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精神保健における共感と良心(前半)

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精神保健における共感と良心(前半)
高知大学総合教育センター修学・留学生支援部門紀要
第
号
特別寄稿
精神保健における共感と良心(前半)
クリストファー・ギルバーグ
要
旨
他者の心の中で起こっていることを理解する認知的能力である共感の発達の問題、
特に、直観的な共感能力の欠如はアスペルガー症候群を含む自閉症スペクトラム障害
の根幹の問題である。一方、自分の将来の行動の善悪を何らかの基準のもとに区別す
る認知的な能力としての良心の欠如は、共感能力の存在を前提としており、精神病質
と深くかかわり、幼児期に反抗挑戦性障害と
を併せ持つ群の一部は精神病質に
発展するリスクを有している。これらは、早期に発達的介入がなされれば改善する可
能性があり、その鍵となる概念が現在全く別の状態として研究されている、自閉症や
、トゥレット症候群などの状態を概括する
達的臨床所見による早期徴候症候群)である。
(神経精神医学的 神経発
に基づいた早期発見と早期
の治療的介入は単に発達臨床の分野にとどまらず、優れて公衆衛生的な問題であるこ
とを認識する必要がある。
【キーワード】
共感、良心、自閉症スペクトラム障害、精神病質、
図
図
また再び高知に、この素晴らしい場所にお招きいただきありがとうござい
ます。もっと早くこんな素敵な場所が世界の中にあることを知るべきだった
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第
号
と思っています。
さて今日のプレゼンテーションでは、私が
(
神経精神医学的 神経発達的臨床所見による早期徴候症候群)という術
語で意味しているものについてその概要を説明したいと思います。この概念
は、例えば
のような診断マニュアルに入るような術語ではなく、我々
が現在全く別の状態として研究している、自閉症や
、トゥレット症
候群などの状態を概括するものです。
これらの状態は、実は、非常に明確に分けられるわけではないのです。そ
れらはお互いに、そして多くの他の問題に重複し、遺伝的、環境的基盤を共
有しています。そして
歳までの幼児の場合、それが自閉症であるのか、
であるのか、トゥレット症候群であるのか、学習障害であるのか、
言語発達障害であるのか、あるいはてんかんなのか、あるいはいくつかの状
態が一人の子どもの中に併存しているのか、ということをいうのはしばしば
非常に困難です。したがって
という概念は、このような神経発達
のすべての分野についてのあたらしい考え方として提示されたものです。こ
れについては畠中先生がすでに詳しく紹介してくれましたが、この後私自身
の研究と臨床からえられたことのいくつかについて述べることにしたいと思
います。
児童の精神保健と精神医学の領域で私が仕事をはじめたのは
年前のこと
ですが、ずっと臨床と研究の両方を行ってきました。そしてよい臨床的研究
を行う最良の方法は、臨床家としての実践と同時に研究者として研究を行う
ことであるとずっと考えてきましたし、今もそう考えています。臨床研究を
行うものが患者を見なくなるのは良いことではないと考えていますが、現実
は世界中で、自閉症の分野で、
の分野で、トゥレット症候群の分野で、
そしてそれ以外の分野でも、患者を見ない研究者がたくさんおり、彼らは理
論を実証することのみに明け暮れています。彼らはこの理論で自閉症を説明
することができる、あの理論でトゥレット症候群を説明することができる、
などと考えていますが、現実に日々実際の患者をみていれば、真実は一つの
理論で説明できるほど単純ではない、ということが分かるはずです。私は今
までスウェーデン、それ以外のスカンジナビア、ノルウェー、デンマークで、
スコットランド、ロンドン、そしてフランスで、近年はフェロー諸島でも研
究に参加をしてきました。そしていつかこの場所でもそれができれば、と希
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望しています。
図
さて、
図
という考え方の背景を説明するために、別のふたつの概
念─“共感
”と“共鳴
”
、“良心
”─について述
べようと思います。実際、“共感”という言葉は何を意味しているのでしょ
うか?
我々は“共感”という言葉をどのように用いるのでしょうか?そし
て、それはどこから由来するものなのでしょうか?
は
実は、この言葉の歴史
年あまりにしかすぎません。この言葉はドイツ人の医師たちによって、
他者の心の中で起こっていることを理解するために、
少なくとも理論的には、
ほとんどの人が可能性として持っているものを表現するために、
年ごろ
に創られました。
テオドール・リップスらがこの言葉を定義して、ドイツ語で“
他人と感情を共有すること、と訳しました。ギリシア語の “
”
、
”の
意味は、感情、誠意、あるいは単に感覚です。本来それらを意味するのは
“
”という言葉であり、
“
”は、他者がどのように考え、感じ、
環境に反応するかを理解するために他者の位置に立つことができる能力をあ
らわしています。
ジグムント・フロイトは、この言葉を、少なくとも理論的には、我々皆が
どのように他者の心を想像し展望するか、
を表現するものとして使いました。
それが彼の意味する“共感”であり、 世紀の初頭においてほとんどの人々
がこの意味で、つまりそれにより他者を展望する、他者を展望できるものと
して“共感”を理解していた、と思われます。そしてこの意味では“共感”
は、その定義から考えても認知的概念であり、感情的概念ではありません。
それは他者の心の中で起こっていることを理解する認知的能力です。
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そして、我々はそれがどのようなものであるかについても思いを巡らせる
ことができます。 この人は今、自分のことについて考えているのではない
だろうか
あるいは、 この人は今、自分の母親について考えているので
あるいは、 この人は今、私のことを考えているのでは
はないだろうか
ないだろうか
はないか
あるいは、 我々は今、考えを共有することもできるので
などということを、我々は他者にそれを尋ねることをしなくて
も、例えば、たぶんこれがいまこの友人の心の中で起こっていることであろ
う、と推測することができます。これが、“共感”の意味することすべてで
ありますが、他者に共鳴することは必ずしも必要ではありません。
例えば、あなたが、あなたの友人が今、昨日の出来事について考えている
にちがいない、と理解すること、これがまさに共感的な思考ですが、ひょっ
としたらあなたは、その時に、彼が昨日の出来事について考えていることは
好きではない、と思うかもしれず、その時の彼にあなたは全く共鳴をしない
かもしれません。それでも、あなたには、彼の心の中で何が起こっているか
を理解する能力があります。彼の考えを好きであることも嫌いであることも
その能力のために必要なものではありません。あなたは彼に共鳴するかもし
れないし、反感を持つかもしれない。あるいは、全く中立的であるかもしれ
ません。“共感”それ自体は中立的な術語です。
“共感”という言葉は
この人物が好きだ 、あるいは、 私はこの人物が嫌いだ
私は
ということは意味
していません。ただ、 あなたの心の中で起こっていることを私は理解する
ことができる ということを意味しているだけです。あるいは、少なくとも、
何が起こっているかを想像することができる、ということです。
図
図
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残念ながら、“共感”という言葉は少なくとも欧米圏では、徐々に少し違
う意味を持つようになりつつあります。欧米圏のほとんどの人々にとって、
“共感”は“共鳴”を意味する言葉になりつつあるのです。しかしこのこと
は大きな問題です。なぜならば、それが全く本来の“共感”の意味ではない
からです。“共感”は、他者の心の中で起こっていることを理解する認知能
力であり、それ以外ではありません。この人はあるものを欲しがっている、
この人はある考えを持っている、それを理解することができる、ということ
が“共感”ということであり、ある人のすることに共鳴する、あるいは反感
を持つ、ということは意味していないのです。“共感”は、かつてフッサー
ルが間主観性、すなわち二人の人間がコミュニケーションする意図のもとに
やりとりをする際にそれを可能とするもの、として記述したものの基盤でも
あります。事実、彼らは互いに言語だけでなく、 語られない言葉
を持っ
てお互いを理解し合うのです。
“共感”は、このことの基盤にあるものです。
もし、他者の心の中で起こっていることを理解する能力を我々が持ってい
なければ、どうやって我々は他者とコミュニケーションを取ることができる
のでしょう。他者には他者の心があり、その他者の心の中に今なにがあるの
かを理解することが、能動的なコミュニケーションの基盤にあります。一方
で、“共鳴”はこの“共感”が感情的に色付けされた状態です。あなたが他
者の物の見方が嫌いであるとき、あなたは反感を持ちます。他者の考え、言
うこと、反応を嫌うことを“反感”と呼びます。しかし、あなたは他者の考
えや言うことを非常に気に入り、感情的に引き付けられ、そして、 これは
本当にいい。私は本当にこれが好きだ と考えるかもしれない、そういう時
はあなたの“共感”は“共鳴”の方向に動いています。あなたの“共感”に
感情的色付けがなされ、
“共鳴”になります。そして、
“共鳴”
、あるいは“同
情”
、“思いやり”ともいわれるこの心の働きは良心や後悔というものの根源
にあるものです。“良心”を持つことによって、この人に私がしたことはあ
まりいいことではなかったかもしれないと考え、あるいは、私がしたことは
悪いことだったと考えることができるようになります。そして、自分のした
ことを後悔しはじめ、 私は悪い、なぜならあんなことをしてしまったから
と考えることができるのです。
あるいは、他者に対して非常に思いやりを持つことができる自分自身を良
い、と感じることができるかもしれません。しかし、私がここで言いたいこ
とは、
“共感”と“共鳴”は同義語ではない、ということです。
“共感”は“共
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鳴”の必要条件ですが、“共感”的であるから“共鳴”している必要はあり
ません。これらふたつはお互いに関連していますが、同じものではありませ
ん。“共感”は全く認知の問題である一方、
“共鳴”はその認知的な機能が情
緒的、感情的に色付けされたものです。
図
図
さて“良心”についてです。
“良心”とは何でしょう。
“共鳴”や“思いや
り”、“同情”と関係のあるものとして先ほど少し触れました。自分の将来の
行動の善悪を何らかの基準のもとに区別する認知的な能力として、“良心”
という言葉はほとんどの本の中に記載されています。したがって、これはし
てはいけないことだ、あるいはするべきことだ、とあなたに教える規範をあ
なたが持っており、それに基づいてこれをすべきか、すべきでないか、とあ
なたは考え、そして
規範からはずれたことをしよう
と思った時に、おそ
らくあなたの良心が、あなたに何らかのレベルで、 それをしてはいけない
と、語りかけてきます。そして
それをしてはいけない
と感じたにもかか
わらず、その行為を行ったとしたら、ほとんどの人が良心の呵責を感じ、そ
れをすべきではなかった、と感じます。このように、“良心”は善悪の判断
を可能にする我々の能力なのです。そしてもし、 規範に基づくならば、私
は正しいことをしなかった と感じたなら、あなたは少なくともある程度の
良心の呵責を即座に感じます。時には、そのことに対して何らかのいいわけ
をすることもできるかもしれませんが、いずれにしてもほとんどの人は我々
が“良心”と呼ぶ能力を持ち、良心の呵責を感じることができるのです。
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図
第
号
図
ここでしばらく“共感”と“共鳴”
、
“良心”といったことから離れて、自
の中に位置付けられている概念について述べたいと思い
閉症のような
ます。現在、“自閉症”という言葉は大変非生産的な形で使われており、さ
まざまな種類の他の言葉と組み合わされ、自閉症から、幼児自閉症、児童期
自閉症、自閉性障害、自閉性スペクトラム障害、自閉症スペクトラム障害、
自閉症スペクトラム状態まで、あらゆる種類の“自閉症”という言葉との組
み合わせが見られます。それから“アスペルガー症候群”のような、現在で
は“自閉症”という言葉を含まないものもありますが、ハンス・アスペルガー
がこの状態像を記述した時にはこの言葉は含まれていました。彼はそれを自
閉性精神病質として記述しましたが、もちろんそれは、我々が現在、実際に
精神病質として認めているものとは違うものです。
精神病質は、ほとんどの人の心の中に反社会的な人格の問題とほぼ同じ意
味で思い浮かびます。しかし、アスペルガーが彼の状態像について記載した
時、彼が自閉性精神病質と呼ぶことで意図したのは、我々が今日、同様の言
葉を使って示すと同じような意味での自閉的人格障害でした。
そして、
(
)
、すなわち広汎性発達
障害という言葉、特に、
(
)
、他に特定不能の広汎性発達障害という言葉があります。
これらは新しい
、あるいは
には登場しない概念です。あたらしい
では、
の記述はない予定です。あるいは、現在は自閉症
として記述されているが、過去においては
として記述されていたもの
である、という脚注が付くかもしれません。また非定形自閉症、あるいか自
閉症様状態、自閉的特性、広義の自閉症表現型などの言葉がありますが、す
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べての術語は、その概念の根底に何らかの自閉症的なものの存在を想定して
使われています。
それでは現在、自閉症はどのようなものであると考えられているでしょう
か。私を含めたこの分野研究者の多くは、単に神経発達障害の一つのグルー
プであると考えています。それは、かつて
年から 年前に我々が信じてい
たような特異的なものでは全くないのです。マイケル・ラターが彼の教科書
を
年に書いたときでさえ、彼は自閉症を児童精神医学の分野において
本の指に入る最も輪郭の明瞭な疾患である、としましたが、現在ではだれも
自閉症を疾患であるとは考えていません。しかしほんの
年前は、個別的な
疾患であると信じられていたのです。
それは単に一つの症状の組み合わせというより、いわば同じ軌道上にあり
お互いがお互いを引き起こし、お互いがお互いに関係しているものとして考
えられ、その根拠として
人あるいは
人のこの臨床診断を持つ子どもた
ちを調べると、これらの症状はお互いに統計学的に関係していることが言わ
れてきました。これらの症状は一貫して特有であり、したがってこれによっ
て我々は自閉症を定義する、としたのです。しかし、これは一種の循環論法
になってしまっています。
実際、レオ・カナーが
年に自閉症の報告をしたときから、我々が自閉
症を定義する際にしたことは、彼がそれについて述べたことを聞くだけのこ
とであり、そしてそれ以降彼のそれについてのイメージを採用し続け、これ
らの事象が診断をつけるために存在していなければならない、と決めてきま
した。しかし我々は、そしてカナーも、そのことが外的妥当性を持つのかど
うかについて検討をしてきませんでした。したがって、これが本当に疾患で
あるということに関してのいかなる証拠も得られてはいません。
それはどのように表れてくるのかということについての最初の段階から、
一人の人間の概念に依拠し、我々はただそれを採用し続け、その概念を彼ら
は明確な反復的・常同的行動と自閉的孤立を有していると繰り返し断言し続
けてきたのです。もしそれがある子どもに見られれば、すなわちその子は自
閉症ということです。
そして何年も後に、ローナ・ウイングがキャンプベルで大規模な疫学的研
究を行いました。彼女は、ロンドン南東部に住んでいてどこかの機関に何ら
かのハンディキャップがあるとして登録されていた子どもの記録を一人残ら
ず確認し、それらの子どもすべてを直接会い、自分が観察したそのすべての
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症状について非常に注意深く記録しました。そしてそのデータに統計的な処
理を行いました。その中で彼女が発見をしたのが、三つのグループの症状が
これらの中の一群の子どもたちに常に同時にみられる、ということでした。
この一群の臨床的な印象は自閉症であり、そのことから彼女は、社会性の問
題、コミュニケーションの問題、そして想像力の問題の三つのタイプの症状
がそこにあると考え、それを社会性の障害の三つ組の症状として言及しまし
た。そして現在では、世界中でこの三つ組の障害がすなわち自閉症である、
とみられるようになっています。社会的コミュニケーションと想像力 行動
の問題が障害によって影響を受けているところであり、同じ個人に同時にこ
の問題が見られるのであれば、我々はその個人を自閉症であると信じ、その
診断をつけます。
しかし、この 年間で新しい研究がなされるようになり、その中で示され
たのはこれらの三つ組の症状と呼ばれるものが、単に相互的な関係がありあ
る程度の認知障害の状態においてただ一緒に出現しているだけである、とい
うことでした。知能指数がおよそ
以下である場合にだけ、この三つが見ら
れました。その場合には、一つがあれば後の二つは確実にありました。しか
しもし知能指数が約
のときには、それらがいつも一緒に結びついている
ことを示唆するものは何もありませんでした。その場合はすべての社会的な
問題を持っている可能性がある、すべてのコミュニケーションの問題を持っ
ている可能性がある、すべての行動の問題を持っている可能性がありますが、
それ以上のことは言えませんでした。
そしてこのことは、近年異なる遺伝的背景とも関連付けて論じられていま
す。ある人たちは、我々が典型的であり自閉症の診断に直結すると思うよう
な社会的障害をはっきりと明らかに遺伝的に受け継いでいます。そして別の
他の人たちは反復的、儀式的、衒学的で融通の利かない行動を遺伝的に受け
継いでおり、それらが同じ家系から来ているわけではありません。そのよう
な知見から、三つ組の症状は解体されつつあります。もはや自閉症の三つ組
の症状は三つ組ではなく、新しい
においては“二つ組”とされるでしょ
う。第一は、社会性とコミュニケーションの障害で、今ではこの二つは全く
一つの同じものであり、すでに述べたような“共感”についての障害、すな
わち他者理解の障害、直観的、本能的な社会的相互交渉を持つことの障害と
関係している同一の基盤にある問題の同じ部分である、と現在は理解されて
います。
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ローナ・ウイングでさえ、元に戻って自閉症は人生のはじめの時点から社
会的な本能の欠如である、というようになっています。そして、コミュニケー
ションや行動について語る必要があるにしても、自閉症における核となる障
害は“共感”に関わる部分であり、間主観性と他者との社会的相互交渉の必
要性の理解の欠如であることを、我々は理解しなければなりません。自閉症
に特徴的な行動の問題は現れてくることもありますが、そうでないこともあ
ります。
非常にしばしば、特に知能指数
以下のケースにおいて、常同的で固定的、
柔軟性に欠け、儀式的な行動とある特定の興味に対する強いこだわりが見ら
れます。しかし他のケースでは、ただ大きな社会的コミュニケーションの障
害だけが現れていて、自閉症に結びつけて考えられる反復的で固執的な行動
は見られません。したがって約 年前に私が提案したことですが、自閉症は、
ただひとつの“共感”障害であり、“共感”機能のスペクトラム上にある障
害の一つであるのです。そのスペクトラムの中には、非常に高い他者への共
感能力を生まれながらに持っており、あるいは生後数年で飛躍的にその能力
を成長させる一群の人たち、子どもたちがいます。彼らは初めからこの社会
的な本能を持っていて、人生の最初から彼らが他者に興味を持ち、他者を探
していることが目を見ればわかり、他者の存在の有無をいつも気にしていま
す。
一方で、かれらは社会的相互交渉に関心を示さないことが一目でわかる、
より小さなグループに属する人たちがいます。このグループに属する子ども
たちはただ前を向いているだけで、他者や他者の目を見るために視線を動か
すことをしません。人生のはじめの時点からこのようなスペクトラム的な射
程があり、ある人たちはすぐに社会的相互交渉の能力について非常に大きな
容量を有していますが、別の人たちはそうではありません。
そして後者の人たちが、我々が現在自閉症スペクトラムとして言及してい
るものと、おそらく重なってくるものと思われます。しかし現在の問題は、
我々にそれがわかるか
ということです。つまり科学的な方法を用いて、
これは間違いなく社会的本能の欠如しているケースであると生後
時間の子
どもに自信を持って本当にそう言えるでしょうか。現在の段階では、非常に
特殊なケースに対してはそう言えるでしょうが、スクリーニングとしては、
新生児を診てこの子には自閉症がある、と言える小児科医は存在していませ
ん。
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それでも最近、かなりの数の大変良質な研究が、新生児の顔の動きがない
場合、表情が全く静止しているように見える場合には、非常に注意深く子ど
もを見て行く必要がある、ということを示唆しています。たぶん、これが自
閉症の最初の徴候でしょう。後に明らかに自閉症であると診断された群全体
のかなりの大きな部分を占める子どもたちは、表情の動きが全くなく、模倣
がなく、大変硬い感じで、表情筋を用いて人と相互交渉をしないため実際の
年齢より大人びて見え、まっすぐ前を見て視線の向きを変えず、顔の動きが
認められず、その時期になっても他の子に見られるような微笑が見られませ
ん。ここで認められる核となる障害は、社会的本能の欠如あるいは直観的共
感の欠如などの言い方で表現できるでしょう。
ここで大切なのは直観という言葉です。自閉症のある知的に高い子どもた
ちに、他の人の心の中で何が起こっているかについて立ち止まって考えを巡
らせることを理解させることで、共感ということを教えることは実はある程
度できますし、最も知的に高い、我々がしばしばアスペルガー症候群と呼ぶ
一群の子どもたちは、他者の心の中で何かが起こっている、ということを理
解するようになります。
しかし、 歳、 歳あるいは
歳で彼らがそれを理解するようになっても、
他の人が彼らに、 この人がとても悲しんでいること、あなたがしたこと、
あなたが言ったことで、この人がとても傷ついたことを考えなければいけま
せん。していることを止めて考えなければいけませんよ
と、そのことを知
らせなければ、彼らは直観的にそれを働かせることができません。他者のこ
とを考えることはできるのですが、それはそのことを知らされたからです。
それを自らすることはありません。
したがって直観ということ、直観的、自発的な共感が彼らに欠けているも
のなのです。彼らに共感を持つことを教えることはできますが、もし彼らの
診断が重篤なアスペルガー症候群、あるいは重篤な自閉症であるのなら、生
涯にわたって、他者を忖度するこの直観的な能力を獲得することはありませ
ん。教えられたときにはそれは可能ですが、直観的にはそれができないので
す。
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第
号
図
図
さて、共感のスペクトラムのもう一つの端には“精神病質”と何らかの関
係のある、あるいは現在我々が“精神病質”と呼んでいるものが位置してい
ます。精神病質とは、自分自身の行動、他者のこと、自分の行動で他者を傷
つけるということを一顧だにせず、自分自身のことだけを考えて他者を顧み
ない、徹底的に反社会的な一群であると私は考えています。そして通常そう
であるためには、何らかの程度の共感が要求されます。
このことは表面的に見れば、とても驚くべきことのように思われるかもし
れません。なぜならほとんどの人が、精神病質とは共感能力のない人たちで
あると考えているであろうからです。しかし、もし我々が精神病質者につい
ての心理学的、精神医学的文献を検討すればどうでしょう。そしてここで言
う精神病質は、
にはなく、しかし少なくとも欧米ではみんなが使って
いる術語である、ということを確認しておいてください。その名前で人々が
思い浮かべるのは、反社会性と非常に強い自己愛性が同時にそこにある存在
です。自分自身だけのことを考え、一方で現実的には多くの非常に反社会的
なことをする存在です。
年以上にわたって精神病質の領域で科学的な研究
をしてきているヘアは、精神病質を反社会性人格障害、自己愛性人格障害、
そ し て 境 界 型 人 格 障 害 の コ ン ビ ネー ショ ン と 規 定 し て い ま す。 も し、
のこれらのクライテリアすべてに当てはまるなら、精神病質に該当
すると言っていいわけです。
“良心”
とその呵責についての議論に立ち戻ると、
このことが精神病質の核となる問題です。
善悪の判断力が弱いことを感じず、
良心の呵責も感じないということもヘアの定義の中に見られます。また精神
病質の分野におけるどの本に依拠しても、すべての状態を本当の意味で特徴
づけるのは、他者の心を操作する面であるという言い方もできます。
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どうすればこの人を傷つけることができるのか、痛めつけることができる
のか、どうすれば相手に気付かれずに不正を行って自分が利益を得ることが
できるのかと考える、これがすなわち精神病質と呼ばれる人たちです。他者
の犠牲の上に自分が利益を得ようとする人たちです。そして、そのことを可
能にするためには、共感能力が必要です。そうでなければ他者を操作するこ
とはできません。
“良い”精神病質者になるためには、他者の心の中で起こっ
ていることを理解する必要があります。
したがって、共感は自閉症においては障害されているものですが、精神病
質では決して障害されていません。その意味では、自閉症と精神病質は対極
にあります。そして自閉症は、基本的には精神病質とは全く関係がありませ
ん。自閉症であることが精神病質と結びつくものではありませんし、精神病
質者だから自閉的な特性を持っている、ということもできません。全く重複
するケースがないというわけではありませんが、本来的にはこの二つは非常
に離れたものであり、したがって自閉症の診断を有する個人は精神病質の診
断とは離れたところにおり、逆も同様です。
図
図
したがって一般的には、自閉症の人たちにはすでに述べたように共感の欠
如があり、ある程度の共感を徐々に教えることは可能であるとしても、それ
が直観的にできるようには決してなりません。そして一般的には、精神病質
のある人たちは、共感の欠如はありません。それは精神病質に特徴的なこと
ではありません。一般的には自閉症は良心の問題とは何の関係もありません。
なぜそれが問題にならないかというと、もし直観的な共感能力がないのであ
れば、我々が良心ということで話題にするものを、程度の差はあれ、獲得す
ることができません。しかしそれは、精神病質における良心の欠如で考えら
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第
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れる機序とは違うものです。一般的に精神病質は良心の欠如と完全に関係し
ており、それが精神病質を特徴づけるものです。
図
図
さて、今日の話の一つの大きなポイントは、これらの問題の早期の指標を
みつけることができるかどうかということです。自閉症は、少なくとも厳密
な診断基準、例えば
、あるいは以前であれば、
、あるい
に基づいて診断された場合には、この診断は非常に重篤な予後
は
に結びつく、ということが知られています。実質的には、成人になっても自
立生活が期待できない場合がほとんどです。
、あるいは
に基づいて診断され、かつ知能指数
以下
の場合には、何の支援もない状態では全員が自立活動の問題を持っていまし
た。このことは
者は現在、 歳代、
年代の疫学的追跡研究で明らかになりました。その対象
歳代あるいは
歳代のはじめの年齢になっています。
一方、例えば 歳の時点で精神病質であると診断されうる場合には、残りの
その人自身の人生と、不幸なことに多くの周囲の人の人生にとって、やはり
非常に有害な結果につながることになります。
あなたが
歳の時に精神病質であるなら、自分自身を身体的、心理的、社
会的に傷つける危険性が非常に高いことになります。つまり精神病質の予後
もまた非常に重篤であるのです。したがって我々は、もし可能であるならば、
早期の自閉症と精神病質の両方に焦点を当てたいのです。なぜか
自閉症
においては、介入が差をもたらすことを我々は知っています。ほんの
には、誰も そのことで予後に差が生じる
年前
ということを、根拠を持って主
張することはできませんでした。なぜなら、子どもが幼い時に何らかの良質
な介入をした場合に長期的な予後の差に示す、という良いエビデンスがな
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かったからです。
しかし現在は、そのエビデンスが存在します。我々は現在、自閉症に対し
て早期からの介入を行うと予後に非常に大きな差が出てくることを知ってい
ます。そしてより早く始めれば、より多くのことができる可能性がある、と
いうことについての良いエビデンスもあります。したがって我々は、もはや
椅子にもたれてくつろぎながら
さて、この子の自然の発達に任せて様子を
見ることにしようか などと言っている場合ではありません。このような考
え方を指示するエビデンスはもはやなく、むしろただ様子を見て自然の経過
に任せるというのは間違っているということについての大変良いエビデンス
のほうがあるのです。では精神病質についてはどうでしょうか。ほとんど成
人、あるいは成人に近い年齢になるまで診断をつけることができないという
意味では、自閉症とは違います。大体
、
、 歳頃になって、我々はその
診断について考え始めることができます。
しかしたぶん我々は、
このタイプの発達のリスクを有する子どもについて、
もっとかなり前から考え始めることができるかもしれません。そしてすでに
知っているように、 歳で行為障害という診断が付いているケースでは、後
に精神病質となるリスクは極めて高くなります。特に
歳と
歳の両方の時
点で行為障害と診断できるケースについては、その約
が
歳の時に精神
病質の診断範疇に入ってきます。
そして 歳の時に行為障害と診断されるケースについて我々が知っている
ことは、このグループの約
が
歳までに反抗挑戦性障害であったとい
うことです。そして、その全部のケースが
のわずかに低い所にある
では、
あるいは診断できる水準
の傾向を持っていたこともわかっています。
と反抗挑戦性障害を併せ持つ子どもたちは行為障害の診断基
準を満たすようになるのか。
このことを別の視点から見てみることにします。
実は、このグループはふたつの大きく異なる群に分かれます。
反抗挑戦性障害と
を併せ持つケースのうち、
だけが
歳の時に
歳の時点
の子
で行為障害も診断に当てはまるようになります。つまり、残りの
どもたちは行為障害になることを免れるわけです。そして、後者は精神病質
になることも免れます。しかし前者の行為障害になる群は、精神病質に発展
を
歳
が行為障害へと発展し、
歳
してしまう大きなリスクを有しています。反抗挑戦性障害と
の時点で有している子どもたち全体の約
の時点で行為障害の診断を満たしていれば、残念ながら精神病質という状態
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第
号
と関係するような症状を持つようになってしまう可能性が非常に高くなりま
す。
したがってもし、我々が
歳の時点で反抗挑戦性障害と
を併せ持つ
子どもたちを見つけ出し、その子どもに対して何かをすれば、もしかしたら
少なくともその群に関しては、彼らの以後の人生全体の予後を変え、後に犯
罪性を持つことを防ぎ、精神病質になることを防ぐことができるかもしれま
せん。そしてそのことにエビデンスはあるのでしょうか。答えはイエスです。
まさに、我々ができることについてのエビデンスがあるのです。
、
、
、
歳のすべての年齢において、反抗挑戦性障害と
を
併せ持つケースに対して、何らかの介入を行えば反抗挑戦的行動と
の両方について、少なくても数年後の状態では、何もしない時に比べて明ら
かな改善がみられる、ということについての良いエビデンスがあります。
我々
は、未だにこのことが後の行為障害や精神病質の問題を予防する、というこ
との良いエビデンスは有していません。しかし、
歳から
歳においても、
歳から
年先の状態に関しては、
歳においても、そして
歳から
歳に
おいてもずっと良かった、ということは確認されており、それが、より長期
の良好な状態につながっていく可能性は十分にあります。我々は、それが精
神病質に陥ってしまう道筋を、そうでない方向にいつも変える、ということ
についての決定的なエビデンスをもつにはまだ待たなければいけないかもま
せん。しかし
歳までに、
と反抗挑戦性障害に良質の介入を行うこ
とで、重篤な反社会的発達の割合を減少させることができる、と言うことは
できると思います。
図
図
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さてここまでの長い序論を踏まえて、
思います。自閉症だけでなく、
第
号
という概念に戻りたいと
、反抗挑戦性障害など今まで述べて
きたものを早い時期の専門機関への相談に結びつけるものです。このリスト
にある症候群は、自閉症、反抗挑戦的行動を伴う、あるいは伴わない
、
欠失候群や
トゥレット症候群、双極性障害、特異的協調運動障害、
脆弱 症候群のような行動表現型症候群、そしていくつかのてんかん症候群
です。
これらは
歳以前に専門のクリニックの相談につなげられます。例えばス
ウェーデンでは、これらの子どもたちの多くは言語聴覚士のところに
歳半
あるいは 歳で訪れます。その理由は、その非常に多くが言語の問題を有し
ているからです。これらのグループ全体の半分以上において、それは指標と
なる症状であり、この子どもたちの発達に何か問題があるということが言葉
の発達の障害であることは非常にしばしばみられることです。
歳半の時点で
個以上の単語をしゃべらないか、言われたことがほとん
ど理解できていないように見える、あるいは
歳半から
歳の時期に他人や
両親に自分のことをわからせようとすることが全くない、というような子ど
もたちは発達においてリスクを有しています。彼らはすべて見つけ出される
必要があり、そして欧米においては、ここでも同じであると思いますが、多
くのこれらの子どもたちは現在、実際に問題になり、それに対して何かの対
応がなされるべきである状態として見つけ出されています。
しかし残念なことに、世界中でしばしば起こっていることは、もし彼らが
見つけ出されても、言語聴覚士だけが彼らをみて経過を追う唯一の専門家で
あり、そのため彼らはただ言語の問題がある子どもたちとしてフォローされ、
何らかの治療的介入をされるだけで言葉の問題だけではない可能性があると
いう視点で検討されることがないことがしばしばある、という事態です。し
かし実際は、それは一般的には言語発達以外の先ほどあげたような症候群に
関わる問題です。非常にしばしば、それは自閉症スペクトラムであり、非常
にしばしば
であり、そして非常にしばしばほとんど世界中で、発達
性協調運動障害です。
言葉の発達に問題のある子どもたちはあらゆる種類の問題を有している可
能性があるのですが、残念なことに長い間そのことに気づかれない傾向にあ
ります。なぜかというと、言葉の問題であるとだけ認識され、特に言語聴覚
士によって
特異的な言語の障害である
といわれてしまうと、他の専門家
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第
号
はただ座して待つだけの対応になってしまいがちだからです。しかし、特異
的な言語発達の障害などというものはありません。もし百人に一人、特異的
言語発達障害を持つ子どもがいたとしても、その子もゆくゆくは別の問題を
持つようになります。例えば、学齢期になってディスレキシアの状態を示し、
の問題を有するようになる、などです。したがって、
もっと後には
歳半の時に特異的な言語発達の障害として現れていても、長くその子を
フォローすればするほど、 それだけではない、これは
の一部だ
ということが見えてくるようになります。そして、それは単に特異的言語発
達障害ではない、ということではなくそれ以上のたくさんの発達の問題を有
している、ということです。
図
図
ではどのようにして、これらの症候群の一つであるという可能性について
の検討をすすめていくべきなのでしょうか
現在の問題は多くの医師、心
理士そして教育関係者がこれらの症候群の一つだけに焦点を当てている、と
いうことです。自閉症の専門のクリニックがあり、
のクリニックが
あり、トゥレット症候群のクリニックがあり、そして言葉の発達についての
クリニックがあります。
しかし、我々が持つべきは子どもの発達を診るセンターであり、そこに所
属する専門家は、これらの問題についてすべてに注意を払いながら子どもの
観察を行うのであって、その観察はこれは自閉症であろう、あるいはこれは
言葉の発達の障害であろうというふうに、すぐに一つの問題だけを考えるの
ではなく、この一人の子どもの中にこの中の つあるいは
つの問題がある
かもしれない、という視点でなされるべきです。年齢が 歳、
歳、
歳の
子どもで、全般的な発達になにがしかの疑問符が付く場合には、我々は こ
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れは、ひょっとしたら大きな問題かもしれない
第
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ということについて長期に
わたって真剣に考えなければならず、
両親に対してそれが問題にはならない、
とは決して言うべきではありません。 そのことは問題ではない、なぜなら、
非常にたくさんの子どもの全般的な発達には遅れがみられることがあるのだ
から という考えは全く真実ではありません。
ほとんどの子どもには、全般的な発達の遅れは見られません。そしてもし、
全般的な発達について周囲が心配をし始めているなら、通常は何らかの原因
があります。したがって、どこかに全般的な発達の遅れが見られる子どもた
ちについては、長期にわたって真剣に検討していくことが求められるのです。
運動制御の発達についても同じことがあてはまります。もし運動発達の遅れ
のあるケースを見つけたら、心配ないという安心させるようなアドバイスを
してはいけません。それは通常は心配すべきことなのです。運動発達の遅い
群の大部分は問題がない、というのは本当ではありません。例えば、
か月
までに支えなしで歩くことをはじめなければ、これまで述べてきたような
の診断基準にあるような問題であることはほとんど間違いありません。
しかし依然として、
か月そして場合によっては
歳まで待ってから心配
をしはじめる、ということが多く見られます。しかし、すべてのエビデンス
は、もし か月、もしくは私が既に述べたように
か月で何らかの運動発達
の遅れが見られる場合には、それは実際は自閉症あるいは
、あるい
は言語障害などであるかもしれない、ことを検討し始めなければならないこ
とを示しています。コミュニケーションと言語の問題は、常にすでに述べて
きたように、子どもになにか言葉の発達の心配があることがわかったら、可
能な限り速やかに、言葉の問題という点からだけでなく、自閉症であるかも
しれないあるいは全般的な学習能力の障害であるかも知れない、というよう
に他の問題も考慮に入れながら、非常に真剣に、そして非常に慎重にその子
どもを観察する必要があります。
同様のことが活動と衝動性と注意の問題にも言えます。
子どもの両親が う
ちの子どもは活動的すぎる、衝動的すぎる とあなたの助けを求めてきたら、
もちろん両親が心配をしすぎているという場合もあり得ますが、それよりも
そうでないこと、つまりこのようなことを両親が問題にしないことがより一
般的であることを考えると、同じように慎重で真剣な経過観察が必要です。
社会的相互交渉と対人的なやりとりの問題について、両親が この子の人と
のかかわりの発達は大丈夫ですか と専門家であるあなたに訊いてきたとき
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第
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は、通常は大丈夫ではありません。なぜなら両親が子どもの社会的相互交渉
の発達に何かの問題があるかもしれない、と感じるような段階であるなら、
即座に自閉症でないかどうかについて真剣に検討しなければならないからで
す。
そしてその
ついて
ヶ月後、あるいはそれ以降になって、両親が子どもの行動に
それが何か分からないし、どういったらいいかわからないけれど、
でも、何か彼の行動の発達に欠けているものがある
と訴える場合には、そ
のことを非常に深刻に考えなければいけません。気分の変動や睡眠、食事摂
取についても同じです。しかしこれらのことは、さきほどと同じように
ヵ
月以上続いているときにだけ問題になります。食べ物の好き嫌いが 週間続
いたからといって、その子が自閉症かもしれないと考えるのは適切ではあり
ません。しかしそれが 歳未満の年齢で、
ヵ月以上の長期間にわたり、両
親が専門家であるあなたに助けを求めてきた場合には、それは
の
問題の一つであるかもしれない、と考えてみる必要があります。
図
図
すでにこのことについてはいくらか述べてきましたが、少しの言語発達の
遅れが非常に大きな問題である可能性があります。我々のセンターの言語聴
覚士の一人が、集団的疫学研究をスウェーデンのイェーテボリ市郊外の一つ
のエリアのすべての子どもに対して行いました。彼女は
人以上の子ど
もについて、 歳半の時点で言語発達の遅れがあるかどうかを調べました。
そして、全体の
%に言語理解の障害、単語の数が
以下、発音の障害のい
ずれかを認めました。そしてその後、それらの何らかの問題が疑われる群に
対して言語発達のテストを行い、そのテストにおいても問題があるとされた
ケースすべてを 歳、
歳、 歳の時点でフォローアップしました。そして
高知大学総合教育センター修学・留学生支援部門紀要
歳で、そのグループの
に自閉症、アスペルガー症候群、
第
号
、あ
るいは学習障害のいずれかが認められ、残りのケースも言語発達障害あるい
はディスレキシアのどちらかを有していました。そして何も問題がないケー
スは一つもありませんでした。つまり
歳半で有していた
%は、
歳で
%、つまり全員が問題を有していた、ということになります。そしてこ
れらの子どもたちは、先に述べたように言語聴覚士のみによって何年間も
フォローアップされており、言語の問題だけに焦点が当てられて、他の問題
については気付かれていませんでした。しかし
歳半の時点であっても、言
語発達の問題以外の診断を受けることによって子どもが何らかの有益な支援
を得られたであろうことは明らかです。
まとめスライド
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高知大学総合教育センター修学・留学生支援部門紀要
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註
クリストファー・ギルバーグ教授講演録(
年 月 日、高知市)
本講演録は、ギルバーグ教授の許可のもと録音録画したものをすべて英語で起こ
し、その内容について教授に確認、訂正をしていただいた後、承諾を受けたうえで
翻訳者の責任のもとに全訳したものです。同時に添付してある
については、
講演に際して使用したものと日本語訳版です。また添付してある講演のポイントに
ついての
は頂いたスライド原稿を基に、講演の要旨について畠中がまとめ、
その内容について教授に説明し、了解を得たうえで講演前にその説明をしたもので
す。
翻訳は以下が担当した。畠中雄平(高知県立療育福祉センター・高知発達障害研
究プロジェクト)
、是永かな子(教育学部・高知発達障害研究プロジェクト)
、平野
晋吾(高知発達障害研究プロジェクト)、泉本雄司(医学部神経精神科学教室)、小
谷治子(高知県立療育福祉センター)、吉岡知子(医学部神経精神科学教室)、満田
直美(医学部小児思春期医学教室)、松下憲司(医学部小児思春期医学教室)、細川
卓利(医学部小児思春期医学教室)、永野志歩(医学部神経精神科学教室)
(イェーテボリ大学児童青年精神医学科教授)
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