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国の家・・・国の ・・・国の民

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国の家・・・国の ・・・国の民
No.87
発行日
2015.12.13
編
発行:ばとこいあ神戸事務局
集
事務局: 尼崎市築地5丁目3-12 千松 宛
Tel: 090-8216-1243
千
松
幸
夫
E-mail : [email protected]
ホームページ : http://www9.plala.or.jp/batokoia/
国の家・・・国の○△□・・・国の民
橋本健治
このところ、国のありように関わる次々と起こってくる事態には心底ウンザリや疲れるワ
文字どおり国(國)とは歴史的に王(玉)が支配する領「域」を表してきたコトバやった
今この「クニ」が主語や形容や名称に使われるとイヤーな気分に襲われるんはワタシらや
クニの内外問わず「戦略的・・」「・・の戦い」のコトバが紙面電波ネットに迫り溢れる日常
世の中なんでもかんでもナンデこうも「戦」「 WAR」嗜好なんかほんまに呆れるワ
クニの益(国益)という甘い言葉に惑わされてうかつにも操られそうになるワタシらや
コウエキ(公益)をも楯に言い募ってワタシらのためであるかのようにもふるまうクニ
クニの家は人的機構と諸制度~諸施設に依って民を支配し勝手に他国と競い争ってしまう
何かとコクサイシャカイ ( 国際 International-社会 Community) を勝手都合に言い立ててる
クニとクニとの「際」は膨張後退消えては現れ越えてはぶつかり日米トモダチもアブナイ
選別グループ化集団的対抗化ご近所つきあいさえままならぬ歴史解釈政治判断先行やがな
誕生して否応なくクニの民になるしかない(マイナンバーなどと番号付に!)ワタシらやのに
苦労して成長して大人になったらクニの家のために働いて徴税~増税されるちゅうのに
民が主権を持つとされる「ミンシュシュギ」がクニの体となって戦後 70 年経ったやろに
クニの家と民とは互いに多大なコストと時間を掛けて抗い合わねばならない事象次々や
クニの思うつツボに落っことされてたまるかいなと意地でも抗うワタシら民が
自弁でタノモシクも丸腰で繰り返し ナミダグマシイ努力してきたにも拘わらず
問題の原因に取り組まずにハグラカシその為に起った事象だけに対処するばかりのクニや
クニの金庫は慢性的借金状態やのに無駄な出費止めんと増やして増税へコジツケされるワ
クニの家の要の「法」さえ時の政権あるじらの都合次第に料理され一杯食わされるワ
クニの○△□らは給料手当付の仕事として完全装備でシツコイ程に意固地に面子を通すワ
民の知る権利を抑え報道の自由さえ損なわせる介入は歴史の逆回転やないか
貿易経済の連携に名を借りる隠れた軍事的拘束力としての USA 策謀に依る TPP あかん
民が培ってきた働きを活かさんと大企業主導経営を推進する TPP はクニを売るに等しい
原発再稼働も省エネ投資も宇宙向け開発もクニのプロジェクトのほとんどが浪費なんや
それらを担う企業らの経済活動も実は廻り回って民の負担で賄われることになるやろう
このクニのオコナイとはなんと膨大なコストと時間の浪費であることやろかとナサケナイ
-1-
クニのクニによるクニのための一億総活躍社会 (one hundred million active society) やて!
かつて通ってきた「一億総玉砕」「一億総白痴化」またゾロのキャッチコピーかおぞまし!
なんでこのクニのイエのあるじはこうもワタシら民を裏切るような存在なんやろか
このクニのありように関わる大事がワタシらの思わへん方向へと運ばれていく始末
なんともクヤシイがな、なんとかせなアカンがな、どないしてくれんねん、
*
今年3月、かつては神戸の中心だった兵庫区で創立 143年の吾が母校の閉校式を見届けてお
こうと出かけたら、近隣4校統合を余儀なくされるほどの少子化で在校生数 70 人程。
講堂中央には「日の丸」旗掲げられており式典冒頭に「起立、礼」の声がサリゲナク響く。
戦後筆頭生まれのワタシらが経験しなかった教育の現場の圧力が重く胸に応えたことだ。
スポーツ界でごくアタリマエに露出するクニのこの旗印は民の行方を暗示していないか・・
2015年10月11日(日)
神戸学生青年センター
ホールにて
参加者9名(表現者7組8名)
☝
彼末
金
孔
れい子さん
雀
⇒
-2-
☝
中山
けんいちさん
☝
橋本
健治さん
☝
藤原
洋介さん
-3-
☝
小林
正弥さん
☝
永井
ますみさん
☝
中野
誠三さん
-4-
写真はありません
千松
☝
村上
幸夫
数枝さん
Photography by Senmatsu
-5-
『ばとこいあ神戸』こもごも
『ばとこいあ神戸』の歴史
その4
千松
幸夫
【第4章】金芝河救援コンサートについて
今 回 は 、『 金 芝 河 救 援 コ ン サ ー ト 』 に つ い て 書 い て い き た い 。
りーフレットによると、1976年1月30日に開催したことになっているが、
第 1 期 の『 ば と こ い あ 神 戸 』が 1 9 7 5 年 1 0 月 に 始 ま っ て い る 事 か ら 考 え て 、
『ば
と こ い あ 神 戸 』を 始 め る 前 に こ の コ ン サ ー ト に 向 か っ て 動 き 始 め て い た こ と に な る 。
こ れ は ち ょ っ と 時 間 的 に 合 わ な い よ う な 気 が す る が 、リ ー フ レ ッ ト に 従 っ て お こ う 。
こ の 少 し 前 に 中 之 島 中 央 公 会 堂 で『 金 芝 河 救 援 コ ン サ ー ト 』が 開 か れ て い て 、隆
二 郎 や ホ ン ・ ヨ ン ウ ン 君 、佐 渡 山 豊 さ ん な ど が 参 加 し て い た ら し い( 僕 は 参 加 し て
い な い が 、)。そ の 流 れ か ら 隆 二 郎 が「 も っ と 大 き な ホ ー ル で や ろ う 」と 言 い 出 し た
のだと思う。
こ こ で 金 芝 河 さ ん に つ い て Wiki pedi a か ら
金 芝 河 (キ ム・ジハ、 Kim Chi - Ha、本 名 :金 英 一 (キム・ヨンイ ル) ) 、 1941 年 2 月
4 日 -)は、大 韓 民 国 の詩 人 ・ 思 想 家 。ペン ネー ムの「芝 河 」は「地 下 」に由 来 する
とも言 われる。
ソウル大学校美術大学美学科在学中から詩作を発表す
る 。 在 学 中 に 4・ 19 学 生 ( 4 月 ) 革 命 注 1 に 参 加 。 以 降
も学生運動を主導し当局から逮捕拘束される。
1961 年 、 5・ 16 軍 事 ク ー デ タ ー 注 2 で の 朴 正 煕 ( パ ク ・ チ
ョ ン ヒ )注 3 政 権 登 場 以 降 、反 政 府 活 動 を 強 め る 。1970 年 、
朴正煕大統領体制を鋭く風刺した長篇詩『五賊』注4を発
表 し 、 反 共 法 違 反 容 疑 で 拘 束 さ れ る ( 五 賊 筆 禍 事 件 )。 当
局からの逃亡生活を余儀なくされるが、地下活動を続け、
軍 事 政 権 下 で 民 主 化 運 動 を リ ー ド し た 。 1974 年 、 大 統 領
緊急措置により死刑判決を受けたが、一旦は釈放。しか
し 、釈 放 後 に「 東 亜 日 報 」に 掲 載 し た 手 記『 苦 行 - -1974』で 、人 民 革 命 党 事
件 の 捏 造 を 批 判 し た( 民 青 学 連 事 件 注 5 )こ と か ら 反 共 法 違 反 に よ り 再 逮 捕 、
死 刑 判 決 ( の ち 無 期 懲 役 に 減 刑 )。
投獄に対して、ジャン=ポール・サルトルや大江健三郎、鶴見俊輔など
に よ る 国 際 的 釈 放 要 求 の 声 が 沸 き あ が り 、 1980 年 12 月 再 度 釈 放 さ れ る 。
通算 7 年にも及ぶ獄中生活に対し、軍事政権の言論弾圧に屈しなかったと
して、ロータス特別賞、クライスキー人権賞、偉大な詩人賞を受賞。
以 降 、詩 作 以 外 に も 随 筆 や 談 論 集 を 発 表 し 、パ
ン ソ リ や 仮 面 劇 の 伝 統 を 生 か し た『 櫻 賊 歌 』
『蜚
語 』 な ど を 発 表 。 1982 年 頃 か ら は 、 地 域 自 治 を
提 唱 す る サ ル リ ム( 生 命 )運 動 や 環 境 問 題 、消 費
者共同体運動、東アジアの伝統を見直す活動な
ど、詩作以外にも活動を広げる。
-6-
2013 年 1 月 4 日 、再 審 で民 青 学 連 事 件 の嫌 疑 に つ いて「犯 罪 の事 実 なし」として
無 罪 判 決 が下 っ た。なお、漢 字 復 活 論 者 でもあ る。
こ の 体 制 に 反 抗 す る 詩 人 を 獄 中 か ら 救 う た め に 、隆 二 郎 が「 皆 で や ろ う 」と 言 い
出 し た の だ と 思 う 。『 ば と こ い あ 神 戸 』 も 各 地 の ラ イ ブ ハ ウ ス 巡 り も 、 オ ー ル ナ イ
ト コ ン サ ー ト も 、『 金 芝 河 救 援 コ ン サ ー ト 』 も 、『 11. 22 支 援 コ ン サ ー ト 』 も 、 沖 縄
での『7 年目の流れコンサート』も、第 2 期『ばとこいあ神戸』でのあちこちのコ
ン サ ー ト も 全 部 隆 二 郎 が 言 い っ 出 し っ ぺ だ 。色 ん な こ と に 興 味 を 持 っ て 、色 ん な と
こ ろ に 顔 を 出 し て 人 脈 を 築 い て い く 。 そ ん な 面 が 多 々 あ っ た 。「 な ん で 小 林 さ ん と
一 緒 に い た 、一 緒 に や っ て る の ? 」と 問 わ れ た 時 、今 ま で 常 に 僕 は 言 っ て き た 。
「隆
二 郎 と 一 緒 に い る と 、色 々 と 面 白 い こ と が で き る し 、一 緒 に や っ て る と し ん ど い こ
ともあるけど面白いから…」と。
URCレコードの社長だった秦政明注6さんの力で大阪桜橋のサンケイホール
( キ ャ パ 1 5 0 0 名 ) を 抑 え て も ら っ た 。 出 演 者 は 小 室 等 さ ん ( 小 室 さ ん )、 高 田
渡 さ ん ( 渡 ち ゃ ん )、 三 上 寛 さ ん ( 寛 ち ゃ ん ). な ぎ ら け ん い ち ( 現 な ぎ ら 健 壱 、 な
ぎ ら さ ん )と 隆 二 郎 。隆 二 郎 の 人 脈 を 生 か し た キ ャ ス テ ィ ン グ で 、た ぶ ん 事 務 所 や
マ ネ ー ジ ャ ー を 通 さ な い 出 演 交 渉 だ っ た ん だ と 思 う が 、み ん な 気 さ く に 出 演 し て く
れ た は ず だ 。ギ ャ ラ は 隆 二 郎 も「 め ち ゃ 安 い 」と 言 っ て た け ど 、た ぶ ん 一 人 5 万 円
ぐ ら い と 往 復 交 通 費 、 宿 は 大 阪 梅 田 の O S ホ テ ル だ っ た と 思 う 。 こ の 後 の 『 11.22
支 援 コ ン サ ー ト 』都 合 3 回 や 沖 縄 で の『 7 年 目 の 流 れ コ ン サ ー ト 』も 、1979 年 の 関
西 大 学 で の コ ン サ ー ト も 渡 ち ゃ ん 、寛 ち ゃ ん 、な ぎ ら さ ん は 不 変 だ っ た し 、メ イ ン
ゲ ス ト は 変 わ っ た け ど 出 演 交 渉 は い つ も 同 じ だ っ た ろ う 。こ の 姿 勢 は 、第 2 期 の 島
根 県 玉 造 町 の「 ~ ま ち ・ ひ と ・ 自 然 ~ コ ン サ ー ト 」も 兵 庫 県 伊 丹 市 の「 伊 丹 郷 町 酒
蔵ライブ」も一緒だった。
こ の 時 に も 面 白 い 話 が あ る 。隆 二 郎 は 周 り の シ ン ガ ー た ち( 出 演 し て く れ る メ ン
バ ー 以 外 の )か ら は「 政 治 が ら み の コ ン サ ー ト な ん か 集 客 で き な い よ 。サ ン ケ イ ホ
ー ル は ガ ラ ガ ラ や よ 」と 。結 果 は 3 回 の サ ン ケ イ ホ ー ル で の コ ン サ ー ト は 大 盛 況 で
い っ ぱ い に な っ た 。ま た 井 上 陽 水( 当 時 は 芸 名 を こ の 名 前 に し て い た が 、フ ォ ー ク
を よ く 知 っ て い た 人 達 か ら は「 ア ン ド レ カ ン ド レ 」で 知 ら れ て い た け ど・・・)か
ら 隆 二 郎 に「 そ の コ ン サ ー ト に 出 し た く れ ま せ ん か ? 」と 電 話 が あ っ た ら し い 。隆
二 郎 は「 彼 の 唄 が こ の コ ン サ ー ト の 趣 旨 に は 合 わ な い か ら と 断 っ た 」と い っ て い た 。
ポ ス タ ー 、ビ ラ を 印 刷 屋 に 頼 ん で あ ち こ ち に ば ら ま き 、貼 っ て も ら っ た し 、ポ ス
タ ー は 神 戸 ・ 大 阪 で 夜 中 に「 ば と こ い あ 」の 中 ま で 貼 っ て 行 っ た し 、ビ ラ も 神 戸 や
大阪で巻いたりもした。
ポスター貼りは、大阪市地下鉄の西梅田駅(当時の隆二郎の勤務地)を起点に、
隆 二 郎 の 勤 務 に 合 わ せ て 、終 電 車 発 車 後 に ス タ ー ト し た 。そ の 直 前 に 駅 長 室 に 入 り 、
終 電 車 発 車 後 に 隆 二 郎 と 一 緒 に 地 下 道 の 鉄 扉 を 閉 め 、地 上 で 待 っ て い る パ パ の 車 で
あ ち こ ち に ポ ス タ ー 貼 り に 出 か け た の だ 。あ の 頃 の 西 梅 田 駅 周 辺 も 今 と は 全 く 違 う
風 景 だ っ た 。ヒ ル ト ン ホ テ ル も な く( そ こ に は 旭 屋 書 店 本 店 (木 造 の 建 物 )や『 珉 珉 』
や 雑 多 な 商 店 が い っ ぱ い あ っ た )、 四 ツ 橋 筋 は 今 と 同 じ 道 幅 は あ っ た が 車 は い つ で
も 駐 車 で き た 。大 き な 道 路 や 大 学 構 内 へ ポ ス タ ー を 張 り に 行 っ た 。ポ ス タ ー 貼 り も
台 紙 な ん か 使 わ ず に 、バ ケ ツ に「 洗 濯 の り 」を 入 れ 水 で 溶 い で 軍 手 で ポ ス タ ー の 裏
面と貼る場所にのりをつけポスターを貼って最後にポスターの表面にもう一度の
り を 付 け る と い う 方 法 だ っ た 。 深 夜 3~ 4 時 ご ろ に は 屋 台 で ラ ー メ ン や 関 東 煮 を 喰
っ た り 楽 し く や っ て い た 。道 路 で す る 時 に は 、自 転 車 に 乗 っ た お ま わ り や パ ト カ ー
には注意していた。当時も電柱や塀にポスターを貼るのは違法だったから・・・。
チ ケ ッ ト は 1 枚 2000 円 だ っ た ん じ ゃ な い か と 思 う 。 こ の チ ケ ッ ト も プ レ イ ガ イ
-7-
ド に 預 け た り も し た が 、メ イ ン は 組 合 や 団 体 で の 販 売 だ っ た 。プ レ イ ガ イ ド は 前 日
に は 売 り 上 げ を 集 金 で き る( た だ し 幾 ら か マ ー ジ ン を 取 ら れ る )け ど 、こ の 方 法 だ
と 当 日 ま で 売 り 上 げ が わ か ら な い 。い く ら お 客 さ ん が 入 る か は 当 日 に な っ て み な い
と 分 か ら な い の だ 。一 応 経 済 面 の 管 理 を し て い た の で 、2 週 間 ぐ ら い 前 か ら 僕 も 隆
二 郎 に 毎 晩 逢 っ て い た 。夜 一 緒 に 晩 飯 を 食 い に 行 く の だ が 、二 人 と も 固 形 分 が の ど
を 通 ら ず に 、酒 だ け を 飲 ん で い た 。サ ン ケ イ ホ ー ル で の 3 回 の コ ン サ ー ト は 3 回 と
もこの方法でチケットを売っていたので、二人とも 3 回ともこんな状態だった。
『金芝河救援コンサート』についての残りは次回に競うと思う。
注1
四 月 革 命 と は 、 1960 年 3 月 に 行 わ れ た 第 4 代 大 統 領 選 挙 に お け る 大 規 模
な不正選挙に反発した学生や市民による民衆デモにより、当時、第四代韓
国大統領の座にあった李承晩が下野した事件。最も大規模なデモが発生し
た 日 が 4 月 19 日 で あ っ た こ と か ら 、 4. 19 革 命 、 4. 19 と も 言 う 。 ま た 、 革
命 後 一 年 足 ら ず で 朴 正 煕 少 将 ら に よ る 軍 事 ク ー デ タ ー ( 5・ 16 軍 事 ク ー デ
ター)が発生して、自由が抑圧された長い軍政時代に突入したため未完の
革命とも呼ばれている。 詳しくは各自調べてください。
注2
5・ 16 軍 事 ク ー デ タ ー は 、後 の 韓 国 大 統 領 で 当 時 少 将( 第 2 野 戦 軍 副 司 令
官)だった朴正煕などが軍事革命委員会の名の下、起こした軍事クーデタ
ー 。 1961 年 5 月 16 日 に 発 生 し た た め 「 5・ 16 軍 事 ク ー デ タ ー 」 と 一 般 的
に言う。
注3
朴 正煕(パク・チョンヒ)は、大韓民国の軍人、政治家。国家再建最高
会議議長。第 5 代から第 9 代までの大韓民国大統領。本貫は高霊朴氏。
創氏改名による日本名は高木正雄(たかぎ まさお)。
1 番目の妻に金好南。2 番目の妻に文世光事件で暗殺の犠牲となった陸英
修 。 金 好 南 と の 間 に 長 女 の 朴 在 玉 。 陸 英 修 と の 間 に 、 次 女 で 第 18 代 大 韓 民
国 大 統 領 に 就 任 し た 朴 槿 恵 ( パ ク ・ ク ネ ) と 、 長 男 で EG テ ッ ク 現 会 長 の 朴
志晩。
統制的な軍事政権下では民主化などの運動は徹底して弾圧され、人権上問
題のある拷問や政治犯の投獄なども行われた。また対外政策においてもアメ
リカとの強固な同盟関係を作り出したベトナム戦争において、米軍同様に虐
殺や戦争犯罪に関与させる結果となり、ベトナムとの外交関係は悪化した。
また日本との友好姿勢も国内の民族主義(左派ナショナリズム)から敵視さ
れる背景となった。政権後半には単独での核武装などの自主国防路線や、日
本に滞在していた民主化活動家の金大中を諜報機関(KCIA)により拉致
し国家主権を侵害する(金大中拉致事件)など強硬な政策を進めた。
1979 年 10 月 26 日 、 大 規 模 な 民 主 化 デ モ の 鎮 圧 を 命 じ た 直 後 、 側 近 で あ
る 金 載 圭 情 報 長 官 に よ り 暗 殺 さ れ た 。 享 年 6 1。
注4
財 閥 を 狾 [折 /糸 ]、 国 会 議 員 を [勹 /大 /羊 ] 獪 [犭 /示 ]猿 、 高 級 公 務 員 を [足
/ 古 ][石 /業 ]功 無 猿 、将 星 を 長 猩 、長 ・ 次 官 を 瞕 [犭 /差 ] [目 /雚 ]と 当 て て 五
賊と呼び、彼らが国民から財を吸い上げて贅沢三昧する様子を描く。
[ ] は 金 芝 河 が 造 っ た 漢 字 で あ り 、既 存 の 文 字 に は な い 。そ れ ぞ れ 、発 音 の 同 じ 漢 字 を 当 て て い る 。
日 本 語 で は 、中 央 公 論 社 刊「 長 い 暗 闇 の 彼 方 に( 1971 年 12 月 2 5 日 発 行 )」
所 蔵 。中 央 公 論 社 は 特 別 清 算 さ れ 、消 滅 し て い る 。現 在 は 読 売 新 聞 社 の 子 会 社 で「 中 央
-8-
公論新社」となっている。この本も古書としてしか入手できない。ネットで調べたとこ
ろ 1000 か ら 3000 円 ぐ ら い で 入 手 で き そ う 。
長 編 詩「 五 賊 」は 1970 年 の『 思 想 界 』5 月 号( 通 巻 205 号 )に 掲 載 さ れ 、
6 月 1 日 、 最 大 野 党 新 民 党 の 機 関 紙 『 民 主 前 線 』( 6 0 号 ) に 転 載 さ れ た 。 そ
の内容が政権を支持する特権階級を痛烈に批判した風刺詩であったため、
朴 正 煕 政 権 は こ れ を 問 題 視 し 、6 月 2 日 、
「 反 共 法 」を 根 拠 に 弾 圧 を 行 っ た 。
『民主前線』を押収して、編集局長金龍星を指名手配、連行する一方、
『思想界』は休刊に追い込み、社長夫琓爀、編集長金承均も逮捕拘束する
に 至 っ た 。作 者 金 芝 河 も 逮 捕・拘 束 さ れ た 。そ の 後 、金 承 均 は 釈 放 さ れ た が
『民主前線』編集委員長ソン・ジュハンが逮捕された。
金芝河、夫琓爀、金龍星、ソン・ジュハンの 4 人に対する裁判は、言論
界 の 注 目 を 浴 び た 。李 恒 寧 、金 承 鈺 、鮮 于 煇 、朴 斗 鎮 、安 秉 煜 ら が 証 人 と し
て 弁 護 に 立 っ た 。議 題 の 中 心 は「 五 賊 」を 執 筆 し た こ と( と そ れ を 掲 載 し た
こと)が反共法違反であるのかどうかであった。
1972 年 12 月 20 日 の 結 審 で 、 裁 判 所 は 「 金 芝 河 被 告 人 の 譚 詩 「 五 賊 」 を
『思想界』等に掲載したのは特権層の不正腐敗を糾弾するのにその目的が
あると被告人等は主張しているが、その口実の度が過ぎており、我が国の
実情では譚詩の範囲を超えたものと見なされ、それにより階級意識を造成
し北韓の宣伝資料に利用されたもととして有罪を認定」し、懲役 1 年(執
行猶予付)の刑を言い渡した。
注5
民 青 学 連 事 件 は 、 1974 年 4 月 に 大 韓 民 国 維 新 政 権 が 発 し た 緊 急 措 置 に よ
り 、全 国 民 主 青 年 学 生 総 連 盟( 略 称:民 青 学 連 )の 構 成 員 を 中 心 と す る 180
名 が 、韓 国 中 央 情 報 部( K CI A)に よ っ て 拘 束 さ れ 、非 常 軍 法 会 議 に 起 訴 さ
れた事件。
2004 年 11 月 2 日 、 韓 国 国 家 情 報 院 の 「 過 去 の 事 件 の 真 実 究 明 を 通 じ た
発 展 委 員 会 」( 呉 忠 一 委 員 長 ) が 真 相 究 明 の 調 査 を 開 始 し 、 2005 年 12 月 7
日 に 「 民 青 学 連 事 件 は K CI A に よ る 捏 造 で あ っ た 」 と す る 調 査 結 果 を 発 表
した。
こ の 事 件 に 関 連 す る 学 生 を 含 め 、 総 計 1024 名 が 調 査 を 受 け 、 そ の 中 の
180 名 が 軍 法 会 議 に 起 訴 さ れ た 。な お 、K CI A に よ る 一 連 の 関 係 者 摘 発 行 為
の う ち 、特 に 人 革 党 関 係 者 23 名 の 摘 発 に つ い て は 、人 革 党 再 建 委 員 会 事 件
と し て も 知 ら れ て い る 。 民 青 学 連 関 連 者 に 対 す る 初 公 判 は 1974 年 6 月 5
日に開始され、李哲、金芝河らは死刑が一旦宣告された後、無期懲役へと
減 刑 さ れ た 。 し か し 、 人 革 党 関 係 者 は 23 名 中 8 名 が 実 際 に 死 刑 に 処 さ れ 、
民 青 学 連 の 主 謀 者 級 関 係 者 は 無 期 懲 役 、 他 の 被 疑 者 達 も 懲 役 15~ 20 年 の
重刑に処された。
注6
は た ま さ あ き 1930 年 生 ま れ 2003 年 死 去 。
大学時代は歌ごえ運動に没頭。
卒 業 し た 58 年 、大 阪 国 際 フ ェ ス テ ィ バ ル 協 会 へ 入 社 す る 。数 年 勤 務 し た 後
に 独 立 、62 年 に 自 分 の 会 社 、ア ー ト・プ ロ モ ー シ ョ ン を 興 す 。こ の 会 社 は 、
主として外来タレントの関西公演をとりしきる、今でいうイべンターだっ
た。
66 年 10 月 10 日 、 日 本 に フ ォ ー ク ソ ン グ を 定 着 さ せ よ う と し て 、 ア ー
ト・プ ロ モ ー シ ョ ン が 主 催 し て い た「 フ ォ ー ク・フ ォ ー ク・フ ォ ー ク 」と い
うコンサートの第 2 回に、高石が飛び入りで歌ったことから高石友也との
付き合いは始まる
秦 、高 石 と 出 会 い 彼 を 自 宅 に 居 候 さ せ て マ ネ ジ メ ン ト を 始 め る 。3 月 に 高
校生の中川五郎 反戦講演会で高石と出会う。6 月に岡林信康 近江八幡
反 戦 コ ン サ ー ト で 高 石 の 歌 に 出 会 う 。 7 月 第 1 回 フ ォ ー ク キ ャ ン プ (京 都
-9-
高 尾 )開 催
1967 年 9 月 「 高 石 音 楽 事 務 所 」 発 足 。 1968 年 1 月 東 京 事 務 所 開 設 。
12 月 ア ー ト 音 楽 出 版 設 立 。
1968 年 7 月 に 会 員 制 組 織 ア ン グ ラ レ コ ー ド ク ラ ブ 発 足 。
1969 年 1 月 月 刊 誌 「 フ ォ ー ク リ ポ ー ト 」 創 刊 。
2, 4, 6 月 と ア ン グ ラ レ コ ー ド ク ラ ブ で の レ コ ー ド 配 布 。
LP「 高 田 渡 /五 つ の 赤 い 風 船 」 他 シ ン グ ル 盤 2 枚
LP「 六 文 銭 /中 川 五 郎 」 他 岡 林 ら の シ ン グ ル 盤 2 枚
LP「 休 み の 国 / 岡 林 リ サ イ タ ル 」 他
7 月 U RC レ コ ー ド 発 足
8 月 U RC レ コ ー ド 初 回 リ リ ー ス
岡林「私を断罪せよ」風船「おとぎばなし」
第 1 回中津川フォークジャンボリー開催
1970 年 1 月 高 石 が 抜 け た た め 、 高 石 事 務 所 は 音 楽 舎 へ と 名 称 変 更 。
1971 年 2 月「 フ ォ ー ク リ ポ ー ト 」に 中 川 五 郎 の 小 説「 二 人 の ラ ブ ジ ュ ー ス 」
を掲載して、わいせつ容疑で押収される。
1972 年 11 月 中 川 五 郎 、 秦 政 明 、 フ ォ ー ク リ ポ ー ト わ い せ つ 事 件 で 起 訴
される。如月ミュージックファミリー設立 音楽舎所属のミュージシャン
の大部分が移籍する。
1973 年 4 月 「 フ ォ ー ク リ ポ ー ト 」 休 刊
1974 年 12 月 U RC レ コ ー ド エ レ ッ ク へ 販 売 を 委 託 。
「かわら版キャラバン沖縄ライブ」=小林隆二郎
1976 年 6 月 エ レ ッ ク 倒 産 。 10 月 U RC レ コ ー ド 、 東 宝 レ コ ー ド へ
1977 年 UD C を 企 画 。
1980 年 1 月 URC レ コ ー ド 、 SM S レ コ ー ド へ 。
11 月 フ ォ ー ク リ ポ ー ト わ い せ つ 裁 判 、 最 高 裁 判 決 「 上 告 棄 却 」
二審有罪確定
2002 年 U RC レ コ ー ド 、 エ イ ベ ッ ク ス へ 現 在 に 至 る 。
U RC を 考 案 し 、旧 来 の 体 制 側 と 抗 う よ う に 、“ 日 本 の フ ォ ー ク ソ ン グ ” を 自
らの手でうまく商業ペースに乗せたわけだが、
「それで自由になったのかい」
と唄う岡林自身が増大するコンサートにがんじがらめにされ自らも自由を
失い、
「 俺 ら い ち ぬ け た 」と 嫌 気 が さ し て し ま っ た よ う に 、人 気 ア ー チ ス ト
をきわめて非人間的な環境におき、しかも搾取に近いような低い給料しか
払わなかったことや、体制批判の音楽で儲けているという矛盾とそうした
商業主義批判も膨れ上がり、結局先に高石、岡林が抜けた音楽舎に属して
いたアーチストのほとんどが秦の下を離れてしまう。
事 実 、 U RC の 最 盛 期 に は 、 北 新 地 に ク ル セ イ ド と い う 名 の バ ー や 、 競 馬
の 馬 、そ の 名 も「 シ ン グ ア ウ ト 」と い う 馬 さ え 持 っ て い た そ う で 、儲 け た 金
を 公 私 混 同 し て 博 打 に さ え 流 用 し て い た ら し い 。こ れ で は 人 心 は 離 れ る し 、
フォークリポートの発行のように意義ある企画もしたが湯水の用に金を使
っ て い れ ば 、当 然 会 社 は 傾 い て い く 。そ し て U RC の 活 動 に と ど め を 刺 す よ
うにわいせつ裁判が始まる。
m as dar t.c orp に よ る
彼 の 話 し に も 色 々 と う な づ け る 面 は あ る 。が そ れ は ま た 別 稿 で 書 い て い き た い と 思 う 。
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M e m ori a l
小林隆二郎
『旅の終りに』
CD と リ ー フ レ ッ ト
CD
Disk
Disk
1999 年 ま で
風来とのコラボ集
(風来ライブとリハーサルから)
日本国内ライブから
臺灣から
『ばとこいあ神戸』から Ⅰ
『ばとこいあ神戸』から Ⅱ
『ばとこいあ神戸』からの語り集
1
2
Disk 3
Disk 4
Disk 5
Disk 6
Disk 7
(Bonus Disk)
プラス2006年から2014年までの映像を収めたDVDを2枚つけます。
データディスクのため、パソコンで再生して下さい。
カンパ
1 セット
¥ 3 ,0 0 0 ( 送 料
¥ 1 ,0 0 0 )
リ ー フ レ ッ ト ( 2015 年 改 訂 版 )
全136ページ
1 9 9 9 年 秋 の「 新 訂 版 」に 2 0 0 0 年 以 降 の 唄 の 詩 や .
『ばとこいあ
カンパ
1 冊
通信』から抜粋したエッセイを付けました。
¥ 1 ,0 0 0
(送料
¥500)
CD と リ ー フ レ ッ ト 一 緒 の 場 合 、 送 料 は ¥ 1 ,0 0 0 で す 。
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原稿を下さい。
次の『ばとこいあ神戸』の開催の前月末までに事務局へ届けて
ください。僕の主張だけしか無くなってしまいますので・・・。
よろしくね!
小林隆二郎 Memorial
旅の終わりに
1973 年最初の LP レコードから、2014 年 5 月の台湾・都蘭でのライブまで
の隆二郎の唄を集めたCDとリーフレットを製作しました。
CD7枚組+DVD2枚つき(データディスクですが・・・)です。
ご購入を待っています!
編集後記
母親の介護を始めて6ヶ月が過ぎました。世の中では在宅介護に伴う殺人事件
が 後 を 絶 ち ま せ ん 。 こ の 国 は (政 治 屋 も 官 僚 も 、 多 く の 国 民 も 含 め て )、 1 0 年 、
20年、50年、100年先を考えずに即物的に現在だけを問題にしてきた。そ
のつけが今、噴き出してきているのだろう。世の中のパイが大きくて右肩上がり
に成長していた時代から、高齢化・少子化の時代に入り経済成長なぞ望みにくく
なる時代へと移ってきている。そんな時代にあっても未だに幻を追い続けている
世界の先進諸国。その筆頭にあるのが米国と日本だろう。そろそろパラグラムの
返還をしていかなければならないのに、幻を追いかけている奴等は、国民の更な
る階層化を推し進めようとしている。安倍の「新3本の矢」は絵に描いた餅だろ
う 。『 一 億 総 活 躍 』だ と ・・・ 。非 正 規 雇 用 が 際 限 な く 拡 大 さ れ 、労 働 環 境 も 劣 悪
化され、働ける環境作りに国家予算をつぎ込むのではなく、政治屋共や官僚共が
利益の上げられる政策と、実益の一つもない「戦争」への道をひた走ることに奴
等は血道を上げている。奴らは自分の利益を最優先して、この国の、全世界の行
く末は考えていないのだろう。
隆二郎の楽曲のCDと、リーフレットを発表します。彼の仏前には先週日曜日
に報告しておきました。一人でも多くの人の手にわたってほしいと思います。
(千)
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