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リック・アルトマン 「映画における四つと半分の誤謬」

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リック・アルトマン 「映画における四つと半分の誤謬」
Kobe University Repository : Kernel
Title
リック・アルトマン「映画における四つと半分の誤謬」
、『音声理論、音声実践』(Rick Altman, 'Four and a Half
Film Fallacy', Sound Theory/Sound Practice, The
American Film Institute, 1992, pp.35-45)
Author(s)
景山, 聡之
Citation
美学芸術学論集,2:68-71
Issue date
2006-03
Resource Type
Departmental Bulletin Paper / 紀要論文
Resource Version
publisher
DOI
URL
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81002319
Create Date: 2017-03-30
6
8
美学芸術学論集 神戸大学芸術学研究室
2
06年
論文紹介 :リック ・アル トマ ン、「
映画における四つ と半分の誤謬」、
『
音声理論、音声実践』
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992,
pp.
3545
)
景山
聡之
ここで紹介す るのは、映画研究者/音声研究者の リック ・アル トマ ンによって編集 さ
れた、主に映画の音声および音楽に関す る論文集、『
音声理論、音声実践』の中に収められ
た、彼 自身による小論である。なお この論文は、前述書の第一章 「
理論的観点(
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)
」 1の導入 として書かれている。映画における音声は、映画批評家や映画理論
家達によって、これまでほ とん ど積極的に論 じられてこなかった。その一方で、少数の論
者たちによっていささか過激に擁護 されてきた分野で もある。現在新 しく制作 され、上映
され る映画のほとん どが音声を含む ものであるにもかかわ らず、それ をめぐる議論の場に
おいてはなぜ このような温度差が生 じたのであろ うか。アル トマンはこの疑問に答えるべ
く、映画における音声の歴史を、技術史 とそれ を取 り巻 く批評の歴史 とを絡み合わせなが
ら紹介 してゆく。そ して批評の場に現れた さまざまな主張の特徴を「
誤謬」として提示す る
ことで、映画の音声が持つ役割の再検討を我々に促す。
最初に挙げ られ るのは、1
920年代における映画制作者たちの音声に対す る見解 である。
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r、セルゲイ ・エイゼ ンシュテイン Se
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n、フセポ
ルネ ・クレール Re
ロ ド・プ ドフキン Vs
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n らは、当時世界的に行われた映画-の音声の導入
を、映画に対す る侮辱だ と見な した。彼 らにとって、「
映画は、音声 トラックが加 えられ る
以前か ら映画であった」
2
のである。 このため彼 らは、音声は映画経験 に とって必要不可欠
な構成要素 とはな り得ない と主張 した。 こ うした彼 らの考えを、アル トマ ンは「
歴史的誤
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)
」と呼ぶ。実際には当時の「
無声」映画は、標準化 された楽器伴
謬(
奏のモデルに適合す るよう作 られていた。また音声の側か らのアプローチ としても、1
91
0
年代に、カメラフォンや クロノフォン3な どといった、映像に合わせて音声を再生す る装置
が相次いで開発 され、 ヨー ロッパやアメ リカ各地の映画館 に設置 されていた。 『ドン ・フ
nJuan』(
1
926
)
や、世界で最初の トーキー映画 とされる 『ジャズ ・シンガーJaz
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アン Do
Si
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』(
1
927
)
の公開を待たず して、すでに映像 と音声 とを同期化 させ ることに、
娯楽的 ・
商業的な価値が見出されていたのである。 にもかかわ らず、上記の映画作家たちの言説が
もつ影響力な どによって、音声が、映画 とい う「
無音のメデ ィア」に後か ら付け加 え られた
ものにすぎない、 とい う認識は、その後 も長 きに渡って存続することとなる。
上に挙げたよ うな議論は、1
920年代後半か ら 3
0年代前半において、映画制作者たちの
930年代後半、ル ドル フ ・ア
間では一般的なものであったOだがこ うした議論に対 して、1
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fAr
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m やベ ラ ・バラージュ Be
l
aBal
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sらによる新 しい主張が登場
ル ン-イム Rud
す る。彼 らは、映画を歴史に左右 されない強固で不変の領域 と想定 し、またそ うす ること
6
9
で、 自身の議論 を論理的で普遍的なものにす ることをめざした。彼 らの主張は非常に強固
なものであるため、現在の映画批評においてもしば しば参照 されている。だがこのよ うな
存在論的主張は、歴史的文脈か らの脱却を試みるあま り、映画すべての本性 を明 らかにす
ることに終始 し、個々の映画作品やその構造に対 してあま り注意を払お うとしていない。
またその際に音声 も、 「
音声な しの映像は依然 として映画を構成す るが、映像な しの音声
はもはや映画ではない」
4とい う理 由か ら、映画の「
本性」に根本的にかかわるものではない
として軽視 され る。 これに対 して、音声に関す る存在論的主張は 1
940年代になってか ら
よ うや くなされ るのだが、その内容 も、音声は映像に対 してより根源的である5、 とい うよ
うに各要素間に序列を与えた り、アルンハイム らと同様、具体的で一般的な映画音声の分
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析 をなお ざ りに した りして しま うものである。例えばメア リ ・アン ・ドー ン Ma
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6は論文 「
映画における声」 7の中で、ギイ ・ロゾラ- トGu
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プの精神分析理
レセ ノ ス
論に依拠 しなが ら、「
音声の遠近感 における近似性 と、声を空間化 し、声に「
現前 -臨場感」
を賦与す る諸技術によって構築 され る、位置についての聴覚的幻覚は、聴取点の単一性 と
安定性 を保証 し、それゆえ分散、
切断、
差異 といった潜在的 トラウマを寄せつけない」8と述
べる。だが実際には、彼女が言 う「
音声の遠近感 における近似性」を構築 しているよ うな映
画作品は非常に少なく、よって彼女の、「
見世物が展開 され る場 としてのスク リー ンに対 し
て声が従属することで、十全な感覚世界 とい う「
幻覚」を生み出す よ う、視覚 と聴覚 とが互
9とい う主張は、音声映画の一般的な特徴 として述べ られているにもかか
いに協力 し合 う」
わ らず、ほとん どすべての映画作品に対 して当てはま らないもの となっている。 ここでの
問題 は、音声の存在論的な役割 を主張す ることが、個別の映画作品における音声の機能を
具体的に分析す ることよりも優先 されたことにある、 とアル トマンは指摘す る。彼は音声
の役割の意味を回復 させ るためには、歴史的に根拠のある情報 と特定の映画作品の分析に
力を注 ぐべきであ り、上記のよ うな存在論的推測に頼 るべきではない と述べ る。
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)
」である。保存 メデ ィ
三つ 目に挙げ られ るのは「
再現的誤謬(
ア としての音声録音は、映像 に比べ大きく遅れて登場 した。だが、映像が対象をどれほど
詳細に描写 しても、三次元の空間を二次元の平面- と変換せ ざるを得ない一方で、記録 さ
れた音声はその十分な三次元性 において元の対象の性質をそのまま伝 えるように思われ る。
このよ うな主張は、音声を擁護す る論者達によってその初期か ら支持 されてきたが、アル
トマンはそ うした彼 らの考えを誤謬であると見なす。 当然のことなが ら、音声の記録は録
音機材お よび再生機材の性質や録音/再生 され る環境 といった物質的諸要因の影響 を受け
が異なる場所で鳴 らされた場合、二つの音は観念的には同
る。 同 じ高 さの音(
例えばG♯)
じG♯だが、アタックの強 さ、減衰の速 さ、反響や残響の度合いな ど多 くの要素において
異なってもいる。 こ うした要素は、録音及び再生のプロセスにおいて多少な りともゆがめ
られて しま うものであ り、 したがって記録 された音声が元の音を「
そのまま」
伝 えることが
できる、 とは言いがたい。録音機材お よび再生機材の売 り文句 としてよく使われ る「
高い
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」とい う言葉は、こうした事実を逆説的に示 していると同時に、
原音忠実性 (
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」こと-の執着 を表 して もいる。だが実際には、録音/再生
原音を「
再現す る(
は原音の「
代理をす る(
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nt
)
」ことしかできないのである。
7
0
しか しこ うした再現的誤謬-の批判は、別の新たな誤謬- と陥る危険を孝んでい る。
○○の音」とい う同定や分類
人は原理的にはまった く同 じ音を聞 くことができないため、「
も、便宜上の名 目に過ぎない、 として しま う議論- と至る危険が生 じるのである。アル ト
マンはこれを「
唯名論的誤謬(
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)
」と呼ぶ。た しかに上述のよ うな録
育/再生に介入す る諸要因によって、 さらに音声を聞 く個々人の立ち位置や体の向きの違
いなどによって、物理的にまったく「
同 じ」
音 とい うものは存在 しえない。だが この論理 を
突き詰めると、例 えば映画終了後に、観客同士が劇場の外で、先ほど聞いた音声の内容に
ついて会話をす ることさえも不可能になって しま う。つま り、音声を分析の対象 とす るこ
と自体を否定す ることにつながるのだ。だが、上記のよ うな会話はたいていの場合成立す
るし、細かな差異はあるにせ よ、観客達が聞いた昔は通常 「
同 じ」ものだ とみなされる。 ア
ル トマンはこ うした問題 に対 し、 「
同 じ」音を聞いているはずの全ての人が実際には「
異な
る」
音を聞いているとい う観念 を、
差 し当た りは放棄すべきでない としつつ も、その一方で、
「
異なる」
音を「
同 じ」
音 として相互に伝達す ることを可能にす るような文化現象について、
積極的に調査す る必要があると述べ る。
そ して最後に挙げ られ るのが、映像お よび音声の「
指標性 (
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)
」1
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であるo絵画
が描かれる対象 との類似関係の下に、文章が象徴関係の下に成立す るのに対 して、映画に
おいては、表象 され る対象 と対象の表象 との間における関係は、フイルム上に焼き付 けら
れ る影や レコー ド盤に刻まれ る溝 と、現実の事物や音声 との間に示 され るよ うな、指標関
係 に大きく依存 している。アン ドレ ・バザン A
nd
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6Baz
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n は 自身の リア リスム的映画批
評の中で映画(
特に映像)
のこ うした特徴 を指摘 し、映画を現実の痕跡、すなわち指標記号
とみなす議論 を一般化 させた。バザンにとって映画 とは、個々の風景の痕跡 をとる鋳型な
のである。映画が現実の対象(
の映像及び音声)
を直接記録す る限 りにおいて、この指標性
に関する議論は、いまだ有効であると思われ る。だが時代 とともにポス ト・プロダクシ ョ
ンや電子技術が発達 し、現実を直に記録 した素材な しでも、コンピューター上で映像 (
CG)
や音声及び音楽(
シンセサイザー 、DTM)
が作 り出せ るよ うになった。そ して言 うまで も
な く、映画制作はこ うした新 しい技術に大きく依存す るよ うになってきている。カメラに
よって記録 され るものであった映画が、キーボー ドによって「
書かれ る」もの- と移 りつつ
ある今、映画を「
ェ ク リチュール」
1
1と見なす過激な隠橡が現実のもの となって しまった今、
映画の基盤 を記録による指標性に置 く従来の議論は、もはや半分誤 りと化 しつつある。ス
ク リーンに映 し出 され る映像及びスピーカーか ら響 く音声 と、現実の事物 との関係 を、類
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か らしか説明できないよ うな事例が、
次々に生まれているのである。アル ト
似性(
マンはこの変化に合わせて、今までの理論及び語桑を改訂す る必要性 を説 くとともに、音
声は電子技術やデジタル処理の利用において映像 と比べ一 日の長があるため、音声研究が
これか らの映画理論 を先導 していかなければな らない と述べ、論 を締 めくくる。
章の導入文 とい うこともあ り、各々の論の誤謬を証明す る根拠が、アル トマ ンの言 う
「
特定の映画作品」の中か ら挙げられていない点が、議論 を若干具体性に欠けるものに し
ている感はある (
なお本書の後半では具体的な映画お よび映像作品に関す る論文が掲載 さ
71
れてお り、その対象は第三世界の映画、カー トウ-ン、舞台映画、 ドキュメンタ リー映像
な ど多岐にわたっている)。だが本論文は、映画の音声やそれ をめぐる議論の変遷 を、 さ
まざまな問題点 とともに僻曜できるとい う点で、一読の価値 を持った論考だ と言 うことが
できる。過去の議論 をただ批判す るだけでなく、それに代わって今後の研究が向か うべき
方向性 を示 している点 も注 目すべ きである。映像 と音声のデジタル化が進み、アル トマン
の言 う「
指標性の時代の終点」12がますます くっき りと見えつつある現在、映画の音声に関
す る歴史を再吟味 し、具体的な作品の分析 を通 じて音声の持つ役割 を更新す ることが、
我々の課題 となるだろ う。
(
かげやまさとし :神戸大学文学研 究科修士課程)
1本書はほかに「
歴史に関す る思索(
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)
」、 「
軽視 された領域(
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n)
」の全三章か ら構成
されてお り、各章の導入文をアル トマンが執筆 している。
2I
bi
d,
p.
35.
=
1 どちらも、エジ ソンのキネ トフォン(
1
91
2
)と同時期に開発 された、録音 ・再生装置である。特に レオン・ガ-モン ト
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ntによって発明 されたクロノフォンは、キネ トフォンが採用 したシ リンダー方式ではな く、デ ィスクに音
声を記録す る方式をとっていた0
4
I
bi
d,
p.
37.
その論拠 も、人間は物 を見るよ うになるず っと前か ら、胎内で母親の声を聞いているか らだ、 とい うよ うな抽象的な
ものであるo
o
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o
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mo、- ン
Gアル トマンは彼女のほかにも音声の存在論 を唱える批評家 として、テオ ドール ・ア ドル ノ The
ス ・アイスラーHa
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、カヤ ・シルバーマン Ka
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man、 ミシェル ・シオン Mi
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bman、 らの名を挙げている。
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1
980.
なお邦訳は、岩本意次 ・武 田潔 ・斉藤綾子編 『
新映画理論集成 2-知覚倭 象/
読解』(
松 田英男訳、
Ci
ne
ma
/
So
und,
フイルムアー ト社 、1
999年)
に収め られている。 ここでは原文 と邦訳の両方 を参照 したが、文意に応 じてい くつか訳文
を変更 した箇所がある。
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d,
p.
45.
9I
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d,
pp.
4546.
1
。 この語の使用には、チャール ズ ・サンダー ス ・パース Cha
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eの記号学及び彼が示 した三つの記号
(
類似記号 i
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n、指標記号 l
nd
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x、象徴記号 s
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)が念頭 に置かれている。
1
1一般的に 「
エ ク リチュール」 とは、文字を書 くこと、及び書かれたことばのことを指す。 ここでは主にフランスの作
Ma
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eDur
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,
1
91
51
996)
の著作及び映画作品が参照 されていると思
家であ り映画監督のマル グ リッ ト デュラス(
われ る。
1
2
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I
bi
d,
p.
4
5.
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