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1922 年-1924 - 岡山大学学術成果リポジトリ

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1922 年-1924 - 岡山大学学術成果リポジトリ
岡山大学経済学会雑誌3
2
(
4
),
2
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0
1
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2
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-1
4
7
ワシン トン州労働運動 と日本人移民 ,
1
9
2
2
年1
9
2
4
年
黒
川
勝
利
は じめ に
ゼネ ラル ・ス トライキを契機 としてシア トルにおけ る労働運動 と日本人移
民社会 との関係が好転 した とい う事実は ,1
9
2
0
年 の ワシン トン州知事選挙に
おけ る農民労働党公認候補 ロバ ー ト ・ブ リッジズの声 明,日本人移民問題公
聴会におけ るシア トル ・ユニオ ン ・レコー ド編集長- リー ・オル トの証言 ,
あるいは翌 1
9
21
年 の ワシン トン州排 日土地法制定に対す るシア トル ・ユニオ
ン ・レコー ドの論説な どに示 されている。か くしてシア トルお よびその周辺
におけ る労働運動 と日本人移民 との関係は,同時期に シア トル と並ぶ 日本人
移民の集積地 であったサ ンフランシス コ周辺や ロサ ンゼルス地域 とはかな り
異な った ものにな ったので あるO
とはいえ, ワシン トン州 において も事態 は満足 す べ き こ とばか りでは な
か った。労働者か ら小営業者や農民 ,労働組合か ら在郷軍人会- と主体 を変
えなが らも,日本人排斥運動は衰 えを見せてはいなか ったo労働観合 との関
係 も万全 とは言い難か った。理髪業 ,ダイオークに始 まった 日本人事業者 ,
労働者 と白人組合 との提携 は肉店 ,靴工 ,看板工- と拡大 してい ったが ,大
多数 の観合はなお も日本人 の加入 ,日本人組合 との協力を拒否 していたので
ある。第 2次世界大戦発生後 に ワシン トン州の労働組合が 日系人の強制収容
を支持 し,さらにはその シア ト レ-の帰還 にあた っての最大 の障害 とな った
1
12 5 -
620
とい う事実 も,両大戦間の両者の協力関係がやは り問題を含む ものであった
とい う事実を裏書 きしている(
I
)
0
本稿では,この微妙な時代の最初の時期 ,すなわち1922年か ら1924年の排
日移民法制定 までの時期におけるシア トル労働運動 と日本人移民社会の関係
を追求 しようと試みた。主 として取 り上げたのは ,1922年のオーバーソ事件
をめ ぐる日本人社会の動 向と,1924年の排 日移民法へのシア トル労働運動の
対応である。
第 1節
オ ーバ ー ン事件
1
922年に合衆国では 2つの全国的ス トライキが発 生 して い る。 第 1に ,
ジ ョン ・ルイス率いる統一鉱山労姐 の指導の下に,歴青炭 ,無煙炭両地域で
4月 1日か ら始 まった炭鉱 ス トライキである。第 2に ,AFL の鉄道従業員
部工場職種連合の統一的指導の下に,機械工組合 ,ボイ ラー製造工魁合 ,鍛
冶工組合 ,電気工阻合な ど,複数のクラフ ト・ユニオ ンに属す る4
0
万人の労
働者に よって,その 3ヶ月後 の 7月 1日に開始 された鉄道工場ス トライキで
ある(
2
)
。いずれ も大規模かつ長期に及び,その双方において 日本人労働者 は
-万では組合側の,他方では会社側 の圧力を受けて困難な状況に追い込 まれ
たのである。
7月 1
3日の大北 日報は,「日本人の去就-
鉄道罷業に際 し」 とい う見出 し
(1)以上の諸問題 については ,拙稿 『アメ リカ労働運動 と日本人移民-
シア トルにおけ
9
9
8
年),「
第 2次大戦期のシア トルにおけ る新 聞 と日
る排斥 と連帯』(
大学教育 出版 ,1
本人問題」 (
『岡山大学経済学会雑誌』3
0
- 4,1
9
9
9
年).「
シア T
t
}
レにおけ る日系人帰還
問題」 (
『岡山大学経済学会雑誌』31
- 4,2
0
0
0
年)において吟味 している。
(2)Se
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2
6-
ワシ ン T
lン州労働運動 と日本人移民 ,1
92
2
年-1
92
4
年
621
の記 事 に お い て 以下 の よ うに 述 べ て い る。
ユニオ ン,メソのス トライキに際 して 日本人労働者 はユニオ ンと合社 の板 挟 に な
り,苦 しい立場 に在 るのは誠 に同情 に値す る
炭坑 ユニオ ン,メソのス トライキに際 して ,ユ タ, コロラ ド州炭坑 に働 き居 る約
三百人の 日本人労働者は ,進退 に困っ て居 る
鉄道 シ ョップ,メソのス トライキに際 し,アイダホ ,ワヨ ミン,モ ンタナ ,ワシン
トン諸州 の シ ョップメソ-ルパ ー として働 いて居 る 日本人約二百名 も亦進 退 に迷 ふ
て居 るそ うな
(
中略)
ユニオ ンに加櫓すれ ば ,合社 か ら怨 まれ ,ス トライキ事件 の解決 された後 に ,合
社 は 日本 人を使用 しないだ ろ うと想像 して心配 して見 る,然 らばユニオ ンの歴 迫 に
抵抗 して働 きつづけ るとせん平 ,此 の場合 に於 て も,ス トライキの片付 いた後 に ,
3
)
0
今度 はユニオ ン,メソか らつ ゝき出 され て仕舞ふ ことが あ ら うと心配す る(
ス トライ キ に 直 面 して 日本 人 労 働 者 の 取 った 行 動 は ,そ の 地 方 の 状 況 に 応
じて 様 々 で あ った 0 7月1
5日の 大 北 日報 は 述 べ て い る.
罷業 の経過 は本紙上 日々にそ の詳細を報道 しつ ゝあるを以て読 者 もそ の情勢 を熟
知 せ らる ゝであ ら うが ,嘉 に同胞 の-大問題 として研究せ ざるべか らざる こ とは 同
胞 労働者封労働組合若 し くは其魁合点 の間の問題 である,情報 に依 る と同胞 鉄 道 労
働者 の内工場労働 に関係 ある もの ゝ敦 は砂 な くない ,彼 らの一部は罷業者 に加 糖 し
そ の職 を去 りユニオ ン保護 の下 に在 る もの もある,又た生活 の困難 を訴へ て組 合側
の特種 の了解 の下 に労働 を継績 してゐ るもの もある,更に又た罷業 の事情 に暗 くユ
(3) 『
大北 日報』,1
9
2
2
年 7月1
3日。なお,同紙 5月2
2日は,炭坑ス トライキ指導者が連名
でユタ州 カーボン郡の 日本人労働者に送 った撤文を紹介 している0
-
1271
6
2
2
ニオン側 とは没交渉に して織道魯社の命の下に唯 々諾 々と労働 し事実罷業者側 の行
動を妨げユニオンより仇敵視せ られてゐるものもある(4)
しか しな が ら ,去就 に迷 った の は実 の と ころ現 場 の労 働 者 だ け で は なか っ
た。 各 地 日本 人会 の幹 部 を は じめ とす る 日本 人社 会 の有 力 者 た ち もまた ,排
日運 動 対 策 との関 連 で この ス トライ キ に ど う対 応 す る か を 迫 られ た の で あ
るO
シ ア トル に お い て も意 見 が分 か れ た。 た とえば大 北 日報 主 筆 の竹 内幸 次 郎
は , 日本 人 労 働 者 もまた艶 合 に呼応 して ス トライ キ に参 加 す べ きで あ る と主
張 した。
目下織遺骨社は同胞罷業者の復職を勧誘 しっ ゝあ りといふ も此の際の復職 はス ト
ライキ破 りLに して仮へ繊道合社側の歓心を男はんも直ちに労働観合に敵視 さる ゝ
は常前に して東部に於ける大騒動虐殺事件な ど悪例少なか らず無論 日本人 の取合加
入は常に取合 より拒否せ られその存在を無視 され居 る場合ス トライキ事件 にのみに
日本人を抱 き込 まんとす るは甚だ理屈に合はぬ次第なるも此の際同胞は彼 ら労働者
と共に進退を共に して白人労働者 と共同生存の資格あるを彼 らに認め しむ るは最 も
時宜に適せる手段な りと言ふべ し一時の利益問題に誤 まられス トライキ破 りの汚名
を蒙むるほ同胞労働者全体に取って由々しき大事な り(5)
そ して そ の よ うな立 場 か ら彼 は , シ ア トル ・ゼ ネ ラル ・ス トライ キ の先 例
を 引い て ,北 米 日本 人会 が率 先 介 入 して労 働 者 を指 導 す る よ う要請 した。
先年 シャ トル市にゼネラル,ス トライキの突発せる時 ,北米 日本人合 は時局に鑑
(4) 同上 ,7月1
5日。
(5)同上,7月 6日D
ー1
2
8-
ワシン トン州労働運動 と日本人移民 ,1
9
2
2
年1
9
2
4
年 6
2
3
み特別委員骨を設け労働問題に関係ある委員を選定 し研究討議の結果 ,大局 に利 あ
りと認めて同胞労働者を導 きユニオン側に投ぜせ しめたのであった。爾来 ユニオ ン
側は同胞を徳 とし双方の感情は融和 し,今 日に至るも排 日問題に封 し公然旗臓を明
白に し反封の公論を戦はす ものは濁 りユニオン側の機関誌あるのみである
吾 々が北米 日食に進言 したいのは岡倉が重大なる時局の上に 日を醒 まし,直 ちに
具鰹的の措置を採 るべ きことである,即ち前年の例に依 り特別委員合を設け調査研
究指導の事に懲 らしめ,此際同胞労働者を して去就を誤 まらしめざるのみな らず ,
此好筒の横合に於てユニオン側の了解を得て特別規定の下に同胞の加入を承諾せ し
むるも極めて可 ,要は大局 より打算 した最善の道程の発見である,常に同胞 の寮生
活問題解決に責任ある北米 日食は小は合員たる錬道労働者のため大は一般 同胞 の将
来のために この時局の大問題を等閑に附することは出来まいと信ず る(6)
他 方 ,同 じ くシ ア トル 日本 人社 会 で大 きな影 響 力 を持 って いた松 見 大 入 や
山 岡音 高 は ,今 回 の罷 業 の主 力 が熟 練 労 働 者 で あ る こ と, 日本 人 の加 入 を認
め て い な い労働 観 合 が争 議 の場 合 に のみ そ の協 力 を求 め るの は矛 盾 して い る
こ と , な どの 理 由 を も っ て 日本 人 労 働 者 に 「
軽 畢 盲 動 」 を 慎 む よ う訴 え
た (7)。 そ して この よ うな見 解 の対 立 が , ま もな くオ -バ ー ン問題 を め ぐ って
頂 点 に達 す るの で あ る。
ユ ニオ ン ・レコー ドの記 事 に よる と, シア トル に お い て も ,鉄 道 工 場 ス ト
ライ キ の開始 と と もに ,非 範 合 員 を含 め て 5
5
0
人 ほ どの労 働 者 が ス トラ イ キ
に突 入 した。 支 援 の集 会 も開 かれ て い る。 そ の 中 に は 日本 人 も含 まれ て い た
よ うで , 7月 6日の大 北 日報 の記 事 中 に , 「
罷業 に際 して 阻 合 よ りの 命 令 に
よ りス トライ キ に参 加 せ る もの は東 洋 貿 易骨 社 配下 の シ ア トル , ラ ン ド- ウ
スに一 名 」 とい う文 章 が あ る。 また , 7月21日の 同紙 に よれ ば ,北 米 日本 人
(6)同上 , 7月 1
5日O
(7)同上 , 7月1
0日,なお,同紙 7月1
3日,2
6日も参照せよ。
-
129-
6
2
4
会 が管轄す る地域 で鉄道工場 に従事 していた 日本人は約 200人 で ,そ の大 部
分が組合 と行動 を共 にす る決心 である とい うことであ る(
8
)
0
しか しなが ら,ユ ニオ ン ・レコー ドや大北 日報 の関連記事 を管見す る限 り
では ,北米 日本人会管轄地域 におけ る労使対決 は さほ ど激 しい ものには発展
せず , 日本 人労働者や 日本人会 がそ のために窮地 に陥 る よ うな ことにはな ら
なか った よ うであ る。
他方 ,タ コマ 日本人会 お よびスポーケ ン日本人会 の管轄地域 ,特 に後者 の
ヒル ガー ドにおいては ,ス ト破 り- の襲撃 ,観 合員 の投獄 な どの激 しい対立
が発生 し, 日本 人労働者 もこれ に巻 き込 まれ た。東洋貿易合社 も社員を派遣
して調整 に当た ったが功 を奏 さず ,結局 の ところ,組合 に協力 した 日本人 の
多 くはキ ャンプを立 ち去 らざるを得 ない状況 に追 い込 まれ ,他方 で少 な くと
も 5名 の 日本人がス ト破 りとな った のであ る(9)0
しか しなが ら,北西部 の 日本人社会 に もっとも大 きな波紋 を投 げかけたの
は ,オーバ ー ンで発生 した問題 であ った。 8月下旬 に東洋貿易合社 が ,鉄道
会社 の要請 に応 じて 1
9
名 のス ト破 りを オーバ ー ンの ラウン ド- ウスに送 り込
衣 ,明 らかにス トライキに敵対す る処置 を取 ったか らであ る。 8月 2
5日の大
北 日報 は次 の よ うに報 じてい る。
東洋貿易合社が一九名のスキャップを,オーバンのラウン ド-ウス-送 った と,
本社-報知 したものがあった,其んなことは無い筈だ,社長山岡さんが,其んな こ
とをする筈がないとは思ったが,確かに送った,現にセ リフが警衛 して蔽を した
オー トで送ったのを目撃 したと報 じた人がある,其れは火曜 日の午後のことであっ
た,いよいよ確実に現に働いて居るか否かを知らんと欲 して,昨日午後本社か ら電
話で,東洋貿易骨社-真相を間合はした所が,確かに件の十九名が,現にオーバソ
(8)Se
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,1
9
2
2,『
大北日報』
,1
9
2
2
年 7月 6日,2
1日O
(9)同上,7月1
9日,2
5日,8月 1日,3日,5日,7日,9日,1
6日,2
5E
I
o
-
130-
ワシン トン州労働運動と日本人移民 ,1
9
2
2
年-1
9
2
4
年 6
2
5
のラウンド-ウスに働いて居るとの答を得た,是は同社事務所内の一人がアンサー
したのであった(
1
0
)
そ の後東洋貿易骨社 はモ ンタナ州 のバ ー クウオ タに も1
4,
5
名 のス ト破 りを
送 ったo また 9月 2 日には さらに 3名 のス ト破 りをオ ーバ ー ンに送 りこんで
い る。
この ことはオ ーバ ー ンの 日本人社会 を困惑 させたo オーバ ー ンの住民 の多
くは労働側 に好意 的であ り,市長 もまた組合員 であ った。 したが って ,以前
か ら同地 で働 いていた 5名 の 日本 人労働者 は ,全員 ス トライキに参加 してい
た。農業 に従事す る 日本人 はは るかに多 く1
0
0
名程度 にのぼ って い た が ,彼
等 もまた ス トライキを支持 していたo排 日土地法 の制定に よって不安定 な状
態 に置 かれ ていた彼等 は ,排斥運動 の原 因 とな る よ うな事態 を労働者 以上 に
恐れ ていたか らであ る。そ の よ うなオ ーバ ー ンの 日本人社会 に とって ,東洋
貿易骨社 の行動 は晴天 の罪産 であ った(ll)。
そ の当時 の東洋貿易合社 の社長 は山岡音高 であ った。 山岡は この事件 で彼
常に労働者 の地
と対立 した大北 日報 に よって も 「
在 留同胞 の元勲」で あ り,「
位 の向上 を説 き,在留 同胞社会 の発展 を説 き, 日米親善 に努む ることを殆 ん
ど其生命 とす る人」 であ った と評 され てい る。私 もかつ て ,1
91
9
年 の国際労
働会議 におけ る山岡の活躍 を描 いた拙稿 の中で ,「
彼 自身 は資 本 家 階級 の一
員 とな ってか らす でにか な りの期 間を経 ていなが ら,若 い頃 の 自由民権活動
家 としての斡持 がなお山岡音高 を律 していた」 と彼 の人物 ,識 見を高 く評価
(
1
0
)同上,8月2
5E
I
o
(
l
l
)同上, 9月 5日Oこの記事に 「
オーバン二百名の同胞」とあるから日本人住民を全部
5日の記事には増派されたのは 8名となっ
会わせると二百名内外であろう。なお,9月2
ているOまた,ストライキに参加した 5名の日本人中,観合員は 2名であったという
9
9
4
年,初版,大北日報社,1
9
2
9
年,
(
竹内幸次郎 『
米国西北部日本移民史』,雄松堂,1
1
2
0
1
2
1
頁)
。竹内は同書の第 2篇第10章 (
1
1
8
頁1
3
0
頁)に,まもなく編介する1
9
2
2
年9
月2
2日の連絡日本人会の議事録を解説抜きで収録している。
-1
3
1
1
6
2
6
してい るo その よ うな山岡が ,不幸 に も今回の争議 においては ,ス ト破 りを
送 り出 した無思慮 な企業 の社長 として批判 の矢面 に立 た され る ことにな った
1
2
)
。
のであ る(
ス ト破 りの導入に よってオーバ ー ン市民 の対 日感情 は悪化 したO大北 日報
は次 の よ うに報 じてい る。
此間在留民は日々人気の険悪に赴む くを以て気が気にあらず一方には連絡 日食に
姦力方を依頼 し一方にはス トライカー家族救済の為めにユニオンに野菜物を寄附な
どして来 りLが人気は容易に緩和せらるゝを見ず
学校に通学する日本人児童すら往々悪罵を白人児童より浴せかけられ又は夜間通
行の日本人は白人より襲撃せらるゝことなどあ り従来日白人の調和 した りし同地は
鉄道ス トライキ事件 よりガラリと人気の変 りたるに驚き去る(13)
さて , 日本人労働者 の到着 を知 ったオ ーバ ー ンの労働鮭合指導者 は , 日本
人会 に対 してス ト破 りを引 き揚 げ させ る よ う申 し入れ て きた。 これ を受 けた
オーバ ー ソ日本人会 は ,引用 した記事 にあ るごと く 「
連絡 日食上 す なわ ち シ
ア トルに本部 を置 く米 国西北部連絡 日本人会 に協力 を要請 した。連絡 日本人
会 な ら東洋貿易骨社や 山岡音高 に対 して も影響 を及ぼす ことが 出来 る と考 え
たのであろ う。 ま もな く連絡 日本 人会 は役員 を派遣 して組合 との交渉 に あた
り,「出来得 る丈 げのベ ス トを轟 さん」 と約束 して阻合 の了 解 を得 た の で め
る。 ところが ,そ の後 の具体的 な回答 がない内に ,す でに述 べた よ うに 3名
の 日本人 ス ト破 りが新 たに送 られ て来 た。そ のため組合か ら再度説 明を求 め
られた オーバ ー ン日本人会 は ,連絡 日本 人会 に対 して東洋貿易合社 との交渉
の様子 を問い合わせた。 しか しなが らこれ に対す る連絡 日本 人会 の返 事 は冷
(
1
2
)『
大北日報』,8月2
5日,前掲拙著 『
アメリカ労働運動と日本人移民』,1
6
2
頁。
(
1
3
)『
大北日報』,9月2
5日
-
132-
ワシン トン州労働運動 と日本人移民 ,1922年-1
92
4
年 627
たか ったO
東洋貿易骨社に勤 し黄昏の希望を述べ撤回を照合なしたる虚該骨社は鉄道骨社 と
永年継続 し来れる契約により骨社 より求め来る人夫を供給 し居 るものに して黄昏 の
希望には腹ず る事不可能な りとの事に御座候 ,東洋貿易合社の意志前述の如 き上は
1
4
)
本合 として比上採るべき道無之候に就 き比儀御了東成皮右御回答に及び侯(
か くして 9月20日に タ コマで開かれ た連絡 日本 人会 の協 議会 は対 決 の場 と
な った。 オ ーバ ー ン 日本 人会 を代表 す る難 波友太 は ,タ コマ 日本 人会代 議員
た ちの支持 を得 て ,連絡 日本 人会 実行 部 の不信 任案 を提 出 した ので あ る。
難波 お よび彼 と同行 した オ ーバ ー ンの約 20名 の 日本 人 , さらに は親 日的 な
自人 た ちは ,東 洋 貿 易会社 の行 動 が オ ーバ ー ン市 民 の 日本 人- の感情 を悪化
させ て い る事情 を説 明す る と ともに ,同 じくス ト破 りと してや って きた イ タ
リア人労働 者 が組 合 の説 得 に応 じて引 き揚 げた とい う事実 を指摘 して ,実行
部 の対 応 を攻 撃 したO北 米 日本 人会 の代議 員 の一 人 と して 出席 していた大北
日報 の竹 内幸 次郎 も,連絡 日本 人会 の回答 文 を 「
温情 な き文章 な り」 と批判
してい るO
他 方 ,連絡 日本 入会会 長 の松 見大入 は ,「日本 人 の組 合 加 入 を肯 ぜ ざ る労
働観 合 の 同盟 罷行 に勤 し無候 件 に彼 等 の要 求 に盲従 して ス トライ キに参 加す
るに は反 封 な り」 と,す でに新 聞 な どに公表 した持論 を繰 り返 した。 また ,
東 洋 貿 易骨 社 が鉄道合 社 との契 約 に従 わ ざ るを得 な い とい う事実 を指摘 し,
(
1
4
)難波友太の発言 (
竹内前掲,1
21
-1
22
頁)によるOなお米国西北部連絡日本人会はシア
92
0
年改正の規約によると15の日本人
トル領事館管内の日本人会の連合体であって,1
会が加盟している。最大の日本人会はもちろんシア トルの北米 日本人会であって代議
員は1
4
名の多 くを数えるoこれに次ぐのはタコマ日本人会の 5名であって,オーバーソ
日本人会のごときは代議員 1名に過ぎないOオーバーン日本人会がこのような非常時
に連絡日本人会,あるいは北米 日本人会の援助を期待 したのは無理からぬところで
0
あった (
同上,96-97頁)
-1
3
3-
628
「
オーバーンの諸君に迷惑を及ぼ し段 々御心配をかけたる事を遺憾」 としつ
つ も,連絡 日本人会 と東洋貿易合社の処置 はやむを得ない もの と主張 した。
結局のところ多 くの代議員は ,オーバーソ日本人会に同情 しつつ も,東洋
貿易合社を糾弾 し,実行部への不信任案に賛成す るまでには至 らなか った よ
うである。山岡にせ よ松見にせ よ在米 日本人社会のために身を捨てて尽 くし
てきた人物であった。いずれ もその死去後に太平洋沿岸 日本入会協議会か ら
さえも感謝の決議を受けている。それだけに多 くの代議員は,東洋貿易合社
は鉄道会社の圧力に抗す ることができないのだ ,オーバーンの 日本人が同地
の労働観合の要求を無視す ることができないの と同様に,と考えたのではあ
るまいか。北米 日本人会の代議員の中では,おそ らくは竹 内とならんで組合
運動に理解があった と思われ る伊東忠三郎 も,
「
合社 として人 を送 らざれ ば
繊道就業者千有除名全部職 を失 ふ に至 らん」 とい う山岡の言葉 を紹介 し,
「
諸君が此間の事情を酌み取 られて御諒解 あ らん事 を望む」 と発 言 してい
る。か くして実行部不信任案は賛成 8名で もって否決 され ,これを不満 とし
たオーバーンの人 々は一斉に退場 したのである(15)0
2点付け加えておきたい。第 1に,オーバ ーン日本人会 と連絡 日本人会 と
のその後の関係である。その 4日後 オーバーソ日本人会は総会を開 き,連絡
(
1
5
)以上 ,同上 ,1
20
-1
30
頁o『
大北 日報』, 9月20日,21日,2
2日,23日,2
5日,26日,
27日,2
8日,2
9日.参照D協議会を傍聴 していた大北 日報の記者は ,否決直後 の様子を
次の ように描いている。「
『
私は議場か ら退 きます』 とオーバ ソ代議員難波氏は,議長に
適合 して席を蹴って去った ,オーバ ンの有志家 も,暗涙を呑 んで去っ た ,流石 の議場
も,前例に従って否決の勝利を拍手を以って迎へなかった ,議場は この-瞬間 ,得 も言
27日)O記者はオーバー.
/提案が否決 された理 由も推
はれぬ寂 しさを感ぜ しめ られた」(
測 しているが ,その一部は本稿におけ る私の見解 と同様 である。 「
協議骨選良の心裡 を
探ってみ ると 『
賓行部はオーバ ソ日食に封 して冷願 ,不親切であることは確かに認めて
いるが ,弾劾案を通過 させ どもしや うものな ら,実行部は常然総辞職 をす る,さてその
後 のお興の持って行 き虚がない』 と 『
労働者の肩を持つばか りが能ではない,東洋貿易
合杜 も巳むを得 ない窮状だ』 といふ ,不徹底な同情 とが ,-慶になって不信任秦は葬 ら
れた ,何人 も貴行部の庭理を善な りと解釈す る者は,味方の議員の内に もなかったや う
だ 」(
29日)0
-
134 -
ワシン トン州労働運動 と日本人移民 ,1922年-1924年 629
日本 人会 か らの脱退 を決議 した。 しか しなが ら, この よ うな時期 に 日本 人社
会 内部 の対 立 が続 くこ とは好 ま し くな い とい う判 断 が あ った ので あろ ラ,シ
ア トル駐 在 の斉藤 領事 が斡 旋 に乗 り出 した 。 そ の結 果 オ ーバ - ソ 日本 人 会
斉藤 領事
紘 ,10月21日に臨 時稔 会 を開 き ,激 しい議 論 の結 果 では あ った が ,「
及 び松 見聯絡 日本 人骨 長 が オ -バ ンにおけ るスキ ャ ップ引上 げ に轟 力す る 旨
を言 明せ るを信頼」す る とい うことで ,脱 退通告 を取 り消 してい る(16)0
第 2に ,オ ーバ ー ンにおけ る 日本 人 と白人 との関係 で あ る。 た しか に悪化
は した が ,ス t破 り本 人に対 しては ともか く,一般 の 日本 人- の反感 が取 り
返 しがつか な いほ どに高 ま る とい うよ うな ことは ,なか った よ うで あ る。 そ
の理 由 と して ,連 絡 日本 人 会 に も出席 して熱 弁 を 振 る っ た 親 日派 白 人 ,
「
チ ャー レ- 」 の努 力 に よる と ころが 大 きか った と ,大 北 日報 は伝 え て い
る。
チャーレ-は協議合に自ら出馬 して白人の封 日感情を披渡 して聯絡 日食の諸星に
反省を促 さんとした松見合長は之れをも拒絶 しや うとしたが遂に断 り切れなかった
其後チャーレ-はユニオンの ミ-テングに出席 してオーバソ日合の努力を発表 した
▲ユニオンメソは総起立 してチャー レ-と日本人合 に封 して敬意を表 したチ ャー
レ-は二三回出席 したが何時も総起立 と拍手で辺へ られたユニオンの ミ-テ ング
には時々本部から幹部が来て演説する事 もあるがチャーレ一握敬意を表 され る事
は殆 ど前例がない
▲ユニオンメソは昔 日合の合員が危害を受ける様の事があってはならぬ と一般に注
意 して日本人骨 々員に限 り保護のために徽章を興へや うと迄申し出たく17)
(
1
6
)同上, 9月25日,1
0
月2
3日。
(
1
7
)同上,1
0
月1
3日。なお,同上,1
0
月 6日,1
2日の記事も参照。
-
13 5 -
6
3
0
第 2節
排 日移 民 法 と シ ア トル ・ユ ニ オ ン ・レ コ ー ド
1
9
2
4
年 ,合衆国はいわゆ る排 日移民法を制定 し,日米紳士協定を破棄 して
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pである 日本人移民の入国を
「
帰化不能外国人」a
全面的に禁止 した。 日本 の世論 は これ に激 し く反 発 した。 この よ うな事 態
に,シア トル労働運動 は どの よ うな態度 を示 したのであろ うかoその当時 ,
シア トル中央労働評議会 の機関紙 として シア トル労働運動の意 向を代弁す る
立場 にあった シア トル ・ユニオ ン ・レコー ドの記事 ,論説 の吟味を通 じて ,
これを明 らかにす るのが ここでの課題 である。
最初に ,当時 シア トルで発行 されていたユニオ ン ・レコー ド以外 の新聞 ,
すなわちシア トル ・タイ ムズ ,シア トル ・ポス トイ ンテ リジ ェソサ ー (以
下 ,PIと略す) お よび シア トル ・スターの 3紙 の排 日移民法 に関す る論評
を ,比較 のために検討 してお こ う。
結論を先取 りす るな らば この 3紙 は ,若干 のニュアンスの相違 はあるが ,
いずれ も排 日移民法を支持 している。 この検証 は実 の ところ容易である。な
ぜな ら排 日移民法 は ,「
重大な諸結果」g
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sとい う言葉が問題
とな った例 の頓原書簡 とも関わ って ,当時のアメ リカジャーナ リズ ムに とっ
て もホ ッ トなテーマ とな っていた。 したが っていずれの新聞 も,記事や論評
でその立場を明確 に表 明 してい るか らである。
まず タイムズか ら考察 しよ う。
4月1
5日の タイ ムズは ,社主 クラ レンス ・プ レセ ソに よる 「日本 と上院」
J
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eとい う論説において ,排 日移民法を取 り上げてい る。
そ して この論説は明 らかに上院が排 日移 民法 を承認 した こ とを評価 して い
る。特に植原書簡- の言及が 目立つ。 冒頭 の 「
上院の 日本政府に対す る非難
は正 当であるo一般 のアメ リカ市民は植原- 向け られた攻撃に完全に満足す
ることであろ う」 とい う文章 ,末尾近 くの 「日本 は横柄 であ ったo埴原は倣
慢だ ったのであ って ,上院は正 しい ことを行 ったのであ り,賞賛すべ きであ
ー
1
3
6-
ワシン トン州労働運動 と日本人移民 ,1922年-1924年
631
る」 とい う文 章 な どが そ れ で あ るO
も っ と も,そ れ だ け に タイ ムズ の論 説 か らほ ,植 原 書簡 問題 さえ発 生 して
い な け れ ば ,紳 士 協 定 を継 続 して 日本 との対 立 を避 け る こ とが 出来 た か も知
れ な い , とい うよ うな ニ ュア ンス を読 み取 れ な い こ と もな い。 この論 説 に は
そ う思 わ せ る よ うな部 分 も含 まれ て い る(18)0
そ れ に対 して PIの立 場 は よ り明確 で あ る。
これ は PIが ,いわ ゆ る- -ス ト系 の新 聞 で あ った こ とか ら ,当然 予 想 さ
れ る こ とで もあ った。 事 実
4月1
5日の PIに よれ ば ,社 主 と して - ース トは
次 の よ うな指 示 を編 集 長 に送 って い るの で あ る。
ポス ト・インテ リジェソサーの編集長私は貴下が,日本人のオース トラリアか らの排斥に関す るヒューズ首相 の声 明に
基づいて,現在上院で審議中の 日本人排斥法案についての強硬な論説を執筆す るこ
とを望む。私は東洋人が我が国に殺到 して無制限に横溢することを防 ぐために , 日
本人排斥を強力に支持する。我 々はオース トラ リア人 と同様に,彼 らが我が国に殺
到 して くることを防 ぐべ きである。
我 々は,我が国を単に白人種のためのみならず ,西洋的賃金水準,生活水準,労働
条件を有す る国 として守 ることを欲 している。
西洋文明の最大の成果は,高い道徳水準 と生活水準であるが,道徳の水準はある
程度は生活の水準に依存 しているとい うことを認識 しておかねばならない。
家族に快適な生活を送 らせ,子供たちを学校に送 り,独立 自尊の基盤に則 って家
計を維持す ること,これ らすべてが道徳水準の改善に資す るのであるO
我 々は この国が,低い東洋の労働条件 ,貧 しい生活水準 との競争によって活力を
奪われ ,東洋的道徳に よって汚 され ることを欲 しないo
これは人種的偏見ではないOそれは人種的保護であるO
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)アム ・ラン ドルフ ・--ス ト
この よ うな ノ\-ス トの指 示 を受 け て PIは ,「
我 々は黄 禍 か ら 自分 た ち を
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守 る権 利 を 確 認 す る 」 WeAs
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lとい う論 説 を掲 載 して い る(19)0
最 後 に ス ターで あ る。 実 の と ころ ス タ ー は か ね て か ら ,す な わ ち P Iが
- - ス トに支 配 され る以前 か ら,熱 心 に 日本 人 排 斥 を主 張 して きた新 聞 で あ
る。 した が って ス タ ーが排 日移 民法 を歓 迎 した の ほ言 うまで もな い。
ついに白人が 自分の母国においてチ ャンスを持つ ことになるように思われ る。合
衆国の下院 も上院 も明確に 日本のはった りに対 して開き直 ったO 日本人排斥条項 を
含む移民法案は,ジャップのプロパガンダ,ジャップの脅 し,お よび政治家 を気取
る若干のアメ リカ人の売国的な親 日行動 に もかかわ らず ,議会 の両院 の賛成 を得
た。
何年間もシア トル ・スターは,ほ とん ど独力で,まさに このために闘って きた.
東洋人移民の禁止は勝利の刻印である。
無制限の日本人移民が危険な ことについては疑いがない。スタンダー ド航空機事
件で証明されているように三井のごまか しには疑問がない。 こうい う事情 なのに ,
なぜ多 くの新聞は白人種を裏切 るのであろ うか ?そんなことでは,自分の生 まれた
国を 自分のものにす るための白人の闘争を支援す ることはできないo
そのもっとも良い例がまさにここシア トルに存在 している。
以上 が 4月1
5日の ス タ ーの 「白人 - の裏 切 り」Bet
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とい う論 説 の全 文 で あ る(20)。
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ワシン トン州労働運動 と日本人移民 ,1
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年1
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年 6
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3
この よ うな状 況 に お い て , シ ア トル の新 聞 の 中 で唯一 排 日移 民 法 に対 して
反 対 の ,あ るい は少 な くと も冷 静 な対 応 を 示 した の が ,実 の と こ ろ ユ ニ オ
ン ・レコー ドで あ った。
まず 3月1
3日の 「危 険 な提 案 」ADa
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lとい う論 説 を 紹 介 し
よ う。 当時大 北 日報 は この論 説 につ い て ,「シャ トル に於 け る ,他 の 英 字 紙
が , ヒ ウズ氏 (この 「ヒ ウズ」 は もち ろん先 の PIに 引用 され た オ ース トラ
リア首 相 の ヒ ューズ で は な く,排 日移 民 法 制 定 に強 く反 対 して い た合 衆 国 国
務 長 官 の ヒ ューズ で あ る) の説 に賛 成 の聾 を 挙 げ ざ る時 ,猫 り リ コ ー ド紙
が ,之 れ 丈 け の こ とを ,堂 々 と して発 表 した る勇 気 を多 とせ ざ るべ か らず 」
と,感 謝 の意 を表 明 して い る。
経済状況に鑑みれば,合衆国への移民をある程度制限す ることは望ましい。それ
は移民-の不人情 ,指紋採取 とい う侮辱 ,あるいは現在の我が国の法 とそ の執行 に
おいて一般的である愚かな残酷 さを必要 とす るものではない。状況は各国の割 当
91
0
年のセンサスの 3パーセン トとい う基準か ら1
8
9
0
年 センサスの 2パ ーセ ン
を ,1
トとい う基準に変更することに よって,改善に向か うものではないO提案 され てい
.
割当か らさえも日本人を明らかに排除す るとい うこと
る法律が,この 2パーセン 7
になれば,我 々は- 一生で今回だけのことだが - これは誇 り高 く有能 な人 々に
対す る不必要な侮辱であると述べてい る ヒューズ長官 に賛成す るO ヒューズ長官
は,提案 されている 2パーセン ト法の下では2
4
6
人の 日本人だけが入国を許可 され
るであろ う,と述べているO もし日本人が他の国民 と同様に扱われるならば彼 らは
カ リフォル ニア全土を手に入れ るであろ うと述べているカ リフォルニアの議員 は ,
馬鹿げた ことを言 っているか ,彼の同国人について貧 しい見解を有 しているかの ど
ちらかであるOもしも年間2
4
6
人の 日本人が,カ リフォルニアであろ うと合衆国の他
の地域に とってであろ うとそんなに危険なら,我 々は誇 りな ど捨てて しま うべ きで
ある。そんな少数の人々にす ら対処できないのなら,我 々は無能な国民である。
しか しながらもちろん,議員やその他の絶対的排斥-
I
139 -
911
年の条約 に反す
多分 1
6
3
4
る排斥-
の支持者たちは,理性ではな く偏見で語 っているのであ り,そ して 日本
4
6人の 日本人農民が長年 の間に創
人のプライ ドを傷つけることによって彼 らは ,2
り出すであろ うよりも大きい脅威を,まずは我 々の貿易に,後には我々の平和に対
2
1
)
0
して創 り出すのである(
排 日移 民法 が上院 を通過 し,他 の
3紙 がそれ を支持 す る論 説 を掲 載 した 4
月1
5Elには ,ユ ニオ ン ・レコー ドももち ろん この問題 につ いて の論 説 を発表
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obl
em とい うタイ トル のそ の論説
してい る。 「日本 人 問題 」Th
は ,3月1
3日の論説 ほ ど強 く排 日運 動 を批 判す る ものではな い。 しか し明 ら
か に 日本 人 に同情 的 で あ り,次 の よ うな表 現 で結 ばれ てい る。
ユニオン ・レコー ドはいつ も,日本人問題は悲観論者たちが描 き出すほ ど重大で
もなければ複雑なものでもない,と感 じてきた。すでに当地に住んでいる日本人た
ちには,礼儀正 しくしようではないかO彼 らは人間なのであるO これ以上の移民が
停止され,適切な規制法が制定 され るな ら,彼 らが問題 となることはないであろ
う(
2
2
)
0
さ らには 5月1
9日か ら,親 日派 の学 者 と して知 られ た フ レデ リ ック ・ス
ターの ,排 日移 民法 と上 院 を激 し く批 判 した 「
合 衆 国 上 院 に お け る ヒス テ
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e とい う論 文 を , これ は ユ ニ オ
リ-」Hy
ン ・レコー ドの見解 を反 映す る ものではな いけれ ども 日本 人 問題 に詳 しい人
の説 な ので参考 にな る, とい う注釈 つ きで 6回 にわ た って連載 して い るので
あ る(23)0
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年 3月1
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ワシントン州労働運動と日本人移民,1
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年 6
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5
この ようにユニオ ン ・レコー ドは ,排 日移民法 問題 に関 して明 らかに他 の
3紙 と-線を画 し,1921年 の排 日土地法 の時 と同様に ,在米 日本人の立場 を
擁護 しつづけたのである。
この よ うなユニオ ン ・レコー ドの記事や論説が ,編集長である- 1
)一 ・オ
ル トの意 向を反映 していた ことは疑 問の余地がないo ゼネ ラル ・ス トライキ
後 の短期間に ,オル トは 日本人社会 の指導者 との間に きわめて緊密な関係を
作 り上げていたか らである。 しか しなが ら問題 は ,それが どの程度 当時の シ
ア トル労働運動 に よって支持 されていたのか とい うことである。
当時のシア い レ中央労働評議会 の議事録を管見す るな らば ,そ こで も移民
法が議論 の対象にな っている。 しか しなが らどうい う意見が支配的であった
のかは ,議事録 の文面か らは明確 ではない。法案を t
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批判 し,教会 な どと協力 して反対集会 を開 こ うとい う提案 とともに ,法案を
支持す るとい うまった く逆 の立場 の決議 も,提 出されているのである。そ し
て最終的には mat
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poned とい う決議が採択 されてい
る。す なわち,結局の ところ結論が出せなか ったのである(24)0
一般的に言 うな らば ,1921年 の排 日土地法の頃に比べて ,1924年 の排 日移
民法 当時のシア トル労働運動 は明 らかに保守化 していた。すでに中央労働評
議会書記 の地位 を退 いた ジ ェームズ ・ダンカンと同様 に ,ダ ンカソの盟友 で
あったオル トの影響力 も衰 えつつあ ったC この ことは シア トルのみな らず ,
ワシン トン州 の労働運動全体 について言えることなのである。
そ して ダソカン,オル トを中心 とす るいわゆ る革新派 は ,当時の ワシソ ナ
ン州 の労働運動 の中で もっとも日本人 に対 して好 意 的 な グル ープだ ったか
ら,彼等 の退潮は ワシン トン州各地 の労働運動 の 日本人労働者への態度に皮
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映 した ように思われ るのである(
2
5
)
0
本稿 では吟味す ることがで きなか ったが ,1924年初頭 にはエペ レッ トに近
い レイ ク ・ステ ィゲンスにおいて 日本人労働者 の排斥運動が発生 している。
そ して この問題が 日本人労働者全員の退去に よって解決す ると,次にはやは
りエペ レッ ト近郊のマカテオの製材所か ら, 日本人労働者を追放 しようとす
る運動が発生 している(
2
6
)
。
製材所 の再開にあた って新規に 日本人労働者が雇用 された レイキ ・ステ ィ
ゲンス と異な り,マカテオは20年 にわた って 日本人が就働 して きた地 区であ
り,1923年 当時にはその数 も150人を超 えていたか ら,これ は 日本 人社 会 に
とって大問題 であ ったC北米 日本人会 も神都理事 と細川第 4部長を派遣 して
事情 を調査 している。 さすがにマカテオの運動 は成功 しなか ったが ,排 日の
主体が労働者か ら農民や小営業者に移行 しつつ あると考 え,労働組合に関 し
て一時は 「
昔 日の仇敵 は今 日の僚友た る観 あるに至れ り」 とまで言 明 してい
た 日本人社会 の指導者たちに とって ,この よ うな問題 の発生 自体が衝撃だ っ
たのでほあるまいか(
2
7
)
。大北 日報 も,マカテオ事件を報 じた 2月13日の記事
の中で 「
本社 の考 えでは ,ユニオ ン レーバ ーの ,我等 日本 人 に封 す る態度
が ,少 しく轡になって来たや うに見 る」 と述べている(
2
8
)
。
(
2
5
)鉄道工場ス トライキの時に も北米 日本人会はダンカンと連絡を取 っているO「
伊東 ,
神都両氏 よ りス トライキ形勢に関 して東洋貿易骨社及びシャ トル工場 につ きて取 調べ
た る情況並びに常市 レ-ボー,テンプルに至 り幹事 ダソカ ソ氏 に面合 してユ ニオ ン側
の意向を質問 しユニオ ン側にてほ 日本労働者がユニオ ンと行動 を一 にす るや う希 望せ
しことを報告 し種 々協議の結果本 日九時半説 田,神都両氏を シャ トル 中央 労働合 へ派
遣 し日本人労働者側の情状を説明 しユニオンと何等かの了解 を得 せ しむ る こ と ゝせ り
と」 (
『
大北 日報』,1
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年 7月2
7日)O
(
2
6
)以下 ,両地の排斥問題については ,Se
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大北 日報』, 1月1
5日,1
9日,2
6日,2
8日,2月1
2日,1
3日,1
5日,1
6日,竹 内
前掲,400
真,参照O
(
2
7
) 『大北 日報』,1
9
2
2
年 1月 1日。この文章 は,黒頭巾 とい うペ ンネーム (
竹 内幸次郎で
あろ う) の著者に よる 「
西北部同胞発展史論」 とい う論文の一部であるD
(
2
8
) 同上 ,2月 1
3日。
-1
42-
ワシンT
.ソ州労働運動と日本人移民,1
9
2
2
年1
9
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4
年 6
3
7
なお この記事は ,「
少 しく轡 になって きた」その契機 に までは跨 み込 んで
いない.それを行 ったのは後年 の竹 内幸次郎である。すなわち竹 内は ,『
米国
西北部 日本移民史』 において レイキ ・ステ ィゲンス事件 の経過 を概説 し,そ
の最後 を 「
因に前華州労働観合骨頭 ダ ンカソ氏の失脚 以後 ,観合 内には東洋
人排斥 の空気が観 るや うになった」 とい う文章で結 んでいる。 ダ ンカンが辞
した職は 「
華州労働組合骨頭」 とい うよ りも 「
沙市労働組合書記」 と呼ぶに
ふ さわ しいが ,竹 内の観測その ものは間違 いではないであろ う(29)0
その よ うな1
92
4
年 当時の状況を思えば ,オル トとユニオ ン ・レコー ドの排
日移民法に関す る姿勢 には ,おそ ら く労働運動 内部か らも批判が寄せ られた
のではないか と思われ る。実 の ところ,先にあげた フ レデ リック ・スターの
論文 のユニオン ・レコー ド紙上におけ る扱いに も,それを うかがわせ るもの
がある。すなわち掲載が中止 され るよ うな ことこそなか ったが ,5月2
0日に
は この論文が政治経済学老 ではな く人類学者 の産物 であること,重要 な問題
の議論 の素材 として掲載 しているのであ ってユニオ ン ・レコー ドの立場を表
明す るものではない ことが ,論説欄 において再確認 されている02
3日には さ
らに ,彼が 日本政府か ら勲章を受けた人物 であることを明 らかに し,彼 の意
見はむ しろ 日本人の立場か らの意見であるとす る論説が掲載 されているので
ある。
言 うまで もな く,この ことで もってオル ト自身が排 日移民法に対す る態度
を変 えた と考 えるのは ,正 しくない と私 は考 える0 5月3
0日にオル トは 「
不
寛容」I
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eとい うタイ トルの論説において ,当時のアメ リカ社会 に勢
力を拡大 しつつ あった排他的風潮 を一般的に批判 し,その中で 日本人問題 を
一つの例 として取 り上げ ,「
一夜 の うちに世界強国か ら苦 闘す る国- と百年
間後戻 りさせた最近 の地震 (
関東大震災を指す) に よって,打撃を受け意気
消沈 している 日本 に対 して ,我 々は彼 らの国家的 プライ ドを傷つけ る不寛容
(
2
9
)竹内前掲 ,1
5
8
1
5
9
頁O
-
143-
6
3
8
を示 し,国民 と政府- の侮辱を繰 り返 した」 と述べている。 これが彼 の本来
3
0
)
0
の立場である(
しか しなが ら,当時 の ワシン トン州労働運動 の保守化は ,その機関紙 の編
集長 であるオル トが 自らの立場を貫 くこ とを ,徐 々に困難 な もの に しつつ
あ ったのである。
お わ りに
以上見て きた よ うに ,ゼネ ラル ・ス トライキを契磯 としてた しかに好転 し
た ワシン トン州の 日本人社会 と白人労働運動 との関係であるが ,その後何 ら
問題 な く友好が深 まってい ったわけではなか った0 日本人を受け入れ る組合
が増加 した とは言え,は るかに多 くの組合が 日本人の加盟 を拒否 していた。
その よ うな状況においてほ ,平穏 な時期 は と もか くい った ん争議 が生 じる
と, 日本人労働者 は経営者 と組合 の板挟みにな ったoそ してその よ うな場合
にいかなる方針で臨むか ,それは必ず しも明確 な答 えを 出せ る問題 で はな
く,日本人労働者 もまた彼 らを支 えるべ き日本人社会 ,団体 もしば しば窮地
に陥 ったのである。
白人労働運動の動 向 もまた 日本人 との関係に影響 した。第 1次大戦期に シ
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レ労働運動 の主導権を握 り, ワシン トン州全体 の運動 に も影響 を及ぼ し
た ダンカソや オル トを中心 とす る革新派の力は ,ゼネ ラル ・ス トライキ後 の
急進派 との対立 ,保守派 の攻勢 に よって著 しく減退 した。 ダソカンほ中央労
働評議会書記を辞任 し,ユニオ ン ・レコー ドは部数 を減 らし,深刻な経営危
機に陥 ってい ったので ある。1
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年 のゼネ ラル ・ス トライキの後に 日本人社
会が接触に努力 して友好関係を築 いたのは革新派の活動家が多か ったか ら,
この よ うな状況は 日本人 と白人労働運動 との関係に もマイナス とな った。 こ
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ワシン トン州労働運動 と日本人移民 ,1
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れ は大北 日報 主筆 ,竹 内幸 次 郎 の結 論 で もあ った。
もっ とも,だか ら とい って ワシ ン トン州 が カ リフ ォル ニア州 の よ うにな っ
て しま ったわ け で はなか った。 シア トルに おけ る白人労働運 動 と 日本 人社会
との関係 と, ロサ ンゼル スや サ ンフ ラ ン シ ス コに お け る 同様 の 関 係 の 間 に
は ,や は り大 きな相違 が あ った。 当時 の ワシ ン トン州 の多 くの 日本 人 も, レ
イ キ ・ステ ィゲ ンスや マ カテ オの 日本 人労働者 排斥事件 には危機 感 を抱 きつ
つ も,な おそ の よ うに考 えていた よ うに思われ る。
そ の よ うな認識 は おそ ら く, 日本 人排斥運動 を進 め る側 に とって も同様 で
あ ったo それ ゆ え彼 等 は , ワシ ン トン州 の状況 を よ り一層 カ リフ ォル ニア州
の よ うな状 況 に接近 させ よ うと努 力す るので あ る。 そ して保 守化 した ワシ ン
トン州 の労働運 動 か らほ ,そ の よ うな動 き- の抵 抗力 は失 なわれつつ あ った
ので あ る。
最後 に ,そ の よ うな流れ を示す一 つ の史 料 を紹介 して ,本稿 の結 び と した
い。
1925年 8月20日, カ リフ ォル ニ ア州 労働 総 同盟 書記兼 会計 で排 日運動 の闘
士 と して も知 られ て いた ポ ール ・シ ャー レンバ ーグは , ワシ ン トン州 労働 総
同盟会 長 の ウ ィ リア ム ・シ ョー トに宛 て て次 の よ うな書 簡 を送 って い る。
シ ョー トは ,多年 の ライバ ル で あ った ダ ンカ ソを破 って指導者 と しての地位
を確 立 した ワシ ン トン州 労働運 動保 守 派 の領袖 で あ るO
ワシン トン州労働総同盟の最近の報告を見ても,私は貴州における日本人問題に
ついて一言も発見することができませんでしたO多分そちらには何の問題 もないの
で しょう,そ してもしそ うであるとすればあなたは感謝すべきですO
しか しながら,私がこれを書いている目的は,現在キ リス ト教会連合評議会 の権
威の下に行われている我が国の現在の日本人を排斥 している法律を破棄あるいは修
正 しようとする運動に,あなたの注意を向けるとい うことです。 ここカ1
)フ ォル ニ
アでは,我々はアメリカ在郷軍人会,州 グレンジ,州労働総同盟および黄金の西部
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の息子たちの代表か らなる合同委員会を結成 しています。 この合同委員会 は多年 に
わた って活動 してお り,アジア系移民に関す る諸問題で統一行動 を取 るのに非 常 に
成功 して きま した。 ワシン トン州において ,上記の連合評議会 のプ ロパガ ンダに反
撃す る作業が もし成 されているな らば ,それを返事 として私に知 らせていただけ ま
せんか。 あなたたちは在郷軍人会や農民 と協力 していますか。
早急にお返事をいただければ幸いですo敬具.
5日付 で返 事 を送 って い るO や や 長 い の で そ の
これ に 対 して シ ョー トは ,2
- 部 だ け を紹 介 して お こ う。
あなたの手紙を受け取 るまで ,キ リス ト教全速合評議会が我 々の法律を い じく り
まわそ うと試みている,とい うことに気がついていませんで した。 しか しなが ら,
彼等が ここワシン トンでその ような ことを試みたな らば,す ぐに押 さえつ け ます か
らご安心 くだ さい。議会で支配的な農民たちは,長時間労働 と低 い生活水 準 に よっ
て長い間 白人農民に不利益を与えて きた 日本人 と,本来的に反対 して団結 してい ま
すO彼等の勢力に労働者 の支持者 ,在郷軍人会 の支持者 ,お よび議員 とな って い る
この州の多数 の指導的な法律家が加われば ,その間題は容易に コン トロール で きま
す(
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これ は ダ ソ カ ンや オ ル トな らけ っ して書 か な か った で あ ろ う書 簡 で あ る。
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Labor Movement and Japanese
Immigrants in Washington State, 1922-1924
Katsutoshi Kurokawa
After the Seattle General Strike of 1919, the relationship between
labor organizations and Japanese immigrants in Washington State
became friendly. There were, however, many problems remained.
When the big railroad shop strike occurred in the United States in
1922, one ofthe Japanese companies in Seattle sent strikebreakers to the
railroad shops of Auburn. Almost all the Japanese in Auburn protested
strongly against it because they wished to preserve a good relationship
between white labor unions and the Japanese society there. Their appeal
to the United Northwest Japanese Association in Seattle was, however,
practically rejected by its executives.
In 1924, U. S. Congress passed the Japanese Exclusion Act.
Newspapers in Seattle, the Seattle Times, the Seattle Post-Intelligencer
and the Seattle Star welcomed the decision of the Congress. Only the
Seattle Union Record, the organ of the Seattle Central Labor Council, was
critical to the Exclusion Act and sympathetic to the Japanese in Seattle.
The policy of the Union Record was, however, not supported unanimously
by a large majority of the organized labor in those days. The influence of
conservatives was becoming stronger in the Washington State labor
movement. They had bad feeling on Japanese immigrants and were
critical against the policy of Harry Ault, the editor ofthe Union Record.
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