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早稲田大学大学院日本語教育研究科 修士論文概要書 論文題目 「 複 言 語 と と も に 生 き る 」こ と を 創 出 す る 年少者日本語教育実践 -「 ひ と つ の こ と ば 」 は ど の よ う に し て 育 ま れ た の か - 張 夢卉 2016 年 9 月 1 第 1 章 問題の所在 本章では、本研究の背景、問題意識、研究主題等を述べた。 近年、グローバル化に伴い、国民国家の枠組みに留まらない大量人口移動が日々行 われるようになった。その中で、複言語環境で成長する「移動する子ども」 ( 川上,2011) が増加しており、その背景が多様化・複雑化している。このような現状に対し、多く の中心的教育アプローチが誕生したが、これらの研究はメインストリームの母語話者 を基準とした言語・知識をいかに身につけさせるかを軸としており、複言語環境で成 長する生徒の「ある人間性 1」 (山口・安井,2010)、すなわち複言語性が考慮されてい ない。筆者は自身の「移動する子ども」だった経験を踏まえ、 「母語話者を基準とした 単一言語能力」を前提とした言語教育では複言語と生を結ぶ JSL 生徒の生き方を創 り・支えることができなく、「人間教育」的視点に欠けることを指摘した。 したがって本研究は、複言語話者を基準とした年少者日本語教育実践とは何かを明 らかにすることを目的とし、それを踏まえ、人間教育としての日本語教育の方向性に ついて考察する。 第 2 章 「ひとつのことば」を育む実践の理論的枠組み 本章では、世界の言語教育の知見から「ひとつのことば」を捉え・育む視点を提示 した。そして、 「ひとつのことば」的視点から日本国内の年少者日本語教育の先行研究 を概観し、その文脈で誕生した中心的教育アプローチを批判的に検討することで、本 研究の視座を示した。 まず、近年の世界の言語教育で「ことばは動的行為であり、言語能力は混然一体」 (川上,2015b)とする立場から、複言語話者を基準とした視点から言語能力や言語教 育を捉え直そうとする研究(コストら,Garcia 他;2011,2014)があることを指摘し た。その上で、本研究において「複言語話者を基準とした複言語能力」を「ひとつの 1 山口・安井(2010)は「ある人間性」が自然的な人間性であるのに対し、「成る人間性」は自然的 な人間性を土台に、能力や生き方を形成していく人間性であると述べる。筆者はこれを複言語環境 で育つ生徒にたとえ、 「ある人間性」とは複言語環境に生まれ、幼少期より複言語に触れながら成長 する生徒の自然的な人間性を指し、 「成る人間性」とは複言語を使用する生徒に働きかけることを通 して、複言語とかかわる力や複言語とともに生きる自己を形成していく人間性を意味すると捉えた。 2 ことば」と仮定義し、先行研究の知見から「ひとつのことば」を捉え・育む視点を提 示した。 つぎに、 「ひとつのことば」的視点から、1970 年代から 2010 年代(前半)までの日 本国内の年少者日本語教育を 4 つの時期に分けて、批判的に概観した。その結果、研 究背景の変遷に伴い、年少者日本語教育で捉えられてきた言語能力が「日本語能力」 (佐藤,中島;1981,1988)、 「教科学習能力」 (岡崎,齋藤;1997,1999)、 「日本語と ともに生きる力」(齋藤,尾関;2006,2008)を経て、近年、「複言語とともに生きる 力」 (川上,2014,2015a,2015b)に変化していることが分かった。これを踏まえ、2010 年(後半)において「『不均質だとしても全体としてひとつのもの』を持つ自己として 確立していくこと」(川上,2015b)に代表されるような「複言語とともに生きる力」 を育む日本語教育を実現する方法論として、これまでに提唱された中心的教育アプロ ーチ(中島,岡崎,尾関;1988,1997,2008)が妥当かどうかを検討した。その結果、 これらの研究はすべて「母語話者を基準とした単一言語能力」を絶対的前提としてお り、①「ことば=languaging」、②「言語能力=複言語の力」の視点に欠けていること を問題点とした。したがって、複言語と生を結ぶ生徒の現実と向き合った、複言語話 者を基準とした日本語教育の必要性を指摘した。 最後に、上述の問題点を踏まえ、「『ひとつのことば』を育む実践とはどのような実 践か」を研究主題とした。主題を答えるために、3 つのリサーチクエスチョン(以下、 RQ)を設定した。 研究主題とリサーチクエスチョン 主 題 :「 ひ と つ の こ と ば 」 を 育 む 実 践 と は ど の よ う な 実 践 か 。 RQ1: 生 徒 に と っ て の 「 ひ と つ の こ と ば 」 は ど の よ う な こ と ば か 。 RQ2:「 ひ と つ の こ と ば 」 を 育 む 場 は ど の よ う に 創 出 で き る か 。 RQ3:「 ひ と つ の こ と ば 」 を 育 む 実 践 は 何 を 実 現 で き た か 。 第 3 章 実践背景と研究方法 本章では、実践背景として実践の位置付けや枠組み、研究方法等について述べた。 3 まず、本研究で使用する実践データは、神奈川県にある私立白鵬女子高等学校(以 下、白鵬高校)での放課後日本語支援、通称わにっこひろば(以下、ひろば)にて行 われたものを用いる。ひろばは、2015 年 4 月入学の 1 年生を対象に、2015 年 6 月 1 日 から 2016 年 3 月 24 日まで計 19 回行われた。活動形態としては生徒自身が学びたい内 容を選択し、課題を持ち込むスタイルである。なお、強制参加ではないため、日によ って参加人数が変動した。なお、支援者は基本的に大学院生 2 名体制となる。 名称 わにっこひろば 場所 白鵬高校の空き教室 日時 毎週水曜日 2の16:00〜18:00 参加者 白鵬高校に在籍するJSL生徒(主に1年生) 活動形態 宿題や課題のサポート、教科の基礎学習、イベントに向けての準備、 学校生活の相談など 支援者 大学院生2名 つぎに、本研究は質的研究の立場から、エピソード記述(鯨岡,2005)を援用した。 本手法を用いるのは、複言語使用の中で見られた「生の断片」を描くことで、日々複 言語と生を結ぶ生徒の姿をより明らかにできるのではないかと考えたからである。具 体的なデータとして、「フィールドノーツ」、「指導記録」、「成果物」などがある。 研究倫理については、ひろばに参加する生徒全員に対し、本研究の目的と概要、倫理 的配慮と個人情報の取り扱いについて十分に説明した上で、調査協力者として同意を 得た。 第 4 章 実践分析 本章では、計 19 回の実践をもとに分析を行い、生徒にとっての「ことばの学び」を 明らかにした。調査協力者の中でも、特に直接的なやりとりが多かったミア、リコ(す べて仮名)を研究対象者とし、①「ことば=languaging」および②「言語能力=複言語 の力」の視点から、複言語使用によってどのような「ことばの学び」が生まれたのか 2 2015 年 6 月 1 日〜2015 年 6 月 29 日までは毎週月曜日であったが、支援者らの授業関係の変動か ら、毎週水曜日に変更となった。 4 を 43 個のエピソードをもとに分析した。 名前 年 齢 3 出身国 来日時期(年齢) 家庭内言語 ミア 15 中国 2013 年 9 月(11) 父母と中国語、妹と混ぜ語 リコ 15 中国 2011 年 6 月(13) 母と混ぜ語、父と日本語 その結果、ミア、リコともに⑴経験を振り返り意味づける、⑵感情や思考を他者に 伝える、⑶心を通わせ世界を共有する、⑷教え・学ぶ主体として知を探求する、⑸自 分らしさを生かして自己実現する、という 5 つカテゴリーからなる「ことばの学び」 が生まれたことが分かった。 第 5 章 実践分析の考察 本章では、第 4 章の分析で明らかにした 5 つのカテゴリーからなる「ことばの学び」 を、⑴自分をみつめることば、⑵自己を表現することば、⑶他者とつながることば、 ⑷ともに学びあうことば、⑸社会に参加することばと呼ぶこととした。そして、その 実態を先行研究や生徒の変容を踏まえて議論することによって、 「 ことばの学び」と「こ とばの力」の関係性、「ことばの力」と生徒の変容の関係性を浮き彫りにした。 ことばの学び いとなみ ことばの力 生徒の変容 ⑴自分をみつ 過去の経験を振り返 ことばを 複言語話者的アイデン めることば り意味づけること 位置づける力 ティティを再構築する (ミア) ⑵自己を表現 感情や思考を 思いをことば メインストリームとの することば 他者に伝えること にする力 間にある言語ヒエラル キーを超える(ミア) ⑶他者とつな 心を通わせ世界を がることば 共有すること 心を通わせる力 メインストリームの 母語話者と関係性を構 築する(リコ) 3 2015 年 6 月時点とする。 5 ⑷ともに学び 教え・学ぶ主体とし あうことば て知を探求すること 学びを広げる力 複言語を軸とした 夢・キャリアを形成す る(リコ) ⑸社会に参加 自分らしさを生かし することば て自己実現すること 自己実現する力 メインストリームクラ スの学びに参加する (ミア) 第 6 章 総合考察 本章では、第 4 章と第 5 章で得られた知見を踏まえ、生徒にとっての「ひとつのこ とば」とは何かを軸に議論し、リサーチクエションおよび研究主題に答えた。 研究課題に対する答え RQ1: 生 徒 に と っ て の 「 ひ と つ の こ と ば 」 は ど の よ う な 力 か 。 à 自分・他者・社会とかかわるために、ことばを再構築したり、カスタム する(組み合わせたり・切り替えたり・同時に使う)といった戦略的に 使用する力。 RQ2:「 ひ と つ の こ と ば 」 を 育 む 場 は ど の よ う に 創 出 で き る か 。 à 言語ヒエラルキーが起こらない空間において、自分とのかかわりを軸と し た 活 動 を 基 盤 に 、 教 え る -教 え ら れ る を 超 え た 関 係 性 か ら 創 出 で き る 。 RQ3:「 ひ と つ の こ と ば 」 を 育 む 実 践 は 何 を 実 現 で き た か 。 à 複言語使用方略(ランゲージングパターン)を発達させ、言語ヒエラル キーを超えてメインストリームへの参加、および複言語とともに生きる 自己の確立を実現する。 研 究 主 題 :「 ひ と つ の こ と ば 」 を 育 む 実 践 は ど の よ う な 実 践 か 。 à 空間・活動・関係性という 3 つの視点から「ひとつのことば」を育むこ 6 とによって、生徒の複言語使用方略(ランゲージングパターン)を発達 させ、言語ヒエラルキーを超えて複言語とともに生きることを実現する 実践。 第 7 章 結論 本章では、本研究の成果と意義について論じた上で、年少者日本語教育への提言と 今後の課題を述べた。 まず、本研究は、複言語環境で育つ生徒が戦略的に複言語を使用しながら、複言語 およびメインストリームとの距離感を模索しつつ、人間的発達をしていることを明ら かにした。しかし、従来の日本語教育では、このような複言語の使い方、つまり複言 語使用方略(ランゲージングパターン)をコードスイッチング(ベーカー,1996)と 呼び、使い分けができない未熟な話者、あるいはダブルリミテッド(中島,2007)と 称し、何語もできない話者として不当に捉えてきた。筆者は、 「母語話者を基準とした 単一言語能力」が前提にあるからこそ、こうした「くくり」が生まれるのであって、 「複言語話者を基準とした複言語能力」を前提にすれば、 「くくり」などはできないと 考える。つまり、母語話者を基準とした日本語教育では、生徒の「ある人間性」が捉 えられなく、育むことができないと言える。 したがって、複言語話者の基準を前提に、「ひとつのことば」を育むことによって、 「ある人間性」を「成る人間性」へと高めることを目指す「人間教育としての日本語 教育」こそが、今後の方向性だと考えられる。 日本語教育の目指す方向性 「ひとつのことば」を育むによって、 「ある人間性」を「成る人間性」へと高める日本語教育 つぎに、本研究の知見をもとに、年少者日本語教育への提言を 3 つ挙げた。 1 つ目は、「ひとつのことば」を捉える必要性が挙げられる。「ひとつのことば」を 7 捉えるとは、ことばを静的なものとする国家主義的な言語理解から離れ、動的行為と して「ことば=languaging」の視点から捉えることである。 2 つ目は、「ひとつのことば」を育む必要性が挙げられる。「ひとつのことば」を育 むとは、 「言語能力=複言語の力」だと捉え、複言語使用方略(ランゲージングパター ン)を発達させていくことを意味する。 3 つ目は、「ひとつのことば」を育む場をつくる必要性が挙げられる。「ひとつのこ とば」を育む場をつくるとは、 「場=空間・活動・関係性」だと捉え、空間・活動・関 係性の 3 点から複言語使用を促すことである。 ひとつのことばを育む方法論 ① 「 ひ と つ の こ と ば 」 を 捉 え る 視 点 … こ と ば = languaging ②「ひとつのことば」を育む視点 … 言語能力=複言語の力 ③「ひとつのことば」を育む場をつくる視点 … 場=空間・活動・関係性 最後に、本研究で明らかにできなかった課題として、認知的発達に伴う「ことばの 学び」は何か、「バイリンガル支援者」の役割は何か、「ひとつのことば」を育む指導 方法は何か、という 3 つを挙げた。積み残された課題として、 「ひとつのことば」をキ ーワードに、今後も大いに議論していくことが、複言語と生を結ぶ生徒の生き方を創 り・支える日本語教育に繋がっていくと確信している。 主な参考文献 岡崎敏雄(1997)「日本語・母語相互育成学習のねらい」『平成八年度外国人児童生徒 指導資料母国語による学習のための教材』茨城県教育庁指導課 pp.1−7 尾関史(2008)「「意味創り」を目指したことばの支援の可能性-移動する子どもたち が主体的に学習に参加するために」『早稲田日本語教育学』3:11-24 川上郁雄(2011)『「移動する子どもたち」のことばの教育学』くろしお出版 川上郁雄(2014)「ことばとアイデンティティ-複数言語環境で成長する子どもたちの 生を考える-」宮崎幸江(編)『日本に住む多文化の子どもと教育-ことばと文化 8 のはざまで生きる-』上智大学出版社 pp.117-145 川上郁雄(2015a)「複言語で育つ大学生のことばとアイデンティティを考える授業実 践」『早稲田日本語教育研究』3:33-42 川上郁雄(2015b)「「ことばの力」とは何かという課題」『日本語学』34(12):56-64 川上郁雄・野山広・石井恵理子・池上摩希子・齋藤ひろみ(2014) 「「特別の教育課程」 化は子どもたちのことばの教育に何をもたらすのか-年少者日本語教育のこれ までの成果と教育実践から考える-」 『 2014 年度日本語教育学会春季大会予稿集』 pp.273-284 鯨岡峻(2005)『エピソード記述入門-実践と質的研究のために-』東京大学出版社 コスト・ダニエル,ムーア・ダニエル,ザラト・ジュヌヴィエーヴ(1997[2011]) 「複 言語複文化能力とは何か」姫田麻利子(訳) 『大東文化大学紀要人文科学編』 49: 249-268 齋藤ひろみ(1999)「教科と日本語の統合教育の可能性-内容重視のアプローチを年少 者日本語教育へどのように応用するか」 『中国帰国者定着促進センター紀要』7: 70-94 齋藤恵(2006)「JSL 児童生徒の成長における「audibility」と「行為主体性」の意味子どもの成長を支援する言語教育のために-」リテラシーズ研究会(編)『リテ ラシーズ 2-ことば・文化・社会の日本語教育へ-』くろしお出版 pp.113-128 佐藤あや子(1981)「帰国子女に対する作文指導」『日本語教育』43:61-73 棚橋啓一(2001)『子どもの人間的発達』新樹社 中島和子(1988)「日系子女の日本語教育」『日本語教育』66:137-150 中島和子(2007) 「テーマ「ダブルリミテッド・一時的セミリンガル現象を考える」に ついて」『母語・継承後・バイリンガル教育(MHB)研究』3:1-6 ベーカー・コリン(1993[1996]) 『バイリンガル教育と第二言語習得』岡秀夫(訳編) 大修館書店 山口満・安井一郎(2010)「人間形成の意味」『特別活動と人間形成』学文社 pp.1-2 Garcia,O .and Li,Wei. (2014) Translanguaging : Language,Bilingualism and Education .New York : Palgrave Macmillan 9