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Page 1 Page 2 フリードリッヒ・リストと彼の時代 一生誕200
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<研究ノート>フリードリッヒ・リストと彼の時代 : 生誕
200 年に寄せて
諸田, 實; Morota, Minoru
経済貿易研究 : 研究所年報, 16: 71-86
Date
1990-03-25
Type
Departmental Bulletin Paper
Rights
publisher
KANAGAWA University Repository
一一71一
〈 研究 ノ0卜 〉
フ リー
ド リ ッ ヒ ・ リ ス ト と彼 の 時 代
生 誕200年 に寄 せ て
諸
れ て い る が,そ
は
じ め
に
田
實
の うえ,上 記 の 内 訳 に し た が っ て
,
リス トの 生 涯 と彼 の業 績 の 解 説 と し て6人
1.リ
ス ト と ドイ ツ の 初 期 鉄 道 史
2.経
済 理 論 家 と し て の リス ト
3.ジ
ャー ナ リス トと し て の リス ト
家 が 合 計230頁
の専門
を超 え る くわ し い 評 伝 を 執 筆 し て
い る。 展 示 会 の 開 催 は もち ろ ん 壮 挙 で あ る が
,収
録 さ れ た 多 数 の 貴 重 な資 料 とい い,く わ しい 評 伝
は じ め に
と い い,『 カ タ ロ グ』の充 実 ぶ りも私 に は ドイ ツ の
フ ラ ン ス 革 命200周
繊
年 の 陰 に か くれ て ほ と ん ど
話 題 に の ぼ ら な か っ た が,1989年
経 済 学 者 で 鉄 道 業 の 先 覚 者,政
リス トで も あ り,今
下 に 紹 介 す る の は,評
は ドイ ツ の 国 民
策 論 者,ジ
ル.ヘ
ャーナ
richList,1789-1846)の
生 誕200年
ル マ ソ稿)と
に 当 って い る。
か ら8月20日
ハェ
ル リ ッ ヒ ・ア イ ゼ
ジ ャ ー ナ リス ト 活 動(イ
ザベ
ラ ・プ フ ァッフ稿)の 部 分 で あ る。 な お ,こ の 展 示
会 を 見 学 し て い な い 私 が カ タ ロ グを 入 手 で きた の
ト(Fried-
ス トの 生 地 胃 イ ト リ ン ゲ ソ 市
の 郷 土 博 物 館 で5月13日
以
く は ・ 生 誕200周
そ れ を 記 念 し て,リ
伝 の うち 鉄 道 問 題(ミ
経 済 理 論(ウ
レ ーシ ュ タ イ プ稿)と
日で は 経 済 統 合 の 先 駆 者 と し
て も評 価 され る フ リー ド リ ッ ヒ ・ リ ス
文化の底力を示す もののよ うに思わ誕 器
年 の 催 し に 招 待 を うけ た 大 東 文 化
大 学 の 小 林 昇 教 授 の御 好 意 に よ る も の で ,記 し て
深 く感 謝 す る次 第 で あ る。
ま で,「 プ
リー ド リ ッ ヒ ・ リス トと 彼 の 時 代 」 と い う展 示 会
が 開か れた。
(1)FriedrichListandseineZeit.Nationalokonom
展 示 さ れ た 資 料 は 総 計698点
で,内
訳 は,ロ
Eisenbahnpionier・Politiker・Publizist・1789
イ
-1846
StadtReutlingen,HeimatmuseumandStadtarchiv
ト リ ソ ゲ ソ で 送 っ た 幼 少 時 代117点,ナ
戦 争5点,ヴ
ポ レオ ソ
1989(以
ュ ル ッ テ ン ベ ル ク の 役 人 時 代46点,
亡 ・逮 捕 ・出 国26点,ア
衆 国 で の リ ス ト59点,ド
点,ジ
フシ
都 市 の18機 関),さ
ら に ユ18人 の 個 人 と24の
ng),前
1970年
国15
『リ ス ト全 集 』 第4巻
林昇訳
-
。
『経 済 学 の 国 民 的 体 系 』 岩 波 書 店 ,
。
『農 地 制 度 』:小
な お,リ
機 関 が
林 昇 訳 『農 地 制 度 論 』 岩 波 文 庫 ,1974年
。
ス トの 著 作 と 関 連 す る リ ス ト の 文 献 に つ い て の
詳 細 で 網 羅 的 な 研 究 に も と つ く,日
本 語 で 書 かれ た リス ト
研 究 の 代 表 作 と し て,『 小 林 昇 経 済 学 史 著 作 集 』VI .靱,
Vfff[,XI,未 来 社,1978_79年,1989年
をあげてお く
。
展 示 会 の 『カ タ ロ グ 』 に は 巻 末 に 展 示 資 料698
の う ち196点
記
『国 民 的 体 系 』:小
援 助 ・協 力 者 と し て 名 を 連 ね て い る 。
点 の 目 録 が 付 さ れ,そ
。
tique(FranzosischerTextanddeutscheLTbertragu
56点 で あ る 。 こ れ ら の 展 示 資 料 は 内 外 の66都 市 の
国 は6か
.
ア メ リカ 体
『自 然 的 体 系 』:LeSystemeNatureld'EconomiePoli-
世 の 評 価(Nachleben)
113機 関 か ら 貸 与 を 受 け た も の で(外
.,Berlin,1932-35
』 未 来 社,1966年
,
,F.Lenz,W.Notz,
『綱 要 』:正 木 一 夫 訳.『 ア メ リ カ 経 済 学 綱 要 一一
族17
ャ ー ナ リ ス トと し て の リ ス ト48点,ク
ュ タ イ ン で の 死7点,後
集 』.Fri・dri・hLi・t.s・h・iften/R・den/B,i。f。
E.Salin,A.Sommer,IOBde
制一
業 の 発 展37点,家
,
「リ ス トの ロ
参照。
hrsg,vonE,Beckerath,K.Goeser
メ リカ合
林 昇
稿 で は リ ス トの 著 作 を 次 の よ う に 略 記 す る 。
『 リス 愉
イ ツ の 鉄 道 制 度135点,
経 済 理 論 家 リ ス ト18点,工
『カ タ ロ グ 』 と略 記 す る)小
イ ト リ ン ゲ ン 」(『 み す ず 』341号)を
(2)本
テ ユ ー ビ ソ ゲ ソ 大 学 教 授 時 代46点,ド
イ ツの 関 税
'
r運
動 の 時 代45点,領
邦 議 会 と ロイ ト リン ゲ ン
請 願 書36点,逃
下
,
が写 真収録 さ
◎
一一72一
フ リー ド リッ ヒ ・リス トと彼 の 時 代
1リ
ス テ ム とし て 鉄 道 が 誕 生 した 。 リス トは そ の効 用
ス トと ドイ ツ の初期 鉄 道 史
を 評 価 し た が,同 時 に 米 国 で の 体 験 か ら,イ ギ リ
全 国 的 輸 送 シ ス テ ム と して の 鉄 道1840/41年
ス の 鉄 道 建 設 の や り方 は 時 間 と費 用 が か か って ド
(1)
に リス トは 鉄 道 に 関 す る3部
3部
作 を ま と め,そ
の第
を"DeutscheVierteljahresschrift"誌
(1841年 第4号)に
イ ツに は 不 適 当 と考 え,む
し ろ 「過 去8年
間に鉄
道 の 一 等 国 に な った 」 米 国 に 目 を 向 け る必 要 を 説
発 表 し た 。 リ ス トの 鉄 道 論 に は,
い たQち な み に,米 国 の 鉄 道 営 業 路 線 総 延 長 は
1827年"AugsburgerAllgemeineZeitung"紙
1830年 の23-7イ ル か ら40年2,818マ
に 掲 載 さ れ た2通
9,021マ
イ ル,50年
(5)
の 手 紙(米
国 レデ ィン グか らバ イ
ニ ル ソ王 国 鉱 山 顧 問 官 フ ォ ソ ・パ ー ダ ー宛 て)を
め,鉄
は じ
道 専 門 家 の名 声 を 不 動 の もの に した ライ プ
ッ ィ ヒ=ド
レ ス デ ソ 鉄 道 の 説 明 趣 意 書(1833年)
と"Pfennigmagazin"謙
こ掲 載 さ れ た ド イ ツ の
鉄 道 路 線 図(1835年),『
国 家 学 辞 典 』 の 項 目 「鉄
イ ル と イ ギ リス を 抜 い て 伸 び て い る 。
車 輔 の 改 良 の 点 で も,リ
ス トは 米 国 の 蒸 気 機 関
車 を ドイ ッ の 手 本 とみ た 。 米 国 最 初 の 鉄 道 パ ル テ
ィ モ ア=オ
ハ イ オ 鉄 道 が 採 用 し たGillingham&
Winans社
製 の 機 関 車 を 。Eisenbahnjournal"
誌(1836年)に
紹 介 し,従
来 の機関 車 よ り急 勾配
道 と 運 河 」(1837年),"Eisenbahnjourna1"そ
の
に も 走 行 可 能 で,ト
他 に 発 表 さ れ た 多 数 の 論 稿 な ど が あ る が,3部
作
と 述 べ て い る 。 し か し,結
局,ド
『国 民 的 体 系 』 を 書 き あ げ た 彼 が 改 め て こ の 問
造 の 手 本 に な っ た の は,こ
れ も リ ス トが1年
は
題 に 取 り組 ん だ も の で,「
リ ス トの 鉄 道 論 の 最 良
の 作 品 」 と も いわ れ て い る 。
Farmer"号
イ ギ リス の 全 国 輸 送 網 は 沿 岸 航 路 と運 河 を 中 心
と す る が,ド
紹 介 し たNorris社
イ ツ で は 鉄 道 網 が 必 要 で あ る 。 「鉄
ソ ネ ル 建 設 が 少 な く て す む,
イ ッ の機 関 車 製
製 の 。WashingtonCountry
で あ っ た 。ち な み に,1842年
の 機 関 車 は245台
後),r
で,う
英 国 製166台(67.76%),米
に ドイ ツ
ち ドイ ツ 製38台(15.47%),
国 製29台,ベ
ルギ ー 製
(5a)
道 網 が 完 成 す れ ぽ 内 陸 は す べ て 航 行 可 能 と 同 じに
12台 で あ る。
(2)
な る。」 鉄 道 網 に よ って ドイ ツは 多 極 分 散 的 な 工
業 化 を進 め て,イ
リス トは ドイ ツの 鉄 道 推 進 論 者 の 最 初 の者 で も
ギ リス の 工 業 覇 権 に 対 抗 で き る
唯 一 の者 で もな い が,彼 を 抜 き に して 初 期 の 鉄 道
で あ ろ う。 ドイ ツで は 産 業 革 命 に 輸 送 革 命 が 先 行
の 歴 史 を 語 る こ とは で き な い 。 リス トは 大 勢 の 鉄
す べ き こ とを リス トは 認 識 し て い た 。
道 技 師 や 鉄 道 会 社 の 指 導 者 と交 流 を 重 ね,路 線 計
鉄 道 網 は 輸 送 時 間 を 短 縮 し,大 衆 商 品 の輸 送 費
を 引 き下 げ,内 部 市 場 を 拡 大 す る。 また,大 規 模
(3)
画,機
関 車 と車 輔 の 改 良,株 式 会 社 の 設 立 と資 金
調 達,政 府 と民 間 との 関 係 な ど,鉄 道 に 関 す る幅
な 建 設 工 事 は 関 連 産 業 の 発 展 を 促 進 す る。 経 済 的
広 い 知 識 の 持 主 で あ った 。 鉄 道 建 設 に2度 携 わ っ
効 用 ぼ か りで は な い 。 地 域 間 の 文 化 交 流 を活 発 に
た 体 験 と多 年 に わ た る論 争,英
・米 ・仏 な ど諸 外
し,教 育 水 準 を 引 き上 げ,国 民 的 一 体 感 を 育 て,
国 の鉄 道 事 情 の 見 聞,こ れ らが 鉄 道 推 進 論 者 の な
「精 神 的 ・政 治 的 諸 力 」 を 強 化 す る。 ドイ ツ の政
か で リス トの 地 位 を 独 自 な も の に し て い る 。
治 的 統 一 の た めYT全 国 的 鉄 道 網 が 重 要 な 点 を 強 調
バ ー デ ソ大 公 国 の政 治 家 ネ ベ ニ ウス は 鉄 道 の 国
し て,関 税 同 盟 と鉄 道 を ドイ ッ統 一 の大 目標 へ 向
家 的 ・経 済 的 重 要 性 を 認 め て い た が,建
か って 歩 調 を 合 わ せ る「シ ャ ム双 生 児 」 「高 層 住 宅
知 識 に 欠 け,ラ イ ソ ラ ソ ドの実 業 家 ハ ル コル トと
の 各 階 を 結 ぶ 階 段 」 に た とえ て い る。41年 の 論 文
カ ン プ ハ ウ ゼ ソの 鉄 道 論 は ライ ン地 方 の 一 部 区 間
に は 鉄 道 の軍 事 的 有 用 性 も主 張 さ れ て い る 。 これ
まで鉄道 不要 論 を唱 えて いた各邦 政府 が鉄 道 の必
に 限 られ て い た 。 僅 か に ハ ノ ー ヴ ァ ー の 商 入 グ ロ
ー テ が 全 国 的 鉄 道 網 の建 設 を 提 案 し ,そ の 国 家 的 ・
要 を 認 め て 建 設 に 着 手 した こ とは,リ
経 済 的 ・軍 事 的 意 義 を 認 め て い た が,経
ス トを 満 足
設技術 の
済効果 の
(4)
さ せ た が,こ れ も彼 の 先 見 の 明 を 示 し て い る。
鉄 道 建 設 の 問題 点
長 い試 み の の ち1820-30年
間 に,産 業 革 命 終 期 の イ ギ リス で 初 め て 新 交 通 シ
くわ し い 予 測,工 事 資 金 の 調 達s用
地 買 収 や 補 償,
英 米 の 鉄 道 会 社 と の 収 益 比 較 まで 論 じ た 点 は リス
トの 功 績 で あ る。 彼 は ま た,鉄 道 専 門 家 の 第 一 人
フ リ ー ド リ ッ ヒ ・ リ ス ト と彼 の 時 代
者 で あ る上 述 の フ ォ ン ・バ ー ダ0と
も,ユ827年 に
一73-一
す い 木 製 レー ル の 使 用 を す す め,馬
車 の 併 用 も考
米 国 か ら手 紙 を 送 って 以 来 の 知 己 で あ った 。 バ ー
え て い た。 鉄 道 建 設 の 目標 は 「与 え られ た 状 況 の
ダ ー は リス トの 鉄 道 論 の 普 及 を 後 援 し た 。 鉄 道 が
下 で,で
マ イ ン 篇 ドー ナ ウ運 河 に優 先 す る とい う 認 識 で
も,バ イ エ ル ン 王 国 の 交 通 シ ス テ ムの 計 画 で も,
政 的 ・国 民 経 済 的 効 果 を あ げ る こ と で あ っ て,他
人 の 目を ひ く大 工 事 の 完 成 や 勾 配 ・迂 回 路 線 の 回
{B)
2人 の意 見 は 一 致 し て い た 。
避iで は な い 。」
リス トが 目指 し た の は,難 工 事 を 避 け,収 益 の
見 込 み の た つ 実 用 的 な路 線 計 画 と建 設 方 法 を 採 用
し て,な
き る だ け少 な い 費 用 で 最 大 の 商 業 的 ・財
るべ く早 く,や す く敷 設 して 開 業 に 漕 ぎ
つ け る こ とで あ っ た 。 慎 重 す ぎ る 計 画 と技 術 至 上
の 工 法 は 時 間 と費 用 が か か り,収 益 の予 測 を 困 難
第4に,リ
ス トは ドイ ツ の 鉄 道 の 収 益 性 に 疑 問
(9)
を もた な か った 。 鉄 道 株 が 民 間 の 金 融 業 者 の よ い
投 資 先 に な れ ば,そ れ は 国 家 に も有 利 な こ とで あ
る。 鉄 道 は 農 業 の発 達 を 促 進 し,消 費 を 拡 大 し ,
税 収 を 高 め る。 王 領 地 収 入 を 建 設 費 に あ て て 国 家
に し て,世 論 を 鉄 道 反 対 論 や 時 機 尚 早 論 に 追 い や
的 ・経 済 的 に 望 ま し い路 線 を 建 設 す れ ば,経 営 的
っ て し ま う。 関 係 者 と世 論 の 同 意 を 得 る た め に,
に は 数 年 後 に 元 が とれ る が,国 民 経 済 的 に は す ぐ
リス トは4点
を 強 調 した 。
に 効 果 が あ る。 運 賃 を 短 期 の営 利 機 会 よ り長 期 の
道 の 危 険 を 指 摘 す る 識 者 の不 安 に リ
経 済 ・商 業 政 策 的 効 用 で 調 節 す れ ば,そ
第1に,鉄
ス トは 反 対 し た 。 汽 罐 が 爆 発 す る 危 険 は 機 関 車 の
改 良 に よ っ て 解 決 され,速
く走 る た め に 風 と媒 煙
の点 で も
国 家 に よ る資 金 調 達 は 有 利 で あ る。
ラ イ プ ツ ィ ヒ=ド
レス デ ン鉄 道
リス トは 鉄 道
が 入 っ て 健 康 を 害 す る と い う不 安 に 対 して は 窓 を
論 者 で あ った だ け で な く,生 涯 に2度,鉄
閉 め れ ば よ い と反 論 す る。 鉄 道 の安 全 に つ い て は,
に 直 接 携 った 。 米 国 の ス ク ー
一ル キ ル 小 鉄 道 と ドイ
米 国 に お け る事 故 の 報 告 の 少 な い こ とが 根 拠 に な
ツ最 初 の 遠 距 離鉄 道 ライ プ ツ ィ ヒ=ド
って いた。
で あ る。
第2に 鉄 道 が 開 通 す る と働 き場 所 が 失 な わ れ る
米 国 か ら帰 った リス トは1833年6月
道建 設
レス デ ソ 線
に ライ プ ツ
と の 反 対 論 に も,リ ス トは 重 要 な意 味 を 認 め な い 。
ィ ヒへ 移 った 。 南 東 ドイ ツ と北 ドイ ツ の 鉄 道 網 の
グ ー テ ン ベ ル クの 印 刷 術 が 仕 事 を 創 りだ し た よ う
結 節 点,出
に,鉄 道 も働 く場 所 を 創 りだ す で あ ろ う。 再 び 米
ッ セ都 市 で あ る。 同年 秋 に 彼 は 「ザ クセ ン の 鉄 道
国 の 例 を も ち だ し て,ペ
組 織 論 」 を500部 印 刷 して,市
ン シル ヴ ェニアでは鉄 道
建 設 の結 果,炭 坑 が 開 発 さ れ て10年 以 内 に5万 人
(s)
の 雇 用 を 創 出 し た,と い う。
第3に,路
は1地 方 の み で な く,全
国 民 に と って 経 済 的 ・政 治 的 に 有 用 な路 線 を 優 先
させ,離 れ た2つ
の 商 業 中 心 地 を 結 び,中
の 有 力 者 に 配 った 。
鉄 道 業 に 収 益 が あ る こ と,英 国 で な く米 国 の 路 線
建 設 方 法 を 手 本 に す る こ と,資 金 調 達 は株 式 会 社
線 の選 定 に つ い て リス トの 基 本 的 な
考7..は2つ あ った 。1つ
版 業 と輸 出 産 業 の盛 ん な 人 口4万 の メ
間都市
に よ る こ と,な
ど陳 情 書 の形 式 で 持 論 を 展 開 し,
法 改 正 そ の 他 政 府 の 援 助 を 期 待 した 。
若 手 商 人 グル ー プが 早 速 この 論 説 に 注 目 し た。
波 紋 が 広 が っ て,11月20日
に は316人
の市 民が請
に 刺 激 を 与}る 路 線 で あ る こ と。 「商 業 的 ・財 政
願 書 に 署 名 して い る。 翌34年 に は 第2の 小 論r呼
的 に は 最 短 路 線 よ りも,貨 物 と旅 客 を 最 も速 く,
び か け 」 を 執 筆 し て数 千 部 を 配 っ た 。3月17日
に
(7)
最 もや す く輸 送 で き る 路 線 が 最 も望 ま し い 。」 次
取 引 所 ホ ー ル に 賛 同者 が 集 ま っ て 代 表 を 選 ん だ が,
に,路
市 民 権 の な い リス トは あ とか ら特 別 委 員 に 選 ば れ
線 網 の 範 囲 と材 質 や 性 能 は 経 済 的 必 要 と財
政 的 可 能 性 に 即 し て 決 め るべ き で,水 路 と舗 道 は
鉄 道 を 補 完 す る もの で あ る。 技 術 至 上 の イ ギ リス
の 鉄 道 よ り収 益 性 重 視 の 米 国 の シ ス テ ムを,ト
た。
「数 年 間,昼
も夜 も私 は こ の企 画 の 前 途 に 立 ち
ソ
は だ か る 計 りしれ な い 困 難 を 取 り除 くた め に 奮 闘
国製 の
した 。 委 員 会 を 組 織 し て そ の 討 議 を 指 導 し た 。 委
重 い 鉄 の レ ー ル を 輸 入 す る よ り薄 い 鉄 で 覆 った や
員 会 の 名 で 公 衆 に 向 け て12編 の報 告 を 書 い た 。 用
ネ ル を 掘 る よ りも 山 を 迂 回 す る こ とを,英
一74一
フ リー ド リッ ヒ ・リス トと彼 の時 代
地 買 収 法 を 精 査 し た 。 文 通 を 重 ね,新
聞 ・雑 誌 を
リ ソ ゲ ソ の 小 邦 に は 大 問 題 で,住
民 の 間 に不 満 が
(io)
高 まった。
通 し て 世 論 に 働 き か け た 。」
1835年5月6日
に 会 社 設 立 が 認 可 され,14日
株 式 引 受 け(申 し込み)が 開 始 さ れ る と,予
に
想 に
パ リ で こ れ を 知 っ た リス トは ドイ ツ へ 帰 る こ と
を 決 意 し た 。 同 年5月
に ゴ ー タ へ 着 く と,す
ぐ地
反 し て2日 間 で 完 了 す る大 成 功 で あ っ た 。3週 間
元 の 新 聞 に ユ ス ト ゥ ス ・メ ー ザ ー の 筆 名 で 論 説
後 の6月5日
を 発 表 し,南
に 第1回
の 株 主 総 会 が 開 か れ た が,
路 線 の 計 画 と建 設 を 決 定 す る10人 の 役 員 か ら リス
C12)
寄 りの 路 線 の 有 利 さ を 強 調 し た 。
南 寄 りの 路 線 は プ ロ イ セ ソ 案 よ り50kmほ
ど長 い
トは は ず され,こ の 時,彼 は 自分 が 第2列 に 押 し の
が,旅
け られ た こ とを 知 った 。 町 の 繁 栄 だ け を 望 み,そ
い 。 建 設 費 の 大 半 を 市 民 が 負担 す るか ら プ ロイ セ
の た め に リス トの 専 門 知 識 を 利 用 し よ う とす る 有
ソ に も 有 利 の は ず で,他
力 者 と,ド イ ツの 全 国 的 鉄 道 網 の 建 設 を め ざす リ
都 市 市 場 へ 参 入 で き る 。 プ ロ イ セ ソ が 北 寄 りを 強
ス トと の 間 の 溝 は,国 事 犯 で あ った 彼 の前 歴 も影
行 す れ ば,テ
響 し て,最 後 ま で 埋 ま らな か った 。 リス トが 独 断
る だ ろ う。 コ ー ブ ル ク ・ ゴ ー タ 公 エ ル ソ ス ト2世
で ベ ル リソへ 行 っ て 北 へ の 延 長 線 の 認 可 を 得 よ う
と 大 臣 フ ォ ソ ・シ ュ タ イ ソ は リ ス トの 考 え を 支 持
と し た こ と も,役 員 の反 揆 を 招 い た 。 結 局,37年
した 。
に最初の区間の開通式に招かれたあ と報齢
払 わ れ て,追
わ れ る よ うに8月
工 事 は36年3月1日
の 諸 邦 も テ ユー リソ ゲ ソ
ユ ー リ ソ ゲ』
ソ の市 民 は 競 争 路 線 を 作
リ ス トの 努 力 が 実 っ て8月1日
欝
に パ リへ 発 っ た 。
に 始 ま っ た が,リ
客 も貨 物 も多 い 都 市 を 結 ぶ か ら需 要 が 大 き
ーザ のエ
ソ3邦
政 府 は 会 談 し,19日
に テ ユー リソ ゲ
に 条 約 を 結 ん で 共 同行
動 を 約 束 し た 。 彼 は こ の 条 約 草 案 を 起 草 し,彼
ル ベ 河 鉄 橋 や オ ー ベ ラ ウ の ドイ ツ 最 初 の トソ ネ ル
論 説 の 一 部 が 会 談 の 基 礎 に な っ た 。 と こ ろ が,こ
な ど 難 工 事 の 続 出 で,費
れ だ け お 膳 立 て し た の に,公
用 も工 期 も予 定 を 大 き く
超 過 し た 。 す で に37年 に 役 員 会 は 費 用 の 見 込 み を
200万
タ ー ラ ー か ら350万
タ ー ラ)`r`.Y`一
修 正 し た が,
こ れ で も ま だ 足 りな か っ た 。 工 事 に は 数 百 人 が 従
事 し て い た が,38年
春 に は7,000人
働 いて いた こ
の
式 会談 は おろか夜 の
パ ー テ ィ ー の 席 か ら も 閉 め だ され た 。 リ ス ト は
400ル イ ドー ル の 金 貨 と イ エ ナ 大 学 法 学 部 名 誉 博
士 号 を 受 け た だ け で,ザ
クセ ソ に続 い て テ ユ ー リ
ソ ゲ ソ 小 邦 で も安 定 し た 地 位 を 得 ら れ な か っ た 。
と も あ っ た と い う。 会 社 の 株 式 の 相 場 も 低 迷 し た 。
浪 人 の リ ス トに 仕 官 の 道 が 閉 ざ さ れ て い た の で あ
リ ス トは 早 く か ら 工 費 節 減 の 代 案 を 提 示 し た が,
る。
し か し,リ
上 述 の状 況 で 容 れ られ な か った 。
最 初 の 区 間 が 開 通 し た の は37年4月27日,そ
か ら 約2年
後 の39年4月4日
れ
に全 線開 通祝 賀会 が
開 か れ た 。 この 席 で ザ クセ ソ 国 王 は 会 社 の技 師 と
重 役 を 表 彰 し た が,精
神的 父
〔リ ス ト〕 の こ と に
テ ユ ー リ ン ゲ ン,ヴ
ー デ ン の 鉄 道1830年
ュル ッテ ン ベ ル ク お よ びバ
代 に ラ イ プ ツ ィ ヒeド
デ ソ 鉄 道 に 関 わ っ た リ ス トは,40年
1840年
初 め,プ
レス
代に かけ て中
テ ユ ー リ ソ ゲ ソ 小 邦 と プR
イ セ ン と ク ア ヘ ッセ ソ との 間 に 条 約 が 結 ば れ た 。
テ ユ ー リソ ゲ ソ区 間 の 工 事 は 前 年 に 設 立 され た テ
ユ ー リ ン ゲ ン 鉄 道 会 社 に よ っ て 進 め ら れ,1849年
に ハ レeカ
ッセ ル 間 の 全 線 が 開 通 した 。
南 ドイ ツ の ヴ ュ ル ッ テ ン ベ ル ク で は,ド
税 同 盟 が 発 足 し た1834年
ル ム1世
に,政
イ ツ関
府 は 国 王 ヴ ィル ヘ
の 発 議 で 国 内 の 交 通 改 善 の 検 討 を 始 め,
ドイ ツ の ヴ ュ ル ッ
4年 後 に 結 論 を 報 告 し て 運 河 で な く鉄 道 の 建 設 を
デ ソ の鉄 道 建 設 に 活 躍 し た 。
提 案 し た 。 鉄 道 建 設 計 画 は 商 人 ・金 融 業 者 に 歓 迎
部 ドイ ツ の テ ユ ー リ ソ ゲ ソ,南
テ ソ ベ ル ク と1ー
用 さ れ,41年12月20日
9月25日
は 一 言 も 触 れ な か っ た と い う。
ス トの 提 案 し た 南 寄 り路 線 の 案 が 採
ロイ セ ン は 東 部 諸 州 と ライ ソ地 方
を 結 ぶ 鉄 道 建 設 を 意 図 し,テ
ユ ー リソ ゲ ソ の 小 邦
さ れ,35年
ウ ル ム に,翌
年 シ ュ ト ゥ ッ トガ ル トに
鉄 道 会 社 が 設 立 さ れ,合
併 し て ヴ ュル ッテ ン ベ ル
を 迂 回 し て 自 領 を 通 る 北 寄 りの 路 線 の 測 量 を 始 め
ク 鉄 道 会 社 と な っ た 。850万
た 。 古 くか ら の 南 寄 り の 商 業 路 に 依 存 す る テ ユ ー
集 さ れ,政
グル デ ン の 株 式 が 募
府 は 測 量 の た め に10万
グル デ ン を支 出
一75一
フ リー ド リッ ヒ ・リス トと彼 の 時 代
した 。 だ が 議 会 で は 賛 成 者 は 少 数 で,政 府 は 民 間
ト リン ゲ ン は 幹 線 鉄 道 か らは ず れ て い た が,57年
会 社 に よ る 鉄 道 建 設 を 許 可 せ ず,結
5月 の 法 令 で建 設 が 決 定 し}59年9月20日
は38年5月31日
局sこ
の会 社
に 解 散 した 。
列 車 がPイ
こ の 間 リス トは 何 度 も シxト
ゥ ッ トガ ル トに 滞
在 し て 鉄 道 賛 成 の世 論 形 成 に 貢 献 し た 。 し か し,
に一 番
ト リソ ゲ ソ駅 に 到 着 し た 。 リス トの 死
後13年 で あ る。
山 の 多 い ヴsル
ッテ ンベ ル ク と比 べ て,ラ
イソ
政 府 と の和 解 は 前 歴 が 崇 っ て 不 可 能 で あ っ た 。
河 沿 い の 平 地 に 商 業 都 市 が 南 北 に 並 ぶ バ ー デ ソ は,
1840年 に 鉄 道 建 設 を 求 め る世 論 が 沸 騰 し,そ の 声
そ れ ら の都 市 を 結 ぶ 鉄 道 建 設 に と って 「望 み う る
に 押 さ れ て,議 会 で も国 費 に よ る建 設 に賛 成 す る
意 見 が 大 勢 に な った 。 議 論 の 焦 点 は,建 設 資 金 の
調 達 方 法,路 線,特 に アル プ越 え の 場 所,隣 国 の
バ イ ェ ル ソ,バ ー デ ソ との 接 続 の3点 で あ った 。
リス トは 早 くか ら この 点 に つ い て 見 通 し を も っ て
い た が,40年
に 改 め て 建 設 の効 用 を説 い て い る。
くユ3)
最 良 の 地 形 」 で あ っ た 。1833年
マ ソ ハ イ ムの商
業 顧 問 官 ニ ュ ウハ ウ ス は バ ー デ ソ 大 公 に 請 願 書
を 提 出 し た 。 マ ンハ イ ム 謂 バ ー ゼ ル鉄 道 の 建 設 費
と 収 益 を 試 算 し,建
設 と経 営 を 民 間 株 式 会 社 に 委
せ る よ う提 案 した の で あ る。 こ の 請 願 は 受 理 さ れ
た が そ れ 以 上 進 ま ず,35年
初 め に 出 され た ニ ュ ウ
建 設 費 の 一 部 を 国 費 で 賄 うこ と,隣 国 と接 続 す れ
ハ ウス とバ ー ゼ ル 商 人 組 合 の 認 可 申 請 は 拒 否 され
ば 有 望 な 商 業 路 に な る こ と,米 国 を 手 本 に し て 収
た。
益 の 見 込 み の 高 い 区 間 か ら着 工 す る こ と,旅 客 ・
貨 物 と も少 な い 区 間 は 薄 い 鉄 で 覆 った 木 製 の レー
ル を 用 い,馬
車鉄 道 が よ い こ と。 ア ル プ越 え の 難
問 は 機 関 車 の 改 良 に よ る解 決 を期 待 し,上 部 シ ュ
ヴ ァ ー ベ ソ の 区 間 に つ い て は リス トも コ ッ タ もバ
イ エ ル ン と共 同 で 建 設 す る こ とを 主 張 した 。
1841年5月
リス トは ま た シ ュ トゥ ッ トガ ル トを
訪 れ た 。 到 着 し た 日に 骨 折 す る事 故 に あ っ た が,
リ ス トは34年 か ら バ ー デ ソ の 鉄 道 論 議 に 参 加 し
た 。"Nationalmagazin``誌
の短 い論説 で ニ ュ ウ
ハ ウ ス の 試 算 を 検 討 し ,35年2月
hnjournal"誌
に"Eisenba-
に 長 い 論 文 を 発 表 し て,そ
の抜 刷
を バ ー デ ン の 議 員 に 送 っ た 。 彼 は マ ン ハ イ ム=バ
ーゼル鉄 道 がバ ーデンの農 産物
し い 市 場 を 開 き,工
,特
に ワイ ン に 新
業 も輸 送 費 の 低 下 で 利 益 を 得
る,と
そ の 経 済 効 果 を 強 調 した 。 そ れ ば か りで な
各 層 の 人hと 会 談 を 重 ね,論 文 を 執 筆 し,国 王 の
く,鉄
道 は 大 公 国 を 行 政 的 ・軍 事 的 ・社 会 的 に 結
接 見 も実 現 し た 。 路 線 の 接 続 に つ い て バ イ エ ル ン
び つ け る 。 米 国 式 の 木 製 レ ー ル を 利 用 す れ ば150
と の 会 談 に も参 加 を 求 め られ,政 府 と の関 係 修 復
万 グ ル デ ソ は 建 設 費 を 節 約 で き る で あ ろ う。
が 成 った か に 思 わ れ た 。 し か し,リ ス トの 仕 官 の
望 み は ま た し て も妨 げ られ,43年
に な って 政 府 は
最 終 的 に これ を 拒 否 した 。
同 じ43年4月
6月 か ら8月
ま で リス ト案 と ニ ュ ウ ハ ウ ス 案 が
両 院 で 審 議 さ れ た。 自由 主 義 者 の ヴ ェ ル ッカ ーや
戸 ッ テ ッ クは リ ス ト案 を 支 持 し た が,同
に 鉄 道 建 設 法 が 公 布 され,内 外 の
国人 ニ ュ
ウ ハ ウ ス の 案 の 支 持 者 も 多 か っ た 。 恐 ら く35年 末
3人 の専 門 家 の意 見 を 求 め た うえ で 着 工 した 。 工
に は リス トは 認 可 獲 得 の 不 可 能 で あ る こ と を 認 め,
事 は 急 ピ ッチ で 進 み,45年11月
半 ば 諦 め て36年 に バ ー デ ン で の 活 動 を 終 え た 。
に エ ス リン ゲ γ ま
で,ユ 年 後 に ル ドヴ ィ ヒ ス ブル ク ま で 開 通 した 。
結 局,ネ
ベ ニ ウ ス の 新 しい 案 に も とつ い て 計 画
上 部 シ ュ ヴ ァ ー ベ ソ の 区 間 は47年11月 に 完 成 し,
が 進 め ら れ,38年2月
の臨 時議 会 で国有鉄 道 建設
50年 に ハ イ ル ブmン=フ
法 案 が 可 決 さ れ,4月
に 着 工 し た 。 マ ン ハ イ ム=
リー ド リ ッ ヒ ス ハ ー フ
ェ ソ(ボ ーデン湖)間 の 全 線 が 開 通 し た 。 ア ル プ越
ハ イ デ ル ベ ル ク間 が40年9月
え の 難 問 も,リ ス トが10年 前 に 予 見 し た よ うに 機
ル ー エ ま で,44年
関 車 の 改 良 の 結 果,ガ
に フ ラ イ ブ ル ク ま で 開 通 し,イ
イ ス リン ゲ ン付 近 で133メ
ー トル の 高 度 差 を 克 服 した
解 決 し,53年
。 隣 国 との接続 問題 も
を 完 成 し て47年
に ,43年
に カール ス
に オ ッ フ ェ ン ブ ル ク ま で ,45年
ス タイ ソの難工事
にバ ーゼル まで全線 が 開通 した。
に バ ー デ ン と,54年
にバ イ エル ソ と
他 の ドイ ツ 鉄 道 が1.435メ
の 接 続 路 線 が 開 業 し た 。 な お,リ
ス トの 生 地 ロイ
っ た の に,バ
ー トル の 標 準 軌 間 で あ
ー デ ン の 鉄 道 は,リ
ス トらの 専 門 家
一76一
フ リ ー ド リ ッ ヒ ・ リス ト と 彼 の 時 代
の 意 見 を 容 れ ず,1.600メ
年1英
の 産 業,ド
第3部
の 題 に は 「 ドイ ツ
イ ツ 関 税 同盟 お よび ドイ ツの 国 民 的 結 合 一 般 を
完 成 さ せ る 手 段 と し て 」 と い う言 葉 が つ い て い る 。 な お,
リ スrの
鉄 道 論 に つ い て は,富
交 通学説史研究
永裕司
『交 通 学 の 生 成
』 日 本 評 論 社,1943年
。大 谷 津 晴 夫
「フ リ ー ド リ ッ ヒ ・ リ ス トの 鉄 道 政 策 」(1)②
集 』25-1,2,1978年o小
笠原茂
『上 智 経 済 論
「フ リ ー ド リ ッ ヒ ・ リス
トの ザ ク セ ン の 鉄 道 組 織 」 「1840年 代 の リ ス トの 鉄 道 論
と
3,37-3,ユ983,84年
題 は
を 参 照 。 リス トの鉄 道 論 とそ の 解
『リ ス ト全 集 』 第3巻(1,∬
の2冊)に
収 め られ て
い る。
12)F.List,DieWeltbewegtsick.UberdieAusvairkungenderDampfkraftandderneuenTransportrrzittelaufdieWirtschaft,dasburgerlicheLeben,
dassozialeGefiigeanddieMachtderNationen
(PariserPreisschrift1837),iibersetztu.kom.mentiert
18461
vonE.Wendler,1985,S.79.
(3)1840年
に キ ロ メ ーDレ
ニ ッ ヒ(Pf.),鉄
当 り運 賃 は 荷 車 で30^-40プ
道 で16.9Pf.,旅
Pf.,郵 便 馬 車 で6.9Pf.,鉄
Pf.,3等
44)リ
でaIPf.,で
ス トは 前 記3部
線 の 全 長 を520マ イ ル,そ
ー と 見 積 り,「 上 記520マ
か,来
道 で は1等
作 の 第3部
で6.9Pf.,2等
で,関
。 な お,三
工 業 化 政 策 の 指 導 者 の う ち,関
似 て い る,と
税 同 盟 内 の国 民 的 路
1986年,223-26頁
ト
61
2,036.S
6、
3,060.8
1401
3,683.2
240
4,508.8
469
5,656.0
683
6,41.6
931
6,696.0
1,311ヨ
7,003.2
ユ,752
7,412.8
2,143
7,888.0
3,281
1,049
ー ロ ッパ 篇,609-10頁
税 同 盟 の 推 進 者 モ ッ ツ とマ
「鉄 道 時 機 尚 早 論 」 で あ
リスr全
い
う 『カ タ ロ グ 』165
ス トは ヴ ュ ル ッ テ ン ベ ル ク王 国
け,逃
⑫
ユ ス ト ゥ ス ・ メ ー ザ ー(1720-94年)は
か ら,交
と英 独 の 数 字 が 逆 転 す る 。H.
オス ナプ リ ュ ッ
時 の 国民 生 活 に つ い て 綿 密 な記 述 を
遺 し た 歴 史 家 。 リ ス トは1840年
国製
に10か 月 の 実 刑 判 決 を う
亡 ・逮 捕 ・拘 禁 を 体 験 し て い る 。
に フ ラ ンス 首 相 テ ィエ ー ル
通 問 題 の 専 門 家 とし て フ ラ ンス 政 府 は 良 い 地 位 を
Mottek,WirtschaftsgeschichteDeutschlands,Bd.II,
提 供 す る 用 意 が あ る,と
S.173.
彼 は 祖 国 ドイ ツ に 敵 対 し て 働 く こ と を 望 ま ず,こ
,5R,(1834年)で,ラ
鞍 作 り,宿
を 断 わ っ た 。 ま た,ベ
。ま た,,,Nationalmagazin"
イ プ ツ ィ ヒ で は 車 大 工,鍛
『リ ス ト全 集 』 第3巻1,314頁
(8)『
リ ス ト全 集 』 第3巻1,382頁
フ ォ ン ・ ヴ ェ ー バ ー は,1862年
に 関 し て,自
ノレギ ー 国 王 と大
門 家 と し て の リ ス トの 評 価 は 米 国,フ
ラ ン ス,べwギ
。
ハ ン ガ リ ー で 高 か っ た 。E.Wendler,FriedrichList.
。 一 流 の 鉄 道 論 者M.M.
PolitischeWirkungsgeschichtedesVordenkersder
europaischenIntegration,ユ989,68-79.
に 初 期 の ドイ ツ の線 路 工事
分 の 観 察 は リ ス トの 主 張 に び っ く り す る ほ ど
の 申し出
ノ
レギ ー 政 府 か ら メ ヘ ノ
レン 篇レ ー ヴ ヱ
臣 ノ ー ソ ン プ男 爵 は リ ス ト の 意 見 を 評 価 し て い た 。 鉄 道 専
述
べ て い る 。 『カ タ ロ グ 』164頁,注(74)。
禰
の 申 し 出 を 受 け て い た 。 し か し,
ン 区 間 の 開 通 式 に 招 か れ た こ と も あ り,ベ
冶 屋,
屋 な ど は 鉄 道 の 影 響 を 何 も う け て い な い,と
への手紙
。実際 には
ー ラ ー の 報 償 金 と 台 つ き の 高 杯 を リ ス トは 受 け
ク 司 教 領 の 高 官 で,往
中 ドイ ツ 製679台(62,6%),英
ス ト1世
頁,注(103)。
(11)4,000タ
と っ た 。 周 知 の よ う に,リ
こで
れ われ が 植 え
集 』 第3巻1,35頁
7編 の 報 告 を 書 い た に す ぎ な い,と
産工業の
で の 関 係 国 の 鉄 道 営 業 キ ロ数 は
〈6)『 リ ス ト全 集 』第3巻1,211頁
。
。
。
で 政 府 … … へ の 侮 辱 の 罪 で1822年
の 他124台
121
2,395.2
ザ ク セ ン 需コ ー ブ ル ク 瓢ゴ ー タ 公 工wン
(24.ユ2.1840),『
した 数 字 を 記 した 。
281台(25.9%),そ
1
1,756.8
記 し て い る 。 『カ タ ロ グ 』165頁,注ice)。
第3巻1,364頁
⑩
。
に は1,084台
.1:1
1,012.8
た 樹 木 の 収 益 性 と 同 じ よ うに 確 か で あ る 。」 『 リス ト全 集 』
タ ーラ
表 の とお りで あ る 。 米 国 の 数 字 は 原 表 で は マ イ ル,こ
〈5a)1851年
366.4
「 ドイ ツ の 国 民 的 路 線 全 体 の 収 益 性 は,わ
『近 代 ド イ ツ 工 業 政 策 史 』 有 斐 閣,
ス トの 死(1846年)ま
は1.6倍
⑨
上 が す で1,r完 成 し た
ー セ ン は 鉄 道 建 設 に 「積 極 的 な 関 心 」 を 寄 せ,殖
っ た と い う。 高 橋 秀 行
36.8
で4.6
月 前 期 の プ ロ イセ ン の
父 ボ イ トと政 商 資 本 家 ロー タ ーは
ランス
152.0
『マ ク ミ ラ ン世 界 歴 史 統 計 』(1)ヨ
注(11)。
の 建 設 費 を 約1億5,000万
イノ
レ中1/5以
ドイ ツレ
『ア メ リ カ 歴 史 統 計 』第H巻,731頁
年 中YrL完 成 す る で し ょ う」 と述 べ て い る 。 『リ ス
全 集 』 第3巻1,355頁
{5)リ
フェー
客 運 賃 は 急 行 馬 車 で9.2
あ っ た 。 『カ タ ロ グ 』161頁
1凹工 島 2.a 3 3 3 瓜
南 ド イ ツ に お け る 鉄 道 網 の 形 成 」 『立 教 経 済 学 研 究 』36-
劇
押 π 訊 別 砿 鴇 轍 斑 鋭 溺 凶 謝 ㎝ 縄薗 閥 躍 師
〔II〕〔皿 〕(『リ ス
ト全 集 』 第3巻1,306-377頁)。
米
娼 飢 66 η 団 卿 泌 矧 鰯 捌 猫 脚 脚 溺 戴 謝 蹴 慨 蹴 ㎝ 微 晒
年
ロ メ ー トル の 取 替 え を 完 了 し た 。
{1)DasdeutscheEisenbahnsystem〔1〕
国
翻 ㎜購 闘器 翻 翻 懲 翻 ㍊ 翻 ㎜
た め54年 か ら レ ー ル の 取 替 え 工 事 が 始 ま り,数
内 に500キ
鉄 道 営 業 キ ロ数(単 位 キ ロ メー トル)
ー トル で あ っ た 。 そ の
㈲
『リス ト全 集 』 第3巻1,229頁
6
。
㌦
プ リ0ド
2経
リ ッ ヒ ・リス ト と彼 の 時 代
一77一
イ ア の工 場 主 の ほ か 米 国 の 保 護 関 税 運 動 の 思 想 的
済理 論 家 と しての リス ト
指 導 者(ケ
米 国 時 代 の 端 緒,『 綱 要 』
と し て 登 場 す る の は,故
リ ス トが 経 済 理 論 家
ア リー,イ
フ ィ ッシ ャー)が
ン ガ ー ソ ル,デ
ュポ ン シ ョウ,
加 入 し て い た が ,リ
ス
ト は ユ82?
国 を 追 放 され て 米 国 に い
年か らこの協会 のため に文筆 活動 を始 め泥。 そ の
た 時 で あ る 。 イ ギ リス の 輸 出 攻 勢 に 対 処 す る 貿 易
直 接 の 動 機 は 関 税 率 引 上 げ 運 動 で あ る。 連 邦 議 会
政 策 を め ぐ る 急 務 の 論 争 に 参 加 し て,1827年8月18
に は27年1月
日 か ら11月27日
。MalloryWoollenBill")が
ま で(書
簡 の 日付 は7月IQ日
か ら7
国 産 毛 織 物 保 護 の 法 案(い
提 出 さ れ,激
わゆる
論 のすえ
月27日 まで)"NationalGazetteofPhiladelphia``
(1)
に廃 案 と な った 。 次 の 議 会 で の論 争 の 再 燃 は 必 至
紙 に12編 の書 簡 体 の 論 説 を 発 表 し た 。 現 実 の 問 題
の 情 勢 で,賛
成 ・反 対 両 陣 営 と も 世 論 に 訴 え よ
(3)
に 即 して 経 済 学 の通 説 を反 駁 し て,リ ス トの 理 論
う と し て い た 。 『綱 要 』 は こ う い う状 況 の 中 で 書
体 系 に 礎 石 を 据 え た こ の論 説 が,「 ペ ン シ ル ヴ ェ
か れ た の で あ る 。 リス
ニ ア工 業 ・技 術 促 進 協 会 」 副 会 長 イ ン ガ ー ソル へ
Gazette"の
の 書 簡 集 とい う副 題 を つ け て 同年12月 に 出 版 され
た 『綱 要 』 で あ る。
ト の 論 説 は "National
ほ か15以 上 の 地 方 紙 に も 転 載 さ れ ,
「熱 狂 的 支 持 」 か ら 「辛 辣 な 嘲 弄 」 ま で さ ま ざ ま
な 反 響 が あ っ た 。 南 部 の 有 力 紙"Gonstitutional
『綱 要 』 に は リス トの 経 済 学 説 の 根 本 問 題 一
Whig"の
編集 者は
『綱 要 』 を 読 ん で 「目 を さ ま
古 典 派 の 〔交 換 〕 価 値 学 説 に 対 す る批 判,生 産 諸
さ れ た 」 と 書 い た が,"NewYorkEvening
力 の 理 論,歴
が す で に 提 起 され て
Post"紙
い る 。 この うち 段 階 説 が 米 国 で の 生 活(リ ス トの
史的段 階説 一
った)の
異 文化体 験)に 由来 す る こ とに つ い て は,彼
な 議 論 と 公 正 な 調 子 で 」 「そ ん な に つ め こ ん で 絶
自身
が の ち に 述 べ て い る。 「この 新 し い 国 で 経 済 学 に
つ い て 読 む こ との で き る最 良 の 著 作 は 生 活 で あ る。
… … この 国 で は じめ て わ た し に は 国 民 経 済 の段 階
的 発 展 が 明瞭 に な った 。 ヨmッ
パでは数 世紀 の
時 間 を 要 した 一 つ の 過 程 が,こ
の地 で は わ れ わ れ
の 眼 前 で 進 行 す る一
一一す なわ ち未 開 状 態 か ら牧 畜
状 態 へ,牧
畜 状 態 か ら農 業 状 態 へ,さ
らに農業 状
C2)
態 か ら工 ・商 業 状 態 へ の 推 移 で あ る。」
『綱 要 』 の 第5書
簡 で リス トは3つ
は リス トを ドイ ツ 帝 国(当
時 は存 在 し な か
工 場 主 の 代 言 人 だ と 嘲 笑 し,「 も っ と 冷 静
(4}
叫 的 に な らな い 」 よ うに 苦 言 を 呈 した 。
パ リの 懸 賞 論 文
リス トの 第2の 経 済 学 の 大 作
で あ る 『自然 的 体 系 』 の 原 稿 はX913年
に フ ラン
(5)
ス 王 立 学 院 の 文 書 館 で 発 見 され た 。 こ の 著 作 は.
「道 徳 ・政 治 諸 科 学 ア カ デ ミー 」 の 懸 賞 に 応 じ て
1833年 に 書 か れ,37年
に も う一 度 書 きな お され た
も の で あ る。 懸 賞 論 文 の テ ー マ は 「あ る 国 民 が 貿
易 の 自 由 を 採 用 す る とか 関 税 立 法 を 変 更 す る とか
の論 題 を 提
意 図 す る場 合 に,国 民 的 生 産 者 の諸 利 害 と消 費 者
出 す る 。1,す べ て の 国 民 は 独 自の 経 済 学 を もつ 。
大 衆 の 諸 利 害 とを 最 も公 正 な や り方 で 調 整 す るた
2.個 人 経 済 学 は 政 治 経 済 学 で は な い。3 .政 治 経 済
め に,こ
学 は世 界主 義 〔
万 民 〕 経 済 学 で は な い 。 そ し て1
の論 題 を 第5書 簡 で,2の
論 題 を 第6書 簡 で,そ
れ に 対 して3の 論 題 つ ま り世 界 主 義 経 済 学 の 批 判
を 第7∼
ユ2の6通 の 書 簡 で 論 じ て い る 。 個 人 の 経
済 学 と も世 界 主 義 経 済 学 と も区 別 され る,す べ て
の 国 民 が もつ べ き独 自 の 経 済 学 が 国 民 経 済 学 で あ
る こ とは 明 らか で あ ろ う。 リス トは 米 国 の 貿 易 論
の 国 民 が 考 慮 す べ き事 柄 は 何 か 」 と い
(s)
うの で あ っ た 。37年11月
半 ば か ら12月 末 ま で6
週 間 で 完 成 した 。 「夜 半 の1時 か2時 か ら10時
で 執 筆,そ れ か ら図 書 館 で 午 後3時
そ の あ と ま た5時 半 ま で 執 筆 」 と妻 へ の 手 紙 に 書
(7)
い て い る 。 当時 の リス トは 鉄 道 業 に 職 を 得 る道 を
閉 ざ され,米
がs「
国 に あ る財 産 も失 な っ て 苦 し か っ た
も し彼 の 期 待 が 満 た され て い た ら,リ ス ト
争 を 同 国 の 経 済 建 設 の 方 向 を 左 右 す る根 本 問 題 と
が 理 論 的 体 系 を 書 い た か ど うか,は
捉 え て,国 民 経 済 学 の 構 築 の 必 要 を 主 張 した の で
い 。」
あ ろ う。
上 記 の 「協 会 」(1826年 設立)に は フ ィ ラ デ ル フ
ま
まで 勉 強 し,
なはだ疑 わ し
リス トの応 募 論 文 は オ ジ ア ン ダ ー の 作 品 と と も
に 「注 目に 価 い す る 」 も の と い う評 価 を 得 た が,
一78一
フ リー ド リッ ヒ ・リス トと彼 の 時 代
賞 金 は 彼 に 与 え られ な か った 。 作 品 の 出 来 ば え に
は 自信 を も って い た が,自 分 の論 文 は 拒 絶 され る
か もし れ な い,と
42年1月,第3版(リ
6月 に 出 版 さ れ た 。
『国 民 的 体 系 』 は全 部 で3∼6巻
い う執 筆 中 か ら も って い た 疑 念
が 適 中 し た 。 上 記 の手 紙 の 中 で こ う も書 い て い る。
ス トの生 前 最 後 の版)は44年
Cユo)
の第1巻
の体系 的著 作
に な るは ず の もの だ った 。 『農 地 制 度 』や
イ ギ リス の首 相 と プ ロイ セ ソ国 王 に 宛 て て 書 か れ
「要 す る に 私 は 新 し い 体 系 を 作 っ て い る の に,審
査 員 た ち は 依 然 と し て古 い 考 え を も っ て い る の で
死 後 に 刊 行 さ れ た 「同 盟 の 提 言 」 の 一 部 は,こ
す 。」
全 体 系 の 断 片 と見 られ る。 『農 地 制 度 』 の 中 で 「構
懸 賞 の テ ー マが 貿 易 の 自由 の 採 用 を 前 提 と し て
い る の に,リ
ス トの 作 品 は 貿 易 の制 限 を 主 張 した
想 の 下 図 」 と して,1.農
2.工
の
地 制 度 と農 地 政 策
業 制 度 と工 業 政 策3.交
も の で あ っ た 。 リス トは,彼 が 高 く評 価 し て い た
策4.財
フ ラ ソ ス の 経 済 学 者 シ ャル ル ・デ ュパ ソが 審 査 員
6.国
の1人(「 ア ヵデ ミー」 の総裁)で あ った こ とに 望 み
を 託 して い た の か も しれ な い 。 返 却 され た 原 稿 を
民 の 精 神 とそ れ が 生 産 諸 力 お よび 富 の 獲 得 に あ た
}る 影 響9
.国 際 関 係 と対 外 政 策 を あ げ て い
彼 は放 っ て お い た が,こ
る の は,リ
の 作 品 が リス トのr最
も
政 制 度5.司
通 制 度 と交 通 政
防 制 度7.国
法 制 度 と行 政 制 度
家 制 度 と議 会 制 度8.国
ス トの 経 済 学 体 系 の 構 想 と考}て
よい
ま と ま っ た 」作 品 とな って お り,国 罠 経 済 学 の 著
で あ ろ う。 この 構 想 が 実 現 し な か った の は,健 康
述 家 と し て 非 凡 の 才 能 を 示 し て い る 点 で,識
上 の 理 由 も さ る こ と な が ら,彼 が 「書 斎 の た め に
者の
書 くこ とだ け を 旨 と し て 」 「講 壇 の た め の 体 系 の
意 見 は 一 致 し て い る。
『国 民 的 体 系 』
リス トの 主 著(少 くともそ の一部)
建 設 に た ず さ わ る 」 よ りも 「
下 働 き の仕 事 に し か
と 目 され る 『国 民 的 体 系 』 は,上 記 『自然 的 体 系 』
す ぎ な く と も 」 「国 民 国 家 の建 設 に た ず さわ る 」道
を 「一 層 完 成 し た 体 系 」 へ と発 展 させ る 構 想 の 第
一 弾 ,「 そ の 全 体 系 中特 に 実 践 的 な 傾 向 を 持 つ 序
を 選 ん だ た め な の で あ る。 「〔体 系 的 な 〕全 著 作 は
未 完 の 作 品 に 終 った が,著 作 の 影 響 は 永 続 的 で あ
論 的 一 章 」(小林)と し て 出 来 上 った もの で あ る 。
った 。」 マ ル クス と ヴ ェ ー バ ー の 著 書 を 除 け ば,
『自然 的 体 系 』 以 後 に 書 か れ た 「バ ウ リソ グ 博 士
ドイ ツ の 経済 学 の 書 物 の 中 で 『国 民 的 体 系 』 ほ ど
と ドイ ツ関 税 同 盟 」 「
歴 史 の 法 廷 に 立 つ 経 済 学 」,
世 界 中 で読 まれ た 書 物 は な い で あ ろ う。 経 済 学 者
2つ の 体 系 的 な 準 備 作 品 「歴 史 的 視 点 か らみ た 外
リス トは どの よ うな 問 題 と取 り組 ん で 格 闘 し,ど
国 貿 易 の 自 由 と制 限 」 お よび 「国 民 的 工 業 生 産 力
の よ うな 思 想,ど
(1ユ)
(iv)
の よ うな 目標 を 示 した の だ ろ う
C8)
の 本 質 と価 値 に つ い て 」 は,い ず れ も 『国 民 的 体
系 』 へ 流 れ こむ 支 流 で あ り,著 者 は これ ら に よ っ
かo
経 済 学 にお け る リス トの 地 位
重 商 主 義 と重 農
て 「世 間 の 関 心 を 彼 の 新 し い 理 論 に 向 け させ,ド
主 義 学 説 と ア ダ ム ・ス ミス の 古 典 派 理 論 と い う経
イ ッの 学 問 の 側 の 応 接 を 予 測 し よ う と した 」 の で
済 学 の3大 潮 流 が リス トの 思 考 の 中 で 合 流 し て い
あ(9)
る。
る。 「実 践 の進 む べ き道 を 照 ら さ な い よ うな 科 学
(13)
く と もそ の一 部 分
が な に に な る のだ ろ うか 」 と書 い て い る よ うに,
には 印刷 に入
実 践 的 な 理 論 の 構 築 を 目指 し た リス トに とっ て,
『国 民 的 体 系 』 の 原 稿 は,少
は1839年
に パ リで 書 か れ,40年7月
っ て い た 。41年4月17日
後 に著 者は
に 出 版 さ れ た が,2ケ
月
「私 の 書 物 は 飛 ぶ よ う な 売 れ 行 き で す 。
ミ ュ ソ ヘ ン,ア
ウ ク ス ブ ル ク,シ
ュ ト ゥ ッ トガ ル
トで は 全 部 数 が 売 り切 れ で す 。 多 分,他
所 で も同
じ で し ょ う。 大 当 りで す 。 間 違 い な く す ぐ に 第2
版 が 必 要 に な る で し ょ う。」 と 喜 び の 手 紙 を 書 い
て い る 。 再 版 分 を 合 わ せ て1,000グ
ル デ ン の 印税
を 出 版 社 の コ ヅ タ 書 店 か ら受 け 取 っ た 。 第2版
は
重 農学 派 ケネ ーの経済理 論 はむ しろ批 判の対 象 で
あ った 。 リス トの ケ ネ ー批 判 は,要 す る に,「 有
効 で 国 民 的 な 貿 易 制 度 」 とそ れ を基 礎 づ け る 国 民
経 済 学 の 体 系 を 模 索 す る彼 に と って,ケ
ネーや ス
ミス の よ うに 「国 民 とい う概 念 を か え りみ ず に 」
「一 般 的 自由 貿 易 の 理 念 」「国 際 貿 易 の絶 対 的 自
由 」「国 の 内 外 で の 取 引 の 自由 とい う思 想(ユ4)」を
説 く世 界 主 義 経 済 学 に 無 批 判 に 従 うな らsr印
刷
プ リ0ド
リ ッ ヒ ・リス トと彼 の時 代
一r9
さ れ た 処 方 箋 に 従 い な が ら誤 植 の た め に 死 ん だ 患
ス ミス が 労 働 を 抽 象 的 労 働 と し て把 握 し,こ れ
者 の よ うに,わ れ わ れ の 国 民 国 家 が 結 局 は理 論 の
に よってそ の種類 を問わ ず労 働 を量的 に比較 可 能
誤 謬 の た め に 死 ぬ と い う危 険 を 冒 し て い る の で は
に し た 点,ま
(15)
た 分 業(労 働 の分割)に よ る労 働 の 生
な か ろ うか 」 と い う懸 念 か ら出 て い る よ うに 思 わ
産 力 の 上 昇 を 強 調 した 点 は,ス
れ る。 リス トに とっ て は イ ギ リス の 重 商 主 義 者 の
て い るが,リ
考 え と 同 じ く 「商 業 は,そ
理 解 し て は い な か った よ うで あ る。 リス トに と っ
の 作用 が 国 家 の 利 害 に
ミス の 創 見 と さ れ
ス トは どち ら の点 に つ い て も十 分 に
(ls)
(2p)
反 す る 場 合 に は制 限 され る ぺ き 」 で あ っ た 。 「農
て は 労 働 は 「目標 に 向 け られ た 特 定 の 活 動 」 「自
耕 だ け が 生 産 的 」 で あ る の で は な く,マ ニ ュ フ ァ
分 自身 や 他 者 に 有 用 で 価 値 あ る も の,ま た は 目的
ク チ ャ ー と工 場 こそ 経 済 発 展 の た め に 「特 に 保 護
に 導 く力 を も作 りだ す と い う意 図 に も とつ く人 間
す る価 値 の あ る重 要 な も の 」 で あ っ た 。 た だ し,
の 肉 体 的 な ・多 少 は 精 神 的 な 活 動 」 で あ り,労 働
重 農 学 派 が 特 権 マ ニ ュ フ ァ クチ ャ ーか ら利 益 を 得
の分 割 よ り労 働 の結 合 が,「 国 民 的 労 働 市 場 の 成
て い た 貴 族 に 対 立 し て,フ
ラ ン ス の 借 地 農 と農 民
(21}
立 」 が 問 題 で あ っ た 。 結 局,リ
ス トに と って,ス
(人民 大衆)の 政 治 的 利 害 を 基 礎 づ け る と い う 「革
ミス の 学 説 は ドイ ッ の現 状 に 適 合 し な い あ ま りに
命 的 目標 」 を 理 論 的 に 追 求 し て い た 点 は,彼
も近 代 的 な 理 論 で あ った 。 言 い か え れ ぽ,独
らの
Ci7)
名 誉 の た め に 述 べ て お か ね ば な らな い。
ケ ネ ー は 経 済 学 に 分 析 的 方 法 を 採 り入 れ て ス ミ
スに道 を開 い た点 で科学 としての経 済学 の創 設 者
と し て 評 価 され た が,そ
の 経 済 学 の 体 系 が 「国 民
立科
学 とし て 経 済 学 を 成 立 させ る現 実 的 諸 条 件 が ドイ
ツに は まだ 成 熟 し て お らず,そ
れ へ 向 け て の近 代
的 な 産 業 発 展 とそ の た め の 諸 条 件 の 形 成 が,リ
ス
トに は 急 務 の 課 題 で あ っ た 。
とい う概 念 を か え りみ な い 」 世 界 主 義 経 済 学 に 終
リス トは 同 時 代 の 経 済 学 者 か ら,時 代 遅 れ の 重
っ た 点 で 批 判 され た 。 リス トが 問 題 に した の は ス
商 主 義 に 逆 戻 りし た と非 難 され た 。 非 難 は 「彼 の
ミス で あ る。 「ス ミス の体 系 は そ もそ もす べ て の
重 商 主 義 と保 護 制 度 」 に 向 け られ,リ
ス トは ス ミ
国 民 的 結 合 に 反 対 す るば か りか,す べ て の個 人 を
ス を 乗 りこ え る 代 りに ス ミス を コ ル ベ ー ル と ウ ォ
生 産 者 と消 費 者 とい う2つ の 部 分 に 分 割 す る 点 で,
ル ポ ー ル に 歪 曲 さ せ た,と
原 子 論 的 ・世 界 主i義的 体 系 と呼 ば れ て し か るべ き
論 は 「温 め な お し た 重 商 主 義 に す ぎ な い 」 と い う
で あ っ た 。」 「ス ミス は 重 農 主 義 の体 系 の 両 脚 を 折
っ た けれ ど も,そ の 頭 に あ た る 商 業 の 自 由 とい う
原 理 を,自
己 の 体 系 を 飾 りた て るた め に 旨 い具 合
Cエ8)
に 見 つ け た の で あ る 。」
言 わ れ た 。 リス トの 理
(22)
非 難 に 答 え て,彼 は そ の 違 い を 説 明 し て い る。
「重 商 主 義 は 国 民 を,交 換 価 値 を 獲 得 し よ う と
外 国 貿 易 に 偏 重 し た 商 人 の よ うな も の と見 る。 有
機 的 ・国 民 的 体 系 〔リス トの体 系 〕 は 国 民 を … …
ス ミス の 『国 富 論 』 は1776年 に 刊 行 され る と,
貿 易 政 策 に よ っ て 力 と対 外 影 響 力 とを 維 持 ・増 大
ど こ よ りも早 く ドイ ツに 受 容 され た 。 た だ し,新
す るば か りで な く,国 内 に お い て も政 治 的 ・道 徳
興 の産 業 ブ ル ジ ョア ジ ー で は な く,穀 物 輸 出 に 利
的 ・知 的 ・経 済 的 状 態 を 改 善 し,諸 力 を 強 め,総
害 を もつ 東 エ ル ベ の 貴 族 地 主 層 と英 国 品 の 販 売 に
じ て 国 民 の将 来 の 安 全 を 護 ろ う と努 め る 全 人 の よ
利 害 を もつ 仲 継 商 人 層 の 間 に,穀
うな も の と見 る。2つ
物 輸 出 の 自由 ・
の 体 系 は,帳 場 に ず っ と坐
仲 継 商 業 の 自 由 の 理 論 的 バ イ ブル と し て,「 ス コ
って い る商 人 と,手 広 く商 売 を す るだ け で な く工
ッ トラ ン ド生 まれ と い うよ りは プ ロイ セ ン 生 ま
場 も農 場 も大 勢 の家 族 も所 有 し て,家
れ 」(ト ロイェ)の 自 由貿 易 論 に 変 容 され て 受 け 容
れ られ た。 リス トは 書 記 と し て テ ユ ー ビ ン ゲ ン
的 ・知 的 繁 栄 と将 来 を 配 慮 す る 商 人 との よ うに 異
な
(23)
っ て い る 。」
大 学 で 勉 強 中 の1813年 に こ の 学 説 に 接 し た と 思
重 商 主 義 者 の 主 張 が 具 体 的 ・例 証 的 で,「 国 民
わ れ る が,『 国 富 論 』 そ の も の よ りそ の 忠 実 な 祖
的 ・保 護 関 税 政 策 」 の先 駆 で あ った 点 が リス トを
述 者 で あ る 工B.セ
引 きつ けた。 同時 代の 多数 の 自由貿易 の信 奉者 に
(ユ9)
る。
イ を 通 し て学 ん だ よ う で あ
族 の道 徳
反 対 して,彼 が 少 数 者 の立 場 を 堅 持 し た の は 重 商
一
一80一
フ リー ド リッ ヒ ・リス トと彼 の 時 代
主 義 の歴 史 か ら学 ん だ か らで あ る 。 イ ギ リス 人 の
政 治 的 破 壊 力 を 持 って い る。 だ れ が 価 値 を 犠 牲 に
甘 言 に の せ られ 〔て 自立 的 な 国 民 経 済 の 建 設 に 失
す る の か,い か に して そ う仕 向 け る のか 。 リス ト
敗 し〕 た18世 紀 の ス ペ イ ン 〔や ポ ル トガ ル〕 は,
の 考 え は こ うで あ る。 高 関 税 を 賦 課 し て 特 定 の 商
リス トに よれ ば,英
品 の輸 入 を 阻 止 す れ ぽ,自
国 製 輸 入 品 の 競 争 に 苦 しみ 喘
国 の生 産 能 力 は一 層 発
く"19世紀 の ドイ ツに と っ て 「歴 史 の教 え 」 で あ っ
展 す るで あ ろ う。 外 国 の競 争 が な くな り,代 替 品
た 。 フ ェ リエ,シ
ュパ ソ,ル イ ・セ
の 国 産 が 進 む か らで あ る。 彼 は 保 護 関 税 を 自 国 の
イ な ど フラソスの新 重商 主義 者の保 護 関税論 か ら
生 産 能 力 を 発 達 させ る いわ ぽ 「国 家 的 育 成 手 段 」
も少 な か らぬ 影 響 を 受 け て い る 。
とみ た(「 育成関税 」Erziehungszol.le)。 「保 護 関 税
ャ プ タ ル,デ
リス トの 理 論 は
を 採 用 し た 結 果 生 ず る 国 民 の 損 失 は,い ず れ に し
決 して 重 商 主i義の二 番 煎 じ で は な い 。19世 紀 の 状
ろ価 値 に す ぎ な い 。 そ れ に 対 し て,〔 保 護 関 税 に
況 に 応 じた そ の再 生 で あ る。 リス トは 「生 産 諸 力
よ っ て 〕 国 民 は 末 長 く,測
の理 論 」 を も っ て ス ミス の 「価 値 の 理 論 」 を 乗 り
産 す る こ との で き る諸 力 を 獲 得 す る。 した が っ て,
こえ よ う と した 。
こ の価 値 の 出 費 分 は 国 民 の産 業 的 育 成 の 代 価 に す
価 値 の 理 論 と生 産 諸 力 の理 論
りし れ な い価 値 額 を 生
(?s)
「富 は 交 換 価 値 で あ る。 交 換 価 値 を 得 るた め に
ぎ な い,と 見 るべ き で あ る 。」
が交換 価
関 税 保 護 は 奢 修 品 よ りも大 衆 消 費 財 に,半 製 品
値 の 利 益 に よ って 富 む とす れ ぽ,国 民 も ま た そ う
よ りも完 成 品 に 重 点 を お くのが よ い が,同 等 の発
で あ ろ う。 自 由 な 交 易 は,さ
展 段 階 に 達 す れ ぽ 廃 止 す べ きだ,と
の み 人 は 買 っ た り売 った りす る 。 個h人
ま ざ ま な 国 民 の 間 で,
彼 は考 え て い
(27)
同 じ 国 の さ ま ざ ま な 地 方 の 間 で,ま
た諸個 人 の間
た
。
で 利 益 を あ げ る交 換 の 根 本 条 件 で あ る 。 各 人 が 自
分 自身 を 一 番 よ く配 慮 す る よ うに,国 富 の 増 選 の
(24)
た め に は 国民 全 員 を 放 任 す る こ とが 必 要 で あ る 。」
リス トに よれ ば これ は 「商 人 の理 論 」 で あ り,彼
は 自 由 市 場 の 力 を 手 放 し で 信 頼 す る こ とは で きな
か っ たQ
(1)産
業 革 命 期 に 競 争 力 を 飛 躍 的 に 高 め 生 産 量 を 激 増 させ た
イ ギ リス 綿 製 品 の 輸 出 は,ま
到(1820年
ず ヨmッ
パ 諸 国 と米 国 へ 殺
綿 布 輸 出 の6割)し,米
国,ド
に 取 引 対 象(交 換 価値)で あ る,と い うス ミ ス の
体 系 』 の 訳 注(5)に
よ る と,新
介 し た い が,最
聞 に 発 表 さ れ た の は 第11書
近,E.Wendler,FriedrichList.1789/
1989.EinehistorischeGestaltandPionierauchim
交 換 価 値 と対 抗 させ る。 価 値 の 理 論 で は 「わ が 国
deutsch-amerikanischenBereich,1989.(英
が 亜 麻,羊
出 版 され た 。
石 材,亜
製 品,馬
麻 の種 子,毛 織 物,ラ
鈴 薯,絹 織 物,
ソ プ の どれ を 輸 出
入 す る か 区 別 し な い で あ ろ う。 この 理 論 に と っ て
は これ らの 物 は す べ て 実 物 で(innatura)あ
るの
では ない。す べ て価値 に転 化 して いる。 ……理性
的 実 践 は,こ れ に 反 し て,外
国貿 易 を 国 民 の 生
産 諸 力 に 及 ぼ す そ の持 続 的 影 響 に よ っ て 判 断 す
(25)
る 。」 リス トは,他
の諸 国 民 が そ の 産 業 的 能 力 を
(2)『 国 民 的 体 系 』9頁
(3)『
カ タ ロ グ 』119頁
。
御 茶 の 水 書 房,1971年
(4)前
の で は な い か と心 配 して,ド
イ ッが これ ら の 財 貨
を 自給 で き る よ うに 考 え た の で あ っ た 。
独 対 訳)が
。 宮 野 啓 二 『ア メ リ カ 国 民 経 済 の 形 成 』
を参照。
者 は リ ッ チ モ ン ド の 同 紙 編 集 者J.H.プ
リザ ン ツ の
ユ827年12月25日
付 け の 手 紙,後
1827年8月25日
者 は 自 由貿 易 派 の 新 聞 の
号 の 論 説 。 『リ ス ト全 集 』 第2巻,23,352
頁。
(5)『
国 民 的 体 系 』524頁
の 訳 者 解 説 で は1925年
に 発 見 され た
と あ る 。 な お,『 経 済 学 の 自 然 的 体 系 』と い う 題 名 に つ い て
は 『リ ス ト全 集 』第4巻,3頁
産 業 的 に 未 発 展 な 国hを 搾 取 す るた め に 利 用 す る
著
。 な お,『 国 民 的
簡 まで とい う。米 国時 代 の リス トにつ い て は 別 の 機 会 に 紹
区 別 を リス トは受 け 容 れ な い。 む しろ 使 用 価 値 を
毛,穀 物,綿
ラ ンス
米 国 で こ れ に 参 加 し た と い え る 。 ド イ ツ に つ い て は,拙
『ドイ ツ 関 税 同 盟 の 成 立 』 有 斐 閣,1974年
商 品 は 一 方 で は 有 用 物(使 用価値)で あ り 同 時
イ ツ,フ
で 活 発 な 対 英 貿 易 論 争 を ひ き お こ し た 。 リ ス ト は ドイ ツ と
(正 し い,真
(6)1830年
の,公
正 な)の
を 参 照 。 自然 的 と はrichtig
意味 である。
代 の ヨ ー ロ ッ パ の 政 治 ・経 済 状 態(七
自 由 主 義 の 勝 利,ド
月王 政 下 の
イ ツ 関 税 同 盟 の 発 足 な ど)を 考 え る と,
こ の 課 題 は 当 時 の 「中 心 問 題 」 で あ っ た 。 『リ ス ト全 集 』第
〔国 民 的 〕 生 産 諸 力 の増 大 の た め に は 価 値 の 損
失 も敢 え て 避 け な い と い う点 で,リ ス トの 理 論 は
4巻,9頁
(7)1838年1月1日
以下を参照。
付 け の 手 紙,『
リ ス ト全 集 』第4巻,47頁
。
一81一
フ リー ド リッ ヒ ・リス トと彼 の時 代
(8)最
初 の 論 文 は"AugsburgerAllgemeineZeitung"
に,次
と の2編
1973年,前
前栄一
篇 補 論;毛
利健三
『自 由 貿 易 帝 国 主 義 』 東 京 大
参照 。
リ ス ト全 集 』 第6巻,637頁
ー ,]850年
ま で は 各 版1,000部
⑪
巻,国
付 け
価 は2タ
際 貿 易.貿
印 刷 。 『リ ス ト全 集 』 第
扉 に
「第1
イ ツ 関 税 同 盟 」 とあ る点 もこ
『国 民 的 体 系 』 は ハ ン ガ リ ー 語,フ
国 と英 国 で),ロ
シ ァ 語,ス
『国 民 的 体 系 』45頁
㈱
『国 民 的 体 系 』183,46,5頁
¢5)『 国 民 的 体 系 』44頁
ラ ン ス 語,英
ウ ヱ ー デ ン 語,中
語(米
閣 語,日
本
。
。 『綱 要 』 の 第1書
『カ タ ロ グ 』173頁
簡 に も こ れ と似 た
。 「商 人 に は 利 潤 を もた ら す が,国
国 内 工 業 に生 気 を 吹 き こ む
商 業 」 と 「こ れ を 減 ぼ す 商 業 」 と の 区 別 と い う リ ス ト の 認
識 に 受 け つ が れ て い る。 大 塚 久 雄
1979年,47頁;拙
著
『カ タ ロ グ 』173頁
『歴 史 と現 代 』 朝 日 選 書,
『ド イ ツ 関 税 同 盟 の 成 立 』368頁
。
付 けF.
て の 手 紙);第4巻,447頁(『
ゲ ヅ チ ン ゲ ン 大 学 が ド イ ツ に お け る最 も 重 要 な 「イ ギ リ
ス 経 済 思 想 の 侵 入 口 」 で あ り,19世
紀初 にかけて重農主義
と ス ミ ス 主 義 に も と つ く「経 済 学 の 新 し い 教 科 書 の 氾 濫 」が
お こ った とい わ れ る。 拙 著
のi雑 誌
計 る 国 王 と 古 い 等 族 議 会 と が 対 立 す る 中 で,自
『リス ト全 集 』 第5巻,40頁(国
由
主 義 改 革 派 の 立 場 で 世 論 を 味 方 に つ け る た め に,
1816年7月
ロ イ ト リ ソ ゲ ソ 市 長 カ ソ メ ラ ー 博 土,
フ ォ ン ・ダ ム ベ ノ イ 男 爵 と創 刊 し た
。DasWし
ス トは 編
と特 別 号1冊
が 出 た が,第2号
には
「農 民 所 有 地
の 際 限 な い 分 割 を 排 す る 」 と い う論 文 が 無 題 で 発
表 さ れ た 。 第1号
は 予 想 以 上 の 出 来 栄 え で,月
を 要 望 す る 声 も あ っ た が,読
刊
者 は 官 吏 と書 記 で あ
「愛 国 的 雑 誌 」 の 名 称 を つ け た が,
検 閲 制 限 が 廃 止 さ れ た(17年1月)の
『カ タ ロ グ 』175頁
㈱
。
家 学辞典 の
「労 働 」 の
は 立 憲 王 制,言
ち,リ
論 ・出 版 の 自 由r所
ス ト
有 権 の不 可 侵
リ ス トは 経 済 を 循 環 と し て よ り も完 成 へ 向 か っ て
進 歩 す る 過 程 と考 え て い た 。 『カ タ ロ グ 』183頁
「ラ イ ン新 聞 」(1843年2月10日)に
BrUggemannの
書 評,『
性 を 論 じ て い るo
。
も う1冊
掲 載 さ れ たH.H.
カ タ ロ グ 』 ユ83頁 。
け
て の 手 紙)。
『リ ス ト全 集 』 第9巻,169頁(抜
粋,断
簡,メ
モ,「 価
ュ ー ブ ラ ー,ケ
ス ラーの
が 発 行 し た"DervolkafreundausSchwaben,einVaterlandsblattfurSitte,Recht
andFreiheit"で
値 の 理 論 に 対 す る 生 産 諸 力 の 理 論 」)。
『リ ス ト全 集 』 第9巻,168頁(「
は リ ス ト,シ
「真 理 を 愛 好 す る ヴ ュ ル ッ テ ン ベ ル ク 人 の 協 会 」
『リ ス ト全 集 』 第8巻,694-95頁(1843年7月14R付
のF.Dingelstedt宛
㈲
験 し た 同 国 の 憲 法 闘 争(1815-19)が,2つ
った 。 翌 年 に は
㈲
図
活 動 に も反 映 し て い る 。
『ド イ ツ 関 税 同 盟 の 成 立 』55,71
頁 。
㈲
し い 気 性 で 妥 協 性 に 乏 し く,敵
集 の ほ か 大 部 分 の 原 稿 を 執 筆 し た 。 同 年 中 に3号
自然 的 体 系 』
第28章)。
伽
ら ゆ る 手 段 で 自説 を 訴 え た 。 頑 固 に
rttemわergisclleArchiv"で}ま,リ
。
『リス ト全 集 』 第8巻,694頁(1843年7月14日
項 目)。
説や
民
う し た 貿 易 が あ り う る 」 とい う イ
ギ リ ス 重 商 主 義 者 の 認 識 は,「
⑲
会 設 立,論
の 編 集 と発 行 へ 彼 を 向 か わ せ た 。 国 制 の 近 代 化 を
体 に は 損 審 を 与 え る,そ
Dingelstedt宛
ソ フ レ ッ ト,協
に な っ て か ら10数 年 の 行 政 官 の 生 活 と そ の 間 に 体
。
文章 が ある。
㈱
雑 誌 な ど,あ
リ ス トは 請 願 書 や
15歳 で ヴ ュ ル ッ テ ソ ベ ル ク王 国 の 書 記 の 見 習 い
⑬
働
雑 誌 発 行 者 と して の リ ス ト
を 作 りや す い 彼 の 性 格 は ジ ャ ー ナ リ ス ト と し て の
語 に翻 訳 され て い る 。
⑱
ャ ー ナ リ ス トと し て の リ ス ト
自 説 を 主 張 し,激
れ を示 し て い る。
⑫
3ジ
陳 情 書 や 謁 見,パ
。 『国 民 的 体 系 』 の 第1の
易 政 策,ド
篇 を参照。
ー ラ
。
『農 地 制 度 』205頁
ス トの 土 地 制 度
谷 一 彦 『リス トと ヴ ェ ーバ ー 』 未 来 社,
の"Allgemeine
ず つ,定
の ホ イ サ ー 版 は2,000部
6巻,638頁;第8巻,586頁
る。引 用 は 『農 地 制 度 』4,259,270頁oリ
1969年,前
年6月1日
広 告 が 出 た 。 手 紙 は 妻 に 宛 て た6月19日
の も の 。 第3版
に語 られ る こ と と な った」 『農 地 制 度 論 』に触 れ られ て い な
い 。 『農 地 制 度 論 』 に 関す る研 究 は 小 林 昇教 授 の 功 績 で あ
論 に つ い て は,住
。
売 開 始 は1841年5月,同
Zeitung"に
済 思 想 の最 も基 底 的 で あ りまた 最 も深 奥 に あ る思 想 が 端 的
発 表 さ
『ド イ ツ 経 済 政 策 史 序 説 』 未 来 社,
学 出 版 会,]978年,4を
(10)発
ラ ン ス 語),あ
は"DeutscheVierteljahresschrift``に
れ た 。 な お,肥
(9)『
民 的 生 産 力 の 歴 史 的 理 論 を 成 立 さ せ る べ き」 「リス ト の 経
の 論 文 は"Constitutionel``に(フ
価 値 の理 論 に 対 す る 生
産 諸 力 の 理 論 」)o
日 に 発 行 さ れ,風
あ る 。 第1号
刺 を 交},民
は..年1月24
衆 の郷 土 意 識 に 合
った 内 容 が 好 評 を 呼 ん だ 。 国 王 も 当 初 は 改 革 路 線
㈲"Zollvereinsblatt"1844年.
鋤
「経 済 理 論 寂 と し て の リス ト」 を 扱 っ た
こ の 部 分 で は,残
念 な こ と に,「
『カ タ ロ グ 』 の
リ ス トの 全 社 会 科 学 的 体
系 の 最 も基 底 的 な 部 分 に お か れ て 」 「リ ス トの 構 想 し た 国
を 支 持 す る こ の 雑 誌 に 好 意 的 だ っ た が,19年7月
に 憲 法 問 題 が や ま 場 に さ し か か り等 族 議 会 の 同 意
が 必 要 と な っ た 時,こ
の雑 誌 の 発 行 を 続 け る こ と
一82一
フ リー ド リッ ヒ ・リス トと彼 の 時 代
ュ ル ッテ ソ ベ ル ク王 国 憲 法 は
トの 国 制 に 犯 され た 罪 無 き者 の 死 刑 に つ い て 。 秘
に 制 定 され た)。 編 集 者 の シ ュ ー ブ ラ
密 の 大 法 院 の 審 問 裁 判 所 の 邪 悪 性 と陪 審 裁 判 の 絶
は 困 難 に な っ た(ヴ
1819年9月25日
ー は 何 度 も 裁 判 所 に 召 喚 さ れ ,結
29日
Das
対 必 要 性 と憲 法 国 家 に お け る裁 判 公 開 性 の 記 録 に
局,1822年6月
も とつ く証 明 」 とい う長 い題 で,23年9月
にチュ
ー リ ッ ヒの ゲ ス ナ ー書 店 か ら委 託 出 版 され た(印
『人 民 の 友 』 は 発 行 停 止 に 追 い こ ま れ た 。
OrganfurdenHandela-u.Fabri-
kantensta皿d"1領
邦 ヴ ュル ヅテ ン ベ ル ク で
刷は ス トラスブ ール)。 この 本 は24年 に66部,25年
な く全 ドイ ツ の 国 民 的 商 業 政 策 の た め に テ ユ ー ビ
に57部 し か 売 れ ず,営 業 的 に は 失 敗 で,そ の 上 プ
ソ ゲ ソ 大 学 教 授 の 地 位 を 犠 牲 に し た,r役
ロイ セ ソ で は発 売 禁 止 とな った 。
人 か ら
国 民 経 済 学 者 へ の 」 「リス トの 一 生 に お け る も っ
(3)
EuropaischenBlatter,oderdaslnte-
(ユ)
と も重 大 な,も
っ と も 驚 くべ き 方 向 転 換 」 と い わ
れ る 「ドイ ツ 商 工 業 協 会 」 の 設 立 は1819年4月
furdiegebildeteLesewelt"亡
命 中 に 出 し
だん らん
の 協 会 の 法 律 顧 問 と な っ た リス
た 小 冊 子 で,団 簗 の 話 題 を 提 供 す るた め に 書 評 や
イ ツ各 地 の 商 工 業 者 へ の働 き か け と会 員
他 の雑 誌 記 事 の再 録 も掲 載 した 。 リス ト,フ ォル
こ と で あ る が,こ
トは,ド
の
ressantesteausLiteraturandLeben
相 互 の 情 報 交 換 の た め に,機
関 紙 の 発 行 の必 要 を
痛 感 した。機 関紙 に指 定 された既 刊 の新 聞が次 々
と発 行 停 止 処 分 を う け た の ち,同
年7月10日
刊 さ れ た 独 自 の 機 関 紙 が"Organ"で
ま で は 編 集 者,発
行 地,印
に創
あ る 。8号
刷 所 の 記 載 が な く,9
号 か ら 発 行 は 協 会 の 管 轄 に 移 り,20年7月
か ら再
レ ソ,ゲ ス ナ ー の 編 集 で,他 に 数 名 の 協 力 者 が い
た 。 これ も営 業 的 に は 不 成 功 で,資 金 不 足 か ら リ
ス トは 持 分 を フ ォル レソ に 譲 渡 す る こ と に な っ
(4j
た。
"MitteilungenausNord-Amerika"リ
ス トは
『綱 要 』 を 書 い た1827年
に,バ
イエ ルソ王
び リス トが 編 集 者 に な っ た 。 発 行 部 数 は4,500か
国 鉱 山 顧 問 官 フ ォ ソ ・バ ー ダ ー 宛 て の 手 紙 で,米
ら2,000の
国 の 運 河 と 鉄 道 の こ と を くわ し く知 ら せ,最
間 を 上 下 し て い た が,21年
に 紙 名 を
工 法 と 統 計 資 料 を 送 っ た 。 こ れ ら の 手 紙 は,
OrgandeutscherKaufleute,Fabrikbesitzer,
Staatswirteu.Finanzmanner"と
に はx,000部
変 え た 頃
を 割 っ て い た 。 大 学 教 授 らi数名 が 協
力 者 と し て 発 行 を 援 助 し,経
デ ン 伯,バ
イRイ
済 学 者 の ラ ウ と ゾー
ト大 学 教 授 オ ッ トー は 寄 稿 も し
て い る 。21年1月
に リス トは 編 集 か ら退 き,6月
(2)
30日 付 け(通
算100号)で
発 行 が 打 ち き られ た ・
"ThemisI""ThemisII``1822年4月
に政
府 ・法 廷 ・官 庁 ・官 吏 へ の 侮 辱 の 罪 で10か 月 の 実
刑 判 決 を う け た リス トはs服
同 年5月
役 を拒 んで亡 命 した。
に 最 初 の 亡 命 先 の ス トラス プ ー ル で フ ラ
ソ ス の 自 由主 義 者 エ イ ナ ン の 著 作 を 入 手 した 。 陪
審 裁 判 を 論 じ た こ の 著 作 を 翻 訳 す る こ と を 「神 の
啓 示 」 と う け と っ た 彼 は,フ
も に 翻 訳 を 進 め,翌
年
ラ ッ クス ラ ソ ドと と
『テ ー ミス1。
新の
法 の 歴 史,
"AllgemeineZeitung"紙
に 掲 載 さ れ た が,リ
ス トは さ ら に バ ー ダ ー 宛 て に 小 冊 子 の 体 裁 で 手 紙
を 送 っ た 。 リ ス トの 催 促 を う け て,友
人の ヴェー
バ ー と ア ル ノ ル デ ィが こ れ を 集 め て 刊 行 し た の が
『北 米 通 信 』 で あ る 。 第1号
は28年9月,2号
と
3号 は29年 に ハ ソ ブ ル ク の ホ フ マ ン 巫 カ ム ペ 社 か
ら刊 行 さ れ た 。
1'"National・Magazin"1833年
に 最 初 の 大 衆 雑 誌(
ドイ ツ
Pfennigmagazin")カ
ミ現 わ れ
た 。 広 い 読 者 層 に 向 け て 分 りや す い 記 事 を 挿 絵 入
りで 提 供 し,値
雑 誌 の 出 現 は,新
段 も1ペ
ニ ッ ヒ とや す い この 大 衆
しい 時 代 の到 来 を 示 す もの で あ
っ た 。 こ の 雑 誌 の 成 功 に 刺 激 さ れ て,リ
ヴ ェ ー バ ー,ヴ
ス トはJ.
ィ ガ ソ トと図 って 大 衆 向 け の週 刊
エ イ ナ ン 氏 の フ ラ ソ ス 語 の 著 作 か ら』 と い う題 で
誌 を 刊 行 し た 。 大 人 も 子 供 も,あ
ハ イ デ ル ベ ル クの ヴ ィ ソ タ ー書 店 か ら出 版 し た 。
業 の 人 が 興 味 を も つ よ うに,家
テ ー ミス は ギ リシ ャ 神 話 の 中 の 法 と正 義 の 女 神
統 計 や 旅 行,新
(『掟 の 女 神 』)で
役 に 立 つ 知 識 を 提 供 す る こ とが 狙 い で あ った 。 リ
ある。
ペ ルゾロ ン
第2巻
は 「王 の裁 判 所 に よ って そ の 臣 下 や ラ ソ
らゆ る 階 層 と職
事,農
業,教
し い 発 明 や 新 事 業 な ど,だ
育,
れにも
ら ま
ス ト自身 も 「が ら が ら蛇 」 「酪 馬 」 な ど の文 章 を
‐ss‐
フ リー ド リッ ヒ ・リス トと彼 の 時 代
載 せ て い る。
1834年1月
済 的 統 一 と産 業 の 発 達 を 実 現 す る こ と を 夢 見 て 帰
に ラ イ プ ツ ィ ヒ で 発 行 さ れ,3ケ
後 に は1万2,000人
月
以 上 の 予 約 購 読 者 を 獲 得 し た が,
3人 の 協 力 は 長 続 き せ ず,1年
間 続 い て 同 年12月
に 終 っ た 。 。DasWurttembergischeArchiv"
や"Eisenbahnjourna1"と
国 し た 。 帰 国 後 リス トは す で に"National-Magazin"に
鉄 道 に つ い て 書 い て い る が,『 鉄 道 雑
誌 』 は,「
リス トの 最 も 重 要 な 最 後 の 刊 行 」 と な
っ た"Zollvereinsblatt`'と
違 っ て,雑
誌 編集 者
と し て の リ ス トの 幅 の 広 さ を 印 象 づ け ら れ る 興 味
深 い 事 業 で あ る。
国 か ら戻 っ た リ ス
トは 国 家 学 辞 典 の 編 纂 を 計 画 し,共
同出 資者 に ア
ル トナ の ハ ソ メ リ ッ ヒ書 店 主 の レ ッ サ ー を,編
者
の交通 ・
商業政 策 思想 の普及 を意 図 して創 刊 された。
農 工 商 業 の 進 歩,国
民 的 事 業 と 公 共 施 設,各
の 統 計 や 新 発 見,国
"DasStaatalexiko皿"米
同 じ く,彼
種
民 経 済 の文 献 と実 際 に お け る
興 味 深 い 現 象 を 取 り上 げ た こ の 雑 誌 は,1835年4
月 に ハ ソ メ リ ッ ヒ書 店 か ら 第1号
年 に10号,36年
に25号,37年
が 刊 行 さ れ,35
に5号,合
計40号
を
に バ ー デ ン 自 由主 義 の 指 導 者 で元 フ ラ イ ブル ク大
出 して 終 っ た 。 最 初 の うち は 予 約 購 読 者 数 が 増 加
学 教 授 の ロ ッ テ ッ ク と ヴ ェル ッ カ ー を 得 た。 共 同
を 続 け た が,37年
編 集 と い う彼 の 希 望 は ヴ ェ ル ッ カ ー に 拒 絶 さ れ,
れ,こ
リ ス トは 半 額 出 資 の 影 響 力 の な い 協 力 者 に と ど ま
た。
っ た。
れ に発 行の不 定期 化 が重 な って廃刊 とな っ
Das。Zollvereinsblatt"『
辞 典 は 全6巻2年
に 第1巻
で 完 結 の 予 定 で,1834年9月
が 刊 行 さ れ た が,そ
出 版 の 翌 年 に 第2版
の 直 後 に プ ロイ セ ソ
で 発 売 が 禁 止 さ れ た 。 予 約 購 読 者 数 は 第1,2巻
の3,000か
。D"の
に オ ー ス ト リア で 発 売 が 禁 止 さ
ら 第3巻
項 目 は3年
は2,600に
減 り,こ
が 出 る と い う好 評 で あ っ た が,
こ れ が リス トに 経 済 政 策 論 の 雑 誌 の 発 行 を 決 心 さ
せ た 。 長 年 の 知 己 で あ る コ ッ タ と 相 談 し た 上 で,
の 第3巻
目 に や っ と出 る状 態 だ っ た。
リス トの 不 満 は,報
国民的 体系 』 は
酬 をふ やす ため に し ば し ば
リス トが 編 集 を 担 当 し て1843年1月1日
れ た"Zollvereinsblatt"が
に創刊 さ
そ れ で あ る。
大 部 分 の 原 稿 を リ ス トが 書 い た が,他
にもフォ
100頁 を 超 え る 長 大 な 原 稿 を 寄 せ た ヴ ェ ル ッ カ ー
ソ ・パ ッ ヒ ャ ー,ド ゥ ク ヴ ィ ッ ツ,フ ォ ン ・ラ ヴ ェ
の 態 度 に 向 け ら れ た が,辞
ル ニ ュ=ペ
典 の 狙 い に つ い て の不
一 致 も彼 の 志 気 を 阻 喪 させ た
ギxリ
エ ソ な ど の 有 力 な 協 力 者 が お り,
。 リス トは ス ミ ス の
外 国 雑 誌 の 記 事 や 官 文 書,陳
情書
経 済 学 に 対 抗 して 国 民 経 済 学 の 原 理 を 提 供 し よ う
れ た 。 予 約 購 読 者 は43年10月
に1,000人
と 思 っ て い た が,こ
が,コ
れ は,経
済 に 関心 が 乏 し く
「政 治 的 教 養 の 辞 典 を 作 っ て 民 衆 の 政 治 的 精 神 を
統 計 も収 録 さ
に達 し た
ッタ に は 余 分 な 仕 事 が ふ え た 。 旅 行 癖 の リ
ス トは 不 在 が ち で,内
容 も発 行 も一 定 し な い た め
鼓 吹 す る 」 と い う編 者 の 狙 い か ら ず れ て い た 。 結
の 苦 情 が コ ッタ の 所 へ 寄 せ られ た か ら で あ る。 多
局,リ
ス トは 第1巻
に8項
目,第2巻
忙 す ぎ る リス トは 書 き か け の 原 稿 や 出 来 の 悪 い 原
第4巻
に1項
計13項
目を 書 い た だ け で 手 を
目,合
に4項
目,
(5)
引 き,1840年
8,000ラ
に ロ ッテ ッ クが 死 ぬ と辞 典 の 持 分 を
イ ヒ ス タ ー ラ ー で レ ッサ ー に 譲 渡 し たo
ち なみ に こ の辞 、
典 は 初 版15巻
が43年
に 完 結 し(補
稿 を 送 っ て き た り,送
に,コ
って こない こ ともあ ったの
ッ タが 自分 の 原 稿 を 検 閲 す る とい って 憤 慨
し た 。46年4月
に は2人
の 間 に 破 局 が 訪 れt4月
20日 号 か ら リス トが 単 独 で 発 行 し,発
送 は ラγパ
(6)
巻4冊
版14巻
は ユ846-48年),再
は56年
版12巻
は45∼48年
に,3
に刊 行 され て い る。
"1)asEisenbahnjournal"米
(リ ス トの異 文 化 体 験)は
リス トは 三 月前 期 の 傑 出 し た ジ ャ ー ナ リス トの
国 で の 生 活
リス トに 国 民 経 済 の 段 階
的 発 展 の 思 索 と並 ん で,鉄
ル ト社 が 引 き うけ た。
1人 で あ る 。 論 敵 に対 し て は 毒 舌 を 交},書
斎の
学 者 で な く公 衆 に 向 け て 明 解 に わ か りや す く,問
xぐ
道 に対 す る強 烈 な 関 心
題 の 本 質 を 挟 りだ し て み せ た 。 彼 の 情 熱 と実 行 力
を植 え つ け た 。 鉄 道 が 米 国 の 開 発 と統 一 に 果 す 役
は 出 版 活 動 を 目 ま ぐる し く変 え させ た 。 何 か 新 し
割 を 確 信 し た 彼 は,鉄
い も の を 見 る と古 い もの を忘 れ る。 新 し い 考 え を
道 建 設 を 通 じ て ドイ ツ の 経
一84一
フ リー ド リッ ヒ ・リス トと彼 の 時 代
常 の雑 事
兄 弟 は 軍 人 で あ った の で,別 の 仲 間 に 呼 び か け て
・発 行 す る 仕 事 に は 向 い
新 し い新 聞 の発 行 を 企 て た 。 憲 法制 定 議 会 の 代 議
て い な か った 。 採 算 が とれ ず に 損 失 を 生 ん だ こ と
士 に 選 ぼ れ た 義 兄 のF.ザ イ ボ ル トを 編 集 者 に し
も,約
て19年1月
い か に 早 く 弘 め る か に 関 心 が あ っ て,日
を こ な し,定
期 的 に 編 集
束 し た 原 稿 を 送 ら な か っ た り,他
事 の 切 り貼
の 雑 誌 記
り で 間 に 合 わ せ た り も し た 。1つ
の 雑
に 創 刊 され た の が こ の 新 聞 で あ るQ最
初 か ら急 進 的 自由 主 義 の 路 線 を と って い た の で,
誌 を 長 期 間 続 け る 意 欲 と能 力 に は 欠 け て い た の で
当 局 に に ら まれ た 。 メ ッテ ル ニ ヒの お抱 え ジ ャ ー
あ った 。
ナ リス トの フ ォ ン ・ゲ ソ ツは 「ドイ ツの 最 も悪 ど
新 聞 記 者 と し て の リ ス ト19世
紀 の 出 版 物 で は
い 火 つ け 新 聞 の1つ 」 と報 告 し て い る。 当 時,商
雑 誌 が 最 も 重 要 で あ っ た 。 雑 誌 は 教 養 市 民 層V'自
工 業 協 会 の 法 律 顧 問 に 就 い て い た リス トは,協 会
主 的 な 政 治 活 動 の広 場 を 提 供 した 。 雑 誌 に 比 べ る
の 活 動 に 本 紙 を 利 用 し よ う と し た が,逆 に 誹 諺 的r
と 書 物 は 値 段 が 高 す ぎ,新
聞 は 通 俗 的 す ぎ る うえ
攻 撃 的 な 紙 面 が 協 会 の 活 動 を 妨 害 す る結 果 に な っ
(7)
に 検 閲 も 厳 し か っ た 。 だ が そ れ に も 拘 ら ず,三
前 期 の 自 由 な 文 筆 家 や 記 者 と 同 様 に,リ
ス
月
トに と
た 。 同 年7月15日
ザ イボル
に 発 行 停 止 の 処 分 を 受 け る と,
ト は,"NeueStuttgarterHefte"を
って 新 聞 へ の寄 稿 は 生 活 を 支 え る重 要 な 収 入 源 で
発 行 し た が,こ
あ り,ハ
24日 に ザ イ ボ ル トは 主 筆 を 退 き,翌
イ ネ,ベ
ル ネ,ラ
ウベ ら と接 触 す る 機 会
を 提 供 した 。
リス
れ も7月1日
に 第1号
日に は 発 行 停
止 に な っ たQ
トが 寄 稿 し た 新 聞 は 次 の 通 り で あ る(カ
ッ
Die。Neckarzeitung"前
記 の新 聞 の 継 続
コ 内 の 数 字 は 寄 稿 し た 年)。"NeueStuttgarter
と し て19年9月11日
Zeitung``(1819),,NeueStuttgarterHefte``
兄 弟 た ち が 共 同 の 社 主 で 編 集 者,妻
(1819)
を 出 す と,
るJ.ラ
AllgemeineHandlungszeitung"
に 創 刊 さ れ た 。 リ ス トと 妻 の
の姉 の夫 であ
ー デ が 発 行 者 と い う家 族 経 営 で あ っ た 。 リ
inNurnberg(1819,20)"AllgemeineZeitu-
ス ト と 本 紙 と の 関 係 は22年 以 前 に つ い て は よ くわ
ng``inAugsburg(187.7-46)
か ら な い 。 こ の 新 聞 は 等 族 議 会 の 様 子 を くわ し く
instuttgart(1s20-22)
kur"(1821,44)
Neckarzeitung"
SchwabischerMer_
報 じ,リ
ReadingAdler"(1826-3Q)
た と 思 わ れ る 。 ベ ル ネ や コ ル プ の 協 力 も得 て,本
NationalGazette"inPhiladelphia(1x27,
28,30)
紙 の 評 判 は 良 か っ た。
亡 命 生 活 に 入 っ た22年 以 後,異
DailyNationalIntelligencer"in
Washington(1827)
ConstitutionalWhig"
inHarrisburg{x.828)
nchen{1830,32,36)
Paris(1831)
国 で この 新 聞 か
ら の 収 入 に 頼 っ た リ ス トと 郷 国 の シ ュ ト ゥ ッ トガ
DasAusland"inMu.-
ル トに い る 編 集 者 ザ イ ボ ル ト兄 弟 と の 間 に 疎 隔 が
LeConstitutionnel"in
広 が っ た 。 「お 前 が 金 に 困 っ て い る と い う こ と で,
LeipzigerTageblattundAn-
zeiger"(1833)
ス ト も 恐 ら く匿 名 で 何 本 か の 論 説 を 書 い
私 は 少 な か らず 憤 慨 し て い ま す 。 新 聞 社 に ど れ 位
Pfennig-Magazin"(1$34,35)
AmerikanischesMagazin"(1835)
お 金 が あ る か 私 に は 把 む こ とが で き ませ ん … … 。
も し ラ ー デ が 私 の 給 料 と 利 子 請 求 分 と受 取 りを 計
Deutsche
Vierteljahresschrift``inAugsburg(1840,41,
算 す れ ば,私
42)"AllgemeinerAnzeigerandNational-
ま で に 要 求 し て 当然 だ とい う こ とが 彼 にわ か る で
zeitungderDeutschen"inGotha(1840)
し ょ う。」 結 局,リ
"Morgenblatt"(1840)"RheinischeZeitung"
の 新 聞 の 持 分 を 処 分 し た。 再 度 協 力 を とい う申 し
inKolnO
出 を 拒 ん だ こ と で,リ
が 少 な く と も200グ
ル デ ソ を5月
末
(7a)
.84,2)
WienerSonntagsblatter"
ス ト と ザ イ ボ ル トと の 関 係
は 修 復 不 可 能 に な っ て い た 。 こ の 新 聞 は33年9月
(1$44)
1)ie,,NeueStuttgarterZeitung``リ
ト は1818年2月
ス トは 米 国 へ 移 住 す る 前 に こ
ス
に カ ロ リ ー ネ と 結 婚 し て か ら,自
由 主 義 の ジ ャ ー ナ リ ス トの 仲 間 入 り を し た 。 妻 の
14日 に 発 行 停 止 の 処 分 を 受 け た が,そ
の時 に はす
で に シ ル と エ ル ス ナ ー の所 有 に 移 っ て い た 。
Die"AllgemeineZeitung"こ
の 新 聞 は
一85一
フ リ ー ド リ ッ ヒ ・リス トと彼 の時 代
ユ798年 に 。NeuesteWeltkunde"の
ー ビ ン ゲ ソ で 創 刊 され
,同
紙名でテユ
クスが そ の地 位 に 就 く こ とに な る。 コ ッタ との 気
年 シ ュ ト ゥ ッ トガ ル ト
ま ず い 関 係 か ら抜 け だ す 機 会 を 逃 した の で あ る。
へ 移 っ て,。AllgemeineZeitung"と
改 称,
コ ル フ.とは41年
ま で は 文 通 の 仲 だ っ た が ,リ
ス ト
1810年 に 検 閲 の た め 再 び ア ウ ク ス ブ ル ク へ 移 転 し,
が ア ウ ク ス ブ ル クへ 転 居 し て か ら親 し い 交 際 が 続
三 月 前 期 の ドイ ツ の 最 も重 要 な 日刊 新 聞 に な っ た 。
い た 。 コル プ は 昔 の 恩 師
編 藻 と 発 行 は 父 子2代
神 状 態 を 気 遣 っ て,慰
に わ た っ て リス トの 良 き 後
べ,晩
援 者 で あ った コ ッタ 書 店 で あ る。
ユ832年 に 父(J.F.フ
ォ ソ ・コ ッタ)の
を 辞 し て 出 版 社 を 継 い だG.フ
死 で外 交官
ォ ソ ・ コ ッ タ は,
執 筆 陣 に 一 流 の 著 作 家 を 求 め て い た が,34年
米国
帰 り の リ ス トを 協 力 者 に 獲 得 し た 。 そ の 頃 の リス
トは,,NationalMagazin"や
編 者 で 忙 し く,本
「国 家 学 辞 典 」 の
紙 へ の 寄 稿 は 少 な い が,新
〔リス ト〕 の 不 安 定 な 精
め,時
に援助 の手 を差 しの
年 の リ ス トの 友 人 と な っ た 。 だ が ,コ
ヅタ
と は 遂 に 和 解 す る 機 会 が な か っ た 。 「私 が コ ッ タ
と 話 し 合 う,で
す って。一
わ れわ れは数 年来 生
活 を 賭 け て 戦 っ て き た の で す 」 と,リ
ス トは46年
2月 に モ ー ル に 宛 て て 記 し て い る 。 同 年4月
リス
トは 長 年 に わ た る 最 も 大 切 な 友 人 で 後 援 者 を 失 う
しい
こ とに な る。 コ ッ タが これ ま で の一 切 の 関 係 を 解
時 代 に ふ さ わ し い 新 聞 や 雑 誌 の あ り方 を 手 紙 で 提
消 す る こ と を 通 知 し て き た の で あ る 。 リ ス トが オ
ー ス ト リ ア 領 ク フ シxタ
イ ソ の 山 の 根 で ピ ス トル
言 し て い た 。 そ の 間 に コ ッ タ は リス トの 識 見 を 認
め,世
に 出 そ う と 全 力 を 尽 くす こ と に な る 。
自 殺 を し た の は,そ
ユ837年 リス トは パ リへ 行 く途 中 ベ ル ギ ー で 本
紙 の責 任 編 集 者 に な って い た 旧 知 の コ ル プ に 会
く8)
い,彼
の 勧 め で 定 期 寄 稿 者(通
信 員)に
た
(1)P.Gehring,AchtwurttembergischeGefolgsleute
FriedrichListsFrankfurt1$19,in:BerichtzurDe-
パ リ時 代 の リ ス トは 本 紙 の 外 国 特 派 員 と し て 「霊
utschenLandeskunde,Bd.31,1963,S.317.
(2)拙
稿rF.リ
学 創 立50周
〈8。3.'39)「パ リの 音 楽 界 」(28。5.'39)な
が 向 か い,43年
ス トと ドイ ツ商 人
(3)『
小 林 昇 経 済 学 史 著 作 集 』XI,151頁
以 後 は 鉄 道 と通 商 問 題 に 関 心
(4)『
小 林 昇 経 済 学 史 著 作 集 』XI,148-150頁
に"Zollvereinsblatt"を
に よ れ ば,こ
発行 し
状 態 で,リ
て か らは 本 紙 へ の 寄 稿 は 減 った 。
の 雑 誌 はr500部
ス トは500グ
誌 論 文 に 適 し て い た 。 そ の た め,送
⑤
った原稿 が掲
ル デ ン ほ ど の 損 失 を 蒙 った と い
リスrが
こ の 辞 典 の た め に 書 い た 項 目 は,「
ん で本 紙 の た め
稿 料 の 金 額 が 低 か っ た こ と も 彼 を 怒 らせ た 。 リス
流 の 執 筆 者 に は コ ッ タ は20∼25フ
ラ ソ だ っ た が ,一
ラ ソ を 支 払 った 。
雑 誌 論 文 に 比 べ て も 低 か っ た ら し い 。 「彼 が 払 っ
て い る 〔原 稿 料 〕 の 最 高 を 支 払 う よ う に コ ッ タ に
要 求 した 。 私 の 記 事 は 他 の だ れ の も の に も劣 ら な
C1o)
上 第2巻),「
『国 民 的 体 系 』 が 刊 行 さ れ た1841年
の ユ0月,リ
「ラ イ ソ 新 聞 」(新 しい 「総 合 的 政 治
紙 」)か ら 主 筆 に 就 任 す る よ うに 要 請 を 受 け た 。 し
は 健 康 を 理 由 に こ の 申 し 出 を 断 り,マ
鉄 道 と 運 河,小
(窮4巻)の13項
⑥
オ ー ス トラ
行 」 「銀 行 券 」(以
型 蒸 気 船 と蒸 気 機 関 車 輸 送 」
目 で あ る 。 『 リス ト全 集 』 第5巻,33頁o
「関 税 同 盟 新 聞 」 は ユ986年 に 復 刻 版 が 刊 行
巻)。1843年
号,47年
49年 に
に52号,44年
に52号,48年
に53号,45年
に51号(最
「ド イ ツ 関 税 同 盟 新 聞 」 の 名 称 で26号
出 し,ま
た,49年7月
併 号),
刊 行 さ れ,以
い 題 名で 見 本 号を
以 降 題 名 を 変 え て51年9月
続 刊 さ れ た よ う で あ る 。 発 行 後 数 か 月 で700部
年 】2月 に は1,000部
に52
後 の 号 は51/52含
上 が 復 刻 版 に 収 録 さ れ て い る 。 最 初,長
6易
さ れ た(7
に52号,46年
位 出 し て い た が,こ
れは
まで
を 越 え,43
「19世 紀 と し
て は 注 目 す べ き 発 行 部 数 」だ と い う。W.Treue,Friedrich
い と 思 う。 人 間 の 利 己 を 許 し て くれ 。」
か し,彼
う
弁 護 士 」 「エ
上 第1巻),「
リア 」 「バ イ エ ノレン 抵 当 ・割 引 銀 行 」r銀
に も っ と 多 く の 時 間 をi捧 げ た こ と で し ょ う 。」 原
トの 「パ リ便 り」 の 稿 料 は15フ
し か 売 れ ない 」
ジ プ ト」 「ア フ リ カ 」 「ア ラ ビ ア 」 「労 働 」 「労 働 者 ・労 賃 」
を 怒 ら せ た 。 「こ れ
ほ ど 多 く ボ ツ に な ら な け れ ば,喜
を参 照 。そ れ
刷 っ て300部
「労 働 節 約 的 機 械 」 「ア ジ ァ 」(以
載 さ れ な い こ と も あ っ て,彼
。
を参照。
こ とで あ る 。
リス トの 資 質 や 才 能 は 短 い 新 聞 記 事 よ り長 い 雑
ス トは ケ ル ソ の
・工 場 主 協 会 」(『 神 奈 川 大
・年
記 念 論 文 集 』1979年)145-150頁
どの 記 事
(s)
を 送 っ て い る 。40年
の こ とで あ っ
。
な っ た。
力 に よ る 治 療 」(15.8.'38)「 フ ラ ソ ス の 選 挙 熱 」
の 年 の11月30日
(11)
ル
Listunddas"Zollvereinsblatt"(上
記 復 刻 版 の
Einleitung)を
付 け の 同 紙50
参 照 。 な お,1846年12月14日
号 に"AllgemeineAugsburgerZeitung"の
悲 報 を転
載 し て リ ス トの 死 が 報 じ ら れ,12月28日
TheodorToegelと
思 わ れ るT.の
付 け の52号
執 筆 した
と い う追 悼 の 辞 が 収 録 さ れ て い る 。
に
「 リス トの 死 」
フ リー ド リ ッ ヒ ・ リス トと彼 の時 代
:・
(7)「
遺 書 を 遺 し た 。 注(11)を 参 照 。
鋭 く 広 く 張 りめ ぐ ら さ れ た 警 察 」 に よ っ て 手 紙 は す べ
て 開 封,検
閲 さ れ,行
動 は こ と ご と く監 視 さ れ,「
四 方 八
(9)「
ピ ァ ノ 部 門 で は 今 回 も ま た ド イ ツ 人 演 奏 者),r栄 冠 が 輝
方 か ら 密 偵 に 囲 ま れ,密
偵 の 許 に 宿 泊 さ せ ら れ,密
偵のサ
ー ビ ス を 受 け た 」 状 況 の 中 で ,リ ス トは1820年2月18日
付
い た 。 ク ラ ラ ・ヴ ィ ー ク で あ る 。 彼 女 の コ ン サ ー トは パ1
け のi妻 へ の 手 紙 で
て 彼 女 に リ ス ト や タ ル ベ ル ク と 並 ぶ 地 位 を 与 え,男
で 最 も 優 雅 な コ ン サ ー トで あ っ た 。 公 平 な 批 評 家 は こ ぞ っ
「ウ ィ ー ン で は 協 会 の 仕 事 に 支 障 を 及 ぼ
性的力
ら な
と女 性 的 優 美 を備 え た 驚 嘆 す べ き奏 法 こそ この 偉 大 な演 奏
い と言 わ ね ば な ら な い 」 と 記 し て い る 。 拙 稿 「F.リ ス ト と
家 の か つ て な い 特 質 だ と 称 揚 し た 。」 これ は 「パ リの 音 楽
さ な い た め に,〔 ザ イ ボ ル トの 〕 新 聞 な ど ま っ た く知
ド イ ツ 商 人 ・工 場 主 協 会 」149,153頁
(?a)1822年5月,『
⑧G.コwプ
し,リ
。
リ ス ト全 集 』 第8巻219頁
界 」 の 一 部 分 で,ク
ーマンである。
。
は テ ユ ー ビ ン ゲ ン 大 学 で リ ス トの 講 義 を 聴 講
ス ト の"Neckarzeitung"に
寄 稿 し,リ
(io)前
8巻,526,533頁;『
に ホ ー エ ン ァ ス ペ ル クの 要 塞 に拘 禁 され た こ とが あ った 。
『カ タ ロ グ 』223頁
。 な お,リ
ス トは 最 後 に コ ル プ に あ て た
の 手 紙 は1838年9月6日
紙 は1839年1月30日
ス トと一 緒
⑪
ラ ラ ・ヴ ィ ー ク は の ち の ク ラ ラ ・シ ュ
付 け の コ ッ タ 宛 て,あ
との 手
付 け の コ ル プ 宛 て 。 『リ ス ト 全 集 』 第
カ タ ロ グ 』225頁
『小 林 昇 経 済 学 史 著 作 集 』VIII,309頁
。
以下。
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