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浅間沖斬りー尚溶取締沖矧曽斡蟄糧静豊前

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浅間沖斬りー尚溶取締沖矧曽斡蟄糧静豊前
︵浅間沖斬りー尚溶取締沖矧曽斡蟄糧静豊前
憫参文本−(骨頭の狐都ごん也lこ花削)抑誰守の ヌ イ ア
496
イスラエル
捜言新の
使命と遣念とへの日醒ら
石
橋
八世紀からの琴言宕になると、そこに、著しい使命戚があらはれて居る。
智
信
七四〇年︵ユダに、その王、クジャの逝かった年︶幻のうちに、雅言者、ヱザヤは、翻を見た。留
ろくら
も†t 時を敬して、ヱザヤは﹁われ高くあがれる御座にエホバの坐したまふを見しに、その衣都ほ俄にみ
ちたり。セラビムその上にたつ、おのおの六の翼あ♭、その二つをもて両をおほひ、その二つをも
て足をおほひ、その二つをもて飛び翔り、たがひに呼びいひけるは、詑なるかな、塾なるかな,重
なるかな、茜耶のヱホぺ.その発光は金地にみつ。かくよばはるものの鍔によりて閥のもとゐ抗す
ぅごき、殿のうちに焼みちたりLと。鬼神の採言者は、いかばか♭悦んだであらう。手の奴ひ足の
ふむところを知沌ぬほど彼れは弄悦と秋着とに浦たされたであらうか。否。気も球せんばかりのな
げきが、彼れの心であつた。怖れが凡てであつた。成く、畏るペき、力恐ろしき、.重なる紳の醐亜
を犯し准つ花心の怖れ。ぬぐふべからぎる身の不運を、怖れわななく心に、絞れは構成した、HPm
−邑∵と。﹁耐ひなるかな、われほろぴなん。われは.けがれたる盾の艮のなかにすみて、梯れ化る
イス’エル≠甘薯の使命ミ斌食ミへの日限ゆ
イスヲエル珠官有の任命寸し渡合ミへの日解め
二
盾の者なるに、わが眼−萌軍のエホバにまします王を見まつれば行了り﹂と。榊に而したことは、死
に而したことであつた。紳の紳聖を犯したその卯の伍を、死とよりほか、彼れは、勿論、考へ得な
わつをひ
かった。その死を、その死罪を、然し、卵は赦した.特に、彼れのために。﹁こ∼に∵かのセラビム
ひけし
のひと♭、釧をもて的の上よりとりたる熱炭を手にたづさへて我れにとびきたり、わが口に観れて
いひけるは純よこの火、汝の盾にふれたれば恢に汝の京はのぞかれ、汝の罪はきよめられたらLと。
臼刷、ユダが大※の囲、アリシリア一丁り石‖らを救はんが眉め、弥蜘、エジブトを頂万、造に、これ
出るのを救えるのでみ一っ。
悉く、この恍命戚を廠血キ去。彼れの預言の何れの一つを蹴っても、必す、この仕命戚が血と送り
であつた。この使命感は、彼れの命ちであつた。此に、彼れは、一生を終始した。仝珪粧の孜言は、
彼れの使命戚.それは、紳′ど恐るる死の怖れであつた。死の赦しの榊調に咽ぶ生を妨しての本仕〃
れをつかはしたまへとL。かくて、彼れは使命にたった。︵以上、イサヤ音質六章参照︶し
威して隷言新、エザヤの起たねばならぬ時であつた。﹁そのとき、われ云へり、われ此にあり、わ
エホバの邸をきく、日く、われ経れをつかはさん。経れかわれらの・ために往くべきLと。任命を肺
へ死の恐れぉ通して、融け、彼れに、比ひなき恐れと醗験された。死の赦しを迫して、翻は、然し、
ハぐ
云ひしらぬ就みと醗癒された。その榊の召しを彼れは︰いま、耳にしたのであつた。﹁我れ、また、
496
;l汀
と川㍊む結ぶに至った際、エザヤは起って鋭︿これを難じた。
﹁助けむえんとてエジプトにくだり、椙により鳳むものは醐ひなる哉。載串多きが故にこれに頼
み、騎兵甚だ弾きが故にこれにたのむ。されどイそフエルの韮者を仰がす、エホバを求むること
ほかhごヾ︼
をせぎるなり。︵三一ノ一、︶
﹁かれら謀略盲すれども榊によ♭てせす。盟を鈷ペども紳の憲にしたがはす。益.非に邦を加へ
ん。かれら翻にしLはすしてエブ.ソトに下ら・ゆき、、♪pのカをかりて己れ′で弱くし、エジブトの蔭
によらん。.ハロの力は反りて汝等の恥となり、エジブトの蔭によるは反りて汝等の辱かしめとな
るべし︵三Cノ一、−二、︶
と。恐るペきは翻あえのみ。大王の凶、恐るに足らず。斬むべきは翻あえのみ。大観、エジブ\
また、頼むに足らず。然るに、拭は、大王を恐れ、大岡を頗る。此に於てか、彼れは、恐るべく、
また,頗るべき仰の位命に獅子吼したのであつ陀。
先き
※に
レ、
デア
ソラ
とム
イ、
でノエル‡、.ヘカと緋んで、n剛、ユダを製うた際、比のノ心も、
†の心も、林の木、凪に肋かさるる如く、わ行ヱはいた。時に、絞れは、死■でも恐れす、‡に正言し
た。﹁汝つつしサ〃て静かなれ⋮・⋮仰るる勿れ、心をよはくするなかれ︵七ノー、︶
﹁彼等の▼おそる,りとIニッで汝等おそるるなか拉.憫くなかれ。汝等は、まだ、鵡畢S・エホノな塊と
ースラエル僅汀祈り仲命ヾし潰念ミへの〓椚ゆ
イスヲエル挽首着り任命ご遽念ごへの日劇ゆ
四
してこれを毘一けこれ一ぜ恐るべし。然らば、エホバは、きよき適所と㍍り鈴はん。されどイ
、そフ
エルの雨の家にはmく石と行†り、妨ぐる施とならん︵八ノー二、‖下︶︵桐は、一ノ一、−九.参照︶
と。此にも、恐るペき唯一の怖れ、戯るペき唯一の助けに射する彼れの位命通が、血とにじみ出て
居るのノで成するのである。かくもヱザヤにその使命戚は郎かでぁる。
また、アモスにも恍命戚が、特別、説く、彼れが使命に全くプライソドであつたことは恍に述べ
ヱザヤと云ひ、八枇杷の預言者等が位命の念にもえて居ったことは朋らかでぁる。
化︵本誌前眈三六、三七日怨石︶
アモスと云ひ㍉
一
道念にも、披専は充分、日醒めて居った。﹃汝等、‡を求めよ、琴で求めざれ、鱒らば生くべし﹄と
﹁我民を惑はす預言衷は⋮⋮・・されば彼等は死に遭ふべし⋮⋮・日もその撃一再新の上ぉはハ仏れて没り、
その上は丑も暗かるべし。見新は悦−で抱き、卜者は而を縄らめ、常共にその盾む掩はん、翻の重
應あらぎれば行Tり。然れども我はエホバの御鑑によりて肺力身に満ち公鴻および勇気友に浦れば
蛾烈な使命戚と、捕烈な通念と、人世紬以後の笹言瀬等にはそれ等が極めて郎かである。
ヤコブにその塩ノで示し.イスラエルにその非一軍示すことを得。と︵三ノ五、−八、︶
もから
たへ
一▼
●V
正、泣念が帥ち絞れの仕付戚とさへなつて居る。
ほかりなほおbJ 叫アキスは昭へ、冒れ公草を畔経とし、正夢で錘とす﹄とヱザヤは宣ペて屠る。彗一目華ミカに於て
498
八世紀以前の見事、政吉者等には如何であつたらう。八世紀以前の物語にして、線言者を放した
ま仁ものにJ、︵ヤクイスト︶付︵列‡紀中−のヤクイスト︶票エロヒスト︶Ⅳ︵列王鋸のエロヒスト︶H
ー
そこに彼等のうちに泣念の殆ど見るべきものなく、使命成もまた、栃め
ルを﹁見者Lと仕立てす、﹁洩言新Lたらしめて居るその借!
別に、見鶉の使命なるものと蝕富者の使
て特別、と♭たてて考ふべきものもない。サムエルは、自らを.﹁見者Lとした。然し、弟子.サク
て居らぬ。かくの如く、JまたKJの見新−敢言者には氾念の閃きが梅めて幽かである。位命戚とし
ラバムなぞは︵創.一二ノ岩、−二〇、︶虚言をさへのべで、そこに何琴泣念からの紙価が成せられ
サムエル後部節七頚.h﹁のⅣの揃︿彗百者、ナタンにも迫念の退りを認め狭い。またJの物語るアブ
ひ雷て興るる兄弟と云ふだけでぁつて、別に、迫念からの獅子吼らしきものを裡め碍ない。また、
て稀薄である。即ち、サムエル前審那九、十章︵打︶に現はれた﹁見老﹂、サムエルは失せものを云
眈にこれを究めた如く
前二部、即ち、ヤクイストの物拍と、Ⅲ史料とが描く﹁見老﹂﹁撃一再者﹂にあつては−已に本誌酌
た。此には、残る物語む探究したいと考へる。
︵エリア物語︶Pr︵エリシヤ物語︶等がある。それ等のうち、前二者に就いでは本誌前兢にこれを究め
’一
イス’エルサ甘者¢位禽王道念ミヘ¢臼鱗め
五
要するに、J並びにⅣに於ては見事∵澱富者が▼温念にも▼任命戚にも日醗めて居ら肘。反之・
命なるものとが、別けて、比べて考へられて居るのでは無論ない。総じて使命戚が刷らかでない。
499
500
イスラエル穣宵層の使命寸−池念ごへのH醗ゆ
人世紀からの撃︰‖新は︵上述せる如く︶追念にも、使命戚にら究分、冴えて居る。然らば、前者と後
1−リ●
者とのmの帖期に於け今預言者等の根命と迫念とへの日醒めほ如何に過程したであらう。姉の次第
−
二尭JfLに於ける
を伯ふるものは票言ヒストの物哲でぁり、Ⅳ史料であ♭、hh︵エリア物縄エリシヤ物語¥
ある。それ等を以下に求めたい。
E︵エロヒスト物純⋮︶に現はれた預言稟中、代衷的なものは、民数知略,二二
預言者、づフムの物語であ一心と考へる。
原文批評上.づフムの物語は、毘文が、可成り、複雑である。史料が.柿腔に、錯雑して居る。
加工の難が存分、試みられて居る。それが有名な詣であつただけに、後代請索の加エのみとが移し
い。物語の大概粛∴野ent緊l−また日t邑等はJに蹄する︵H昌d打Ommen︷弓ドA●H●H.ド▼H汀−㌻・
−甥2gn出馬n首汚lニ呂u・S・ひ芦芦日邑︰の窯ll・d・く﹂sr・HI・︼2ドS・け芦S・一声3然し
大憶をJとすることは如何かと考へる︵例令、二三ノ一九、の如きはJの筆、創、六ノ八、等と舶容れ
ぬ。二三ノ二三の如きは明かに巾付記法の影堰を認めしむる︶S訂完r巨乳︵㌃︼11・b・d・E己告≡″gi−1d●
Iオnd・C〇Hロmeヱ弓Nnロl
e
S・舛くH・舛くこ・S・H声芦︶は瑚︵編纂肇ス
エト
ホ︶シ
とィ
推定して
A●H・−讐・8・∽﹂の∽︶は大鰻示兎︵エロヒスト︶とする。また、HO打i品eり︵R弓汚r
A・T・AぎH≠甥已日eri岩OP
居る。惟ふに、畢の上では低かでぁるが、この請の根本になつた物語の非維は√でめらう。それを
CiOl
e
後代E︵エロヒスト︶乃至梢︵ヱホウイスト︶が話し捷へたものであらう、そして、をの部が物語の現
形のま安和をなすに至ったのであらう。
基碓になつて摺る物語︵Jによる︶の筋はかうである。話はイでフエル人がカナアンへ侵入する際
のモアブとイでフエルとの職ひの詣である。モアブの王、でフクなるもの一が自川の︵?︶預需ポ..ハ
づフクにその
ラムに命じて敵.メこつフエルを.1。几へと云ふ︵二二ノ︼﹁︶よつて汲富者、.ハラムは紳にたづねる。と
ころが、紳は敵、イモフエルの方を却ってめぐむと翻託する。預言者.ノラムは葦▼
ま∼佃へる。王は、漁言者に、イでフエルを光へと命する。辣富者は、‡に﹁紳はイそフエγ暫脱
す﹂とかへトごごとする。王は贈物ぉおくつてまで洩言者に懇望する。が、換言鶉の答へは同じ。や
むなく、王は、諌言粥を園外に迫ふ。と云ふのである。
即ちイでフエルが他の団々よ♭旦柵まれるのであると云ふことを仙陶人、バラムさへ率荘に宣べ
て居ると云ふ耶純な納経、胆純な放言の物語である。ところでE︵エpヒスト︶は準言の吊2邑︵技
巧︶の問題数怨げてこの物語に対して居る。技巧冊怒の傾向からこの物語を補訂して居る。
故、mなぞを用ゐたことが紀されて居る︵前搬四〇I川三石怨盃︶技巧に
抑も、辣甫の技巧の問題はかうである。即ち、イスラエルに辣富者なるものが、初めて現はれL
時、既に、彼聾は琴、琴
ょる預吾気分の作興である。これは﹁強請者Lにのみ見らるヽ現象である。﹁札苅しに技巧はない。
イスヲエル鳩首應の使命ご遺念ごへの日醒め
イスヲエル壌首宥の仕分寸J漣念ごへの日展ゆ
八
但し,Ⅳが物語るそれ等ほ撃一=気分のE訂ぎを興すまでのぎ邑︵技巧︶である。E訂紆のうち
では自我を没して、紳の物云ふところ中開き、聞古しところを口走ると云ふのが穿b已、訂﹁敦富
のであつた。さて.その技巧に反射な出向に充ち満たされて屠ったのがE︵エロヒスト︶である。印
技巧、それは雅言的良心を就坤せしめた。それは.細誓巧者から迫念と棟命戚との幣牙′で奪ったも
ミカが彼等を揃罵して居る︵三ノ五、︶
は草堂あらんと呼ばれども、何をもその口に輿へぎる者にむかひては戦ひのそなへをなすと後代、
蓬に,預言をかせぐに至つたわけである。﹁我民を或はす孜言溝は将にて噛むべきものむ安くる時
た。此に於てか、彼等は、櫛勢仁郷びー民意に迎合し初めた。結氷は撃一=の技巧を弄するに至った。
モス苗七ノーPq、重昭⋮︶抑日は苦鱒門下か喪はねばならなかつた。その方法を話せねばならなかっ
はれ化鶉めであらうかと考へる︵前兢四二京都二、参照︶彼等の群れには骨脂と末雅とが居った︵ア
隷言講怨は何故、かく的解するに至ったのでぁらう。それは、彼等が何時も揮わなして固ま古現
位ふに至った。技巧の乱川でぁる。技巧の窓用である。技巧の暗幕、預言の略解であTる。
現言者等が、日分等に都合の好いことを、触⋮理に、紳に云はす︵偶りて紳、語れもと作す︶R6邑を
棲ち、然し、串が礎って、預言前年か、融から没我りうちに彗芭御託を開くと云ふのでなく、
者﹂であつた。
602
β03
ちEは、技巧■官吏に間接とせぬJのでフム物語を、技巧反射の立場から補訂して、物語のでフムを
技巧反対の汲富者のすがたに描き出して居る。そして描き出された技巧反対の撃一﹂=者.づフムは温
念に固く、使命戚に鋭い預言粛として、その姿を現はして居る。Eの時代こそ撃毒老が抱合に日醒
め、使命戚に目細めた時代でぁつたと考へる。
Eはづフムをして宣べしめて屠る。﹁紳の親はさる者曽我れいかで︹自らの技巧もて榊を紅げ、耕
︵紳は人の如く洗ることなし、人の子の如く怖ゆることあら
いつは
言を詐って︺訊ふゃ得んや︵二三ノ八と。また、﹁我れ何軒むも自ら言ふむ得んや、まぞ、紳の我ロに
授くるところをのべんのみ︵二二ノ三八
す−その首ふところはこれ哲術はぎらんや、その語るところはこれをなしとげざらんや︵二三ノ一九︶
と。かく、∬は、放言ポ.でフムをして技巧反対の叫びを致さしめて居る。Eこそ、幼い使命戚を
基調としての汲言新物語である。Eは、ま柁、づフムをして、技巧を弄し、榔勢の御用をつとめ、
隷言をかせぐに鋭く反対せしめて居る。﹁化とへ、バラクその家にみつろほどの金飢を我れに如ふ
でノムは同き迫念の冒醒め、威き他命戚の‖醒めから通念■で裾し、使命を
いほ とも我は準の大小を諭すわが叫エホバの苫を翰えては何をも焉すを持す。︵二二ノー八︶と。Eによ
って物納られた轍言明
居る技巧と戦って居る。組じて、技巧は.ノ二づフエルにあるペからす、﹁ヤコブには贈賄なし、イ
そフエルには占卜めらす、榊はそのなすところを玖富者につぐ︵二三ノ二三︶と宣べられて居る。翼
イスヲエル憮甘者の使命ゴ通念ミヘの日♯め
,501
イスラエル換官有の仲介ご通念ミへの日柄め
一〇
ホセアが起って使命と追念とに叫んだ頃である。
するに、撃羞の迎合と使命感へとの口睨めは、物語J、付には認むべくもない、然し−Eに於て
は春分,認められ一りのである。
Eの年代は、大約、紀元前七五C年。アキ二∴
刀と前後して睨はれた物語、打は崖︿造念の上にたつて、ウリア串件に糾し、王、グビテに鱒吾
して、己が使命一軍果した預言者、ナタン一軍語って掘る︵サムエル綾川聖二ノー、−二﹁怨煎︶
しばらく後れて器き接られたエリヤ物語は鋭い迫念よりして.ナチ7の難件に閲し、‡、アハブ
に証言し︵列‡紀、上、二一、︶粁たす埠二=新に反して﹃われひとり、告褒めヰ、ヱホバに‖心ひをもや
†﹄と使命に雄々しきエリヤを物語って屠る︵同、上、一九︶
かくして預︰吾新は迫念に目耀め、任命に日睨めた。椎ふに八枇紀中元アモス、ホセアが起って迫
を説くに至った前しばし、放言新等が罠念に口睨め、使命に〓睨め、彼の預言ポ等にその氾′で備へ
たわけであつたと考へる。
60♭
酉誠樽の阿合捏に就て
一所蕗桝何の梵巴両緒の阿含経に就て
塊
雅
骨て私が招魂したる西成≠珠圃諏︵粁律部︶と、丹疎開邦︵諭部︶との日銀絹碁に骨子数年前より注
意せしことは、糾合損に属する減澤経典数十郁が両親甘球爾部中ド福捕されてゐることである。こ
西減何の阿合組は二純の諦系に現する原山ハより減謂せられたものであろ。一は梵語原典より、二
巴利珊⋮頂此ハより柳澤せられ、前ポは大谷大坪桝政の廿粍阿部第二十七拘︵ど︶に十八部を組め。同
第二十人的︵甘︶に三十七郎を。同拾二十幽︵胃ヱに五部を。同第三十一向︵q︶に岡部を。同約三十二
励︵吊e︶に十邦中編紺してゐる。是守の梵鍋原典よ♭制繹せる阿魚種中には、頻牌婆避玉承迎彿軽
︵JiロP
︵榊銅冊瑚怜︶や、火車粧、小本耕︵桐網棚捕︶などは甘味用布節二十七他に∵梵抑辟は同撃‡向に収
冊されてゐる。この郷伸婆避王承迎彿緯や、大小客種等は西成翻鐸家として有名な乙勝友
miぎ︶と、刊鉛︵P且㌢召mP︶と、大役針家イーシ・デー︵巧?竃Sde︶の北ハ謂であつて、西親王の三英
西成仰の阿含絆に放て
50G
西成樽の附含種lニ試て
一二
まとして讃へられる随一のチデーツククソテルプ、チ†ソ王の肺代である。王は四隣に閉威む撮ひ、
庸の孝徳骨と壁些二年︵酉脛八二三年︶に庸蕃同㍊碑文を西蒐の甘廊拉躍市に建設した時代で、王は
欽定に依七大減麒を減挿せしめんとて印度より多数の班紙建博士を招晒して澤粁串業・雲間輸した。
勝友はこの謂錯鵠業に盤加した一人で、常時㈲繹家の第一人名と榊せられ、彼の謂出せし錯典の甘
珠爾部、丹珠爾部に存するもの無数にある。従て勝友の謂緯は尤も僧職するに足るべきもので、班
︵dP毒訂昌Ⅰ甘n
鐸塊典史上に於ける玄俳三弦に比すべき者である。西暦十二世紀出世の西成む衣ブトンリンボツユ
師の両液大波日就中仁は已に二是等の阿合耗の拝趨は合計六十五棉編入されてわる
b謬㌢P・舎○︶。この梵語頂此ハより鈍繹せる阿合謹は、遇故に党名お皐げ、次に澱名ノで以て対照し、
軍未に謂乗︵印腔人︶と、丙減人の疲打者とを列記して、昂此ハ謂揖の粥憫・で保持してぉる。この死語原
典より減謂せる印洪庵捏や、死刑紆や、大小両室粧等を決凸面繹と対照するに、澤衰滅略にして、
巴利語評はその中川に位するが、その内容の骨子に於ては三和共大抵一致する。これは法相の辟過
に於ける部派の加工又はⅢ入の影紺鵠む蓑つに結果に依るものであら㌢。⋮ヘルノレー氏︵司馬rnle︶が
衆力土爾臓期坦地力に於て据見しにる梵語原典の阿合紹の糊片I﹁発令樟、﹂﹁鞘闘晶、﹂﹁月瞥耕一等
が比利頂典俳に班澤と対照研究し∵賛美せられにことに依て、決謂阿合紺が梵語系に成することを
招明されたわけでぁるが、今この両班梢の阿介錯二和めろ中に於て、前述の第一相破繹阿分裡は兜
語原典の御謂であるが故に、是に伐て北方洗佃の阿合揮は減撲衰に梵語に属することを一府碓和す
るを待た次第である。然かし是と同時に西滅相山阿企細二椰ある申たて、第二椰に屈する規評阿合
紆は巴利語原此ハの伯謂であ一心が故に、足れに依て丙減他の阿介維は梵巴両語系に屁するもので
ことを経め持たのである。只情むらくは基郡軟に於て雄渾四阿合辟に対比して百分一にも足らない
ことであ一〇。そして蔵相阿合綽は溌繹の鄭、中、珊、長と四部各詔に分紬して偏帰せられた如き
のではなく.只千野り次第に鶴悠せられたものを忠彗に減詳して一と紺めに牧帰したものに過ぎな
いのである。円弧所佃の≠珠脚部と.升珠補部とが全部大熊敢に属する巾に於て、少数ながらも兜
巴両語系の阿合粧が減謂せられてゐることは、南北洗柏の彿敢史一旦岬究する恰好の原此ハ史料と
両滅相巴利語系の阿合粁に就ては詳rm呂n謬︹打ll氏は文部北苑地内の雅和宮より甘珠耐部の日
西成仰の阿含柁lこ兢て
彼はこの≠珠爾邦〓職Jで新圧寸隙に、≠珠研部三原此ハを各曲毎に一々訓発して滞はしたものでな
語の押通を摘げ、南棟の抑即ち節二十五幕‖の終りに謂水の名を列記してゐるのみである。阿とよ
ものと見えて、般若粁箪一斗回輌︵︸ハP︶の第十三谷よト一節二十宜先に至る介針十二転は、只死滅両
したるー‖〓.珠阿部の分布論文を磐照せしも、阿企繹に榊する且利系に朴ては何の注意も引かなかった
銀を蒐処し、それに伐て‖餓を井はすとき、C賀2ドがL㌃i旨け謬掩Pr︹b戊HH︵CP−邑すー00∽の︶に希求
S
ねばなら氾。
607
占Oj
西成博の阿含踵l二筋\
︼四
く、㌍に粥和宮に所収せられたる永製版の酉減日蝕を底元として編恭したのでぁるから、これらの
小諌緻此ハが巴利語系のものなるや否やに桝して何の注意を設題せなかったのは基蹟であらう。且又
以て.鞘捉伽耶より捕力約宵山旬に仙†ろ粥番兵m㌢昏G⋮i占の婆鍾門鋲より出挙し、典足戒を受け、三撒に棺融ゼろ桃漉
冒・ぎSど去lPるり=.鵜川り﹁チャグバ、ヂ小ルツTン﹂︵GrPでPガ宣mTユー当︶に於け一ハ﹁ぺンシャ﹂︵ニけeJi九ものゝ︵芝‖な
白亜軋青井の立に・して、彿冊瑠の秋津わ澤′、㍍じ、鍾光抑ヾJ用止ミにn山在ろ萬健か得ぜろ﹁シャルブバ、クシャン﹂地包l宇
抽の茨刺ハの井C‡ヱ﹁ニ†ン﹂地︵ヴp㌢㌢㌢鎖州の江孜直の︶販向市場︵訂ムリ㌢P・kローS︶㍗る﹁グルニ地︵︼︻Gur・ソ言の禦
﹁鬼の如く、。甲補十三鮭圧闘浄血の小火、票ゆ四.謂増風紀︶より約雷佃北努に写しころの西欝、騎吊々
の扱文を繹出せば次の如︿である。
評者の人名む併記して相澤の意を明白に語ってゐる。仇てこ∼に﹁請般若緯︵︵㌧i繭∵ヮ∴岩Ib−い○ど︶
、此励〃絞りには.倒評の十三緯の鮮題を列掬し、次で鐸出の線起と、
梢せる﹁舐般弟綜Lむ槍するに
択抜軋刑紺よト和繹したるもいなるや否やを碓められて、列足せらるであらう。今この十三折を娠
き楯件は、この十三珊の頂典s内容が色別頂典と舶推するや否やの判校に山て是等十三和の頂血ハが
あるが、今しの阿介粧十三群が果して且別語い頂此ハより肱繹せられたものであるや否やを碓証すペ
巴利語系1二崩すろ阿合併であろ。是は私が曾て甘珠問潮目蠍編麗の常時より已に注意してきた串で
若耕一巻﹂に編入せられてあり、同情二十岩山中、窮十二緯よゎ第二十囲岩結に芋り余計十三鮭は
C菖Pも北ボに仲てほ埜息に餌れじかったのである。然るに北売店帥ち盟⋮版︵軌駅︶では﹁誹般
∽
㈹
ー
ェ†γヤルソアン.ハルげンポ
道北ろ阿排陀笠利︵㌢呂dP盲︶り研削l=於て、多順の郡諜家けろ秤迦の比丘誓二戸こ首鼠・2T㌢呂dP−さNp㌣才亡u唖窮辞
竪ほ、二︵閲︶納か坪ぷ米食dり巳⊥コ一号ぎG.i.︷窮群解職守の大伽藍に於て削謂L、校訂刊行ぜり。
鴫呼加水ほ栗に娘批の諸法ビ井目ミ、その減損ミむ帥けりミ是の如く火沙門は締れり︵Yed訂r邑訂言p邑訂阜Feすゼ
lβ㌢づtPt訂g已〇Tり”ヨ︵l已t各ゼβヨnirOd訂e召づadMヨ旨㌢彗巳−1P■与︶。
この最後の偶文は掲勝が介利弗に対して諭せし1諸法徒︸繰生、加水辞是向この梵文である。是の
如く此十三鮮の阿介辟の各退批な梵軍で以て棟示せるのみならす、蚊文の澱綾に於ても兜文を以て
証せる串より見れば、この十三粧は正接比別語原此ハより減辞したるものでないかの如く思はれ▼ 仰
且つこの翻渾に骨て紅接指蛸せし班低速は只儲瀞高山喝羅門より出家したる三成楠油の阿搬陀室利
なるものの両前に於て比丘ニマ・デ†ル・ツ丁ソ︵政人︶が減押したものと云ふのみで、正接巴利語原
典から押したしし云ふことは記してゐない。然し滅相の晒決翰鮨は兜巴両種より滅罪せる中、その巴
利語系のものを独酌するに巴利鍋原典のと一致する・で見る。﹁大骨損﹂も同様金魚一致する。今この
両液評巴利系の﹁輔法輪綻Lを巴制約の帥1叫法輪Lと、﹁大品︵少Fb脚≦第p︶の﹁受誠語L小の﹁第一涌出﹂
の第十七頃より節三十一項までを対照するに、此三椰は公然合致するを知る。
大概に於ては同系倒洗の梵糾頂此ハよりの繹〓である。然かしこの巴
前述の兜沼原典より就辞せられてゐる﹁樽法輪堅牢難阿合併第十ぎの第十表︵蹴鮎榔︶と対照
するに多少視略の加速あれど▼
別語よりの減曙樽淡海経﹂は決滞俳に兜沼倒繹のと全然一致しない。これに由て取るも阿合緑には
粥献伴り阿含撞に飲干
510
西前件の附含種lニ視て
一六
兜巴両紙より洗伸されてゐることは、ヘルソレー氏の螢据せる梵語系の阿合経と新保って一骨確認
せらるろであらう。南減史家ブトン帥の印就折目解には此十三綻の阿合繹の緯名を載せてゐないが、
然しこの十三鰹繹出の末港に記せる評者阿雄陀宴利はブトン仰が諾はせる印皮人にして都城せる有
名なる訪の開墾班抵通の㈹﹁人名録﹂には萬後より四番日に於て記蠍されてゐる︵dP品bSPmよ○ロ
bNP㌢句●告∽︶より考ふれば、阿邦陀室利は已にブトン師以前に非絨したる印度郁抵通である。然るに
ブトン仰の廿珠閣部目倣偏差のときは、是等の巴利阿合維はブトン師の眼に止まらなかたものであ
るとも考へらる。然らぎればブトン師が記載せる阿邦陀宴利と、この巴利語佃謂に闘寸る阿雛陀笠
利とは同名異人でめるかも知れぬ。吾人は阿難陀宴利に従ってこの経典を謂出せし滅入御鐸家アン
ダー・ニマ・デ†ルツアンは如何なるもので、何時代にL−i粧したる人なるかを碓課すべき虹料を教見
せない鶉めに、この阿介十三経の地評年代を知ることのできない櫨がある。
この巴利撒樽評の阿合十三粍に骨てはC8日P−同語りの目規では﹁誰般若邦﹂一向に十人湖を有する
∽
も、執れも常般若部のみで、我康購⋮版では﹁諸般着船﹂〓助︵T軋︶に二十五鱒で編入せる中、最後よ
りの十三部は帥ち巴利語澤の阿企緯である。叉br・Herm呂n野kbの日報では般若粧︵RP第二十
RぎddP打Ppだ訂
と、SuttPnip芝P
四励︶の第十三経より終琉二十五向までの十三繹は正しく阿倉粁である。両地ナルクソ版では、甘
珠閣郁︼客P飢画十五酪︵R唱已、HHH、誓︶にめり。巴利では
⋮
繰
輪
起
mUO、、
、、J阿訂k呂id賢P、こ、Sす寧pP声P訂⊥ハ号Gle㌣顎bi㌧、
bSk07せ巴︼i
、、字弓日PβkrPpr弓弓ぎロg巳r㌔、、ChOS・打笠kk訂7トリRPh■Tロ
踵
、、害P訂笹日P竃∽巳rP、こ、打せ牢pPnh2H→葛官日DO、、
経
︵〓・誓︶の中にあり。今廉澤版の廿珠耐部に依て、この阿合十三終の紅旗を列輿せば次のやうで
法
本 生
好
、、At賢愚等S望rP、こ、訂P㌣どーC昌男?B置チGi−nDU、、
骨
アークーナチィ一宮殿紅
大
経
冒拓erムのP一こ1pll・BPE
mDO、、
、、冒P訂訂甘眉PS印すP、こ、H乱・Sr邑C訂ロ・p阜i
−七
Ph呂・YOロ
mUO、、
、、宅呂dOり呂a已Pnお発音dP日昌PS巴rP、こ、R一各iR唱PTp乙GPb・
、、G茸曽巨dPS譜rP、こ、RiER宕・dGPF冒EmP、、
bSt呂竜阜i日DO、、
経、、句臥e臥il阿n註p・欝nPS已rP、こ、T仇︼岩TRbri崖こ♭旨i
紅 、、ソEtribb晋呂PS已rP、こ、b苫巳・pPbS唱日・pP官日DO、、
mUO、、
、、冨Pitris巳rP、こ、厨︸P烏−p与i
習
軒
糞
担
敢
悲
修
功
山
徳
悪
慈 悲
五 戒
青
池
調代難陀優嬰難陀親王紆
大
西根博の阿合絹に就イ
●
ある0
は
(七)(六)(瓦)(四)(三)(二)
612
西政体の阿含経に放て
日
苛
経 、、S冒y−↑乳首r㌔、、ヨ・ソFl−i
mロ0、、
一入
、、ヨーLlぎ1琶g已P∽巴rP、こ、bRrP・竃CbeP句OE日日G、、
粒 、、CP已r叫:巳ヨ、こ、Z︼苧出已−imせ0、、
符
西兢侍梵巴両繹轄法輪綬ご漢繹の封検
pp・芋−○ぢなどあり。今これらの淡繹﹁相法喩紅﹂を梵僻瀬評の﹁輔法輪撃と対照するに、﹁郊阿
CPk訂p甲く由tF。P邑t。︵A・ヨS・ヱAriでp弓⋮リgnP∴芦3。ヨーPy2冒h阿ゴ弊習︵S.出.E
神都にては﹁五分持拍十王肌隼︶。﹁四分律﹂︵川手︶。﹁石部葎﹂︵鍔︶。﹁十詞葎﹂︵葦︶。Dh昌ヨP
︵酬紅憫竿でが他﹁禁行差Lの拍妙繍品。﹁大泥岩l︵詔・︶。﹁叢緯㌔加・︶。﹁因果捏﹂︵相加・︶
柵七︶。求那岐陀維の評﹁相法輪捏﹂錯誓空荷伽提婆の謬﹁那館里馴碍︶U同人の・繹﹁高嶋品
﹁朽法輪綻﹂に閲する溌博の繹膵は、﹁梯説極法輪麗L︵禁賀順訟︶鶉渾の繹﹁彿説三種法埠鱒完.
二
こ十九由、円仁窮十嘩q箪二十一晩.Re第三十二晩︵第一緯より第十捉まで︶参照めれ。
経﹂等はその主なる阿合評である。詳細は康鷹版の甘珠閑却H≧節土十七曲、、2第二十人曲−Sβ第
羅王承迎彿審、L﹁小峯繹、L﹁大串緯L﹁多界経、﹂﹁苛顔紅、L﹁入毘合利紆、﹂﹁月辟、﹂﹁相法輸轡﹂﹁業種鼻
梵語よ♭液謬せられたる阿合揮わ諦薮は甚だ多数に上るが故に父に列記するの疏
(三)(三)(=)
合経第十五﹂第十二鮭の相法愉緯に一致する。をこに只ニケ戚の飽許の舶違を見るのみである。そは
即決繹﹁特注喩鮫﹂︰では﹁世事野元比丘り此苦教諭、本所r未=甘明視夢正m心惟毎.埜眼科朋党ことあれ
ども、允許噂減繹﹁晒法輪麗﹂では、﹁世事は五郎の訪比丘に碧げたまへり。比丘等よ、我は未だ嘗て
再議︳の何食#に銑†
〓心肺﹂の五
某と恍く一致するものと云ふべきでぁる。聞これを立訂するものは、両親側いじ利証⋮繹1醐法喩鮮﹂
鞍︶の五符果となつてゐる。そして是は両液個の梵語謂1晒は愉蕗Lの﹁眼、和、明、肇
鮭Lに封帽⋮するに、﹁限︵Cつk賢−︶、和︵易菅︶、禁句P昌㌣又望.明︵ぷj阿︶、光︵旨.kP、又lま思惟、軌
決繹の﹁正に尉椎すべき岬Lと云へろ忘我に柵許するな見るであらう。叉これを巴利原典の1相法輸
この念︵巧id・訂ぞed・pP︶は,詐原ケⅠ2戎打腎Pであるから1作澄L又は1念﹂と辞せらるる字鶉であつて、
是智減文に剖検せば、﹁これは苦斐諦ならとて−方法に従て合せしときしと云へる一句に加地する。
五得先の随一に教へ奔げたろの和違を見る。をして雄渾の﹁復欝証恵椎−峠Lと云へるヰ瀞の一句は、
も浅繹では﹁思椎しセ以て意識のま軌的作用となせるに反し、滅罪ではー思惟L一で以て聖諦を勉励せる
︵生じて︶ぁらす、恕は︵生じて︶ぁらす、豊は︵生じて︶ぁらず、旧心惟は生せざりき﹂とめつて執れ
あれど、殖繹では▼﹁この諦の斐四諦を今の如く三度謝し、十二和を輔せしかど.眼は坐せす、朋は
惟︵R打唱・pP︶とは焦せりLとあり。又班謬では、﹁於庇四浬諦三相十二桁︰不レ生3限、智、明、兜ごと
開かぎ♭し諸法に於て念せしとき、限︵g呂
︶は生じ、智︵零pP︶と、研︵RigpP︶と、兜︵巨。︶と、思
b13
514
高裁樽の河合推に就て
二〇
︵脚韻空の五行来たる限︵岩g︶、賀宇且、葵盲R已1︶、明︵R雷P︶、光︵SnP昌P︶である。この
光︵SnP少P︶の譜規師+H。lハPは︷訂l屯︼一∴を,邑iOロ、3ロ3ptiOローgenitの意義を対するから、両
何の梵語繹﹁輔法輪麗﹂に﹁思惟﹂¢以て五得果の随一に加へてゐるのは、巴利伯の﹁光﹂と同一語頂よ
ち出でたる異評であることが分ると同幅に、この西戴偶の梵巴繭繹の﹁樽法輪縫Lは、正に巴利偶の
﹁朽法輪紅﹂と一致するを施忽せらるべきであると思ふ。但し宏に一致と云へるは、只此五得某のみ
に骨て言へるので、西減偶の発語謂﹁硝法輪痙﹂が洪謂﹁輔法翰鮨﹂︵瑠璃︶に一致す一。も、西減何の
巴利折繹﹁輔法輪捏Lは以上列森せる浅謂﹁碑法輪粧﹂の就れにも合致せない。それは只比況仙ハと巳已−抑
句点gPのみに全然一致する■ざ見るのでぁる。それ血ノへ従妹まで巴利畢ポは比利諏﹁噂法翰痙﹂ィぜ以て
﹁難阿介粧窮十五﹂中の﹁相法翰揮Lに対照してきたのであるが、それは安倍でない。巴利頂典り特注
輸紆は正しく波偶の巴利評﹁翻法輪維﹂に借り、減侍の梵語謂﹁相法愉緑Lは浅薄に一致することに於
て訂正せなければならない。描この外に﹁中阿合﹂の﹁雄健綜、﹂﹁掴二阿合Lの﹂前輪晶、﹂安世高澤の・﹁併
戚燭光語謂﹁梢法翰維﹂;・⋮︰!眼、智.兜、明,光。
液相也利繹﹁晒法愉経﹂・⋮⋮・⋮服、恕、慧、明.光。
巴利原此ハ﹁怖法喩維L;⋮⋮⋮・⋮限、智、慧、桝、光。
設樽法愉維、L義渾評の﹁俳説三相法輪捏Lと封照するに次の和さ異例を見る。︵五来の次第不晰︶
(三)(二)(一)
智、畳、明。
﹁雅阿倉持L中﹁相法輪緯﹂⋮⋮・恨、智、蒐、明。
薄押膵1彿説柏扶愉粧し・⋮・⋮:明
安世高澤1三糟法輪紅L⋮⋮⋮恨、慧、史、思。
﹁昭一阿合﹂﹁晒法輪紅L⋮⋮⋮恨、肇慧、明靡.光。
﹁申阿合﹂︵用相︶﹁羅腰緯L・⋮・見定遺品法。
式を包合し、畔虚位に應じて、兜、志、の両様に謂せらることめるが故に、梵比減淡の斯る
ろ如く比l少れど、慧と兜と用語原守忠犬p旨いざm与野d−−iの異評であって減語星0は足等の諸
ん人相小・Hと0と、⋮と㈲とは難しく﹁芦とあり、8と㈲Lし㈲とは﹁兜﹂と晋て、細注す
(八)(七)(六)(五)什嘲
高級停の呵含綴じ飢ヰ
/\︵
宴.訂即ち
句P団円成語の巨0︵mPti−J誹︶の封繹でめらうと恩はれる。若し然り、とすれば、堂他端澤の﹁限、琴
﹁光㌧﹁‰察L空相承したる典評であらう。桐叉﹁柑一阿合Lの﹁慧Lと﹁兜﹂とは、前述の如く比利縛り
る折原に常て偶めてゐる。されば安仲南の﹁思L、﹁研一阿企Lの﹁光Lは阿れも巴利梧の
封絆してゐる。そして又このR点spる風阜︶は思惟の忠鶉あるを以l一し人証氾小S・1正‖仙怖lを辞す
Fは光文机察の悪童あるーよLリして、両液佃では、この﹁軌察Lの忠準で取ってRt、囁七Pの字を以て
︶ヽ−・ 至った者ではあるまいか。又六の安世高評﹁恩﹂と、七の1光Lとは、前に訣別せし如く、巴利梧ヒ。
頂血ハに於て附とは同語元らしらのより、漸次洗偶の経過に陥って或け慧、或は発と異繹せ
6柑
−
dU
1
亡U
商議停¢河合‡に旗て
二二
螢−恩﹂の四果は、﹁限憲光﹂の三先となり、﹁研一阿合Lの﹁限、肇琴明、撃光しの六鵜は﹁喝
句琴明、光﹂の五某に知縮せらるべき意義となるであらう。宏に決繹﹁博法輪麗﹂は北力洗倦の
経過上に於て、是の如く巴利侍の原理五来が漸次額化せられ、同〓給養の﹁慧﹂が﹁慧﹂とr恩﹂との二
柁となり、又同一綺頂の意義の﹁光しが﹁思﹂に挺するに至ったのではあるまいか。朔一︺鮎よゎ
両液仰の兜凸面稲の﹁弼法輪㍍rは姥世話部の分裂に随って諾抗の彫塑を安くろこと抄きま∼に梢凍
され化者なるを認められろ。由雄決評向合鮨と巴利阿合経とは根本に於て相違せるものと見仮され
巴利阿合控は肇撒を中心に縞廃された請とせられてゐるが、然し巴利光典は阿帝王時代に両方相隣
伽地の巴利梧にて記せられ、その後瑚撒島に侍来しく阜首肯白書i王に依て音焉せられた︵甲C.∽00︶
もので、巴別語阿合揮が彿歓の根本弗典ではない。阿育王の代に北方準咤梨弗多錐︵P賢lip旨P︶城
怜り捷化の加へられてゐな
に於て巳風習liの子息帝須︵T訂P︶に伐て術策されたる﹁諭悠L︵詳tb首註Fヱには五阿合捏の絆典が
引用せられてゐることは巴利埋者の周知の軍欝なれど、餌壷へ汲水嘩
いものとして、脇瀞の草者達には一定無鼻化のものと瀕⋮許せられてゐる。是れに反して北方洗佃
阿介雛は部派分裂の影響−で受けて大なる撞化が加へられたので、﹁倶介諭補宥Lの上には﹁中部二阿
合、醍準多部研浦本也。増一阿合凍衆部所謂本心。長阿合化他部桝諦本也.︵珊珊︶と予=ひ、中、雉−
長﹂のこ両介絞は軍功石部︵上座部系︶よト・分離したろ化他部の諦記せるもの︵棚闘舶︶で.﹁樹一阿合﹂
別7
のみは大衆郡の所倦ならとし、﹁愉伽陣地諭Lの著者が閏阿分握の費展の哺序を1雄、中、長、滑二﹂
と次第せしかく、巴利語阿介組にない阿育‡︵出・C・琵−没︶り粥臨が、洩滞雅阿介錯仰聖一十五︵阿哲
‡施年阿慄勒某国線粧︶の如、き。或は阿育王は北印度頻明雄‡の適例徳叉〃羅山反逆を討伐し、或
は西城地力の怯秒間む征せる史的記恥あト。﹁怯沙囲Lとは抜群の就職囲の骨府名にして、玄非は佐
津囲と云ひ、雄渾の迦師城であるから、四阿合経小、蒋も音型に威する郷阿分粧さへも、斯る西域
地方の影徳を受けた一卓抜世の鼠入あるより見れば、澗謂糾合絆は北印度に於て成立せられたもので
あらう。その他沌澤阿合陣中には巴利阿合経にない詑典がめト、巴利阿合経中には丈班評阿介維中
にないものが編紺されてゐる。是等の史的鎗遁の推移一£W拍るを得ば、阿阿合繹の成立年代、さて
は洗佃教建の循路を辿り得べく、伸その内面的思想の研究に伐ては、西成他の梵凸面阿合終に伐て
指示せらる∼如く、現在の摸巴両種阿食紅以上に、この面相阿企折の底本ともなり、又足守を敬遠
せしめたる腫幼約秋本阿企鮭の原型たるべきものが教見せらるゝやも知れないと㍊ふ。かくて班比
再伸、即ち兜且両阿倉躍は阿育王結葉時代に西北両洗に派珪し、それく部派に影堺せられ、一は
北力印度二は南方幼据に洗倒せられ托ものでぁる。この西城何の梵凹面皿⋮繹阿介粁ほ是等の問題に
曙光む投すろ表機でめらう。﹁雑牌絆L︵別冊瑠︶にほ﹁相法翰纏﹂し﹂いふ評名は表示され■1ゐない
が、世事は先走加座︵Ra弓︼J訂P︶の家へ阿難を件ひて臨まれ、羅摩に射し、自己が年∴十九にして
邦銀停の阿舎熊に飢て
618
西敵停の阿含経に胱て
二田
出家し,阿那々伽凝摩の所に於て修行し、仙人併記の如く、﹁我も一切識彪を度し無所有彪の成就
の逝を得せし﹂かど二この法は智に趣かす、魔に趣かす、毘紫に趣かす、我今此法ぉ琴し、無病、
無上、安喝捏琴で求め、兜老、無死、無愁憂、無頼汗.無上安穏、捏紫を求むべしLtとて、そこ
を去って斡陀非々輝子の桝に従、き、仙人の所紛の如く﹁自知、白魔、自記し、﹂﹁一切無所有踵を度
し、非有明非無想匿の成就逝を得せしかど﹂、﹁この法は智に趣かす、兜に趣かす、捏欒に趣かす﹂
とて法を捨て、無上安穏捏婁を求めて、菩提樹下に坐し、漏恕音符するに至り、無弼如⋮上、安穏、
捏畢智得化まうた。かくて婆雅奈湖の仙人位彪鹿野園に五比丘を化し、﹁汝等我が本姓字を補する莫
れ。我お卿︵と耕すろ︶㍍かれ、我無碍触⋮死、無熱愛感、無械汗、無上安穏汚柴を得て、見追品法
を生如し生見すLと倍げ給ひ、八正道を説いてあるが、その中にて加水の十二戟や、有漏心、無瀬
心を説いてあれど、これは1緋阿合緑野r、﹁柑一阿合経第十四L︵高輪品︶、安世高評、童渾繹にはな
い。尿靡絆の﹁卿服彗今諸税清澤形色極妙、両党照曜Lと烹へる大乗思想的体格の文は﹁研一阿合
綴第十凹Lにある﹁枇骨光色柄然、野口月明こに和應して、その他にはない文である。机し決澤﹁経歴
押
巴
利
愕
沈
輪
鰹
敲二停巴利何社輪粁
経L巾の文で巴利根血ハの﹁晒法輪辟、﹂併に就滞の巴利侍﹁晒法翰恕﹂と和臆するものは、前に比較対照
呼
したる﹁恨,墾慧/明、光﹂の外に次の如き文再みである。
払
619
常レ知有二連行、諸楚レ通巻、併レ比
不丘等よ、この耐梯哨l‡沙門の祝Jむべき
凡そ何人む此に謂欲ビ砦ゴーニ耽菅†ろlェ、
比丘等よ、沙門は此二浪lこ11三†.へからす。
哉む有†ろが故に、総て何人も功仰の疲労
人相族かLて爪劣叱らLむ。綿共生は触意
夫り併行にLて聖者の併行lこわらす。風光
む配れ、構†.へからざ・わ諸謹の無意競わ有
レ措い撃、一日野乗琴讐下旭光、 もりl二わらす。州毎か二ご化寸。一に諸欲り
の利な作ほ†。二に‖己の菅l二親群†、足
凡人晰行。二日、〓秋〓那、非賢、上に欲非に菅†ろ=ミ、見れ野郡毎り。凡
此二治︰布い取ム仲通︰成レ明、成l・智、
非レ聖、求法無戴軸推。五比丘拾L
阿喘lこ近かすJて、可l道な詑知ぜり。︰れ
tiざろもりご†。比丘等よ、如兆11並等り
ミ、明知ご、如来の執非︵正偲︶ご押葉に如
の小道む耽けり。隈作ご、餌作ビ、寂抑作
それに二人ろぺからす、明符兜茄加配托、:
†。比丘等よ、=の誹りもりは二誠にJて、
眠か閃き、智な坐C、寂肝、明知、正党、
鮮に二人ろ=ざ耽り。
成一枕於定両面持古自在↓趣一軒、れ
曲苦痛︹して敢行にわらす、取り利︵加わ一作
レ蛇、趣■捏喪叫
河東に導く光り。
文面減桝仰の巴別語評阿介十三紆中の阿合﹁大典経Lは康照版甘珠爾部1諦般若経一幕︵T㌢pけ㌫守
誓∽b︶と、仰に雄琴.長阿合緯節十二し︵P賢P声HH・の・︶とにあト。雄渾大骨経と封校すろに、雅巴
漱の三椰1大命鮭﹂は序文と、澱初の揮属天の三河の佃文と、講天の大典に射する世例の最初の偶文
とは三椰北ハに一致するも、それ以下の全文は一致せない。殊に漢評﹁大骨鯉Lにほ他律に五ケ握に結
呪を説いて、或は﹁幻偶鵬妄之心Lを降さん鰯めに、或は阿修那の栗めに、或は諦天の強めに、或は
六十八五池婆雅門の凋めに数へ給うた。然かし巴撃一椰大骨辟には仙文介計二十二節む説かれてゐ
るのみで、鮨呪文は正にない。足れは津巴夢二椰﹁大骨綴Lの新注せ一¢琵鮎であつて、浬繹では巴利
鰐離#の胃曾樫lこ耽く
内蔵樽の河合托−こ城て
二六
﹁大骨経﹂の戯初の序偶のみの一致する以外は、恐らく彼此の端数的結呪の塩入したものであら′ノ。
浅薄に比して寂佃の巴利評よ菅野は敢も能︿巴利原典を伯流したものと云ふペきでぁるじ但し撲
巴両榔長倉縦Lには三世謙彿Lし、諦天の火炎を説けども、就偶巴利評﹁大倉捏Lには只過去と現在と
綴停巴利大命綻
√
巴利大骨推
︶
の綿彿講天の火炎を説ける相違あえのみであろ。左に是等の対照をかゝぐ。
′lヽ
決諸大倉踵
ヽノ
に、
集り、
林
tF訂8ngr虜E乱,
○︼e巳訂t訂gえberi口g−一二言g︼Pde一
窮
丁訂訂旨○︹FβTeロtOget訂r巨e二
︰り
大
天
り
今日大衆骨
謂
Wのt00買付e05euロtO
群ほ
謂天紳甘災
:の法の甥めlニ常に米り、
¢
骨箱レ托放水、
AndEn司○已dse01becO臼p呂﹃︼n■㌃cib︼e.
西戒博梵語繹大小空経ご漢渾の野校
刷
その他西城所倦の梵語系の﹁大葬抒、﹂﹁小暮経L中り、この大小両室紅は摸評1中阿介揮節四十九﹂
印
三
無能勝り骨衆を見んご†。
′ヽ′ヽ
欲−超一無上衆可
l
nV
l
一致すと云ひ得るのみで、両紺の構成内容の比は親侍﹁小峯辟Lの撲滞の封比よりも、その差異は基
潔正光の趣きあつて、巴利頂血ハのと一致する。そして撲澤の﹁大益組﹂は液化の大益経と大根に於て
の文章に於て、撲繹の三分二稚に苦り、撲謂のは頗る施療弄ろ文章の構成なれど.蔵相のは頗る簡
の大小再審繹に和施するものなれど、就中、決巴再小本持と対校するに、液僻1小串轡はその内容
620
b21
しいのであろ。これ恐らく﹁中阿分種﹂の大小両室謹は北印度流偶の経過上に於て、部派の影智と種
々の加工とに伐て朔く袖雉に粒形せられたものであらう。且又この減僻の梵語系の大小察経と巴利
商戴博の何食廠lニ胱て
統語の且dは兜沼り茹であつて、此蹟では2ざの忠ではない、寧ろ訂才Pに枯ら、色別語のt脚
的忠鶉を右する梢撞的のも山である。それゆへ且利語では堆基をS〆−訣0と云ひ、雄性をS仁試Pざ
トンバ
と云ふ。減語ではこの意味ヤ摘元して昭本をS什○ヲpPと云ひ、﹁蕪性﹂をStこ首?抄dと云ふ。この
醗.L﹁蕪基讃、L﹁巫の本惜しと云ふ程の焉妹で、一朝内外の現象を則雄し、統一する増加的根本原理
忍魔ヤ沸ひて消失せしめたもので公然椚揮的の意味を対するに適否ないのた反し、﹁蛮性﹂とは﹁容白
賽鮮の溜童話とはその意味に於て非常の差畢で珪じて凍ろのでぁる。損なる歩は一切析喝或は
に付て注意すべきことは、この鮭通が示せる兜巴両系の遇耽でわる。巴利益揮のS邑試村訂と、死語
︵Pr鼠腎胃mP︶と、西滅入大校訂新和謂官ノ・1gde巧2ふ軍Sd2との共繹でぁる。この両用め大小容経
る大緯﹂と云ふ。執れも所柄九世紀年代に西戎の玄弊とも翻せらる印度人勝友︵Ji㌢mitrP︶と利意拉
呂P訂甘13昏n冒.PmPl−Ps巳rP︵︼nD?C訂−7p。S︷争l︶守をdd岩苧pOSl1年Bで評︶帥ち﹁大葬性と
rn巴rP︵∈D?C︼−eコ・pOStO千野・哲d︵eS・ぜ苧BP︶即ち﹁薙性と名けらろ大経Lと云ふ。﹁大容綻﹂の超耽は
﹁大審軽﹂は彗巴J掛買昌旨邑訂首であるが、減博雅語系の﹁小峯経﹂の題批は甘口竃笛口許PmP訂
明(
′.ヽ 毘仙ハのと比検す一心に、先つ敢初に巴利頂血ハの﹁小峯粒﹂の趨批はC引㌻芦試Ptp告辞診であり、その
川
6=3
西蔵停の河合搾に誹て
二八
に相席す。今1の減偶の﹁暮性一等−−yPtp.は等︸y入空士叉栄藤−蒔帝︶で、あつて、﹁鼻化し得るも
の二経でぁつて、C巳P・∽と、巳已−㌣sとの二経でぁるとし、且っ﹁峯﹂
の定義
の﹂と云ふ意味を㍍はすものでJのる。リス・デガイゾ氏は、巴利の大小南蛮鮮に就てSll試。︷PSuニPは
冨&jhFP ヨk考P
に付てS仁昌旨はem苫こeく。∑。〓邑の、eま=甘。Siti。1広、2乙−E・m臼、b已月崇iP−1yOご邑、eg。
解し、S巨已訂−二S2−y邑︶は2m−︶tl−岳−rc已Omぎ巨訂t、iu鼓−−Pヒddul1日琵−診b旨2と解祥を
S巨・−︶?買
下して雨着を砿別してゐる。挙又En山号に、葬性をE2−︶tiロe玖に配しての拓別は尤ものことである
が・軍にこれだけの祐別的桐滞を以てしては私が此に開明せんとするところの西城の
に和應す一ウ婁性︵昔一︶邑︶の意味を充分に詑表することは不可構である、その故は﹁暴の状態﹂む意
ヰると同税の意味一で右寸。﹁三昧とは何ぞや。肇二帖、如願三昧、知和三昧であ・一り。紋云何が些
過ぎハ仏いので、一朝講決の酸性でウ。。かの︰望一Pr≡P土㌢で1法世\し詳し、TPt訂+t笹聖典如と謂
号i霊許ceでめる。これは只無限S西軍で創珪せしむる暦在性ノで消極的否定郡を以て説明したるに
Em号なる詐に常低めうるも、﹁本性﹂は無限の内容をれし、その内牢で捌現せしむるカ帥ち。gg寺
本ま醗であつて、椚撞と梢極との二速を統店し、創珪すろ範巫妙握の鱈在でぁるからでぁる。塞は
基捏の﹁峯性﹂とは、﹁右Lと﹁衷ごとを追越したるもので、嬉と有との二適哲創吐し、統一する根
味するE己音義へ与る語は、本性を邁廟に衷現せしむる語鴻としては不堪常でぁる。滅罪阿合大小
l
昧となす。謂ふところの露とは、一切諸法、明悉く昼慮ならと馳や、是寧竺二昧と宕くl︵耕一阿公
租第十七︶とウっも同義であつて、走れが聴て1八千頚般若経Lの昼,燕舶、無新二元の大乗的思想
0〇
を開展せしむるに干ったのである。今あ1小峯繹Lに於ては明かに﹁各位﹂中箱極的黒血諭的として
の内界を顕現せしめられてゐ一山のJで見逃してはならない。
一﹁阿緋陀よ、かく捕り触軸が韮すて混元と、現かに無雑解脱の凋てに、足れ死∴化に入ろべき紙上光り。
阿緋陀よ、潤去の時に川翔ゼしかり如来塩代等正梵の蒜彿仲澤はよ㍗姓の如く.講湘は就きて湘克く、覗かに触角浬棄の空
︶
︵
性に入ろべきい、指⊥誓え‖孟前に警孟鵡Lて化、し給ヘリL︵減刑緋㍍︶
阿緋、志木講和蒜面薫禁異竺明記那加宗用例。調軸混、無洞、無彗心解旦刊鯛諸詔︶
︶
二﹁阿鞘此椚if海里空・、不印刷也。叩州軸ぷ、無舶、無娼−心鮮脱。
︵
この渾澤小宅揮の﹁革質㌍﹂とは減佃1小暮絆﹂の基性︵S七草︸JP・汐eに封辞せらるべき語にして、正
に梵語写霊t押に和常寸。足れに山て考ふるに世事が呪身を以て無兼、心根股上入b給ふたるその
冊現の内容は時間とぺ問とを超越し鈴へる無粟浬粟井を、世竹の〓内詭に於て反眉せらイq、とき、
此に時雄の理式に伴ひ二二世講彿の出現的思想は必然的に闘促し舞ったりでふ∵㌧う、故に三世諦俳
の日脚想ほ世竹が現尭彿としての法性自醐の必然的開展である。一柳出世の成追は、そのま∼三世紙
価の椚現ヤ〓髄し鈴ふたので爪∵b。げに厘飴彿従に於ては、世骨の現身の成迫はそのま∼三世話俳
粥絨博の河合抑に拭て
糊の
で
現根は
ある、それ岬へ三世の㍊想ほ敢て絶代の桝珊⋮大雅m仙想を作っての発足でみ一心と兇一小の
わ〇3
53l
西成件の阿含経l二次て
三〇
は世事成迫の内容を洞見せない管見に過ぎないであらう。この大小峯経は明かに現身智以て無名解
放に入って三世諸政の僻国正を澄明し鈴ふたのである。現身に﹁峯性﹂に入るとは、肉身と話法賓相身
との一致の惜射でゐ争▼無用解脱捏柴の内容を消極的否定的に減照せしめんとせしものが、﹁塞性﹂
即ち﹁興野軍不抽倒Lである。その内在的賀和身を積極的に減現せるものが即ち三世講仰の出現で
ある。此に三世といふ、即ち三界石秀の世界は必然の開展として無限に創生せらるるは言ふまでも
ない。この意味に於てこの大小塞辟の思想は粧て般若の思想として開展し、小峯損は小品般若経と
なり、否定的梢極の窓を以て五盈は1無所有の故に、寂静の故に、瀬棚の放鳥、無作の故に、無生
滅の故に、無恥渾の故に異如なり﹂とし、五鹿ぬ和合の諸法は侶名なれば、一切法は不可得貸室で
ある,従て、﹁〓朝はは異義衷の故に、性遠離の故に,永く顎紆の故に、不可持と名く﹂︵錮瑞相押︶
とし、﹁晒法翰Lの不可得を説いて、﹁世辞よ、大般若披雅蜜多甚深の中にて糟法輪り串は却て不可得
打了り。所以は何ぞ、此中に於て法として顕ほすべきものな︿、はとして示すべきものなく、法とし
不珪班の故に、硝なく遠なしl︵点測器誹絹粧懲I︶
て持すペきものなく、法として略すべきものなく、法とLて還るべきものなきイで以てぃ∵リ。所以は
。切法は聖荒壁亦板不滅を以てな♭、
何ぞ一
とし,五諏の絶対ホの不可得はその櫨般若鷲塞でやり、同時に1股苅波羅賓多代走講彿▼.り廿にして、
稚く世間許法華和卑小す﹂調霊欄裾粧、︶に至り、﹁加水は興如で爪∵り.五剋であ,り、即ち牡思ハ如で
6三池
ある、所以何ぞ、胱骨の説き給ふ如く、五蔀に依止して世聞の名な立つ、是の故に菩呪よ、五鑑奥
如は即ち腱川風如打アり.︵仙欄︶として、経験的現彗世界を此壁=定し、こ、に峠客の型式に件ひて三
花今身命を惜ま
世訴仰の思想を展開し凍り、﹁足の如く正法は即赴訴彿清澤法身なり。一朝如非は恭敬し供養す。我
今準串 兼務.′現在彿法Jで硫誰す、即ち三世評価清澤劇む痴話せんが謂めの故に
す、珍財親友む吟て、此法′で備推すべしL︵詣肛二︶と。小室鮮に1過去.現在、常雄の加水も等正兜
に著するところなく、彼一切は此異質塞︵容性︶を術じて賦倒ならす、軒並きて心解脱す﹂とある意
舵と舶應するを見らる∼であらう。此に壮竹の自党内容たろ正昭世非としての﹁法しは現法菓受の担
架が肉身に印したる法身となり、この祝賀の法身が即ち三世誹彿むぬ如し、続柄する輿嬢妙蛋の﹁室
性しであるところの般若甚次の意義を開脚寸るに至ったのである。阿介錯・り1小室綜﹂が小品般若経
基準大貧∴望警雪右褒異無兼彗畢先客、本陣巧不可揖基.等の∴一十三仰
西緻停の河合握lこ統て
す、色帥是蛋、容即是色捏了り乃至受、想、行、融は即ち足れ基なり、蕪は即ち赴it受、哩行、諺な
の葬説となった。而かもそれ等の基は五放流如に外なられもので、﹁dはホを断れす、隼は包む離れ
呵・亦牢内外年
恕の総説となつた所以七丁附せしめらるると思ふ。阿企緯の﹁葬性Lは大晶セは非苗に鋸催して、﹁内
辿り得るとせば、阿合紆の﹁大益鮭﹂が大品般新鮮の底本となト/、之に休て﹁轟蛙Lを常定的砧棉机忠
の底本となつて、否定的椚挿的詮衣に依て般若眞如の光明非を顕現すろに至った揖想開展の維蕗五
ヽ
内蔵件の阿含柁ド就て
三二
以上の如く阿令緯の大小客麒の忠恕が、大E⋮、小品両般苅緯の根底となつて、大乗数や、錯土敢の
めに、東方堪怨批界に現任せろ押迦草月如癒と、両方棉製の㌍飯石−死とS物語を述べ鈴Åのセノ直る。
と彿身舶とに対して不布と獅課の心む恨き、その囚繰を世竹に閏へるに封し、世事は行弊害︰距の
に今話菩薩の鶉めに大股君波雅楽多を説きて住し鈴ふ、彼握に術慧巷躍ありてこの夫元大地の縫
ろを鋤講すLと。かくて十方彿閻を顕現し、﹁西方極欒世界の非職浄土に賛微如凍の出現と行了り、現
常に現在前に於て諸彿出世に岱拙く雁事し、また描く正江愉を柏じ、般担架せすして無駄衆を度す
しめ、乃至繁く線超法門・£且課し、無連体園の大願を硫安し、十方無数諦俳に於て正法を等挿し
至薄く有情の心術趣を知り、撤妙慧お以て之一甘皮腕せしめ心無望凝を以て、最上舶⋮生法寧で成
如く・水月の如く、響の如︿、蕉華の如く尋香城の如し、幣束賓なれども、現して宥に似たり、乃
見るe今大船岩折節一粒の﹁初分線起品﹂には、﹁話法門を観察するに幻の如く、陽微の虫−1く、夢の
いが、五悲説は糾合攣じは握々に十二同線の﹁名色﹂の説明内容としてゐる詔文は甚だ多数に上る
二因縁の1名色Lの内容で爪∵ろ。用法輪経では十二因線の名捕はぎh︰〃雲ggP以・外には現はれてゐな
げに世令は正史の内容Jで五群比丘に開演し給ふに閉講五盈説でぁる、この円浦五盈説はその折は十
防塵と鶉す、此は根名暫有す、之一で姦と謂ふ。此は仰名を右す之一品受悪行識と謂ふ﹂鴇醐脚描︶。
♭。何む以ての故に、舎利子よ此は但名を有する藍州つて菩提と頒す、此は但名′で有すろを謂っ
5:6
直接の端麗地とハろ陀所以であると思ふ。阿介の客維が現身に於て室性に入り、血⋮璃提琴
たきフた正睨的世尊の自㍊内容を世舘白から反訴し鈴ふとき、そこに三世講俳出現忠想ぉ経
しましたこと一で物語ってゐるのであ一匂から、是尊大小両賽緯の思想が無仮に闇屈して大り仰.小=⋮面
相の般若竹#諒となつた緯路は必然的流れであることJで認めしめらる。
この外に梵巴の大小賽絆は大抵は一致するのであるが,申たは舶腰せないものも存する。減決南
澤では丘丘等が溝論の封象とせる論題の細魚は、王諭、賊誼、岡評論、飲食諭、衣服論、婦
評者阿緋、I!−世尊
り、冊草江衷現状光り。世
〓く、裡尊に描法ゆ根本光
箪dゴロ忌r,bが呂te、
じ訂日日阿世訂gPT巴Fnetti露出ざ凋写p首p阜琶云已こ
坦首唱畠邑J旨㌻冨nO、b訂ロす
丁
克女諭、炸女諭、壮m鱒邪温諭、毎諭、不諭諭の十二部であるが、巴利似では九部となってゐ。匂
の相違である。
自、世尊粟二法本︰
辞任侠止耽ろが故に、世将
室す唱妻n−P伊句作巨pPtib富tGe︷転PbF賢一P諺p︷声0⋮
ヽノ
︵
巴利大空紆
馬一I・津基漆山世尊、
に山てかの蕊覗か比丘等に
申訂噂雪邑025bJi芹訂d訂︸・en夢ヨiti・
戌博梵諸人空痙
畔舶胱之.我†阿
沌く説かん︰己わ以ふ。
漆謂大空細
巳、裡躍如謁。
この世竹を伏根︵聖︼i由0︶法服、法依︵R昏・pp︶とする思想は、現身彿と法身彿との舶即を堀野に描
内蔵#の阿含維ド耽て
現し給へることを詮はし、法性と塞性とに同一眞如嬢を撤寸ものにして三聴講彿胚肋の根本
n27
528
再絃件の阿含拝に就て
三日
あろ。そして﹁綾根.法服、抜放.﹂は十二同線閲椒の綜趣として阿合折の踵々に説かれてゐる。雉阿
合粧第三の第十丸紅、同郡この節二十四郡、同窮十川の鑑三折、二絆、経緯の三択、中阿合辟琴一
十四の﹁大圏紅L等にも同抜の説明ふ∵り。
上水叙述せし如く、北柏梵巴両群の向合鮭の中に於て、巴利語の滅罪は簡潔肝裁にして良く巴利
脱典む澤嘉して洗仰せろに拘はらす、発語激評は之を洗繹のと封拉すろに、両蕗本のま繁文に於て
は令致鮎を見るも、概して撲詳阿合緯は文事根弼煩冗にして郡派の影響で受け化るもの、或は種
或は地方的よ
々加工鼠入の痕折損なからぎろを菟兇する。是等耐棉阿令担が等しく同一梵語謂に依りながら、減
沫雨阿介群が斯くも和述をよはせる桝以は、その続梢の紅池上に於て或に部浜よh∴
らの種々の影婁一で受け、光比減三相阿介錯が阿︷‖※純基を中心として南北両印度に梢挿せしmに於
て樟化一で受けたるもので、耐かも梵巴両珊、市骨柄阿分粁以上に、更に相澤鶉の頂鮎的正接説法一〃じ
稲蛸したる阿合板聖なるものあつて、その阿命樟原理より泣かったるものであるかの 如くm心はしめ
らるのである。か∼ろ推定は阿合金部の開緻ハ与る綜介的研究・〃﹂保って始めて尊兄せられるであらう
が、今は只それらの推定に止るの∴でみ一分。見い﹂角瓶愕先払雨鐸山阿合維によりて、後代に於ける
大乗思想撥展の経路一で辿′︺に恰好山史料的典掠でみると〓心ふから、貧弱なる耕究ながら、敢て之を
終末寸ることゝしたのである、謹ポ之を許せられエ。︵詔鵠馴︶
ぁごミ
アイヌの守護前に放て
金
田
一
京
助
アイヌと交際ぉしてゐて、常には別にわれくと縫って屠るとM心ふことも無く談笑ぉしてゐるが、
か∼る坂の塵に住んでゐた頃、日高
ふとした郎の折に、物の考へガ、見カ、同じ太陽の下に同じ客気を吸ひながら、かうもかはった世
界に棟んでゐるものかと不〓仙誠になることがある。
此の前もその中め二であ一っ。私が本郷眞砂町の射吹町へ下り
アイスのユキが、或る口こんな恥■ざ云ひ出した。
ュン舟∧1
﹁此の頃変るく死んだ人を夢に見て、醗具合がわ一むい。此は多分この家が、坂の口にあるが、年
†﹂′−Iケシ
寄遽の言薬に、山麓には根性の恋い邪耐だちがいつlごい居るものだといふから、そのせいに速ひ
ない﹂
私は此を開いて、常戒をした。それでは此家を移柚でもしなければ、此の一女は私の家に居ないだ
lノフかと考へながら▼﹁では卜Lうしたらいゝか﹂と串ねるト、
﹁どうか私の誰り紳へ御酒を吊って粧をつけてやりセいj
▼イヌの咋凛紳に耽て
ら30
アイメり守絹紳に眺て
といふのであつ化。
云ふがま∼に晒一で少し⋮liつてやると、行李の中から、古つはけた、一寸納豆の琶みたやうな物一ピ
牧山して、第の先でその上へ晒一堂滴らしてゐたり︵女にから別に新調らしい新詞はわべなかつた。ア
イヌは、輌へ斬詞をのべるのは邦字めみのすることで、女子にはそれは一切クブーであるから︶此
はアイヌのいはゆる洒滴︵アイス吊⋮︵蒙Eハ芦︶と云ふ隼Jでやってゎたのである。たつた物の三分か五
分もさうやってゎたと思ふと、﹃もう此でよい﹂と云った。二三‖立って、醗其合はどうだと尋ねる
と、﹃すつかりよくなりょした﹂﹁夢は?﹂と聞くと、﹁夢も見なくなトょした﹂と云って、すつかり元
の′快活になつてゎた。
た\ 護り榊■でば、その時から荷物へ綴はすに、緑■でつけて私の家の子供墨両天井から口目して、
子供山手の屑かない露さにぶら下げて置くので、除桝の子供化ちが遊びに凍ると、﹃鼻なものがあら
ー﹂﹃ほい何だい、此は?﹄﹃捏櫛ぢやないか!﹂うちの子が、﹁此はアイヌの紳持だよ﹂といふと
﹁榊撲?﹄﹃撞だなあ!﹄﹃汚い行ごの!﹄と云ふかと〓心ふと、﹁ホイ榊柁−・翻蟻!﹄と物尺で突いて見
たり、﹃そつち向け1﹂﹁こん行こつち向け!﹂と、ぶらくさしていい玩共にするので、ユキはそ
のたびに凧ハ亦になつて怒つだ。うちの者が、ヲJん咤題へ出して龍くから慕いんだ。そんな大串なも
のなら、減まつて催いたら﹂と注意ノ竺9ろと、も少し蒔くmつただけで、減ひはせすにとうく鐘
6:
るまでさうやってゐた。
ユキはリカル.ハといふ〓詩人を父とし、クックノといふ日露女む櫛として生れた生膵のアイヌで、
村の坤校へ上ったから一寸手紙も脊き、和人詔にも熟してゐたが、信仰はすつかり菊田をそのまゝ
佃へてゐた。雨細ともに世を去って瓢妃だつたので、村な出て内地へ凍る肺−後見の叔父が.その
放桁を心配して此の誰紳を鬼に添へてもたせ、串があつたら、御酒を舅ってさぅしろと敬へてよこ
したのだつた。アイヌの惜はしでは、家の一等奥のソー.ハーへ基を躍くのでぁるけれど、私の家へ
凍ては、さういふ青ばけた緋よごれのしたものを、さすがに床の間へ附くのも遠慮ではあつたが、
さうかと云って、勝手のすぐ次の女中部屋のn分の押入へ置いては料末になるし、又い∼加減な越
へ催いたんでは、その上へ不川意に物を置かれなどするのを来泊った。それで次の間へもつて宿っ
て︵偶々私の家ではそこ一で子供郵相王してゐた︶、そして天井から吊ることによつて、上へ物など載
せられないやぅに窺お配ったものだつた。
経り翻の正概はといふと、萄くくすんだ大きな鳥の所骨だつた。幾代前に掛ったものか、糾った
l十りヽケ
刷り北が贋某になつでゐる上へ、今度の門氾のきはに叔父が掛けてくれたといふ新しい刷り北が少
し抑ってゐた。鳥は何鳥かと尋ねたら、和人語では何といふか、オンネチカツ.フ︵老鳥︶といふ鳥で
ちほー†り
すLと去ってゐた。信天翁らしい。長い堺の光二寸ほどを出して、あと全部は川北の小に隠れてゐ
アイヌS・守護紳に枕て
532
アイ∫の守掃紳に鋏て
るから、一寸兄には何物とも分らない鴇はのものだつ化。
ユキが二年にわたって私の窮にんるうちに、いつか内用人化してゐたものと見えて、︵子供部屋へ
這入る増ゃも少かったが︶翌年緑園守ろ膵にはあわて∼荷造♭■イ■して、うつかり潮路′で天井へ吊し
たま∼忘れて締った。暫らくすると、大府鹿い手紙で、紳描を置き去りにした自分の不心得、それ
について叔父に大竣怒られ化こと、大草にして法り灰Lて閂ひたいことなどオ云ってよこしたから、
私だちは和様一で北︰留小包で送りといけた。
′!♪ウキ’
此−ふLリ十年も前の大正二年の夏には、ユキの父のヮカル.ハが私の家にゐた。ブタル.ハが此の時に
もつて凍てゐたものは、鳥ではなしに、老狐の研竹だった。やはり同じ接にすつかり刷り北で包ん
だもので、口先ガけが少し品はれてゐた。駿い薗が喰ひしばってあつて、処には長い大きな牙の見え
る硝子、如何にも古奴であらうとM心はれた。ワカルバの言に捕れば、此は年を枇った弧ほどよいの
アイヌは此む二慧
で、尻尾の先め二つに判れなどしてゐる︵狐が年を取ると、関々さういふのがあ一る︶はどのがよいの
だと云ふ串につた。道中へ侶る時のみではなく、村に居て狩誠に出川けるにも、 エカナンべ
︵背で摘んだカノン梯のもの︶へ入れて持って歩いて身の護りとする。どららの方へ行ったら独物に
蓬ふだらうといふ帖︰仏ど、これに何てその方向を決定すると云ふ。その方法は丁寧に判り花の包み
の中からそのされかうペを引さ出し,その下顎骨だけを悲して取って之・ぞn分の賄の上へ硯せ、自
63:
然にすべり落としてそれが伏さるか、仰向くかで、何れかの痩を選ぶのである。伏さるのが膏で.
仰向くのが囚と侶じられてゐるのだつた。
ワカルパは私の家に滞在中、やはり二三埠1れを取り出した。占ひの綿ばかbでなく.漕があも
探沈なる紳、
ー
ントンべの甜、払扶盲かた﹄へ呈しと讃へ
時に、刷り花のまヽ相席へ持仁山して凍ては洒晒してそれへ新調Jイl膵げ/l、−してわた。新調を唱へ
トスケウトム1.シソチウビトカムイケ′︼ンキクル ろ時に、この紳へ呼び掛け牟郡には、﹁占慮の深沈な叫
て呼んでゐた。口端これを碑邦守五時の新調の楠桁丁二二の例■で難げるならば
OL−iニューーー︶き
とはお前の締で、
占巫の侶損め
Hne一っ芦kl拐u
紳の御代から
T毒1kel一t已hロ
︼パPヨG⋮〇三宅DコO
紳なるシトンべ
オイナ仰の
おかれ托が
吊P日1︼i鞋七日日罵
Oi〓a訂臼已
Ae訂ra才一一Pユぎ
で﹂のるゆゑに
云ひ遣こし
巧eヨku∽口許つ
三九
心をあはして
Flni
人糊山井・:−仙かるやうに
丁一﹁文
入関の斗に
丁一﹁ヌ
われ′−、lの護りと
ごごn巳﹂l
C仙︼ik謀h⋮岩芹i
C≡ハヘーi仙Pk110ppP
々に
E打03kPmuiつ︶ハ㍍〓お前の弛紳
qr喜訂旨
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Ar邑
されてゐるのである。
こ∼ろ一ピくぼり
︸ハgt∈いPい計臼rド
A・軋︼iAkPrp打Pヨ声
巧乱打寓りP日日P
姥紳︵火脚︶と
卦i︰八一岩
Hg、日已H日払i
アイヌの寸簡*に鉄て
634
アイヌり守詳紳に耽て
舞i宅P enkOre︶1岩−まもつて下さいⅠ
男e弓P kusu
ei−1P k仁巨ui
他に及ぶひと悠きおかた
それはある、
オイナ榊の
Oslli已li仁甘ぎ
王〓りll
一己ハpPWeどk
l︷○苫P
深沈互る翻.
燕占りm心慮の
言来の口のかしこさ
云ひ通された語で
ある帖はまたかう云った。
トat≡ゴ邑l ︸昌−・ll
法彷の思慮の
Rc冒〒−ハ邑昌e
かつはまた
i訂k
ソu−⋮⋮︼ハeut与一
輌なるシL﹁ソべ
甥eざi臣mPど
担ハOpllnki−1e訂已 見守り束Jでつけるやう
k焉u、是沃きおかた!
kelltum
︼ハ≡望i伏Eど2−毒
おまへに祀邦をする。
よりして
Eclli・k00︻l打P日i nP
OrOWpnO
した汝でぁるから、
lttlI オイJノー︺町
人閃のたましひを
比ki
守護・好
●
Ai≡l汚re日日打
云ひつけられて承諾を
Cll詳〇㌢ir賢k⋮
Oil︼竿灯寧日已
RO︸Pi昏h付記
我ら先剋よ卜代々
まちがひ無く
kusu
qr∈︶打芝芦
王Tまへに受けてゐるのだから、︼ハ弓i㌢′kき
P一言
A仔−′l三・∼L2日︼l小r
︼ハ○て⋮−−Lニe
見守り封をつけて
わたしの一塊のうへむ
yPゐ
巳てくださるやうに!
只コ等rEゴPk打琵r︻
WPen打Ore
6:i5
此厳にいふSbi邑kiといふ語が即ち謙るといふ語である。そして又この刷b花に包んで持って歩
く頭骨を、基ほ鳥のでも老狐のでも等しく此の語で呼んでS︼−il−邑ハ〓ハ買ぃi︵守護醐︶といふのである。
ワカル.♪の此の護り紳はその稜私の手に入って現に私の所蔵になってゐる。北ハはソカル.♪は私の
家から掃って問もなく病没したので、三年S′柁北ハの村、rで訪れて駕・り一軍営んでやつた梗、ソカルパの
サバウノべ
兄のりてトムリクク翁が私に之一ど、牧人の一冠と一所に英れたのでぁる。呉れるについても、クトム
リククは、英れてよいか悪いかを基曲廿で占つたら、靖と出たので決心したらしかった。愈々私へ
手渡しする時にも、一腰刷り稚からはづして覇へ収せて占ひぉし返した。私沃欲しかったから、ど
ぅか甘く伏さつてくれと念じてゐたが、信仰の無い私には、淵で見てゐて薗頼くてしやうが無かっ
た。若しコクリと上を向いて落ちでもしやうもの互ら、﹃英れられない、﹄なぃLと課返りされようも知
れなかったから。串ひにも、ポタブと下へ落ち化のセ見ると、代さつた︵欝をいへば少し描仁かし
いでゐたので、いけないと云はれるかと、はらりとした︶。クトムリウクは、コしれだ、叫べんやって
も伏さる﹂と邦語しながら、丁箪に元迫b刷り花に納めて私の手へ循したのであつた。
SFitロm罵︶もあるから、黙狐に隈つて呼ぶ翫ではないやぅ
Aiごu・E=牡iム→J⋮蔓買羅臼iaO−−Pr﹃には、識犯し﹂澤してlゎる語がそれだ。花々の
さて普油に狐のことは二−ぎ==u又椰太ではSu−n弓i︶といふ。此のシトンべの評議は、よく解けな
いが、ノチラ博土い
閃く口柘の側承に阜亦いシLrソ.へ︵lHure
アイメり甘構紳に耽て
3
虞V
﹁U
′イ’の守甥紳に捨て
であるが、かく渋滞されてゐるソトソペそのものは亦の方ではなくして熱の方でぁるから、結局S宇
t.一一ヨ罵を累犯と繹出され化ものでもあらうか。要は年古りて霊力を具して、さきまで見遣すものL−
信じられてゐるヨ羞狐﹂一軍軍敬して呼ぶ言来らしい。
何が故にこの措の老狐がかうして入関の誰榊として大串にされてゐるかは、地相にアイヌの
開かずにゐらが、彼等の信仰S典捜となつてゐる数多一三岬曲の中に、入組アイラフックル︵即ちオイ
ナ紳︶の妹が、川上の山の赤岩狐の意刷の群に醇はれてしまつた時、群の一軍天措の爪⋮老弧がひと
トごとれ一で保護して、従わ女■い塊晩七赫長い筐の巾へ秘めて定いて、オイナ紳が頚ひ起し
き、渡してくれたお蔭で、妹が又この世に飽き返ったといふ青侍があるのであろ。︵抽無二フ︰1そフ
ツクルの仰視﹄葱昭⋮︶此り仰はソカル.ハの没後▼そい茶畑クウクノのHから撃記した絆舘の一つで
Jのる。不幸にして物語の木棺に、一般的な結局でやっ揃の﹃以後、黒岩犯が人用の眈方として−入
関の珪介.で加護する?フに的黒むし、人間はオイナ紳めこの総革から、盈老琴で甚“邦、・与るやうにへ与
ったのだl一し′而加さるべき孜訓的ぶ明の箪でI−けくことJぜ符丁、甘かったのである。叉舅端悠オイナ紳が
よくかういふ物語りに於て、怒りの勇成僚って助け化常副まで併せて斬ってしま・でことも
も物語の理で/あ播箪でもそのよくある型む蟄って、やは卜摸弧セも赤ぬの零さぞへに打殺しに
ってゐるのは、偶々他の相型に炎されたものと考へられる
といふ筋に圧つて.才一i仰がそこり寝で結
Ei37
のであ去●
さてかうして、ぁるアイヌに栗鳥.あるアイヌに老狐が護b頑として常に身に流へて蔑称されて
ゐるのは何粥む物語るか。或はトテミズムの棍跡・ギ愕へてゐるのではないか。クックノの伯承は偶
々その老狐トナ⊥端の▼カ∴一昔佃を情へてゐたにけで、或は霊鳥の方の僧へも、そのクランの聞に憎
承されてたものが、偶々絶え化ものではあるまいか。÷れとも何握かに相和してゐるかも知れない︵
サパウンべ
同じ型の物語で、フーリといふ大鳥が人間を保護して、以後丹吊邦字フけてゐるといふ紳拍も存する
ことなどから、さう想像されるのである。
椅赴・り紳の箭Jですれば、構の頭の形をつけてゐる冠、文豪にゐるときは筐に入れて枕にし、速
い放に出る岬には袋に入れて持って歩く肯い刀などの盟物さへ、アイヌには謎り紳と輩へられて、
ヽヽヽヽヽ
折にふれては報洒の諏一で受ける。護り副を澤山所有することが、抑も自身の荘勢宙櫨んにすること
であるから、アイヌはをの意味で粟を多く所有しょうとするのでぁる。安は単に我々のやうに物賃
00
ではなしに、鎚のあるむの、即ち﹃紳﹄と考へられてゐるからだ。
佃憑紳もその身につき添うTゐる一鍾の誰万融であるが、この姉は眈刑の私の﹃アイヌの面究bに
諌つで此雌には省く。
叔後に各家の守誰醐で、決して人にいはね朋があ一わ。此は剥から子へ何へで、その家族む誰つで
アイヌの守謳紳ド胱て
嵩バ
アイヌの守護甜lニ沈て
初四
ゐる韮い紳である。祭りの裁中に、他の耽刺を濯酒して新調一で絆げるm刷に、時に栖率で僻へて、麓
邦∵といふ。他言をすると抑制か失せると考へて云はないものであるか
ンカ
パセ′ミ
訟の盃でする。印して布い
ら、そ の新訳は容易に手に入れ難い。ワカル.ハの家のその護り紳は、抄洗川の上流のどこかの洞穴
の榊仁さうである。そこで幸運を浮かったことがあろとか、允邦む助かったとかいふやうなわけか
バセ†ンカ・−
ら、護り柵としてゐたのであるといふ。各々の家に署別々に必すかうい、ふ重い邦の仰があるらしい
が、今之で如何互云人の本に∵む、談前にも、この串だけは見えてゐない。私も今絃s訓究に伐たな
ければ詳しいことlまいへない。
639
般若経の諸問題
干
潟
予はこのほ規り†に椴普締に㈹Lて従来の学者り過撒ミ恩ほろゝ鮎か孔明L、Ⅶ耽ろ意止右加へ、健−1て従聴聞良ご光れる
仰天‡般署︵大股帯筋六分利應︶とS′ま︶ハ声.旨ノエ︼′・1・昌i苫ri笥己1押
梢鮎について叩か私lLわ純琳Lて珊猫補彦の尭正わ硝ほん寸し†るものてわろ。
﹁
勝天‡般若い原仙ハほ従非の叩新はぎまkr首ぎikr2已p弓i−う邑≡∴仕りとして居ろ︵而條博七大蝿緯
‖叙、渡遁渥旭氏新彿致蛮丸谷所載論文、宣Fパノ⊇訂rいP一首萱r買iこ然るにこは公然撲りであ
る。肪天下般邪は天‡︵冒ヨr昔︶鉢堵羅︵Pr宅弓㌔︶がま人公でめろに反しSll註ハ︼.ぎ︷小乙kr昌i㌧ariヨC
−1P︵善男瓶関節、以下仲兄ヰJの繹語を以て呼ぶ︶の方は北=醍なるSl=・ikrぎ︷い︸Y軒amニl︵滞勇独︶が
正人公である。托︸これだけを見ても両部の呑く別物なるべきに鱒つかねばならね、悦んやその内
ヽノ
窄で比梗するに於てをやであ・㌢加之、発頭瓶問緯を以て勝天†股邪に舶臆せしめし結某は二韮の
過失に陥って居る。帥、頂帆ハ蔀勇雅問揮はとりもなほさす大般弟釣十六介−ニ舶結するものである。
然るに碓雅の坪ポほ火般若椚十∴ハ分に和借する頂此ハ無しと見て居るのである。丑如二耶の過失であ
般若種の補間碇
640
般若#の譜面瞳
る。かくの如きは何人と雄も少しく膵典に親しんで物ぉ吉はんとする人の容易に教見し得る渦失で
あつて、別に大したことではない。たゞ予はこの過失の振って生じた原因を串ねて以て吾々後人を
訴むる鑑としたいのである。この狭を生せし救初は恐ら︿南條博士り日報であろうと思はる∼が、
きは南北評も読み、又、﹁彿普挿頭狂女薩芸々Lとして清排の般若府諭中に雁々引用せら㌫ゝこと迄
汲速渥旭氏及フレザー氏の説は全く而條博士の日報に離されたものと思ふ。殊にブレザー氏の加
博士の頭数を得ば串非の至りである。
掠につき博士に抑伺ひしたいとM心ひつ∼今迄その機を得なかったのである。串にもしこの機に於て
一つの偶として保存し・でくことは捕如何等か又益する研あらうと思ふが故仁、予は撃しー㌻りそい根
根抹あるものと思うて居ム。そむ根披は佗とひ今日よら見て撲れるもので争わとするも、それ白身
怖土が何故にかくいかき訟を焉されたのか、糊士の如きカがかくの如き説を侵さ一︺∼以上、何等か
に
鑑としたいのである。
らすんば新常倍すべき入り託と排も必や自ら今∴腰衝祓仁由らざるべからぎることを敢ゆる釘胸の
むしろ子はこの過失ノで以て、何人にらとも他人の説に掠る場合には必すそり挟撃で明記するか、黙
は輔仰‖餓に
射す乙過信も甚しい。予はこれ等光兜の過失を敬くJで以て本懐L与・るものではない。
指摘せるにもかゝはらす、獅且肪天王般新を以て梵文Sllノエk2.旨墓ハraEiと同一として居るが如き
) −J
84l
︵
〓、大股若窮十一分より節十五分迄の酋腫澤
社務この部分リノ両肌繹は不明とせられて居たようである.︵鍍波面弛氏読、新仇永由丸谷所載︶。
腫普碑の補間用
Hく・Ⅰ︶に五披抑訟雑︵望⋮。γ什u号り一iニ・pP−首b計〒盲︶なるものあ♭、こは
現存般若講繹兜撲滅対照叔、
以上是正せる鮎と新に曹見せる鮎と及従妹明にせられぁらし釦とぉ介して現存㍍邪諦緯の公衆を
甲
就評は予ほ未だ之・・軍曹見し得す、而して五t一曲は神棚栗‖性般若に舶借するものであ■ろ。
すと見なされて居托︵新彿敢釣九幕六六六封︶。然るにそは全く決トにて、邪伽罪利分に加管する閣
するを得た。両雄西成の五百相般邪は渡連弾血氏等の説ではむしろ大根詔第八分邦伽※利分に加結
こは丙減般郡部の銅七なる五市抽般訳︵盲・士官ロFこ喜gマpP︶なること此文体本坪尻しL共に符定
閲見口付般邪の西成繹も従妹不明とせられて居た︵普通稚拙氏瀧同L⊥、き冗領亦紋とす︶。然るに
三、閉畳∩性般若の西城澤
僻純然巾にぁろ同準兄に射し混々謝意を来し併せてその催楯を配したい。
発見したのでぁる。これ析守絨摸対照については勝本翔兄︹釣ふ研抱くない。こ∼に日†軟水宗故事
布施より稀兄造S五洪維悠を説くもの・にて正し︿大根苅の第十一分以下節十五分に舶粧することを
諸畔部︵早E。︶小︵ノ、CL
然るに予曾て淋本革北卑見山路助Jr得て酉叫批評減繹を網来せろ際、両班棚部い般若部中にはあらで、
ヽノ
詩
薫︶
藁︶
罰
曽つハ・r︰テk†号⋮ニて〒与︶ェコ・つp
nOチp訂品ふr召ヲち・
nO㌣p才占・崇・つこ訂・l戸
rJr〓︶1召乱立○チ苫.
︼ハ︼鼓・P︰ト・
≡〓コ・ごrgj・PP
−︶rgヨd・S−○−.丁つデ
許叉Ph已ニハ︺.
︼J訂・r〇︼⊥u・pす⋮n・p乙ひP占stPヲpP
三≡〓Jrモ,乙㌢−hcu,PP
rd?エe・れっOd一つP
アユ・ヲハP−︰︻pP葺汀ユ〓︰㌢
−左︼lでH・字Pい巳ilハンOr
ノ、エr寓C訂di打㌣
c︹ A4邑︼︰説rikン.
らA丈PS巳−P雪ごハ㌢
づPJ2Ti︰コかlいsンJ誓ri一〃P
曾ざ箪室・〓ハ㌣
冷プ︰号音.〓・巳〓it㌢
お寺洋当詣詔勅漫拝簿肇涌
般若搾り諸岡輯
64 先に掲げん。 C一
執
r︰三豊遥遠︵十
ド ヨ 福〓坤ハ〓訪印寸点︶
詩
P 詔 書川り︵−訝>斗貞︶
P ヨ 当店り︵−
ひ.司 等㌣埠︵>.Ⅷ﹁塁︶
P 司 醤㌍坤︵宗光H詐蒔︶
ヾ.刃 潔、汀坤︵鱒渇暗雲坤︶
甲 国 軍>坤誓宕肘望
P 刃 書き申請頚斡翌
︼○ 刃 潮十坤市村港岱
︼ド刃 潮十〓坤寄添
遡
〓−ヨ 習十・・坤謝旨好調韓や
−u.罰 等十川坤料因
召
刃
︼†国 璽十置坤諸株
︼ひ●刃 潮十印ゆ苛畠
均
八
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︹eワリ︰.iLけ・好打lノ・?P㌢
︵DS︶ ごJr墾g・竃・首・耳∵号?邑・官等㌢n・U乙て打r軒閏宣?トJエビ舅てりトナl才i・呈弓lノナ等温?日P・︵−き日韓−草I一掃巧︶
︵−っじし ︹e∵−ギi−・・お?H∴u・り抒・r巨・つP ︵〓十い﹁山持瑠︶
︵‖○︶ ︵elHシー?印∵りP一㌧i・日iい・PO・︵口氾霜瑠︶
︵Uじ NF・b与∵h漂け・苫.こ山隷書瑚︶
︵りn︶ ︹G・号り・r・ど?管bB−J.dP ︵噂埼茄瑠︶
︵∬︶ ︹er・p lざ1i?㌻りU?rd?几中 ︵降雪刊防州︶
拍新膵S描問拍
♭1・1
般若柁り緒問題
︵望︶ 召7等号†乙つ・ユ?り召P∵︰三谷P2 ︵斡ヨ欝買輔︶
串、県北・光翫梢股岩について
この二木のヤ.光漬は節骨七〓州迄を存し以下を快くJで以て充分の議論をすることは出家ないが、
しかし現存し︺ち部分より頼諭するも大な一心退はみるまい。
二分︵二萌五千碩︶の
さてかくして兄ろ障、光㌫に大根に放て放光より抑t駅長なれどしかし大凡舶等しきものと見るに
何人も異論はなからう。而してこの二本は従妹什謂大口州債浩帥玄非鐸大股新第
岡本⋮誹ハ鐸とせられて居た。然るに今その内容智見るも又古人の説に依るも必ずしもしかすべきにあ
らすとm心ふ。先つその内容■竺見るにこの二本は何れも什繹大=⋮又は非揮⋮射二分に比し甚だ苗鰐でぁ
︶
G
シュり−カ
る。ひしろ非繹箪二分︵二流八千瑚︶に舶等しと思はる。又道安の摩綱般那緯抄ル︵結∴閏○︶によ
一里にー班元十人年相丹羅抜㍑山浦解せし胡大晶は十七千二宮六十竹成と二十七字み♭て、−こは赦
光光誹り文句凸〓〃∵牛明仁らJγ桶ひ得るものh仕りとして居ろ。而してその文面よりして道要はこの胡
本一ピ王lて赦光北誤と〓紬sノものと埠﹁一〓,りと僻し得る。しかもこの胡本は所祁∴苦八†拗に舶常す
るものにて決して二流五十頼に近しとはいひ得ない。印赦光光識楠本の・文句宥〃不明なるを祁ひ得
るものとしてのこい出火〓仰が一骨封入†蝕に近しし÷ノるならば、赦光光訳の原本も亦一苗八千疎に泣
きものでぁつたと推定するに何年不都合ほみるょい。故にナは赦光光昭は什繹大〓⋮非澤第二分の同
bll
本邦鐸といーl川エリも非澤須二分即一鳥人千妬般若の英評といふ方が現在としては溝助ならとM心ふっ
ヽ
■ヽ.レ
こヽに於て鰐殊鮎澤捏二分小黒詩法なしとせられて㍍た混は縫化されねばならぬ。されど従妹疲光
ー■−−■−
光揖を火=⋮の⋮ぺ鐸と少し殊たことは必すしも理由如きものではない。帥玄俳詳鋸三分の出る迄は羅
什洋犬‖⋮に近きむのに里人〓川里澤といひ、小=⋮に泣きものに川〓小=⋮墨詳と閉って居たのであつてそ
れで別に差文代ないのでぁる。たぃ俳繹第三介が出で、面舵詳も対照t得る今自と行了りては、今少
しく梢紳なろ㍍むなす必要めりといふのみである。
六、般苅繹の原形について
一口に般邪絆ししいふもこの部放に梧せら一〇べきものは別表にもホせる如く現存せるもののみにて
も二十怜相の多きに上って㍍ム。従ってその内春ほ多種多膵でぁつて大は十萩城四有無の大本よら
小ほ心錯一字机弟冊イの如き僅々駁祈に過ぎぎるあ♭、或は有利弗膏現等邸開の溝躍するめり、文殊
苗㍊もあれげ天†川も直り、中上は紹剋系の思想もめれば文金︿和屈部に屈するもあト′。従つで般
弟経木妹の肘想は来しT両揖−二存するやに迷はしめ、もし不川志に之に射すろ畔け、大小介せて八
市怜谷の般新大H就の・前に託ちて井守はた一見然果すなさに鎧云のであぇ。そこで吾等はこの多榔
多柁なる大望融の中、何れがその緑木のものいでるかむ棺腿守るに舶に一椰の閲減知津な要するので
ぁる。予はこ1に1璧小掃の頂形についてLなる超の下上この問題−二附すろ先端い説を椚水しっ∼柳
般若種り描問規
招著経り細岡遁
局同相︵十膏嘩
二萬宜†項
二〓八†叫八千頼又は一苗蝕︶と兄乙ことが日学山。従って川趨は
いと揖ふ︵他の分に拾一㌧も常哺沈高二〓⋮ノで略せ乙と川じ墨伏で︶。笹∵しヰ分即五細めりといふむ結
次節である。釣五分に㌶四分り随軌晶に加持するも山一で撒くもこHナ鉦が謂い際に略したに過ぎな
の再ポは梅空し和紀きものでぁつて、従って現存死文Ⅲ皿ハはその〓れに比はすやらぁ
この川迅を決するに借り、瑞胡に三〓してむくペき〓大協邪H川介しし招五分との〓傍でぁる。こ
いふ古称の蒋初の閉路を決するこトし︰r〓舐るのでみ一U。
ものであるかといふことでJの一心い点しこの間題む決定せは般誤用小小兼山〓ル悲は〓れに捕ろべゝJかと
る囲と‖心ふ。そこで次に導小用迅はその前一拍印大般準則五分に舶結するものの再何.㍑が西根本の
一律の何れもは前一朗S川違わ相承せるポといひ得る。以上再分封ほ大悟に於て準者り一致して屠
クリットの散文でJ︰りhノ、後山狩は撒女山中に偶ノピ泥すらもい多︿、そり思想内容よりいふも火醸接
に過ぎす、攣り一出の一々に︵廿絹証せるものでそり問殆ど‖等Ⅲ怖J〃バわせす、荊一類は全部サムス
柄又は大部故新和とし、綾窄で罷りに雅邦般若摘と〃1r.っけん。前の一斑山一々は同一のものの横路
するものをl新とし∴如六分以下に舶碍するも・仇叩∵−の化とノ三和とす′㌔前ポピ椙りに根本般新
まづ〓十愴用の放射攣b、その佳砦よりして大腰字竺一拍に分ち得、印、大根悲の胡茄分に軸給
か私案な提出したい。
鋸8
84丁
この囲相関の阿倍に限定され一クーとヽなろのでみィ弓。
さてこの閃相関の椚橙について、従輿二拾の訳が・直ろ。一ほ、小なるものより次損に大ぢるもの
へと椚大されたと悠ラもの。二ほ、その反射に人ワリも?√“り次別に小なるものへと紺少されたと
与一qもの。三は、鍛大行ろものーLり他の各々が間宜にそれ′\鮨少されたとべすものでぁる。節一
の訳−1椎昆博十海草大齢習及別荘大薦繹窮二幕序文︶等の説、釣二は波浪渥剋氏︵新沸教第九聾︶、
ミトラ氏︵梵文人千餅般邪肘駈け文︶の・籠であち。節三は抽に之ノで1亡す人とては無けけど、支造林大
小〓仰対比禦抄圧の説い如1Jはむしろこの小に入一〇べきものと思ふ。
節一統か・なす綻嫌い軍都い諭損は基本明瞭でめるが、しかしこの諜の県有力罷る根掠となり得べ
きもい持せ耶繹捏史上の郡邪でぁる。菜し支那評打出土に於ては、小‖⋮に加肯するものは已に︼七
しれ
もの、
二牢∵即、狛支那謂粧史上最初わ時如上於てめト、放光、光識︵従新大=⋮に加萬すと見ら
予の一都八千邸に舶借すといふもの︶はそれより市隼以†絞れて初めて煩はり、頂大木︵十前掛︶の
如きに玄型の峠初めて之む見る。この瓢よらすれば小品に利器す一?ものが最初に珪じ、モれな基礎
として次斜に大なるものが珪じたとの説は成立すろ如く見ゆ。されど繹締出はそれのみむ以†唯一
の諭撼とすることは不精である。何となれば、抑繹あbといふことは少くもその帖盗にその折の存
せしを和し得るも、繹如ければとて必ずしも頂此ハが無かったとはいひ得ない。泥んや吾々は錯辟虹
膜若揮のl市岡度
朗8
般若経の舗間組
五四
を考ふると同帖に宗教的伯掃出をも考へねばならぬ。この鱒£憲る時は−たとひ本典は印度にあ
bとも、そがあまりに購大なものなる時は、交池不便な進路への佃抑は小作困難なるが弟、その大要
一で抄出せる加・さものを先つ最初に伯へるといふこともあり符一りと見ねばならぬ。般射程の場合に於
ても、已に一七二年以前に大へ甘心般若が弄して居ても、それ一で伯黎するに困難だる折から、先つそ
の票◆で取った小品が丑初に伯へられたものであ・るとも考へらイ〇.り故に薄躍如による根櫨は比段的有
力なものではあるにしてもこれのみを以て諭するわけにはいかぬのである。
第二の説の従妹の坤老の諭漬は大撃一つにいゃる。そのHは竺の訳の論破に用ひられたる経典侍
撒出の考察を韮んし、殊に捏典誤邦紅典受持情括生商潤する般若謹本凍の性蛮より諭するものにて、
印鑑典の受持楠撒といふ口的からいへば十萌頑といふが如き人部のものではその日的一ざ超するに甚
の
困灘なる研から、次第にその鞘婁を失はすして而も倦掃に使なるものを作り、それを普及せしめん
との⋮辿動り結果、次第に大なえTbのより小なるものへと粁少されたのであるとするものである。こ
︵
の諭はは・タグ薄キになし縛るんめと思ふ。そのコは吉相に従ふも空し、印、迫安の追行辟序︵結一、
こは古倦でぁつ
三五左︶に﹁俳泥日経外刷高士抄九十葦鶉結ゎ=⋮云々﹂とめり、又、文通林め大小品対比菅抄梓︵鉱一、
四二左︶に﹁骨脚光蝉北ハ柏云、彿去性根杜夫品之中抄出小〓⋮﹂と一りるによイ0。されど
︵
\ノ
て兆してどこまで信じ得べきやほ旋閏でみイ0。その三は本文批.抑より諭するものにて、即、小品
文は前後菅尾備ほらぎる桝偶々あり、必や何かよら大なるものよト抄出せるものなりとの跡を見出
叩
し持といふのである。このことは大悟に於て予も賛成し得る所であるが、しかし未だ甚漠然たるも
ヽノ
のであつで人むして充分に信過せしむることは旧来ない。
第三の説け文通林対比型抄序︵前拐の旬の綾に揖づ︶に洩りて、かくの如きも一考察であるといふ
牽不すに池ぎない。未だこれ以上この説一で成就たしめるだけの根城は無げられて属ない。
沼帯締の洒開田
閃和の対比研究は雄評に於ては玄批評のみに依らねばならぬこと∼なる。然るに玄興繹についての
繹を川ひ、仙は玄班の評七川ふるが如きは恍に材料の収扱に於て繰れりといふべきでぁる。かくて
べきは、その川ふる此ハ純は同一系統のものたらざ′小ペからすといふことである。もし小は文革迦の
これむなすには先つ阿椰般若経の由比研究から始めねばなら拇。しかるに之について節一に心得
らばその本文についての柵査研究の結氷は如何。
ねばならぬ。古何とか、評群史とか、樽柿史とかはたゞそのま諭披の祁助に役立っのみである。然
問題王射しては、如何なる説を証てるにしても、そのま諭披は之を本文についての約査研究に保た
にも北ハ油なるものでぁつて、一叩、本文についての精嚢の不充分といふことである。出郷かくの如き
で承視せしめ得ない。然ろ桝以のものは、その何れにも未だ諭城に秋薪みり、而もその映鮎は何れ
h、以上碓氷の革新の三説はをの何れも二膿は成井ち得るが如︿にして、しかも何れも未だ吾人むし
649
650
措帯締り措聞規
五六
研究結果が証ちに破邪㍍の原始時代い状居空ホすものとは需ひ得注い。何となれば玄娘抑揮は抗繹の
最初のものからいつでも已に約五汀年も彼のものでJのる以上、この糊お少り境化修飾出入は免れな
い。従って般若経の頂始時代の娘接が玄娘頃のそれと等しいか預かは問揖である。これが間組でぁ
るとするならば紡崗般弟折の掃射帖代の状債は不可知であるといはねばならね。されど純封に不可
知であるか、これを切りぬける迫はないか。この泣を吾什守は小品山異躍如正面の比較研究に求める
のである。el−、小品の最古評より玄葉辞に至る凡てむ比較してその記製なる釦、特に四相加九問の
封比研究上問題となる渚釦に踊して大差にしとすれば之一で挟械として支識鐸の小品も玄基線小品と
これ等誹鮎に桝して同一性質なるを認め待、従ってそれより他七新推し得ることヽな♭、般弟蹄の
頂始時代の状越を大冊彷彿し狩ろのである。もしこの場合右筑要なる訪鈷に於て小‖⋮和瓦冊に大差
ありとすれば関山は不可知として残るのである。兎に角以上の方法を以て予が本文棉査をなしたる
結果を左に掲げん。
︶ 一玄典繹初分琉二分須二分は殆ど全く同一のものの燐略に過ぎす、その何れをとるもその一が佃
︵
より新址を持ち刷るとか、特に縫化して㍍ろとかいふべさ餌は互い。従ってこの三封附にに何れが
先に侶戎たかはわからぬとしても、何れが先さに〓衷王かを諭すべき必悪はない科長でJ吊る。琉五
に節四分は前三分と大に堪り、従って問題は前三分の何れかと耶凹分との比陛に局限せらる。
651
′一■t︳ヽ
二筋四分が前三分の何れかより締少されたのでぁるとも、文子の反射であるとも、何れとも解し
︶
得る鮎歴々あり。これに二和め卜川㍑川分が前三分に比し文折鶴況なる鶉、時に文童の結郁ノ〃りー異に
し、詮無机衷・い相即Jで招二叉に帖せ一山−﹂と。︵例、初分数補数毘〓l;1.とこれに加ゎ寸ん吊両分と・い比紹
に於て桐新い異五二と。同〓附沃節目分にては締めて筒ポ∴して公く託現の〓Lい景作ノ∵良て説ける
に反し前分にて−1仰の歓呼ろ何字︿、跨トのガ畔に然り︶っ拘前三分にJ帝りで第田舟に全く快けたる
部分にして、一打としT或る柑腔造は必粟仁るも、必ずしもこれ無′\ば意味不明に隋るといふこと
尤さ鮎。︵例、初分節六現前舶〓⋮迄。以土二椰の釦は火行言ものより簡略にす︷り締に担へ又ほ略され
三第閃分.が単二分の川れかより締少改潰されたのであるとしか考へられ㍍・い鮎優々やり。印,M
たものとも考へら拉.又小なるも㍗で拡大寸ろ特に種へ又は脚鮒されたものとも考へらる。
︵
︶
初分洪三二こぢ〓術以下Lし.之に加常†ろ第四分との比轢︶。判決娘名‖の
一文の棉和一ど柑胱さす縛に軌数名‖S廠列■軍略する化・りに緋耶J£削三分のも・りしナり丁隼にし二桁力
を注ぎ居ること︵例▼
躍列に於て第E分は単二分い初め少しと終り少しとヤ雷=し中途哲郎げざやーと。もし初めより一文
として粘かれしもの㍍らば戯初少しJでi目し換金部中略して然る.∵1しに藍lトV︵桝、初分渋木二心“.
色非甚深以下の桝と第四分のその部とヤ比較せよ。=れに邦すやートしけ頼めて〃ソし︶何り基草り骨邦
不完全lこして出初より一持として準されたものとは思はれざる郡鰯々めること︵例、カ匪粥巧とい
椚著鮮の相関也
防2
埴菅柁の諸岡姐
︶
五入
鰐にして、又薄紙の差異よりして一見原文甚異りしにあらすヤし忠はしむるも、些細に鮎検するに、
次に玄集評㌫四分と克美識支譲等の音澤と皆勤比するに、此等古澤は玄張碓什・り滞に比して甚偶
は玄批評の場合に於ては決定し難い。
節二分又は箪二分から師少されたもの・と糾するが穏常ならん。而して軍赤、第三分の何れからか
問題でもない。しかし十茜茹の如き大本よ上肌Jりに八千頬に紬少することは的靴であろうからまづ
ない。然らば前三分の車の何れより凍れるかといふ鉛になれば、前述せる如く不明でありヌ大した
以上四項に械りて玄躾評第四分ほ繭三分の阿れかより縮少改造されたるもの打†りと考へざるを待
潤前三分は第阿分ノ品大したとしか考へられないといト姦は予は之を螢見し指す。
一りヾ︼ く附加物なる空不して軍U。何れも幣その諒となれるものーむ操想せすしては解し難い鮎である。
ほろ ぎはよくなされ程跡を示し、何問にこれ︰㍗少し拙になされ檻接を出して居るものと見られ、川は
薩不動彿固に声紋若を修行す云々の軍同第二十九晶l随晰品全部︶。以上四凱の内川は縮少改眈氾が手
すろものにのみJ・りりて前三分の由れにも無き郡争りること︵例、第叩分第二十人品の終りに香象苛
して布せしならば、その何題かに方便葦巧の何なるかを説くべき竿である︶。㈹第四分及これに相督
ゃして初分六十三〓川︵孝︼れに柵常する琴一箪二分︶以下に之を説く。もし第め
四よ
分り
が一
始挺と
7 ふことセ靡々説けh、その方便幸巧なるものは如何なることを指すかは範囲分の何塵にも説き居ら
ヽノ
偶単にして語句の不同ありと雄も要鮎は具備し前に掲げし数項の諭鮎となる個所等に於て何等薫ら
す。即ち本非別椰のものとは考へられす、た︸偶の英一Qに従って幾分燐略の差あるのみと思はる。
従って文教支律等の評のものも、やは♭何かそれ以上大なるものより紡少されて生じたものである
といひ得。
以上子は本文の糊査の上よ♭小品に舶肯するものは、より大なる本よりの紺少運動の結果でぁる
ことを祀し待た。帥、般若郎はその成立の最初−㌻りして和浩大なるものが珪じ、それが鋪少されて
‘U
樽苓膨の細岡虹
記載全部を以て郡柑作凝什謂とするには多少の疑問を細って居り、この場合に於てもこの記郎む以
信じ得.従って敢音大本なろものは即十苗租に近きものであつた主宕ひ得るが、チほ和布判姥倫り
布を親周作と見るならば、浬繹追行鮭とあまり典らざる時代に於て印度に十萬鵡大本の右折あるを
′tヽ
は知♭得ない。額使諭は十萬偶大本と二番二千偶小本との存在を記載せるが、現存斜度翰の記載公
︶
の︶であつたか、又は一府大なィU十溝助に近きものであつたかは・1⋮物の現存せぎイり4、11では明椛に
るものは如何なるものでめりたか、それが二茜五千頒に近きもの︵帥、乾技法行軍小口州が依りしも
に不利益であるといふ鮎のみを以ては械し得ないと思ふ。しかしその敢初に投じた帝根元あ大本な
の佃珊といふことJで考ふるも、又、吉備に省るも合致するものであ一心。狗り繹維史の弔繋がこの故
小品に和常するものとなら、それが最初支那に侍はつたのであると考へられる。この串は一方雑典
663
C5・l
梢窄提り溝関根
六〇
て翫損の言なろや膏やにつさ訳仁決し来泊るに車.魯度翫のこの記串も予に未だ柵詐となし得ぬ。
その他文追林が大小穴十如云といふも如何なろ意味か解し允わ云。以上の如く葉音のものは十弗茹
に乾きちの行了りしや吾やば酢喜山元あのであるがしかしじに巌わが縮少祁動直結来なるな許す以上、
かヽイリ損動が氾術の基本ししへ㌧りし大晶についてもめゎ行ると考へらる∼■で以て触郭打殺青山ものは
帥十前面に近さものでJのつたかも知れ出。予豆研く借りにかく見てをこうと川心■ぶ。何れにしても前
述せ一・U如くそのⅢ独内裏王二ぢし関越と行了ろべき鋸の一ないものであろ以上、何にしてむ子守思想史を
諭するものにとbてーま大して問拗ではない。而して遺稿捏が前校頼って甲。ものは前にも述べし如
く寸前飾の大本よりはむしろ二萬二千轡卜近きものであつたであらう。こ∼で問題とな畠はこの時
に於て二勘八†朗に泣きものが存在して尉たか杏かでぁるが、予はむしろ未だ無かつたものと恩
ふ。一節八千抑に近ゝJものは赦光、光讃の原本を以て最初とす乙のではなからうかと思ふ。しかも
これもやはりその此光、光猥の〓づる借肺の二些事鵡に近さもの︵拉の二苗五千蛾と印するもの︶
より抄〓されたーいのでぁらう。かくて羅什圧その常宿宥在せしものの小、十鵜蹴大木を除き、二萌
二千偶に誓。もの︵油祁大〓=‖︶し圭、小・−⋮とわ恭したらのでウ心。かくし一一し時代む痙官と共に大本は
大木しししT撞化し、中本︵通祁の大=州︶ほモの丈元木け旧でふ∵りつ1同時に大冊の輿中程非弄する中
本にとり、小〓⋮に又その小木の抄〓でめりつ∼一√、の型を従妹右寸ろ小品にと畠といふ次那になつた
ものと旭ふ。而して二満八千相に準きものlぇぁる踏もあり、雄き時もあるといふ穏便のものであつ
たと揖ふ。かくして‡基の砧代に至れば用木めみならす小本の小水と分せて証本購
ったので一の乙。︵西滅罪も小付文兆繹と川じく十講鱒二苗ヰ†頭、一帯八千呵一苗疎、八千燭の五
頒︺1︹二苗
■ ̄遠←ぎ
﹁
1羅什繹小品の原本
︵西措絹八†︶
の
︵八千鞘︶
絶決繹追行の原本
﹁
二苗八千︶
溝二千︺1放光戊ハ光適切胴体
蕎鵡︺1︹二萬五千火二高二千︺
本あり︶。以⊥の絆砕を閏にホせげ次の如くで今山︵︹︺の巾は現存せぎるを試す︶。
十 十 本
罠二組︺1羅
)
一一本←本←
一
真狩、︵本←同量二分り原本←同吊三分の相木←同
\ノ萬
什
︶
′→
〃も
十
一一Il●
用︶
在京鵜
八摘勒
千一一しノ
ノヽ
(大 兵
〔
〔
になる。されど、串に追行の如きが存するJで以て吾尊は之によつて姫君撞木邦の思想の大要む察知
之お手にする他はぎるを以て、般若謹本郷の心想・ヤ靖歳に知るこししは今=では山凍ないといふこと
かくして予は次の錆徐にほした、日、雄渾拇帝の追行締の如きむ〓珪せりと揖は
のがあつ化と推定し得、その大本なるものが即焼栗縦の蹄形であると揖ふ。しかし
〇〇
梵西−・
大 大 赦
〔
植邪推の博聞岨
し得五のである。再現今に於て般砦絆本非の㍊想を知るに川ふべき典梢は追わ辟及
ム65
556
n若折り緒問庖
六二
誠繹大明波打でぁる。しかし此等は何分古澤の串とて字句不分明なる拙‘少からぎれば、か∼る場
合には止むを得す大膿の思想に於て大差なしと思はるゝ県北、光讃、特に羅竹澤大小口⋮等か姦考に
すべきでぁる。玄北澤となればその内容甚担化し居り、新しき時化の‖心想を睨入せること多きむ以
CO
て、僚基経本邦の‖小憩を見ろに†一批辞に依ることほ避けねばなら出。現存梵文及西戒評も亦之に獅
つとめてその粕要を摘出せ
す。従って死文と躍もたヾ揖諦おしくは文章の細尾接続等の古澤に於て不分明なるを明確にすろ焉
に参考l二供するに止ひペきものでぁる。
次に郡二茹のカに於て般若経本非の思想をあまト辟化さすことなく、
んとし.㌧戊ルるものは令損般新来般若心絆でノのる。金剛般邪はその澤繹年代からいつても随分早く
已に存在せろものにて、恐らく、般新耗の裾少運動の正後に成ったものでめらう。従って追行紛と
を中珪忘れざらんが焉.
躍も二り翫むには長くて因るといふ人・ほ本紅を消むがよかろうしL‖心ふ。又般若の柑紳を頼も冊淑に
暗記に使ならしむろように作られたものは般若心経で一項るから、傭砦の桁榊
心腔を斌むことほよかろうと思ふ。其他の講饉は潤それん1特別の‖的′ぜ有するものであるから般
訳本凍の‖小憩む知一合にに不通舘でめ一〇。た︸般若縦が如何に捷化敬屁しその問如何に仙の思想 の中
に取入れられ又は他の〓仙想を耽り入れたかを見る鶉に識ゎならばそれだけの憬位あるものでめる。
七、投射粧に於ける範如︵T邑−P罫︶の悪童
以上の所論は以下の立論の準怖に過ぎない。蓋し思鱒で虹的に諭せんとするには.まづをの立論
に用ふる射粛な課程せねばならねからである。こゝで般若粧に於けるとは般若献本殊に於け
で、従って川ふ・り材料は古澤及錐什静夫小口⋮迄である。彼の雅料般若中のものは別に諭
ぬ。錯るに青緑帥支識支誠澤の′般若経中には奥如なる評語はない。否典加なる評語は玄典
0 始めて出づ一品であつて、それ迄ほこの評語ほない。那什はたい如と辞し、支乱文猥等では之に督
CO00nOO る字を本無として居る。英知及如がT賢a諒の評であるは勿論だが本無がT旨邑の評であるかど
うか。一見甚異なるが如くでや0が、しかしこは舶常深く考へたる結果の遁辞であらう。即、冒h。
鈴︵如︶は掩言せば本郷容であるからゴ巨象針を本葬客、即、水無といふ字で繹したものと恩ふ。︵或
は他に刑部の仕方があるかも知れぬ、もしお考付のお力は切に和歌示を乞ふ︶兎に角彼の繹に加又
は鼎如となつてをる厨む悉く本勲として居り、それ等の場合、一句又正一文中に於ける他の
関係は榊一であ訂からこ∼に等しきものとして論じて美文無いと思ふ。
般若経のまl此とす一工肋は章∵ヱ鱒も圧く碁敵でぁつて、この姉については吏めて諭す↓Q必箪はなか
般若押の柿間岨
る。如とほ即ち解放者.帥ち基軌を符た人が見て屠る世界でぁる。即ち奥智によbて見られたる世
の境界であらうが、弾いて名つくるならば、そは︼切知新、解脱新、又は如︵曽臣註︶を得た人であ
らう。しかしその容軌によつて到通せられた現地は如何なるものであるか、もとよりそは言
657
658
般若経の浦間組
大西
界,如既に見られたる批外の澗で今Q。故に叉諸法野相といふも同じである。故新に於て本無又豆
如.輿如といって屠ろのは即このむのであ云。以†柳か=わについて説明を試みょう。
物があるがま∼に見よ、吾々の抑はれた一法仲兄にユつて見る
そはヌ換言せば/ぐれがウニき理法に従って射ち世界と見Gれる。そこで仰放では、他罪のそれ
に努力す・¢ことが仰数修術なトとも祁ひ得。その範魯によりて得た枇罪は印加瑠の世界であるが、
のであち。か︿加増王世非ノで見るには、兄一む弟の恨は範魯む得†居らねはならぬ。拉に英別の間接
ことなく ー 従って常時い外道諸兄に反す 一 女本醗と現象と.ピ砧別して苛ふる加さ抽象的な一用
ウバエシャツト
の見ド立ちて見るこ圭なくーー∴代って庚立郎市坪新にk、す ー ㍑和正何にその具申ピ比よと数ゆ畠
汀tb阿 に見よと放ゆろめでJりろ。叫
と侵しに端的に世界り異相ノで通観せよと放岬ろのでぁる。即辞令は物をy乳F邑1ぎ童に或はyP什F阿
とJでしかと鵬別してポへ一り一しとは之−ゾ避けて居ると見らる∼のでぁつて.本憺とか現象とかいふこ
ば、叉木醗ヤ不可知め清とす㌫むいもや付のでぁる。悌放でに如何といふに坪令は本腰界と現象非
れ自力︵ロ耳㌍E・㌢−け︶い如㌘bの一〃立てた。而してか∼る本惜字0ものの籠識に努力するのもあれ
識ではこ山世界の衷型号こしらの′に所詮柚へられないとして、吾人の認識の範園外に木惜非或は物そ
両から見ればこり問題の姉決に向って進んで雄たといってもよい。朝鶉哲人は夙に普々の普通の籠
世外の弟舶如何め問題は人■でして宗教に宕率に哲雄に向はしむる最初である。又凡ての西軍は一
叩
わ禍
がめ一〇.へゝJ相法む知ろLしいふこししが重んせられ一心ぃで一〇。珊竹が拘推挽む高調せられ化所以はこヽ
に一両㌫。いJれしL膵竹ではこの加増S世罪とい∴も山に未だ明碓㍍ろ栂念や適切な一石命名一でし一て居な
石綿法に封寸る無調法の考が進み、その無
い。そこで珊竹城後此等の別に閲して神々の〓心宛がへ廿Jれた。叩.県勃kやlヱトノ普油哲雄新が互す
が如く現象牲と門れ非とノ車・分りて帯ふら射さガト里\
調法l二姉潮力無しとす一小説と、ありとする謀とがiIiで、進んではその厘甥法に贋如とい÷字お剋へ
たものもめ一山。即㌫輪読・∽帰すろ何に従へば、化他部では無周法に九む丑て、その中S五無頒に何
れも輯加といふ†一げ附加して居ろ加さはこれでわる。或は父■、R邑1いノ一誌l≡﹂Pひ︵S乏−21hPヨm旨・召
t︰己l㌦押霊P旦︰已エの加∼Jは//、の常ふ心耶痩にみ一〇かはわからぬが、或は後レ︶唯油などでいふ不動無届
の贋如ト・−い、七山昧単車しで■月′・Qのから知れぬ。小爽≠派の諒は同−ふLリ彿敢といふ粘からいへば彿敢
の贋蕊に反するものも少くないが、しかし同時に膵竹に於て明確に説かれて屑なかった部分壱捕へ
遂に般苅に至ったのであ㌫。
て之む論諭し後の大薬価故に羽村む頗へて居一£獅に於いて兄のが寸べからぎ一ウものである。如彗の
世井に刷寸一山芳雄もかくして次第に進ん▼
∩〓
股弟直帰如拙㍍般≠撞重昭の梢刷ノで捕へ一ヽ考ふべさば勿論、㈱にに迫れ押第十照明〓冊︵什澗小品
第十∴小加晶︶追わ折箱十川本無〓⋮︵小〓⋮節十五大射り⋮︶等について見るが祀でぁる。かくして見た
■り放射の贋頭=︵加、木無︶の点滴は、
伯署経り開聞旭
6GO
植著柁の諸問題
︶ 一如賓に見られたる叫釦、T邑1賢といふ文字に全くふさはしい窓眈で、即諾綾新和を指す。従
︵
って頂理とか戦法とか法則とかいふものではない。た二部分り文面のみむ見る畔はかく見られぎ
るにもあらねど、般新種公憤の粕醐、m、分別知を避け端的に物を見一Qことを耶んする榊榊に徒へ
ば、物■ざそれとそれがあるべき叩法とに翫別して見るが如ゝJは般革い好土ハざる桝であ一り。自性︵Sく・
邑lP⊇︶といふ㍑⋮の如きも般若山意味ではた∨物をそれだけで︵Lど女・︼→軋−−︶見佗畔を意味し、巨ng・
冒むd−の意ではない。かくの如き般新一般の梢紳より見れば、英如といふもやはり叩法の如きもの
ではなくて、た∨串彗としての物を指すと見るペきで一のろ。然らば如何なる串野かといふに、それ
は加水の潤唸に二於けろ串野或は加水の醗擬そのものである。慨験そのもSであつて決して頂理とか
鞘はとかいふペきものではないと見らる∼のであろ。こり意味に於て無常法■で以て姉如としたらす
る小乗各派の説とは張り、又、稼い唯識などが現象の奥に紀封不動の無栗贋加■で宜l一しるなどと沃異
り.如凍の醗験としrの串野を如︵本無︶と調ひ、従って又この如む得たポむ如非と畑州ひ得るのであ
二以上の如く般若の如は如非の冊喩に於ける講ほの賓棚でめちから、典如は故に於ては多にして
ってこの意味の叫は般新鮮い講研に散見する。
︶〇
︵
∵一にして多であろ。即各々の物の如賓の和といふ釦よりいへは物が右一心泊りに敷があるべきで
ぁる。しかしそれが如である以上、それは加凍の憤桧中のものに外ならす、如堆の惚蔽汀るが紋上
如であろのであ・0。然・りに加水い醗喩は唯一串鱈である。故に加は唯一祭事でぁる。多といふはそ
の唯一部署中の軌解鮎の加速仁過ぎたい∩愉へば、一地球は一地域なれど、東諒を小心として見た
のと、p/ドンを小心ししして見たのとは購って居一っ。しかし唯一地球たろ鮎に於て相違ほない。こ
の意味の串は般新鮮の前弼諦‖⋮に便々説かれてある。即茄陰如、一切決如云々として、各々の物に
蛇管纏め精細■
外のものである、強いて名づくるならば絶封消印とでもいふペきでぁる。般無で本性押といつたり
しかもそれは加水S恨喩である。かくの如き如雑の醗槍としtの物は吾々の誇患押染美醜等の明晰
相といふと同時に寓舶以外に講決は無く話法以外に賓相は無いのでぁる。故に話法即璽舶である。
如︵本無︶と弔っけ又は耳舶と名づくム∴uらば、如又は賓柵以外に物は互いいである。故に話法の軒
ひ柑るものである。即、物の興和は如来にエりて見られた一わ時のみ異に捕へられたのである。之を
日かくの如く般弟の如は如凍の醗駿に外なら田が故に加水即仰舵前によりて見られたる時のみ言
る。さ寸lど般若公憤の精細からいへば性利別諭ではない、性相同一と見るが至常と思ふ。
即ではない。もし範如む和紙の如く糾すろ㌧らば、この場分に於て放舶締性の相即に拍するのであ
弗駿の姉々燕樽の思想、支那天ム〓出初即用船の川心想に殆ど異らぬものでふ∵り、決して擢舶締性の相
にして一、一にして多である。しかもその多の和瓦問は和則である。この′餌に於て般莱の世界軌は
如を輿へ、しかもその次に是講如是一加無二無別云々とせるが如きこれである。即般若の眞如は多
bOl
仁由
般若種の諸岡瓜
難産揮︵赤印︶といったbするのはこのぶ妹でぁる。故に般那の赤津といふ意味を大衆部又は起倍論
などていふ贋如本性葎客種勅情・い窮めに︷印加わJ表はすといふ場介の本性渾と同∵仁離すペきでな
い。般新では本性押︰与る眞如といふ践なものノがあ乙とり猫めからきめてかヽるのではない。如非ししな
つに帖に同畔に加といふものい〃在が認められるのである。否、か雑といふ人格の内容が展如であ
って、それ以外に重かは〃在しない。従つT析惜に桁はれて汚されろとかいふ様なものではh住い。
これ等の鮎・ち支那天か力説に大に近いと思ふ。
︶
円かくの如き如なろが故に継起仇詫舵となる措なものではない。故に般苅の贋如は綜起系統の思
︵
想でいふ茹如とはなつて居ない。全く絹法仰‖射である。従ってこの郡がそのま∼問屋せらるれば天
≠以上ゎし拙結するに般新の革如︵如、本無︶軌は押雉の物Jで如野に見よといふ歓に従ひ、その如野
ムUの‖心想となる。
︶
︵
に見ん謂り英和む聞く力はとして隼批一打毀へ、その隼軌によりて得たる他界が帥如貨の和、印加で
にして多、多
あると説くのでぁつて、かくの如き如は加水い僧収に外なら山いでJ叫つて、甲に物■ピ然めらしむる
理扶とか、睨象い損に赤化寸ろ珂招とか謂∵でもいとは節し難い。かくり如き加ほ唯∴
にして一であり、そのいといふJい仕舶別に・巾らざれば柾和銅性の一ではない、常惟公是の一である。
かく・い如き如H㌣々の川封的利鞘以土山も出でめり、描いて名づ︿らならば郎鬼印︵本澤︶でぁる。
わG3
しかしそは客哺煩悩に舵はれ汚がされる様な押ではない。そは人聞が如非となつた時に於て、その
′■︳ヽ
人楕に豪はれろものである、従って般砦のい′川如は詰扶欝舶といふに外ならす、縁起のま概となる
ほなもSとlユ未だハ廿つて屈ない 。
狛般訳粧について二二一越べたき串みれど今川はこれにて欄肇す。︵一四、三∵廿六‖︶
旺=内容り比律は邪ほSごペiざコぎニハr邑pP首旦−合rSいrき巳㌫ン訂乱打督告‡畠・ヨi至り頂仙ハほ今迄仰に知られて居ム
Lの・、JLて日英伺ケンゾリヂ開講柑に弟本一部︵謬已.Add∴芸β祈了りのみで、従つ/、テー上米だその賞物なlLろの機な
相克いけれ.ヾJL.串l二冒H乙L︼り〓抜lニよ■リイ、各‖⋮り有姥等戎ろ柁柁迄内容な好知†ろな待、︰れむ両級謂ご封鱒して、
少く︼り班‖綿にlLlγろ境川再に於てほ全く令†ろん・知り、=れH⊥lユ内絨謂lニよりて藤本風光学士の助力な柑てその内
群小調べ㍗¢でわろ。
ヽ■′
り。
︵
′
2両腔博士の〓仙が他り多くり揖介l二捕って削ろミ〓小ほろゝ至先様なjLろも、=り幼令に捕†ろ限り博士の紙まほ
=
大拍詐郊五¶九卜五旋︵大正.蓉七、一〇七六苅︶也蓮井色組佃野ポ々.
蒋﹁七五、れ、又仰山〓楯勇払彗班.臼、巻粥†、不娼色場外云々
大根無知ム正・r九十仔猫.︵大正、怨七、一〇七八耳︶.包菰非移柑非抽入云々、
3潜一、七二、ホ、又仰山‖座頭猛署鵜苫、平出十、也持去来不可几故玉曾===
ヽ■′
ヽ/
−ギ邦銀にlユニ‖・∬分n張本ヰ八H碩般若ビ‖rイ㌧わl一Lご.凡て軍刀頼り胱︷lそのご=迄が申しさかは今け㍑鍾の氾卜乏
・しいq
一lヽ
ヽl/
川庸嗣椴ポ披緑班抑抄序︵新一、川0︶、H∵常春漢陰十和立秋、誹故地押韻敢弼樹.及燕説紳輔川咋、亦M些﹁未赦闇
拍著揮の細岡Ⅶ
丘餌
鰻讐捷の#問■
セ0
息、然特車浄句首尾隠遁、繹穏深瓜、恨不見凛公叉縞等、骨組元十八咋正奉師前部ま、名甜弟、来朝、共闘肝、字鳩磨
耗披混、献別人‖⋮一部四竺一牒草一十干失盛.失墜二十二字、胡人鮫柁法也、帥拡散之、凡十七千二甘⋮ハ十甘皮.琴一
十七草、解放五十正純二千囲育七十末草、天竺沙門金牌娩軌本、怖祷発許、劉而槍之.駈池畔愛、輿水兇光線同郡、無
所定出血.共二鰹雅人朗諦悲、駅北失鬼稀而i亡者.共菰異不知軌鹿者、牲研面所存ヱ、社々匁机基†、凡囚徒弗一押立
租也.云々
こトにいふ織若淡難蜜綬抄ほ現存棺輩浪速老少粍ミほ公然興り、:の序lニいふものは現存せ†ご見るべく、現存のもの
は小品の異詳lこて、泣叫秋本ビゼられ﹂もの例へけ街士戊鐸︵腎惑帝、二九〇−三〇六︶の如与・ものの一つが再び︰り名
む冠ぜられて机で朱り人﹁‖に吾りLもりご見られ、・しかも=り誤りはか叱り早くより存ぜLもりら・し。
叩・・;・便以官択購大小、照流貧相鹿.キ約訓ヱ小.文政洞之火、・;・:怖北=冊之.日.大火小品者机於本=叩、本曇妄空ハ
000つり○じり○
十萬首、今遊火竺来週於曹、ヤ此二抄亦興丁火本、机着不同也.再小=⋮ヱ布先、然別二撞蛙同於山本品而咋社有不同者.
戎小‖岬ナ﹂所員火‖⋮併不鶏、火‖仰之仰鞘.小=n・I之仰即、所以終着、戎以二帆利之姉〓在日〓貧拘叩井本一、放不胞衣云々。
′lヽ
ヽ■/ −殊lニ、その節十︼品lこは、甚澤梢若班相沢多刷搬鍾典申.膀㍑常躊輝阿薩通力軽薄巧亡わり。
8大智厘論矩宵、︵祉五、︼〇五ポ︶此丹頂岩波雛祭品有二扁二千栂、大般若晶有十璃鞘云々。
︶
てL嵐如ごいふ紡が屡々州ひられ居り、︰の綺ほ決・して起mや唯試系統り憩の射打順で兄い︰ざな往怠され上るほ郡等
9伯普柁に於けろ乳如について給ゼろむのほ木村け上菅﹁併脱への退﹂lニ几ゆるLり■け殆ど唯−ヾゝぜん。博士カl墳若純lこ於
′■lll−
︶
︵
級華の感掛ぜざろべか・トぎろ何でわろが、そり忠鴫lこ鱒してlェ多少の異論な小L告′し㍗い囲もわるから︰り文か串L巨
次節でわる。従つて本文が仰士の背に鼓ふ析多いのほ勿論でわる。
フランスに於ける宗教研究に就いて
︵上︶
赤
松
秀
景
宗教研究といっても、同よト宗教の純哲畢的考察は別とし、宗教現象乃至慨系は、歴史的社食事
賓でめ・Qとして、其一部乃至公憤に閲する料率的研究空コふに外ならない。澱近年世紀以雑、﹁宗故
嘩﹄︵批︶の名が祁へられて、殊に此の和の研究は、益−開拓の非々進めてゐる。然し、之を弼立の一
科挙として見るl−・キには、獅ほ成立の途にみるものといつて差支めるまい。従ってこ∼では、基科挙
的内容に証人って諭するのでなく、北ハの歴史的礎憑ノで辿るにある。此の釦で、フランスに於ける事
情如何といふ姉を叙べるにめる。之を大隈土、研究摘闇め中心であるオートゼチエードをまにして、
之が成立に立つた解退から始め、後に少L周ぐ概鱒で試みて終る。要するに、之に伐って、フラン
スの宗教研究がどういふ傾向にあるか、進んでいへば、フランスの村仲的杓榊ともいふペきものは、
フ’yスに於ける宗教研兜に就いて
叩ni8仔○り何色肯6.n︶わ請じ、之ミ共に、共の他宗敢研究の謙譲ね公に・し㍗。以て被れは冒祁枇撃﹄の桝立猫ご見放されて
牲 ︼八七〇牛、†クス・・lユヲーが、ロンドンのロイアル・インステイテユーシ﹂司ンで、冨ポ教理概論L︵訂trO含aOntO t訂
何踵にあるか。多少とも、此の漣の油息を紹介し得れば、難事の望は足る。
郁5
56G
フランスに於けろ宗敬研究lニ続いて
ゐろ。恰も:り諦兢のわつ㍗年、フランスでは、エミル・ビュルターフ︵Eヨil。ロヨー。u︹−S望⊥苫J−有名叱梵抒単者の
従兄1ほ、従彗耐世界詐給﹄︵︼ぎu勺d貌︷ざーH⋮つコ乙乳に致準し上1ヱりに、取幕な加へ、同年十二月の序文か附・しヨポ軟
隼トつb軋≡e︵訂︼・乞igi〇且ヾJ申して一事布公刊L、﹃恐く射めて自分が﹁宗教学一ビ呼ぷ≡々ご師む寧し、宗秋草は、麗
虹、宮川⋮隼、及び斬畢寸.衰わ接†ヾ売・し、又、わ・・−ゆろ宗教lニーェ.紳寸、祭儀ヾあ二老先生臼むヾ−いつてゐろ。いふまでも
よりL、宗軟l=関†ろ科隼的研究︵ぎcn雲religぎd︶−︰の意症て宗教研究−ごいつて、分科的のLS・が多いミ思ふ。
稚く・此の名郡代、﹃︰誓不敬の攣−の煮でわり、英拍の朽吋寸二致†ろ。然・し、フランスでは、︰の汎柄な以て†ち研究
序に、このビュルヌー7に、亦文学者、東洋学猫ミして、謂碩の着通がわろ申に、﹃同姓略−二よろ‖本人の所持﹄︵LPロリt訂・
首iOdeJP葛ロー訂d.Pつrか︼ニハ○打u帥i・R甘どこS㌫︶がわろごいふ。拇は未見−ニ屠†る。
一束渾研究の輩連
で、仝冊に亙って述べてゐると記憶する。叉、加藤玄智博士の﹁宗
㌫数研究の慶遼に鵜いては、デコルグソ︵L−1・J。rd⋮︶が、其の﹁比較宗致﹄︵9月弓。til。巳igぎ・
H訂野呂i肌≡︻昏○ノ蔓、−岩ひ︶
㌫政所兜訴、殊に典咄声恵︿に至った頃の折柄を考へたいので′山る。之には、勿論一宗
︵
ヽl一一■
教邸﹄︵︰九一二年︶の・作論で、北ハ山大撃で窺知寸る叫が出凍る。こ、では、それ程の源洗に柳るの
ではりく、
︶
敢改叩以水仙、弛此ハに判子り∩山根想が、フ一ノンス∴トト反増してゐる。二然しながら、特に東洋研
l・/11′− 先に於て、膵粗密新し、﹁更に、之がカトリックにも反映し仁。個而して、此の聞に、之一軍勒成す
るものが出饗たのノである。
ブラ/スでも、クリスト教堂典豆闇す今日山研究は、早く.ソロテスタノの地方で之一で見るが.そ
の小火でぁるカトリックには、未だ現はれてゎない。即ち.已に.シモン︵RiつhPrdSiヨ。コーー3∽1
︼コ付︶が、﹃釣約丑仙ハ史笹や七‡Gi−・eつ1・ま宅edllくぎ責∴P浄責⋮与∴;諾︶で、弟典の批列に手を染め、
次いで.アストリーlソク︵J︹21As叶r弓∵岩禁⊥ヨJは托−ゼの五音に於て、紳七袈はすに、エ。∴じム
とエホゲ丁との両ほあ一e墾で以て、異なら二梢の編纂ならとの意を、創めて明かにしたなど、著しい
ものが一直る。︵基の著ほ︵.〇l官t≒つSSl−r訂mか日Cir窃雪i官享宗d。11tilちrを雲e冒y汚の︸乳汚rま
︼愛rCヨマ︶彗lい↑Ge−1釘こ訂∽︶けれども、各値からいへば、政拾上から考へても、カトリック敢碓の
勢・北ハの伯続いカが、之ノで容すべしとも思ヘハ号い。忽ちカトリックから祭讃の銘を打た
める着日固より、倍加すら、此の挿の番を手に寸る難が出奔ない。かうした梢極的の爬氾が加
re覆。−1邑邑le
凍る面白い一例一箪見よう。フェチィジスム︵宗ic許諾︶の名を創喝した﹁呪物御の盤押東沖しい樟題
はC已t訪d臨じぎパ蜜c訂﹀C声pP邑︻告de︻ぎciennere好古=le−、眉ヨ首−胃袋︼P
deヨgrit訂こ三︶といふ小栗がある。之を見た所で、誰が著したのか、何塵で出したのか、全然
判らない。如何にもアフリカの呪物揖祥を説いてはゐるが、沓中弛菰ハ仇彼此を引合に出しで
之はド・ブ㌧えC㌻rl謡de厨房こ3り−ヨJが、一七五七年率士院に投出した論文な、多少改洲
フヲンスlこ於けろ采敬榔兜ド批いて
したもので、邸士院は著新の思想が大腑過ぎるといふ名の下に、之が出版を拒否したのである
667
6G8
フ’ンスlこ於ける宗教研究に洪いて
よく常時の気風を知るに足るでぁらう。
−
七日
前のアストリュソクの蓄にも、著書名を載せす、且っ.〃ソ
での旧版を他国︵ブリュッセル︶としてゐるといふ。己に非常な注恵一軍沸ってわる。−1かくてはどうし
て自由討究が、恩ふ様に展び得よう。
今の囲比文捕
−
に、不可解の珍
然し、此の新思潮一で到底過止する碍にはゆかぬ。何れかに排け口一ど求めるのは、自然の勢でぁる。
−
即ち、か∼る埼壁に在而しない領域に進む串になつた。殊に交通わ璧てなつた東洋が之でぁる。
既に十人枇杷の中東、.ハリの王景文庫︵︼詳liOth菖−e︵ご出b⋮︶
晋111梵本1が博通師ポンス︵崇re−︼。1且の手で独られてゐだ。之が解決を志し、究印度魯軋に身
を委ねで彼の地に赴いた︵一七五何年︶帝年が、アンクテール・デュベリソ︵Abl・已1≡Jこざ一︵ニー邑岩トビ一宅etiT
Uu鷲r岩−1−−討−−︼SOひ︶であら。専ら、.ヘルシア語を申び、ゼンド・アブェスタ一で初めて歓語に評出し.
︵−ヨー︶︵誰一︶更に、同語の奥義酋をラー7ィン語に棚じた串は︵−きーーほ︶、人も知ろ研である。こ∼か
ら印腔、及びベルシアの研究が起盲。
印腔方面のみでも、桐は、一二■で帖記しなければならない。歓洲に於ける梵語学界の間刺として
ド・シュジー︵Aロざ㌻e訂J15乙︵訂C−−.ぎ・︶トコいーーS㍑︶を森げろ。抜は、師もハ甘く、文法なく、泥んや
耶寄のあるべ︿もない中で、静趣に富んだ才能曽似て、.ヘルシヤ招か・・り入って、終に梵語ケ解す一り
し、ド・
までに漕ぎつけたのでぁる。ン†タンクラがその手で辞され、一入三〇年に至って、世に出た。然
し、其の高弟、クトデューヌ・ビュルヌーフ︵Eu∽㌢2甲rぎ嵐−芸−−−讐㍍︶が.梵語界に名を博
シュジーの名は却って知らるゝ研が鋤い。ビュルヌーフの﹃法非緋﹄山繹︵一人五二年︶、﹃印度俳敢史
概論し︵一入四囲年︶の如きは、今に至るも、邸界に忘れられざるもの、こ1に多言を葉すまでもない。
斯界の碓、マタでミュラーはドイツ人に生れ、ライ.フナヒに呼んで稜、バリでビュルヌーフに就い
たのである。︵一入四五年︶
柑じて、近東を見る。こゝにも忘るべからぎる功績を遺してゐる。エジプトに
於
けろ
∴Hセソク・ス
トーン︵Pierrede−訂邑且の祭見は.ギリシア人のスフィンクスではないが、畢界に一の謎を〓或した
フ’yユlこ於ける兢紋所允−こ飲いて
シリア、パピこ︰−ア等と、所阿東洋研究が、日を迷うて盛況を呈した。然し、何れを取って考へて
上水、澱も悲報のある二方面を約改したのみであつた。勿論十九世紀に於ては、アラビア、アッ
彼れは黎秋に富む身を以て逝き、死後に〓た著述も少くない。︵純巴
㌢ソ戸]p胃ier凰鼓扁即lビpl−好打td灰hi耳Ogryl︸b成phOロ畏宅鑓etC・︶が、その郎でぁつた。不串にして、
li01−、l謡○−−S∽沌︶−シ†ソポリオン・ル・デヨーヌ︵C︼−呂︸−︶○〓i〇︸こ2J⋮ne︶と油祁されるーの鞍備︵訂ttre
人であつた。一八二二年九月二十七日、邸士院で駒讃されたシャンポリオン︵Je昌宇P−凰sC−︼昌凰・
評でぁる。之が那決は、多′、の手で頂けられたが、最後にエディブたり持たものは、賓にフランス
騨9
わ:0
フランスに於けろ宗歓耶究−二続いて
七六
も∵∵=語坤的傑出的でみり、正ほ再ポ数抑究主宗ひ難い柁互和もある。けれども、暦腔上.少くとも
之に閲した文邸わl痕扱ふ事になつてゐるといへば.此の疑問も解けるでめらう。此の準は更に後に
一︼一nr
山北一QC
託 川ベルシア語でほ、シルデュストル・﹁・サ⋮シ紘に川でて之む紐り、ウーデューラビュルヌーフ亦之な究め、その大詔圧
一八九二−三咋に圭って、がルメス音一﹁−ル︵J︰ニり姦口冒1︰邑ヱer∵苓畠−︼S2︶り手lニ成つr。
lニ細島用い土り解輯がわ・0。
詑 nウ.7ネカ上︵、ulJ完打.1−已レの一名ほ、叩ほ研先考ほ、錐も知ろ。比り謂帝の縛は、冒パニシャツド金華﹄七︵一九二三隼︶の叩
誹 川井他机多い梵紺、巴利招、西京沌⋮、乃至作歌研究l工、﹃欧米の怖致h︵濾過濾旭氏昔、一九〇四年︶に譲る。ビュルヌーフり
始めにいつたのはブロテスクソについて
︻痺
ヒi︼Pぎ、︼S試−㌫ロひ︶か甚.へてtりろ。此いノ.ハルテルミ疇サンティレ︰−ルほ、孜清泉でわり、又汗坤者亨tてほ、アリストー
評、しい邦ほ、北ハリ印踵仲秋収糾論トの嬰崩︵l八七六咋︶の幕弼で、パルテル⋮1サンティレール︵Ju訂Pき告ヨて許㌻l・
冒訂rつF虎2︻
トルの雅邦の所謂で名骨㍗。一カで印捜の研究Lし、モ・り申て、﹁宵伎哲雄hほ隼士㍍︵倫理政沼伊部︶の記せ吋ド哩してぁ
ろ。又∵ハ閏八1∴九二隼の川.フランス隼院の基幹でわつ㍗。
乱 川シ†ンガザオンの世の誹〓、その菅 l︸r曾訂d一=.星㌣e已㌣つ軋㌧号ヱ.ue=訂呂C⋮e己#レ・宣eまOG
ー
e㌫完︰lt∽コ・0日ie読de宣バe針ri古re‖︰Pへr計eドの第二頓︵一八∴七−二八咋︶に沌加されてわろ。
か∼る卯は、カトリック小にも、及ばすには丑富たいり
エルネスト・ル
ぃあつた。− 而も之がカトリックH仰の成城いブルクーニユ︵今‖でも、か′、云はれてゐ、その弼督
などセ見る串が出凍る︶に育ち.且っカトリックの草院に畢んだ中か、ト出た“即ち、
ナン︵Eヨ星野naコ、−器揖−㌫り沌︶が之である。絞れが、一入四八年、学士陀∴提通しに﹁セム語企
むト︰ヨ㌃什○ぎ附㌻?小計d説−い5讐窟㌫2き1一Cェは、詩語坤の臼眉た一?もの、−之のみでは、構い意味
の粟津に州道ないが、これまで述べたのは、新しい粟津方南である。・−−
かくて.一入六二年こパ
フランス軍拡−次にい∵‖ふ・−の川溝に廿⋮つて、クリスナで以て、﹁不牧田の人﹂︵芦−ゴ完in8mp?
rPl︶−e︶と祁して、端なく溝諒沸騰、一時溝準で中絶†る輿とになつたが、到底斯い如きに屈するも
ー邦繹がある︶む公にした。絞れが敢柿椰氾の糊に在って、準問の満と
のではなく.翌年、かの冒リスト敢源流むし︵iIきired現ニ■ignie=︼1−C訂iリtぎ訂ゴク00已,︶の第一
幕﹁ヤソ伸し︵↓㌃dつJc苫ェ
はい、
へ之に措抗し正路璃敢の批評に入ったに枕いては、新しい東洋研究、更にい∨
はビ
ーュ
ヌー
フに刺代さ几・㍗鮨が規はれ一〇。ルナソの他年に近く出に﹃科やの鼎雑兵㌣︶昌−−irde㌻軋e−1ee︶に、序
文で、特に之ホ∴八E入牢の考であ一っ準を桝かにし、次に、nら一坪井として、ク1㌧デューヌ・ビニ
ルヌーフに零せ把持節︵“八叫九咋二万附︶ぉ城せてゐる。其の一節に、﹃小珪が、人珪は粥劇の役
文邸に閲する御諸
捌乃至脚色の如きものにJ帝hすして、輿剣英鱈のも拘なゎとする、出パ高の和州⋮首求め小幌睦、絶え
す小姓の眼前に膵び媒は、御容姿に右ウた恢。原始倣非のいとも毘はしき、圭霊明
藩に化
し従
、夢
前り
小津
で.
ぎ帥ち利寧が常邸と隼り、最高い効果は.細心の
しが
桝想
のむ
も似の
介桝に里つとレJ糾が、鱈現せられたるものを得たる次第に右之併。云々e旨いつてゐ一仝研。よく之
フランスーニ於ける⋮パ軟桝兄ド拭いく
672
7’ンスーニ於ける宗敢研究lこ庇いて
を物語るものではあるまいか。
ヵトリク†ら、 已にこヽ■三でに至った。ブロユノスクソで研究の招いてゐた串は、自ら想像†る耶
が出来る。例へば、リュス︵2・.三え︼ぎ場こ仏OT畠SS︶は、ストラスブール大邸の数柁として・此
の方而に華名がある。北ハの﹃頚晋﹂︵ヨ︶ざ︷1≡ご1︷・tぎ︼−J−−YC〓e臼ノ・︹C㌻ぎニllC汁iOロCtC旨日e旨irき一望㌫
−ヨ︶は殊に知れてゐろ。︵琵︶
詫 非り他.此り問lこ︰パ敬一般の考捏存試み㍗菅和一二旬几れけ.左の如きLのがわろ。
︼・C︼い乳e山ジーつ一斉○こ㌢Jつ歳計一つーーこe.:きテ2二者葺ぎ:鼓詔ヨ宕−Ot昌lウ;コ0邑こSい小
u・JP31︰e−リーユ︰≒っこ一丁つireさ︼・紆への才三言︼P︸CこごeJ㌔一・O1.︼符ひ
い・H3r⋮COJユ邑計H訂一ち3一ぢ︰りelP数的ぎ,C冒川己か卦d︰”己田谷urへ♪護ど口一缶e−︻e山款孔OP頂−萎ぇ♂︰す声=蒜㍑
デュビュイ︵一七甲丁∵八〇九坤︶ほフランス畢院lニ孜控でわつ㍗人。有り杏︵一︶l︰ほ二三り異粗がわる︼れ●取づ㌔次
のデュn−ル︵一七光九−一入三先︶lェ毘妃藻でわつ㌣。非の背︵二︶lェ元二顎でわつ㍗のわゃして.u迅な﹃絹布㍑押の小
虹hdしゎのでわろ。終りりコンスタンr・ルベリクー王政溶媒でわつtが、︼方で政界わ適いてから公刊L︷ふ旦が︵三︶でぁ
り、之にもー二の典収がわろ。此等み別辞†ろに止めておく。
野に十九聴紀わ初鞘といへば、花岡では文化年間率り串で、論外親との新しい交渉が、晰く抑り
になつた射である。如上の諸研究が盛んになり茹めたのは、恰もこの時からの満と打了わ。桝で、一
de警告籍︶は、二丑ニ○年フランソア一
カ之と共に、新研究の助成に興ってカのあつたものに、進んで考軒を試みょう。
今までに、幾度か其の名に細れたフランス邸院︵Pニ甘e
(
吊7ご
世の時に始まる。常時最高の学府たろ大串が、如川にも時代粕紳■ざ忘れてゐる軌がある桝から.大
今‖に至るまで、一人一流の坤者を細座して.
串で一ノティソ措に限ってゎたに対して、ギリシア、ヘゾライ語をも溝せしめる叫とし.㌧出水たのが
非であり、爾水.大挙と別宜し化叔高の畢府として
畢界に異彩む放ってゐる。か∼る脛虹を有するフランス畢院が、新井而聞拓新の招致を怠らす、之
が発通に発したの・は、寧ろ浩然である。
欺洲に於ける梵語講鶉い■囁矢とする。その死後︵一入三二年︶ツーデューヌ・ビ
一八一四年︵文化十一年︶、ド・シュジーの秀に、梵組⋮,及び梵文準の講座哲新設し、翌年から開講
するに至った。栗に▼
C訂・
ュルヌーフ之を椴ぎ、今‖ではシルブ丁ソ・レブ1氏が現職にある。序にいは\支邦邸の講座も亦同
年に〓雑、アペル・レミュザ︵A訂r冒ヨ一邑こ詔∽−−00∽・J︶之に常トノ、授かのシ†ブ丁ソヌ︵巨岩弓d
Tココnj︼S莞γ・︼芝S︶ふγリ、次いで、アンリ÷ス.へⅤ︵浮nli岩月考。︶氏に及んでゐる。一方、シ†
ソポリオソがエジプト準を側めた串は︵一入三一年︶いふまでもないが、間もな︿逝き、軟侍してガ
ストソニス.ヘエ㌘告n崇p明頂rOこ∽衰−︼讐岩︶が出てゐる。ルナソは已にヤ=つた。絞れは、ヘブラ
イ弼及び文即を請じ、且っ一八八五−一入九二年の聞詫幹S作にぁつた。
殿令、名‖は招押文邸であつたにしても、公証の横側が進んでこり堪に〓に粥は、亦硝究上の効
果推して知るべきでめらう。−宗教史誰座が開かれたのは、之等とほ迦れて、い八八C年︵明治
フ’シヌーニ於ける宗軟研究lこ就いて
7ヲンスに於けろ丹バ招研究に拭いて
十二一年︺でめり、 アルべー〝・レブ†〝︵一人八〇−∴九〇六︶、その瓜デ丁ソ・レディ〝
八〇
︵一九〇六−一
九〇八∴次いでりγ′ジ氏︵一九り九布邪︶が現任新でJツ㌔此守沃綾に遁べ一u用命がある。︵誰︶
誌 フランり.桝㍑でに.いlェゞ音に㍍り〃に■りつ㍗。エに封Lて現代招のカて、十八世紀り尤、里げ明代招甲良︵ロ・一㌢︼まi?
車ヨーロッパ語り三郎二十除轟撞に分圧、之に地理帰心が加ほりてゐ入・。前に云つ圭シルデュ
ヨ﹂eニ?︼︰−︰JづHe⋮1il二︰lすTざ一三CJり設立み軋ろに.バリた。用布てlェ、○︶小ア.シア莞び井り附近のハ〓沌⋮、亜にアフリカ拾、
︵∴︶捕吏及び用便招、︵三︶
ストル・﹁・サーシ︵ロきコSいr・?言ニ∼沼うこJS−︺SUS︶ti、雄に一七九人ハ咋︵先拍八咋︺米、︰ゝドアラビア語の釈柁でわ
つ上。粗略てu、往にソ・ソン∴項代用悶綜て、左明石け枇〃栂闇でJり一ハ。
草はり机兢に、研究の持出、未刊書り梢刻.沌ほ錐机班l‡圧印〃.ヾJがわり︵︰八七圧咋架︶、又、粥誹ご・して秋和〓小豆亡し
t、文典、溝本、招魂り如∴−かわ・ハ二九り︰ト牝︶‖本閤係で、現に、相点り地理肘火のれHでむ・ハ・γ.ン止ソ・
桐・け、支
に依ろ。撒
死に鮎
︵〓eコriPr︵詳r︰、代り﹁=赤川︰志宍ヨ⋮b一㌻t︼一3JこpS⋮戸口ュい〇コ誓釘b宣言ヨ享首一っd篤〇一1﹁ポ戊−eど≒ニ二.hmp⋮詔J?
pヨドぎ︼望ほ︶ほ、‖本闇虹の研究た如く.へか、hざろ判定子して、れ〓収小にわ入・秀、げに遁べろ都子し㍗。−
一
耶、及び川佗支那の川㍑‖・−㌢ぷL‖ltのサド成り、朝郎に拭い一\ほ、クーラン︵リーヒーri躍Pul︰已︶のがわ一石。−
†=小計し−\代ふ。ニ‖⋮い持て、‖本川⋮斜わ、祝い∴‖lユ∵∴ハ八隼バ明“⋮九隼︶て、ド・ローエー絶l二いふ
斗講花ごL一\に、真に机隼前でわ一石。
−一入三C布い革命後汁位に糾いにル
か∼ん川究教習用l別の外、更に如汀川究の調めに〓雅た山が、アジア協曾︵貯・㌫蒜AsiPt⋮qロe︶でみ
る。﹂八二二年︵文政≠年︶オルレアン公︵亡与d.〇ユPコⅥ︶
イ・フ†リ:ソ・−﹂で名顆紙北に、かのド・サーンな組成 として創宜せられ、前述の多くの蝉者を之に
蒐めてヤ﹂丹。機聞雑誌としてJ⋮r−已A㌢t百石が苗初か・し紙刑、和々凡〓箱な仰兜かある。叉ビ二.ル
675
ヌーフ及びカッセソ︵Cい︰等−︶の﹁比利雄⋮相克﹄︵一入二六乍︶、ド・ジ・lジーの﹁シャクソタラ﹄︵一入三〇
年︶、セナール︵E′ni−eS㌻ま︶民のマハーブ丁スッ︵一八八二−九七年、三等︶の如き旧版正、何れも
この協曾に負ふ所でや小。加之、西成々緯︵一人二号証年常用艮文庫に引鰐ぎ︶、ネ.ハール焉本︵l入
阿ハ∪年水川捕︶S小骨椚一で得た串がJのり・、協倉の間宮鞘︵今川﹁卜院内︶にほ、フランス束汀学者の文捕な
ど.富雄してゐる。︵鉦︶
弘一九三一咋、シ† ン〟”リオンりエジ.7ト川﹁の効損㌍混・,J、アジア伍付り別正ごり百隼認小心㍍が、パワで行ほl㌦、日本から
L六列♪Jれた。同咋﹁打咋祭記念招ト︵T.e牙re︵どc竺︷eしPil・e︶む川根・しlヽ筒吋の根批から、里渾研究わ詔旗門に五って.
犬々詳・しい釈逃がわみ。
約言すれば、フランスの㌫敬川究も他に見る如く、和雄的考拝む甥此ハに及ばしたに由来す一Q。之
がやがて敢構ぉも科草で云々ヾ一じ串ともなり、更に廣くいへば、宗故暫利坪的に批判す一っ恥と‘IJに
らう。其の鶉に、屈むと詩情堺とのカJで紺︰′化謂にハ与る。絃に、試飲に封寸る方而と、旅史的吉池
草的芳準でとる方面とが旧て雄一久∪而して、一便数構外で、多棉多様の井向に進路■で取ってからは、
ガ彷山側が押詰でめったが仰究の糊には、椰々の㍍敬一で・も知り,叉漸く敢捕にも突入する意気を云
見たのである。然し未だ、ハパ敢哲夫として研究む進めてゐるとす■和までには.至らなかったといへ
よう。椒序として、其の緩流一で辿ったのである。
フヲンスに於けろ再パ批研究に拭いて
67¢
オートゼチエードの設立
フヲンスl二於けろ宗教研究に就いて
〓
前項で、頗る繁雄な叙述をした提であるが、要するに東洋研究で、勃興の気運窒不した新傾向は、
復第二帝政時代で一歩を進める訴となつた。一方で、政治上にも、英った色彩が現はれて凍て、︵一︶
こゝで賓現された研究機削がぁり、︵二︶更に進んで、この中に宗教新鹿毎科の設立にまで及んだの
である。然らば、︵三︶其の組織施設は如何。又、︵四︶訳ハの外部的統制は如何。此等の軟凱を椒次に
述べて見よう。
従来成程拳闘も立派であり、世界に誇るべき偉大な畢者も出た。然しながら、概して除♭観内的
に偏してゐ、従って、他を顧みる鮎に乏しかった秋陥は免れ得ない。アルベール・レブィルの言一ざ以
て云へば、﹁時勢が益歴史的、批判的となるにつれて、雉描之れ事とした、従妹の耶一の気風は、愈
減過し−概宿的な考察.間断的に進む立論、解決され化折りの拙論などは、自ら疑藁わ﹂括まれる様
に打†り、大小の串斬を柵細に検し、的樅に究めろ桝に、十分の扶緑がなければなら号くなつた﹂の
でぁる︵後にいふ凸ポ敢研究科科の護背約一幕序文︶。他力から見れば、大串では、出水上ってゐる科
畢を浮ける機剛の様な威がする。如何しても、長の研究の翁には、新しい研究施設を見なければな
ら中野惰に立ったのである。
時恰も、ナボレオソ三世に懲り、自由思想の膵史家デュリュイ︵くicすぎdy・−≡⊥望︶を文部
大臣に作用し・基の創塞に就いて、廿⋮等攻究院︵ロ・。︼eprPti竃dつ∽苧各班ぎd庁1似りに斯く辞
出した。異にオートゼチトドの名で迫ってゐる︶が生れる郡となつた︵一入六人年︶。之に四研究轟
科を介む︵鉦二︶。北ハの︼に、膵聖・︰酢学研究単科を奴へる。こ∼では、勿論創証の粕融から推しても、
教授が講鶉をし、坤珪が之■ざ聴くのではなく、坪井は科草的研究の方法一で丁持する兼.正接研究に
関係して.ゆかねばならない。かくて敢柁とはいはす、之を研究指輸出︵Dぎす弓d裏已且と公押する。
その内で、大坪よLリこ1U、解ろフランス学院の敢搾が兼任してゐるのを見る。現に二十六講座ばかり
フ’ンスに於ける宗軟折㌍ド拭いて
アツリア拍、エジブト語 等の東洋清から死語の棉来誠に及び、更
−勿論支那、印度が申心−Iゐ考宥伊、首相勲の研究わ眼目ご†る。串士繁文邸郎︶モの附係がわろ。粁頼からの脾苑
鮭 川之革特大分後に在ろが、庵如椚先の畢院のわる和む附批†る。l八九八一Iミ氷ハノイに蒜粟フランス甲㍑ね研いて、揃来
欠l土光い。
批 M他の三研究勲科ほ、軌畢・物鞘化隼、及び‖然新邸でわり、祇準、∼1=関係が布い。何拉L文学通り、研究の府㍗ろな
︵批二︶
梓され︵一八六九年非︶.今日已に二有数十部に通してゐる。亦前校愈考とすべきものが少くない。
に之に閉し写舌代の地相,冊史も少しめる。而して此等の研究の練梨−ま、この単利の諮脊として上
椚は勿論、セム許−イラニ†∴呵
あり、三十仰の指頃日を節する。之をざつと見た所で・一般言語邸、ギリシア、ラティン兢⋮の育英
8TT
678
フランスに於けろ宗釈研先に用いて
で知れてゐろべリオ︵P亡l︻−L−︰Otい氏
−
フランス隼院り役招でわり、シ十ケアンヌわ陣ヾJ†ろ
ー
も、別状前の一人でわ
ふい
。閏柑瀧与して冒ご竺⋮n㌢︼▼㌢〇りerい・㍑−i衿≒ワニ1・㌢弓○∴e−1tハ一九〇一咋兆︶がわり、非り仙り川故もわり、北ハ
ろヾし
に=りカ所の研先に快くべからざろLりの一でぁろ。
かくし−﹁・白山の造が已に捌けた際、節三共和国−り〓現︵一人七C年︶と行†り、急に月面が開展され
た。殊に政教分瞑の政損が話しい。一入八一年の頃、一般数肩︰り課程に㌫孜々育を禁じたに紙ょり
ーー⊥ノラソ二エリ㍑一∴ポ貴史一で㍗いた⋮串︵一入八C年︶は已に述べた−−∴八八五年雑犬畢から、カト
リク細枠利Jで頂†㌫串に㍍つた註こしこれと共に同年の文部別線鉛に於て、高等攻究院に宗教和栗
埴科︵S邑i2des浮ie−−註乙i且じ11Sエ新設い肌日一軍計上し、下院議︰Hデュポスト︵Lrl︷⋮i−−Dub邑−−誓芯
−−琵−!橙⊥院消長︶に依って、下院に拉出された。要は.綿々の㌫数がぁる。而も之等は、何れ
も人相厘出の一部一でなすものであり、従って之一で傑出とし∵比較批判して、その間の尻接問綾の囲
係を知るべきは怜⋮然の串に現する。されば、今翻隼郁の僻﹂止む以て、あらゆる宗数研究を除外する
を得ないといふに一再ら。勿論、カトリク方面からこれに肉迫した隼は州心像し得る桝、印も文部大l︰ミは、
之に対する答描の一部で﹃相成棉の弗職申に在b勝に類の溝論に没鎖するが如きは、如何なる形式
に於ても、㍍‡攻究院の動謂申にJ申卜得一〇とは揖へない。縄々の欲す㌫所は、小川敢上の静雄にめる
のではなく、研究と批判とに進ひにJりる。我々は頂典の討究むこそ期すれ、㌫薙い論議を待つもの
87t)
ではない﹂と論じ●てゐる。かくて翌㌻八八六年一月一で似て㌫放耕究隼科の成立となり、〓パ
カら
講の津びと1亡つた。仰し、之■でJユlて阿㌶が反㌫数的︵︰毘i←・c︸i字uH︶のは伎王出にので、
はい
なは
く
さりしJて又之に反対す一じ焉のものでも㍍かったの
ぃ伽⋮㌫数的︵n▲Jn・rつli甘uエs億伎にぁつた串一でいつてノで′、。即らヨポ数研究坤利・で組織したのは、同
家がカトリクの諸に徴ふ一Qむ黒んだいでと∴はく、
である。祁許は描出的批判的方法に依って、再パ敢現り軍そのものに封す一小用先に詰ってゆくトだ、適正
−
の︰∵.1であ一′㌔以て打とする。︵鉦二︶。
であり、之が叔常に再︰⋮んだ眞砕の草匠を招放しょぅとしたにみる﹄とは、リアール︵L︶β㌃㌻⋮一こ監の
一誌宣T−壷極東として訴名
言上 Mれ接︰、り問用でけ互いが、川m頼貴り分離、即ち取付わ頼酔り保濃から即し㍗りに.一九じ五年りホてわろ。
ミ4−棚﹂一九︼0年︶に、委しい眠虹む吼隼。出家
紋 日此りりい射り溝⋮≠叫〓lェ/てり別hユ︼十九卑lニ持ってトゥークンlt打り十村
ざしてーn−亡1く∬・してJツわ。丈リアールり引綱欠け拍坤祭・ト草してりLめで一日付糾︵一人九古ハ咋︶lニわろ。駈に二十咋l二
珊⋮つては、帖の′里長ゲエルメの∴抑里かわり、之トほ.捏料成光則り外匡1吟邦帖なごも池べてゐふ。同年判L九一六坤︶
塞細。
北ハの指墳力針い如き、他の草利と異な
抜に成立む見た埴科は、敷布綾持戒したソルポンヌ︵S、互﹀︰Jローエ新郎山一郡に︵瞳担吾納車研究科に
舶対して︶移って︵一入九七年︶今‖に及ぶ。基の研究精呵
よう
らない。重しく糾純などに鴨れるきー那 はやめて、直ちに溝適・り拍子Jで一亙りして
比。
其の前に創
正味の草部長を列記する。川れも坪内の抑墳︰り申から駕〓されてゐて、従って次々に述べる11りに基
フランスに於けろ宗欧研究ド批いて
8SO
フヲンスに於ける宗紋別究に就いて
八六
名が出る。即ち、アルベール・レブィル︵一八八六−一九〇六乍︶、エスマソ︵一九〇六1一三年︶、デ
ュルヌ︵一九二二−二三牢︶、而してシルプアン・レゲィ代︵一九二三年非︶現代と悠つてゐる。
次に講鴻に就いては、一々重しい内容一で述べる謂にはゆかない。唯講座の雌ぉ出うて、蹄辟者■で
描げ、接合講座′で掴めて考察する。
一、未開人の小ポ敢︵謬−i軋○−1ニ謡l︶2p一房nOnつiノ﹂㌃且。一人八八年から、マリイエ︵㌫Un試買i︼−ier︶
が課外講義七始め、二在校、之が溝膵とい7り、同氏が招任したが、不慮の英厄で剋∼八一九〇一年︶、
閥務、現代モース代︵声ソr王室︶になつてゐる。繹初から、オセアニア方面の研究が多い。
dC︼㌢乙−リ・︶−S︰︼ヤー︼ロー上が、アメリカ印庚人の㍍敢糾読を試み、一入九川年か
二、﹁コロンブス﹂以前のアメリカの㌫数︵−Eig⋮0=S計︼﹁r碁エモ1Cワr㌢ざ=ri︵一−1ご仁︶。創立の翌年か
ら、▲ド・リーニ︵忘Cn
ら、レノー氏︵G・冒¥呂d︶が、課外講義として、メキシコの㍍敬一宣講じ、一九〇七年前記の名■ピ以
て燭光して同氏が引頂いて、今‖に至ってゐる。
ー
前出
−
之に碑⋮り、専ら支那冊
三、柿東の宗敢︵謬li乳〇1−Sde︼由已r巾2?Orぎ什︶ド・P−ニが創立求、北ハの引退︵一九〇七年︶まで
怜皆。‖支の古代㌫故に就いて併読し翌一九〇八年シ†ブ′ンヌ
儒の研究に入ってゎたが、一九一∴年末離任、詔年末からブラネ代︵声Gr呂et︶が、其の後イで塑ふ姉
となつ化。
681
四、印戊の霜故︵貯ligiO︻広︵訂コndけ︶初めベルグ一三︵A訂︸甲r習⋮gneこ琵∽−︼S∽∝︶に化せられ化
殊にフランス車院主致授となつてから−−或は
が、北ハの講準で見ないで、ジルプァン・レブイ氏︵ぜr・仁il−忘ヱ之に代り、今 日も其の備にある。併
し、此の糊賀際指塙に舘−つた輿は比柁的少く、−
ブージェー氏︵A.﹃Ou︹︼彗︶、或はフィノー氏︵ヨ邑︶が、之に従った串もあト、時に休講の浴すらあつ
た。現れでは、レディ氏S講藁はなく、 フーシェー氏け米塩にぁゎ、一九二〇年非マソン・クールセ
ル氏︵句●ソ︻転呂・〇ur巴︶が、臨時講義■でしてゐる。
︼00∽00−−30︶が田仲したが、翌年からアメリオー︵EmニつAコ蒙望−−蒜○−−u−ひ︶が敢職について
五、エジプトの宗教︵戸ligiO房de−占顎p且。常然初めからあつて.ル7ェピエール︵Eコ旦︰e↓もぎ〒
re、
ゐた。北ハの死綾取年間.休講の姿であつたが、終にフランス学院のモレ氏︵A・試Oret︶の就作︵一九一
入年︶を見るに至つ陀。
ッ
六、
アシ
リア、パピリニアの㌫敢︵評−igi。−1A撰yr?BPすr。nienne︶。カンタソ︵A・Qgヒtin︶が、
入九〇年から課外講義を始め、其の死後︵一入九九年︶7†セ一代︵C・勺議まが之を拇ぎ、同氏がノラ
ソス堺院の教授となつた翌年︵一九〇六年︶に講座が設けられて今日まで招いてゐる。
七、ノ二っフエル及び何部セム民放の宗敢︵謬ligi。nd﹀HsrP聖etd涙m㌫日i訂∽。完id3ぎH︶。創≠の際
セム民放の需放として開講。翌年、ヘブライ民放、及び西部セム民扶り需放と改めたが、更に、一
7’Lこ入にこ於ける宗軟研究に就いて
占S;‘
フランスl︰於けろ㌫批研究に拭いて
八八
八九六年に及んで、前記名に縫った。デュルヌ︵巳萱・i完ノ、e=−つグー∽畠−−講じ︶が、初めから終身基の
職にあつた。今年から、フランス堺l冤のリアジ氏︵しL↓b百︶が代る射にキごつた。仰、同氏は先さに一
九CC年か・h向牢川、聖JI!Lハ史閻楕の課外講義一ピしてゐたが、偶、軟骨との問題む起して、中施して
ゐたのである。
が、一入九﹂ハ以蓉、受持ってゎたが、数年前︵一九一九年︶から、同氏引退の妾
八、クルムド、及びラビ一に依るユダヤ教︵︵ぎl︰1㌢1︰∴トニ⋮=ニiニ11C仁ニ㌻〓㌢i一−=C︶。イスラエル・レ
ゾィ氏︵h・・・︰巴−・‡︶
となって、リベール氏︵︵リ︷・L〓三・︶椰諦。
九、関々数、及びアラビアの㌫数︵∼〓巳Jlぎce:・C度C−⋮㌻l≠・︰1Ec︶。一ドランブール︵i−H笑ま垢P・
re−1F≒や︼甲ご−︼茎S︶創式と北ハに桝溝。りl退校.現仰エアール氏︵CJl=Pエに誓つてゐ一〇。
一〇、ギリシア、放びリマの㍍敦︵−誓⋮軋三筋︽㌻l︰ニー−・㌣2つt計−㌢且。一八八六年から、ベルト
dニ︶iシーヱエ。一九〇三ハ・から新し︿出祇て.
ロ代︵トl′﹂ぎ什︼1e一Ot︶によつて帖講でl・Lたが、一入九人年来、現作トゥタン氏︵・︸・声ur㌢︶誹鳥の鍔際に
一一、ヨーロッパの掠鮪㌫放︵−Ei帆i︰畠七︸・ぎ山tiぎS
従ひ、ベルト・ロ氏は損近蚊年前▲三じ、帰京に止まつて′山に。
ノ
γブェ︵Hりい︰つぃtTロゴt、−S−∽−−SS
現什ユベール代︵寧l叫=訂ヱ︰か招作。セルト人、γエルマソ人︰∴“放い抑巾川が産でぁる。
二﹁ クリスト教師泣出︵i㌻こrりd註eユ甘11︵㌻⊆女王を⋮\・ト
郎:
ロ︶創立と共に腔浩。基い死綾﹂
奈臨人の宗教︵一︶ノで設けーて、ヱむ暦止すa車とh甘つた。
二ニ、クリスト数文里れハぴクリスト草々合出︵︸しi等・︰一t㌻︹㌃笠りさ:こ︼㌃どiredニ貞怯訂り︶。初
めは弼並の二講座であり、前ポだけで、指項︰〓二人▼い椚作でみつた。即ち、一は、かのサで7ィエ
︵Au讐S紆SP一しムり1こSつ一芸ヨ︶が受持って初めたが、宛後之Jで以T、前記ヨーりり.ハの原紙㌫敢︵一
一︶を設ける里になった。二は、マスビオー︵rb敦賀P竃斉au︶でぁつたが、病気で披講11 一九〇
三年毅 − ド・フ√氏︵E・︵訂ヨ︶つ︶がこれに苦ってゐる︵一人九四年以換︶。後者は,デ丁ン・レゲィル
Al・︵l致㌻・
−。而しT初めにいった講座絹更の㌍︵一九〇一年︶二部′で令して一講座二指
︵J2−カキi㌢こェ十⊥SS︶に張り、北ハS後J牢釆l†てモノツー氏︵H︸・リーO責≡一H︶が現職にめる。− 亦
フランス堪院の数持
垢︰lユとなつた。
一問、ビザソティン岬代のクリスト放、及びクリスト放考古草︵C︼︶りiた㌢−isヨ鳥ぞ臼コtiコCt
giec訂かtぎ莞︶。山八八九年から引離いて、、イエ氏︵G・ソIiuc什︶が田仲。併し苗初牧牛㍑敢か虹小に入
ってゐた。之がクリスト敏文草と合併しても同様であつたが、一九〇七年から弼荒したのでぁる。
一五、数理、及び教義如︵昌江どired現じ邑rin戊象d玩D毒ヨ且。放鵜史山名で7・ルベール・レゲィル
ア什
ルP
フ・
丁A
ソl
デi
リ︶
氏b
︵昌d号︶之一γ継ぐり仙カ、
︵−讐挙−−苫ヱ創立から槻溝。一九∩七年凍現
一入八八年に常雄及び紳坤との川條力耐に射して型一講座設立ん後フランス揮院の敢抒となつたビ
フランスに於り一∴祁利研究に放いて
5S4
フ’yスーこ於け皇不敬研究lニ糾いて
九〇
カブェ︵句r呂すsPi∂くeオー00誓1︼諾こが醤任。一九〇六年、前逓の名とし常に二講座になってゐる。
ビカブェの後任としてデルソン氏︵E叶Gil筆︼︶が之に潜ってゐる。
デュネスクル氏︵R・G賢乳Pl︶後一三整うて︵一九〇七年︶今日に及ぶ。
〓ハ、致命怯む︵l宇ぎi3dl−p・OitC2−。且。創立時から、法科大草の教授エスマン︵A●醇日eillL∽
全㌣1−芝∽︶聞講。病紙引退埠
こ、アルフ丁ンデリ︵一五︶、デュネス虞ル○宍︶の諸氏ほ、大槻中従軍。
一七、泣拙思想史︵胃㌃すireL認iた慧=−岩rPl且。全く最近の講座で漸く昨年︵一九二三年︶設立。メ
イエ氏︵A・Pyet︶が櫓任。︵批︶
註 謂導点の叩、モース︵一︶、グヲネ︵三︶、エペール︵︼
フーセー︵六︶、r・フ丁イ︵一三︶田代亦斬く岡城。其の錫−此等¢講載l王、その間快けてゐ㍗。
以上の捷に、現在では十六浦座︵中に二講座のもある︶あり、各二講我が普通で.更に課外溝鵡が
之に加はhl年々の講垂二十怜。指癌員二十名許り。地溝生は、年に依って随分差はあるが、前年
度では二市名一考超えてゐる。
前掲の溝煉■で抽出すれば、恰も.各軍門家が∵恥門を分けて、一の宗教史■で講じてゐる睨がある。
先づ︵︼︶﹁板射的㌫教﹄で、現存抑放の最も股飴鵬とせらる∼もの、及び之に近いものの宗教現象を、
企根に亙って研究して、いはぃ以て㌫敢の頂紙型ノで招ト㌧一方では、材料い鮎から考へても、押炊
の翫から推しても、殊に闇係の拭いクリスト軟から、成立霜歓り系統ノで兜町ようとーいて、︵二︶﹁近
東の㌫望の巾で、エジプト
ア、
ッシリア・ノビリエア、セム蛇雄の宗教から・嘗杓堅持りガに入
降って、ユダヤ教む見、招いてアラビアに進んで何々挙で調べる串になる0之でクリスト放と前後
セルト、デュルマソ人のも山・に及ぶ串になる。之まで.で前提と
に於て関係のあるものJで知る。今度は.其の梢精し繚遁Lた地力に凍て、︵三︶議州の㌫空で・一
両、ギリシア、ロ∴∵ぞ者ぺ、仙呵
して、︵四︶冒リスト敢旨入ってゆき▼巾他期に至るまでの準備を、文邸や、散骨虹、敢鶉故に亙
り、叉其の法制聞係営も究めてゐる繹である。
クリスト数系統に射して、極東望ポ箪米紙に咽れ
.併し他方で、︵宜当光並の喜藤﹂を躍いて、頗る不十分ながらもー勿論、特殊の研究で著名なも
のはぁるが、こ、の問題とは自ら別である。−
て、出水縛る限む、宗教描死金闇を速めてゆく努力空小してゐるとも考へられるのである。
職碇彼の恥であつた。此の邸科から、文瑚岩へー﹁宗放出寧竹L︵Ⅰ邑t已d−−−賢red讐21igiO且設立
の費を求めるに至った︵一九]九年︶のは、亦、何かを物語るものではめるまいか。
大間郡利の内部飢餓を見た。之が外部にどういふ活劫をしてゐるか。之に二方面を分つ。
フ,yスに於けろ幕教材先に胱いて
ヌ,宗放出埋骨︵9増訂訂す乱G邑d㌔ぎ訂d銀邑glO且は、一九〇〇年、時の邸祁追アルべー
研究埋骨︵ぎgr釘d虎Orie邑訂︶は、野に一入七三年,ド・了こが始めて組織したものに威し、
研究派拇刀頸補助、或は軍令の組織乃至援助であり、一は、出版物によるものである。就中
585
占86
フランスに於けろ宗軟椚先lニ訊いて
ル・レゾィルの鎗剋に成る。其の綾川年毎に1メーデソ・オブクスフ†−ド、ライデン
冊かれたが 、
九二
一
大戦の書中耗の姿にあつたのな昨年︵一九二三年︶ルナンり性誕行年究を接として、其の節五同一甘
再び.ハリで催した。この報告は・まだ出版管見ない。次に出版のカでは、年鰯と叢持とがある。共に
研究の塑来擾閻をなしTゐる。之によつて草科の研究の∵郡■で窺ふ串が出水aり前ポ︵Al⋮l賢e︶は
一入九二年から如・Jひり、絶右︵ロb㌢ニー与−e︶は一人人丸年に招一足が出て、現れで三十八なノで損へ一り。
此の仙、彼にいふ﹁㌫款史郎誌﹂ら、アルペール。レブィルむ琉め草郡内からま酔い出てん、草斜閑儒
者の執邦に成一りも山︰㍗多良Jのィ㌔︵誰︶
談 丹那.沼常緑について.悍拒だけて−J〓けて.参ぢ亨し告いが、祉ら∴読直な弟ぐのん・娼打て、之わ−鋤け㍗。
この頃を結ろ前に、印扇が掠ら湖しんでゐる講端の内容、釦−Jちどういヰ方面む、どういふ材料で、
ルケム派の草封として、紙上7′=い万パ択敵中川∵ヤ怪聞してむィ小い
どういふ夙に耕究してゐるかI・で、述べてむくのも決して侶⋮恥でぁるまい。之はモース氏椚仰の﹃未
開人の㌫致﹄に就いてヾあ一〇。氏はデュ
北ハの講貸に二つある。一け、オーリハトクリア人い小岩帰現象の研究であり、他は、土俗詰闘惰押の机
邪である。北岸に粧して、鵡近㍑布川い頼子を述べようと〓仙−ふ。
一1=でいへば、オーストラリアに拾け一り無情の抑究で、鈷に新雨としては,カー〝・ストレ二∵ク肌
アルソク︵レコ⋮t巨1︶死折が減きJピなしてゎらぺPr︼誓邑1㌻1︰DいCトr⋮﹂㌧u己r与7.㌣旨こだ㌻Nりい→
tr︰チA最rL訂n∼ひHつil怠A−︶笠コn甥エーuOソ⊥諾○︶。氏は綺儀︵︼・iぎー︶ノで行伯︵r・ヨP云el︶と、謂網
︵r・Or已︶とに分けて比る。而して択年非郡上綾嘉わ描壷石其㌻してゐる。勧めには、放駕な意味でい
ふ︵資cすs芳一l︶宗教で、この現忽せ耕究し、次いで、構い意昧でいふ︵㌻どscnsロ︶ものに及んで凍
た。今年は、その小でマデックJで琵とする鐸である。
他の方では、先リノラネジアのもので、バンクス仏︵P−1訂︶の址倉及㌫致純綿、進んで秤折糾拍を
.調べ、︵弓・H・R・ヨヨS・Th︵こ︰iぎ︸・句。;買1コC計11罵iety−ぎ。:ロー︷︶、次にトロブリアンド︵学?
b−.i呂d︶高の辟折崗穣一ギ見た。︵日∵2Fli−−ヨLハi︰Ar讐巨打つご︼1㍍弓邑31Pci−.ie−︼汚持︶。今年は招
じてアフリカの宗教醗亮一で考揺寸る。︵R・S﹂どtrPyいAs︶⋮き一誌β。
こうした二講話で、二分向一で試みてゐる串が知
前れ
者る
で。
は∵指導員白身り研究精鶴を嘉して、
或問題七抜ふ場分、如何なる新料に因って、如川なる方法で、如何の鹿闇のもの■で得るかを説く
従ってま建材料の如き、必要に雌じて、一々原文に館って、戎論抜■で待た筋追お重しく示す。之
して後粛では、研究め進め方一ざ郡くにめるので、材料とすろ評紺に配ほする叫になる。而してな
だけ撒溝珪に試みさせ、丹前一ぞまとし、之に対して滑時貞の批判、基仙聴講者との貿疑臓器にも
フヲyスに於ける宗教研究に就いく
摺ふ姉は出水なひにしても、宗教研究卑l斜に就て少くとも其の一部をホすに足ると思ふ。︵未完︶
る。かくて、名‖は邸校であるが、北ハの婿は、研究墨に翻する。之は低かに一例であト㌧以て公
6S7
令利伏釜に就いて
舎利供養に就いて
買
琴
偶像を別むとか或はこれを謡いて照邦供姜守ることば比較的綾批の串で彿薮の頂飴時代
見るべからぎるものであつた。棚減後少くとも二三百年mは令利和ち献郡︵bテ聖ど︶と華捉梯︵出cdE︶
とり祀押供養のみが祈はれそれより彼にへuつて都等の祀邦供養と和伐つT仰像川霧が行lまれたもの
令利とは何ぞや
令利は設利靡、冥利羅と同じ︵梵語ン†リーラの音繹であるが、允許シ†リーラにしてもバーク
二
何へられたことは椰鱈に史料に記されてぉるのである。今捗に古い偽血ハや小石に持っ
とその供養に就いて述べて見たいと思ふ。
れた形跡を文献め上1二は見〓すことが似非ないが、常︰掟柑と北ハに駄椰の締めて荘臓なる儀式の下に
穂が環敦弘通の栗めに今の似蘭島に渡った怖には祀祥供養の封象として仰他のやうなも
を表示するものとして偶像が前非されたものであるが河原紀元前阿吾大※S藤代にその子摩晒陀大
である。それで仰故が支邦へ侍へられた時でも、百済から我日本に熔へられた畔で豊麗
5S8
669
語のサリーラ︵S弓irP︶にしてもその第二鵠は身偲といふことである、それで身鯉の混載あろ介利が
何 故に北〓通に彿介利たこと1いふ時の令利即ち迫骨といふ忠歳に縫化したものであるだらうかと不審
を懐ける人々もあるやうで一めるからその由雄を明らかにしたいとm心ふ。
バーリのマハー.ハリニッノーナ=スック︵大股漫整蕗︶に洩ると、彿陀のサリーラ︵身憤︶が茶枇に
附せられてしまうと酢や仙の燃えた跡のやうに次も媒も宛らないで﹁サリーラーニL︵サリーラの破
数形︶のみが残った、そこでその﹁サリーラーニLを七日問供姜硝邦したとぁる。彿一軍二減の踊めた
ものといはれてゐる詐稗﹁スマンガラグィラーソニー︵バーリ長張祉︶﹂に就いて此所の﹁サリーラー
ニ﹂の証斬を見ると、﹁前には連結されて存せる﹁サリーラ﹂︵身惜︶でぁつたが、今庄に﹁サリーラー
口許宮の巷次形︶
一ことあるはチリチリづフでフになつ托ものだから﹁サリーラー一ごと桝寸るので、その物は可愛い
常のやう又は脆ける輿珠のやう又はⅡ金の粉末のやう互﹁ダートゥヨーL︵ダートウ
J
が槌った﹂といふ意味であると鮎澤してゐるのである。之で以て見ると俳陀の退職む茶枇に附した
ところが磨ける英珠のやうな美しい粒が澤山盛ったといふ付設が古くから存して居ったものと揖は
れる。〆−トゥ︵Dh旨︶は本凍1要素﹂といふ魂であるが〆−∼ヨー︵Dh賢且と埴敷形になつて俳
の迫骨・で混練し撲菅繹﹁敷布Lは﹁令利Lと同窓鶉に川ひられて雅たものであ一〇。後他になると両方基
畢扱形で俳の池野といふ意味に用ゐられるやぅにな♭、二語を接結して﹁サリーラグ−トゥ︵令利駄
甘利供暮に訊いて
令刺供養に就いて
祁︶ともいつてゐる。兎に空論に
しも駄郡にしてむ美しい穀粒り形ににろてゐるとい ふ古い佃説
らして、試‖本㍍どへ奈良朝や坪安相棒代に購雄された令利は何千何吾粕と放へ#てら江此等を
榊梨芋へ分配せしことJで㍊したものに猷邸分散記など1いふものもあるやうな繹セあ去。次に一
ト
俳合利
..′山 千六万閃十:←左
者
凡侶別蕾
藍北朝い
勅使秀兼
長
太政大臣
玄即門院
内基柳本諦
例として点在祝祷い史料中から托弄しょう。
1
正雄宜牢三‖二十五‖
.
■ ‘.一﹁■−
−
粒封二㍑封:ヰよ て相即二 等と;廿拉
l ︳■■●
一 一一 一 一一 一一 −し三
几わ 一∵り ′∴︰武
乙 一
乙lい 乙叩 乙 乙【11 乙 乙叩
・− −い‖ ㌧りJ
l
▲
二
五
描 粗 拉 旭 拉 拉
長阿合揮い些村粧には、合判分配に就いて舶叩ふ帯川艮力闘に仲裁り芳、ぜ執った脊姓準羅門は
−
瓶に一石計の合利・軍資けて十㌻巧しく誹は艮の糊に八分したとみる。市址ほ現川
︵冒⋮
阜。はドゥーパ
590
香︶であつたであらうし、十諦律には姓朋噂維門とあるが、これは原語はドゥーマ︵2ぎ⋮痢︶であつ
たであらう。然るにバーリの大紋捏難解にはドーナ婆鋸門とあつて、ドーナは一石ほどにも甘たる
桝りの名である、梵措ではドゥローナ︵Dr︵︸膏︶といふので、根本説一朝石部毘奈耶にある失賂畢婆羅
門の突路韓はこの骨繹でJヅ0、かやうにこの時の婆羅門に桝‖り名む附してあることにも何か由雄
のみることであらうと思はれ一〇のである。綾聴介利入相四斗とか一種六斗など∼いふやうになつた、
養
の
串
、、、−
バークの大般浬弊紙に城ると彿陀の分利︵サリーラーニ︶は輸出枠組︵SPtt甘督且を造り、弓の胴
二、供
奈耶雑黎には﹁如雑食利総和ユー械六斗−分璃;八分−Lと記すに至ったのでぁる。
ヽヽヽ
ヽヽヽヽ ︵b戸胃己p掛試r仁︶を廻らして七口問歌舞音型香華を以て挑発したとある。証将に依れば焼の枠組とは
ヽヽヽ
柳を手に執れる軍兵のことであり、弓の桐とは象堆、串畢、歩畢の肩摩穀嬉して取囲んでゐることを
タシト.・−ラ
意味するものであるといつてゐるところを以て見れば象罫、軍畢などは弓む持ってゐたものと思は
る。遊行締に各同比が囲椰兵︵象兵、掲兵、祁兵、歩兵︶を位にして拘什城に入ったとあるが此等の罪兵
を以て守誰したことを意味するものであらう。ところが各閉山の問に弁別分配に就いて叩諭を悲超
すに至ってドーナ婆羅門︵遊行種に苛酷軍都門︶の調停説諭によつて介利は八分されるやうになつた、
留別供兼に訊いて
′l、
鹿骨般泥担絆には﹁珊般泥直後二宮歳帖附帯王徒入王転入附川斗合利︼Lとあり、根本読一朝石部毘
tiOl
69:三
令利仏道lこ就いて
†ガグー 摩瑚陀囲の阿聞倣王︵よ賢邑tll︶批介離城の維串人民つ、各≡ハ㌢lJぎ訂且荘樺抑制波閉︵ヒEぎ〓︶∼−1ハエ
の駿酢飯︵浮lPlノ・。、Pli︶、迎維錐衛誠︵R鼠F邑t−=1︶、の粁迎放︵S=茸,1J、羅席伽囲︵2mM一等阜㌫拘利放
︵lハCli㌢︶、吠*奴噂雅一−・−︵ノ.e号︵音lk?b邑−・蔓且、披婁城︵P宮エの末羅族︵冒〓旦倶Jl城︵穿乱−−賢︶の
東経放い入着に分配されたのであつた。彼等は各々自閉に本麗して措堕︵±阜†∵窄建立して供養を
行ったとある。須ほ多︵S=きt山こ即ち鈴払弼長者が彿陀に舐多林︵Jェ弓己−−藤林︶を献納し此踵に捕食
︵≦一弓・比討祢︶、房文Ⅰ︶弓ぎ︼エ、鐸術奨︹㌫打⋮21邑一姦歩場︶、串拓桝︵︼ハ。〓︶曾l怠i︶、火葬Agg宣脚︶
群雲Ja−1t与弓温室︶、食堂炊吊庖︵Ul長一−呂邑−旦仲川︵ノ、貢−貫こ、陸︵Rこ号lハェ、井戸冥t↓︵首JI苧
乳F︶−カ減︵捕縄冒︼ハk︼1ハ5官にに迎地の鶉もあれど此所にては鵡露の義なるべし︶、犬猫要ソ喜一ヱJP
決に衆何基堂ともあり︶などJピ各々いくつづ∼か追証せしめたとある、︵巴利膵臓小〓州節六如附⋮︶この
舐同相令・∽建造物には何等酷評の対象となるべきものが無い、又彿陀在世い時代に於てれ云ペき筈
が無いのであろが、仰陀い入減接山侶囲︵S︰息㌻吉⋮︰帝伽藍︶にあつては二つの粥婁モ■る綿邦の対象
が現はれた、帥ち北=混用︵︼㌻三ごとチェーティヤ︵︵▲c二∵1‡小冊里︶とでJ項乙、この﹁チ・1−一′1ヤLは棚とも
彿膜とも謂されてゐて、
浩比喜址律には、比丘が牒‡須澤∵÷什箪で構へた場合に廿桐悦示あ㌫比
モい
いが
帖、
に描
∬聖
柁・
しし
丘はこれ′で打毀ってL∵よ
=俳
し︵
と一
ド÷
陥外仁とムふし坪両肘武葎仁は
措と︵≠号︶と支提︵=韮骨耶︶と章−帖別して播け彿有利む安附してあろもいで支捉は彿陀S一升嘉供
養の典を安躍してあるものであ・一叉列一q二九、差︶としてあろ〓れ∫云、果して両部の悶にかやう
な帖別があつたものでぁるか蹴る疑しい、予はこれは構逝い加速から名榊を異にするに至ったまで
タイヤで如く別に漕があつてそ
のもので、チュータィヤも矢張彿舎利の本堂臓であつたと考へてゐる。それは完全ヘサり仰伽藍として
は青くは必や彿介利の奉安殿がめったであらう、而してそれはチーL
れに華麗してあつたとすれば.さきに﹁北=捉榊と俳殿とは除外だLとめるから介利坊は毀ってもよい
といふことになるからである。
阿帝大王り王子脾晒陀大穂︵巳已−i⊆㌻ttl−宅P︶が柚子囲︵鋤蘭︶l二綾つ化怖が等正鷲者︵m呂ヨ訂岩ぎd・
から非常な優嬰で受け、朗々説法むなして比率で歓喜師躍せしめてゐたが問も
d訂︶の般捏弊よb二中二十六年目に舘云といふことであるが、揮晒陀圧時の帥子図※天夏帝須‡
︵Oeノ.ど岩音註哲︶
なく大穂は久しく等正愚弟な押しないから本閉脚膵拉に締りたいといひ出した、王は聡いて等正史
骨利供養に就いて
した、修摩邪は腰幅陀の妹仰伽繁多︵賢gbi日i許︶の子で阿斬大※の孫に滑る澤である。作躇水鳥伯
あ↓りと答へた。そこで‡の愁糾によb大穂の随術たりし沙掴拘修雁加︵Sllヨ呂P︶ぉ印度木偶に追は
等は久しくこれに射し問訊剋宣命草紙邦の他藩嘉一U.つてゐたことであるから、それで締りたいので
等正兜者ほ般氾紫に入られたけれどもその介利駄布︵許rirPム訂tu.1〇︶﹁放歌形L︶が存してゐるので我
者は已に般捏粟に入られたといふことであるのにそれはどうし化こと尋
かね
と佗るに射して大穂は
朗Ⅲ
694
舎利供養に就いて
一〇〇
父煙煙陀の命するがま∼に披咤利頚城︵訝盲ip已且に到って親父阿帝王に秋和哲授けられんことを
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
錨へば、王は修摩邦の手から鉢一ぎ取り香を以て鉢を塗り優秀なる弟妹の如き敏郎一竺猛って之む修膀
那に輿へたとある。修嘩那は帝揮天の許に到った。帝澤天は看牙薗と右鎖骨の二仰の駄邸を奉安し
て居ったが、長さ一山旬の七罪の靖婆を聞いて看鎖骨を出して修摩耶に授けた。修摩耶はこれを奉
戴して帥子駒に渡り、阿帝大王よりの駄廊は之を支帝耶山︵9音一︼︶コbl︶已エに安置し、冊揮天よりの
駄邸は阿冤碓陀城︵A一喜已首⋮l・エの而方過去三彿の造物柄跡と挿せられし培園︵≠ぞぎぎエに於て
郡の敗績のやうな形の拷婆を追って之む安離した。洪巴苦見錯には非情の令利快走骨の櫨依を邦駁
しょぅとて有らゆる都祁人の基まつて凍たことや介利が紳境を現はしたこと㌧どを記し、これ偏に
沸い成耐力の致す桝であると柿してゐる。西暦紀元両壮絶わ末に印度に入った法顕三城が師手駒に
預って彿萬山大供養法曾を押睨した記串が決闘侍に載ってゐるが、それに依一〇と彿蔚山水成されて
行く道筋には茄〃本狂の形像を形諏机にしたものを陳列し〟人の説教師が‡服を轟け大塊に爽卜政一で
打ちつゝ線起巾準で諒いてゐたと一のるが盛依思ひやられる。花闊では黒睦夫真の榊宰㌶∴巫︵両紀
五八八年︶百折聞よト伸介利を既納し.淳和犬曳の榊宇吊五年︵両細入二七年︶にはホ毎に命じ字体
介利を宮中に春満せられたことがあ㌔悪党大輔拉桃介利を支那より用水し、来観二年︵西紀八六
〇年︶叡山に於て初めて介利曾︵介利講又は介利報恩溝︶ノで桁ひ.仁和寺にて沃康清二年︵西紀〓
望年︶令利曾む創めて基穐共に年中打率とにつた。元弘三年九月二十三‖︵西紀≡二三年︶光背
への一輪旨には、1彿介刺串Lとして1石岡家錬護2本領朝廷安全之秘柵、那加二此霜撃苦Lとある。
ヌ悌令利を錦岡り榊軋に分納せしこと左するものに駄邸分散託と耕
にても椰介利供養といふことが可㍍り盛んでぁつたことが知られる
ることが目的ではなく、た請い彿典やその乱澤に掠って介利といふ
合判供養に就いて
舌代印既に於ける介利供養の粥蹟・・せ−附記したに池ぎないのでぁる。
896
696
祈約如諌め﹁守㍍法案﹂に於けろ冊mり地せ
餞約聖書の専院法案﹂に於ける恰偶の地位
L申命記眩Lよりエゼキュルへの登庖丁−−
了
一〇二
穏
﹁澤約顆容の守㍍沃塞﹂ご一三﹁エゼキエルパ﹂り守陀沌※み用了に外在らn。紺帯そり詰わ諒ビゼられん=ヾJか望む。
エゼキュルは元来エルサレムい佗司い家︵恐らくはサドクの家ならん︶に人となつた人である︵P
−u︶。だから、敢言−ポとして立つに至ってからい揖想にも幼時に受けたところの祭司的致養が諾しく
浸透してゐる。準;=岩としてい彼れは、役れに光村†る多く山抑此ハ的撃︰‖着通、帥ちアモス、ホゼ
ヤ、イザヤ、ミカ、エレミヤ等とは可成りにわきガ■で異にした人でぁつた。
従凍の韓日新は昨内面的圧精油珪活の華中でカ㍍して外面的な丹ポ債珪前には多くS用心一で描はな
かった。寧ろこれむ無歪として非難するか、或豆右け︰として排斥した。絞れ等は砦、反㌫儀詫鶉
であつた。
然・Uにエゼキュルは一カ、徒塞の換言京より㌫薮的、倫珊的な膏き遺草で招承し乍らも、他力で
は、彼れ等Lし反対に、㌫敢に於け一心代嘩い必翠で珊親しその川代主萌摘して止まなかつ陀。
彼れによれば、人の珪死は一に正しい偶佃を行ふか煎かによつて分れる。﹁のりLや﹁おきてLバ正
しきものは之れむ吊って人の珪くべきものであり︵P弓−︶正しから再ものは之れによつて叛く吋・㌧
ス。ノエ
ざるもいである︵ノ1.ほu︶。しかもを山正しき﹁のり﹂とりい﹁申命記汰−に隼乍らぬ。人は﹁小はLい規軍∵
忠邦に締って右にも左にも曲らなければ、副い僕としての作持に完了寸土いでや㌔紳古1ノ
しJ命やるところに従ってエ〝サレムの
ルの全家に究むるところはヱルサしムの埋山に於いて民が猷ぐ一小供物に外ならぬ︵く・き︶。だから人
∫新し生を求め、編就を願ひ、柴えむ希求するならば、﹁申決L
唯一祭場に預り、勃成りの浦物を献げ、染めたる供物を串ト、桐の献物・ご供へねばなら出いでみ
早くよ︰斯柁な︰小紋恥の桝右ポであ・つたエゼキュルは、帝⋮−咋パピl∫ニヤよりユダい同を型ったと
ころS未竹石の火暴凪申で身親しく辟輸した。此の暴風雨の製ふところ.グレデの町も蓬に亡び失
せた。エホバの混も捜滅に帰し柁。久しく榊の殊徹に診ったユ〆い川は、一朝にして囲家としての
存在を永劫此い粧から純化れて了つた。ネブカドレッザル大王S正純は、五九七年と五人六年と出
−
又再ポ
面回のH言責t乱Obに、岡内の右鵬ポ附級の凡てむ購ハ噴パピワニヤヘと拉し去った。エゼキュルも
その小の一人には洩れなかったのでめろ。
敢申.イスラエルの配合には、園長の心を繋ぐペき小心日比が何もない1−政消的にも
滞約寄の﹁昨晩沌墨﹂に於けろ隋偶の地せ
数的にも。犠牲む膵げんにも搾ぐべき城桝は已に失はれてゐる。供物を供へんにも伏ふべき祭壇は
597
筍約聖甘の﹁寺院按整−=於けろ僧侶り地位
一〇四
叔早跡形もない。苦れ等の珪死の別れが一に正しき儀祀を遵奉すると否とに依存するな
基踵にて我れ彼れ尊宅要け納れん。苅彪王て我れ汝等の献げ物及び初成りの植物、凡
1吾が警品山上、イスラエルい詰号−巾の上にてィそノエルい全家、北ハ山地の弟竹花れに串へん。
ろより重きむ耶き.榊をして
いでもない。けれども内心■いn律的三鼓性や倫油性よトも、仙川的な形式‡鶉や外形の犠飛に寧
者としては少ケ舶臆しからぬ幻の蛸でもある。幻としては怜ゎに現知的に過ぎて殺帆混
は、卓然煩雑与る軌膜再建仇設計、及びそれに件ふ嘉㍍放伐縄山神難なる系統に終始するっ警=
の衷心の融ひが何に向つて注がれてゐたかを知ることが出水る。彼れの見た︵と挿するところの︶幻
嚢r邪くは1伽脱法牢として知られてゐるヨ10nである。このブィジョンを窺ふ畔、吾々は、絞れ
某嘩彼れは歩を見た。しかも幻怖柿bなき夢を彼れは見たのである。それは世に所甜﹁措非法
ば、エゼキュルも亦夢を見ねばなら囲−1
迷する蒜の晰財に外ならなかった。抑推された﹁無意融﹂が夢を呼ぶのが意識の必然で
凡そかかる思念は異境の塞に︰肘何の身としてぅらぶれ行いた祭司的預言索エゼキュ
ってゐるばかりである。さらば如何にして香れ等は此の修しき運命より逃るペきである
等の運命にはもう何等の希累も光明も烏い。そこには暗澹たる死の深淵が恐ろしき互口
698
物な求むべし﹂︵CPbp・gき︶
と宣はせ
﹁我れエジブトの血より彼れ等む填き出して明野につれ如き、我がのりむ之れに授け、わがおき
を之れに示せり。足れは人∽わひて之れによりて生くべきもの行アワL︵dく・−?〓︶
と述懐せしめた彼れとしては敢て不〓仙講は幻でもない。
何故なら人の珪くる迫は正しき小心偶を石ふにあるが、正しき㌫偶はたにエルサレムの唯一発殿
於いてのみ術はムベさである。然るに今やそい光政は亡び失せて跡形もない。若しその亡びが永劫
のものであるならばそれは常に甥腋一個の亡び山みに止らす、ひいてはイスラエル全人の.又全豪
の亡びむ滞空−る。往きん願ひは凡ての人の根本欲求である。その欲求が今や無惨にも虐げられ抑
座されてゐる。どこにか、それははけ口を求め、安全琳七探さわばならぬ。特にエゼキュルの如き
粥約艶麗の﹁辞㍍沈案﹂に於ける肘偶の地位
一館場詫鶉︵帥ちエルサレム本山小心産鶉︶を防l執するその股賂な膿度にも現れてゐるが、否々が今
には頗る大なるものがあ乙。又同橋の時代恥惜を反映せしめてセるところも非常にぢい。それは
人として、又1のり﹂や﹁おきてLに殊の外韮きを脛く傾向の人として、彼れが﹁申法﹂から受けた形替
﹁申命記法Lの規定と梢紳とに忠賢に立脚してなされたヨンヤ‡の荒磯改革を程辟ぬ頃に他に出た
人に於いて、それが幻に結晶し、雅膜再建の設計として現れたとてそこに何の不日議があらう。
690
背約数寄り﹁寺院拭整に・於けろ冊侶り地伸
一C山ハ
問題として一でるところの繚司捌峻に就いての絞れの意見にも多分にそのことが窺はれるのである
エゼキュルが﹁踏水の法案﹂に於いて、﹁措非の祭司は斯くあるペし﹂として述べた規定の小、
べき事項が二つあィq。その一は外同人をして作詞の職分・で術はしむ可らすと・い規定であり、そのこ
は総司とレビ人と一箪分ち、各その司るところを異らしめんとする規定である。
位宜上北つ琴一の釦から論じょぅ。
後‖怜の誌上に於いて評通するでも一のらう如く、﹁申命記法﹂に於ける祭司は凡てレビ人でぁ
レビ人即祭司綺司即レビ人といふのが彼れの阿りでぁつた。そこに具現司人レビ人ト︵mlLハ≡.
nぎーlち鼓E︶なる名さへが畑1川ゎられてゐた。少くとも、レビ人は収笥の職分Jで行ふものとし
て絶えす前提せられてゐたのであ一わ。
然るにエゼキュルは摘水の搾司は﹁サドクの甫なる:仰L苫己ハーー。−㌧︼む∋︼−芦le召ぎrざ嘗一主
に周るべく︵C首註−盲台竜享お−J、一般山レビ人︵ザドクり蘭にあらざる︶は踊じて雅司の偶に
携ってはならないとする︵︵▲︼亭毒︶。ザドクの裔には翌頂い雅桝に近づき、仰の前に立って脂と血
とぉ献げ︵つヨひLの︶,比の叩ひ智北決しっ、・ぷ、イス一ノエル山本融物む空くる︵1く・学芸︶の柿利一で
の職皆耽り吊ふことが拒まれてゐ云︵ノ、・1日︶。経れ等に華やられ克1職分は、榊臓にJ.りって代りにめに
温めてゐる㈹が、鱒らざ乙レビ人一般には、繁華桝に苧り、謂の艶物に近づく
6(氾
601
構祭や犠牲一で殺し、門清︵つ・ご︶や宮守の絡め更㌧し、民の棒ぐ乙梢咋■で料理L︵︵一言このり山︶、又はそ
の他の雑技に服すろハ;ヱニ七、︶等総て役仰若くは薄刃の業に過ぎぬぐ
何故かくり如き差別が設けらるるかといふに、エゼキュルによれば/でれは﹁迷へるバこ二ノエルが
其の冊むべき偶像を訳ひて、ヤークェJで充てて遥ひし時︹、ヤークトを嘉て行き㍍る者L︵ィ﹂○︶
がレビ人であり、反之、﹁レビ人の迷ひし如く遥はすL︵C訂p・ち︼︶、﹁ヤークェーの聖桝の職務お守♭た
る者L︵C訂p・監Jがザドクの子孫であつたからであつて、㌻で卯として則し、一一∵功として賞†る
のだとする。
今試みにこれを﹁申付記はLと比較す一〇に、奇々は先つレビ仰の地佗の鷺くべき降下か威せざるを
得ないのである。﹁申法Lにあつては裁判を行ふも︵DLロひと︼J、脚殿にれって紳に革什するも︵Dこ00
T︺代より講の春献物を安くるも︵U什−∽ま︶朋彼れ等の職→構若くに投得l二机したのであつた。絞れ等
は滞歌の故に罰せられるどころではなく、﹁紳ヤークェーが選びて己れに購へしめ、又ヤークエー
を以て就することをなさしめ紛ふL︵Ut・誓ひ︶祀頑された岩魚欺であつた。﹁イモフエルの巾に席業な
く、㌧ヤークェーのみぉ顔業Lとするのはレビ人一般から冊別された特定の椚紋ではなくして、レビ放
そのもののことであつたのである。
エゼキュルがレビに就いて云ふところは、腸ほに﹁申怯﹂とは購って・.でるが、しかしそれは措水に
詔約艶胡の﹁坤院法案﹂に於けろ肘侶り地位
802
肇約架沓の﹁寺院法尖﹂に於けろ併侶り地位
一〇八
於いてかくあるペしとすろのであつて、過去に於いてかくあつたといふのではない。エゼキュルは
レビ人が従妹祭司の描を革有して凍たものである恥をよく知ら、箪ろそれを前提し預想してゐるの
である。ドライブ丁−が云ふ措に、新し彼れ等がか∼る椛利■で甘て和してゐなかったとした互らば、
円十叩章十三節の禁止は無意眈となる。彼れ等はそれを享有してゐたのではなくして婁解してゐた
のでぁらうとの想像は合冊としての文勢と合致しにい。全醗は、従来彼れ等のものでにかつた櫛利
七絞れ等がqs⋮・つしたこと一宇試めてゐるのではなくて、寧ろ彼れ等のものでぁつた糟利をAbu紹
印 したことを窄めてゐるいであろ。畢蒐するに、レビ人・ぜ祭司たらしむ可らやとする規定も、その理
由づけも、然司としての絞れ等の前身を橡想せゃしてはS=−︶仁rコ=01一Sであり甥○コ汚−声である。
﹁申命記法﹂から新しい影徳を受け、凡有る釦に於いて﹁申命記﹂の扶持一で措承せんとしたエゼキュ
ルは、然らば、何故に﹁申法Lの未だ預定しなかったところのDegradPtiO−1をレビ人の地位に向つて
典えたのであらうか。
開ふに其の根本の鋤拭は、彼れの﹁申命記法Lの捕紳に対するいみじき謂郎であらう。﹁申命記法﹂
はその摘得の㌫情貼中山亙場よ・リ、地方に散れ†る多蚊の総揚′で悉く概壊すべきこと■で極端に詫成
した。然しその叩山とす一〇ところりい必ゃしもをれが異教凪であるからといふ一瓢にの一′け存守るので
はなかつた。一面には左踏な珊山王あけられてはゐ乙︵冒・−愕︶が、又一面にはそれとは全′、和英る
603
ヽノ
見地よりの排斥が説かれてゐる。粥イスラエル風なるが故にとの理由は即ちそれであ恕
背約翌朝の﹁守院ほ尭しlニ於けろ恰偶の地せ
に又、かくして術はるる宗教的中火集棚によつて、ユダヤ的艮の紬光一で桝め以て、舘畔内外両面よ
られたヤーウ㌧−の㌫赦む更に外面的にも一桁竹山純化せんとすろ勒梢に川でたものであつて、同時
つつ私は次の如く答へヰフ。それは、珊⋮ふに紀元前第入枇鋸以如の預言新通によつて内容的に摘め
排斥したのであるか。排斥の根本吻機は那竣に存するであらうか。所論帖路に入るとの非難に堪え
英数凧の飛場を破捜する理由は閏はすして明かだが、何故﹁申法﹂ほ椚イスラエ〝風をまで極端に
の田沼でめ一旬といはねばなら氾。
るべき地方発場の作詞をエルサレムの唯一本山に集めて聖職につくべく詫現したのほ由由しき糾明
ったものに加速ひない。訳しそれが全然異数凪の一究場のみであつたとしたならば、﹁申法﹂が憾止さ
の盟邦が術はれてゐにとこイりの多販館場との借別を認容しっつ、しか︷い南新むひとしなみに斥け去
を認めてのことでやりフ。即■h﹁申決﹂は一方、異数的宗教の迫場た一Q地方雄場と、従妹ヤークェー
のではなからう。だからそれは隼ろ地方い多放餌場に如克その川霊什の作蛮一で異にする二相紬のもの
る。然し﹁申怯﹂とても従妹りイでフエルにイスラエル固有の宗教の非加してゐたこと一旦否認するも
が菊雄のイでフエルの㌫惜′で悉く異数的なりとして斥けたと理糾しへ㌧ければならないやうでも・の
﹁▲0
此の二柁の見地は一見互に舶容れない㍑にも見えィ0。再ポが面責し㍑乙ためには、吾々は﹁巾法﹂
■’
4
0
. √り
荊約野誉竺.寺院法袈﹂に於けろ附侶り地位
一一〇
り別々にユダの敢骨曾製はんとしつつあつたところの宗数的、政治的並びに敢愈的允陰に愉ふるの
効来を致さんと欲したのでめらうと。ノウデイツシソが説いて以て﹁唯一舞場の要求の如きも、小郡儀
ヽノ
のためにのみなされたのでは㍍く.寧ろ紳に対する信仰の形式のためになされたのであ一㌣と見た
のは意未だつくさすとしても、上記の私見に有力㍍班助を輿える説と私はとる。
数凪なこが故仁L︶とLて示せ一わところには偶像磯城が哨に産揖されて一でるのに反トて、第一一の︵帥
常各地−二存しもし吊はれもしたので一項る。﹁申汰Lが陪杓い周に、地方祭場舶来の竹机一理由へ即﹁
ち異
かもその間にめりてすら、号ほイそフエルには偶像哲射しない軌、異教習俗に始まらない黒邦が勅
偶像渋井の朋俗が蒔に盛んになつたのは、結かに異数の成化によるところが多いのであるが、し
新芽は早くより性に踊れてゐる。
ラエル正統宗教の粒も誇るべき佃統的泣顔の一つであつたことも決して所定出水たい姉欝で、その
放自らの地鹿の小から自発した㌫放でもあつたが、同時に又偶像′で否定し破壊するい川心想︰か、イス
エルには全く未知なものではなく、それは、預言者逮の聞き確信に拘らす、早くよりイでフエル民
成力を敵いた需放ではなかった。偶像衆評の如きも、元豪、必ゃしも英数に固有な、をしてイスラ
イスラエルの㌫故には賭しく異教的分子が加って非たが、ヤークェーの宗教は公然異教化しきる混
扮て、イそフエル民族のカナーソ住人以凍、再版の㍍敢の問には非常号接触ヤ和瓦彩壊が行はれ、
5
ち﹁那イでフエル風なるが故にLとの︶坪山・どあげてゐるところには何等そのことの説かれてゐない
のは宜しその桝以なくはあるまい。
要するに﹁巾命記法Lが桝イそフエル凪の宗佑一箪斥けたのは必ずしもそれが異数め戚化に浸ら切っ
たものであり、偶像数の英描であつたためではハ甘かったのであつて、侶介それが正統的イそノエル
㌫敢凪な偶像む豪雨しない醗場であつても、畔代の必粟は﹁巾命L記者むして、それらを悉く破城し.
排斥し去るの尉想に到通せしめたのである。だからこそ﹁申怯Lは舞司人たるレビ人にとつては全く
敵本的な此の再小鳩改堆によつて、悲現に沈むであらうところS地方館場のレビ仰迅曽木寺に進めて
救絆する、租極的な前棲策をも講じたわけであつた。
ところでエゼキュルには此の問り陸別も椚息も判らなかった、加ふるに絞れの時代には眈に、一
日﹁巾法﹂に忠賓に立脚してなされたヨシヤ王の㌫偵改印がその枝葉の釦に於いては再び捉欄せら
れ、本尊に然ひ凍った地方のレビ仰も、本尊の無司閻よりは法文に規定せられる泊りの待遇む典え
られサー減役のみを典えられて邦雄上全く本尊一般の祭司の下風に立っの鱈際む抑過した時代であ
った。帥ち姉の野際に於いてはエゼキヱルの時代以前賢司とレビ人との由には批に椚紙的に隼田な
障壁が設けられてゎたのである。エゼキュルは此り叩異に普
し而
て立った。しかも被れの性格は従
粁約梨朝の﹁寺院胱粟﹂に於ける何個の地位
凍の孜君者とは若しく彗て思卵的であり仁且つ現磨的であつた︵孟満州準的特異従って狼わ
6(賂
6礪
滞約裡耶の﹁守院法案﹂に於けろ附偶の地位
の5㌢n、3苫−招宍き干sig言明ymEic
︼︼二
邑i呂にも拘らす︶。思桝的な彼玩は此の革質のよつて凍
る所以を一心に考へた。しかし思排的とは云へ未だ十分学究的でなかった彼れは、をの串潜り常否
を批列せす、﹁吋抜Lを忠蕃に刺通しその精紳を微粉すと信じ乍らも﹁小池﹂に射して細緻な分析研究
煎かく信するが故にこそ﹁巾
で講じてゐるのに、エゼキュルは︵賓際に於いては、それは、稜に説くところの如く、レビ人救済
によつて受くる彼れ等の地位の撒撞を憐れんで幾分邪障椚奴といつたやうな考からその救軒先をま
ある。﹁巾法Lは解ろレビ人従雑の宗教的効融■で祁糾し、その豊かならぬ物質的境遇に同情し、改革
墜せしめたからであつて、その軸償として購雑︵今口︶地位の代下を見るのは舘然であるとするので
詫数的哨好に投じ、且っその風潮を尉一府助長せしめ、イモフエ ルの佃統的㌫敦の面目ぉ腹損し失
.化して、ヤークェ一致の木持とは全く柵反するところの、偶像に某ひよるイそフエル人の略落した
けるレビ人の低き位躍を叩巾づけて、それはレビ人が従非、偶像敢の亜指たる地方々々の教場に串
の悉くを以てHd。︼已営8∈=卦riニ窃と見催したのである。かくて彼れは絞れの﹁描非の寺院法案﹂に於
法﹂の地方祭場鷹止の宣言を、正ちに、おしなべて﹁英数凪なろが故に﹂と耽り且つ信じ、地方発場
司についての二梯の拓別を知らず、﹁申眩﹂に立脚すと信じながら、−
自己の家族の特種を減殺することを欲しなかった鮎もあつたであらう︶。彼れは﹁巾法﹂に潜む地方祭
の恨を向けなかった。︵なほその上にエッチ・ピー・で、、不の指摘する如く、ザドク系の出身新なる故、
巾
・い勘機に旧教した鮎もめろが.思想とし一1は︶
レビ人の背信を恨み、中央党場の祭司等と待遇を砿
別されること一で河水膿棚−Uして、や1日恨視せる如く成せられろのでめZ,。
要す′匂にレビ人についての一エゼキュルの立裟は﹁巾法﹂の反地方発場詫適い動機の︰而ノで生面の理
由でぁるかの如く湖新しぃ﹂結氷であィQに述ひハ号いのでれぇ。
ただそれ、諜僻も二伽から見ればjE解だといはれハ仏くにない鮎がエゼキュルには存してゐる。何
故ハや㌧ それは﹁申沈Lの中心目的たる椎一祭場光義.黒川執し、吏に熱意む以てその㍍数的‖心恕的根
城一ざまで確証したからでJ叫一〇。
エゼキエルにしJつては英のハjI;放はただ中火山一守に於いてのみ発見し狩ら。除他の末寺・いルポ敢は
悉く惰りい㌫敢、邪揺迷信い府で一両つたのであ一㌔﹁申法LS/改串は此山邪侶迷信の肘一で破壊して、
イスエーノルいか小欲を木雄の正迫に復糾せしめんとする車扱な㌫永碓立の運廟であつたので爪∵心。か
く絞
れr
は﹁
箪申
見池
た。そして此の1両地﹂の骨張Lたエルサレム唯一祭場正銘を再び力説†一ヤーと
によつてL園の比に射し.勅切抜復の任命一でインスパイアーサんしLしたのである。依一りところなき
艮■灯して依るところを知らしめ、締すろと1ニりモ⊂き比に山って抑するとニス∵ぜ輿へ、人心Jで一事一
−
嵩故七触⋮意細にもせよ政約に利川せんとし化魂分離木津苑リノ思想から﹁小
萄約塊榔ゆ﹁専陀結集しlこ於けろ附侶り地位
たのでぁつた。が、
所に塊申し⊥凶暴.㌫敢の再興七致さんとしたところは、﹁申決L
もエゼキエルも全く同一轍に〓で
GO7
GO8
坊納如確ゐ﹁寺院法案﹂l二於lTろ僻侶り地位
は﹂に於いては∵その沃ぐ・一ノ小しきまでの変の心に拘らす、扱わ姶太数億蓮の温かなる錯口Jで与す所
以山儀文真義の新井ノで見、エゼキエルに於いては、その條大へ与る諌言者の魂にも拘らす、﹁滑太数の
00
の根本動機と考へるの
ひ凍るレビ仰の地相職椰並l二取入をも、木寺の祭司と同等に規定したのである。
杖なのでぁつた。そこで此の木棺理な不車より掠れ等一で政所せんとして、地方より中火の本尊に葉
レビ人が職を諏はれ、致命的仁ト∴町む破るりは濃く可らぎる勢でJ可つた。それは網はば用命的な血
の祭司Jで械甘す一〇の︰∫1I壬生ハ号〓的ではなかったのである。ただ地力焦喝離宜い一結県は、j−拉ガ何にる
共に震構い姑中、即ち反面二り云へば地方県場の厳正といふにぁつたいであつて、決して地方結城
別の横倍に説くであ、らうやうに、﹁巾法Lそのものもこれによるヨシアの牧草もその根本の目的は
はぎるを符の。
されると同情に、一面㍍際的には皿て那迫してゐた境遇から、購殊救ひ上げられんとするのだとい
けにはゆくまいしJ偲、ふ。こS附帯蜘機を認める時、レビ人はエゼキュルによつて一両〓仰想的に此捌
この揖想的坪山と舶並んで、レビ人救済い質際的目的が附離劫短として加ってゐたことを軋超すわ
であるが、それと︰共に、叉私け、彼れが精読の現場に於ける祭司の役制の介掘を摘袈した鞠域には、
兎に角私は以上′で以て、エゼキュルがレビ人の地位に輿へたせ2gヨ㌢tぎ
布告率ぃ父Lと粧せられる所以の▲ものが現れたのでめ乙と思はれる。
亡「
GO9
併し、恥婿それはわはれ難い こしLでぁつた。戚怖から云っても本草の舞司運がそれに満足す一り嘗
もなく、叉野際そり曾拙もへ甘かったに述ひない。そ=で﹁申法しい血淀を唯一の伐りとしてエルサレ
ムに出かけて行ったレビ僧lま、林寺附きの舞司附から日限成せられ、冷遇せられて、投付の如き取
り扱ひをしか受けらことが侶元寺、所期の[−的け宅も通すろことむ拇なかったのであ′Q。彼れ等は
不中でもあつたらう。されど力なく勅トノ少きそれらの人々はその不平をさへ呟くことが出水なかっ
た。仙桝ポでわり新妻稟でノ‘り一り絞れ等の地位は絨に不安でめ↓0。何時如何なる時により辛排な排斥
の手が彼れ等の抑上に降乙かも判らない。彼れ等はただ耽々として剰えられた職輩に安んじ、兢々
として不安な一り絞れ等の地位・で墨守せざるを行なかったのである。
斯くの如きが改叩より捕因時代に至今までのレビ仰の賓偶であつた。き1でエゼキュルは此の憐
れむべき地位ノで、過去に於ける滞侶︵唯一琵場寅哉に反する︶の浩然の紡某なりとして、一両そのネ
申を抑へ、彼れ等をして聴き地位に満点せしむると北ハに、一面その不安ならし紬佗Jで鰐殊に向つて
安固ならしめんとして、臓璃な職輩の分捕を丑蛮したのでぁる。
一雄見る畔、エゼキエルがレビに就いて云ふところは恰トに酷薄でめり.又レビ臼井にとつて著
しく不利なやうでもめるが、彼れは決して故意に架くは現由なく彼忠君臆しめたのではなく、寧
ろこれを甘ての〓よりほ盤分有利になさんと努めたものと見なければならない。
讐約粗嘗の﹁奇院沌纂﹂に於ける何個の地せ
610
滞納艶藩の﹁守㍍法案﹂l二於けろ怜偶の地位
此の郡と閑聯するのが、私の最初に畢げた、エゼキエ〝の一昭非法嚢﹂中祭司制に閲して沌ぶすべ
ューS一柳殿に仕へ、薪・・ピ伐り、水中汲む
き第一の頃、帥Jり被れが総司の職よ,り外人を去斥した鮎であ一む。
外
い牧伯建とによ?て荘定せられに、レビ人い奴隷であると記さ
て属従したケレヂ人︵︼へ−呈一こベレテ人︵2主−⋮︶ヵ・リア入︵ナ■㌫土︶等.∴外人︵Ⅰ岩≡・−い一ヾ寺已︼ハ⋮已−J
ヽ■′
堺ら薄刃の役一で務めたーいのらしい。北ハの他、〆ビすの時代以東ユダの王遁に洋術兵︵・㌻i室・ユとし
れてむ一心が、弔署エルサレムの紳殿には早︿−ふLリこれら、チ7ニ人山利光と環しき外人奴隷がゐて.
れば、紋れ等ネテニ人ほ〆ビテとそ
eぎ︶免税の婚柿一でさへ待て字叉︼︰芦﹁−︶三.スラ自らい手記なりと信せられる﹁ユズラ普﹂の部分によ
︵雪ユニ︼lぎ〇r=三1⋮1訂1⊥︵いい︸・・SJワリ名の下に幾筋に携ったらしく︵ロ︰r・ごて√害≡弓七葺こC−−r・ロ川
古いが、捕閃時代並びにそれ以後に於いても、祭司、レビ人、Ⅵ芋、守門票等と共に、ネタネ人
閑人がヤーン∴−の御殿﹁〓入して聖職の一部を執行し仁のにその由来†るところもかやうに
れはイで∵エル族カナーン佳人常初・りことでJ¢る。
等の維役に服し十しことり︰早︿ヱホウィストにとし見えてぉる︵・㌻≒・コ︶。此の記述一堂軍票とす、れば、そ
ヽノ
Lて
.ヤーシ
範征服
族だ
外ぇ
・人
1が
︰メ∴ニル放の奴隷と
′■ヽ
リノートソン・そ・、子り想定に従へば、絞れ等にへ≠は鱗堆い
ち紳殿と需綾な闇係一で︰引し※の揖彗に同畔に柵殿の■衛兵でめ上⋮㌢−1弓︶輌殿わ前に並列して
T五工守乙=とレ∴はし三≡ハニこ︼=・=Y
り
周穀にさへ携ったらしいのであろ机
これらの外人はヨシγい一改革S常帖及びそれ以後に於いても㍍ほ存し︵F盲.−ご︶紳膜の守護に努
めたのである。エゼキュルが
﹁汝等︵イつ∵フエルの家︶は心に・b制祀を受けす、内にも制珊■で受けざる外国人,で引き来らて、吾が
ヽ′
碑桝に在らしめて、吾が家一で汚し、又普が食なる胎と血智献ぐること一でなせり。斯く諾の冊ひべ
き恥の土に、被れ等又吾が契約を成れり。汝等我が染物一で守る職守一で怠♭、彼れ等一でして吾が塾
研に於いて汝等に代りて我れの順守を守らしめわ∵リL︵〇書こやJ
との非邦ノで窪り、
﹁イスクエ〝い†孫直小に層一〇ところの講の異邦人の小、凡て心に刑場哲受けす、肉に割祀を受
けざる異邦人は吾が空所王入一左.可らすL︵く・じ︶
との排斥を加へた外人は即ちか∼る外人でぁつたのである。
然らば被れ等は何故坐臓の弛務より緯割に泣けられたのであるか。その理由の根本ほ云・ナまでも
なく、その﹁巾鱒Lヰ親帥ち㌫偶塊小ま哉のそれに於けると同ほで、亡観言動機するところの極端な
観粋詫鶉/でれに作っての絹夷思想の教務であつて、外人を以て、内にも心にも制戚を受けす、精
常軌軸斬の﹁尊院洗墨﹂に於けろ肘偶の地位
神的には勿論外形的にもヤークェ一散徒に非すとなし、かかる異教の外人をして骨て頚桝に近づか
61l
612
響約鶉書の﹁寺院津案﹂に於ける甘偶の地せ
一一入
しめたのはイモフエルの拭′㌦可らぎる汚鮎であ♭潤紳であると絶叫してをるところに、昔々は囚虜
エゼキュルの遣ろ断じき悲境と痛知行一む剋蜘快復の念願と一ピ見出し行るのであるが/でれと何時に.
又をれによつて、レビ人の職掌に明確な限界と安定とを射えんとしたものとも見ることが出来るの
である。
従姉ヨシアの改印以前に於いては、肇胡の如き下通ゎノの役目はレビ人の所管ではなくして主とし
て外人の手に委ねられてゐたのであつたがーヨシアの改串以接.地方祭司たるレビ人はエルサレム
の本尊に於いて、これら外人所管の任務を共亨すろやうになつた。しかも光粂める彼れ等の過去の
歴史にも即せす、新盤満としての彼れ等は、かヽろ端役をすら著しき不安を以ってでなければ享受
することが出水なかったぃである。一ぐ=﹂でエゼキュルは、一面レビ人一で政所するといふ意炊からも、
これ等の外人■で弛膜より一掃し、そ一り役目を奪ってこれ一里郡らレビ人の任務に属せしめ、彼れ等の
榔限を確立し、その地位の安国を保忽せんと志田しにのでぁると〓心ふ︵片々都合がい∼といふ意妹
で︶。
細々分化・り趨勢・で
以上逓ぶるが如さ準備によって、ヨンγのパパ低改革に発足して、粥増分化り第一歩′ぜ践み氾して
ゎたとこ・ハの一作司とレビ人とは、=こにエゼキュルの肌稚∵戊文の張詰一で苺.1∴
腫大し、その勢の赴くとこ一り.遊に﹁㌍司令Lに現ろ乙卜しころの楽吼の慨放縦椒に之で発展しT行つ
613
たのである。
︵
︵
旺り﹁ザrクり裔﹂が﹁アロンの未﹂空撮→ろらLさ︰ミに洗いて1‡冒d紅コ寺落雪dle‡まin司邑i凰Di象㌢q
0﹁t訂∴ヨb︼丘︶さl・コ、・H−ワ遥−霞呑洞。
り廿五嗣1=ほ、ヤーウェーが経れ漂ドクの裔り廊魂てわろから∵、れに岬有わ警ては在ら誓いふ・碓氷レビ族一般
についてl宕にれt青葉が川ゐられてゐろ。
りいウriTe﹁︶−コtrOduュ⋮○ロ;こ︶e O己Tぺ乱写︸eロー、ヮ﹂会.
︶
?・⋮2iテ。⋮e昏邑Ⅰぎr:一.uリド
︵
︵
︶
1此の鮎圧師石橋智信仰十が爪L明稲几つ評細に指摘亨l,jt㌔﹁六押印死り根本阿哲︵﹁某牧師究﹂蒔ノ10︼.rこ︼J2・3。
Ed阜。p・Cit・−ヨひ・
ヽノ
7エゼキュルはヨシアの改革〓後に於けろレビ仰の地位り†落り大勢に捷食ん痛むCてはなく、トだそル心常然のこゴビ
︵
,して前提L−その由来や稲山丈けか考へtのでわ・0。草し此の前提が互い光らけ、一偶作真相l=鱒したレビ人なけ寧ろ
川︵岩P己i臥コー〇p・ei二−・コ・
︶
俗人の地位にまでび’陣†小〃が、被れに・、ちて空竹⋮でわり、徹底的でわつ㍗ビギへられる。
ヽl■′
持琶i−こ喜乙邑。三三l・e⊆T乳§星空翠
ヽl一′
1川繋が聖廟豆行革†ろごき−二彼れ等ほ必†、れに従ひ︵−−ハilL竃︶、﹁近髄兵の門﹂ご名くろ門より川入・し小六ご内i已亡や︶。
。p・eit・pp盲−芦
尤は詳し訂ユ皆n Sヨi手○〓Te諺ヨeヱFニーけJ芸iを〇lurCh▼憎.崇¢参照。
。PeF㌔・血け戸
附配 本鱒空軍し㍗るの基本密議−1†べて石柵冊爪先生に王lふ。肺摺り如きも人事ほ先生析川のLのなぉはぜて頂い㌔それ
らの鮎ドついて先生の名常﹁イスラニル文化妃上に於けろメシヤ隠想の攣運﹂及び仲井聖典会場叩り﹁苗約兜市郎超﹂む妾
冊ぜられわい。此の柁骨に兜旺lニ向つてその準し叱ヽ由恩を謝†る。
背約聖鳩の﹁専時津墨﹂に於けろ宵偶の地位
′■︳ヽ
614
古代印度の給廻船悪
者代印皮の輪廻思想
∴
甲
斐
︼二〇
賓
行
吠陀時代の印度アールヤ人絹が、後代ブラフマナ時代に於けるよりも.比按的禦天的珪清を逢っ
てゐた串は、吠陀り話恵融亡徴して糾らかでぁるが、此時代に於て既に翰担思想が野元したであら
うか、此の研究中∴﹂・す前に疎め彼等の珪命軌に就て三一りしへ㌧ければならぢい。何となれば輸坦り軌
念には眈に珪命の柿績又は輔丑といふ思想が其の核心をなしてゐるから、光つ生命の何物たるかを
つまびらかに吠陀の仙人に問はねばならない。
〓
生命の考察に於て、甥沌吾人の念前に浮ぶものは死の現象でめらう。強大いでろ威力Jで以て一朝生
類を絶滅せしめろ死魔に勤しては、吠陀時代のアールヤ人椰も恐怖と朝嘩.で林⋮じ符号かったでぁら
ぅ。此り恐乙べき死に対して彼等が欣求したらの一は不死父に不死の状媛︵弓コ.1i夏vエであリハ﹂。
梨倶昧陀でに死し上るもの︵1ゴritじ︶と死せざるもの︵≡一号︰l︺とは油例封旗的に用ひらか、前者は
¢18
︵一︶ 人間を意味し後事に刷砥む指すのでぁる。
併し封立的にで無く駆弼に死せぎるもの又は死せぎるものの状態︵Pm︻i監召︶として用ひられた
時には川鍋l−⋮ゴ○ユP−i︵㌧の鶉に非すして、マックスミューラー氏もいつたやうに ︼gt︵一号−gを意味す
︵∴︶ るのである。
以下少しく文献を奉げて之を詔明しょう。
梨倶吠陀には﹁風紳よかの我が新鱒ピよく蒲化すべし。其の新鹿の力によつて我等は宵各︵つ才ヨ
︵三︶ −−ぎ首︶一ぜ過ごし得べしL﹁紳によりて定められたろ彼の輝ける眼︵太陽︶は界りつヽ人γり。そを我は
へ円︶︵正︶ 石歌︵で乙音叉2エ見ん。百秋我は生存せん﹂﹁花が公珪命︵意ノ・呂ギuす︶に怒を輿へよ﹂といつ
て一朝詩碑に新鹿を痙げた・いでノウ。。此の外﹁屈頗長大の身に満足し我等は翻によトて定められた
︵六︶
る珪命︵d︵象ニbm旬己ギuノナビ縫付すべし。謙抑よ、身慨の孝故が吾等に近づく桝に於て今や訂秋
にほ﹁しTゆ
哲独得すべし。かくして兄は父となる。決して小ばにして珪命の持拍を密与ぇ勿れLLしいひ又﹁ア〆
︵七︶
エよ、我等は丁と北ハに不死Jぜ草受せんLともい
し得
。ペ
そは死の
ること無き相を有せる不死の状態せ享受すべし椎得すべし。生せしひべし。かち
不死なりLとある。故に洋秋吾各会生命即ち紳によりて定められたる珪命はやがて人間三並命であ
ゎ之を或は不死の状鰻とも呼んで現質の長者を意味してゐたといふことが出水るのである。されば
普代印度の倫池心髄
616
古代印度の相見思想
一二二
ブラナマナ時代には此の公生命を一明生命︵至言を昔風︶となし﹁かの一切生命に到達するは、賓に
へ八︶ 人間の不死の状態︵g−長官眉才き眉︶行7り﹂﹁かの一切蕉命に到達しT繁発するは、官主人間の不死
︵九︶
の状態なりLといつて一ぜ一ん。
之によつて此を脱る。不死又は不死の状態が必すしも前翠0諸例の如く紳を意味するものに非す
して・人間の不死又は不死の状償如ち現賓の長命わ恵昧して■曾ることは明かである。さればヒレプ
︵−0︶
ラり/ト氏の如く梨棋吠陀八、四人、≡に﹁花等は、淋据わ﹂飲め㌔而して不死と行丁り不死に到達せ
り﹂とある此の不死.で未非の死命如ちⅠヨ日Cr鼓†yと蟹・↓もことは出非ない。何となれば其の次の讃
歌に﹁術摩よ雅等の秀に生命■で長めよ。Lといひ、同七にら.我等の鶉に生命を長めよ。Lといひ、〓
︵一一︶ にも﹁今や我等は生命の特損すっ桝に凍れり﹂といつて蘇摩に長命一で所願してゐるから鮪摩を飲んで
未凍の不死を祈念することはあり得ないからである。
併し、不死又は不死の状態をば必ずしも現翳の長命とのみ僻することは出水ない。以下少しく之
︵一二︶
を未凍の長寿帥ち死後の春紹と解せねばならぬ讃歌一で指摘しょう。たとへば梨惧吠陀、一〇、一四、
一四には耶摩紳に讃歌一で作げてHく﹁彼は我等が長葦暫野・?やうに講仰の衆にヰくべし﹂と、叉﹁バ
界に於て我を死い法を堆
イパスバク王の化する所、天め隠哀わふ′石厨.不断の放水あろ所.此越に於て、沌は我を不死とな
︵一︼こ︶ すべしLと旦ぶってをるがサーヤナの註によれば﹁地産トナU、此くの如き世
6】丁
服せる不死とせよ﹂となつてをるから、此等の文献に表れた不死又は不死の状態は現茸の土を捨離
した後に於け今年命所謂H−望−星口︸i︹yと僻して差支無いであらう。
以上、不死又は不死の涙磋は二捺に解せられるから、吠陀仙人の生命阻は未だ曖昧で何等把来せ
られるもので無いといはねばたこらぬ。殊に注意すべきは此の土の不死と天界に於ける不死との再ポ
はいづれも制限を受けて梨倶吠陀二︵︸一円、一四.の如く長持の意味に近いといふことである。此
の天人両界に於けろ不死の観念がかくの如く制限一で受けて一定の寿命帥ち長命といふ意味l二過ぎな
いことと、研究の文題たろ輪廻思想と果していかなる関係ノ官有するかに就ては次ぎに諭するであら
ぅが兎に角.かくも不死の粗食に閲して曖昧なる讃歌の多いのも、一に吠陀の仙人が彼此の慌別を
旺
わらう。
互いが後世、梨惧映陀仙人の思想わ壌Lて作つ㍗もので
〓〓ニ
H昌㌻Fr6dtいつ&iの試ユb010顎﹁・ワ⋮定
J書皐∴野.H対ロ∴ド帽▼H河コl︻ドu.
已EtナpH︼・誓∴どぷ・甲︸舛・ひ・︼−︼0・
ロ∵づ.く.モ0
R.く.︼.∽P㊥−¢.
カ.く.く叫.か柏.︼ひ.
声ノ.,T●退一戸1.UP g.H.付か.ドづー.−か、いひ.H.
参蛸
分たすして、唯静的率想によりて讃歌を晩じたからであらう。
一、
︼㌫.か忠昭。
JO仁ヨ巳と臥邑iヨ蒜P HづIIH︼野口ー.づ.わの︼.
R.く.づ.£.︼ひ.
H叫・G詔込ヨ︼ぎロ,虻村丁巴PトS、獣p lH●沖∴巴︼●
〝′ラ人†ン氏に従へげ.此の湖秋は経世の附加でわぁか
ら必す・しL梨槻吠陀の仙人の思想な率し㍗Lのどliいヘ
音代印丑の輪他心亜
(岩)(九)(八)(七)(六)(五) l 、 l ヽ ヽ l
ヽt′
︵
ヽ
ヽ
(四)(三)(二)
616
〓、
ヽノ
︵
︶
′lヽ
古代印戊の輪廻恩愈
Jさコ已訂しFgロ竺︶H≡−1.︼岩︼.フ芸︰︼
〓、声く.H.−小、︼.ゝ.Aこ㍗ノ一.ンノ.−〓ド︰﹂.T.ノitt Ar ノ、︸.
三
′一.1ヽ
ひ.︼.
一二、︺P
︶
く.︸H.〓U.∽.
およそ、輪廻の似合には霊魂の常恒的存れ示、多少童形せられた形に於ても庄野で超絶せ一三柁
の人格の布準で孜想ゼ工ノければ〃でL∴㍍いが、之に伴って重要なる軌念は他界表象︵J⋮護it箪e−・鞋h≡g︶
である。此の他界表象中京初た走行一?bのは天国又ほ天界の東泉であつて之に次いで来れ一っ一bのは
︵Jllヽ
︵こ 下界表象︵q旨コ邑ぎu︼喜〓u−一g︶であつて、之は蓬都・り儀式に作って生ゃるものでぁる。此の外、是
等に舶㈲蓮せる来襲仏る観念は、T人間が死後他界に到るが暫時其慶にとトまつて生を享け・コ之
1ふLリ更に他の世界に到るしJの二椰の軌念衷簸である。
いま梨供吠陀に就て考察す一つに軍魂取合と他界表象は表れてゐるが、未だ彼の二稚の観念表象は
見ることが出非互い。即ち、梨偵吠陀一〇、一四、一四に﹁彼は我等が長寿Jで得るやうに謙抑の衆
に導くべし﹂といふ讃歌に永遠の珪命に非与して長命である㌧1上は桝瞭÷射るが此の寿命の終った
彼の運命に就ては何も暗示されてむへしい。故に之む似て後の二仰の租念中節一の軌念衣象一箪認める
ことは出雑㍍い。死﹁1−梨倶吠陀一〇、一周よら一入までほ大抵埋葬り儀式に於け一っ競歌であるが、
此等のび歌にほ一も此■レJ土中拾て∼枚天外に到八東び下界又は人間界に蹄起し退暁することJで駅つ
〔19
たものは無い。かの二帥の組合巾第二の鞠念求象も未だ現れて居ないのでぁる。
併し梨倶吠陀には他界よ象£毘塊勘合が既に認ゆられL′っから、此り方面より翰癌思想を研め今︼
とヽすムい
梨倶吠陀に放てに大観衣象として、大迫︵P∃y旨与︶し﹂戚l迫︵Pi与盲阜︶との二道がある。けれど
二∴︶
も﹁死者はホさ追一でにどり工人の山越に剖卜父咄︵コ吾与﹂・い集れる塵に於て耶魔とパルナの二王と
︵二∵
︵円︶
∫で兄′ごのみで二迫に混同して分かJリ難かったのでぁる=されば1此の大迫の終によつT︵PP七三bl−ir
︵五︶
deづ亨n巴−−︶沸紳は犠牝の所に凍りL﹁阿呑屈は此の天道の賂を知って犠牲諺諸紳の詳に迭bとヾけL
たのであるり然るに﹁死者よ、大迫よ卜′以外の汝の追をたどらT此彪より去るべしLといつて死者に
、
対して天道外の一迫一で以てしてわ一口のり︰﹁阿者屈よ汝は迫暫見出して輝きつ∼娼を以て剋追を速く
照らすべLLししいってわる融通/∫ウ0。天道と剋造とは後世ク.ハニシ†ツド特化に於ける如く臓韮な
ろ院別は強い。た十梨倶吠陀山中、刑迫は再び此山他に戻り、或は進んで天温に到適する踵でめろ
といふ 滋味が表れてぉるものは.m一C、八八、一五の讃歌でめイ0。﹁我は 聞けりり冥利の術くべさ
二道めりと。帥一り訊仰の追及び入関の迫と行†h。此の二道によりて天地門口に・めち此の二坤雄勒せる
目し
、八︶
ものは進㌢1し。此一い消歌の意味は多・ツ慢陳てあるからり.ハニソ†ツドに㍍此・り梨倶吠柁山讃歌の許
刷の追及び人糊S・迫と■で天道軌道と僻してゐ一心が、要す一〇、に梨供吠陀では剋道を以て天人両界レJい
音代川膵り輪廻脚心
6:犯
古代印度の袷贈腺想
︵九︶
一二六
づれにも行さ得る揖と考へてゐたらしい。之正しくチ†ソドゥギ†リバニシ†ツド︵C−−呂d。顎Pqp巴息で
d︶琴一〇、三より一〇までの血道の取合の先嚇をなすものである。けれども﹁客界や地上や弟し
二〇︶ き伴㍍に住め一〇父剋﹂といふのみで此の父剋と同義である後他の﹁逝ける老﹂︵勺re且の思想丘吠陀時
一一︶り
代にじ認め・しれない。逝け一三宍コ・ct小t︶はく⋮ぢる語根にほ疏字り亭智附したるものの退去受動分詞
やがて﹁逝ける者﹂といふ
であるが、之と同語根の字として北ハの命令法なちP−・el−i︵汝は行くべし︶といふ字には接する。恐ら
く句コ;\は︰ワ孔Eといふ言韮から袋捜し凍って﹁天道へ行く﹂の竜から▼
︵〓︼︶ 言葉が生じたのであらう。﹁逝ける新﹂が父祖と同義に用ひられるに到ったのも常然でぁる。
蛋魂観念に就て考察するに、梨倶吠陀怖代には人肌の身偵粕励む別如し由鶴を司るものむ生気
︵ト竃︶とし精神現象如ち揖想成醸慈恵密のま脱豊父ざー⋮S︶としてゐる。元凍Asごとは呼炊・で意味
し人問の無笹沼的生活力りカ申で代表する増刷であらから他=動物にも通するま醗と見られてゐ
ハ〓一.︶
る。が此りヒllは咋炊︵P−・古土とは異り榊互に礪ほハヰる闇係と類似節々石しにがら前ポは静的にし
て扱者圧制血でめろ。た∨綾瀬にはPr音声と÷ぷPとは珪叙し﹂ともに川ひられ、又生気と呼吸
︵りハ︶ ︵Pr誉ぢ︶とは同一に∵与見られてわ一り。
︵一花・
意ほ心臓内に化し、㍊想戚肺患ぶの心理的韮佃でぁるから人間にのみ限う械腐とせられ、冤捗微
少にして恰かもM仙怒り如く迅速に勧き、辿く耶鹿紳の許や天外地異仲秋太陽曙光等にも到ら。かく
82l
︵一カリ
︵一▲ハ︶
て死者の生鼠と意とけ征世に於て∴鱒号節分して死新一で彼他に返りとナけた阿者佗紳の力﹁トよつて
極めて取掛h仏身礁が柿成せられる。﹁かゞやきつ∼新しき身醗を結合せよLとは此の謂である、此の
新しき身醗とは細身の二とでノのる。
以上運ぶる桝によつて輪禍梢雄の配合ほ未だ現れぬけれども入関の死後の生餌ま醸なる轟魂及び
吠陀時代に於て眈に輪廻思想の新井は胚胎としたといひ得る
邦雄溝握仁一り他界の衣魚が認められ、且っ霜魂観念ほ人間の死後の布縛といふ要諦や観念が先づ生
︵︼七一
じて而一心後に現れ水えのでぁるか▲㌧
かり換言すれば天界の基板一で得んが照にはいかへ仏ること
であらうが、かくの如き天邪の生活Jで佃恍した印度アールヤ人椰にししつて死後の天界の生活を規制
し得られLると考へられたものは何であ∴∵た
が行て∴持たか。之吠陀畔代から然別山行はれた頂山である。
︵一人り
︵一九し
夫、醗祀は碑鱒でれぅ・l仰山思捕Jで求いノ′り揮以のものでJク匂。彼等ほキ.1−重大互え功徳あbと考
へてゐた∩裾㍉小火令む肺輿寸一心ものlユホ死い一状態む受用Lし、﹁.布施む典すろものは不死を事受し﹂
得るので右∵ら。
およそ措辞が発配に川ひて刷鵬一γ祭つた老は二椰める。一は食物飲料衣服帝料等和紙に膵ぐ・0も
八に〓死新一lL.火葬して∵汝は最高※に於
の、∴に鴨牲︵i管︶即ちユえi2しL佗配に竿、襟常に推ぐん庶物︵号臼T﹂でめちが、棚糾今競
−仰芯℃口舌といふこしし↓いやりり︰Jれば梨棋吠陀∵〇.一門
昔代印此り伶廻心想
音代印度の怜筑恩闇
肯首・
二−閤には■.祭火も仰彼等
。
先つ宣ゼロ旨の思想が業カによ㌫拍廻怖珪謀に僚艦礎適してわった過程を苛ふ一んに、初めは、
此の二椰のぶ味に於1愉廻思想と市大堤る闇孫一で右寸るから以†少しく説明せねばへ㌧らない
いふのほ人は布施究祀等い弄わによ卜て〓己叉は他人が悪趣に畑竺−−一?で停やハ占い∴のでノツハも
的でウリっ稲梓的といふ・いに、人間は日己の共によつて輪廻鴨井するといふことてJ・りり、椚極的と
〃〃−
此い]亙ユ盲1.㌻川心想は少ノ・・とも二つ山意味に於て翰廻〓心想と刷係がある。一は梢締約−他は消極
等も菅︸笥︸致・どい思想の登展婁蓮と認めら、れふのでぁる。
い四肢や短かす、天界ににわ〟ノくの妻あト耶蔑も彼等−︰蒜聖†ぞ奪ふことなしLといつて型匂が、此
同程度に天界王︰ヤ受丁。といふ・いでJ直る∩此の外阿閲婆吠陀甲三門
の池は汝ノで取l剥ひべしl−こ∵∴′︺等仇成鳥的快最も空別布施祭祀に停かつた善人のみ生前施したると
の代りに件礼空蝉え、水一‡湛え棺を溝えた一巾粧噂此軍でと・りま主し渋れつ1蜜は天界に事り迎撃
て、此の揖想ぃ一段力進歩とい∴べきでノウU。阿閲婆吠陀四、三四、には﹁年前の叫蜜の汀、水
チ︷︰︰で葎前ハ与せしむ■いにして初めて能︿天昇の成畳的快崇一で葦受し得るやうに考へてんにのであつ
以t焦祀を行・リノlし者も敢高天に於て如拙介するといふのでち〆0。然ろに阿闊婆l火陀では此の
︵l一 ︵lいざエ■字典ふ一り人に財物■で窪一ごしJいつてむ一り。︰腑等の讃歌の意兢豆∴等lと号−・tPとが生前之一で
て々
各鳩の
牲′し
虚物︵一号古土と∴結合†ぺし㌧と讃歌Jで〓王し或は﹁インドラは峨牲一どさ∼げ施物
6P2
之は犠抑と地物﹂の義に川ひられたがゥ.:シャツドでは意義が経じて水た。帥ち犠牲一で榊祓に搾
ぐるのは殺配の本藩であ去而からやがてた配り克と㍍り、施物は之を施すことが#術でウリから善
.∴︶
打といふ義に建じ、此や成語を以てー舘配と張︰行\Lい÷意義になつたのでウ0。佗に﹁されど賓に
祭祀しし滞術とは業ならと揖推し一−し押する人々は.︷巨d︸ニ︼=1㌣已i号音・打打l﹂叶眉iルアup紛ぎ︶と
いつて屠るが此り叫想内容は捷緬して凍て、初め一桁人の犠牲と地物又は﹁天界に柁存保由せられ
た其の怜カ﹂の兼であつたのが︵梨倶吠陀一〇、一門八。同六∵大、二、阿粗壁吠陀川、≡由山
下愈照︶舞配一でわふや犠咋催物は其の或要だる語東本なしたから館配に㈲寸る一切、り務と経じゃ
がて∵然祀と薄行一、の意義七井じたのである。
眈に﹁館胤と苅㍍Lを発となし、又天界に於て死後基は駕配智行ったものと鈷介すとキへた以上、
此の﹁党別と華如LJピ入関の毎須︵F−・nJ⋮︶即ち業となし、之が死縁天界又は彼土に於て行鶉者と純
分すと考へられるに到るのも如⋮排ではぢからう。蓋し矯配は紳舐に搾げら町声臓桃山艶化せられ
︵二︼二︶ 常に、之■ア侵し又之に興る人一で道徳的に廼化せしめるのであつて、従って費配お克った人は自ら心
的摂化む珪じ殊に発化せられた犠牲一生革受することによつて紳壁ぢ匂ものとなつたといふ軌念が
苗代印度の輪錮濾胞
カルす 阿闊準吠陀甲三関の蛮歌でぁる。然して轄配と人間の発とは同語でぁつて、即にブラシュ
するに加通行い。此の心的状態によりて死後天界直集光ぉ寒愛し柑ることヤ免徴偶に説明したのが
C,2n
6:三4
古代印度の輪剋鳳廿
一三〇
ニシ†ツドのへ貞ri−邑r、、ばかりで無く、シ十クバクブラフマナ、一二、九三、及び一二には﹁かく知れる
人には其の祭祀は作される︵ゴ唱Paヨユ=idu嘲Pつgk誓ヨニハri︶−旨︶といって居り、のみへ与らす吠
陀時代の古から印度アールヤ人耕は祭祀をなすことを以て窮大なる人生の務と考へてゐたからⅠ準
ぞ㌢Fが発といふ志鶉に思想内容を痙化したと見てもめながち郭理では無からう。殊に阿隠婆吠陀
︵こP︶ では﹁罪よ、若し汝が我を拾七ぎれば我は汝な十字術上に捨てん。願はくば他人に随従せよ﹂﹁若し
︵二電︶
余が醒めながら或は眠りながら非を犯さば己生凍生のものよ。本社の︵紡よ土盛するが如くに我を
許せ﹂とめるが、此の蛮歌によれば非は突然物栗的存在としていづこかに残留していつかは非業を
犯し佗人に結合するやうに考へてゐるから、或る一節人の業の残留が天界に於て結合すと考へるの
も常然である。さすればl苛p亡lr訂は死者と天界に於て結合しで英人の享受の苦欒等を規制するが
カル†
如く人間の死稜空別の業法基の人と結合し蕃態共に其の人の運命を支配し善業には善建の革受豊か
カルヤ なるのみならす、悪業に通じて窓趣に生じて背恩を受くること問断なしといふ印度固有の業誠と
屈し得るのでぁる。されば印度固有の業によろ輪廻晒仕の読も基の〓蒜仰の起源は乾かに吠陀時代の
Ⅰ管p㌢ぎの枇念に存して膚一〇と考へられるであらう。勿論之とても一朝一夕に生じたものではめる
まい。苅の関白ら紆除曲折もめり又国井緋に支配される人間の華国華某悪因悪果の栗駒にも韮くで
あらうが、発祝が俗間の侶仰として牢固たる基礎を有するに到ったのは梨倶吠陀や阿規準吠陀の此
り︼仰軍p冒tP
思想に基いて居るからであらう。
次ぎにHぎ
仰P
苫の〓心想と輪棍m心想の椚梅的園係は布施と綺揖との闘係に外ならない。けれども
阿閏噂吠陀四、三四の讃歌の如きは、前のⅠ管甘rtPと輸如思想との桔榛的閻怖の場合わ讃歌と見
たカが邁皆であるが、此のⅠ菅官rtPを似て布施と解節してゐるのはチャンドゥギヤク.ハニシ†ツド
五、一〇、三でぁつて﹁村落に於て祭祀と苦行とは布施〃でりと思惟して邦する人々はL︵lmngr野呂巨
︵二−ハ\ i笥甘rtPdPt什P㌢ityロ官sate・︶。といつて屠る、勿論早い醇化∵耶陳情物によりて父融は蕪命を支へ﹂
︵二七︶ ﹁許紳も布施︵Pr邑許P︶によりて葎命を支へLるといつてゐろけれども京だl笥号・tPを祁施なトとは
いつて層ない。けれども布施は講融や父剋の生命を支へるものであるから、従ってⅠ竃官資Pも死
罰の生命を支へるでめらうし雄前に於て罪業に耽ったものが死後苦果を毎てわるとせよ若し人一のつ
て此の死者の霜に死者の名を以て稲穂河浦の仰侶を供巷するならば基の功徳によりて死鶉は苛揖を
軽減しやがて此の苦界七脱して天界や無塵に生することが出凍るといふ説は絶世に於て何等の批列
なしに行はれ恰も民問信仰の如き牢阿なる思想となつ化が、之もやはり此のH笥−計tPの思想から
殴展し緑化し須ったものであろ。頂始偶数の頚此ハなる餓鬼野︵Peぎ毘F且には此の仰の記串が載せ
甘市坪正の碑動息必
でごのることな以七見ても明かであらう。けれども之は人の輪地相鑓を祁施によりてとゞめて事跡に
カルマ
趣かしめるといふのであつて先の発と船姐咄虔の耽と全然反射的旗揚にある。吾人が椚掻的といふ
¢望ら
古代印度の輪廻劇想
象は理非の儀式・で動拍とし一■し迭非〃際に死者いいたム嘩笠・界と考へろが普通であ一りが梨
の意妹に於て梨倶吠陀の菓趣の軌念は輪如の組合と閥係ゎるものでは無い=殊に忍趣の如き下界演
罪窓を犯したる帖にか、る探測や無戊の暗黒非1二桁るペきことJで望第した跡は潅も見澤らない。此
けれども此辞の讃歌一で肛帥ド槍†るにいづれも軍人ヤ悪鬼を和に児戯すろ児女め頗であ一Q。自己が
深抑の瓶念がある以上少′、とも彼等は∵椰の暗黒界Jピ想化し之車券軍⊥しゎた串は明らかでやQ。
︵こ八︶
ても、それは梨倶吠陀時代の意虚の穐念とはな
から
もね
知れない。然し既に他の讃歌に於て暗黙や
論梨供吠陀四、五、一よbE、五、茄までは後世の附加であるから勿論澤所の如き患趣を描葛してあつ
又同、七、一CE、五には﹁貧愁なる者ヤ深淵に済排して二軍恵も澄せしむる勿れ﹂といつてゐる。勿
カを以て勝利を得で、之ノ官用し射すべしLと。
ソーマよ、汝は焉人を暗黒や洗淵中に陥れ再び彼等の一人さへも深淵より締さしむる勿れ。汝の衝
−C四、三には好評め人や悪鬼や■で絶滅せしめんが鶉にインドラソーマに所願トて日く。﹁インドラ
とみ♭。而してサーヤナ、り註によれば澤桝とは即ち﹁深くして底ひぢき地獄搾あ鶉であるC同・七・
胞を見失へる少女山如く光一ア準蒜心しき妻の如く慾深く正しからす好詐なる者はかの深所に此︼すL
仰吠陀時代の愉廻の軌念に就て言号ペきは頚趣の衷象である。梨倶吠陀甲五、五、には﹁同
のは此の謂である。
628
嬰しは之と異ら一C、一m∵まり∵八←Jm巨﹂は蓬非力讃歌でぁるに拘ら†下界衣象笹認められぬC故に
訳し比等の識歌に忠趣の‖心想か期首らゾ0ならば・ヱヰ哺廻思想−′しの帆係も認められ云でや一?フが文
献に徹して然らざる瞑り、か1一£野趣の衣魚を以ヱト界梢珪の観念の詔跡とすることは出水ない。
蓋し彼等が憩的力而の血想に諾しくなかったことは吠陀諦仰の.♪ン一7オン︵P巳lth冒︶が菩耐に浦
ちてぉることによりて符明される。之彼等が後代に於ける如く欣既約束分に憎まされす単純な遊牧
的珪㌍で近ってゐたかうドあ㌔即ち諦仰の屈性や讃歌り作質は紋等の心埋的状撼曽嘉するもので
ぁる。惟ふに彼等の葎命に封する慾朗は畢純であつた。育造の塩素を柑て子孫を繁柴せしめ彼等ア
ールヤ艮放の頑融一で得いば足る。併し河鹿の長詩は現璽に満たされ渦。彼等がか∼る実状や所願を
講和に哀離したこト﹂ほ基反面に於て苅の不可能真芯妹して屠る。そは唯誹翻への所願の可能的状
に過ぎない。決して視野の状廼では無い。而して彼等は生命其の物に対する強烈なる要求哲有して
ゎたから,此の珪命を賞し或は之を鋤かして其の珪春を争フする岩に対する反抗放射呪岨も亦頗る
強烈であつたに加速禿い。梨棋吠陀に来れてゐム東趣観念の如き此の適例でぁる。彼等ほかくの如
き恵趣有川て日日しの敵や悪人憩鬼の陥るべき踵とh与し叉彼等恋人患鬼が之に陥らんことヤ柵紳に新
甘代印此の輪廻隠憩
以上諭する研によつて、此の憩趣の粗食が何等翰舶の軌念と㈲係如いことは明かにせられたと思
念したのでぁる。
Gエー
舌代印度の輪腐思想
〓ユ四
ふが、輸娼の観念と開運せる電魂の和食、布施や供犠の思想や天界ル表象等巽なるものは悉く梨供
騨持せられるに至ったのでJりる。
は
ヽノ
﹁≠名目d︷・E︼昌雪︷∼derく慧打e眉S︸C訂︼〇m⋮♪︼讐柏.
︵
︳■tヽ
∽
リq・−
二、冒∵う∴門︼♪↓−
ヽl′
時代に於て民聞信仰としての柑他日心想は円心索の対象となつたのであつて伶埋的意義五此の時代
後に視はれたものであらう。かくして後代に到るに従って思想の損耗は礪固とな♭、シバl;†ソド
に翰胸思想の新芽は晒︿梨倶吠陀節十幕の現形でなす至つ時代阿闊婆吠陀山成立した時代の前
・にに
陀時代の仙人の⋮芯といふよりもや1絶世に現れたものでJのること一で暗示してゐるものでぁる。故
節十港に翰剋思想と閥係めろ識秋め多く現はれて居ることは偶々此些細の思想観念が純押に梨似吠
︵二九︶ 中には後期吠陀時代即ち阿規準吠陀り現れた時代の謳歌一ピも包含して居る。かく新しい讃歌の多い
をのみ集めたる研幼者の前出したものヤ集めたむの一、以上三縄の系統■ピ対してゐるから此等の
るものを集めた部分其の二は個々の人・イによりて諭せられたるもの空相招ナしもの其の三は第十
内容を有してゐるが大凡そ三相に分封することが出都島。其の一は梨倶吠陀時代の仙人nらH禰せ
ぁる特別の祭典たとへば印非写の勇めに路頭せられたものである。従って此の第十客は柿々雅多の
吠陀第十零に出でてゐるが、此の梨倶吠陀第十谷は梨倶吠陀り他り部分よりも其の成就を異にし、
6由
629
ヽ■■′
㍑、切.
讐
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ト■
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三.R・く・HL000、かlコ・諾・ひ”コ1.当こ”メムu、の”く︸H●
′■︳ヽ
カ.
︼〟.
里
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ヽ.■′
一八、R.く.舛一Ⅰ弓.ド
光ほ此の二綱批は後世の附加で必ずLし㌣Iへ似吠陀仙人の
一九、R∴﹁︸.︼ば.P
︵
︶
︵
ヽノ
の問﹂ざ耽つてゐろから今lェ之に従つてわく。
ヨユ訂d・ぺp・づー・柏、甲
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戸メH,︼ダけ⋮
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○︰Le臼首一己せ○ヨd盆↓巴P︼S芦S小岩
L′lFく.ノr−−−の♪−.
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R・T・T︼H︸,岩0,∬︼−−ぅ・√︼ガ︼、3、∽︰ロー鰻r∬
声く.Hこひ∴“H・︼ト︰P
名・弓巨ぎ臼り臼昏忘derづ賀り月つ摺aO︼つ札e−巴ド
育代印戊の輪追加細
︵
S︶缶○恰海○
ら互いのlニⅠ且P苫ユPミぁろからⅠ盈p
ミ
ゝ官き言癒
合Ltものミ描ぜnば叱ら布い。仰L、吠陀梵銅でけ
ま日銀に那・し得られろのでぁる。
くーq山ビ∴∵くガriほ同苑lこ解ぜられろから一意打p㌢ユヒ・L
一浩首伊旨r
グラスマン氏り縦ふろ揮でわろ。︵R灯↓e㌢−●∽藍︶
Sひ巾い.
︼を○巳り・−ひ・
︼一川、All一.く●づT●悠﹁ド
︶
′llヽ
孟、とlrノ1●くH.ご.ひ.
︵
︶
一三五
ニ当事Hu訂ユetドリH呂ほ、試色琶gαd二︼訂Oi蒜dαr?
︶
︵
三、?P宕P︹p︰l舌鼓︼・¢・DeG玖昏、meJIN灯qpp已習−
︶
′■■ヽ
≡、声ノ1.づ卜娼・ド此の弼批も後世の附加でぁえ:モーゴ
ヽノ
︵
H悪日pぎ首で布けれげ毎
出潮ではない。英軍lこ就て圧此輩り給金面︵申nrP治−︼旨ロ,
l 】」ゴ
]Pノ1.H
〇 E;ポ
Rigくe㌢︼●Ⅵ●㌫p
づ く
﹁天地問に准ろ﹂とは原文lユーノ、L ant鼠pi︷Pロ日m芋
珂 下
rP臼辞 ミ圧つてゐ一わが、サーヤナり錐には﹁天ビ地云ミ
、h溝pごH−引ユ日詰介・した鴫li
(ヤ(ブミ)(彗)(呼
P
6:】0
ヽ/ ニ六、
︵
古代印度の梅園肘悪
人ュ1.く.ノ1〓T.︼P け∽.
ほ、.2。p・冒︼・nナ影
︶
四
︵
︶
︵
ヽl一−
一三六
宍、Ⅰ︻.Gr転m彗コい目釘く乳P:S・ひ“如
克、ibid㌢柏S¢−
梨倶吠陀工於ては天道と剰遺との観念は明確に分かれて一票㌧かった。離宮にブラフマナ時代には
︵二︶
二︶ ﹁父剋は一つの世界に往す﹂といひ或は﹁父親はた二度な♭﹂と述べて居る。サーヤナの証によれば
﹁此の故に父刷は〓伎死して父剋の状膿を得、之′で符ざれば串二死す﹂とある。へ与ほ﹁父刺ほ欝に一
︵一一︰︶ 度他の世界に去る﹂といひサーヤナは証して﹁彼等には再び轡?−となし﹂といふ。之によれば梨仇
吠陀に肪井した翰廻m芯はや∼明瞭な形をとつて﹁父剋の世界に到る﹂といふ表象を生じたことは削
らかである。正に﹁祭就に於て火に近く人々は三乗の印苧で以て渾む。而して死すべき父剋を不死
︵廿鼓︶の胎に置けりC人々は死すべきポセ不死の・焚廿蘇の胎︶に珪せしめたり。此の紋に父剋の再
死︵Pu=PrI首号︶一で聞けり。かく知れ一〇人にほ綺配の断絶せらる∼こと無し。之暫知れる人には祭
二ハ︶
︵吾
︵円︶ 就は行はるL。1父棚は憩よb旅枕丁。こと無し。⋮;:女は
剋 死すべきも・りなり﹂と述べて父剋の輪
姐埴生すべきものでめら二とむヰ砧して官り。然るに﹁此の父刷は神聖なりL︵へ一賢︰エといひ又﹁父剋
︵l:︶ は死すべきもの悠り⋮⋮加は不死︵al宣t=︶行7りLとあるが之によつて父祀を人間的父血と紳的父刑
の二椰に分梅、﹁ムことが出水る。
︵八︶
而して此の二椰の1父刷は供物l︰よりて生命一ざ支へ﹂られてゐるから﹁父親り書付を有するものは
︻九︶
供物によつてである。L
人間的父覿といふりは遠ける新Lであ′る。梨倶吠陀に於て、父勅は基中や地上の美しき住居に住
んでゐることが歌はれて居にが、之も入関的父巧il㌍指したものでぁる。人間的父刷といふは蓬非山
際火非の式む施さす満に阿者尼碑のカによりて死屍が天界へ上昇す一じ能はす、迩に人間非
﹁﹂︵ノ︶ 入牢、伏してゐるのであィひ。故上1汝は地上に質せ卜。彼カに去ヱしLといつて地上の父剋が速か
に天界に去らんこと一で懇願してぉる。併しながら吠陀やブラフマナに於てさへ遠ける新ト
絆紳に述べて層ない。却って阿問婆吠陀では毘骨法︵憲ざP︶や犀利︵空色は磁鬼として人に病気
や災厄を輿ふるものとしてゐる。寧ろ原鮨俳数繹典に於て吾人は﹁逝ける芦の記述な窺ふこ
凍る。餓鬼粥やDiま邑ぎに話する桝の餓鬼は英の扁であ・る。而して餓鬼の血恕には少しち後
世の確刺†毘食通の思想右脇じて屑ない。唯前生の非業の補職によトて此の士に揖通し天非
られす、新し人あつて彼等の垂棚横間満の付侶に和琴で対するならば其の布施の功徳が澄現
等は此の﹁逝け一〇者﹂の状態ぉ皿して天界尊趣に坐するのである。
餓鬼串は遠けるぎのn叙欄の一椰である。此の土に揖邁せる餓鬼は人の之に遭へばn己り新地
古代印度の輸超脚憩
の境遇卯染を物語るといふ記串である。
63l
632
の菅都よりでフーシュトラにかへる途中正午泣き頃池畔に於て餓鬼に迫った。王
いま一例をあぐれば、スラーシュトラ︵㌘r息rP、S弓長訂︶の王ビンガラカ︵黒古計訂︶がマタリヤ
首代印鷹の檜膚忠虐
︵一〓
︵ヨぎr甘、雲。r甘︶
︵一二﹂
は何物なるかを知らず御者をして尼拘枠組下に翻せしめた。彼は容貌青史の如く甘は妥の色の如く
王は彼に問ふて﹁卿は講天行でるか乾閥凄なぇか冊揮なるか妓︰巳なるか花等は之■ざ知らす汝は如何な
る蛍の人なるか我之■ピ汝に悶はん﹂といつた。此の時彼は答へて日く﹁我は天に非す、乾闊嬰帝碍払
邑にもぁらす。そフックの大王よ粥は此の世に凍れる漉けろ薪︵弓cすi≧l昌お旨︶仁子リ﹂と。かくて
彼は自己の前珪の邪寧で述べて現在の貼報が常然の精機へ仏ることを述べ﹁恰も一村−ふLリ出でゝ他村
に入るが如く此の一律命は他の身偶に入′・つLといひ苦痛の状を物語り王と問答の末偽法仰の尊重す
べきことを知りて﹁縄は彿と抜とド折伏せん我は人天中の最上仰圃に蹄依せん。連に殺生を靴れ世
へ〓ニ︶
間に於て不典泊ノg鵜れ飲酒を跳醸して哩冨せす内の妻豆だ於て満足すべし﹂といつた。其の外﹁我は
耶毘仰の猿払にある逝け一心者なりLともいつてJでるから之と父剋の闘係も朋由であろ即ち父剋を逝
ける者と呼んだといふことは餓鬼斜に於ても来れて一でるのである。
併し戒律中には﹁比丘あつて靴女、羅利女女鬼謀門等とげ法を行せば乃至基の比丘は被疑夷非に
︵一円︶
︵二八︶
二吉
和丹⋮す﹂といつて女奥2i︶霊山し父伐鬼流失p︹
ぞ鼠竃︼5︶といふこともあるが此等は溌女羅列女
と同様に一和の悪鬼てあろ。即ちC=ご≒︰竜両Pの毘適合黒井京︵コ︰替i≡ハP︶の由迎合と同じく一箱の
J霊t、S.−r.∽.−葺∽.
惑鬼で恐らく阿粗壁吠陀に出づ1悪鬼頗−′由一のものであらう。
旺
ソ㌻it.S.Ⅰ.−〇.︼00.
J己︻、ヨr.内言Ⅷ出r●く●P G⊃p・ヨ﹁︸r一︼■望・
U二声
Iり.P血.
Cu︼㌻Tぷgpく・ぢ・ド
ibid
Sl︼tすTib訂かつT﹂・︼P−ナ
つe百召︷tl1日︻.−0、︼ガ
鵜壊1.ろ我で砕謂叉ほインドラの異名でぁろ。
増色︵p冒rP㌢一P→Pロコユ己軋も寸しは阿修並の城邑
づetP↓PttbG−く.∽.
J巴t.Ar.づr.P伊.
(雪)昼)(重)(≒)ム_(ミ)(ミ)(弓)(メモ) わ
ラフマナ七、二ニ、シュクナ七・ハの物語申∴リスナャソドラはナーラダ仙に閏ふて日く﹁
びて人間S本棚を一元に挿して月て之む統一せんとす一匂傾向が鍾じたのである。故にアイクレヤプ
犯情吠陀時代よト蟹生した一三琴覗粗念は次第に二元的傾向を失ひ隼気強鶉︵A・1Ji2㌃m︶的傾向を帯
五
ゝ︷㌢づ.ノ1Ⅰ︻り.︼〇.けP
Clt占守﹂r・︼・曾P
内岩局㌘●く・P]岩巳t・S・﹁・岩・︼S・︵小○?ヮ﹂︸﹂・望
PIPp守﹂H﹂−u“P
く巳章甲H:Ⅰ・P
−2ぢPコ・ふ・nこHこ♪︸J︼つ︰
(八)(七)(六)(五)(匹i)(三)に)(−) ヽ l 、 、 l ヽ ヽ ヽ
古代印昆の輸姐脚想
︼三九・
花︵阿t日21︶のやうな本概論的忠魂を右寸るものでは如⋮くしそ寧ろ吐気光義的なる人糊の琵椚でぁる。
仕れて二間の人間と行アるといふの■であつた。他の物語中父の日我とい、でも決してク.ハニシ†ツドの白
待て如何になるか﹂と。此の・帖ナーノダ仙の答へは父の白花は子に拙承せられて隈胎に入
633
Gニシl
パ代印理の輪廻揖恕l
正にアイクレヤク.ハニシヤ㌧ノド∴、閏、にも同じ自我︵ご≠⋮︶にして本醗諭的忘我を右せ氾ものが
︶
め一〇。.⊥批初.此︵自我即Jり享⋮=︶は璽主人︵て⋮﹂−で︶に於けろ胚丁ち弓r︼エ㍗。り。かり椰子はか
︵
の総ての舷醗より仏法せるカヘ与り。彼は自我に山て告我示壷箭警㌔−彼.かそ一で姉人に注ぐ帖、初めて
︶
そ一で結胎せしむ。これ彼の一最初の誕珪ハ㌧り。三養育者へ㌧一小彼女は亦藍帝されざるべか・りす。婦人は、
︵
かの胚才一で述載守り絞は野に北ハの妃一で誕生り前後に山日工しむ。彼が如何に其の一見七誕丑の前後にや
たしむとむ、そに鱈王二此等■り諦他界の相続の鶉に自我を育たしむるなり。斯くの如くして、既に此
︵
等の諮壮非は粒摸せらる。これ、彼∴弟二の誕生写り。抑二は担い自我にJり。そは請求業の常に枠
けら↓匂。然るに、班の仙り自我は、果すべき訴をなし経りて齢老て逝去る・∵征は此彪より逝去りて、
栗に前兆る。=れ絞り節三の誕珪なり。﹂と、此の自我は畢な左入聞の生面的ま憤でぁつて、丑埋的
には椰子︵P百︶でみり肢恨め力であり衆生七螢ょしむる珪活力でぁろJ此り敢説中には第二の誕
珪と第三の誕生ししい二兎い船舶説︰が表れて■でる。前ポは・H我が北ハの子に相律する境介、接着は死紋
日我が仙界へ縛珪する場令であろ。而してアイクレヤプラフマナは邦二の誕丑に近 いやうでみ一〇。
か′、愉廻〓心想は里純なろ形より瓶庇万一り形へ殴展しにが、プリ∴ドアウ′ヌヤウバニシャ′ドE、川、
若くは乾闊婆弟
三では﹁恰も尺雌が草葉の端に通して吊∼に他の草葉に接右し〓身中ー引いて巨∵∴㍍如′、にこり我む亦
其の肉身む姶て無研一で排ひ他に二ほ新してn誠一貨引い∵二石∴L二移る。⋮⋮⋮・女 叫
r;n6
カレ︰、
くは天神、若くは丑よ若くは梵、苦くは他の生類ハ身偲を作ろ
と遇ペて・でるが、更に、此り輪廻
輔経と業との制係む述べてHく﹁人は愛慾の小朋す如く、基・;意志を形成し、而して其の滋志の向ふ
如く、其のわ満Jで増税す。その折弟諺現するに甜ってこれに加施せる某′ピ収むL。﹁基の意識の執着
する細身に向つT彼正岡執的に業と倶に赴けり。現世に於て紋が兼した一〇めらゆる業の終結を得て、
再、かの他界より=の業い世界に遣る﹂と、足れ船廻思想に菜説一で収入れたものであつて、カウシ
ークキ。クバニン†ソドニ、一五に一父﹁わが華中汝に置かん﹄子﹃汝の業を犯に受けん≒⋮⋮:・もし父死
せば子は邁常に父の桝有を得ペしLといへる父の臨終における父子の問答と同じく輪廻思想と業説
と努結合したるもので一のる。た∵r刀ウシクキクバニシ†ソドでは菜カは自我の代りに使川せられた枯
カ†
葉勢ひ菜説が明瞭に表れてわハ甘いが、ブリハッド・アーラスヤカッパニシャリドの場合では白亜︵ぎゴ?
力山二
ご︶と業とを別現してゐ一匂結果、韮思想Lししては寄ろ徹底して一でる。即ち自我少して喩姻榊生せLむ
るものは基部の物であるといふことになるのでふ∵ろ。−
ブリハノドアラメヤカツ.ハニシ;ドに於てかく柵勉糊4の範園を臓げられたが、吠陀時代には天
︵︰︶
造と覿池との二に過ぎない。然かも父融の他界は八の欣求寸べき軌跡でないから﹁彼符︵人人︶は父
︵二︶
こニ︶
租の世界より大柳の他界上進趣しL﹁かく知れろ人はかく知卜′つ∼紙柑舵満天戊既成甘露成等の満天
に到りL﹁かく知る人は榊の位に到るLのである。然一わにリバニシ▼′ドの前期に択てに知識み︷匂人は
古代印腫の・輪廻揖脚
636
苗代印度の輪廻脚想
一日二
天遭に昇り梵天に到ることが出妹、之より退印寸ること無しといふE小憩が現れた。ブリ♪ウドアラ
ヌヤカタ.ご一シ十ツド六、二、一五には﹁信念と野克とを損招弄するものは梵界に於て永∼留よる。此
等の人々は再び退朽すること無し。Lといつてをるが、かくの如き梵行来#行薪炭び祭舵に窮ひるポ
の生踵として太陽が現れ之一で天迫となし、月の耽昇一で以て剋造となしてをる。ブリハブドアラヌヤ
カク.ハニシ†ツド六、二、一五及びチャンド∴ソギ†ク.ハニン†ツド五、一〇はぇを統承して翰通説お構
成し、梵界■賃率土佗にといて之′で以て永減の解脱靂であるといつて此等、月や太陽の世界一竺得ても
略べきこと一で説くに到った。加之、月と太陽とても耽に永久不挺の地位を保ち得たのでは無かった
のである。故にブラ′シュナ。クバニシ†ツドブラフマナ、三、二〇、一にも﹁月は太陽より高し、何者
死者は初めに太陽に到り、それより月に到るが故捏アリ﹂と述べ、ブリハブドアラヌヤカタバニシ†ツド
畢一q一には﹁人この他界よら嘉五時は、賓に太東に赴く。そこに車輪の宍の如き卒は彼の焉
に開く。そを通じて彼は高く昇る。彼は太陽︵日︶に赴く。・⋮・⋮⋮・征は太怯︵月︶に赴く。﹂といひ更に
カタシクキブラフマナク.ハニシャツド一、二には、月を以て天道︵亡C′・︰1y旨P︶に到ろ門βであると考へ
て、﹁此の世界を去るものは、昭鱈に月非に至る。月は従等の真東によトノ其の前年︵白月︶に於て柑大
此の月界
し.其の撒準︵累月︶に於ては彼等を再焦せしむ。異に月は天界の門行了り。而して閃に答ふるもの一ピ、
月は訳の上界に登らしめ、答へぎるものむ、市、雨として降らしむ。Lと言ひ死新は一旦▼
63丁
に到り其の北別々得て一は天迫に上新し他は下界に雨と打7りて輪生するといつてゐるのは、たとへ
月非を以て長上とせる前のブリ♪㍉ド・アラヌヤーカタバニッ†ツドと形式は薫るも月界を軟調すィu所
其の規な一にすといはねばならない。
ヤカでは天道剋造の格別脇立にして、天道
︵チ†ソドギャク苗五篇鋸十章及び、ブリ
以上述べ化やうにチ†ソドギャクや、ブリハッドアラヌ
には光明即諷.祀払には陪無か売摘してゐるといつてゐる
ハッドアラヌヤカ銅六諦錯二葉銅十五節以下参昭⋮︶が最も此の枇念を明白に表したものは婆伽梵歌第
八津節二十四節の絆でぁる。口くl黙nの二は他界l二於ける永波の汲めりと考へらる。一に依って
人は不退糟に到達し他に依って再び退晒すLとめつて.黒は暗黙を蕊眈して剋温を指し、白とは光
明光捕せや世界な指し天道を示してをる。而して爵即ち脇道によつて人は退場し、白即ち天道を得
て人は不遇輔を縛といふことは、ブリハッドアラヌヤーカやチャンドゥ下ヤの愉地殻を冊略に詠じて
ゐるのである。クバニシ†ツド中音いものは、ブリハウドアラスヤカとチャンドとカ∴ノンークキである
が、吾人は此等のクバエシ†ツドに於て、椚迫を寸て∼、死罪に到り梵に抑入せよ上空警如の世界観
ギJ書風﹂腎.回目巳.巳.P
l
︵
︼拘三
四、増す玉戸.qp●L¢、岩−
ヽ■/
を市棚してぉることをば一々説明すろ必憩は無いでめらう。が、吠陀以雄の喩親和仙怨は梵我一如の
?どけPM∞.P
︵
解放幽なる兜界に留任することむ以て其の終結となしたのである。
は ↓、何秒鍔甲≠ド
古代印此の拍廻船憩
︵
G38
﹁秘密﹂の道徳的宗教的意碓
﹁秘密﹂の遺待的宗教的意義
∵
田
中
治
一班四
吾
平
技に祁窟と云ふのは秘密故の意妹でもなく、又榊和の意義でもない。滋も購い悪筆三ごのであ
って、常識に於て言ふ塵の秘密の意鴻である。荘斌とは如何なるものなるかを考ょるに、知性にl斜
係してゐることは締めて桝である。知性は基の本質として奥の閲拙七杵色としてゐる。此の奥の関
脇が或る陥柑に依りて成し価はぎる畔、此の障柑より彼方は奥の間抑者に放りては祁凍となアリ。又
之れとは反判に吾人が既に眞を開顕してゐる場合に於て、何等かの理由に依りて走れむ他人に公用
人の知
せぎる岬は、北ハの範囲内・ピ和凍と云ふのでぁろ。斯︿秘密には二椰あるが、前者は秘密が客枇約に
存する場合で、人・り知性が基れに入る値はぎa鶉めでみ卜、極右はま規的に崩する場合で.
性基自助周錮して他とい交捗を断った状建であ一心。密教に一千小越山秘密は克として後新字0ま搬的
秘密に扇すべく、紳秘とは前ポなる客観的秘密に威す・りも山とな寸難が出凍るやうであ一心。
〓
客軌界の邦雄は之れを更に二に分つ難が⋮⋮凍る。自然外の秘密と人間界の秘斌とでぁる。然る
人間界の秘密は、よし基れが有意的秘鹿であるとても、之れを理研せんとする他の知性の前には自
然界の秘密と同一に収揖ふ叫が出水るのであるから、客脱非の双塔は之れを自然的雅鹿と見て差支
ないのである。此のn然的秘密の形多にして深通なる、之れ一ピ洲︰解せんとすればする辟、相加の秘
蔵の幕哲大皿つ頗くして、其の紋は人をして∩然非に射する和魂の戚・宜惹起せしむるのである。
して此の自然界の和讃の茄一で開かんとし、又既に一周き得たbとなすものに、利率・督細工不敏の三が
あるけれども、此の秘密の茄日比に一枚を掲げ待て心ぉ堂すれば、正に北ハの臭に幕一りる串を後見し.
斯くして極りなく秘凍の幕は通宿するJで以って、料率も哲弾丸宗放も常に其の説を改めぎるを得ざ
る状態である。基鵬に利伸市坪試飲の進歩が存すろのであり氾想の隊連が存するのでぁる。けれど
も自然界の和凍に温きる彪がないが故に、矢吹り秘密たる恥ほ襲らh仏いのである。之れを要するに
日然的秘密即ち客租界の秘密は常に一の琴で以って包まれてゐる、一の慕が掲げられても現はるゝ
ものは同じく一の幕である。訳し同一の問題につきて和束が二つあれば其の二の悶に何等かの榊係
が考へられ柑一。。知性の活きが誘入し柑る。故に和礪は一なるが粟めに、知性を以ってしては入
﹁秘吋﹂の漣撼的歳鞍的愈鵡
三
難いと云ふ難が其の窮極である。
¢39
840
﹁秘密﹂の道徳的宗軟的混載
此の客悦的秘斌に射する人の知性の蟻皮は時代に依らて英って凍る。又同一人にても年齢に依っ
て英って凍る。人心の沼僚なる時代又は元気の旺盛なる帝年時に於ては、私家を糊損せんょするの
愁が旺でぁるが故に科草の岬代が現はれる。人心が弛接し及び老成諷七人れば宗数の岬代が氷る。
而して暫寧の時代は其の中間に属すると云ひ得る。元より軋曾ほ大であり用人の敷は多いのであつ
て、此等の三の知性の特色は泥在してゐるが、故には唯だ過去の時代と、同一偶人の大概に就て云
ふのである。今日の時代は恍成の恥骨組織が行釣った時でぁる。そして斬らしき軋骨の捷設が要求
せられつ∼ニのる。而して新祉竹雄設の要求は必然に衝敢骨に封して鍵利ハ与る批評の昨を投げる。葡
軌愈を解剖し北ハ一り罪憫を削るみに出さんとする。即ち現時の融合思想は、懲軋骨へのH醒め即ち懲
就曾に射する知性の一大所躍である。此の新配留別籠の新人に射しては、斬軌魯は一個の秘密の存
在として見らる∼のである。故に睨帖り敢骨思想は此の懲軋曾の打破と云ふ叩暫以って其の特色と
するものである。此の串は氾概論の土について考へて見ても同一であつて、先廠的に存する辺地性
の存在訳を破って辟駿的なる道徳説を打紐てようとする。先掛的道元性は公一としての存在であ♭.
紳秘性を対する此の紳和性は知性の活躍する時代の人間には、基佗としては受入れ難いのである。
宗教に於ても、客軌的の刷む引降して内在的紆駿的の紳を建設する。客軌的の耐は紳秘の耐であり.
知性の活散なる時代の入関の英機には容推し難い薗なるが放である。暫塾の如きは時代や個人的性
柿の影埋の極めて少かるべさ客軌的革理の探究を〓的としてゐるにも阿らす、北ハの影隼は可成b揖
若であつて、弼乙の郷沢が純珊的であるに射して、其闊の野沢が緯鹿的でぁるが如き基の好例であ
る。之れは狗逸の甲凪が英王け活俄に純理り問畝に勤めつ∼あるもの1;=い得宅ので右∵る。之れな
要するに近世‖心想の仰向は、稲城む磁密として赦都せす、之れを閏似せんとす一わ踵にあつて、
其の著しい仰向が現代に於ては批骨思想の上に現はれて衆たものと云ひ得るのである。
四
秘密と和羅の聞抑については右に略通せし如くであるとすれば、一、秘密は開賦し証さる、ごbの
打†りや。二、和旅の糊仙北ハものに何緯の軍妹ありや。三、秘密とは抑も如何なる性栗のものな
を考察す一Q舶序とな一小。
先つ銅二の和雄の・糊顕には如何なる意義ありやの問題から考へて見る。人生は自己又は世界に
ける未知一貸間験せんとしてのみ存在し得るとも言ひ得る。未知を知に拍へて術く郡に人間の有ら
る努力と興味が注がれてゐる。訳し未知枇界が無くなるか、未知の世界を内藤せんとする努力興味
が失はれて凍れば人肌は衷窮して次で凍るものは死でぁる。未知の世外の開螢は即も秘旛の開顕で
ある。此の秘躾の閃臨といふ那は、人間を知性的存在として見たときに、人間性の木型をなすもの
﹁柑軒﹂の道場的露訳的忠爵
で、人間より之れを確ひ去れば入関基ものを亡す郡である。斯くの如く秘密の聞損と云ふ郡が、人
64l
﹁柑斬﹂の道徳的宗枇的意義
間の根本性となつてゐる弔は、やがて第一の問題たる、秘密は聞損し孤さるゝやの問娼営も決定す
るものである。人聞の本性に秘密の閉鎖性が存する限り、眈に秘密が開顕された場合には、人は其
の次に和凍智作って凍て、此の和琴で関顕せんと努力するに至ろのである。此の故に客観的に存す
る秘密は、欝は客観に存するにはあらすしてー人の知性英日身が作りあぐる彪のものである。人の
知性は一両には秘密を聞出せんと努力しっ∼他面には円ら問殺され鱒︶.義挙で点−j造しっヽみりて、
然も此の自ら作りたる和雄を聞踊せんしJ妨カしっ∼一のる。之れは知性基∩身のマ〝盾であゎ′、同時に
入関性に存する矛頂に外ならハ甘い。斯く人間に和琴ピ創造する本性が存する限り、人間自身及び世
鑓じて凍るものでぁるが、然し此の域介の秘密の菟珪は自然的であつて、右悪的でへ仏い。知性活動
るきIiに依りて準ば解決されるのである。秘密は人の知性が浦鋤†る時基ぃ対象として反射的仁必す
束とは如何なるものなるかと云ふ恥は、秘密は人の知性が創造したもの捏アワと上に述べし主を答ふ
節一と第二の問題王答へたる予は、必然に箪この問題にも脈状の鎚ノで見出してゐるのでめる。和
五
の存在一£普ばないならば、知性′で追越した、別偶のものに伐つより外はへ甘い。
てゐる人が存するけれども、秘密の作卜手が知性自身であ一・0限り、秘密は無くhuらない。若し秘密
界に秘密の消滅す↓り耶はない。故に和凍り赤在を制ひ若し′、は冷笑し、知の弟嫁の勝利のみを考へ
642
の椚頼的呪塊元一〇に過ぎないのでノりる。斯かる和束は本論の初めに述べし魔の客批的自
でぁる。然るに秘壷にほ人が故意的に之れ一で帝射す甥合がある。即ち嘉闘的秘密がめる。
は心珊車杓西郷的及び㌫ね的に忠我がウ0が猥紙的には闘僻すろ握が乏しいのでJ・りる。然るにま観
的和雄は有意的場象︰サリが故に追拍的に園係すろ揖が洗く又㍍数的にも閑係がある。然ら
故にれ忠=りに利率で作るのでぁるかを考へて見ねばならぬ。有意神秘窮は二の動機に分つ革が出奔
る。一は利己噂動招で一は利他的動機に倶七ものであイ㌔n利的潮攫による秘衰とは、石‖己心内の
部仰が反乱魯的なるか訳しくは和の律法致命に述へる甲で恥ぢ戎に仇心れ且之れ■で仙人に
は,古‖己に不利挙で発すものと考ふ一=場合でめる。利他的動機に供与鱒琴とは自己心内の恥伸一で告
示する恥が、仙人に不利益不串を止せしむるが重刑めでぁつて、師父が字萌に対して、未だ
示する時期にあらやとして和擢にし、果敢君が閻艮を華料寸るが栗めに或る恥仲を秘境にす
き、㌫敢衆が侶従の求迫心む蕗施せしめ新しくは向上せしむる鶉めに或る串物を和束にするが
場合である。而して自然外に存する秘密も、融の意識に於て右に遇ペし如き動機に依って葎題Lて
ゐるものと考ふるとき、n然的客枇的秘密ほ小ポ数的記載を対して凍るのである。即ち枇非七石臼的
的意匠的に考へて凍ねば、小ポ敢的忠鶉は静坐せす、入関を粕紳的存在と草し始めて道墟的
﹁相和﹂の迫拙的宗願的忠誠
童が珪じて雑る。即ち其れが客軌的自然的秘密なると、文人問に於ける無想融約鮪共に伐る
613
644
﹁相対﹂の道徳的㌫魯的意義
一五〇
ると︵有意的秘密は云よ迄もない︰か︶を問はす、之れを有意的のものとして人格的に考へて凍なけれ
ば宗教的道徳的意義と典昧は失はれるのでJのる。而して人の有意的秘密の中、利己的鋤撞に基くも
のは、泊地上には椚締約情偽があ一。のみでJのつて、即ち恵に屈するものと云はねばならぬ。此の串
は宗教的にも間接であろ。故に絹植竹に何位ある秘密は利己的動機に依る秘旗でぁる。
六
人問の聞に起る彪の秘癌は、基の和恵を中心として寛容わ二人がある。叩は秘密を有意的に創作
する慮の琵人と、乙ド卿件の消頼的∩然油圧射作用として秘寧ぎ成やる客人である。斯く秘密はま
客の二人がなくしては起ら、†.盆′、相対的のものであるにも闇らす、基の両者の閲係は常に同一で
はないのであつて、其の関係の異五につれて、和々なる問題が螢確するのである。ま人の有意的利
己的秘密が、・他人又は軋脅に反哺怜恵を由へて配合的革命の機準で聖−が如き、先に述べし現代軋
骨思想の一僻色である。然るに琵人の利他的にして、公然利じ仙拗機を混へざる和揺に於ても、客
人は之れな常に容認するに限らす、之れ一二嘩捜し若しくは之れむ聞岨サざれば構通せざる場合があ
る。斯の如さは和斌の竹鱒で破攣qろのみならす、之れを閃助せんと寸一。客人∩身が、運に宗教的
道徳的級露壱なして、叔基なろ幻滅の現に紡律する悲鳴Jで軍ユじゃトう。何となれば道徳に於ても
㌫故に於ても、人の知性の通しては㍍らぬ或る和琴い蛸坤・−依って基の戌弐の基礎と基の構成とを
¢45
仰つものであ一む。如憧の聞通が一郎進めば、和屈も一井進みて、何題迄も知性では氾つかれぬ秘密
の柏餅があ▼つて、然かも那極に於いて抜からは知性〃進・ル狩出しこ二境域がある。北ハ越からは知
以外のもので進まねばな・り甲のに、鎧に心付かすして桐知性一で以って此再和雄の股堂を便通せんと
し、又祓ほし得たりとす一わ握に、再ポ致Lし道徳を祓捜し〓己頒滅山悲嘆Jで雑たすのである。然らば和
入関の進歩も又無くな
雄は之れむ如何に取扱ふべさかと烹ふに、和癌は和雄ししして之れJで北ハ伯八㍍聴寸ろ庖の雅址が必婁で
ある。斯く云へば雅雄む和紙として放躍する姉は人い知性が之れを許さ、†
るではないかと。がカ′ソトが認識論に於て畔基の喘鳴一で立てたるが如く、追抽及び㍍故に於てもー
の一輪時までは進まではならぬ。又北ハの婿鳴から下♭て如何なる微細ぢる悶用迄も研究せねばならぬ
是れは知性の印城に属する。㌫放及び道徳の碕噂を、和克として其の上に道抽及び宗敷む戌立せし
むるものは損な一〇知性だけの梢城ではへ甘く、人格金橋のカでへ仏ければならね。
七
此の各人栴のカJで以って正しき和雄を湖東としT存在せしむる雅兢高る人のみルポ敢及び沌徳の根
拭に梱れてゐ・匂のである。そは㌫数的には信仰あろ人として氾拙的には温良なる人でれり得る。然
ろに知性のみを囲邦する咋躁なぇ人は此の髄痛を川越にも椚く射行灯まない。斯かる人は愉へば紳
なる∩亜が垂れてあつて本殿の旺刷一で遇ぎつてめるのむ見た時、此
軌に怨即する。其の紳門に捕押
﹁縛据﹂の道徳的宗牝的詮鵡
646
﹁緒雄﹂り道徳的宗軟的諒竜
の白衣が耶膿でぁろと衷ぺる人でぁろ。斯か一り人に白布Jで除いて木板迄進ませた㍍らば満足するで
恥担代の何握に紳が屠るか・r尋ねるでぁらう。邦かる
あらうか。批は必や木膜S屁Jで邪庚にするであらう。爵一宣聞いたならば舟代一で邪鬼にするでぁら
ぅ。㌫代むホしたならば溝足すろかと一H∴に∴
人は結局伸一で視め得拍人でぁる。迫られたろ和紀ノで除かんとのふ律⋮ろ人は何贋造行っても目的物に
通し邦いので一・りる。然らば・狛‖定る人︰㍍申〝品冊ぃりるのでふ∵るか。∩和一工準往たる紳凹も
北小字ノで北ハ低金一とし、前に紳の祝しJし∵珊の婁と‖ハ得る人にして始めて珊に徹し得一Qのでぁる。
も、
榊祉を一の親臨と冨め得る人にして紳があえ。紳祉一
にの和宣でJの乙。可成り耕法・■で尊んでゐる。
之は紳ウ公一として成せしめんが謂めの帥⋮洪に外ならぬ。偶像に射しても同様であ一〇。偶像の物的
訳語に桝へられたりしてゐ′0人に・に・一帖はにノい。偶像を一の統臓とし一の和崩と戚じ得ろ人にして之
れを猥押し得る。
足れ■で粟寸′0に和再刊の糊損に努〃ケリ串は、入関進歩の・γ八現ぢ0搬であるが、北ハれ・エ同一に大切
にして相成小褒すィヵムのは和︰〃て中㌔算段な一じ和雄即ち紳和でめクリ。々‖の帖代・に企りに知性
訊きを世きすぎて、顆畠㌫■郁位が忘れられた一〇帖代ではあるまいか。
諏訪榊赦の御頭貿と北ハ大耽に就いて
玄
智
四月十宜〓は信州の抑静刺訃・S緬抑祭と云って、昔から有名へ仏和祭であ一む。此祭には鹿の由七十
東研む供進するのである。今‖では和牛一時に七十証輸の臨高車々狩猟いから、本年の御祭には軟
調のみ供池した。その小で或もの症毛皮め附いに蟻の此血であるし、他のものは胱の血蛮骨のみで
ぁつた。今‖でも泡々越−二−Iの山奥に化むl狐帥た・どから、信心の結葉.造り越して祭繊の問に合せる
さうであ一心。如何に信越地方の小娘が、悪から狩猟が撼んであつて鱒率はロ=チ計の意味で、斬
る供物一で春秋するかV拝せられる。支那では大群五牲一で以て榊を祭ることが珍しく無いが、日本で
は斯かィQ形式で動物り黒む以て、紳で祭るのは昔に在っては伊務の三晶明呵下野の宇和宮明刺は
その適例で.摘も一・−のことが今‖椚抑制にわはれてをると云ふこと咤.砕程茶人の注意を惹くに足
るのである。
次ぎに此無配で畔に私の旺悪を呼んだことはー和維新の頃混も.此頭の暇牲を奉る時に、旺搾取
m折帥址■り抑粥祭ご共大根に批いて
肪朋紳捷和名力碑に献らすに、基軸胤であつて、紳を代訳してぉると云ひ佃へられた榊官即ち大成
647
6▲柑
諏訪紳祉の御用祭ご共大観に就いて
に黎つだと云ムー姉である。今‖でこそ宮司即ち神官は炊肝の作命し化一肯定であつて、無形の糾
そのものを有形的に一身に況してぉるとは云って屠らない。即ち珪身の榊でぁるとは云はへ仏いから、
止ひJで 得す野際には御紳㈹再任龍を占めてをる﹁摘宮法性大明紳﹂と習いてみる榊奈良天真の和広紛
と云ひ梢へて■ピるものノで、紳輿り申へ安描して、紳♯の柁式で十軒憬︵胃腸櫻︶で、之に向つて此朗
々奉献し.宮司は〓ハ∽祭司り役吏漬すろに泡妻ない。狭⋮し維新山頃迄は﹁我l二伸慨なし成を以て憶
とすLと抽訪明酬が託再几せられたから、世襲s夫脱が代々紳醗で、北大祀に輌供り脱硝一で献げたと云
ふことは火に姓忠に情すると云はなければならね。なせと云ふに/︼れは又帥近か㌫致畔上からは.
明かに帝人同格放で即ち帥人揮一秋又は人本数の性貿・で薄く衣はしてを一〇からである。私は伸追が
科人同格軟である性須Jでホめ十∴つい仰〓例として、柵迫に人閤川パ邦■り有人ごーと一で⋮咋ポするのである
が、 − 即ち大鳥をその珪前か、h明津刷と㍑め、英雄臓人の光せらポ′で紳乱に祭叫了る外に、仲人
徳ポを珪前から刺に封じこめて、葎洞一で証て∼之ノで祭った博例一で托尋して、その例必すしも少くな
いと云ふことを雅兄し、二三の排紙.苅且難色に之・■で総説して問いたのでぁるが、新し火して然
らば︰珪け一石人川の弱めに、洞を宜てゝ之む配ったばかりでな︿、据附その人に向つて、之中和紳
偲と出川めて、糾供物など■で伏へた宮川が、‖本に二めるかどうかJで偶発して兄上いと〓心ってをつた桝、
今取訪明紳の大成の場合は丁既それで﹁我に紳醗なし、成一で以て㍑と寸Lと云ふ刷託に因って、人
悶である大祀その諸に樋頭を哀融したと云ふことは、加川にら私の托してをつた門例ヤ得たので、
非常に最︰ばしく思った。蓋し之に由って、紳泣の両人同精数的性更が、能く詔明されるからでぁ
る。州ち私の吐剤の・仰究と利和って、帥追い刑人同格孜帥も人本数たる川見を和明す一〇に足る好資
料を得たからであイリ。
次に大蹴が‖に見える紳でJりつて、把訪朋紳め醐醗に外圧らぬのでぁるから、明榊そのものは肉
m軌糾批の榊猟鏡せ共大軌に就いて
之は今申さぬ。そこで甘て高仰棚紙が、訊訓明神に慮謂して、庇の犠牲い多く串献されてをるのを
犠牲の奉献の如きはその∴例である。仰この外に今‖まだ取紡には帖の瞞牡本猷も追ってぉるが、
の哲理を常北とするに至った火桝紳も、仰帖々その北‖帖の而影を存してをるのである。即ち此鹿頭の
ので一?肇。先し仰放酉嘩に山れば抜性輿如は奥葬磐石の妙排に外ならぬからでぁる。斯る大衆彿歓
院の笈柵と佃ふるもの1脱‖が、﹁摘宮仕性大明紳Lとめると云はれるのでも此消息が自ら知られる
されるに至っては、その紳の哲隼化の痛く巧妙なるに一駅を喫せぎるを得ぬのである。今、桟泰血
の﹁アルテミスLの様に和独山榊てふ一方面を有ってぉられた諏訪明紳が、般新鹿衰の押を以て説明
明輌む普聡明躍に羽介すムに至った。足れ頗五巧妙年紳仰の羽中∵Jりる。換言すれば、骨ては承服
此釦でもつて紳仰の那〓合が侶亮上り、逆に般若常雄の解性なぃ亡と、無理に緋附けたらしいが、孤訪
り伸
の潤
で基
あで
るあ
。る
にと
を云
のふ
はことにも考へら、れて凍る。
眼に
映氾
せで
伸、
無抑
形J
榊故
(=9
Gこ0
氾印桝址の榊頂猥ヾし北ハ人親・ト胱いて
一正六
俳は不思純なカ使一ざ以て猟犬に捕へさせて、それを
見て、法悦大別紳の如き紳描がなせ斯り如き雄蟄■で葦求せらる∼かむ那†ることが出来す、之れを
碍して、そ沃枇奴通盲て死なんとすろ珪新年
紳前に本献し、以てその習・コ鈍純に山って栗東勧物の形一ぜ拾て、入関にも仕れ、再び法線に遭って、
造に本非の動物が成伽らし得るに学ん抜、槻陀天恵の皐巧方便に外なら田と、之を説明して、古都
からの永い邪借であつ㌍根の楢牲・く殺丑示パ晰の俳致の慈悲ま裁からも、是殉⋮し得る招に、説桝し
ったのである。安弘三川最㍍lい亦同様で、その榊が係数化されて、那才天になつてからも、永く魚蜘
の構牲む敵ってをつたものに、紀前の放言一峨牡と同相な描軌を下して、之一竺保存しょぅとしてをつ
た。椚此川、伊汲の三山大朋紳︵大山親和︶は一過上人の締らひから、決妹一ピ快挙することに拍へて、
従来の動物暇牲一字声紋することを中止したのである。こ∼にも、古い㌫敢時代の姉物が更に新しい
時代に向つて抑移し進んで術く告紡が偉く伺はれるのである。而む糾その北〓ながらり㌫放り本性を
全く舵却することは容易でなく、今〓桐皆朔の侃羊として、脱出の多くJヤ抑胡明刷の御頂祭に見る
ことの出水ろのは、再ポ敢隼上持出心すべさ恥頃たる一で失は氾のでぁる。
爪51
新刊紹サ並批評
and
l一・..■...t−1をt−il一.−一lr一1..−1.t−
Clユstianity
北
の恥骨心珊率を中心とする彼の所謂就や科撃
は、人間の軋曾的精油的現数む耕究対象とする
限りに於て、箪なる記述説明の軍に止まらない
に、斜塾の完成は宗敢をまつて放めて成規し、
更に朝岡的に㍍敦の啓岩は、科坪特に軋倉科畢
の周明によつて、不噺の展問わに帝絨する恥が出
て仰杭惜弟の究光する所は小バ放い恍界なィQが故
Scnia︸Snience・
で、惜薇批判S一問題王入らハ仏ければない。而し
道
︵AChaニ3getOtheChl喜三
塚
lゼC−−≒ln㍑A・〓−ノノ・⋮︼・
才つ召弓Cュハ、︻汚︰山.
大
既に酢曾心理率、酢倉開明 再ポ敢問題等に閲 水ろと言ふいが、彼の前著 ゴle R30︰邑⋮eti喜
して、幾多め∬珊な研究ノで放けにしたエ〝ウッドe﹃ HEiOli呂 の出曙釦であり、木苺は著者の言
する宗教り宣均仕付,ピ、例ならしひ一〇釦に於て、
は、更にかの ≠c冒ce已21t仰つnC叫訂正ぎlふ
︸が如く、前部の宣旨一で蟹展抑化せしめたもの
に外ハ仏らない。従って克明な研究と冨ふよりも、
−汚ド の招蔚とも言ふべき此打ン上溝して、彼の
運芯的な論説であり、一語割下の軋仲間題に射
研関配曾斜叙から見た㌫飲む論じ、時に基曹政
界に対する新しい轡鷲■で敬したのであィ0。
軌骨心理邸︵抑一協命繹拇︶
︰M
り︰
︰⋮︰
〓叫七
て居る。即一り斜坤的梢紳とは英理採光の鮎硝で
紋は光つ利率と㌫放との聞係ノで裾就に刷明し
菅
概一で紹介して見やうと思ふ。
彼の準的証鳩は、、AnH已り乳房tiOヒすS乱巳ゼ・恰好の簡物と言ふペきである。今先に本社の陵
㌻LO喝㌧ニ誓可・−
に於て別にされて屠る如く、酢骨契約課及び軋
骨有機概説の蓮如一宮取捨した、軋衝心理草城は
心鞘搾的祉曾邸に聡かれてあるのであ・uが、こ
漸刊親介鵬批幹
65:王
新刊紹介並批押
一正八
界同胞重義と言ふ新しい弼導頂判!恥骨理想を、
然るにイエスが去って約二千年、人動の努力
イエスと言ふ人格ぉ通して拭げたものである。
の根命であト.それを賓現するのが宗数の役H
は燕冊紺に招いて、利坤と宗教との㈲係も数奇
あり、具視に折伏祀讃する粕納である。然るに
である。故に㌫放と科準とは新に密接不粧の桝
ぢ過緑を辿って溝屈して非たのであるが、現代
故に奥の意味での科邸と宗教とが、イエスの人
係に経りと言ふべきでJのる。元非人性及軌骨制
の如き視灘なえ人生配合に封しては、更により
宗教的精紳トしは、人珪の枇骨的理想‖的に向つ
度の本栗は極めてブラスチック昼撃墜呼子りな
池宵な宗教と科邸との脚怖が屈聞されなければ
格に於て一致調和して現れたのである。
いものであるが,何等かの障凝で基担通自在な
ハ与らぬ。繰言すれば試飲も科邸も時代と共に進
て、偶人の生命を奉仕韮臥する射である。奥の政
進化がはrまれる場合が往んにしてある。それ
化しハ与ければハ仏らぬ。罷に酢食料率の中枢を占
令的鞘旭日的が何であるかを究めるのが、科率
は科準の使命が充分来されハ住いが鶉に、基時代
場
むる靴愈心理坤又は心叩邸仇敵骨嘩の堆異な立
︰︰
⋮Ⅴ
其軌斬の惜他理想が明ホされh甘い串に起因す
場
るが、その理想即ち指填掠排の要綱は
を合珊的軋令的宗教が典冊的に賓現すペきでめ
ならぬ。而してその指し示されたる和独は、之
る鶉には、この恥骨利埋の指導臨明を待たねば
行詰れる現代軋曾一でして基締趨蓉明にせしむ
︰W
一〇。しかし北ハ革囚を更に〟那深く反新して見る 場が現れて凍るのである。
と、利卑的柿和む現野化せしむる㌫数の指恕的
粕和が、振作されない謂であら串になる。即ち
軋愈の刑政文物の進化螢展は、㌫敢の指串によ
る制成文化の介理化粧曾化にある。イエスの原
始兆軒数は、伽秋なろ剛家ま郵 相法正義の侍
説に術計ったユ〆ヤ故に射して、人道ま遮、枇
挑まれたるもの、外的制約によつて強ひられ化
るもの、慣習的に愉偶なくされたるものであつ
るい願望と、絶封抑伏の侶から経れた、内而的
靴命化
和瓦奉仕
の三者でぁる。
第一の軋曾化とは桐人の朴曾化でぁる。何人
の理知、意欲並に楢操の酢倍化である。個人が
にして同時に普遍的〃て
てはならない。仰人の深い川心粥反省による内面
恥骨意識に‖畳めて、1㌃エ摘い軋曾的憤机の理
数的な変の泉とでめらねばならぬ。此愛を進展
愛又は牛窓
想に塵卸し、更に夫む普通化し合理化し伶珊化
し頂大して献倍化し合理化するのが、宗教僻迫
行承そのものである。飛も完全なる偶人人格の
犠牲的粕醐及聯帯裏付威から通出した、頂非的
恥骨理想は、何人の酢命化、酢命束仕、桐人の
椰力ま蓑、快無産褒、押収ま鶉であるが、弟の
全な文化の新しに結先であるのだから、仰未だ
之は永久不捷の本来の舶ではない。在雑の不完
亦内面的に非憩の通餓亨しばられて居る。然し
大々の問に、m恵と附坪とがめり、偶人自身も
︼五九
る郎が出水る。そして先づ利己的打卯を拾てゝ
充分にこの間隙・.貨聞知して、上述の如く仰人の
恥骨化.和瓦奉仕、人軸受の指串頂埋を打建て
新刊幻介亜批肝
弟三にその事仕の生餌行男も、抑軍によつて
完成は、個人の珪命む人頗の共同生活に奉献す
る恥によつて成就されるものでぁる。
節二に基新命化を一桁非硝化せしひる帖は、
の班命に外ならない。
個人の舶亙奉仕となる。現代酢曾の誹椰の摘心
然ろに現代山恥骨和は、馴坪竹悪の紀へぎる
ほ、謀られたる科呼文桝の辟糾し托、利己ま哉、 逆境をなして居る。人種、陶艮、階級、個人尊
科畢的にして同時に宗
ければならぬ。人茹の理想王閥即納の闊への明
的願望、帥入超変の腑就から流れ出るものでな
∴するのである。
槌3
654
人捏アリとし、特に徒者一で近代に於ける華新の粗
ヘソ〆−ソソ氏、及一ノクシェソブッシュ教授の二
二ハ○
所有の軌念から解放され、同胞の思想戚偶に同
悪的代淡水ならとして、梓力抑揚して居る。
新刊調介並批評
化して相互にゆるし分ふ狙か必要である。自己
要するに金牌に廿︰つで科撃と㌫放との和l粥開
的勇束、不動の僧念、人道の熱愛及び厭身的硝
資格とは敏明な札付的知識と激烈な岡棉、道徳
桝としては大坪と敢行と一で堪ぐべく、指蛸乗の
宗教的指蛾ポが必要である。その指帝者の養成
慨的号機構を腸描与るには、どうしても立派な
カを必要とするとなし、最後に宗放が祝賀に典
論上述の偶人の祉脅化、舶正本什、愛又は薄志
ぉ目的とするのであるが、それには乱倉科堺の
指導者との問題に翰及して屠る。㌫敢教育は勿
暇牡豆以てせよと言ふ、北〓ながらのお題目とな
って結♭はしないか。ぁまりに型天弐薄的な目
間叩.恰磁等にかうるに、網押、宥恕.奉仕、
可俺ならばとにかく、然らざる限り利己、搾取.
批判の上に於て﹁軋曾化しと言ふ姉がしか′、鱈行
究克せむとするのは骨常すべきであ一†が、部署
化.惜楯山軋脅化Jで眼目とし、軋骨の小に之を
此前の輿情一里澱むべきである。然し自己の軋曾
佃一で説諭†ら増価を恥骨利隼に求め、之・で恥骨
化し賓拉化†一〇凋純一で㌫故に求めた鋸に択て、
ものは科畢畔に恥骨科邸であるとなし、乱骨億
にすぎないが、描非の新㌫致の進路一ざ別にする
鮎前著﹁宗敬の改造Lのま旨一ぜヱラボレートし化
係な諭せむとするのが革新のま服でぁつて、基
犠牲的な変を通じて、人と人との融和、翻と人
︰Ⅴ 尊
との合一を得る串、之がイエスの説いた眞の宗
教であつたのであると。
︰†
鷺
幕
紳であつて、現在米問に於て此等の素質Jで典へ、
的論の下に、人珪及軋食め﹁忠.の場面一で掩親し
かくして著者は敢後に宗教散村と㌫数の砦際
教的指塙粛として数ふべきは.シカゴ大軍敢授
初期韮督敢時代の佗従にも朔ふべき偉大なる宗
¢55
て、洗骨わ抽合統一の可碓性の・ウ㌘兄−分明
清新豆牛津大里一で卒業す一∪と問もへ甘く我が日
本に留律し、琵として謀邦にあつて、[日本及び
仙皿叩等の珊粟なる串幣の︰而■で邪過して目的るの
支那所用の彿数を研究せられに新進り少批坤着
て、個人の内珪活、紳とい交渉、絶対伏想S一倍
られる。其の在諒の口には、笛て或る研で邦人
でJの一〇。現に木沢本闘寺の仰精に身を置いてを
ではないか。正に㌫数々靴骨的倫理的にのみ見
仰津浦とヤ=ふ方面Jで、制介に岩慮に容れて居ハ仏
化を撤収せしむろ串は、偶人の棉牲否定である
られ、﹁大衆備敢持説Lや﹁最近の〓本L等の著を
は打開して桁敦大坪の尭洋語草の講師をして屠
い様な仰向がないでもへ仏い。しかし仙人の軋脅 初手の誤飲わ⊥せられた串も私は知ってゐる。今
が−やがて大なろ桐性の常長創造なりてふ所以
傭
傷
菅
るに備数の継起的法門の︷で、器世問やれ傭世
はら∼様に適切ではないかも知れないが、要す
究されたものである。字岱諭の名掃に著者もい
本省は彿致の哲雄的方面のうJりの宰椙謝を研
ともめるので、鈷に怯しさ一でぃて基近著一イ、評見
した。
公刊せられた。著者の在山拭い‖には私はカ而一で
む、敢命科即の見地から説き、かくの如き倍大
なる個性一で現代に於ける㌫致指導者に見〓さむ 異にしてではあるが、しばらく氏に伸張したこ
とへ竺ユ・桝.該博罷る軋令和学め碓石の上に立っ、
場
菅
Budd︸︼ist
PE︻?
著者の㍍数的熱情をぬ廃するに恰bあるもので
ある。
場
≠
A Maロua○l
間やをの加状や基の井成城沸や其の・問の因果則
︼六︼
論と解脱諒とに分ち、前ポむ以て備敢の華甲的
田﹃W・巳・崇仁誓召コト ︵
泉
けけげ
ニー一山い
SOphy︶く0﹁Ⅰ●nOSヨ0︸Ogy︸
本
を脚光せら〓たものであ一心。普通、沸教■㌣宇嗣
脇
︸bn︵訂n−−誓ぃ●
新刊紹介弛批評
G占づ
宇l吊諭︵他界観︶を更に分って、繰起諭と聾細論
部門後者を以てその㌫数的郡門と根に群へ、
ド布惰性問の梢成質素に閲する研究でぁつて、
の考察むへ竺9ものでぁわ、次はそれ等館頼開通
研究.並にその世界︵持世間、三井︶に住む有情
一六二
とになす様であるが、かく見れば若者の宇宙論
五段十二︰昆十人非等の思想よb敬屈して次第に
布刊細介温批幹
は繰剋論のうちの一部分となる。即ち新都は解
彩に拓む大琉紹此ハ.並に南北大小諭娘を以て係
備に過ぎの何の初期小錦面のよりも、論部的色
する。足り≡分の宇宙論は賃に本部の内幕︼でな
結合分散り口先刑やの研究をなすもの・であると
㍑諭︵僻身諭や闇戎諭︶的方面は三波中の枠戒と
般経とだつて、或は七十五法となり打法ともな
共に偽敢竹中と呼ぶペきもののうちより除外
った是拘V珊法の考察、貴校は北ハ析︰V縞毀窮封或は
し、鍔沌巾でも華新によれば小ポ敢的又倫理的奴 結合せしめ、或は齢散せしむる掠拗カたる韮や、
数詔軸主なされるらしい。そしてこの係数哲拳
P−1i︻i寅T
すものでぁつて、是に従って木北︰の本論は三算
ド分たれてゐる。
のぅちを二分して和待的帝準詳㌻tiくe
れる。而して前者即ち加持的哲学で偽数巾の科
克的部門と潜血的部内とに和館寸るものと㍊は
なされるが、これは前の宇野警世解脱︶中の線
下の草婿の巌園外であり、目下舶待的部門とし
きは、超陽的部門に屈すペきものでぁつてー目
ちでも.中取涙亭支那で騎通した弗巌天ム〓の如
る資料一で控志せられたか。著者は件数懲邸のう
而らば蓑ポはこの桝訓⋮宇宙諭の研究に如何な
邸的方面と見、是窒二分して︹窟micぞ已b乱址、
pl一yと過般的暫邸H⊇l買づ已昌邑P︼己急呈−yと
︹忌miOA邑鼠の︸C現日ieロコ弓miへ肋の三となし.
て童持すペきものは、上座郁、石部及び稔伽派
の三堺沢に代訳される。而してその文献は、巴
利研何の緒論、筒井七諭や撃菅阿冤縛陀等の詩
初は彿敢の宰胃酸珪の和箭や規範伯方而の宇宙
な各班として見Tの性貿、形状、大きさ、等の
合の諸所や、北方の七論︵乾智︰ハ足︶、毘填沙、
事一で大健に於いで上座部のものと見.演繹両河
柁に思はれる。新米の新しき僻揮批評は存しな
t︼一乱OHの敢鵡のそのま∼の記述紹介G過ぎない
着が本論に説く桝のものは、仝概を通じて
弓・
供介及端緒祉に石部の敗績一で見、愉伽派のもの
い。先づ第一臨に於けるCamie
の・分新一竺一分して、ま観的と客附的となし、
t訂已素
ti
するのが基であるから、著ポは克として基等謂
の謙法の精分即ち上座の胃七十綾.石部の七十
のそれハ1の説明を運べ、後者に於て、三軍派
への理斬のために、整前
理者に於て五池十二踵十人界等に闘する三寧派
革派の代衣的敢範で敢捕的に固定されたものに
綬してある。是も大㈹に於て付紙約数鶉のよヽ
の紹介でぁる。m三細C浣mieU苫昌i窃は俳敢
五法、旅仰派の百紘一早天々筒恥に説明L且つ比
邑賢訂幹点旦き石部では供介論及び仰伽披陀確
の因来紺の研究でぁつて赴一竺一分して.個人的
Ab︼1”d訂⊇丁
の溝沓、喩伽派でけ護法の成唯識論等である。
と宇宙的︵T訂訂召。︻C邑乳首竜苫乱すtl昂
資料となつたものは、上腫部では
何曲外芽ポは彿剋純紀︵恐らく基の中で、世界
t訂Elem男爵︰象
一日diくid巨l■Plld
〓ハ三
十二回線の解群が述べられ、三世梢諏や二世一
tl已ぢ盲乱tO
名機誌二容︶及び法外安光岡︵明仁潮掩†︶等ぉ
Eれ訂打n声︶とになし、前者に於て塗二派の葉訟
新刊紹介弛批押
以上の資料に裁き前述の三分科によつて、著
も盤照したと言ふ。
発きを濯いて居られる。従って本むの韮婆なる
日P訂PPtβ詔Ort︼1⋮n唱
正に進んで新和詭 Tl︼8ri貌8ヨ籍rni・1g
下の目的は陽に常ハ舛∨鍋箪派の宇宙ぬの軋的発展んど供介等の須摘出読や、五或は六道の輪廻混
の経路一で詳細に跡つけるのが薫製なるものでは の紹介でふγり、第二編C毎日⋮eA冒官訂は、宇宙り
なくて、基等に代衣せられる彿敢の宇宙翰・で、 構成安魂の分析的研究であるが、郡部はこの要
S3t︼−乳肋lま殆
lは研糾六紅十一論等によつて見られる。然し目
以i7
658
ケ脱してゐた、考察研究に仏するものがぁるか
︼六四
前の説明等が紹介せられて居り、綾者にては、
ら
新刊綿介膿批評
三派の閉路尭の敷や其の各の訳明、即ち上座の
西の科郵と常堺との閥係よりも施に密ほ不離の
等近代の川心想に訴へて、畢摘的主催画し説〓す
は只その相続的歌謡の離稚離介に止まつて、何
り”クくを語る資格は無いが、倶介や唯識の教義
上座邦︵而力諭部︶の研究に対してほ私はめょ
諭中のあるものは、耶に過去の思想としてより
はる。従って常者の得意とする朗も此踵に無い
のでめらうし。且っ又、野際この捕縄彿数字宙
入り得ないが故に今是を耕究するのであると言
舶葡︶の研究には、この草侶・汀l炉ぜ知らゃしては
然しこの両者の聞係は沸教に於ては、泰
二十四線、倶令唯識の六︵十︶田川繰五弟読が紹
関係にあるからして、梯教の形而上埋的方面︵賓
る億腰で如いことは物足らぬほでもあるが、或
ー
介せられてゐる。
はそれは望むカが無理であるのかも知れない。
以上に現代の準備に褒興するの発楕無官ものも
あらう。
著ポは先に沸教新邸哲相律的と超験的とに別つ
然し我々lま、泰西の棟数研究の殆んどすべて
が、巴利文献中心の小爽俳致の研究であるか、
さなくば描に桟存する淑桐の大乗損典の文献的
に際して、n分の研究心は前部に剖してよりも
なれば一仰数は北ハの他の粟津‖仙恕一般し上回柁
研究に止まるの今〓、窄先して沌謂彿此ハ而も救
/し
何と
に、基の科坤的方面よりも滝に形而上瑚的方面
も靴損繁雄へ甘心諭部に裁き、苗方の諭潮をも取
︶
に於て泰西の〓心蝕と北ハ油し中部の損掠一打引ゝ一J易
迄に稜者に対して引かる∼のでぁるが・−
く、科草伯山而.天文草や地文訳lま到底押印相通
り入〓て、俳数の芋川諭的力而むこれだけに細
められたる労り多大行アりしことを思はねばな一り
まい。‖木の偽敦邸者が本省によつて内容上新
︶
僧たるを逃れへ甘いから、二彿敢lまそ・り曽隼的︵形
︵
耐土隼的︶部門に於て最・・い・桐畑的で外道い国利
6ユ
地の雷はげ野里一誌に分って、㌫敢、宗敢少、
及び‖本㌫敷むに榊†る拙阻を述べ、木諒は殿
しく致へらる∼ところは少いであらうが.泰西
に於けろ仰致の此の方面の研究の先駆者として
桁時代に初って、大正の現代に経るまで、L万∴し
本部の批桝なムと、記述の帥繕なィ0と■で知るに
こと、前後一ヤ油じで野に二H八十除草、以って
M‖∴11
本群が彼の地に邪大なろ意窮と杜仲とを射す一心
菅
な怖劃すること二十垢、週日l二 よつて章一〃し分つ
史
キ
でめらうと私は倍する。
普
教
十分である。而も研究の親野は購い範園に亙っ
て、榊儒沸基準の代表的宗敢を初め、我が国に
於け今市ゆる宗教現象一〝晶⋮鮎として、文辞.政
治、坪裁、用度ハ㌧巨﹂い緒方而に反映した宗教思
舜
佐
想一ピも、その限非り巾に収めて居一〇。これほ‖
泰
円本に於ける宗教螢遁の跡を示す諸物は、五=
木宗教史の論究上、常に果さるペきことでゐ一り
藤
等‖本人の戒めにも、亦世界の埋界に対しても、
とは云へ、欝に容易ならざる群発であるのに、
るに今▼ 比用松代によつて、川到梢癌にして堂
たる構へを以て、津肺光大なる‖木㌫敢山一で、
乙此の細り薔通一く
〓ハ正
鼎向上程よb択h・新し堂ケ
々千打砕Hに亙■り﹁‖木ハポ放出Lが公刊されたこ
我が印非に提供したことは、少批伊部の焉覿一で
新刊招介地歌押
とは、献に喜ばしい次第でぁる。
一で企てて居る。著者は大群一ざ〓でて未だ幾年な
一部あるのみで、此の方面の榊究が甚だ進んで
カ︰甘いのは、我が坤外の一痛恨餌でぁつた。然 らざるに、研準大家もが易に手を下し兼ねて居
夙に作られて居るべき箭であるのに、明消四十
抱∵宝∵足氏茸
三共出版乱発行
W
赤諜は碓く此の紺闇む征服して、周到なる叙述
口 木
聯
苅昂宗
年頃、土用詮数氏の若した1‖本㌫放出Lが俳l二
来比
(て60
示す餌に於て敬椚の至りでみり、此の方面の研
ー郡市としての役rlを漬する京栴ノで∬ハへて居
㌫㍑史ではなく、日本史もしくは‖本文化史わ
一六六
究め渥々た一?歩みに対して、絶大−い猥英であら
勅刊紹介耽批評
ねばならぬ。
る。即ち骨てふ∵りし㌫敏郎門拭わ宍衰の外に、
各畔代に於ける一般人土の距に映じた崇敬を明
此の持出特色は、第一各ハポ故に亙つT川れを
循にかゝらす、難路として吾等G臼井に入り怒
る現代の折柄・で、把的に鶴通することは至描の
垢三、明治大正時代の㌫豹に留意して、極めて
貴近の串貌までをも則雄して㍍る。未だ屈虹の
にして居る。そして夫れは、融合∵一﹁爪ポとしての・
る値段ノで以て叙述してみることである。之れに 完敗一で抑究するに最も大胡なことの〓しある。
まとし何れを従ょすることへ甘く、努めて公隼な
ょって識者は、我が同大音の宗教〓小憩、桟難極
らなき彿数各派の㌫議、机⋮血沈・・U基材致用務の
雄踏.擾遵を禿ねた侶草の椚長.及び成就紳迫
の諸相に対して、誇張もなく鋸⋮親JJれた桝もへu
業である。而も此の汚が此の持帰′〟J揖けすに、
き有りのほい宝にほすることが出水ろ。加之、
歴然としてこポ敢の形一ぜ取らぬ通俗民間い倍仰 終始三千年り崇致把一ぜ文字通ら完結サしめたの
m析排列に闘しては、見る人によりて意見一で異
花心一で推賞せぎるを得ない。元より北ハの相川の
現象■でも、細心の沌意め下に記述されて居るの
は、誠に鈷梢なことであろ。れ二、各宗孜帝石
m心想に回する出版物一で、殆ど吊れ㍍く紹介し、
に†るであらうが、木器が特に明沼以後¢需薮
又は㌫数由l恨に映じた〓清文雄Jで論じたろが如
の資料のみによらす、煩く二日文化史の中に其
込まれて一?エバ敢の而㍍ノ〃・映し出さんと坊力
の材料■で求めて、口本文化再帥々舶の中に摘1
要するに此の墾物は、何等詫細り光れへ㌧︿公
し、殊L〓本文坤持期S持通に‘l化ハ与らに手Jで きは、稚に一軒色・でなすものであら。
蹟げて屠る。此の鮎に於†本宮は孤立せユニ〓本
次へと三千年の㌫衰現象を映し出して居る。而
別辞袖に、宗教常連の・跡′で叶ハ化虹■ど背紋の
と記し
遁て
は、浦約射典のブィ〝ムのやうに,次から
漏れ互′、叙述したもので、云ひ得ペくん宣.な
前の通った映訳脚とは云ひ揃い。著新は序論に
粗的叙過として燕大成した桝に北ハの特色があ もそれは或る出奔串又lま凪款の映韮であつて、
る。差配の偏見一で交へす、雪組Jで蒼切に取扱ひ、
新刊沼介膿批群
織の下に粧めることほ牽鋸な射葉であろ。之れ
〓ハ七
僻右な名榊が附けられて層ない。二部八十伶革 此の椰の新逃が今まで維如に近かった一の珊山
史の時代砧捌む細別したのみで、何⋮.⋮∴ポ射出に
そして出凍るだけ多くの発料を机かしてあろ鉛 於て多少の筋泣空不しては侶るが、蒐大じる本
に於て、此の岱ほ埋としての円本再ポ数出たるの
論む識みわく訳者は何時かそれを寝れ勝ちであ
地位を占め得る。
る。従って此り澤は通漬するよ♭も、時に膳じ
けれども〓本宗豹虹は此の番によつて完成さ て必要な部分一ぜ開いて見る百科合邦的のものと
れたと云ふことは〓塞ない。客軌的の取扱は史 して択くカが、便利のやうにも成せられる。鈎
呼を成立せしめる上に穀も荊妻な態度である 断ほ忌ひべきであるが、一仰の識見によつて組
が、北ハれが全部ではない。基の上に組損がなく
持された日本宗敢虹があつて欲しい。吾郎は退
てはなら田。従ってある椰のま軌の働き即ち識 去の㌫故に闘する仰々の串欝を知ると北ハに、日
見が必要モあぇ。群槻的なることむ算ぶの侍り、本㌫放出として純綿ある締った知鬼一で望んでや
駁漬が機械的に淀れ、難件が時椚伯瞑序によつ まない。
て凝列されるだけでは、翔としての脛史になら 思ふに我が岡山小紋い庶出は▼ 潜薪も云って居
ぬと愚はれる。此の習は此のカ而に於て些か物 るやうに、壮外㌫放出い一帖銅とも見る可き程に、
足りない戚じがする。二十宥怜の各編は、日本 仔細の㌫敬が入bこんで吊る。之れ一で一つの揖
6Gl
GG2
らで完成した日本㌫数出ではへ㌧いが、それが完
く椚段でぁる。此の滋昧に於て、木部に尖れ自
之れが組毎に射する考霊は、今後に於て造み行
先つ以て客酎的敏速を天成したものであつて、
て成し遥げられるっ本宮はその節一階段とし一\
の火潜官公にした。大串韮は幾段かの階梯一で揖
でらあう。若者は此に成激する用あつて、今此
の沓は宗教に掛係する中門家に収つ.tも、日本
丼々ならぬ骨折りと云はねば互ら氾。斯くて此
相一ピ、兎も角もみれ吐けの形に化⊥げたことは、
出凍て層ない今日、炸多七一り日本㌫数史の純々
れ・い㌫敢に囲してすら、朱仁完全な虹約諾通が
ふべゝご﹂とはめらうけれども、紳侶体裁それそ
愈心の・至りでみ一〇。鞘想的に‖本宗敢む一で棟準
として批評す争と㍍れば、本琶に鵜ても鑓多言
とは、少批有基いm︰封の批賢として、まことに
l六八
成の鶉のに漬過せねばならぬ第一の階梯一で椎茸
に桁み占め、日本宗教史の押隠をして、一歩進
の文化や日本史を研究す乙人々に取っても、又
朝刊招介覗批評
ましめた鮎に於て、準界に封すろ位命一軍果しに
■ ■
一︳ヽ○ ビにした。
於て、必す役に立つことがJウ匂と思ふ。
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一−,l一..’
L
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何かの堺介に、何かの志昧に
は‖本人としての歌道と自兜と一ピ心拍くる一般
人土に対してむ▼
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昨秋九‖研苅一世邦一紙わ狩刊してから、阿東正規の刊行み節用したが、<・同鎚らにヱふ頭越し、各用人雄に於け
る宗教申全般に亘り、之に関係わ・の≠関ん和好†ろ坊針ごし、和布l二於てほ塑叔、京都、仲克及び福川に常在漆山な
隼nrに
Jり−1
塚、ポ騎曾信之に苦り、矢吠畳瑚帯許亡兄ろ。山根祁に於てlI胡渓丁論∴ナ 、赤松軒城ヱに骨⋮り、利雄了諸相⋮許ご在ろ。帥虫1︰於ては給水宗⋮脚、学外約㍍之に講り、給水ぷ常⋮や、売ろ。似
肇ハ止、根京に於てほ木村赤堤、矢吹塵
龍く: −.■
野川空
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問l:於 ー1㍑野路此ナ仁常ろ。又湖畔主任ごLて1‡原Ⅲ願明之に借り、京都に於ては印琴㌍付録粧折拓か分楯†う
h.ヽノ.●lトト〓■−L■ lヽh−ヽl■−り川﹁ ●ヽl㌧ ′ ヽ.L けけ:、/ゝ■1.一.1’.−′,■..L、+...1
仰やー耐用闘州机榊㍑離舶用⋮綜錯耶扁冊緒紹譜揖棚針施紬愉騨机町紺撒鯉帰相場針市 r−1∼∼∼1﹀−11∼∼−∼︸−∼∼∼主・∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼−∼1−∼きーr・−−1Jl・rlノ1J・−・・−1−1I−I−−−−∼・−﹀−∼∼∼1∼∼11JIJll∼l、ノ・・′・−−享1I−1Jt−一l・ノl・・\lきノll\\\
普
ものと云ってよい。小じんょりと掘った績み本
ぉ出すよりも、よし不完全であつても、大なえ
柿色と忘我とを待った聾物を坪界に提供するこ
骨
∵ロ+
侶足研敦
−
大正十三年六月廿五日印刷
大正十四年七月一日蟹行
霜斡者
︵党旗金萱団︶
研
究
新第二巷・第四渋
教
崎
研
究
正
費
冶
伊
骨
行
東京闊同大串・宗教侵研究室内
宗
教
中
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京田富芸
田
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択牲翠琴三七巴ハ番、電話大事五九l九番
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