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「死」の再定義は必要か -哲学的分析-
NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE
Title
「死」の再定義は必要か -哲学的分析-
Author(s)
篠原, 駿一郎
Citation
長崎大学教養部紀要. 人文科学篇. 1996, 37(1), p.63-75
Issue Date
1996-07-31
URL
http://hdl.handle.net/10069/15365
Right
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http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp
長崎大学教養部紀要(人文・自然科学篇合併号) 第37巻 第1号 63-75 (1996年7月)
「死」の再定義は必要か
-哲学的分析-
篠原駿一郎
Is it Necessary to Re-define "Death"?
-A Philosophical Analysis-
Shun'ichiro SHINOHARA
1.はじめに
改めて言うまでもなく人の死の確認は医師の専権事項である。心持動の停止、呼吸
の停止、瞳孔反射の消失、といういわゆる三徴候によって伝統的に死は確認されてき
た。そして法的にも医師の死亡診断書を添付した死亡届が義務づけられているという
ことは、ある意味でそのように「死」が定義されていたと言えるであろう。そのよう
な「死」の定義を変更するということがこの表題にいう「再定義」である。どのよう
に再定義されようとしているのか、それはよく知られているように「脳死」をもって
「人の死」としようということである。小論はそのような再定義の必要性1)に対する
反論である。
死は人が人となったとき以来常に人々の関心であったろう。あるいは、進化論的自
然人類学的解釈とは別に、文化的には、人は、死を自覚し死に関心を持ち始めたとき
に人になったと言えるかもしれない。人の歴史とともにある宗教は、そして人類の長
い歴史においてほとんど常に人は宗教的であったのだが、絶えず死を問題にし続けて
きたでのである。人はなぜ死ぬのか、不老不死は可能か、死に苦しませられない生は、
死を恐れない悟りや魂の平穏はどのようにして得られるか、安らかな死を迎えるには、
死後はどうなるのか等々。これらの問いはまとめて言えば「死(と)は何か」という
ことであろうか。そしてさまざまな答えが「死は-・である」という形式で与えられる。
この間答の助詞「は」は叙述の題目を提示する係助詞であるが、死とはすでに了解さ
れているものとして言及されるのである。死は誰にも明らかで単純な自然現象なので
篠原駿一郎
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ある。したがって目前のある状態に言及して「これは死であるか」 「あれは死である
か」という問いは異常であろう。法律的にも「死亡」は当然のごとく了解された概念
で法的定義はないのが普通である。日本では「死産の届出に関する規定」の二条に、
「死児とは、出産後において心臓の持動、随意筋の運動及び呼吸のいずれをも認めな
いものをいう」という規定が見られるが、ここに死に対する伝統的な定義を窺うこと
ができるのみである。
しかしながら、いま述べたことはもはや過去の話になりつつある。現代では苗が次
のように展開する。近年において医療技術あるいは広く生命科学の発達によって死の
本質的な部分が再検討されるようになった。とりわけ生命維持装置の発達によって、
脳の重要な機能が失われているのに人工的に呼吸や循環が維持されるという状態が生
じた。いわゆる脳死状態である。意識が失われ自発的な呼吸が失われた脳死状態にあ
る人は生きているといえるのか。生活の中で自然に用いてきた定義に従えば呼吸も循
環も維持されているから患者は死んではいないことになろうが本当にこのような生に
意味があるのか。脳死者自身もそのような状態で心肺機能を維持されるのは望まない
であろう。現に尊厳死や安楽死を認知しようという世界の趨勢があるではないか。し
かもその臓器を有効に利用すれば不治の病で苦しんでいる多くの患者を助けることが
できる。つまり脳死を人の死とすることは、それによって臓器を手に入れることがで
きる人にとっても脳死者やその家族にとっても大いなるヒューマニズムの実現になる
のではないか。さらに従来の三徴候によるいわゆる心臓死の場合にもすぐに脳死に至
ることを考えれば、脳死こそ本当の死と考えるのが合理的ではないか。しかも脳死を
死の定義として採用するのは医師が科学的根拠に基づいて判断するのであるからもし
その判定が十分慎重に行われるならばそれを信頼して任せるのが妥当なことではない
だろうか。現代では大抵の人がこのような説明に首肯したくなる。これらの問題を三
つに分けて以下に考えてみたい。
2 「脳死」を「人の死」とするのはヒューマニズムか
「脳死」を「人の死」であると定義し直そうとする動きはビューマニスティックな
動機に基づいているという認識はこの間題の第一の顕きの石である。
小論のタイトルも示唆しているように、現代では死の定義が明確でなくなっている
としばしば言われる。しかしわれわれは本当に何が死であるかということに疑問を抱
きはじめたのであろうか。そんなことはない。数百年もいや数千年も前から何が死で
あるかは変わってはいない。あなたが脳死問題などにまったく関心がなければ、ある
いはせいぜい死因の1 %を占めるに過ぎない脳死状態にあなたの家族がなって医者に
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説明を受けなければ死の定義を考えたりはしない。死の再定義のへの問いはここ数年
の内に作為的に作られた問いである。この動因は周知のように心臓移植など臓器移植
の必要性である。脳死論争で有名となったハーバード大学医学部の特別委貞会報告で
は「不可逆的昏陸(後に一般に「脳死」と呼ばれるようになった)」を死の定義とし
て採用するための理由の一つとして、移植のための膿器の入手を可能にするためとし
ている。脳死推進派は、後には、脳死は臓器移植とは理論的には独立した問題である
と盛んに宣伝するようになった2)がわれわれは何やら偽善的なものを感じざるを得な
い。その理由を述べよう。まず移植がなければ脳死はこれほどの問題とはならない。
あるものが問題になるときその動機を無視できない。核兵器の研究は純粋に理論的興
味からだという主張にどれほどの意味があろうか。また脳死を死とするといった定義
は定義である以上科学的真実でもなんでもない。定義は約束であるからやはり動機を
無視できない。それどころか動機あっての約束である。新しい定義がその他の科学的
知見により良くマッチするということであろうが、それならば新定義はその科学的と
いう限られたサークルでの使用に限定されるべきであろう。あいにく「死」は優れて
非科学的用語である。愛するものの死あるいは家族の死に直面し、それをどのように
受け止め受け入れるかということは科学的知見とは何の関係もない。たとえばわれわ
れは誰もが4、学校で地動説が正しいと教わる。それは科学的には正しいのであろう。
しかしわれわれは相変わらず動かない大地の上を歩きまわり陽が昇る沈むと言って生
活をする。これは錯覚なのであろうか。そんなことはない。地震にでもならない限り
大地は動かないというのは平々凡々たる真実である。科学的真理とやらに義理立てし
て、 「朝には地球が自転して太陽が見えるようになり夜には見えなくなる」などと言
い直す必要などどこにもない。それと同様に、 「死」の定義を再検討し「脳死」をもっ
て「人の死」とする根拠などどこにもない。元気な臓器が欲しい3)という魂胆を除い
ではO
もちろんこの最後に述べた動機、すなわち移植のための臓器が必要であるという要
求は不当であるか、ということが問題になろう。膿器移植でしか助からない患者とそ
の家族から脳死の認知を待ちわびる声が伝えられる。その典型的なものを紹介しよう。
妻は膿器移植でしか助かる道がなく、そうしなければ余命一年と宣告されていま
す。そうした妾を抱え、中学生になったばかりの子供のことを考えると、わらにも
すがりたい思いです。現在、欧米諸国では脳死が認められ、臓器移植がさかんに行
われているというのに、文明国を自認する日本でどうしてできないのか、いらだた
しい思いで一杯です。生命の尊厳という点からは、脳死を認めるのがよいことかど
うかわかりませんが、命ということを考えたとき、一方は治る可能性がゼロ、もう
一方は手術いかんでは余命いくぼくかでも与えられるとしたら、皆様はどちらを選
篠原駿一郎
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ぶでしょうか。4)
この家族の切なる願いに心を動かされないものはない。そしてこの患者の治療に献
身する医師の心情のヒューマニズムを疑うものはないであろう。脳死を人の死として
認めることの利益はこのような移植を望む患者やその家族を助けるということに止ま
らない。脳死者自身が果たしてそのような状態で生かされ続けることを喜ぶであろう
か。そういう状態は患者自身にとって不幸なだけでなく、むしろ人間としての尊厳を
傷つけられることにならないか。生命維持装置のスイッチを切ることは脳死者に対す
る一種のヒューマニズムである。さらに脳死者の家族にとってはどうか。いつまでも
生きていて欲しいという思いはあるものの、いつまで続くか分からない昏睡状態を見
守り支えていくのは精神的にも経済的にも大変な重荷になろう。しかし人工呼吸器の
スイッチを切ることは、こんどは、自らの手で患者を死なせるという罪の重荷を背負
わなければならない。もし脳死が法的にも認められていたならば、医師が当然ながら
スイッチを切るであろうから家族はその死を受け入れることにのみ耐えればよい。こ
れは脳死患者を抱える家族の為のヒューマニズムである。さらに社会的観点から医療
資源の問題がある。脳死患者を維持するには忽ちに数十万数百万円の資源が失われて
いく。そのようなことが社会正義の上からも許されるであろうか。これは社会という
人間集団に対する反ヒューマニズム的行為ではなかろうか。
しかし脳死を死とした場合、普通にはもちろんスイッチは切られる。しかし膿器移
植を考えた場合には直ちにスイッチが切られるわけではない。この死体に繋がれた機
械のスイッチは、もはやこれが死体である以上いつでも好きなときに切ることができ
るということである。呼吸や循環が維持された状態で遺体は保存される。脳死先進国
スウェーデンの法律では、脳死判定後の一切の治療行為を禁じているが、臓器移植に
必要なときには治療の継続ができるという。科学が進めばこの脳死期間はいくらでも
拡大される可能性がある。われわれはそのような科学的情熱を知っているはずである。
その結果どのような状況がもたらされるか。われわれと基本的に同じ立場に立つハン
ス・ヨナスは次のような恐れを枚挙している。5)
死者の肉体を生き生きした臓器の貯蔵庫にする
ホルモンやその他の生化学的化合物の製造工場にする
手術による傷をなおす自然力を生きたまま保存する
自動的に補充される血液貯蔵庫にする
研究のため外科的実験や移植実験をする
免疫学的研究のため病気に感染させたり薬品のテストをする
医学教育や解剖学とか生理学の実地教授や実地訓練に使う
脳死を死と認めることから帰結するかもしれないこれらの状況をわれわれは受け入
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れられるであろうか。ヨナスがこれに続けて危供するように、いったん「脳死」が
「人の死」として再定義されてしまうと、 「連体の諸々の臓器の価値を最大限にするよ
うに、近代的な手段をフルに役立てるということ」を考えるべきではないという理由
は失われるということなのである。しかもこれに資本主義の市場論理が加わる。希少
価値のある膿器をめぐってその売買が経済活動に組み込まれていかないという保証は
ない。現在世界市場に出回っている血液がビューマニスティックな献血で賄われてい
るなどとは誰も思ってはいないであろう。しかもそのように臓器が人道的であれ経済
的であれ価値があるということになれば死の判定は次第に時間的に前へ前-と促進さ
れるであろう。 「脳死」は現在では「全脳死」をいう場合が多いがこれが「大脳死」
すなわち「植物状態」へと越えていく論理的ハードルはそれほど高くないように思え
る。このようにして自己主張のできない脳死者の生存権は次第に侵食されていくので
ある。また医療資源の問題についても、脳死者の維持費だけでなく、移植を受けた患
者にかかる資源も考えなければならない。臓器移植はそれ自身多額の費用がかかる医
療である。そのことは結局は社会の負担を増大するごとになるということも考慮に入
れなければならない。
あなたが早々に死体になることで多くの人命が助かるという当面のヒューマニズム
は実現されるかもしれないがそのことから帰結する大きな反ヒューマニズムに気づく
べきである。われわれはそのような帰結をそう軽軽に受け入れることはできない。わ
れわれの道徳的感性は上に述べたような状況を受け入れることはできない。われわれ
ということは私もあなたもわれわれの社会もということである。もちろん私があなた
たちの感性を推断することは借越であろう。それならば、謙虚に、あなたはそのよう
なヒューマンボディショップがあちこちの大病院に併設されているような社会を受け
入れられますかと尋ねたい。
3 「脳死」を「人の死」とするのは合理的であるか
われわれはこれまで、脳死を人の死にすることはヒューマニズムであるという第一
の深きの石を批判してきたoしかし、再定義が膿器移植という意図によって不自然に
生み出された問題であるにしても、言われてみれば確かに脳こそが精神の座であるの
であるから、脳死こそが本当の死であると考えるのが合理的ではないかと論じられる
であろう。これが第二の撰きの石である。脳死支持者の多くの議論はこの合理性に訴
えようとする。したがって、いつまでも脳死に反対するのは非合理な蒙昧であるとい
うのである。蒙昧を一掃するのはしたがって啓蒙あるのみである。たとえば、 「日本
独自の死生観とかとか宗教観とか、あるいは日本的風土の下では、脳死とか臓器移植
篠原駿一郎
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はなかなか進まないというふうな議論をする人があるんですけれども、そういう風土
みたいな漠然としたわけのわからないものを持ち出すっていうことは、どうも私は、
賛成できないんですね、やっぱり合理的に議論をしていくべきではない、か。6)」とか、
「とにかく死の判定に宗教とか、道徳とか、倫理、哲学を包括した人間感情を介入さ
せようとするのは、人間が俗信、または迷信にとらえられていることを示す以外の何
ものでもないというのが、私の考えです。7)」といった発言にはそのことがよく現れて
いる。
いったい脳とはなんであるのか。それは神経細胞という物質の集まりである。われ
われはこの脳こそ精神の住処であるというもっともらしい話にすっかり慣らされてい
る。したがって脳が死んでしまえば意識は存在せずもはや人格は失われてしまったと
考えるのは自然である。そもそも「脳死(BrainDeath)」という述語にはそれ自身
トリックを含んでいる。脳以外の臓器については普通には肝臓が死んだとか腎臓が死
んだとかは言わない。肝不全とか腎不金である。 「脳死」の場合には脳が破壊されて
いるという意味だけでなく同時にそれによってその人も死んでいるという意味をも連
想されてくる。 「脳不全」とでも呼ばれていたならば「脳死」の場合よりも「人の死」
との繋がりは大分緩やかになったのではないだろうかと疑いたくなる。それはともか
く科学者はどうして脳を精神の座と決め付けてきたのであろうか。心とは脳の働きで
あるとはどういうことなのか。それは脳の特定の部分に損傷を受ければ特定の精神作
用が失われるという経験的な事実の蓄積からくる確信である。たとえばある部分が損
傷を受けたために味覚障害を起こし美味しいワインが味わえないとしよう。これはワ
インの美味しさが脳にあることなのであろうか。そんなことはない。誰でもが日常普
通に「このワインは美味しい」と言うように、ワインの美味しさはまずもってそのワ
インにあるのである。脳が傷害を受ければワインを味わえないことはその通りであろ
う。しかし舌や喉が損傷を受けてもワインは味わえないし、何よりもそのワインがな
くなればその美味しさを味わえなくなるのは誰もが経験する通りである。つまり美味
しさというのは脳の神経細胞やその他諸々の身体器官そしてワインそのものによって
生み出されるものなのである。心というトータルなものも脳や五臓六肺そしてわれわ
れの身体の外にある世界の連携によって生じるものである。五官なしにあるいは世界
なしに脳がそれ自身で何ができるか私には想像もつかない。確かに、先のヒポクラテ
スやプラトンそしてデカルトは心が脳に依存すると考えたようだがアリストテレスは
心臓に心の座を求めたという。また孔子は脳のことを考えず漢方にも五臓六肺のみで
脳はないという。私などは幸いに目が見えるものだから心はどうも目にあるような気
がしてならない。目をつぶったときはそれでも験の裏にあるような気がする。それは
ともかく、われわれの多くが心の座を脳に求めるのは近代の科学的宣伝教育の成果で
「死」の再定義は必要か
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ある。
ところで脳に精神あるいは意識の座を求めるもう一つの科学的根拠は、さまざまな
検査機器による証拠であろう。たとえば、われわれにも知られたその代表たる脳波計
を考えてみよう。ここではそれに関する細かい科学的知識は必要ない。これが脳の活
動すなわち精神作用の重要な証拠と見倣されているということだけで十分である。す
なわちその計器は脳波が感知されれば精神作用があるというように規定され作成され
た計器である。したがって特定の脳についての検査で、脳波が認められればその脳に
は意識作用があるというのはト-トロジカルに真である。しかしそのことから脳波が
なければ(平坦であれば)精神作用、はないということは論理的に帰結しない。やさし
い比橡を用いよう。隣の部屋から話し声がすればそれはそこに人がいるということの
証拠にはなろう。だからといって話し声がしないことはそこに人がいないことの証拠
にはならない。しかも計測者が隣の部屋に入ることが原理的に不可能であるとしたら、
どんな計器を用いても隣に人がいないことの十全な証拠にはならない。それと同様に
われわれは意識あるいは精神そのものを感覚的に直接に捕らえることは原理的に不可
能であるのだから、精神の不在を計測するどんな計器も原理的に作り得ないのである。
科学的計器というものはそれが持って生まれた物差しに従うのみでそれを超えること
はそもそも不可能なのである。それはつまり、脳死の科学的検査で精神の不在を確認
することは原理的に不可能であるということなのである。
さらに脳死を人の死とする考え方にはもう一つの概念的混乱がある。脳の全面的損
壊がその結果として心の全面的喪失をもたらすとしても、それは心の喪失の原因であっ
て死そのものではない。たとえば眼底出血が視力の喪失をもたらすとしよう。それは
いわば眼球の死であろうが眼底出血がこの眼球の死の定義にはならない。眼球の死は
それが眼球としての振る舞いすなわちものを見るという振る舞いを失ったということ
であろう。したがって脳死状態は心の喪失の大きな原因ではあるが人の死の定義とは
なり得ない。しかも脳の働きによってもたらされる振る舞いのみが人格のすべてでは
ない。髪の色も血色も目鼻立ちから脚の長さも含めたもっと複合的な総体としての振
る舞いがその人の人格を形成するのである。
「死」という概念が科学的に使われるのはそれはそれで結構である。しかしわれわ
れがこの世界で生きそして死んでいくというコンテクストはもっと混沌とした複合的
なものなのである。死とはそもそも連続的なプロセスであってそのどの点が死である
か、それを決めるような科学的根拠はない。それは科学が十分に発達していないから
ではなく、原理的に科学的な問題ではないからである。心膿死であれ脳死であれ科学
的基準を作ることは可能であろう。科学的にある状態を死としたければそれが科学的
死であるOそれは一種の論理的トートロジーにすぎないO何がわれわれにとってポイ
篠原駿一郎
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ント・オブ・ノーリターンであるかということは、上に言及されたような、死生観・
宗教観・風土・道徳・倫理・哲学・感情・俗信・迷信といったものが津然一体となっ
て醸造されたもの、あえて一言で言えば文化とでも言うべきものである。科学的真理
などという甘言に惑わされて「脳-人格」といった短絡的発想を止めることである。
そうすれば「脳死-人の死」という短絡的結論に誘導されないであろう。
それでは心は人格はどこにあるのか、その存在をどのようにして知るのか。簡単に
答えると、もう既に言及したことだが、人の心はその人の人らしい振る舞いの中にあ
る、としか言いようがない。その人の人らしい表情や振る舞いによってわれわれはそ
の人の心あるいは意識の存在を感じるのである。そしてこの表情や振る舞いには暖か
い肌や息遣いももちろん含まれる。したがって、死は、時代が変わろうとも社会が異
なろうとも大抵は、その人の心の証である表情やさらには呼吸や循環という平凡な振
る舞いの終幕である。脳死状態にある人は、そのような人としての振る舞いのもっと
も弱まった人のことである。しかしもちろん死者ではない。科学的合理性とは科学的
という閉ざされた領域での合理性であって、 「死」といういわば開かれた世界での概
念の働きとは基本的に異なるものである。
4死の判定は医師の仕事であるのか
われわれが深きやすいのはこれまでに論じた二つの石に止まらない。これから論じ
る第三の石に深くのは冒頭に挙げた「人の死の確認は医師の専権事項である」の誤解
から生じる。
そもそも死は非常にわかりやすい自然現象である。このことは「はじめに」でも述
べたo 「死」概念の内包は古今東西同一であろうOたとえば「首」と「neck」の意味
に多くのずれ、たとえば「首」は「head」までをも含み得ること、があることはよ
く知られているが、それと同様に「死」と「death」にも意味の違いがあるとは思わ
れない。ただしその外延はときに唆味なことがあ ̄ろう。つまり「死」概念の適用に迷っ
て「これは死んでいるか」 「あれは死んでいるか」という問うことはある。生を死と
見誤るということもあるし、いったん停止した呼吸が回復したりするということもあ
り得る。そのため、たとえば日本の法律は24時間以内の埋葬火葬を禁じている。しか
しこのことは死が唆味な概念だということにはならない。呼吸や循環の喪失が死であ
るという平凡な事実は変わらない。もっと平凡な言い方をすれば、息をしていない、
冷たくなってしまったということである。そしてこの平凡な「死」という概念の適用
に迷うことがあるということにすぎない。喰えて言えば、われわれは暗闇に枯れすす
きを人影だと思い誤ることはあるが、そのことはわれわれが「枯れすすき」や「人」
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の概念を明確に了解していないことにはならないのと同じである。
したがって医師の死亡診断を必要とするということは医師のような専門家が死のこ
とを本当に知っているということではない。医師は死という平凡な事実が本当にそこ
にあることを確認するのであって、どのような事実を死とするかという定義的判断を
しているわけではない8)。つまり死亡診断は医師の専権事項と言うとき、医師は呼吸
や循環が本当に停止しているということを確認しているのであって、呼吸や循環の停
止を「死」と定義すべきであると主張する権利を行使しているのではないということ
である。そしてこの呼吸や循環の喪失が医学的に表現すれば三徴候によって確認され
るということなのである9)。先の例を使えば、枯れすすきか人影かはっきり確認する
ために、医師は懐中電灯で闇を照らしてその正体を明らかにすることができるという
ことなのである。その区別が死の場合のように重要なことであれば、そのように対象
を確認するように医師に専権事項として依頼しているということなのである。したがっ
てこれは前節の議論とも関係するのであるが、 「脳死」を「人の死」と定義するとい
う権利は医師にも科学者にも合理主義にも存在しない。仮にわれわれが脳死を人の死
であるとするような時代が来たならば、医師はそれにしたがって脳死による人の死の
確認を医師の専権事項として行うことはあろう。
しかしながらこの脳死による人の死の確認の場合にはまた違った困難が伴うであろ
う。それは心臓死と違って脳死の判定の場合には医師のような専門家あるいは高度な
検査機器に頼らなければならないということである。心臓死の場合には医師が判断し
遺族がそれに納得するというのはごく普通に可能である。しかし脳死状態の判定に対
してはわれわれはただ一方的に告げられのみである。したがって脳死を人の死とした
場合、脳死者当人は固よりその家族にとってその判定に対しては疑義の申し立ては不
可能に近くただその判定を受け入れるという以外に道はないであろう。これは患者の
自己決定権が容易に侵害されやすくなるという状況である。スウェーデンでは脳死者
の治療を禁止しフランスでも本人の同意無しで臓器移植ができるようになったという
ことを見ても、この世界の趨勢は、死が患者や家族すなわちわれわれの手から隔離さ
れ医師といった専門家の手に移りつつあることを示唆していると言えるであろう。ま
た、死は心臓が停止してから脳機能の停止に移る場合と脳が先に損傷を受けて心停止
に至る場合があるということから、前者の場合は心臓停止で死を判定し後者の場合は
脳機能の停止で死を判定するという案も出されている10)が、これなどは死の判定にま
すます窓意性が加わることになろう。いずれにしても脳死による死の判定はわれわれ
の文化のコンテクストにおける死とは大きく魁擬せざるを得ないであろうOこのよう
な死を果たして受け入れることができるかどうか私には疑わしく思える。
72
篠原駿一郎
5脳死にどのように対応すべきか
われわれは脳死を人の死であると再定義することに危供の念を示してきた。しかし
ながら脳死者を生きた患者として扱うことにも大きな問題があることを直接的にまた
間接的に示唆してきたつもりである。それは先に言及したハーバード委貞会の「死の
再定義の必要性」のもう一つの理由に簡潔に述べられているように、いつまで続くか
分からない昏睡という重荷から、患者、親族、医療資源を救うこと、が必要であると
いうことである。たしかに、脳死について意見を求めると、多くの人々が自分が脳死
状態になったらスイッチを切って欲しいと答える。これは健康な人間の死に対する寛
大きの現れであることを割り引いても本音であることに間違いなかろう。患者の家族
や親族はもう少し脳死に揮措するかもしれないが、医療技術の発達でさらに脳死期間
が延長されればその負担は軽視できないであろう。尊厳死や安楽死の考えが広く支持
されるようになったとしても、患者がそれを自己決定できるチャンスは少ないであろ
うし、家族がそれに変わる決定をするにしても、それはそれでまた心理的負担も大き
く、またそのような死に方についての倫理的間蓬が絡んでくることは容易に想像でき
る。また全国の医療施設のベッドがが脳死患者で占領されるようになれば社会がその
経費を支えきれなくなることは根拠のない空想ではない。
われわれがこのような困難を克服し、かつ心膿死という自然な死にこだわるならば、
取るべき道は、脳死者を生きた患者として扱いながらも無益な治療を中止し生命維持
装置のスイッチを切ることである。脳死者が人としての十全な振る舞いをすることが
できない、そして十全な振る舞いに戻ることが不可能であると判断されたならば、そ
の患者の治療を断念せざるを得ない。どこで断念するかということはある程度は現代
医学の水準と相対的なものであろう。そしてスイッチを切るというのが患者に対する
愛情あるいは思いやりというものであろう。しかしこの患者は死者となったからスイッ
チを切られたのではない。脳死状態にある患者は死者ではない。厳粛なる生命の最後
の灯火を燃やし続けている生者である。それはそれで部分的ながら生者の振る舞いで
ある。しかし十全な振る舞いなくしては社会のメンバーとしての充実した生はないで
あろう。そのような生を継続することはそれこそ患者当人の尊厳に関わることであろ
う。治療を中止したのは十全な生-の回復の効果が期待できないので中止したという
平凡な理由からである。患者はやがては生者の証としての温もりを失い普通の意味で
の自然な死を迎える。そして脳死の判定のときではなくこの時がこの患者の死亡時刻
である。そもそも脳死を人の死としなければスイッチは切れない、脳苑を人の死とす
ればスイッチを切れる、というのが脳死の賛否の論争の袋小路である。これまでに、
われわれは、脳死を人の死と認めて遺体となった脳死者のスイッチを自由に操作する
「死」の再定義は必要か
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ことの帰結も、また脳死を人の死として認めずにスイッチを切らないことの帰結もい
ずれも受け入れがたいことであるということを見てきた。このアポリアの解決はどち
らの流れの延長線上にもないということである。取るべき道は唯一、脳死者(脳死状
態の者であって死者ではない)を患者として扱いながらもその治療の過程で不必要な
治療は打ち切るという極々平凡な対応をすることである。無駄な投薬はしない、無駄
な輸血はしないといったこれまでの医療と同じ原則に従いながら、たとえば生命維持
装置の使用が無駄であればそれを中止するということである。 「わが力を尽し、わが
誠の心を尽し病人の為に手立てを尽し、危害を阻止するように専心すべきであります。」
というヒポクラテスの誓い以来受け継がれてきた平凡な医療の原則は崩されることは
ない。 「病人の為に手立てを尽す」といことは、意味のあるあらゆる努力は惜しまな
いということであるが、意味のない治療を行わないことはその原則に触れることでは
なかろう。論理的には、治療に意味があれば全力でそれに手立てを尽すということは、
治療に意味がなければ治療を断念するということを帰結しないが、両者は矛盾しない
ことは明らかである。すなわち治療の断念が医の倫理の原則に矛盾しないことがここ
では重要である。もちろん個々のケースについて生命維持装置のスイッチを切る正当
性は十分検討されなければならないし法的な整備も必要になろう。たとえば十全な脳
死判定がなされれば医師がスイッチを切って法的な責任を問われないという保証が必
要であろう。しかしこのことは意味のない治療行為はしないという平凡で常識的な原
則に重大な変更を加えることにはならない。したがって社会的合意が必要なのは死の
定義ではなく、どのような振る舞いを人格の重要な部分とするかということである。
われわれは視力の喪失や知恵遅れ程度の振る舞いの欠損でその人格を認めないといっ
た判断にはだれも賛成しないであろうしすべきではない。脳死患者についてはどうで
あろう。その脳死判定が現在の科学的水準で十分にかつ慎重になされるならば、患者
の自己決定権、たとえば脳死状態になったら生命維持の措置をしないでほしいといっ
たリビング・ウイルのある無し、を考慮に入れながらも脳死状態はもはや十全な生の
振る舞いとしないということで社会的合意を形成してもよいかもしれない。
ところでわれわれはいま一つの重大な間複を残している。それは臓器移植を待つ患
者をどうするかということである。腎臓移植はすでに盛んに行われているが脳死腎に
よる移植の方が心膿死腎による移植よりも生者率にして二十パーセントほどよく、死
亡率も三分の一位だというOさらに肝臓や陣膿、そして心膿や肺の移植ということに
なると、日本ではまだほとんど行われていないが、脳死体からの減券摘出がどうして
も必要になる。しかしながら、脳死患者が死者でないとなるとそこからの膿器は得ら
れないことになる。人工臓器も移植臓器に匹敵するほどのものの開発はまだまだ現実
的なものとして見えてくるはどのものではないという。ということは移植医療は人工
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篠原駿一郎
臓器開発までの場繋ぎ程度のものではすまないということである。そのような悲観的
状況の中で脳死を認めないということは、これらの移植を待つ患者は見捨てられるべ
きであるということなのであろうか。脳死という状態が作られることもなく移植の可
能性も示されなかったならば、これらの患者は不幸な病気に遭遇した人生を受け入れ
るしか道はなかったであろう。しかしながら臓器移植という一律の光明を見せられた
後でそれを消すのは限りなく残酷な行為であろう。しかしこの残酷さは容記せざるを
得ないのではなかろうか。たとえばハイジャック事件のとき「人の命は地球より重い」
として犯人の要求に応じて乗客を助けることはできる。しかしそのことによって同じ
犯罪が続出すれば国際社会の正義はどうなるか。目前のヒューマニズムの為に大いな
るヒューマニズムが侵害されることにならないか。もちろん、犯人の要求に屈しない
ことがハイジャックの防止になるのと同様に脳死を認めないことが臓器移植を必要と
する病気を減少させる、という訳ではわけではない。したがってこの比喰は必ずしも
適切ではないし脳死を人の死とすることの否認の方がより巌しいものがあるのは事実
である。しかしながら、当面のヒューマニズムを取るべきか、それともより大きな、
しかしすぐには見えにくいヒューマニズムの崩壊を防ぐべきか、その厳しい選択を迫
られていることは確かなように思える。
醍
1)中山太郎締着「脳死と膿器移植」 (サイマル出版会、 1989年) p8に再定義推進派の率直な
まとめがある。 r脳死状態の患者から元気な心膿を取り出すには、確実に抱えなければな
らないならないハードルがある。第一は「脳死という概念を碓立すること」。二つ目が
「脳死という状態を判定する基準を確立すること」。そして最後のハードルが「脳死という
状態が人の死であるという概念を確立すること」なのである。現在の日本は、二つ目の
「脳死判定基準の確立」というハードルをなんとか趨えて、最後のハードルの「脳死は人
の死という概念の確立」にさしかかった境といえよう。」
2)たとえばH本移植学会編「脳死と心漉死の間で」 (メデカルフレンド社、 1983年)のp8485で水野肇はr脳死と移植は切り耕して論議すべき」と主張する。
3)このような露骨で正直な表現は私が最初に使ったわけではない。前註1参照。
4)中山太郎の前掲書pll2cここには現場の医師患者の多くの声が紹介されている。
5) H.T.エンゲルハート、 H.ヨナスほか著(加藤尚武・飯田亘之常) 「バイオエシックスの
基礎」 (東海大学出版会、 1988年)の中の、ハンス・ヨナス(谷田信一訳) 「死の定義と再
定義」 p230。ただし引用の部分は筆者が適当にまとめた。
6)加藤一郎・竹内一夫・太田和夫・新美育文著「脳苑・臓器移植と人権」 (有斐閣、 1986年)
pl32 (加藤一郎)
7)前掲書「脳死と心臓死の間で」 plOl (宮城音弥)
8)たとえば加賀乙彦編「脳死と臓器移植を考える」 (岩波書店、 1990年)の中で、法学者の
中谷連子は加賀との対談で、 rサビニーという十九世紀のドイツの代表的な法律家がいる
のですが、その人が言うのには、 「人の死はあまりにも単純な自然現象なので、出生の時
点とはちがってその要素を厳密に確定する必要はない」」という話を紹介しているが、そ
れに続いてr死んだあと髭が伸びたとか、お棺の中で蘇ったという例もあるのに。 -三兆
「死」の再定義は必要か
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候説でもまちがいがあり得るのです。」と述べているが、これなども「死」概念の唆昧さ
と、その通用の唆昧さとの混同である。 「死」の意味は明瞭だが適用を時々間違うのであ
る。
9)このことは、長崎大学生命間蓮研究会編「現代の生命像」 (九州大学出版会、 1993年)の
拙論r「脳死」と「人の死」j p69-70でやや詳しく論じた。
10)前掲書「脳死・臓器移植と人権」の中での移植外科医太田和夫の発音p118
(1996年4月30日受理)
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