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Page 1 『満族史研究』4、(2005.5) 2004年夏アムール紀行 ーアルバジン

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Page 1 『満族史研究』4、(2005.5) 2004年夏アムール紀行 ーアルバジン
『満 族 史 研 究 』4,(20055)
2004年
夏 ア ム ール 紀 行
ア ル バ ジ ン と ス タ ノ ヴォ イ 山 脈
柳澤 明
は じめに
今 回 の ア ム ー ル 流域 調 査 は,2002年
国 の 中央 と周 縁一
度 か らス ター トした科 学研 究 費補 助 金(基 盤 研 究(B))「 中華 帝
現 代 東 ア ジア の原 型 を求 めて一
」(研 究 代表 者:細 谷 良夫)に
よ る活 動 の 一環 と
して 行 われ た 。 日本側 の参加 メ ンバ ー は,細 谷 良夫,江 夏 由樹,加 藤 直人,中 見 立夫 そ して柳 澤 の5名
で,ロ シ ア側 の協 力者 一
とい うよ り,全 体 の リー ダー と して われ われ を引 っ張 っ て くれ た の は,バ バ
ロ フス ク教 育 大 学 考 国史 研 究室 の コピチ コ 〈B.HKOIIbm…)KO)氏
で ある。細谷 先 生 を 中心 とす る グル ー プは,
す で に2000年8月
に,コ ピチ コ氏 の協 力 を得 て,ハ バ ロ フス クよ り下流
た が(『 満 族 史 研 究 通 信 』 第10号
とい っ て も露 清 衝 突 の 地
河 口 まで の 調 査 を 行 っ て い
参 照),上 流方 面 の本格 的調 査 は は じめて で あ る。 今 回 の 眼 目は,何
アル バ ジ ンの 訪 問 で あった。 アル バ ジ ンは 国境 沿 いの 軍 管制 区 で あ る た め,
通 常 は 立 ち 入 りが 制 限 され てい るが,2003年
夏 に細 谷 先生 と大坊 公 民 氏 が コ ピチ コ氏 と とも に ブ ラ ゴ
ヴェ シ チ ェ ン ス ク ま で 足 を伸 ば して 予 備 調 査 を行 っ た 結 果,ア
ム ー ル 州 郷 土 誌 博 物 館(AMYPCKHrt
O6JanHotiKpaeeCZNeCKPIiiMy3eti)の 全 面的 な協 力 が得 られ る こ とにな り,今 回 の計 画 が 実 現 の 運 び とな っ
た の で あ る。
筆者 は一 連 の ロ シア 極東 地 方調 査 に は は じめて の参加 であ り,プ ロの通訳 で も ある 大坊 氏 が 不参 加 と
い うこ とで,通 訳 と して の役 割 を期待 され,か な り緊 張 して臨 んだ 。結 局,通 訳 と して は ほ とん ど物 の
役 に 立 た なか っ たが,コ
ピチ コ氏 の実 に行 き届 い た配 慮 とリー ダー シ ップ に支 え られ て,調 査 自体 は予
想 を超 え る収 穫 を収 め る こ とがで きた。 以 下,7月23日
か ら8月6日
ま でに わ た る毎 臼の 行 程 と訪 問
先 とを 簡潔 に 記 した 上,要 所 要所 で若 干 詳 細 な コメ ン トを加 え る,と い うス タイ ル で,調 査 旅 行 の概 要
を 紹介 した い と思 う。
一239一
1.ハ バ ロ フ ス ク と ブ ラ ゴ ヴ ェ シ チ ェ ン ス ク
7月23日(金)新
潟→ハバ ロフスク
新 潟 空 港 集合 。山 の よ うな 雑 貨 を抱 えた 「
担 ぎ屋 」 らしきロ シア人 の 姿 が 目立 つ。 ダ リア ビア航 空310
便 に搭 乗 し,19:30頃,ほ
ぼ定 刻 通 りに ハ バ ロ フス ク空港 着。 コ ピチ コ氏 と息 子 さん の コー リャ さん が
出迎 え て くれ,市 の 中心,レ ー ニ ン 広場 の一 角 に あ るツ ェン トラ リナ ヤ=ホ テ ル に投 宿。 一泊1,300ル
ー ブ ル(プ
ラス予約 金300ル
ー ブル)は まず 妥 当 とい うところか。 た だ,ロ シア で は,ホ テル を予約 す
る と,予 約 金(aBaHC)を取 られ るこ とが ある。 これ は保 証金 のよ うに 後 で宿 泊 料 の一 部 に充 当す るので は
な く,あ
くま で別 立 てで あ る。 日本 の感 覚 で は,予 約 すれ ば割 引 に な りそ うな も のだ が,ロ シア で は,
来 る か 来 な い か わ か らな い 客 の た めに 部屋 を空 けてお く リス ク を宿 泊 料 に 上乗 せ す る とい う こと ら し
い 。 ハ バ ロ フス ク は,少 な くとも市 の中心部 に関す る限 り,街 路 もきれ い に整備 され,落 ち着 い た印 象
であ る。
7.月24日(土)ハ
バ ロ フ ス ク 市 内 と周 辺
銀行 で の 両替 を済 ませ て か ら,チ ャ ー ター した ワン ボ ックス 車 で 出発 。 まず,ム
ラ ヴィ ヨ フーアム ー
ル ス キー 通 りの 突 き 当た りの公 園 を訪 れ,ア ム ール を見下 ろ して 立つ ム ラ ヴ ィ ヨフの像 を見学 す る。 上
流 方 向 を眺 め る と,彼 方 に大 ヘ フ ツ ィル 山脈 が 横 たわ っ てい る。 そ の右 手 に は,定 か に は見 え ないが,
ウス リー との合 流 点 が ある はず で あ る。っ い で,コ ピチ コ氏 の提 案 に従 い,ア ム ール 右岸(南 岸)を20㎞
ほ ど遡 っ た ところ に ある考 古 学 の発掘 現 場 を 見に行 く。 ノ ヴォ トロイ ツ コエ とい う村 の あた りか ら河 岸
に 下 り,車 を河 岸 に駐 めて 藪 を掻 き分 け,13:00少
し前 に現 場 着。 林 の 中 にテ ン トが い くつ も並 び,食
堂 や 風 呂 も あっ て,ち ょっ とした ラー ゲ リが でき てい る。 コピチ コ氏 の 友 人 で あ る発掘 責 任者 イ ー ゴ リ
氏(ハ バ ロ フ ス ク地 方郷 土 誌博 物 館)か
ら説 明 を聞 く。 遺跡 は ゴ ンチ ャル カ(romapwa)と 総 称 され,時
期 を 異 にす る数 箇所 のサ イ トか らなる。 現 在発掘 作 業 中 なのは ゴンチ ャル カVIで,後 期 新 石器 時 代の ヴ
ォ ズ ネ セ ノ フス カ ヤ(BCI{H㏄oeHOBCKafl)文
化 の もの だ とい う。 発 掘 現 場 に は,ウ
学 生 た ちが 実習 に来 てい た。 また,日 本 人が2人
ラデ ィ ヴォ ス トー クの 大
い る とい うことで,紹 介 して も ら う。 立命館 の 方が1
人 と,も う1人 は何 と早稲 田の考 古学 専 攻 の松本 さんで あ った。 面識 は なか っ た が,こ んな ところで 同
じキ ャ ンパ ス の人 に め ぐ り合 う偶 然に驚 く。 日本人 は蚊 に対す る免 疫 が ない の で,と き には 足が 腫れ 上
が っ た りして大 変 だ とい う。ゴンチ ャル カ か ら市 内 に 引 き返 し,溥 儀 が抑 留 され てい た建物 を見 に行 く。
建 物 はデ ィ コポ リツ=フ 通 り(yll.加on()」IE,veea)に
あ り,現 在 は第3病 院(n㎝ 一No.3)に
な って い
る が,以 前 は 内務 省 の もの で,新 京の飛 行 場 で ソ連 軍 に逮捕 され た溥 義 は,関 東軍 の幹 部 た ち と ともに
しば ら く こ こに住 ん でい た とい う。改 装 は され て い るが,部 分 的 に は 当時 の建 築 が残 っ てい る。 なお,
今 回 の調 査 で は,溥 儀 の通 訳 をっ とめ たペル ミャ コ フ氏(F.r.rlePMIIKOB)にイ ン タ ヴ ュ・
一す る計 画 もあ り,
先 方 に 打診 したが,高 齢 で健 康 もす ぐれ な い との こ とで,残 念 なが ら実 現 しな かっ た。
一240-一
一
7月25日(日)市
内 見 学,郷 土誌 博 物館
こ の 旧 も 市 内 各 所 を 見 学 。河 岸 近 く に あ る第2次
ず れ も 新 し い も の),郊
大 戦 な どの 戦 没 者 モ ニ ュ メ ン ト,い く つ か の 教 会(い
外 に あ る 日本 人 の 慰 霊 碑,ア
ム ール 大 橋 な どを回 る。午 後 はハ バ ロフ ス ク地 方
郷 土 誌 博 物 館(X御BC翻xpaeeotiKpaeBeageCKWtMy3eti)を
参観
史 な ど多 く の セ ク シ ョ ン に 分 か れ た 豊 富 な 展 示 だ が,特
1922年
の内 戦 時 の天 王 山
7月26日(月)ハ
自 然 科 学,考
古 学,先
住 民 文 化,革
命
に 強 烈 に 印 象 に残 る も の は な い 。 最 上 階 に は,
「ヴ ォ ロ チ ャ エ フ カ(BQnogaeBwa)の
戦 い」 を描 い た大 きなパ ノ ラ マが あ っ た。
バ ロ フ ス ク発
この 日 は 本 来,国
立 ハ バ ロ フ ス ク 地 方 ア ル ヒ ー ヴ(r(xcyAapcm3eHHE,diaPXHBXa6apo聾CKoroKpaSi)を
る 予 定 で あ っ た が,日
本 で 用 意 した 英 文 の 紹 介 状 が,ロ
訪 問す
シ ア 文 で な け れ ば だ め だ と突 き 返 され た た め,
コー リ ャ さ ん に 翻 訳 を 頼 む こ と に し,ア ル ヒー ヴ訪 問 は ブ ラ ゴ ヴ ェ シ チ ェ ン ス クか ら 帰 っ た 後 に 延 期 す
る 。 移 動 に 備 え て 買 出 しな ど を 行 い,19:10頃,ハ
バ ロ フス ク 駅 か ら ブ ラ ゴ ヴ ェ シ チ ェ ン ス ク 行 き 列 車
で 出 発 。 駅 前 に は バ バ ロ フ の 銅 像 が あ っ た 。 線 路 は ア ム ー ル を 渡 る と,し
ユ ダ ヤ 自 治 州 の 首 府 ビ ロ ビ ジ ャ ン(Birpo6ma)を
過 ぎ,日
も と っ ぷ り と暮 れ た 頃,ビ
年 買 っ て 美 味 だ っ た か ら今 年 も 必 ず 買 え と の 細 谷 先 生 の ご命 令 に従 い,ホ
ぜ ホ ッケ が こ ん な と こ ろ に あ る の か,謎
い る 川 の 名 か ら来 て い る が,こ
洲 語 のbiraか
で あ る。 ビ ラ と い う駅 名 は,こ
ら来 た もの で,厂 吉 林 九 河 図 」 に は"bijanbira"と
そ ら く ロ シ ア 語 で は"pexaA}vryp"の
た の だ ろ う),川
自身 の 名 は な ぜ か
は ほ と ん ど森 と野 原 ば か り で,農
よ うに
ッケの燻 製 を 買 い求 め る。 な
ム ー ル に 注 ぐ。 も ち ろ ん,満
あ る。 ビ ロ ビ ジ ャ ン は こ れ が ひ っ く り返
「
川 」 を 先 に い う か ら,そ
の影 響 で 顛 倒 し
耕 地 は ほ とん ど見 え な い。 数 日後 に 車 で ブ ラ ゴ ヴ ェ シ チ ェ ン ス ク か ら
家 の 周 囲 に 小 さ な菜 園 や ジ ャ ガ イ モ 畑 が あ る だ け で,大
耕 地 は ま っ た く見 な か っ た 。 か つ て ア ム ー ル 河 谷 は そ の 肥 沃 さ で カ ザ ー ク(コ
7月27日(火)ブ
で,去
「ビ ジ ャ ン 」 で は な く 「ビ ラ 」 と な っ て しま っ た わ け で あ る 。 沿 線
ス コ ヴ ォ ロデ ィ ノ へ 向 か っ た と き も,人
た とい うが,お
ラ(翻pa)駅
の 付 近 を線 路 と並 行 し て 流 れ て
の 川 は ビ ロ ビ ジ ャ ン を経 て 向 き を 変 え,ア
っ た も の だ が(お
ば ら く川 筋 か ら遠 く離 れ る 。
サ ッ ク)た
規 模 な
ちを引きつ け
そ ら く耕 地 は コル ホ ー ズ の よ うな 特 定 の 場 所 に 集 中 し て い る の だ ろ う。
ラ ゴ ヴ ェ シ チ ェ ン ス ク 着,郷
土誌 博 物 館
10:45ブ ラ ゴ ヴ ニシ チ ェ ンス ク着 。 ア ムール 州郷 土誌摶物 館長 のエ レー ナ さん(EM.rlatyyxoea)た
ちの
出 迎 え を受 け る。 差 し回 しの 車 で,ま ず ア ムール 河岸,ゼ ー ヤ川 との合 流 点 近 くの ドル ジバ=ホ テ ル に
チ ェ ックイ ンす る。 対岸 に は黒 河 の街 の外れ が 見 えてい る。 昼 食後,博 物館 に向 か い,今 後 の 予 定 につ
い て 打 ち合 わ せ るが,そ
こで 渡 され た 計画 表 には,「 記者 会見 」 とか 「ア ムー ル 州博 物 館 長 会 議 へ の 出
席 」 な ど,予 期 せ ぬ 文 字 が並 ん でい る。 後 に なって 次第 にわ かっ て き た こ とだが,博 物館 側 で は,日 本
か らの 「
調査 団 」 の訪 間 に合 わせ て,ア ム ール州 にお ける博 物館 や文 物保 護 の重 要性 を行 政や 市 民 に 向
けて ア ピー ル す る キ ャ ンペ ー ン を打 と うとい う目論 見 だった よ うで あ る。14:00か
一241-一
ら館長 室?で
記者 会
見。 テ レビカ メ ラ も入 っ て,も の もの しい雰 囲気 で あ る。 なぜ アル バ ジン に関 心 を もっの か?と い っ た
質 問 と,細 谷 「
団 長 」 の応 答 を,冷 や 汗 をかきな が ら何 とか通 訳 す る。 そ の後博 物 館 の展示 を参 観。 ま
ず 階 上 の特別 展 示 室 で,ロ シア軍 が鹵獲 した もの と思 われ る義 和 団 の旗 や,清 代 の衣服 な どを 見 る。 次
い で一 般 展示 を見 るが,筆 者 は そ こでテ レ ビ取材 にっ か ま り,例 に よっ て しどろ も どろの 受 け答 えを し
て い る うち に,ア ル バ ジ ン関係 の 展示 を あ らかた 見損 ね て しま っ た。17:30,博 物 館 を 出て,旧 チ ュー
リン=カ ンパ ニ ー(ZA.9YJiliHKK。)の
建物,ニ コラ イ皇太 子(後 のニ コ ライ2世)の
「
凱 旋 門」 跡,ゼ ー ヤ川 とアム ー ル川 の合 流 点 な どを見 学 した後
た めに建 て られ た
ホ テ ル に 戻 る。 「
凱旋 門」 は,1891
年,日 本 か ら帰 国 途 上 の皇 太 子 の 上陸 を迎 え るた め に,ア ムー ル 河岸 に建 て られ た もので,目 下再建 工
事 が 進 ん でい る。 ロシア で は 昨今,正 教 の復興 と ともに,旧 皇室 に対 す る追慕 が 盛 り上が りつつ あ るが,
凱旋 門 の 再建 も,そ
うした動 きの一環 であ ろ うか。 この あた りのア ム ール 川 は,両 岸 とも平坦 で,と こ
ろ ど こ ろに砂 浜 もあ り,水 浴 をす る人 々 で賑 わっ てい る。 対岸(正 確 に は大 黒河 島)に も,岸 辺 にマ イ
カー を乗 りつ けて川 遊び をす る家 族連 れ の姿 が見受 け られ,の
に泳 い で渡 れ そ うで あ る。 中 ロ国境地 帯 を4,000㎞
どか な 光景 で ある。 水量 は少 な く,簡 単
にわ た って探 査 され た岩 下 明裕 氏 に よれ ば,ブ ラ ゴ
ヴ ェ シチ ェン ス クー 黒 河 間 の 貿易 は頭 打 ち状態 で あ る ら しい が ①,ブ ラ ゴ ヴェ の街 には 中 国人 の 姿 が 目
立 つ 。 博物 館 で は,ガ イ ドに率 い られ た 中国人 の団 体 客 を何 組 も見 か け た し,ホ テ ル の ロ ビー もほ ぼ 中
国人 に 占拠 され て い る。 生 鮮食 料 品や 日用 雑貨 は,ほ とん ど中国 か らの供 給 に頼 ってい る よ うで ある。
2.ア ル バ ジ ン へ
7月28日(水)ブ
7:00前,チ
が,屋
ラ ゴ ヴ ェ シ チ ェ ン ス ク→ ス ヴ ォ・
ボ ー ドヌ イ → ス コ ヴ ォ ロデ ィ ノ
ャ ー タ ー した マ イ ク ロバ ス で ホ テ ル を 出発 。 こ の バ ス に は 前 日す で に お 目に か か っ て い た
根 は 赤,側
面 は 白 と 黄 色 に 塗 り分 け られ て,色
ー テ ン が 下 が っ て い る とい う代 物 で
の 他 に,エ
レ ー ナ 館 長 と博 物 館 の ナ タ ー シ ャ さん,新
ん,そ
れ に 運 転 手 の イ ー ゴ リ氏 を加 え て,総
・
・
一
一ヤ 川 に 沿 っ て 北 上 し
,ス
に な る と,森
勢10名
聞 記 者(本
。 ル ー トは,ま
ヴ ォ ボ ー ドヌ イ(CBO60m{SiiOか
陵 の 裾 を 縫 う よ うな 道 で,い
の 中 の ほ ぼ 平 坦 な 道(未
業 は 詩 人)の
ス ヴ ェ トラ ー ナ さ
ら は ほ ぼ シ ベ リア 鉄 道 に 沿 っ て 北 西 に 向 か う
の行 程 で ある。 ス ヴォボー
くつ か 峠 ら し き も の も あ っ た が,シ
舗 装 部 分 も あ る)を
れわ
ず ブ ラ ゴ ヴ ェ シ チ ェ ン ス ク か らゼ
泊 予 定 地 の ス コ ヴ ォ ロデ ィ ノ(CKOIsqppc)JMHO)ま で 約700㎞
ドヌ イ ま で の 間 は,丘
に は ピ ンク のカ
,幼 稚 園 の 送 迎 バ ス だ っ た に 違 い な い と噂 し あ う。 一 行 は,わ
れ6人
と い う も の で,宿
と り ど りの ハ ン グル が 書 か れ,窓
ベ リア 鉄 道 沿 い
ひ た す ら 走 り続 け る 。 興 味 深 い の は,プ
ラゴ
ヴ ェ シ チ ェ ン ス ク に 近 い と こ ろ で は,ポ プ ラ 類 の よ うな 広 葉 樹 も か な り 見 か け た が,北 上 す る に っ れ て,
カ ラ マ ツ と シ ラ カ バ が ほ と ん ど を 占 め る よ うに な り,い わ ゆ る 「明 る い タ イ ガ 」(CBermaTaiaa)の
(1)岩
下 明裕
『中 ・ロ 国 境4000キcr』
角 川 書 店(角
川 選 書351),2003年,184186頁.
一242一
様相
を示 して く る こ とで あ る。 ところ どこ ろに,か な り大 きな森 林火 災の跡 を見 る が,古 い焼 け跡 で は,す
で に若 い シ ラカバ が 育 ちつ っ あ る。道 端 に は,キ キ ョウ,オ ミナエ シ,ホ ザ キ シモ ツ ケ な ど,日 本 で は
秋 を彩 る花 々 が 咲 き 乱れ て い る。 沿道 に は とき たま ドライブ イ ン(カ フ ェ)が あ り,ま た 机 を並 べ て ジ
ャ ガイ モ や キ ノ コや ベ リー を売 る人 の 姿 を見 か けるが,集 落 ら しい集 落 は ほ とん どない。20:30ス
コヴ
オ ロデ ィノ着 。 閑 散 と して はい るが,一 応 街 ら しい街 で,シ ベ リア鉄道 とバ ム鉄 道 を結 ぶ 支 線 の 分 岐 点
をな す,交 通 の要 衝 で あ る。 旧ア ルバ ジ ン城 砦 の地,現 在 の アル バ ジ ノ(A觀o)村
い た め,今
に は宿 泊施 設 が な
日は こ こま でで,街 外れ のホテ ル に投宿 す る。
7月29日(木)ス
コ ヴ ォ ロデ ィ ノ→ ア ル バ ジ ノ→ ス コ ヴ ォ ロデ ィ ノ
9:10ス コ ヴォ ロデ ィ ノ発,ア ル バ ジ ノへ 向 か う。約90㎞
の左 岸 に沿 い,森
の行 程 で あ る。大 ネ ヴェル川(㎞o厳H御)
と湿 原 を縫 う美 しい道 が続 く。 途 中,軍 管 制 区入 口の ゲー トで しば ら く停 車 す る 。 ゲ
ー トを過 ぎ る と,ほ どな くア ムー ル河岸 の ジャ リン ダ ⑳ 蜘
に到 着。 早 速河 岸 の丘 か ら中 国領 を 眺
め る。こ の あた りで は,ア ムー ル は両岸 に段 丘 が迫 り,峡 谷 状 をな してい る。対岸 に は中 国側 の 施 設(連
崟 の 埠頭 と税 関)が 見 え る。 ジャ リン ダは人 口約1,500の
村 だ が,港 湾設 備 を も ち,ス コ ヴ オ ロデ ィ ノ
か ら貨 物 用 線 路 も通 じて い て,対 岸 の連 崟 に定 期 的 に貿易 船 が 通 っ てい るω。 た だ し,中 国 側 か らの 入
国 は認 め られ て い な い とい う。 ジ ャ リン ダか らア ムー ル沿 い の道 をわず か に下流 方 向 に 進 み,11:30頃
にアル バ ジ ノに 着 く。村 立博 物 館 で,館 長 の ロバ ノブ 氏(A.K).no6aHOB),村 長 の フ ィ リノフ 氏 を は じ め,
地 元 の 皆 さん の 出 迎 え を受 け る。 博 物館 は アル バ ジ ン城砦 跡 に 隣接 してお り,展 示 室 の他 に,19世
のカザ ー クの 住 居 や 物 置,蒸
紀
し風 呂な どが復 元 され ている。 その カ ザー クの母屋 の一 角 で ま ず 朝 食 を ご
馳 走 に な る。 ブ ラ ゴ ヴ ェ シチ ェンス クの エ レー一ナ館 長 が,出 版 され た ばか りの 『アルバ ジ ン の 聖物 』 ω
を ロバ ノブ館 長 に 贈 呈 し,ひ としき り歓談 の後,ま ず 展 示室 を見学 す る。 ア ルバ ジ ノ村 は人 口約600,
そ の8割
は,19世
紀 に ア ムー ル北岸 がふ た たびvシ ア領 となっ た 直後,こ の 地 に入 植 した カ ザ ー クの
子 孫 だ とい う。 ロバ ノ フ氏 も フ ィ リノ ブ氏 もカ ザー クで,心 な しか背 が低 くが っ ち り と して,普 通 の ロ
シ ア人 とは ち ょっ と違 っ た感 じで あ る。 博 物 館 は,ロ バ ノ ブ館 長 の祖 母 に あ た る ドロ ヒナ さ ん(A.K
AOPOXHfHa>が,カ ザ ー クの 生 活 の記 録 を後 世 に残 そ う と,私 財 を投 じて基 礎 を築 い た も の だ とい う。 展
示 室 は小 さ な も のだ が,ア ル バ ジ ン城 砦 の模型,出 土 した?砲 弾,カ ザー クの生 活 を物 語 る 写 真 な どが
並 べ られ て い る。 ま た,旧 本 軍 の鉄 甲や,1958年
に 対岸 の 中 国領 が洪 水 に見 舞 わ れ た際,ア
ルバ ジ ノ
か ら贈 られ た援 助 に 対 す る,中 国共産 党 呼 瑪 県委 員会 か らの感 謝 のペ ナ ン トもあ る。 変 り種 は,「 海 拉
爾 忠霊 塔/昭 和 十 七年 人 月建 」 と銘 の あ る銅 鏡?で あ る。年 代 か ら して,お そ ら くノモ ンハ ン事 変 と関
わ りの あ る もの だ ろ うが,来 歴 につ い て は未詳。 続 い て外 に 出て 城 砦跡 を見学 【写真1】,さ ら に カ ザ ー
クの風 呂小屋 や 物 置 な ど を見 た 後,ふ たた び母屋 で昼食 をご馳 走 にな り,16:00頃
アル バ ジ ノ を辞 去 。
行 き と同 じル ー トを ス コ ヴォ ロデ ィノ に向 か う。 途 中 で小休 止 す る と,ロ シ ア人 た ちは す ぐに タ イ ガ に
(2)岩
下,前
(3)Hq㎜
掲 書,Z55-156頁.
㈱ ・㎞a曲(q㎜
¢B),海㎞
α㎜ ね
・
肌B脚
一243一
醐e略20◎4.
分 け 入 っ て ベ リー を 探 しは じめ る 。 つ られ て 入 っ て み る と,な る ほ ど コ ケ モ モ や ブ ル ー ベ リー が あ ち こ
ち に 実 っ て い る の で,い
くつ か 試 食 して み る。18:00過
ぎ にス コ ヴォ ロデ ィ ノに帰 着。
驚1∴
撚
灘
霧1醗 催1
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譌轡 懸ゴ ∵癌 驚・
、鯨 一 哨.。
ア ル バ ジ ン 城 署 跡 に て 。 左 端 は 杓 立 博 物 館 の ロ バ ノ ブ 館 長,そ
。」
、,.、
、邑'丶
の 隣 は コ ビ テ コ 民
《アル バ ジ ン城 砦 の 印 象 》
1685∼86年
の アル バ ジ ンをめ ぐる露清 の衝 突 につ いて は,吉 田金 一先 生 の 『ロシ アの 東 方 進 出 とネ
ル チ ンス ク条 約 』 に 詳 しいω。 そ こで語 られ て い る攻 防 の経緯 に 関 して,い ま さ ら劇 的 な新 発 見 が あ る
は ず もな いの だ が,や は り現地 に行 って みて,事 前 のイ メー ジ とは食 い違 っ た こ ともい くっ か あ る。 ま
ず,予 想 外 だ っ た の は,ア ルバ ジ ン城 砦跡 が,ま さにアル バ ジ ノ村 の真 中に あ る こ とで あっ た。 も ちろ
ん,城 砦跡 の 近 くに村 と博 物館 が あ る とい うこ とは 出発前 に 聞い てい た が,そ れ は か な り離 れ た ところ
で,遺 跡 そ の もの は荒 野 の 中 にぽ っ ん とあ る よ うに想 像 して いた の であ る。 実 際 に は,土 塁 跡 を 越 え る
とす ぐ村 の通 りで,牛 が数頭 寝 転 ん でい る とい う具合 で あ った。 さて,砦 の跡 は,ア ムー ル を 見 下 ろす
崖 の 上 に あ る。 お そ ら く城 壁 の土 台 と思 われ る方 形 の土盛 りが残 り,そ れ を取 り巻 く濠 の 痕 跡 も かす か
(4)吉 田金 一 『ロ シア の 東方 進 出 とネル チ ンス ク条約 』 東洋 文 庫近代 中国研 究 セ ンター,1984年,第7章
の 沿 アム ール 作戦 」(174-210頁).
一244一
「
康煕帝
に認 め られ る。 か つ て は この土盛 りに 沿 って,高 さ5m以
上 の木 製 の屏 が あ っ たは ず で あ る。 実測 は し
なか った が,文 献 に よれ ば,サ イ ズは川 に沿 った 西面 が97m,北
で あ る。 元 来 の 砦 は も っ と小 さ く,28×39mの
面 が85m,東
長 方形 であ っ たが,1683年
面 が83m,南
面が75m
以 降,清 との 関係 緊 迫に とも
な って 拡 張 され,上 記 の大 き さに なっ た とい う。 砦跡 の西 面 には鉄 条 網 が 張 られ,南 西 角 の 近 くに は国
塊 監 視 塔 が あ る た め,そ ち ら を向 いて写 真 を と らな いでほ しい と言 われ た。 砦 が 河岸 の崖 の 上 にあ つ た
とい うこ とも,現 地 を 見 て は じめ て実感 で きた こ とで,清 軍 が船 でや づ て きて も,一 気 に 上 陸 して攻 め
か か るの は難 しか った と思わ れ る。 この遺跡 の予 備 的 な発 掘 は1974年
か ら行 われ た が,1989年
以 降,
ア ル テ ミエ フ を 中心 とす る科 学 ア カデ ミー極 東 支部 歴 史学 ・考 古学 ・民族 学 研 究 所 の手 で本 格的 な発 掘
調 査ssmeめ られ たes}。
最 大 の発 見 は,1991年
の 遺 体(50体
に,西 面 沿い の一角 で 半埋 葬 状 態 の 多数 の 人 骨 一
守備兵
以 上 とい う)が 発 見 され た こ とで,現 在 そ の場 所 に は十 宇 架 を頂 く亭 が建 て られ,花 が
供 え られ て い る。
《アル バ ジ ン の 聖 母 》
ア ム ー ル 州 一帯,と
く に ア ル バ ジ ノ を訪 れ て 感 じた の は,地
元 の 人 々 が,ア
強 い 思 い 入 れ を 抱 い て い る と い う こ とで あ っ た 。 中 国 側 は と も か く,ロ
な ど 遠 い 昔 の 出 来 事 と して,ほ
ル バ ジ ン の 戦 い に 対 して
シ ア 側 で は,ア
ル バ ジン の戦 い
と ん ど知 る人 も な い の で は な い か と勝 手 に 想 像 し て い た の で,こ
さ さ か 意 外 で あ っ た 。 こ う し た 思 い 入 れ を 象 徴 す る の が,「 ア ル バ ジ ン の 聖 物 」 つ ま り,イ
バ ジ ン の 聖 母 」(Ail6a3HHcKaslMKoHa60)KnetiMaTepM)と
KalsaKOB)で あ る。 こ の うち,と
に ア ル バ ジ ン 砦 の4㎞
名を
ル モ ゲ ン も イ コ ン と と もに 籠 城 した が,1685年
後 に イ コ ン を 携 え て こ の 地 を 去 り,ア
イ ロ ン は,ア
「
み こ とば が 肉 とな る」(CnOBOH∬OTLBbicrs)と
上 流 に 修 道 院 を 築 い た ゲ ル モ ゲ ン 長 老(crapeqrepreMOH)が
る 。 ア ル バ ジ ン 攻 防 戦 の 際 に は,ゲ
コン
「
アル
「
ア ル バ ジ ンの カ ザ ー ク 旗 」(3HaMAAn6a3rmcKvax
く に前 者 に つ い て,『 ア ル バ ジ ン の 聖 物 』 に よ りっ っ,簡
こ う。 「ア ル バ ジ ン の 聖 母 」 は,別
れ はい
ム ー ル 上 流 の ス レテ ン ス ク(CueHCK)に
単 に 紹 介 してお
い い,1671年
もた ら し た も の で あ
夏,第1次
攻囲の
移 り住 ん だ 。 や が て こ の
ル バ ジ ン を最 後 ま で 守 っ た 神 の 恩 寵 の し る し と 見 な され る よ うに な り,そ
の 後 も多 くの奇
蹟 を 起 こ し た と伝 え られ た 。 愛 琿 ・北 京 条 約 の 締 結 に よ っ て ア ム ー ル 左 岸 が ふ た た び ロ シ ア 領 と な り,
ブ ラ ゴ ヴ ェ シ チ ェ ン ス ク が 建 設 され る と,こ の 奇 蹟 の イ コ ン を故 地 に 帰 そ う と い う声 が 沸 き 起 こ り,ス
レ テ ン ス ク の 人 々 も 同 意 し て,1868年
に イ コ ン は ブ ラ ゴ ヴ ェ シ チ ェ ン ス ク の 主 教 座 教 会(聖
知 教 会 〉 に 安 置 され た 。 革 命 後 の1938年,イ
さ れ,展
コ ン は 市 ソ ヴ ィエ トの 決 定 に よ っ て 郷 土 誌 博 物 館 に 移 管
示 され る こ とな く 眠 っ て い た が,1991年,ニ
コ ラ イ 皇 太 子 の 訪 問100周
教 会 の 手 に 戻 さ れ た 。2∞3年
か ら は新 しい 主 教 座 教 会(KaiPmpanbHhdico60p)に
(5)Ap嘘MLeB,んP.ハ
幽3蜘
∼
齣uo㎝
母 受 胎告
潔1㈱
c.101-116.
一245一
年 を期 して ふ たた び
安 置 され て い る 。 こ の 間,
β087ηqρo愛nvl{朧XvZI-M(llles.B-K,1999,
1997年
か ら2003年
集 め た 。 ま た,こ
に か け て,イ
の イ コ ン か ら は 多 く の コ ピー が 作 られ,全
「ア ル バ ジ ン の旗 」 は,や
(Opy)KetiHaAnanaTa)に
国 の 教 会 に 安 置 さ れ て い る と い う。 な お,
は り聖 母 を描 い た も の で あ る が,本
収 蔵 さ れ て お り,郷
7月30日(金)ス
9:00,ス
コ ン は サ ハ リ ン か らモ ス ク ワ に 至 る 各 地 を 巡 回 し,信 徒 た ち の 尊 崇 を
物 は モ ス ク ワ の ク レ ム リン の
「
武器庫」
土誌 博 物 館 に は レプ リ カ が 展 示 され て い る 。
コ ヴ ォ ロデ ィ ノ→ テ ィ ンダ
コ ヴォ ロデ ィ ノ 区 役 所(AaniHM(:rPa[IMsiCKOBOpoMHCKOropaBoHa)で,区
員 の シ ャ リモ フ 氏(E.B,皿laJmMoB)と
長 兼 アム ール州 議 会 議
会 見 。 これ は エ レー ナ 館 長 の オ フ ァ ー に よ る も の 。 ア ル バ ジ ン の 歴
史 的 重 要 性 を 強 調 し,行 政 が 博 物 館 に も っ と金 を 出 す よ うは た ら き か け て ほ し い と 言 わ れ て い た の で,
前 の 晩 に 加 藤 ・中 見 両 先 生 と と も に 大 汗 を か い て 捏 ね 上 げ た 原 稿 を,細
谷 先 生 に 読 ん で い た だ く。 エ レ
ー ナ 館 長 の 仕 掛 け た キ ャ ン ペ ー ン の 手 駒 と して ,い い よ う に使 わ れ て い る 気 が し な い で も な い 。 シ ャ リ
モ フ 氏 は,ま
だ30代
と思 わ れ る,い
か に もテ ク ノ ク ラー トとい っ た 感 じの き び き び した 人 物 で あ る 。
こ ち ら の 話 を ふ ん ふ ん と 聞 い て は い た が,多 少 と も感 銘 を受 け て くれ た か ど うか は わ か らな い 。そ の 後,
役 所 の 向 か い に あ る ビル に 開 設 準 備 中 の 博 物 館 を 訪 問 。 こ の街 は も と も とネ ヴ ェル とい い,そ
か 変 遷 が あ っ た 末 に,革
ロ デ ィ ノ発200㎞
ン ダ 着,ユ
命 烈 士 ス コ ヴ ォ ロ デ ィ ノ の 名 が っ け られ た こ と な ど を教 わ る 。13:00ス
強 離 れ た テ ィ ンダ(TSWIa)へ
ー ノ ス奔
の後何 度
コ ヴォ
向 か っ て 北 上 す る。 途 中 小 さ な 峠 を越 え,17:00頃
テ ィ
ホ テ ル に チ ェ ック イ ン す る 。
3.テ ィ ン ダ と ス タ ノ ヴ ォ イ 山 脈
7.月31日(土)バ
テ ィ ン ダ は,バ
で,ア
ム 歴 史 博 物 館,ス
タ ノ ヴ ォ イ 山脈
ム 鉄 道 建 設 の 基 点 の 一 つ と して 発 展 した 街 で あ る。 ス タ ノ ヴォ イ 山 脈 の 中 腹 に あ る の
ム ー ル 河 谷 と 比 べ て 特 に朝 晩 は か な り冷 え 込 み,長 袖 の ジ ャ ケ ッ トを 着 て 歩 く 人 の 姿 が 目立 っ(こ
の 日 の 最 低 気 温 は5℃
と の こ と)。朝,ホ テ ル を出 た と こ ろ で,ス
ヴ ェ トラ ー ナ さ ん が7月28日
ム ソ モ リス カ ヤ=プ ラ ウ ダ 』 を 見 せ て く れ る。 中 ほ ど に か な り大 き な 写 真 つ き で,ブ
ス ク で の 記 者 会 見 を 中 心 に,わ
筆 に な る も の で,見
ラ ゴ ヴェ シチ ェン
れ われ の 調 査 旅 行 に 関 す る記 事 が 出 て い る。 ス ヴ ェ トラ ー ナ さ ん 自身 の
出 し は"filOMIbl鄲amrAn6asuao"(日
わ け か 団 長 の 名 が 「エ ナ ツ
付 の 『コ
本 人,ア
ル バ ジ ノ を 調 査)。 た だ,ど
うい う
ヨ シ キ 」と な っ て い る。話 の 種 に と,早 速 キ オ ス ク で 人 数 分 を 買 い 込 む 。10:00
か らバ ム 歴 史 博 物 館(MyseimeropMMBAMa)に
て ア ム ー ル 州 博 物 館 長 会 議 。エ レ ー ナ 館 長 が 議 長 を つ と め,
一一昨 日会 っ た ア ル バ ジ ノ の ロバ ノ ブ館 長 の 姿 も 見 え る
。 わ れ わ れ に は あ ま り関 係 の な い こ と だ し,大
一246一
体
灘 黐馨纛 磨
黐
蕊.植
〆諍魔
弓 薫
舒
}}
匹与 具Zlス
∵,撫
タ ノ ワ才 イ 山脈 の 峠 にユ つ サバ
〔ヤ ワ ー7ヤ
冫 ・
丶
・
丿 夬 相 国現 の 裸 魔
何 を話 し合 っ て い るか も よ くわ か らない の で,最 初 だ け顔 を 出 して失 礼 し,博 物館 を参 観 す る。 名 前 の
とお り,バ ム 鉄道 に関 す る展示 が主 で ある。 地図 を眺 めれ ば わか るよ うに,バ ム鉄 道 は こ の場 所 で シ ベ
リア鉄道 に もっ と も接 近 して い るの で,ま ず ス コヴォ ロデ ィノか ら ここま で支 線 を作 っ て物 資 を集 積 し,
左 右 に建 設 を進 めて い っ た。そ うした プ ロセ ス が,模 型 な どを用 い てわ か りや す く示 され て い る。 また,
エ ヴ ェン キ族 の 民具 な どを展 示 した一 室 もあ った。12:10テ ィ ンダ発
ス タ ノヴォ イ山 脈 へ 向 か う。 ス
タ ノ ヴォイ行 は元 来 の計 画 に はな か った が,せ っ か くこ こまで 来 たの だ か ら,大 清 帝国 さ い は て の 地 を
一 目見 ない 手 は ない ,と い う細 谷 先生 の強 い ご意向 で,別 料 金 を払 うか らと運転 手 を ロ説 きお と した も
の で あ る。 ブ ラ ゴ ヴェ組 は 同行 せ ず,わ れ われ6人
のみ。 峠 まで100㎞
強 の行 程 で あ る。 高度 を上 げ
るにつ れ て,シ ラカバ は ほ とん どな くな り,カ ラマ ツ の純林 に近 くな る。 カ ー ブ を曲が っ て視 界 が 開 け
る と,は る か に 山稜 が 望 まれ る。 下 方 の河谷 に は,と こ ろど ころ に金 の採 掘 場 が あ る。14:00頃,峠
に
到 着 。 道 の右 手 に は,色 鮮 や か に 「
サ バ(ヤ クー チ ヤ)共 和 国」 の 標識 が立 ってい る 【写 真2】。 峠 を 越
えれ ば,も は や そ こは北 極 海 に注 ぐレナ川水 系 の地 で ある。 は るけ くも来 た もの と,一 同 感 慨 を 新 た に
す る。 峠 の右 手 は るか 下 方 に は,ア ル ダ ンへ 通 じる線 路 が見 え,時 折デ ィー ゼル機 関車 が も う も うた る
煙 を吐 き,あ え ぎあ え ぎ 登 っ て い く。14:40頃,ヤ
ナ ギ ラン の咲 き乱 れ る峠 を後 に,テ ィ ン ダへ 戻 る 。
途 中 ラプ リ川(Jlanpva)の河 原 で 小休止 。細 谷先 生 は用 意 の釣竿 を取 り出す が,残 念 な が ら釣 果 は な し。17:00
頃,テ
ィンダ に帰 着。
一247一
《ス タ ノ ヴ ォイ 山脈 と露 清 国境 》
わ れ われ が 立 った峠 は,テ ィン ダか らアル ダ ンを経 て ヤ クー ツ クへ抜 ける国 道56号
イ を越 え る地 点 で,ま
線 が ス タ ノ ヴォ
さにネ ル チ ンス ク条約 で定 め た往 時 の露 清 国境 の一 角 で あ る。 ネル チ ンス ク条約
は,国 境 につ い て 「……Kerbichi河 の源 泉の 上に あ る岩 また は石 の 山 の頂上 か ら,こ の 山の 峰峰 を経 て
海 に至 るま で は 両 帝 国の 領 土 を次 のよ うに分 つa即 ち この 山の南 に 発 してSagalienVla河
に流入 す る,
す べ て の土 地 と大 小 の河 川 はシ ナ帝国 の領 土 と し,山 の反 対 側 か ら北 に広 が る,す べて の 土 地 とす べ て
の 河 は ロ シア 帝 国 の領 土 とす るが,Vdi河
と,壌 界 として指 示 され た 山脈 との間 に あ る,海 に入 る河川
と土 地 は 暫 く定 め な いま ま に してお く」(ラ テ ン文和 訳)㊨ と述 べ てい る。 しか し,よ く知 られ て い る よ
うに,条 約 締 結 時 に は双 方 と も ご く不 正確 な地 図 を根 拠 と した のみ で,現 地調 査 は 一切 行 わ なか っ た。
従 っ て,条 約 に い う 「
石 の 山」 が何 に当 た るかに つ いて は,古 来 さ ま ざまの議 論 が あ る。 た とえば 松浦
茂 氏 は これ に つ い て,「 一般 に は スタ ノ ヴォイ 山脈(外 興 安 嶺)と す る説 が,有 力 で あ り,教 科 書 な ど
で も広 く採 用 され て い る。 しか し分水 嶺 に しかす ぎ ない とす る説 も存在 し,そ れ を無 視 す る こ とは で き
な い 」 と述 べ て お られ る(の
。 しか し,ス タノ ヴォイ 山脈 の峠 に 立 ち,サ バ共 和 国境 の標識 を見 て あ らた
め て 感 じた の は,少 な く とも この一帯 に関 す る限 り,ス タ ノ ヴォイ と分 水嶺 の関係 を あま り複 雑 に考 え
る 必 要 は な い とい うこ とで あ る。 少 し大 きな縮 尺 の地 図 を見れ ば明 らか な こ とだ が,少 な く とも この峠
の東 側 で は,東 西 方 向 に走 るス タ ノ ヴォイ 山脈 が,ほ ぼ その ま まア ムー ル 水系 と レナ水 系 の分 水 嶺 を な
し,同 時 にア ム ール 州 とサ バ 共 和国 の境 界 ともな って い る。 もち ろん,実 際 に はナ イ フ リッジの よ うな
明確 な 一 本 の 稜線 が あ る わけ で は な く,な だ らか な 山稜 が幾 重 に も重 な りあ っ てい る ので,条 約 に い う
国境,す
な わ ち分 水嶺 を きれ い な一本 の線 と してi現在 の 地図 上 に描 く こ とは難 しい だ ろ う。 しか し,ス
タ ノ ヴォ イ 山脈 とい う名 称 自体,特 定 の稜線 を指 す わ けで はな く,総 称 なの だか ら,大 まか な言 い 方 と
して,国 境=ス タ ノ ヴォイ 山脈 と表現 す る こ とには,何 の問 題 もない と思 われ る。 た だ し,こ の 峠 の西
側 で は,レ ナ 川 の 支流 オ リ ョク マ川 の水系 が ス タ ノヴォイ の 南側 に回 り込 ん で きて い るた め,山 脈 は も
はや レナ 水 系 とア ムー ル 水 系 の分 水嶺 では な くな る。 従 って,条 約 にい う国境 は,ス タ ノ ヴォイ か らは
離 れ る こ とに な るが,オ
リョク マ水 系 とア ムー ル 水系 の分 水 嶺 は,必 ず しもはっ き り した 一続 きの 山稜
を な して い な い た め,か な り複 雑 な線 とな らざ るを えな い。 一 方,東 の方 をず っ と見て い く と,ほ ぼア
ムー ル 州 とサ バ 共和 国の 境 界 の東端 を越 えた ところ で,今 度 は オホ ー ツ ク海 に直接 注 ぐ ウダ川 の水 系 が
山 脈 の 南 に 回 りこん で く る。 ネルチ ンス ク条 約 で は,こ の ウダ川 と 「
境 界 と して 指示 され た 山脈 」の 間
の土 地 が 国境 未 画 定 と して保 留 され て い るわ けだ が,こ の 山脈 は も はや ス タ ノ ヴォ イで は な く,別 に求
め な け れ ば な らな い。 この よ うに,東 西両端 の部 分 では た しか に複 雑 な問題 が あ るのだ が,少 な く とも
中 間部 分 に つ い て は,国 境=ス タノ ヴォイ 山脈 とす る教科 書 の表 現 は,お おむ ね 穏 当 とい え るだ ろ う。
(6>吉
田,前 掲 書,付 録457頁,
(7)松
浦茂fネ ル チ ン ス ク条 約 直 後清朝 のア ムー ル川 左 岸 調査 」『史林 』80・5,1997年,7(F106頁.
一248一
8月1日(日)ペ
ル ヴォ マ イ ス コエ 村
こ の 日 の メイ ンテ ー マ は,テ ィ ンダ 南郊 のベ ル ヴ ォ マ イ ス コエ(nePBOMatiCKoe)村
にエ ヴ ェ ン キ族
を訪 ね る こ とで あ った。 ブ ラ ゴ ヴェ 組 か ら は ス ヴ ェ トラー ナ さ んだ け が 同 行 。 午 前 中 はゆ っ く り休
憩 し,13:30に
ホ テ ル を 出発,ま ずテ ィ ンダ 駅 を見学 す る。小 ぎれ い で無機 質 な駅 舎 は,い か に も ソ連
時 代 の建 物 とい う感 じで あ る。14:00過 ぎにペ ル ヴォマ イス コエ 着 、村 役 場 の リュ ドミー ラ さん,博 物
館 のセ ル ゲイ 館 長 か ら村 の概 況 にっ い て説 明 を受 ける。 この村 は,ソ 連 時代 の 少 数 民族 集 住 政 策 に よつ
て75年
前 に生 ま れ た もので,エ ヴェ ンキ族 は アム ール州 だ けで な く,チ タ州 や ヤ クー チ ヤか らも集 め
られ た とい う。総 人 口は420,エ
ヴ ェン キ族 は うち160人 で,他 に もい ろい ろ な 民族 が い る。 ち なみ に,
セ ル ゲ イ 館長 は ユ ダヤ 人 で あ る。 博物 館 は小 さな ものだが,テ ン ト(チ ュ ム)の 模 型,毛 皮 の 実 物,ス
キー や 橇 な ど種 々 の民 具,彫 刻,刺 繍,エ
ヴェ ンキ語 教科 書 な ど,エ ヴェ ンキ の 生活 に関 す る豊 富 な 展
示 が あ る。 この村 で は,エ ヴェン キの民 芸 品 の作 り方 を子 供 た ちに教 え,作 品 を土産 物 と して 売 る こ と
を村 お こ しの 方策 と して お り,そ のた めの 学校 もあ る。 博 物館 と学 校 を 見学 した 後,こ の 村 で 一 番 物 知
りだ とい うア レクサ ン ドラ さん(65歳)を
訪 ね,話 を 聞 く。17:00頃,ペ ル ヴォマ イ ス コエ 村 を辞 去 し,
テ ィ ンダ に 戻 る。 翌 日に備 えて早 めに就 寝。
《ア ム ー ル 州 の エ ヴ ェ ン キ 族 》
リ ュ ド ミー ラ さ ん に よ れ ば,ペ
ル ヴ ォ マ イ ス コ エ に 住 む エ ヴ ェ ン キ 人 の 姓 はKvaHabmrp,Cc"lorOH,
EopucoB,MaKapoB,肋L珮oB,ConoMoHoB,H畩
㎝eRな
ど。 も ち ろ ん,最
は ロ シ ア 風 で あ る 。 小 中 学 校 で は エ ヴ ェ ン キ 語 を教 え て い る が,日
ン キ 族 の 中 に は,ト
初 の2つ
は エ ヴ ェ ン キ 風 で,他
當 使 う人 は ほ とん ど い な い 。 エ ヴ ェ
ナ カ イ 飼 育 に 従 事 して い る 人 もお り,牧 地 は 州 内 各 地(主
に 北 方 山 地)に
わたっ て
い る。 狩 猟 も 行 わ れ て い る。
ア レ ク サ ン ドラ さ ん は,1938年
に セ レ ム ジ ャ 区(師
㎜c翩OH)で
生 まれ た。 は じめは ド ゥグ ダ
(1fyTpa),つ い で ブ ラ ゴ ヴ ェ シ チ ェ ン ス ク で 教 育 を 受 け て 会 計 士 と な り,ゼ ー ヤ 地 区 で2年
1965年
に 当 地 に 派 遣 され た 。孫 が2人
こ の 話 か ら,彼
い て,上
年 を 終 え,テ
ィ ンダの 鉄 道学 校 に進 学す る 。
女 が こ の 村 の 建 設 以 来 の 住 民 で は な く,い わ ば イ ン テ リ と し て 新 た に 移 っ て き た 人 で あ
る こ と が わ か る 。 彼 女 の 氏 族 名 はBy皿drで
に は,他
の 孫 は11学
にByra,0珊1な
「
筋 骨 た く ま しい 」 と い う意 味 で あ る。 故 郷 の セ レ ム ジ ャ
ど の氏 族 が い た 。 若 い 頃 は 氏 族 外 婚 の 制 度 が あ っ た 。 「
氏族」はエ ヴェンキ
語 で テ ケ ン(T)K3H)と い う。 「
根 」 の 意 味 で あ る。 ア イ マ ク(a臨ar)と い う語 も あ り,f親
る 。 エ ヴ ェ ン キ 語 は 話 せ る。 円 錐 型 の テ ン トは ウ タ ン(yiaH)と い うが,父
ン ト(㎜ ㎜)に
間働 いた後 ・
住 ん で い た 。 金 持 ち で,ロ
戚」 の意 味 であ
親 は そ れ で は な く,大
き なテ
シ ア 人 の 友 人 を通 じ て 銃 ・ミ シ ン ・粉 挽 き 器 な ど を 入 手 し て
い た 。 トナ カ イ を飼 っ て い た 。 他 は 犬 だ け で,牛
や 羊 は い な か っ た 。 狩 猟 ・漁 労 も 副 業 と し て 行 っ て い
た 。 男 方 か ら 女 方 へ 婚 資 を 贈 ら な い と結 婚 で き な い の で,結 婚 す る た め に は財 産 が 必 要 だ っ た 。
リュ ド ミー ラ さ ん と ア レ ク サ ン ドラ さ ん か ら 聞 い た 内 容 は 大 体 以 上 で あ る が,こ
一249一
の 日午 前 中 に バ ム 歴
史 博 物 館 で 聞 い た 話 に よ る と,ア
村 が2箇
所 あ る。 ウスfニ
ン ダ の 西 北 に あ り,オ
エ ヴ ェ ン キ 族 は,言
ムー一ル 州 に は,ペ
ュ グ ジ ャ(Y㎝eHiOKKa)と
ル ヴ ォ マ イ ス コ エ の 他 に,エ
ヴ ェ ン キ族 の 集 住 す る
ウ ス`if':ウル キ マ(ycrb・YPKnMa)で,い
リ ョ ク マ 川 水 系 に 属 す る。 州 内 の エ ヴェ ン キ 族 の 総 人 口 は 約800で
ず れ もテ ィ
あ る と い う。
うま で も な くロ シ ア 極 東 と シ ベ リア の 広 大 な 地 域 に 分 散 し て住 ん で い る が,ア
ー ル 州 の エ ヴ ェ ン キ に 関 して い う と
,中
国 領 の エ ヴ ェ ン キ 族,と
帯 に 住 む トナ カ イ=エ ヴ ェ ン キ との 関 係 が 想 定 され る。19世
清 の 領 域 だ っ た わ け で,彼
く に 根 河 市 の オ ル グヤ(敖
魯 古 雅)一
紀 半 ば 以 前 は 現 在 の ア ムー ル 州 一 帯 は ほ ぼ
ら の 祖 先 は ア ム ー ル を越 え て 自 由 に往 来 して い た と考 え られ る か らで あ る。
試 み に 中 国 側 の 『鄂 温 克 族 社 会 歴 史 調 査 』を ひ も と い て み る と,オ ル グ ヤ の エ ヴ ェ ン キ に は6つ
①plit'ot'of,②k'altak'oliof,③solokon.f,④kielik'of,⑤solt'oski,⑥kutolinが
ByJgier,③
に は4つ
がC(〉)rorOHに 対 応 す る こ と は,容
の 分 枝 が あ っ て,そ
の一 つが
8月2目(月
「
馬 畷 羅 夫 索 羅 共 」 で あ っ た とい うが,こ
族
れ は お そ ら くMaKapoB
シ ア極 東 や 中 国東 北の 先住 諸 民族 につ
〉 テ ィ ンダ→ ブ ラゴ ヴ ェ シチ ェ ンス ク
チ ェ ン ス ク ま で 戻 る 強 行 軍 の た め,4:00少
る 。 テ ィ ン ダ の 南 の 峠 で 夜 が 明 け,朝
ル ダ ン(Tma),シ
靄 の 中 で 小 休 止 す る が,外
ヴ ァ キ(CllBaK"),シ
イ か らゼ ー ヤ 川 沿 い の 道 に 入 る 。 途 中,ゼ
し前,ま
だ真 っ暗 な 中を出発 す
の 寒 さ に 震 え 上 が る。 そ の 後 は 順 調 に
マ ノ フ ス ク(矼(llMaHoecXiを 経 て,ス
ヴ ォ ボ ー ドヌ
ー ヤ 川 を 見 下 ろ す 崖 の 上 で 休 憩 。 こ の あ た りで は,ア
よ り も む し ろ ゼ ー ヤ 河 谷 の 方 が 広 々 と開 け,絶
21:00頃
書 に よ れ ば,solokon。f氏
在 の 国 境 を ま ず 頭 か ら 叩 き 出 さ な け れ ば な ら な い こ と は 明 ら か で あ ろ う。
今 旧 は 一 気 に ブ ラ ゴ ヴ=シ
走 り続 け,タ
の 氏 族,
あ る と い う(s)。
① が
易 に 推 測 され よ う。 さ ら に,同
姓 と 関 わ り が あ る に 違 い な い 。 こ の一 事 だ け を と っ て み て も,ロ
い て 考 え る 場 合,現
ム
ム ール
景 で あ る。 斜 面 に は マ ツ ム シ ソ ウ が 一 面 に 咲 い て い る 。
ブ ラ ゴ ヴェ シ チ ェ ン ス ク 着 。
4.ふ た た び ブ ラ ゴ ヴ ェ シ チ ェ ン ス ク と ハ バ ロ フ ス ク
8月3日(火)郷
土 誌 博 物 館,教 会,ブ ラ ゴ ヴェ シチ ェ ンス ク発
12:00,ブ ラ ゴ ヴェ シチ ェ ンス ク教 育 大 学 の 考古 学 展示 室 を 見学 。 夏 体 み 中 だ が,コ ピチ コ氏 の はか
らい で 特 別 に 開 けて も らった。 ご く小 さな展示 室 だ が,石 器時 代 に始 ま り,靺 鞨 文化,女 真 ・ジュ チ ェ
リ文 化 な ど,時 代 別 に び っ し りと文 物 が並 べ られ て い る.中 国 の銅 銭(開 元通 宝 ら しき もの もある)や
陶 磁 器 も 目立 つ。14-15世 紀 の墓 葬 の再 現 もあ る。 入 口脇 には 「
泰 山之 敢 當」 と刻 まれ た 石 が無造 作 に
置 か れ て い る が,由 来 は わ か らない 。13=00,ふ たた び郷 土誌 博 物 館 で記 者 会 見。 調査 旅 行 の 喊 果 」
と今 後 の 展望 を細 谷 先生 に語 っ て いた だい た後,前 回十分 に見 られ な か っ たの で,あ らた めて展示 をゆ
(8)内 蒙 古 自治 区編 写 組 『鄂温 克族 社会 歴 史 調 査』 内蒙 古人 民 出版 社,1986年,210頁.
一250一
っ く り見せ て も ら う。 アル バ ジ ン城 砦 の模型,砦 跡 か ら出 土 した 釘 ・馬蹄 ・焼 け焦 げた 穀 物 な どが 目を
引 く。 少 数 民族 の コー ナ ー もあ り,エ ヴェ ンキ の シャー マ ンの衣 裳 な どが あ る。 また,「 黒 龍 江 副 都 統
/吉 力 頏 阿 巴 圖魯/奨 賞 花 餬 紀録 一 次/吉 林長 白弟子穆騰 額/敬 献/神 鐘 一 口於重壱 伯 八 拾 斤/忠 義 神
勇 靈佑/関 聖 大帝 廟 前 序 文/… …/皇 清 嘉慶
拾捌 年/嘉 月 吉 日 敬 献/盛
京奉 天 府/地 載 門外/小 北
関/元 發鋒 爐/金 火 匠 人 張士 興/丁 巳月 吉 日/成 造 」 とい う銘 文 を もつ 鐘 が あ った。f吉 力 頏 阿 巴 圖 魯 」
につ い て は・ 黒 龍 江 副都 統 とあ る以 上,調 べ を尽 くせ ばわ か る と思 うが,『 黒 龍 江 志稿 』 に は該 当す る
人 物 を見 出す こ とが で き な い。 あるい は他 か ら持 って こられ た ものか も しれ な い が,仮 に も とか ら現 ブ
ラ ゴ ヴェ シチ ェン ス ク の 地 にあ っ た もの だ とす る と,興 味 深 い 資料 とい え よ う。15:30 ,聖 母 教 会 を訪
問 。旧カ トリ ック教 会 を正 教 会 に 改 めた もので あ る。この訪 問 は,当 地 の ガ ヴ リール 大 主 教(APXH㎝ 贋cmn
raBpm)が ・『ア ル バ ジ ン の聖 物 』 に公 印 を押 して われ われ 全 員 に贈 っ て くだ さっ た ので ,そ の お 礼 に参
上 した もの。 大主 教 に は会 えなか っ たが,代 理 の方 に謝 意 を述 べ て辞 去 す る。 長 ら くお 世 話 に な っ たエ
レーナ 館 長 と も,こ こで別 れ る。 つ い で新 しい主教 座 教会 に 向 か い ,「 アル バ ジ ンの聖 母 」 の 本 物 を見
る。 イ コノ ス タス の 中 で は な く,聖 堂 内の 右手前 に独立 して 安 置 され て い る.イ コンの 通 例 で ,顔 の 部
分 だけ 残 して 上 か ら金 属 の装 飾 が被 せ られ,全 豺 誘よ くわ か らない が ,よ くこれ だ けき れ い に保 存 され
て い る ものだ と感 心す る。21:00過 ぎ,ブ ラ ゴヴェ シチェ ンス ク駅 発 。夜 中 にひ どい風 雨が あ り,列 車
の 窓 か ら水 が漏 っ て荷 物 が か な り濡 れ て しまっ た。
8月4日(水)ハ
16:00頃,ハ
バ ロ フ ス ク着
バ ロ フ ス ク 駅 着 。 ふ た た び ツ ェ ン トラ リナヤ=ホ テ ル に 投 宿 し
8月5日(木)国
,そ
の ま ま 休 窟℃
立 ハ バ ロ フ ス ク地 区 ア ル ヒー ヴ
10:00頃 徒 歩 でアル ヒs-・
一
・
・ヴ着 。 コー リャ さん が紹 介状 を ロシ ア語 訳 して くれ た お か げ で,今 度 は 無 事
受 け入れ て も らえ た。 しか し,文 書 の現 物 の出納 は 当 日では間 に合 わ な い との こ とで ,1時
間 ほ ど 目録
を 見せ て も らった だ け で辞 去 す る。コ レク シ ョンの全貌 は とて もっ かみ 切 れ な いが ,満 洲 国の 「
協 和会」
関係 の文 書が か な りあ る よ うだ。 この アル ヒー ヴにっ い ては,中 見先 生 が2005年1月
に再 訪 され て い
る の で・ いず れ 詳細 な報 告 が な され る と思 う。 午後 は 自 由行 動。 筆 者 は軍事 博 物館 の野 外 展 示 をひ とわ
た り参観 す る。
S月6日(金)ハ
バ ロ フス ク→ 新潟
午 前 中は郵 便 局 で 書籍 な どを発 送。 モ ス ク ワあた りと違 っ て,こ ち らの 郵便 局 に は小 包 用 の 頑 丈 な ビ
ニー ル 袋 が用 意 され てお り,手 続 き は意外 にスム ー スに運ん だ。 そ の後 ホ テル に戻 っ て コ ピチ コ氏 と落
ち合 い,空 港 に 向か う。 翌年 の再 開 を約 して機 上 の人 となる。14:10離 陵
時差 帯 の設 定 とサ マ ー タイ
ム の 関係 で,ハ バ ロフ ス ク と新潟 で は時差 が逆転 して い るた め,新 潟 着 も ほぼ 同 じ時刻 だ った 。
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結び
あわ た だ し くは あ っ た が,と にか くロシア極東 の 広大 さを何 が しか 実感 で きた旅 だっ た。 地 図 だ けで
見 る と,一 様 な 土地 が は て しな く広 が ってい る よ うだが,た とえ ば,ハ バ ロフス クで は 日中 は蒸 し暑 く,
ノー ス リー ブ で 歩 い て い る人 が 多 い のに,テ ィンダ で はみ な長 袖 を着 て い る し,ハ バ ロフ ス ク付 近 で は
広 葉 樹 が多 い の に,北 上 す るに つ れ てカ ラマ ツが圧倒 的 に なっ て くる とい う具合 で,実 際 の環 境 は地 域
ご とに少 しず つ異 な っ てい る。 人 文地 理 の面 で も,ハ バ ロフス ク では 中 国人 の姿 は ほ とん ど見 か けず,
む しろ 日本 との 関係 が深 い 印 象 が あ ったが,ブ ラ ゴ ヴェシチ ェ ン ス クで は 中国パ ワー が圧 倒 的 で,日 本
人 は珍 しい存 在 で あ る。 こ の地 方 をめ ぐっ て ロシア ・清 朝(中 国)・ 日本 の 間 に展 開 した 複 雑 な 歴 史 を
振 り返 る場 合 も,こ う した 自然/人 文 地理 的環境 の 多様性 に対す る理解 を前提 と しなけれ ば な らな い こ
とを痛感 す る。 細 谷 プ ロジ ェ ク トで は,今 年(2005年)さ
らにア ムー ル の上 流域 を 目指 す 予 定 で あ る。
もはや ロシア極 東 で は な く,シ ベ リア と呼 ばれ る地 方 に足 を踏 み 入 れ る こ とにな る が,今 度 は どん な風
景 が 眼前 に広 が るの か,楽
しみ であ る。
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稲 田 大 学 文 学 部)
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