである。
伝手を辿るのも難しい。
1290
ゾフィの言葉に納得して、デイルは手帳を繰る彼女の次の言葉を
待った。
﹁この手帳には、﹃二の魔王﹄の外見は﹃愛らしい少女の姿をして、
豪華な金の巻き髪を揺らし、純白の角を有していた﹄ってあるんだ
けど⋮⋮本当?﹂
﹁愛らしい⋮⋮?﹂
そこに引っ掛かるという顔をした後で、デイルは﹁ああ﹂と頷い
た。
﹁確かに顔立ちは整ってたかなぁ⋮⋮外見の年齢は、人間族なら十
代前半ってとこで⋮⋮でも﹃愛らしい﹄ってのは、ラティナみたい
な娘のことを言うだろ﹂
﹁何でいきなりっ!?﹂
﹁そこで急に惚気るんだ﹂
デイルによる突然の爆撃に、新刊をパラパラ捲っていたラティナ
が、ぎょっとした声を出した。
﹁容赦なく、ぼこぼこに出来る程度の、何処にでもいる魔王だよ﹂
﹁うん。デイルが、﹃二の魔王﹄が、大嫌いなことはよくわかった﹂
笑顔で言い切るデイルの様子に、ゾフィは何らかを悟ったようだ
った。
﹁ここには他に、﹃魔王の傍には、美しい紫の髪持つ女性が侍って
いた﹄ってあるんだけど⋮⋮﹂
ゾフィのその言葉に、びくり。と反応したのはラティナであった。
﹁モヴ⋮⋮﹂
と、ちいさな声で呟きを漏らす。悲しい顔をしたラティナは、具
体的な母親の最期を知らないながら、母親が既にこの世の者ではな
いことは悟っていた。
﹁⋮⋮ああ﹂
デイルも敢えてそれを否定しようとはしなかった。
1291
そんなしんみりとする二人の様子に気付かぬまま、ゾフィは手帳
を更に繰った。
バナフ
﹁﹃女性は、自分に言った。自分はこの場から逃れることが出来る
セギ
と。その言葉は事実となった﹄⋮⋮これって、この女性が、﹃紫の
神﹄の神官であるって解釈で正しい?﹂
﹁⋮⋮そうだな。かなり高位の神官だったよ﹂
﹁へぇ⋮⋮じゃあ、これって本物と見て良さそうなんだ⋮⋮﹂
嘆息したゾフィは、あっけらかんとした顔を二人に向けた。
﹁いやぁ⋮⋮本物かどうか、かなり悩まされたんだよ。なにぶんこ
の後の記述は﹃女性は、生き残る為に、全てを差し出すように命じ
た﹄⋮⋮ってあるんだけど﹂
母親が、強奪まがいのことを他人に強いたという事実に、ラティ
ナの表情は更に曇った。だが続けられたゾフィの言葉に、それが驚
いた顔に転じる。
﹁後ろの頁の、商売上の損失の欄と照らし合わせると⋮⋮﹃二の魔
王﹄に差し出したものって、焼き菓子とチョコレート。メレンゲ菓
子。他は紅茶と砂糖みたいなんだよね﹂
﹁あー⋮⋮﹂
﹃二の魔王﹄の幼児性と、ヴァスィリオの飯マズ文化を知るデイル
は、なんだかその言葉に納得してしまった。
﹁他に、﹃女性の美しい顔は感情に揺れることなく、溢れる言葉は
淡々としていた﹄って続くんだけど、その後みっちりと書かれてい
るのって、その女性の﹃二の魔王﹄への愚痴でね﹂
﹁⋮⋮モヴ⋮⋮﹂
なんだかラティナの表情が、いたたまれないようなものになって
いった。﹁うちの母が、ご迷惑を⋮⋮っ﹂とでも、今にも言い出し
そうである。
﹁手帳の持ち主は、そりゃあもう淡々と、怨嗟まがいの﹃二の魔王﹄
1292
への愚痴を聞かされたらしいんだけど⋮⋮その内容を意訳すると、
﹃この根性悪の糞餓鬼、死にさらせ﹄って感じかな?﹂
確信しちまうのか、それでっ!?﹂
﹁あああぁぁぁ⋮⋮間違いなく、モヴだ⋮⋮っ﹂
﹁え!?
頭を抱えて、声を発したラティナに、今度はデイルがぎょっとす
る。
﹁モヴなら、それくらい言うもの⋮⋮っ﹂
亡き母が聞いていたならば、突っ込みを入れるであろう、娘の言
い草である。
だが、その母の突っ込みも、﹁表情に出さずに、相手を扱き下ろ
すのは、スマラグディ直伝である﹂といった感じとなり、父親の穏
やかで優しい姿しか見ていないラティナの、﹃知らない両親の姿﹄
ラティナちゃんの知り合いになるの?﹂
となるのであった。
﹁え?
目に好奇心の輝きを灯すゾフィの姿に、ため息をひとつついて、
デイルは、ぱたぱたとゾフィの前で手を振った。
﹁そこのところは、俺もラティナもこれ以上は喋らない。だが、触
れないでいてくれるなら、﹃二の魔王﹄の絵姿を作れる程度には、
詳しく話すし協力する。それでどうだ?﹂
﹁んー⋮⋮﹂
デイルの提案にゾフィは、後世への資料としての観点も含めて、
挿し絵の有無の有益性を考える。そして、にかりと明るく笑った。
﹁まぁ、私の目的は、この資料が本物かどうかってことだし⋮⋮そ
こは深く聞かないよ﹂
﹁じゃあそういうことで﹂
﹁画家の手配が出来たら、その時は宜しくね﹂
協力してくれた礼だと、今回の本の貸し料金は無料にすると言い
1293
残して、ゾフィは木箱を背負って帰って行った。
なんだかぐったりとしているラティナを横目で見ながら、デイル
は思うのである。
︵俺の印象だと、何処か儚いとこがある⋮⋮それでも毅然とした神
秘的な美人だったんだけど⋮⋮︶
何処か、ラティナと似たところがあるとは感じていた。
それでも、天然ほややん娘であるラティナとは異なる印象を持っ
ていたのである。
︵もしかしたら⋮⋮俺の印象と⋮⋮ラティナの記憶の中の母親の姿
って⋮⋮だいぶかけ離れているのかもなぁ⋮⋮︶
なんだか改めて聞き出すのも恐ろしい気がして、デイルは少し遠
くを見たのだった。
1294
閑話。赤茶の髪の本の虫、来襲する。︵後書き︶
ゾフィさんと﹃娘﹄の初対面の際の様子は、活動報告﹃書泉さんは
本屋さん﹄にて書いております。
当方の活動報告は、SS未満のネタが時折投下されているのでござ
います。
いつもお読みくださり、誠にありがとうございます。
1295
前日譚。肆、導師、金銀に勝る宝を腕に抱く。
高齢だったエピロギが、神殿の最高位の座を後進であるモヴに譲
ったのは、その数年の後のことだった。
その頃になると、スマラグディは神殿の奥まったところにあるモ
ヴの私室を、表だって訪れるようになっていた。
人間族のような結婚形態を持たない魔人族は、子を為すだけの間
柄になった場合、妻問い婚の形式となるのが一般的だった。女性が
男性の元を訪れる場合も無いこともないが、母系社会を主軸にする
こともあり、男性が女性の元に通うのが、更に一般的である。
その過程でモヴは、スマラグディへの認識を少々改めさせられた。
彼女と契る相手として、名乗りをあげていた男性たちは、いくら
モヴ自身が選んだとはいえ、スマラグディに対してかなり手酷い反
応を見せた。中傷や嫌がらせはもとより、かなり直接的な攻撃に出
た者もいる。
穏やかで他者と争うことなど全く無いようなスマラグディであっ
たが、己とモヴの敵になると見なした相手に対しては、にっこり笑
顔のまま、しかと反撃に転じた。
彼の生来の魔力の低さをあげつらった相手−−
自らの血筋を傲る者−−
増長した男たちの自意識のかたちは様々であったが、スマラグデ
ィはその誰にも媚びることも、下手に出ることもなかった。
生まれ持った強大な才は無いと自覚した上で、努力を以て、才持
つものと並び立てるだけの己を確立したスマラグディは、並大抵の
男ではなかったのである。
毒を多分に含んだ反論を返し、時には実力行使で黙らせた。保有
1296
魔力こそ平均並だが、繊細な制御を得手とするスマラグディは、魔
法を使わせれば最小の力を最大に活用することが出来る。
更には、彼を師と仰ぐ教え子たちは、魔法学に於てかなり上位の
域に達した者たちばかりとなる。教育者仲間も含め、神殿の内外に
彼の人脈は大きく影響力を持っていた。
スマラグディは、本気で怒らせると、少々どころではなく、多分
に危険な人物であったのだった。
そして、スマラグディに敵意を表立って示していた者が、軒並み
へし折られた頃、モヴは彼の子どもを身籠った。
月満ちて、モヴが産み落としたのは、双子の娘たちだった。
﹃王となる﹄という予言と、空位であるたったひとつの魔王の座に
対して、生まれた子が二人。その事実に﹃神殿﹄の者たちは、大き
く揺れた。
それは突き詰めれば酷く単純な議論であり、二人の娘のうち、ど
ちらが﹃王﹄となるのか、というものである。
﹃王﹄の候補となるモヴの子は、神殿の奥で、厳重に秘匿されて育
てられることが決まっていた。かつて﹃二の魔王﹄に、候補とされ
た子が殺められた過去の出来事を踏まえ、より厳重に、よりその存
在を知られないようにと育てることになる。モヴ自身、妊娠したこ
とは、傍仕えを含めて最低限の者しか知られぬように、配慮がなさ
れていた。
﹁どちらが﹃王﹄になっても良いよ。健やかに育ってさえくれれば﹂
そんな騒がしさとは無縁の静かな部屋で、スマラグディは生まれ
たばかりの我が子と、対面を果たしていた。
産褥期に臥せるモヴの額の汗を拭い、スマラグディは穏やかに微
笑んだ。聞く者を安堵させるような優しい響きに、モヴは甘えるよ
1297
うに手のひらに頬を擦り寄せる。
﹁二人もいるなんて⋮⋮考えても、いなかった⋮⋮﹂
﹁全てを見通す姫巫女と呼ばれていても、モヴにもわからないこと
だってあるさ⋮⋮よく頑張ったね﹂
﹁うん⋮⋮頑張った﹂
﹁ありがとう、モヴ。可愛い娘が二人も得られるなんて、思っても
いなかったよ﹂
率直な感謝の言葉に、モヴの表情が緩む。
慣れない子育てのことを考えてみて、それが一気に二人となると
想像も全くつかない。だか、すやすやと並んで穏やかに眠る娘たち
を見ると、そんな苦労のことは考えなくても良いような気分になる。
﹁髪は、ぼくの色と同じだね⋮⋮角はちいさいけれど、ちゃんとモ
ヴと同じ形になっている﹂
﹁生まれて間もない間は、角も柔らかいと聞いていたが⋮⋮本当に
そうで、驚いた﹂
﹁強く触るのは、怖いくらいだ⋮⋮角の色もぼくの色を継いだんだ
ね⋮⋮こうやって見ると、本当に不思議な気持ちになる。本当にぼ
くは父親になったんだね⋮⋮﹂
娘たちのちいさな指先に、ちいさな爪がちゃんとあることも確認
して、面映ゆいように表情を崩す。
むぐむぐと、片方の娘が唇を動かす。一拍遅れてもう一人も同じ
動きをしたことに、スマラグディは堪えきれずに破顔した。
激しい恋愛感情があるとは言い切れないという中、モヴと結ばれ
たスマラグディであったが、こうやって二人の娘を得た今はまた心
境が異なっていた。
娘たちを愛しく思う気持ちは、生まれる前に想像していた以上の
もので、この大役を無事に果たしてくれたモヴに対しても、感謝だ
1298
けでは言い表せられない感情に満たされている。
﹁ありがとう、モヴ﹂
新米の母親は、今だけは甘えるのは自分だけの特権であると、労
いの言葉を再びくれたスマラグディに、頭を撫でられると、嬉しそ
うに目を細めたのだった。
生まれたばかりの時は、見分けもつかなかった瓜二つの娘たちだ
ったが、やがて目を開くようになると、二人の眸は色が異なること
がわかるようになった。
﹁黄金の眸⋮⋮これは遺伝ではなく、モヴと同じように魔力形質が
出たと考えて良いのかな⋮⋮?﹂
﹁たぶん⋮⋮親と子で、同じ魔力形質が出るというのは、無いこと
もないと聞いていたが⋮⋮﹂
﹁こちらの子は、灰色だね。ぼくの家系は翠の眸の者が多いし⋮⋮
灰色が本来のモヴの血筋の色なのかもしれないね﹂
ぷくぷくの娘の手に指先を触れさせると、ぎゅっと掴む。その様
子が愛らしいと、スマラグディは表情を緩ませ、繰り返し娘に自分
の指先を掴ませている。
なんだかそれが面白くないとばかりに、モヴは金色の眸の娘を抱
いたまま、スマラグディの隣に擦り寄るように腰掛けた。
﹁名前は、どうする?﹂
﹁﹃神殿﹄は何も言わないのかい?﹂
﹁父親が子どもに名を贈ることに、文句なんて、誰にも言わせない﹂
﹁モヴも、昔に比べてだいぶ強くなったね﹂
アスィミ
プラティナ
可笑しそうにスマラグディは笑い、娘のぬくもりを感じながら、
アスィミ
そっと視線を宙に向けた。
フリソス
﹁黄金と白銀⋮⋮いや、白銀よりも白金⋮⋮かな﹂
やがてスマラグディが呟いたのは、その二つの単語だった。
1299
﹁フリソスとプラティナ⋮⋮これは、どうかな?﹂
﹁スマラグディが決めてくれたものなら、私はそれが良い﹂
﹁ちゃんとモヴの意見も聞きたかったんだけどね⋮⋮﹂
断言したモヴの様子に苦笑して、スマラグディはモヴが抱く娘に
手を伸ばした。そっと、自分と同じだが、自分よりも遥かに柔らか
な白金色の髪を撫でる。
﹁フリソス﹂
そして、自分の指先を未だ、にぎにぎと弄んでいる娘に視線を向
けた。
﹁プラティナ﹂
とてもちいさな、自分のかけがえのない娘たち。
﹁頼りない父親であるけれど⋮⋮これから宜しくね﹂
約束されている終わりの時までに、自分はこの子たちに何を残す
ことが出来るのだろうか、と考えながら彼は微笑んだ。
というよりも、この子たちの為ならば、そりゃあ自分は命くらい
懸けるだろうと、思えるようになるまでもたいした時間は必要とし
なかった。
痩せ型のモヴであるが、母親の務めとばかりにその身体は、授乳
の役目を果たせるようにと﹃嵩﹄を増していた。
−−が、生まれた我が子が二人であった故に、吸われる量も時間
も倍になった。
日に日に、全て吸いとられてしまうのではないかと、モヴは戦々
恐々としていた。そんな彼女を、穏やかに笑っていなしながら、想
定の倍の苦労となった子育ての為に、スマラグディは神殿の奥に、
居住するようになっていた。
時間が限られているのであれば、少しでも長く、我が子たちと共
に過ごしたかったと思ったこともある。
1300
そう、スマラグディが思ってしまうのも致し方ないほどに、娘た
ちは可愛かった。
先に首が座り、お座りが上手に出来るようになったのは、フリソ
スの方だった。プラティナは少し遅れて出来るようになったが、よ
くコロンと転げた。布団の上でのことであり、痛みはない筈だが、
驚いたのか灰色の眸をぱちぱちと瞬いた後で、大きな声で泣き出す。
そんなプラティナに釣られてフリソスも泣き出し、泣いた拍子に
フリソスもコロンと仰向けに転がったりするのだった。
﹁元気な泣き声だ。二人とも元気だねぇ﹂
﹁⋮⋮っ﹂
泣き止まない娘を前に、あわあわと無言で右往左往するモヴを尻
目にスマラグディはフリソスを抱き上げ、ぽんぽんと手慣れた様子
であやす。少し落ち着いたフリソスをモヴに預け、今度はプラティ
ナをあやしはじめた。
﹁⋮⋮何故、スマラグディならば、こんなに簡単に泣き止むのだろ
うか⋮⋮?﹂
﹁どうしてだろうねえ﹂
眉根を寄せて考え込むモヴに苦笑を向けて、スマラグディは既に
泣き止んで新たな興味を得たとばかりに彼の角に手を伸ばすプラテ
ィナの様子に目尻を下げる。
﹁あーうー﹂
﹁ご機嫌になったねラティナ﹂
﹁あーあー﹂
﹁リッソもぼくの方に来るかい?﹂
モヴの腕の中から、彼の方に腕を伸ばす娘に表情を緩めてスマラ
グディはそれぞれの腕で娘たちを抱き取った。
娘たちは彼の腕の中で、互いに顔を見合わせて、きゃきゃと、上
機嫌な声をあげる。
1301
﹁⋮⋮二人はぼくが見てるから、モヴは公務に戻っても大丈夫だよ﹂
﹁⋮⋮﹂
少し寂しそうな顔をしたモヴの様子に、スマラグディは少しだけ
優越感に似た感情を抱いた。
﹁ラティナもリッソも、モヴにお仕事頑張ってって⋮⋮ね。モヴの
仕事が終わるのを、ぼくもちゃんと待っているよ﹂
この新米の母親が、娘たちに自分の甘える相手を独占されている
ことを少々寂しく思っていることは、スマラグディは、ちゃんとわ
かっているのだった。
もう?﹂
﹁もうー﹂
﹁うー?
﹁モヴ、ラティナとリッソがモヴの名前を呼んだね⋮⋮二人とも、
ぼくのことは?﹂
﹁うー?﹂
﹁う?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
それなのに何故か、娘たちは二人が二人とも、﹁ラグ﹂ではなく、
﹁モヴ﹂という母親の名前の方を先に覚えたことに、彼は人生最大
のショックを受けたりするのであった。
1302
前日譚。伍、黄金と白金の娘たち。
﹁ラグー﹂
﹁ラグー、おはなち、ちてー﹂
﹁おはなち、ちてー﹂
てとてとと、歩き出した娘たちが、舌足らずにお喋りをしはじめ
るようになると、可愛さの威力は半端なかった。
﹁お話かい?﹂
﹁おはなちー﹂
﹁ちー﹂
並んで声を揃えるプラティナとフリソスは、いつも手をつないで
いる。そっくりの仕草で、父親であるスマラグディを見上げていた。
幼いこの子たちは、まだ自分たちが別個の存在であるという、は
っきりとした自覚すらないのだろうと思いつつ、スマラグディは娘
たちの愛らしさに目を細める。
﹁じゃあ今日は、遠い国の英雄の物語をしようかな﹂
﹁ちゅるー﹂
﹁ラグー、だっこー﹂
椅子に腰掛けたスマラグディの膝によじ登りつつ、プラティナは
抱っこをねだる。灰色の眸の娘は、どうやら母親と同様、ずいぶん
と甘えん坊のようだった。
﹁リッソも、リッソもー﹂
﹁慌てないでリッソ。そうだね、ラティナだけはずるいものね﹂
ぱしぱしと、スマラグディが腰掛ける椅子を叩きながら自己主張
する金色の眸の娘に、苦笑しながら彼は、娘を二人とも自らの膝の
上にのせた。
﹁君たちがもう少し大きくなったら、二人一緒に抱っこをするのは
1303
難しくなるかもしれないね﹂
﹁やぁー﹂
﹁いっちょなのー﹂
﹁そうか。じゃあぼくは、頑張らなくちゃいけないかな﹂
娘たちの抗議の声に、真面目な顔で頷きながら、スマラグディは
過去に起こった歴史の一幕を、記憶の中から掘り起こし、幼子向け
の寓話のように噛み砕いて語り出した。
娘たちは、難しいことなど考えずに、にこにこと彼の語る物語に
聞き入っている。柔らかで穏やかなスマラグディの声は、聞いてい
るだけで心地好い響きを持っているのだった。
﹁導師﹂
﹁おや、久しぶりだねアスピダ﹂
物語が丁度ひと区切りする頃を見計らったかのように、教え子が
居室を訪れた。彼は数少ない、スマラグディ父娘の存在を知る者だ
った。
﹁⋮⋮すっかり、子育てが板についてらっしゃるようで⋮⋮﹂
元々器用に何でもこなすひとだとは思っていたが、という顔でア
スピダは苦笑した。魔人族の男性が子育てに関わることは、基本的
にはほとんど無い。
﹁自分の子が、こんなに可愛いものだとは思っていなかったよ﹂
﹁よー?﹂
スマラグディの語尾をフリソスが真似れば、それにプラティナは
楽しそうに声をあげて笑う。じゃれあう二匹の仔猫のような娘たち
の姿に、スマラグディはいかにも幸福そうな表情のまま、二人を床
におろした。
﹁ラグ?﹂
﹁ん?﹂
﹁ぼくは少し難しいお話をするからね。二人はちょっと遊んでおい
で﹂
1304
首を傾げたプラティナも、フリソスに手を引かれて歩き出せば、
疑問はすぐに忘れてしまったようだった。
神殿の奥の限られた世界。
その中でも、数少ない外の光を感じることの出来る中庭へと、と
てとてと幼い姉妹は歩いて行く。そこは二人のお気に入りの遊び場
だった。
そんな二人を見ていたアスピダが、ぽつりと呟いた。
﹁⋮⋮やはり姫巫女に似てらっしゃいますかね﹂
二人の母親であるモヴは、元々整った顔立ちではあったが、成長
して大人になって以降は、そこに落ち着きを備えた立ち振舞いが加
わり、美しさに磨きを掛けていた。神殿という俗世間と隔たれた浮
世離れした雰囲気も、彼女の神秘的な印象を強めている。
スマラグディに言わせれば、それも世間知らずの天然娘となって
しまうのだが、モヴが美しいことは彼も認めることだった。
二人の姉妹はそっくりの顔立ちで、母親の印象を受け継いでいる。
父親であるスマラグディの顔立ちは、どちらかといえば平凡なもの
だが、その彼の遺伝も、良い方向で娘たちに受け継がれたらしい。
近寄り難い雰囲気のあるモヴの美貌に対して、二人の娘たちには、
人懐こい他者を惹き付ける愛らしさが加わっていた。
スマラグディの親バカぶりを差し引いても、二人の姉妹はとても
可愛いらしい子どもたちだった。
﹁いくらあの子たちが愛らしいからとはいえ、契ることは許さない
よ﹂
﹁いくら何でも、まだ幼すぎるでしょう﹂
と、答えたアスピダであったが、スマラグディが笑顔の奥に、な
んだか底冷えをするような威圧感を隠しているかのような、錯覚を
感じた。
ぶるり、と背中に走った寒気に震える。
1305
成長した後でも、うちの娘は誰にもやらんという父親の放つ殺気
を、子を持たないアスピダは理解していなかった。
﹁何かあったのかい?﹂
﹁実は⋮⋮﹂
それでも穏やかに促したスマラグディの様子に気を取り直して、
アスピダは最近の神殿の様子を語る。
モヴが、最高位の神官の役に就いたとはいえ、彼女は未だ年若い。
それを理由に彼女を軽んじるような、言わば老害と言っても良い、
歳を経ただけ思考も凝り固まった輩への対処というのは、それを補
佐するアスピダたちを含めた若い人員たちには、荷が重いのだった。
口が固く、モヴにとっても﹃他人﹄ではないスマラグディは、そ
んな若者たちの相談役を担うようになっていた。
かつてモヴに手を出そうとした男性たちを排除したように、彼は
着々と、モヴの確固たる地位の足固めをしていたのである。
スマラグディ当人に言わせれば、伊達に歳をとってはいないとい
うことになるのだが、そんな彼の容赦のないやり口に、教え子たち
は、師への尊敬の念を新たにしていくのだった。
どうしたんだい?﹂
﹁ラグー﹂
﹁ん?
ぽてぽてと、手をつないだまま走り寄って来たフリソスとプラテ
ィナは、空いた方の手にそれぞれ小さな花を握っていた。
ありがとう、きれいだね﹂
満面の笑みでプラティナがそれをスマラグディに差し出す。
﹁おはなー﹂
﹁あげゆ﹂
﹁くれるのかい?
膝を折って受け取ったスマラグディの様子に、二人はにっこりと
1306
笑顔を交わし合う。
﹁フリソスのお花はどうするのかな?﹂
﹁モヴのー﹂
﹁あげゆの﹂
﹁そうかい。それはモヴも喜ぶよ。枯れないようにお水にいれてお
こうか?﹂
﹁うん﹂
﹁おみずー﹂
大好きな父親に褒められて、更に嬉しそうになった娘たちを見て
いると、スマラグディの笑顔も更に幸福そうなものとなる。
﹁命を育む源にして万物の母たる水よ﹂
すらすらと長い詠唱を紡ぐスマラグディの姿を、娘たちはじっと
見上げていた。
本来、詠唱が長くなるごとに、魔法は威力を強めていく。それと
同時に、制御の難易度と消費する魔力も大きな負担になっていくも
のだった。
スマラグディが元々持つ魔力は、それほど大きなものではない。
強力な魔法を使えば、魔力切れを起こして昏倒しても、おかしくは
無かった。
だが彼は、指先の一点に魔力を集め、効果範囲を最小に限ること
で、それを可能にしていた。それは、魔法制御をより難しいものに
しているということでもあるのだが、彼はいともたやすく行ってみ
せるのだった。
﹃︽癒水︾﹄
浅い小皿の中に、魔法で喚んだ水が満たされる。
スマラグディは、娘から受け取った小さな花を、そっとそこに入
れた。
幼子に握り締められて萎びれかけていた花が、生彩を取り戻す。
父親の様子を真似て、フリソスが自分の握る花もそこに入れると、
1307
スマラグディは良くできましたとばかりに、フリソスの頭を撫でた。
アスピダだけが、師の卓越した技量の魔法に、嘆息する。
本来ならば、顕現した後、魔術現象として消える筈の癒しの効果
が籠められた﹃水﹄を、呪文の一部を書き換えたことで定着させて
幼い娘たちは、父親が容易く行う﹃魔法﹄を、きらきらした好
いることも、並の術者には出来ることではない。
奇心に満ちた目で見ているが、それが世間一般では﹃あり得ないこ
と﹄だとは微塵も思ってはいないようだった。
母親である姫巫女も、強大な魔力を生まれ持ち、スマラグディの
薫陶を受けた才女である。
世の基準にはならない。
そういえば、師が娘たちに語っていたのは、実際に起こった過去
の﹃寓話﹄であった。幼子向けの喩え話に似せていても、それは名
君の治世についてであったり、暗愚だった王の混迷した世情であっ
たりするのである。アスピダたち神殿で政治に関わる者が、勉強会
の際、検討する題材と、内容だけならば大差がない。
︵導師と姫巫女のお子とは⋮⋮﹃王﹄となるという以前に、どのよ
うに育つのであろうか⋮⋮︶
娘たちに再び抱っこをねだられて、相好を崩している師の姿を見
ながら、アスピダは再びため息をついたのであった。
1308
前日譚。陸、導師、青く染まる。
フリソスとプラティナ。
どちらが先に生まれたかという事実は、二人にとってはあまり関
係がなかった。両親も拘ることなく、二人の娘たちを慈しんでいた。
鏡よりも互いの顔を見ている時間の方が長い二人は、お互いが別
の存在である自覚すらあまり無いようだった。
こてん。と首を傾けたプラティナの向かいに座ったフリソスが、
一瞬遅れて同じく首を傾ける。互いに互いを真似るという二人の遊
びは、やがて同時に笑い出すというかたちで、一応の終了を告げる。
おそらく二人以外には何が楽しいのかもわからない遊びなのだが、
それを眺めているスマラグディにとっては、もう目の中に入れても
痛くないのは当然であると、力説出来るほどの愛らしさだった。
﹁ラグー?﹂
気がつくと二人はいつも通りに手を繋ぎ、スマラグディを見上げ
ていた。
フリソスとプラティナは、二人が二人とも好奇心旺盛なので、先
に歩き始めるのはどちらであるとは、決まってはいないようだった。
けれども、フリソスの方が少し慎重で、プラティナの方が怖がりで
あるようでもある。
当人自身も気付いていない差異を発見する度に、父親であるスマ
ラグディは、穏やかな表情をより優しげに緩めるのだ。
﹁なんだい?﹂
﹁なにー?﹂
﹁なぁにー?﹂
スマラグディが、仕事のために広げていた書類を覗き込んで、二
1309
人の姉妹は不思議そうに首を傾げていた。
﹁君たちには、まだ難しいかな﹂
﹁ん?﹂
﹁んー?﹂
苦笑したスマラグディの前で、二人は首を捻っていた。
書類には、複雑なものも含めた、様々な記号のようなものが並ん
でいる。それは、彼ら魔人族が用いる文字であった。
魔人族の文字は非常に難解だ。
それぞれの文字が意味を持ち、組み合わせによっても別の意味と
なる。文字一字は音に由来しておらず、それぞれの文字の意味を理
解していなければ読み取ることはできない。
魔人族の言葉は、魔法を行使する時に紡ぐ呪文言語と同等のもの
であり、他種族は見ることの無い、それぞれの言葉が有する魔力の
揺らぎを図形化したものだとも言われていた。
﹁君たちがもう少し大きくなったら、教えてあげるからね﹂
ある程度以上の言葉の意味を理解していない幼子では、文字を覚
える段階にも至らない。
結果、総じて魔人族が文字を覚える年齢というものは遅い傾向も
あるのだが、長い寿命を持つ彼らにとっては、あまり拘らないこと
となっていた。
それでもスマラグディは、白紙の紙に二つの﹃文字﹄を書き入れ
た。
二つの文字は、同じ形状の部位を含んでいる。
フリソス
プラティナ
目の前の愛しい子どもたちのように、よく似ているが異なる文字
たちだった。
﹁こっちは﹃黄金﹄こっちは﹃白金﹄⋮⋮リッソとラティナ、二人
の名前の意味を持つ文字だよ﹂
1310
豊富な鉱脈資源を有するヴァスィリオでも、珍重されている﹃黄
金﹄と﹃白金﹄という貴金属は、その色から、それぞれの文字は﹃
太陽﹄と﹃月﹄の意味を含んでいた。
﹁リッソ?﹂
﹁ラティナ?﹂
﹁そうだよ。君たちの名前を意味しているんだ﹂
﹁モヴはー?﹂
﹁ラグはー?﹂
じっと書き付けられた文字を覗き込んでいた娘たちは、同時に別
々の名前を口にした。微笑ましくもあり、二人が二人とも母親の名
前を呼ばなかったことに安堵もする。
スマラグディ
モヴ
﹁ぼくの名前は⋮⋮こう。モヴの名前はこうだよ﹂
だが、二人の娘たちは、﹃翠玉﹄と﹃紫﹄の文字を前にすると、
同時に不満そうな顔つきになった。
ぷすっ。と、少し頬を膨らませる仕草は、幼い姉妹同時にやられ
ると、彼女たちには悪いが微笑まし過ぎて頬がどうしても緩んでし
まう。
﹁どうしたんだい?﹂
﹁ちがうのー﹂
﹁やあー﹂
﹁そうか。ぼくたちの名前が、君たちのと似ていないのが嫌なんだ
ね﹂
娘たちの訴えを即座に読み取って、スマラグディは苦笑した。二
人の頭をそっと撫でる。
﹁それはね。君たちが他の誰とも違う、特別な関係だからだよ。⋮
⋮君たちはそっくりだけど違う。そしてどちらもぼくたちにとって
は大切な子どもたちだからね﹂
スマラグディの言葉は、まだ幼い彼女たちには、よく理解が出来
なかったようだった。それでも優しい父親の声が、自分たちへの愛
1311
情に満ちたものだということは感じ取って、えへへ。と笑う。
ぎゅっ。と、大好きな父親に二人は同時に抱き付いた。
仕事なんてしている場合ではないと思った。
それでも彼女たちは、彼の邪魔をする訳ではなく、じっと彼の行
動を眺めて楽しそうにしていた。
すらすらと、スマラグディが文字を綴る様子すら、彼女たちの好
奇心を大いに満たすらしい。几帳面に整列する文字は、彼女たちに
は﹃魔法﹄と同じくらい不思議に見える光景だった。
﹁ちゅごいねえ﹂
﹁ちれいねえ﹂
二人はそれぞれ感想を言って微笑みを交わす。
娘たちの視線を感じるスマラグディも、少し普段よりも緊張感を
含んで、更に書類にペンを走らせていった。
文字を覚えるのには早いが、興味を持った娘たちを自らの膝の上
に載せて、スマラグディがペンの扱い方を教えたのは、致し方ない
状況だった。
先に上手にペンを握れたのはプラティナだった。
﹁上手だね、ラティナ﹂
スマラグディの誉め言葉に、プラティナが得意そうな顔をする。
その隣で、にぎにぎとペンを何度も握り直しているフリソスが、
少し、ぷすっ。と頬を膨らませた。
この二人はそっくりだからこそか、どちらかが出来るようになっ
たことに対して、もう一人も発奮して習得に熱を入れる。
少し負けず嫌いなところも、互いの長所となれば良いと、父親は
目元を緩ませて思う。
﹁リッソももうちょっとだよ。⋮⋮ほら、今のまま⋮⋮そうだよ﹂
﹁できた!﹂
﹁うん。リッソも上手だね﹂
1312
かりかりと、大きく広げた紙に、思い思いにペンを走らせる娘た
ちは、少し真面目な顔をしていた。
どうやら彼女たちなりに、仕事をしている父親の姿を真似ている
らしい。
とても、とても愛らしい姿だったので、この直後インク瓶をひっ
くり返して、当人たち自身もブルーブラックの色に染まってしまっ
たことすら、仕方ないと思えるほどだった。
パニックになって泣き出した二人が、インクに汚れた手で、スマ
ラグディに抱き付きに来たものだから、彼の衣服にも青い手形がぺ
たぺたと付いたのだが、それも致し方ないことなのである。
﹁⋮⋮それでね、これが二人の手形だよ。本当に可愛いらしいもの
だから、これは記念に残しておこうと思ってね﹂
その日一日の公務を終えたモヴに、二人の様子を報告することも、
スマラグディの大切な﹃仕事﹄だった。
夜更けて、すやすやと眠る二人の娘たちは、何処か調子外れな寝
息を奏でている。それなのに二人が二人とも、同じタイミングで呼
吸をしたりするものだから、なおのこと﹃双子﹄という事実を思い
返させるのだった。
﹁ん⋮⋮本当ならば、私が育てるべきであるのに⋮⋮全てスマラグ
ディ任せで⋮⋮﹂
﹁モヴが忙しいからこそ、ぼくにこの役割が回ってきたことは、幸
運なことだと思ってるよ﹂
モヴがプラティナの頭を撫でると、プラティナは眠りながらもふ
にゃふにゃと嬉しそうに笑う。片割れの幸せな気分が伝達したのか、
隣のフリソスも同じように笑いだした。
﹁まだ、少しインクの色が指先に残っているな﹂
1313
﹁すぐ侍女を呼んで、浴室に連れて行って貰ったんだけれど、染ま
ってしまったみたいでね﹂
唯一スマラグディが二人の娘たちを完璧に他人任せにするのは、
入浴時のことだった。男親である自分は、娘たちとそこは一線を引
くべきだと彼は考えている。
娘たちが﹃父親が大好き﹄だからこそ、異性とは、ある程度距離
を置かなくてならないことも教えておかなければならない。
底抜けに娘たちに甘いようでいて、スマラグディは躾に関わる部
分は、きっちりと厳しく接してもいるのだった。
﹁こうして、失敗してしまったことも、この子たちには大切なこと
だよ﹂
﹁うむ⋮⋮﹂
微笑んだモヴには、母親としての深い愛情が感じられる。共に過
ごす時間こそ限られたものだが、彼女が自分の娘たちに深い愛情を
持っていることは、スマラグディもよく知ることであった。
穏やかに微笑んで、モヴを招く。
少し頬を染めるモヴの姿は、神殿で、彼女を姫巫女と呼んで敬う
者たちが知らない、若い女性相応の姿だった。
子を成した間柄になっているのに、彼女の仕草には初々しいもの
が残っていた。
スマラグディに抱き寄せられて、モヴは幸せそうに目を閉じた。
﹁モヴは、充分頑張っているよ。ぼくはちゃんとそれを知っている
からね﹂
﹁⋮⋮スマラグディは、本当に甘やかすのが、上手い。⋮⋮この子
たちが甘えん坊になったら、それはきっとスマラグディが原因だ﹂
﹁甘えん坊でも、悪いことはないよ。この子たちは、モヴによく似
て頑張り屋さんだからね。甘える必要もあるんだよ﹂
よしよしと、娘たちがいつもそうされているように角のあたりを
1314
撫でて貰い、モヴはうっとりと表情を緩める。
穏やかな幸福な時間に、今だけは全てを忘れて溺れてしまおうと、
スマラグディの胸に頬を擦り寄せたのだった。
1315
前日譚。陸、導師、青く染まる。︵後書き︶
たぶんこの手形付きの衣服は、今でも取ってあるのだと思われます。
1316
前日譚。漆、紫の巫女、白金に泣かされる。︵前書き︶
﹃娘﹄のトラウマ案件、頬っぺたもぎ取り事件であります。
1317
前日譚。漆、紫の巫女、白金に泣かされる。
﹁なんでモヴ、ちっさいの?﹂
というプラティナの発言には、全く悪意は無いのだろうな。と、
母親であるモヴは思った。
双子の娘たちは好奇心が強く、様々なことに疑問を持つ。父親が
博識であることも相まって、世の中の全てには理由があり、知的好
奇心を満たす喜びもこの幼さで既に知っている。
それは喜ぶべきことだろう。
与えられるものを安寧と受けとるに留めるのではなく、疑問を持
ち、その疑問の答えを得ようとする姿勢は好ましいものである。
この子たちのどちらかは、いずれヴァスィリオを負う国主となる。
そして選ばれなかったもう一人も、大きな決断を強いられる時が来
るだろう。
己で考え、答えを探すことは、とても大切な資質である。
−−まあ、だが、それはそれである。
幼子相手に手を上げてはならないと、スマラグディに念を押され
ているので、手は上げない。ただ、﹃言ってはならぬこと﹄がこの
世にはあることを、教えることも母親である己の仕事であろう。
モヴはそう結論付けて、純粋な好奇心溢れる眼差しで自分を見上
げるプラティナと向き合った。
むに。
娘の両の頬をつかむ。
娘の頬っぺたは、思っていた以上に、ぷにぷにむにむにとしてい
て、さほど力を籠めなくとも、むにゅんと伸びた。
1318
﹁プラティナ﹂
﹁ぴゃっ!﹂
普段の愛称ではなく、正式な名で娘を呼ぶと、プラティナはびく
ん。と大きく跳ねた。
﹁世の中には、聞いてはならぬこと、口にしてはならぬことがある
のだ。沈黙こそ正しい選択である時もあるのだぞ﹂
﹁ふゃ⋮⋮﹂
妙な声を上げて母親を見上げるプラティナは、両目に涙を浮かべ
てぷるぷる震えていた。
更に頬を、むに。と引けば、娘の涙は更に盛り上がった。
娘の疑問は、恐らく彼女の他に知る﹃女性﹄である、侍女たちに
備わる豊かな女性らしい二つの丸みが、己には無い−−控えめであ
ることが、理由だとモヴは推測する。
・
・
プラティナは単純に不思議に思っただけで、悪意は無いのだろう。
だが、それは、モヴのコンプレックスである部位なのだ。
モヴは、スマラグディに恋慕の情を抱いて、彼を求めた。思いこ
そ通じたものの、彼は自分のことを、恋い焦がれる女性として選ん
でくれた訳ではない。彼は優しいから、自分を切り捨てることが出
来なかっただけだ。
そう思ってしまうのは、モヴにとっての負い目そのものだった。
スマラグディが自分を大切にしてくれるひとだからこそ、モヴは女
性としての自分自身に自信が持てないし、自らのせいで彼を破滅に
導いてしまう、後悔もある。
治世に携わる者としての能力は、研鑽を積めば良い。
だが、女性らしい豊かなシルエットを得るには、どうしたら良い
のかはわからない。子どもの頃からずっと、痩せぎすの薄い身体つ
きのままであるのだ。
スマラグディは、もっと女性らしい身体つきを好ましく思ってい
るのかもしれない。恋慕うからこそ、モヴはそんな不安を抱いてい
1319
たのだった。
﹁ラグっ、ラグーっ﹂
﹁どうしたんだい、リッソ、そんなに急いで?﹂
半泣きのフリソスが、スマラグディを必死で引っ張って来たのは、
その時だった。
そこでスマラグディが見たのは、もう一人の娘の頬を、左右に、
むにぃ。と伸ばしながら、伏魔殿たる神殿の中枢で、自分よりも遥
かに歳を経た狐狸の如き老害を相手にするような覇気を纏うモヴの
姿だった。
何が起こっているのかはわからなかったが、とりあえず思う。
︵これは、泣く︶
泣いても致し方ない。直接モヴの怒りに晒されているプラティナ
だけではなく、父親の助けを求めて走ったフリソスも涙目でぷるぷ
る震えている。
﹁モヴ、そのあたりにしておきなさい。ラティナだけでなく、リッ
ソも怯えてしまっているよ﹂
スマラグディが、少しきつい声でモヴを叱責する。すると、娘た
ちだけでなく、モヴにまで涙目で見られてしまった。
本当に何が起こっているのかわからない。
モヴの両手から解放されたプラティナの頬っぺたが、ぷにゅん。
と元の形に戻る。プラティナは自分の頬を押さえ、ぷるぷる震えな
がらスマラグディを見た。
﹁ラグ、ラティナのほっぺ、ちゃんとある?﹂
﹁大丈夫だよ、取れてないよ﹂
どうやら娘にとっては、両の頬をもぎ取られるほどの恐怖であっ
たらしい。
1320
普段は快活なプラティナが、よろよろとスマラグディの方に向か
い、涙目で父親にしがみついていたフリソスの元に行く。
己の片割れと手を取り合って、娘たちは味わった恐怖を分け合う
ように、ぎゅっ。と抱き合った。
そんな二人を、抱きしめてあやしていたスマラグディは、モヴの
恨みがましい視線と目が合った。
拗ねている。
モヴは、あまり感情が面に出ない。だが、スマラグディにはしっ
かりと、そんな彼女の感情が読み取ることが出来た。
﹁⋮⋮モヴ﹂
﹁⋮⋮﹂
スマラグディに呼ばれて、彼女はむすっとした顔を無言で向けた。
・
そんな顔をされたら、彼も苦笑するしかない。
﹁⋮⋮ラティナに、苛められたのかな?﹂
スマラグディの言葉に、モヴから険が薄れる。
彼女は娘に﹃苛められてしまった﹄のだろう。それなのに、娘た
ちだけがスマラグディに甘やかして貰えることに、彼女は少なくは
ない嫉妬心を抱いているらしい。
それを大人げないと言い捨てるには、スマラグディは年下の彼女
が、いつも必要以上に頑張っていることを知っていた。
娘たちの方が先に平常心を取り戻したが故に、幼い頃のように彼
を一人独占して、モヴがスマラグディの膝の上で彼に抱き付いたま
ま離れなくなるという状況になった。
公務に戻って来ない﹃姫巫女﹄を呼びに来た侍従に困惑させると
いう、事態に繋がっていくのだった。
因みに、﹃プラティナによる苛め﹄の内容を聞いたスマラグディ
は、
1321
﹁そういった、劣等感を抱くところも含めて、モヴの個性だと思っ
ているよ﹂
と、冷や汗ひとつかかずに、さらりと言ってのけた。
﹁⋮⋮もっと、女らしい者の方が、好ましいとか⋮⋮﹂
﹁君から願ったことだったけれど、それを受け入れて、モヴと共に
在ることを決めたのは、ぼく自身だよ﹂
自分に抱き付き、不安そうな声を出すモヴは、﹃全てを見通す姫
巫女﹄なんてものではなかった。
当たり前であるそういった事実を見せられるから尚のこと、スマ
ラグディは彼女にも、甘く優しくなってしまうのだった。
﹁モヴ以外の誰かであるならば、こんなに可愛い子どもたちとは出
会えなかったしね﹂
﹁スマラグディは、ラティナとリッソの方が大切であるようだ⋮⋮﹂
自らの責任に対して誰よりも厳しく生きているモヴが、そうやっ
て自分にだけ甘えたことを言ってくるのも、とても可愛いらしいと、
スマラグディは思っていたりする。
結局、自分はそうやって甘えられることが好きなのかもしれない
と、彼は自分よりもずっと年下の彼女を抱く腕に力を籠めた。
娘たちではなく、今日はこのまま彼女をたっぷり甘やかしてしま
おうと心に決める。
﹁モヴとの間に生まれた子どもたちだからね。大切だよ﹂
嫌いな相手であれば、望まれたとしてもこうやってその後も共に
在ることはないだろう。
情が移っただけでは言い表せないほどの時間を、もう自分は彼女
と共に在るのだ。
そのあたりを、この甘えん坊で、自信が少しない彼女に教え込む
べく、スマラグディは更に言葉を重ねていった。
スマラグディの囁き声は、彼女だけにしか届かなかったが、そん
1322
な両親を見た姉妹は互いに笑みを交わし合った。
﹁モヴ、ラグとなかよし?﹂
﹁なかよしーっ﹂
﹁ねーっ﹂
大好きな父親の抱っこは、母親に独占されてしまっていたが、自
分たちにはお互いがいるとばかりに、つなぐ手に力をこめる。
胸の内に抱く幸せな気分のまま、フリソスとプラティナは、神殿
の奥の限られた場所−−二人にとっての世界の全て−−を、散歩す
るべく歩きだしたのだった。
1323
前日譚。捌、黄金と白金、墓所に投げられる。︵前書き︶
94話﹃閑話、夏の肝試し的な話。﹄と合わせてお楽しみください。
1324
前日譚。捌、黄金と白金、墓所に投げられる。
﹁ぴゃああぁぁぁぁあっ!!﹂
﹁ぴゃぁぁあああぁあっ!!﹂
とある夜更けに響いた幼子の声は、二人ぶんのものだった。
﹁まもの?﹂
﹁まじゅー?﹂
その日も、フリソスとプラティナの二人は、大好きな父親から昔
話を聞いていた。その中には英雄譚も少なくなかった。魔人族の中
からは﹃勇者﹄は生まれることはないが、﹃魔王﹄の対存在である
が故に、伝わる伝承は少なくはない。
﹁そうだね⋮⋮英雄と呼ばれるからには、﹃厄災の魔王﹄を討ち滅
ぼすだけでなく、人びとを危険にさらしている魔獣や魔物を討つと
﹂
まじゅー?﹂
いう話も多いものだけれど⋮⋮﹂
﹁まもの?
﹁ちがうの?
﹁そうだね⋮⋮見たこともない君たちには、少し難しいね﹂
﹃魔獣﹄とは、魔力を有する生物全般の分類だった。獣と限られて
いるわけではなく、蟲や広義では﹃人族﹄ではない人型の生物−−
亜人種−−も含まれる。
一方で﹃魔物﹄と称されるのは、非生物となる。
ゴーレムやガーゴイルといった無機物に魔力が宿った、魔法生物。
いわばそれは、人工的に、もしくは偶然が重なり自然発生した、魔
道具の如きものである。
1325
だが、それよりも多く見られる﹃魔物﹄とは、死したものの魂や
屍が帯びた魔力によって具現化したもの。すなわちアンデッドモン
スターと呼ばれるものの方が一般的であった。
だが、神殿の奥に秘匿され、普通の獣すら満足に見たことのない
この子たちには、それらの違いを理解させるのは大変難しいことだ
った。
﹁⋮⋮考えてみるよ。君たちにどうやったら上手に教えることがで
きるのか。だから少し待っててくれるかな?﹂
﹁んー?﹂
﹁ん?﹂
困った顔のスマラグディに、フリソスとプラティナは首を傾げた。
今まで何でも知っている父親が、自分たちの疑問に答えてくれない
ことはなかった。
どうして教えて貰えないのだろうかと、考える。
手をつなぐ自らの片割れも自分と同じように考えこんでいること
に気付いて、二人は互いに頷きあった。
父親が困ってしまったのならば、もう一人の頼れる存在である母
親に尋ねてみよう。
言葉を交わすことすら必要とせず、同じ結論に至った二人は、す
っきりとした顔で父親を見上げた。
スマラグディは娘たちの表情に、聞き分け良く聞き入れてくれた
のだと安堵した。まさかアイコンタクトだけで娘たちが、今後の行
動方針を決定していることまでは、彼も気付いていなかった。
フリソスとプラティナが、一言だけでも父親の前でそれを伝えて
いたならば、この後の惨事は食い止められた筈であった。
1326
﹁モヴーっ﹂
﹁モヴ、おしえてーっ﹂
﹁おしえてーっ﹂
てとてとと走り寄って来た娘たちに、モヴは少々驚いた。
娘たちは、疑問を抱くと大概父親に尋ねる。そしてスマラグディ
は、それに答えるだけの知識を有していた。
だからこうやって娘たちに﹁おしえて﹂と尋ねられることは、モ
ヴはとても珍しく感じたのである。
﹁なんだ?﹂
﹁あのね、あのね﹂
﹁まじゅーとまものなの﹂
﹁魔獣と魔物?﹂
疑問を浮かべた母親に、娘たちは更に言葉を重ねていく。
﹁ラグがね、おはなししてくれたの﹂
﹁でもね、わかんないの﹂
﹁まじゅーとまもの、なにがちがうの?﹂
﹁わかんないの﹂
互い違いに説明するフリソスとプラティナを前にして、モヴはふ
むと、状況を把握する為に思案した。
﹁つまり、魔獣と魔物の違いがわからないのだな﹂
﹁まじゅーは、ちょっとわかる﹂
﹁あぶない、どーぶつなんでしょ﹂
﹁動物と限られた訳では無いがな。そのようなものだな﹂
スマラグディがこの場にいたならば、モヴも神殿育ちの世間知ら
ずであるからして、色々と突っ込みを入れたくなる母子の姿である。
﹁ならば、何を知りたいのだ?﹂
﹁まものってなに?﹂
﹁よくわかんないの﹂
﹁ふむ⋮⋮﹂
1327
娘たちの疑問に深く頷き、彼女は更に説明した。
﹁魔物とは生きてはおらぬもの⋮⋮アンデッドと呼ばれる不死者が
最も数が多い。死した屍やその魂と呼ばれる残留思念が魔力によっ
て具現化したものであるが⋮⋮﹂
娘たちが首を傾げている様子を見て、モヴは、ある種短絡的な結
論を出した。
﹁うむ。言葉のみの説明を聞くよりも、実際に実物を見て、体験す
る方が良かろう﹂
﹁ん?﹂
﹁そうなの?﹂
黄金色の眸でどこか遠くを見るような顔をして、モヴは他の只人
が見ることのないものを見通していく。
やがて彼女は、自分が見通したものに満足そうに微笑んだ。
﹁己が知らぬことに興味を持ち、学ぼうとすることは善きことだ。
学ぶが良い﹂
﹁ん?﹂
﹁ん?﹂
同じ仕草で首を傾げる二人の娘の前で、モヴは一人満足気に頷い
ていた。
かつてモヴは、スマラグディの元に行く為に、神殿からあっさり
と抜け出してみせた。彼女は、妙なところで行動力を発揮する天然
さんなのである。
彼女の能力を用いれば、娘たちの安全を確信した上で、神殿の奥
から抜け出すことすら可能となる。
とはいえ今回モヴは、娘たちを﹃外部﹄には連れ出していなかっ
た。
﹁モヴ?﹂
﹁なぁに、ここ?﹂
1328
﹁神殿の中でも、此処に来る者はめったにおらぬな。此処は歴代の
神官の墓所だ﹂
﹁ぼしょ?﹂
ゴースト
﹁土地の力が強いことと、葬られた者の力が強いことが理由なのか、
多く幽霊が出現することで有名でな﹂
すたすたと歩くモヴの足取りには、全く怯えといったものはない。
状況がよくわかっていないフリソスとプラティナも、初めて訪れる
場所という興味はあったが、モヴの後ろを、とてとてと、ついて歩
いていた。
﹁ちゃんと護符を身に着けていれば、危険はない﹂
﹁ん?﹂
にっこりと微笑んだモヴは、娘たちをひょいと前に出した。つる
つるとした急な角度のついた石の床が、二人を自動的に階下へと運
んで行く。
﹁ぴゃっ!?﹂
﹁ふぇっ!?﹂
﹁ちゃんと道沿いに進めば此処まで戻って来れる故、頑張って励ん
で参れ﹂
少なくともスマラグディがいれば、何故に娘たち二人だけを送り
出したと突っ込みを入れる暴挙であった。
ひらひらと手を振る母親を見上げて、フリソスとプラティナは、
起こった事態を把握する間もなく墓所の奥へと滑り落ちていったの
である。
それまで父親という絶対的な守護者に慈しまれて育った二人は、
自分たちが﹃悪意﹄や﹃害意﹄というものを鋭敏に察知する能力が
あることを知らなかった。
それこそいずれ魔王となると予言を受けた二人が授かった、﹃運
命に護られている﹄という能力の萌芽であったが、それを理解する
者は誰もいない。
1329
ゴースト
全ての生者への羨望と妬みが怨念へと姿を変えた、そんな幽霊の
思念の只中に放り込まれたプラティナが、まずパニックになった。
﹁ぴゃああぁぁぁぁあっ!!﹂
ゴースト
フリソスは、母親の言い付け通り護符をぎゅっと握りしめ、若干
冷静ではあったのだが、幽霊の群れに悲鳴を上げたプラティナの声
にびくっ。と跳ね上がる。
それが引き金になった。今の今まで涙目で留まっていたフリソス
であったのだが、怖がりの妹に引っ張られるように涙腺を決壊させ
た。
﹁ぴゃぁぁあああぁあっ!!﹂
後は姉妹仲良く手を繋ぎ、泣きながら全力疾走するだけであった。
腰を抜かして自失しないだけ、この姉妹の肝は据わっているとも
言えた。
﹁ふむ﹂
全力疾走で戻って来た二人の足音に、モヴは満足気にうんうんと
頷いた。我が子たちの先行きには、多くの困難が待ち受けている。
その時きっと自分は娘たちの隣にはいないだろう。だからこそ、ど
んな困難も己の力で乗り越えて貰わねばならない。
﹃災厄の魔王﹄の側には常に死の影が色濃く付きまとっている。
不死者に対しても耐性を持っておくことは、娘たちが己の身を護
るために必要なことだ。
かつて﹃二の魔王﹄と相対して、少なくはない心の傷を負ってい
た少女は、甘やかし上手な愛する人の助力もあって、メンタルを強
靭に育てていた。
考え方が、トラウマに真っ向勝負を挑んで乗り越えるべし、とな
っていた。天然故の恐ろしさである。
1330
﹁天なる光よ、我が名のもとに我が願い叶えよ、道を迷いしものを
導く標となれ︽死霊浄化︾﹂
ふわりと紫の髪を翻し、一息で浄化の魔法を紡ぐ。生来強大な魔
ゴースト
力を有するモヴは、たった一度の詠唱で、娘たちが背後に連ねてい
た幽霊を問答無用でなぎはらった。
﹁ぴゃぁぁ﹂
﹁モヴーっ﹂
母親に抱き付き泣きじゃくる娘たちをよしよしと撫で、モヴは良
ゴースト
レイス
い笑顔で言い放つ。
﹁今のが幽霊だ。死霊のように自我も無い、さほど危険ではない存
在だ﹂
ゴースト
規格外の浄化の魔法をあっさりと繰り広げられるモヴにとっては、
確かに幽霊の百や二百、恐れる必要は無い。
﹁とはいえアンデッドとは、幽霊と分類されるものに限られる訳で
は無いぞ﹂
娘たちも、母親譲りの天然ぶりは引き継いでいたが、現在の母親
の笑顔に不吉な予感だけは覚えることができた。
だが、一歩遅かった。
﹁より、学ぶが良い﹂
ばーん、と、モヴは自分の背後の石造りの扉を開け放った。
そこにはカタカタと乾いた音を立てる無数のスケルトンがひしめ
きあっていた。
﹁ゾンビともなると、外見だけでなく悪臭が酷いものでな。このあ
たりから慣れるのが良いだろう﹂
相変わらずモヴはマイペースな笑顔のままだった。
1331
ゴースト
プラティナだけでなくフリソスも、これは最初からアウトであっ
た。
実体の無い幽霊と異なり、実物が眼前でカタカタ揺れているので
ある。受けるインパクトは比ではなかった。ただただ二人で抱き合
って、ぷるぷる震えることが、二人に出来る唯一の行動なのである。
寝所にいない娘たちを捜していたスマラグディが、この現場に到
着したのは、直後であった。
捜索系の魔法で娘たちの行方を探ったスマラグディであったが、
現場に到着するまでは別の困難が伴った。神官ではない彼は、墓所
への立ち入りを制止されたのである。
制止した者は、自らの職務に忠実であっただけだったが、スマラ
グディに精神的にぼこぼこにされ退けられるという余談を残した。
父は強かった。
スマラグディが見たのは、もう声も無く、ひとかたまりになって
震える愛娘たちの姿だった。
父親の姿を見ても、立ち上がることすら出来ずに、二人で恐怖を
分け合っている。
﹁モヴっ!﹂
スケルトンすらたじろがせる気迫の、スマラグディの叱責の声が、
墓所の内部に響き渡ったのであった。
こうして無事保護されたフリソスとプラティナであったが、しば
らく二人は暗いところには行くことが出来なくなり、卒業していた
おねしょを再発させた。
母親の愛の鞭は空回って、求める成果は出なかったのである。
1332
前日譚番外編。青年、初夢を見る。︵前︶︵前書き︶
年末年始、お正月特別企画ということで、文字通り﹃夢の﹄、﹃元
親バカ﹄と﹃実親バカ﹄の対決をお送り致します。
大晦日に見るのは、初夢ではないのですが、そこは語呂ということ
で宜しくお願い致します。
56話、﹃閑話、クリスマス番外編﹄とあわせてお楽しみください
ませ。
1333
前日譚番外編。青年、初夢を見る。︵前︶
あ。これ、夢だ。
目の前の光景を見ながら、デイルはそんな風に自らの状況を把握
した。
︵昨日は⋮⋮確か、ラティナに聖夜だから散歩に付き合ってくれっ
て頼まれて⋮⋮︶
昨夜のことを思い返す。
大晦日の夜は﹃聖夜﹄と呼ばれ、親しい者や家族で宴を開き、家
で過ごし新年を迎える習わしになっている。
まじな
家の入り口に神殿から譲渡された護符を掛けるのは、﹃悪いもの
が入らないように﹄という呪いのようでいて、その日だけ街中に出
没する特殊なアンデッドを避ける為という実利も大きい。
植物を輪にして装飾をつけた華やかな護符を、﹃虎猫亭﹄の表と
ア
裏の扉両方にしっかりと飾ったラティナは、キリッとした顔でデイ
ルを見た。
﹁デイル﹂
﹁なんだ?﹂
﹁今日の夜、外に出ようと思うの﹂
﹁は?﹂
ンデッド
すっとんきょうな声をデイルが発したのは、ラティナが無類のお
化け嫌いであることを知っている為である。
何故か﹃聖夜﹄の夜だけ出没する黒い人影のアンデッドに、子ど
もの頃取り囲まれて、大泣きしていたラティナの姿を、デイルは今
でもはっきりと覚えている。
﹁なんでそんなこと⋮⋮﹂
1334
﹁苦手だから、克服しようと思って!⋮⋮フリソスもね、﹃浄化﹄
の魔法得意になったって言っていたし!﹂
︵⋮⋮ラティナだけじゃなかったんだな︶
デイルは、心の中でぽつりと呟いた。
ラティナが、対アンデッド系の魔法を覚え、怖いからこそ対処法
をと熱を入れていたことは知っていたが、彼女の姉も同じ状況であ
るようだった。アンデッドへのトラウマ然とした苦手っぷりは、姉
妹共通のものらしい。
因みに、フリソスがアンデッドを苦手としたのは、ラティナと同
様、墓場ポイ投げ恐怖体験からであった。
﹁余は﹃天﹄属性魔法だけではなく、﹃冥﹄属性魔法も、対アンデ
ッド魔法は極めた﹂と、真顔で言い放つフリソスは、ある種、母親
の教えを守って、トラウマを真っ向からぶん殴る方向で克服してい
たりするのである。
−−﹃克服﹄というには、ほぼ無害な低級霊相手にも、強力な魔
法をぶっ放つという過剰防衛気味であるのだが、そこは大目に見る
べき項目となっていた。−−
﹁私も、ローゼさまに﹃浄化﹄魔法教えて貰って、昔みたいにはな
らない筈だけど、一人じゃやっぱり不安だし⋮⋮﹂
﹁なら、わざわざ⋮⋮﹂
﹁でもね。何かあった時、使えなかったらもっと怖いから、練習し
ておきたい気持ちがあるの﹂
発言があまり前向きとは言い切れなかった。
どうやらラティナが、アンデッド嫌いを﹃克服﹄するまでの道の
りは、まだまだ長そうである。
︵でも、確かになぁ⋮⋮︶
魔法の練習の為に、墓場や地下迷宮のような場所にわざわざ出掛
1335
けて行くのは難しいし、怖がりのラティナには荷が勝ちすぎるだろ
う。
それに、今回は一人で飛び出たりせず、ちゃんと自分の同行を求
めている。自分が付いていれば彼女に万が一にも危険な思いはさせ
ることはない。
﹁もし、俺がいない時にアンデッドに出くわしたら⋮⋮大変だもん
なぁ⋮⋮﹂
ラティナがア
﹁ちゃんと呪文が詠唱できるかも、実際にやってみないと安心でき
ないなぁって﹂
うーんと考えこみ、デイルは結論を出した。
﹁そうか⋮⋮﹂
ンデッドに怖い思いをしても、それはそれで自分に甘えてくるだろ
う。結果的にオーライである。
﹁無理はするなよ?﹂
﹁うん﹂
︵そんで、ラティナが﹃虎猫亭﹄の近くでアンデッド見掛ける度に
﹃浄化﹄魔法ぶっ放して⋮⋮魔力切れ起こす前に連れて帰って⋮⋮
一緒に寝たんだよな︶
頑張ると発言していても、やはり恐怖心があるのか、腰が少し引
けていたラティナであった。デイルの手をぎゅっと握り、いつもよ
りも近い距離で共に街中に出る。そうすると、デイルが想定してい
た以上の数のアンデッドに囲まれた。
涙目となったラティナだが、呪文の詠唱自体は問題なく行えてい
た。そしてデイルの放つ殺気は、死者をも威圧するらしく、一定の
距離をアンデッドは詰めること叶わずラティナの魔法で消し去られ
て行ったのであった。
﹁出来た⋮⋮っ﹂
﹁うん。頑張ったなぁ、ラティナ﹂
1336
よしよしと幼い頃の彼女にしていたように頭を撫でて、健闘を讃
える。
そしてその後、二人で一緒に確かにベッドに入った筈である。イ
チャイチャはしていない。まだ恐怖の残るラティナにぎゅっと抱き
付かれて、幼い頃同様に甘やかしているうちに、気持ちが﹃親バカ
モード﹄寄りに入ってしまったのだった。
・
・
・
・
それでも眠りについたことは覚えている。
だから間違いなく、この光景は夢である。
︵ラティナの両親に挨拶に行くってシチュエーション⋮⋮あり得な
い筈だもんな!︶
夢だとわかっていても、手の中がびっしょりと汗をかく。自分の
隣でにっこりと笑うラティナは、夢の中でもやはり可愛いらしかっ
た。
ヴァスィリオの一般的な生活様式を自分は知らない。それなのに
ラティナに連れられて行くままに、見慣れぬ整然とした街並みの中
を歩く。やがて、シンプルな日干し煉瓦の建物の前にたどり着いた。
この中にはラティナの両親がいる。
夢の中特有の状況を確信している精神状態で、デイルはだらだら
と汗をかいていた。
︵夢の中だってわかっていても、なんだこの、緊張感⋮⋮っ︶
建物の中から、フリソスがひょっこりと顔を出して、ニヤリと意
地悪く微笑んだ。
﹁ほう。其方も緊張するという人の子らしい姿を見せるのか﹂
﹁相変わらず酷ぇ言い種だよな﹂
﹁ほれ、中に入るが良かろう。ラグもモヴも待っておるぞ﹂
一国の王が出迎えに出るなどあり得ないとわかっていながら、こ
の状況を受け入れて、招かれるままに室内に入る。
1337
日陰に入ると、少し体感する気温が下がる。気持ちも落ち着けよ
うと、深呼吸を無意識に繰り返した。
﹁う⋮⋮﹂
﹁そんなに緊張するの?﹂
﹁そりゃあ⋮⋮な﹂
強張った表情になったデイルの様子に、ラティナは不思議そうに
首を傾げて彼を見上げていた。
﹁ラティナは⋮⋮まぁ、あの時は、この状況とは違うもんな⋮⋮﹂
ラティナがデイルの故郷を訪れた時は、まだ彼女は幼すぎて、結
婚だなんだという話題は全く出なかった。
ラティナ自身、初めて訪れる場所への緊張はしていたのかもしれ
なかったが、今のデイルの状況とは全く異なる。
デイルのそんな逡巡に全く頓着せずに、フリソスは更に奥の部屋
を指し示した。ラティナは少し困ったように微笑んで、それでもデ
イルの手を引いて部屋の中に入る。
ラティナとフリソスと同じ、白金色の髪の男性の姿に、デイルは
びくりと立ち竦んだ。
数多の魔王を打ち倒した英雄とは思えぬ、腰の引けっぷりであっ
た。
そんなデイルを嘲笑することもなく、彼は穏やかに微笑んだ。
﹁初めまして、は、少しおかしいかな。けれどもこうして会うのは
初めてのことだからね﹂
翠の眸は柔らかな若葉を思わせる色で、ラティナが戴いていたも
のと同じ、艶やかな黒い貴石のような角を有している男性だった。
その人こそ、スマラグディ−−デイルにとっては故人となった後
でしか会ったことのない、ラティナとフリソスの父親だった。
1338
前日譚番外編。青年、初夢を見る。︵前︶︵後書き︶
本年は、本編に完結の目処をつけ、コミカライズがスタートし、過
分な評価を頂くなど、当作品にとっても大きな節目の一年になりま
した。
これもいつもお読みくださる皆さまのお蔭に存じます。本年も拙作
にお付き合いくださいまして、誠にありがとうございます。
後半は、新年のご挨拶と共に早めにお届け致します。
1339
前日譚番外編。青年、初夢を見る。︵後︶︵前書き︶
なんとか書き上がりました⋮⋮
1340
前日譚番外編。青年、初夢を見る。︵後︶
︵魔王と向き合った時よりも怖ぇ⋮⋮っ︶
それが率直な現在のデイルの心境であった。
眼前の男性は、ラティナとフリソスの父親という割には、あまり
ぱっとしない容姿をしていた。穏やかで理知的な容貌はしているが、
美形というのとは大きく異なる。
デイルが﹃彼﹄と会ったのは、彼が既に故人となって時を経て、
生前の面影を失った後のことである。こうして顔を見たのは初めて
とも言えた。
今デイルの前で微笑む彼に、険はない。
それでもデイルは、自らの気負い故にか、素直にそれを友好的な
態度と受けとることが出来なかった。
﹁っ⋮⋮初めまして、俺は⋮⋮﹂
﹁ラグっ﹂
気を取り直して挨拶をと思った瞬間に、ラティナが笑顔で男性の
元に駆け寄って行った。彼にぎゅっと抱き付き、幸せそうに目を閉
じる。
魔人族は青年期が長い種族であるため、ラティナと父親の外見上
は、年齢差がそれほどあるとは思えない。
それでもデイルは、嫉妬を覚えることもなく、ラティナが彼に甘
える様子を見ていた。
﹁ほう。動じぬか﹂
﹁俺のことどんな風に思ってるんだよ⋮⋮﹂
ニヤニヤと笑うフリソスに、ため息まじりで応じる。
嫉妬の権化のように思われて然るべしな、言動が常態化している
1341
・
・
・
・
・
デイルであるが、ラティナが父親のことを深く慕っていることはよ
く知っている。こうやって再会することが出来たのならば、甘えて
しまうのも仕方ないだろうと受け入れていた。
﹁ラグ、私、ちゃんと幸せだよ﹂
﹁そうだね。きちんと笑えている君を見られて、心からそう言える
のだろうと思えるよ。⋮⋮よく頑張ったね、ラティナ﹂
涙の浮かんだ目尻を拭いながらも、ラティナは父親に撫でられて、
嬉しそうな笑顔になった。
そんなラティナを見るスマラグディも、とても幸福そうな表情に
なっている。優しい声と微笑みに、この人は確かにラティナの父親
なのだろうなという相似を感じた。
﹁それも、君がラティナを慈しんで護ってくれたこそだろうね。ぼ
くの娘を救ってくれたこそ、本当に感謝している﹂
穏やかな笑みと共にデイルに向けられたのは、感謝の言葉だった。
緊張のあまり礼を欠いていた己を、デイルは恥じた。即座に表情
と姿勢を正し、スマラグディに真っ直ぐ向き合う。
﹁こちらこそ、ご挨拶が遅くなったこと、大変申し訳ありません。
デイル・レキです。初めてお目にかかります﹂
﹁ぼくはスマラグディ⋮⋮人間族は、所属を示す家名というものを
持つのだったかな。魔人族の家名に近いものは、母親の名を用いて、
誰それの子、と区別するものだけど、人間族の君にはあまり関係が
ないからね﹂
弁舌爽やかな姿には、彼が他者に物事を教えることに長けている
様子が窺える。
外見は若々しいものの、故郷にいる恩師を前にするような気分に、
デイルは正した姿勢をそのまま維持することになった。
﹁そんなに緊張しなくても良いと思うんだけど⋮⋮﹂
1342
首を傾げたラティナは、手土産に持参した焼き菓子を卓の上に並
べていた。
そんなラティナの隣では、デイルも面識のある紫色の長い髪の女
性が、焼き菓子をじっと見詰めていた。しばらく観察すると、おも
むろに手に取り、隅からかじりつく。そのまま無言でもぐもぐとし
ている。なんだか小動物のような仕草だった。
以前会った時には、毅然とした凛々しい女性だという印象を持っ
ていたのだが、ちまちまとマドレーヌを両手で持って食べている姿
は、ラティナの雰囲気とよく似ている。
一つめを食べ終えると、彼女は黄金色の眸で、じっと娘の前の菓
子を見た。苦笑いしてフリソスが、自分の前のマドレーヌを母親に
差し出す。
遠慮することなく彼女は差し出された菓子を両手で持ち、再びも
ぐもぐと咀嚼を始めた。
﹁⋮⋮なぁ、フリソス﹂
﹁なんだ?﹂
﹁俺、第一印象でラティナが父親似で、お前が母親似なんだなぁっ
て思ってたんだけどさ⋮⋮もしかして逆か?﹂
﹁常々プラティナは、モヴに似ていると言われていたな﹂
﹁だよなぁ⋮⋮﹂
姉とデイルの会話を、ラティナは不思議そうに首を傾げたまま聞
いていた。当人に自覚はないらしい。
︵それにしても⋮⋮てっきりもっと敵意丸出しな感じで、出迎えら
れるのも覚悟していたんだが⋮⋮︶
⋮
思っていたよりもずっと、スマラグディが発する気配は友好的で
穏やかなものだった。
ラティナ
︵たかだか、何人か魔王を討った程度の勇者には娘はやれん!
⋮って言われるかなって思ってたし⋮⋮俺なら言うし︶
1343
過去の歴史を紐解いても、魔王をほぼ皆殺しにしたのは、デイル
が初である。それは世間的な基準にはならない。
デイルはそんな風に、思考を巡らせているだけで、口には出さな
かったのだが、スマラグディは微笑んだままデイルの疑問に答える
ように口を開いた。
いたいけ
こちら
﹁まあ、もしも君が、幼気なラティナに、無体なことやよからぬこ
とをしたのならば⋮⋮どんな手段を講じても、黄泉へと引き摺り込
んだけれどね﹂
笑顔のまま、さらりとえげつないことを言い切ってきた。
﹁君がラティナを望んだ以前に、ラティナが君を望んだからね﹂
体感温度が下がる錯覚がする。笑顔も声のトーンも変わらないの
・
に、歴戦の勇者であるデイルが気圧された。
﹁ぼくの可愛いプラティナが、袖にされることなんてあり得ないか
らね﹂
﹁それは同感です﹂
即座にデイルは応じた。
そうなのだ。デイル自身がどうこうというよりも、これだけ可愛
いくて、誰よりも大切にしたいラティナの初恋が実らない−−すな
わち失恋するなんてことが、起こって良い筈がないのである。
そんな不届きものは、地獄の責め苦を味わうべきなのである。
なんて矛盾したことを考えてしまう程度には、デイルの思考回路
は末期であった。
﹁プラティナを今後、不幸な目になんて合わせたりしたならば、安
らかな天寿をまっとう出来るとは思わないでくれるかな﹂
−−祟られる。と、反射的にデイルは思う。﹃規格外勇者﹄であ
ろうとも、そういったアプローチの攻撃はどうやって防ぐべきか専
1344
コルモゼイ
門外である。デイルは一応神官位であるが、﹃橙の神﹄に関する神
事は、不死者に強い訳ではない。
そしてそんな妨害をもろともせず、あっさりと突破して祟ってき
そうだとも思った。
﹁⋮⋮全力を尽くします﹂
﹁そうして貰えると助かるよ﹂
強ばったデイルの表情に、スマラグディは笑みを浮かべ、言う。
﹁プラティナは君ではないと、幸せにはなれないなんて言うのだろ
うからね。あの子は親に似て頑固な子だから﹂
その間もずっと、もぐもぐとマドレーヌを食べていたモヴは、ご
くりと口の中身を飲み込んで、デイルを見た。
﹁いずれ子が生まれる際に、男と女どちらが生まれるか、知りたい
か?﹂
何の脈略もない突然の発言であった。ラティナがぽふん。と頬を
赤くする。
デイルは少し苦笑して、モヴに答えた。
バナフセギ
﹁﹃いずれ生まれる﹄それだけで充分な﹃言葉﹄です﹂
﹁そうか﹂
稀代の﹃紫の神﹄の予言者の﹃言葉﹄には、それだけで黄金以上
の価値がある。魔人族は子を授かり難い種族であるが、その言葉が
あれば何年でも待つことが出来た。時間はこれから幾らでもあるの
だ。
デイルの返答に微笑んだモヴは、ラティナが淹れた茶をとても上
品な仕草で口元に運んだ。先ほどまでの子どもっぽい動作とは別人
のようである。そんな二面性を隠そうともせずに、モヴはゆったり
とした笑みを浮かべ、スマラグディに擦り寄った。
スマラグディも、モヴを娘たちに向けるものとは異なる優しい顔
で見ている。ラティナはこんな両親に慈しまれて育ったのだと、理
解出来た気がした。
1345
﹁ラティナのことは、俺が護ります﹂
﹁⋮⋮フリソスのことも気にしてあげてくれると助かるかな。あの
子も、しっかりしているのだけれど、やっぱりどこか母親と似てい
るところのある子だからね﹂
そう言うスマラグディが少し困ったような顔で微笑んだのが、デ
イルの知覚した最後の光景だった。
﹁あー⋮⋮﹂
まだ暗い部屋の中で、デイルは呻くような声を発した。
︵途中から、夢だって意識なくなってたなぁ⋮⋮︶
えてして夢とはそういうものであるのだが、何だかはっきりと﹃
夢﹄だと切り捨てることが出来ない夢であった。
﹁⋮⋮ラティナ連れて、今度、墓参り行こう⋮⋮﹂
そして、これはフリソスの意見も聞きたいが、あんな森の中では
なく、遺体だけでも故郷に帰すべきか話し合おうなんてことも考え
た。グレゴールに連絡をとって、彼女たちの母親の遺体を共に葬っ
てやるべきだなんて考えたのは、夢の中の二人が、とても睦まじく
優しい関係であったからだった。
﹁んー⋮⋮﹂
だが、そんなことよりもと、デイルは自分の隣で健やかな寝息を
たてるラティナを腕の中に囲い込んだ。すぴゅすぴゅという、妙な
音程の寝息に頬を緩める。
﹁いっぱい幸せにするように、努力するからな﹂
今後の抱負とばかりに眠るラティナに囁いて、デイルは目を閉じ
た。
しばらくして目を覚ましたラティナが、起きようと試みても、が
1346
っしりと抱きすくめられている自分の状態に、もぞもぞと身動ぎす
ることを楽しむ為の狸寝入りである。
それもこれも、誰よりも早く彼女と、新しい年に言葉を交わす為
でもある。
﹁今年も一年宜しくな﹂と、言うことを楽しみに、デイルは愛しい
彼女のぬくもりを感じながら新しい年を迎えたのだった。
1347
前日譚番外編。青年、初夢を見る。︵後︶︵後書き︶
あけましておめでとうございます。本年も拙作にお付き合い頂けれ
ば幸いと存じます。
良い一年でありますように。
1348
前日譚。玖、橙の神の豊穣祭にて。︵前︶
それは、ある種の予感だったのかもしれなかった。
すくすくと健やかに育つ、愛する娘たち。相変わらず二人の外見
は、黄金と灰の眸の色以外はそっくりだった。だが、毎日二人を見
ているスマラグディには、二人の性格の違いが日に日にはっきりと
見分けられるようになっていた。
娘たちに負けず劣らず甘えん坊のモヴと共に、箱庭のような狭い
世界でひっそりと暮らすこの生活は、確かに不自由さは多くあった。
神殿の奥しか知らない娘たちに、広い世界を見せてやりたいと願う
思いもある。
それでもこのままずっと、こうやって穏やかに過ごしていたいと、
願ってしまう程度には、幸福な毎日だった。
コルモゼイ
﹁⋮⋮﹃橙の神﹄の豊穣祭の時期か。もうそんな季節になるんだね
⋮⋮﹂
コルモゼイ
娘たちやモヴと異なり、スマラグディは時折街中に出ることがで
きる状況にあった。
久しぶりに歩く街並みは、﹃橙の神﹄への感謝と得られた収穫を
祝う祭りの準備が行われていた。
バナフセギ
厳しい環境下にあるヴァスィリオは、得られる収穫も限られてい
コルモゼイ
る。民草は、﹃紫の神﹄への信仰をあつく持ちながらも、大地と豊
穣を司る﹃橙の神﹄の祭事を疎かにすることはなかった。
そんな街中の光景を見て、ふと、思った。
︵フリソスとプラティナにも⋮⋮見せてあげたいな︶
1349
それと同時に、その時にはモヴが隣にいるのも当然だと夢想する。
普段の街の様子も知らない母子だが、一際賑やかに華やぐ祭りの
光景に、同じように表情を輝かせるに違いない。
スマラグディも、彼女たちの抱える事情が、そんな当たり前の母
子のように羽を伸ばすことが許されていないとは理解している。
だからスマラグディが、本当に何気なくこぼしたそんな願いを聞
いたモヴは、きょとんとした顔をした。
﹁ただの雑談として流してくれれば良いよ。なんとなく聞いて欲し
かっただけだからね﹂
微笑むスマラグディをじっと見て、モヴは、娘たちの癖と同じよ
うな角度で首を傾けた。
﹁スマラグディが何の理由もなしに、思いつきだと、語る筈なんて
ない﹂
言い切られて、スマラグディも苦笑する。だがモヴは真剣な顔つ
きだった。
﹁何かあったのか?﹂
﹁モヴにはわかってしまうんだね﹂
考えてみれば、モヴと共に過ごした時間は、彼の長い生の間でも、
決して短いとは言いきれないものになってきている。単純な時間の
長さだけではなく、濃密で幸福に満ちた時間だった。
だから自分は、こんなことを考えてしまったのだろう。
﹁ぼくは、いつかあの娘たちと離れることになる。⋮⋮それがいつ
のことかはわからないけれど⋮⋮それまでに、あの娘たちに思い出
を残しておきたいと思ってね。決して辛く苦しい記憶だけではなか
ったのだと、思えるように﹂
自分は、いつか娘たちの為にこの命を使う。
それはずっと前から覚悟をしていることだった。
1350
そして愛らしい娘たちが、自分にとってかけがえのない存在とな
るにつれ、その事に疑問を抱く余地はなくなっていた。モヴの予言
がなかったとしても、父親として自分はこの娘たちを守るに決まっ
ているのだ。
だが、もしもその時が来た際に、娘たちが自分の死に心を痛め傷
ついたとしても−−それを越える記憶を残しておきたい。幸せだっ
たのだと、確かに言えるものを残しておきたい。そんなことを願っ
てしまった。
こんな感傷は、自己満足に過ぎない。
娘たちとモヴの安全や価値を考えたならば、実現する筈がない。
スマラグディはそのこともわかっていた。
それでも思いの内を誰かに聞いて欲しいと、モヴに思いつきとし
て打ち明けたのだ。
スマラグディが失念していたとするならば、モヴが妙なところで
強力な行動力を発揮する天然さんであるということだけだった。
彼女はまず、何処からともなく、二人ぶんの子ども用の外套を手
に入れた。フードつきのそれは、角の部分が被る時の邪魔にならな
いように、猫耳の如く膨らんでいる。
そして自分の長い紫の髪を、染料で染めた。
バナフセギ
焦げ茶色の髪となったモヴの姿に、スマラグディはとりあえず絶
句した。﹃紫の神﹄の色という貴色を台無しにした﹃姫巫女﹄のこ
んな姿を、神官の誰かが見たら卒倒しかねない。
﹁まだらとなってしまったが、この上から被り物をかぶり、暗がり
ならば気付かれることはない﹂
スマラグディの心痛も知ったことではないと、なんだか当の本人
は、自信満々で胸を張っていた。
﹁えーと⋮⋮モヴ?﹂
1351
﹁スマラグディが駄目だと言うのであれば、私があの二人を連れて
外に出るぞ﹂
ちから
﹁どんな脅しの仕方なんだい?﹂
﹁私の加護を使えば、スマラグディにすら気付ずに、ことをなすこ
とも可能であるからな﹂
いそいそとベールを頭に被り、モヴはスマラグディを見た。暑く
乾いたこの土地では、女性が、ベールを日除けの為に被ることも多
い。黄金色の眸と同じく輝く角も暗い色の紗の陰となり、一見しだ
けでは、彼女が貴色を有する﹃姫巫女﹄だとはわからないだろう。
娘たちのことを深く思っていることは確かだろう。だが、彼女の
表情にはそれだけではない感情の高ぶりが見えて、スマラグディは
小言を言いかけた口を閉じた。
神殿の奥に秘匿されて、外の世界を知らないのは、娘たちだけで
はない。
彼女自身も、外の世界に興味を抱いていて不思議はないのだ。
﹁君と、リッソやラティナに危険はないのかな﹂
﹁⋮⋮危険度の上がる﹃可能性﹄はある。だからこそ、その﹃可能
性﹄を下げる選択をしている。私の髪の色もその一つ﹂
モヴはそう答えて、子ども用の外套を掲げてみせる。
くまみみ
ねこみみ
﹁角を出す形のフードではなく、隠す形を選んだのもそうだ﹂
丸耳ではなく、三角耳なのも、大いなる選択肢を取捨択一した結
果なのであった。
決して可愛いらしいからではないのである。
﹁なあに?﹂
﹁なにー?﹂
だが、見慣れぬ外套を着せかけられ、フードを被せられたプラテ
ィナとフリソスの二人は、スマラグディが予想していた以上に愛ら
しい姿だったのも事実である。
1352
モヴは自信に満ちた様子ですたすたと先を歩く。スマラグディは
両の腕で娘たちの手を引きその後に続いた。日頃の生活では、決し
て出ることの許されていない神殿の奥側を隔てる扉をくぐる。聡い
娘たちは、二人で顔を見合せて、唇をきゅっと一本に引き結んだ。
モヴは時に立ち止まり、時に遠回りをして、広い神殿の中を歩ん
で行く。その間大勢いるはずの神官と誰一人すれ違うことがない。
神託に全てを委ねて、己で考えることを放棄しているかのような
ことば
神殿のやり方を嫌悪する向きのあるスマラグディが、それでも神の
予知に畏れを抱くのはこういった時だった。
モヴの黄金色の眸には、全てを見通すちからがある。それをどう
しようもなく、意識させられるのだ。
モヴ
広大な神殿の敷地をするりと抜け出したモヴの後ろを、娘たちを
連れたスマラグディが続く。
神殿の外側を警護する門番は、貴色を隠した姫巫女をその人だと
気付くことはない。存在すら上層部の一部にしか知られていない双
子のことは尚のことである。神殿に参詣する大勢の人に紛れて街へ
と出る。
そうして出た先は、華やかに彩られた街が広がっていた。
夕焼けに空が、茜色から薄紫へと移るグラデーションを描いてい
る。
当たり前の景色であるのに、神殿の奥の壁に囲まれた空しか知ら
ない娘たちは、同じように口を開けて見上げたまま動きを止めた。
それだけで、外に連れ出した価値はあると思えた。
モヴはくるりと、悪戯っぽい仕草でスマラグディの方を振り返っ
て、微笑んだ。
言葉にしなくても彼女の表情は、実行に移して良かっただろうと
いう得意げなもので、スマラグディは微かに困ったものを含めなが
らも、共犯者の笑みを浮かべたのだった。
1353
前日譚。玖、橙の神の豊穣祭にて。︵前︶︵後書き︶
角っ娘のかぶるフードが、耳付きになるのは形状的に理に適ってい
ると思うのであります。
1354
前日譚。拾、橙の神の豊穣祭にて。︵後︶
ヴァスィリオは、塗料が塗られていない日干し煉瓦と石造りの家
が並び、派手な色彩を持たない街並みが広がっている。主要な道は、
乾いた土が舞い上がらないように石畳で舗装されており、常に清め
られていた。そんな印象から、まるで街全体が神殿の延長のように
見える街だった。
街のあちこちには人工的に造られた泉があり、それを生業にする
ものによって魔法により満たされている。雨の少ない乾いた土地で
ありながら、街に住む人々は、水を巡って争うことは必要としない
のだった。
冷たい水に冷やされた風が通る泉の側は、憩いの場所となってお
り、多くの人々が足を止めている。日中の暑さを避ける意味もあっ
て、ヴァスィリオでは、夕暮れ時のこの時間が最も街が賑わう。
本来の理由以上に今の泉は、街行く者の足を止めさせていた。
コルモゼイ
泉の水面には、純白の花が幾つも浮いていた。権能の一部であり
その恩恵の象徴として考えられている故に、﹃橙の神﹄へと捧げら
れたものだった。
神殿の中庭では、咲くことのない大輪の華やかな花の姿に、お揃
いのフードを被ったフリソスとプラティナが驚いた顔をした。
ぱちゃぱちゃと二人で水面を叩いて、浮いた花弁が揺れる様子に
声をあげて笑う。
両親が穏やかな顔でそんな自分たちを見守っていることを、背後
を振り返って見て、ますます笑顔を楽しげなものにする。
初めて外に出たことに対する不安など、全く感じていない笑顔だ
った。二人にとっては、絶対的な信頼を寄せる両親が側にいる状態
に、不安を抱く必要がないのだった。
1355
スマラグディが泉の側で籠を持つ人を呼び止めて、小銭と引き換
えに四輪の花を受けとる。
﹁毎日の糧への感謝を込めて、泉に入れるんだよ﹂
スマラグディがそう言いながら泉に純白の花を浮かべると、娘た
ちは素直にそれを真似をした。だか、モヴは少し躊躇った様子でス
マラグディから受け取った花を胸に抱いていた。
﹁モヴ?﹂
﹁神事だから、仕方がないことはわかっている﹂
困惑したようなスマラグディの声を聞いてから、彼女は泉へと花
を流す。しばらくしてスマラグディは、自分の行動を思い返して納
得した。
﹁そういえば君に、一度も花の一つも送ったことがなかったね﹂
図星であったらしい。モヴが気まずそうに、表情を子どもっぽい
・
・
聞いたこ
拗ねたようなものにする。スマラグディはそんな彼女を否定するこ
とはなく、ただ抱き寄せた。
﹁ぼくが悪かったよ。モヴはどんな花が好きなんだい?
・
とがなかったね﹂
﹁あの中では、そういったものに触れる機会もないから⋮⋮﹂
﹁そうかい。なら、どんな花がモヴに似合うか考えないといけない
ね﹂
笑うスマラグディは、モヴの腰に回していた腕をそのまま彼女の
手へ伸ばす。
﹁君も街中には不案内だから、はぐれないようにね﹂
微かに頬を染めて、モヴはそのまましっかりと彼の手を握った。
ちいさな娘たちの手は、空いた手でしっかりと握る。母親と父親そ
れぞれと手を繋いだプラティナとフリソスは、にっこりと両親を見
上げた。
今日の街は、街角のあちこちに花輪が飾られ華やかな雰囲気を作
1356
コルモゼイ
っている。夕日の色を受けて、赤く染まった壁に伸びる影すら、楽
しげに街を彩っていた。
バナフセギ
やがてたどり着いた先には、﹃橙の神﹄の神殿があった。彼女た
ちが常に暮らす﹃紫の神﹄の大神殿とは比べものにならないほどに、
慎ましやかな神殿だった。
金属で出来た装飾が、建物のあちこちに施されていることも特徴
的である。初めて見たそんな図案化された意匠の数々に、子どもた
ちは指を向けて興奮気味な声をあげた。
コルモゼイ
﹁ラグ、あれ、なあに?﹂
﹁ああ、あれは﹃橙の神﹄の恩寵を意味している図案だね⋮⋮この
国にはない植物もたくさん描かれているんだよ﹂
﹁もっと見たいのっ。ラグ、抱っこして、抱っこっ﹂
﹁落ち着いて、リッソ。ああ、ラティナもそんな顔で見ないで﹂
﹁ラティナも。ラティナも抱っこっ﹂
同時に抱っこをねだる娘たちに、スマラグディは苦笑しながらも
幸せそうな顔をしていた。すくすくと成長している娘たちは、細身
のスマラグディでは、二人同時に抱き上げることが日々難しくなっ
ている。それでもこんなおねだりを拒むことなど出来はしなかった。
﹁すごいねぇ﹂
﹁あっちにもあるのっ、ラグ、あっちっ﹂
きゃっきゃっとはしゃぐ娘たちを抱き上げたまま、ゆっくりと歩
く。スマラグディの両腕は娘たちに独占されてしまったが、そのぶ
ん距離を縮めて、モヴは彼にそっと寄り添うように隣を歩いた。
はしゃぐあまりに落ちそうになったフリソスのフードを、モヴは
優しい手つきで被り直させる。
どこから見ても、そんな彼女は、優しい母親の姿だった。
ぐるりと建物のまわりを歩む。いつもは人の姿もあまり無い静か
な神殿なのだが、今日は祭りとあって多くの人々が訪れていた。
1357
神殿の壇上には、豊穣祭ということもあり、今年とれた収穫物が
積まれている。
環境が厳しく、とれる作物も限られているからこそ、神への感謝
が純粋な信仰のかたちとなった神事であった。
﹁そろそろ始まるかな﹂
﹁ん?﹂
﹁なに?﹂
呟いたスマラグディの声に、娘たちが彼の両腕に抱かれたまま首
を傾げる。モヴもまた不思議そうな顔をしていることに、スマラグ
ディは微笑んで、少し人混みから離れた位置に彼女を招いた。
﹁奉納舞が始まるんだよ。ここから出て、街のあちこちの泉を回っ
て舞いを披露して行く。泉での舞いの方がより華やかで人を集める
からね、ゆっくり見るならこっちの方が良いんだよ﹂
バナフセギ
スマラグディが説明して間もなく、神殿の中から幾人もの神官た
ちが姿を見せた。﹃紫の神﹄の神殿で耳にするものとは大きく異な
る、荒々しいほどの打楽器と笛の音が薄闇を払うほどの音量で周囲
を制した。
大きな音に驚いて父親に抱き付いた双子の娘たちも、華やかな装
いの巫女が姿を見せると、引き寄せられるように視線が釘付けにな
った。またたきすることも忘れたように、じっと巫女の優雅な舞い
に見入る。
スマラグディが隣のモヴを見れば、彼女は舞いよりも、夢中にな
っている娘たちの姿を愛でているらしい。スマラグディの視線に気
付いて彼を見上げ、優しげな微笑みを交わし合った。
演奏にかき消されて、言葉を交わすことは難しい。
そうスマラグディが思った時に、モヴは自分から彼の腕に自らの
腕を絡めた。娘たちを抱き上げているスマラグディは彼女に応じる
ことは出来なかったが、近付いた距離に少し恥ずかしそうに頬を染
1358
めるモヴを見る。
﹁⋮⋮君と出逢えて良かったよ﹂
聞こえなくても良いと思いつつ呟いたスマラグディの声に、モヴ
は幸せそうな笑みで応じた。
﹁この先⋮⋮何があったとしても、ぼくのその思いは揺るがないよ﹂
﹁⋮⋮うん﹂
眸を閉じて、モヴはスマラグディの肩に自らの頭を乗せた。彼女
のぬくもりが微かな重さと共に伝わる。
﹁私も、共に在れたのがスマラグディで、本当に良かった﹂
娘たちの歓声に視線を舞いへと戻す。
神殿での舞いが、クライマックスへと至っていた。ピタリと揃っ
だいだい
た動きをしていた数人の舞い手が、動きに僅かな時間の差をつける。
波たつように細い金環をつけた繊手が翻り、鮮やかな神の色に染め
上げられた揃いの衣装が花のように広がった。
夕日は既に砂漠の向こう丘陵の向こうに消え、星のまたたきが天
に広がってる。
つい先ほどまで観ていた舞いの興奮が覚めやらぬように、跳ね回
る娘たちが、暗がりに躓いてしまったりしないように、モヴがそっ
と魔法の明かりを灯す。
楽しげな二人を見守りながら、スマラグディとモヴは手を繋いだ
ままゆっくりと歩んだ。
今頃、神殿の中は大騒ぎになっているだろう。それでも少しでも
長くこの時間が続けば良いと、願ってしまう。
ちから
−−モヴはその加護を十分に発揮して、あっさりと神殿の奥に戻
った。居住区の何処にもいないモヴと双子の姿に、騒ぎにすること
は出来ないながら、それでも捜し回っていた侍従たちをさっくりと
1359
無視する如き彼女の能力だった。
遊び疲れた双子たちを寝付かせている所を発見されたモヴは、飄
々と叱責も追及もまともに取り合おうとはしなかった−−
そんな制限つきながらも幸福な日々は、ある時、急に終焉を迎え
た。
最高位の大神官としての責務をモヴに譲りながらも、未だ大きな
影響力を持つ先代の大神官エピロギが、託宣を下したのが、終わり
のはじまりだった。
﹁我等の未来を照らすのは、太陽の光﹂
詩の断片のような、神のことばは、それでも人々の知りたい未来
を綴っていた。
﹁月の光は、王を破滅へと導くだろう﹂
黄金を意味する文字に含まれるのは、太陽。
そして、白金を意味する文字に含まれるのは−−月だった。
1360
前日譚。拾壱、罪人の烙印。
託宣を聞いたスマラグディの表情は強張った。
彼は、ずっと危惧していた。この神殿に属するものたちが、盲目
的に神の言葉を至上のものと従うことを是としていることを、彼は
モヴと共に在る間、今まで何度も痛感してきたのだ。
彼にとって幸いだったのは、現在の神殿の最高位の神官であるモ
ヴが、彼の直弟子と言うべき教え子であり、神殿の考え方を即座に
肯定や否定するのではなく、自ら是非を考えることが出来るように
なっていたことだった。
そして長年神殿の中で相談役を担っていたスマラグディ自身に、
人望が集まっていたことだった。
神殿の中でも保守的な人物ほど、今回のエピロギの託宣に、すぐ
さま﹃罪人﹄の罪を裁くべしだという声があがっていた。
スマラグディやモヴが、老害と呼んできていた、思考が凝り固ま
っているにも関わらず、地位だけはあるので扱いが難しい輩たちの
ことである。
この国に於ける﹃王﹄とは、国主である﹃一の魔王﹄を指してい
る。先代を喪い、候補者もまた喪ってから、この国はずっと新たな
王が即位することを待ち望んでいた。
民の一人であるスマラグディやモヴも、その思いには変わりがな
い。
だからといって、まだ何ひとつ罪を犯していないプラティナを、
託宣に定められた罪人として裁くべきだという声には、スマラグデ
ィは、はっきりと反発した。
1361
神殿の奥で秘匿されていたとはいえ、プラティナとフリソスは、
ある程度の区画は自由に行き来していた。その二人を、両親は自分
たちの私室に囲いこんだ。
それは、保守派の神官たちが実力行使に出ることを恐れたからで
もあったし、託宣以降、プラティナに向けられるようになった周囲
の悪意から二人を隠すという理由も大きかった。
それだけエピロギの言葉は重んじられており、﹃破滅﹄という未
来を確定させる予言は、人心の不安を大きく煽るのである。
フリソスとプラティナの二人は、他者の放つ﹃悪意﹄に敏感だっ
た。
神殿の中に渦巻く自らへの害意を察知してプラティナは震え、そ
んな半身の様子にフリソスも、プラティナと手を取り合って、怯え
るようになった。
張り詰めた両親の姿が、子どもたちをより不安にさせているのだ
とわかってはいたが、スマラグディもモヴも、気を緩めることは出
来なかった。
﹁⋮⋮エピロギ様の予言は外れた記録はないんだね﹂
感情を露にして喚くことはなく、こんな時でもスマラグディは冷
静だった。
内心は、怒りや焦りで乱れていると言っても良かった。だが、そ
れでは現状は何ひとつ好転しないことも、彼は理解していたのだっ
た。
モヴは、スマラグディよりも年若いこともあり、動揺を面に出し
ていた。
モヴは、大神官として政務に就いている時は、決してそんな揺れ
動く姿を見せない。唯一、弱い姿を見せることの出来る相手である
スマラグディの前だからこそ、モヴは感情的になることが出来るの
である。
1362
﹁私の知る限り、エピロギ様の予言が違えたことはない﹂
掠れた声のモヴの答えに、スマラグディは静かに思考を巡らせる。
﹁かつてモヴが受けた託宣と、空位となっている魔王の座⋮⋮それ
に今回の託宣を合わせれば、フリソスが﹃一の魔王﹄となるのだと、
推測して良いと思う﹂
﹁スマラグディ⋮⋮﹂
﹁だからといって、プラティナがフリソスを傷付けることを願うと
は思えない。もしそうなるとしたら⋮⋮﹂
スマラグディは彼らしくなく、表情を苦々しげに歪めて言い捨て
た。
﹁こんな馬鹿げた悪意に晒されて、プラティナが全てに絶望してし
まった後だろう﹂
現在、仲睦まじい姉妹だが、今後もずっとそのままであるとは限
らない。それでもこれだけ優しい性根の二人が、大きく歪んでしま
うとしたならば、それはそれだけ大きな影響を受けてしまった後の
ことだろう。
だからこそ二人を、二人共に守らねばと、思う。
モヴも不安を押し殺して顔を上げた。
ちから
﹁プラティナ自身の意思ではなく、フリソスを害してしまう可能性
があるのかもしれない﹂
﹁⋮⋮それはあり得るかもしれない。モヴの加護で予知することは
可能かい?﹂
﹁可能かどうかではなく、してみせる⋮⋮そうでなければ、加護を
持つ意味がない﹂
感情に任せて言うモヴを、スマラグディは自分の激情を抑えて抱
き締めた。彼女が双子の娘たちを、自分と同じく深く愛しているこ
とをスマラグディはよく知っている。
愛情故とはいえ、自らの娘たちに公平な判断を失っていると、治
世者としてのモヴは責められても仕方がないだろう。
1363
﹁ぼくも同じ気持ちだよ﹂
ヴァスィリオ
それでも自分だけは、決してそんな彼女を否定しないと、スマラ
グディは心に誓う。
﹁今のぼくにとっては、この国と天秤にかけても、あの娘たちの方
が重いのだからね﹂
明確な答えが出ないまま、モヴは神殿の執務室へと戻って行った。
娘たちの側を一時も離れたくないと願いながらも、少しでも現状を
悪化させないように、彼女は自分の責務を果たしていたのである。
モヴを見送った後で、スマラグディは奥の部屋へと踵を返す。
暗がりとなった部屋の片隅で、抱き合い震える双子の娘たちを見
る。
﹁ラグ⋮⋮﹂
泣き出しそうな声を上げたのは、フリソスだけだった。
ぐずぐずと鼻をすすり、抱き締めたスマラグディの胸に顔を埋め
る。それでもフリソスはプラティナの手を離さなかった。彼女は、
自分が守るのだとばかりに、必死に妹を庇い続けているのだ。
蒼白な顔で怯えるプラティナに、涙はない。
この娘たちは、いつも先に泣き出すのは、泣き虫で怖がりなプラ
ティナの方だった。それなのに最近のプラティナは、泣き方すら忘
れてしまったように涙を流す様子がない。
泣くことが出来ないのだと、スマラグディは娘の様子を判断して
いた。
この娘たちは、自分たちを取り巻く環境が、急激に悪いものへと
変化したことを理解していた。特にプラティナは、その﹃悪いもの﹄
が己に向けられていることを理解しているとしか思えない。聡いと
いう言葉だけでは言い表せない察しの良さだった。
こんな愛娘の姿を見せられ続けるスマラグディが、やるせなさと
怒りを抱くのも無理はなかった。
1364
﹃災厄﹄と呼ばれる魔王が、全てを滅ぼしたいと願うことの一端す
ら理解出来そうだった。愛娘を害する全てのものを打ち払いたいと
すら、望んでしまう。
﹁ラティナ⋮⋮リッソ⋮⋮大切なぼくたちの娘たち﹂
それでもこれ以上娘たちを怯えさせることのないようにと、スマ
ラグディは自分の激情を飲み込んで隠した。柔らかな優しい声で、
娘たちの名前を呼ぶ。
﹁ぼくもモヴも、君たちが大切だよ。それだけは絶対に変わらない。
何があってもぼくたちは君たちの味方なのだから⋮⋮覚えておいて。
ラティナ、リッソ⋮⋮﹂
弱々しい反応でも、プラティナが自分の服を握りしめ、すがって
くれることに安堵を抱く。
自分に出来ることは何だろうかと、この娘たちの為に出来ること
は何だろうかと、スマラグディは思いながら娘たちを抱く腕に力を
籠めた。
エピロギの託宣が覆らない−−その前提の上で、スマラグディと
モヴは、かつてモヴの大きなトラウマとなった存在への危機感を思
い出すことになった。
﹃二の魔王﹄。災厄と呼ばれる魔王のうち、自らの快楽の為だけに
殺戮をもたらす存在は、新たに誕生する﹃一の魔王﹄を再びその手
に掛けようとするだろう。
今までは、神殿の奥に秘匿することが出来た。
だが﹃新たな王が決定した﹄という予言は、吉事であるからこそ、
今まで以上に人の口の端にのりやすくなることだろう。全ての人の
口に戸を立てることは不可能である。いつかは明るみに出る事実で
あり、その時が刻一刻と近付いているということなのだ。
﹁﹃二の魔王﹄は、伝え聞くところだと、魔力形質を持つ者を従え
1365
ることがあると聞くけれど⋮⋮それは、﹃珍しいもの﹄だからだと
言う話だね﹂
﹁⋮⋮﹂
こくりと頷いたモヴに、スマラグディは更に言葉を継いだ。
﹁双子という存在も、魔人族にとっては非常に珍しい存在だ⋮⋮﹃
一の魔王﹄に妹が⋮⋮双子の妹が存在することが知られたら、どう
なると、モヴは見る?﹂
みらい
﹁⋮⋮玩具に﹂
見た可能性に、憤り震えて、モヴは答えた。
﹁プラティナは、連れ拐われて、心を壊されてしまうだろう。その
時は、フリソスも⋮⋮﹂
﹁⋮⋮そうだね。それも一つの﹃破滅﹄への道筋だ﹂
他の可能性も探った。
検討を重ね、愛しい娘が﹃破滅﹄へと導くという﹃可能性﹄を考
えた。
みらい
その上で、どうしても避けなくてはならない﹃可能性﹄こそ﹃二
の魔王﹄に見付かることだった。
プラティナとフリソス二人共に護る為には、﹃二の魔王﹄の目か
ら逃れることが必須の条件となるのである。
ここ
﹁ぼくは、﹃神殿﹄で暮らす時間が長くなってはいても、あまり信
心深くないのかもしれない⋮⋮けれども﹂
ちから
スマラグディはそう言って微笑んだ。
﹁君の言葉は信じている。君が誰よりも娘たちを愛していることを
知っている﹂
だから−−
﹁プラティナを、この国から逃がそう﹂
1366
罪人と呼ばれ、強い悪意に晒されたとしても、あの娘たちを失う
よりはずっと良い。
そしてそれは、きっと初めて出会った時から定められていた、別
れが来るということなのだろう。
﹁仕方ないよ、モヴ。君はフリソスを護らないといけない。ぼくは
ぼくたち
プラティナを護るよ。ぼくに出来ることは限られているけれども、
出来る限りのことはするよ﹂
﹁スマラグディ⋮⋮﹂
﹁リッソを宜しくね。ぼくたちの大切な娘であり、魔人族の大切な
導き手を⋮⋮それは、きっとモヴにしか出来ないことだから﹂
−−そして、その時がきた。
血を吐くような思いを飲み込んで、スマラグディは、幼気なプラ
ティナに憎悪じみた呪詛の言葉が向けられるのを耐える。
ヴァスィリオの重罪人は追放刑に処せられる。彼女を連れて逃げ
たとしたら、追っ手が掛けられることだろう。﹃合法的に﹄プラテ
ィナを神殿から、この国から出す為には、こうすることが最も合理
的なのだと自らに言い聞かせた。
プラティナは、震え、涙もなく、大きな灰色の眸に、自分を罪人
と罵り冷たい視線を向ける神官たちを、あまり感情の見えない顔で
うつしている。
感情豊かなあの子が、あんな顔をするなんてと、慟哭を押し殺し
だれか
て呻き声を漏らす。そんなスマラグディの前で、彼と同じ色のプラ
ティナの左の角に、神官が手を伸ばした。
−−そうして、幼い少女は、重罪人としての烙印を押されたのだ
った。
1367
前日譚。拾壱、罪人の烙印。︵後書き︶
シリアスに疲れた時は、23日発売のコミックス一巻などで癒され
てくださいませ。
前日譚も、後、わずかで終了です。
1368
前日譚。拾弐、終わり、はじまる。
罪人と定められたプラティナは、新たな王の候補者と定められた
フリソスと、大神官であるモヴと会うことを禁じられた。
ずっと一緒だった片割れを失った不安が、晒された大きな害意と
共にプラティナを怯えさせた。
﹁ラグ⋮⋮﹂
ラティナ⋮⋮よげんのわるいこだか
聞き取ることも難しい微かな声にも、スマラグディは娘を抱く腕
の力を緩めずに、答える。
﹁なんだい?﹂
﹁ラティナ、わるいこなの?
ら、リッソもモヴもラティナのこと、きらいになったの?﹂
・
・
・
・
娘にこんな質問をさせること自体に、スマラグディの心はざわつ
き、不特定の存在への憎悪を抱かせる。それでも彼は娘の為に己の
心を隠して優しい声を出した。
﹁違うよ、ラティナ。モヴもリッソも、ラティナのことが大好きだ
よ。大切なんだよ﹂
この子を最後まで導くこと。
それが自分に課せられた、役割なのだからと、己に言い聞かせる。
﹁君のことが大切なんだよ。君がリッソとモヴのことが大切なのと
同じくらいに、二人も君のことが大切だ﹂
﹁⋮⋮じゃあ⋮⋮なんで⋮⋮?﹂
震える声の意図することを察しながら、スマラグディは、娘が無
くしてしまった角の根元に触れる。
﹁ラティナを護る為だよ。そして、リッソを護る為だ﹂
大切な二人の娘たちを護る為に、自分たちはこの選択をした。少
1369
みらい
しでもこの娘たちが、幸せになれる可能性を選び取る為に、決めた
のだ。
﹁決して忘れないで欲しい。リッソはラティナのことが大好きだと
いくことを。そしてぼくとモヴは、君たちのことを深く愛している
ことを﹂
スマラグディの言葉にも、今のプラティナはあまり反応を返さな
かった。無理もないだろう。彼女の受けた傷は大きすぎる。
唯一すがることの出来る存在である父親に、赤ん坊の頃のように
抱き付き、離れることが出来なくなった娘を抱き上げたまま、スマ
ラグディはゆっくりと歩き出した。
スマラグディの教え子の幾人かは、追放刑に処せられる娘と共に、
この国を出ると決めたスマラグディに付き従う意志を示した。
それを断ったのは、スマラグディ自身だった。
﹁ぼくたちよりも、今後のモヴとフリソスに手を貸して欲しい﹂
その中の一人、神官であり、彼ら家族のことを知るアスピダには、
スマラグディは直に残される二人のことを委ねた。
﹁一人でも多く、信頼出来る者が、モヴとフリソスには必要になる
だろう。⋮⋮もうぼくは、彼女たちに手を貸すことは出来ないから。
遺言だと思って聞いて欲しい﹂
卑怯な言い方だとは思ったが、スマラグディは最後まで穏やかに
微笑んで、いつも通りの様子でプラティナを抱いたまま、神殿を後
にした。
ヴァスィリオ
スマラグディが目指したのは、人間族の国だった。
魔人族の国の中では、何処に﹃二の魔王﹄の眷属が紛れているの
かもわからない。外見でそれと知るのは難しいのだ。
︵それに⋮⋮噂だけは届いている︶
鎖国状態のヴァスィリオではあるが、治世の中核に近いところに
いたが故に、スマラグディは他国の噂を僅かにでも得ることが出来
1370
たのだった。
︵隣国であるラーバンド国には、魔王の対存在である﹃勇者﹄が、
現在いると聞く⋮⋮﹃二の魔王﹄から、この子を護る為には、微か
な可能性にもすがりたい︶
﹃勇者﹄が、他種族の幼子に救いの手を伸ばす理由などないだろう。
スマラグディもそこまで楽観的ではない。それでも僅かであっても、
我が子を護る為の手は打てるだけ打つつもりだった。
回復魔法を旅の途中でプラティナに教えたのも、その一つだ。
遊びの一環として、魔力の扱い方や制御方法は今までも教えてい
た。魔法を全ての者が扱える魔人族にとって、それは生活に深く根
差しているものなのである。
それでも、まだ十にもならない幼子に魔法を教えることは、まず
ない。
それでも彼女自身に自らの身を守らせる為に、スマラグディは繰
り返し詠唱の文句を教えた。
全ての魔法を操れる基礎となるように、簡易式ではなく、正しく
美しい呪文式を伝える。攻撃魔法や防御魔法は使いところが難しい。
魔力切れを起こして、肝心な場面で昏倒することになれば、よりそ
の身を危険に晒すことになるだろう。
旅の最中、スマラグディはプラティナが持つ﹃能力﹄にも気付い
ていたからこその判断だった。
この子は﹃害意﹄に敏感だった。
それは旅の間も発揮され、決して旅慣れていないスマラグディを
も助けるものとなっていた。プラティナは魔獣の居場所を察し、毒
ちから
のある動植物を見分けた。彼女に様々なことを教えて育てたのは、
スマラグディ自身だ。それが、神に与えられた加護の如く、稀有で
異質な能力であることを、察することが出来た。
1371
﹁⋮⋮そうだね。﹃王となる﹄という予言を受けて生まれたのは、
フリソスだけではなかったね﹂
嘆息と共にスマラグディは悟っていた。
﹃一の魔王﹄ではないだろう。現在、他の全ての魔王の座か埋まっ
ていることも知っている。
だがきっと、この子もまた、﹃魔王﹄になるのだろう。
神によって示された運命に選ばれ、運命によって護られている、
魔王という存在に。
ならば、自分は残された時間を全てこの娘を導く為に使おう。
あまり強い質ではないスマラグディの身体は、不慣れな長旅の間
に、あちこちに不調が表れるようになっていた。
それが−−病を呼んだ。
病は、回復魔法で癒えることはない。スマラグディはそれも承知
の上で、淀み正常な働きをしなくなりつつある己の身体を、魔法で
延命することを選んだ。
根本的な解決にならずとも、最後の最後まで娘の隣にいるために、
無理矢理に日々動かなくなる身体を騙し続けた。だから、終わりが
近付いた頃には、スマラグディ自身にも己の病が何であるかわから
なくなったのだった。
﹁大丈夫だよ。ラティナ。君は必ず幸せになれる﹂
そうして、娘には決して辛い顔は見せなかった。
﹁君が生まれた日のことは、今でもはっきりと覚えている。虹が⋮
⋮大きな美しい虹が出ていたよ。虹は、神さまが地上を見守ってい
る時に架かるんだ。君は⋮⋮君たちは、神さまに見守られながら生
まれてきたんだよ﹂
祝福の言葉を綴る。
1372
この娘が、幸せになれるように、願いを籠めた言葉を綴る。
絶望の果てに、全てを憎み滅ぼすことを願うような、﹃災厄﹄と
化してしまわないように。
﹁だから、大丈夫。君は幸せになれるはずなんだから。幸せになっ
て良いんだから﹂
﹃導師﹄と呼ばれる己に、生きる道筋へと導くだけの力があるのな
らばと、願う。
﹁大丈夫だよ﹂
それでも、もっと一緒にいてあげたかった。
どうすることも出来ない悔恨を、苦しみを、微笑みで隠す。娘た
ちもモヴも、自分の穏やかな笑みに心穏やかな心境になれるのだと、
彼はよく知っていた。
深い森の中。切れた木々の隙間に、空が見えた。
﹁ああ⋮⋮﹂
嘆息が漏れた。
あまり信心深くない自分だが、これは神の慈悲だろうと思った。
虹が見えた。
自分が手を離すこの瞬間も、この子は神の御心に見守られている。
きっと救われる。そう、信じた。
﹁ほら、虹が出てる。君は運命に護られている﹂
だから願おう。
無力な自分には、それだけしか出来ないけれども、この子の幸せ
を祈ろう。
﹁どうか、どうか。幸せに﹂
最後の最後まで。
﹁ぼくも、これからは、虹の向こうで見守っているから﹂
動かなくなった父親の前で座り込み、幼い少女は途方に暮れた。
1373
どうしたら良いのか、わからなかった。
優しい両親と、誰よりも近しい双子の片割れが世界の全てだった
少女は、全てを無くしてしまった。
泣き方すら、わからない。泣いても、慰めてくれる優しい手は自
分の側に何処にも無いのだ。
このまま父親の隣で、自分も朽ちていくことが正しいのかもしれ
ないと、思う。
家族を喪った以上、もう、自分を必要としてくれる存在などいな
いのだ。
けれども−−
父親が最期に願ってくれたのは、自分が幸せになることだった。
どうしたら良いのかわからない。幸せになれるなんて思えない。
でも、そう否定することは、大好きな父親の最後の願いを否定する
ことだった。
だから少女は立ち上がった。
父親の最後の願いの為に、精一杯頑張ろうと、決めた。
そして−−独り、頑張り続けた少女は−−
彼女は彼と出会った。
罪人の烙印を押された幼い少女は、全ての始まりとなる出会いを
果たすことになる。
物語はそうして−−始まった。
1374
虹の見守る世界へ﹄と合わせてお読みくださいませ。そして
前日譚。拾弐、終わり、はじまる。︵後書き︶
﹃序
﹃青年、ちいさな娘と出会う。﹄へと続くのであります。
1375
前日譚。終、紫の巫女に、届く。︵前書き︶
前日譚エピローグ一本目。
1376
前日譚。終、紫の巫女に、届く。
﹃紫の姫巫女﹄と讃える言葉に応えたのではない。
自分は、そんなに優れた存在などではない。
みらい
それでも、己自身を賭したのは、全てを懸けて護るべき我が子に、
最良の可能性を選び取る為でもある。
ひと
そして、もうすでにいない最愛の男性を、犠牲にした、贖罪の為
だった。
ひと
途中で心折れれば、全てを投げ捨ててしまえば、あの人となした
愛娘を失うことになる。
きっと、もう、この世界の何処にもいない、最愛の男性の命を無
駄にする。
それは決して、許すことは出来ない。
だから自分は、稀代の姫巫女などではなく、ただの一人の母親と
して我が子を守りたかっただけなのだ。
母国と、そこに住む民の為に殉じる。
それも確かな本心だ。そこには愛娘がいる。民を率いる王となる
べく努めている愛し子がいる。側にいることが出来なかった自分だ
けれども、あの子の為にあの子が治める国の為に、自分は出来るこ
とを為すと決めたのだ。
﹁貴方は、﹃八の魔王﹄の眷属ですね﹂
自らの最期の地と視た場所で、﹃白金の勇者﹄の異名を持つ青年
と逢えた時、彼女の心はとても穏やかだった。
1377
みらい
望んだ、最良の可能性へと至る道筋を、今自分は進んでいる。き
っとあの娘たちは、幸せになる未来を歩むことができる。
﹃八の魔王﹄という存在を知った時、我が子が受けた託宣の本当の
意味を理解した。
自分の娘たちは、二人とも、託宣の通りに﹃王﹄となった。
そして、﹃魔王﹄を破滅へと導いてくれるのだろう。仇敵たる魔
ちから
王を。あの娘は、多くの者の悲願を聞き届けることになる。
未来を見る加護を有する彼女にとっては、それは確信出来る未来
だった。
最愛の男性とは、もう二度と会うことはできない。彼はきっと既
にこの世の者ではない。
もう一度会いたかったけれども、娘たちと会うことは叶わない。
それでも、この青年と逢えたことは、幸福な機会だった。
幼い頃に引き離された、大切な娘−−プラティナが選んだ男性。
あの娘が確かに生きて、健やかに暮らしていたのだという証。
そして、その彼が、死に物狂いで愛娘を取り戻そうとしている姿。
自分の娘は、この青年にとても大切に想われている。人間族の国の
中に広く伝わる﹃白金の勇者と妖精姫の物語﹄に、どれほど自分が
安堵したのか、この青年は知らないのだろう。あの娘は大切な男性
バナフセギ
を見つけて選んだのだ。きっと、幸せになれる。
﹃紫の神﹄の加護持つ神官ではなく、ただ一人の母親として、我が
子の幸福を願った。
そして、青年が示した﹃名﹄に、少なからず驚いた。
意図せぬところで目にした、懐かしい名前に、感情を隠すことに
慣れていたはずの彼女の表情が揺れる。
仕方がない。﹃その人﹄の前でだけは、彼女は己の感情を出すこ
1378
とが、己自身のままで在ることが、許されていたのだから。
﹁貴方は、私にとって希望でした。貴方の進む未来の先に、私の望
む未来があった。⋮⋮それに、最期に﹃貴方﹄に逢えた﹂
同じ名前を持つ青年。
・
・
・
もう二度と会うことの出来ない人と、同じ名の、青年。
なんて嬉しいことだろう。
﹁私の最後の﹃予言﹄です。貴方は、あの娘と、もうすぐ逢えます
よ﹂
幸せにしてあげて欲しい。自分は短い時間だったけれども、本当
に幸せだった。
あの娘のことを、どうか幸せに。そう、委ねることが出来ること
は、本当に幸福なことなのだと思えた。
全身から力が抜けるのに伴い、己の身体を支えることも出来なく
なった彼女を、青年は咄嗟に抱き止めた。
少し驚くと同時に、理解してしまって笑みがこぼれる。
外見も持つ色彩も、種族すら同じものはないというのに、自分の
娘は自分と同じような男性に惹かれたのだろうと思った。
優しいひとだ。
誰よりも優しかったあのひとのように、この青年も優しいひとな
のだろう。
あの娘はきっと、もう大丈夫だ。
そしてもう一人の娘も。
あの娘たちは、生まれた時から一人ではなかった。重荷も苦しみ
も、あの娘たちならきっと分けあい支えあって歩むことができる。
きっと一人で生まれなかったこと自体が、あの娘たちの最も大きな
祝福なのだから。
だから−−
1379
︵もう、いいかな︶
頑張ったのだ。自分は、とても、とても頑張ったのだ。
弱音を聞いてくれる貴方がいなくなってから、多くを呑み込んで。
名前を呼んでくれる貴方がいなくなってから、﹃紫の姫巫女﹄とい
う記号だけでしか呼ばれなくなっても。
貴方が遺した、護りたい娘たちを護る為に、約束を果たす為に、
精一杯頑張ったのだ。
︵褒めてくれると、嬉しい⋮⋮︶
だから、幼い頃のように、抱き締めて、優しい声で−−
−−頑張ったね、モヴ。
届いた声が、幻だったとしても、それだけで全てが報われた。
﹁⋮⋮ありがとう⋮⋮スマラグディ⋮⋮﹂
そして彼女の意識は、完全に光の中に溶けた。
1380
前日譚。終、白金の娘、青年に語る。︵前書き︶
前日譚エピローグ二本目。同時投稿です。
1381
前日譚。終、白金の娘、青年に語る。
ぎゅっと抱きしめられて、ラティナは慌てたような声を出した。
﹁デイル?﹂
﹁ん⋮⋮辛いこと、思い出させちまったな。ごめんな﹂
謝罪の言葉が自分を労るものであると気付くと、ラティナは柔ら
かな微笑みを浮かべた。
仔猫が擦り寄るような仕草で、デイルに自らの身を委ねる。
﹁子どもの時は、怖かったことや苦しかったことの方が大きすぎて、
思い出すことも出来なかったんだけど﹂
そう言いながらラティナは、祈るように細い指を組む。
デイルの腕の中は、彼女にとって最も安心出来る場所だった。
世界中の全てから、否定されているような気がしていた幼い自分
を、強い愛情と共に囲い込んでくれた、安全な空間の象徴だった。
それは今でも変わらない。
実の両親から受けていた深い愛情を疑わずに済んだのも、自分は
愛されていたのだと肯定することが出来たのも、全てはこの確固た
る﹃安全な場所﹄があった為だった。
ラティナは、常々口にするように、﹁あの時自分を救ってくれた
のがデイルであったことが、自分の一番の幸運だった﹂と思ってい
た。
両親から受けていたものとは、少し異なるけれども、劣ることの
ない深く強い愛情を呉れるデイルだったからこそ、今の自分がある
のだと−−幸福なのだと思っていた。
だから彼女は微笑んだまま、口にした。
1382
﹁今なら、ちゃんとわかるの。私の両親は私のことを大切に想って
くれていた。私が⋮⋮私とフリソスが幸せになることを、本当に願
ってくれていたんだって⋮⋮﹂
今でも自分が﹃災厄をもたらす﹄として受けた予言が、どんなも
のであったのか、ラティナは詳しくは知らない。
罪人として故郷を追放されたのが、その予言が理由であったこと
はわかる。
それでもと、思う。
﹁私はとても幸せだから。今、とても幸せだから⋮⋮ちゃんと両親
のことを思い出すことも出来るようになったの。﹃あの頃﹄も幸せ
だったって思えるようになったの﹂
大切で幸せだったからこそ、失ったことが辛すぎた。思い出すこ
とが辛すぎた。その記憶すらも、今のラティナは、肯定することが
出来るようになった。
流れる時間は、辛い記憶を薄れさせてくれるけれども、忘れたく
ない筈だった記憶も遠いものにしてしまう。
﹁だからね⋮⋮忘れてしまわないように⋮⋮思い出すことが出来て
良かったの﹂
視線を上げると、自分のことを優しい目で見ているデイルと目が
合った。ラティナはそれに、心底幸福そうに微笑む。
﹁それがきっと、私がラグとモヴに出来る一番の親孝行だから﹂
記憶の中の両親は、幸せな思い出の中にある。それを忘れないで
いること。
そして、精一杯、幸せになること。
それが、自らのことよりも我が子の幸福を願ってくれていた両親
の思いに応えることなのだろう。そう考えるラティナを、デイルは
優しい手つきで撫でる。
まるでデイルが肯定してくれるように感じられて、ラティナはデ
1383
イルにもたれたまま、穏やかな顔で眸を閉じたのだった。
1384
前日譚。終、白金の娘、青年に語る。︵後書き︶
これにて、﹃前日譚﹄は終了となります。
次回からは、日常ほのぼの話となります﹃後日譚﹄になります。ま
だしばらく終わりませんので、お付き合いくださいませ。
1385
後日譚。わんことわんことわんこ。壱︵前書き︶
前回までのシリアスの反動で、全く深刻さのない﹃後日譚﹄開始で
あります。
1386
後日譚。わんことわんことわんこ。壱
﹁うむ。そろそろ一度帰るとするかな﹂
そう巨体をむくりと動かしてハーゲルが言い出したのは、デイル
とラティナがクロイツに戻ってほどなく。当たり前の日常が戻った
ある日だった。
﹁そうなの?﹂
首を傾げたラティナに、ハーゲルは、うむと頷いた。
﹁一度体験してみたかった、人族の﹃都会暮らし﹄なるものも味わ
った﹂
存在自体が希少である幻獣、﹃天翔狼﹄であるわけだが、俗な物
言いを知っているのは、故郷の祖母の影響だろうとデイルは思った。
﹁帰るのか。それはそれで寂しくなるな﹂
﹁結構お前と呑むのも、楽しかったからな﹂
そして、いつの間にか、﹃虎猫亭﹄の常連客のおっさんの一部と
飲み仲間になっていた事に、デイルはおののく。
世界広しと言えども、幻獣が居着く酒場の話など何処にもないだ
ろう。
多少濁った目でデイルが兄貴分であり、店主であるケニスの方を
見れば、てちてちと歩き回る愛娘を見ていたケニスは、デイルに呆
れた視線を返す。
﹁お前の祖母殿が、酒の味を教えたらしいぞ﹂
﹁あの⋮⋮糞婆⋮⋮っ﹂
やはり元凶は、デイルの祖母ヴェンデルガルドであった。
﹁エマの前では、あまり汚い言葉を使うな﹂
すっかり娘に甘い顔を見せているケニスだが、デイルはそれにつ
いては何も言うことはなかった。この店に出入りする者が総出で﹁
1387
お前だけはそれを言うな﹂と、突っ込みを入れることが目に見えて
いる為である。
﹁ラティナは、こんな俺のそばでも、あんなに良い娘に育ったぞ﹂
﹁よほどラティナの実の両親は、出来たひとだったんだろうな﹂
すげなくケニスは言い返し、エマを抱き上げる。三人目は男と女
どちらが良いかと検討するケニスは、最近現役引退後はご無沙汰だ
ったトレーニングを再開していることを、デイルは知っていた。
﹃師匠﹄というかたちではあったが、ラティナの成長を保護者の一
人として見守ってきたケニスは、女の子があっという間に年頃にな
ってしまう事実を見てきた。
今はこんなにちいさなエマも、驚くべき早さで大人になってしま
うことだろう。
来るべきその日の為に、トレーニングを重ねる。
そんなケニスに、デイルは少なからず思うのである。
︵俺のこと、あんまりどうこう言えねぇよな⋮⋮︶
因みに、息子よりも愛娘に、護身術として戦闘術を教えるべきだ
との思考に至るケニスであったりする。面倒見の良いデイルがその
計画にのったお蔭で、ケニスの息子と娘は、そこそこの冒険者相手
でも張り合える猛者となるのだが、それは現在では先の話であった。
街の一酒場に、軍隊を凌駕する過剰戦力が集まる現状は、常連客
を含めて皆が皆、気付かないふりをする現実となっていた。
﹁お前の姿に驚いた駆け出しが、腰抜かして這い回るのも、日常茶
飯事だったんだかなぁ﹂
それは立派な営業妨害ではなかろうか。
﹁これしきのことで、立つことすら出来ないのであれば、戦場では
物にならぬ﹂
﹁そうだよなあ。まあ、多少骨のある奴は、今はヴァスイリオとの
1388
中継点に行っちまってるから、仕方ないってのもあるんだが﹂
がははと、大声で笑うおっさんどもの中に、当たり前のように紛
れる巨体の獣。
﹁⋮⋮あんまり違和感がねぇことが、逆にやばくねぇか?﹂
﹁今更との声の方が高くてな﹂
﹁そういや、ハーゲルの酒代って誰が出してるんだ?﹂
﹁それはラティナが払ってくれてるぞ。﹃餌代﹄は、自分の負担だ
って言っていたからな﹂
普通﹃飼い犬の餌代﹄に、酒代は含まれないと、誰も言わなかっ
たのだろうか。と、デイルは思う。
今更である。
ヴィントはどうするんだろう﹂
そんなデイルの前で、ラティナは再び首を傾げた。
﹁ハーゲルだけ?
現在、この店の長男たるテオと共に外遊びに興じている、この店
のもう一匹の﹃飼い犬﹄の名前を上げる。そんなラティナに、ハー
ゲルは再びうむと応じた。
﹁一度あれも連れて帰る。奥も、様子が見たいと思うておる頃だろ
うからな﹂
﹁おく?﹂
聞き慣れない単語に首を傾げたラティナに、常連客から補足が入
る。
﹁嬢ちゃん。奥方のことさ﹂
﹁ハーゲルの奥さん⋮⋮ヴィントのお母さんのこと?﹂
﹁うむ﹂
どうして誰も、幻獣が夫婦関係を築き上げていることに突っ込み
を入れないのだろうかと、デイルは思った。
﹁夫婦関係の円満の秘訣を、嬢ちゃんも聞いておいたら良いんじゃ
ないか?﹂
常連客の言葉に、ラティナが少し頬を染める。
1389
周囲は恥じらうラティナの様子に、からかいまじりの笑い声を上
げた。
獣相手にそれを問うのか。
デイルの心中の突っ込みは、もう既に間に合わなくなりつつあっ
た。
﹁牡は牡のみで在るのではない。牝をうまくたてることこそ、群れ
全体を円滑に纏める秘訣である﹂
﹁お前も、本当に苦労してるんだなあっ﹂
ハーゲル
おっさんたちが、飲めとばかりにハーゲルの前の皿に酒瓶を傾け
る。日頃﹃虎猫亭﹄で使っていない色皿は、彼専用の杯であること
を遅れて悟って、デイルは堪えきれずに突っ込みを放った−−
﹁真理だぞ﹂
﹁本気か?﹂
寸前で、結婚生活の先輩であるケニスに、真顔で同意されて言葉
を飲み込んだ。未だ甘い婚約期間を満喫しているデイルには、わか
らない苦難が、世の夫婦の間には隠されているらしかった。
翌日、ハーゲルは、空に舞いデイルの故郷であるティスロウの集
落のある方に飛び去って行った。
遅れてヴィントが飛ぶ、と見せかけて、ヴィントは尾を振りなが
らラティナに頭をぐりぐりと擦り付ける。
﹁いってくるーっ﹂
﹁気を付けてねヴィント。お母さんにも宜しくね﹂
挨拶を交わした後でヴィントは、トコトコと、街の端である門の
ある方に向かって歩いて行った。
後日、﹃飼い主﹄として、デイルはめちゃくちゃ憲兵に怒られた。
一応﹃犬﹄という建前になっている以上、街中から不用意に飛ば
れるのは、非常にまずいのである。そこのところは、四六時中クロ
イツの南の﹃森﹄を遊び場にして、南の門番と顔パスの関係になっ
1390
ているヴィントの方がうまくやっていたのであった。
門の中に入るのには、通行料がかかる筈だというデイルの疑問は、
﹁お前は犬から金を取るのか?﹂
という真顔の質問を受けて、妙に納得のいかない思いを抱く返答
を貰ったりするのであった。
そして一週間程の里帰りを経て、クロイツにヴィントが帰ってき
た。
ハーゲルは、まだしばらく故郷の隠居生活を満喫するそうであり、
ヴィントのみの帰還である。
﹁ただいまー﹂
﹁お帰り、ヴィン⋮⋮ト?﹂
弾んだラティナの声が、疑問符付きで尻窄みとなったことで、デ
イルも異常に気付く。
ラティナと彼女が出迎えたヴィントの方を見る。
﹃虎猫亭﹄の入り口を当たり前のような顔で入ってきたヴィントは、
旅の埃を感じさせる様子はあるが、一見いつも通りである。
﹃一見﹄と、但し書きを付けた違和感は、直ぐにはっきりと見分け
ることができた。
常にラティナ手製のポンチョ状の衣服を身に付けているヴィント
であるが、そのポンチョがもぞもぞと動いていたのである。
流石にデイルもぎょっとして、腰を浮かせた。
﹁なんだ?﹂
﹁どうしたの?﹂
﹁うまれてたー﹂
ヴィントの返答の意味を聞き取ろうとした瞬間、ぽむ、ぽむ、ぽ
む。と、毛玉が三つほど転げ落ちた。
﹁きたいって、いうから、しかたなく﹂
口では﹁仕方ない﹂と言っているが、全くそんな様子はヴィント
にはない。いつも通りであった。
1391
よく見ればそれは、羽を持つ仔犬の如き生き物であることがわか
る。
﹁つれてきちゃった﹂
てへぺろという顔をする幻獣の前で、ヴィントと同じ色の毛玉が
二つと黒い毛玉が一つ。同じような姿勢で小首を傾げていた。
1392
後日譚。わんことわんことわんこ。弐
﹁きゃん﹂﹁きゃん﹂﹁わん﹂
三つの毛玉が、高い声で鳴く。それに妙に納得したような顔で、
デイルは一つ頷いた。
﹁ヴィントと違って、ちゃんと犬らしく鳴くんだな﹂
﹁わふぅ﹂
﹁お前のは、嘘くさい﹂
そんな風にやり取りしているデイルとヴィントを気にすることも
なく、三匹の毛玉は一斉にラティナの方に向かって行った。くるく
ると周囲を回り、甘え声で鳴きながら、彼女の膝に登ろうと試みる。
﹁ふわぁ⋮⋮﹂
動物好きのラティナは、すっかり現状に突っ込みを入れることも
忘れて、膝を折り毛玉を両腕で抱き締める。ぺろぺろと頬を舐めら
れ、相好を崩した。
彼女にうりうりと撫でられる毛玉たちもご満悦のようで、如何に
も気持ち良さげに目を細めている。
﹁⋮⋮どうしよう、デイル。仔犬可愛いよ!﹂
﹁あ。ようやく戻って来たんだな﹂
しばらく完全に周囲を忘れて、毛玉たちに没頭していたラティナ
に、理性の色が戻った。
そんな幸せそうな彼女の姿を愛でることも、デイルにとってはラ
イフワークであるため、黙って放置されていたのである。
﹁ヴィント、どうしたんだこの仔犬﹂
翼を持つ様子から、﹃天翔狼﹄の仔犬である推測は出来る。だが、
あまりに幼いのか、仔犬たちは、何れも人語を話す素振りはなかっ
た。
1393
﹁おとーと、いもーと、おとーと﹂
﹁ヴィントの兄弟犬?﹂
そう言われれば、三匹中二匹は、ヴィントとよく似た灰色の毛色
をしている。だがヴィントよりもだいぶ、ふわふわとしていた。
虎猫亭
既に皆﹃犬呼ばわり﹄なのであるが、そこには誰も疑問は抱かな
かった。﹃犬﹄の基準が、この店では大きく狂っているのである。
﹁いつのまにか、生まれてたー﹂
うろつ
﹁そういうもんなのか﹂
﹁ダディもびっくり﹂
﹁あー⋮⋮俺と世界中彷徨いていた間に生まれてたのか﹂
魔王殲滅の旅も、既にデイルにとっては過去のことになりつつあ
り、世界漫遊ぶらり旅のようなニュアンスとなっていた。殺られた
魔王が浮かばれない勇者の所業である。
﹁そういえばハーゲルはどうしたの?﹂
﹁マミィとイチャイチャしてるー﹂
問いかけたラティナへのヴィントの返答は、父狼に対して容赦が
なかった。
﹁また、ふえるかも﹂
﹁きゃん﹂﹁きゃん﹂﹁きゃん﹂
仔犬たちも、同じように答えるところを見ると、人語は理解して
いるらしい。そして仔犬たちにも、そう思われるハーゲルとその嫁
の関係であるようだった。
﹁まぁ⋮⋮俺について来てくれるって時に、あいつ群れの長の仕事
は引退したって言ってたしなぁ﹂
﹁そうだったの?﹂
﹁時間があるんだろうなぁ⋮⋮﹂
ハーゲルは、リタイア後の第二の犬生を満喫しているらしい。マ
イペースなヴィントの父狼らしい行動である。
1394
﹁ダディとマミィ、みずいらず、らぶらぶ﹂
この犬も﹃虎猫亭﹄暮らしが長くなり、微妙な語句が日々増えて
いるのだなと、デイルは急にそんな思考に囚われたりするのである。
そして、仔犬たちの愛らしさにすっかり魅了されたラティナはも
とより、完全に残念仕様が常態化しているデイルも失念していたの
だが−−
この直後﹃虎猫亭﹄は、常連客を緊急召集した上での会議の場と
なった。
﹁ケニス、とりあえず店の扉を閉じろっ﹂
﹁リタ、悪いが、臨時休業にして、一般客の出入りも制限するぞ﹂
﹁仕方ないわね。テオ、エマと二階に行っていなさい。ちゃんと面
倒見てるのよ!﹂
﹁憲兵所の詰所には人を走らせた、直ぐに隊長が来る筈だ﹂
バタバタと騒ぐ面々を見ながら、ラティナは不思議そうな顔で、
毛玉を愛でている。
ざんねん
一方デイルは、そこでようやく脳の回路が繋がったかのような反
黄金を積んでも欲し
応を見せた。真面目な勇者期間を乗り切った反動は、だいぶ深刻な
ようである。
﹁⋮⋮大変じゃねぇかっ﹂
﹁わふ?﹂
﹁こんな戦闘力皆無な仔犬でも、幻獣だぞ?
がる好事家も、幻獣を素材として欲しがる職人も出て来るだろ?﹂
﹁あ⋮⋮﹂
そこでようやくラティナも、﹃飼い犬﹄が、幻獣という稀少な生
き物であることを思い出したらしい。
そんなラティナに抱かれるヴィントの弟妹犬たちは、彼女の指先
を、あむあむと甘噛みしている。どう見ても殺傷能力ゼロの毛玉で
あった。
1395
﹁だからといって、この仔犬に何かあれば、里の天翔狼たちが報復
に来るだろう﹂
ケニスに言われて、ラティナは困った顔をヴィントに向ける。
相変わらずヴィントは、当事者の意識のない顔であり、マイペー
スにかしかしと後ろ足で背中を掻いていた。
﹁まぁ⋮⋮だよな﹂
﹁それが一番無難だろう﹂
﹁あいつが一番暇だもの﹂
暫し熱烈な議論を経て、一同は溜め息まじりに結論に至った。
各々勝手なことを言いつつ、会議に召集された面々はそれぞれに
デイルを見る。
そんな視線も気に留めずに、デイルは会議に参加することなく、
毛玉にじゃれつかれているラティナを見ていた。弟妹に嫉妬したヴ
ィントが、毛玉をポイポイと前足で払い、ラティナの膝にぱふっと
頭を載せる。ラティナに苦笑しながら頭を撫でられて、機嫌を直し
て尾を嬉しそうに振る。
ヴィントに払われた仔犬たちも、それでへこたれる様子はなく、
二匹は兄犬の横を回り込んでラティナの元に戻り、一匹はヴィント
の背中の上でラティナにつぶらな目を向けていた。
﹁︵動物と戯れるラティナも︶可愛いな﹂
﹁本当に可愛いねぇ﹂
デイルの内心の独白には気付かぬ様子で、ラティナは笑顔でデイ
ルに応じる。デイルは目を細めながらも、ヴィントに声を掛けた。
カリスマ
﹁ヴィント、﹃来たいって言うから﹄ってのは⋮⋮この仔犬の目的
は﹂
﹁もちろんラティナ﹂
﹁だろうなぁ⋮⋮﹂
彼女の撫でスキルは、既に天翔狼たちにとって伝説的なものであ
るらしい。
1396
せ
い
﹁ダディもつやつや毛なみで、モテオーラばっちし﹂
﹁ラティナのブラッシングか⋮⋮﹂
﹁マミィとイチャイチャましまし。たぶん、ふえるー﹂
﹁きゃん﹂﹁きゃん﹂﹁きゃん﹂
仔犬たちも、更に弟妹が増えることには好意的であるようであっ
た。
﹁仲良しなんだね﹂
﹁らぶらぶぅ﹂
よほどラティナは犬系の生き物に好かれる質をしているらしい。
仔犬たちはラティナの側を一向に離れる様子はないし、ヴィントは
そんな弟妹の様子を、当たり前のものとして見ている。
そこでようやくデイルは、自分に集まっている周囲の視線に気が
付いた。
﹁⋮⋮なんだ?﹂
﹁いや、その仔犬の目的はラティナだろう?﹂
﹁そうらしいな﹂
一同を代表して話し始めたケニスに、デイルは頷きを返した。
﹁とすると、仔犬はラティナの近くにいる時間が最も長いだろう﹂
﹁まぁなぁ⋮⋮﹂
﹁なら、必然的に仔犬の責任者はお前ということで、結論が出た﹂
﹁は?﹂
聞き返したデイルに、周囲の視線の温度は一斉に生ぬるいものに
なる。
﹁お前最近、ラティナの側から動かないだろ﹂
﹁嬢ちゃんの尻見てるついでだ﹂
﹁尻だけ見てる訳じゃねぇぞっ﹂
デイルの反論のポイントは、おかしかった。
﹁ラティナの側を離れなくて良い理由が出来て、あんたにとっても
万々歳じゃない﹂
1397
リタの言葉に、満更でもなく、それもそうかという反応をする彼
は、色々末期なのである。
﹁それに、お前がこの中で、最大の権力者だ。実力的にも、お前に
手を出そうなんて⋮⋮よほどの馬鹿でなきゃやろうとしない﹂
﹁なら、仔犬にとっての最強の護衛は、お前ってことにもなる﹂
現在世界規模での救国の英雄である﹃白金の勇者﹄は、出るとこ
ろに出れば、この街の領主である伯爵殿よりも大きな発言力を持つ。
英雄譚に語られるように、数多の魔王を打ち倒した偉大なる戦士
でもある。実力行使で彼を負かせる者は−−規格外魔族となった現
実も含めて−−まず、現在存在しない。
﹁⋮⋮ヴィント、さすがに仔犬たちをここで飼う訳にはいかないぞ
﹂
責任を押し付けられることを悟り、デイルはまるで親が子どもに
﹁拾って来ても、ウチでは飼えません!﹂のやり取りをするような
顔を向ける。
だか、それを言う相手も﹃犬﹄であるという、かなりシュールな
光景であった。
﹁ダディとマミィ、みずいらずおわったら、かえす﹂
﹁あ。遊びに連れて来た感覚なのか?﹂
﹁きゅーん﹂﹁くーん﹂﹁きゃん﹂
少し安堵した顔のデイルに向かい、仔犬たちが甘えた声で鳴きな
がら、尾を振り取り囲む。
﹁なら、しばらくしたら帰すんだな?﹂
﹁かえすー﹂
ヴィントに倣って、声を合わせる仔犬たちは、確かにふわふわの
毛並みや、くりっとした眸で見る様も愛らしかった。
﹁⋮⋮﹂
1398
しばらくくらいなら、良いかと言う心境に傾いているデイルを見
ながら、ラティナはふと、首を傾げた。
︵やっぱりヴィントの弟妹犬なだけあって⋮⋮︶
計算づくであざとい可愛さ押しをしてくる仔犬の姿に、ラティナ
は気付いていた。
だか、彼女はそれを悪意として受け取らず、ヴィント同様要領が
良いのだなぁと、すんなり受け入れていたりもしたのである。
︵まぁ。可愛いから良いかな︶
結局ラティナは、もふもふなわんこの誘惑には勝てないのでもあ
った。
1399
後日譚。わんことわんことわんこ。弐︵後書き︶
灰1︵弟︶、灰2︵妹︶、黒︵弟︶となっております。
ヴィントのママわんこが、黒毛のわんこであったりするのです。
因みにヴィントは灰色の毛並みに、耳と尾、手足の先が黒くなって
おります。
1400
後日譚。わんことわんことわんこ。参
もふもふわんこの突然の訪れに喜びの表情を向けたのは、ラティ
ナだけではなかった。
﹁きゃーっ﹂
﹃虎猫亭﹄の看板娘︵小︶であるエマもまた、生きたぬいぐるみの
如きもふもふ毛玉に満面の笑みを浮かべた。
仔犬たちも、エマが自分たちに好意的な感情を抱いていることを
理解し、尾を振りながら甘え声を出す。
ヴィントは、テオと遊ぶことが多い。
幼い頃から幻獣を遊び相手にしたテオの基本的な運動能力は高く、
追いかけっこをしても、到底、幼いエマが交ざることが出来ない次
元になっている。
しかも、ラティナが行方不明になっていた期間は、エマが物心つ
く前の赤ん坊の頃からで、ヴィントはヴァスィリオとクロイツを頻
繁に行き来していた。ヴィントが﹃虎猫亭﹄にいる時間は限られて
わんこ
いた。エマがヴィントと過ごす時間はどうしても限られてしまって
いたのである。
エマは、生まれた時から天翔狼と接して暮らしているという﹃常
識﹄を持っているが、ヴィントは兄に独占されている﹃飼い犬﹄で
もあったのだ。
最近﹃虎猫亭﹄に戻って来たラティナに対して、エマはまだ少し
人見知りをしている。
赤ん坊の頃は一緒にいたと言われても、記憶にない以上は、つい
先日会ったばかりの他人である。兄であるテオにとって、ラティナ
は﹃大好きなお姉ちゃん﹄であるために、彼女が戻って以降、当た
1401
り前のように弟然として甘えた様子を見せている。それもエマにと
っては驚きなのであった。
美人で優しい﹃お姉ちゃん﹄が、気になっているのもエマの本心
なのである。だが、なかなか距離の縮め方がわからないのであった。
そこに、もふもふ毛玉ズが現れた。
エマにも人懐っこい様子で尾を振っている仔犬たちだが、やはり
一番懐いているのは、ラティナである。仔犬たちと遊びたいのであ
れば、ラティナの元に行く必要が出てくるのである。
そして子ども好きで面倒見の良いラティナは、近くに来てくれさ
えすれば、エマを構ってくれることを理解することになる。
そうすると、ラティナにべったりのデイルにも近づくことになる。
デイルも元々子ども好きであり、面倒を見るのを苦にしていない
質をしている。エマが近くにいれば、ラティナの次に意識を向ける
程度の気の張り方をする。
ケニス
うち
エマを溺愛している父親も、デイルが愛娘に悪さをすることは決
の嫁
してないことを理解している。愛娘が成長した後だとしても、ラテ
ィナ最上のデイルは、決して手を出すことはない。安心安全の相手
なのである。
現在の段階でそんな心配を始めるあたり、ケニスもデイルの﹃親
バカ﹄ぶりをどうこう言えない状況になっていた。
ラティナが古い布切れを丸めて作った即興のボールを、﹃虎猫亭﹄
の裏庭でぽいと投げる。転がるように毛玉たちは駆けていき、灰色
の牡の仔犬が一足先にボールへと到達する。くわえる前にじゃれつ
いてしまったところに灰色の牝と黒い牡が追い付いてきて、取っ組
み合いのボールの取り合いになった。
ちょっとした隙をうまくついて、黒い仔犬がボールを捕らえるこ
とに成功し、一目散にラティナの元に運んでくる。
1402
ぼとっ。と、素直に彼女の前にボールを置いて、如何にも誉めて
という顔でラティナを見る。
ラティナは、仔犬たちをうにうにと撫で回しながら、きらきらし
た目で見てくるエマにボールを渡した。
エマの全力投球は、ほんの数歩先の距離でぼとんと落ちる結果と
なったが、仔犬たちは、爛々とした目で再び飛びかかっていった。
仔犬たちの様子に、きゃっきゃっと笑うエマに、ラティナも優し
い笑顔を向ける。
やがてボールを投げる前に、仔犬たちがエマからボールを奪おう
と追いかけ始める。エマもボールを持ったまま走り出し、幼児と仔
犬たちは、一塊になってじゃれあうのだった。
そして、ある種のお約束通り、幼児は見事にスッ転んだのである。
転んだエマは、まず、何が起こったのかわからないという顔をし
た。
痛いというよりも、驚いたという顔になっていたエマが、みるみ
る泣き出しそうになったのは、土に汚れて擦りむいた自分の膝を見
た時だった。
エマにとっては、痛みに気付いて泣くことが遅くなっただけだっ
たのだが、ラティナは早足でエマの傍に来ると、彼女をぎゅっと抱
き締めて誉め言葉を贈った。
﹁泣かなかったんだね、エマ。偉いねえ﹂
ラティナの優しい声に、エマは泣きそうだった自分を、我慢する
ことが出来た。ラティナはエマのその頑張りにも気付いて、さらに
偉いと頭を撫でる。
ラティナは、エマのスカートの汚れを慣れた手つきで払うと、彼
女の膝を厨房の裏手の水場で清めた。傷の具合を確認して、常備し
てある傷薬を薄く塗る。
1403
回復魔法の使い手であるラティナが、エマの怪我を魔法で癒さな
いことにも理由がある。
酷いものや、急を要するものなど、命に関わるものであれば使用
を躊躇うことはないが、幼いエマが、﹃怪我﹄というものは﹃簡単
に治る﹄という意識を持つことが、大変危険であるからだった。
毎日跳ね回り、傷だらけになるテオにハラハラしていたラティナ
も、それでも逞しくテオが育つのを見て以降、過保護にすることが、
大切な﹃弟妹﹄分の為にはならないことを理解していた。
その経験があるからこそ、ラティナもエマに対して、落ち着いて
対処出来ているのだった。
その間も毛玉たちは、ラティナやエマの回りを忙しなく走り回り、
やがて自分たちにも構って欲しいと、尾を振りながらラティナの足
元にまとわりつく。
愛らしいそんな仔犬の姿を見ても、今のラティナは現在進行形で
﹃頑張っている﹄エマの方を優先する。
そのこともわかったエマは、今までうまく甘えることのできなか
った﹃お姉ちゃん﹄に、甘えてみることにした。
﹁おねちゃ﹂
だが、言い慣れない言葉に恥ずかしくなって、エマは、ラティナ
にぎゅっと抱き着いてみたのだった。
そんな一連の様子も、デイルは厨房から続く扉の前にどっかりと
座り、見ていたりするのであった。
ラティナが構ってくれないなら仕方ないと、灰色の牡の仔犬は、
デイルに撫でるが良かろうという顔で、ふわふわ毛皮のアピールを
している。
それを抱き上げて、腹のあたりを触る。嫌がって牙をたてられて
も、デイルは全く意に解さなかった。
1404
︵ラティナは本当に、良い母親になりそうだなぁ︶
その間に思い浮かべる彼の独白は、緩みきった表情も合わせて、
他人様にお見せ出来るものではない残念具合を醸し出していた。
その後、毛玉たちの帰宅は、一月にもならない間に果たされるこ
とになった。
ティスロウに隣接している天翔狼の里から、数体の天翔狼たちが
飛来したのである。
﹃虎猫亭﹄の常連客以外の冒険者や、領主館にも幻獣が襲来したニ
ュースは広がってしまい、憲兵隊の上層部は公になった大問題に、
連日の残業が確定したことを悟り、目眩を覚えた。
﹁マミィのニオイきちゃった﹂
という、てへぺろ顔のヴィントの台詞により、天翔狼が予想通り、
ヴィントの身内であることが確定する。
結局﹃虎猫亭﹄常連客による緊急対策本部は、討伐隊が編成され
ることや、欲にかられた冒険者が突撃を果たす前に、ヴィントと共
にデイルを、クロイツの外に秘密裏に放り出したのであった。
真相を闇に葬ったまま、事態を即急におさめる為である。
ラティナが同行しないのは、彼女に魅了された天翔狼が、これ以
上クロイツに居着くことを恐れた為に他ならなかった。
ヴィントの母狼と、デイルは面識がある。
以前ハーゲルの助力を願って、天翔狼の里を訪れた時に会話も交
わしたのだが、ハーゲルやヴィントほどには、流暢に人語を操るこ
とはできない漆黒の毛並みの個体であった。
向こうもデイルのことを覚えていたらしい。街から離れた場所に
誘導するデイルに従い地上に降りる。ハーゲルよりも細身の身体は、
音ひとつたてずにしなやかな動きで地上に降りた。
﹁マミィ﹂
1405
ぱたぱたと尾を振るヴィントとデイルのことを、茶褐色の眸で見
た彼女は、高い女性らしさを感じる声を発した。
﹁ほんとうにいつもうちのこ、ごめいわくおかけしています﹂
デイルにとっては相変わらずなのだが、﹃彼女﹄は、その一言に
限り、かなり言い慣れているのである。
1406
後日譚。わんことわんことわんこ。肆
﹁いえ。迷惑なんて⋮⋮﹂
と、常套句を続けようとしたデイルは、一瞬考え込んだ。ヴィン
トは迷惑をかけているのだろうか、否かということである。
︵マイペースだけど、ラティナの荷物持ちとか、テオの遊び相手と
かしているし⋮⋮意外に働いてるなこいつ︶
世間一般の﹃番犬﹄よりも、働いているのかもしれない。
だが、なんだかあまりにマイペース過ぎる姿を見ている為に、誉
めてやる気にならないのである。
自分の中で答えが出た後で、デイルは母狼に向き直る。ヴィント
相手では誉め言葉は出したくもないが、我が仔を心配しているであ
ろう母親相手ではそうではない。
い
﹁本当に、自分に課せられた役割も果たしていますし、きちんとや
っているのでご心配には及びません﹂
﹁いえいえ。ほんとうにごめいわくおかけしてばかりで⋮⋮﹂
﹁いえいえ﹂
ぬ
会話だけではよくある保護者間のやり取りのようだが、相手が幻
獣という混沌さであった。
ちらりと視界に入ったヴィントは、ドヤ顔をしていた。デイルは
表情に出さないながらもイラっとする。
母狼の他にも数匹の天翔狼がいるのだが、デイルと母狼の会話に、
どこか﹁仕方ない﹂という気配を放っている。母狼の流暢な謝罪と
合わせて、ヴィントは故郷でもこの調子のマイペースわんこであっ
たようであった。
1407
﹁ところで、今回は⋮⋮?﹂
﹁うちのこ、さん、いなくなる。さがす﹂
母狼のたどたどしい返答の意味を、デイルが考えていると、ヴィ
ントが訳知り顔で母狼の側にやって来た。
﹁きたいって、いうからしかたなく﹂
﹁さん?﹂
﹁のこすのも、かわいそうだから、しかたなかった﹂
ヴィントの返答で、デイルも、話題が三匹の仔犬のことである推
測に至る。
きちんと意訳してみたならば、﹁うちの三匹の仔どもたちがいな
くなったので、捜しに来た﹂ということになるのだろう。
一人納得してうんうんと頷くデイルの前で、母狼は急に口を大き
く開け、ヴィントへがぶりと一撃を食らわせた。
﹁キャンっ!﹂
﹁お。珍しく犬らしく鳴いたな⋮⋮﹂
妙なところに感心するデイルの前で、ヴィントはその後もがぶが
ぶと噛まれた。逃げ出そうとするヴィントを母狼は簡単に手玉に取
る。母狼の前肢で動きを抑え込まれたヴィントは、再び情けない声
をあげた。
﹁キャインっ﹂
周囲の天翔狼たちも、全く止める気配はない。
それ故デイルも、手を出す気にはならなかった。犬流のしつけに
関わって良いとは思えないし、噛まれたヴィントに怪我や流血は見
られない。母狼が加減をしていることは、種族の異なるデイルにも
はっきりとわかっていたのだった。
︵でもまあ、大型の肉食獣に噛まれるって、結構ハードな﹃おしお
き﹄だよな⋮⋮︶
そして母狼の体捌きに感心する。素早いヴィントが全く手も足も
出ない状態で、無力化されておしおきを続行されている。もしかし
1408
たらハーゲルよりも、直接攻撃の体術は秀でているのかもしれない
なんてことも思った。
暫しのおしおきタイムを経て、ヴィントはごろんと転がり、腹毛
を母狼に向けた。
完全降伏のポーズである。
そこで、母狼も攻撃を止めた。
デイルがヴィントを見れば、涙目になっていた。これは、ラティ
ナに本気で怒られてブラッシング禁止令を食らった時と同じ顔であ
る。本心から反省しているらしい。
﹁えーと⋮⋮仔い⋮⋮仔どもたちなら、街の中にいるんですが。人
間族の街中に、幻獣が大勢入るのは混乱の元になるんですが⋮⋮﹂
本当は飛来してきた現状で、十分に大混乱である。
﹁わかる﹂
﹁俺が改めて明日ここに連れて来ますので、街から離れた場所で待
っていて頂けますか?﹂
﹁かさねがさね、ごめいわくおかけしてもうしわけありません﹂
本当にヴィントは何をしてきたのだろうと思う、母狼のボキャブ
ラリーであった。
そうして天翔狼たちを街から引き離すことに成功すると、デイル
は﹃虎猫亭﹄へと戻って来た。
そして、天翔狼たち以上に説得に手間取る相手がいることを、把
握することになる。
仔犬たちを抱き締めたエマの、全力のイヤイヤであった。
卑怯なことに、兄貴分たるケニスは愛娘の抵抗に、手を出す気の
ない顔で傍観を決め込んでいる。仔犬たちを取り上げたことで﹁パ
1409
パ嫌い!﹂を発令されることを恐れていると見えた。
母親であるリタが雷を落とせば、事態は終結へと向かうだろうが、
同時に世界の終わりではなかろうかという程に泣かれることだろう。
そのことがわかっている常連客たちも、﹃看板娘﹄に甘いが故に、
静観する側に回っているようであった。
エマのちいさな腕では、仔犬を抱き締めるのは二匹が限界のよう
で、もぞもぞと動いた灰色の牝の仔犬が、脱出することに成功する。
ラティナの方に尾を振りながら向かうその仔犬を、引き戻そうと
気を向けた拍子に、残りの二匹もエマの腕からすり抜けてしまった。
仔犬たちは、ラティナに群がり、ぱふぱふと尾を盛んに振ってい
る。そんな仔犬たちの様子を見ながら、エマは、ちいさな眉をぎゅ
とハの字にした。
﹁エマ﹂
そこでラティナがエマを呼んだ声は、とても優しく耳に心地好く
響く声だった。
たったその一言で、エマは、くしゃりと泣き顔になった。ラティ
ナは微笑んだままエマを招くと、抱き締める。
﹁やだぁ⋮⋮やなのっ⋮⋮﹂
﹁うん﹂
大声で泣きじゃくるエマを、叱ることなく抱き締めて話を聞く。
よしよしと頭を撫でて、エマが落ち着きを取り戻すまで、辛抱強く
待つ。
﹁この仔たちの、お母さんが迎えに来たんだって﹂
そしてラティナは、エマの目をまっすぐに見て、優しい声で伝え
る。
﹁お母さん、とても心配していたみたい﹂
﹁でも⋮⋮﹂
﹁うん。エマもわかってるんだよね。寂しいだけなんだよね﹂
1410
嫌だも、でもも、だっても−−繰り返すエマの言葉を聞きながら、
ラティナは本当に優しく微笑んでいた。
ラティナはとても甘えん坊だ。甘えるだけではいけないと、自ら
を引き締めるところはある。それでも、根本の部分は甘えん坊なの
である。
それは、幼い頃の大きな喪失体験を埋める為の、心の在り方なの
かもしれない。そして、底抜けに甘やかそうとするデイルがいるか
らこその在り方なのかもしれなかった。
だからラティナは、他人を甘やかすことも上手なのだった。
そっと寄り添い、優しさと癒しという彼女の最も大きな特性で、
傷ついた者を支える。
慈愛に溢れる姿は、時に神々しさすら感じるものだった。
︵まあ、﹃魔王﹄が神に類するものなら、﹃女神﹄って感想は間違
っちゃいねぇし!︶
だが、そんなことは関係なく、デイルは相変わらず残念だった。
ラティナの成長が見られる場面ならなおのこと、彼の成長しない
部分−−いっそ清々しいブレなさ具合が−−はっきりと際立つので
ある。
﹁ヴィント、お前の弟と妹、母親に引き渡して良いんだよな?﹂
﹁わふ﹂
デイルが、ふと、気付いて隣のヴィントに声を掛ける。ヴィント
は母親に怒られた直後こそしおらしくしていたものの、すっかり普
段通りに戻って、ごろごろ寝そべっていた。
﹁⋮⋮ホームシックつうか、寂しくなったりしねぇのか?﹂
別れに対して、このわんこにはそういった様子が全く見られない。
だからこそ発したデイルの疑問であったが、相変わらず悪びれな
1411
い返答が、ヴィントから発せられた。
﹁また、つれてくればいーし﹂
﹁おい?﹂
反省という言葉は、このわんこにはないようである。
﹁むこーが、くるかもしれないし﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
その発言には、すぐさまデイルは返答出来なかった。
毛玉状態の仔犬たちが、人語を解するようになり、独自に飛んで
来れるまでどのくらいかかるのか、デイルの知識にはない。
だが、数十年後のクロイツの街中に、翼を持ったわんこがウロウ
ロと徘徊していない保証はない。むしろ簡単にそういった想像が出
来てしまうのだった。
頻繁に故郷にラティナを連れて行き、山の中で彼女と触れあわせ
ることで、天翔狼のガス抜きとする。−−という思いつきも、それ
でラティナと面識のあるわんこが増えたら、状況が悪化する可能性
が発生してしまう。
具体的な解決策が浮かばず、デイルは頭を抱えながら、エマを抱
っこしているラティナを見た。
とりあえず今回の事件は、あの二人の距離を一気に縮めたようで
ある。
幼いエマ相手では、デイルは嫉妬を感じないのだが、﹃お姉ちゃ
ん﹄と﹃妹﹄の両方を一度に持っていかれた形のテオが、ぐぎぎと
いう複雑な顔になっていた。
それも致し方ないことだと、デイルは再び自分の思考の内に入っ
ていったのであった。
1412
因みに、当の毛玉ズたちが、素直に帰宅に納得している保証がな
いことを、デイルは失念していた。
あのヴィントの弟妹犬である。一筋縄ではいかなかった。
この直後﹃虎猫亭﹄内部では、全力で逃げる毛玉ズとデイルの夜
通しの鬼ごっこが開催されるのが、本当の余談であった。
1413
後日譚。白金の娘、森へ行く。壱。
最近のデイル−−というか、ヴァスィリオから戻って以降のデイ
ルは、毎日ごろごろだらだらしているという、駄目人間生活を謳歌
していた。
一方ラティナは、彼女らしく、毎日くるくると忙しそうに働き続
けている。療養期間中の儚げな姿は、すっかりそこから払われてい
た。やはり、多少忙しい方が彼女にとって良いらしい。
﹁何だか、一見すると、ラティナに養われているみたいよね﹂
﹁ラティナなら、俺がヒモになっても、平気で養っていきそうだよ
なぁ﹂
答えながらデイルは、リタが捌く大量の書類のうち、処理済みの
ものに穴を開けて紐で綴じていく。それは手伝いというよりも、暇
潰しの行動であった。リタにしてみても、デイルの視線はラティナ
を追っているので、複雑な仕事は任せることが出来ないのである。
アクダル
リタはそんなデイルに呆れながら、彼の前に処理済みの書類を積
み上げた。
﹁こっちは﹃緑の神﹄の神殿に提出する分だから、分けておいて⋮
⋮まあ、働く必要がないっていうのが、本音なんでしょうけど。新
居探しはどうなったのよ?﹂
﹁数年、休み無しで働いてたから、休業してるだけだって。⋮⋮そ
れなんだけどさぁ⋮⋮﹂
リタが言うのは、世界規模の英雄たるデイルが、﹃魔王退治﹄と
いう偉業を成したことによる結果であった。
しかもそれが、﹃二の魔王﹄、﹃四の魔王﹄、﹃七の魔王﹄とい
う−−﹃災厄﹄と呼ばれる魔王以外の魔王をデイルが討ったことは、
1414
表沙汰にはなっていなかった。私怨で魔王を襲った彼は、証拠を残
さず暗殺するという手段を取ったのだった−−複数の魔王である。
彼が得た報償金は莫大なものだった。文字通り、一生遊んで暮らせ
る額である。
元々デイルは、公爵直属の契約もあり、通常の冒険者とは比べも
のにならない収入を得ていた。
﹃森﹄で幼いラティナを拾って来たデイルが、彼女を自分が引き取
ると言い出した時、リタやケニスが止めることがなかったのも、デ
イルの経済力を知っていた為でもある。幼い彼女に、ぽこぽこ物を
買い与え、時に高価な魔道具を買っていたのも、デイルの懐具合が
温かい故であった。
そんなデイルに育てられたのだが、ラティナの金銭感覚は非常に
シビアな庶民的なものであったりする。当人の性格がよく出ていた。
デイルは、ちらりとラティナの様子を確認してから、少し声を潜
めてリタに答えた。
﹁今は、駄目だな。ラティナ、まだ本調子じゃねぇだろ?﹂
﹁⋮⋮そうね﹂
一瞬、声を詰まらせたリタも、同意する。
リタもずっとラティナを見てきた。女性であり、二人の子どもの
母親であるリタの視点は、デイルやケニスでは気付けないことに気
付くことが出来るのである。
﹁色々あったからなぁ⋮⋮だから今は、あんまり環境変えねぇ方が
良いかなって思うんだよ。家とかってのは、やっぱりラティナと一
緒に決めてぇしさ﹂
﹁本当に頑張り過ぎちゃうのよね、あの子﹂
リタは溜め息をついて、デイルを見る。
リタの表情には、明らかな心配があった。
﹁⋮⋮時間の解決に任せるのが、一番良いことなの?﹂
1415
﹁心の整理がついてないんじゃねぇかな⋮⋮﹃里帰り﹄の間もずっ
と気ぃ張ってたし。やっと落ち着けたって感じに、俺には見える﹂
故郷を罪人として追放されたラティナは、実姉が国主となった現
在のヴァスィリオでも、あまりあの場に良い感情を抱いていないよ
うに見えた。
実姉に迷惑を掛けまいと、必要以上に気を張っていた向きもある。
クロイツに帰って来て、﹃いつも通りの毎日﹄が戻って来たこと
に、本当に安堵しているように感じられた。
そんな彼女を、再び別の環境に追い立てたいとは思わない。
そんなデイルだったが、彼が現在仕事をしていないのは、経済的
な理由以外にも幾つか理由があった。
まずは、彼にとっての﹃仮想敵﹄であった﹃厄災の魔王﹄が、全
て駆除されたことだった。﹃勇者﹄としての業務は、今のデイルに
は発生しないのである。
更に、﹃魔族﹄となって基本能力が向上したことが大きな理由と
なっていた。
経済的に余裕のあるデイルが、頻繁に仕事を受けて﹃森﹄に入っ
ていたのは、鍛練の一環だった。筋力を始めとした肉体作りと維持、
剣や魔法の技術力の向上、そして危険な環境に身を置くことで、戦
闘などの勘を鈍らせることのないようにという、非常に生真面目な
行動であったのだ。
それが魔族化により、基本能力が底上げされたことで、能力が低
下することがなくなってしまったのだった。
戦闘の勘は多少鈍るかもしれないが、多少くらいは鈍っていてく
れた方が、世界平和の為であるとは、某魔王の談である。
そんなこんなで無理に働く必要のないデイルは、長期休業を満喫
1416
していたのだった。
働きたくない。というか、働く為にラティナの傍を離れたくなど
ないのである。
﹁暇なら、頼まれて欲しいんだが﹂
そこに、厨房から顔を出したケニスが声を掛けた。
﹁なんだよ?﹂
﹁最近独立した若手の冒険者連中に頼まれたんだが⋮⋮護衛の依頼
を受けてみようと思ってるんだが、経験が少ないので、指導して欲
しいと言われていてな⋮⋮﹂
﹁⋮⋮俺、護衛系統の依頼は、ほとんどやったことねぇぞ。それこ
そケニスのパーティーにいた時ぐらいだ﹂
故郷から出た直後のデイルは、ヴェン婆の眼鏡にかなったケニス
の元で冒険者としての経験を積んだ。
そこから独立して以降のデイルは、討伐任務を主として請け負っ
てきた為、護衛の仕事の経験はほとんどない。
﹁それが⋮⋮その冒険者連中とラティナが意気投合してな。護衛さ
れる方にも充分な実力があれば、多少危険な場所でも行けるんじゃ
ないかという話の向きになっていてな⋮⋮﹂
﹁そう簡単にはいかねぇだろ﹂
と、答えながらデイルの表情は別の意味で険しくなっていた。
ラティナが意気投合した冒険者なんて、いつの間に、という点で
ある。
自分の知らない間にラティナに近づくとはいい度胸だ。自分のし
たことを、よぉく思い知らせてやろう。なんてことに思考を傾けて
いた。
﹁ラティナなら、街の外に出たとしても⋮⋮一人でもなんとかなる
1417
んだ﹂
そうデイルが言ったのは、魔王としての恩恵がある彼女は、基本、
外敵に襲われて命を落とすなんて事態にはならない為である。元々
魔法使いとしての能力も高いラティナは、一人でもなんとか出来る
だけの能力があるのであった。
﹁下手な奴と一緒にいたら⋮⋮そっちのフォローに回ろうとして、
かえって危険だろ﹂
﹁だろうな﹂
ついでに、﹃森﹄の地図
不満そうなデイルの言葉を、ケニスはすんなりと肯定した。
﹁だからお前も付き合ってくれないか?
を作る為に情報を幾つか集めて欲しいって依頼もある﹂
﹁﹃森﹄の?﹂
﹁ヴァスィリオとの道を拓く為に、地図を作っているんだが、先方
の希望で、幾つか空白地帯になっている場所を調べて欲しいそうだ。
お前なら迷うこともないから、丁度良いだろう﹂
﹁まあ⋮⋮そうだが⋮⋮﹂
デイルは地属性魔法を得意にしている為、方向を見失って迷うと
いうことはない。
地形や道がわからない場所に踏み込む際、そういった魔法は非常
に威力を発揮するのだった。
﹁何の話?﹂
そこに、ひょこん。とラティナが顔を出した。後ろにはエマがべ
ったりと付いて歩いている。
﹁ラティナ⋮⋮﹂
﹁この間話していた、﹃森﹄の探索の話だ。デイルに付き添って貰
えれば問題ないだろう?﹂
ケニスがラティナにそう答えた瞬間、デイルは反射的に﹁やられ
た﹂と思った。
1418
案の定、ラティナが表情を明るくしてデイルを見る。ラティナに
そんな表情をされてしまうと、デイルのとるべき反応は一つに限ら
れていくのであった。
だが、ラティナの返答はデイルの予想外のものだった。
﹁あのね、﹃森﹄の探索は私からの依頼でもあるの﹂
﹁ラティナの?﹂
﹁デイルに直接頼んでも良かったんだけど、ヴァスィリオに関係あ
る話は、この店に来る冒険者のひとたちにも、たくさん関わって欲
しいから﹃依頼﹄ってかたちにしたの﹂
﹁⋮⋮フリソスからの依頼か?﹂
﹁うん﹂
いつの間にか、ラティナは姉と連絡を取っていたらしい。
アクダル
−−正確には、ラティナはフリソスと直接連絡は取っていなかっ
たが、シルビア経由で﹃緑の神﹄の神殿の情報網を使い、私的なや
り取りもしていたのだった。−−
﹁そこでね、丁度、護衛依頼を受けてみたいってひととお話になっ
てね﹂
﹁いつの間に⋮⋮﹂
﹁ジルさんに頼まれたの。私とあんまり歳も変わらないから、﹃虎
猫亭﹄の中で気にかけてくれって⋮⋮﹂
ラティナはそう言ってから、渋い顔のデイルを見て、少し考え込
んだ。
そしてこう言った。
﹁女の子だけのパーティーだからだよ?﹂
その一言で、劇的にデイルの機嫌は回復したのであった。
1419
後日譚。白金の娘、森に行く。弐。
その一言でデイルも、納得する。
女性の冒険者というのは、護衛の依頼の需要が非常に多いのだ。
護衛を必要とする依頼人が女性である場合、やはり外見が厳つく
粗野な男性の冒険者であると、どうしても萎縮してしまう。また、
冒険者自体、全てが品行方正という訳にはいかない。護衛として雇
った筈の者に、性的な意味も含めて襲われたなどという事態を避け
る為には、人品の見極めが重要となるのだが、なかなか初対面でそ
れというのも難しい。
それらの問題も、護衛を請け負うのが女性であれば、多くが解決
する。
また冒険者側も、魔獣の討伐や採取の依頼よりも、護衛の依頼の
方が需要があるだけあって、実入りが良くなるのだ。
駆け出しの若手が、今後を見込んでスキルを身に付けたいと望む
のは、むしろ向上心があると評価するべき行動だった。
﹁冒険者はじめてしばらくは、ジルさんが紹介したパーティーの下
で、採取とか小型の魔獣退治のお仕事してたんだって﹂
その女性のパーティーと面識のあるラティナが、デイルに説明を
続けた。
﹁駆け出しの定番の仕事だな﹂
﹁ジルさんもそう言ってた。武器や道具の基本的な使い方や、お仕
事の受け方や報告の仕方⋮⋮私がデイルと旅に出るとき教えてもら
ったことと似ているなって思ったよ﹂
﹁夜営や旅の仕方ってのも、どうしても必要になることだからな⋮
⋮冒険者なんて言っても、駆け出しの奴は、ついこの間まで街や村
1420
の中しか知らない奴ばかりだしな﹂
デイルに言われて、ラティナも頷いた。
﹁それでね。一通りは教えてもらったって、﹃独り立ち﹄したから、
今後は自分たちだけでお仕事することになったんだって。だけど女
の子たちだけだと、どうしても絡まれたりすることもあるから、私
に気にかけて欲しいって、ジルさんが﹂
﹁あー⋮⋮﹂
ラティナは、﹃虎猫亭﹄を利用する冒険者たちの中で、ベテラン
と若手たちとの間の緩衝材の役割を担っていた。
皆のアイドルたる彼女の前では、ベテランのおっさんどもも若手
も、良いところを見せたくなる心理が働く。結果、衝突やトラブル
は減り、相互互助が働くという状態になっていた。
元々店主が女性のリタであるこの店は、女性の冒険者にとって利
用しやすい店である。そこにラティナの存在が加わることで、女性
に対する環境はだいぶ良い状態になっているのだった。
そんな会話を経て、ラティナはデイルを伴い、久しぶりにクロイ
ツの外へと出掛けることになったのだった。
ヴァスィリオへ行っていた件は、意識のない間に運搬されていた
ので、彼女的にはノーカウントなのである。
﹁本当に久しぶり。やっぱり、なかなか街の外には出ないねえ﹂
南門からクロイツの外に出たラティナは、そう言って、くるりと
回ってみせた。
年齢よりも幼い印象のそういった仕草が出る時のラティナは、浮
かれてはしゃいでいる証拠なのである。
デイルにとっては初対面である女性の冒険者たちは、アデリナ、
エルヴィーラ、パウラという名の三人組のパーティーだった。戦士
1421
職が二人で後方支援が一人であり、初級といえど魔法を扱えるメン
バーが含まれている。
ラティナと同年代ということも、まだ若干の幼さが表情に残って
いることからもわかる。
デイルは黒いコートと左手の籠手、武器は剣とナイフといういつ
も通りの装備だが、今日は近場の﹃森﹄に行くとは思えないほどの
荷物を負っていた。
普段着の上にケープを羽織っただけのラティナは、そんなデイル
に不思議そうな顔を向ける。
日帰りにしないで、夜営の様子も見る。そうす
﹁大きな荷物だけど⋮⋮﹂
﹁訓練なんだろ?
ると、どうしても荷物は嵩張るからな﹂
﹁運ぶの手伝おうか?﹂
﹁大丈夫だぞ。気にするな﹂
出発直後から、仲の良いところを必要以上に見せられた面々は、
微妙な表情になっていた。
﹃虎猫亭﹄では周知のこととはいえ、お腹いっぱいな光景である。
戦士職のうちの一人、三人組のリーダーであるパウラを先行させ、
その後に魔法を扱え後方支援を担うアデリナが続く。デイルとラテ
ィナを間に挟んで、もう一人の戦士職エルヴィーラが殿を務めた。
デイルから見て、三人組はがちがちに緊張している。
思わず苦笑が漏れる。いくら不慣れな仕事とはいえ、この状態で
は長く持たないだろう。どこかで気を抜く必要も教えなければ、な
んてことを考えた。
︵まぁ、そのへんはラティナに任せれば良いかなぁ︶
ラティナの場を和ませる天性の能力は、特技の域に達している。
三人が緊張する理由に、現在進行形で英雄と讃えられている存在
が控えていることが含まれていることは、デイルは全く意識してい
1422
なかった。
デイル自身に、自分が﹃英雄﹄である自覚がほとんど無いのであ
る。
ラティナは跳ねるような足取りになっている。如何にも楽しげだ
った。デイルは、ラティナの注意散漫なそんな浮かれっぷりには注
意をしようとしない。
護衛対象が、注意深く警戒して歩むとは限らないからである。
決して、はしゃぐラティナを眼福と、愛でていた訳ではない。
﹁天気が良くて良かったね﹂
﹁訓練としたら、悪天候も視野に入れるべきなんだけどな﹂
そう言って歩むラティナは、自分の目の前にいるアデリナに笑顔
を向ける。
﹁アデリナの荷物も大きいね。大丈夫?﹂
﹁私は近接戦闘は出来ないから。二人は咄嗟の時に、荷物を捨てて
戦闘に入ることになるし﹂
﹁そっか⋮⋮前、デイルと旅に出た時は荷物は馬で運んでたけど、
そういう訳にもいかないもんね﹂
﹁馬車で荷運びするようなひとたちには憧れるけど、仕事の内容に
よっては難しいからね﹂
アデリナとラティナの会話をする様子から、二人はそれなりに親
しい関係であることが見て取れた。そんなデイルの視線に気付いた
のか、ラティナは彼を見上げて微笑む。
﹁アデリナは、簡易式の回復魔法と防壁の魔法が使えるんだよ。で
も、発動が安定しないって相談受けたりしてたの﹂
﹁簡易式でも魔法を教わろうって思えば、謝礼がかなりかかるんだ
けど⋮⋮ラティナはそれも良いって言うから﹂
﹁一から教えるのは、それを教える人の領分だと思う。でも、私が
したのはちょっとしたアドバイスだし。ローゼさまからの受け売り
だったりするし﹂
1423
その発言を聞きながらデイルは、ローゼは神官としてだけでなく
アスファル
魔法使いとしても、公爵閣下がラーバンド国でも有数の人材として
認める人物なのだということを考えていた。﹃黄の神﹄の高位の神
官である恩師も含めて、期せずしてラティナには望んでも得られぬ
ような人びとに師事させてきたのだななんて微妙な心持ちになった
りする。
ともあれ、そんな風に同年代の少女が雑談をしながら歩む姿は、
長閑な風景とも相まって、ピクニックのような穏やかな光景に似て
いた。先頭を歩むパウラはリーダーとしての気負いがあるのか、緊
張は抜けきっていないようだったが、全体としては肩の力が抜けて
きている。悪くはない傾向だった。
ふと、気配を感じてデイルは隣を見る。殿を勤めているエルヴィ
ーラがさっきまでよりも一歩近い距離でデイルを見ていた。
パウラとアデリナよりも長身のエルヴィーラは、その分デイルと
視線が近い。男性と見違えるほど素っ気ない風貌のパウラとは異な
り、女性らしい色気のようなものを備えていた。彼女は、少ししな
を作って、デイルを見る。
﹁デイル様は、今の私たちより若い頃から冒険者として過酷な依頼
も受けてらっしゃたんですよね﹂
﹁⋮⋮いちいち依頼者相手に媚びを売るような真似してたら、冒険
者としてはやっていけねぇぞ﹂
エルヴィーラの仕草が、意図的なものであることを見抜ける程度
にはデイルは冷静であったし、これだけ年下の小娘相手にしてやら
れるような、場数の踏み方はしていなかった。
エルヴィーラは、デイルの反応に、残念半分安堵半分のような表
情をした。
憧れの英雄像に落胆しなくて済んだという感情が、その表情から
1424
余計な力を抜く。
﹁処世術です。パウラはあんなだし。やっぱり相手はこっちを女だ
って見るから、それを利用してやるぐらいでいないとやっていけな
いので﹂
﹁⋮⋮うまく立ち回ってるつもりかもしれねぇが、甘く考えるなよ﹂
﹁ご忠告ありがとうございます﹂
長くラティナの﹃保護者﹄をやって来た影響から、デイルは年齢
以上に﹃保護者﹄としての視点と立ち位置に立つ習慣が染みついて
いた。
ケニスが﹃安全な監督役﹄として太鼓判を押すのが、名誉なのか
不名誉なのかは、判別しにくいほどのデイルの思考回路なのであっ
た。
1425
後日譚。白金の娘、森に行く。参
やがて、﹃森﹄が見えてきた。
クロイツが発展した理由の一つには、魔獣の生息域であり、多く
の資源を有するこの﹃森﹄を目当てにした多くの冒険者たちを集め
てきたことも大きく影響している。
﹁ケニスの話じゃ、ヴァスィリオとの国交を開始する際には、この
中に道を拓く予定だって言うんだけどな﹂
﹁ヴァスィリオは、この﹃森﹄と砂漠で、他の国とは隔絶した環境
にあるから。フリソスは、いずれは砂漠の向こうに港も作りたいっ
て言ってたけどね。まずは、ラーバンド国との間のここを開発する
ことが最優先だって言ってた﹂
﹁今までは、獣道しかねぇからな⋮⋮その道も、きっちり地図に起
こされてたわけじゃねえしな﹂
﹁それでも、﹃虎猫亭﹄の常連のお客さんの協力もあって、大まか
アクダル
な地理は把握できてるんだって。ヴァスィリオまで踏破した時のこ
とは、﹃緑の神﹄の神官が同行してたから、詳細な記録が残されて
いるみたいだし﹂
アクダル
そういった記録は、﹃緑の神﹄の神殿にとって運営費の一部とな
る、大変重要な収入源なのであった。
﹁じゃあ、改めて欲しい情報ってなんだ?﹂
﹁⋮⋮だからね、今回のお仕事は、私とフリソスの個人的な依頼で
もあるんだよ﹂
そう言って少し寂しげに微笑んだラティナは、一同の前に、﹃森﹄
の様子がざっくりと大まかに描かれた地図を広げた。
その中の一角、ヴァスィリオとクロイツを、ほぼ最短距離で結ぶ
1426
道である歪な一本線から、少しそれた辺りを指す。
﹁デイルと初めて会ったところ、ここらへんだよね﹂
﹁ん? ああ﹂
﹁フリソスが知りたいのは、そのあたりのこと。私とラグが通った
ところ⋮⋮私も全部を思い出すことは出来ないけれど。フリソスは、
私とラグが別れた後にどんな風にラーバンド国まで来たのか、知り
たいんだと思う﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
意図的にデイルは明るい声で答えた。
それは、ラティナにとっては父親と死に別れた記憶を辿ることで
あり、故郷を追放された当時の辛い思い出に触れる行為でもある。
それでも過去にまつわる心の整理をしたラティナは、その記憶と
も向き合うだけの決心も付けたらしい。
そんな風に彼女のことを思ってデイルは、ラティナがこのタイミ
ングでこの調査をすることを決めた理由を、はっきりとは聞き出そ
うとしなかったのだった。
とはいえ、もうお互いに隠しごとをしないで話し合うと決めたラ
ティナは、デイルにしっかりとその理由も告げたのである。
ただ、彼女は天然娘だった。
時に、場やら何やらを読まない故に、天然は天然なのである。
それを読めるのは、天然の振りをした養殖ものなのである。
ラティナが爆弾を落としたのは、夜営の天幕の中でのことだった。
その時、天幕の中にいるのは、ラティナとデイルの二人だけだっ
た。
かつてデイルが故郷での旅の中で天幕を張らなかったのは、見張
りの人員を確保することが出来ないからだった。視界が妨げられる
環境下で、迅速な現場の離脱が出来ない状況は避けたいという判断
1427
故である。
だが、今日は外に見張りをする面々がいる。そういった気を遣う
必要はない。
自分たちだけが天幕を使うことに申し訳なさそうな表情をしたラ
ティナも、自分が護衛される依頼者である事実と、天幕を運搬して
いたのがデイルであったことから特に何かを言うことは無かった。
食事の用意をしたのはラティナだったが、その頃には、それに反
応できないほどに三人組は疲れ切っていた。
﹃森﹄に入って以降の三人は、周囲に気を張り続けていたのだ。疲
労困憊するのも致し方無かった。
ずっと自然体でいるラティナの肝の方が、尋常でないほどに太い
のである。
﹁まあ。護衛の仕事は、魔獣やら何やらに勝つことじゃねぇ。自分
たちの手に余ると判断したら、退却を選ぶことも必要だ﹂
夜営に至るまで、魔獣と遭遇する度に、デイルはそんな風に三人
に声を掛けていた。
今まで小型の魔獣退治くらいしかしてこなかった少女たちにとっ
ては、﹃森﹄の奥に生息する中型、大型の魔獣は、正直言って相対
するだけで身がすくむ恐ろしい存在である。
だからといって、それら全てと戦う必要も無い。
護衛の仕事はあくまでも依頼者の安全を守ることであり、敵を殲
滅することではない。
だが、そんな魔獣をずっと警戒してきた彼女たちの精神はどんど
ん疲弊していった。
直接的な戦闘はほとんどなかったが、疲れ果ててしまったという
のが、今現在の状態である。
食事を終えた後で早々にデイルがラティナと共に天幕の中に引っ
込んだのも、疲れ果てた三人を気遣ってのことである。
1428
監督者にずっと見張られた状態では、気も休まらないだろうとい
う気遣いなのであった。
決して、二人きりの甘い時間を過ごしたいなどと言う理由ではな
いのである。
こっち
そんな経緯を挟んだ後、天幕に入って直ぐにラティナは爆弾を投
下したのであった。
﹁あのねデイル﹂
﹁ん? なんだ?﹂
﹁フリソスね、近いうちにラーバンド国に来るって言ってたの﹂
吹いた。
いきなりの国家機密に相当する発言である。デイルが吹くのも致
し方ない。
そんなデイルの様子も気に留めず、ラティナは言葉を継いだ。
﹁前、フリソス、ラグのお墓参りもしたいって言ってたから⋮⋮こ
うやって調べるのも、その為なんだと思うの﹂
﹁簡単なことじゃ⋮⋮ねぇんじゃかな⋮⋮?﹂
冷や汗交じりのデイルの様子には気付かずに、ラティナは、少し
だけ首を傾けた。
﹁ラーバンド国との本格的な国交開始までには、まだまだ時間がか
かるって﹂
﹁そりゃあ、そうだよな⋮⋮﹂
﹁でもね、ローゼさまとかと話をしてる間で、ヴァスィリオとラー
バンド国は、あまりにも生活様式が異なるから、このままではラー
バンド国の国使をもてなす方法もわからないって結論になったみた
いで⋮⋮とりあえず少数で、ラーバンド国の風習とかやり方を学び
に来ることになるみたい﹂
﹁だとしても、そこで国主は普通出て来ないと思うぞ﹂
﹁ヴァスィリオで﹃西方大陸語﹄が一番使えるの⋮⋮フリソスだか
ら﹂
1429
ラティナはそう言っているが、あのシスコン魔王のことである。
妹に会う機会を早急に整えたに決まっていた。
理由なんて後付けに決まっている。
そんなことを考えるデイルは、常々、フリソスの自分に対する発
言が酷いと言っていたが、そういう彼も、フリソスへの評価が充分
に酷かった。
どっちもどっちであった。
﹁難しいだろうけど、ちょっとだけでも会えたら嬉しいな﹂
そう言って微笑むラティナの発言は、ある意味では常識的である。
国家の要人として他国を訪問するフリソスは、普通に考えれば、
市井で暮らすラティナと出会う機会はない。
︵でも、絶対、会う機会作るんだろうな⋮⋮︶
デイルが内心で冷や汗をかく理由は、それは確実に、ラーバンド
国の上層部も知る事実であるからだった。フリソスがこの国を訪れ
た際には、絶対にラティナは王都に招集される。
そのまま、社交界にヴァスィリオの妹姫として御披露目されるこ
とになるかもしれない。
その時、自分は、どの立ち位置にいるのだろうか。
デイルはため息をついて、ラティナを抱き締めた。
ラティナがきょとんとするのも気にせず、抱擁に力を籠める。終
わりが見えてきた休養期間である。目一杯楽しまなくてはならない
と理由を付けた。
﹁デイル?﹂
﹁んー⋮⋮そういや、聞きたかったんだけどさ、ラティナ﹂
﹁何?﹂
1430
﹁ラティナは、俺に、異性を紹介するのとかって、なんとも思わな
いのか?﹂
﹁え?﹂
ぱちくりと、大きな灰色の眸をまたたかせたラティナは、驚いた
ような顔でデイルを見た。
子どもの頃から、友人を﹃保護者﹄であるデイルに紹介してきた
が、今までそんなことを聞かれたことはない。
﹁アデリナたちのこと?﹂
﹁俺に、自分以外の女の子が近付くの⋮⋮平気なのか?﹂
デイルの問いかけには、揶揄う響きがある。
だからそれほど深刻にもならないまま、ラティナは言われたこと
を考え込んだ。
ラティナは、それなりに嫉妬したり、焼き餅をやいたりする方で
あると、自分のことを認識していた。
それは、彼女の自己評価が低いことも影響している。
それでも同時に、ラティナは、デイルを信頼してもいたのである。
﹁だって、デイルがアデリナたちのこと、そういう風に見てないっ
てわかるもん。それに⋮⋮﹂
だか、何かを言い掛けたラティナは、そこではっとしたように口
を押さえた。
デイルから、視線を逸らし、そのまま黙る。
﹁それに?﹂
﹁⋮⋮なんでもないよ﹂
﹁それは、何でもない態度じゃないな﹂
﹁私は、デイルのこと、疑ってないの。本当なの﹂
そう言って汗をだらだらとかくラティナは、明らかに挙動不審と
なっていた。
﹁⋮⋮そういや前、俺とフリソスの仲が良いって、焼き餅やいてた
1431
な﹂
それはヴァスィリオでの出来事である。
悪巧みで意気投合する二人の姿に、ラティナは、二人の仲が非常
に良いと、小さな焼き餅をやいたのだ。
デイルの一言は、ラティナにとって図星であったらしく、彼女の
狼狽は激しくなった。
焼き餅をやいた結果に起こったことは、ラティナにとって、赤面
しつつも冷や汗をかくという、複雑な状態になる出来事なのである。
それは、ラティナの疑念を晴らすべく、この残念勇者が取る行動
というのは、限られている為の結果なのであった。
﹁やいてないのっ⋮⋮焼き餅とか、やいてな⋮⋮﹂
﹁あのなラティナ。全く焼き餅とかやいてくれないのも、こっちと
それじゃ、どうしたら良いの⋮⋮っ﹂
しては残念なんだぞ?﹂
﹁⋮⋮っ!
もちろん天幕というものに、まともな遮音性はない。
だんだん声が高くなった結果、だだ甘ぶりを垂れ流し−−外部に
死んだ目の三人組を並べているということには、ラティナは全く気
付いていないのであった。
デイルに至っては、気付いていても気にしないという、更に酷い
状態なのだったりするのである。
1432
後日譚。白金の娘、森に行く。参︵後書き︶
因みにラストのシーンは、痴話喧嘩にもならないじゃれあいを垂れ
流しているだけです。﹃夜想曲﹄や﹃お月様﹄対応のシーンにはな
っておりません。
1433
PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n5530cf/
うちの娘の為ならば、俺はもしかしたら魔王も倒せるか
もしれない 。
2017年3月25日08時04分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
1434
Fly UP