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http://trans-aid.jp
アイズ・オン・ザ・プライズⅡインタビュー : エレイン・ブラウ
ン・インタビュー
Eyes on the Prize Ⅱ Intervies: Interview with Elaine Brown
http://digital.wustl.edu/e/eii/eiiweb/bro5427.0311.022marc_record
_interviewer_process.html
otake 2011-04-27 13:39:47
インタビュアー: ルイス・マサイア、テリー・ロックフェラー
プロダクションチーム: B
インタビュー実施日:1988年10月14日
カメラロール: 3013-3016
サウンドロール: 306-308
編集者注:
インタビュー実施者:Blackside, Inc。実施日:1988年10月14日。ワシントン大学図書館、フィ
ルムとメディア・アーカイブ、ヘンリー・ハンプトン・コレクション。書き起こしには最終プロ
グラムに登場しない素材も含まれます。
ルイス・マサイア: 組織の中にいたあなたの目からみて、ブラックパンサーは、どんな人たちだ
ったのですか?以前あなたは、ブラックパンサーはいろいろな階級の結びつき、ストリートキッ
ズもいれば、高学歴の人もいたと言いましたね。その辺のことを話してください。
エレイン・ブラウン: いろいろな人たちがいましたが、階級の結びつきと呼べるかどうか。なぜ
かというと私たちの分析によれば、たとえば、黒人(ブラックピープル)はブルジョワ層にはい
りませんから。ブルジョワ階級を私たちが代表するとはいえなかった。でも、ブラックパンサー
党には幅広い層の人たちがまじりあっていたのは確かです。私たちは全員が皆、ユニークでした
。ひとりひとりが、個性的だったと思います。出身地もばらばらでした。たとえば、ジョン・ハ
ギンズ[注1]はニューヘイブンの出身で、ミドルクラスの出と言えた。かと思うと、バンチー・
カーター[注2]は、ロサンゼルスのストリートキッズでした。ほかの人たちはその間のどこかに
ばらばらと位置していました。私たちは、いまではアンダークラス(底辺層)とよばれるように
なった人たち、私たちがルンペン・プロレタリアートと呼んだ人たち、ストリートキッズ、最貧
困の労働者階級の人たちを一番引きつけたといえると思います。
質問2
マサイア: あなたをブラックパンサー党に引きつけたのは何でしたか?参加した原因は?
ブラウン: 一言では語りつくせない質問です。何かひとつ、これということはできません。でも
私の場合、もっとも大きな影響を与えたことはひとつ、いえ、ふたつありました。ひとつは、南
カリフォルニアでバンチー・カーターに出会ったことでした。カーターは「ゲットーの市長」を
自認していました。私はいつでも彼をアーティストで詩人だと呼んでいました。「スローソン」
というギャングのボスで、ストリートキッズで、すばらしい人でした。バンチー・カーターのそ
ばにいたら、誰であれ、何でもいいから彼がやっていることに加わらずにはいられなくなる、そ
んな人だったと思います。ほら、その当時は本当にエキサイティングな時代だったから、皆、何
かしたくてしかたなかった。私は、すでに「ブラック・コングレス」という名の団体に参加して
いました。その「運動」の周辺で使い走りのような仕事はしていました。でもバンチーにあった
時、ブラックパンサー党にはいらなくてはと思いました。それで党の仕事を少し始めましたが、
正式に人生をかけてブラックパンサー党に取り組もうと思ったのは、エルドリッジ・クリーバー
[注3]に出会ってから、そしてクリーバーが撃たれ、ボビー・ハットン[注4]が射殺された後
でした。
質問3
マサイア: (パンサーの)思想について少し話していただけますか ?[翻訳者注:この質問に対
する答えは、原文に記載されていません]
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質問4
マサイア: ブラックパンサーの党員であることは、何を意味しましたか?ブラックパンサーとは何
でしたか?
ブラウン: 私、個人にとって―という意味ですよね、質問の趣旨は?―何を意味したかというと、
自分の人生を賭けるということでした。皆、そんな風に考えていたと思います。自分の一部、人
生を捧げなければなりませんでした。自分たちが関わっている闘争は社会革命の一環だと信じて
いましたから。一生を捧げるべきものだと。そのためにすべてを投げ出さなければならなかった
。献身が求められたのです。マジに死ぬと思っていたか?私たちの大半はある時期以後、そう考
えるようになったと思います。でもそれは、自分の命をより大きな何かのために投げ出すことで
した。抑圧を排除し、この国でブラックピープルにとって、そしてその他の民衆にとって抑圧を
なすあらゆるものを排除するという思想に命を賭けることでした。それは自分ひとりのことでは
なく、ひとりの人間として何をやるか、何のために自分は存在しているのかということを問うこ
とで、自分を全体の一部とみなし、プロセスの一環としてみる、軍の一兵士と考えることを意味
しました。私たちは自分を軍の一兵士とみており、軍は革命をもたらす前衛軍であり、自分たち
は米国に社会革命をもたらすのだと考えていました。
質問5
マサイア: 以前、ヒューイはいろいろな人たちから借りて、パンサーを、パンサーの政策を、そし
てパンサーのスタイルを作り上げていったとおっしゃってましたよね。その点を説明してくださ
い。ヒューイ・ニュートン[注5]はどんな影響を受けたのか。ヒューイ・P・ニュートン自身に
ついても話してください。
ブラウン: 私にわかっている影響のひとつは―もちろん、パンサーのユニフォームへの影響はすぐ
わかるでしょう?―チェ・ゲバラ、南米とキューバのゲリラ活動一般からヒントを得たものでし
た。ブラックパンサーというグループ名はミシシッピのラウンデス郡の自由団体から借用しまし
た。投票権を推進する組織で、私たちのシンボルの豹(パンサー)を使っていました。当時、ブ
ラック・ピープルは、あれこれなんくせをつけて投票権を拒否されていました。読み書き能力テス
トを求められても困らないよう、投票所でブラックパンサーのシンボルを探せ、そうすればどの
候補者に投票すればいいかわかると説いていました。私たちは彼らのブランクパンサー(黒豹
)のシンボルを借りた[注6]のです。私たちはネイション・オブ・イスラム[注7]の十項目綱
領とプログラムを借りて、自分たちの十項目綱領[注8]プログラムを作りました。でも、私たちと
ほかの組織との際立った違いは、ヒューイが強く推進していた武装でした。言い換えれば、チェ
・ゲバラは別として米国でブラックパンサー党とほかの人たちとのきわだたせた違いは、私たち
が闘争には武装暴力と武装勢力が必要だと信じていたことでした。私たちにはその心構えができ
ていて、それを実現するために武装していました。それは皆に一貫していました。でも、それが
すべてだとみるのは間違いで、プロセスの一局面とみるべきです。そのような時代でした。こう
いったことはシンボリックなことであり、それだけが大事な問題だったわけではありませんでし
た。多くの場合において、大切なのは思想でした。特に党が結成された頃には。ヒューイがどん
な人だったかというと、ヒューイについて考えるとき、真っ先に頭に浮かぶことは、天才だった
ということです。頭脳明晰な理論家で、勝利のために取り組まなければならないコンセプトをし
っかり理解していました。端的に言って、ヒューイ・ニュートンはブラックパンサー党を支えた指
導者でした。武装について、社会主義革命について語り、道を示すことができました。そしても
ちろん、行動でそれを示しました。サクラメントに行き、というか、ヒューイが自分で出向いた
わけではありませんでしたが、ベティ・シャバーズの警護[注9]をしたりしました。人々の注目
を集め、最終的にはもちろん、1967年にオークランドで警官との銃撃戦の巻きぞえをくって「フ
リー・ヒューイ(ヒューイ釈放)」運動[注10]の焦点になりました。ヒューイは形式上だけで
なく、実質的にもブラックパンサー党の真の精神、ブラックパンサー党を独特なものにしたドラ
マ、ダイナミズムを生きることになったと思います。
質問6
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マサイア: 昨晩、キリストの最後の誘惑の話が出ましたね。死の直前のキリストが体験したあの瞬
間です。 パンサーの党員のひとりとして、いつ死ぬかもしれないと悟ったときのことについて、
話していたときでしたが。自分の命が危険にさらされているとわかったときのことを覚えていま
すか?それはあなたをどう変えましたか?死ぬかもしれないと思ったったのはいつのことでした
か?
ブラウン: 過去のことをあんまりほじくりまわりたくありませんが、1969年にUCLAでジョンと
バンチーが殺されたとき、きっとタイミングが40秒か50秒違っていたら、私も撃たれていただろ
うと思います。でも、そのことで大きな影響を受けたというわけではありません。ただ、事実と
してそうだったというだけで、感情的に尾を引いたとは思いません。銃撃があったという事件事
態はすっかり覚えていますが、その瞬間の記憶はぼやけています。でもその日の午後に、彼らが
殺された後で、私たちはエリカ・ハギンスがいた家にいって話をし、グループを招集し、これか
らどうしたらいいか、話しあいました。2人、殺されましたから。組織の建て直しを始めながら、
この家を離れなくてはと感じていました。でも、窓から外を見ると、警官が150人くらい集まっ
ていて、家の中に押し入ろうとしていました。屋根からはいってこようとしていました。そのと
き、家の中にいたのは、女性4人だけ。エリカとジョーンとジャニス、それに私、そしてエリカ
の赤ちゃん、エリカとジョンの生後3ヶ月の赤ちゃんでした。家の外には男性が2人いましたが、
多勢に無勢でした。ドアからはいってきて、私たちは殺されるんだと話し合いました。家から出
てこなければ殺してやると警官は、言っていました。頭をぶっ飛ばしてやると。警察はジェロニ
モ・プラット[注11]とナサニエル・クラークの耳元にショットガンをつきつけていました。私た
ちは床に伏せました。 もうこれまで、今日、私たちは死ぬのね、私たちは言いあいました。最初
に思ったことは、なんとかやりぬきたいという希望でした。この苦痛に耐えることができればと
願いました。私の身に何が起きようと、なんとかやりぬければと願いました。不思議な気持ちで
した。自分があんなにも勇敢で平静でいられるなんて。考えたこともありませんでした。本当に
思いもよりませんでした。泣き喚いたりすると思っていましたから。警官はドアを蹴り破り、私
たちの頭にショットガンをつきつけました。でももちろん、私は殺されず、いまここにこうして
います。でもそのときは―。とても身近にいて親しくしていたジョン・ハギンスは殺された。私
にできることは何もない。これっきゃない、これが私の人生。そういうこと。やってやろうじゃ
ない。1969年1月17日は、私にとって決定的な時でした。私はいま、命を落とす、でもその価値
はあると思った決定的な瞬間でした。
質問7
マサイア: パンサー党は人々をどのように変えましたか?ロサンゼルスのスローソンズ・ギャング
を、オークランドで、全国で、黒人男性そして女性をどのように変えましたか?
ブラウン: まず最初に、パンサー党は男社会でした。女性について、あまり多くは語れません。党
には女性はたくさんいませんでしたから。女性がいなかったわけではありませんが、大勢いると
はいえない状態でした。党を仕切っているのは男性でした。その姿勢やあらゆる点で男支配の組
織で、民兵組織にも似た雰囲気でした。はっきりいえることは、ブラックパンサーはギャングの
連中に、ロサンゼルスのスローソンズ[注12]、シカゴのピースストーン・ネーションにすべて
を与え、ギャングのメンバーの関心を彼らがそれまでやっていたことから、もっと重大な問題へ
と転換させました。言い換えれば、ギャングは、社会学者が言っうようにただ仲間とつるみたく
て集まるわけではないんです。誰でも何かに属しその一部になることで幸せを感じます。ギャン
グの一員になって、強盗をしたり、人を怪我させたり襲って金品を奪ったりする以外に、何かの
一員になることだって可能なんです。私はフィラデルフィアの出身で、アベニュー・ギャングとノ
リス・ストリートや近所のギャングをよく知っていますが、彼らにとって重要なのは、ただ何でも
いいから属したいというのではなくて、何かを代表し、縄張りをもち、自分の存在を否定した世
界の中で自分の尊厳をに手にいれたいということなのです。ブラックパンサー党が言ったのは、
ブラックパンサーにはいれば、それと同じことができるということでした。
質問8
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マサイア: あなたの目からみてパンサーは党にはいった男女をどのように変えましたか?抑圧勢力
に対して立ち上がる強さを与えたとおっしゃいましたが、どのようなやり方で、それを行いまし
たか?
ブラウン: ブラックパンサー党はストリートのブラザーに特にアピールしたと思います。 私たち
は男も女もほしかったけれども、党が勧誘したのは、主に男性、若い黒人のストリート・タイプ
の都会の男性で、自分の人生には何の選択肢もないのを知っている人たち、ギャングのメンバー
たちでした。 前にもいいましたが、自分の尊厳を感じるためにギャングになったような人たちで
す。バンチー・カーターがメンバーだったスローソンズや、シカゴのピースタウン・ネイション、
北フィラデルフィアのノース・ストリートとアベニューなどのギャングです。私たちは彼らを勧誘
しました。彼らが残りの人生でなしとげることができるものを私たちはもっていたからです。多
くの場合、彼らは暴力や闘いになれていました。闘わなければ、生き残れないことに慣れていま
した。私たちは彼らに自分の人生を意味あるものにする機会を差し出しました。ヒューイはいつ
も毛沢東の言葉を引用したものです。「人民のために死ぬことは山よりも重く、何のためでもな
く死ぬのは、羽根よりも軽い」と。私たちはいつも言ったものです。ストリーで死んだら犬死に
だ、人々のために死ねば、死の意味は重い、と。意味をもつことで、重みが生まれる。ギャング
から離れることは、最終的に彼ら自身のために、そして自分のコミュニティのために何かを築く
ことなんだということ、そのことをはっきりと理解して、大勢のブラザーたちがギャングを離れ
、献身的な働きをしたのです。たとえば、ロサンゼルスのリトル・トミー・ルイス[注13]のよう
な人たちです。17歳で警官に殺されました。党にはいったときには、読み書きもできませんでし
た。でも彼はどうしても党にはいりたかったので、記憶法を習い、本当は読めなかったくせに読
めると言い張りました。私たちはそういった人たち、ルンペン・プロレタリアート、ブラックコ
ミュニティの中にいる完全に疎外されている人たち、若い黒人の男性に影響を及ぼしたのです。
質問9
マサイア: 女性のあなたからみて、党に女性をひきつけたのは何だったと思いますか?
ブラウン: 私自身についていえば、黒人男性が自分はいっぱしの男になりたいのだと自分で決める
という考えでした。私自身、いくつかの女性団体に糾弾されましたけれど。フェミニズム的観点
からみれば黒人男性のコミュニティに回帰することは許されないことでした。でも、私が育った
隣近所は、結婚しているかいないかに関わらず、家にとどまり父親役を果たしている男性がいく
ら探しても2人くらいしか思い浮かばないような環境でした。ブラックコミュニティの残りの人
たち、大半の人たちの場合、統計が人気を得るようになるずっと前から親が離婚していました。
さもなければ、少なくとも私たちが思い描く父親のイメージは、不在の父親でした。父親役を果
たしていないか、影の薄い存在でした。「いいかい、責任のある父親になる気はあるんだ。立ち
上がる気はある。意志はあるんだ」という男たちはいましたが。--多くの意味でマルコムが強い
アピールを与えていて、ほかの人たちは彼に惹かれていたけれど、私には、ブランクパンサーが
最高でした。私は彼らに男を感じたし、彼らの一部であること--彼らが私の世話をしてくれるこ
とに幸せを感じたのです。幼い頃、父親がいない家の子供だった私にとって、主観的にとても大
きなアピールを与え、私の感情的な欲求に応えてくれたのです。コミュニティのことを心にかけ
る男性が、黒人がいる。何かをなしとげたいと望み、それを究極まで突き進めようとする人たち
がいるいることが、本当にうれしかったのです。マサイア: 次にうかがいたいのは-質問10
マサイア: マルコムXについて、そしてあなたの感情や思想、党に対する彼の影響について少し話
していただけますか?マルコムは党にどのように影響を与えましたか?
ブラウン: 私は、マルコムのいわば絶頂期には、マルコムについて考えませんでした。ほかに大
好きなブラックピープルがたくさんいましたから。私自身についていえば、ブラックプープルと
いう意味で、黒人の身に何が起きているかについて、まったく無意識で無頓着に行動していたと
思います。私はただ、自分が暮らしていた北フィラデルフィアのゲットーから外に出たかっただ
けでした。そしてマルコムは、その点で何のつながりもありませんでした。私はただ抜け出そう
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としていましたから。自分は白人の仲間なるんだ、ほかの連中とは違うタイプのニグロになるん
だと、思っていました。だから、マルコムが生きていた時には、耳を傾けませんでした。マルコ
ムが1965年に暗殺された時まで、私は彼に耳を傾けていませんでした。彼は公民権運動よりもア
ピールするとは思っていました。マルコムは非暴力を説きませんでしたから。でも、当時は私の
人生にとって意味をもつ人だとはみていませんでした。でも、ブラックパンサー党への影響とい
うことでいえば、私たちはスタイルも中身もほとんどすべてをマルコムに負っていました。少な
くとも私たちのスタイル、たとえば、必要なあらゆる手段を取るという考え方、それは、マルコ
ムの言葉であり、私たちはそれを使っていました。マキャベリ的戦略だとか。ブラックピープル
の自由を達成する、必要なあらゆる手段を使って革命を達成するというようなことを口にしてい
ました。もちろん、その言葉には、「必要ならば暴力を使ってでも」という含みがありました。
そして、つねにそれは必要だという仮定にたっていました。もうひとつマルコムがなしとげたこ
とは、都市の黒人への影響力です。マーチン・ルーサー・キングは基本的には南部の黒人でした
。でもブラザーやシスターの中には、特にブラザーですけど、ハーレムや北フィラデルフィア、
デトロイト、LAや、オークランドのストリートのブラザーたちには、マーチン・ルーサー・キン
グの声は届かず、マルコムがアピールしたのです。マルコムの声は彼らの心に響きました。多く
の意味で、ブラックパンサーの努力を通して彼らの耳に届いたのです。私たちがアピールしたの
は、彼らでしたから。北部の都市の黒人たち。ストリート・キッズたち。それはまたマルコムの
支持層でもありました。そういう意味で、私たちの支持層は重なっていました。そして3番目に、
マルコムがしただろうことで私たちがやったことがほかにもありました。--マルコムには確固と
した信条と原則がありました。単なる女性の保護というようなことを超えて。たとえば私たちは
、けして独立した発言をしませんでした。ブラックパンサー党の中にいたとき、たとえばその場
に10人いたら、話をするのはひとりだけでした。ひとりの声だけを聴くようにしました。そうす
れば分裂しませんから。マルコムには白人が私たちをどうやって内輪もめさせようとするか、は
っきりわかっていました。内部分裂について明確に意識していました。そしてそれはブラックパ
ンサー党にとっても大変重要な部分でした。マルコムのビジョンと精神は、パンサーの日々の活
動に浸透していたと思います。
質問11
マサイア: プログラムを作っていく際に、ヒューイ・ニュートンがどこかから借用した、あるいは学ん
だ影響があるとしたら、それは何だったでしょう?そして、ブラック・パンサー党のスタイルは
どのよう形成されたのでしょう?
ブラウン: スタイルについては前にも言いました。スタイルを重視しすぎない方がいいと思います
。 スタイルは人々のパンサーに対する見方に影響を及ぼしましたが、スタイルが党だったわけで
はありません。ベレーをかぶったのは、明らかにチェ・ゲバラの影響でした。ブラックパンサー
(黒豹)のシンボルは、アラバマ州ロウンデス郡の、投票権を求める自由団体からとりました。
初期の好戦性と、私たちが革命的活動と考えていたこととを混同すべきではありません。革命的
活動については、あらゆる革命から、全世界の社会主義革命組織から借用しましたし、「ディー
コンズ・フォー・ディフェンス(防衛の司祭たち)」[注14]にも影響を受けました。「ディー
コンズ」は南部のブラックの男たちのグループで、自分たちは非暴力路線をとらない、俺たちの
縄張りに足を踏み入れたら、面倒をみてやろうじゃないかと言っていました。そして、人々から
一目置かれるという意味で成果をあげていました。黒人をリンチにし首つりにしていた白人たち
も、ディーコンズ・オブ・ディヘンスがいる縄張りにはやってきませんでした。ですから、そう
いったことすべてが結びついて、―十項目綱領とプログラムは、ネイジョンズ・オブ・イスラム
から借りました。彼らの新聞の裏面にいつも印刷されていたものです。最後の綱領だけは違って
いました。完全な資本主義の打倒を謳った綱領で、それはネイション・オブ・イスラムではなく
、私たちのプログラムの一部でした。でも、綱領を借用したのは、間違いありません。ヒューイ
は、党の精神で、党の指導力で、党のシンボルでした。でも、もちろん、党は党として独自に団
体として発展していきました。
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質問12
マサイア: 党の女性たちは何を期待していましたか?それは男性が期待するものと違っていました
か?
ブラウン: いいえ。私たちは少なくとも最初は自分たちが異質な存在とは思っていませんでした。
自分たちは革命家だと考えており、男たちと同じレベルで参加していると考えていました。少な
くとも最初はまったく何の違いもありませんでした。私たちは自分たちの献身と努力は男たちと
同じだし、やらなければならないことも同じだと思っていました。ですから、私たちの期待は男
たちと同じ。米国に革命をもたらしたいと願っていました。[シーン5 テイク7]
質問13
マサイア: サバイバルプログラムはどのようにして生まれたのですか?そして、それはどのように
運営されていましたか?どうやって人々を食糧プログラムに参加させましたか?食糧の寄付はど
うようにして得ましたか?まず、サバイバルプログラムを支えた思想から教えてください。
ブラウン: プログラムに名前をつけたのはヒューイでした。サバイバルプログラムは革命が起こる
まで生き残るという理論から、私たちで開発したプログラムでした。 ブレクファストプログラム
は最初は―サバイバルプログラムとは呼ばずブレクファストプログラムと呼んでいました。・ マ
サイア: やり直しましょう。アイコンタクトを忘れないでください。
質問14
マサイア: サバイバルプログラムについて話していただけますか?背後にあった思想は?どのよう
にして始まり、どうやって実現したのですか?
ブラウン: サバイバルプログラムは最初はヒューイの発案でした。このプログラムを開発しよう
と思う、目的は民衆のサバイバル、革命勃発まで皆をいきのびらせなくちゃ、ということでした
。でも、ブレクファストプログラムは、社会プログラム全体、社会福祉プログラムの一環で、最
初はサバイバルプログラムとは呼んでいませんでしたが、結局、全体の活動の一部になりました
。ブレクファストプログラムは、もちろん、パンサーのプログラムの中で一番よく知られていま
す。子供たちに朝ご飯を提供する。プログラムの背後にあったアイディアは、ただ子供たちが学
べる環境になかったことです、黒人の子供たちは劣悪な教育課程のために、学校で学ぶことがで
きませんでした。食べるものがなければ、勉強どころではありません。だから、私たちはブレク
ファストプログラムを始めました。最初のプログラムはサンフランシスコのファザー・ボイル
[注15]の教会で行いました。おかしな話ですが、私たちに場所を提供してくれる黒人の牧師や
司祭があまりみつからなかったんです。教会を開放してくれるよう話をつけたかったのですが。
教会なら調理施設もあるし、大勢の子供たちを集められますからね。ブレクファストプログラム
は、ここから広がっていきました。オークランドのファザー・ニールや、郡のその他の支部や教
区の人たちが協力してくれました。プログラムには、ふたつのアイディアが重なっていました。
私たちのプログラムから直接、恩恵を受ける人たちにサービスを提供するという具体的な目的が
ひとつ。でもまた、2つ目には、人々の心に影響を与えること、ブラックパンサー党が彼らにこの
サービスを提供しているということを人々にわかってもらうというにとどまらず、もっと重要な
ことは食糧を提供されれば、着るものもほしくなる、住む家や土地もほしいと感じ、究極的には
自由と呼ばれる抽象的なものもほしくなるだろう、ということでした。ですから、サバイバルプ
ログラムのアイディアは、政治的組織化のツールでした。大半の人々はそのことを理解していま
せんでしたが。食糧の供与で完結すると思っていました。でも、そうではなかったのです。ブレ
クファストや食糧プログラム、医療クリニック、法的防御プログラム、刑務所面会の送迎バス、
衣料プログラムなどは、それを通して人々を政治過程へと導く入り口という位置づけでした。私
たちはとても多くのさまざまなプログラムを作り、各支部は自分たちの独自性を反映するプログ
ラムを組み立てました。一般的にいって、私たちは民衆にサービスを提供し、民衆が政治的課程
に参加する糸口作りに役立てたいとパンサーの皆は考えていたと思います。
質問15
マサイア: 資金はどうしたのですか?サバイバルプログラムを実施する資金をどうやって得たので
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すか? ブラウン: 行き当たりばったりでしたね。お金は得ていましたけど、きちんとした資金源
なんてありませんでした。 政府のお金をもらっていたわけじゃありませんから。最終的には、あ
る時点で受け取りましたけれど。でも、初期には、政府のお金を受け取るなんていう気はさらさ
らありませんでしたから。私たちがやっていたのは、基本的にせびったり、借りたり、盗んだり
、でした。そうやってお金を手に入れました。できることはなんでもやりました。
マサイア: わかりました。ブラウン: 併せて、「寄付」も受け取りました。貧困プログラムで人が
「寄付」と呼ぶようなものをもらっていました。食料品の寄付を受けましたし、サービスの寄付
も受けました。ある意味で、教会は場所を寄付し、キッチンの使用を提供したわけだし、私たち
は皿洗いをし、人々は朝食の調理をボランティアするなどしてサービスを寄付してくれました。
そんな風にいきあたりばったりやってました。それでなんとかやってました。地域社会を取り込
んでいく取り組みでした。でも、まあおおまかにいえば、せびって、借りて、盗んでいたといえ
ますね。
質問16
マサイア: パンサーの反戦運動 への参入について、ベトナム戦争反対の立場をとるようになった
いきさつを語ってください。白人の急進派グループと共闘しましたね。どうやって実現したので
すか?覚えているエピソードが何かありますか?
ブラウン: ブラックパンサー党は、民族主義組織ではありませんでした。私たちの目的は黒人国家
の建設ではありませんでした。私たちは、ブラックピープルの抑圧は私たちの第一の関心だけれ
ども、どちらかといえば主観的な関心だと感じていました。そしてその関心は、自由によってあ
がなわれる、すべての人々のために抑圧を破壊することにより、あがなわれるのだと思っていま
した。ですから、そこには、ほかの人種の人たちや女性、公民権を剥奪され、制度によって抑圧
されているあらゆる人々がふくまれると考えていました。本当の加害者は、このような人々すべ
てに浸透し、害をもたらす、病んだ制度。米国の資本主義制度、ひいては帝国主義であると考え
ていました。ですから私たちは早い時期から、ベトナムでの戦争の目的は、ブラックピープルと
は何の関係もないものであり、私たちは使い捨ての兵士以外の何ものでもないことに気づいてい
ました。私たちの最初の立場は、戦争反対の立場を取るというのではなく、ただ黒人の男たちに
戦争にいかないよう勧めることでした。そのような姿勢を広めていました。初期の文書をみれば
、私たちが黒人の男たちに、「戦争に行くな」と言っていたのが、わかります。私たちは、パン
サーのメンバーが徴兵されるままにしておくつもりはありませんでした。パンサーの制服を着せ
パンサーの文書を手に徴兵委員会に送りこみ、入隊の準備はできてますと言うように勧めました
。すると徴兵委員会は(びびって)彼らをベトナムに送ることなく、どうぞお引取りくださいと
いいました。このように、私たちの努力はブラックピープルが戦争に参加しないよう勧めること
でした。私たちは使い捨ての兵士ではないし、ベトナムの人民私たちの敵ではなかったからです
。黒人団体の中で、戦争に疑問を呈した団体は本当に少なかったけれど、私たちはそのひとつで
した。でも、私たちは、ただベトナムに平和をもたらすべきだと主張するタイプの反戦活動家で
はありませんでした。私たちの立場は次第に明快で強固なものになっていきましたが、それはベ
トナム民衆の勝利、ベトコンの勝利への支持でした。これは、米国で人気のある立場ではありま
せんでした。それにも関わらず、私たちは数多くの反戦運動やデモに参加しました。でも私たち
の路線は大変堅固で、ベトナム民衆の勝利であり、それはベトナムでの米軍部隊の破滅を意味し
ていました。
質問17
マサイア: 白人の急進派組織と共闘した時代、イベントについて話してください。
ブラウン: 白人急進派組織との連携という考えを支援した中心人物は、もちろんエルドリッジ・ク
リーバーでした。「マザーカントリー・ラディカルズ」[注16]という言葉も彼が作りました。
いずれにしろ私たちの考えにぴったりあっていました。なぜなら、パンサー党は民族主義団体で
はありませんでしたから。私たちはいろいろな闘争との連携の可能性が見えていました。白人急
進派団体の多くでは、もちろん、メンバーはわたしたちよりもミドルクラス、時にはアッパーク
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ラスの人たちで、こういう言い方が許されるなら、白人の団体でしたが、それにも関わらず、心
から真剣に取り組んでおり、当時、私たちの闘いを支援していました。私たちが組んだ白人団体
には2種類ありました。「平和と自由」[注17]タイプの団体で、日常的に協働した団体です。
もうひとつのタイプはサポートグループでした。あと、パンサーにもいろんなグループがありま
した。ホワイトパンサーは、白人の支援グループで、ブラックパンサー党を支援する白人たちの
団体でした。資金面だけでなく政治的にも自分たちのコミュニティで活動していました。白人コ
ミュニティ内部で活動したり、ブラックコミュニティで我々が行う活動を支援しました。特定の
問題で提携することもありました。たとえば、ファシズムに対する連合戦線を作りましたが、そ
の時には「平和と自由」が共催者になりました。私たちは、ブラックピープルの抑圧は、民族主
義やレイシズムの問題ではなく、資本主義と直接的につながっているという立場から、共闘しま
した。
質問18
マサイア: SNCC[注18]との連携、特にストークリー・カーマイケル[注19] とラップ・ブラウン[注
20]があなた方に及ぼしたと思われる影響、そしてあなた方が彼に、つまりブラックパンサー党が
SNCCに及ぼしたと思われる影響について語ってください。
ブラウン: ブラックパンサー党は、もちろん、自分達が闘争の最前線だとみていました。SNCC
は、主として投票権と南部での活動に献身する公民権団体でした。ストークリーはもちろん、白
人には出る幕がないという立場で、はっきりと民族主義の姿勢を取っていました。でもブラック
パンサー党は自分たちは革命の前衛だと見ていました。だから、もし政治的なものさしを使うな
ら、私たちは、SNCC よりも左寄りでした。私たちは心底、自分たちは前衛だと考えていました
。私の記憶では、私たちがカーマイケルをリクルートしたのです。彼には人気があったし、基本的
には同じ主張をしていましたから。彼はSNCCのリーダーとして、私たちとは違う視点の持ち主
ではありましたが。彼にはアフリカとのつながりもありましたから。彼には国際的で民族主義的
なイメージがありました。だから、ブラックパンサー党に参加しないか、アフリカに行くときに
パンサー党の大使のような役割を果たせないかと聞いてみたのです。そして、もちろんラップ・
ブラウンやその他の人たちもその話の一部でした。当時、特に1968年には、フリー・ヒューイ運
動がとても盛んでとてもビッグになっていましたから、誰でもパンサーに便乗したがっていまし
た。ですから、連携関係を築くのは難しいことではありませんでした。そして、それは単なる連
携以上のもので、米国のさまざまなブラックのいわゆる「軍事力」の統合と融合を意味しました
。[カット。シーン5、テイク9]
質問19
テリー・ロックフェラー: フレッド・ハンプトン[注21]からどんな影響を受けましたか?シカゴで
のパンサーの強さと成長を、どのようにみていますか?ブラウン: フレッド・ハンプトンがシカゴ
を拠点にしたイリノイ州支部の真髄だったことは間違いありません。フレッド・ハンプトンは党
員になったころ、生前の彼はたしか、20歳か21歳か、そこらでした。フレッドに初めてあったの
は、誰かの葬儀のすぐ後でした。南カリフォルニアでは葬式がたくさん出されましたが、そんな
葬儀のひとつで、私はデビッド・ヒリアード[注22]と一緒に会いにいきました。私たちは、フ
レッドを批判し行った、というか、私はフレッドを批判する気はなかったのですが、デビッド・
ヒリアードはそのつもりでした。フレッドが、ウェザーアンダーグラウンド[注23]、あるいは当
時はウェザーマン とも呼ばれていましたけれど、フレッドが彼らを糾弾したからです。サウス・
シカゴのブラックコミュニティを破壊していると非難していました。フレッドの方針は確固とし
たもので、ウェザーメンはコミュニティの一員ではないと言っていました。ウェザーマンのおか
げで警察が踏み込んできた。ブラックパンサー党がそのために責められている。ウェザーマンは
ふたつのことをしでかした。直接的にも間接的にもコミュニティに影響を及ぼした。コミュニテ
ィがブラックパンサー党に対して築いてきた関係に悪影響を及ぼしたといって怒り狂っていまし
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た。それで、私たちはフレッドに会いにいきました。フレッドは、基本的にはまだガキッチョで
した。よく考えればそうなんです。その夜、私が初めて会った日、私たちは夜遅く着きました。
フレッドは大きなベッドをもっていて、フレッドと彼の妻のデボラは、このベッドを手に入れた
ばかりで、皆がこのベッドのことで大騒ぎしていました。フレッドはどっちかというと太めだっ
たし、デボラはお腹に彼の子がいて太めだったので。このベッドのことで皆が大騒ぎでした。だ
ってフレッド・ハンプトンはどのみち、眠ったりしませんでしたから。
質問20
マサイア: シカゴのパンサーの成長について。
ブラウン: フレッドは、私が出会った中でもっともダイナミックな人物の一人だったと思います。
初めて会ったのはシカゴで、デイビッド・ヒリアードが別のパンサーの埋葬の場の帰りに直接、
私を連れていきました。私たちは葬儀に出席したのです。その後、シカゴに飛び、すぐにフレッ
ドに会いました。フレッドとの初対面で覚えていることは、彼がほかの皆と一緒にアジトとして
いた家に詰めていたことです。彼の家はウェストサイドにあり、住むにはひどい場所でした。で
も羽振りの良さそうな暮らしはせず、党のほかの仲間たちと同じように暮らしていました。かな
り貧しい暮らしでしたが、たどひとつユニークだったのは、彼とデボラがもっていた大きなベッ
ドで、ほかの皆は面白がって笑っていました。フレッドについてもうひとつ覚えているのは、滞
在中に、私たちは朝、彼と共に起きました。私たちが到着したのは朝の2時頃でしたが、フレッド
は夜通し起きていて、いつもそうしているようでした。朝の6時ころに私たちはでかけ、校庭かな
んかにそってドライブしたのですが、そこでは200人か300人がフレッドが現われるのを待ってい
ました。この話ですごいのは、集まっていた人たちのすべてがストリート・キッズだったことで
す。ふつうなら、早起きして仕事にいったりするとは思えない連中が勢ぞろいしていたのです。
規律なんてことばもしらなそうな人たちが、集まっていました。朝の6時か6時半、凍てつくよう
なシカゴで。フレッドは彼らに腕立て伏せやジャンピングジャックをやらせ、その日の仕事に向
けて、活をいれていました。その中には、ブレクファストプログラムもあれば、パンサー新聞の
販売や医療クリニックでの仕事など、いろいろなことが含まれていました。それがブラックパン
サー党の日課でした。フレッドは彼らをたばねていました。彼は皆に向かい、「パワー・トゥ・
ザ・ピープル(民衆にパワーを)」と言い、皆は「民衆にパワーを」と応えました。「飛行機事故
で死んだりしないぞ」と彼がいうと人々は、「死ぬもんか」と叫びました。「氷の上ですべって
死んだりしないぞ」というとみなは、「死ぬもんか」と応えました。「俺は民衆のために死ぬ。
なぜなら俺は民衆のために生きているから」というと、みなは、「異議なし」、彼が「俺は民衆
のために生きる。なぜなら民衆を愛するから」というとみなは、「異議なし」と叫びました。彼
が、「俺は民衆を愛する。それはなぜか?」というとみなは「なぜなら民衆は俺たちをハイにす
るから」と応えました。これがフレッド・ハンプトンでした。21歳かそこらだったのに。信じら
れないパワーでした。フレッド・ハンプトンに心を動かされずにいることは不可能でした。彼はマ
ーティン・ルーサー・キングのようでした。ほかのことでは絶対に動くことなどなさそうな連中を
フレッド・ハンプトンが動かすのを目にすれば、誰だって感動したでしょう。大きな図体をした
屈強な男たちが、早起きし、朝食を調理し、腕立て伏せをし、自分は民衆のために死ぬと口にし
ていたんです。それが、フレッド・ハンプトンでした。そんな精神を私は彼の中にみました。暗
殺されるわずか2ヶ月前のことでした。
質問21
マサイア: フレッド・ハンプトンの死をどのようにして知りましたか?どう感じましたか?
ブラウン: 私はボビー・シール[注24]とエリカ・ハギンスのために彼らを釈放させるためにニューヘ
イブンで活動していました。当時、彼らは起訴されてニューヘイブンの刑務所にいたんです。私
はバスタブの中にいました。これは言うべきことではないかもしれないけれど、当時、私は妊娠
していたんです。フレッドのことを聞きました。フレッドの死の知らせを聞きましたが、信じら
れませんでした。まったく信じられなかった。私たちはどうなっていくのだろうと思いました。
誰にも先がみえなかったたと思います。J・エドガー・フーバー[注25]が我々を殺すと言った年の
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できごとだったので、フレッドが殺されたとき、私たち皆は、これが今年のしめくくりかと思い
ました。その年には、本当に多くの人々が暗殺されました。大勢が死にたくさんの葬儀があり、
私たちは、FBIが彼らのやり方でその年を締めくくろうとしているのだと思いました。彼らは
フレッドの家に踏み込んで、彼を殺したのです。私たちには、事態がよくわかりました。疑問の
余地はありませんでした。フレッド・ハンプトンは政治的なオーガナイザーでした。フレッド・ハ
ンプトンはほかの人に脅威を与えるような人物ではありませんでした。彼らは、フレッドが群衆
から離れ一人でいる場所にいき、彼を殺しました。私たちは、私たち全員が危険にさらされてい
ると感じました。私たちは皆、フレッドの死によってずたずたにされました。
質問22
マサイア: 葬儀はどんな風でしたか? 描写してください。
ブラウン: それについては何度も話し、考えてきました。 私がシカゴについたのは、フレッドが
殺されてから4日後でした。彼のベッドを触ることができ、指はまだ彼の血のしめりけを感じる
ことができました。デボラがいました。私たち、デボラと私は事件について言葉を交わしました
。私たちは2人とも妊娠していました。デボラはベッドの中にいて、フレッドはそのベッドで息
絶えました。デボラは血まみれになりました。フレッドはデボラの上に倒れたのです。そのよう
すすべてをその場で目にすることができました?シカゴの街では、数限りないブラック・ピープル
が、家にやってきて〔注26〕通りにあふれていました。フレッドがいなくなったいま、私たちが
どうするのか、皆が知りたがっていました。ブラックパンサーが据え付けた拡声器を載せたトラ
ックが通りを走り、フレッドの演説を流していました。通りでフレッドの声を聞き、彼に組織さ
れていた人たちはあたりをはばからず、泣き叫びました。そして葬儀の時が来ると、何千人もの
人たちが集まり、演説に耳を傾けました。フレッドを賞賛するスピーチに耳を傾け、多くの人た
ちはフレッドの直接の知り合いではありませんでしたが、皆、その場に立ち会いたいと思いまし
た。フレッド・ハンプトンの葬儀でしたから。そして最後に、これは私がこれまで何度となく言
ってきたことですが、この上なく心を打つ出来事がおこりました。 赤いベレーと黒いジャケット
で正装したピー・ストーン・ネイション[注27]の少なくとも2000人のメンバーが整列して、フ
レッドの棺に敬意を表し、「ネイションへ、フレッド」といいました。目を離せませんでした。
この人たちは社会から完全に疎外された人たちですが、フレッドは、彼らにとってそんなにも大
きな存在だったのです。心から感動しました。
質問23
マサイア: 歌は、Someday We'll All Be Together(いつの日か、私たちは皆ひとつ)?なぜ、その
歌だったのですか?
ブラウン:フレッドが好きな曲でした。手短に説明すると、モータウンは、都市のサウンド、都
市の反逆、都市のブラックの反逆のサウンドでした。ワッツやデトロイトのサウンドでした。立
ち上がり、都市を舞台に自らの人生の主導権を握ろうとするブラックピープルのサウンドでした
。ダイアナ・ロスとスプリームズは、”Someday We'll All Be Together(いつの日か私たちは皆
ひとつに)”でそれを歌にしました。フレッドはあの曲が好きでした。もちろん、歌には二重の
意味がありました。フレッドにとっては、政治的な意味があったのです。私たちは特にモータウ
ンの歌を取り上げ、それを政治的な意味に訳し変えていました。だから、フレッドはあの曲が大
好きで、フレッドが暗殺された後も、シカゴの通りのいたることころで、フレッドの「俺は人民
のために死ぬだろう。なぜって人民を愛しているから」という演説の声にかぶさって、ダイアナ
・ロスが歌う "Someday we'll be together"が流れていたものです。ブラザーが、"Say it, say it,
say it again(もう一度、もう一度言ってほしい"という歌詞を口にしていました。皆が理解したい
ました。私たちはひとつになるだろう。そして、それを実現させたのはフレッドなんだと。フレ
ッドはある意味で私たちを、それまで以上にひとつにしました。彼らが彼を暗殺するなんていう
間違いをおかしたために。少なくとも、当時、私たちはそんな風に感じていました。
質問24
マサイア: その年、1969年の始まりはどんな風でしたか?死の存在、そして敵の存在を知り、ブ
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ラックパンサーの人たちはどのように成長し、その年をいきぬきましたか?
ブラウン: その年は、ロサンゼルスでのジョン・ハギンスとバンチー・カーターの暗殺で始まりま
した。そして、私は毎月、葬式に出ていました。私はお葬式で歌うプロのシンガーになりました
[注28]。本当にそんな状態でした。皆が葬式に通い、そのことについて冗談を言ったりもして
いました。でもまた、年の初めにフーバーが、今年はブラックパンサーの息の根をとめる、最後
の年にすると宣言したんです。本当にそう宣言したんです。私たちには、彼が本気だとわかりま
した。私たちはそれに直面せざるをえないことがわかりました。私たちは真剣でした。私たちに
は、執行指令書第1号を呼ぶものがあり、パンサーは銃を手放してはいけないと規定されていま
した。[ 中断。カット]
質問25
マサイア: フーバーの発表とパンサーの死の話を続けてください。
ブラウン: 1969年は、ブラックパンサー党全員にとって、大変、つらい年でした。フーバーは、
ブラックパンサーはまぎれもなく「米国の国内の安全保障にとってただひとつ、かつ最大の脅威
である」と発表しました。今年はブラックパンサー党にとって存続最後の年になるだろう、と。
私たちはそのことばを真剣に受け止めましたが、なんとかきりぬけられるだろうと考えていまし
た。党内には、ヒューイが発令した執行指令書第1号と呼ばれる規則があり、何はさておき、パ
ンサーたちはつねに武装していなければならないと述べていました。ですから、もし私たちが、
街頭や家で警察に捕まるようなことがあれば、その場所で自衛することを期待されていたのです
。私たちはそのことを知っていましたし、まじめに受け止めていました。そのような行動、フー
バー側の姿勢、私たちの自己防衛と自らを守る能力および意思などすべてがあいまって、私たち
は大勢の仲間を失いました。1969年には、毎月、1度はお葬式に行っていました。もっと多かっ
たかもしれない。ロサンゼルスだけでも、そうでしたから。のっぴきならない状態でした。でも
私たちは、自衛を心から信じていました。そして大勢がそれを実行しました。年の終わりまでに
、大勢が命を落としました。ロサンゼルスの特別機動隊によるロサンゼルス事務所の急襲が、パ
ンサーへの手入れの始まりで、その時には5時間半をかけて戦車を使った軍隊なみの武装で、ライ
フルなどを手に事務所を攻撃しました。本気なのはわかっていました。本気で襲撃を受けており
、私たちは皆、死ぬんだと思いました。そんな風だったのです。やるべきことは、はっきりして
いました。前衛でありたければ、その代価を支払わなければならなかったのです。実は、フレッ
ドがいつも言っていました。ボスでありたいと思ったら、そのツケをは払わないにはいかないと
。フレッドの口癖でした。そして、私たちには、わかっていました。そのことを学び、甘受しま
した。やるべきことをやったのです。
訳者注エレイン・ブラウンは、元ブラック・パンサーのメンバー。一時は、議長も務めた。著述
家でシンガーでもある。長年にわたり、「刑務所での権利を尊重する連合(Concerned Coalition
to Respect Prisoners Rights)」などの団体を創設し、囚人や刑務所での権利を擁護する活動に力
を入れている。このインタビューは、PBSのドキュメンタリー番組「アイズ・オン・ザ・プライ
ズⅡ」のために実施されたものを無編集のまま、アーカイブス用に書き起こしたものとみられ、
撮り直しが行われたらしく、質問や回答に若干のダブりがみられるところもありますが、エレイ
ン・ブラウンの「正直」な発言が聞かれ、ブラックパンサーの貴重な記録になっています。
脚注
1)ジョン・ハギンス(1945‐1969)は、コネチカット州ニューヘイブンの生まれ。結婚相手の
エリカ・ハギンスと共にロサンゼスルに移り、ブラックパンサー党の活動に打ち込むようになっ
た。1969年に同じくメンバーのバンチー・カーターと共にUCLAでの黒人民族主義団体「USオー
ガニゼーション」との会合に出席中に同団体メンバーによって銃殺された。1971年にFBIの対諜
報プログラム「コインテルプロ」の文書が暴露され、FBIが偽の手紙を送って、ブラックパンサー
とUSオーガニゼーションとの敵対関係を意図的にあおっていたことが明らかになった。
2)バンチー・カーター(1942‐1969)は、元ロサンゼルスのストリート・ギャング、「スロー
ソン」のメンバーで、「ゲットーの市長」と呼ばれ一目おかれていた。強盗犯として入獄中にネ
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イション・オブ・イスラムとマルコムXの教えに感化されてイスラム教に改宗。釈放後、ブラッ
クパンサー党の共同創立者ヒューイ・P・ニュートンと出会い、入党。1968年にパンサーの南カ
リフォルニア支部を立ち上げた。1969年に、ジョン・ハギンスと共に、UCLAで射殺された。
3)エルドリッジ・クリーバー(1935‐1998)は、ブラックパンサー党の主要メンバー。情報相
として、パンサーの公式新聞の編集に携わり、パンサーの共同創設者ボビー・シールとヒューイ
・P・ニュートンとならんでパンサーの進路に大きな影響を与えた。1968年には、「平和と自由
」党から大統領選に出馬した。同年にパンサーのメンバー、ボビー・ハットンと共にオークラン
ドで警官の射撃を受け、ハットンは死亡、クリーバーは負傷した。殺人未遂で指名手配されたクリ
ーバーは、キューバーを経てアルジェリアに逃亡した。思想の違いを理由にパンサーから離党し
、キューバやフランスで活動を行った。1975年に米国に帰国。共産主義を放棄して保守主義に転
向した。著書に「氷の上の魂」がある。
4)ボビー・ジェイムズ・ハットン(リトル・ボビーとも呼ばれる)(1950‐1968)は、1966年に
ブラックパンサー党が結成直後に16歳で参加した。1968年にエルドリッジ・クリーバーらと共に
警官隊との銃撃戦で射殺された。
5)ヒューイ・P・ニュートン(1942- 1989)は、1966年、友人のボビー・シールとともに、カ
リフォルニア州オークランドでてブラックパンサー党を結成、カリスマ的な指導者となったた。
フランツ・ファノンやマルコムX、毛沢東、チェ・ゲバラなど共産主義者の著作を読み、影響を
受けた。ブラックパンサー党は当初、都市部のゲットーに居住する貧困層の黒人に対する警察の
暴行や略奪行為から自衛することを目的とし、貧困層の児童に対する無料朝食や無料医療運動な
ど地域活動にも力を入れた。1968年、非暴力運動の指導者だったキング牧師が暗殺されると、ニ
ュートンらは武装闘争を主張し、党は数千人規模に成長したが、ブラックパンサー党の活動に危
機感を抱いた合衆国政府は、警察や連邦捜査局(FBI)による弾圧を受け、メンバーから多数の死者
を出し、壊滅的な打撃をを受けた。
6)アラバマ州のラウンデス郡自由組織(the Lowndes County Freedom Organization: LCFO)は
、1965年にブラックパンサー党と創始し、ブラックパンサー(黒豹)をシンボルに使った。人口
の8割が黒人でその大半が貧困層だったこの地域で白人至上主義者たちに仕切られ、黒人たちは独
自の候補を出せずにいた。LCFOは、白人至上主義者たちの露骨な妨害を受けながら、「ブラッ
クパワー」をモットーに選挙を通しての黒人パワーの拡張をめざした。ヒューイ・P・ニュート
ンとボビー・シールはオークランドでのブラックパンサー党結成の際、LCFOにブラックパンサ
ーの名とシンボルの使用許可を得て承認を受けた。
7)ネイション・オブ・イスラムは、「ブラック・ムスリム」とも呼ばれ、米国におけるアフリカ
系アメリカ人のイスラム運動組織。ブラック・ムスリム運動とも呼ばれ、世界恐慌中の預言者を
名乗っていたウォーレス・ファード(ムハンマド)によって1930年にデトロイトで創始された。
黒人の経済的自立を目指す社会運動であり、白人社会への同化を拒否し、黒人の民族的優越を説
く宗教運動でもある。イライジャ・ムハンマドの布教によって全米に広がった ネイション・オブ
・イスラム は、第二次世界大戦後に入信したマルコムX の活躍で大発展を遂げた。イライジャの
思想の宣伝活動者となったマルコムは、黒人の貧困救済を唱えて北部の都市部で苦しむ黒人たち
の間に勢力を広げる一方、白人を悪魔と呼んで激しく批判したため、米社会全体からは過激派や
分離主義者と見られることが多かった。
8)ブラックパンサー党は、結成直後、以下の十項目綱領を決定し、活動の軸とした。
- 我々は、我々黒人および抑圧されたコミュニティーの運命を決定する力を欲する。
我々
は、我々人民の完全な雇用を欲する。
- 我々は、資本家による、我々コミュニティーに対する搾取の終わりを欲する。
- 我々は、人間が居住するに値する最低限の住宅を欲する。
- 我々は、人民のための、アメリカ社会の真実を暴露する教育を求める。
- 我々は、真実の歴史と、今日の社会における我々の役割を教える教育を欲する。
- 我々はすべての黒人と、抑圧された人民の完全な健康を欲する。
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我々は警官による、アメリカ合衆国国内における黒人および抑圧されたほかの人種の人々に
対する暴力行為の即時停止を欲する。
- 我々は、すべての侵略戦争の即時中止を欲する。
- 我々は、国立、州立、地方、都市、および軍の刑務所に収監されている黒人の解放を欲する
。我々は、この国の法律のもとでいわゆる犯罪のために告訴された囚人のために、同じ階層
出身の陪審員による裁判を欲する。
- 我々は、土地、パン、教育、住宅、衣服、正義、平和および現代技術によるコミュニティー
の統治を欲する。
9)1967年2月、ニュートンはベイエリアで講演旅行中だったマルコムXの未亡人、ベティ・シャ
バズに武装警護を提供した。
10)1967年10月28日、ヒューイ・P・ニュートンとオークランド警察との間に銃撃戦がおき、警
官1人が死亡、負傷したニュートンは逮捕された。ブラックパンサーは、この事件をたび重ねて
おきていた警察による残酷行為の実例として、ほかの黒人運動と共闘して「フリー・ヒューイ
(ヒューイ釈放)」運動を大々的に展開した。
11)ジェロニモ・プラットはブラック・パンサー党の主要メンバーとしてFBIのコインテルプロ
・プログラムのターゲットにされた。1972年に誘拐・殺人の嫌疑で裁判にかけられ、8年間の独
房監禁を含め、27年間を刑務所で過ごし、1997年に有罪判決が無効とされ釈放された。現在は人
権活動家。ラッパーのトゥパック・シャクールのゴッドファザーとしても知られる。
12)スローソンズは、ロサンゼルスのサウスセントラル地区のギャングで、サウスセントラルの
縄張りを白人のギャングから守った。
13)1968年8月、ロサンゼルス警察は、17歳のパンサー・メンバー、トミー・ルイスをほかの2人
のメンバーとともに殺害した。
14)「ディーコンズ・オブ・ディフェンス(防衛の司祭たち)」は、1960年代に米国南部で組織
された、自衛のために武装したアフリカ系アメリカ人の公民権運動団体。ジム・クロウ法下の南
部で、レイシストによる抑圧に対して、必要とあらば暴力の行使も辞さなかった。キング牧師を
はじめとする運動の非暴力のイメージにそぐわないため、公民権運動の歴史においてこれまで語
られることが少なかったが、その活動は、実際には南部で大きな影響を得て、公民権法の制定に
大きな役割を果たしたとする見方が、近年、力を得ている。
15)ファザー・グレゴリー・ボイルは白人のイエズス会神父。ロサンゼルスで長年にわたり元ギ
ャングのメンバーのために仕事を探す活動をおこなっている。”G-Dog and the Homeboys”と
いう著書がある。
16)「マザーカントリー・ラディカルズ」は、エルドリッジ・クリーバーが著書「氷の上の魂」
で使ったことばで、パンサーの方針にとりこまれた。黒人が植民地状態に置かれたマザーランド
(母国)で、マザーランドの急進派は、植民地状態にある黒人の闘いの連帯とパワー、思想を尊
重したうえで、支援を行い闘いに連携できるとし共闘の可能性を認め、拝外主義的な民族主義と
は一線を画した。
17)「平和と自由」党は1967年に結成。社会主義、民主主義、エコロジー、フェミニズム、急進
的な平等を擁護し、資本主義社会内にいて資本をもたない労働者階級を代表するとする。
18)SNCC (スニック:学生非暴力調整委員会)は、1960年、それまでのいずれに黒人解放
団体にも属さない独立組織として結成された黒人学生を主体とした米国の公民権運動組織。公民
権運動で主導的な役割を果たした後、1969年に非暴力主義路線を放棄し、学生全米調整委員会
(Student National Coordinating Committee)に改称。「ブラックパワー」運動を中心課題とし、
ベトナム反戦にも力を入れたが、70年代前半には組織が分裂して解散した。
19)ストークリー・カーマイケル(1941‐1998)は、トリニダード島ポートオブスペインで生ま
れ、1952年にニューヨークに移住していた両親のもとにひきとられた。1960年代にSNCCの活動
に加わり、アラバマ州ラウンデス郡での投票権運動にも参加した。1966年にSNCCに第3代目議
長になり、ブラック・パワーを提唱した。一時期、ブラックパンサー党の主席になったが思想の
-
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不一致で離党した。1969年にギニアに移住し、1998年に当地で逝去した。
20)ラップ・ブラウン(後にイスラム教に改宗し、ジャミル・アブドゥラ・アル=アミンに改名
)は、SNCC最後の議長。後にSNCCとブラック・パンサー党が一時期、合併していた時には、
ブラック・パンサー党の国防省長官を担当した。2000年に起きた警官殺人事件で終身刑を宣告さ
れた。
21)フレッド・ハンプトン(1948 ‐ 1969)は、ブラックパンサー党のイリノイ支部の副議長
としてカリスマ的な指導力を発揮した。深夜遅くベッドで寝ているときにシカゴ警察とFBIの襲撃
を受け、射殺された。
22)デビッド・ヒリアードは、ブラックパンサー党のメンバーで、幕僚長を任じた。現在は、ニ
ューメキシコ大学の客員教授。
23)ウェザー・アンダーグラウンド(別称ウェザーマン)は、1969年に結成された米国の左派急
進派組織。米国政府を暴力的に打倒する秘密の革命党をめざし、1970年代にはマリファナ7所持
で投獄されていたティモシー・・リアリーの脱獄支援など、爆破テロを行った。メンバーは裕福
な家庭出身の学生が中心だった。
24)ボビー・シールはヒューイ・P・ニュートン共に1966年にブラックパンサー党を創設した。
1969年5月、ブラックパンサー党のニューヘイブン支部でFBIのスパイとみられた人物をパンサー
党員が殺害する事件が起き、当時、講演のため当地を訪れていたボビー・シールの事件への関与
も取りざたされ、1970年裁判にかけられた。
25)ジョン・エドガー・フーバーは、1924年から1972年に死亡するまで、アメリカ連邦捜査局
(FBI)の長官。FBIの権威を高めたが、有名人に対する諜報活動や恐喝、また政治的迫害を行な
うなど、巨大すぎる権力行使は、大きな非難も受けた。フーバーは1968年9月に、ブラックパン
サーを「米国の国内の安全保障にとって最大の脅威」であると呼び、共産主義の活動家に対して
開発対諜プログラム「コインテルプロ」を駆使して、パンサーの指導層を破壊するために、監視
、スパイの侵入、偽証、警察によるいやがらし、暗殺などを行った。また党のメンバーを逮捕す
るなどして、組織の物的および人的資源の枯渇をはかった。26)フレッド・ハンプトンが寝てい
た家に急襲をかけて彼を殺害した警察は、当初、部屋の中にいたブラックパンサーのメンバーが
警察隊に向かって発砲し、銃撃戦になったと発表していたが、部屋に残された銃痕は、発砲が一
方的に警官隊から室内に向けられたことを示していた。ブラックパンサー党のメンバーとその弁
護士たちは、そのことを明らかにするため、殺害現場となった家を市民に一般公開した。27)「
ブラック・ピーストーン・ネイション」は、元々は「ブラックストーン・レンジャーズ」と呼ば
れ、1960年代にシカゴでもっとも名をなしたギャング。メンバーは、主に12歳から15歳だった。
28)1968年、エレイン・ブラウンは当時、ブラックパンサー党の議長だったデビッド・ヒリアー
ドから歌をレコーディングするよう委託され、アルバム"Seize the Time"が生まれた。1973年に
もヒューイ・P・ニュートンの委託でレコーディングを行い、アルバム"Until We're Free"が作成
された。
関連サイト:http://aafocusblog.blogspot.com/2011/04/part-1.html
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