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翻訳の限界について -中日対訳をめぐって-
翻訳の限界について -中日対訳をめぐって- 氏 名:謝 開 指導教官:陶振孝 2006 年 12 月 論文要旨 キーワード:翻訳の限界 中日対訳 言語的限界 文化的限界 言語転換の障害 翻訳の可能性について従来いろいろな研究がなされてきた。翻訳が可能であ ろうかと疑問を抱く人はいる。しかし、翻訳というものが二千年前からすでに 存在し、今日に至るまで絶えず続けられてきた。この事実により翻訳が可能で あるとういう結論に達したのではなかろうか。ところが、すべての翻訳が可能 というわけでもない。つまり、翻訳には限界がある。翻訳の限界については中 英対訳の角度から、或いは日英対訳の角度から論述するものは尐なくないが、 中日対訳の角度から論じるものはめったにないのである。そこで、本稿では中 日対訳の角度から翻訳の限界について考察した。 本稿では四つの部分に分けて、翻訳の限界について論述した。 第一章では「翻訳の限界」に関する先行研究を紹介した。John Catford の 説を西洋の代表的な翻訳理論としてあげ、刘宓庆の説を中国の代表的な翻訳理 論としてあげた。この二つの研究はそれぞれ価値があり、参考になるところが 多いが、言語転換時に障害となる要素に対する分析はまだ不十分なところがあ り、中日対訳の場合に適用していないところもある。 第二章では言語的側面から翻訳の限界について分析した。まず、音、形によ る障害について論述した。音、形による障害というのは音、形による原語の特 殊な表現効果を目標言語に転換できないということである。中国語と日本語の 音、形と意味のつながりに特性があるため、言語転換時に、一般的には意味の 転換はできるが、音、形による特殊な表現効果は転換できない。掛け言葉と早 口言葉の翻訳を音、形による障害の例として具体的に分析した。 次に、慣用法による障害について考察した。慣用法は各民族の文化背景や民 族心理などの要素とかかわるため、必ずしも文法とロジックに従うとは限らな い。それゆえ、慣用法は各言語によって異なり、言語転換の障害になる可能性 がある。本稿では連語法と慣用語の翻訳を分析することによって、慣用法に関 する文を翻訳するとき、表層意味が喪失されやすいということを明らかにした。 1 最後に、表現の違いによる障害について分析した。表現の違いによる障害は 比較的に多いが、本稿では中国語と日本語の表現の主な違いに基づき、三つの 方面に分けて、それぞれ論述した。一つ目は日本語の受身文が比較的に多いの に対し、中国語には受身文がそんなに多くないということである。二つ目は日 本語には控えめな表現や曖昧な表現が多いのに対し、現代中国語では明確な表 現を好む傾向があることである。三つ目は日本語の敬語表現が複雑であるのに 対し、中国語の敬語表現ははるかに単純であることである。中国語と日本語の 表現はこのように異なるため、中日対訳時に、原語の独特の表現によって表さ れる感じやニュアンスが喪失される場合が多い。 第三章では文化的側面から翻訳の限界について分析した。まず文化空白によ る障害を歴史、風習、その他という三つの部分に分けて、それぞれ論述した。 一つの文化にあるものはもう一つの文化にないという文化空白が存在する場 合、目標言語には原語に対応する等価物がないのである。この場合、目標言語 で原語の文化について解釈するしかなく、本当の翻訳が実現できるとは言えな い。 文化空白と違って、文化差異というのは民族の文化によって同じことに対す る認識が違うことである。この場合、原語をそのまま目標言語に直訳すれば、 意味が変わってしまい、誤解を招きやすいのである。それゆえ、原文に隠され る深層意味を目標言語で表現するのは一般的である。そこで、原語の文化意味 が喪失される。本稿では中国人と日本人が数字、色に対する認識の違い、呼び 方とあいさつの違いを分析することによって、文化差異が言語転換の障害をき たすということを明らかにした。。 第四章では翻訳の限界の原因について考察した。翻訳に限界がある原因とな るものは主に三つある。一つ目は国によって存在する現実世界が違うことであ る。二つ目は思惟方式によって現実世界を表現する言語手段が違うことである。 最後の原因は国家の交流がまだ不十分であることである。 以上のように、本稿では中日対訳時に、言語的限界と文化的限界が客観的に 存在することを検証した。翻訳の限界に関する研究、そして中日対訳の実践に 尐しでも示唆を与えることができれば幸いだと思われる。 2 目 次 序章 ............................................................... 4 第一章 先行研究 ................................................... 7 第一節 JOHN CATFORD の説 ......................................... 7 第二節 刘宓庆の説 ............................................... 9 第二章 翻訳の限界――言語的側面から .............................. 12 第一節 音、形による障害 ........................................ 12 第二節 慣用法による障害 ........................................ 17 第三節 表現の違いによる障害 .................................... 20 第三章 翻訳の限界――文化的側面から .............................. 29 第一節 文化空白 ................................................ 29 第二節 文化差異 ................................................ 32 第四章 翻訳の限界の原因 .......................................... 38 終章 .............................................................. 40 謝辞 .............................................................. 42 参考図書 .......................................................... 43 参考論文 .......................................................... 43 例文出典........................................................... 42 3 序 章 翻訳をする時、思うように訳せないことが多い。その原因はどこにあるであ ろうか。もちろん翻訳する目標言語能力の問題もあるが、それだけではないと 考えている。翻訳理論に関する本を読むことを通じて、翻訳に一定の限界があ るということが分かるようになった。どうも面白い問題だと思い、それについ て究明していきたい。そこで、本稿では中日対訳の角度から翻訳の限界につい て分析していきたい。 翻訳の可能性について従来いろいろな研究がなされてきた。翻訳が可能でろ うかと疑問を抱く学者がいるが、翻訳が可能であることを認めるのが主流であ る。ロシアの言語学者のロマーン・ヤーコブソン(R﹒Jakobson)は「すべて の認識上の経験および区分は現存のすべての言語により表現できる。欠陥があ る場合、借用言葉、借用翻訳法、新しい言葉の作り或いは語義の転換などの方 法により、万一の場合、紆余曲折という方法もあり、言葉を修正や拡充できる。 (所有认识上的经验及其区分,都可以承载在现存的任何语言中。如有缺陷之处, 那么可以通过借用词、借用译法、新造词或语义转换,最后还可以通过迂回曲折 的办法,使词语得以修整或扩充)」1と論述し、翻訳が可能であることを表明し た。 また、成瀬武史は『翻訳の諸相――理論と実際』の中で翻訳可能性の基盤は 以下のようであると指摘した。 (1) 人間の経験および意識内容の類似性 人間の経験の中核をなす要素の存在と、その経験について語る方法の存在 は、経験と言語運用の主体が人間という共通の生物学上の種である以上、否 みがたい事実である。 (2) 言語による伝達手段の類似性 (a) どの国語にも経験および意識内容に対応する語が存在する。 (b) 一つの国語を話せる者は他の国語を習得することができた。 1 沈苏儒(2000)より再引用 4 (c) 言語表現に用いられる文の基本的な構造には類似性がある。 上の認識から見れば、また翻訳は人類が長期にわたる文化活動であり、社 会実践でもあるという事実から見ても、翻訳が可能であると認識してもよいと 思われる。 ところが、すべての翻訳が可能であるというわけではない。アメリカの言語 学者の E・A・ナイダが 1991 年に翻訳の可能性について「可能と不可能」をテ ーマに論文を発表した。この論文の中で、「翻訳が可能である同時に不可能で もある」と指摘した。E・A・ナイダは言語と文化の共通性を分析した上で、 その共通性があるからこそ翻訳が可能であると指摘した。しかし、「完全な翻 訳」ができない場合もある。言語が百パーセントに思想と現実を表現できると いうわけではない。また、訳者が読者の理解能力と知識範囲を予測できない。 文化差異が存在する場合は特にそうである。そのほかに、言語自身の「視差」 の問題もある。つまり、言葉や表現の中に「誤差」或いは不一致がある。E・ A・ナイダがこの文章ではマクロな視点から言語と文化の本質を分析すること によって翻訳の可能性について論述した。結論から言えば、翻訳が可能である。 しかし、最適な自然相当物に翻訳できるが、完全な翻訳ができない場合がたく さんある。 また、ドイツの言語学者の Wolfram Wilss は翻訳の可能性について以下の ように説明した。「テキストが翻訳できるというのは文法や語義や自然ロジッ クなどの面で普遍的なカテゴリーが存在しているからである。もし訳文が原文 に及ばない場合、目標言語が文法や語彙の面では不足しているのではなく、訳 者がテキスト分析及び言語の総合的な把握が上手にできないからである。(中 略)いろいろな手を尽くしても原語と目標言語が機能上では対応できない場合 を「翻訳の限界」と言う。(一个文本(text)的可译性是由于在句法、语义及 经验的自然逻辑等方面存在着普遍的范畴。如果译本在质量上达不到原本,原因 往往不在于移入语在句法和词汇上的不足,而在于译者对文本分析及语言群体在 表达方式上的出神入化缺乏掌握的能力„„我们只有在对译入语用尽了各种法 5 子而在原语与译入语之间仍然达不到功能对等时,才能说“不可译”)」2 以上のように、翻訳が不可能であると主張している人もいるが翻訳は可能で あるが、ただ一定の限界があるということは認められている。筆者はこのよう な見方にとても賛成する。翻訳の可能性の問題を考察するには弁証法的な考え 方が必要であると思われる。各言語の間に言語転換ができる場合が圧倒的に多 いため、翻訳活動が正常に行うことが可能なのである。しかし、翻訳が可能で あるということは絶対的ではない。言語転換の時、いろいろな障害が存在する ため、翻訳の可能性を制限したのである。翻訳の可能性を制限したのは言語的 な要素と文化的な要素であり、それぞれ翻訳の言語的限界と文化的限界の原因 となる。そこで、本稿では言語的側面と文化的側面から言語転換の障害となる 要素を分析することによって、翻訳の限界について論述していきたい。 翻訳の限界については中英対訳の角度から、或いは日英対訳の角度から論述 するものは尐なくないが、中日対訳の角度から論じるものはめったにないので ある。そこで、本稿では先行研究を踏まえ、中日対訳の角度から翻訳の限界を 言語的限界と文化的限界に分けてそれぞれ具体的に分析したい。 以下は四章に分け、翻訳の限界を論じたい。第一章では「翻訳の限界」に関 する先行研究について説明する。第二章では言語的側面から翻訳の限界を考察 する。それぞれ音、形による障害、慣用法による障害、表現の違いによる障害 という三つの面から論述する。第三章では文化的側面から翻訳の限界について 考察する。文化空白と文化差異という2つの方面から翻訳時にどのような障害 があるかを具体的に分析する。最後になぜ翻訳に限界があるかという原因につ いて分析していこうと思う。 2 同1 6 第一章 先行研究 「翻訳の限界」に関する研究は尐なくないが、本章では主に John Catford3、 刘宓庆4という二人の学者の説について紹介する。その中で John Catford の説 は西洋の影響深い翻訳理論として知られ、広義的に「翻訳の限界」について解 釈した。刘宓庆の説は中国の代表的な翻訳理論として挙げられ、中英対訳の角 度から言語転換時に障害となる要素を分類し具体的に分析した。 第一節 John Catford の説 John Catford は『翻訳の言語学理論』の中で「翻訳の可能性」について以 下のように論述した。 「翻訳の可能性は確か明確な二分ではなく、クライン(cline)のようであ る。原語テキストの翻訳は絶対的に可能或いは不可能であるというわけではな く、ある程度可能なのである。完全翻訳の中の翻訳等価関係は同じ言語環境の 中での原語と目標言語のテキストの互換性による。すなわち、最終的には原語 と目標言語のテキストが言語環境実体と共通している関連特徴の関係による のである。(Translatability here appears, intuitively, to be a cline rather than a clear-cut dichotomy. SL texts and items are more or less translatable rather than absolutely translatable or untranslatable. In total translation, translation equivalence depends on the interchangeability of the SL, and TL text in the same situation—ultimately, that is on relationship of SL and TL texts to( at least some of ) the same relevant features of situation-substance.)」。 そこで、「機能上関連の言語環境特徴を目標言語テキストの言語環境で表せ ない場合、翻訳が不可能である。或いは翻訳の限界と言うのである。 (Translation fails—or untranslatability occurs—when it is impossible to build functionally relevant features of the situation into the contextual meaning of the TL text.)」というふうに 3 John Catford(1917~):二十世紀のイギリスの言語学者、翻訳理論家。 刘宓庆(1939~) :北京大学卒業。ニューヨーク州立大学研究学院で言語学及び言語教育 学を専攻していた。長期的に翻訳理論を研究している。 4 7 John Catford は「翻訳の限界」について説明した。 John Catford は「翻訳の限界」を「言語的限界」と「文化的限界」に分類 し、それぞれ分析した。目標原語には原語と形式上では対応する特徴が存在し ない場合を John Catford は「言語的限界」と呼ぶのである。 「言語的限界」は 主に原語のテキストが多義性を持っている場合に発生する。原語の多義性は主 に二つの場合があると John Catford は指摘した。 「(1)原文の中で二つ或いは 二つ以上の文法単位或いは単語が同じ形式を使っている。 (2)原語の単位が多 義性を持っているが、目標言語に対応する多義性を持っている言葉がない。 (Ambiguities arise from two main sources, (1) shared exponence of the two or more SL grammatical or lexical items, (2) polysemy of an SL item with no corresponding TL polysemy.)」 「文化的限界」は「原語テキストの機能上関連の言語環境特徴は目標言語の 文化に存在しない場合(对原语文本功能上相关的语境特征在译语的一部分文化 中却不存在) 」である。John Catford は日本の「ゆかた」を「文化的限界」の 例として説明した。日本語の「ゆかた」は「旅館がお客さんに提供した長衣で、 帯で結び、室内で着ることも室外或いは喫茶店で着ることもでき、パジャマと し て も 着 れ る 」 も ので あ る 。 こ の 意 味 は英 語 の dressing-gown, bath-robe, night-gown, house-coat, pyjamas などの言葉を同時に使わないと表現できない。 なぜかというと、イギリス式の服には寝るときも外出するときも着れるものが ないからである。それゆえ、「ゆかた」という言葉は英語に訳せない。 John Catford は翻訳が可能であることを前提に、翻訳に一定の限界がある と認めている。その上、「翻訳の限界」について合理的に解釈しただけではな く、「言語的限界」と「文化的限界」に分類し、それぞれどのような場合に翻 訳の限界が発生するかについて具体的に説明した。しかし、John Catford の 説には不十分なところがあると思われる。主に以下の三点が考えられる。 1.言語的限界について、John Catford は原語テキストが多義性を持ってい る場合しか挙げなかった。しかし、言語的限界が存在する場合はほかにもある。 例えば、原語の音、形の独特の特徴が目標言語には存在しない場合、あるいは 8 原語の表現の特徴が目標言語には存在しない場合などがある。 2.文化的限界について、John Catford は理論的に分析するかわりに、例を 挙げることによって具体的に説明した。文化的限界の概念を説明するほかに、 文化的限界に対する理論的な分析はほとんどないのである。 3.John Catford が挙げた例は主に英語、ロシア語、フランス語に関連する ものである。たまに日本語も触れたが、中国語にはまったくかかわっていない。 それゆえ、中日対訳の場合に適用していない場合がある。 第二節 刘宓庆の説 刘宓庆は『当代翻译理论』の中で「翻訳の限界」について以下のように説明 した。 「翻訳は絶対的に可能であるというわけではなく、一定の限界がある。 言語の構造の各レベルでは情報をつながるルートが存在するというわけでは ない。そこで、有効転換の完全実現を制限したのである。いわゆる「翻訳の限 界」である。(可译性不是绝对的。它有一定的限度,在语言的各层次中并不是 处处存在着信息相通的通道,这就限制了有效转换的完全实现。这种种限制,即 所谓“可译性限度”。)」 そして、刘宓庆は言語転換の障害を「言語の構成による障害」、 「慣用法によ る障害」、 「表現による障害」、 「語義による障害」、 「文化による障害」に分類し、 それぞれ分析した。 「言語の構成による障害」というのは言語の構成或いは文体上の障害である。 刘宓庆は頭韻法という例を挙げ、この種類の障害について説明した。「Papa, potatoes, poultry, prunes and prisms, are all very good words for the lips; especially prunes and prisms.」という文でははじめの五つの単語は全部 P というアルファベットから始まり、頭韻法になっているのである。しかし、中 国語には頭韻法という修辞格がないため、言語転換ができないのである。 「慣用法による障害」を説明するために、刘宓庆はコロケーションと成語、 慣用語における障害についてそれぞれ分析した。コロケーションにおいて、 「中 英対訳の場合、主語と述語、述語と目的語、名詞と助数詞及び修飾の間のコロ 9 ケーションは言語転換時に翻訳の障害になる可能性がある。 (汉英主谓、述宾、 名词与量词以及偏正之间的搭配在转换中都可能产生可译性障碍。)」と刘宓庆は 指摘した。また、「英語と中国語の成語は言語転換時に意味が喪失されること は普遍的である。(英汉成语在双语转换中都普遍存在各种意义丧失。)」とも論 述した。 「表現という問題は幅広い範疇或いはシステムであり、検討する価値がある。 (表达法是一个很广泛的范畴或系统,很值得多加探讨。)」と刘宓庆は指摘した。 ここでは主に「肯定と否定」、 「主動と受動」 「形象性と非形象性」 「形態表意と 語彙表意」「重心と構造」という五つの問題について分析した。 「語義による障害」について、「英語の語義と思惟表現方式が比較的に抽象 的で曖昧であるため、語基の形態の制限がなく、言語環境に対する対応性が比 較的に大きいのである。それに対し、中国語の言葉は「音」、 「形」、 「意味」と いう三つの要素を結びつける漢字からなっているため、語義が「形」と「意味」 と関連がある。したがって、中国語の語義は具体的ではっきりしすぎる場合が あり、言語環境に対する対応性が比較的に小さいのである。この差異が存在す るため、具体的な文脈の中で、二つの言語の間に語義による障害がある場合が 多い。 (英语词义与思维表述方式比较灵活、抽象、含糊,不受语素形态的约束, 对语境的适应性较大;汉语词语由“音”、 “形”、 “义”三维结合的汉字构成,因 此词义往往受语素“形”与“义”的约束,因此汉语词义有时过于执着、具体、 明确,以致流于凝滞、偏窄,对语境的适应性较小。由于存在以上差异,因此在 具体的上下文中,双语之间常常出现语义表述上的障碍。)」と刘宓庆は論述した。 最後に「文化による障害」について、「異なる文化の間は共通性が相対的で あり、差異が本質的である。したがって、言語転換時に、文化を翻訳する可能 性が相対的であり、限界が絶対的である。翻訳する時、文化による障害が存在 しない可能性がないのである。(不同文化之间的共性是相对的、广泛的,差异 是本质的、深刻的。因此,在语际转换中,文化的可译性是相对的,可译性限度 是绝对的,翻译中不可能不存在文化障碍。)」と刘宓庆は指摘した。 刘宓庆は翻訳の限界があることを認め、中英対訳の角度から言語転換時に障 10 害となる要素を五つの種類に分類し、それぞれ例を挙げ、具体的に分析した。 このような「翻訳の限界」に関する研究方法が有効的であり、非常に参考にな ると思われる。しかし、刘宓庆の説は言語的な要素に関する分析が細かく詳し いのに対し、文化的な要素に関する分析が尐なく足りないのである。それに、 言語的な要素に関する分析は中日対訳の場合に適用していないところがある。 例えば、「語義による障害」に関して、刘宓庆は語義による障害が発生する原 因は中国語と英語が言語環境に対する対応性が違うことであると分析した。な ぜ中国語と英語が言語環境に対する対応性が違うかというと、英語は語基の形 態の制限がないのに対し、中国語は漢字という語基からなっているからである。 しかし、日本語も中国語も漢字からなっているため、刘宓庆が指摘した中国語 と英語の間に存在する言語環境に対する対応性の差異が中国語と日本語の間 には存在していない。 以上のように、John Catford の説と刘宓庆の説はそれぞれ不足な点があり ながら、「翻訳の限界」について奥行きの深い示唆を与えたものである。先行 研究をもとに、筆者は「翻訳の限界」についてこのように認識している。翻訳 はつまり言語間の転換である。言語間の転換ができない場合は翻訳の限界であ ると思われる。言語転換の障害となる要素は主に言語的な要素と文化的な要素 が考えられる。そこで、本稿では先行研究を踏まえ、中日対訳の角度からそれ ぞれ言語転換の障害となる言語的な要素と文化的な要素を分析することによ って、翻訳の言語的限界と文化的限界を見ていきたい。 11 第二章 翻訳の限界――言語的側面から 本章では言語的側面から言語転換時に障害となる要素について分析する。言 語転換の障害はいろいろあるが、本章では主に音、形による障害、慣用法によ る障害と表現の違いによる障害に分類し、それぞれ具体的に分析する。 第一節 音、形による障害 1.音、形による障害が発生する原因 音、形による障害というのは音、形による原語の特殊な表現効果を目標言語 に転換できないということである。例えば、中国語の「忙忙碌碌」 「马马虎虎」 「嘀嘀咕咕」のような「叠词」5は漢字を重ねることによって、特殊な形と音 声効果を作り出したのである。しかし、日本語に訳すとき、このような表現効 果を失わないのは難しいであろう。 音、形による障害は一番乗り越えがたい障害であると思われる。その原因に ついて刘宓庆(2003)は以下のように分析した。「音、形による修辞が両言語 転換時に喪失される原因は言語の表層に両言語転換のルートが存在しないこ とである。両言語の対応が語義構成層で行われるため、両言語の音声の対応は できない。図で表示すると以下のようになる。 (音-形修辞立意在双语转换中丧 失的原因是语言表层(语音结构层)不存在双语转换的信息通道,双语的对应是 在语义结构层进行的,双语的语音之间不能实现有意义的对应,见图所示。)」 表层 SL 语音结构层 (表層) (原語音声構成層) no channel TL 语音结构层 无信息转换通道 (目標言語音声構成層) (転換ルートなし) ↑ ↓ ↑ ―――――――→ 深层 SL 语义结构层 transfer channel TL 语义结构层 (深層) (原語語義構成層) 信息转换通道 (目標言語語義構成層) (転換ルート) 5 ↓ 同じ漢字を重ねることによって構成される単語 12 「両言語の表層(音、形)に意味を転換するルートがないため、同系語では ない場合、両言語の音、形は対応できないのである)。(由于双语间表层(音、 形)没有意义的信息转换通道,因此在非亲属语之间音、形不可能形成同源对 应。 )」 刘宓庆(2003)の説によれば、中国語と日本語は同系語ではないため、意味 を転換するとき、両言語の音、形は対応できない。つまり、中国語と日本語の 音、形と意味のつながりに特性があるため、言語転換時に、一般的には意味の 転換はできるが、音、形による特殊な表現効果は転換できないのである。以下 の例を見てみよう。 (1)湘云走来,笑道:“爱哥哥,林姐姐,你们天天一处玩,我好容易来了也 不理我理儿。”黛玉笑道: “偏是咬舌子爱说话,连个“二”哥哥也叫不上来,只 是“爱”哥哥“爱”哥哥的,回来赶围棋儿,又该你闹么“爱”三了。” (曹雪芹 『红楼梦』第二十回) アイコーコ 訳文:湘雲がにこにこしながらやってきた。「愛哥哥!林のお姉さま!あなた がたは毎日いっしょに遊んでいらっしゃるくせにさ、あたしが久しぶりにまい ってもちっともかまってくださらないのね。」林黛玉は笑いながら、 「舌っ足ら アルコーコ ずのおしゃべりさん!二哥哥(次兄の意、宝玉のこと)とさえ言えずに愛哥哥 愛哥哥だって!」こんど回将棋をなさるときには、一愛(二)三四五っておっ しゃるんでしょ!」 (松枝茂夫訳『紅楼夢』) 中国語では「爱」と「二」の発音が似ているため、黛玉が湘云の言う「二哥 哥」を「爱哥哥」と聞くのは成り立つのである。ここでは黛玉がやたらにやき もちを焼くという性格を巧みに表している。しかし、日本語では「爱」と「二」 という意味に対応する言葉の発音がぜんぜん似ていないため、原文を日本語に 訳すときに限界がある。訳者が原文の意味を伝達するために、中国語の「爱哥 哥」と「二哥哥」をそのまま用いて、日本語のカタ仮名で発音を表記したり、 また「次兄の意、宝玉のこと」という注をつけたりして、いろいろ工夫したが、 原文の風格や趣を十分に伝達したとは言えないであろう。 13 2.掛け言葉の翻訳 音、形による障害の典型的な例として掛け言葉が挙げられる。掛け言葉とい うのは同音異義を利用して、同じ発音或いは近い発音の言葉に二重の意味を持 たせるというレトリックである。 掛け言葉は主に二つのパターンがある。一つは同じ発音或いは近い発音の言 葉を違う意味で二回以上使うものである。この場合、同じ発音の言葉が二つ以 上の意味を持っている。しかし、その二つ以上の意味をそれぞれ目標言語に翻 訳すると、発音が同じである場合がめったにないのである。したがって、意味 の面では翻訳ができるとしても、目標言語では掛け言葉がなくなってしまう。 そこで、目標言語では掛け言葉による原文のおもしろさなどを表現することは できないのである。以下の例を見られたい。 (2) 塩が無いのはしょうがないでしょうが。 (駄洒落データベースより) 例(2)では「塩が無い」と「しょうがない」の発音が似ている。しかし、中 国語に訳す場合、 「塩が無い」は「没有盐了」に、 「しょうがない」は「没办法」 になるわけである。「没有盐了」と「没办法」の発音はまったく違う。このよ うな場合、目標言語では原文の意味がきちんと伝わったが、原文に表されるユ ーモアが失われてしまった。 しかし、同じ言葉を翻訳しても、訳し方は必ずしも単一であるとは限らない。 工夫すれば、掛け言葉を翻訳できる場合もある。 (3)A:恋をしたことがあるの。 B:恋をしたことはないが、鯉を食べたことがある。 魯迅が例(3)を以下のように訳した。 A:你有过恋爱吗? B:并没有过恋爱,但曾经吃鲤儿。 (陶振孝(2005)) 原文では「恋」と「鯉」は同じ発音で、掛け言葉になっている。訳文では それぞれ「恋」と「鯉」に対応する「恋爱」と「鲤儿」の発音は比較的に近い のである。それゆえ、原文で掛け言葉によって表された感じを翻訳できたと言 えよう。 掛け言葉のもう一つのパターンは一つの言葉に、そのまま二つの語の意味を 14 兼ねて使うものである。この類の掛け言葉は比較的に多い。例えば: (4)东边日出西边雨,道是无晴却有晴 (刘禹锡『竹枝词』) 訳文:東邊日出でて西邊雤ふる,道ふは是れ晴無きは却て晴有ると (http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/zhuzhi03.htm) 例(4)では、 「东边日出西边雨」というのは「東は晴れ、西は雤」という意 味である。つまり、晴れるかどうか非常に微妙な状態である。中国語では「晴」 (晴れる)と「情」 (愛情)の発音が同じであるため、 「道是无晴却有晴」とい う文には「道是无情却有情」(好きなのかどうか分からない)という意味が巧 みに隠され、主人公の微妙な気持ちが表されている。しかし、日本語では「晴 れる」と「愛情」の発音がぜんぜん似ていないため、この文を日本語に訳す時、 その中の一つの意味しか表せなく、原文に表される二重の意味が喪失されるで あろう。 ところが、原文に含まれる二つの意味を全部目標言語に訳せる場合もある。 ただ、この場合、目標言語では掛け言葉がなくなることが多い。 (5)君こそ我が好意に値するもの 例(5)では「もの」はそれぞれ「人」の意味と形式名詞としての「もの」 という二つの意味を表している。中国語に訳す場合、「人」の意味と形式名詞 としての「もの」の意味はそれぞれ「人」と「嘛」に対応する。そこで、「只 有你才是值得我爱的人嘛」に訳せば、両方の意味が表されている。ただ、原文 で掛け言葉によって表された趣を失ってしまう。 以上で見たように、掛け言葉の一つ目のパターンを訳すときに、掛け言葉と いうレトリックの転換ができない場合が多い。二つ目のパターンを訳すときに、 完全な語義の転換ができない可能性が大きい。語義が転換できるとしても、原 語で掛け言葉によって表される感じが目標言語では失われる場合が多い。 3.早口言葉の翻訳 早口言葉の翻訳も音による障害の典型的な例である。早口言葉というのは同 音が重複して発音しにくい台詞・俗謡などを、誤らずに早口に言うことである。 早口言葉の中に発音の近い言葉がたくさんあるため、そのような特殊な音声効 15 果がある。しかし、一般的には原語の音声効果は目標言語に転換できない。例 えば、中国語には以下のような早口言葉がある。 (6)吃葡萄不吐葡萄皮,不吃葡萄倒吐葡萄皮 訳文:葡萄を食べるとき皮を吐き出すが、葡萄を食べないときかえって 皮を吐き出す。6 (7)房子一白猫,白猫满身毛,毛白白猫白,白猫白毛毛。 訳文:部屋に白猫が一匹いる。白猫体中が白い毛で覆われる。毛が白い ので猫は白いなのだ。 (陶振孝(2005)) 中国語の早口言葉を日本語に訳すとき、意味は伝達できるが、原語の音声効 果が完全に失われ、早口言葉ではなくなってしまう。 同じように、日本語の早口言葉を中国語に訳すとき、早口言葉の効果は転換 できないのである。以下の例を見てみよう。 (8) 親鴨が生米噛めば子鴨小米噛む。 訳文:母鸭啃生米、小鸭就啃小米。 (http://hi.baidu.com/ribenyu/blog/item/15525890f891308da977a482.html) (9) 坊主が屏風に上手に坊主の絵をかいた。 訳文:和尚在屏风上非常好地画了和尚的画。 (同(8)) 例(8)(9)では発音の近い言葉が集め、早口言葉になっているが、その意味を 中国語を訳すと、面白さが失われ、早口言葉の意味も失われてしまう。要する に、早口言葉を翻訳するとき、両言語が音声の面では転換できないため、早口 言葉の特殊な音声効果は訳せないのである。 以上で見たように、各言語の音、形と意味のつながりに特性があるため、意 味を転換する時、音、形による特殊な表現効果が喪失される場合が多い。それ がいわゆる音、形による障害である。 6 出典を示さない場合はすべて筆者の訳文である。 16 第二節 慣用法による障害 慣用法は規則的に定められた用法に対して実際に使用されているものをい う。慣用法は各民族の文化背景や民族心理などの要素の影響を受けるため、必 ずしも文法とロジックに従うとは限らない。言語の中の言葉はどう使用される か、どのような言葉と組み合わせるかは言語環境と関係がある。各言語の環境 が異なるため、各言語の慣用法は特性がある。それゆえ、慣用法は言語転換の 障害になる可能性がある。慣用法による障害は主に連語法と慣用語の翻訳に表 されている。そこで、本節では連語法と慣用語に分け、言語転換時にそれぞれ どのような障害があるかについて分析する。 1.連語法 連語法というのは語と語の組み合わせに関する規則である。一般的には、語 と語の組み合わせは文法やロジックによって決められ、各言語では共通してい るが、各民族の習慣によって組み合わせが異なる場合もある。この場合には、 原語の語義が喪失される可能性があり、翻訳の限界があるかもしれない。 まず、主語と述語の組み合わせについて見てみよう。日本語には「気が立つ」 という表現があり、 「不満があっていらいらする」という意味である。しかし、 中国語では「気」に当たる語と「立つ」にあたる語を組み合わせる習慣がない のである。それゆえ、 「気が立つ」を中国語に訳すとき、 「不満があっていらい らする」という原語の深層意味を中国語に訳すしかない。そこで、原語の表層 意味が喪失され、「気が立つ」という表現の生き生きとする効果を目標言語に 転換できない。 動詞と目的語の組み合わせの例がもっとも多いのである。例えば、中国語に は「吃豆腐」という言葉がある。この言葉は表面的には「豆腐を食べる」とい う意味であるが、中国語では「吃」という動詞と「豆腐」という目的語が組み 合わせれば、「女性をからかう」という深層意味になる。しかし、日本語には 「吃」に当たる語と「豆腐」に当たる語が組み合わせれば、単に「豆腐を食べ る」という意味になり、 「女性をからかう」という深層意味が含まれていない。 もし「女性をからかう」という深層意味を中国語に訳せば、原文の表層意味が 17 失われている。同じように、日本語の「油を売る」という表現は「無駄話に時 を過す」という意味である。それは江戸時代、婦女に髪油を売る者がゆっくり と話し込んで商売をしたという背景があるからである。中国には同じような背 景がないため、中国語では「油」に対応する語と「売る」に対応する語が組合 せば、「無駄話に時を過す」と言う意味にはならない。それゆえ、「油を売る」 を中国語に訳す時、深層意味の「無駄話に時を過す」しか訳せなく、表層意味 が喪失される。 また、助数詞と名詞の組み合わせも言語によってかなり違うのである。特に 中国語の助数詞の量が多いだけではなく、種類も比較的に複雑である。したが って、日本語に訳すとき、助数詞と名詞の組み合わせが言語転換の障害になる 場合がある。以下の例を見られたい。 (10)这一闷棍真把李大婶打昏了,她闷住一肚子气,问国民道: (高晓声『拣珍珠』) 訳文:彼女はこみ上げてくる怒りをぐっとこられ、国民に問いただした。 (韓美津 他訳『真珠の婿』) (11)梁遐用幽默的口气说,嘴角掠过一丝微笑。 (宗璞『弦上的梦』) 訳文:梁遐はおどけた調子でそういいて唇の端に例の笑いを浮かべた。 (韓美津 他訳『弦上の夢』) 中国語にはよく使われている「个」「匹」「页」などの助数詞のほかに、「脑 袋」 「头」 「脸」などの名詞もたまには助数詞として使われている。例(10)で は、「肚子」という名詞は「气」と組み合わせ、ここで臨時的に助数詞の働き をしている。しかし、日本語にはこのような組み合わせがないため、「一肚子 气」を単に「怒り」にしか訳せない。「肚子」という臨時的な助数詞による面 白さが失われてしまう。また、例(11)では、「一丝微笑」の「丝」は笑いの かすかな様子を描いているだけでなく、抽象的で不可算な「笑い」を具体化し ているわけである。それゆえ、「丝」はここで修飾機能を果たしているとはい えよう。しかし、日本語には対応する修飾機能を果たす助数詞がないため、 「一 丝」を省略して「笑い」にしか訳さなかった。そこで、「一丝」の修飾機能が 18 目標言語では失われている。 2.慣用語 慣用語というのは一般的に習慣として使われている言葉、決まり文句である。 慣用語の範疇に対する見方は人によって違う。また中国語と日本語の慣用語は 範疇が異なるのである。ここでは中国語の慣用語を成語、歇后语7、ことわざ、 格言と認識し、日本語の慣用語を成語、ことわざ、格言としている。成語、歇 后语、ことわざ、格言から見る翻訳の限界は大体同じであるので、ここで同時 に扱うことにした。 日本語の慣用語は中国語から借用する場合が多いため、中日対訳の時に、漢 字をそのまま使ったり、或いは原語を直訳したりすれば、大体転換ができると 思われる。しかし、中国語にも日本語にも独特の慣用句が存在するため、言語 転換時に困難をきたす場合がある。 ①目標言語に原語の慣用語に相当する慣用語が存在する場合 中国と日本の文化背景や民族心理が異なるため、同じ意味を表現するとき、 視点や手段が違うかもしれない。それゆえ、目標言語には原語と同じような慣 用語がないが、原語の慣用語に相当する慣用語が存在する場合がある。この場 合、原語の深層意味は目標言語に転換できるが、表層意味は転換できないので ある。例えば、同じく「運を天にまかせて冒険する」という意味を表現するの に、中国語と日本語ではそれぞれ「孤注一掷」と「一か八」が使われる。中国 語も日本語もギャンブルに喩えるが、中国語は投げるという動作に着目するの に対し、日本語はギャンブルの結果に着目している。それゆえ、中日対訳のと き、 「運を天にまかせて冒険する」という深層意味は転換できるが、原語の比 喩の視点は目標言語には転換できない。また、中国語の「做一天和尚撞一天钟」 と日本語の「明日は明日の風が吹く」は同じく「明日はまた別のなりゆきにな る。世の中は何とかなるもので、先を思い煩うことはない」という意味を表す が、中国語は人の行為に喩えるのに対し、日本語は自然現象を借りて同じ意味 を表現するのである。このような慣用語を訳すときに、深層意味しか訳せなく、 7 二つの部分からなる成句で、前のたとえの部分だけ言って後の部分を自然と推察させる 一種のしゃれ言葉である。 19 完全な言語転換ができないのである。 ②目標言語に原語の慣用語に相当する慣用語が存在しない場合 この場合、目標言語には原語の意味を表す慣用語が存在しない。原語の意味 を伝達しようとするなら、目標言語で原文の深層意味を解釈するほかはない。 例えば、中国語の「泥菩萨过江—-自身难保」(泥で作った観音さまの川渡り― ―人助けどころか自分が危ない)という熟語は「人の面倒どころじゃない」と いう意味である。日本語には対応する慣用語がないため、「人の面倒どころじ ゃない」という深層意味を日本語に訳すしかない。そこで、原文の面白さが失 われてしまう。同じように、日本語にも中国語に存在しない慣用語がある。日 本語の「枯木も山の賑わい」という慣用語は「枯木も山の風致を添えるもので ある」という意から転じて、「つまらない物に加えておけば無いよりはましで あることのたとえ」という意味になった。中国語にはこのような意味を表す慣 用語がないため、原語の深層意味を目標言語に訳すしかなく、原語の表層意味 が喪失される。 以上で述べたように、慣用法は各民族の文化背景や民族心理などいろいろな 要素の影響を受けるため、特性があるのである。慣用法に関する文を訳すとき、 一般的には深層意味は伝達できるが、表層意味が喪失されやすい。深層意味と 表層意味を同時に伝達できない場合は翻訳の限界である。 第三節 表現の違いによる障害 表現の違いによる障害は比較的に複雑で多いが、本節では中国語と日本語の 表現の主な違いに基づき、以下の三つの方面に分け表現の違いによる障害を分 析していきたい。 1.主動と受身 日本語の受身文は動詞の未然形と受身助動詞からなっている。現代日本語の 受身助動詞は「れる」と「られる」の二つしかない。一方、中国語の受身文は 20 日本語と違って受身を表す「介詞」8と動詞からなっている。一番よく使われ ている受身「介詞」は「被」で、ほかには「受」「叫」「让」「给」「挨」「遭」 「由」「为„„所」などがある。 日本語の受身文が比較的に多いのに対し、中国語には受身文がそんなに多く ないとされている。9したがって、中日対訳時に、中国語の主動を日本語の受 身に、日本語の受身を中国語の主動に転換する必要のある場合が多い。一般的 には、主動と受身の間の転換が語義の転換に影響を与えないが、以下のように 原語の意味を部分的に喪失する場合がある。 ①日本語の間接受身を中国語に訳すとき、大体主動文になるので、原語の中で 表される迷惑の意味合いを目標言語では表現できない。 日本語の自動詞が構成する受身文は大概迷惑の意味合いが含まれている。し かし、このような日本語の受身文を中国語に訳すとき、主動文になる場合が多 い。主動文が迷惑のニュアンスを表せないため、原語の中で表される迷惑の意 味合いは目標言語では失われている可能性が大きい。以下の例を見られたい。 (12)わたしは幼い時に母親に死なれた。 訳文:我小的时候,母亲就去世了。 (孔繁明 (2004)より) (13)君も現実離れしたそういう夢をみているから、女にも逃げられたりす るんだ。 訳文:你脱离现实在做梦,所以连老婆也跑掉了。 (孔繁明 (2004)より) 例(12)(13)では日本語の原文が迷惑の受身文であるが、中国語に訳すと き、主動文になった。原文の「母に死なれた」と「女に逃げられた」には「わ たし」と「君」にすごく迷惑をかけたというニュアンスが含まれているが、訳 文の「母亲就去世了」「老婆也跑掉了」はただ客観的に事実を述べるだけで、 迷惑の意味合いが喪失されてしまった。 8 名詞、代名詞或いは名詞の機能を持っている連語の前で使われ、方向、対象などを表す 語である。 9 陈岩(2000)は「汉语被动句比日语被动句的应用范围要小得多(中国語の受身文は日本 語の受身文より応用範囲がずっと狭い。) 」と指摘した。また、孔繁明(2004)も同じよう に論述した。 21 ②日本語の「非情の受身」を中国語に訳すとき、主動文になる場合が多く、原 語の中で受身によって表される客観的に事実を述べる感じが喪失されやすい。 日本語では非情のものを主題とし客観的に事実を述べるというような受身 文が比較的に多い。しかし、中国語の受身文はこのような用法がない。それゆ え、このような日本語の受身文を中国語に訳すとき、「人」を主題とする主動 文になる場合が多い。以下の例を見てみよう。 (14)この新聞はサラリーマンによく読まれている。 訳文:工薪阶层经常看这份报纸。 (15)1930 年以来、欧米においては、農薬の基礎的研究が行われていた。 訳文:1930 年以来,欧美各国一直进行着农药的基础研究。 (孔繁明 (2004)) 例(14)(15)の日本語の原文では「この新聞」と「農業の基礎的研究」を 主題とし、客観的に「この新聞」と「農業の基礎的研究」について述べた。し かし、そのまま「この新聞」と「農業の基礎的研究」を主題として中国語に訳 せば、それぞれ「这份报纸被看」と「农业基础研究被进行」になるが、このよ うな文は中国語ではなじまない。そこで、中国語の習慣に合わせ、それぞれ「看 这份报纸」と「进行着农药的基础研究」というような主動文に訳したが、日本 語の原文で表される客観的に事実を述べるというような感覚は失われている。 それに、叙述の主題が変わってしまったので、原文と訳文のニュアンスが微妙 に違うのである。 2.日本語には控えめな表現や曖昧な表現が多いのに対し、現代中国語では明 確な表現を好む傾向がある。 日本語の表現が婉曲的であるということは日本語の特徴として知られてい る。日本人は事態を客観的な真理として表す断定表現より、断定を避け自分の 判断や主張をやわらげる婉曲表現のほうを好むと思われる。しかし、現代中国 語ではよくないことを直接に言うのを避ける場合以外ほとんど婉曲表現を使 わない。中国人はあまり遠まわしが好きではなく、直接はっきり自分の意見を 言うのが一般的である。したがって、日本語の婉曲表現をそのまま中国語に訳 22 せば、中国人に違和感を感じさせるかもしれない。もし中国語の習慣に合わせ 婉曲ではない表現に訳せば、原語の意味が喪失される。一方、同じように、中 国語を日本語に訳す場合、日本語の習慣に合わせ婉曲表現に訳さなければなら ない場合がある。この場合、原語と目標言語のニュアンスが微妙に違うのであ る。 孔繁明(2004)は日本語の婉曲表現を語義婉曲型、語義曖昧型と省略型とい う三つの種類に分類した。本稿ではこの分類に従い、婉曲表現における翻訳の 限界を分析したい。 ①語義婉曲型 語義婉曲型というのは自分の意見や判断を遠まわしに言うことである。推量、 比喩或いは否定の形はよく使われている。まず、否定の形を使って婉曲の意味 を表す例を見てみよう。 (16)お酒がお好きなんじゃないでしょうか。 訳文:您喜欢喝酒吧? (孔繁明 (2004)) 日本語では、誘いや推測を表すとき、否定の形は自分の主張や判断をやわら げるという働きがある。例(16)の中の「お好きなんじゃないでしょうか」は 典型的な日本語の婉曲表現で、否定の形を使って婉曲的に話者の判断を表した。 「お好きなんじゃないでしょうか」というのは肯定の形の「お好きなんでしょ うか」よりやわらかく丁寧である。しかし、中国語の否定文にはこのような主 張や判断をやわらげる用法がないため、肯定文の「您喜欢喝酒吧」にしか翻訳 できない。「您喜欢喝酒吧」はただ日本語の「お好きなんでしょうか」にあた るもので、「お好きなんでしょうか」よりやわらかい感じが中国語では表現で きない。このように、日本語の否定の形によって表される婉曲的な効果を中国 語に転換するときに限界がある。 また、天気予報は中国語と日本語の表現の違いを典型的に表す例である。中 国語の天気予報は天気に対する予測を直接断定文で表現するのに対し、日本語 の天気予報は「でしょう」「なりそう」などの推量を表す文型を使って判断を やわらげるのである。以下の例を見られたい。 23 (17)从今天晚上到明天,北京地区晴间多云,有短时雷雨天气,最高气温 34℃,最低气温 21℃,北风转南风,风力二、三级。 (张岩红 (2003)) (18)あす関東地方は曇りで、雤の降る確立が高いでしょう。 (张岩红 (2003)) 例(17)は典型的な中国語の天気予報である。日本語に訳すとき、そのまま 直訳すれば、日本人に断定のイメージを与え、日本語らしくないのである。日 本語らしく訳せば、「でしょう」「ようです」「そうです」のような推量を表す 文型を加えなければならない。その訳文は原文と意味上では微妙に違うのであ る。例(18)のように日本語の天気予報は常に「でしょう」「そうだ」のよう な推量を表す表現を用いて、天気に対する判断はあくまでも推量にすぎなく、 間違える余地があるということを表明する。しかし、もし中国語の天気予報に 「好像」のような不確かな表現が現れると、聞き手は気象台の担当者を無責任 であるように思う。自分の仕事なのに、なぜそのような不確かな言い方をする だろう。もし本当に不確かであれば、もっときちんと調べるべきだと聞き手は 言いたくなる。しかし、もし中国語らしく断定を表す表現に訳せば、原文のニ ュアンスとは違うのである。 ②語義曖昧型 語義曖昧型というのは「が」「けど」のような言葉で文を終え意味を曖昧に するというような文である。。このような文では「が」「けど」「し」のような 終助詞がよく使われている。中国語にはこのような表現がないため、日本語の 語義曖昧型の文を中国語になかなか転換できない。例えば: (19)合宿練習には行きたいけど、まだ体が十分じゃないしなあ。 訳文:倒是想去参加集训,不过身体还没有完全恢复过来,再说„„ (孔繁明 (2004)) 例(19)では、「し」を用いて合宿練習に行けない理由はほかにもあるとい う意味を表すのである。「し」に表されるニュアンスを中国語に転換するため に、訳者は「再说„„」のような文を加えた。しかし、このような文は中国人 から見ればどうも終わってない感じで中国語らしくないのである。それゆえ、 この文は中国語に訳すときに限界があるといえよう。 24 ③省略型 省略型というのは話者が半分しか話さなく、残りの部分を省略し聞き手の判 断に任せるというような文である。中国語では一般的には半分しか話さないの はおかしいので、日本語の省略型の文を訳すとき、加訳の方法を使い省略され た部分を補足するのは一般的である。そこで、原文の中で表される婉曲なニュ アンスが喪失される。例えば: (20)お政: 「人の言う事をお聞きでなかったものだから、これでこんな事(免 職)になっちまったんだ。」 文三:「それはそうかも知れませんが、しかし、いくら免職になるのが 恐いと言って私にはそんな卑怯な事は……」 (二葉亭四迷『浮雲』) 訳文:阿政:“你总是不听人家的话,才闹成这个结果。” 文三:“也许是吧,不过无论怎样怕开除,我也做不出那种卑鄙的 勾当。” (巩长金,石坚白訳『二叶亭四迷小说集』) この文では「私にはそんな卑怯な事は」の後に「やりはしません」のような 意味が省略されている。中国語に訳すとき、「やりはしません」という意味を 補足しなければ、中国語の文としては成り立たない。しかし、「我也做不出那 种卑鄙的勾当」に訳すれば、完全な文になり、婉曲の意味合いが失われてしま った。 以上①②③で見たように、日本語には婉曲で曖昧な表現が多いのに対し、中 国語でははっきり自分の意見や考えを表すのが普通である。したがって、中日 対訳時に、原文のニュアンスを目標言語に転換することがむずかしい。特に日 本語の婉曲表現を中国語に訳すとき、原文の婉曲的なニュアンスを保持すれば、 中国語の訳文は中国語らしくない場合が多い。中国語の習慣に合わせば、原文 の婉曲的なニュアンスが喪失されやすいのである。 25 3.日本語の敬語表現が複雑であるのに対し、中国語の敬語表現ははるかに単 純である。 日本が上下関係がうるさい身分社会であるため、話し手と聞き手の関係や場 面などの状況によって言葉遣いは違うのである。その中で聞き手や話題の人物 に対する敬意を表す表現、つまり敬語表現が非常に高度に発達している。日本 語の敬語は主に尊敬語、謙譲語、丁寧語に分類される。 尊敬語は動作の主体や属性の持ち主を高めるために使われる敬語である。例 えば、「いらっしゃる」「おっしゃる」「なさる」「下さる」などの動詞、「お」 「ご」 「貴」などの接頭辞、 「さん」 「方」 「さま」などの接尾辞、 「あなた」 「ど なた」 「お嬢様」などの名詞がある。そのほかには「お(ご)……になる」 「お (ご)……なさる」「お……です」など尊敬を表す文型もある。 謙譲語というのは動作主を低めることによって動作の対象である人物に対 する敬意を表す表現である。例えば、 「いたす」 「まいる」 「申す」 「申しあげる」 「いただく」などの動詞、「愚案」「弊社」などの接頭辞、「私ども」という接 尾辞、「わたくし」「小生」「家内」などの名詞がある。ほかにも「お(ご)… …する」「お(ご)……いただく」など謙譲を表す文型がある。 丁寧語というのは丁寧な言葉を使うことにより聞き手への敬意を表す表現 である。代表的なものは文末の「です・ます」などの丁寧な形である。 中国語では主に単語によって聞き手や話題の人物に敬意を表すのである。例 えば、 「尊姓」「大名」「郭老」などの尊敬を表す接辞、「光临」「指导」「赐教」 などの尊敬を表す動詞、「您」「老人家」などの尊敬を表す名詞がある。また、 「拙著」 「敝姓」 「家父」などの謙譲を表す接辞、 「奉陪」 「拜读」などの謙譲を 表す動詞、 「在下」 「见教」などの謙譲を表す名詞がある。しかし、相手や自分 の動作を表現する述語部分において、日本語ではとてもややこしい敬語表現が あるのに対し、中国語ではほとんど敬語表現がないのである。したがって、日 本語の敬語表現を中国語に訳す時、対応するものがないため、原文に表される 敬意を表す気持ちが喪失される場合が多い。以下原作と叶渭渠訳の『雪国』の 中の対話を対照してみた。 (21)「駅長さん、私です、御機嫌よろしゅうございます。」 26 「ああ、葉子さんじゃないか。お帰りかい。また寒くなったよ。」 「弟が今度こちらに勤めさせていただいておりますのですってね。お世話さ まですわ。」 「こんなところ、今に寂しくて参るだろうよ。若いのに可哀想だな。」 「ほんの子供ですから、駅長さんからよく教えてやっていただいて、よろし くお願いいたしますわ。」 「よろしい。元気で働いてるよ。これからいそがしくなる。去年は大雪だっ たよ。よく雪崩れてね、汽車が立往生するんで、村も焚出しがいそがしかった よ。」 「駅長さんずいぶん厚着に見えますわ。弟の手紙には、まだチョッキも着て いないようなことを書いてありましたけれど。」 「私は着物を四枚重ねだ。若い者は寒いと酒ばかり飲んでいるよ。それでご ろごろあすこにぶっ倒れてるのさ、風邪をひいてね。」 駅長は官舎の方へ手の明りを振り向けた。 「弟もお酒をいただきますでしょうか。」 「いや。」 中国語訳: “站长先生,是我。您好啊!” “哟,这不是叶子姑娘吗!回家呀?又是大冷天了。” “听说我弟弟到这里来工作,我要谢谢您的照顾。” “在这种地方,早晚会寂寞得难受的。年纪轻轻,怪可怜的!” “他还是个孩子,请站长先生常指点他,拜托您了。” “行啊。他干得很带劲,往后会忙起来的。去年也下了大雪,常常闹雪崩,火车 一抛锚,村里人就忙着给旅客送水送饭。” “站长先生好像穿得很多,我弟弟来信说,他还没穿西服背心呢。” “我都穿四件啦!小伙子们遇上大冷天就一个劲儿地喝酒,现在一个个都得了感 冒,东歪西倒地躺在那儿啦。”站长向宿舍那边晃了晃手上的提灯。 “我弟弟也喝酒了吗?” “这倒没有。” 27 これは葉子という人と駅長の対話である。この対話は中国語と日本語の敬語 表現の違いを典型的に表している。葉子の弟は駅長の下で働いているので、日 本語の原文では葉子は駅長に敬意を表すためにずっと「です・ます体」で話し ているだけではなく、 「よろしゅうございます」 「勤めさせていただいておりま す」などの敬語表現もいっぱい使っている。一方、駅長は葉子に「だ体」を使 っている。しかし、中国語訳には「您」 「先生」 「照顾」 「指点」 「拜托」という 敬意を表す単語のほかに、原文の敬語に対応する表現がないのである。その中 で、 「弟もお酒をいただきますでしょうか」と訳文の「我弟弟也喝酒了吗?」 の違いは最もはっきりしている。「弟もお酒をいただきますでしょうか」とい う文では「いただく」という謙譲語を使うだけではなく、「です・ます体」を 使い、最後に「でしょう」という推量を表す表現も加え、葉子は注意深く駅長 に聞く様子を十分に表している。しかし、中国語の訳文の「我弟弟也喝酒了 吗?」という文を見れば、ただ普通の疑問文であり、日本語の「弟もお酒を飲 むの」という文にも対応している。そこで、原文の中に表される敬意の気持ち が喪失されたと言えよう。 以上本章では言語的側面から翻訳の限界について分析した。まず、音、形に よる障害が発生する原因を分析し、例を通じて具体的にどのような障害がある かを説明した。掛け言葉と早口言葉をこの類の典型的な例として詳しく説明し た。次に、連語法と慣用語の二種類に分け、慣用語による障害について論述し た。最後に、主動と受身、婉曲表現、敬語表現という三つの方面から表現の違 いによる障害について具体的に分析した。そこで、中日対訳時に言語的な要素 が言語転換の障害になり、翻訳の限界をきたす場合があるという結論に達した のではなかろうかと思われる。 28 第三章 翻訳の限界――文化的側面から 本章では文化的側面から言語転換時に障害となる要素について分析する。文 化的な障害は主に文化空白と文化差異に分類できる。そこで、本章では文化空 白と文化差異に分け、それぞれどのように翻訳の限界をきたすかについて分析 する。 第一節 文化空白 文化空白というのは原語の文化が目標言語には存在しないことである。それ ゆえ、目標言語に対応する言葉が存在しない場合もあれば、同じ文化背景を持 っていない人にとって原文の意味が分からない場合もある。そこで、翻訳の限 界をきたすのである。グローバル化によって各国家の交流が頻繁になり、文化 空白がだんだん尐なくなっている。しかし、長期にわたり各民族で形成された 文化はやはり特性があるため、言語転換の障害になる場合がある。 1.歴史 各民族と国家は自分の歴史を持っているため、それぞれ異なる歴史文化が形 成されていた。ある民族の歴史はほかの民族の人にとって文化空白である。そ れゆえ、同じ歴史文化背景を持っていない人はほかの言語を理解できない場合 がある。例えば、「袁大头」というのは民国時代の銀貨の一種である。その銀 貨の表面に袁世凯という当時の指導者の写真がある。袁世凯は頭が大きいこと から、「袁大头」というあだ名をつけられたのである。この歴史背景を知らな い日本人にとっては、 「袁大头」という言葉を理解できないであろう。それに、 日本語には対応する言葉が存在しないため、この言葉を日本語に訳すとき、注 をつけて解釈しかない。また、以下の例も見られたい。 (22)公司经理是个典型的白衣秀士王伦,在他手下谁也别想冒尖,看来只有 跳槽走了。 (高宁 杜勤(2003)) この文では「王伦」というのは中国の宋の時代の人物を原型に描かれた「水 滸伝」の中の人物である。 「水滸伝」の中では、 「王伦」のあだ名は「白衣秀士」 29 で、度量が狭く、自分より優れた人を嫉んだ人として知られている。それで、 「白衣秀士王伦」という言葉は自分より優れた人を嫉んだ人の代名詞になった のである。この知識を持っている中国人がこの文を理解するのは問題が無いが、 日本人にとって「王伦」は誰かということさえ知らない。そこで、日本語に訳 すとき、注をつけこの背景について説明しなければならない。しかし、注をつ けるような訳し方が本当の翻訳とは言えないであろう。 中国語だけではなく、日本語にも歴史文化と関係のある言葉がある。例えば、 日本語には「敵は本能寺に在り」という言葉がある。この言葉を理解するには 「明智光秀が、備中の毛利勢を攻めると称して出陣し、織田信長を本能寺に攻 めた」10という歴史物語を知らなければならない。 「敵は本能寺に在り」の表層 意味を中国語に訳しても、対応する歴史背景を持っていない中国人は分からな いであろう。また、「小田原評定」という言葉は「長引いてなかなか決定しな い相談」を指している。それは「豊臣秀吉が小田原城を攻囲した時、小田原城 中で北条氏直の腹心等の和戦の評定が長びいて決しなかった」11という歴史物 語から来ている。この歴史物語を知らない中国人はこの言葉を理解しかねると 思われる。それゆえ、翻訳するとき、この歴史について解釈しなければならな い。 2.風習 各民族は自分なりの風俗習慣がある。中国と日本は交流の歴史が長いため、 風俗習慣が共通しているところも尐なくないが、両国にやはり独特の風習が存 在している。両国の風習の特性は特に年中行事に現れている。例えば、中国に 中秋節という祝日がある。中国人は中秋節に明月を観賞し、月餅というお菓子 を食べる習慣がある。 中国の「春节」 (旧暦の正月)は一年中もっとも盛大で賑やかな祝日である。 春節を祝うために、どの家でも春聯(新年を祝う対句を書いた聯)や年画(正 月らしいめでたい絵)を貼るのである。玄関に「福」という字を逆さまに貼る 家庭も大勢いる。日本人によく「中国人はなぜ「福」という字を逆さまに貼る 10 11 『広辞苑(第五版) 』より 同上 30 の」とよく聞かれるが、それは中国語では「福倒了」(福を逆さまにする)と 「福到了」(福がついた)が同じ発音だからである。また、大晦日の夜には堤 灯をつるし、五色の布の装飾をこらし、街中のあちこちで爆竹を鳴らし、花火 を打ち上げ、旧正月を祝う。日本には春節はないが、中国の春節に相当する「お 正月」を祝う習慣がある。おせち料理から両国の風習が違うところが見られる。 日本のおせち料理の中に、鯛、昆布巻き、数の子が入っているのは一般的であ る。なぜかというと、鯛と昆布はそれぞれ「めでたい」と「喜ぶ」の語呂合わ せである。数の子は子供の数が多いということから子孫繁栄という願いが含ま れている。これに対し、中国人は春節のとき、魚を食べる習慣がある。それは 「年年有余」(毎年裕福な生活ができるように)と年年有鱼「毎年魚がある」 の発音が同じだからである。 このように、中国と日本は風習が異なるため、中日対訳時に、お互いの風習 を知らない場合、理解の障害をきたすかもしれない。以下の例文を見てみよう。 (23)A:你们家今年炸圆子吗? B:炸!不炸就没气氛了。 (王东风 (1997)より) 訳文:A:お家は今年団子を揚げますか。 B:揚げますよ。じゃないと、春節の雰囲気がないから。 中国では春節の時に団子を揚げる習慣がある。この風習が中国人にとってい うまでもないことなので、中国人は例(23)の対話を理解するにはまったく問 題がない。しかし、日本人の頭の中に「春節の時に団子を揚げる」という情報 がないため、例(23)の対話を聞けば、 「なぜ団子を揚げるか」 「なぜ団子を揚 げなければ、春節の雰囲気がないか」というような疑問を抱くかもしれない。 それゆえ、日本人にこの対話を理解させるために、注をつけて説明したほうが よかろう。この例で見たように、両国の風習の違いは言語転換の障害になる場 合がある。 3.その他 歴史と風習のほかにもほかの民族や国家に存在しない独特の文化がある。こ のような独特の文化はコミュニケーションの障害になり、翻訳の限界をきたす 31 可能性がある。例えば、中国語には「有眼不识泰山」という言葉がある。表層 意味は「目があっても泰山を知らない」で、深層意味は「尊敬すべき人をそれ と知らず、お見それした」という意味である。「泰山」は中国の代表的な高山 である。中国人はみなこの知識を持っているため、「有眼不识泰山」という言 葉を理解できる。しかし、「泰山」さえ知らない日本人にとって、この言葉を 理解するのは無理とはいえよう。 相撲は日本の国技とも言われる日本の大人気な運動である。相撲という言葉 自身とこの運動はすでに世界に知られていて、各言語にも相撲に対応する言葉 が定着した。しかし、相撲という言葉以外、日本語には相撲と関連のある言葉 がたくさん存在している。相撲という運動を詳しく知らない中国人にとって、 相撲と関連のある言葉を理解するのは難しいであろう。例えば、「土俵際」と いう言葉はもともと「土俵場のしきり、すなわち土俵を円くつらねた所」の意 味であるが、転じて「物事の決着するまぎわ、成敗のわかれめ」という意味に なった。この言葉は中国語には等価物がないため、中国語に訳すときに限界が ある。 以上 1、2、3 で分析したように、文化空白が存在する場合、目標言語には原 語に対応する等価物がないのである。この場合、目標言語で原語の文化につい て解釈するしかなく、本当の翻訳が実現できるとは言えない。 第二節 文化差異 文化空白と違って、文化差異というのは民族の文化によって同じことに対す る認識が違うことである。各民族の歴史や環境などの状況が異なるため、それ ぞれ独特の美意識や価値観が形成されていた。例えば、中国人から見れば、龍 という動物は神聖、帝王の象徴である。一方、日本人が桜が好きであるという ことは世界でも有名である。このように文化差異が存在するため、同じ表層意 味の文を読むとしても、異なる文化背景を持っている人の反応は違う可能性が ある。そこで、言語転換の障害となるのである。 32 1.数字から見る文化差異 各民族は数字に対する認識が違うのである。例えば、九という数字は中国で は最初龍の形のトーテム文字であるため、中国人にとって神聖な意味が含まれ ている。それゆえ、中国の帝王は自分の神聖な権力が天の賜物であることを示 すために、できるだけ自分のことを九と結びつける。例えば、天は九層に分け、 皇帝が天を祭る回数は毎年九回である。北京の城は九つの門があり、天安門の 高さは九丈12九尺13であり、紫禁城に 9999 の部屋がある。しかし、日本人は九 という数字が嫌いとされている。なぜかというと、日本語では「九」と「苦」 の発音が同じだからである。また、「49」は「始終苦」の発音と同じなので、 日本人に嫌がれる。このように、中国人と日本人が「九」という数字に対する 認識が異なるので、お互いの言葉を理解できない場合がる。例えば、中国語の 「九五之尊」という言葉は地位の高い人を指している。それは中国には「九」 は権力の象徴であるという背景があるからである。日本人にとっては、この言 葉の内包を理解するのは難しいであろう。また、以下の例も見てみよう。 (24)刘四爷,因为庆九,要热热闹闹的办回事,所以第一要搭个体面的棚。 (老舍『骆驼祥子』) 訳文:劉親方としては、六十九のめでたい誕生日のことでもあり、ひと つ派手にやりたいと思っていたので、体裁のいい小屋をつくりた いと思ったのだ。 (立間祥介訳『駱駝祥子』) 中国では、年寄りの誕生日祝いをする時、六十、七十、八十のような端数の ない数字を避ける習慣がある。それゆえ、一年間早く十年ごとの誕生日を祝う のが一般的である。つまり、六十歳の誕生日を五十九歳の時に祝い、七十歳の 誕生日を六十九歳の時に祝うのである。いわゆる「庆九不庆十」(十を祝う代 わりに九を祝う)である。しかし、日本では「九」という数字が嫌がれ、この ような習慣がないのである。訳者はここでは「庆九」を「六十九のめでたい誕 生日」と訳し、表面的な意味を伝達したが、実際は七十歳の誕生日を祝うとい う情報が喪失される。また、なぜ六十九歳の誕生日はめでたい誕生日であるか という疑問を抱く日本人がいるかもしれない。 12 中国の長さの単位である。約 3.3 メートルに当たる。 中国の長さの単位である。3 尺は一メートルである。 13 33 2.色から見る文化差異 中国人と日本人は色に対する認識も異なるのである。中国では、赤が幸福、 きれい、情熱、革命、権力の象徴であり、中国人に好まれている。それゆえ、 中国語には赤に関するほめる含みのある言葉がたくさんある。例えば、「红粉 佳人」「红颜知己」「红旗」「又红又专」などがある。しかし、日本人から見れ ば、赤は革命的、左翼的であるという意味が含まれ、恐い、そして危ないとい うようなイメージがある。したがって、中国語の赤に関する言葉を日本語に訳 す時、色に表される文化の意味が喪失される可能性がある。例えば、「他是个 大红人」という文は「彼はひっぱりだこである」という意味である。日本語に は「彼はすごく赤い人」という表現がないため、「他是个大红人」を日本語に 訳す時、赤という色に表される文化の意味が喪失される。以下の例も見られた い。 (25)中华儿女多奇志,不爱红装爱武装 (毛泽东『为女民兵题照』より) この文では赤という色にはきれいという意味が与えられている。「不爱红装 爱武装」という文は「中国の女性の民兵たちはきれいな服装より軍隊のほうが 大事である」という意味を表している。しかし、日本語では「赤い服装」と言 えば、 「きれいな服装」を連想しないであろう。したがって、中国語の「红装」 という言葉に表される文化意味が日本語に転換できないのである。 また、日本語では「青」という色は若い、未熟の意味を表すことができる。 例えば、 「青書生」は若くて学問の未熟な書生を指し、 「青二才」は年若く経験 に乏しい男をののしっていう語である。しかし、中国語では若く未熟の意味を 表すには黄色いが多く使われている。例えば、「黄毛丫头」「黄口小儿」「黄花 闺女」などがある。この違いが翻訳の障害になる場合がある。例えば、「青田 買い」という言葉は「企業が決められた新入社員採用試験期間よりも前に、優 秀な人材確保のため学生・生徒の卒業後の採用を約束する」という意味である。 しかし、中国語には対応する言葉がないため、中国語に訳す時、その言葉の意 味について解釈しかないのである。 34 3.呼び方から見る文化差異 中国と日本の呼び方の違いが両国の文化差異を典型的に表している。まず、 親族に対する呼び方が異なるのである。中国では家族・親戚の間の長幼順序が 非常にはっきりしていて、親族の分類がとても細かいのである。例えば、「い とこ」はきちんと父方のいとこと母方のいとこに分かれているだけではなく、 年上のいとこと年下のいとこに対する呼び方も違うのである。また、日本語で は書く時に「男のいとこ」と「女のいとこ」をそれぞれ「従兄弟」と「従姉妹」 で表記し、区別がつくが、話す時に全部同じ発音の「いとこ」になっている。 しかし、中国語ではきちんと「男のいとこ」と「女のいとこ」に分かれている。 したがって、日本語の「いとこ」は中国語の「表哥」「表弟」「堂哥」「堂弟」 「表姐」「表妹」「堂姐」「堂妹」という八つの単語にも対応している。そのた め、日本語の「いとこ」を中国語に訳すとき、その八つからどれを選ぶかは頭 を痛めるのである。 また、中国と日本の親族以外の呼び方も異なるのである。まず、中国では相 手を呼ぶ時、「你」はよく使われているのに対し、日本では「你」に当たる言 葉の「あなた」はあまり使われていない。日本語では「あなた」を年上の人に 使ってはいけない。同年輩の人に使う時も、二人が恋人或いは夫婦であると誤 解されやすい。それゆえ、日本人は相手を呼ぶ時に、田中さんのように人の苗 字に「さん」をつけたり、「課長」、「先生」のように仕事のランクの名前を使 ったりしている。 また、中国では相手に尊重の気持ちを表すために、実際の世代より一つ上の 世代の呼び方で呼ぶのは一般的である。例えば、小学生が 20 代の男性、女性 を「叔叔」 (おじさん)、 「阿姨」 (おばさん)と呼び、50 代の男性、女性を「爷 爷」(おじいさん)「奶奶」(おばあさん)と呼ぶのである。しかし、日本では 相手を呼ぶときに、実際の世代より下の世代の呼び方で呼んだほうが好まれる。 20 代の人が 50 代の男性、女性を「おじさん」「おばさん」と呼ぶなら怒られ る可能性がある。なぜかというと、日本語では「おばさん」「おじさん」とい う呼び方にマイナスな評価が含まれているからである。 「おじさん」 「おばさん」 35 の代わりに「お兄さん」「おねえさん」と呼んだほうが聞き手に好まれると言 われている。したがって、中国語の「叔叔」「阿姨」と日本語の「おじさん」 「おばさん」は内包が違い、中日対訳時に、相互転換ができないのである。 最後に、中国語に「同志」 「师傅」のような独特の呼び方がある。 「同志」と いうのは新中国が誕生した時に、中国政府がすすめていた社会主義社会の独特 の呼び方である。最近「同志」という呼び方を使う中国人はだんだん減ってい るが、知らない人に呼び掛ける時に使ったり、名前・役職名・職業などにつけ て用いたりする場合も尐なくない。しかし、日本には同じ環境がないため、中 国語の「同志」に対応する言葉がない。そこで、「同志」という言葉は日本語 には訳せないのである。 4.あいさつから見る文化差異 あいさつは文化差異のもう一つ典型的な例である。各民族の習慣や心理によ って、あいさつの仕方がかなり異なるのである。したがって、あいさつの違い は言語転換の障害になるかもしれない。 中国語ではよく使われているあいさつは「你好」のほかに、もっと豊かな形 がある。例えば、ご飯の時間に知り合いに会えば、 「吃饭了吗?」 (食事をした?) と聞き、相手が教室から出ているところを見て「下课了?」 (授業が終わった?) と聞き、相手が野菜を提げている様子を見ながら、 「买菜去了?」 (野菜を買い に行った?)と聞くのである。これらのあいさつは疑問文の形であるが、実は 質問ではなく、相手が答えなくてもいい。このようなあいさつの仕方は中国の 独特のものである。しかし、外国人にとっては、プライバシーを聞くようなあ いさつのしかたはなかなか納得できない。特に「吃饭了吗?」 (食事をした?) というあいさつは日本人が受け入れられない。日本語には「武士は食わぬど高 楊枝」ということわざがある。「武士はものを食べなくても、食べたようなふ りをして楊枝を使って空腹を人に見せない」という意味である。もし日本人は 「ご飯を食べた?」と聞かれたら、自分がご飯を食べるお金がなく、生活能力 に欠けているというふうに理解し、馬鹿にされるような感じがするかもしれな い。それゆえ、「吃饭了吗?」というあいさつの言葉を日本語に訳すときに限 36 界がある。 また、中国では友達の家を訪ねる場合、初めて友達の両親に会うとき、普通 「叔叔阿姨好」とあいさつするが、日本では「始めまして、よろしくお願いし ます」と言うのは一般的である。もし中国人に「初次见面,请多多关照」(始 めまして、よろしくお願いします)というなら、中国語としては不自然である といえよう。 宴会や会議のあいさつの言葉も中国語と日本語ではかなり違うのである。中 国語では「女士们、先生们、大家好」というような言葉であいさつを始めるの は一般的であるが、この言葉を日本語に転換するのはなかなか難しい。日本語 では同じような場合に普通「ご来場の皆様」と言うが、「女士们、先生们、大 家好」を「ご来場の皆様」に訳せば、原文に含まれる情報は部分的に喪失され るのである。 以上のように、本節では数字、色、呼び方とあいさつから見る中国と日本の 文化差異について分析した。文化差異がある場合、原語をそのまま目標言語に 直訳すれば、意味が変わってしまい、誤解を招きやすいのである。それゆえ、 原文に隠される深層意味を目標言語で表現するのは一般的である。そこで、原 語の文化意味が喪失される。 37 第四章 翻訳の限界の原因 第二章と第三章で見たように、翻訳の限界をきたすものは言語的な要素と文 化的な要素である。言い換えれば、なぜ翻訳に限界があるのかというと、中国 語と日本語という二つの言語に相違点が存在し、中国と日本という二つの民族 の文化に相違点が存在するからである。では、なぜ中国と日本の言語と文化が 異なるのか、さらになぜ各民族の言語と文化が異なるのか、つまり翻訳の限界 の根本的な原因は何であろうか。以下の三点が考えられると思われる。 1.国によって存在する現実世界が違う。 人々が存在する現実世界が大体同じであるが、各民族は特性があるため、そ の国にしか存在しないものがある。そのようなものはほかの国には等価物がな いため、ほかの国の言語にも対応する言葉がない。そこで、そのようなものを 翻訳するときに限界がある。例えば、中国では品質保証規定の中で「三包」と いう規定がある。つまり、「修理、交換、返品するという、3 つの保証カスタ マー・サービス」という意味である。日本では品質保証に対する規定があるが、 中国の「三包」の内包に対応する規定がない。したがって、「三包」に対応す る言葉は日本語にはないのである。翻訳するときに、解釈しかできないのであ る。一方、日本の「つゆ」「だし」などの調味料は中国にないため、中国語に は対応する言葉がない。 また、異なる状況によって、各民族の言語と文化に独特のものが形成されて いる。日本は海に囲まれているため、独自な島国文化が形成されていた。また、 この特殊な地理状況が日本語に影響を与えているところもある。例えば、日本 語には魚に関する表現は非常に多いのである。 2.思惟方式によって現実世界を表現する言語手段が違う。 各民族の歴史、社会、政治、経済形態及び地域などの状況が異なるため、そ れぞれ違う民族心理が形成され、さらに違う思惟方式が形成されている。思惟 方式によって現実世界をどのように表現するかは違うのである。したがって、 同じことでも言語によって表現の仕方が違う場合がある。そのような場合に言 38 語の間の転換が難しく、翻訳の障害をきたすのである。例えば、中国語では金 属を「黑色金属」と「有色金属」に分類するが、日本語では「黑色金属」と「有 色金属」をそれぞれ「鉄金属」と「非鉄金属」を言うのである。中国人は色で 金属を分類するのに対し、日本人は金属の成分で分類することが分かるのであ る。また、同じく「悪いことを自分の意思でやめる」という意味を表現するに は、中国語では「洗手不干了」 (手を洗ってやめる)と言うが、日本語では「足 を洗う」と言うのである。中国語では「手を洗ってやめる」と言うのは物事を 始めるのが手であると中国人は考えているからであろう。それに対し、日本語 の「足を洗う」という言い方の語源は仏教用語であると言われている。昔、イ ンドの僧侶は終日裸足で街中を托鉢して歩かねばならなかったのである。その ため、寺に帰るときには、足は泥だらけである。この汚れた足を洗い清め、心 身ともに清浄になることが一日の日課の終わりだったそうである。そこで、 「足 を洗う」という言葉は「悪いことをやめる」という意味に転じたのである。 3.国家の交流がまだ不十分である。 グローバル化により、国家と国家の交流が頻繁になり、ある民族の独特のも のがだんだんほかの民族に知られ渡される。各民族の独特の文化もだんだん世 界に知られほかの民族に理解されるようになっている。 「春联」 「中国功夫」 「旗 袍」など中国の伝統的なものは今世界中の人々に知られている。 「回锅肉」 「麻 婆豆腐」「青椒肉丝」などの有名な中華料理の名前も音訳でそのまま日本語で 使われている。同じように、日本の「寿司」 「着物」 「武士道」などの日本文化 を代表するものは世界に知られている。それに対応する「寿司」 「和服」 「武士 道」などの言葉も中国語として定着した。これらの例から見れば、国家の交流 により、言語転換の障害がなくなる可能性がある。したがって、今言語転換時 にまだ障害が存在する原因の一つとしては国家の交流がまだ不十分であるこ とが考えられる。 39 終 章 論文がここまで来ると、締めくくらなければならない。以上の分析と演習を 通じて以下の認識を得たのである。 1.言語的側面から言語転換の障害となる要素について分析してきた。言葉 の音、形に関する要素、慣用法及び表現の違いが翻訳の限界をきたす可能性が あるという結論が出された。各言語の音、形と意味のつながりに特性があるた め、言語転換のとき、一般的には意味は転換できるが、音、形に関する要素に よって作り出された特殊な修辞あるいは美的効果は同時に転換できなくて、そ のままやくしてしまうことになる。また、慣用法が各民族の文化背景や民族心 理などいろいろな要素とかかわるため、各言語に独特の慣用法が存在している。 それらを訳すときに、表層意味と深層意味のどちらかしか訳せなく、同時に両 方の意味を伝えるのはなかなかうまくできなくて、いわゆる忠実に原語の意味 を伝えるのが限られている。このほかに、言語転換のとき、原語の独特の表現 によって表される感じやニュアンスが喪失されやすくなることも尐なくない。 二つの言語の転換は言語の側面にとどまるのではなく、必ず二つの文化に関 わるに違いない。それで文化における翻訳不可能が問題にされることは周知の とおりなのである。本論が触れたところは文化の空白と文化の差異という翻訳 の限界をきたす主な文化的な要素である。一つの文化にあるものはもう一つの 文化にないという文化の空白が存在する場合、目標言語には原語に対応する等 価物が存在していないため、目標言語で原語の文化を解釈することになるより 仕方なく、理想な翻訳を期待することができるとは言えない。また、文化差異 が存在する場合、原文の表層意味を伝達することができても、原語の深い文化 含意を再現することを諦めざるを得ない場合が多い。 以上のような翻訳を十分に実現できないことはまさしく翻訳の限界ではな かろうか。翻訳に限界が存在していることは客観な事実であり、認めざるを得 ないことである。翻訳ができない、或いは十分に翻訳を成し遂げることができ ないのは訳者の目標言語の能力にもかかわっていても、本論で分析したように、 言語的な要素と文化的な要素からきた翻訳の限界はどんな訳者にとっても苦 40 手なところなのである。 2.翻訳の限界には言語的限界と文化的限界がある。言語的限界はよく訳者 の口にするものであるが、文化的限界はしばしばおろそかにされ、問題視され ていないのが現状である。近年、翻訳が文化であるという言い方もあるので、 翻訳の文化的限界をもっと大事にしなければならない。翻訳は文字の転換にす ぎなく、肉体労働なのであるという翻訳を軽視する思想を捨てて欲しい。翻訳 を言語のレベルで見るだけではなく、文化のレベルに上げ、文化の高度に上げ て眺めなければならないとじみじみ感じている。 3.翻訳の限界がまさしく翻訳するときの障害点である。これらの障害を克 服することは訳者の辞することのできない責任ではないか。勇敢な訳者、真面 目な訳者、責任のある訳者、この翻訳の障害点、つまり翻訳の限界にチャレン ジしようではないか。今まで翻訳者が加訳、不訳、逆訳、解釈訳、注をつける ことなどの翻訳方法を使い、翻訳の限界を乗り越えようといういろいろな試し をしてきた。われわれに数多くの便利を残してきた。われわれはこれからも翻 訳の方法論をもっと発展させ、翻訳の限界を乗り越えるのに努力し続けなけれ ばならない。 本稿では中日対訳の角度から翻訳の限界について論述した。翻訳の限界に関 する研究、そして中日対訳の実践に尐しでも示唆を与えることができれば幸い だと思われる。ここでは言語的側面と文化的側面から翻訳の限界について分析 したが、翻訳に限界がある場合、どのように対応すればいいかについて触れな かった。今後もし機会があれば、翻訳の方法論と結びつけ、翻訳の限界をどの ように乗り越えるかについて研究したい。また、筆者の能力の関係で、翻訳の 限界に関する認識や分析方法にあたって、妥当でないところ、また、論述の足 りないところが多多あると思うのでご容赦頂き、諸先学の方々にご叱正を願う 次第である。 41 謝 辞 修士論文の執筆に当たってご指導を頂きました陶振孝先生に心から感謝の 意を申し上げたいと思います。研究方法の初歩から、研究計画、概要の作成、 論文の執筆にいたるまで丁寧にご指導いただきました。本当にありがとうござ いました。 42 参考図書 1.J.C.CATFORD(1965)『A Linguistic Theory of Translation』 Oxford University Press 2.包惠南(2001)『文化语境与语言翻译』 中国对外翻译出版公司 3.陈岩(2000)『新编日译汉教程』 大连理工大学出版社 4.高宁等(2003)『新编汉日翻译教程』 上海外语教育出版社 5.郭建中(2000)『文化与翻译』 中国对外翻译出版公司 6.孔繁明(2004)『日汉翻译要义』 中国对外翻译出版公司 7.刘宓庆(2003)『当代翻译理论』 中国对外翻译出版公司 8.陶振孝(2005)『现代日汉翻译教程 』 9.E・A・ナイダ(1972)『翻訳学序説』 高等教育出版社 開文出版社 10.庵巧雄(2001)『新しい日本語学入門』 スリーエーネットワーク 11.庵巧雄他著(2000)『初級を教える人のための日本語文法ハンドブック』 スリーエーネットワーク 12.庵巧雄他著(2000) 『中上級を教える人のための日本語文法ハンドブック』 スリーエーネットワーク 13.中村保男(2001)『創造する翻訳―言葉の限界に挑む―』 14.成瀬武史(1977)『翻訳の諸相―理論と実際―』 研究社出版 開文出版社 15.柳父章(1976)『翻訳とはなにか―日本語と翻訳文化―』 16.山本哲也他著(2002) 汉译日精编教程 大连理工大学出版社 参考論文 1.曹敏祥 (1998) 「谈等值翻译」 『中国翻译』1998 年第 2 期 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