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終戦 70 周年記念 フィリピン北ルソン DZWT540 歴史と
終戦 70 周年記念 フィリピン北ルソン DZWT540 歴史と音楽のラジオ特別番組 第6回アジア太平洋国際平和慰霊祭 2015 年 12 月 6 日(日)10am~2:30pm 収録シナリオ 大日本帝国軍が行ったフィリピンの戦争 大東亜戦争/太平洋戦争 1941 年から 1945 年まで 大日本帝国はフィリピンでどんな戦争を行ったのか フィリピン大学歴史博士の解説と戦争体験者やその遺族ほかの証言 この文章は 2015 年 12 月 6 日にフィリピン・ベンゲット州バギオ市にあるラジオ局 DZWT540 で生放送された戦後 70 周年特別番組「第 6 回アジア太平洋国際平和慰霊祭とフォ ーラム」(“6Asia Pacific Internatiolanl Peace Memorial & Forum”)の収録台本を一部割愛し て日本語に翻訳したものです。番組の内容は大東亜戦争/太平洋戦争中にフィリピンを舞台に 行われた大日本帝国軍の攻略と占領統治、その間に人々に起きた出来事です。フィリピン大学 歴史学博士のリカルド・ホセ教授に解説していただいたインタビューをベースに、13 人の戦 争体験者、犠牲者の遺族や研究者の話や、身内や人々から伝え聞いた話を、時には個人の意見 も交えてお話しいただいたビデオインタビューを素材として構成したものです。ホセ教授も指 摘しているように、残念ながら戦争中の多くの出来事は記録がされていません。今回話してい ただいたお話も 70 年以上経過した出来事で、話の真偽を客観的に検証することは不可能でし た。この文章は、そう言う話を語ってくれた人がいたと言う記録です。そして歴史を通して平 和な世界を築きたいと考えている前向きな人々の記録です。 目次 大東亜共栄圏地図 オープニング フィリピン国家「最愛の地」 テーマソング 「OPEN HANDS」 歌「AMAZING GRACE」 おおたか静流&ASU 歴史解説1 リカルド・ホセ教授 「何故フィリピンが戦争に巻き込まれたのか」 歴史解説2 リカルド・ホセ教授 「大日本帝国軍の開戦」 歴史解説3 リカルド・ホセ教授「コレヒドール島とバターン死の行進」 歴史解説4 リカルド・ホセ教授「大日本帝国軍の統治と第二フィリピン共和国」 インタビュー テディー・コ 映画評論家 歴史解説5 リカルド・ホセ教授 「反日ゲリラ活動の躍進」 インタビュー ラフィー・カプノ 市民劇場演出家 インタビュー 古屋英之助 バギオ生まれの写真家 インタビュー カルロス寺岡 北ルソン比日基金代表 歌「音戸の舟歌」 おおたか静流 歌「村の仲間と」 ブライアン・アリピン 歴史解説6 リカルド・ホセ教授 「マッカーサー再上陸」 インタビュー ミルナ・シーズン べンゲット州立大学講師 歴史解説 7 リカルド・ホセ教授 「反日ゲリラの抵抗と日本軍の虐殺」 インタビュー ジョアン・オレンダイン メモラーレマニラ 1945 会員 インタビュー アレックス・マラリット 犠牲者の遺族 インタビュー テオドール・バワン 元ベンゲット獣医師 歴史解説8 リカルド・ホセ教授 「戦争は多くの年を破壊し人々を殺した」 インタビュー ボニファッショ・ドウマノップ ワンワン村村長 歴史解説9 リカルド・ホセ教授 「戦争の歴史から学ぶ」 歌「VOICE IS COMING おおたか静流&ASU ゲスト キドラット・タヒミック バギオ在住映画監督 インタビュー ニック・デオカンポ 映画監督 歴史解説 10 リカルド・ホセ教授 「日本人が戦争から学ぶべきこと」 インタビュー 石田甚太郎 作家 インタビュー シオニール・ホセ 作家 ゲスト 渡部朋子 NPO アント代表 映画「ヒロシマ・ナガサキ」制作者 歌「I REMEMBER YOU」 おおたか静流&ASU あとがき フィリピン地図 1 3 5 6 7 9 10 13 14 15 16 18 20 21 21 22 23 24 25 26 27 27 28 29 29 30 31 32 33 34 35 大東亜共栄圏 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/07/23 07:25 UTC 版) 大東亜共栄圏(だいとうあきょうえいけん、Greater East Asia Co-Prosperity Sphere)は、欧米 大東亜共栄圏 諸国(特に大英帝国・アメリカ合衆国)の植民地支配から東アジア・東南アジアを解放し、東アジ ア・東南アジアに日本を盟主とする共存 戦 70 周年を記念して放送しています。かの太平洋 戦争は大日本帝国軍が 1941 年 12 月 8 日にバギオ 市の米軍基地キャンプ・ジョンヘイを空爆したこと から始まりました。まず国家を歌いましょう。 第 6 回アジア太平洋国際平和慰霊祭 アジア太平洋国際平和慰霊祭 及び平和フォーラム 平和フォーラム 2015 年 12 月 6 日(日) 午前 10 時-午後2 午後2時 30 分 フィリピン・ベンゲット州 フィリピン・ベンゲット州バギオ市 バギオ市 DZWT・ DZWT・am ラジオ生放送特別番組 ラジオ生放送特別番組 アンカー: アンカー:ALJUN, アシスタント: アシスタント:Cristy Aban ゲスト: ゲスト:Jimmy Fong, 今泉光司、 今泉光司、渡部朋子、 渡部朋子、 おおたか静流 おおたか静流、 静流、ASU, Brian Alipin アジア太平洋国際平和慰霊祭及 アジア太平洋国際平和慰霊祭及び 太平洋国際平和慰霊祭及び平和フォーラム 平和フォーラム は、戦争を 戦争を記録し 記録し学ぶために、 ぶために、2000 年に日比両国 のボランテイア活動家 のボランテイア活動家によって 活動家によって、 によって、元米軍基地キャン 元米軍基地キャン プ・ジョンヘイで始 プ・ジョンヘイで始められました。 められました。キャンプ・ジョ ンヘイは、 ンヘイは、1941 年 12 月8日(米国時間は 米国時間は 12 月 7 日)に、ハワイ真珠湾攻撃 ハワイ真珠湾攻撃の 真珠湾攻撃の数時間後に 数時間後に大日本帝国 軍によって奇襲空爆 によって奇襲空爆された 奇襲空爆された所 された所です。 です。この空爆 この空爆から 空爆からd からd 大日本帝国対アメリカ 大日本帝国対アメリカ、 アメリカ、イギリスを中心 イギリスを中心とする 中心とする連合 とする連合 軍との戦争 との戦争が 戦争が始まりました。 まりました。そして 1945 年9月 3 日に大日本帝国軍の 大日本帝国軍の総司令官山下奉文( 総司令官山下奉文(ともゆき) ともゆき) 大将が 大将が同じキャンプ・ジョンヘイで降伏 じキャンプ・ジョンヘイで降伏の 降伏の調印をし 調印をし てフィリピン諸島 てフィリピン諸島での 諸島での太平洋戦争 での太平洋戦争/ 太平洋戦争/大東亜戦争が 大東亜戦争が終 わりました。 わりました。 戦後 70 周年の 周年の 2015 年第6 年第6回のアジア太平洋国 のアジア太平洋国 際平和慰霊祭は 際平和慰霊祭は4時間半のラジオ 時間半のラジオ特別番組 のラジオ特別番組を 特別番組を通して 北ルソン一円 ルソン一円に 一円に生放送しました 生放送しました。 しました。 X X X アルジュン 皆さん、おはようございます。今日は番組で特別の 式典を生中継します。2015 年 12 月 6 日の大切な 日曜日の朝、私たちは第 6 回アジア太平洋国際平和 慰霊祭を行いたいと思います。 リスナーの皆様、私たちは今日アジア太平洋戦争終 愛しき地、東洋の真珠。 その胸に抱かれ、 我等の情熱がある。 選ばれし地、勇気の揺り篭。 その地は決して、 侵略者に屈する事はない。 海に、山に、大気に、 そしてその青き空に、 美しき詩があり、 自由を愛する歌がある。 きらめきに彩られたその旗は、 勝利で輝く。 その太陽と星々は、 永遠に輝きを失うことはない。 太陽と栄光と愛ある地。 その地に抱かれし、 我等の至上の人生。 この地に圧制者が現われし時には、 死を持って抗う。 それが我等の喜びである。 アルジュン ありがとうございました。北ルソンの皆さんと海 外でオンラインストリームを聞いてくださっている 皆さん、おはようございます。2015 年 12 月 6 日、 日曜日の朝フィリピンはちょうど 10 時 10 分です。 さあ今回は皆で過去のストーリーを語り合う慰霊祭 です。私たちの愛する郷土の歴史、フィリピンの特 にここ北ルソンについてです。番組の中ではアジア 太平洋戦争、終戦 70 周年記念に関しても話し合い ます。きっと私たちの大先輩である退役軍人の方々 は、戦時体験の多くのトラウマをお持ちだと思いま す。リスナーの皆さん、あなたは第 3 次世界大戦が 起きて欲しいですか?絶対に嫌ですよね。 今日はここに戦争の話を共有してくださるゲスト をお招きしています。私たち、当時はまだ生まれて いなかったですが、今日はお話を聞いて戦争が私た ちの社会に与えた影響について考えます。さあ、戦 争について皆で学んで、2度と繰り返さないように 1 しましょう。 この瞬間に沢山のお客様がスタジオに詰めていた だいていて圧倒されそうです。わたし、オンエアー の番組中に汗かいてるの初めてです。アハハ。だっ て沢山の関係者がいるんです。日本とコルデイリエ ラからボランテイア・アーテイストとスタッフが大 勢来ていて、一緒にお話ししてくれます。うれしい ですね。おはようございます、クリステイーさん。 クリスティー おはようございます、アルジュンさん。そして北 ルソンと海外のリスナーの皆さん。今日は午後2時 まで特別番組をお送りします。どうか最後までお付 き合いいただきたいと思います。 このアジア太平洋国際平和慰霊祭、通称アピプン は今泉光司さんによって始められました。ボランテ イア社会活動家としてコルデイリエラ山岳地帯中心 に 20 年以上活動されています。彼を助ける仲間た ちがいます。例えばジミー・フォンさん。こんにち は、ジミーさん。そして私たちと一緒に活動してい る仲間たちが SDS コンピューター&ビデオ、リサー チメイト、イヤマン、他のボランテイア・ヘルパー さんたちが私たちと 2010 年から共同主催していま す。今年は 2015 年で6回目の慰霊祭になります。 さったのが日本とコルディリェラから参加したボラ ンティアの皆さんです。 2 本の映画は日本の NPO により制作されました。 最初が「ブリッジ・フォー・ピース」。それは太平 洋戦争のフィリピン人犠牲者や遺族のインタビュー と、フィリピンに従軍した元日本兵のインタビュー を編集したものでした。このインタビューは我々フ ィリピン人の祖先が被った激しい苦痛を記録してい て感情を揺さぶられます。2 本目の「ヒロシマ・ナ ガサキ」は日本の広島と長崎に落とされた原子爆弾 に関するドキュメンタリー映画です。光栄なことに 日本側のプロデューサー渡部朋子さんが今ここにい らしています。おはようございます朋子さん。 渡部朋子さん おはようございます、ジミーさん。参加出来て本 当にうれしいです。お招きくださりありがとうござ います。私は昨日映画を見てとっても感動しました。 それは2つの国の人々がそれぞれの国の話を分かち 合うことが出来たからです。私はこのイベントに参 加出来て大変光栄に思います。ありがとうございま す。 アルジュン はいシスター、2015 年まで 6 回もやって来たん ですか。どうもジミーさん。フィリピン大学バギオ 校教授ジミーさんがいらしてます。お早うございま す。 ジミー おはようございます、アルジュンさん、クリステ ィーさん、そして日本とコルデイリエラからいらし たゲストの皆さん。この第 6 回アジア太平洋国際平 和慰霊祭は日本の非政府組織、特定非営利活動法人 サルボンと、二度と戦争を起こさないために「心に 平和の防壁を築こう」がスローガンの特定非営利活 動法人” 音楽は平和を運ぶ“の助成でお送りしてい ます。 フィリピン大バギオ校のマスコミ学科教員として、 ここに参加出来て光栄です。前回まではベンゲット 州庁舎や元米軍キャンプ・ジョンヘイを会場として 開催して来ましたが、今回はラジオ番組を通してお 送りすることになりました。ありがとうございます。 今回第6回目になる、第二次世界大戦を回顧し記念 する平和慰霊祭です。昨日平和映画祭を皮切りに始 まりました。フィリピン大で戦争に関するドキュメ ンタリー映画を上映しました。一緒に参加してくだ クリスティー そう皆さん、朋子さんは映画「ヒロシマ・ナガサ キ」を共同制作されました。昨夜彼女がどのように あの映画を制作されたのか話してくださいました。 映画が全部出来上がるまでに長い時間がかかったそ うで、すべてボランテイア活動として行ったそうで す。今回のフィリピン訪問もボランテイアだそうで す。そしてスタジオにはもう 2 人のお仲間が居ます。 おおたか静流さんと ASU さんです。 おおたか静流さん こんにちは、静流です。お会い出来てうれしい、 参加出来て光栄です。私は音楽は平和の架け橋だと 思っています。今回は作曲家やシンガーとして活躍 中の Asu がキーボードを弾いて一緒に唄います。 2 ASU こんにちは皆さん。ASU と申します。日本で歌手 と作詞作曲をしています。お招きくださりありがと う。素晴らしい機会をいただきとてもうれしい。こ の式典に参加出来て本当に光栄です。ありがとうご ざいます。 アルジュン はい、ASU さん。これまでフィリピンに来たこと ありますか? ASU いいえ、これが初めてです。つい 2 日前に着いた ばかりなんですが、何となく初めてじゃないみたい な気がしてます。子供の頃、僕の学校に沢山のフィ リピン人の先生が居たので、まるで昔の町に戻って 思い出しているような気分です。 アルジュン で、その思い出はもちろん素晴らしいものだっ た? されることを夢見ています。世界から復讐と暴力が 無くなることを切望し、世界平和をお祈りいたしま す。戦争被害者たちの苦しみが私たちの心をさいな む時、どうか彼らに救いの手を差しのべられますよ うに。そして私たちに暴力によって壊されてしまっ た精神と心と体を癒し慰める能力と信義をお与えく ださい。主よ、あなたが私たちの呼びかけに平和創 造者として答える時、どうか私たちと共にお歩みく ださい。あわれみと寛容ともてなしを私たちの子供 の平和のためにお恵みください。勇気と忍耐と平静 を与えてください。そして私たちの世界の過ちと悲 しみにを埋める精神の穏やかさをお与えください。 ジミー アピプンにはオリジナル・テーマソングがありま す。フィリピンのミュージシャン、ジョーイ・アヤ ラが作詞作曲してくれました。「オープンハンズ」 というタイトルのこの歌を唄うときは、皆に両手を 開いてもらいます。何も武器を持っていないという 意味です。さあ一緒に唄いましょう。 ASU はい。最高に。素晴らしいです。 アルジュン そしてバギオ訪問も初めてですね。 ASU はい。おいしい食事にいい人たちばかりで、楽し んでます。 クリスティー オーケー。皆さんようこそいらっしゃいました。 私たちはいつでも皆さんを歓迎します。皆さんが来 てくださることはとてもうれしいことです。このア ピプン(慰霊祭)だけではなくて、これが私たちの 友情の始まりになりますように願っています。それ では皆さんで太平洋戦争で亡くなった方々のために 祈りましょう。アジア太平洋戦争ではアジア 23 カ 国で 2000 万人以上の人々が亡くなったと言われて います。たぶん大東亜共栄圏と言われていた範囲で だと思います。フィリピンでは 110 万人が犠牲にな りました。さあ皆さんで追悼の祈りを捧げたいと思 います。 平和の 平和の祈り 神様、どうぞあなたの優しさで戦争犠牲者たちを見 守りください。私たちは世界が貧困と苦痛から解放 オリジナルテーマソング オリジナルテーマソング 「オープンハンズ」 オープンハンズ」 作詞作曲: 作詞作曲:ジョーイ・アヤラ 歌:おおたか静流 おおたか静流& 静流&ASU Here we are my sister and my brother ここで 私たち世界の兄弟姉妹たちが Now is now the only time we have 今、今日、この同じ時を生きている We are in a garden made of open hands 私たちは 両手を開いてひとつの花園にいる Peace is all we gather for like flowers 平和、それは私たちが集めた花束 Peace is all the earth we need to stand 平和、そこは私たちが守っていく地球 We are like a garden made of open hands 私たちは両手を開いて集う世界のもろびと達 3 ** Peace is here and Peace we know 平和がここに 私たちが知っているその平和とは Is like a garden That we sow まるで花庭 様々な花が咲いている With open hands And open hearts 両手を開いて 気持ち通い合わせ And open minds 心を開こう We grow strong by sharing dreams and visions 私たちは強く成長する 夢と理想を語り Richer as we share the things we know 豊かになり 共有し受け入れる Treasuring the things we make with open hands 守るべき宝は 両手を開いて得たもの Peace is how we love despite the suff'ring 平和、それは苦しみを越えて愛すること ウソクをともし、手を開いてこの「オープンハン ズ」を唄いました。ジョーイ・アヤラさん、美しい 曲をありがとう。さて明日の月曜日に平和映画祭は ベンゲット州マンカヤンのセント・ジョセフ・パリ ッシュ教会に行きます。午後 4 時から始まります。 日本のゲスト・アーテイスト、おおたか静流さん、 ASU さん、渡部朋子さんも行きますよ。そして火曜 日。12 月 8 日(火)の休日は同じプログラムの平 和映画祭がベンゲット州アバタンのアワ・レデイ ー・オブ・パーペチュアル・パリッシュ教会に行き ます。朝 9 時 30 分からです。 クリスティー ノーです。絶対に戦争はしない。ラジオをお聞き のご家族やお友達の皆さん、これから平和フォーラ ムを始めます。番組は少し前に始まりましたがこれ からが本編の始まりです。初めに今泉光司さんの話 を聞きましょう。このアピプンの発起人です。彼が あちこちにインタビューに出かけて行きました。純 粋にボランテイア活動家です。 Peace is why we harvest what we sow 平和、それは私たちが歴史から得られたもの Peace is when we live a life of open hands 平和、それは手を開いて共に生きるこの時 ** 今泉光司 私たちの放送を聞いてくださり、ありがとうござ います。そしてはるばる日本からアピプンに参加す るために来てくださったゲストの皆さん、ありがと うございます。渡部朋子さん、おおたか静流さん、 ASU さん。そしてマニラの NGO 所属のマーサさん、 地元歌手のブライアン・アリピンさん。それから沢 山のボランテイア・スタッフが助けてくださってい ます。ありがとうございます。 今年は戦後 70 周年記念の年です。戦争中は、た ぶんこのスタジオに居る全員がまだ生まれていなか ったと思います。だから私は大日本帝国が引き起こ したあの戦争について学ぶためにフィリピンに来ま した。当時私はフィリピンであの戦争中に何が起き たのかについて、ほとんど何も知りませんでした。 クリスティー 特にフィリピンに来た 1996 年から 1997 年頃は知 はい。「オープンハンズ」をお送りしました。ア らなかった戦争の話を聞いて驚かされました。私が ルジュン、顔がくしゃくしゃでべそかいてるみたい。 戦争のことを知るにつれて、いったい日本人はどう 私が初めてこの歌を聴いたのは、キャンプジョンヘ やって謝罪が出来るのか、どうしたらあんな残虐行 イ(バギオにある元米軍基地)の花園、ベル円形劇 為を許してもらえるのか分かりませんでした。何で 場でした。私はもう泣きそうでした。アルジュンさ 日本軍はあんな残虐行為をやってしまったのか、私 んはどうでした? は理解に苦しみました。 そして私はつくづく戦後に生まれて幸運だったと アルジュン 思いました。もし戦中に生まれていたら、大日本帝 …はっは。 国軍兵士にならなければならない。そしてフィリピ ンに行かされて残酷なことをさせられたかもしれな ジミー い。私はそんなことしたくないし、誰も殺したくな 本当です。過去の平和慰霊祭で私たちはいつもロ いです。しかし大日本帝国軍人は命令に対して「ノ 4 ー」とは言えない。兵士はたとえやりたくない事で もやらなければならない。軍人は命令に従わなけれ ばならない。だから私は戦争に関してインタビュー をして学んでいる時に、自分はつくづく当時生まれ ていなくて良かったなあと思いました。 日本の戦後世代の一員として戦没者の方々に心よ り謝罪とお悔やみを申し上げます。私たちはアジア の人々と平和的な関係を作って行きたいと思います。 今回リカルド・ホセ教授が 1941 年から 1945 年ま での太平洋戦争全体について、何処で何が起きたの かとても分かり易い説明をくださいました。私たち はその説明に沿いながら、途中に様々なインタビュ ーを入れて進めて行きたいと思います。皆さんイン タビューに自由なコメントをお願いします。 アルジュン オーケー、それではジミー教授とクリスティー、 そしてリスナーの皆さんと番組を進めて行きたいと 思います。みなさんは過去の戦争で、どうしてそん なに沢山の日本人が関わっていたのかと不思議に思 っているかもしれません。「山下」という名前は今 でもフィリピンでは有名です。しかし日本人は今、 精力的に平和を提唱しています。クリスティーさん、 そうですよね? クリスティー そう、日本人とフィリピン人、そして世界の国々 が助け合うのはとてもいいことです。誰かが戦争を 始めても誰も文句を言わないのは良くない。私たち が共にやるのは、2度と戦争を繰り返さないために、 戦争を皆で記憶することです。 アルジュン そう、クリスティーさん、ジミー教授、コウジさ んの当時の話は明確でしたね。旧日本軍のやり方は、 もし男に生まれたら、あなたは必ず軍隊に入らなけ ればならない。そして軍隊では、自分で考えること、 を許されていない。大日本帝国軍の一員として、あ なたの使命は命令に従うことだけです。戦争が宣言 されてから、もしフィリピンに派遣されて、命令に 従わなかったら、あなたは大日本帝国軍によって処 罰されていただろう。コウジさん、なるほど分かり ました。もしも軍に従わなかったらね。戦争当時、 平和を主張し、戦争に行かないという日本兵には大 変厳しい処罰があった。当時全ての日本人にとって 唯一の選択肢は、上官からの命令に従うことだけだ ったんですね。 クリスティー オーケー、それでは戦争の話に行く前に日本から 来たボランテイアの皆さん、おおたか静流さんと ASU さんに歌を歌っていただきましょう。大きな拍 手でお迎えください。 ASU ありがとうございます。この歌は多分多くの国で みんなに愛されている数少ない曲のひとつです。そ のタイトルは「アメイジング・グレイス」です。 スタジオライブショー アメイジング・グレイス おおたか静流 おおたか静流& 静流&ASU Amazing grace, how sweet the sound that saved a wretch like me. I once was lost, but now I'm found, was blind, but now I see. 私は 迷い子 ただ 長い道を 歩き続け 求め続け ここまで来た まばゆい 光の中 あなたを見た それは希望 それは夢 永遠の誠 ジミー さあアジア太平洋戦争の番組を続けましょう。フ ィリピン人にとって、第二次世界大戦というのもよ く知られた言い方で、フィリピンだけではなくもっ と広い範囲の戦争でしたが、アジア太平洋戦争とい う言い方も出来るんです。 フィリピン大学デリマン校にアジア太平洋戦争に 5 ついて研究された著名な学者がいます。リカルド・ ホセ教授です。教授は日本に行って勉強し、バギオ を含む多くの場所を訪ねて 1941 年から 1945 年ま で間に何処で何が起きたのかを調査研究しました。 ホセ教授の最初のインタビューは戦争が起きる前の フィリピンから始まります。そう 1941 年以前のフ ィリピンはアメリカの植民地でした。そして大日本 帝国が後からやって来たのです。 クリスティー それでは教授の話を聞いてみましょう。何故太平洋 戦争が始まったのか。 ジミー インタビューを聞きますが、これは今泉さんによっ て英語で行われました。英語のインタビューを聞い ていただいた後に私たちがイロカノ語で説明します から、聞いていてください。 録音済みインタビュー 録音済みインタビュー リカルド・ホセ 歴史学博士 フィリピン大学 フィリピン大学デリマン 大学デリマン校 デリマン校教授 Part1 (なぜフィリピンが戦争 なぜフィリピンが戦争に 戦争に巻き込まれたのか) まれたのか) フィリピンは当時アメリカから与えられたコモン ウェルス(米国の連邦内の自治領)政府でした。す でに独立を準備してましたが,まだ完全な独立国では なかった。まだアメリカの植民地でした。1935 年 から始まりました。コモンウェルス政府の根本的な テーマは国防です。当時周辺に敵はいませんでした が、いかなる侵略者が現れても守ると言う自衛シス テム確立がテーマでした。1935 年から 1941 年ま では防衛力の向上であり、フィリピン人がフィリピ ンを防衛すると言う事がテーマでした。 日本はアメリカの要求を受け入れなかった。米国は 日本に当時フランス領だった南インドシナ(ベトナ ム)からの撤退を要求した。しかし日本は中国の権 益をも狙っていたのです。 広域的には、日本は中国との紛争と東南アジア全 域との2つの地域に進出していたが、この時日本は 欧米諸国が植民地支配していた東南アジアへ侵攻し ました。大日本帝国政府はベトナムや中国からの撤 退(ハルノート)を拒否し、米国は東南アジアの石 油と鉱物資源の輸出を禁止した。そして大日本帝国 は米国との戦争を決断した。東南アジアは鉱物資源 が豊富でした。オランダ領東インド(インドネシ ア)には大日本帝国が必要としていた石油がある。 マレー半島にはゴムが豊富だ。これも帝国が戦争遂 行に必要としていた。 フィリピンにも鉱物資源スズなどがあった。また フィリピンは東南アジアの中心で戦略上重要な位置 にある。日本がマラヤやシンガポール、インドネシ アを侵略する時にフィリピン海域を必ず通らなけれ ばならない。フィリピンは米国の植民地で当時米軍 基地もあった。そうした経緯からも、日米間の国交 が決裂した 1941 年に日本は開戦を決断し、真珠湾 や東南アジア各地に同時奇襲攻撃作戦を展開した。 フィリピンから見ると、何故フィリピンがこの戦 争に巻き込まれたかの理由はいくつかある。第一に 米国領だったので米軍基地があった。その米軍基地 を日本軍は無力化する必要があった。インドネシア に石油を取りに行かなければならないから、シンガ ポールやマレーにいた英軍やオランダ軍を叩いたよ うに、フィリピンの米軍も先に叩く必要があった。 第2の理由は、フィリピンが米領であるなしに関わ らず、戦略上の重要拠点だったからだ。米軍がいな くても帝国軍はフィリピンを押さえる必要があった。 タイと同じように帝国軍が駐留しに来ただろう。タ イは何処からも侵略されてはいなかったが、大日本 帝国軍がマレー半島に行く時の足がかりに駐留する 事を許した。もしフィリピンが独立していたら、や はり同じように帝国軍はフィリピン国土を使わせる ように交渉して来ただろう。第 3 の理由はフィリピ ンには大日本帝国が必要としていた資源があった。 銅やスズ、マンガン、木材、マニラ麻は日本の戦争 経済に重要な資源だった。この 3 つが大日本帝国が フィリピンを重要だと考えた理由だった。 クリスティー ジミーさん、自分が自国の歴史についてそんなに 良く知らなかったことに気付かされました。私は何 何故戦争が起きたのかにはいくつかの理由がある。 故日本軍がフィリピンにやって来たのか、3 つの理 もちろん基本的には日米間の外交関係が行き詰まり、 由がどういうものなのか、今わかりました。 6 アルジュン ジミー教授、クリステイーさん、私たちは今やっ と分かったって感じですね。当時日本やアメリカや その他フィリピンに興味を持っている国々がフィリ ピンをどんな目で見ていたのか。フィリピンは大変 豊かで祝福されてた国なんですね。しかしアメリカ も日本も、もしフィリピンが他の所にあったら来て なかったかもしれない。私たちの場所って重要拠点 なんですね。戦略上重要なバギオ市と比較してみま しょうか。バギオは山岳地帯の入口、商業の中心地 で他の地域に行く幹線道路と繋がっている。だから ここバギオは戦略上重要なんです。バギオを通らず に他の地方には行けません。フィリピンもそんな風 に重要なんですね。私たちはとても豊かなんです。 だから他国は私たちの木材などの資源を狙っていた んです。何故フィリピンが戦略上重要なのか、沢山 の理由がありました。 クリステイ− そして 1941 年 12 月 8 日を迎え、真珠湾奇襲攻 撃がありました。 ジミー はい。アメリカでは 12 月 7 日と言われています が、日付変更線のせいでフィリピンはハワイよりも 1 日早い。日本の戦闘機隊はバギオやフィリピンの 他の地域にもほとんど同時に来ました。1941 年 12 月 8 日の早朝で、学校では朝礼をやっていました。 この話は当時生きていた年配者に聞きました。 アルジュン そうか。朝礼中に来たのか。 クリスティー そう。バギオの米軍基地キャンプ・ジョンヘイに 来て、次にクラーク空軍基地、そしてミンダナオに 来たそうです。 ジミー そう。それがアジア太平洋戦争の始まりだったん ですね。 アルジュン 教授、キャンプジョンヘイと真珠湾って同時に奇 襲攻撃されたの? ジミー 真珠湾奇襲攻撃のほんの数時間後に別の部隊がバ ギオのキャンプ・ジョンヘイに来たようです。 ジミー さあホセ教授の説明を続けましょう。日本軍がど んな風に東南アジアに侵攻して来たのか。そしてど のように戦争を始めたのか。 録音済みインタビュー 録音済みインタビュー リカルド・ホセ 歴史学博士 フィリピン大学 フィリピン大学デリマン 大学デリマン校 デリマン校教授 Part2 Part2 (大日本帝国軍の 大日本帝国軍の開戦) 開戦) 戦争は 1941 年 12 月 8 日に始められた。真珠湾 はフィリピン時間で早朝2時 30 分に爆撃され、フ ィリピンにもすぐに知らせが入った。フィリピン国 内で最初に爆撃されたのはダバオとバギオがほぼ同 時。大体 1 時間差くらいで空爆されました。ダバオ が空爆されたのは、とても繁栄した日本人移民の入 植地(マニラ麻栽培の農園など)があったからです。 ダバオの占領は東南アジア南部進出のために重要 な拠点で、オランダ領東インド(インドネシア)攻 略には欠かせない要所です。そしてバギオには米軍 基地のキャンプ・ジョンヘイがあった。マッカーサ ーがバギオにいるかもしれないという噂を、当時何 人かの日本軍将兵が聞いていた。バギオも市民の町 ではなく、米軍基地キャンプ・ジョンヘイが戦略上 重要な軍事拠点だった。開戦初日に何が起こったか を見てみると、北のバギオと南のダバオが爆撃され た。初日に占領された島がもうひとつあった。バタ アン島。島の北側の住民は日米戦争が始まった事も 知らされずに、日本軍兵士と戦艦に囲まれて占領さ れた。開戦初日に奇襲攻撃があっただけではなく、 すでにフィリピン国土の占領が行われていたのです。 フィリピンは当時アメリカのコモンウェルス政府で した。だから我々は宣戦布告は出来なかった。私た ちは宣戦布告する公式の権利を持たなかったが、ア 7 メリカの戦争に協力した。そしてアメリカが宣戦布 告した時、フィリピンは直ちに協力した。 当初大日本帝国軍の軍事作戦は大変速く、初日から 同時多発的に各地で始まった。バギオとダバオの爆 撃に続いて帝国海軍はクラーク基地を空爆した。そ こは米軍の主要な空軍基地だったからだ。米軍はす ぐさまフィリピンを近代兵器、最新の戦車や航空機 で強化しようとした。それが日本軍が急いで侵攻し たかった理由でもあります。何故ならもし遅くなれ ばフィリピン軍の防衛力が益々強化され、日本軍が 侵攻出来なくなるからです。 12 月 8 日は月も良く、潮目も良く、米軍はまだ 十分にフィリピン軍を軍事強化出来ていなかったの で絶好の進軍日和だった。しかも実際開戦するに当 たって、この時期は乾期の始まりです。陸上の軍事 作戦は 6 月までやり易い。雨期が来るまで 4、5 ヶ 月間軍事行動を続けられます。開戦時期に関して大 日本帝国軍は季節や気象条件などをよく調べて、全 ての好条件が揃っていた。 一方クラーク空軍基地の飛行機は、朝離陸して大 日本帝国軍の来るのを見張っていた。また彼らはマ ッカーサーからの台湾(当時日本の植民地)攻略指 令を待っていたが、何の指令も出されなかった。マ ッカーサーは奇襲前の数時間沈黙していた。そして 彼がやっと台湾攻略指令を出した時、最初に偵察機 を送った。そして全ての航空機に給油させ、爆弾を 搭載させ、乗員を昼食に行かせた。そしてその間に 台湾から大日本帝国軍機が飛来し、地上の米軍機を 発見し、ほとんどの航空機を初日のうちに破壊して しまった。 開戦初日にして米軍はほぼ半数の航空機を失い、 クラーク空軍基地はむき出しの危険な状態になって いた。そこで残りの飛行機はミンダナオに避難しな ければならなかった。これで米軍は実質的にルソン 島の制空権を失った。少しの飛行機がフィリピン空 軍に残っていたが、到底大日本帝国軍の戦闘機に太 刀打ち出来るものではなかった。そこには対航空機 用ではない銃器もあったが、旧式で砲弾は日本軍機 の飛行高度には届かないものだった。 開戦初日から大日本帝国軍は優勢に侵攻を進めて いた。そして主要上陸隊が到着し、いくつかの小規 模隊がラオアグ、ビガン、アパリ、そしてレガスピ に上陸し、北部と南部の飛行場を閉鎖させた。南部 のダバオは 12 月 20 日に、そして 24 日には南のホ ーローやスールー諸島も侵略し、フィリピンは北と 南の帝国軍によるサンドイッチ状態になった。北部 と南部に上陸し、フィリピン東部にも飛んで、実質 フィリピンは分断された。また帝国軍は南海のマリ アナ諸島のサイパン島、ティニアン島を攻略、パラ オ諸島のペリリュー島も攻略した。 太平洋からやって来たアメリカの援軍はすぐに日 本軍に止められた。アメリカ領だったグアム島は 24 時間で陥落し、約一週間後にウェーク島が侵略 された。これらの島々が占領されてしまうと、フィ リピンに行こうとするアメリカ軍の航空機は何処を 通っても大日本帝国軍が占拠している地域を通らな ければならなくなった。オーストラリアを回って行 くのは遠過ぎるし、より危険だった。 フィリピンはその後実質的に数ヶ月間米軍から見 放されていた。米空軍がいなくなって以来、米軍の アジア航空戦計画はフィリピンを見放し、オランダ 領インドネシアの油田を防衛した。米軍はフィリピ ン国土と空軍力を失っただけでなく、海軍力も開戦 初日に失った。12 月 22・23・24 日に日本軍のフ ィリピン防衛主力部隊が上陸した。彼らはリンガエ ン湾やバラール、タヤバス湾の海岸に上陸した。大 日本帝国軍が海と空両方で攻撃して来るのに対し、 フィリピン軍の兵士たちはあまり訓練されてないば かりか武器も古かったので、数時間後の戦闘でフィ リピン軍は退却して行った。 X X クリスティー なるほどジミーさん、これが戦場の実態だったん ですね。大日本帝国軍は最初は凄く強かったんです。 彼らは同時多発的な攻撃を素早くやることに成功し て一気に攻めたんですね。 ジミー だから米軍は最初の数ヶ月で敗退し、日本軍に包 囲されたんです。そしてバターン死の行進が起きま した。さあホセ教授の「デスマーチ」編を続けまし ょう。 8 録音済みインタビュー 録音済みインタビュー を強要されました。帝国軍は当時そんな大勢の捕虜 が投降して来るとは思わなかった。そんな食糧は準 備していなかったと言うが、多くの兵隊が日本兵に よって殺されている事の説明にはなっていない。千 人が殺されたり、バターンのあちこちで首を切られ るような深刻な虐殺が沢山行われていた。戦争の初 期段階ですでに残虐行為が起きていた。 コレヒドールの 米比軍防衛隊も 1942 年の5月 6 日に降伏しなければならなかった。それがフィリ ピンに於けるアメリカ合衆国極東軍の公式な防衛作 戦の終焉でした。バターンでの降伏が 4 月9日、そ してコレヒドール島が 5 月 6 日です。当時の大日本 帝国軍総司令官、本間雅晴中将はコレヒドール島の みの降伏を許可せず、「コレヒドール島にいる兵隊 リカルド・ホセ は人質として捕えた。我々はいつまでも戦いを続け 歴史学博士 ることが出来る。フィリピン諸島にいる全軍が降伏 フィリピン大学 フィリピン大学デリマン 大学デリマン校 デリマン校教授 しろ」と。コレヒドールの司令官はビサヤやミンダ Part3 Part3 ナオの司令官にラジオでそのことを伝え、降伏する (コレヒドール島 ドール島とバターン死 とバターン死の行進) 行進) ように指示した。もしも皆が降伏しなければ、コレ ヒドール島の我々は殺される。だからビサヤやミン マッカーサーは海岸線の防衛が手薄だったので、 ダナオの指揮官は、まだ戦っていないにもかかわら バタアン半島とコレヒドール島の防衛を命じた。全 軍がバタアンとコレヒドールに 4 月 9 日まで集結し、 ず降伏しなければならなかった。 X X 結局バターンで全軍が降伏した。米軍は食糧や医薬 品が不足し苦しい戦いになった。しかし大日本帝国 クリスティー 軍は強かった。米比軍よりも数が少なかったが、米 アルジュン、ジミー、私はバターン死の行進しか 軍がバターン半島全体を防衛しなければならなかっ た反面、帝国軍は手薄な攻略地を選ぶことが出来た。 聞いてなかったわ。「セレクティブ・ヒストリー (選択的な歴史)」と呼ばれる大ざっぱな歴史だっ したがって帝国軍は局地的には勝っていた。またそ たんですね。私たちは一部しか聞いてなかったんで の後シンガポールや中国や日本本土から元気のいい す。私たちは死の行進で人々が亡くなったことしか 援軍を追加した。しかしバターンの米比軍防衛隊は 知らなかった。でもその前にすでに千人単位の兵士 とても少ない食糧、少ない医薬品、疲れた体で 4 ヶ たちが殺されていたんですね。 月間応戦した。そして帝国軍が 4 月に総攻撃を仕掛 けて来た時、たちまち前線は崩れた。まだ交戦した かったけれども、多くがすでに疲れ果て病人も多く、 ジミー そう、私たちは知らなかった。死の行進は写真が バターン防衛軍は 4 月9日に降伏した。 その後バタアン死の行進の悲劇が起こるのですが、 あったんですが、その事件の写真は見たことがなか った。でも日本軍が何時フィリピンを制服したかは その前にバタアンにあるパンテイガン川のほとりで 知っていた。数ヶ月後の 1942 年 5 月 6 日に日本軍 深刻な虐殺(Pantingan River Massacre)が行われてい の占領政策が始まった。 た。1,000 人近い将校と兵士が首を切られて殺され 以前バギオの医者だった故ドクター・チャール ました。その場所は白骨場として知られていて、今 ズ・チェンが、大日本帝国軍の戦争目的は正しかっ でも多くの遺骨が発掘されています。 たと言った。スローガンは「アジア人のためのアジ 米軍が 4 月9日に降伏した後に、バタアンの帝国 ア」。フィリピン人は皆熱狂して帝国軍に協力した。 軍はほとんどの捕虜に対し徒歩移動を強要し、それ 私たちは西洋人に植民地にされたくないからです。 が「バターン死の行進」になった。何故なら兵士を 輸送するトラックがなかったからです。バタアンに アルジュン トラックはあったんですが、すでに米軍によって破 何かちょうどフィリピンに来て、フィリピン文化 壊されていたんです。しかしトラックがあったとし ても、兵士たちは多かれ少なかれ歩かされただろう。 の独自性を捜している日本人みたいですね。 一日中歩かされ、食糧も水も与えられずに徒歩移動 9 ジミー しかし日本兵の中にも乱暴な兵隊がいるんです。 さあホセ教授の説明の続きを聞きましょう。大日本 帝国軍のフィリピン占領。日本兵はどのようにフィ リピンを征服したのか。 ければならなかった。フィリピン人はお辞儀をする のに馴れていない。フィリピンの歴史上やらされた ことがなかったので違和感のある強制だった。 開戦前にフィリピン人は日本兵が強い戦士だとは 思っていなかった。日本人は安っぽい人々だと思っ ていた。安い製品を作る人々。いい床屋やいい庭師 だったが、いい戦士だとは思っていなかった。フィ 録音済みインタビュー 録音済みインタビュー リピン人は日本人を見下げていた。日本兵がやって 来た時、彼らは米兵やスペイン兵と違っていた。米 兵やスペイン兵は色が白く背が高い。しかし日本兵 の肌の色は違っていた。だから新しい征服者だとは 認めたがらなかった。国歌でも「いかなる征服者に も屈せず」と歌っている。この日本兵が征服者なの か?フィリピン人は日本人を新しい征服者と認める ことは出来なかった。 また日本兵は、言っている事が分からないフィリ ピン人にはビンタを与えた。歩哨の前を通る時にお 辞儀をしなければならないが、そんな事を知らなか った人は「こらっ」と呼び戻されてビンタ(平手打 リカルド・ホセ ち)を食らった。これまでのフィリピン文化にビン 歴史学博士 タというものはなかった。お辞儀をさせられビンタ フィリピン大学 フィリピン大学デリマン 大学デリマン校 デリマン校教授 をくらった。そうしてフィリピン文化は戦前からあ Part4 Part4 る日本的仕来り、武士道に反するとして破壊された。 (日本軍政府 日本軍政府の 政府の統治と 統治と第二フィリピン共 フィリピン共和国) 和国) そして早くも抵抗運動が始まった。バタアンで降 伏してもフィリピン人の精神はまだ降伏していない。 1942 年 1 月までにマニラ、イロイロ、サンボア 戦い続けるとして、若人や学生たちは独自のゲリラ ンガ、バギオなどのほとんどの主要都市が大日本帝 組織を作った。いくつかの地方政府、たとえば北イ 国軍に占拠された。帝国軍は大日本帝国軍政部と言 ロコス州のアブラン知事は、州政府を山頂に避難さ われた統制本部を設立した。そしてマニラ入場後に 全国に戒厳令を布告、すべての人々の行動を制限し、 せて無傷だった。ケソン大統領のコモンウェルス政 府はコレヒドール島に避難し、島が陥落する前にオ 帝国軍に反抗したものは犯罪者と見なされ処刑され ーストラリアに脱出し米国に避難した。だからフィ ると公表した。 リピンのコモンウェルス政府はワシントン DC で健 略奪者も厳しく罰せられると忠告した。帝国軍が 在だった。大日本帝国軍政府はそれを無視し、フィ 入場する前は命令が行き届かなく、各地で略奪が横 リピンが米国に勝利したと宣伝した。戦争は終わっ 行していた。しかし軍政部により略奪者を厳しく罰 たとして、帝国軍は国内の平和を回復させた。略奪 するという命令が反復されてからは、何人かの略奪 もなくなり平静が戻った。しかしその代償は何だっ 者が捕まり、見せしめとして炎天下に晒された。別 たのか。ビンタや殴られる日本兵の暴力。日本兵に のケースは公衆面前で殴られた。また 1942 年 1 月 反対した人々は逮捕され拷問にかけられた。 までに少なくとも 1 件、マニラで2、3 人が公衆面 軍事規律を徹底させるために、憲兵隊という軍警 前で公開処刑が行われた。後にバギオでも 3、4 人 察がいた。彼らは反日分子と疑わしきものはすべて のフィリピン人が略奪者やゲリラだとして公開処刑 逮捕した。書いた手紙は憲兵隊に読まれ検閲され、 された。これが大日本帝国軍の懲罰と戒厳令の方法 反日的な内容があれば逮捕され拉致された。マニラ でした。軍隊式教育と戒厳令を強制したやり方で、 のフォートサンチャゴやバギオの古いバヤニハンホ 公開処刑や公開拷問を行いました。 テルなどが当時の憲兵隊本部だった。全ての町には これはこれまでフィリピン人がやられたことがな 憲兵隊本部があった。そしてここが大日本帝国軍統 かった方法でした。アメリカ軍もやらなかった。処 治で最も恐ろしい場所だった。もし憲兵隊に逮捕さ 刑はしましたがあのような公開処刑はしなかった。 れたら、恐ろしい方法で拷問にかけられた。 また日本軍は占領した地域の要所に歩哨小屋を設け 帝国軍はフィリピンが様々な食品において食糧自 た。マニラでは橋のたもとや戦略上重要な通りの角 給が出来ていない事を知っていた。米も自給出来ず に設け、そこを通る人すべてが歩哨にお辞儀をしな 10 を注視し政府がくれる恩恵を考えていればそれで良 かった。しかし大日本帝国軍政府は違うと言う。 我々はフィリピン人に政府のために働く方法を教え る。政府に適合し、鍛錬しなさい。ラジオ体操が効 果的だ。体力を付け健康になるだろう。またそれは 人々に服従を教えるだろう。 そして日本語教師を連れて来て日本式教育方法で すべてを教えた。アメリカの休日はすべて廃止。ワ シントン大統領の誕生日は廃止され、代わりに日本 の休日が実施された。天皇誕生日、日本の建国記念 日が休日になり、戦前のフィリピンの休日は廃止さ れた。つまりフィリピン全部を日本化しようとした。 フィリピンを日本的な国にしようとした。そして一 方ではあなた方が誰なのかを考えよと言った。あな た方はアジアの一員だ。大日本帝国軍政府は我々に アジアの一員である事を再認識するように仕向けた。 郷土に戻れ。自国語を話せ。祖国の文化に戻ってア メリカ文化を捨てろ。自分のルーツに戻れ。これが 「アジア人のためのアジア」という考えの一環で、 宣伝キャンペーンがあった。伝統に則った自文化を 養え。同時に日本文化を取り入れて、米国文化は捨 てなさい。平和時だったら効果的だったかもしれな いが、戦時で軍事体制が行き渡っていた。軍は日本 人教師を派遣し、経済学者や農業指導員が導入され た。宗教指導者さえも派遣され、そのすべてを軍が 掌握していた。帝国軍がすべてを牛耳っていたので、 その裏で破壊の反日活動がはびこった。その中で帝 国軍の宣伝キャンペーンが流された。 ひとつだけフィリピン人の信頼を獲得する方法を 東京の大日本帝国軍政府は考えた。米国は 1946 年 にフィリピンに独立を与えると約束したが、大日本 帝国はその前に与えようと言った。米軍はもういな い、帰っては来ない。だから大日本帝国がフィリピ ン国に独立を与えよう、あなた達に準備ができてい るのなら、と言った。軍に協力すれば独立を与える 思想や新聞は検閲され、ラジオや映画も統制され、 とちらつかせたのだ。そして軍政府に全面的に協力 親米的なもの全ては排除された。教科書は検閲され、 すれば、彼らはジョージ・B・バルガスを筆頭にし たフィリピン行政委員会を組織すると言った。また 民主主義やフィリピン・コモンウェルス政府、アメ 知事や市長を各地に置こう。そしてやがてバギオに リカ合衆国、リンカーンなどすべてが教科書から削 は市長が、ベンゲット州には州知事が置かれた。 除され、こうしたすべてを変えなければならないと こうした事を軍はフィリピン人主体にやらせた。 言われた。しかし新しい教科書を作る時間はなかっ 日常の行政は各地の行政府区が行う事。帝国軍政府 たから、今ある教科書を検閲して削除した。そして は職員に給料を払ったり、人々から税金を徴収した 彼らは日本的な思考を持ち込んで来た。教養課程の りする仕事で煩わされるのは嫌だったので、日常の 一部として日本語を教え始め、日本語は学校教科の 些末な事はフィリピン人の行政指揮官が取り仕切っ ひとつになった。学校に入学したら好き嫌いに関わ た。税金は値上げされ、燃料は帝国軍に供出、すべ らず日本語を勉強し、政府職員も日本語を履修しな ての武器は軍に徴収される。帝国軍は執行委員会に ければならない。隣組と同時にラジオ体操も強要さ 命令を伝え、執行委員会がその命令を実行する。帝 れ、フィリピン人は鍛錬されなければいけないと言 国軍は出来る限り戦前のフィリピン政府体制に近づ った。アメリカシステムでは、フィリピン人は政府 にベトナムやタイから輸入していた。他の製品でも 自国では製造しないアメリカンシステム、すなわち アメリカからの輸入経済に依存していた。だから物 資が不足している事をすぐに感じた。ひとつの解決 策は輸入品に変わる国内産のものを捜す事だ。そし て帝国軍政府は米不足がフィリピン全体の問題にな る事が分かっていたから、米を増産するために日本 から技術者を連れて来た。日本米や新しい品種の種 と肥料、そして日本的稲作法を持って来た。しかし 農業の結果はそんなに早く出せません。帝国軍は 1942 年には国土全域を占領した。そして農業改革 を始め、統制による経済運営を始めた。さもなけれ ばうまく行かない。すべてを管理しなければならな い。公正な自由放任主義や自由競争制度は許されな い。戦争中だから、全ては管理しなければならない。 フィリピンの資源は戦争遂行に必要だ。戦争に必要 がない物資は市民に配られるが、それには限りがあ る。だから全てのものが配給になる。日本や朝鮮、 台湾でも同じことが実施されていた。人々を管理す るために「隣組」と呼ばれた組合が組織された。食 糧や石けん、米の配給券が配られ、同時に地区ごと に住民のチェックが行われた。これがゲリラや反日 の活動を監視するひとつの方法だった。その家に誰 が住んでいるのか、住人の名前のリストが作られ管 理された。配給制度は住民管理の方法だった。名前 が隣組のリストになければ食料配給はもらえない。 すべてが管理された。 11 けようとした。しかし東京政府はフィリピン人の忠 誠を獲得するためには独立を与えるべきだと考えた。 彼らは 1942 年にそう言って、一年後の 1943 年に 総理大臣/陸軍大臣/参謀総長の三職兼任した東条英 機大将が発表した。もし大日本帝国がやっている事 をフィリピン人が理解し、帝国の戦争に同意して協 力するならば独立を与えよう。 そして 1943 年 5 月に総理大臣東条が現状視察の ためにマニラを訪れた。多数のフィリピン人が委員 会を先導するために帝国軍によって選ばれた。ロウ レル、バルガス、レクト、アギナルドなどの著名人 がフィリピン独立準備委員会に任命された。彼らの 主要任務は新しいフィリピンのための憲法草案作り だ。彼らは出来るだけ早く仕上げろと言われた。1、 2 ヶ月で簡素な憲法を作れ。委員会のフィリピン人 側は、権利条項も入れなきゃ、これも入れるべきだ と言ったが、日本側は必要ないと言う。何故ならば それは戦争と関係ない。そうした話し合いのやり取 りが交わされ、結局出来上がったものは風変わりな 憲法だった。大変強い大統領と、政府に対する権利 よりも市民の義務を重視した憲法、それは大日本帝 国に好ましい憲法になっていた。 またこれも大日本帝国の宣伝活動の一部で、帝国 軍はごく制限された選挙を許した。もうひとつ帝国 軍が作った委員会はカリバピと言われるもので、政 府を支援する組織。ちょうど大日本帝国の大政翼賛 会の様なもので、帝国主義支配を補佐する団体だっ た。単なる政党ではない全国組織の団体で、国民全 員参加の大きな政治組織だった。カリバピは選ばれ た国民議会の議員たちにゆだねられた。 1943 年 9 月に新憲法下で選ばれた国民会議の議 員たちが、国会で大統領を選んだ。それがホセ・ P・ラウレルだった。後にラウレル、ベニグノ・ア キノ・シニア他の主要メンバーが東京に招かれ東条 と会った。そこで日本側は来月フィリピンに独立を 与えると言う。しかしその後フィリピンが米国に宣 戦布告し、大日本帝国と条約を結ぶことを条件とし ていた。大日本帝国側はあらゆる付帯条件をつけた が、ラウレルはそれは出来ない、と承諾しなかった。 ラウレル達が帰国すると帝国軍は 10 月 14 日のフ ィリピン独立を公表しあらゆる準備をしていた。 1943 年 10 月 14 日以降フィリピンにおける日本 軍政府はやめて、ラウレルによる第二フィリピン共 和国と呼ばれる政府が誕生した。しかしその上に依 然として帝国軍が君臨していた。軍政に加えて占領 下の至る所に陸軍第 14 方面軍と呼ばれるものの存 在があった。陸軍第 14 方面軍はフィリピン全土を 占領する陸軍軍隊だった。彼らは憲兵隊を指揮し、 全ての陸上部隊とフィリピン部隊を統括した。日本 軍政府は第 14 方面軍の一部だったのだ。 共和国が独立を果たしたかのようだったが、依然 として大日本帝国軍は存在し続けた。一般フィリピ ン国民にとっては日々の生活でとても小さな変化し か起きなかった。食糧配給制度は続き、街角の歩哨 はまだあった。唯一変わった事はフィリピン国旗の 政府庁舎掲揚が許可された。タガログ語が重視され たが、カリバピは依然存在し、ラジオ体操は引き続 き強要された。郵便物やメデイアの検閲はそのまま 終戦まで続けられた。 クリスティー なるほど。統治のルールがアメリカやスペインと は違って、全く違う軍事計画に基づいていたのね。 ここでリスナーからのメッセージが来ています。 「何か私はフィリピン近代史 3 年間コースの講義を 受けたような気がしています」 アルジュン 本当そうですね。もしこの講義を受けたらおそら く一学期の歴史授業くらいになるんじゃないですか、 ジミー先生。 クリスティー 私は 10 冊も本読みたくないわ(笑い) 。 アルジュン そう、それよりもずっと楽だよね。美しい話もあ ったと思うな。僕の印象は、僕たちがあの時代に戻 った感じだったね。残虐行為は付随的なものだった。 だって日本兵たちも人間的だったんです。彼らは彼 ら自身の心構えやライフスタイルを一緒に戦場に持 ち込んで来たんだ。そして彼らがフィリピンに来た ときが、自分たちは風変わりだって事を感じる機会 だったんじゃないのかな、たぶん。 ジミー フィリピン人は当時規律を欠いていました。ホセ 教授の説明によると、日本兵が訓練させる、私たち 12 し出て米国に敵対するという話です。当時最も有名 な3人の俳優を使いました。フェルナンド・ポ、レ オポルド・サルセド、アンヘレス・ベラルダ。日本 アルジュン 人の将校は有名な俳優、大河内伝次郎が演じました。 ちょっと昔の人たちの、日本人は厳しかったって フィリピン人の少年が事故に会い、日本の兵隊がそ 言う話を思い出してみよう。だって当時フィリピン の子を助ける。輸血の血液を与えることによって少 人は規律を欠いていたって言うんでしょ。それが話 年を助けるという話です。少年が助かるために必要 の背後にある。だけどもし当時フィリピンが真のア だった輸血が描かれます。文字通り日本人の血がフ ジア国になるために独立を与える、というのが本当 に日本人の誠実な意図から来たものだったとしたら、 ィリピン人の体に輸血されると言う、とても象徴的 なエピソ-ドを含んでいます。 僕はそれはいい方向性だったんじゃないかと思う。 当時ハリウッド映画は禁止されました。何故なら アメリカやアメリカ的な考えを代表していたから、 日本人への疑念の中のいい面を捜してみましょう。 それらは日本映画に取って変えられました。日本兵 おそらく彼らは事態を明るい方向に導こうとする良 はタガログ語が分からないし、英語もままならない。 い意図を持っていた。しかしもし彼らが当時のフィ だから片言の英語でフェルナンド・ポ−・シニアに リピン人はしつけを欠いていたと言うならば、日本 言います。「私、日本人。あなた、フリピン人。日 兵たちも欠いていたと思う。何故ならばどうして日 本、フィリピン、友達」フェルナンド・ポー・シニ 本兵はあんな拷問をしなければならなかったのか。 ア扮するフィリピン人は言います。「はい、そうか、 分かった。日本、フィリピン、友達」これは文字通 ジミー り直接的なフィリピン人への語りかけとなった。こ 大日本帝国は台湾を簡単に征服したのに、フィリ れが映画のメッセージだったんです。「日本、フィ ピンはそう簡単には征服出来なかったんですね。ホ リピン、友達」。 セ教授の話によると、フィリピンは日本の前にアメ 戦時中、主役の俳優フェルナンド・ポーは日本軍 リカによって指導されていたんです。さて次は、大 に強制されたんです。ほんとはやりたくなかったけ 日本帝国軍がどのように様々なメデイアを活用した のか、テデイー・コさんのお話を聞いてみましょう。 ど演じることを強制され、日本に協力しました。終 戦直後に彼は最初の戦争映画を制作しています。そ れは反日の映画でした。 (笑う)その後 50 年代 60 録音済みインタビュー 録音済みインタビュー 年代も戦争映画が製作されましたが、日本人はいつ も映画の中で悪魔のように描かれていました。 に訓練させたかった。 アルジュン ラジオやテレビ、映画も本当に強い影響力があっ たね。 クリスティー 洗脳される感じですね。 テデイー・コ テデイー・コ 映画評論家 映画評論家 大日本帝国軍は戦時下に何本か戦争宣伝映画を制 作し、私はそのうち 2 本を見ました。ひとつはドキ ュメンタリー映画の「東洋の凱歌」。もうひとつは もっと有名な「あの旗を撃て」、英語題名は「Down of Freedom」。この映画は日本軍がフィリピンに来 てアメリカからフィリピンを解放するという話。 (笑う)もちろんこれは日本側からの視点です。こ の宣伝映画では米軍は迫害者で植民地主義者です。 そこに日本軍が来てフィリピン人に友情と協力を申 アルジュン そう、洗脳です。メデイアはあなたのどんな考え も表現できるんです。大概のメディアは複雑な事を 飛び越えて物事を直接理解できます。これは何かを 主張する時に良い戦術です。あなたもメディアで何 かを表現できますよ。 ジミー ラジオやテレビやマスコミのあらゆるメディアが、 いったい何を私たちに伝えようとしているのかを考 えることはとても大事な事です。何故ならこれらは、 13 1700 万人。そこに 100 万人の日本兵が加わった。 それは元々自給できていなかったフィリピンにとっ て大きな負担でした。食糧は不足し、日用品の衣服 や石けんや油やマッチまで不足し始めた。占領され た地域、特にバギオなどはとても厳しく、人々は工 夫して行き延びなければならなかった。サバイバル のひとつの方法は代用品を利用すること。例えば代 用食料品を考案する。カッサバ(タピオカ芋)は戦 前は食用ではなく豚の餌でした。しかし戦争中にこ れが食べられる事、ケーキにもなる事を発見した。 そして今でも皆が食べているカッサバケーキが出来 上がったのです。 そうやって一部のフィリピン人は代用食糧や日用 品を見つけて生き延び、抵抗して生き抜いた。それ は自分たちが抵抗して生きて行ける事を示した。し かし大日本帝国軍統治下の生活は大変厳しい。憲兵 隊に悩まされ、食糧難は厳しく、人々は益々反日ゲ リラ活動に参加するようになった。1942 年後半か 録音済みインタビュー 録音済みインタビュー ら 43 年 44 年にかけて益々ゲリラが増強されて行 きました。ビサヤやミンダナオ、元々日本軍が手薄 でゲリラが優勢だったところは、ゲリラたちにとっ て十分準備期間があった。パナイ島やセブ島、ネグ ロス島やミンダナオ地域では反日活動が盛んで、 1943 年にかけて大変強力になっていった。彼らは マッカーサーとの通信機関を確立し、反日ゲリラと して認知されるようになります。そして米軍の潜水 艦が武器を運び、彼らを益々強化した。それが帝国 軍を襲撃したり待ち伏せ攻撃するまでになりました。 1943 年日本陸軍の司令官田中静壱中将はパナイ島 イロイロ郊外で待ち伏せされ襲撃されました。 リカルド・ホセ 状況は緊迫していた。反日ゲリラ活動が激しくな 歴史学博士 るにつれて日本軍の反撃も厳しくなった。日本兵が フィリピン大学 フィリピン大学デリマン 大学デリマン校 デリマン校教授 一人殺されると 10 人のフィリピン人を捕まえると Part5 Part5 日本軍は脅した。そして犯人が見つからなければそ (反日ゲリラ活動 ゲリラ活動の 活動の躍進) 躍進) の 10 人は殺された。さもなければ町や村全部を焼 き討ちにした。 1944 年、アメリカ軍の反撃は太平洋中部から南 討伐の方法としてゾナと呼ばれたやり方は、ブラ 太平洋に及び、6 月にはマリアナ諸島に達しました。 カンやバタンガス、ラグナで行われた。もしもゲリ サイパン島、グアム島、テニアン島に達し、大日本 ラ活動が活発で誰がゲリラか分からないような時に、 帝国軍は次はフィリピンだろうと察した。それに対 帝国軍は町を取り囲み、全ての男を教会や広場に集 して東京の大日本帝国軍政府は,フィリピン防衛のた めて、覆面スパイに誰がゲリラか指を差させて選り めに捷号作戦(捷しょう=勝つ)を発令し、フィリ 分けて処刑した。これを「ゾナ」と呼んだ。これは ピンに援軍を送り始めました。1944 年の 10 月から 多くの人にとってとても恐ろしいやり方だった。こ 大量の援軍部隊が送り込まれた。その結果フィリピ ういうことが帝国軍を益々嫌いにさせた。いくら日 ン国民が家を失った。軍隊が住む場所を必要とした 本人が、俺たちはアジアの兄弟だ、同じ肌の色だと からです。教会は弾薬庫として使われ、あらゆる場 言っても、そういう扱いを受けるとフィリピン人は 所が軍によって使われた。日本の軍事プレゼンスが 反抗する。米比戦争の時アメリカも似たようなこと 1944 年末から増大しました。 を確かにやったけれど、日本兵はもうちょっと残酷 このことがまた食糧問題に繋がり、すでに食糧不 だった。皆それを観て何が起きているのか知ってい 足が起きていました。当時のフィリピンの人口は 我々が他の人に共有したい考えを表現するのに使う 事が出来るからです。 さてそれでは、アジア太平洋戦争の学習会を続け ましょう。今回は終戦 70 周年を追悼して特別番組 を放送しています。大日本帝国軍がフィリピン国内 を統治していた 1942 年 43 年頃、アメリカ軍は東 南アジアに戻って来る準備を進めていました。アメ リカ軍は潜水艦を徐々にフィリピンに近づけて行き、 反日ゲリラ隊に食糧や武器を供給しました。そして フィリピン人社会は複雑な様相を呈していました。 人々は日本軍から危害を加えられることを避けるた めに、日本軍に協力しなければない。一方ゲリラは 日本軍に仕返しするために戦っている。 さあホセ教授の解説を続けましょう。アメリカ軍 はフィリピンに戻って来るためにどんな準備をして いたのでしょうか。 14 た。だから反日感情は益々醸成された。この時アメ リカの反撃が近づいていた。マッカーサーは宣伝メ ッセージを送り続けていた。「私は戻る」「私はもう 近くに来ている」人々は益々反日ゲリラ活動に参加 した。そして帝国軍の反撃も益々ひどくなって来る。 マッカーサーのゲリラに対する命令は、戦うな。自 分を鍛える事に集中し、仲間を組織しろ。米軍のた めに情報収集をしろ。それを多くのゲリラグループ が従った。 しかし米軍の指令下にいなかった反日ゲリラグル ープはそれに従わなかった。マッカーサーの配下に いなかったある有名なグループは中部ルソンのフク バラハップだ。フクバラハップは徹頭徹尾反日ゲリ ラ隊で、米軍の援助を受けずに独自で反日抗争をし た。自分たちで帝国軍の武器を奪って戦う。バタア ンなどで日本兵から奪った武器を使って戦い、マッ カーサーに頼る必要はないと言う。マッカーサーが 来ようが来まいが関係ない。我々は独自に戦う、と 言った。マッカーサーがゲリラに武力攻撃を控えろ と言った時も、フクバラハップは中部ルソンで大日 本帝国軍を攻撃し続けた。時々ゲリラたちは互いに 戦うことがあった。それは互いの競争心や嫉妬だっ たが、フクバラハップの場合は思想の違いで戦かっ た。彼らは長期にわたって社会的、政治的な変革を 求めていた。他のゲリラたちは基本的にアメリカ軍 の帰還を望んでおり、戦前の体制に戻ることを求め ていた。フクバラハップは農地改革を求め、戦後に 大きな社会変革を求めていた。 ラフィー・カプノ ラフィー・カプノ 俳優・ 俳優・市民劇場演出家 民劇場演出家 やや誇張して言うと、当時フィリピンは分断され ました。一方で2つの重要な大日本帝国軍を支持す るグループ、マカピリとカリバピが組織されました。 それに対して過激で超国家主義的なフィリピン人の グループはサクダルまたはサクダリスタと呼ばれて いました。彼らは米比戦争でアメリカ軍と戦った革 命軍と、カテイプナン(スペインからの独立を目指 した秘密組織)の残党部隊でした。ホセ・ラウレル、 ベニグノ・アキノ・シニアは日本軍協力者に転向し ました。この辺りの話は大変複雑で多くの命が失わ れました。 もう一つの大日本帝国軍に反抗したグループはフ クバラハップで、彼らはまさに反ファシズムのグル ープでした。帝国軍が中国や満州で行った非情な蛮 行を大変嫌悪していた。彼らは当時社会主義的な思 想に傾倒していました。何故なら当時すでに世界初 の社会主義国家ソビエト社会主義共和国が 1917 年 に誕生していたからです。すでに世界では社会主義 思想がもてはやされており、その思想は大日本帝国 や他のアジアの国々、中国、そしてフィリピンにも 届いていました。私は以前フィリピン・USSR 友好 協会の奨学生として3年間モスクワでドラマ演出を 学んできました。 ジミー 戦争の犠牲者は本当に沢山いたんです。沢山の クリスティー そういう事。状況は本当に悪くなって来たんです。 人々が被った。戦争の悲劇、そして虐殺。兵隊だけ 私最初にこの話を聞いた時に本当に悲しくなりまし ではなく一般市民も、子供達も、妊娠した女性たち た。だってフィリピン人同士が戦争してたんですよ。 も高齢者達も。そんなグループのひとつに日本人の 子孫がいます。その一人が写真家のルデイー・古屋 さんです。彼のお父さんはバギオの目抜き通りセッ ジミー ションロード沿いにあった有名な写真スタジオの写 この説明はまだ終わってません。次に今泉さんが 真家でした。さあ彼はどんなバギオボーイだったの インタビューした人は、今スタジオにいます。モス か、お話を聞いてみましょう。 クワに 3 年間留学したアーティストで、彼はロシア 語が話せます。さあラフィー・カプノさんのインタ 録音済みインタビュー ビューを聞いてみましょう。 録音済みインタビュー 録音済みインタビュー 録音済みインタビュー 15 うまく行っていたんです。ところがある日突然戦争 が始まりました。そして私たち日本人の信頼や友情、 そのすべてが失われたんです。私たちは大日本帝国 軍のせいで全てを失ったんです。私たちはもちろん 日本国を尊敬してました。でも日本兵が来た時ちょ (北ルソンの共通語イロカノ語で) っとがっかりしました。だってアメリカ兵やフィリ 私は日本人です。私の名前は古屋栄之助。私は日 ピン兵に比べると日本兵はちょっとかっこが悪かっ 本人ですが、フィリピンの名前も持ってます。ルド ルフォ・フランシスです。ニックネームはルデイー、 た。 私たちはよく知ってました。大日本帝国軍が残酷 82 才です。バギオのノートルダム病院で生まれま な事を沢山やった事を。あれはいったいどんな疑い した。だからバギオボーイなんです。バギオが私の がかけられていたのか知りませんが、凄く残酷な公 ふるさと。本当に美しい所です。私の父は古屋正之 開処刑がありました。ダンワと呼ばれたバス会社の 助。母は古屋英子、日本人です。 広場で、大勢が見ている前で何人かが凄く残酷な方 (日本語で)父は 20 代の頃にマニラに来てフィ 法で殺されたんです。学校の先生は生徒に、あそこ リピン大学デリマン校で美術、油絵を学んでいたよ へ行っちゃいけないと言いました。家に帰る途中に うです。その後写真家になる修行をしたんです。マ 立ち寄ることも出来たんですが、みんな行きたくな ニラにあったサンスタジオという所で、当時はアジ かった。…ちょっと待ってくださいよ。日本はアメ アで1番と言われた写真館だったようです。日本人 経営でした。父は英語よりもスペイン語をよく話し、 リカと戦争したんでしょ。フィリピンと戦争した訳 じゃないんです。フィリピンは全く戦争のとばっち 上流階級の人と沢山お付き合いがあったようです。 りを受けたんです。日本兵の中にはフィリピン人と 例えば私の名前ルドルフォ・フランシスはエミリ いい関係を作ろうとした将校もいました。でも憲兵 オ・アギナルドからもらいました。この人はフィリ 隊は悪かったです。たぶん広場で処刑したのも憲兵 ピン初代の大統領です。彼が私に名前を付けてくれ 隊でしょう。でもフィリピン人だけじゃないんです。 たんです。私が生まれた時にアギナルド夫妻がたま 私たち日本の民間人も疑われたんです。うちの家に たまバギオに滞在していました。そして病院に見舞 も 2 人の私服の男が来ました。何か隠してないか捜 いに来てくれたんですね。そして彼が私に名前をく しに来たんですが、最悪な事が起きたんです。私が れたらしいです。それは父の関係ですね。当時父は 学校から帰って来ると、母がいないんです。母は連 バギオのセッションロードのジャパニーズ・バザー 行されて、彼らの事務所で一晩中椅子に縛り付けら ルにあった写真館の主任技師でした。 れていたんです。母がいったい何を言ったのか?母 ある日日本からお嫁さんが来ました。そして私が はただ「フィリピン人はなんて可哀想なんでしょ 生まれたようです。1933 年でした。当時は日本人 う」って言っただけなんです。それしか言ってない の農家がサガダ、ボントック、(共にマウンテン州 のに、誰かが告げ口したんです。後日憲兵隊の隊長 にある市)もちろんバギオにも沢山ありました。ラ が父に謝りに来ました。彼はとても恐縮していまし トリニダッド(バギオ市の隣の市)にも沢山の日本 た。あの当時私はまだ 11 才、小学校の 4 年生でし 人農夫が鉱山地帯に住んでいました。バラトックと た。私たちが(終戦後)本国送還された時、私は かにね。私たちは日本の文部省に承認された日本人 12 才でした。カルロス寺岡(日系人の友人)の 2 学校で勉強しました。日本から来た先生と沢山の教 人の兄達もやられました。一人は憲兵隊に処刑され 科書もありました。日本人住民は子供を含めて、フ ました。ただラッキーストライクのタバコを持って ィリピンの人々といい関係を築いていました。あの いたって言うだけで。あれはアメリカのタバコだっ 当時日本と中国は戦争してました。だから私は中国 たから。もう一人の兄貴はフィリピンゲリラに殺さ 人の子供達に虐められた経験があります。私たちの れました。本当に日系人は日本兵にもフィリピンゲ 日本人学校には 150 人の生徒がいました。3 分の1 リラにも疑われ呪われたんです。私たちはまだまし 以上、半分くらいは日本人とフィリピン人との混血 だった。私たちは日本人だったから。でも混血の子 でした。しかし皆仲が良く、皆が日本人として扱わ は酷い扱いを受けてた。悲劇でした。 れていて、差別は全くなかったです。 私は学校でイロカノ語のふざけた2つの歌を唄っ 最初の日本人学校はバギオのバーンハム公園の近 てました。ちょっと唄ってみましょう。最初の歌は、 くで、今ピザ屋さんがある所です。そして後にロク シネガンスープを飲んでおならをした、という歌。 バンに新しい大きな学校を建てました。生徒数が増 もうひとつは、カラバオのうんちみたいに渦を巻い えたからです。バギオ日本人会はお金もたくさん使 たパンは 5 つで 1 ペソ、という歌です。 って、大変努力して子供達を教育しました。全てが 古屋英之助 古屋英之助 バギオ生 バギオ生まれの写 まれの写真家 16 (懐かしそうにイロカノ語で2つの歌を歌う古屋さ ん。歌の後にウニャアチャッチャと踊りだす) さてどう言う風にお話したらいいか。私たちが山 に疎開したときの事を。山に避難していた時に、3 年生くらいの女の子が幼い弟と妹を連れていたんで す。山の中をふらふらさまよっていました。そして 私が隠れていた所にやって来たんです。でも私は彼 らに何もしてあげられなかった。彼女は 1 才くらい の赤ちゃんを抱いてました。彼女は泣きながら私の 所に来たんです。私の状況も厳しかったので、彼ら に何にもしてあげられなかった。やがて諦めて何処 かに行ってしまいました。私はとても悲しくていた たまれない気持ちでした。今でも彼らの事を思い出 すと心が痛みます。私たちには母親がいた。だから ずっと良かった。誰がこんな事をしたんですかね? 戦争ですか。山に逃げている間、食べ物は何もあり ません。でも私たちには母がいたから助かった。母 は山梨県の南アルプスのふもとで育ったので、山か ら何か食べるものを捜して来ました。田んぼから何 か虫を捕って来て食べさせてくれた。もしネズミや カエルを見つけたら凄いご馳走でしたが、めったに なかった。芋虫だって食べました。焼いて食べた。 私たちはいつも空腹で、それと一緒に毎日アメリカ 軍の爆撃がありました。 あれは雨期で、毎日雨が降っていた。何処もひど くぬかるんでいて、そんな中を私たちは逃げて逃げ て逃げました。たくさんの人たちが病気で死んでま した。でももっと多くが飢えて死にました。日本兵 でさえ死んでいました。 もうひとつ。これは今まで話した事がない話なん ですが。あの当時、人を殺して食べると言う事があ りました。ある男が父に言いました。(後に山中で 父と再会した)あの家にイゴロット(山岳民)の老 婆が一人で住んでいる。「殺して食べましょう」と 男は言った。でも私の父は止めさせて、男に絶対や っちゃいけないと言いました。こんな事もあった。 私も食べられそうになったんです。一人の兵士が私 の所に来て、芋がある、少しあげるよ、と言うんで す。ちょっと変な話でしたが断れなかったので、彼 について行ったんです。母もいいよって言う顔をし たので、彼について行った。川の土手の横に穴が掘 ってあった。私は穴の中で待て、って言われたんで、 這って穴の中に入りました。その兵士の足が右左に 行ったり来たりしているのが見えました。そして私 の足元の地面に見たものは、多分穴を掘った時に使 ったんだろう銃剣がありました。どうも怪しいので 私は隠しました。しばらくしてその兵士が私に出て 来いと言ったので、銃剣を中に残して外に出ました。 兵士は芋が見つからなかったと言いました。初めか ら芋なんかなかったんです。私は母の元に返って、 芋はなかったよと曖昧な返事をした。もしもあの銃 剣が外にあったら、私はきっと食べられていたと思 います。 1945 年 8 月 15 日、私は水を汲みに行ったんで す。当時それは私の仕事でした。でも不思議なほど、 静かなんです。アメリカ軍はいつもビラを撒いてい た。一枚欲しかったんで落ちて来たのをひとつ拾っ た。このくらい小さな紙で、天皇の命令が書いてあ った。万人が望んでいる平和が今やって来た。そん な内容で、そこだけ覚えています。平和が来た。と 言う事はもう爆撃も砲撃もない。そうしたら気がつ いたんです。鳥のさえずりや水のせせらぎが聞こえ るんです。木の葉の音が聞こえるんです。…。分か りますか…。これが平和なんです。(笑う)あの時 私にとって平和って言うのがそんな感じだったんで す。とっても新鮮な感じでした。静かで。初めてあ んな風に平和を感じました。 ジミー この人が以前ここバギオに住んでいたルデイー古 屋さんです。だからイロカノ語を話せるんですね。 アルジュン ジミー先生、ルデイーさんのお話では、日本の民 間人も大日本帝国軍の犠牲者だったんですね。 ジミー そう。誰もが選択肢はなかったんです。フィリピ ン人が気の毒だと自分の気持ちを表現しただけで拷 問された日本人の話がありました。彼のお母さんは ただ「フィリピン人が可哀想」と言っただけで縛ら れたんです。 もうひとつ古屋さんが話してくださったのは、い くらバギオがふるさとだと思っていても、戦後は日 本に帰るようにと言われたんですね。そして日本で 17 500 人を超えると言われています。道路完成後に多 くの日本人は南に移動しました。多くがダバオ島の アバカ麻栽培に参加しました。マニラロープの原料 で、戦艦に必要な軍需物資でした。しかしコルデレ リア(北ルソン)の美しい女性に見せられた若い日 本人たちはバギオに留まった。彼らはなんとか結婚 にこぎ着けようと努力し、やがて成功し定住しまし た。彼らはバギオのギサドやラトリニダッド谷を開 発し、フィリピンの一大野菜生産地を作った先駆者 録音済みインタビュー 録音済みインタビュー でした。バギオの郊外に金の鉱脈が発見された時、 沢山の米国資本の金鉱山会社が参入しました。彼ら は労働者用の家やその他の建物を建設する、沢山の 建設労働者を必要としていました。木造建築の建設 は日本人労働者の得意とするところです。沢山の日 本人の熟練大工職人が群れをなしてバギオにやって 来て、またたく間に建設を始めました。アメリカ人 オーナーたちは驚いて、日本人職人たちが想像もし なかった額のボーナスを支払ったそうです。結局は 多くのフィリピン人が日本人から技術を習得し、彼 らも熟練職人になることが出来ました。バギオ市の 日本人会は、セッションロードにあるジャパニー カルロ カルロス寺岡 ズ・バザールのオーナー早川さんの肝いりで設立さ 元日本国 元日本国名誉領事 れました。日本人会はバギオ市の発展に多大な貢献 北ルソン比日基 ルソン比日基金代表 比日基金代表 をしました。セッションロード(バギオの目抜き通 (日本語で)私は日本人とフィリピン人の子供で、 り)両側の半分以上のお店が当時日本人経営だった と思います。私の父が建設した建物で今も残ってい 父の名前はチャールズ・ムネオ寺岡です。1918 年 るものは、セントルイス女子高校校舎とホリーファ に移住してきた日本人です。母の名前はアントニー ミリー大学校舎ビルです。バギオ校外では 1930 年 ナ・バウティスタ。タルラック、サクラメンテのイ 頃に父によって建設された絵画的な趣のある、古く ロカノ語族の女性です。私は1930年 12 月 25 長大なバナオアン橋です。現在は観光名所になって 日にバギオで生まれました。私がこう言うと皆さん いて、西海岸のビガンに行く手前に日本のジャイカ は信じられないかもしれませんが、日本は 1900 年 が建設した新しい橋と共に見ることが出来ます。 頃は貧しい国でした。今この国で行われているよう 私たちはアメリカ人も日本人もフィリピン人も、 に、あの当時日本人は海外出稼ぎ労働者になってい あらゆる国籍の人たちが混ざり合って幸せに暮らし ました。そして世界で最も豊かな場所と賞賛されて ていたこの時期を、平和な時代と読んでいます。誰 いたのは、なんとコモンウェルス政府のフィリピン もが皆と友達でした。しかし 1941 年 12 月 8 日に でした。米国政府はバギオに夏の首都建設を決めて 最悪な第二次世界大戦が勃発しました。すぐに大日 1901 年に道路建設に着手しました。今に言うケノ 本帝国軍はバギオ市を制圧し、平和な時代は消え去 ンロードです。ケノン少佐はこの挑戦的な仕事の責 りました。そして大日本帝国の統治時代と言われる 任者に任命されました。そしてこれを成し遂げる為 時代に変わり、その時代は 1941 年 12 月から 1945 には、相応の能力のある労働者が必要なことが分か 年半ばまで続きました。バギオ解放のための米軍と っていた。彼は 1,400 人の日本人を呼んで雇い入れ フィリピン軍の猛烈な反撃は、1944 年終盤に始ま た。彼らは技術を持った熟練労働者として知られて りました。バギオの市民は、B24 の爆撃と 50m 機 いて、1903 年に工事は再開されました。この日本 関砲の攻撃に 24 時間痛めつけられなければならな 人労働者たちはフィリピンに移住した最初の日本人 かった。すでに荒廃したバギオ市を空爆し続けたの として記録されました。事業は実に困難なものでし です。人々は命を守るために、来る日も来る日も一 た。しかし事故や病気で毎日増える犠牲者の困難さ 日中防空壕の中に居続けなければならなかった。そ にも関わらず、日本人労働者たちは工事の成功を目 して状況が悪化するに連れて、私たち混血 2 世たち 指して奮闘しました。そして 1905 年にケノンロー は、日本軍やフィリピンゲリラそしてアメリカ軍か ド建設は完成した。日本人労働者たちの犠牲者は 彼は一生懸命写真の修行をした。今は横浜で奥さん と娘さん家族と一緒に暮らしています。同じく日系 人のカルロス寺岡さんの事も話してくれました。元 日本名誉領事で今はアボンと呼ばれる北ルソン比日 基金の代表です。バーナンハム公園の近くに事務所 がありますね。次はカルロス寺岡さんの話を聞いて みましょう。 18 らも、益々敵のスパイか協力者だと疑われ敵視され るようになりました。私たちが日本語もフィリピン 語も部族の言葉も英語すらも流暢にしゃべれること が出来たからだと思います。私たちフィリピン中に いた日系混血児たちはみんな同じような体験を強い られました。戦争の真の犠牲者でした。 私の家族に起きた惨事の話をさせていただきます。 私はそこから生き延びて来たのであります。ある日 一人の日本憲兵がやって来て、19 才の兄貴をアメ リカのスパイ容疑で連行して行きました。母はもし 私たちが日本軍を支持する家族だと証明出来れば、 息子を返してくれるのではないかと考えました。そ して 1945 年 4 月 23 日の夜に家族全員で家を出ま した。ハルセマ街道を通って山岳地帯へ退却する日 本軍と邦人民間人の一行と行動を共にすることを決 めたからです。母と一緒だったのは2人の妹と兄と 私でした。私たちがラ・トリニダッドの古いダンワ バスの停車場に着くと、その光景に愕然としました。 私たちは行く手の道いっぱいに広がる、無数の見知 らぬ人々の死体の山を乗り越えて行かなければなり ませんでした。私たちがバギオを出た翌々日の 4 月 25 日にバギオは大日本帝国軍から解放されました。 4 月 24 日の朝、私たちはバギオから歩きづめでと ても疲れていました。私たちはハルセマ街道の 13k 地点で他の家族たちと一緒に休み、食事を作ること にしました。何処からか小さな飛行機が上空に飛来 すると、やがて砲弾が飛び越えて行く音が聞こえま した。そしてその数分後に、私たちの居た場所がま さに地獄絵図と化したのでした。見えるものと言え ば炎と共に爆裂した真っ赤に燃えた金属片です。2 分ごとに 3 つの爆弾が近くで炸裂していました。正 確には何発爆撃されたか分からないですが、100 発 は有に超えていたでしょう。むごいことに私たちに は、遠くで砲弾が発射される砲声が聞こえていまし た。それがヒューとやって来て、数秒後には自分た ちを死に追いやる事が予想出来る残酷さにずっと晒 されていたのです。周りには沢山のケガ人がいて、 まだ生きてうなり声を上げていました。しかし私た ちには何の助けもなく、負傷者たちに何もしてやる ことが出来ませんでした。奇跡的に私と妹のロリン と従兄弟のヒロノブは無傷でしたが、母と妹キャサ リンと弟エドワルドが目の前で死に、重症で運ばれ た叔母たちも亡くなりました。その後私たちは日本 兵や邦人民間人たちと共にバドアヤンを通ってトク カンに行きました。 山の森の中には食糧も休める場所すらもありませ んでした。私たちはひたすら草を食べて生き延びな ければなりませんでした。米軍とフィリピン軍の強 力な軍団が行く手をはばみ、再び空から砲撃と機銃 掃射の嵐を絶え間なく襲撃して来ます。私たちのい た周辺は激しさを増して行きました。そして 1945 年 8 月中頃のある日、周囲が急に静かになったこと に気付き不思議に思いました。すると小さな飛行機 が飛んで来てビラを蒔きました。そこには戦争は終 わったと書いてありました。 神よありがとう。もしあと1ヶ月戦争が続いてい たら、私たちは皆死んでいただろう。私たちは正に 死ぬ直前でした。私たちにはもう何処にも行くとこ ろがなく、もはや隠れるところもありませんでした。 私たちは山奥のトクカンからハルセマ街道 90k 地点 まで下りて来るように指示されました。そして私た ちは 1945 年 9 月 21 日に捕虜になりました。私は 14 才、妹は 11 才でした。 生き残った一世の日本人は全て日本に送還されま した。しかしその妻と混血の子供たちには何の通知 もなくフィリピンに取り残され、土地財産は全てフ ィリピン政府によって没収されました。理由は戦時 中の日本軍が犯した残虐行為の代償と言う事でした。 そして戦後日本人はフィリピン人からひどく恨まれ、 それは凄まじい虐待に会いました。フィリピンに残 された可哀想な日系 2 世たちは、日系である事をひ たすら隠し、見つかって危害を加えられたり殺され たりする事を避け、隠れて生きて行かなければなら なかったのです。私の長兄は結局釈放される事はな く憲兵隊に処刑されました。17 才だった次男はマ ニラからバギオに戻る途中にフィリピンゲリラ兵に 捕まって斬首され死にました。私の母と 7 才の弟、 9 才の妹はアメリカ軍に殺されました。戦争のおか げで、日本、フィリピン、アメリカ、3 つの国全て が、無実の私たち日系人を敵だと見なしておとしめ ました。 戦争は何ももたらしてはくれません。ただ苦しみ と死別だけです。その意味するところは、戦争は決 して始めてはならないと言う事です。私たちは平和 を維持するためにあらゆる努力、あらゆる準備をし なければいけない。もしも第二次世界大戦さえ起こ 19 されなかったら、最初にお話しした幸せで平和な時 代が続いていたのでしょう。平和が世界に大きく広 まり、全能の神に祝福されて、誰もがみんないつま でも幸せに暮らした事でしょう。ありがとうござい ました。 クリスティー はい、視聴者の皆さんいかがでしたか? アルジュン 私たちの太平洋戦争終戦 70 年周年記念特別番組 はまだまだ続きます。第 6 回アジア太平洋国際平和 慰霊祭、先の戦争に関して様々な角度からお話を伺 っています。山岳地帯全域に放送しているバギオの ラジオ局 DZWT540 から生放送しています。一緒に いるのはクリスティー・アバンさんとジミー・フォ ンさん。日本の NPO「音楽は平和を運ぶ」とNPO サルボンの提供で番組を放送しています。 クリスティー 今回インタビューした人々や日本から来てくださ ったゲストはボランテイアで協力してくれました。 日本の戦争の汚点であるにもかかわらず、太平洋戦 争の実態を私たちと共有する活動をしてくださいま した。日本の NPO サルボンの今泉光司さん、NPO アントの渡部朋子さん、そして歌手のおおたか静流 さんと ASU さん、そして地元歌手のブライアン・ アリピンさん、ありがとうございます。次は静流さ んが音楽を届けてくれます。ヒロシマの民謡です。 スタジオライブショー 波間やらヨー 全員拍手 ジミー 今泉さんに訳してもらいましょう。 今泉 これは日本の船乗りの歌です。広島もやはり海、 瀬戸内海に面したところで、日本には沢山の舟歌が あります。日本人もフィリピン人と同じように海の 民です。戦争で亡くなった沢山の可哀想な日本兵た ちの魂は、この曲を聴いてきっと喜んでいると思い ます。 ジミー ざっくりとどういう意味なんですか? おおたか 船出の時は決して泣かないでほしい。ではあなた の航海を祈っていますっていう歌です。 アルジュン なんて力強いメッセージなんだろうか。フィリピ ン人はいつも別れの時に泣いてますからね。 ジミー 次はブライアン・アリピンです。 ブライアン・アリピン DZWT ラジオをお聞きの皆さんこんにちわ。これ から 1986 年に作詞作曲録音した私の曲「村の仲間 と」を世界中の皆さんのために唄いたいと思います。 皆が義務を果たせば平和と愛が皆にやって来る。そ う言う歌です。 録音済みインタビュー 録音済みインタビュー おおたか静流 おおたか静流さ 静流さんの歌唱 音戸の舟歌 ヤーレーノ 船頭可愛いや 音戸の瀬戸でヨー 一丈五尺の ヤーレノ 艪がしわるヨー ヤーレーノ 泣いてくれるな 出船の時にゃヨー 沖で艪櫂の ヤーレノ 手が渋るヨー あすはいずこの やれーのー 20 村の仲間と (作詞作曲: 作詞作曲:ブライアン・アリピン) ブライアン・アリピン) イゴロットには 先住民としての結束がある みんな助け合い より良いコミュニティーを目指す 皆それぞれが 出来る事を村のためにやるんだ その秘密は みんな我々の土地にある 皆キリスト教を信じ 助け合う (コーラス) カブニャンは全能さ 皆で彼をあがめましょう そうすりゃ悪いものは排除され 結束が強くなる そう、そうだよ、 母なる大地に 人々の調和がある 小さな蟻たちは 協力して働く 彼らはただの 砂から家を造る 雨が降っても 濡れないさ 草葺き屋根は 寄り添って 雨が降っても 濡れません 雨が降っても 濡れません イゴロットには、イゴロットには 先住民としての 結束がある ジミー 静流さんブライアンさんありがとう。聴視者の皆 さんこの番組は第二次世界大戦終戦 70 周年記念の 特集番組をお送りしています。さあ太平洋戦争中に 何があったのか、続けて話を聞きましょう。1945 年間近になってアメリカはフィリピンを猛爆撃しま した。ホセ教授の話です。 録音済みインタビュー 録音済みインタビュー リカルド・ホセ 歴史学博士 フィリピン大学 フィリピン大学デリマン 大学デリマン校 デリマン校教授 Part6 Part6 (マッカーサ マッカーサー再上陸) 再上陸) 1944 年 9 月にはアメリカ軍がフィリピン諸島の すぐ近くまで来てました。1941 年 42 年にはまだ近 くに来れなかったのですが、セブやレイテあたりの すぐ近くまで来るようになりました。そして 9 月 21 日、彼らはマニラとクラーク空軍基地などを爆 撃したんです。これが大日本帝国軍撤退の始まりで した。米軍空爆の始まりと共にフィリピン人は米軍 が帰って来ると大喜びしました。しかし最初の空爆 からマッカーサーの上陸まで 1 ヶ月かかりました。 空爆はあったけれどもなかなか上陸しなかった。マ ッカーサーがやっとレイテ島に上陸したのは 1944 年の 10 月でした。 その時日本の大本営と艦隊本部は捷号(しょうご う)作戦を発令しました。これはフィリピンにあら ゆる戦艦や物資を送ってフィリピン諸島を防衛する ための作戦でした。当時燃料を必要としたためブル ネイにいた最も大きい戦艦、大和、武蔵、長門、榛 名、は最終決戦のためにフィリピンに送られました。 北方からも最後の飛行機がフィリピンに送られ、連 合艦隊がアメリカ軍レイテ上陸を阻止するためにお びき寄せる罠として使われました。 しかし結果的に大日本帝国軍は全滅し、戦艦武蔵 は沈没し今もフィリピン海域に沈んでいます。そし て他の戦艦も全て沈められてしまい、フィリピン防 衛のために苦肉の策として特攻作戦を発令しました。 これが有名な「神風特攻隊」です。1944 年 10 月に 米軍を撃退し、帝国のタンカーを守るためにこの自 爆攻撃が行われた。日本のパイロットたちはもはや 訓練を受けさせられなかった。彼らは自分の飛行機 もろとも自爆攻撃しなければならなかった。それほ ど状況は危機的でした。海戦も陸戦も共に全く見込 みのない絶望的な状態でした。帝国軍はルソン島各 地やミンダナオ、台湾や中国からも援軍をレイテ島 に送りました。しかし 10 月 11 月 12 月は雨期、台 風シーズンで、戦場の状態は良くなかった。フィリ ピンゲリラ隊も参戦しましたが、ぬかるんだ戦地の 状況は困難を極め、3 ヶ月から 4 ヶ月の長期戦に持 ち込まれて行きました。米軍は飛行場を建設したが ぬかるみがひどく、離陸困難で戦況は長引いた。そ こでマッカーサーは別の基地が必要だと考え、 1944 年 12 月にミンドロ島に基地を移設しました。 ミンドロはより乾燥して土地も固く、飛行機の離着 陸に適しマニラにも近い。米軍は 12 月までにミン ドロ島に空軍基地を立ち上げました。 そして 1945 年 1 月にマッカーサーは北部のリン 21 ガエン湾に上陸し、ルソン島を大日本帝国軍から救 出するルソン作戦を開始した。フィリピンゲリラ隊 は米軍と共に激しく戦った。帝国軍は送れる援軍を 全て送り、最後のタンカーがルソン防衛のために満 州から送られた。その他の物資や援軍も朝鮮や中国 本土、日本本土や沖縄から、ルソン島や南の島々へ 送られて来た。こんな事をしていたら本土防衛が手 薄になってしまうだろうとも言われたが、それほど フィリピン防衛は大日本帝国にとって重要だった。 しかしほとんど全ての町で激しい戦いが繰り広げら れた。バタンガスでも帝国軍はゲリラたちに囲まれ ていたので、指揮官は住民虐殺の命令を下した。そ の結果リパやタール、タナウアン、バワンなどで非 情な住民虐殺が行われた。これは日本兵たちが常に フィリピン人ゲリラたちに取り囲まれていると感じ たからだった。 マニラでは大日本帝国の海軍の指揮官が、マニラ を無血開城し明け渡す(マッカーサーが提案し山下 奉文大将が同意した)代わりにマニラを死守する決 定をした。その結果マニラの建造物は全てが要塞と 化し激戦は 1 ヶ月間に及んだ。マニラ中心部の古都 は壊滅し、約 10 万人のマニラ市民が巻き込まれ殺 された。 クリステーさん 今聴視者からの沢山のテキストメッセージがスタ ジオに届いています。ひとつご紹介します。「放送 の議論を聞いています。この大変重要な歴史語りの 番組企画を成功されておめでとうございます。戦争 の話にはいつも二面性がありますが、今回は私たち が否定して来た反対側の話も聞く事が出来ました。 拡張主義的な覇権と遂行能力を考える戦争の分析で 本質的な事は、正義と平和の歴史的かつ現代的な奮 闘を理解する事です。私たちがこの事に気付く一方 で、このフォーラムでは何か他に私たちに示唆する ことはありますか?」 この方の質問は、私たちはいったい何が出来るの か?全てのリスナーとスタジオのゲストたちに投げ かけられたものはいったい何なのか?ここから私た ちは何処に行くのか?私たち一人一人が今気付かさ れたものは。さあいったい何が出来るのか?と投げ かけています。 アルジュン もうひとつテキストが来ています。「そう、そう いう戦争が起こったんです。番組放送中お話を聞き ながら涙が落ち続けていました。」 ジミー 本当ですね、アルジュンさん。この涙が学びの始 まりです。さて戦時中の悲しい物語を続けましょう。 暴行された女性のお話です。ベンゲット州立大教授 ミルナ・シーズンさんの話を聞きましょう。このお 話も、ある日系人のお話です。 録音済みインタビュー 録音済みインタビュー ミルナ・シーズン ベンゲット州 ベンゲット州立大学講師 大学講師 (父の従兄弟) これは私の父が証言した父の従兄弟の実話です。 父は 1944 年にトブライ村でブリオンと呼ばれた人 夫、大日本帝国軍の荷物持ちをやらされました。父 の従兄弟のおばさんは、私たちとは別の村に住んで いました。父が日本兵たちと一緒に荷物を運んでい たある夜、通りかかった叔母の住むニッパ小屋に泊 まることにしました。日本兵たちは父を小屋の床下 に寝かせ、日本兵は叔母と一緒に小屋の中にいまし た。叔母は父に部族の方言で、日本兵に暴行される と訴えました。しかし父は言ったのです。抵抗する な、殺されるよりましだと。そして叔母は抵抗せず に、戦わなかった。叔母はどうしようもなく無力で した。その時の父の気持ちも想像してみてください。 そしてそのレイプの結果、一人の娘が生まれたので す。叔母は当時中絶を考えましたが出来ませんでし た。(キリスト教では)堕胎は罪だと言う事を知っ ていたからです。妊娠中もそんな気持ちのまま叔母 は自分を呪いました。そして出産後も叔母はその赤 子を嫌悪し、2 ヶ月間一切面倒を見ませんでした。 私たちの祖父にその子の面倒を見させたのでした。 その子は正に日本人の顔姿に育ちました。 そしてその娘は母から愛されていない事を知りま す。彼女は皆に「サポン」とか「サカン」と呼ばれ ました。がに股という意味の日本人の蔑称です。そ して彼女は自分自身をも嫌悪するようになりました。 母親は彼女を嫌い、決してその子を愛しませんでし た。娘は大学教育は受けませんでしたが、彼女は独 22 逃がされた腹いせに数千人の地元住民を殺害しまし た。 マニラでも多くの場所で虐殺が行われました。パ サイ市やマニラのダウンタウン、例えばベイビュ ー・ホテルでは女性たちが強姦され、マニラホテル で処刑されました。彼女たちは捕虜として捕えられ ていましたが、逃げろと言われてホテルから走って 出た時に多くが殺されました。マニラの多くの家で、 クリスティー これがシーズン先生が話してくださったお話です。 住民は家もろとも焼き討ちされ、家族全員が殺され ました。全部の虐殺事件をリストアップするべきな 本当に悲しいです。他の話とも関係して来ますね。 のですが出来ていません。シンガロンにはドイツ・ クラブという建物があり、人々はドイツは日本と同 ジミー 盟国だからここは安全だと考えました。多くの近隣 現在も慰安婦の問題が取りざたされています。お 住民たちが安全な場所を求めてそこへ入り込んでい 話を聞いている通り、大日本帝国軍の敗色が濃くな ましたが、クラブは焼き討ちされ、逃げ出た人々は って来ると兵隊たちは絶望的になり残酷になったよ 外で撃ち殺されました。 うです。女性や子供達が巻き込まれ犠牲になってい その後もミンダナオやダバオでいくつか虐殺があ たのは悲しい事で、現在までそれは引きずっている りました。これらは米軍再上陸前の虐殺です。問題 んですね。さあ、ホセ教授のお話を続けましょう。 なのはそれら全てがきちんと記録されていない事で す。山下大将の戦犯裁判を見ればもっと多くの証例 録音済みインタビュー 録音済みインタビュー が見られるでしょう。しかしその後削除されたもの もある。その数はまだはっきりしていません。各地 の地元歴史家たちが、それぞれの虐殺ケースがいか に深刻だったかを検証しなければなりません。 インファンタはもうひとつの大きな虐殺でした。 これは終戦間際に行われた虐殺です。マニラから逃 避したある海軍指揮官がインファンタで起こした虐 殺でした。多くの住民が虐殺されましたが、その理 由は分かりません。しかし 1944 年以前に米潜水艦 がこの海域に上陸していて、反日ゲリラの支援のた めだと見られていました。それが大規模な虐殺を起 こした理由かも知れません。 リカルド・ホセ 歴史学博士 フィリピン大学 フィリピン大学デリマン 大学デリマン校 デリマン校教授 アルジュン Part7 Part7 はい。これらのインタビューやお話が戦争の実話 (反日ゲリラの抵抗 ゲリラの抵抗と 抵抗と日本軍の 日本軍の虐殺) 虐殺) なんだと、ラジオをお聞きの皆さんが感じています。 今泉さんが言う通り、私たちは当時生まれていなく 反日ゲリラの抵抗が激しさを増すと、大日本帝国 て本当に良かったと感じます。もしも当時に生まれ 軍は村人たちに過酷な応報を企てました。米軍上陸 ていたら、私たちも犠牲者だったでしょう。今泉さ 前の最後の戦いでも大規模な住民虐殺が行われてい ん、あなたも大日本帝国軍の一員で殺戮を命じられ ました。バタンガス州では、ほとんど全ての町で虐 ていたかもしれませんね。 殺があり、ラグナ州でも前に説明したゾナが行われ ました。帝国軍の指揮官は住民の反逆に怒り心頭し、 今泉 村人全員の虐殺を命じたのでした。ロスバニョスに そうです。私は戦後に生まれました。もしもまた は連合国関係者の強制収容所があった。米軍は捕虜 戦争が起こったら、私たちは人を殺さなければなり 全員を解放する奇襲作戦を企てることに成功しまし ません。私はそれが嫌なんです。私は誰も殺したく た。しかし米軍はロスバニョス全域を防衛する事は ありません。当時戦争中に何が起きたのかを今学べ 出来ず、フィリピン人ゲリラ隊だけでは町を守りき るのは良い事です。私はもう2度とこんな事を繰り る事は出来なかった。帝国軍は町を破壊し、捕虜を 立した起業家に育ちました。彼女は生き延びました。 しかし彼女はいつも幸せではなかった。彼女は生涯 決して日本人とは関わりを持たないと言いました。 その子供も日本嫌悪から、決して日本人の子孫であ る事を他言しません。これがそのお話です。 23 返したくありません。だから私たちは今こうして戦 争について学んでいます。アルジュンさん、私が何 故アジア太平洋国際平和慰霊祭を続けてきたのか、 今きっと分かっていただけたと思います。こんな物 語を2度と繰り返したくないからなんです。 アルジュン そうですね。そのために 6 年間も続けて来た。ア ジア太平洋国際平和慰霊祭はすでに6回目になりま した。あなたの自発性と努力でずっと続いて行きま す。 ジミー 次のインタビューは戦時中に子供だった方です。 お話はジョアン・オレンダインさん。「メモラー レ・マニラ 1945」マニラの戦争惨劇を記憶する会 の会員です。 録音済みインタビュー 録音済みインタビュー ジョアン・オレンダ ジョアン・オレンダイン 作家 「メモラーレ・マニ ラーレ・マニラ 1945」 1945」の会員 メモラーレ・マニラ会は大日本帝国軍統治時代の 話を後世に伝えて行く会です。1945 年 2 月3日か ら 3 月3日の1月間にマニラで 10 万人の住民が殺 されました。その時大日本帝国軍は弾薬が不足して いたので、銃弾を使わずにダイナマイトと火をつけ る焼き討ちをするように命令しました。 私たちの会の現在の代表はローデス・レイエス・ モンテノラさんです。レイエス家はラサール大学の 裏手に住んでいました。帝国軍は一族を居間に閉じ 込めてガソリンを撒き、ローデス以外の家族全員を 皆殺しにしたのでした。彼女はファーイースタン大 学の学長で、彼女とお祖母さんだけが助かり、他の 一族全員が焼き殺されました。もうひとつの家族は ミゲル・ペレス・ルビオです。彼はコリー・アキノ 時代にマラカニアン宮殿の外交官でした。彼の一族 全員もモンテノラ一家と同じ方法でビト・クルスで 焼き殺されました。あの地域の多くの家族がやはり 同じ方法で殺されています。銃弾を使わなくてすむ からです。家族全員を閉じ込めておいてガソリンを 撒く。そして焼き殺すんです。 皆さんはラサール教会と大学の事をご存知です か?沢山の住民が避難して来ていました。何故なら ばほとんどの神父さんはドイツ人です。多くのフィ リピン人達はラサールだったら安全だと考えました。 ドイツと日本は当時枢軸国の同盟国だったからです。 避難者たちはラサール大学内に隠れていました。し かし 2 月 12 日に大日本帝国軍がやって来て、無惨 にも銃剣で突き殺しほとんどの人々が殺され、ほん の数人だけが生き残りました。 イントロムロス(マニラ湾に面し、スペイン時代 の砦が囲んだ大きな城塞)には日本の海軍が居座り ました。海軍は山下奉文(陸軍)総司令官のマニラ 明け渡し命令を聞かずにイントロムロスに居座った のです。そして米軍はマニラを爆撃し続けました。 その間日本兵は女性たちを強姦し、住民を殺し続け ました。沢山の住民が帝国軍に殺され、また多くの 住民が米軍の爆撃と銃撃によって殺されました。正 に地獄絵図でした。3 月3日までにマニラは地獄と 化し、マニラの 80%は焼け崩れました。 1995 年にメモラーレマニラの会員たちはお金を 出し合って慰霊碑を建てました。ペドロ・デ・グス マン氏が制作した大きな彫刻がイントロムロスにあ ります。子供を抱き、泣き崩れる母親。周りを取り 囲み散乱する屍。これらがあの時を追悼しています。 マニラで 10 万人の人々が殺されました。 私たちメモラーレ・マニラの会員は日本の総理大 臣が謝罪してくださることを心より望んでいます。 そして元慰安婦だった方々に対してもです。沢山の 日本兵も亡くなっているのは承知しています。しか し是非フィリピン国民に対して謝罪して欲しいんで す。 戦後に戦争に関する沢山の本が出版されましたが、 幼い子供に関する話は誰も書かなかった。だから私 が戦争中の子供の本を書いたんです。いろんな人々 にインタビューをしましたが、私自身は当時暴力的 な出来事には出会いませんでした。実際ある日本兵 は私においしいウエハースをくれました。母は日本 兵が食べさせようとする食べ物は決して食べてはい けないと言いました。でもその日本兵は私たちに食 べる事を強制したんじゃない。私たちに食べて欲し いと思ってくれたんです。その兵隊はいい兵隊で友 好的でした。こう言う事が戦争の不思議な側面なん です。子供を持つ多くの兵隊たちは、きっと自分の 子供の事を思い出したんでしょう。彼らは子供に対 24 して優しかった。人間ってそんな感じなんですね。 ある人たちは優しくて、でもある人たちはそうじゃ ない。多くの日本兵たちだって戦争に来て何にも楽 しくなかったでしょう。彼らはただ命令に従っただ けなんです。 一方で私たちは日本の素晴らしい平和愛好グルー プ「NPOブリッジフォーピース」のメンバーに会 えてとてもうれしかった。彼らはフィリピンに来て 戦争中に何が起きたのか理解しようとしました。そ して謝罪しようとする。ごめんなさいと。彼らは何 もした訳じゃないんですよ。彼らは若いんですから。 でも彼らは自分の国の祖先がやってしまった事を謝 ろうとするんです。彼らはいつも私たちにそう言う。 もしあなたが事実を知って、申し訳ないと思って、 そして平和の橋を架けようとするのならば、それは 私たちフィリピン人をとても幸せにしてくれます。 そういうことがあると、私たちもそういう日本人た ちと交流したいと思わせてくれます。あなたは、日 本人なら誰でもそう思っているんじゃないのと言う かもしれません。でも私は年配者よりも若い日本人 の方が多いと思う。戦争に何も関係していない若者 達がもっと申し訳なかったと思っているみたいな気 がします。そう言う若者達がもっと真実を知りたい、 謝罪したいと思っている。そう言う人たちを私たち はとても尊敬し、愛したいと思います。 録音済みインタビュー 録音済みインタビュー アレック アレックス・マラリット 犠牲者の 犠牲者の遺族 元市役 元市役所職員 アレックス・マラリット。バタンガス州リパ市出 身です。私の父は戦争の犠牲者でした。私が思いま すに大日本帝国軍の戦況が悪化して来た時、それは ミッドウェイ海戦の敗北がきっかけだった。そして 大日本帝国軍の非情な仕打ちが始まったと思います。 人々が集められ、何千人もの人々が銃剣や刀で斬り 殺されたんです。帝国軍は最終戦争に攻撃手段を変 えて来ました。連合軍がフィリピンを解放に来るか もしれない。あせった日本兵たちは、人々をあえて 家に閉じ込めて火を放ちました。また銃剣と刀を使 って斬り殺した。日本兵たちは人々を井戸に突き落 とし、その上から石とか何でも重たいものを落とし ました。それが彼らの考えた新しい虐殺の方法でし クリスティー た。これが 2 月と 3 月にあちこちで起こった。まさ そうですね。お話を聞いたように、起こった事は に最高レベルの残虐非道さでした。私の父はその犠 良くない事でした。でもよく見てみると中にはウエ 牲者の一人でした。 ハースをくれる日本兵もいた。だから皆が悪かった その日の早朝、日本兵たちは村を一掃しに来まし 訳じゃない。それは戦争の掟で、従わなければなら た。人々がまだ起きる前だった。日本兵たちはドア ない。だから彼らはひどい事も出来るんです。 を叩いた。私は覚えています。奴らは父を後ろ手に 縛り上げ、家にいた他の男たちと一緒に何処かへ連 ジミー れ去ったんです。あとで分かった事ですが、日本兵 そう、彼らが本当に絶望的だったと言う事が分か は私たちがいつも使っている井戸に父たちを連れて って来ます。これまでの話でも、日本軍はすでに食 行った。当時その井戸は私たちの生活水を得る水源 糧もなく力尽きようとしていた。だから彼らは残酷 でした。私たちは何が起きるのか分かりませんでし になり、また強いと言う事を示したかった。残念な がら彼らは暴力に訴えるしかなかった。暴力の行使、 た。父になついていた年下の妹は、父を行かせまい として足に食らいつきました。日本兵たちは彼女を それがフィリピン人を従わせる方法でした。 引き離しました。たぶん 40 人から 45 人の男たち 次はバタンガスで起きた話です。アレックス・マラ がその井戸に突き落とされたと思います。しかしも リットさんのお話を聞きましょう。 っと沢山の人々がリパの他の地域で殺されました。 例えばパミンタハンと言われる所では数千人の男た ちが銃剣で突かれて殺されました。血みどろです。 全ての男たちが集められて連行され殺されました。 何人かは奇跡的に助かったのですが、逃げ出すのは 至難の業だった。何故なら 2、3 人が一緒に後ろ手 25 に縛られていたから逃げられない。 虐殺は川のそばで行われました。人々は言いまし た。川の水が日本兵に殺された犠牲者たちの血でま っ赤になった。残酷な話です。これがあの戦争で起 きた事でした。人類は私たちが願う通り、賢いはず です。みんなで平和を求めましょう。悲惨な滅亡を 語るよりも、平和の声をいっそう高らかに上げて行 きましょう。 クリスティー 次のお話はバクン出身のテオドール・バワン教授 です。彼の歴史の話を聞いてみましょう。 録音済みインタビュー 録音済みインタビュー れました。 また日本兵から暴行を受けた女性もいました。目 撃者は、ある妊婦が体を切られていたと言います。 本当かどうか私は分かりませんが、妊婦が日本兵に 体を切り刻まれていたと言うんです。彼女が泣いて いるにもかかわらず、彼らは切り刻んでいたと言う んです。その後日本兵はその妊婦を殺しました。 これが戦争の悲しい話です。こういう被害をフィ リピン人達に与えたからなのでしょう。戦後に日本 政府は沢山の援助や支援金、またあらゆる形の公益 事業をフィリピンにもたらしてくれました。今でも です。特に農業分野では沢山のボランテイア活動家 を送り込んでくれました。彼らはここにも来ました。 そして母の従兄弟は日本人と結婚しました。だから 私の 2 人の従兄弟は日系人なんです。 アルジュン 私たちに話を提供してくださった人の話では、当 時大日本帝国軍人は残酷な事をしたようでした。し かしこの話ではフィリピンゲリラも残酷だったよう です。 テオドール・バワン 元ベンゲット州 ベンゲット州獣医師 私はテオドール・バワン、シナクバットのガンガ 出身です。私は以前ベンゲット州公認獣医の助手を 務めていました。今は 73 才です。私が 3、4 才の 時に父にあることが起きました。最初は日本兵たち は友好的でした。家の前を通りかかると私たちに水 や食べ物をねだりました。父は家に何かあると料理 をして食べさせてあげてました。もし鶏があったら、 父はそれを絞めて彼らに提供してました。それを近 所の人が見てフィリピン兵に密告したんです。ある フィリピン軍歩兵隊に、父が日本軍を支援している と報告したんです。しかし提供したもてなしは、父 にとっては自然な事でした。もしもフィリピン兵た ちがやって来たならば、父は同じもてなしをしたで しょう。しかしフィリピン兵たちは父を連行し暴行 を加えて白状させようとしました。彼らは父に大量 の水を飲ませ、胃袋を踏みつけ、彼が死ぬまで殴り つけました。そして彼らは死体を家に返してよこし たんです。当時私はまだとても若く、母は未亡人に なりました。私たちは子供のいない叔母に引き取ら ジミー そうですね。私たちはフィリピン人達も日本兵の 扱いに残酷だった事が分かりました。昨日見たブリ ッジフォーピースの映画で日本の退役軍人が「私た ちは人なんか殺せないと思ってたけど、戦争になる と出来るんです」と言ってました。なかなか理解し がたい話なんですが、本当かもしれません。私たち はこうした話からいろいろ学びました。米軍ももっ と残酷でした。米軍が再上陸してからの爆撃は凄い 威力がありました。大日本帝国軍は安全な山岳地帯 に逃げました。フィリピン人も逃げなくてはならず、 山で戦いました。ホセ教授の話を続けましょう。 録音済みインタビュー 録音済みインタビュー リカルド・ホセ 26 歴史学博士 フィリピン大学 大学デリマン フィリピン 大学デリマン校 デリマン校教授 Part8 Part8 (戦争は 戦争は多くの都市を破壊し 破壊し、人々を 人々を殺した) した) 米軍は至る所で日本軍の防衛を崩しにかかり、バ ギオ市は猛烈な爆撃に晒されました。山下大将がバ ギオに潜伏しているという疑惑があったからです。 米軍は爆撃機をバギオに送りました。実際は山下大 将はすでにバギオから撤退していたんですが、バギ オ市は破壊されました。他の町も帝国軍か米軍の砲 火によって破壊されました。イロイロ市、サンボア ンガ市、ダバオ市、これらは皆戦争によって破壊さ れました。米軍の追撃が進むにつれて、都市が簡単 に帝国軍から解放されるようになりました。防衛を 放棄し山に退散したからです。ネグロス・オリエン タルのドウマゲテでも山に退散しました。帝国軍が ドウマゲテを破壊しようとした時、ゲリラ隊が奪回 する事に成功したのでした。そしてほとんどの日本 兵たちは山岳地帯に退却して最終戦に備えるように 命令されました。都市や町が帝国軍から解放された 後でも、しぶとい日本兵たちがサンボアンガやビコ ール半島の山岳地帯に潜伏し、アメリカ軍を留まら せました。山下大将の作戦は米軍を少しでも長く留 まらせて日本本土の防衛に時間稼ぎをすることでし た。だから山下大将は平地では戦わず山で戦ったの です。アメリカ軍やフィリピンゲリラたちを山に釘 付けにし、沖縄や日本本土に行かせないように足止 めしたのです。 しかし 1945 年 1 月から 5 月 6 月までに多くの町 が次々と帝国軍から解放されて行った。いくつかの 場所では戦闘がありました。米軍が山に入って行く と、ここで戦闘になると分かりました。中部ルソン のダルトンパス(バレテ峠)のように熾烈な戦闘が 繰り広げられたのです。帝国軍はこの峠を防衛した かった。何故ならば友軍が背後にいたからです。米 軍とフィリピン軍はこの峠を奪いたかった。この峠 さえ攻略したら帝国軍の陣地に潜入出来るからです。 だから峠道は戦略上今日でも大変重要な場所で、激 しい戦闘が行われました。1945 年 7 月までに平地 での大方の戦争は終了しました。マッカーサーは 1945 年 7 月4日にフィリピン作戦は終了したと宣 言しました。しかしこれは戦争が終結した事を意味 してはいなかった。山下の部隊はまだマウンテン州 やビコール、ビサヤやサンボアンガ、ミンダナオの 山の中に潜伏していたからです。 戦術的には奪還作戦は終わっていた。マッカーサ ーによると後は掃討作戦だけだったのですが、それ が凄惨なものでした。時間もかかった。何故ならば 帝国軍は山に掘った多くのトンネルで、何ヶ月もの 持久戦を想定して立てこもっていたからです。そう している間に8月6日に広島に原爆が落とされ、9 日にも長崎に落とされました。そして 8 月 15 日に 大日本帝国政府は降伏し、戦いをやめるよう停戦命 令を発布しました。山下はその命令を受けて全隊に 攻撃中止を言い渡しました。そして山下は 9 月3日、 東京湾に浮かぶ戦艦ミズーリ号上での大日本帝国降 伏調印式の後に自ら山を降り、全兵士に下山して降 伏するように命令しました。1945 年 9 月3日(米 時間9月2日)に戦争は公式に終了したのです。し かしいくつかの場所では命令が伝わらなかったり山 を降りるのに手間取りました。結局この戦争はフィ リピンの多くの都市を壊滅させる結果となり、バギ オ市はほぼ完全に破壊され、マニラの中心街も壊滅 しました。この戦争で殺されたフィリピン人被害者 の数は 110 万人にも昇り、当時の人口 1,700 万人 の実に 6.5%、15.5 人に一人が戦争の巻き添えにな りました。 ジミー 引き続きインタビューを聞いてみましょう。 録音済みインタビュー 録音済みインタビュー ボニファッショ・ドウ ッショ・ドウマノップ イフガ イフガオ州チノッ チノック、ワンワン村長 ワンワン村長 今日、若い世代の人たちは歴史の重要性をあまり 顧みないようです。しかし私は歴史の重要性を忠告 したいと思います。戦時中このワンワン村はフンド ウアン(戦争末期に山下大将が潜伏していたと言わ れる地域)に属していました。ワンワンは当時はフ ンドウアン地域のバランガイ(村)だったのです。 そしてここは第二次世界大戦の終戦時に、大日本帝 国軍の最高司令官だった山下大将が隠れていた場所 (山下大将が3ヶ月隠れていたトンネルがあり、日 本軍最終集結地)でした。だから私は皆さんをここ にお越し下さるようにお誘いしたいと思います。学 27 生さんや先生方、また歴史の真実を知りたいと考え る外国の方々にも、ぜひ来ていただきたい。 クリスティー ワンワン村の話も関係しているんですね。山下大 将の沢山の部下たちもあそこで亡くなっているので しょう。 ジミー そうです。そして今でも多くの人々が山下財宝 (大日本帝国軍が略奪したと言われる金塊)を捜し に来ています。将来は歴史公園とミュージーアムが ワンワン村やトクカン村にできるそうです。 アルジュン ワンワン村?きっと誰も何処にあるのか知らない ですよね。僕も初めて聞きましたよ。何処にあるん です? クリスティー 現在のイフガオ州のチノックです。(バギオ市の 北の山の中) ジミー これまで多くの宝探しの人々が訪れたそうで、山 下財宝が本当にあるのかもしれません。はたしてそ の話が何処から出て来たのか、あなたが自分でワン ワンに行って確かめて来なければだめですね。村の 人は皆あなたを歓迎してくれますよ。 録音済みインタビュー 録音済みインタビュー リカルド・ホセ 歴史学博士 フィリピン大学 フィリピン大学デリマン 大学デリマン校 デリマン校教授 Part9 Part9 (戦争の 戦争の歴史から 歴史から学 から学ぶ) 私は戦争からもっと学ぶべきだと思っています。 戦争には学ぶべき事が沢山あるからです。学校の歴 史でピープルズ革命(エドゥサ革命 1986 年2月の 民衆革命)や米比戦争だけ学んで、第二次世界大戦 中にフィリピンで起こった事を学ばなかったらおか しいですよ。他の多くの国では自分の国で何が起こ ったのか歴史をよく知っています。フランス人はよ く知っている。オーストラリア人は彼らの戦争の歴 史を誇りに思っています。フィリピン人はちょっと 変わっていて、先の戦争に関しては痛手が大きすぎ て、辛いから学ばなくていいと言う。しかしあの戦 争を直視するとそこには私たちのプライドと恥の両 方があります。私たちのプライド、誇りにはヒーロ ーたちがいます。今私たちはヒーローが誰だったの かを忘れてしまいました。私たちはいつも何かとい うとホセ・リサールやボニファッショと言う。或い はニノイ・アキノと言う。しかし戦争中に沢山の英 雄が生まれました。人々がいかに祖国を愛していた かが分かるんです。これが国のプライドです。誇り なんです。あらゆる年代の人々が国を守るために敵 と勇敢に戦った。ボーイスカウトや普通の子供達も、 国を守るために戦ったんです。現在の若者達は果た して同じ事が出来るでしょうか。彼らはそんな事を 学ぶ必要はないと言い、する必要もないと言います。 しかし私たちの国の誇りは何処に行ったのでしょう。 私たちはこの国を誇りに思っているし、私たちは誇 らしい歴史を持っています。しかしその歴史を学ぼ うとしない。忘れている。私たちはそうした誇らし い歴史がある事を知らないでいる。 私がこの歴史研究を始めたとき、フィリピン人で ある事に誇りを持っていました。何故なら私はフィ リピン人達がいかに祖国のために戦ったか、どんな にフィリピン人達が祖国のために苦しんだのかを知 ったからです。そしてもう2度と繰り返さない。私 はお話を聞いた全ての人から学びました。その共通 する大事な事は、私たちは戦争から沢山の事を学ぶ 事が出来て一気に大人になる、と言う事です。一晩 で急に大人に成長する感じです。しかし今私たちは まだ成熟した大人とは言えない。私たちはまだ成熟 していないと思う。成長し、悟るためにはもっと戦 争から学ばなければならない。もし私たちがもっと 戦争の歴史を学び理解すれば、私たちはもっと成熟 し理解する事ができると思います。だから戦争の歴 史を学ぶ事はとても大切な事なんです。 クリスティー さてここで私たちの心をリラックスさせる音楽を 聴きましょう。お送りするのは静流とアスです。 28 (スタジオで鳥が舞うように羽ばたきながら唄う静 流さん) スタジオライブショー “Voice oice is Coming/声 Coming/声が聞こえる” (作詞・ 作詞・作曲 おおたか静流 おおたか静流) 静流) 声が聞こえる ほの暗い森の けむりけむる 木々を抜けて 鼓動静かに 伝う夜明けの歌 なぜか心が騒ぐ * The Voice Is Coming To your garden もしかしたら あるいてゆける 翔べ翔べ 光に 満ちた空へ 翔べ 翔べ いのちが 今 はじまる 声が聞こえる 青い海原の たわみたわむ 波のかなた 流れる水が やがてひとつになる 長い旅の終りに * アルジュン 何か山の上を飛んでいるみたいな気分です。彼女 が持ってた楽器は沢山の不要になった鍵をぶら下げ たリサイクル楽器でしたね。 ジミー 凄く美しい歌をありがとうございました。 クリステイー さて皆さん、映画作家のキドラット・タヒミック (ラジオを聴いて駆けつけたバギオ在住の映画作 家)さんが訪ねてくれました。 アルジュン こんにちわ。ようこそキドラット・タヒミックさ ん。リスナーにもご挨拶してくれますか? キドラット・タヒミック あー、今聞こえてた曲の題名は何かね? クリステイ 「声が聞こえる」誕生の歌です。 キドラット・タヒミック こんにちわ(静流さんに)今あなたの歌と一緒に 私は飛んでたよ。 おおたか静流 ありがとうございます。 キドラット・タヒミ キドラット・タヒミッ ヒミック そう、誕生の歌なんだったら、皆第二次世界大戦 が 1941 年 8 月 7 日に始まったのを知ってるよね。 私はよくあっちこっちで話しているように、あの真 珠湾攻撃がなかったら私は生まれてなかったかもし れないんだ。当時僕のパパはママを 3 年越しで求婚 していたんだ。それで真珠湾攻撃が起きた時に祖母 さんは心配してママに言った。大変だ、戦争になっ たら男が家にいた方がいいかもしれない。と言う事 でママは 12 月 26 日に結婚したんだ。そして 9 ヶ 月半後に僕がこの星に生まれ落ちたって訳だ。ちょ うど日本軍フィリピン占領の絶頂期だったかもしれ ない。もしかしたら今日何故僕がここにいるのかと 言う事と関係があるのかもしれない。平和のために 活動して戦争を防げるかもしれない。何が戦争をも たらし、誰が戦争を起こそうとしても、どうか私た ちは平和の道を進もうじゃないか。70 年前に戦争 は終わったんだから。私は 73 才です。 29 アルジュン (笑う)なるほどキドラット・タヒミックさん。あ なたの平和主義はそういう事だったんですね。 クリステイ ありがとうございます。 キドラット・タヒミック ははは。いい番組だね。これは第 8 回になるの? クリステイ 第 6 回です。(昨年亡くなったバギオ初代の女性 市長、キドラットさんのお母様は第 5 回慰霊祭まで 毎年参加しくてださいました) キドラット・タヒミック そう。第 6 回かね。おめでとう。この平和フォー ラムがずっと続くといいね。アーティストのメッセ ージと共にね。アーティストの演奏が番組をより充 実させるからね。 ジミー ありがとうございます、キドラット・タヒミック さん。そしてあなたの沢山の業績おめでとうござい ます。(2015 年ベルリン映画祭他で新作映画の受 賞) 全てのフィリピン人が祝福しています。 アルジュン キドラット・タヒミックさんに来ていただき、平 和を提唱していただいて、私たちは本当に幸運でし た。 ジミー ありがとうございました。今日はもう一人映画作 家がいます。さっき戦争に巻き込まれた子供の話が ありましたが、これはちょっと違った子供時代の話 です。それでは聞いてみましょう。ドキュメンタリ ー映画作家のニック・デオカンポさんの話です。 録音済みインタビュー 録音済みインタビュー ニック・デオカンポ ・デオカンポ 映画監督、 映画監督、著作家 フィリピン大学 フィリピン大学デリマン 大学デリマン校教授 デリマン校教授 私はニック・デオカンポです。フィリピン大学で 映画を教えています。私自身も映画作家ですが、最 近は映画史の本を書いています。その仕事は私の人 生で知らなかったいろいろな事を教えてくれます。 これがドキュメンタリー映画の力だと思います。私 は以前自分の父親のドキュメンタリー映画を作りま した。父の名はレオナルド。第二次世界大戦でゲリ ラ兵として大日本帝国軍と戦いました。私はその時、 19 才で戦争に参加し行方不明になった私の父を捜 していました。何故ならば、私の祖父は戦争中日本 兵に首を切られて川に投げ捨てられた。その後祖父 がどうなったのか、家族の誰も知る事はありません でした。だから父は戦争に参加した。 それはとても悲しい話でした。後に父が酒を飲ん だ時に、戦争で見た事、自分が沢山の日本兵を殺し た事を話してくれました。それはまだ若い少年だっ た私にとって理解に苦しむ話でしたが、父はその影 響でとても苦しんでいた事は確かでした。何度も父 は夜中に目を覚ましました。たぶん日本兵を沢山殺 したことが痕跡になっていたのでしょう。父は死を 見ました。父は多くの人を殺しました。彼らはお互 い殺し合っていた。そして私の父によって殺されま した。たぶん今言われる、心的外傷後ストレス障害 かもしれない。私の父はアルコール中毒になりまし た。私は父と良い関係を持った事が一度もありませ ん。時に私は父に嫌われた時期があった。いや、た ぶん父は私たちが日本人だと思いこんでいたのでし ょう。ちょっとした音でも、まだ幼い私がジャンプ したり遊んで音を立てるとひどく怒った。だから私 に物を投げつけた。彼はいつも酔っぱらっていまし た。忘れなければならなかったからでしょう。父は 私の学校にやって来るの。私はとても恥ずかしく、 それは私のとても大きな心の傷になりました。父は 戦争中の心の傷を乗り越える事ができず、けっして 忘れる事が出来なかった。 あなたは信じられますか?自分の父親が殺された のかどうか分からない。自分の父親が首を切られて、 何処に行ったのか分からない。そして自分の息子が 大きくなって、その息子がゲイだった。私の事です。 これが我が家に起きた災難です。男 3 世代、祖父と 父とそして私です。その後父は家族をおいて何処か に蒸発しました。父の姿は見えなくなりました。今 父が死んでいるのかどうかすらも分かりません。 私が高校の時に、父は私を地元イロイロからマニ 30 ラに連れて来ました。船でマニラに連れて来たんで す。父はアメリカ極東陸軍の恩給を請求していまし た。ゲリラはアメリカ極東陸軍の指揮下にあったん です。父は書類もある、自分の名前も書いてあると 主張していました。私たちは退役軍人事務所に行き ました。奨学金申請をさせるために私を連れて行っ たのです。そうすれば私が勉強を続けられる。彼は 私を学校にやる事が出来なかったから。父は退役軍 人でいる事で、自分の子供達に資格が与えられると 言っていました。だから彼は給付金を要求し続けま した。しかし彼は何も受け取れなかった。アメリカ ではまだ議論しています。米国のために戦ったフィ リピン人達に恩給を与えるべきかどうか。 父がどんな怒りと失望を抱えていたのか今になっ て思い出します。これが父の挫折感に加わったので しょう。その後父は病気になりました。病気になっ てやっと医療給付金を得て、退役軍人記念病院に連 れて行かれました。父の名前は名簿にあるので彼は 退役軍人なんです。でも私たちが食べたり学校に行 くための月々の恩給が出ないんです。だから私たち は自分たちがとても貧しいと言って、生活保護を申 請しなければならなかった。そうすれば私はフィリ ピン大学で学べる。もう試験にも受かっていたんで す。 私の映画「個人的な戦争(Private Wars)」(1997) はまさにそうした私と父との関係を描いた作品でし た。映画は祖父が首を切られた事から始まり、そし て父がゲリラになった、そして私と父の困難な父子 関係です。あるシーンで私たちは同じ精神科の医師 と話をしています。東京の NHK がその映画の資金 を出してくれて、その映画は山形ドキュメンタリー 映画祭のコンペにノミネートされました。結局賞は もらえませんでしたが、私の一番の思い出は山形の 人々に謝まられて、許してくださいと言われた事で す。そして主催者の山形市は市民賞という特別な賞 をくれました。あの賞が今まで私がもらった多くの 賞の中で一番の賞だと私は思っています。何故なら それはただの賞ではないんです。あれは市民の皆さ んの共感と同情からいただいた賞でした。人々は理 解しました。戦争は私たち全ての人々に影響を与え る悪いものなんだと。 クリスティー ニック・デオカンポさんが彼の実に個人的なお話 を共有してくださいました。山形県の人々は自分た ちが知らなかった、戦時中フィリピンで起こったこ とにビックリしたのでしょう。残念ながら日本人も フィリピン人と同じように、自分たちの歴史を知ら ないんです。 アルジュン 学生の教育課程にそのような歴史が組み込まれる 事はとっても重要なことですね、クリスティーさん、 ジミー教授。日本の教育システムについてはよく知 らないのですが、多くの日本人が巻き込まれたあの 戦争の歴史はぜひ教えてもらいたい。もし自分たち の歴史を知っていたら、私たちはより良く生きられ るでしょう。このような歴史の負の部分を繰り返す 事はないはずです。 ジミー はい、私たちは今回ホセ教授を通した私たちの学 びで歴史を知りました。しかし第二次世界大戦は日 本の学校では学びの教材にはなっていないようです。 録音済みインタビュー 録音済みインタビュー リカルド・ホセ 歴史学博士 フィリピン大学 フィリピン大学デリマン 大学デリマン校 デリマン校教授 Part10 Part10 (日本人 日本人が戦争から 戦争から学 から学ぶべきこと) きこと) 私は現在日本で起きている事に少し警戒感を持っ ています。私たちが社会科で習うこうした事、歴史 について彼らはあまり注意を払っていないし、戦争 について議論もしていません。私がかつて日本へ行 ったとき、人々はまだ戦争の痕跡にさいなまれてい ました。私の妻が日本に行った時もそうでした。彼 女が始めて日本に行ったとき、人々は彼女に謝罪を しました。しかし若い日本人は何も知らないので、 フィリピンに来ても何も問題がないと思っていた。 しかし年配者がそうした記憶をまだ持っている事を、 若い日本人は知らないんです。起きた事、それは何 も恥ずべき事ではありません。私はそれは日本の若 者達を成長させてくれるものだと考えています。私 たちはこれをやってしまった。しかし私たちはそこ から学べることがいくつもある、と考えるべきで、 隠したり忘れ去ったりするべきものではありません。 31 学ぶべきレッスンがあるんですから。 歴史家として考えます。さて私たちが学ぶ事が出 来るレッスンとは何なのでしょうか?私たちは歴史 を葬り去る事は出来ません。それは起きたこととし て記録されているのですから。私は歴史を勉強しま したが、それは人々が相手国を嫌ったり非難するた めのものではありません。私は歴史を学んでむしろ 相手国を理解するようになりました。私は多くの野 蛮な行為があった事を知りました。でも私は沢山の 日本人の友達がいます。私は日本で勉強しました。 私の祖父は 1945 年に大日本帝国軍に殺されました。 しかしその事が日本に行って学ぶ事の妨げにはなり ませんでした。私の祖母も日本兵に殺されたのです が、やはり同じです。私の考えでは、戦争の歴史を 学ぶ時に、当事者たちのあらゆる見地から観てバラ ンスの取れた展望を持つ事が大切です。どれかひと つが正しいと言う勉強の仕方をしてはいけません。 そこにはいつも、少なくとも2つの見方があるから です。だから私は日本の歴史観に大変興味を持つ様 になりました。フィリピンとアメリカの歴史観は学 んで来ましたから、日本の観点はどうなんだろうか。 戦争の歴史を違った国の視点から観る事により、何 故彼らがそんな事をするのかが分かって来る。友情 ですら生まれる事もあるんです。こんな事もありま した。負傷した日本兵がアメリカとフィリピンの兵 士と仲良くなった。そしてその友情は長年続きまし た。戦争というものを捕える「大きな視野」なんで す。だから戦争から学ぶ事は相手を嫌ったり後ろ指 を指したりすることではなくて、お互いをより理解 する事なんです。その学びが理解を助け、新たな誤 解や新たな戦争を防ぐ事が出来るのです。 ジミー さあ次は日本の著作家です。元日本兵の聞き取り 調査を沢山行い、私たちが学べる多くの著作を出版 しています。石田甚太郎さんです。お話を聞いてみ ましょう。 録音済みインタビュー 録音済みインタビュー 石田甚太 石田甚太郎 作家 (英語で)私の名前は石田甚太郎と申します。93 才(2015 年現在)です。私は福島県浜通りに生ま れました。(メルトダウンを起こした福島原子力発 電所の所在地) (ここから日本語で)私の人生は 3 つに区切る事が 出来る。ひとつは、私は海軍の兵隊でしたが、国外 に出た事はありません。2 週間くらいで日本は敗戦 になってしまいました。退役後に教師になりました。 そして大日本帝国軍兵士が何をやったのかを調査す るようになりました。アジアの人々にどんな被害を 与えたのか。慰安婦についても調べました。中国で 何をやったのか、東南アジアで何をやって来たのか。 日本軍の偉かった人は、レイプなんかやったことが ないと言うけれども、僕が兵隊に取材しますと、レ イプはしょっちゅうやったと言う。何故ならばレイ プをやるのは無料だから。普通は慰安婦にいくらか 払うんだけれどもレイプは無料だから。討伐という 作戦に出る。夜に女のいる村を襲って食べ物を奪い、 レイプをする。こう言う事が兵隊の当然の行為だっ たんです。これは何処でも起きた。中国でもフィリ ピンでも。私の 1 年間の調査の間、ラグナとバタン ガスで日本の占領軍が何をやったのかを調べました。 パナイ島にも行きました。そして『ワランヒア』 (1990)を書きました。その後日本で 1 年半くら いかけて北海道から九州まで行って 300 人くらいの 元日本兵にインタビューして『殺した殺された』 (1992)を書きました。ある兵士には怒られて追 い返されました。中には真剣に思い出して反省して 話してくれる人もいたし、分かっちゃったんだった ら仕方がないと嫌々ながら話してくれる人もいて、 いろいろでした。 私はフィリピンには 1 年間住んでました。『ワラ ンヒア』(恥知らず)という題名はフィリピン語で 最低の悪口です。動物と同じような事をやった人間 だと言う事です。フィリピン人達は、戦争中に被っ た日本へ兵のひどい仕打ちを非難していました。彼 ら自身の話や家族がどんな仕打ちを受けたかという 話です。終戦に向かうに連れて大日本帝国軍の戦い はことごとく敗れて行きます。米軍はレイテ島に再 上陸し、マッカーサーはミンドロにやって来ました。 帝国軍の指揮官たちは敗戦を意識し始め、ゲリラた ちは帝国軍絶滅に向けて勢いづいていました。バタ ンガスの各地、特にリパは最悪でした。ゲリラが活 発に活動し、それらを懲らしめるための命令が発せ られました。ゲリラを殺せ。疑わしきフィリピン人 32 を無差別に虐殺せよ。男も女も子供達でさえも殺せ と。帝国軍司令官はそういう命令を 1945 年 1 月初 めに発したのでした。 …はい、こういうことを調査して記録する仕事は、 そうですね、確かに辛い仕事でした。何故私がこん なきつい仕事をしなければならなかったのか。それ は大日本帝国軍がやってしまった戦争犯罪を調査し 記録するためでした。私は日本人に自分たちが犯し てしまった戦争犯罪がいったい何だったのかを知っ てもらうために、書かなければならなかった。私は 自分が知り得た事をみんな書きたかった。何故私の ような日本人がそんな仕事をしなければならなかっ たのか。最終的には辛いのを通り超してしまいまし た。 しかし日本兵たちにも何であんな事をやってしま ったのか理由がありました。食糧が全くなかった。 それに加えてゲリラがとても恐ろしかった。ゲリラ の恐ろしさに怯え、刺激されてバタンガスやリパの 虐殺、殺し合いが始まったんです。ゲリラだってや り返しました。 日本の人々は日本兵たちがどんな虐殺をしてしま ったのか、その結果どうなったのかを知る必要があ ると思います。住民虐殺を行った日本兵たちは山に 逃げて、そこでまた住民から食糧を奪い虐殺をやり ました。何故ならば食糧が全くなかったからです。 戦争というのは、勝ち戦でも負け戦でも住民に被害 を与える。自分が生きるためにそういう行為をして しまう。まず初めに、私は日本の人々に事実を知っ て欲しい。110 万人のフィリピン人が殺されたんで す。日本人は 52 万人がフィリピンで亡くなった。 しかしその倍のフィリピン人が亡くなりました。他 国の国民にこんな被害を被らせたという事を、日本 の国民は今でも知らないし、反省もしていない。そ う言うことを 2 度と起こさないようにしたい。人を 殺さないで、原子力発電なんかも使わないで生きら れるような道を探らないといけないと思います。 ジミー 沢山の日本人が戦争から学ぼうとしているのは、 私たちにとってうれしい事です。若い人たちや年配 の日本人が戦争を学んで理解しようとしているのは 本当にうれしい。 今度はフィリピンで尊敬されている作家、シオニ ール・ホセさんのインタビューです。彼は最初日本 を嫌悪し、後に日本人を理解したと話してくれまし た。 録音済みインタビュー 録音済みインタビュー シオニ シオニール・ホセ 作家 私はアメリカ軍が再上陸した後の 1944 年 12 月 の年末に、ロサレス(中部ルソン、パンガシナン 州)にいました。私は戦争勃発後すぐに軍隊に入隊 し、民間の医療技術者として、終戦のイフガオ州キ アンガン(第 14 方面軍総司令官の山下奉文大将が 米軍に投降した場所)までずっと従軍していました。 8 月に広島、長崎に原爆が落とされた。私はずっと 軍隊にいて、9 月の終わりか 10 月になってマニラ の学校に戻りました。私はいつも言っているように、 私たちは歴史を忘れてはいけないんです。何故なら ば私たちが祖国を創造する唯一の頼みは、歴史の記 憶があるからなのです。 私は私のこの国の人々を、植民地化された人々、 として観ます。日本やアメリカ、スペインによって 植民地化されただけではないんです。自国の人々か らもされているんです。いかに大金持ちのフィリピ ン人達がこの国を植民地化しているか。国は外国の 権力に植民地化される必要はないんです。自国のリ ーダー達にも支配されるんです。これは他国の権力 に支配されるよりもずっと深刻なんです。何故なら ば搾取しているのが外国人だったら簡単に名指しす る事が出来るし戦う事も出来る。しかしそれが自国 民だったら、あなたのリーダーだったら、それはと ても難しいんです。 日本人は原子爆弾を投下されて犠牲者だという意 識を持っている。あれは歴史を担った爆弾だった。 しかし振り返ってみても、私は自分の意見を変える つもりは全くありません。1945 年、日本には原子 爆弾を落とされるに値する理由があったんです。 だいぶ前ですが私は日本の川崎で行われた国際会 議に参加しました。そこでインドの左翼発言者が会 場でアメリカを徹底非難していた。私は立ち上がっ て彼の発言を遮って言いました。あなたの国は大日 本帝国軍から占領された事がないじゃないか。私は 33 1945 年に持っていた自分の考えを変えて謝罪する つもりはありません。あの戦争の時、あの場所で、 私は日本の国と日本人に対する憎しみで満たされて いました。その後実際に私は日本占領アメリカ軍に 参加したんです。たったひとつの目的を持って。そ れは日本に着いたら、銃で出来るだけ多くの日本人 を殺してやりたいと言う事でした。しかし私の激し い感情は和らいだ。何故なら、私は日本人と知り合 って友達になったからです。私が出会った日本人の ほとんどが、あの戦争を否定していたんです。 して私は当時日本軍と日本民間人によって起こされ た罪深い行為に対して、悔いる気持ちが止みません。 2度とあのような悲劇が起きないように、私は可能 な限りフィリピンの人々が体験した戦争の歴史を知 り、そこから学びたいと思います。どうか皆さんの お話をお聞かせください。私は日本に帰っても皆さ んのお話を抱き続けるでしょう。 3 年前にイフガオ州立大学で行われた平和フォー ラムに参加するためにフィリピンを訪れました。イ ベントが終わる頃に大学の若い女性、看護学を学ぶ 学生さんが私の所に来て言いました。彼女のお祖母 さんが、戦争中にフィリピン人が被った恐ろしい体 験談を話してくれた。そして最後に孫娘に「戦争を ジミー これは大変興味深いフィリピン人作家の洞察です。 憎んでも人を憎んではいけない」と言ったそうです。 シオニール・ホセさんは原爆についても言及しまし 私はその平和イベントに参加した若者達と交友を 深める特権を得る事が出来ました。その中で私たち た。原爆がどんなに危険なものか皆さんは知ってま すか。さあ皆さんの疑問にお答えいただくために、 は世界平和を広める事が出来ました。国境も国籍も ないんです。私たちはこの地球をより良い星にする 今日は素晴らしいゲストをスタジオにお迎えしてい ために共に働いています。私の心からの願いは、将 ます。国際 NGO の NPO アント広島の代表、渡部朋 子さんです。こんにちは。さてあなたがどんな活動 来フィリピンと日本の子供達が原爆や戦争の兆しの ない平和な世界に生きる事です。 をされていて、今後私たちに何を期待しているのか この願いを叶えるために、世界中の若者達が腕を をお話しください。 組んで歩くことを期待しましょう。そして同時に私 たちは過去に何があったのかを記憶し続けなければ スタジオライブ なりません。第二次世界大戦の不幸と死の惨劇を2 度と繰り返さないために、私たちは戦争中に起こっ たことをしっかり記憶しておかなければなりません。 世界から原子爆弾を廃絶するために、私たちは 70 年前に広島と長崎で起きたことも記憶しておか なければなりません。原爆がいかに恐ろしい爆弾か。 何故世界中から廃絶しなければならないものなのか。 1945 年 8 月 6 日の朝に一発の原子爆弾が広島の 上空で爆裂し、太陽よりもずっと高温の火の玉を発 生させました。爆裂と熱、炎はまたたく間に市内全 域を焦土にしました。同時に原爆から噴出した放射 能が、人々や水や土地を汚染しました。結局その年 の終わりまでに 14 万人の人々が死にました。その 渡部朋子 中には多くの子供達、お年寄り、そして女性も含ま NPO れていました。70 年が経過した現在でも、原爆被 NPO アント広 アント広島代表 映画「 爆者たちは原子爆弾の後遺症によるガンや様々な病 映画「ヒロシマ・ナ ヒロシマ・ナガサ シマ・ナガサキ ガサキ」プロデューサ デューサー 気に苦しんでいます。原子力兵器は使用した直後に こんにちわ。渡部朋子と申します。日本の広島市 無差別に人を殺すだけでなく、その後何年にも渡っ から来ました。初めに、第二次世界大戦でお命を亡 て後遺症が続きます。人々を殺し続けるんです。そ くされた方々に、心からの哀悼の意を表したいと思 して今日最新の原子爆弾は 70 年前のものよりも何 います。亡くなられた方々の死を悲しみ、お悔やみ 倍も威力があり破壊的なものになりました。原子力 申し上げます。先の戦争で苦しんだ方々、また 70 兵器が廃絶されなければ、いずれ世界は広島や長崎 年経った今も悲しみに苦しんでおられる方々に祈り よりもずっと大きな規模の死と被害を目撃すること を捧げたいと思います。 になるでしょう。 私は戦後に生まれた日本人です。私は日本市民と 多くの場合戦争の犠牲者は一般市民と子供達です。 34 広島が爆撃された時、私の母は 15 才でした。イフ ガオの学生さんのように看護学を学んでいました。 幸運にも母は原爆の爆撃から生き延びました。しか し以来ずっと、母の人生は放射能に晒されたことに よる死の恐怖に怯え続けることになりました。母が 23 才で私を妊娠した時、お腹の私が放射能で異常 を来たすのではないかと怯え、毎日ただ祈るだけだ ったそうです。 私が健康で生まれた時、彼女の人生も変わりまし た。私は希望の光になり、私を持ち上げる母の新し い喜びになりました。後に母が妊娠したときの心配 と恐怖、そして私が生まれたときの喜びを話してく れた時、私はとても感動しました。そして私は生涯 をかけて、過去の悲劇を希望に変える手助けをしよ う。そして皆のために世界をもっと平和にしよう。 戦争と原子力兵器に怯えおののくことのない世界を 作ろうと決めました。 私が代表を務める特定非営利法人広島アントは蟻 のように小さい草の根団体です。しかし蟻の様に小 さく弱い存在でも、集まれば強くなります。共に働 くことで私たちは多くのことを成し遂げることが出 来る、と私は信じています。だから皆で手を繋ぎま しょう。世界中の子供達と未来に続く世代のために、 世界平和の理想を現実にする努力をしましょう。日 本、フィリピンそして世界中の子供達の希望とパワ ーでより良い世界を築きましょう。力を合わせて努 力すれば、過去の悲劇に見舞われた世界に 2 度と同 じことが繰り返されず、希望にあふれた明日が来る でしょう。戦争反対、核兵器廃絶!ありがとうござ いました。 クリスティー 朋子さん、ありがとうございました。おっしゃっ たことは私たちが本当に考えなければならないこと ですね。さあここで私たちの番組の最後を歌で締め くくりましょう。フィリピンと日本、そして世界の 人々のための、私たちの願い。この歌が今日午後の お祈りとして届けられますように。 スタジオライブショー おおたか静流 おおたか静流さ 静流さんと ASU さん I re rememeber you you (作詞作曲: 作詞作曲:おおたか静流 おおたか静流) 静流) 雨の日には雨が 風の日には風が ヤサラ ヤサラ ヤサラ きみを思い出すよ 海の藍の色か 空の藍の色か ヤサラ ヤサラ ヤサラ きみの胸の色よ 水は川を辿り 海に想いそそぐ ヤサラ ヤサラ ヤサラ きみの歌のように 水は空に帰る いのち空に返す ヤサラ ヤサラ ヤサラ きみも空に帰る I remember you I remember you 35 あとがき 私が生まれ育った家の隣に、朝から晩まで大きな声で怒鳴っていた怖いおじさんがいました。庭を通 しておじさんの大きな怒鳴り声と、奥さんが叫ぶ声や子供達の泣き声が毎日聞こえて来て、どうして隣 のおじさんはこんなに怖いのだろうと幼い私は怯えていました。後になって分かったことですが、その おじさんは中国戦線からの帰還兵でした。 日本は戦後急速な高度経済成長を成し遂げました。しかし日本が起こした戦争のことは一切語らず、 検証せず、反省せず、子供たちに教えずに、今年開戦から 75 年が経ちました。そうするうちに「日本は 敗けたから悪者にされた。しかし本当はアジアの国々を欧米の植民地支配から救うために大東亜戦争を 起こしたのだ」と言う説明をマスコミで語ったり本に書いたりする人が出てきました。戦後、結果的に アジアの国々は植民地から解放されたのですが、はたしてそれが本当に日本人が大東亜戦争を始めた理 由なのだろうか。私は本当のことが知りたかった。今でもそう思っています。 大日本帝国軍がアジア各地で行った戦争を何も知らされることなく私は教育課程を終えました。その 後映画の助監督の仕事をしながら世界を旅し、東南アジアをまわってフィリピンを訪れました。当時私 は大日本帝国軍がどのようにアジアを占領統治したのかの一切を知らず、山下奉天大将の名前さえ知り ませんでした。戦前からフィリピンに移住していた日本人とその子孫が戦中戦後どんなに苛烈な体験を 強いられたのかを教えてくれたのが日系2世のおばあちゃんでした。そして 2005 年に日系山岳民家族 の劇映画「 アボン・小さい家」を制作しました。その後 NPO ブリッジフォーピースの同志や作家石田甚 太郎さんと出会いました。日本兵がフィリピンで行った蛮行の数々を知るにつけ、私たちの父親や叔父、 祖父達がどうしてあんなひどい戦争をやってしまったのか、何故やってしまったのかという単純な疑問 が消えません。やってしまったことはもう消すことは出来ません。あまりにも苦しいので、何も語らず に多くの退役兵の方々はすでに他界しました。先代がやってしまった罪を戦後生まれの私たちが引き受 けていくのはつらいことです。しかし戦争になんの関係もない戦後生まれの私たちも、「日本が何故、 何処でどんな戦争をやったのか」を知らなければいけない。日本人はあの戦争のことを学習しなければ いけない。なぜならば、あの戦争を始めたのは当時の日本、大日本帝国だからです。そしてあの戦争は 人類史上最悪の悲劇になりました。その第二次世界大戦を歴史的に検証し、二度と戦争を起こさないよ うにするためには、「日本が何処でどんな戦争をしたのか、何故やったのか」を知ることが欠かせない 学習だからです。 慰霊祭に何度も参加してくださった中国系比人の郷土歴史家が話してくれました。大日本帝国軍のス ローガン「 アジア人のためのアジア」は感動的で多くのフィリピン人が歓喜した。しかし大日本帝国軍 がやったことはとても残酷で従えなかった。多くの日本兵の話を聞いた作家の石田甚太郎さんは、日本 の兵隊にもひどいことをやらなければならなかった理由があったと言う。食べ物が全くない。武器もな い。それに加えて何処から攻めて来るか分からないゲリラが恐ろしくて仕方がない。それで大量虐殺を しなければならなかった、と言います。 戦争末期、学徒出陣で多くの若者がフィリピンに送られました。その時「アジア解放の聖戦」は名ば かりで、兵隊の任務は民間人から食糧を奪い、女子供も殺して家を焼くことでした。そして挙げ句の果 てには雨の山中を飢餓状態で放浪し、戦友を食ったり戦友に食われたりしながら、たくさんの兵士が惨 めに死んで行った。そんなおびただしい数の若い日本兵のことを考えると私はとても悲しく、いたたま れない気持ちになります。さぞかし無念だっただろうと思う。フィリピン人達も、後ろ手に縛られて井 戸に突き落とされた人も、大切なお父さんを目の前で殺された子供達も、さぞかし悲しく無念だっただ ろうと思う。そして今また、そうした戦争の歴史を掘り起こし記憶しておこうとする作業も、とてもつ らい事です。しかし戦争を学ぶことによって人間は凄く成長するのです、とリカルド・ホセ教授が教え てくれました。そのホセ教授の言葉が私はとってもうれしかった。 数年前に亡くなりましたが、実家の隣に住んでいた怖いおじさんは晩年、私の慰霊祭の報告書を読ん で涙を流して喜んでいた、と家族の方から聞きました。私たちは死んだ人たちのためにも、そうしたつ らい過去を糧にして成長しなければいけない、と思います。 NPO 法人サルボン 今泉光司