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オンライン ISSN 1347-4448
印刷版 ISSN 1348-5504
赤門マネジメント・レビュー 8 巻 12 号 (2009 年 12 月)
経営戦略の策定プロセス:
事前計画としての戦略、事後的パターンとしての戦略
網倉
久永
上智大学経済学部
E-mail: [email protected]
要約:経営戦略とは、個別の競争行動の背後にあって、それらに一貫性をもたらす
ような、企業活動を導くガイドラインやシナリオである。本稿では、ヤマト運輸の
宅配便事業およびホンダの北米モーターサイクル事業の二事例の比較検討に基づい
て、長期的なシナリオとしての戦略が策定されるプロセスには、計画的策定と創発
的形成の二側面があることを議論する。
キーワード:経営戦略、計画的策定、創発的形成、ヤマト運輸、本田技研工業
I. はじめに
本稿の目的は、ヤマト運輸による宅配便事業への進出、本田技研工業(以下、ホンダ)
による北米モーターサイクル事業の進出という二つの事例に基づいて、経営戦略の策定プ
ロセスについて検討することである。
今日、経営戦略という用語は一般に広く用いられているが、その用いられ方は必ずしも
統一されてはいない。経営戦略は、これまで多くの研究者・実務家によって、様々に定義
されてきた。表 1 は、それらの多様な定義のうちごく一部をリストアップしたものであ
る。
これらの定義は、単純なものから詳細なものまで多様であるが、いくつかの共通点を見
701
©2009 Global Business Research Center
www.gbrc.jp
網倉
久永
表 1 戦略の定義
石井淳蔵・加護野忠男・奥村昭博・
野中郁次郎『経営戦略論(新版)』有
斐閣 (1996), p. 7
大滝精一・金井一頼・山田英夫・岩
田智『経営戦略−論理性、創造性、
社会性の追求』有斐閣アルマ
(2006), p. 14
伊 丹 敬 之 『 経営 戦 略 の 論理 ( 第 3
版)』日本経済新聞社 (2003), p. 2
および p. 11
環境適応のパターン(企業と環境のかかわり方)を将来志
向的に示す構想であり、企業内の人々の意思決定の指針
となるもの
価値創造を志向した「将来の構想とそれに基づく企業と環
境の相互作用の基本的なパターンであり、企業内の人々
の意思決定の指針となるもの」
市場の中の組織としての活動の長期的な基本設計図 (p.
2)
企業や事業の将来のあるべき姿と、そこに至るまでの変革
のシナリオ (p. 11)
伊丹敬之・加護野忠男『ゼミナール 「企業や事業の将来のあるべき姿とそこに至るまでの変革
経営学入門(第 3 版)』日本経済新 のシナリオ」を描いた設計図
聞社 (2003), p. 21
沼上幹『わかりやすいマーケティング 自分が将来達成したいと思っている「あるべき姿」を描き、
戦略(新版)』有斐閣アルマ (2008), その「あるべき姿」を達成するために自分の持っている経
p. 3
営資源(能力)と自分が適応するべき経営環境(まわりの
環境)とを関係づけた地図と計画(シナリオ)のようなもの
青島矢一・加藤俊彦『競争戦略論』 企業の将来像とそれを達成するための道筋
東洋経済新報社 (2003), p. 17
ジェイ・B・バーニー『企業戦略論:競 いかに競争に成功するか、ということに関して一企業が持
争優位の構築と持続 上 基本編』ダ つ理論
イヤモンド社 (2003), p. 28
コーネリス・A・デ・クルイヴァー, ジョ 持続的競争優位性(sustainable competitive advantage)を
ン・A・ピアースⅡ世『戦略とは何か: 達成するためのポジショニング(positioning)を構築するこ
ストラテジック・マネジメントの実践』東 と
洋経済新報社 (2004) , p. 17
デビッド・J・コリス, シンシア・A・モン 企業戦略とは、企業が複数の市場における活動を組み立
ゴメリー『資源ベースの経営戦略論』 て調整することによって、価値を創造する方法
東洋経済新報社 (2004), p. 9
いだすことができる。それは、(1)到達すべき「目標」や「ゴール」と、(2)企業外部
の「環境要因」と企業内部の「資源・能力」とを関係づけて、(3)長期的・包括的に描
いた目標に至るための「道筋」や「シナリオ」という点である。
ここでの例のように、抽象度の高いレベルでの戦略の定義については、比較的容易に共
通点を見いだすことができる。しかし、これらの定義を現実の事象に対応させようとする
と、「戦略とは何か」を厳密に示すことは途端に難しくなる。その最大の理由は、経営戦
略は、計画文書のような何らかの「実体」として存在しているとは限らないことに求めら
れる。
「プランニング学派 (Mintzberg, Ahlstrand, & Lampel, 1998)」が想定している、フォーマ
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経営戦略の策定プロセス
ルな計画としての戦略という考え方とは異なり、経営戦略とは、特定の計画やアクション
ではなく、企業活動を導くガイドラインやシナリオである。企業の戦略が、中長期計画な
どに代表されるような、公式文書として記述されたものであれば、その策定プロセスを明
らかにすることはそれほど難しくはないだろう。しかし、実体をもたないガイドラインや
シナリオが形づくられるプロセスを解明するのは容易ではないだろう。
本稿では、個別の競争行動の背後にある、「長期的なシナリオとしての戦略」がどのよ
うに形成されてきたかを、対照的な二つの事例に基づいて検討し、経営戦略の策定プロセ
スを解明していくことを目指している。本稿では、ヤマト運輸の宅配便事業への進出、ホ
ンダの北米モーターサイクル事業への進出という二つの事例を取り上げる。二つの事例
は、それぞれの「業界の常識」を覆すような大胆な決定であり、また後から振り返ると、
企業全体の事業構成を大きく組み替える、全社戦略上の大きな決定であった点が共通して
いる。しかし、個々の決定が下され、計画が実行されていくプロセスはまったく異なって
いる。こうした極端な相違ゆえに、両社の事例は「理論的サンプリング (Glaser & Strauss,
1967)」の対象として適切であると判断される。両社の事例を比較することから、実体の
ない「ガイドライン・シナリオとしての戦略」が形づくられるプロセスに関する知見を得
ることが本稿の目的である。
以下では、ヤマト運輸の宅配便事業、ホンダの北米モーターサイクル事業の順に、
(1)それぞれの新規事業進出の決断に至る経緯、(2)新事業に実際に進出した後での競
争行動を中心に、事例の記述を行う。その後、両社の事例を比較することで、戦略策定・
形成プロセスについて検討する。
2. 事例:ヤマト運輸の宅急便進出1
ヤマト運輸は、1976 年に「宅急便」の商標で個人向け宅配サービスを開始した。宅急
便サービス開始の 5 年前、1971 年に創業者・小倉康臣の息子である小倉昌男が二代目の
社長に就任している。1970 年代初頭、ヤマト運輸の売上は拡大していたものの、利益率
は減少傾向にあった。
1
ヤマト運輸およびホンダの事例は公開資料に基づいて作成した。事例作成に当たっては、居代真
澄・田中真帆(いずれも上智大学経済学部経営学科 2007 年度卒業)から、資料収集の助力を得
た。ここに記して感謝したい。
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2.1. 多角化事業の利益率低下
1919 年に東京・銀座で創業したヤマト運輸は、2 トラックによる近距離商業配送を主力
事業としていた。第二次世界大戦中は、ガソリン不足からトラック輸送が制限され、50
台ものトラックが軍需輸送に徴用されてしまった。
終戦後は、貨物輸送分野全般を対象に、積極的に事業多角化を推進した。国鉄の貨物輸
送向けの集荷・配送、貨車への積み卸し業務である「通運事業」、三越・伊勢丹・そご
う・高島屋など百貨店の配送業務の請負、税関の貨物取扱人免許の取得、航空貨物・海上
貨物・港湾輸送・梱包などに進出した。多角化によって営業収入は順調に伸び、1955 年
には多角化事業による営業収入は全体の 23%に達していた。
しかし、1970 年頃から、多角化事業での利益率の低下が顕著になってきた。国鉄によ
る鉄道貨物の取扱量は、競合するトラックへの需要シフト、労使対立による「国鉄離れ」
などから減少を続けていた。特に、1975 年の「スト権スト」による打撃は壊滅的であっ
た。鉄道貨物の減少は通運事業の売上を直撃した。通運事業の全社売上に占める比率は、
1970 年には 21.4%であったが、1976 年には 11.6%まで低下していた。
百貨店配送は取り扱い個数・売上ともに順調に伸びていた。しかし、1973 年のオイル
ショックによる売上減少に見舞われた百貨店からは、配送料金の引き下げを要請され、利
益率が低下していった。
オイルショック後に消費が回復しても、利益率は下がり続けた。配送需要の増加が費用
増をもたらしたのである。百貨店配送は、中元・歳暮の時期に荷物が集中する。繁忙期に
は大量の学生アルバイトを雇い、空き倉庫を臨時の配送所として借り、大量の貸し自転車
で配送するというのが一般的であった。コストのほとんどが変動費であるため、損益分岐
点が低く、7 月と 12 月の繁忙期には大きな利益が出ていた。
ところが、出荷個数が年々増加するにつれて、配送所を常時設置し、アルバイトではな
く正社員を配置する必要が出てきた。固定費負担の増加によって、利益が減少し、繁忙期
の利益で、平月の赤字を補填するようになっていた。
2.2. トラック貨物輸送の停滞
さらに、基幹事業であるトラック輸送の業績も伸び悩んでいた。第二次世界大戦後の経
済復興・高速道路網を中心とする道路交通網の整備・トラックの性能向上などから、ト
2
創業時の社名は「大和運輸」であった。同社は、1982 年に現在の「ヤマト運輸」に商号標記を
改めている。
704
経営戦略の策定プロセス
ラック輸送に対する需要は急速に伸びており、輸送業界全体は好調であった。それにも関
わらずヤマト運輸の業績が伸び悩んでいたのは、長距離輸送への進出に消極的だったため
である。輸送運賃は、荷物の重さと運ぶ距離によって決まるため、近距離輸送では取り扱
い数量が増えても運賃収入はそれほど増加しない。ヤマト運輸も長距離輸送への進出を検
討したものの、創業社長・小倉康臣は「100 km を超える長距離輸送は鉄道の分野であ
る」との信念から、近距離輸送に固執した。
小倉昌男を始めとする社内から強い要請によって、ようやく長距離輸送への進出が決定
し、東京・大阪間の東海道路線への免許申請を行ったのは 1957 年 2 月であった。すでに
東海道路線に参入していたライバル企業や地元運送企業による反対から、ヤマト運輸への
免許交付には時間がかかった。許可が下りたのが 1959 年 11 月、大阪支所の営業開始が
1960 年 3 月と、同業ライバルに遅れること約 5 年であった。この間に、主要な荷主はラ
イバル企業に囲い込まれていた。しかも、東京を地盤とするヤマト運輸は、関西では知名
度が低く、大阪支店が営業を開始しても、運ぶべき貨物は容易に集まらなかった。
しかし、東京から大阪へ荷物を運んだトラックを空荷で帰らせるわけにはいかないた
め、運賃の安い大口の商業貨物を手掛けることにした。「路線トラック」事業では、主要
都市にターミナルを設け、ターミナル間を定期便で結び、小口貨物を積み合わせて運ぶの
が一般的である。大口商業貨物は、客先で貨物を積み込むので、荷捌きターミナルなどへ
の設備投資を必要としない「貸切」輸送として手掛けられていた。そのため、小口に比べ
て運賃は低く設定されていた。
大口商業貨物は、荷物ひとつ当たりの運賃が安いため、利益率は低下するものの、総額
では大きな売上になり、一度契約を結ぶと安定的な需要が期待できた。それに対して、小
口貨物は需要も散発的で、大きな売上も見込めない。そこで、手間がかかりコストが割高
になる小口商業貨物は注文を断り、大口の商業貨物を中心に長距離輸送事業を展開して
いったものの、利益率の低下に歯止めはかからなかった。
2.3. 事業構造の転換
1971 年に社長に就任した小倉昌男は、低迷を打破するため、輸送業界の常識を覆す
「個人宅配事業」に進出することを決意した。
当時の輸送業界では、個人顧客を対象とする宅配事業では利益が出せないと考えられて
いた。1970 年代初頭、赤字になることが明白な個人向け宅配事業を手掛ける民間企業は
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網倉
久永
図 1 ヤマト運輸 売上高 1965–1975(物価水準未調整)
出所)ヤマト運輸有価証券報告書
図 2 ヤマト運輸 売上高経常利益率 1965–1975
出所)ヤマト運輸有価証券報告書
なく、個人向け市場で事業を展開していたのは郵便局だけであった。企業を対象とする商
業輸送では、配送元は一ヶ所で、しかも配送需要の発生するタイミングが事前に予測しや
すかった。配送先が事業所であれば、さらに配送効率が高く、高収益が見込めると考えら
れていた。需要は定期反復的で、荷姿や輸送ルートも一定しており、輸送ロットは大口で
706
経営戦略の策定プロセス
あった。反復的・定型的・大量の輸送需要を特徴とする商業輸送は、運送業者にとって好
都合であった。大手輸送会社は、特に大口かつ定期の輸送需要が見込める、長距離トラッ
ク輸送事業に注力していた。
長距離トラック輸送事業では、大量輸送によるコスト優位を実現するために、大型ト
ラックや荷捌き所など大規模投資が必要とされた。大量の貨物が輸送される東海道路線で
は、優良顧客を巡って先行したライバル企業同士の熾烈な競争が展開されていた。参入が
遅れたことで、ヤマト運輸は営業上でもコスト面でも不利な立場に立たされた。「このま
ま努力を続けても、業績が好転する見込みは薄いのではないか。それならば仕事を変え、
新しい市場を目指したほうが良いのではないか」3 と、小倉は考えた。
2.4. 個人向け市場の特徴
新しい市場として、小倉は個人向け宅配を候補とした。百貨店の配送業務請負を手がけ
ていたことから、ヤマト運輸には個人向け市場に関する「土地勘」と経験があった。この
経緯も個人向け市場への着目に影響していると思われる。
個人向け市場は、商業輸送とはまったく異なった市場セグメントであった。反復的・定
型的・大量の輸送需要を期待できる商業貨物は、競争が激しいため運賃は安く抑えざるを
えない。しかも、期日の長い手形で支払われることも覚悟しなければならなかった。それ
に対して、個人向け市場では、顧客が運賃を値切ることはないし、現金で支払ってくれ
る。だが、そのメリットに比べて、宅配市場のデメリットはあまりに大きかった。
個人向け市場は、需要がどのタイミングでどこから発生するか予想できなかった。どの
家庭から、いつ荷物が発生するか分からないうえに、届け先も多様で、荷姿や大きさ・重
さも統一されていなかった。需要が偶発的で非定型的なため、売上の予想が立ちにくく、
事業は不安定である。個別の集荷・配送は効率が悪いため、高コストが予想される。その
一方で、郵便局という強力なライバルが存在するため、郵便小包を上回る運賃を設定する
ことはできない。
2.5. 個人宅配事業の構想
個人宅配は集配効率がきわめて悪く、採算が取れないことは、当時の輸送業界では「常
識」とされていた。しかし、「商業貨物の市場で競争に破れ、新しい別の市場への転換を
3
小倉 (1999), p. 69.
707
網倉
久永
考えているのに、デメリットがあるからやらないと言ってしまったら、初めから話になら
ない」、4 どうしたらデメリットを抑えられるか、それを考えるのが経営者の役割であると
小倉は考えた。
当時、郵便小包と国鉄小荷物を合わせて年間約 2 億 5000 万個の小荷物輸送取り扱いが
あった。一個当たり料金を 500 円とすると 1250 億円市場と推定され、ヤマト運輸の存続
には充分な規模であった。市場規模が充分であることがわかったものの、需要をどうやっ
てヤマト運輸の仕事として取り込むことができるか見当がつかなかった。
しかし、小倉は、個人向け宅配事業はビジネスとして成立しえないという業界の「常
識」を疑い、デメリットを抑えるにはどうすればいいか考え続けた。個人宅配の需要は、
本当に散発的・偶発的なのかという疑問を追求するなかで、「人間が生活しその必要から
生じる輸送の需要は、個々人から見れば偶発的でも、マスとして眺めれば、一定の量の荷
物が一定の方向に向かって流れているのではないか」5 と思い至った。
こうして、個別宅配事業を電話と同じような「ネットワーク事業」と捉え、「全国規模
の集配ネットワークを築けば、ビジネスになる」という仮説が導かれた。電話も、個別の
通話がいつどこで発生するかは予想できず、需要の偶発性・散発性が高い。しかし、電話
事業を担っていた電電公社は大きな利益をあげてきた。最初は限られた数の事業所だけに
設置され、業務用に利用されていた電話も、すべての家庭に普及していくと、その利便性
から個人の利用度が高まり、夜間の「おしゃべり」にも利用されるようになった。同じロ
ジックが個人向け宅配事業でも成立するだろうというアイディアから、宅急便事業は出発
している。
ネットワーク事業では、まずネットワークを構築することが重要である。当初はネット
ワーク構築にコストが必要で、ネットワークが整備されていない間は利用度が低く、収入
も少ないため必ず赤字になる。しかし、ネットワークが整備され、利用度が高まって収入
が増えれば、損益分岐点を超え、利益が出る。ネットワーク事業では、利用度がさらに高
まった場合でも、費用は固定的なので、利用度が高まれば高まるほど利益は大きくなる。
個人向け宅配事業は、「ネットワークの上を荷物がどんどん流れれば必ず損益分岐点を超
え、利益が出るという性質のものだ」6 と小倉は確信した。
では、個人向け宅配市場では、どのような集配ネットワークを築くべきなのか。小倉
4
5
6
小倉 (1999), p. 76.
小倉 (1999), p. 78.
小倉 (1999), p. 87.
708
経営戦略の策定プロセス
は、個人宅配の需要を「地下水」や「豆粒」に喩え、次のように述べている。
商業貨物は、池に溜まった水をくむようなものである。バケツを使おうがポンプを使おう
が、とにかくドラム缶にすくって運ぶのは簡単である。一方、宅配の荷物は、地下水のような
ものである。地上からは手が届かないから、一見、どうしたら水を汲めるかわからない。で
も、手はある。そう、地面に打ち込んだパイプにホースを繋ぎ、ポンプで吸い上げればよい。
そうすれば水を汲める。そんな工夫をすれば、あとはドラム缶に移して運ぶことができるはず
だ。7
商業貨物の輸送は、たとえてみれば、一升枡のような大きな枡を持って工場に行き、豆を枡
に一杯に盛り、枡ごと運ぶようなものである。一方、個人の宅配の荷物はというと、一面にぶ
ちまけてある豆を、一粒一粒拾うことから仕事が始まる。……(中略)……どうすればそんな
ことができるだろうか。たとえば—。ターミナルに配属された十トントラックで工場に集荷に
行く代わりに、住宅地に設けた小さな営業所から、小型トラックを十台出して住宅や商店をこ
まめに回って荷物を集め8 (る)
。
各家庭から集められた荷物は、「デポ」と呼ばれる荷受け拠点から、地域の集荷営業拠
点である「センター」に集約される。同一地域内の荷物はセンターから配送されるが、他
地域に向けた荷物は各都道府県に最低一ヶ所設けられた運行車の拠点である「ベース」に
運ばれる。ベースに集約された荷物は、行き先の方面別に仕分けられ、大型トラックで各
地のベースに運ばれる。ベース間には毎晩大型トラックを運行させ、発送の翌朝には大部
分の配送先ベースに荷物を届ける。この荷物は、ベースからセンターを経由して、配送先
へと届けられる。航空路線と同様に、「ハブ・アンド・スポーク」システムと呼ばれる、
全国規模での集配ネットワークを構築すれば、翌日配達の仕組みを一定のコストで構築で
きる。配達の早さというサービスで差別化し、適切な価格設定を行うことで需要を喚起す
ることができれば、個人向宅配事業は収益を確保することができる。それが小倉の結論で
あった。
しかし、いつ、どの時点で損益分岐点を超えるだろうか。その予想はできないままで
は、事業化に踏み切ることはできない。そう考えている矢先の 1973 年 9 月、ニューヨー
クに出張していた小倉は、エンパイアステートビルディングから出てきた時に、UPS(ユ
ナイテッド・パーセル・サービス)の集配車が交差点の四つ角すべてに合計 4 台停まって
いるのに気づいた。
7
8
小倉 (1999), p. 79.
小倉 (1999), p. 79.
709
網倉
久永
小倉はそれを見て、「集配車両単位の損益分岐点があるのではないか」と閃いたとい
う。マンハッタンの 1 ブロック当たりに 1 台トラックを配属しても、UPS には利益が出
ている。トラックの維持に必要な費用は固定的なので、集配効率を高めて売上高を増やせ
ば、損益分岐点を超えることができる。
ネットワーク事業の収支は、ネットワークを構成する集配車両の収支の総和である。集配車
両の収支をみると、一日当たりのコストは、走行距離によって多少変化するが、人件費、燃料
費、修繕費、減価償却費など、大体決まっているだろう。問題は、一日いったい何個の荷物を
集荷配達できるかという作業効率にかかっているといってよい。そして作業効率はその車の受
け持ち区域の広さで決まってくる。
ニューヨークの十字路に UPS の車が四台いたということは、市内の一ブロックに一台ずつの
トラックが配属されていたということである。これを日本で考えるとどうなるか。
東京都中央区は面積が約十平方キロメートルであまり広くはない。しかし集配車一台で全部
をカバーするのは無理である。中央区は銀座、京橋、日本橋、築地、月島の五つの地域に分け
られる。五台の集配車で各地域をひとつずつ受け持てば、まがりなりにも集配作業をこなすこ
とはできるだろうが、一日にできる仕事の量は限られている。
では、もし車両を二倍にしたらどうなるだろう。一台当たりの受け持ち区域の広さは半分に
なる。したがって集配の能率は二倍になる。事業が順調に伸びて車の数が十倍になれば、受け
持ち区域は十分の一になる。面積十平方キロメートルの中央区に集配車が五十台、ということ
は一台当たりの受け持ち区域は〇.二平方キロメートルである。そのくらい狭くなれば、一台
の集配車で一日に百個くらい扱えるようになるはずである。
ネットワークシステム全体の損益分岐点がいくらいくらで、何年たてば超えることができる
かはなかなかわからないが、集配車一台当たりのコストははっきりするし、一日に何個扱えば
損益分岐点を超すかもはっきりしている。おそらく四∼五年で利益がでるのではないか。
個人からの荷物の宅配は絶対儲かる。問題は、一台当たりの集配個数をいかに増やすかにか
かっている。新しい市場に転換しても儲かるはずだ—。私は強く確信したのである。9
集配ネットワークは、個別の集配車両の集合体なのだから、集配車両単位での損益を集
計すれば、ネットワーク全体の損益を予想できる。集配車両単位での収益を考えること
で、集配ネットワークが一定規模まで成長するまでの収益見通しを予想することができ
る。個々の集配車両単位での損益予想は比較的容易なため、収益が出始めたら車両数増に
踏み出しやすい。車両を増やして集配密度を向上させることができれば、取り扱い個数が
増え、ネットワーク全体としての収益性が向上していく。これを繰り返していくことで、
9
小倉 (1999), p. 88.
710
経営戦略の策定プロセス
時間はかかるかもしれないが、収益を確保しつつ、全国規模の集配ネットワーク構築のた
めの投資を継続することができる。小倉はこう確信した。
2.6. 宅急便商品化計画
こうして、個人向け宅配事業を成り立たせる目途はついた。次に考えるべき問題は、い
かにして潜在的な需要を顕在化させ、集配車両一台当たりの集配効率を向上させるかであ
る。
小倉は新事業のコンセプトを「宅急便開発要綱」にまとめ、1975 年 8 月の役員会に提
案した。役員会での承認を受け、9 月 1 日にはワーキングループを編成し、10 月末には以
下のような「宅急便商品化計画」を作成した。
「宅急便商品化計画」
(1)名称:「宅急便」
(2)対象貨物:一個口に限る。重量 10 kg、縦横高さの合計 1 m 以内。荷姿は段ボール
箱、またはしっかりした紙包み
(3)サービス区域:太平洋側の市制の敷かれている地域
(4)サービスレベル:原則として翌日配達、一部地域は三日目配達
(5)地域別均一料金:出荷する地域とそれに隣接するブロックは同一料金
(6)運賃:一個 500 円、遠距離ブロックは 100 円加算
(7)集荷:一個でも電話で集荷
(8)取次店:米屋・酒屋などと契約を結び、宅急便取次店の看板を出す。取次店に持ち
込んだ場合は、運賃を 100 円割引く
(9)伝票:専用伝票を作成し、荷物に貼付する。荷札は使用しない
荷物の集配効率を高めるためには、配送個数を増やすしか方法はない。荷物の総量を増
やすために、ターゲットとする顧客の視点に立ち、様々な工夫を重ねた。
宅急便のターゲットは家庭の主婦である。宅急便以前には、個人向け宅配の選択肢は事
実上郵便局しかなく、郵便局には顧客視点での「サービス」という発想がなかった。郵便
局では、二本以上の紐で荷物をしっかりと括りつけていないと小包として受け付けてもら
えなかった。無愛想な窓口職員に「荷造りが悪い」と叱られた経験から、荷物を送るのは
「苦手」だと感じていた女性も多かった。また、運送に関する知識のない顧客にとって
711
網倉
久永
は、距離・重さ・口数などの組み合わせで決まる運賃は複雑で、提示された運賃が適切な
のか判断できない。
小倉は、主婦が「買いやすい」ように、宅配サービスを分かりやすい「商品パッケー
ジ」にすることを考えた。1970 年前後の海外旅行ブームの起爆剤となったパッケージツ
アー「ジャルパック」からヒントを得た方針であったという。
「宅急便」というサービス名称も、当初は UPS に倣って YPS(ヤマト・パーセル・サー
ビスの略称)とすることが検討されていた。しかし、アルファベットの略称はターゲット
層に馴染まないと見て、漢字の商標名を考案することにした。個人間の小荷物の宅配で、
翌日に到着するので早い、厳重な荷造りを必要としないので簡単便利、郵便小包並みの低
料金といった特徴を表すものとして、最終的に「宅急便」が採用され、商標登録された。
対象貨物を一個口に限定したのは、運賃計算を単純にするためであった。トラック運送
の運賃は運輸省(現:国土交通省)の認可制で、認可運賃は貨物の個数ではなく、一口ご
とに計算することになっていた。出荷元と配達先が同じあれば、二個口でも三個口でも一
枚の伝票に基づいて運賃を計算する必要があった。一個口に限定することで、複雑な料金
計算の必要がなくなり、後述する地域別均一料金体系を採用することが可能になった。
サービス区域については、郵便小包に対抗するためには全国を対象とすべきであった
が、当時のヤマト運輸の投資余力や輸送事業の免許保有状況から、当面は太平洋側の市制
区域とすることにし、それ以外の地域については順次対象エリアを拡張していくこととし
た。
サービスレベルについては、翌日配達を原則とした。当時、郵便小包は荷物の到着まで
4–5 日かかっていた。対抗上、それよりも早いことが必要であった。では、どこまで早く
すべだろうか。当時の輸送業では、商業貨物の輸送は急ぐが、個人の宅配荷物は急ぐ必要
がないという考え方が一般的であった。しかし、小倉は利用者の立場から考えると、個人
の荷物のなかにこそ緊急輸送が必要なものが含まれている可能性が高いと判断した。商業
貨物の場合、発送側も余裕をみて出荷しているため、特殊な緊急事態以外には、到着が数
日遅れても支障がないケースがほとんどである。逆に、個人の荷物には、「翌日の結婚式
に必要なもの、翌日成田空港から出発するとき必要なもの、どうしても至急に届けなくて
はならない書類など」10 が含まれている可能性が高い。
こうした急ぐ荷物には割り増しの追加料金を設定するのが一般的だが、小倉は急ぐ荷物
10
小倉 (1999), p. 108.
712
経営戦略の策定プロセス
を特別扱いにするのではなく、それがたとえ十個に一個だとしても、すべての荷物を翌日
に届けるべきであると考えた。ハブ・アンド・スポークによる全国レベルでの集配ネット
ワークが密度高く完成すれば、追加コストをかけなくとも翌日配送が可能になる。また、
宅急便なら翌日に届くことが顧客に認知されれば、急いで荷物を送りたかったものの 4–5
日かかる郵便小包では「間に合わない」と諦めていた顧客からの潜在需要を取り込むこと
もできるだろう。
宅急便を商品パッケージとして売るためには、分かりやすい価格設定が不可欠である。
貨物輸送運賃は、貨物重量と輸送距離によって決まるため、特定貨物の料金がいくらにな
るか、家庭の主婦が事前に判断することはほぼ不可能であった。寿司屋で「時価」のネタ
を注文しにくいのと同様、料金相場が分からないサービスでは敷居が高くなる。顧客に事
前に料金を明示しておく必要がある。
しかし、個人宅配の荷物は一点ごとに、荷主も異なるし、重量・輸送距離も異なる。そ
もそも、荷主の家庭から届け先の家庭まで実際の輸送距離を測ることは手間がかかりすぎ
る。そこで、実際の距離とは関係なく、包括的な均一料金を採用することにした。全国を
東北・関東・信越・北陸・中部・関西・中国・九州の 9 ブロックに分け、発送地と同一プ
ロックおよび隣接ブロック宛の荷物は同一料金とした。
地域別均一料金設定については、当初社内からも強い反対があった。特に離島や山間部
への輸送にはコストがかかるのに、同一料金ではおかしいという異論が続出した。しか
し、小倉は、運賃計算の簡略化による事務経費の削減、分かりやすい価格設定により潜在
的な需要を喚起する「販売促進」効果を繰り返し説明し、合意を取り付けた。
輸送運賃は道路運送法の規制下にあり、運輸省の認可した路線トラック運賃は、輸送距
離 20–30 km ごとに料金が上がるように設定されていた、そのため、地域別均一料金を設
定することは違法行為に思えた。だが、料金は上下 10%の変動が認められている「幅運
賃制」であったため、450 km までの中距離ブロックは 500 円均一、それより遠い遠距離
ブロックは 600 円とすることができた。11
地域別均一料金・翌日配達12 というサービスの「わかりやすさ」によって、家庭の主
婦というターゲット顧客にアピールするとともに、顧客の利便性を高める工夫もこらし
11
12
当時、10 kg の荷物の認可運賃は、距離 160 km で 450 円、410 km までは 500 円、700 km までが
552 円、950 km までが 598 円であった。
顧客に提示するメニューの絞り込み、「早く、安い」という方針などは、牛丼チェーンの吉野家
を参考にしていたのではないかと推測される。
713
網倉
久永
た。たとえ荷物がひとつだけであろうと、電話一本で集荷に行くこととし、翌日配送と並
んで消費者への訴求点とした。また、実際にすべての荷物を集荷するためのコストは大き
いので、酒屋や米屋など家庭の主婦になじみのある商店に「取次店」になってもらい、荷
物を受け付けてもらうことにした。取次店には荷物ひとつ当たり 100 円の手数料を支払
い、また取次店まで荷物を持ち込んだ顧客には集配料金から 100 円値引きをする。
「取次
店手数料とお客様の割引の合計二百円は、販売促進費用と考えれば、決して高くない」13
と小倉は考えていた。
宅急便では、専用伝票を用意し、荷物に貼付することにした。路線トラックの料金は、
荷物の個数ではなく口数で決まっていたため、伝票も一口につき一枚しか発行されない。
一口当たり個数の多い荷物では、伝票に記載された荷物の個数と実際の貨物の個数が合わ
ない「口割れ」と呼ばれる事態がしばしば見られた。そこで、宅急便では荷物は一個口に
限定し、荷物管理を容易にすることを目指した。一個口に限定することで、料金計算を単
純化できる上に、伝票を荷物に直接貼付することが可能になる。伝票をコンピュータに
よって管理することで荷物の紛失防止対策にもなる。
2.7. 宅急便事業着手:優先順位の徹底
こうした構想を実行に移すべく、1976 年 1 月 23 日宅急便の営業を開始した。初日の全
国出荷個数は 11 個でしかなかった。東京 23 区・都下および関東六県の市部から始まった
営業区域を徐々に拡大していき、全国ネットワーク構築に着手した。
このプロセスで、ヤマト運輸は商業貨物から撤退するとともに、参入当初は企業から出
る荷物の受注はしないという方針を徹底した。
小倉は、当初、宅急便と商業貨物は両立可能だと考えていた。しかし、「宅急便を始め
ても、業態の違う商業貨物を手がければ、人も車両も慣れた方に流れ、宅急便の体制作り
が遅くなる恐れがある。そこで営業を宅急便に特化し、これまでご愛顧いただいた荷主さ
んにもお断りすることを決定した」。14 三越や松下電器という大口顧客からの商業貨物の
取り扱い中止したことにより、1979 年には路線トラック部門の経常利益は 5 億円の赤字
を計上し、会社全体の経常利益も対前年比 86%と大きく減少した。15 しかし、その一方
で、「もう後がない」という緊張感から、背水の陣で宅急便に取り組む態勢ができたとい
13
14
15
小倉 (1999), p. 13.
小倉 (1998), p. 94.
小倉 (1999), p. 151.
714
経営戦略の策定プロセス
う。
また、家庭から出て家庭に行く宅配は「一面に撒かれた豆を一粒一粒升に拾うようなも
の」16 であるのに対して、同じ宅配でも企業から出て家庭に行く荷物は「すでに荷主のと
ころで豆が升に入っているから仕事は楽で、誰でも企業の宅配を契約したくなる」。17 そ
のため、小倉は敢えて企業から出る宅配を受注することを禁止した。18
宅急便は、個人宅から出て個人宅へ運ぶのが基本で、それが出来ないと完全なネットワーク
事業にならないからである。企業から出る荷物ばかり扱っていると、家庭からの細かい集荷の
ノウハウが育たない。家庭からの荷物を扱っていれば、企業からの荷物は後でいかようにも扱
えるのである。19
小倉は再三再四「サービスが先、利益は後」と社内に呼びかけていた。宅急便をネット
ワーク事業と捉えると、全国に集配ネットワークを構築し、荷物の取扱量が損益分岐点を
超えるまでは利益が出ない。事業構築の初期段階では、目先の利益を確保するために、投
資を惜しむべきではないと小倉は考えた。設備投資や社員採用に当たっても、「社員が
先、荷物は後」
・「車が先、売上が後」をモットーに、社員数・車両台数を積極的に増やし
ていった。現時点の市場規模に合わせて社員や車両台数を揃えたのでは、市場を拡大させ
ることはできない。まずは、社員や車両を増やし、サービス水準を上げることで潜在需要
が顕在化できると社内に働きかけた。
集配車を増やせば、担当エリアは狭くなり、対象顧客数は少なくなる。移動時間が短く
なり、ドライバーは担当エリアの顧客をよりきめ細かく理解でき、サービス水準が向上す
る。ドライバーは、単に荷物を運ぶだけの「運転手」ではなく、「セールスドライバー」
に呼称を変更した。セールスドライバーは、サッカーにたとえると現場の第一線で顧客に
直接対面する「フォワード」である。顧客の満足度を高めるために何をすべきか、その
時々の状況に応じて自ら判断し機敏に行動できる「優れたフォワード」になって欲しい
と、ドライバーを再教育した。
社員数・配送車両を増やし、社員教育を行うには当然コストがかかる。しかし、コスト
や利益のことを考え始めると、サービス水準は思うように上がらず、郵便小包や他の配送
サービスと差別化は中途半端になりかねない。ましてや、潜在需要を開拓することなどお
16
17
18
19
小倉 (1998), p. 94.
小倉 (1998), p. 94.
企業発の家庭向け宅配は 1985 年に取り扱いを開始した。
小倉 (1998), p. 94.
715
網倉
久永
ぼつかない。宅急便事業に着手するに当たって、小倉は、ドライバーによる「サービスの
質を高める」ことを徹底的に追求すると決意し、業務会議で「これからは収支のことは一
切言わない。その代わりサービスのことは厳しく追及する」20 と宣言している。赤字にな
ることが分かりきっているのに、コストを詳細に把握するために手間暇をかけるのはそれ
こそ無駄であると、小倉は考えていた。
サービスとコストはトレードオフの関係にあり、経営者の仕事は「そのときそのときで
どちらを優先するかを決断することに他ならない」21 と小倉は述べている。
ただし、「サービスが先、利益は後」という言葉を、社長が言わずに課長が言うと、そこの社
長に、「お前は利益はなくても構わないと言うのか」とこっぴどく叱られるおそれがある。
「サービスが先、利益は後」というのは、社長だから言える言葉である。だからこそ、逆に社長
が言わなければならない言葉なのである。22
2.8. ダントツ三カ年計画:サービス差別化の継続
宅急便事業は順調に売上を伸ばし、事業開始から 5 年目の 1980 年には取り扱い個数
3340 万個(対前年比 150%)
、売上高 699 億円、経常利益 39 億円を記録し、ついに損益分
岐点を超えた。
ヤマト運輸の売上高経常利益率 5.6%というニュースは、トラック輸送業界にとっては
衝撃であった。業界の常識では、個人宅配で利益が出るはずはなかった。それでもヤマト
運輸が利益を計上したことを受けて、個人宅配事業に他社が参入してきた。「クロネコヤ
マト」を模し、犬・熊・ライオン・象・キリンなど動物をシンボルマークとした類似サー
ビスを手がける企業が 35 社も市場に参入
表 2 宅急便取り扱い個数
してきた。
宅急便スタート当初は差別化競争の相手
は郵便小包であったが、これからはトラッ
ク輸送を手がけてきた同業者がライバルと
なる。ヤマト運輸としては、サービスによ
る差別化をより一層進める必要があると判
断した小倉は、三年間で他社を引き離した
20
21
22
1976
170 万個
1977
540 万個
1978
1088 万個
1979
2226 万個
1980
3340 万個
出所)小倉 (1999), p. 149 および
p. 152 より作成
小倉 (1999), p. 133.
小倉 (1999), p. 131.
小倉 (1999), p. 142.
716
経営戦略の策定プロセス
「ダントツのサービス」を実現することを目標に、1981 年 4 月から「経営三カ年基本計
画」
、通称「ダントツ三カ年計画」をスタートさせた。
ダントツ三カ年計画の具体的な目標は、
(1)宅急便の全国網の完成、
(2)翌日配達区域
の拡大、(3)それらを実現するための営業・作業の体制作り、であった。
全国網の構築は三年間では実現できなかった。全国ネットワークは、全国各地のトラッ
ク事業免許の取得が前提となるが、同業者からの反対運動もあり、複数の路線で運輸省か
らの許可が下りなかったためである。宅急便の全国ネットワークが完成するには、1997
年までの長い時間が必要であった。
それでも、営業区域は徐々に拡大していった。宅急便は翌日配達を原則としていたが、
営業区域が順次拡大していくのに伴って三日目配達が増えてきた。日中に各家庭から集荷
した荷物は、デポ・センターを経由して、夕方各地のベースに集約される。方面別に仕分
けされた荷物は、ベース間を結ぶ「運行車」に積み込まれ、夜 9 時ごろに出発する。翌日
7 時頃までに相手先ベースに到着し、センター・デポを経由して配送されていく。
夜 9 時から翌朝 7 時までの 10 時間を平均時速 70 km で走るとすると、運行車は 700 km
先まで一晩で移動できる。しかし、それ以上の遠隔地では、翌朝の配達車の出発時刻に間
に合わないため、翌日配送は不可能になる。例えば、東京から兵庫県までは翌日配達エリ
アになるが、岡山や広島向けの荷物は三日目配達になってしまう。
小倉は、荷物の到着は早ければ早いだけ、サービスでの差別化の訴求点となりうると考
えていた。
荷物の輸送で一番値打ちのあるのは、「早い」ことである。「確実」とか「安い」ということ
も大事だが、やはり早いのが一番だ。だが、ただ早いと言うだけではセールスポイントにはな
らない。具体的に「翌日届きます」と言わないと、インパクトが感じられない。23
三日目配達区域を減らすために、「二便制」と呼ばれる作業パターンが導入されること
になった。開業当初の宅急便の作業パターンは、以下のようなものであった。朝 7 時に
ベースに到着した荷物が、センター・デポを経由して各集配車に割り当てられる。セール
スドライバーは午前中に配達を終えると、午後から集荷に取りかかる。夕方 6 時頃にはセ
ンターに戻り、集荷した荷物を行き先別に仕分けし、ベースに運び運行車に引き渡す。
午前配達・午後集荷という「一日一サイクル」を、午前中に配達・集荷、午後にも配
達・集荷という「一日二サイクル」に切り替え、それに伴って、午後 9 時だけだった運行
23
小倉 (1999), p. 119.
717
網倉
久永
車の出発も午後 3 時と午後 9 時の 2 回に増やした。
午前中に集荷された荷物は昼 12 時にセンターに集められ、ベースに送られる。行き先
別に仕分けされ、運行車に積み込まれた荷物は、運行車「第一便」で午後 3 時に出発す
る。午後も同じサイクルが繰り返され、運行車「第二便」は午後 9 時に出発する。運行車
は、荷宛先のベースに翌朝 7 時もしくは翌日正午に到着し、配送車に引き渡すことにな
る。
午後 3 時発の第一便は、翌朝 7 時までの 16 時間で 1200 km、もしくは翌日昼までの 21
時間で 1470 km の地点に到着できる。夜 9 時発の第二便も、翌日正午までの 15 時間で
1050 km まで到着できる。東京から青森まで 770 km、東京・広島間が 920 km、福岡まで
は 1200 km であるため、二便制の導入によって三日目配送区域が大幅に減少した。
ダントツ三カ年計画の終了後、改めて「新ダントツ三カ年計画」(1984–1986)が実施さ
れ、セールスドライバーが利用する携帯端末の導入や「在宅時配達」への切り替えが実施
された。
在宅時配達とは、「配達に行ったら留守だった」という供給者の論理でサービスを提供
するのではなく、「配達先の顧客が在宅時に配達に行く」という顧客の論理に合わせてヤ
マト運輸の仕組みを変えていこうとする取り組みである。
サービス水準向上のため、ヤマト運輸ではサービス水準を数値化して把握する試みがな
されていた。各センターに到着した荷物のうち翌日配達できなかった件数を数値化して把
握していくプロセスで、「配達先が留守で翌日配達に回った」ケースが多数あることが判
明した。二便制を採用する前は、配送は基本的に午前中に限られていたので、たとえ午後
早くに帰宅した客であっても手許に荷物が届くのは翌日午前中になってしまう。二便制の
導入で作業サイクルが変わり、午後にも配達するようになったことで、午前中留守だった
届け先に午後にもう一度配達することができる。しかし、共働き世帯の増加などによって
日中留守の家庭が増え、夕方 6 時までの配達では翌日配達未達率は思うように改善しな
い。そこで、配達は夜 8 時まで(その後 9 時までに延長)の夜間配達を実施することにし
た。また、1982 年 10 月からは日曜祝日の営業を開始し、1996 年 12 月 31 日からは年末年
始も含めた「年中完全無休」体制がスタートし、確実に翌日に配達するための努力が続け
られている。
新ダントツ三カ年計画によって、サービス水準向上には効果が見られたものの、全国へ
のネットワーク拡大は、運輸省の規制もあり、依然として思わしい進展は見られなかっ
718
経営戦略の策定プロセス
た。1986 年には、免許申請がいつまでも「棚ざらし」のままであることに対して、運輸
大臣を被告とする行政訴訟を起こした。監督官庁・大臣に対する訴訟という前代未聞の
「強硬手段」は大きなニュースとして取り上げられた。
1987 年度から 1989 年度にかけて、宅急便ネットワーク拡大に加えて、事業規模・収益
性・社員福祉などの数値目標24 を掲げた「ダントツ計画パート 3」が実施された。運輸大
臣に対する訴訟といった強硬手段に訴えたこともあり、順次サービス網は拡大していき、
ダントツ計画パート 3 の終了時(1990 年 3 月)には対全国面積比 99.5%、対人口比
99.9%までサービス網が拡大した。
2.9. 1990 年以降のヤマト運輸
離島を含め日本全国 100%がサービス対象区域となったのは 1997 年であった。1999 年
時点で、ヤマト運輸は 30 万店の取次店ネットワークを構築しており、これは郵便ポスト
図 3 宅配便市場シェア
注)市場シェアは取り扱い個数に基づいて算定されている。なお、佐川急便が
1999 年度に突如 2 位に浮上したのは、1998 年 3 月に同社が宅配便市場に正
式参入し、複数の小口貨物を一括して重量と距離で料金を算出する従来の
「特別積み合わせ輸送」から、貨物一個ごとに料金を算定する「宅配便扱
い」に切り替えたことに伴い、取り扱い個数が急増したためである。
出所)日本経済新聞社『市場占有率』各年版
24
具体的な数値目標は、(1)収益性:経常利益 5%以上、(2)規模:総売上高 3400 億円以上、
(3)健全性:自己資本比率 50%以上、
(4)社員福祉:年間休日 100 日以上であった。
719
網倉
久永
図 4 ヤマト運輸 売上高 1965–2005(物価水準未調整)
1200000
1000000
800000
600000
400000
200000
1965
1966
1967
1968
1969
1970
1971
1972
1973
1974
1975
1976
1977
1978
1979
1980
1981
1982
1983
1984
1985
1986
1987
1988
1989
1990
1991
1992
1993
1994
1995
1996
1997
1998
1999
2000
2001
2002
2003
2004
2005
0
出所)ヤマト運輸有価証券報告書
図 5 ヤマト運輸 売上高経常利益率 1965–1975
7.00%
6.00%
5.00%
4.00%
3.00%
2.00%
1.00%
-1.00%
1965
1966
1967
1968
1969
1970
1971
1972
1973
1974
1975
1976
1977
1978
1979
1980
1981
1982
1983
1984
1985
1986
1987
1988
1989
1990
1991
1992
1993
1994
1995
1996
1997
1998
1999
2000
2001
2002
2003
2004
2005
0.00%
出所)ヤマト運輸有価証券報告書
の全国設置数である 16 万本をはるかに上回っている。
宅配便市場を自ら開拓し、サービス差別化に向けた努力を続けてきたヤマト運輸は、ダ
ントツ計画終了以降も、様々な新サービスを導入してきた。例えば、ゴルフ宅急便・クー
ル宅急便、通信販売の代金回収を請け負う「コレクトサービス」、インターネットなどを
利用した書籍の通信販売「ブックサービス」
、配達時間を指定できる「タイムサービス」、
720
経営戦略の策定プロセス
首都圏と北海道・九州を空路で結ぶ「超速宅急便」などが代表例である。
また、運転席から荷物室に直接入れることから「ウオークスルー車」と呼ばれる集配専
用の小型トラックをトヨタ自動車と共同開発したり、集荷・運送・配達までの全てのプロ
セスを一貫して管理する情報システム(セールスドライバーの携帯情報端末から、ワーク
ステーション・メインフレームコンピュータで構成される)を独自に開発・運用してき
た。さらには、ベースにおける自動仕分けシステムを導入したり、セールスドライバーの
作業マニュアルを策定し、教育訓練を施すといった顧客の目には触れない部分でも、宅配
便サービスという「業態」に適したシステム構築の努力を継続してきた。
こうした努力の結果、宅配便市場においてヤマト運輸はトップシェアを維持し続けてき
た(図 3 参照)
。たとえば、宅急便ネットワークが全国 100%になった 1997 年時点の市場
シェアは、ヤマト運輸宅急便 38%、日本通運ペリカン便 19%、郵便小包 17%であった。25
また、図 4 と図 5 には、1965 年から 2005 年までのヤマト運輸の売上高(物価水準調整
前)および売上高経常利益率が示されている。
3. 事例:本田技研工業の北米モーターサイクル事業進出
3.1. 米国モーターサイクル市場への参入
1950 年代前半、日本国内のモーターサイクル市場でのシェアを拡大してきた本田技研
工業(以下、ホンダ)は、1958 年発売の 50 cc スーパーカブのヒットにより、1959 年に
は国内最大のモーターサイクル・メーカーになっていた。国内での事業基盤を固める一方
で、1957 年頃から海外進出を本格的に検討し始め、1959 年には直接投資による海外子会
社アメリカン・ホンダ・モーターを設立し、米国市場開拓に乗り出した。
ホンダが米国に進出した 1950 年代末、アメリカのモーターサイクル市場はハーレーダ
ビッドソンや、ドイツの BMW、イギリスのトライアンフやノートンといったメーカーに
よる、排気量 500 cc 以上の大型モーターサイクルが主流であった。なかでもヨーロッパ
からの輸入車が人気で、1959 年のイギリス製品の市場シェアは 49%を占めていた。そこ
に、ホンダを筆頭とする日本製モーターサイクルが進出してきたことで、米欧メーカーの
シェアは急減し、特にイギリス・メーカーのシェアは 1973 年には 9%にまで凋落してい
た。26
25
26
小倉 (1998), p. 95.
Pascale (1984), p. 48.
721
網倉
図6
久永
American Honda Motor 売上高(単位:万ドル)
10600
10000
7700
5000
3700
2080
870
0
1961年7月∼
62年6月
1963年度
出所)自動車工業会『自動車海外情報
1964年度
1965年度
1966年度
二輪車編』vol. 1–2 (1967), pp. 23–24 より作成
3.2. ホンダの成功要因:BCG による分析
事態を重くみたイギリス政府は、イギリス・メーカー凋落の原因究明をボストン・コン
サルティング・グループ(BCG)に依頼した。BCG は 1975 年に最終報告書を提出し、そ
のなかでイギリス・メーカー凋落の原因は日本メーカー、なかでもホンダの急伸にあると
述べている。さらに、米国市場でのホンダ成功の背後には、資本集約的大量生産設備への
大規模投資・生産自動化による高生産性を背景にした、一貫した戦略方針が存在するとも
指摘している。こうした戦略方針を実現させるため、ホンダは以下のような行動を採っ
た。
(1)新しいターゲット顧客を選択し、需要を創造
ハーレーに代表される大型モーターサイクルに乗っていた、当時の主要顧客ではなく、
一般大衆をターゲットに選択した。市場を再定義し、新たにレジャー用途を開拓すること
で、市場規模を拡大した。
新しいセグメントにアプローチするために、業界誌やモーターサイクル雑誌ではなく、
ライフ誌を始めとする一般大衆紙に広告を掲載し、1962 年には『ナイセスト・ピープ
ル・キャンペーン』を展開した。1964 年 4 月のアカデミー賞授賞式には、外国企業とし
722
経営戦略の策定プロセス
図 7 米国モーターサイクル市場:販売金額(単位:100 万ドル)
400
350
300
300
225
200
112
100
17
23
35
1960
1961
1962
57
0
出所)自動車工業会『自動車海外情報
1963
1964
1965
1966
1967
二輪車編』vol. 1–2 (1967), p. 34 より作成
図 8 米国モーターサイクル市場:販売台数(単位:千台)
500
500
425
400
350
298
300
200
152
93
100
45
60
0
1960
1961
1962
出所)自動車工業会『自動車海外情報
1963
1964
1965
1966
二輪車編』vol. 1–2 (1967), p. 34 より作成
1967
て初めてのスポンサーとなった。30 万ドル(約 1 億円)の放映料を支払って、全米に放
映されたテレビ・コマーシャルは大きな反響を呼び、「ブラックジャケット」と呼ばれる
黒い革ジャンパーを着たアウトローの遊び道具という、それまでのモーターサイクルにつ
きまとっていたネガティブなイメージを一掃し、「日常の暮らしに密着した手軽な乗り
物」という新たな需要の創造に成功した。
723
網倉
久永
(2)小型軽量・低価格の製品を提供
1950 年代末には、市場リーダーであったハーレーや、他のアメリカ・イギリスなどの
メーカーの製品は、排気量 500 cc 以上の大型モーターサイクルで、価格も 1000 ドルから
1500 ドルであった。年間需要も 5–6 万台程度で、台数ベースでは日本市場の十分の一ほ
どであった。
対するホンダの主力車種スーパーカブは、排気量 50 cc で小型軽量、さらに小売価格は
250 ドル以下で、学生などにも手が届く価格であった。低価格製品の導入によって市場規
模は拡大し、1962 年にはアメリカン・ホンダの年間総販売台数は 4 万台を突破した。27
(3)低価格実現のため大規模投資・大量生産
アメリカン・ホンダが設立された 1959 年時点で、売上 5500 万ドルのホンダはすでに世
界最大のモーターサイクル・メーカーとなっていた。28 前年に日本市場で発売されたスー
パーカブのヒットによって、1959 年の総販売台数は 28 万 5000 台、うちスーパーカブが
16 万 8000 台であった。29 スーパーカブ発売以前には、ホンダで最も人気のある車種でも
日本国内市場では月間 2000–3000 台程度の販売規模しかなかった。
スーパーカブの大ヒットは、大幅な生産能力増強によって実現された。1959 年には、
日本国内の年間総需要が 50 万台程度であったにもかかわらず、月産 3 万台の生産能力を
擁する鈴鹿工場を建設している。鈴鹿工場では、設備投資が大規模であっただけでなく、
旺盛な需要に応えるために、生産性を向上させるべく自動化技術の高度化にも注意が向け
られた。1962 年には、従業員一人当たり年間生産台数は 159 台(ハーレーは 1974 年まで
この水準に到達できなかった)、従業員一人当たりの純固定資産投資は 8170 ドル(米・欧
のライバル企業の 2 倍以上)となっていた。30
また、1960 年には、ホンダの研究開発部門は 700 人以上のエンジニア・デザイナーを
擁しており、これは、米・欧ライバル企業の 100 人程度のエンジニア・製図技師と好対照
であった。31
ホンダは、生産自動化のための研究開発投資、自動化・大量生産設備への投資によって
コスト水準を急速に低下させることに成功した。ホンダ製品のコスト水準は、習熟率
27
『ホンダ社史・50 年史 Web 版』p. 129.
Pascale (1984), p. 50.
29
Pascale (1984), p. 53.
30
Pascale (1984), p. 49.
31
Pascale (1984), p. 49.
28
724
経営戦略の策定プロセス
87%の経験曲線に沿って低下していった。32
(4)成長とマーケットシェアを重視した大量販売
日本国内での熾烈な淘汰競争を勝ち抜いたホンダは、市場リーダーのポジションから発
生するコスト優位(規模の経済・経験効果)にもとづき、低コスト・メーカーとして米国
市場に参入した。米国市場でも、攻撃的な価格設定・積極的広告キャンペーンによる市場
シェア拡大という日本市場での「勝ちパターン」を再現した。
米国市場参入時に、他の海外メーカーが商社を通じて販売していたのと対照的に、ホン
ダは自力で販売網を築くことを選択し、アメリカン・ホンダを設立した。アメリカン・ホ
ンダは、西海岸から東に向かって、地域ごとに市場を開拓していった。設立当初は、会社
所在地の南カリフォルニア地域の既存販売店にダイレクトメールを送付したり、業界誌や
モーターサイクル雑誌に広告を出して、販売店の募集を行った。
積極的な広告キャンペーンの影響もあって、スーパーカブの販売台数が米国でも上向き
始めると、スーパーカブの販売店を希望する問い合わせが増えた。特に 1964 年のアカデ
ミー賞授賞式でのテレビ・コマーシャルは大きな反響を呼び、新規販売店開業希望が飛躍
図 9 米国市場における市場シェア:1966 年
出所)Pascale (1984, p. 50) の記述に基づいて作成
32
Pascale (1984), p. 50.
725
網倉
久永
的に増加しただけでなく、多くの企業から「当社の販売促進キャンペーンの商品として、
ぜひスーパーカブを使いたい」との申し込みが殺到した。33
新しい市場の創造に成功したアメリカン・ホンダの売上は 1960 年の 50 万ドルから、
1965 年には 7700 万ドルに急増した。1966 年にはホンダ単独で、米国市場において 63%
のシェアを占めるようになった。ヤマハ、スズキもそれぞれ 11%のシェアを占めていた
ので、日本企業 3 社で 85%のシェアに達していた。
3.3. ホンダの北米市場参入プロセス:「現実の姿」
ホンダの北米市場への参入プロセスは、経験曲線効果によるコスト優位を活用して、市
場シェアを拡大するという戦略方針に合致するものとして、BCG レポートでは描かれて
いる。しかし、「現実の姿」は「計算違い、思わぬ偶然(セレンディピティ)、組織的な
学習」34 の連続であった。
BCG レポートでは、ホンダは、日本国内での 50 cc スーパーカブの生産によって得られ
た経験曲線効果に基づいて低コスト構造を構築し、まず小型モーターサイクル市場に参入
し、そこでの成功を梃子にして、次第に大型市場へと展開していったとされている。しか
し、アメリカン・ホンダ支配人としてホンダの北米市場進出を指揮した川島喜八郎は、
まったく異なる「現実の姿」を語っている。
わたしたちには、アメリカでいったい何ができるか、まずそれを見極めようという以外、特
に具体的な戦略はなかった。私たちは直接藤沢さんと連絡をとり合う権限を与えられていた。
初めあの人は、わたしたちが目標とするターゲットを何も与えてくれなかった。利益に関する
話もなかったし、収支とんとんにするデッドラインさえなかった。藤沢さんはただこう言った
だけだ。“だれかが成功できるなら、君らにだってできるさ”と35
3.3.1. 北米進出決定プロセス
そもそもホンダが最初の海外進出先としてアメリカを選んだプロセスからして、「戦略
的」とは呼びかねる。日本国内での基盤を固めつつあったホンダは、1956 年末頃から海
外進出を本格的に検討し始め、1957 年にはヨーロッパ・東南アジア・アメリカにおいて
市場調査を行った。市場規模や今後の経済発展を考えると、進出先としては東南アジアが
33
『ホンダ社史・50 年史 Web 版』p. 124.
Pascale (1984), p. 51.
35
Shook (1988), 邦訳 p. 38.
34
726
経営戦略の策定プロセス
有力だと川島は考えていた。しかし、専務の藤澤武夫はアメリカ進出を強く主張した。
「資本主義の牙城・世界経済の中心であるアメリカで商売が成功すれば、これは世界に
広がる。逆にアメリカでヒットしないような商品では、世界に通用するような国際商品に
はなり得ない」36 というのが藤澤の持論であった。「アメリカでチャレンジすることは、
われわれにとって一番難しいことかも知れないけれども、これは輸出拡大に向けての一番
大事なステップである」37 との主張に基づき、アメリカ進出が決定した。
3.3.2. 進出当初の意図
アメリカン・ホンダ設立には、100 万ドル(約 3 億 6000 万円)の資本金を計画してい
たが、当時は外貨持ち出しが制限されており、通商産業省と大蔵省の認可は得られなかっ
た。度重なる交渉の末、大蔵省から許可された資本金は 25 万ドルだった。しかも、現金
の持ち出しは、その半分弱の 11 万ドルしか許されず、残りは二輪車とその補修部品を
「現物出資」として充当しなければならなかった。
アメリカ市場参入時の販売計画は、50 cc スーパーカブ、125 cc ベンリイ、250 cc およ
び 350 cc のドリームの四車種で、販売目標月間 1000 台というものであった。この販売計
画は、年間 6 万台程度しかなかった北米市場においては、非常に野心的なものであった。
当時、ホンダはヨーロッパ・メーカーの製品と競争することを目論んでいた。本田宗一
郎は、250 cc・350 cc の大型機種に自信をもち、ハンドルの形状が、仏像の「まぶた」に
似ている点が市場でアピールすると考えていた。38 川島も次のように語っている。
初めてアメリカに来たとき、われわれは小型バイクを売るつもりはなかった。スーパーカブ
は日本では当たりをとったが、それはアメリカではホンダのイメージを損なうと見なしてい
た。アメリカ人が好むのは、パワーとスピードだと考えていたからだ。当然われわれは大型バ
イクの市場を追いかけた。スーパーカブはどこから見ても男性的(マッチョ)ではなかった。39
また、現物出資として持ち出す完成品在庫台数は、特に強い理由はなく、四車種それぞ
れ四分の一ずつと決まった。40
36
『ホンダ社史・50 年史 Web 版』p. 120.
『ホンダ社史・50 年史 Web 版』p. 120.
38
Pascale (1984), p. 54.
39
Shook (1988), 邦訳 p. 41.
40
Pascale (1984), p. 55.
37
727
網倉
久永
3.3.3. 予期せぬトラブル
様々な曲折を経て、1959 年 9 月にアメリカン・ホンダは営業活動を開始した。しか
し、当時のモーターサイクル需要は、気候の良い 4 月から 8 月に集中していた。アメリカ
ン・ホンダがシーズン終了直後に営業を開始したのは、北米市場の需要特性を知らなかっ
たためであった。
1960 年に入ると、月間販売台数が数百台の規模に達し、順調な推移を見せ始めた。し
かし、その矢先の 4 月、商品トラブルが続発する。主力車種ドリーム・ベンリーに搭載さ
れたエンジンが過熱のため焼き付くという現象が 150 台余りのモーターサイクルに見られ
た。原因は、日本とは道路事情が異なるため、高速・長距離の走行にエンジン部品が耐え
られなかったことにあった。アメリカン・ホンダは、日本から急遽メカニックを呼び寄
せ、対応に当たった。
トラブルを起こした商品はすべて販売店から回収し、日本へ送り返した。「日本から部
品を取り寄せて修理して売ろうかとも考えたが、商売も軌道に乗りかけようとしているこ
の時期に、販売店やユーザーからの信頼を失いたくなかった。『これからアメリカに根付
いて商売をしていく以上は、品質に問題のない商品を自信を持って売り込みたい』と、川
島は日本にいる藤澤へ事情を説明し」、41 日本から到着したばかりで陸揚げを待っていた
商品も含めて、すべての同型車種を送り返した。
主力車種を失ったアメリカン・ホンダは、スーパーカブを前面に押し出して営業活動を
続けた。この決定以前にも、スーパーカブに対しては多くの好意的な反応が寄せられてい
た。外貨持ち出しの制約から、社用車を一台しか持てなかったため、アメリカン・ホンダ
の社員は自らの「足」としてスーパーカブに乗っていた。
われわれはロサンゼルス市を、スーパーカブに乗って出掛けたが、そのとき人々からたくさ
ん質問を受けるようになった。そうした話を聞いているうちに、どうやら小型バイクはこの国
でも大いに売れそうだという感触を持つようになった(川島喜八郎:アメリカン・ホンダ支配
人)42
大手百貨店シアーズのバイヤーからも問い合わせがあったものの、アメリカン・ホンダ
は企業イメージ毀損を危惧して、50 cc スーパーカブを前面に押し出すことを躊躇してい
た。しかし、主力大型車種のトラブルのため、選択の余地無く、スーパーカブを主力商品
41
『ホンダ社史・50 年史 Web 版』p. 122.
Shook (1988), 邦訳 p. 41.
42
728
経営戦略の策定プロセス
とせざるをえなくなった。
実際に売り出して見ると、市場の反応は好意的だった。250 ドルというリーズナブルな
価格、走行性能の高さに加えて、スーパーカブは 4 ストローク・エンジンを採用したため
音も静かで、小型で取り回しが容易であった。また、フロント・カバーと幅広いステップ
を持つデザインは、スカートをはいた女性にも乗りやいと好評であった。こうした点をア
ピールすることで、「これまでアメリカ人が悪いイメージを連想したモーターサイクルと
は全く別の乗り物、オートバイらしからぬオートバイ(川島)」43 として市場に受け入れ
られた。
1961 年 5 月には、スーパーカブのヒットもあり、当初目標の月間販売台数 1000 台を達
成した。しかし、川島は、さらに市場を拡大するためには新たな施策が必要だと考えた。
3.3.4. 新たな販売経路、積極的な広告展開
オートバイを手軽に買える商品にすべく、既存の販売店に加えて、新たな販売経路を開
拓した。各地でアメリカン・ホンダの事業概要をプレゼンテーションしてまわり、新たな
販売店を募ると同時に、スポーツ用品店やアウトドアショップなどにも、スーパーカブを
販売してもらうよう働き掛けた。
「新しいイメージ」をアピールするために、「アメリカン・ホンダの営業スタッフは、全
員、背広にネクタイを締め、サービス・メカニックたちも真っ白の作業着を着用するよう
にした。常に清潔感のある服装と礼儀正しい態度で顧客に接することを心掛け、ホンダの
オートバイを取り扱う販売店の経営者たちへも、その大切さをアピールした。そして、
セールス活動、サービス技術に関するマニュアルやテキストを作成し、各地で講習会を開
催し、販売店の育成に力を注いでいった」。44
「油にまみれた薄汚ない」 45 というオートバイ販売店の悪いイメージを払拭するため
に、販売店の経営者に対して店舗改装を積極的に奨励した。アメリカン・ホンダも、店の
敷地内に商品を試乗できるスペースと清潔な大型ショールームを併せ持つ直営店をつくる
ことで、オートバイ販売店の理想像をアピールした。46
一方、広告・宣伝にも注力した。アメリカン・ホンダは、従来とは異なる顧客セグメン
43
『ホンダ社史・50 年史 Web 版』p. 123.
『ホンダ社史・50 年史 Web 版』p. 123.
45
『ホンダ社史・50 年史 Web 版』p. 123.
46
直営店は、米国独禁法に抵触するとして後日閉鎖された。
『ホンダ社史・50 年史 Web 版』p. 124.
44
729
網倉
久永
トにアピールするために、限られた人たちにしか読まれない業界紙やモーターサイクル雑
誌だけでなく、ライフ誌を始めとする一般大衆誌に広告を掲載した。広告には「明るく華
やかな雰囲気の色、写真を厳選」47 し、ネガティブなイメージを連想させる「モーターサ
イクル」という表現は一切使わず、スーパーカブだけでなくモーターサイクルそのものの
イメージアップを図った。
広告掲載費は決して安いものではなく、ライフ誌(西部 11 州版)のカラー1 ページで
7–8 万ドルであった。48 しかし、川島は「ある程度(スーパー;引用者補足)カブが売れ
るようになってからの話で度胸良くやりました」49 と語っている。
この決断の背後には、当時のアメリカン・ホンダの潤沢な手許資金があった。進出時の
外貨持ち出し規制のため、設立当初のアメリカン・ホンダにとって、当時の米国モーター
サイクル業界での慣行だった掛売取引は困難だった。現金で日本から持ち出した 11 万ド
ルのうち、ロスアンジェルスでの事務所購入に 10 万ドル費やしていたため、当初の運転
資金は 1 万ドル程度しかなかった。アメリカン・ホンダのビジネスは、現金決済以外の選
択肢は事実上ありえなかった。
現金決済ゆえに、スーパーカブがヒットすると、アメリカン・ホンダは潤沢な手元資金
を抱えることになった。依然として日本政府の規制下にあったアメリカン・ホンダは、
スーパーカブのヒットによって得られた手許流動資金を、まずは日本からの新規在庫の輸
入に充当した。日本からの輸入代金を差し引いても、手許には大規模な広告キャンペーン
を展開するのに充分な資金が残っていた。
3.3.5. ナイセスト・ピープル・キャンペーン
1962 年末には、アメリカン・ホンダの年間総販売台数は 4 万台を超え、契約販売店も
全米に 750 店近くまで増加していた。川島は翌 1963 年度の販売目標を、前年 5 倍増の 20
万台に設定した。
この数字には、アメリカン・ホンダのスタッフでさえも驚いたが、モーターサイクル利
用者の社会的イメージと、アメリカン・ホンダの知名度をさらに高めることができれば、
達成可能であると川島は考えていた。そのために、それまでにない巨額の広告費を投入す
る覚悟であった。
47
『ホンダ社史・50 年史 Web 版』p. 123.
『ホンダ社史・50 年史 Web 版』p. 123.
49
『ホンダ社史・50 年史 Web 版』p. 123.
48
730
経営戦略の策定プロセス
大手広告代理店グレイ社の提案に従って、“YOU MEET THE NICEST PEOPLE ON A
HONDA(素晴らしい人々、ホンダに乗る)” をキャッチフレーズとする広告キャンペー
ンを、西部 11 州を対象に展開した。
この広告には、主婦や親子、若いカップルといった良識ある「素晴らしい人々」が、さ
まざまな目的でスーパーカブに乗っている姿が描かれていた。色鮮やかなイラストと完成
度の高いデザインは、これまでモーターサイクルという言葉に嫌悪感を抱いたり、モー
ターサイクルに対して関心を示さなかった人たちに、日常の暮らしに密着した手軽な乗り
物として、モーターサイクルの新しい存在価値をアピールした。
当時、アカデミー賞授賞式のテレビ放映は、全米で 80%近い高視聴率が期待されてい
た。この番組でコマーシャルを放映すれば、スーパーカブの商品名とアメリカン・ホンダ
の企業名を一気に全米中に広められるという提案であった。ただし、放映料は、90 秒の
コマーシャル 2 本で 30 万ドル(約 1 億円)
。川島はこの決断を次のように振り返ってい
る。
三十万ドルということで、ちょっと私も考えましたよ。でも、勝負どころはそんなに何回も
あるものではないと(藤澤さんから)教わっていますし、「よし、やろう」ということで決断し
たんですけどね。やっぱりちょっとびびりましたね、正直なところ…50
外国企業として、アカデミー賞授賞式にスポンサー参加することになったのはアメリカ
ン・ホンダが初めてであったことに加えて、モーターサイクル・メーカーの参加は前代未
聞であるとして、関係者の話題を呼んだ。
1964 年 4 月、全米中に放映されたテレビ・コマーシャルは、予想以上の大反響であっ
た。スーパーカブは、それまでモーターサイクルにつきまとっていた邪悪なイメージを払
拭し、「日常の暮らしに密着した手軽な乗り物」として受け入れられ、全米規模のヒット
商品に成長していった。
スーパーカブのヒットを追い風に、アメリカン・ホンダは商品ラインアップを拡充させ
ていった。1970 年度には、50 cc の小型機種から 750 cc の大型オートバイまでを取りそろ
え、年間販売台数は 50 万台を突破した。
4. ディスカッション:事前計画としての戦略・事後的パターンとしての戦略
上記の二社の事例から明らかなように、戦略策定のプロセスは対照的である。ヤマト運
50
『ホンダ社史・50 年史 Web 版』p. 124.
731
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久永
輸の宅急便事業においては、実際に事業に着手する前に十分な検討が行われ、詳細な計画
が立案され、戦略方針が公式文書に記述されている。対して、ホンダの事例では、北米
モーターサイクル市場への進出の意思決定・実行プロセスは、秩序だっていたとは言い難
い。果たして、ホンダの北米モーターサイクル事業において「戦略があった」と言えるの
だろうか。
4.1. 事前計画としての戦略
この問いに対しては、様々な回答がありうるだろう。最も肯定的な立場は、ボストン・
コンサルティング・グループ(BCG)の報告書に見られるように、ホンダの一連の行動
の背後に「大量生産設備への大規模投資・生産自動化による高生産性を背景にした、成長
とマーケットシェアを重視した大量販売」といった一貫した<戦略>を見いだすものだろ
う。逆に、最も否定的な見解では、ホンダには<戦略>がなく、北米モーターサイクル市
場での行動は「場当たり」的で、成功は単なる偶然に過ぎないと考えることができる。特
に、「アメリカで売れない商品は世界で通用しない」という藤澤の持論に基づいたアメリ
カ進出の決定は、事業着手前に「宅急便商品化計画」を策定していたヤマト運輸と比較す
ると、蛮勇とさえ形容できる。
北米市場進出を決定した時点でホンダに戦略があったとは主張しにくい。有力視されて
いた東南アジアではなく、アメリカ進出を主張した藤澤にはそれなりの見通しがあったの
かもしれない。しかし、当事者の証言からすると、その見通しは直感の類であり、競争行
動に一貫性をもたらすシナリオや見取り図とは呼べないものであった。進出当初は、北米
市場の需要が春から夏に集中していたことさえ知らなかったため、1959 年 9 月にアメリ
カン・ホンダが営業活動を開始した時点では、その年のハイシーズンはすでに終盤にさし
かかっていた。スーパーカブを主力車種に据えたのも、大型車種のトラブルによる「窮余
の策」でしかなかった。
ホンダは、北米モーターサイクル事業の立ち上げに際して、ヤマト運輸のように、詳細
な事前計画を周到に準備したわけではなかった。ホンダの北米での成功には、幸運による
「怪我の功名」という側面が多分に見られる。戦略を実行に先立つ計画であると捉える
と、北米進出決定時のホンダには「戦略」はなかったと判断できる。
732
経営戦略の策定プロセス
4.2. 事後的パターンとしての戦略
しかし、ホンダの北米小型モーターサイクル事業の成功は、単なる偶然や幸運だけで説
明できるわけではない。事業着手の時点では、明示的な事前計画はなかったかもしれない
が、ホンダの一連の競争行動を事後的に振り返ってみると、そこには BCG が指摘するよ
うな一貫性の高いパターンを見いだすことができる。
予期せぬトラブルからスーパーカブを主力車種としたことは、結果的に見ると、自国市
場でのコスト上の優位性を活かせる製品を選んだことになる。コスト優位を背景にした低
価格のスーパーカブが市場に投入されたことによって、手軽な移動手段に対する潜在的な
需要が顕在化した。1960 年から 1961 年にかけてのスーパーカブのヒットは、まさに「怪
我の功名」に他ならない。
しかし、それ以降、アメリカン・ホンダの施策は徐々に「理に適う」ものになっていっ
たように見受けられる。スーパーカブのヒットという予期せざる事態を受けて、当初は曖
昧だったターゲット顧客層を意識的に絞り込み、積極的に働きかけていった。アメリカ進
出当初は、趣味として大型モーターサイクルに乗る従来からの顧客層をターゲットとして
想定していたが、スーパーカブのヒットによって、これまでモーターサイクルに縁の薄
かった「良識ある一般大衆」をターゲットに据えた。モーターサイクル業界が従来ター
ゲットとしてこなかった顧客層に働きかけるためには、新しい販売チャネルを開拓し、従
来とは異なる宣伝方法を採用することが合理的である。もっとも、資金投入の大きさには
多分にギャンブルの要素があり、決断には強い胆力が必要であったことは想像に難くな
い。
ホンダの一連の活動を事後的に振り返ってみると、あたかも「災い転じて福となす」よ
うに、当初の失敗から学び、偶然や思いがけない幸運に助けられ、結果的に成功を収めた
というストーリーを描くことも可能である。反対に、ホンダの競争行動には、「コスト優
位を背景とした新しい市場セグメントの開拓」と BCG が指摘した、一貫性の高いパター
ンを見いだすこともできる。ただし、この一貫性の高い競争パターンは、北米事業スター
ト時点で意図していたわけではない。北米事業の立ち上げ初期に経験した数多くの見込み
違いや失敗、様々な偶発的要因に対応しながら、試行錯誤のなかから形成されていった。
Mintzberg et al. (1998) は、戦略には、当事者が事前に意図した計画という側面と、試行
錯誤や学習のプロセスを通じて現れてくるパターンとしての側面があると指摘している
(図 10)
。事前計画としての戦略には、
「意図された戦略」
・
「計画的戦略」がある。多くの
733
網倉
久永
図 10 意図的戦略・創発的戦略
注)Mintzberg, Ahlstrand, and Lampel (1998) 邦訳, p. 13, 図 1-2
「計画的および創発的戦略」
場合、実行に先立つ計画としての「意図された戦略」を完璧に実現すべく「計画的戦略」
の実現を試みるものの、実際にはすべてが実現される訳ではない。「実現された戦略」の
うちある部分は、事前に意図し計画的に実現したものであろう。しかし、実現された戦略
の多くの部分は、最初から明確に意図したものではない。試行錯誤的な行動が集積され、
そのつど学習する過程を通じて、戦略の一貫性やパターンが形成されていく (藤本,
1997)。
事前には意図していなかった一貫性やパターンが事後的に観察されるような戦略は、
「創発的戦略(emergent strategy)」と呼ばれる。創発とは、システム全体を構成する要素
における相互作用が複雑に関連し合うことで、システム全体としての状態が個別要素の作
用からは予想できないことを指す。企業を取り巻く競争状態が将来どうなるのか、事前に
は予想できない「非決定論的」な世界において、特定の結果が実現してから、過去の出来
事を振り返ることで見えてくる一貫性やパターンが「創発的戦略」と呼ばれる。
ホンダの例では、大型車による北米市場開拓が「意図されたが、実現されない戦略」で
あった。初期の紆余曲折から小型モーターサイクルを主力商品に据え、それが結果的に
ヒットしたという「結果」を見て、自社の行動を振り返ってみると、小型車ではコスト優
位にあり、低価格を実現することで従来はモーターサイクルの主要顧客として考えられて
こなかった顧客セグメントを開拓することができていたことに気づいた。ある時点で、ホ
734
経営戦略の策定プロセス
ンダは、やむをえず取ってきた行動が理に適ったものであったことを自覚し、それ以降は
「意図的」に新しい顧客セグメント開拓に邁進していった。
現実の企業行動においては、戦略は「事前計画」であると同時に、「事後的パターン」
でもある。「一方的に計画的で、全く学習のない戦略はほとんどない。しかしまた、一方
的に創発的で、コントロールの全くない戦略もない。現実的な戦略はすべてこの二つを併
せ持たなければならない。つまり、学習しながらも計画的にコントロールするのである。
別の言い方をすれば、戦略は計画的に策定される、と同時に創発的に形成されなければ
ならない」。51
ホンダは、北米事業に着手した時点では「事前計画としての戦略」を持ち合わせていた
とは言い難い。しかし、試行錯誤プロセスからの創発的な学習に基づいて、戦略計画を立
案するようになった。この時点に至ると、「ホンダには戦略がなく、単に幸運だっただけ
である」と断言するのは難しくなる。
5. むすびに
経営戦略には実体がないため「見えにくい」。企業を外部から観察した際に戦略が分か
りにくいだけでなく、企業内部からでも「見えない」との声を聞くことがしばしばある。
特に日本企業の戦略は分かりにくいと指摘されることが多い。時には、「日本企業には戦
略がない」とさえ指摘される。
Porter (1996) は、大部分の日本企業は互いに模倣しあい、製品機能・価格・サービスな
どで違いを見いだすことは難しく、「ユニークで価値あるポジション」を作り出すという
意味で「戦略的」であるとは言い難いとしている。
はたして、日本企業には本当に戦略がないのだろうか。それとも戦略があるものの、外
部から見えにくいだけなのだろうか。こうした指摘に対する反論として有力なものは、
(1)日本企業には戦略があるものの、外部からは見えにくい、あるいは(2)日本企業の
戦略は米国流の戦略とは異なっているため、海外の研究者にとってはあたかも戦略が存在
しないように見える、というものであろう。
戦略は目的・手段の連鎖である。実際の企業経営では、時には目的が明示されていな
かったり、互いに矛盾する複数の目的が示されていたりすることがある。現実は多様であ
り、単一の「最終目的」を明示することは難しい。たとえシナリオや見取り図があったと
51
Mintzberg et al. (1998) 邦訳, p. 13 太字強調は原著者による。
735
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久永
しても、構成要素が互いに矛盾し、論理的に「筋の通らない」ものになっていることもあ
りうる。さらに、企業活動の全てが戦略の影響下にあるとは限らない。戦略とは関連のな
い活動が多数存在する。現実の企業活動は、一貫したシナリオや見取り図に則っているよ
うには見えないことが多い。企業外部から、こうしたノイズの中から「真の戦略」を見分
けるのは困難であるというのが、第一の反論の代表的なロジックである。
しかし、こうした議論に対しては、以下のような再反論がありうる。確かに、ノイズを
かき分けて「真実の姿」を見分けるのは容易ではない。だが、それは日本企業のみに限っ
たことではない。日本企業の戦略が特に見えにくいのは、日本企業の競争行動には戦略と
は無関係な要素(ノイズ)が多い、もしくは戦略自体が筋の通らない貧弱なものであるか
らではないか。
こうした議論に対する再反論が、前述した第二の論点、すなわち戦略の種類が異なって
いるというものである。戦略には「事前計画」という側面だけでなく、創発的な「事後的
パターン」としての側面もある。「ホンダの戦略」といった場合、北米でモーターサイク
ル事業を開拓しようとしていた時点でそれから数年先を見た事前計画として戦略を考える
のか、国内だけでなくアメリカで二輪車から四輪車へと事業を拡大してきたプロセスでの
行動パターンを現時点から過去に遡って考えるのかで、「戦略」という単語が意味する内
容が異なってくる。日本企業では、確かに「事前計画としての戦略」を十分に検討し尽く
していないと考えられるケースが多いが、その一方で事前に意図したわけではなくとも、
事後的に振り返ってみると、競争行動に理に適った一貫したパターンを見出せるような
ケースも少なくない。
現実の文脈において、戦略について議論する際には、時間的に、どの時点においてどこ
までの過去や未来を考えているか、空間的にどの範囲を議論の対象としているかを明らか
にしておく必要がある。たとえば、今日の北米市場におけるホンダのプレゼンスは自動車
メーカーとしてのものである。「手軽な移動手段としての二輪車」という需要を創造しよ
うとしたホンダの「意図」は、ある程度の成功を収めたものの、結局アメリカは「自動車
の国」であった。国内最後発の自動車メーカーとなったホンダが、国内だけでなく世界の
自動車市場でプレゼンスを拡大してきたプロセスには、オイルショックによる石油価格の
高騰や排気ガス規制など、事前に予想できなかった「追い風」があった。だが、単なる幸
運だけが自動車メーカーとしてのホンダの成功要因ではない。
戦略には、事前計画という側面と事後的に観察されるパターンという両側面がある。実
736
経営戦略の策定プロセス
務家にとっては違和感を感じさせないこの言明は、理論家にとっては重大なチャレンジを
内包している。少なくとも現時点では、事前計画・事後的パターンという戦略の二つの側
面を統合的に考察できる概念枠組をわれわれは手にしていないと筆者は考えている。
たとえば、事前計画としての側面を強調する立場からすれば、戦略の策定と実行のプロ
セスを分けて論じることには意味がある。意図した通りの結果が実現されなかった場合、
計画に問題があるのか、あるいは実行プロセスに問題があるのかを切り分けることで、
「次のラウンド」においてより効果的な戦略を策定できると期待されるためである。しか
し、創発的な特性を強調する立場に立つと、戦略とは「実行された後」の時点で「事後
的」に出現するパターンであるため、「事前」を戦略策定と戦略実行とに細分する必要性
は感じられない。
「事前には特定の意図を持ちつつも、事後的には、その意図にこだわらず、創発的に振
る舞う行為者」という姿を、われわれが手にしている概念枠組は十全に描き切れてはいな
い。その主原因は、時間要因が高度に抽象化され、圧縮されている点に求められると筆者
は考えている。理論の世界に「実時間」の要素を組み入れられれば、こうした問題点は解
消されるものと予想されるが、その実現には克服しなければならない課題が山積してい
る。
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赤門マネジメント・レビュー 8 巻 12 号 2009 年 12 月 25 日発行
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