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49号 2005年9月1日
大阪教育大学地理学会会報 第49 号 2005 年9月1日 目 次 平成の市町村合併から「身近な地域」を想う(正木久仁)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥1 平成 17 年度 教室・学会関係行事予定表(含関連行事)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥2 地理学教室教官人事および新専攻生 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥3 平成 17 年度巡検案内 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥3 中国・四国の航空交通(奥野一生)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥7 ア メ リ カ 東海岸北部、 カ ナ ダ ・ セ ン ト ジ ョ ン ズ で 出会っ た 特徴あ る 水産業活動 ―Portland Fish Exchange の活動、当該地域でのロブスターの扱い―(林紀代美)‥‥‥‥‥‥57 教室巡検報告(17 年度 3 回生・森)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥67 名所図会の出版状況について(山近博義)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥70 研究生の横顔(鹿川紅美)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥74 「インターネットGISによる社会科地図教材のホームページ」の紹介(山田周二)‥‥‥‥‥‥‥74 諸連絡 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥76 平成の市町村合併から「身近な地域」を想う 正木久仁 教科書会社から送られてきた次年度用の地図帳を開いて、新しい市が増えているのに気づいた。 なかにはイメージがあまり湧いてこない、ちょっと首を傾げたくなるような名前の新市もあれば、 以前からあった名称を受け継いだ市もある。後者の一つに、今年 2 月に近隣 9 町村を合併して成立 した高山市があり、新しい高山市は面積が日本一広い市ということなので、調べてみると 2178km2 と東京都とほぼ同じ出ることが分かりその広さに驚いた。 今回の市町村合併では 1999 年から 2005 年の期間に全国で市町村数は 3232 から 2216 と 1000 以上減少した。今年 4 月に旧法を改定され 2010 年までを期限とする新法が施行されたので、合併促 進で市町村数は半数近くにまで減少する可能性もある。大阪府では合併話を聞くことが少なく、こ れほどまでに市町村数が減少しているのは驚きであるが、大都市圏とそれ以外の地域で進捗状況に 大きな差があるのが平成の大合併の特徴といわれている。合併促進が市町村の財政基盤強化を主な 目的にしていることは昭和の大合併と同じであるが、少子高齢化の進展、広域的な行政需要の増大 が背景にあることは前回と異なる。ただ、大都市圏と非大都市圏の間で社会的背景に合併進捗率ほ どの差があるとは考えられず、市町村の財政状態が合併を左右する大きな理由になっているといえ よう。(6 ページにつづく) -1- 平成 17 年度 教室・学会関係行事予定表(含関連行事) 前期 4 1 日(月) 月 6 日(水) 11日(月) 後期 学部ガイダンス 10 3 日(月) 後期授業開始 入学式 月 23 日(日) 第3回巡検大阪市内方面 29日(土)∼31日(月) 地形学連合(名古屋大学) 授業開始・地理新専攻生歓 迎会 5 10 日(土) 月 14 日(土)∼15 日(日) 20 日(金)∼21 日(土) 教官懇親会 11 12日(土)∼14日(日) 人文地理学会大会(九州大学) 地形学連合(九州大学) 月 23 日(水) 第 4 回巡検御所方面 12 11日(日) 大阪教育大学地理学会 月 29 日(木) 冬休み 第2回巡検湯浅方面 1 5日(木) 授業再開 地理学ウィーク 2005(京都 月 21日(土) または 第 5 回巡検樫原方面 教室巡検明日香村,高取町 方面教室 6 5 日(日) 第 1 回巡検神戸方面 月 7 13 日(日) 月 23 日(土) 22日(日) 会館会議場) 8 29 日(金) 打ち上げコンパ 6 日(土) 前期授業補講期間終了 2 4 日(土) 大学院入試 地理学野外実習(鈴鹿) 月 8 日(水) 後期授業補講期間終了 12 日(日) 卒論修論発表会 謝恩会 月 23 日(水)∼26 日(土) 二部地理学野外調査演習 9 28 日(日)∼31 日(水) (郡上八幡) 10 日(土) 大学院入試 3 23 日(木) 卒業・修了式 地理教育論大関泰宏講師 月 28,29 日(月火) 日本地理学会 月 12 日(火)∼15 日(水) 5 日(月)∼ 10 月 18 日(金) 17 日(土)∼19 日(月) 教育実習および併修実習 日本地理学会秋季大会 (茨城大学) -2- 地理学研究室人事 平成 17 年度の非常勤の先生方は次のとおりです。 小専社会 I・II, 地理学基礎論 I・環境文化動態論 I 関口靖之 地誌概論・地域環境論 濱田琢司 大学院地理教育論 大関泰宏 平成 17 年度 新専攻生歓迎会 日時:平成 17 年 4 月 11 日(金)午後 6 時∼8 時 懇親会難波焼焼庵 平成 17 年度 地理学新専攻生 本年度下記の諸君を新たに地理学研究室に迎えました。 大学院修士課程(社会科教育専攻地理学専修) 4 名 鹿川紅美(本学)、田中克奉(本学)、丸山航(本学)、山田有時(奈良大学) 大学院研究生 金玹辰(大韓民国) 学部(小学校課程人文社会専攻・中学校課程社会専攻3回生) 15 名 伊藤大樹、伊藤雪美、大谷幸次、樫原拓、北田綾、古家亜沙美、芝裕祐、高瀬顕盟、前畠千賀子、益田 智一、松井美和、松元恒祐、溝延直也、森晃史、両井口侑記 学部(教養学科社会文化コース4回生)4 名 石坂亜希子,井戸雄大,岡本はるか,鹿間知佳,敦賀大樹,橋本 章 平成 17 年度日曜巡検・野外実習 平成 17 年度教室巡検 明日香村,高取町方面 [期 日] [集合場所] [集合時刻] [コ ー ス] [宿 舎] 平成 17 年 5 月 20 日(金)、21 日(土) 壺阪山駅(近鉄吉野線) 9:40 9:45 発のバスに乗るため時間厳守,このバスに乗れなかったら巡検に参加できない 飛鳥駅(近鉄吉野線)・昼過ぎ解散 宿舎「祝戸荘」〒634-0121 奈良県高市郡明日香村祝戸 303 Tel 0744-54-3551 Fax : 0744-54-3552 [そ の 他] 宿泊費 5000 円程度、バス代 1000 円程度、入館料 1000 円程度、昼食等 1000 円程度 初日(5/20)の昼食用弁当,測量機材,地形図(実習で作成したもの),筆記用具,野帳,雨具,その 他宿泊に必要なもの。*山道を歩くので,持ち物はすべてリュックサックに入れて背負うこと -3- 第一回巡検 神戸方面 [期 日] 平成 17 年6月5日(日) [集合場所] 阪神岩屋駅 改札を出たところ [集合時刻] 午前 10 時 30 分 [主 題] 震災後の土地利用変化 [経 路] 阪神岩屋駅→人と防災未来センター→酒造地区→阪神魚崎駅(解散予定) [指 導] 山近博義 [地 図] 1/1000「三宮」,「六甲アイランド」 [そ の 他] ①雨天決行(多少コ−スを変更) ②昼食は、一時解散してとります。弁当持参も可 ③現地での交通費・入館料として 1000 円程度必要 第二回巡検 湯浅方面 [期 日] 平成 17 年6月26日(日) [集合場所] JR「湯浅」駅 [集合時刻] 午前 10 時33分(「大阪教育大前」7:46で到着可能) [主 題] 広村堤防と津波、できれば海岸の地形 [コ ー ス] 駅−広村堤防−広八幡神社 [指 導] 辻本 英和 [地 図] 2 万 5 千分の1地形図「湯浅」 [そ の 他] 昼食は一時解散してとります。歩きやすい格好で来てください。交通費が高くなります(片 道2280円)ので、事前に参加希望者の人数を調べて、少なければ(6名まで)、大学へ8時に集合 し、車で行きたいと考えています。 第三回巡検 大阪市内方面 [期 日] 平成 17 年 10 月 23 日(日) [集合場所] 大阪教育大学天王寺キャンパス玄関 [集合時刻] 午前 10 時 [主 題] 上町台地と周辺の景観 [コ ー ス] 大阪教育大学→四天王寺→今宮戎神社→難波(昼食)→日本橋→高津神社→難波宮跡→京 橋(解散) [指 導] 正木久仁 [地 図] 1/10000「天王寺」「大阪城」 [そ の 他]雨天決行(コースの一部を変えることがある)。昼食は一時解散してとる。 第四回巡検 御所方面 -4- [期 日] 平成 17 年 11 月 23 日(水祝) [集合場所] 近鉄御所駅 [集合時刻] 午前 10 時 [主 題] 花崗岩の風化と地形 [経 路] 駅から徒歩にて葛城山山麓へ [指 導] 水野 恵司 [地 図] 2 万 5 千分の1地形図「御所」 [そ の 他] 弁当必要 第五回巡検 橿原方面 [期 日] 平成 18 年 1 月 21 または 22 日 [集合場所] 近鉄八木駅 [集合時刻] 午前 10 時 [主 題] 大和三山に登る [経 路] 近鉄八木駅→八木→藤原宮跡→天香具山→畝傍山→久米寺→近鉄樫原神宮前駅 [指 導] 関口靖之 [地 図] 1/25000「桜井」「畝傍山」 [そ の 他] 雨天時などコースを変更有り、期日コース変更を含め、実習室ホワイトボードに注意 夏期巡検(鈴鹿山地東麓湯の山温泉周辺(三重県菰野町)) 方面 [期 間] 2005 年 8 月 23 日(火)∼8 月 26 日(金) [集合場所] ヘルシーパル湯の山(近鉄湯の山線 湯の山温泉駅より徒歩 5 分)・ [集合時間] 8 月 23 日 12:00 *集合時間までに昼食をすませておくこと [解散場所・時間] ヘルシーパル湯の山・8 月 26 日昼過ぎ [宿 泊 先] ヘルシーパル湯の山 〒510-1233 三重県三重郡菰野町大字菰野字江田 8474-177 TEL 0593-92-2233 [費 用] 宿泊費: 21,000 円程度、現地での交通費:3000 円程度、昼食等:3000 円程度 [持 ち 物] 測量機材(各班で 1 式),温度計(各班で 1 式),地図(実習で作成した地形図,地形分 類図,土地利用図),筆記用具,野帳,雨具,リュックサック,その他宿泊に必要なもの [発表会の準備会] 2005 年 10 月 19 日(水)14:50∼16:20 C7-204 あるいは 2005 年 10 月 26 日(水) 14:50∼16:20 C7-204 -5- 二部地理学野外実習 テーマ:地方都市の機能と景観 指導:正木久仁 日時:8 月 29 日(土)∼31 日(火) コース:岐阜県郡上八幡市 平成 17 年度大阪教育大学地理学会 下記の通り、本年度の大会・総会が開催されます。会員の皆様方のご参加をお待ちしております。なお、 当日は日曜日ですので、大会会場へは恐れ入りますが、正門の方からお入り下さい。また、駐車場はあ りませんので、お車でのご来場はご遠慮下さい。 日 場 日 時:平成17 年 12 月11 日(日)10時より 所:大阪教育大学天王寺キャンパス中央館212教室 程: 3 回生野外巡検報告 平成 17 年度卒業論文修士論文発表会 日 時:平成 18 年 2 月12 日(日)1時より 場 所:大阪教育大学柏原キャンパス C7-201 教室 卒業論文発表:13:00∼16:00 修士論文発表:16:00∼16:30 卒業生・修了生予餞会:16:30∼17:00 懇親会(送別会) : 18:00∼ 参加ご希望の方は、当日会場受付でお申し込み下さい。 「平成の市町村合併から「身近な地域」を想う」 つづき もともと市町村は日常生活圏の広がりに近く「身近な地域」といえた。昭和の大合併では市町村の範囲 が拡大したが、一方で日常生活圏も拡大する状況にあった。しかし、今回はやや様相が異なり「身近な地 域」を越えて市町村域が拡大しているのではないかとも思える。「身近な地域」のとらえ方の問題があるが、 地域社会形成にとって重要であるメンタルな「身近な地域」から遊離していないのか。社会科地理では市 町村程度を対象とした「身近な地域」の学習が求められているだけに気にかかるところである。 -6- 中国・四国の航空交通 奥野一生 Ⅰ.はじめに 日本の航空交通は,三眼対長距離路線・遠隔地内短距離路線・中間地中距離路線に,大きく三区分で きる。すなわち,比較的長距離で旅客数が多く,また観光客の比率が比較的高い,東京・名古屋・大阪∼ 北海道・九州沖縄線と,比較的短距離で旅客数の伸びが少なく,また生活路線の比率が比較的高い,離 島・北海道内・九州島内線との,対照的な路線タイプ,そして,その中間タイプに位置し,ビジネス路線の 比率が比較的高い,中国・四国・東北・北陸の各空港からの中距離を中心とした路線である。勿論,千歳・ 福岡・那覇は北海道・九州沖縄にて中心的な空港の位置を占め,三眼に次ぐ路線網を構築している。中 国・四国及び東北・北陸では,広島・仙台・松山・小松・新潟の発達が顕著であると共に,中距離路線が多 いために,鉄道・高速バスといった他の交通機関,特に新幹線との競合が激しく,過去に休廃止となった 路線も多い。 中国・四国では,山陽新幹線の開通によって大阪∼広島・宇部線が廃止,中国自動車道の開通による 高速バスや,智頭急行の開通による在来線特急の運転開始によって,大阪∼鳥取・米子線が廃止,本四 連絡橋の開通による岡山から四国への鉄道直通や高速バスによって,大阪∼徳島・高松線が廃止となっ た。このように,大阪∼中国・四国線は,他の交通機関によって,大きな影響を受けている1)。東京線にお いても,東京∼岡山・広島線は,新幹線との競合が激しい区間として知られている。広島からの山陰(鳥 取・米子・出雲)・四国(松山・高知)・北陸(小松・新潟)線も,鉄道・高速バス・高速船との競合で廃止,広 島からの九州線は,福岡・長崎・大分線が廃止,鹿児島・宮崎線も,今後の九州新幹線全通による影響が 懸念される。勿論,この要因は,他の交通機関との競合のみならず,広島の中国・四国での中心都市とし ての相対的地位の低下もあるが,更に言えば,東京一極集中の影響でもある。 歴史的には,1922 年(大正 11 年)に,大阪(堺)∼徳島・高松間(のちに松山へも)が,中国・四国のみ ならず,日本最初の民間定期航空輸送として開始された2)。戦後も路線開設が比較的早く,かつての東 亜航空は広島を拠点として路線網を形成していた。また,日本の航空機史上重要な役割を果たしたYS ー11型機が早くに就航し,現在でも,離島路線と並び,九州・四国路線が使用されている地域である。さ らに,都市間コミューターが運航される注目すべき地域で,広島・松山・大分相互の初期路線開設やその 後の新規路線開設があり,九州との路線を中心にコミューター化された路線もある。これらは距離・需要・ 機材からみて都市間コミューターに適度な路線と考えられ,コミューター航空でも重要な地域である。例 えば,名古屋∼米子線(現在は廃止)は中日本エアラインサービス(現・エアーセントラル)最初の路線で -7- あり,広島西∼小松線(現在は廃止)は,かつてジェイエア最多旅客数路線であった時期がある。 2005 年は,極東航空の開設で現在まで存続している大阪∼高知線定期路線化 50 周年である。また, 日本国内航空東京∼徳島∼高知線YS−11機初就航と全日本空輸東京∼高知線開設,さらに東亜航空 米子∼隠岐線開設から 40 周年,中国・四国の航空交通に大きな影響を与えた山陽新幹線岡山∼博多開 業と東亜国内航空大阪∼隠岐線直行便開設から 30 周年,全日本空輸東京∼鳥取線ジェット化から 20 周 年,阪神淡路大震災による山陽新幹線一時不通から航空への旅客転化傾向が出現してから 10 周年,と いったように中国・四国の航空交通にとって節目の年である。 筆者は,過去に,「東京からの国内航空交通」「名古屋からの国内航空交通」「大阪からの国内航空交 通」「沖縄の航空交通」「北海道の航空交通」「九州の航空交通」3)と題して,東京国際空港(羽田空港)・名 古屋国際空港・大阪国際空港(伊丹空港)と関西国際空港からの国内航空交通,及び,沖縄各空港の航 空交通,北海道各空港の航空交通,九州各空港(九州島内のみで離島を除く)の航空交通について検討 し,航空交通を取り上げる際の留意点も指摘した。いわば,前述した3タイプの内,前者2タイプを中心と した。そこで,その続編でもある本稿では,後者1タイプの内,中国・四国の航空交通を取り上げ,中国・ 四国各空港とその航空路線について,国内航空交通全体の中での特色,各路線状況と発達過程,近年 の動向について,具体的かつ詳細に検討する。中国地方の空港としては,第二種空港が広島・山口宇部, 第三種空港が岡山・鳥取・出雲・石見・隠岐,共用飛行場が米子・岩国(現在は民間航空の使用は廃止, 海上自衛隊とアメリカ海兵隊の日米共同使用)・防府(現在は民間航空の使用は廃止,海上自衛隊使用), その他の飛行場が広島西で,兵庫県日本海側のその他の飛行場である但馬も含めた。四国地方の空港 としては,第二種空港が高松・松山・高知,共用飛行場が徳島,その他の飛行場が新居浜(水上飛行場で 現在は休止)で,和歌山県の第三種空港である南紀白浜空港(かつては,水上飛行場の白浜飛行場)も 含めた。米子空港は正式には航空自衛隊と共用の美保飛行場,宇部空港は 1980 年山口宇部空港に改 称,石見空港は「萩・石見空港」に,但馬空港は「但馬コウノトリ空港」に,高知空港は「高知龍馬空港」に それぞれ愛称がつけられている。しかし,以下の本文及びグラフ中では,年次に関わらずいずれも米 子・宇部・石見・但馬・高知の名称で統一して使用,共用飛行場やその他の飛行場も,「空港」の表記で統 一して使用している。 なお,筆者は,引き続いて,古今書院発行の月刊地理専門誌「地理」誌上にて,航空交通の動向を紹 介している4)。中国・四国の航空交通に関する文献としては,拙稿5)以外,航空情報編集部・翼編集部・国 際空港ニュース社編集部等がある6)。また,航空を含む交通関係の資料文献については,拙稿(1998)を 参照されたい7)。 Ⅱ.国内航空交通と中国・四国の空港 (1)中国地方の空港旅客数 第1図は,広島・岡山・宇部・出雲・米子・鳥取・広島西・石見・隠岐・岩国の中国地方内10空港と,兵庫 -8- 人 10,000,000 広島 岡山 宇部 出雲 米子 鳥取 石見 広島西 隠岐 但馬 岩国 1,000,000 100,000 10,000 1,000 1951 55 59 63 67 71 75 79 83 87 91 95 99 200 3 年度 第1図 中国空港旅客数の推移 県日本海側の但馬の1空港,計11空港の空港旅客数推移を示したものである。 これら中国地方内(但馬含む)の11空港は,2000年代以降の年間旅客数規模から3分類できる。すな わち,90万人以上の広島・岡山・宇部の山陽3空港,80万人未満30万人以上の出雲・米子・鳥取の山陰3 空港,20万人未満2万人以上の広島西・石見・隠岐・但馬のコミュータークラス空港である。なお,岡山空 港は1988年に,広島空港は1993年に,それぞれ山間部へと移転しており,九州の空港と同様の状況があ る。 国内各空港の国内線旅客数(2003年度)でみると,幹線5空港(東京・大阪・新千歳・福岡・那覇)に次ぐ 上位17空港は,名古屋・鹿児島・関西・広島・宮崎・熊本・仙台・長崎・松山・小松・函館・大分の各空港で ある。「三眼」(東京・大阪・名古屋)と北海道・九州沖縄の空港が上位にあるのは当然として,第9位に中 国・四国最多旅客数の広島空港が位置する。また,前述した仙台・松山・小松の東北・四国・北陸各第一 位の空港も,ここに位置する。第8位の関西空港までが「主要空港」と位置付けられ,それら以外を「地方 空港」と位置付けると,「地方空港」では広島空港が最多旅客数となる。なお,幹線5空港はモノレールを 含む鉄道アクセスが開設されており,名古屋に替わる中部空港や関西空港,宮崎空港も鉄道アクセスを 持ち,仙台もまもなく鉄道アクセスが開設される。これらの空港旅客数規模からすれば,鹿児島・広島・熊 本・長崎・松山・小松・函館において鉄道アクセス開設は,考慮されて良いだろう。鹿児島・広島・熊本・長 崎・小松は近接したJR路線からの引込み線,松山・函館は路面電車線・私鉄線の延伸が考えられ,函館 については拙稿の「北海道の航空交通」で,湯の川からの延伸を指摘した。山陰の空港は,最多旅客数 の出雲空港でも第33位であり,中位以降に位置する。これは,山陰の航空交通は,東北・北陸の航空交 通と共通して過疎・積雪地域で,路線網展開の制約,東京・大阪・名古屋等への路線が他の交通機関と 競合することによる。また東北・北陸の空港同様に空港間競争も激しく,鳥取・島根の両県は,青森・秋 -9- 田・山形の3県同様1県2地方空港の県で,米子空港の旅客が鳥取・出雲両空港に移行する傾向がある。 ただ,石見空港は出雲空港からかなり離れた位置にあり,島根県内だが地域的に広島県との結びつきも あるため,他の空港に与える影響は少ない。 広島空港(旧)は1961年に供用開始,当初は全日本空輸の大阪∼岩国線が広島に寄航した。その国 内線旅客数は,1965年度に東京・大阪・千歳・福岡・鹿児島に次ぐ第6位で,トップクラスの地方空港であ った。しかし,1966年に水中翼船が広島∼松山に所要時間1時間10分で就航して松山線(この当時は広 島空港発着路線中最多旅客数であった)は減少,1966年度に高知・松山を下回り,以後,30年以上にわ たって中国・四国地方最多旅客数の地位を高知(1966∼71年度)もしくは松山(1972∼98年度)に譲って いた。1975年山陽新幹線岡山∼博多間開業で大阪・福岡線も休止,一時は東京線のみとなった。1976年 度には全国第28位(1977年度には第29位)まで順位を下げ,1976・77年度の2年間は米子をも下回り,中 国地方最多旅客数の地位も米子に譲った。しかし,1976年国鉄史上最高の運賃値上げがあり,1979年ジ ェット化,1983年B767就航全便ジェット化,1985年全便B767化で,1986年度には100万人を越えて全国 第14位,1988年ダブルトラック化で東京線は100万人を越え,1990年トリプルトラック化された。1993年広 島空港(現)が豊田郡本郷町に移転して供用開始,同年の東海道山陽新幹線「のぞみ」毎時1本運転開 始と広島市内から移転してアクセスが不便になったため,旅客数が一時期減少したものの,1993年の現 空港開設によるB747就航開始とその後の増便,特に1995年の阪神淡路大震災による山陽新幹線一時 不通によって航空に旅客が戻り,1990年代後半も順調に増加した。1999年度に仙台・熊本・松山を上回っ て中国・四国地方最多となるとともに全国第11位,2000年度に長崎を上回って第10位,2003年度には宮 崎を上回って前述のように第9位となった。しかし,広島空港発着路線(2003年度)で,8割以上を占める 東京線以外は,新千歳(2便)・那覇(1便)・仙台(2便)線の4路線のみとなり,東京線以外は減少傾向を 示している。これは,新幹線利用により一時間台で到達可能な福岡空港の利便性の高さ,すなわち29路 線という多方面の路線網,新千歳(5便)・那覇(12便)・仙台(5便)線の4路線における便数の多さ(2003 年度)による。鉄道アクセスによる時間短縮や広域集客による利用者増で便数増を図りたいが,早急な実 現は困難であろう。 岡山空港(旧)は1962年に供用開始,当初は全日本空輸の東京∼岡山∼広島線が就航した。その国 内線旅客数は,1970・71年度では広島・米子・宇部・出雲に次ぎ,鳥取・隠岐を上回る空港であった。1972 年山陽新幹線新大阪∼岡山間開業の影響を受けて,1972年度に鳥取,1973∼76年度には隠岐を下回り, 1984∼86年度にも隠岐を下回って中国地方最少旅客数の空港となった。現空港に移転する1987年度ま では年間旅客数10万人以下のコミュータークラスの空港であった。1988年岡山空港(現)が山間部に移 転して供用開始,移転後はジェット化・増便されて急速に旅客数を増加させ,1987年度に隠岐を,1988年 度に鳥取を,1990年度に出雲・米子を上回って広島・宇部に次ぐ中国地方第3位の空港となった。1991∼ 93年度は出雲を下回ったものの,1994年度は1995年の阪神淡路大震災による山陽新幹線一時不通から 航空への旅客転化が顕著となって,東京線にB747が就航,一気に出雲・宇部を上回って,第2位の空 港となった。1995∼99年度では順位を下げたものの,2000年度からは再び広島に次ぐ第2位,2002・ - 10 - 2003年度は100万人を越えて徳島を上回り,中国・四国地方では広島・松山・高知・高松に次ぐ第5位の空 港となり,この増加が継続すれば高知・高松を上回って,第3位に躍進することも予想される。 宇部空港は1966年に供用開始(当時操業中の宇部炭鉱のボタが空港建設の海上埋め立てに使用さ れた),当初は全日本空輸の東京∼宇部線と日本国内航空の大阪∼宇部線が開設された。その国内線 旅客数は,1973・74年度では広島・米子に次ぐ中国地方第3位の空港であったが,1975年度に山陽新幹 線岡山∼博多間開業の影響を受けて激減,1977∼79年度は岡山・隠岐を下回り,中国地方最少旅客数 の空港となった。しかし,1980年ジェット化で10万人を越えて,順位でも広島・米子・出雲に次ぐ第4位とな り,その後の増便で旅客数が増加,2001年度には出雲を上回って,広島・岡山に次ぐ第3位の空港となっ た。2003年度は100万人を越えていないが,この増加が継続すれば,100万人空港となることが予想され る。これは東京線で新幹線との競合はあるものの,岡山・広島までが激しく,宇部までくると航空側が優位 であること,空港の位置が山口県南部でアクセス面での不利性があるものの,新幹線の「のぞみ」に山口 県内ノンストップの列車があって,新幹線の利便性が必ずしも高くないこと,等が理由として指摘できる。 出雲空港は1966年に供用開始,当初は日本国内航空の大阪∼出雲線が開設された。その国内線旅 客数は,1971年度では10万人を越えて広島・宇部に次ぐ中国地方第3位となり,1975∼89年度において も広島・米子に次ぐ第3位と安定した地位を維持した。1980年に東京線が,1991年に大阪線がジェット化 され,1991年度には米子を上回って山陰地方最多旅客数の空港となり,また1991∼93年度及び1996∼ 99年度までは更に岡山・宇部も上回って,中国地方第2位となった。しかしその後,旅客数は安定してい るものの,順位では,前述のように2000年度岡山,2001年度宇部を下回った。山陰地方第1位の地位を 維持しているのは,大阪線を存続させる努力,空港アクセスの改善が効果を発揮している。 米子空港は1954年に米軍施設を借用して,当初は極東航空の大阪∼米子線が開設された。その国内 線旅客数は,1961年度1万人,1969年度10万人を上回って1970年度までは中国地方第2位で,前述した ように1976・77年度の2年間は広島をも上回り,中国地方最多旅客数の空港となった。1978∼89年度では 第2位の地位を維持,1981年に東京線が,1991年に大阪線がジェット化されたものの,1990年度に岡山 を,1991年度に出雲・宇部を下回って第5位となり,次位の鳥取との差は縮小傾向にある。このように1990 年代以降の旅客数の減少と順位低下は,鉄道や高速バスとの競合による大阪・関西線の休廃止,鳥取や 出雲との競合による東京線の伸び悩みが影響を与えている。 鳥取空港は1967年に供用開始,当初は全日本空輸の東京→鳥取→米子→東京線が寄航した。その 国内線旅客数は,1971年度に隠岐を上回って以来,中国地方最少となることなく,1980年度に宇部を, 1988年度に岡山を下回ったものの,現在に至るまで第6位の地位にあり,前述したように,同一県内の上 位空港である米子との差は縮小傾向にある。大阪線の休廃止の影響もあったが,旅客規模が小さく,空 港旅客数に与える影響は少なかった。しかし,新たな成長路線開設がないと,米子空港を含めた鳥取県 内空港旅客数は伸び悩むことが予想される。 広島西空港は1993年供用開始,10月29日の広島空港(現)の移転開港で広島空港(旧)がコミューター 航空専用の空港となったもので,当初はジェイエアの広島西∼松山・大分・長崎・小松線が就航した。そ - 11 - の旅客数は,1996年度に隠岐を上回り,1997年度に10万人を越え,2003年度までは10万人以上を維持し た。この広島西空港をベースとしていたコミューター航空のジェイエアは,2003年9月より使用機材をリー ジョナルジェット機のCRJ機に統一,主整備基地が名古屋空港に移転となった。これは,名古屋空港が中 部空港開港後もコミューター空港で存続,従来から開設していた,北海道・東北・北陸・山陰・四国路線を さらに拡充することとなったことによる。その一方で,2003年8月末で広島西∼出雲∼福岡線,広島西∼ 高知線が,2005年2月には広島西∼新潟線も運航終了となって,過去通算で16路線も開設された広島西 空港発着路線は,宮崎・鹿児島線の2路線のみとなり,運航企業も2005年にジェイエアが撤退,日本エア ーコミューターのみ,機材もサーブ機のみとなった。なお,2004年3月の九州新幹線新八代∼鹿児島中 央間開業で福岡∼鹿児島線の航空旅客が減少して4月より減便となっている。九州新幹線全通後は広島 ∼鹿児島中央間の直通列車運転で3時間程度となって,この広島西発着九州路線に大きな影響が予想 され,将来的には広島西空港発着路線が完無となる可能性がでてきた。 石見空港は1993年に供用開始,当初はエアーニッポンの東京∼石見線と大阪∼石見線が開設された。 その国内線旅客数は,2003年度約10万人と開港初年度(1993年度)を下回って過去最低で2003年開港 の能登空港よりも少なく,北海道と離島を除く定期便のある第三種空港では最少旅客数の空港である。東 京・大阪線共にジェット便で開設されたが,それに対してコミュータークラスの旅客数で,大阪線は座席 利用率5割以下が継続,2004年にコミューター便(DHC−8−Q400機)となった。最寄り都市の益田市 人口が約5万人(2000年度国勢調査)と後背地人口が少なく,隣県の山口県萩への観光客取り込みを図 って愛称を「萩・石見空港」としたが,萩へは一時間以上を要するため,大きな効果は出ていない。むしろ, 「萩・石見空港」と名乗ることで,島根県の空港であるにもかかわらず,山口県の空港と誤解されることに なった。新幹線で新大阪より2時間の小郡(現・新山口)から,JR特急で益田まであるいはJRバス「はぎ 号」で萩までいずれも所要時間一時間半であり,その結果,大阪から益田・萩まで頻発の3時間台で到達 できるのに対して,航空側の昼(大阪)・夕(東京)時各一日一往復では利便性が悪い。後背地人口が少 なくまた人口分散傾向から,広域の集客が必要で,開港が新しい分,市街地に隣接するもしくは鉄道アク セスを確保するぐらいの工夫が必要であった。 隠岐空港は1965年に供用開始,当初は東亜航空の米子∼隠岐線が開設された。その国内線旅客数 は,1969年度に全便YS化されて旅客数が増加し,4万人を越えた。当初,隠岐空港は冬季閉鎖されてい たが,1982年(1981年度)からようやく出雲∼隠岐線が冬季休航せず通年運航となって旅客数が安定, 1984年隠岐汽船の高速船「マリンスター」就航でも影響は少なく,むしろ1980年代末は各線とも増加傾向 を示して,1992年度は過去最多の9万6千人と10万人突破まであと一歩に迫った。しかし,1993年隠岐汽 船の高速船「レインボー」就航で出雲∼隠岐線とともに,特に米子∼隠岐線が打撃を受けて旅客数が減 少傾向に転じ,2隻目の「レインボー2」の就航前に米子∼隠岐線は休止,1994年度以降年々旅客数は 減少を続けて,2003年度にはピーク時の半分以下の4万人となった。隠岐空港は2006年度にジェット化 が予定されており,大阪∼隠岐線でジェット機就航が見込まれるものの,YS機やDHC−8−Q400機 に比べて座席数が倍増するため,需要が倍増しない限り利用率低下も予想される。高速船「レインボー」 - 12 - は,離島航空路で脅威となるジェットフォイルとは異なり,冬季休航である。離島航空路の維持・活用のた めには,今のうちに有効な対策が必要である。現在の状況は「隠岐」空港というよりは「島後」空港が適当 で,島後と島前間の航路との連携による空港後背地の拡大,そして勿論,産業振興や観光による旅客数 増大が求められる。また,他の離島空港のジェット化は1980年代に取り組まれており,隠岐でももっと早く に実現して東京・大阪直行便を確保しておれば,違った展開となったであろう。 岩国空港は1952年に米軍施設を借用して,当初は日本航空の東京∼大阪∼福岡線が岩国に寄航し た。しかし,1964年に東亜航空広島∼岩国線の運航が休止となり,岩国空港からの路線がなくなった。そ の旅客数は,1957年度に1万人を越えた以外は1万人以下であった。 防府空港は1963年に航空自衛隊防府北基地を借用して,当初は東亜航空の広島∼防府線が開設さ れたが,翌年の1964年には休止となり,防府空港からの路線がなくなった。 但馬空港は1994年に供用開始,当初は日本エアーコミューターの大阪∼但馬線(1便)が開設された。 その旅客数は,供用開始以来,離島を除く定期便のある空港・飛行場では最少旅客数(1998年度のみ紋 別を上回った)の空港の地位にある。2003年度の旅客数は約2万5千人で,現状の路線・便数・機材では これ以上の増加は難しい。 (2)四国地方の空港旅客数 第2図は,松山・高知・高松・徳島・新居浜の四国地方内5空港と,和歌山県の南紀白浜の1空 港,計6空港の空港旅客数推移を示したものである。 これら四国地方内(南紀白浜含む)の5空港は,2000年代以降の年間旅客数規模から2分類できる。 すなわち,90万人以上の松山・高知・高松・徳島の四国4空港,20万人未満2万人以上の南紀 人 10,000,000 1,000,000 松山 高知 高松 100,000 徳島 白浜 新居浜 10,000 1,000 1951 55 59 63 67 71 75 79 83 87 91 第2図 四国空港旅客数の推移 - 13 - 95 99 2003 年度 白浜のコミュータークラス空港である。なお,高松空港は1989年に山間部へと移転しており,九州 の空港と同様の状況がある。 国内各空港の国内線旅客数(2003年度)でみると,四国の空港は,最多旅客数の松山空港で全国第14 位であり,高知空港第19位・高松空港第20位,徳島空港第31位と,中位以上に位置する。これは,空路分 担率の高さによるもので,四国にとって航空交通は重要である。しかし,本四連絡橋が3橋開通し,例え ば高松空港と岡山空港,徳島空港と大阪・関西空港の競合も生じている。四国4空港を更に区分すると, 1970∼80年代では松山・高知空港と高松・徳島空港の二つに区分できた。前者はいち早くジェット化され た空港と非ジェット化時代でも多便で旅客数が多い空港,後者はジェット化が最後となった空港とジェット 化でも旅客数が急増しなかった空港である。1990年代以降は松山空港,高知・高松空港,徳島空港の三 つに区分できる。これは,高知空港の低迷と高松空港の発展によって,区分の境目が変化したことによ る。 松山空港は,1956年に極東航空の大阪∼松山線が開設された。その国内線旅客数は,1966年度に広 島を,1972年度に中国・四国地方初のジェット化空港となって高知を上回り,中国・四国地方最多旅客数 の地位を確保,1996年度までは,幹線空港や名古屋と鹿児島を含む主要空港に次ぐ,宮崎・長崎と並ぶ 空港であった。しかし,1997年度仙台に,1999年度熊本と広島に抜かれて,相対的な順位が低下,次位 の小松との差も僅かとなった。2003年度は260万人を下回り,1994年度と同じ水準に減少した。これは,東 京線以外の路線の減少によるもので,東京一極集中や,愛媛県観光の低迷,大阪・名古屋・福岡線にお ける鉄道・船舶・高速バスとの競合も影響している。かつての地位から「海越えは航空が有利」と認識され, 本四架橋による鉄道・高速バスの攻勢,更には高速船の発達に対して有効な対策を講ずることが少なく, また中国・四国からの関西線は松山のみとなったが,関西線維持のこだわりも影響している。 高知空港は,1954年に極東航空の大阪∼高知線が開設された。その国内線旅客数は,早くも1955∼ 57年度に東京・大阪・千歳・福岡・名古屋に次ぐ全国第6位の地位を占め,1966年度も第6位であった。高 知県の交通状況,すなわち「陸の孤島」的状況が,「地方空港」としてトップクラスの旅客数となった。しか し,1967年度に宮崎を,1972年度にジェット化された松山を下回って中国・四国地方最多旅客数の地位 を譲り,その後の順位は低下した。松山に遅れること11年,中国・四国地方では松山・広島・宇部・徳島に 次ぎ,1983年にようやくジェット化された。1989年度に広島を下回り,1997年度には195万人と200万人に あと一歩と迫ったが,以後は減少傾向を示して,2003年度は170万人を下回り,1990年度と同水準に減少 した。順位でも,離島空港の石垣空港を下回り,次位の高松や岡山との差も僅かとなった。これは,松山 空港同様,東京線以外の路線の減少によるもので,東京一極集中や,高知県産業の低迷,大阪・名古 屋・福岡線における鉄道・高速バスとの競合も影響している。かつての地位から「高知では航空が有利」と 認識され,本四架橋による鉄道・高速バスの攻勢,県内観光産業の空洞化に対して有効な対策を講ずる ことが少なく,また中国・四国からの関西線は松山のみとなったが,2004年まで関西線を維持したというこ だわりも影響している。 高松空港(旧)は,1955年に極東航空の大阪∼高松線が開設された。その国内線旅客数は,1961年度 - 14 - に松山を下回って中国・四国地方第3位となり,1962年度広島を(1968・69年度を除く),1977・81・84∼89 年度のみ徳島を下回った。1989年高松空港(現)が香川郡香南町に移転して供用開始,移転後はジェッ ト化(中国・四国地方最後のジェット化)されて急速に旅客数を増加させ,1990年度徳島を上回った。1988 年の本四連絡橋架橋によるJR本四備讃線開通の影響を受けたものの,四国の中心商業都市として,東 京線が好調である。しかし,2003年度中国・四国地方第4位であるものの,次位の岡山との差は僅差であ る。これは他の四国の空港同様,東京線以外の路線の減少によるもので,東京一極集中や,香川県産業 の低迷もあり,大阪(関西)・名古屋・福岡線は鉄道等との競合の影響で休止となった。JR岡山∼高松間 は,本四備讃線部分のみ高規格で,それ以外の岡山側宇野線・高松側予讃線部分ともに改良の余地は 大きい。改良されれば所要時間短縮となって,東京線に影響を与えるとともに,アクセス問題から,利便 性の高い岡山空港との空港間競争も激化すると予想される。 徳島空港(旧・水上飛行場,吉野川大橋南詰脇発着)は,1957年に日本観光飛行協会(のちの日東航 空)の大阪(当初は堺,1960年伊丹に)∼徳島線が開設(水陸両用機使用)された。1962年防衛庁飛行場 が公共用飛行場に指定されて海上自衛隊との共用飛行場の徳島空港(現)となり,1963年に日東航空大 阪∼徳島∼高知線が開設された。その国内線旅客数は,1975∼83年度は広島を,1977・81年度及び 1983年のジェット化(暫定)で1984∼89年度は高松を上回ったものの,1998年に明石海峡大橋開通の影 響で大阪線が大きく落ち込み,2000年度には5年間続いた100万人台を割り込んだ。1990年度以来四国 4空港中旅客数最下位で,2002年度には岡山を,2003年度には宇部を下回って,中国・四国地方第7位, 広島西を除く山陽・四国では最下位旅客数の空港となった。また他の四国3空港と比べて那覇線がない など利便性も低い。アクセスの改善による集客の増大など対策が求められるであろう。 新居浜空港(水上飛行場,黒島海岸発着)は,1959年に日東航空の大阪(当初は堺,1960年伊丹に) ∼新居浜線が開設(水陸両用機使用)された。しかし,1965年に大阪∼新居浜線の運航が休止となって, 新居浜空港からの路線がなくなった。その旅客数は,1962年度の約7千人が最高で,すべて1万人以下 であった。 白浜空港(水上飛行場,白浜海岸発着)は,1955年に日東航空の大阪(当初は堺,1960年伊丹に)∼ 白浜線が開設(水陸両用機使用)された。しかし,1965年に大阪∼白浜線の運航が休止となって,白浜空 港からの路線がなくなった。 南紀白浜空港(旧)は1968年に供用開始,当初は東亜国内航空の東京∼南紀白浜線が開設された。 1996年南紀白浜空港(現)が東側の隣接地に移転して供用開始,移転後はジェット化されて急速に旅客 数を増加させて10万人台となった。小型機の離発着(八尾からの自家用機や遊覧飛行等)も比較的多い。 また,旧空港跡に航空工学系の単科大学「和歌山工科大学」が県設置,新設学校法人運営の「公設私学 法人方式」で2003年4月開学の予定がされ,教職員の募集も行われたが,県の財政難などから事業凍結 となった。南紀白浜空港は南紀方面へのリゾート空港であるとともに,和歌山県へのビジネス空港でもあ るが,1994年に関西空港が開港してJR特急「くろしお」が関西空港線分岐駅の日根野駅に停車するため, 県庁所在地の和歌山市を含めて湯浅以北は時間的に関西空港の方が近いという空港間競合の問題が - 15 - ある。しかし,競合する関西空港の東京線は,関西空港発着便の伊丹シフトによって利便性が低下すると ともに南紀白浜空港発着便の増便によって利便性の格差が縮小,一時期は減少期もあったが,持ち直し ている。今後,関西空港発着東京線の利便性が飛躍的に向上すれば,大きな脅威となる。また,南紀方 面を中心とした観光動向が影響を与えると考えられる。 Ⅲ.中国・四国航空路線の発達過程 (1)中国・四国からの方面別旅客数の推移 第3図は,中国・四国から方面別旅客数の 1952 年度から 2003 年度まで示したものである。1950 年代当 初を除き,1970年代半ばまでは圧倒的に大阪線が中心で,大阪線の比率が7割以上を占めていた。これ は,歴史的経緯から中国・四国は大阪志向が強く,その結果としての大阪との結びつきの強さを示してい る。しかし,1975 年山陽新幹線岡山∼博多間開業と 1980 年東海道山陽新幹線速達タイプ「ひかり」設定 によるスピードアップは,中国方面の大阪線航空旅客を減少させ,東京線と逆転することとなった。1970 年代後半以降に東京線が急速に比率を増加させ,1980 年代末に6割を越えた。1988 年のJR本四備讃線 (瀬戸大橋線)の開業と 1998 年の明石海峡大橋開通に伴う高速バスの運航開始は,四国方面の大阪線 航空旅客を減少させ,1994 年のJR「スーパーやくも」運転開始と智頭急行開通による「スーパーはくと」運 転開始は,山陰方面の大阪線航空旅客を減少させた。その結果,1990 年代半ばまでは6割台であった 東京線が,1990 年代末に東京線が,再度,急速に比率を増加させ,2003 年度には約4分の3を占める に至った。反対に,大阪線(関西線を含む)は減少の一途を辿り,約1割程度にまで減少している。1994 年の関西空港開港による関西線開設で減少に歯止めがかかった時期もあったが,このように,新幹線・ 本四架橋・在来線新線や高速化が,大阪線旅客数に大きな影響を与えた。この結果,大阪線の休廃止 構成比 100% 90% 北海道線 80% 東北・北陸線 70% 九州線 60% 沖縄線 50% 名古屋線 大阪・関西線 40% 東京線 30% 20% 10% 0% 1951 55 59 63 67 71 75 79 83 87 91 95 99 2 003 年度 第3図 中国・四国からの方面別旅客数構成比推移 - 16 - (広島・宇部・鳥取・米子・徳島・高松),利便性の低い関西線の休廃止(2005 年5月現在,松山線のみ,か つて開設された,広島西・米子・高知・高松・徳島線は廃止)となった。また対抗策として航空側は,コミュ ーター化(小型化)による多便化(出雲・高知・松山・石見)を進めて,ジェット便は減少している。今後,大 阪線(関西線を含む)の比率低下がどこまで食い止められるか,東京線の比率増加の傾向がどこまで進 むかが,興味深い。なお,九州線や北海道線が,一時期,増加傾向を示したこともあったが,現在は減少 傾向を示す。他の地方では,東京線・大阪線(関西線を含む)に次ぐ比率を示す名古屋線であるが,中 国・四国に関しては,結びつきの弱さや鉄道輸送との競合するため,比率は現在のところは低い。 (2)各路線別旅客数の推移 ①東京∼中国路線 第4図は,東京∼中国線の旅客数推移を示したもので,広島西・隠岐・但馬は東京線が開設されてい ない。 山陽方面の路線は,1972 年山陽新幹線新大阪∼岡山間開業や 1975 年山陽新幹線岡山∼博多間開 業による影響,1979年広島・1980 年山口宇部・1988 年岡山のジェット化による供給増からの需要増,1993 年JR新幹線「のぞみ」東京∼博多間毎時1本運転開始による影響,1995 年阪神・淡路大震災発生の影響 もあるが,全体として比較的堅調な旅客数を示している。 国内線旅客数(2003 年度)でも,東京∼新千歳・福岡・大阪・那覇線の次ぎが広島線で,幹線空港相互 以外では最多の旅客数である。また,松山・高松線は長崎・宮崎・大分線といった九州線と同規模,宇部・ 高知線は秋田・青森線といった東北線と同規模,徳島・出雲・米子線は旭川・釧路・帯広・女満別線といっ た北海道線と同規模である。 山陰方面の路線では,開設の早かった米子線の旅客が,最近では鳥取・出雲線に分散し,やや停滞 人 10,000,000 広島 1,000,000 岡山 宇部 出雲 100,000 米子 鳥取 石見 岩国 10,000 1,000 195 1 55 59 63 67 71 75 79 83 87 91 95 第4図 東京∼中国路線旅客数の推移 - 17 - 99 2003 年度 ぎみである。石見線は初期増加が終わり,安定停滞期に入っている。石見空港は,同じ島根県でも,出 雲空港とは位置が離れているため,出雲線にはほとんど影響を与えていない。 広島線は,1962 年全日本空輸東京∼岡山∼広島線として開設(F27機就航),1963 年全日本空輸直 行便開設(F27機就航),1969 年YS化(3便中1便)で 10 万人を越え,1971 年度 20 万人を越えて東京か らの路線としては大阪・千歳・福岡に次ぐ第4位となった。1972 年全便(7便)YS化,1975 年山陽新幹線 岡山∼博多間開業で減少に転じて中国・四国線第1位は松山線となり,東京発着路線でも 1976・77 年度 は第 17 位となった。1979 年ジェット化(B737機就航・6便中2便)で 30 万人を越えて過去最多となり, 1983年B767機就航(6便中2便)・全便ジェット化(YS機広島線引退)で旅客数は急増,1984年度松山線 を上回って中国・四国線第1位となって以来はその地位を継続,東京発着路線でも第7位となった。1985 年全便B767化(B737機広島線引退),1988 年日本エアシステム開設(A300機就航・ダブルトラック化) で 100 万人を越え,1990 年日本航空開設(B767機就航・トリプルトラック化),1993 年全日本空輸B747 機就航(7便中1便,広島空港移転開港により就航可能に),1999 年度 200 万人を,2003 年度 250 万人を 越えた。前述のように,1992・94 年度及び 1999 年度以降,東京発着路線では第5位(大阪・関西線を1路 線として,以下同様)である。2003 年日本航空便は日本エアシステム便に統合された。2003 年度末では 全日本空輸9便・日本エアシステム9便の計 18 便が,2005 年度当初では計 16 便が運航されている。な お,成田∼広島線は,2003 年フェアリンク開設(CRJ機就航),2005 年度当初では1便が運航されてい る。 岡山線は,1962 年全日本空輸東京∼岡山∼広島線開設(F27機就航),1965 年全日本空輸東京∼岡 山線の単独路線開設(F27機就航),1970 年YS化(2便中1便),1971 年東京∼岡山∼広島線休航, 1972 年山陽新幹線新大阪∼岡山間開業により 1972 年度は旅客数が急減,1972 年全便(2便)YS化され たものの,1978 年度東京発着路線では三宅島線・大島線をも下回って最下位の全国第 35 位となった。 1988 年ジェット化(B737機就航・岡山空港移転開港により,全便ジェット化でYS機岡山線引退),同年B 767機就航,1991 年A320機就航・1988 年度は 20 万人を越えて広島・宇部線に次ぐ中国線第3位となり, 1995年阪神淡路大震災による山陽新幹線不通でB747機就航により1994年度は50万人を越え,次年度 以降は減少に転じて出雲線を下回ったものの,2000 年度に再度50 万人を越えて再度出雲線を,2002 年 日本航空開設(B737−400機就航・ダブルトラック化)により 2002 年度は宇部線を上回って中国線第2 位で東京発着路線でも全国第 16 位となり,2003 年度には 111 万人と 100 万人を越えて東京発着路線第 15 位となった。2003 年度末では全日本空輸6便・日本航空4便の計 10 便が,2005 年度当初では計9便 が運航されている。 宇部線は,1966 年全日本空輸開設(F27機就航),1972 年YS化(2便中1便),1973 年全便(2便)YS 化,1975年山陽新幹線岡山∼博多間開業で減少に転じたが,1980 年ジェット化(B737機就航・全便ジェ ット化でYS機宇部線引退)・1980 年度 10 万人を越え,1985 年B767機就航(3便中1便),1991 年A320 機就航・同年度 50 万人を越え,1993 年度JR新幹線「のぞみ」東京∼博多間毎時1本運転開始で若干減 少したものの,2003 年度約 93 万人まで増加した。1972∼77 年度及び 1980∼2001 年度は中国線第2位 - 18 - であったが,前述のように2002 年度岡山線を下回って第3位となった。2002 年日本航空開設(B767機就 航・ダブルトラック化),2003 年度末では全日本空輸5便・日本航空3便の計8便が,2005 年度当初でも計 8便が運航されている。 出雲線は,1979年東亜国内航空開設(YS機就航),1980年ジェット化(DC9−41機就航・全便ジェット 化でYS機出雲線引退),1981 年度約 12 万人と前年比倍増により米子線を上回って中国線第3位,1988 年MD−87機就航(3便中1便),1982∼90 年度は米子線を下回った(後述する米子線ジェット化の影 響)ものの,1991 年MD−81機就航(4便中1便)して機材の大型化により 1991 年度約 30 万人で米子線 を再度上回って山陰線第1位となって以後もその地位を継続,1993 年A300機就航(4便中1便),1996 年MD−90機就航(4便中1便)と継続して一部便の大型化を継続・1996 年度 40 万人を越え,2000 年度 は約 50 万人となった。これは後背地人口の多さ・空港アクセスの改善・需要動向に対応した機材運用(多 客便の大型化)が効果を発揮している。2003 年度末では日本エアシステム5便が,2005 年度当初でも5 便が運航されている。 米子線は,1964 年全日本空輸開設(F27機就航),1966 年バイカウント機就航,1967 年東京→鳥取→ 米子→東京線開設(F27機就航),1968 年東京∼鳥取∼米子線開設(F27機就航),1969 年東京∼米子 線直行便再開(F27機就航・東京∼鳥取∼米子線鳥取寄航中止),1971 年YS化,1973 年度から通年運 航となって3万人を越え,1978 年2便に増便されて6万人となり,1981 年3便に増便・全便ジェット化(B73 7機就航)で 10 万人となり,1981 年度のみ出雲線を下回ったが 1982 年度は出雲線を上回り,1989 年4便 に増便されて約22 万人となり,1990 年度まで山陰線第1位であった。1991 年一部便がエアーニッポンに 移管,1992 年全便(4便)エアーニッポンに移管,1996 年A320機就航・30 万人を越えたが前述のように 出雲線は 40 万人を越えており格差が開いた。これは,出雲と米子空港は近接して空港間競争が激しく, エアーニッポン移管運航による機材と便数の制約の影響である。対策として,1999 年全日本空輸に再移 管されてB767機就航により大型化を図り,2000年度36万人を越えた。前述したように,1991年度出雲線 を下回って以来,山陰線第2位である。基本的には,鳥取県の後背地人口の少なさ・米子空港のアクセス の不便さ・山陰第一位の商業都市と称された米子の地位低下等が影響している。2003 年度末では全日 本空輸5便が,2005 年度当初でも5便が運航されている。 鳥取線は,1967 年全日本空輸東京→鳥取→米子→東京線開設(F27機就航),1968 年東京∼鳥取∼ 米子線開設(F27機就航),1969 年東京∼米子線再開・東京∼鳥取∼米子線鳥取寄航中止で東京線が 一旦休止,1979 年全日本空輸東京∼鳥取線再開(YS機就航),1985 年ジェット化(B737機就航),1987 年度 10 万人を越え,1990 年B767機就航,1991 年A320機就航・1991 年度 20 万人を越え,1998 年度 30 万人を越えたものの,2000 年度33 万人をピークに以後は横ばい傾向である。1988 年度岡山線を下回 って以来,石見線を除けば中国線・山陰線最少旅客数である。1県2空港に対して,鳥取県の後背地人 口と産業状況からすれば,現状では横ばい傾向も当然であろう。2003 年度末では全日本空輸4便が, 2005 年度当初でも4便が運航されている。石見線を除けば中国線・山陰線最少便数である。 石見線は,1993 年エアーニッポン開設(A320機就航),1997 年2便に増便されて 1997 年度は開港初 - 19 - 年度の 1993 年度と比べれば倍増の 12 万人を記録したが,次年度の 1998 年度をピークに減少傾向を示 し,2002 年1便に減便されて 2002 年度は 10 万人を割り込み,2003・2004 年度は6万人をも割り込んだ。 2003 年度末ではエアーニッポン1便が,2005 年度当初でも1便が運航されている。 岩国線は,1952 年日本航空東京∼大阪∼福岡線岩国寄航で開設(DC−4機就航),1954 年寄航中 止となった。 ②東京∼四国路線 第5図は,東京∼四国線の旅客数推移を示したもので,白浜(南紀白浜)線も含めている。 四国では,かつて早くにジェット化された松山線の旅客数が多かったものの,ジェット化が遅れた高松 線の旅客数が,現在では,四国経済中心地の地位を反映して松山線と拮抗している。高知線と徳島線が 極めて類似しているため,折れ線グラフが重なる。また,東京直行便が少なかった時代には,大阪経由 の利用者もあったが,直行便の便数増により大阪経由の利用者転移もあって,全般に旅客数が増加して いる。 松山線は,1962 年全日本空輸東京∼高松∼松山線開設(F27機就航),1965 年直行便開設(F27機 就航),1966 年直行便休止,1969 年東京∼高松∼松山線YS化(F27機高松∼松山線引退),1971 年東 京∼高松∼松山線休止・直行便再開(YS機就航),1972 年ジェット化(B737機就航)で 1972 年度6万人 に急増,1974 年2便に増便(B727機就航)されて 1974 年度約 17 万人に急増,1975 年度には山陽新幹 線岡山∼博多間開業で減少に転じた広島線を上回って中国・四国線第1位となり,1976 年3便に増便さ れて 1976 年度 30 万人を越え,1977 年4便に増便されて 1977 年度約 39 万人となり,1978 年5便に増便 されて 1978 年度 50 万人を越えて 1978 年度東京発着路線で第 10 位となり,1981 年6便に増便されて 1981 年度60 万人を越え,1982 年7便に増便,1983 年B767機就航(7便中2便)で 1983 年度東京発着路 人 10,000,000 松山 1,000,000 高松 高知 徳島 100,000 白浜 10,000 1,000 1951 55 59 63 67 71 75 79 83 87 91 95 99 20 03 第5図 東京∼四国(白浜含む)路線旅客数の推移 - 20 - 年度 線では第8位(1987∼89 年度も),1984年度70 万人を越えたもののジェット化で急増した広島線を下回っ て中国・四国線第2位となった。1986 年8便に増便,1988 年日本航空開設(B767機就航・ダブルトラック 化),1989 年度 100 万人を越え,1990 年全便B767(B727機松山線引退)に,1992 年全日本空輸B747 機就航(6便中1便)後は大きな変化はない。1993 年JR新幹線「のぞみ」東京∼博多間毎時1本運転開始 と「しおかぜ」の全面スピードアップの影響もあったが大きな減少には至らず,東京発着路線では 1998・ 99 年度は第 13 位,2002・2003 年度は第 11 位である。1966∼70 年度までは四国4路線中最下位であっ たが,1972 年度に四国線第1位となって以来,その地位を継続している。ただ,後述する高松線の増加 が著しく,その差は僅差となってきている。2003 年度末では全日本空輸6便・日本航空4便の計 10 便が, 2005 年度当初でも計 10 便が運航されている。 高松線は,1962 年全日本空輸東京∼高松∼松山線開設(F27機就航),1963 年富士航空東京∼高松 ∼大分∼鹿児島線開設(CV240機就航),1965 年富士航空東京∼高松∼大分∼鹿児島線YS機就航 (CV240機高松線引退),1965年全日本空輸東京∼高松線単独路線開設(F27機就航),同年富士航空 東京∼高松∼大分∼鹿児島線を東京∼高松∼大分線と東京∼大分∼鹿児島線に分離,1966 年全日本 空輸東京∼高松線単独路線休止,1968 年日本国内航空東京∼高松∼大分∼福岡線開設(YS機就航・ 福岡延航),1969 年日本国内航空東京∼高松∼大分∼鹿児島線再開(YS機就航),同年東京∼高松∼ 松山線YS化(F27機高松線一旦引退),1971 年全日本空輸東京∼高松∼松山線休止・東京∼高松線再 開(F27機就航),1971 年度まで四国線第1位であった。1972 年全日本空輸東京∼高松線YS機就航(F 27機高松線引退),1973 年東亜国内航空東京∼高松∼福岡線開設(YS機就航・大分抜航)・東亜国内 航空東京∼高松∼大分∼鹿児島線休航(高松抜航)・東亜国内航空東京∼高松線単独路線開設(YS機 就航),1978 年全日本空輸東京∼高松線2便に増便されて 1978 年度 10 万人を越え,1980 年東亜国内 航空東京∼高松線2便に増便されて 1980 年度 15 万人を越え,1982 年全日本空輸東京∼高松線3便に 増便されて 1982 年度 20 万人を越えたが,1983 年徳島線と高知線のジェット化で,1983 年度に高知線を, 1984 年度に徳島線を下回って四国線最下位となった。1989 年ジェット化(B767・A300・MD−81機就 航・高松空港移転開港により,全便ジェット化でYS機高松線引退)で 1989 年度約 36 万人,1990 年度約 74 万人と前年比倍増により高知線と徳島線を上回って四国線第2位,1993 年JR新幹線「のぞみ」東京∼ 博多間毎時1本運転開始の影響もあったが大きな減少には至らなかった。1996 年度 100 万人を越え, 2003年度130万人と前述の松山線に僅差で迫っている。これは,四国経済における高松の地位を反映し ているが,空港移転によってアクセス時間が延びた問題もある。2003 年度末では全日本空輸5便・日本 エアシステム5便の計 10 便が,2005 年度当初は計9便が運航されている。 高知線は,1964 年日本国内航空東京∼徳島∼高知線開設(CV240機就航),1965 年YS化(日本国 内航空初就航)・全日本空輸東京∼高知線開設(バイカウント機就航),1966年全日本空輸東京∼高知線 F27機就航,1967 年全日本空輸東京∼高知線F27機引退・日本国内航空東京∼徳島∼高知線休航, 1969 年全日本空輸東京∼高知線YS機就航(バイカウント機高知線引退),1971 年東亜国内航空東京∼ 徳島∼高知線再開(YS機就航),1973 年東亜国内航空東京∼徳島∼高知線休止で旅客数減少,1978 - 21 - 年2便に増便で旅客数急増,1979 年度 10 万人を越え,1980 年3便に増便,1981 年4便に増便,1982 年 5便に増便,1983 年ジェット化(B737機就航4便・B767機就航1便,YS機高知線引退)で 1983 年度約 28 万人となって高松線を上回り四国線第2位,1984 年度は 41 万人に急増,1988 年度 50 万人を,1990 年度 60 万人を越えたもののジェット化で急増した高松線を下回って,四国線第3位となった。1991 年全 便B767化(B737機高知線引退),1993 年JR新幹線「のぞみ」東京∼博多間毎時1本運転開始の影響も あったが大きな減少には至らなかった。1995∼97 年度は僅差で徳島線を下回り一時期四国線最下位で あったが,1997年日本航空と日本エアシステム開設(トリプルトラック化)で1997年度75万人を越え,1998 年度約 82 万人となって以後は徳島線を上回った。2003 年日本航空便は日本エアシステム便に統合され, 2003 年度 90 万人を越えたものの,2004 年度は 85 万人に減少した。このように,かつては松山線に次ぐ 第2位であったのが,現在は徳島線と最下位を争う位置となった。高知県産業や観光の低迷,空港アクセ ス問題が影響している。2003年度末では全日本空輸5便・日本エアシステム4便の計9便が,2005年度当 初は計8便が運航されている。 徳島線は,1964 年日本国内航空東京∼徳島∼高知線開設(CV240機就航),1965 年YS化(日本国 内航空初就航),1967 年に東京∼徳島∼鹿児島線開設(YS機就航)・東京∼徳島∼高知線休航,1971 年東京∼徳島∼高知線再開(YS機就航)・東京∼徳島∼鹿児島線は東京∼徳島線単独路線化,1973 年東亜国内航空東京∼徳島∼高知線休止で旅客数減少,1978 年2便に増便で旅客数が急増,1979 年 度 10 万人を越え,1980 年3便に増便,1981 年4便に増便,1982 年5便に増便,1983 年ジェット化(DC9 −41機就航5便中4便),1984 年全便ジェット化(YS機徳島線引退)で 1984 年度約37 万人と高松線を上 回って四国線第3位,1986 年MD−81機就航・1986 年度 43 万人,1988 年A300機就航・1988 年度約 50 万人,1989 年の高松空港ジェット化までは徳島空港∼高松間の空港バスが運航されて高松の旅客も 集客した。しかし,1990 年度ジェット化で急増した高松線を下回って,四国線最下位となった。1994 年全 日本空輸開設(B767機就航・ダブルトラック化)で 1995∼97 年度は僅差で高知線を上回った。1994 年度 60 万人を,1996 年度 70 万人を,2000・01 年度は 80 万人を越えたが,2002 年全日本空輸便はスカイマ ーク便に移管されて,2002・03 年度は減少に転じ 80 万人を割り込んだ。2004 年度は過去最多の 83 万人 を記録,前述のように,高知線と僅差で最下位を争う。これは,全日本空輸の撤退もあるが,1998 年明石 海峡大橋開通による阪神間との高速バス交通が急速に発達して,いわゆる「ストロー現象」,すなわち架 橋による利便性の向上によって,従来の地元での各種の需要が大都市に転化する(吸い上げられる)現 象がおきたことによる,徳島経済の低迷も影響している。2003 年度末ではスカイマーク4便・日本エアシ ステム4便の計8便が,2005 年度当初も計8便が運航されている。 南紀白浜線は,1968 年東亜国内航空開設(YS機就航),1980 年2便に増便・1980 年度は過去最高の 5万9千人を記録したがその後は減少傾向に転じた。1988年度6万人を越えて,1989年3便に増便,1990 年度9万人を越えたが,1994 年関西空港開港の影響で 1994 年度7万8千人まで落ち込んだ。1996 年ジ ェット化(MD−87機就航・YS機南紀白浜線引退)・2便に減便,2000 年3便(冬季は2便)に増便・MD - 22 - −90機就航で 2000 年度 14 万3千人にとなったがその後は減少傾向が継続,2003・2004 年度は 13 万5 千人まで減少した。2003 年度末では日本エアシステム3便が,2005 年度当初も3便が運航されている。 ③大阪・関西∼中国路線 第6図は,大阪・関西∼中国線の旅客数推移を示したもので,但馬線を含めた。岡山線は 1995 年の阪 神淡路大震災直後に開設されたが,臨時ということで含めていない。なお,現在,中国地方方面におい て,島根県への路線(隠岐・出雲・石見線)以外は廃止された。 出雲線は,1966 年東亜航空開設(YS機就航),1977 年1日5便に季節増便,1991 年ジェット化(MD− 87機就航)で旅客数が米子線を上回り,1994 年日本エアーコミューターに一部移管,1994 年度 21 万人 と初めて 20 万人を越えたが,その後は減少傾向を示している。1997 年サーブ機就航,1998 年日本エア ーコミューターに全面移管でジェット便消滅,2001 年日本エアシステムのジェット便再開,2003 年2月日 本エアーコミューターDHC−8−Q400機就航,日本エアシステムのジェット便が消滅,2003 年7月の み日本エアシステムのジェット便が再開された。他の交通機関との競争が激しい中,一貫して関西便を 開設せず,DHC−8−Q400機を基本に,サーブ機やYS機,日本エアシステムのジェット便を,時間帯 や季節の需要に応じて機種変更により投入,また一定の便数確保で旅客数減少傾向に対処して路線を 存続させている。2003 年度末では日本エアーコミューター5便,2005 年度当初では6便が運航されてい る。 石見線は,1993 年石見空港開港・エアーニッポンが開設(A320機就航)したが,1994 年度旅客数5万 9千人をピークに以後減少,座席利用率も5割以下が継続,2003 年度には 41%台となった。2004 年にコ ミューター便(DHC−8−Q400機)となり,2004 年度旅客数は3万人を割り込み,2005 年度当初では1 便が運航されている。 人 1,000,000 出雲 石見 隠岐 100,000 但馬 米子 広島 鳥取 10,000 宇部 岩国 1,000 1951 55 59 63 67 71 75 79 83 87 91 95 99 第6図 大阪・関西∼中国路線旅客数の推移 - 23 - 2003 年度 隠岐線は,1971 年東亜国内航空開設(YS機就航),1984 年度より夏季増便,1993 年日本エアーコミュ ーター移管,1994 年度より冬季休航がなくなり通年運航となった。しかし,1998 年度約3万3千人をピーク に,減少傾向を示している。2002 年3月サーブ機により増便(夏季以外の増便は初めて,またサーブ機 隠岐線初就航,1ヶ月間のみの増便)され,同年夏季増便にもサーブ機が就航した。2003 年4月サーブ 機に機種変更(YS機隠岐線引退)により通年2便化され,同年夏季増便で3便化された。2004 年7月DH C−8−Q400機就航(隠岐線初就航)で1便化,同年7月 16 日よりサーブ機で夏季増便(盆期のみDH C−8−Q400機で増便)となり,2003 年度の2万7千人を底に 2004 年度はようやく増加に転じて2万9千 人となった。同年12 月から 2005 年2月の冬季は年末年始を除いてサーブ機に機種変更,2005 年度当初 ではDHC−8−Q400機の1便が運航されている。 米子線は,1954 年極東航空開設(マラソン機就航),1955 年DHヘロン機就航,1964 年東亜航空に移 管(CV240機就航),1965 年YS化,1975 年1日5便に季節増便,1978 年度には年間旅客数20 万人にあ と一歩まで迫ったが,その後は減少傾向となった。1993 年ジェット化(MD−87機就航)・減便・日本エア ーコミューターに一部移管,1994 年日本エアーコミューターに全面移管でジェット便消滅,1994 年度は 大幅に減少,1995 年伊丹便の一部を関西便に振り替えて開設(YS機就航)されたが 1996 年休止,1999 年伊丹便も休止,大阪からの米子線はなくなった。関西便を開設して利便性の低下を招き,その結果とし て伊丹便の旅客も減少するという典型例で,大阪方面路線完全廃止となってしまった。ジェット便消滅後 は最後までYS機のみで運航,出雲線と異なり,サーブ機投入による多便化や路線維持の方策はとられ なかった。 鳥取線は,1969 年全日本空輸開設(F27機就航),1972 年YS化(F27機鳥取線引退),1978 年度約7 万4千人をピークに,減少傾向を示し,1987 年1日1便に減便,1991 年エアーニッポンに移管,1994 年J R特急「スーパーはくと」運転開始で大きな影響を受け,1995 年休止された。 岩国線は,1952 年日本航空東京∼大阪∼福岡線岩国寄航で開設(DC−4機就航),1954 年極東航 空大阪∼岩国線開設(DHダブ機就航・日本航空岩国寄航中止),1962 年廃止された。 広島線は,1961 年全日本空輸開設(DC−3機就航),1964 年東亜航空に移管(CV240機就航), 1965 年YS化,1974 年1日10 便に季節増便,1970 年代前半は 20 万人を越える旅客数であったが,1975 年山陽新幹線岡山∼博多間開業の影響を受けて,同年休止された。また,1967 年度まで東亜航空路線 では最多旅客数路線であった。1994 年関西空港開港・ジェイエア関西∼広島西線開設(J31機就航), 1999 年廃止された。 宇部線は,1966 年日本国内航空開設(ノール262機就航)・同年CV240機就航・同年YS機就航, 1972 年1日3便に増便,1973 年度には年間旅客数10 万人にあと一歩まで迫ったが,1975 年山陽新幹線 岡山∼博多間開業の影響を受けて,同年減便,1976 年休止された。 但馬線は,1994 年但馬空港開港・日本エアーコミューター開設(サーブ機就航),1995 年2便化された。 1日2便運航伊丹発着路線で最も旅客数が少なく,利用率も 2003 年度は5割を上回ったが,2002 年度ま では5割以下であった。2004 年度は2万7千人を記録,隠岐線にあと一歩まで迫っている。 - 24 - ④大阪・関西∼四国路線 第7図は,大阪・関西∼四国線の旅客数推移を示したもので,白浜(南紀白浜)線も含めている。 なお,松山・高知・高松・徳島・白浜へは戦前期に水上機による路線が開設されているが,本稿では, 戦後期のみを取り上げている。 松山線は,1956 年極東航空開設(DHダブ機就航),1961 年F27機就航,1965 年YS化,1966 年YS 機が松山沖に墜落してこの年度旅客数は減少した。1969 年全便YS化(F27機松山線引退),1971 年1 日12 便に増便,1972 年ジェット化(B727機就航)で8便に減便された。東京線旅客増で伊丹線旅客が停 滞,1975 年6便に減便された。1980 年に速達タイプ「ひかり」の運転開始(新大阪∼広島間新幹線利用・ 広島∼松山間水中翼船利用の利便性向上)の影響を受けて 1980 年度は減少に転じた。1983 年B767機 就航,1988 年度瀬戸大橋開通・特急「しおかぜ」岡山∼松山・宇和島間運転開始による影響を一時的に 受けたが,1985∼1991 年までYS機便等の増便による利便性向上で増加に転じた。1994 年関西空港開 港で伊丹便一部を振り替えた全日本空輸と日本航空の関西便が開設されたが不振で,1999 年全日本空 輸便はエアーニッポンに移管(2003 年全日本空輸便に),日本航空は撤退した。減少した伊丹便に, 1998 年日本エアシステムが,1999 年日本エアーコミューターが参入(YS機のちにサーブ機就航,2002 年度休止,2003 年再開,2003 年度からDHC−8−Q400機に,2004 年度休止),2003 年度日本エアシ ステム便はJALエクスプレスに移管・フェアリンク開設(CRJ機就航)された。2003 年度末では,伊丹便がJ ALエクスプレス2便・日本エアーコミューター2便(2004 年度は休止)・全日本空輸3便・フェアリンク3便 (2004年度2便),関西便が全日本空輸2便,両線合計12便が運航された。2004年フェアリンク撤退・他社 増便となり,2005 年度当初では伊丹便13 便・関西便2便の計15 便が運航され,利便性が向上した。後述 する高知線関西便が休止となったので,松山線関西便が四国路線で唯一の関西便となった。1993 年JR 人 1,000,000 松山 100,000 高知 高松 徳島 白浜 10,000 新居浜 1,000 195 1 55 59 63 67 71 75 79 83 87 91 95 99 200 3 第7図 大阪・関西∼四国路線(白浜含む)旅客数の推移 - 25 - 年度 新幹線「のぞみ」東京∼博多間毎時1本運転開始と特急「しおかぜ」の全面スピードアップで,大阪∼松 山間の所要時間が約3時間 40 分となり,鉄道側が航空との競争力をつけた。鉄道のみならず高速バスも, 京阪神から松山へは航空便と同等の便数があり,他の交通機関の動向を把握した航空側の対策が求め られた。旅客数は,1995 年度の 100 万人をピークに以後減少傾向が継続し,2004 年度は約 72 万人まで 減少した。 高知線は,1954 年極東航空開設(DHダブ機就航),1955 年マラソン機就航,1957 年DC−3機就航, 1958 年全便DC−3機に,1961 年F27機就航,同年CV440機就航,1963 年日東航空徳島経由便で開 設(グラマンマラード水陸両用機就航)・同年CV240機就航,1965 年バイカウント機就航・同年YS化, 1969 年日本国内航空が直行便参入・全便YS化,1976 年には全日本空輸と東亜国内航空をあわせて1 日 23 便に増便,1978 年度には約 94 万人を記録した。しかし,1984 年ジェット化(B767機就航),ジェッ ト便増で便数が減少し旅客数も停滞,1984 年一部便がエアーニッポンに移管(1993 年全面移管)された。 1991年A320機就航,1992年MD−81就航,1994 年関西空港開港で日本エアシステム便は関西便とな り,エアーニッポンも関西便を開設したが不振で,1997 年日本エアシステムは伊丹便に再参入,1998 年 関西便から撤退した。1999 年日本エアシステム便は日本エアーコミューターに移管・YS機就航,2000 年 撤退・YS便消滅となった。1955∼68 年度及び 1976∼78 年度までは伊丹空港発着路線旅客数順位が東 京・福岡線に次ぐ第3位,1981∼92 年度までは第6位,その後は急速に順位が低下,2001・02・03 年度は 伊丹・関西空港発着路線旅客数合計順位は第 11 位となった。伊丹・関西発着の分散化・便数減少,他の 交通機関との競争激化によるもので,対抗処置として 2003 年11 月DHC−8−Q400機を伊丹便に導入 し多便化を図ることとした(ジェット便枠を他の路線に振り向ける狙いもある)。2003 年 10 月ダイヤではい ずれもジェット便で関西便2便・伊丹便5便計7便であったのが,2003 年度末では,伊丹便エアーニッポ ン2便・エアーニッポンネットワーク9便の計11 便,関西便エアーニッポン1便の総計12 便となった。2004 年3月で関西便を休止として伊丹便に集約,2004 年4月DHC−8−Q400機で伊丹便 14 便と短期間で 便数が倍増した。かつての 23 便にはおよばないが,14 便は伊丹発着ローカル路線では最多,幹線を含 めても,東京線に次ぐ便数である。しかし,1980 年代以降では,1995 年度の 89 万人をピークに減少傾向 は継続,2004 年度はついに 50 万人を割り込んで 49 万人にまで減少した。これはいかに多便化しても, 需要の多い時間帯についてみれば,コミューター機では需要に対応しきれず,鉄道や高速バスへの転 化を招いていること,また高知空港のアクセスの不便さもある。2005 年度当初も 14 便が運航されている。 高松線は,1955 年極東航空開設(DHダブ機就航),1961 年F27機就航,1967 年YS化,1969 年1日 11 便に増便,1972 年全便YS化(F27機高松線引退)された。1988 年瀬戸大橋開通でJR利用による大阪 ∼高松間所要時間が2時間となって航空旅客が急減,1989 年高松空港移転でアクセス時間が延びてし まった。1990 年エアーニッポンに移管,1994 年関西便開設(B737機就航),1995 年阪神淡路大震災に よる山陽新幹線不通の影響でこの年度(1994 年度)のみ増加に転じたが,1996 年伊丹便全便ジェット化 (A320機・B737機就航,YS機高松線引退)で便数が大幅に減少,1998 年明石海峡大橋開通で航空旅 客が減少して伊丹便が休止,2002 年関西便も休止,大阪からの高松線はなくなった。 - 26 - 徳島線は,1957 年日本観光飛行協会(1958 年日東航空に)堺∼徳島線開設(グラマンマラード水陸両 用機就航),1960 年堺を伊丹発着に変更,1963 年CV240機就航,1966 年YS化,1972 年阪急内海汽船 神戸∼徳島間水中翼船就航で若干影響を受けた。1975 年1日 11 便に増便,1977 年度約 46 万人となっ たが,1978 年徳島高速船大阪∼徳島間開設で影響を受けて以後は微減が継続した。1991 年ジェット化 (MD−81機就航),1992年日本エアーコミューターに一部移管,1998年明石海峡大橋開通の影響で航 空旅客が急減,1999 年日本エアーコミューターに全面移管されてジェット便は消滅・サーブ機就航, 2000 年伊丹便の一部を関西便に振り替えたが同年中に休止,2002 年伊丹便も休止,大阪からの徳島線 はなくなった。もっとも,当時の大阪線は徳島空港発着路線中では東京線に次ぐ旅客数であり,他の路 線(名古屋・福岡・千歳線)よりも多いにもかかわらずの休止となった。1999 年日本地理学会秋季学術大 会が徳島で開催され,筆者は関西空港からの地方路線の低迷,特に大阪線の便数を減じて関西線を開 設した場合の利便性低下による航空旅客減,場合によっては関西線のみならず大阪線自体も休止・廃止 を余儀なくされることを報告した。その報告後の 2000 年6月に関西線が開設されて大阪線が減便され, 同年11月には関西線の利用率低迷で休止(大阪線は4便のまま),2001年4月に3便に減便され,予想さ れたとおり 2002 年に休止となった。瀬戸大橋の開通による影響をうけた大阪∼高松線が,関西∼高松線 のみとし,ジェット便で朝夕2便の日帰りビジネス客に絞った運航で維持されていたのに対して,反対に, ジェット便を廃止,小型化で便数維持を目指したことが裏目に出たと指摘でき,高松線よりも早く休止とな った。 新居浜線は,1959 年日東航空堺∼新居浜線開設(グラマンマラード水陸両用機就航),1960 年堺を伊 丹発着に変更,1962 年別府延航(1964 年まで),1965 年休止となるまで水陸両用機が使用された。 白浜線は,1955 年日本観光飛行協会堺∼白浜線開設(グラマンマラード水陸両用機就航),1960 年堺 を伊丹発着に変更・串本∼志摩∼名古屋延航と紀伊半島一周路線を開設(1964 年まで),1960 年代前半 の最盛期には1日3往復で一度に三機編隊で飛ぶこともあり,1965 年休止となるまで水陸両用機が使用 された。1968 年南紀白浜空港開港・1968 年度の 1969 年3月日本国内航空開設(YS機就航),1970 年度 4万1千人をピークに以後は減少し,1975 年休止された。 ⑤名古屋・中部∼中国・四国路線 第8図は,名古屋・中部∼中国・四国線の旅客数推移を示したもので,白浜(南紀白浜)線を含めた。な お,広島・広島西・岡山・宇部(山口宇部)の山陽方面と,石見は定期路線(1995 年阪神淡路大震災直後 に全日本空輸が岡山・広島線の臨時路線開設運航はあった)が開設されていない。 松山線は,1971 年全日本空輸開設(F27機就航)・YS化(2便中1便),1973 年全便YS化(松山線F27 機引退),1974 年ジェット化(B737機就航・YS機松山線引退)されて順調に増加,1979 年2便に増便さ れて過去最高の 12 万人となった。しかし,1980 年に速達タイプ「ひかり」の運転開始(名古屋∼広島間新 幹線利用・広島∼松山間水中翼船利用の利便性向上)の影響を受けて 1980 年度以降は減少に転じ, 1983 年度は高知線を下回った。1988 年瀬戸大橋開通・特急「しおかぜ」岡山∼松山・宇和島間運転開始 の影響を受けて 1988 年度は6万人まで減少,1990 年B767機就航,1991 年A320機就航,1993 年JR新 - 27 - 人 1,000,000 松山 高知 100,000 徳島 米子 出雲 鳥取 高松 10,000 白浜 1,000 19 51 55 59 63 67 71 75 79 83 87 91 95 99 2003 年度 第8図 名古屋∼中国・四国路線旅客数の推移 幹線「のぞみ」東京∼博多間毎時1本運転開始と「しおかぜ」の全面スピードアップの影響を受けた。この ように,鉄道側の利便性向上の影響を受けるのは,航空側の便数の少なさによる利便性の低さが原因で あった。1995 年2便に増便,1995 年度は 13 万人となって高知線を上回った。しかし,1996 年度の約 15 万人をピークに減少に転じ,2001 年1便に減便,2001 年度は約8万人と大幅に減少した。2002 年中日本 エアラインサービス開設(F50機就航・A320機引退)・3便に増便(同年末4便)となって旅客数が減少か ら上昇に転じ,2003 年度は 10 万人台に持ち直して,2004 年ジェイエア開設(CRJ機就航・2便)で,よう やく鉄道に対抗できる便数の利便性となった。2005 年エアーセントラル(中日本エアラインサービスより 社名変更)中部便開設(中部空港開港による)・DHC−8−Q400機就航(4便中3便),2003 年度末では 中日本エアラインサービス4便が,2005 年度当初では中部便4便・小牧便3便と愛知県の両空港から運航 されている。 高知線は,1978 年東亜国内航空開設(YS機就航),1979 年3便に増便,1983 年ジェット化(DC9−41 機就航・2便中1便)されて 1983 年度松山線を上回り,1985 年全便ジェット化(YS機高知線引退),1987 年度 10 万人を越え,1994 年MD−81機就航(2便中1便),1995 年度は松山線を下回ったが,複数便を 維持したため,松山線のような新幹線のスピードアップや瀬戸大橋開通の影響が少なく,堅調な旅客数 であった。しかし,1998 年の明石海峡大橋開通と後述する名古屋∼徳島線開設の影響,高知空港のアク セスの不便さ,特に 1998 年4月から減便1便化によって利便性が低下し,1998 年度は前年比半減と大幅 に旅客数が減少した。1998 年ジェイエア開設(J31機就航),1999 年日本エアーコミューター開設(サー ブ機就航・コミューターのダブルトラック化)となり,2000 年日本エアシステム高知線休止(MD−90機高 知線引退・ジェット便消滅),2001 年ジェイエアCRJ機就航(J31機高知線引退)して旅客数は持ち直した が,2002 年日本エアーコミューター高知線休止,2004 年度は5万人を割り込んだ。2003 年度末ではジェ - 28 - イエア3便が,2005 年度当初では小牧便2便が運航されている。 高松線は,1966 年全日本空輸開設(F27機就航),1968 年休止。1991 年中日本エアラインサービス開 設(F50機就航・冬季運航・米子線を振替運航),1992 年再開・通年運航・2便に増便,2002 年休止され た。 徳島線は,1996 年中日本エアラインサービス開設(F50機就航・冬季休航),1997 年2便に増便, 2003 年度末では中日本エアラインサービス2便が,2005 年度当初では中部便2便が運航されている。 米子線は,1991 年中日本エアラインサービス開設(F50機就航・冬季休航・高松線に振替運航),1992 年再開・通年運航,2003 年度末では中日本エアラインサービス1便が運航され,2005 年2便に増便・ジェ ット化(A320就航),2005 年度当初では中部便2便が運航されている。 隠岐線は,1994 年中日本エアラインサービス開設(F50機就航・期間限定運航 10 月8日∼11 月8日ま で)された。 出雲線は,1997 年日本エアーコミューター開設(サーブ機就航),2002 年休止・ジェイエア開設(CRJ 機就航)。2003 年度末ではジェイエア2便が運航されていたが,2004 年休止された。 鳥取線は,2001 年中日本エアラインサービス開設(F50機就航),2002 年休止,2003 年再開,2003 年 度末では中日本エアラインサービス1便が,2005 年度当初では中部便1便が運航されている。 白浜線は,1960 年日東航空大阪∼白浜∼串本∼志摩∼名古屋線開設(グラマンマラード水陸両用機 就航),1964 年休止された。旅客は,夏季と年末年始にやや多かった程度で年間千人を越えることはなく, 図中には表示されない。1969 年全日本空輸開設(YS機就航),1971 年に定期運航路線となった。航空 運賃が相対的に高い時代にあっては,「飛行機で行く」手頃な観光地として人気があったが,1971 年 12 月には1便に減便され,1972 年からの沖縄観光の本格的開始,1975 年の沖縄海洋博開催の影響を受け て低迷し,ジェット化されることなく,1988 年休止となった。 ⑥那覇∼中国・四国路線 第9図は,沖縄∼中国・四国線の旅客数推移を示したもので,山陰の鳥取・米子・石見と,四国の徳島 は沖縄線が開設されていない。沖縄海洋博覧会時の期間限定を除き,1986 年以降の開設と比較的新し い。しかし,中国・四国地方9県中5県(休止中を含めれば7県,チャーター運航実績も含めれば8県)に 路線が開設されて飽和状態となり,早くも成熟路線となった。広島線と岡山線は通年1日1便プラス多客 時増便,高松線は通年1日1便,松山線と高知線は週便,出雲線は冬季や5月を中心とした季節運航で, 旅客数規模に差が生じている。松山線や岡山線に代表される新規路線では,開設初年度及び2年目に おいては,「開設効果」から利用率が高いものの,3年目からは低迷・横ばい傾向となることが多い。また, 近接空港での那覇線開設や増便による利便性向上の影響といった空港間競争で旅客数が減少すること もある。 広島線は,1986 年全日本空輸開設(B767機就航),中国・四国地方初の沖縄定期直行路線,九州以 外のローカル線として仙台線に続く開設で,旧空港(現・広島西空港)時代の1990 年度に早くも旅客数 10 万人を越え,開設当初から安定した路線である。現空港移転後の 1995 年から秋季や冬季に2便化さ - 29 - 人 1,000,000 那覇∼広島 那覇∼高松 100,000 那覇∼岡山 那覇∼松山 那覇∼高知 那覇∼出雲 那覇∼宇部 10,000 石垣∼広島 1,000 1 951 55 59 63 67 71 75 79 83 87 91 95 99 2 003 年度 第9図 沖縄∼中国・四国路線旅客数の推移 れ,1999 年B777機就航による機材の大型化で旅客数が増加した。2003 年度末では1便が,2005 年度 当初では1便が運航されている。 岡山線は,1988 年南西航空開設(B737機就航),南西航空では松山線に続く2番目となる県外ジェッ ト路線開設で,岡山空港移転ジェット化によるジェット路線開設である。1988 年の瀬戸大橋開通による観 光ブームにより,1988 年度は広島線に近い旅客数を記録,1990 年から夏季(1990 年度は冬季も)に2便 化されたものの,広島線との較差は拡大している。1995 年度は,1996 年1月∼3月にわたる冬季の長期 増便により,旅客数が伸びた。その後は高松線開設の影響,広島線や大阪線との競合もあって低迷状態 であるが,1990 年代後半から修学旅行客等の団体客を積極的に集客して,四国各線よりは旅客数が多 い。2003 年度末では1便が,2005 年度当初では1便が運航されている。 高松線は,1993 年全日本空輸開設(B767機就航),当初は週便であったが,1994 年エアーニッポン 開設(全日本空輸より移管・A320機就航)・1日1便化・B737機就航,岡山に近接しているため,その影 響や類似動向を示す。2003 年度末では1便が,2005 年度当初では1便が運航されている。 松山線は,1975 年7月全日本空輸開設(B737機就航),沖縄海洋博覧会時に中国・四国地方唯一の 路線として開設,1976 年1月までの期間限定であった。松山線が唯一開設されたのは,当時において中 国・四国地方唯一のジェット化空港が松山空港であったことによる。その 10 年後,1986 年南西航空開設 (B737機就航),南西航空初の県外ジェット路線である。開設翌年の 1987 年は季節便が増便され,沖縄 から四国へ,そして四国から沖縄へと,相互の旅行社が団体旅行を企画して集客に努め,旅客が増加し た。しかし1988年度は前述の岡山線の影響を受けて減少,1995年度以降は修学旅行等の団体客を主た る目的とした単発的な増便を除いて季節増便はなくなって減少傾向となり,1998 年には週3便を高知線 開設に振り替えて週便化され,減少率が増している。2003 年度末では週4便が,2005 年度当初では週4 便が運航されている。 - 30 - 高知線は,1998 年日本トランスオーシャン航空開設(B737機就航),最初から週便で開設されたが, 開設3年目(通年運航2年目)から横ばいである。2003 年度末では週3便が,2005 年度当初では週3便が 運航されている。 出雲線は,1997 年日本エアシステム開設(MD−90機就航・週3便),旅客数が乱高下を示す。これは 年度で運航期が異なることや期間の長短の影響である。2003 年休止された。 山口宇部線は,1997 年全日本空輸開設(B767機就航・週3便),1998 年休止された。やはり,山口県 南端部に空港があるという不利な立地条件,近接した広島や福岡空港発着那覇線の利便性の高さが影 響している。 ⑦九州∼中国路線 第10 図は,九州∼中国路線の旅客数推移を示したもので,鳥取・隠岐・石見は九州線が開設されてい ない。これらは年間旅客数10万人以下のコミュータークラス路線で,現在(2005年度当初)ではすべて機 材がコミューター化されている。航空による時間短縮効果の大きい安定した業務客のある路線,すなわち, 福岡∼出雲線,鹿児島∼広島西・岡山線,宮崎∼広島西線が存続しているものの,新幹線を介在したJR や高速バスとの競合があり,休止された路線も多い。開設年別にみると,1960 年代までに開設されたの は,岩国・広島・宇部経由の九州路線や福岡・大分∼広島線で,1975 年の福岡∼広島線の休止により, 九州∼広島線は一時期なくなった。1970 年代後半から 1980 年代に開設されたのは,鹿児島∼広島・岡 山線,福岡∼米子・出雲線と大分∼広島線で,福岡∼米子線と大分∼広島線以外は存続,1990 年代に 開設されたのは,宮崎∼広島・岡山線と長崎∼広島線で,宮崎∼岡山線と長崎∼広島線以外は存続と, 山陽新幹線博多開業後の開設分についても,半分が存続しているに過ぎない。 鹿児島∼広島(広島西)線は,1977 年全日本空輸開設(YS機就航),1978 年2便に増便,1986 年日本 人 1,000,000 鹿児島∼広島 福岡∼出雲 鹿児島∼岡山 宮崎∼広島 福岡∼米子 宮崎∼岡山 長崎∼広島 福岡∼広島 大分∼広島 大分∼岩国 福岡∼岩国 北九州∼岩国 北九州∼広島 北九州∼宇部 100,000 10,000 1,000 1 951 55 59 63 67 71 75 79 83 87 91 95 第10図 九州∼中国路線旅客数の推移 - 31 - 99 200 3 年度 近距離航空に移管,1991年3便に増便された。1992年JR九州の在来線特急「つばめ」運転開始,1993年 東海道山陽新幹線「のぞみ」毎時1本運転開始,同年に広島での発着空港が現広島空港に移転して旅 客数が一時減少,1995 年ジェット化(B737機就航)・2便に減便された。1997 年ジェイエア開設(J31機就 航)1便,日本エアーコミューター開設(サーブ機就航)1便,いずれも市街地内空港発着である広島西線 で,広島線との合計で年間 10 万人を越え,1998 年広島西線が4便に一時増便,1999 年には広島線・広 島西線の合計で年間 12 万人を記録した。しかし,1999 年ジェイエア休止,広島西線は日本エアーコミュ ーターのサーブ機2便のみとなった。2001 年エアーニッポン休止で広島線がなくなり,広島西線のみと なって旅客数が大幅減少,同年ジェイエア広島西線再開(ジェット化・CRJ機就航),同年フェアリンク広 島西線開設(CRJ機就航),日本エアーコミューターの2便とあわせて広島西線は4便となった。同年フェ アリンク休止,日本エアーコミューター3便に増便,2002 年ジェイエア休止でジェット便(CRJ機)がなくな り,日本エアーコミューター4便に増便された。僅か 10 年の間に発着空港・就航機材・運航企業がめまぐ るしく変化,このことも旅客の航空離れにつながった。2004 年3月九州新幹線新八代∼鹿児島中央間開 業で,2004 年度は5万5千人に減少した。2003 年度末では,広島西線で日本エアーコミューターの4便 (サーブ機)が,2005 年当初で3便が運航されている。 福岡∼出雲線は,1984 年東亜国内航空開設(YS機就航),1994 年日本エアーコミューターに移管, 2001 年ジェイエア開設(J31機就航・2便),日本エアーコミューターの1便(YS機)とあわせて3便と利便 性が向上,旅客数が増加した。しかし,2003 年日本エアーコミューターはサーブ化(YS機引退),ジェイ エア休止,日本エアーコミューターは2便に増便となったものの,旅客数は減少した。2003 年度末では日 本エアーコミューター2便(サーブ機)が,2005 年当初でも2便が運航されている。 鹿児島∼岡山線は,1978 年東亜国内航空の鹿児島∼松山∼岡山線として開設(YS機就航),1980 年 東亜国内航空直行便開設(YS機就航),1992 年ジェット化(MD−81機就航)で旅客数増加,1994 年日 本エアーコミューターに移管(サーブ機就航・2便に増便),1996 年3便に増便,旅客数が一時増加した。 1997 年度4万6千人をピークに,以後減少傾向が継続し,2004 年度は3万人を割り込んだ。2003 年度末 では,日本エアーコミューター3便(サーブ機)が,2005 年当初で2便が運航されている。 宮崎∼広島線は,1993 年エアーニッポン開設(YS機就航),1995 年ジェット化(B737機就航・YS機 引退・山陽∼九州線からYS機引退)で旅客数が一時増加したものの,その後は減少傾向に転じた。2002 年ジェイエア宮崎∼広島西線開設(CRJ機就航),同年エアーニッポン広島線休止されて広島西線のみ となり,2003 年度は大幅に減少した。2003 年度末では,宮崎∼広島西線でジェイエア1便(CRJ機)が運 航されていたが,2005 年日本エアーコミューターに移管(サーブ機就航),2005 年当初で日本エアーコミ ューター1便が運航されている。 福岡∼米子線は,1971 年全日本空輸開設(F27機就航),1971 年休止された。1984 年東亜国内航空 再開(YS機就航),1994年日本エアーコミューターに移管,1996年週4便に減便(週3便を福岡∼白浜線 に振替),1998 年サーブ化(旅客数減少に対応),1999 年中日本エアラインサービスに移管(F50機就 航)された。2003 年度末では,中日本エアライン1便(F50機)が運航されていたが,2005 年休止された。 - 32 - 宮崎∼岡山線は,1997 年日本エアーコミューター開設(サーブ機就航),宮崎∼広島西線と同様に減 少傾向を示した。2003 年度末では日本エアーコミューター1便(サーブ機)が運航されていたが,2005 年 休止された。 長崎∼広島線は,1991 年ジェイエア開設(J31機就航),1996 年休止された。 福岡∼広島線は,1964 年東亜航空開設(YS機就航),1973 年には年間旅客数7万人を越えたが, 1975 年山陽新幹線岡山∼博多間開業で休止された。 大分∼広島線は,1962 年全日本空輸開設(DC−3機就航),1963 年東亜航空に移管(ヘロン機就航), 1972年休止された。1987 年朝日航空開設(バンディランテ機就航),1991 年ジェイエア移管(J31機就航), 1999 年休止された。 大分∼岩国線は,1957 年極東航空の大分∼岩国∼大阪線として開設(DHダブ機就航),1959 年休止 された。 福岡∼岩国線は,1954 年極東航空の福岡∼岩国∼大阪線として開設(DHダブ機就航),1957 年休止 された。 北九州∼岩国線は,1959 年全日本空輸の大阪∼岩国∼北九州線として開設(DHダブ機就航),1962 年休止された。 北九州∼広島線は,1962 年全日本空輸開設(DC−3機就航),1963 年東亜航空に移管(ヘロン機就 航),1964 年福岡∼広島線開設に伴い,休止された。 北九州∼宇部線は,1966 年全日本空輸の北九州∼宇部∼東京線として開設(F27機就航),1971 年 休止された。 ⑧九州∼四国路線 第 11 図は,九州∼四国路線の旅客数推移を示したもので,白浜(南紀白浜)線も含めている。福岡∼松 山線以外の路線は年間旅客数10万人以下のコミュータークラス路線で,航空による時間短縮効果の大き い安定した業務客のある路線が,コミュータークラス機やYS機で存続,九州離島路線とともにYS機の最 後の路線となっている。本四連絡橋開通による新幹線を介在したJRや高速バスとの競合もあり,休止され た路線も多い。開設年次別にみると,1970 年代前半までに開設されたのは,北九州・大分・宮崎∼松山と いった松山からの至近海越路線,福岡∼高松といった地方中心相互路線,鹿児島∼高知・徳島といった 鹿児島への経由便路線である。1970 年代後半から 1980 年代に開設されたのは,鹿児島∼松山,福岡∼ 高知,熊本∼高松といった従来からの交流は少ないが時間短縮効果の大きい路線である。1990 年代に 開設されたのは,福岡∼徳島,鹿児島∼高松,福岡∼白浜(南紀白浜)といった従来は大阪志向の強い 徳島・高松・白浜(南紀白浜)への九州路線である。 福岡∼松山線は,1966 年東亜航空が福岡∼北九州∼松山線として開設(YS機就航),1973 年直行便 開設(北九州経由便は休止),1974 年1日1便から2便に増便,1975 年ジェット化(DC9−41機就航)で 急増,1970 年代に年間 10 万人路線となった。1975 年山陽新幹線岡山∼博多間開業も,1976 年国鉄運 賃大幅値上げで影響が少なかった。しかし,1980 年東海道山陽新幹線速達タイプ「ひかり」設定によるス - 33 - 人 1,000,000 福岡∼松山 福岡∼高知 福岡∼徳島 鹿児島∼松山 鹿児島∼高松 宮崎∼高知 福岡∼高松 宮崎∼松山 福岡∼白浜 熊本∼高松 鹿児島∼高知 大分∼松山 北九州∼松山 100,000 10,000 1,000 19 51 55 59 63 67 71 75 79 83 87 91 95 99 2003 年度 第11図 九州∼四国路線(白浜含む)旅客数の推移 ピードアップもあって,1980 年代は横ばい傾向が継続,1986 年にようやく全便ジェット化された。1997 年 日本エアーコミューター(YS機・1便)とエアーニッポン(A320機・1便)が参入,1日4便と便数倍増によ り一時期旅客数増加したが,1999 年エアーニッポン休止で3便に減便,2000 年度以降は大きく減少した。 福岡∼松山の移動ルートは,広島経由での新幹線と高速船利用が便数の多さで利便性高く,1998 年に は北九州(門司)∼松山の高速船航路も開設され(フェリー航路は従来から運航),航空が必ずしも優位 な状況にはない。2003 年度末では,日本エアシステム2便・日本エアーコミューター1便の計3便が運航 されていたが,2004 年日本エアーコミューター便は休止となり,2005 年度当初では2便が運航されてい る。 福岡∼高知線は,1982 年東亜国内航空開設(YS機就航),1983 年2便に増便されて旅客数が増加, 1993 年ジェット化(DC9−41機就航)により旅客数がさらに増加した。1998 年1便に減便されて旅客数減 少,1999 年日本エアーコミューターに移管(サーブ機就航)・2便に増便,同年ジェイエアも開設(J31機 就航)されて利便性が向上し,旅客数は一時増加に転じた。2001 年ジェット化(CRJ機就航),2002 年ジェ イエア休止(ジェット便消滅)され,再び減少に転じた。2003 年度末では,日本エアーコミューター3便(Y S機2便・サーブ機1便)が,2005 年度当初は4便(YS機1便・サーブ機3便)運航されている。 福岡∼徳島線は,1994 年日本エアーコミューター開設(YS機就航),2001 年2便に増便されて旅客数 が増加,福岡∼高松線を上回った。2003 年度末では,日本エアーコミューター2便(YS機)が,2005 年 度当初では1便(YS機)が運航されている。 鹿児島∼松山線は,1978 年東亜国内航空鹿児島∼松山∼岡山線として開設(YS機就航),1980 年鹿 児島∼松山線を単独化・ジェット化(DC9−41機就航),1981 年YS化,1992 年日本エアーコミューター に移管(サーブ機就航),1993年2便に増便,1995年1便に減便された。2003年度末では,日本エアーコ - 34 - ミューター1便(サーブ機)が,2005 年度当初では1便が運航されている。 鹿児島∼高松線は,1996 年日本エアーコミューター開設(サーブ機就航),2003 年度末では,日本エ アーコミューター1便(サーブ機)が,2005 年度当初では1便が運航されている。 宮崎∼高知線は,1966 年全日本空輸の宮崎∼高知∼東京線として開設(バイカウント機就航),同年F 27機就航,1969 年YS化(バイカウント機引退),1991 年エアーニッポンに移管(YS機就航),1995 年ジ ェット化(B737機就航)で旅客数が増加,1998 年ジェイエアに移管(J31機就航),大幅な小型化で旅客 数が減少,1999 年2便に増便,2002 年再ジェット化(CRJ機就航・1便)された。2003 年度末では,ジェイ エア1便(CRJ機)が,2005 年度当初も1便が運航されている。 熊本∼松山線は,2004 年天草エアライン開設(DHC−8−100機就航),2005 年度当初で1便が運航 されている。 福岡∼高松線は,1968 年日本国内航空の福岡∼大分∼高松∼東京線として開設(YS機就航),1973 年東亜国内航空直行便開設(YS機就航),1977 年2便に増便されて旅客数が増加,1988 年瀬戸大橋開 通の影響で旅客数が減少,1989 年ジェット化(DC9−41機就航・2便中1便),1990 年全便ジェット化さ れて旅客数は持ち直したが,1991 年1便に減便,1993 年東海道山陽新幹線「のぞみ」毎時1本運転開始 の影響で旅客数が再度減少した。1996 年日本エアーコミューターに移管(サーブ機就航)・2便に増便, 1997 年2便ともYS化,1998 年1便がサーブ化,2003 年YS1便に減便後さらにサーブ化されて旅客数が 大幅に減少,2004年休止された。2003 年度末では日本エアーコミューター1便(サーブ機)が運航されて いた。 宮崎∼松山線は,1972 年東亜国内航空の宮崎∼松山∼岡山線として開設(YS機就航),1978 年宮崎 ∼松山線を単独化・ジェット化(DC9−41機就航)で旅客数が増加,1982 年YS化,1992 年日本エアー コミューターに移管(サーブ機就航)・小型化で旅客数が減少,その後も旅客数減少傾向が継続した。 2003 年度末では日本エアーコミューター1便(サーブ機)が運航されていたが,2005 年休止された。 福岡∼白浜線は,1996 年日本エアーコミューター開設(YS機就航・週3便),福岡∼米子線を週3便減 便しての開設であったが,1998 年休止された。 熊本∼高松線は,1979 年東亜国内航空開設(YS機就航),1990 年休止された。 鹿児島∼高知線は,1972年全日本空輸開設(YS機就航),1973年休止,1985年日本近距離航空再開 (YS機就航),1986 年休止された。 大分∼松山線は,1956 年極東航空開設(DHタブ機就航),1963 年東亜航空に移管(ヘロン機就航), 1967 年休止された。1987 年朝日航空再開(バンディランテ機就航),1991 年休止された。 北九州∼松山線は,1966 年東亜航空の福岡∼北九州∼松山線として開設(YS機就航),1973 年松山 ∼北九州線を単独化,1974 年休止された。 鹿児島∼徳島線は,1967 年日本国内航空の鹿児島∼徳島∼東京線として開設(YS機就航),1971 年 休止された。1997 年日本エアーコミューター再開(サーブ機就航),1998 年休止された。 なお,新居浜∼別府線は,1961 年 11 月日東航空が大阪∼新居浜∼別府線として開設(グラマンマラ - 35 - ード水陸両用機就航・季節運航),1964 年8月休止された。 ⑨東北・北陸∼中国・四国路線 第12図は,東北・北陸∼中国・四国路線の旅客数推移を示したもので,すべて1990年代の開設と新し く,16 路線も開設されたが,2005 年度以降は1路線(仙台∼広島線)に淘汰されている。 仙台∼広島線は,1992 年全日本空輸開設(A320機就航),2001 年フェアリンク仙台∼広島西線開設 (CRJ機就航)・同年中にフェアリンク仙台∼広島西線休止,2003 年エアーニッポンに移管(A320機就 航),2002・03 年度は減少傾向に転じ,2004 年度は 10 万人を割り込んだ。2003 年度末ではエアーニッポ ン1便が,2005 年度当初では2便が運航されている。 仙台∼岡山線は,1994 年日本エアシステム開設(DC9−81機就航),2003 年度末では日本エアシス テム週4便が運航されていたが,2005 年休止された。 仙台∼高松線は,1994 年日本エアシステム開設(DC9−81機就航),2003 年度末では日本エアシス テム週3便が運航されていたが,2005 年休止された。 仙台∼松山線は,1996 年全日本空輸開設(A320機就航),1999 年休止された。 青森∼広島線は,1996 年全日本空輸開設(A320機就航),開設3年目の 1998 年度以降は減少傾向 が継続,2002 年休止された。 小松∼広島西線は,1991 年ジェイエア開設(J31機就航),就航機材に対しての需要は高かったが,使 用機材の引退や,CRJ機に変更してもそれにみあう需要が望めないこと,ジェイエアの広島西からの撤 退も考慮されて,2002 年休止された。 新潟∼広島西線は,1994 年ジェイエア開設(J31機就航),2002 年CRJ機就航(J31機引退)で旅客数 が増加,2003 年度末ではジェイエア1便が運航されていたが,2005 年ジェイエアの広島西から撤退に伴 人 1,000,000 仙台∼広島 仙台∼岡山 仙台∼高松 仙台∼松山 新潟∼広島 青森∼広島 福島∼広島 富山∼広島 小松∼広島 小松∼出雲 小松∼松山 小松∼岡山 小松∼高松 松本∼広島 松本∼松山 松本∼高松 100,000 10,000 1,000 1951 55 59 63 67 71 75 79 83 87 91 95 99 第12図 東北・北陸∼中国・四国路線旅客数の推移 - 36 - 20 03 年度 い,休止された。 福島∼広島西線は,2001 年ジェイエア開設(CRJ機就航),需要の低迷で,2002 年休止された。 富山∼広島西線は,2000 年中日本エアラインサービス開設(F50機就航),2001 年休止された。 小松∼出雲線は,1996 年ジェイエア開設(J31機就航),2001 年休止された。 小松∼岡山線は,1996 年日本エアーコミューター開設(サーブ機就航),1998 年休止された。 小松∼松山線は,1997 年日本エアーコミューター開設(サーブ機就航),1999 年休止された。 小松∼高松線は,1997 年日本エアーコミューター開設(サーブ機就航),1999 年休止された。 松本∼広島線は,1995 年日本エアシステム開設(MD−87機就航),1997 年休止された。 松本∼松山線は,1997 年日本エアーコミューター開設(サーブ機就航),2001 年休止された。 松本∼高松線は,1998 年日本エアーコミューター開設(サーブ機就航),1999 年休止された。 ⑩北海道∼中国・四国路線 第 13 図は,北海道∼中国・四国路線の旅客数推移を示したもので,最初に開設された千歳∼広島線 でも 1985 年と新しく,他の路線は 1990 年代の開設である。修学旅行等の団体客の影響を強く受け,修学 旅行先が沖縄方面にシフトして減少傾向の路線がある。鳥取・石見は,北海道線が過去に開設されてい ない。また,季節運航・週便もあり,近年の休止もある。 千歳∼広島線は,1985 年度の 1986 年3月全日本空輸開設(B767機就航),1996 年日本エアシステム開 設(A300R機就航),冬季・夏季等の多客期にB747機を就航させて修学旅行等の団体客を集客,順調 な発展を遂げたが,2002 年度以降は減少傾向が継続している。2002 年ジェイエア千歳∼広島西線開設 (CRJ機就航・コミューター航空最長路線),2003 年ジェイエア千歳∼広島西線休止,2003 年度末では全 日本空輸1便・日本エアシステム1便の計2便が,2005 年度当初でも計2便が運航されている。 人 1,000,000 千歳∼広島 千歳∼岡山 千歳∼高松 千歳∼松山 千歳∼宇部 千歳∼徳島 千歳∼出雲 千歳∼高知 千歳∼米子 函館∼広島 女満別∼広島 100,000 10,000 1,000 195 1 55 59 63 67 71 75 79 83 87 91 95 99 第13図 北海道∼中国・四国路線旅客数の推移 - 37 - 200 3 年度 千歳∼岡山線は,1990 年全日本空輸開設(B767機就航),1997 年度大幅に増加,その後は横ばいに 転じたが,広島線と異なって高松線休止の影響で 2002 年度以降は再度増加に転じた。2003 年度末では 全日本空輸1便が,2005 年度当初でも1便が運航されている。 千歳∼高松線は,1990 年全日本空輸開設(B767機就航),1997 年度は増加,その後は横ばい傾向 が継続,2002 年休止,2004 年再開された。 千歳∼松山線は,1991 年全日本空輸開設(B767機就航),1990 年代半ばに増加から横ばい傾向が 継続,2003 年度は急減した。2003 年度末ではエアーニッポン1便が,2005 年度当初でも1便が運航され ている。 千歳∼宇部線は,1993 年全日本空輸開設(B767機就航),2002 年休止された。 千歳∼徳島線は,1996 年日本エアシステム開設(MD−87機就航),3年目から落ち込み,2001・02・ 03・04 年度の変動が大きい。 千歳∼出雲線は,1996 年日本エアシステム開設(MD−87機就航),運航期間の長短から旅客数が 大きく変わることがあるが,基本的には需要の限界から横ばい傾向である。2004 年度は7∼8月に週3便 が運航された。 千歳∼米子線は,1996 年エアーニッポン開設(A320機就航),急減傾向が継続し,1999 年休止され た。 千歳∼高知線は,1996 年エアーニッポン開設(A320機就航),需要が低迷,1997 年休止された。 函館∼広島線は,1996 年全日本空輸開設(A320機就航),急減傾向が継続したが,2001 年度は横ば いとなり,2002 年休止された。 女満別∼広島線は,1996 年日本エアシステム開設(MD−81機就航),需要が低迷,1997 年休止され た。 ⑪中国・四国内路線 第 14 図は,中国・四国内路線の旅客数推移を示したものである。かつては10以上の路線が開設され ていたが,2005 年度現在は出雲∼隠岐の離島路線1路線のみとなった。 出雲∼隠岐線は,1966年東亜航空開設(タウロン機就航),1968年YS機就航(夏季のみ),1969年YS 化(タウロン機引退),1982 年(1981 年度)通年運航化,1984 年競合航路に高速船「マリンスター」就航, 1985 年度は影響を受けて微減,その後は持ち直して 1992 年度は3万9千5百人と過去最高で4万人にあ と一歩まで迫った。しかし,1993 年高速船「レインボー」就航の影響で減少傾向に転じ,1994 年日本エア ーコミューター開設(日本エアシステムより移管),1995 年度は3万人を割り込み,2003 年サーブ化(YS 機引退)されて,2003 年度は1万5千人,2004 年度は1万2千人と,12 年間で3分の1まで落ち込んだ。 米子∼隠岐線は,1965年東亜航空開設(タウロン機就航),1968年YS機就航(夏季のみ),1969年YS 化(タウロン機引退),1984 年競合航路に高速船「マリンスター」就航,1985・86 年度は影響を受けて微減, その後は持ち直して 1992 年度は2万7千9百人と過去最高となった。しかし,1993 年高速船「レインボー」 就航の影響で減少傾向に転じ,1993 年度は2万人を割り込み,1994 年日本エアーコミューター開設(日 - 38 - 人 1,000,000 出雲∼隠岐 米子∼隠岐 広島∼松山 広島∼出雲 広島∼米子 広島∼鳥取 広島∼白浜 広島∼高知 広島∼岡山 岡山∼松山 高松∼松山 徳島∼高知 松山∼高知 広島∼岩国 広島∼防府 100,000 10,000 1,000 19 51 55 59 63 67 71 75 79 83 87 91 95 99 2003 年度 第14図 中国・四国内路線旅客数の推移 本エアシステムより移管),1998 年休止された。 広島∼松山線は,1961 年東亜航空開設(ヘロン機就航),1966 年に水中翼船が広島∼松山に所要時 間1時間 10 分で就航して影響を受け,1969 年YS化(ヘロン機引退),1971 年休止された。1987 年朝日 航空開設(バンディランテ機就航),1991 年ジェイエア開設(バンディランテ機就航・朝日航空より移管) 同年J31機就航(バンディランテ機引退),1999 年休止された。 広島∼出雲線は,1966 年東亜航空開設(CV240機就航),1967 年ヘロン機就航(CV240機引退), 1968 年休止された。1996 年ジェイエア広島西∼出雲線開設(J31機就航),2001 年休止。2002 年再開(J 31機就航),2003 年休止された。 広島∼米子線は,1963 年東亜航空開設(ヘロン機就航),1965 年CV240機就航,1965 年CV240機 運航終了・ヘロン機便のみに,1966 年CV240機就航,1967 年CV240機運航終了・ヘロン便のみに, 1969 年YS化(ヘロン機引退),1971 年休止された。 広島西∼鳥取線は,1996 年ジェイエア開設(J31機就航),2001 年休止された。 広島西∼白浜線は,1997 年ジェイエア開設(J31機就航),2001 年休止された。 広島西∼高知線は,1999 年ジェイエア開設(J31機就航),2003 年休止された。 広島∼岡山線は,1962 年全日本空輸東京∼岡山∼広島線として開設(F27機就航),1971 年休止さ れた。 岡山∼松山線は,1972 年東亜国内航空岡山∼松山∼宮崎線として開設(YS機就航),1978 年岡山∼ 松山∼鹿児島線開設(YS機就航)・岡山∼松山∼宮崎線休止,1980 年岡山∼松山線開設(YS機就 航)・岡山∼松山∼鹿児島線休止,1981 年休止,1983 年再開・休止された。 高松∼松山線は,1962年全日本空輸東京∼高松∼松山線として開設(F27機就航),1969年YS化(F - 39 - 27機引退),1971 年休止された。 徳島∼高知線は,1963 年日東航空大阪∼徳島∼高知線として開設(グラマンマラード機就航),同年 CV240機就航(グラマンマラード機引退),日本国内航空東京∼徳島∼高知線開設(大阪∼徳島∼高知 線休止),1965 年YS化(CV240機引退),1973 年休止された。 松山∼高知線は,1963 年東亜航空開設(ヘロン機就航),1967 年休止された。 広島∼岩国線は,1961 年全日本空輸開設(DC−3機就航),1964 年休止された。 広島∼防府線は,1963 年東亜航空開設(ヘロン機就航),1964 年休止された。 (3)中国・四国航空路の発達過程 航空路の発達は,需要動向やそのときの航空政策と各企業の戦略によるところが大きく,他の交通機 関の影響もある。また,山陽と山陰・四国の空港では発達過程がやや異なる。戦前期において前述の日 本航空輸送研究所による大阪∼四国間の路線があったが,以下では戦後期をみる。 第一期(1952∼64 年)は開設期・揺籃期で,非ジェット機(非YS機)による大阪線を中心とし,のちに東 京直行線を加えた路線開設が行われた。航空企業では日本航空の幹線岩国寄港もあったが,極東航 空・日ペリ航空(全日空),日東航空・富士航空(日本国内航空),東亜航空と,ブロック航空時代の多彩な航 空各社が,鉄道並行路線や山越え・海越え路線などのローカル路線を運航するのが中心であった。 第二期(1965∼78 年)はYS化(松山空港のジェット化)と路線再編期で,機材が充実し,企業もローカ ル路線の全日空と東亜国内の2社体制となり,YS化と短距離路線を中心とした休廃止や路線の再編,九 州路線の開設など路線充実もあったが,その一方で山陽新幹線開通による競合路線が休止され,第一 期に比べて路線の変化が見られた。すなわち,山陽地方の空港の相対的地位低下,四国・山陰地方の 空港の相対的地位上昇である。 第三期(1979∼90 年)は空港間及び路線間の差異拡大期で,全空港のジェット化(離島を除く)・大型 化(B767機・A300機就航)と初期都市間コミューター路線の開設期で,長距離新規及び既設路線の充 実が図られ始め,東京線のジェット化と東京線需要増顕著化,大阪空港ジェット枠制約で大阪線のYS機 の運航が残存継続し,山陰3空港・四国4空港では東京線と大阪線の旅客数順位が入れ替わった。松 山・広島・山口宇部・徳島空港の大型機就航,広島・松山・大分間相互のコミューター路線開設,東京∼ 広島・松山線のダブルトラック化,広島・松山・岡山からの那覇・千歳線開設が行われた。その一方で,瀬 戸大橋が開通し,高松空港の関連路線が特に影響を受けた。運航企業は全日本空輸と東亜国内航空 (日本エアシステム)の2社に,日本航空と,全日本空輸からの移管によるエアーニッポンの2社が参入し た。 第四期(1991∼2002 年)は多様化と競合激化期で,既設路線では日本航空のローカル線進出や日本 エアシステムの参入による東京線のトリプル化が行われ,運航企業は前述の4社に南西航空(日本トラン スオーシャン航空)や,日本エアシステムからの移管による日本エアーコミューターの参入,さらに中日 本エアラインサービス(現・エアーセントラル)とジェイエアも加わって,今日の多彩な航空企業のほとん - 40 - どがこの地域に路線を有し,第一期を上回る運航企業数となり,運航航空企業は再び複雑化した。路線 開設も,那覇線・千歳線の開設が引き続き行われるとともに,北陸・東北にも路線が開設された。他方,在 来線鉄道の高速化や高速道の開通により,鉄道や高速バスとの競合が激化した。特に,JR新幹線での 「のぞみ」毎時1本東京∼博多間運転開始によって山陽三空港が影響を受け,岡山∼松山・高知に振子 式特急列車の運転開始で時間短縮が行われたことにより,大阪∼松山・高知間の時間距離が3時間台と なり,前述の高松に引き続いて松山・高知も競合が懸念されるようになった。徳島も従来から大阪∼徳島 間の高速船との競合があったが,明石海峡大橋の開通で大阪・神戸から高速バスが頻繁に運行されるこ ととなって大阪∼徳島線が廃止されるとともに,徳島空港と大阪(伊丹)空港との競合が懸念されるなど, 大きな影響を受けた。新規に石見空港が開港したものの,既に他の交通機関が発達して航空の優位性 が明確化できず,開港最初から苦戦状態である。九州・沖縄や北海道路線の充実と関西空港への路線も 開設されたが,その後は関西空港への多くの路線は休廃止となった。 第五期(2003 年∼)は二極化と統合整理期で,東京線とそれ以外の路線の格差が拡大し,航空企業は 日本航空グループと全日本空輸グループに統合され,不採算路線の整理が進行し,ジェット機路線とコミ ューター路線の区分が明確化した。 以上から,中国・四国の航空路の発達過程は,①大阪線開設→②東京線開設→③YS化→④ジェット 化→⑤名古屋線開設→⑥九州線開設→⑦東京線ダブルトラック化→⑧那覇線開設→⑨東京線等大型 化→⑩大阪線ダブルトラック化→⑪中国・四国・九州間のコミューター路線開設→⑫東京線トリプルトラッ ク化→⑬千歳線開設→⑭中国・四国・九州間のコミューター化→⑮東北(仙台等)・北陸(小松等)方面線開 設となっている。 Ⅳ.九州・四国各路線の動向 (1)最近の旅客数増減 ①空港旅客数の増減 近年5年間(1998∼2003 年度)の増加空港では,岡山(増加率 117.2%,以下同様)・宇部(40.6%)・白 浜(20.4%)・広島(17.6%)・但馬(10.1%)と,10%以上は山陽地方3空港と近畿地方だがここに含めた白 浜・但馬の2空港である。10%未満の増加空港は,出雲(6.3%)・鳥取(1%)の山陰地方2空港で,1県2 空港の県庁所在地に近い空港が増加空港である。 近年5年間(1998∼2003 年度)の減少空港では,高松(減少率3%,以下同様)・松山(6%)・広島西 (8.7%)・徳島(8.8%)・米子(9.2%)と,10%未満は四国地方3空港とコミューター空港の広島西,山陰1 県2空港の県庁以所在地ではない米子である。10%以上の減少空港は,高知(12.1%)・隠岐(26.1%)・ 石見(39.8%)と,中国・四国地方で遠隔性の高い空港である。 これら空港旅客数の増減は,四国においては 1998 年の明石海峡大橋開通による航空旅客の減少とい う影響もあったが,増加空港に見るごとく,旅客流動の活発な地域が他の交通機関とともに,多くの旅客 - 41 - を輸送することとなっている。反対に,減少空港に見るごとく,旅客流動の不活発な地域が他の交通機関 とともに,旅客数を減少させている。空港旅客数にあっては,競合の問題のみならず,地域の産業活動・ 観光振興等の動向が,大きな影響を与える。その点からすれば,四国の中で特に高い高知空港は,要注 意ということになる。「ハードからソフトへ」といわれて久しいが,高知県では特にこの点が考慮されるべき であろう。 ②路線旅客数の増減(2005 年度運航路線) 近年5年間(1999∼2004 年度)の増加路線(通年運航路線)では,東京∼岡山線(増加率 155.7%,以 下同様)・東京∼宇部線(47%)・名古屋∼出雲線(42.8%)・福岡∼出雲線(40.5%)・千歳∼岡山線 (40.5%)と,40%以上は岡山・宇部・出雲発着路線である。40%未満 20%以上では,福岡∼徳島線 (37.9%)・那覇∼高松線(32.1%)・大阪∼但馬線(20.2%)と,開設の歴史が新しい路線で,ようやく旅客 数を増加させてきている。20%未満 10%以上では,東京∼広島線(18.7%)・東京∼松山線(14%)・東京 ∼鳥取線(11.7%)・那覇∼岡山線(11.6%)・東京∼高松線(10.7%)と,東京線を中心とした需要が旺盛 で比較的規模の大きい安定成長路線である。10%未満では,東京∼白浜線(8.2%)・東京∼米子線 (7.8%)・東京∼出雲線(6.9%)・那覇∼松山線(6.6%)・東京∼徳島線(6.5%)・名古屋∼米子線 (5.5%)・東京∼高知線(3.7%)・那覇∼高知線(1.6%)と,東京・那覇線を中心とした需要が定着している 比較的規模の小さい安定成長路線である。 近年5年間(1999∼2004 年度)の減少路線(通年運航路線)では,那覇∼広島線(減少率 6.8%,以下 同様)・大阪∼隠岐線(7.1%)・大阪∼出雲線(8.2%)・鹿児島∼高松線(8.4%)と,10%未満は,需要の 定着はあるものの,他の空港との競合や他の交通機関との競合が懸念される路線である。20%未満10% 以上では,名古屋∼徳島線(10.8%)・名古屋∼松山線(11.6%)・鹿児島∼松山線(12.3%)・名古屋∼高 知線(13.7%)・福岡∼高知線(15.3%)・鹿児島∼岡山線(15.4%)・宮崎∼高知線(18.6%)と,名古屋や 九州との路線で,他の空港との競合や他の交通機関との競合が激しくないものの,需要そのものが減退 している路線である。40%未満 20%以上では,宮崎∼岡山線(22.4%)・仙台∼広島線(25.3%)・大阪 (関西)∼松山線(27.2%)・大阪∼石見線(29.7%)・福岡∼松山線(30%)・千歳∼広島線(30.3%)・宮崎 ∼松山線(34.4%)・福岡∼米子線(34.9%)・千歳∼松山線(37.2%)・大阪∼高知線(37.9%)と,大阪・福 岡発着路線で他の交通機関との競合が特に激しい路線,千歳・仙台や宮崎路線で需要が大きく減退して いる路線である。40%以上は,東京∼石見線(45.3%)・出雲∼隠岐線(46.4%)・鹿児島∼広島西線 (54.7%)・宮崎∼広島線(61.3%)と,需要の減退が著しい路線で,高速船就航や新幹線開通の影響を 強く受けた路線もあり,今後の路線存続が危ぶまれる路線でもある。 これら路線旅客数の増減は,方面別では,東京線では石見以外は増加,那覇線では広島以外は増加 と東京・那覇線が東京一極集中と沖縄への修学旅行等の団体客輸送で好調に対して,名古屋線では山 陰は増加・四国は減少と明暗が分かれ,大阪線では但馬以外は減少,九州線では出雲・徳島以外は減 少,千歳・仙台線では岡山以外は減少と,他の交通機関との競合が激しい大阪・九州や,旅客流動が低 下している東北・北海道で低調である。発着空港別では,岡山は九州線以外では増加,出雲は大阪線以 - 42 - 外では増加,米子は九州線以外では増加と岡山・山陰の空港発着が空港間競争の影響が少なくて好調 に対して,徳島は東京と福岡は増加・名古屋は減少,高知は東京と那覇は増加・名古屋と九州は減少と 徳島・高知は明暗が分かれ,広島は東京線以外では減少,松山は東京・那覇線以外は減少,高松は東 京・那覇線以外は減少と,空港間競争が激しい空港や他の交通機関との競合が激しい空港で低調であ る。 (2)空路分担率と対人口率 ①空路分担率 『旅客地域流動調査』8)によると,山陽での山陽外との旅客流動での空路分担率(航空路線がある地 域)は,北海道99%,東東北43%,南関東41%,沖縄100%が比較的高い。山陰での山陰外との旅客流 動での空路分担率(航空路線がある地域)は,南関東 72%,沖縄 100%が比較的高い。四国での四国外 との旅客流動での空路分担率(航空路線がある地域)は,北海道 100%,東東北 59%,南関東 84%,北 九州 19%,沖縄 100%が比較的高い。また,これを公共交通機関(航空・JR・乗合バス)に限定してみると, 山陽と南関東では航空 50%・JR48%・乗合バス2%と航空とJRがほぼ互角,山陰と南関東では航空 67%・JR11%・乗合バス5%と航空優勢,山陰と東海では航空19%・JR81%とJR優勢,山陰と阪神では航 空 10%・JR53%・乗合バス 37%と乗合バスが健闘している。四国と南関東では航空 86%・JR10%・乗合 バス 4%と航空優勢,四国と東海では航空 33%・JR61%・乗合バス6%とJR優勢,四国と阪神では航空 25%・JR27%・乗合バス 48%と乗合バスが健闘している。このように,山陰と四国で類似した傾向が読み 取れる。さらに,四国の各県と東京・愛知・大阪の都府県でみると,徳島と東京では航空 91%・JR2%・乗 合バス7%と航空優位,徳島と愛知では航空 65%・JR12%・乗合バス 23%と航空優位で乗合バス健闘, 徳島と大阪では航空0%・JR2%・乗合バス 98%と乗合バス優位,香川と東京では航空 85%・JR13%・乗 合バス2%と航空優位,香川と愛知では航空8%・JR86%・乗合バス6%とJR優位,香川と大阪では航空 3%・JR55%・乗合バス 42%とJRに乗合バスが迫っており,愛媛と東京では航空 89%・JR7%・乗合バス 4%と航空優位だが通常でJRの直通列車がないことを考慮するとJRの比率は高く,愛媛と愛知では航空 53%・JR42%・乗合バス4%とJRの比率が比較的高く,愛媛と大阪では航空 62%・JR28%・乗合バス 10%と航空優位でJRが健闘,高知と東京では航空 94%・JR3%・乗合バス3%と航空優位,高知と愛知で は航空66%・JR24%・乗合バス10%と航空優位でJRが健闘,高知と大阪では航空79%・JR11%・乗合バ ス 10%と航空優位,対東京や対愛知では高知・徳島と愛媛・香川に,対大阪では徳島・香川と愛媛・高知 に区分できる。 ②対人口率 航空旅客数は,人口数・観光客数・空路分担率・交流頻度等が関係していると考えられる。 空港別対人口率(2000 年空港旅客数÷2000 年国勢調査人口×100)を算出すると,広島 105%,愛媛 (松山)174%,高知223%,香川(高松)150%,徳島120%,岡山40%,山口(宇部)46%,島根(出雲・石 見)119%,鳥取(鳥取・米子)122%である。これらを3分類すると,四国・山陰(高知の 223%から島根の - 43 - 119%),広島(105%),山口・岡山(46%と 40%)で,空路分担率の高い四国と山陰,ビジネス客を中心と した交流頻度や利便性の高さから広域集客を示す広島,空路分担率の低さや近隣空港との競合によっ て集客が少なめの山口・岡山に区分できる。 東京線対人口率(2000 年東京線旅客数÷2000 年国勢調査人口×100)を算出すると,広島78%,愛媛 (松山)86%,高知 105%,香川(高松)114%,徳島 97%,岡山 26%,山口(宇部)45%,島根(出雲・石 見)79%,鳥取(鳥取・米子)112%である。これらを3分類すると,四国・山陰(香川の 114%から島根の 79%),広島(78%),山口・岡山(45%と 26%)で,空路分担率の高い四国と山陰,ビジネス客を中心とし た交流頻度や利便性の高さから広域集客を示す広島,空路分担率の低さや近隣空港との競合によって 集客が少なめの山口・岡山に区分できる。空港別対人口率と同様の傾向であるが,ビジネス客の多い中 心的商業都市の広島・高松・米子の比率が高いことは注目される。 方面別対人口率(2000 年中国・四国線旅客数÷2000 年国勢調査人口×100)を算出すると,沖縄が 29%と空路分担率・観光客数のいずれにおいても高いことが示され,特に沖縄∼広島において顕著で ある。後背地の設定範囲で差異も生じるが関東の 23%は,観光客数の多さや空路分担率の高さとともに, 中国・四国の東京志向の強さを示すものである。近畿の 11%は,関東に比べて空路分担率の低さが関 東より低くなる理由でもあるが,まだ近畿との交流頻度の高さや観光客数の多さを示している。東海の 3%は空路分担率の低さも反映しているが,関東・近畿に比べて低い交流頻度や観光客数の少なさは注 目すべき点である。北海道の12%は中国・四国からの観光客数が多くはないものの空路分担率は高いこ とを示し,東北では2%と低い交流頻度や観光客数の少なさがあり,北陸では石川が2%とまだ中国・四 国との交流頻度が比較的高い西日本型に対して,新潟と富山は1%未満と中国・四国との交流頻度が比 較的低い東日本型である。九州では,広島・岡山・島根・鳥取・徳島・香川が6∼2%と山陽新幹線による 空路分担率の低さが影響しているものの,愛媛と高知は 12∼11%と空路による時間短縮効果から比較的 高い空路分担率が反映されている。 対人口率は,航空旅客数における人口数の影響を取り除く効果もあり,その高低は空路分担率・交流 頻度・観光客数の影響が考えられる。従来から,中国・四国は進学・就職先として大阪を中心とした京阪 神方面との交流頻度が高く,高度経済成長以降には東京一極集中化による東京を中心とした関東との交 流頻度か高まっている。一方,東海や北陸,東北は比較的低い。近年,北海道や,特に沖縄への観光客 の増加があり,また仙台を中心とした東北との間で,ビジネス客とともに観光客数も増加している。 (3)季節波動 ①中国・四国各空港の空港波動型 2003 年度月別空港旅客数を季節別にまとめると,本稿で取り上げた中国・四国の 13 空港中9空港(鳥 取・米子・出雲・広島・山口宇部・徳島・高松・松山・高知)が秋増冬減型で,秋季と冬季の季節較差は最大 で出雲空港の 1.4 倍,最小は山口宇部と四国4空港の 1.2 倍で,季節較差はきわめて小さい。これは比較 的安定した気象状況,特に積雪や台風の影響が比較的少ないことが影響している。また,観光客が夏季 - 44 - に過度に集中することがなく,秋季に団体観光客等の来訪がみられて季節的に多くなり,春季には就職・ 進学等の移動で利用があり,比較的暖かいために冬季の観光客の落ち込みも少ないことによる。中国・ 四国の他の4空港(隠岐・石見・岡山・広島西)と但馬・南紀白浜空港は夏増冬減型で,夏季と冬季の季節 較差は最大で但馬空港の 1.8 倍,最小は岡山と広島西空港の 1.3 倍で,隠岐・石見・南紀白浜空港が 1.4 倍とやや季節較差が大きい。岡山空港以外は旅客数の規模が比較的小さく,観光客等の夏季集中の影 響を受ける。岡山空港は,近年,急速に旅客数を増加させたが,夏季の団体客誘致が旅客数増加につ ながるとともに,この急増パターンが他の旅客数規模の比較的大きい空港と異なる傾向を示し,夏季が最 多となっている。 さらに詳細に検討するために,最多月と最少月,およびその較差から,中国・四国 13 空港に但馬・南 紀白浜空港を加えた 15 空港を次のように分類した。最多月では,出雲と松山が 10 月以外はすべて8月 である。出雲と松山が,10 月に団体観光客を多く誘致していることを示している。最少月では,12 月が南 紀白浜・米子・隠岐と四国4空港の7空港,1月が鳥取・出雲・石見・広島・岡山の5空港,2月が但馬・広島 西・山口宇部の3空港で,すべて冬季である。その組み合わせから,大きくは8月増加と 10 月増加の2タ イプ,さらにそれぞれを減少月から細分して,5タイプに区分できる。8月増 12 月減型は南紀白浜・米子・ 隠岐・徳島・高松・高知の6空港,8月増1月減型は鳥取・石見・岡山・広島の4空港,8月増2月減型は但 馬・広島西・山口宇部の3空港,10 月増 12 月減型は松山の1空港,10 月増1月減型は出雲の1空港であ る。その格差では,1.3∼1.5 倍に 10 空港(徳島・高松・松山・高知・広島・鳥取・岡山・米子・出雲・山口宇 部)が含まれ,1.7∼1.8 倍が3空港(広島西・石見・南紀白浜),2.4∼2.5 倍が2空港(隠岐・但馬)とやはり 前述のように,旅客数の規模が比較的小さい空港ほど,観光客等の夏季集中の影響を受ける。 ②中国・四国路線の路線波動型(通年運航路線のみ・週便路線除く) 2003 年度月別路線旅客数を季節にまとめると,2005 年度運航の通年運航 42 路線(大阪・関西両発着 路線は1路線とした)は,秋増冬減型の21路線が5割を占め,ついで夏増冬減型の9路線が約2割を占め, 以下,春増冬減型の5路線,春増夏減型の2路線,夏増春減型の2路線,秋増春減型の1路線,夏増秋減 型の1路線,冬増春減型の1路線と,8タイプに区分される。その季節較差は,大阪∼隠岐線の 2.3 倍,仙 台∼広島線の 2.1 倍以外は2倍未満で,さらに大阪∼但馬線の 1.8 倍,名古屋∼鳥取線の 1.6 倍,千歳 ∼岡山線の 1.6 倍以外は,1.5 倍以下と小さい。 秋増冬減型の 21 路線は,東京線 12 路線中の 10 路線(鳥取・米子・出雲・石見・広島・山口宇部・徳島・ 高松・松山・高知),大阪線6路線中の四国2路線(松山・高知),名古屋線5路線中の四国3路線(徳島・松 山・高知),九州線 10 路線中の4路線(福岡∼松山,宮崎∼高知,鹿児島∼岡山・広島西),そして仙台 ∼広島線,那覇∼高知線である。この型は,通年で安定したビジネス客があるとともに,大都市からの観 光客が秋季に多くなる路線である。また,地方都市間路線の場合は,ビジネス路線で平日の多い秋季の 旅客数が多く,春季の就職・進学等の移動利用が比較的少ない路線でもある。 夏増冬減型の9路線は,東京線 12 路線中の2路線(南紀白浜・岡山),大阪線6路線中の山陰(島根・ 但馬)4路線(隠岐・出雲・石見・但馬),そして名古屋∼米子線,福岡∼出雲線,那覇∼松山線である。こ - 45 - の型は,夏季中心の観光路線,冬季の帰省客が比較的少ない路線である。 春増冬減型の5路線は,九州線10 路線中の3路線(福岡∼徳島・高知,鹿児島∼高松),そして名古屋 ∼鳥取線,那覇∼岡山線である。この型は,通年で安定したビジネス客があり,労働力供給や進学先で 春季には就職・進学等の移動で季節的に最も利用が多く,冬季に観光需要が落ちて利用が少なくなる。 春増夏減型の2路線は,鹿児島∼松山線,那覇∼高松線である。この型は,地方都市間ビジネス路線 であるとともに春季は転勤等の移動利用が比較的あり,長期休暇となる夏季にビジネス客・観光客・帰省 客の需要が少なくて利用が減少する。 夏増春減型の2路線は,千歳線(北海道線)の2路線(千歳∼広島・岡山)ともで,夏季と秋季に観光客 需要があり,通常は冬季に減少する観光客需要が,この路線ではスキー修学旅行等の団体観光客需要 により冬季の落ち込みが少なく,結果として春季の就職・進学等の移動利用が比較的少なくなる,いわば 北海道線タイプである。 秋増春減型の1路線は,那覇∼広島線で,夏季と秋季に観光客需要があり,通常は冬季に減少する観 光客需要が,この路線では冬季が比較的暖かいことによって,修学旅行等の団体観光客需要により冬季 の落ち込みが少なく,結果として春季の就職・進学等の移動利用が比較的少なくなる,いわば沖縄線タイ プである。 夏増秋減型の1路線は,宮崎∼広島西で,長期休暇となる夏季に観光客や帰省客の需要が多く,春季 は就職・進学等の移動利用があり,冬季も帰省利用があって,秋季が比較的少なくなるといった,観光・ 帰省の波動影響を受ける路線である。 冬増春減型の1路線は,出雲∼隠岐で,競合する高速船が冬季休航のために冬季の利用が多く,夏 季と秋季に観光客需要があり,結果として春季の就職・進学等の移動利用が比較的少なくなる,いわば 他の交通機関に左右される路線で,高速船が冬季も運航されれば,季節波動は変化する。 さらに詳細に検討するために,最多月と最少月,およびその較差から 42 路線を区分する。最多月では, 夏の7・8月が 27 路線(7月1路線・8月 26 路線)と約6割を占め,秋の 10・11 月が9路線(10 月4路線・11 月5路線)と約2割を占めて続き,春の3・4月が3路線(3月2路線・4月1路線),冬の2月は僅かに1路線 である。7・8月は観光客と帰省客で,10・11 月は観光客とビジネス客で,3・4月は転勤・就職・進学等の 移動利用で最多となる。一方,最少月では,冬の 12・1・2月が 29 路線(12 月6路線・1月 11 路線・2月 12 路線)と約7割を占め,梅雨の6月が8路線と約2割を占めて続き,秋の 10・11 月が2路線(10 月1路線・11 月1路線),春の4月が1路線と僅かである。12・1・2月や6月は観光客の落ち込みが大きく影響している。 かつては台風期の落ち込みも大きかったが,台風の襲来が減少していることと交通機関の発達によって 欠航等が減少,落ち込みは少なくなった。その格差では,かつては冬季休航であった大阪∼隠岐線が 4.4 倍ときわめて大きい。また,2.9∼2.0 の2倍台は 10 路線あり,大阪∼但馬・石見線,出雲∼隠岐線,名 古屋∼鳥取線,宮崎∼広島西・高知線といった旅客数規模の小さい山陰線や九州線,千歳∼岡山・広島 線や仙台∼広島線といった北海道や東北線,それに那覇∼松山線である。1.9∼1.5 倍は 15 路線あり, 那覇∼高知・高松・広島線,東京∼岡山・山口宇部・米子・出雲・石見・南紀白浜線,名古屋∼米子・徳島 - 46 - 線,福岡∼出雲・松山線,鹿児島∼松山・高松線である。1.4∼1.3 倍は 16 路線あり,那覇∼岡山線,東京 ∼広島・鳥取・松山・徳島・高松・高知線,大阪∼出雲・松山・高知線,名古屋∼松山・高知線,福岡∼高 知・徳島線,鹿児島∼広島西・岡山線である。1倍台における格差は,旅客数規模,路線開設期,ビジネ ス客と観光客の比率が影響している。 (4)中国・四国各空港発着路線の特色と問題点 ①中国・四国各空港発着路線数と便数<2005 年度通年運航路線のみ> 中国・四国13空港で,2空港以上に就航する路線は,東京線が離島の隠岐空港以外の 12 空港に路線 があり,次位は5空港となって大阪線(山陰3空港・四国2空港),名古屋(小牧)もしくは中部線(山陰(鳥 取県)2空港と四国3空港),那覇線(山陽2空港と四国3空港),4空港は福岡線(山陰1空港と四国3空港) と鹿児島線(山陽2空港と四国2空港),3空港は千歳線(山陽2空港と四国1空港),2空港は宮崎線(山陽 1空港と四国1空港)である。 中国・四国の各空港別では,松山空港が8路線(大阪と関西,名古屋と中部を分離すれば10 路線)と最 多であるが,千歳・熊本・鹿児島は1日1便,那覇は週4便と,約半分は1日1便以下である。次いで高知 空港の6路線が多い。これは,大阪・名古屋・九州路線の存続が路線数を多くしている。すなわち,本四 連絡橋の影響が比較的少なくて大阪線と名古屋線を存続させ,九四連絡橋の未開通が九州線を存続さ せている。広島空港は5路線,出雲空港は4路線,岡山空港も4路線だが半数の2路線は1日1便,徳島 空港は3路線,高松空港も3路線だが東京線以外の2路線は1日1便である。2路線は,米子・鳥取・石見・ 広島西・隠岐空港で,山口宇部空港は東京線のみの1路線である。ちなみに,南紀白浜空港は東京線の 1路線のみ,但馬空港も大阪(伊丹)線の1路線のみである。 ②中国・四国各空港発着路線利用による日帰り相互滞在時間<2005 年4月ダイヤ> 2005 年度運航の通年運航 42 路線(大阪・関西両発着路線及び名古屋・中部両発着路線は1路線とし た)中,5割強の 23 路線で相互に日帰り可能であり,1割強の5路線で一方のみ可能である。 広島発着路線では,東京から 12 時間 25 分・東京へは 10 時間 30 分,鹿児島から9時間 35 分・鹿児島 へは6時間40 分であるものの,千歳から日帰り不可・千歳へは3時間30 分,那覇から日帰り不可・那覇へ は8時間5分である。岡山発着路線では,東京から 11 時間5分・東京へは 10 時間 35 分,鹿児島から8時 間20分・鹿児島へは4時間50分であるものの,那覇から日帰り不可・那覇へは5時間である。山口宇部発 着路線では,東京から 11 時間5分・東京へは8時間 55 分である。徳島発着路線では,東京から 12 時間・ 東京へは 10 時間,中部から6時間25 分・中部へは3時間30 分,福岡から日帰り不可・福岡へは6時間10 分である。高松発着路線では,東京から9時間55 分・東京へは 10 時間である。高知発着路線では,大阪 から 11 時間 15 分・大阪へは 10 時間 45 分と大阪が長く,名古屋から 11 時間 10 分・名古屋へは9時間 30 分,福岡から 10 時間 30 分・福岡へは7時間 30 分,東京から8時間 50 分・東京へは 10 時間で,東京 以外が比較的長い。松山発着路線では,大阪から 11 時間 15 分・大阪へは 10 時間 20 分と大阪が最も長 く,東京から 10 時間 25 分・東京へは8時間 35 分,名古屋から 10 時間 20 分・名古屋へは7時間 35 分, - 47 - 福岡から8時間35 分・福岡へは6時間25 分である。出雲発着路線では,東京から9時間・東京へは9時間 10 分,大阪から9時間20 分・大阪へは6時間45 分,福岡から5時間40 分・福岡へは日帰り事実上不可で ある。米子発着路線では,東京から 11 時間 15 分・東京へは 10 時間 45 分,中部から9時間 15 分・中部 へは6時間である。鳥取発着路線では,東京から 11 時間 30 分・東京へは7時間 40 分である。南紀白浜 発着路線では,東京から9時間 10 分・東京へは5時間 40 分である。但馬発着路線では,大阪から8時間 55 分・大阪へは6時間 50 分である。 東京からは,広島 12 時間 25 分を最長に,以下,徳島 12 時間,鳥取 11 時間 30 分,米子 11 時間 15 分,岡山 11 時間5分,山口宇部 11 時間5分,松山 10 時間 25 分,高松9時間 55 分,南紀白浜9時間 10 分,出雲9時間,高知8時間 50 分と比較的長く,石見は日帰り不可である。東京へは,米子 10 時間 45 分 を最長に,以下,岡山 10 時間 35 分,広島 10 時間 30 分,徳島 10 時間,高松 10 時間,高知 10 時間,出 雲9時間 20 分,山口宇部8時間 55 分,松山8時間 35 分,鳥取7時間 40 分,南紀白浜5時間 40 分で東京 からよりも短く,特に鳥取・南紀白浜が8時間未満である。10 年前の 1995 年4月通月ダイヤと比較すると, 東京からは,広島11 時間50 分を最長に,以下,高知11 時間5分,徳島11 時間5分,岡山10 時間15 分, 出雲9時間 45 分,高松9時間 20 分,米子9時間 10 分,松山9時間5分,鳥取8時間 55 分,山口宇部8時 間5分,南紀白浜6時間 45 分で,多くは比較的十分な滞在時間があり,より一層の時間が確保され,特に 南紀白浜の増加が大きい。しかし,出雲は減少,高知も大きく減少している。東京へは,徳島9時間 55 分 を最長に,以下,高松9時間 50 分,高知9時間 45 分,広島9時間 25 分,松山9時間 20 分,山口宇部9時 間,岡山7時間 35 分,出雲6時間 35 分,鳥取6時間 55 分,米子5時間 20 分,南紀白浜2時間 30 分と, 全般的には増加し,特に米子と南紀白浜で大きく増加しているが,松山のように,一部に減少もある。 大阪からは,高知と松山の 11 時間 15 分を最長に,以下,出雲9時間 20 分,但馬8時間 55 分と比較的 長く,石見・隠岐は日帰り不可である。大阪へは,高知の 10 時間 45 分を最長に,以下,松山 10 時間 20 分,但馬6時間 50 分,出雲6時間 45 分と但馬・出雲で短くなり,鉄道との競合を考慮すると,改善が必要 で,石見・隠岐は日帰り不可である。10 年前の 1995 年4月通月ダイヤと比較すると,大阪(関西)からは, 高知 11 時間 35 分を最長に,以下,松山 11 時間 15 分,出雲8時間 55 分,大阪へは,高知 10 時間 30 分を最長に,以下,松山9時間 30 分,出雲5時間 20 分で,やはり出雲が短かった。なお,但馬はこの当 時1日1便で日帰り不可であった。 名古屋・中部からは,高知 11 時間 10 分を最長に,以下,松山 10 時間20 分,米子9時間 15 分,徳島6 時間 25 分と比較的長い。名古屋・中部へは,高知9時間 30 分を最長に,以下,松山7時間 35 分,米子6 時間,徳島3時間 30 分と全般に短くなり,特に徳島は改善が必要であろう。10 年前の 1995 年4月通月ダ イヤと比較すると,名古屋からは,高知8時間 45 分,松山7時間 55 分で,米子日帰り不可,徳島路線なし, 名古屋へは,高知5時間 20 分,松山4時間 40 分,米子日帰り不可,徳島路線なしと,大きく改善されてい る。名古屋企業の山陰・四国進出に伴う需要創造の効果が影響している。勿論,人的交流に航空が利用 され,企業進出には物流に重要な高速道路及び本四連絡橋開通の効果が大きい。 那覇からは,5空港とも日帰り不可で,那覇へは広島8時間5分,岡山5時間の2空港から日帰り可能で, - 48 - 他の3空港は日帰り不可である。観光需要が中心であることもあって,広島・岡山以外では,日帰りが考慮 されておらず,また那覇からは日帰りが考慮されておらず,日帰りが必要な場合は,福岡や大阪(伊丹) を利用することとなる。 千歳からは,3空港とも日帰り不可で,千歳へは広島3時間 30 分が唯一可能,他は日帰り不可である。 福岡からは,高知 10 時間 30 分,松山8時間 35 分,出雲5時間 40 分で,福岡へは,高知7時間 30 分, 松山6時間 25 分,出雲は日帰り事実上不可である。やはり,出雲については改善が求められる。 鹿児島∼広島西・岡山では,広島西から6時間 40 分,岡山から4時間 50 分に対して,広島西へは9時 間 35 分,岡山へは8時間 20 分と,鹿児島からの方が長い。10 年前の 1995 年4月通月ダイヤと比較する と,広島から6時間15分,岡山から4時間40分に対して,広島へは3時間35分,岡山へは8時間10分と, 鹿児島からの広島西への滞在時間が大幅に増加している。 ③中国・四国各空港のアクセス 中国・四国各空港のアクセスでは,広島空港の改善が求められる。前述したように,移転直後はJR東 海道山陽新幹線「のぞみ」の影響を受けて,東京線旅客数が大きく減少した。阪神淡路大震災による山 陽新幹線不通で,新幹線に転移した航空旅客が戻り,旺盛な東京線需要もあってその後は順調であるが, 東京線以外は横ばいもしくは減少傾向である。これも前述したように,広島空港へのアクセス時間とほぼ 同等の,新幹線利用による福岡空港の航空便が利便性高く,競合している。現在の旅客数規模から見て も,鉄道アクセスが求められる。広島空港と同様に,福岡空港の後背地となっているのが山口県で,山口 宇部空港は,通年運航路線は東京線のみとなった。山口県南部に位置することが,山口県内からのアク セスを不便にしており,空港への高速道路網整備が求められる。近くにJR宇部線があり,高速化と快速運 転でアクセスの改善は可能であるが,競合問題から,航空・鉄道相互に消極的であろう。広島と同じく,岡 山空港は,かつては東京線においてJR新幹線が圧倒的に優位であり,空港アクセスの問題を抱えてい た。しかしながら,大幅増便による利便性の向上と,高速道路を活用すれば,岡山県や山陽地方のみな らず,四国や山陰からといった広域の集客,特に団体客を空港まで貸し切りバスで集客することが可能な 位置という,マクロな視点での有利性があり,前述した季節波動の大きさの問題はあるものの,近年は多く の集客を実現している。しかしながら,新幹線側の攻勢,すなわち岡山始発の「のぞみ」を増加させてお り,また航空側が広域の集客力を低下させる,すなわち広島空港が広域の集客機能を強化した場合,影 響を受けるものと思われる。 山陰の空港では,出雲空港が高速道路開通によるアクセス所要時間短縮で山陰地方第1位の地位を 維持している。鳥取空港も比較的アクセスは良好である。改善を要するのは,前述したように石見空港で, 位置の問題と共に,高速道路の未整備の影響が大きい。米子空港は,鉄道・高速バス・他空港との競合と いった問題があり,僅かなアクセス時間問題も致命的となる。JR米子駅との所要時間約 30 分は,かつて は良好の部類に入ったが,競合時代にあっては短縮化が必要である。近くにJR境港線があり,高速化と 快速運転でアクセスの改善は可能であるが,競合問題から,航空・鉄道相互に消極的であろう。 四国の空港では,高知空港がアクセス問題から旅客数が伸び悩んでいる。やはり,鉄道アクセスを確 - 49 - 保する方策も視野に入れる必要があり,特に高知県西部方面とのアクセス改善が求められる。徳島空港 も同様の状況にあり,特に徳島県南部方面とのアクセス改善が求められる。高松空港は移転によりアクセ スが不便となったが,高松の経済的地位でそれを補っている。松山空港はかつてより松山市内とのアク セスが比較的良好で,アクセス道路の改善も行われ,旅客数・路線数ともにトップクラスを維持できること となった。しかしながら,大阪線に代表される競合の激化,広域集客による旅客数増加を目指すために は,より一層の改善が求められる。すなわち,確かに松山駅とのアクセスは極めて良好であるが,広域集 客のアクセス改善に課題がある。例えば,高速道路の空港乗り入れ,宇和島方面への高速道路延伸,空 港アクセスバスの路線充実等である。また,前述したように,伊予鉄道の路線を空港まで延伸することも 考慮すべきではないだろうか。伊予鉄松山市駅やJR松山駅を終点とするのではなく,それらを経由して 道後温泉行きが考えられる。情緒ある「路面列車」を設定,松山空港に到着,直接,道後温泉に向うという のは,観光的にも有意義と考えられる。同様のことは,前述のように,拙稿の「北海道の航空交通」で,函 館空港から,湯の川温泉に向うアクセスを提案している。また,JR四国線(予讃本線)と相互乗り入れして, 今治や宇和島方面からの直通列車運転も考えられる。 空港の当初の立地や,空港移転先の検討においては,今日に見られるような,他の交通機関の高速 化まで十分な考慮がされなかったことや東京一極集中志向の高まりが,東京線以外における不振の原因 ともなっている。航空交通が,点と点を結ぶ交通機関である以上,点と線の交通機関である鉄道,点と線 と面の交通機関であるバスや自家用車との連携が不可欠である。特に地方においては,従来は自家用 車を利用できる若年や中年の空港後背地居住者,あるいは空港からの貸し切りバスを利用する大都市か らの団体観光客が航空旅客の中心を占め,空港からの公共交通機関充実の切迫性は低かった。しかし, 他の交通機関との競合が激化する現状においては,地元住民の高齢化と大都市からの個人観光客増加 に対して,アクセスの改善は重要な活性化対策として必要である。その観点から,中国・四国各空港のア クセスにはまだ課題が多いと指摘できる。 Ⅴ.おわりに 中国・四国へは,航空交通の三眼である東京・名古屋・大阪から 300∼500km程度の路線が多くあって, 将来的にも鉄道や高速バスとの競争がより強まると考えられが,新幹線や在来線,高速バスと多くの競合 は,競合だけでなく,例えば航空便が運航されない夜間の夜行高速バスなど,補完相乗効果で需要の 増大と機能分担の事例も見ることができる。実際,山陽方面を中心として,東京線に見るごとく,競合の相 乗効果で双方ともに旅客数が増大している事例を見ることができる。また,名古屋・大阪∼山陰線や,名 古屋・大阪∼四国線,九州∼中国・四国線等,比較的短距離の海越えや山越え路線がこの地域を特徴 づける路線でもあり,そこからくる有利性と問題点もみることができる。コミューター航空,すなわち小型機 による頻発運航の有利性が発揮できる路線があること,その一方で観光を中心とした産業の停滞で需要 増大に限界があり,その結果,鉄道の高速化・高速道路や架橋による高速バスの頻発運転に対抗するの - 50 - が困難な側面もあって,近年,名古屋・大阪∼山陰線や,名古屋・大阪∼四国線,九州∼中国・四国線の 一部で休廃止が行われている。勿論,山陽地方は,新幹線利用により1時間台で到達できる大阪・福岡 両空港にはさまれて,千歳や那覇といった長距離路線では,利便性において太刀打ちできない問題点 もある。所要時間はかかるものの,高松や徳島からも,関西空港への空港バスが運行されている。 現在のところ,新幹線との競合が激しい山陽地方も含めて,東京線が好調であることによって,中国・四 国の航空交通は,順調な発展を示しているように見られる。しかしながら,東京線以外の路線状況には課 題が多い。また,筆者がかつて取り上げた,「沖縄の航空交通」「北海道の航空交通」「九州の航空交通」 と比べれば,観光客の占める比率が低く,「東京一極集中ビジネス路線」が比重として高い。このことは, 将来的には,「東京一極吸収」の側面がある。観光客の比率が低いことは,季節波動上は有利であるが, 大都市からの旅客が少ないことでもある。「東京一極吸収」によって,ビジネス機能の東京集中(東京吸収 <ストロー現象>)となり,やがては航空旅客の衰退を招くことも予想される。それを補うべく,観光客の増 加を目指して観光業を含む産業振興を,東京線が好調で便数が多く利便性が高い状況の現在の時点で, 取り組む必要性があろう。 本稿は,1995 年度日本地理学会秋季学術大会(於:岡山大学)における「山陽・四国の航空交通」と題 した報告と,1996 年度日本地理学会秋季学術大会(於:岐阜大学)における「北陸・山陰の航空交通」と題 した報告をもとに,他の航空交通の報告とその後の資料を加えてまとめたものである。 資料及び文献については,航空図書館・交通博物館図書室にお世話になった 注: 1)他の交通機関の文献としては,次のものがある。 青木栄一(1979):四国の鉄道網のあゆみ「鉄道ジャーナル」,152,106-115. 石原照敏(1979):本四架橋が及ぼす四国への影響について「地理」,24(4),48-56. 坂口良昭(1980):本四架橋と四国の道路網およびそのインパクト「地理」,25(12),41-50. 読売新聞社社会部(1988):『塗りかわる交通地図』中央書院. 藤目節夫(1988):本四架橋と四国の今後「地理」,33(3),19-26. 溝尾良隆(1991):地域変化を読む目 瀬戸大橋架橋「地理」,36(2),12-13. 伊東弘敦・今城光英(1993):四国の鉄道を語る「鉄道ピクトリアル」,574,10-16. 横山昭市(1994):『四国経済風土記』,大明堂. 関西汽船海上共済会編(1994):『関西汽船の船半世紀』,関西汽船海上共済会. 鶴 通孝(1996):スーパーやくも7号 出雲へ駆ける「鉄道ジャーナル」,30(1),20-29. 鈴木文彦(1996):地方から見た夜行列車と夜行バス「鉄道ジャーナル」,30(10),48-54. 鈴木文彦(1996):中国地方2社に見る高速バスの新潮流「鉄道ジャーナル」,30(11),132-133. 2)戦前期における航空交通については,下記の拙稿がある。 拙稿(1997):戦前期における日本の航空交通, - 51 - 「日本地理学会発表要旨集」日本地理学会,51,266-267. 戦前期における航空交通に関する文献としては下記がある。 小森郁雄(1965):日本航空史余話・14 堺飛行場一代記 「航空情報 1965 年2月号」,188,66-69. 毎日シリーズ出版編集(1979):『別冊一億人の昭和史 日本航空史』毎日新聞社. 航空情報編集部(1989):『航空情報別冊 昭和の航空史』酣燈社. 鶴田雅昭(1992):昭和初期の航空会社の事業展開をめぐって「大阪春秋」,69,44-50. 鈴木五郎(1993):『昭和の日本航空意外史』グリーンアロー出版社. 佐藤英達(1993):大阪の空港物語「大阪春秋」,71,105-109. 佐藤英達(1994):大浜飛行場をめぐる二○年「大阪春秋」,75,85-87. 3)拙稿(1999):東京からの国内航空交通「地理学報」大阪教育大学地理学教室,34,107-127. 拙稿(2001):名古屋からの国内航空交通「地理学報」大阪教育大学地理学教室,35,33-51. 拙稿(2005):大阪からの国内航空交通「地理学報」大阪教育大学地理学教室,36,印刷中. 拙稿(2002):沖縄の航空交通「大阪教育大学地理学会会報」大阪教育大学地理学会,43,8-59. 拙稿(2003):北海道の航空交通「大阪教育大学地理学会会報」大阪教育大学地理学会,45,9-36. 拙稿(2004):九州の航空交通「大阪教育大学地理学会会報」大阪教育大学地理学会,47,7-42. 4)上記3)で提示した以降における,「地理」誌上の航空交通動向の記事(投稿中を含む)は, 下記のとおりである。 拙稿(2005):松山空港「地理」古今書院,50(4),114. 拙稿(2005):米子空港と出雲空港「地理」古今書院,50,投稿中. 拙稿(2005):鳥取空港と石見空港「地理」古今書院,50,投稿中. 5)中国・四国(白浜含む)の航空交通を中心とした拙稿としては,上記4)以外,下記のものがある。 拙稿(1995):山陽・四国の航空交通「日本地理学会予稿集」日本地理学会,48,112-113. 拙稿(1996):北陸・山陰の航空交通「日本地理学会予稿集」日本地理学会,50,40-41. 拙稿(1998):日本の都市間コミューター航空 「日本地理学会発表要旨集」日本地理学会,54,246-247. 拙稿(1999):「しまなみ海道」全通に伴う交通変革「地理」古今書院,44(8),94-95. 拙稿(1999):中国・四国地方の航空動向「地理」古今書院,44(9),100-101. 拙稿(2000):各月別旅客数からみた日本の空港と航空路線 「日本地理学会発表要旨集」日本地理学会,57,432-433. 拙稿(2001):南紀白浜空港「地理」古今書院,46(4),106-107. 拙稿(2001):高速交通の競合と連携「日本地理学会発表要旨集」日本地理学会,60,26. 拙稿(2001):ジェイエア新展開「地理」古今書院,46(11),117-119. 拙稿(2002):徳島空港「地理」古今書院,47(5),109-111. - 52 - 拙稿(2002):徳島の高速船「地理」古今書院,47(6),111-112. 拙稿(2004):広島空港「地理」古今書院,49(7),110. 拙稿(2004):広島西飛行場「地理」古今書院,49(9),110. 6)中国・四国の航空交通に関する文献としては,過去の拙稿で紹介したもの以外に, 下記のものがある。 航空情報編集部(1961a):日本のローカル線4 大阪∼東四国ラインの巻 「航空情報 1961 年4月号」酣燈社,129,84-86. 航空情報編集部(1961b):日本のローカル線6 大阪∼米子線の巻 「航空情報 1961 年6月号」酣燈社,131,98-100. 航空情報編集部(1961c):日本のローカル線 10 大阪∼高知線の巻 「航空情報 1961 年 10 月号」酣燈社,136,98-100. 航空情報編集部(1961d):日本のローカル線 11 大阪∼広島線の巻 「航空情報 1961 年 11 月号」酣燈社,137,94-96. 航空情報編集部(1962a):日本のローカル線 14 広島∼松山線の巻 「航空情報 1962 年3月号」酣燈社,143,92-94. 航空情報編集部(1962b):日本のローカル線 15 大阪∼白浜線の巻 「航空情報 1962 年4月号」酣燈社,144,90-92. 航空情報編集部(1962c):日本のローカル線 16 大阪∼松山線の巻 「航空情報 1962 年5月号」酣燈社,145,92-94. 航空情報編集部(1962d):日本のローカル線その 22 広島∼小倉線の巻, 「航空情報 1962 年 11 月号」酣燈社,154,72-74. 航空情報編集部(1963a):日本のローカル線その 24 大阪∼新居浜∼別府線の巻, 「航空情報 1963 年2月号」酣燈社,158,84-86. 航空情報編集部(1963b):日本のローカル線その 26 岡山∼東京線の巻, 「航空情報 1963 年4月号」酣燈社,160,84-86. 航空情報編集部(1963c):日本のローカル線その 29 東京∼高松線の巻, 「航空情報 1963 年7月号」酣燈社,163,82-84. 航空情報編集部(1963d):日本のローカル線その 34 高松∼大分線の巻, 「航空情報 1963 年 12 月号」酣燈社,170,90-92. 航空情報編集部(1970):えあ・るーと 東京∼徳島∼鹿児島線 「航空情報 1970 年6月号」酣燈社,272,74-77. 航空情報編集部(1970):えあ・るーと 大阪∼山陰線 「航空情報 1970 年 12 月号」酣燈社,278,72-75. 航空情報編集部(1971):えあ・るーと 東京∼宇部∼北九州, - 53 - 「航空情報 1971 年 10 月号」酣燈社,290,80-82. 翼編集部(1981):ザ・エアポート 31 山口宇部空港,「翼」つばさ出版,185,130-132. 翼編集部(1985):THE AIRPORT 18 鳥取空港,「翼 1985 年 11 月号」つばさ出版,233,118-121. 翼編集部(1987):THE AIRPORT 32 岡山空港,「翼 1987 年2月号」つばさ出版,248,118-121. 翼編集部(1987):THE AIRPORT 37 松山空港,「翼 1987 年7月号」つばさ出版,253,118-121. 翼編集部(1987):THE AIRPORT 42 高松空港,「翼 1987 年 12 月号」つばさ出版,258,118-121. 翼編集部(1988):THE AIRPORT 43 宇部空港,「翼 1988 年1月号」つばさ出版,259,118-121. 翼編集部(1988):THE AIRPORT 47 岡山空港,「翼 1988 年5月号」つばさ出版,263,118-121. 翼編集部(1989):THE AIRPORT 55 徳島空港,「翼 1989 年1月号」つばさ出版,271,118-121. 国際空港ニュース社編集部(1985):鳥取空港ジェット化, 『AIRPORT REVIEW』,国際空港ニュース社,54,185-193. 国際空港ニュース社編集部(1987):100 万人空港へ躍進する広島空港, 『AIRPORT REVIEW』,国際空港ニュース社,61,37-51. 国際空港ニュース社編集部(1987a):南紀白浜空港, 『AIRPORT REVIEW』,国際空港ニュース社,63,78. 国際空港ニュース社編集部(1987b):鳥取空港, 『AIRPORT REVIEW』,国際空港ニュース社,63,79. 国際空港ニュース社編集部(1987c):美保(米子)空港, 『AIRPORT REVIEW』,国際空港ニュース社,63,80. 国際空港ニュース社編集部(1987d):隠岐空港, 『AIRPORT REVIEW』,国際空港ニュース社,63,81. 国際空港ニュース社編集部(1987e):出雲空港, 『AIRPORT REVIEW』,国際空港ニュース社,63,82. 国際空港ニュース社編集部(1987f):岡山空港, 『AIRPORT REVIEW』,国際空港ニュース社,63,83. 国際空港ニュース社編集部(1987g):広島空港, 『AIRPORT REVIEW』,国際空港ニュース社,63,84-85. 国際空港ニュース社編集部(1987h):山口宇部空港, 『AIRPORT REVIEW』,国際空港ニュース社,63,86. 国際空港ニュース社編集部(1987i):高松空港, 『AIRPORT REVIEW』,国際空港ニュース社,63,87. 国際空港ニュース社編集部(1987j):徳島空港, 『AIRPORT REVIEW』,国際空港ニュース社,63,88. 国際空港ニュース社編集部(1987k):松山空港, - 54 - 『AIRPORT REVIEW』,国際空港ニュース社,63,89-90. 国際空港ニュース社編集部(1987l):高知空港, 『AIRPORT REVIEW』,国際空港ニュース社,63,91-92. 国際空港ニュース社編集部(1988):新岡山空港3月 11 日開港, 『AIRPORT REVIEW』,国際空港ニュース社,64,44-55. 国際空港ニュース社編集部(1989):新高松空港 12 月 16 日開港, 『AIRPORT REVIEW』,国際空港ニュース社,71,12-104. 国際空港ニュース社編集部(1990):新広島空港建設工事の現況, 『AIRPORT REVIEW』,国際空港ニュース社,73,92-97. 国際空港ニュース社編集部(1990):石見空港の整備について, 『AIRPORT REVIEW』,国際空港ニュース社,73,109-112. 国際空港ニュース社編集部(1990):南紀白浜空港ジェット化整備, 『AIRPORT REVIEW』,国際空港ニュース社,73,122-126. 国際空港ニュース社編集部(1992):更に大型化進む 松山空港, 『AIRPORT REVIEW』,国際空港ニュース社,80,21-53. 国際空港ニュース社編集部(1993a):岡山空港2,500m滑走路完成, 『AIRPORT REVIEW』,国際空港ニュース社,84,95-112. 国際空港ニュース社編集部(1993b):島根県に空の新時代, 『AIRPORT REVIEW』,国際空港ニュース社,85,131-169. 国際空港ニュース社編集部(1993):新広島空港開港記念特集, 『AIRPORT REVIEW』,国際空港ニュース社,87,12-120. 国際空港ニュース社編集部(1993):広島西飛行場転用整備について 日本初のコミューター・小型専用飛行場, 『AIRPORT REVIEW』,国際空港ニュース社,87,131-137. 国際空港ニュース社編集部(1994):松山空港 国際化へテイクオフ, 『AIRPORT REVIEW』,国際空港ニュース社,91,96-116. 国際空港ニュース社編集部(1994):供用開始後1年を経過して 広島, 『AIRPORT REVIEW』,国際空港ニュース社,91,37-48. 国際空港ニュース社編集部(1996):新南紀白浜空港3月9日開港, 『AIRPORT REVIEW』,国際空港ニュース社,95,72-118. 国際空港ニュース社編集部(1996):米子空港の拡張整備進む, 『AIRPORT REVIEW』,国際空港ニュース社,96,84-107. 国際空港ニュース社編集部(1997a):南紀白浜空港, 『AIRPORT REVIEW』,国際空港ニュース社,100,453. - 55 - 国際空港ニュース社編集部(1997b):鳥取空港, 『AIRPORT REVIEW』,国際空港ニュース社,100,455. 国際空港ニュース社編集部(1997c):出雲空港, 『AIRPORT REVIEW』,国際空港ニュース社,100,456-457. 国際空港ニュース社編集部(1997d):米子空港, 『AIRPORT REVIEW』,国際空港ニュース社,100,458. 国際空港ニュース社編集部(1997e):石見空港, 『AIRPORT REVIEW』,国際空港ニュース社,100,459. 国際空港ニュース社編集部(1997f):岡山空港, 『AIRPORT REVIEW』,国際空港ニュース社,100,460-461. 国際空港ニュース社編集部(1997g):広島空港, 『AIRPORT REVIEW』,国際空港ニュース社,100,462-463. 国際空港ニュース社編集部(1997h):山口宇部空港, 『AIRPORT REVIEW』,国際空港ニュース社,100,464-465. 国際空港ニュース社編集部(1997i):高松空港, 『AIRPORT REVIEW』,国際空港ニュース社,100,466-467. 国際空港ニュース社編集部(1997j):徳島空港, 『AIRPORT REVIEW』,国際空港ニュース社,100,468-469. 国際空港ニュース社編集部(1997k):松山空港, 『AIRPORT REVIEW』,国際空港ニュース社,100,470-471. 国際空港ニュース社編集部(1997l):高知空港, 『AIRPORT REVIEW』,国際空港ニュース社,100,472-473. 国際空港ニュース社編集部(2000): 山口宇部空港大型化整備進む 新ターミナルビル3月 23 日オープン, 『AIRPORT REVIEW』,国際空港ニュース社,111,77-103. 松方峰雄(1994):J−AIRの現状と将来「コミュータービジネス研究」,33,1-14. 広島空港ビルディング編(1995):「航空ひろしま No.15」広島空港ビルディング,40p. 7)拙稿(1998):交通研究のための資料文献と図書館・資料館・博物館 「大阪教育大学地理学会会報」大阪教育大学地理学会,35,40-57. 8)国土交通省総合政策局情報管理部(2004): 『平成14年度 旅客地域流動調査』財団法人 運輸政策研究機構 - 56 - <巡検記録> アメリカ東海岸北部、カナダ・セントジョンズで出会った特徴ある水産業活動 ― Portland Fish Exchangeの活動、当該地域でのロブスターの扱い − 林 紀代美(金沢大学教育学部) Ⅰ はじめに 2004 年 9 月に,アメリカ東海岸のメーン州ポートランド(Portland),マサチューセッツ州のアン岬(Cape Ann)にあるグローセスター(Gloucester),ロックポート(Rockport)とカナダのニューファンドランド・ラブラ ドル州のセント・ジョンズ(St. John s)を訪問する機会を得た.その際,ポートランドでは,Portland Fish Exchange(以下,PFE)を見学することができた.また,各地でロブスターの取扱いを観察できた.本稿で は,それら活動の様子を報告する.本稿はまとまった研究成果ではないが,興味深い水産物の取扱いの 様子が確認できたので,ひとまず若干の整理,記録をしておきたい.本報告が,皆様への情報提供とな れば幸いである. Ⅱ Portland Fish Exchangeの活動 1)Portland Fish Exchangeの概要 Anderson(2003)によると,日本と異なり,アメリカではセリ(の存在)は相対的に小規模で少数という.そ の中にあって,(日本のせりの規模と比べると非常に小さいが,)PFEは,後述のようなDisplay auctionを アメリカで初めて実施し,底魚を中心に年間1∼1.5万トンの水産物を取扱うニューイングランド地方で最も 重要な市場・せりである(Aguirre International ,1996;Kirk Mattie 2001;Anderson,2003;Portland Fish Exchange,2004)。PFEは,1986年に漁船主,加工業者,ポートランド市,Economic Development author ityの連合体により設立され,1987年に開場した。実際の運営にあたるBoard of directors(…非営利組織 の委員会)を市が管理・所有している公設の市場である。PFEは,漁獲低迷により影響力が低下していた ポートランドの水産業界を立て直す起爆剤として設立された。Display auctionが導入されたのも,公平公 正な取引をしている開かれた市場として,漁業者やバイヤーからの評価を高めることで,ポートランドに 良質な水産物と多くの需要者を集め,高価格取引を成立させる目的からであった。なお,NOAAの統計 によると,1985年当時のポートランドの水揚げは,3610万ポンド,1720万ドルで全米の水産物水揚港の取 扱金額24位であった。その後1995年は,6670万ポンド,3940万ドルで12位, 2002年は6070万ポンド,36 30万ドルで12位であった。 PFEは,港に隣接したPortland Fish pierエリアに立地しており,漁獲物は漁船から直接搬入ができる (図1)。市場の建物は,集荷物を陳列して買受人に見せる場所が冷蔵倉庫も兼ねた造りになっており,集 - 57 - 図 1 PFE に横付けして水揚げ中の漁船 図 2 PFE の建物の内部(出荷物を保管・陳列 する冷蔵スペース) 図 3 ドックシェルターの設置された出荷口 図 4 PFE そばに停泊中の漁船 荷物はセリまでそこに保管される(図2)。トラックが横付けする搬出口にはドッグシェルター(密 閉型の出入庫口装置)が取り付けられ(図3),温度が管理されている。開放的な日本の市場(セリ 場)の建物と違い,外観は一見すると食品会社の倉庫やスーパーの配送センターなどのようで,看 板が無ければ魚市場と認識するのは困難であった。 メーン州では,ポートランドなど大規模港では大型底魚漁船(図4)が優勢で,通常Georges Bankまで 出漁している。彼らは,1操業10日程度出漁し,底曳網を利用して操業している。中型底魚漁船は,Casco bay沿岸の漁村などと結びついて活動を展開している。彼らは,Casco bayやメーン州沿岸の北大西洋 に1操業4∼5日間出漁し,底曳網を用いて操業している。このほか,小型ボートを利用し,主に刺網を用 - 58 - いて湾内で日帰り操業している漁業者も多い。3タイプとも,多くの漁船は漁獲した底魚をPFEに水揚げし ている(Aguirre International ,1996)。 Portland Fish Exchange(2004)によると,市場への出荷物は,メーン州の沿岸全域や周辺の州の漁業 者が生産した底魚が中心で,直接水揚のほか,陸送・空輸による搬入もある。近年は約200の出荷者から 年2000万ポンド程度の供給を受けている。2001年の場合,漁業規制対象の多様種底魚についてはメー ン州の総漁獲の約9割,ニューイングランド地方の約2割をPFEが取扱った。Portland Fish Exchange(200 3)によると,2003年のPFEの取扱量は2304万6345ポンドであった。主な取扱魚種は,Hake,Pollock,Cod, Dab,Greysoleである。また,PFEはニューイングランド地方最大のNorthern shrimpの水揚・入荷のある市 場である(Portland Fish Exchange,2004)。 2)Display auctionの詳細 PFEに登録されている買受業者(人)は25(2004年9月現在)で,ポートランドに所在する(事務所を構え る)業者が13,その他メーン州内の業者が4(Wiscasset,Kennebunkport,Sebasco Estates,Standish),マ サチューセッツ州の業者が7(Boston(4),Allston(1),New Bedford(1),Gloucester(1)),ニューハンプシャー 州の業者が1(Somersworth)である。 市場に届けられた出荷物は,職員によって出荷者別,魚種・サイズ(魚種により区分や区分ごとの重量 範囲が異なるが,「大・中・小」など)ごとに選別される。魚は,選別されたロットごとにプラスチック製の箱 に氷とともに入れられる。箱には,出荷者名,魚種,サイズ,箱に入っている重量を記したタグがつけられ る(図5)。そして,それぞれの魚種・サイズが表示されたレーン(図2・図6)に並べられる。午前11時過ぎ から,買受業者が市場に現れ始め,入荷された品物の品質等を確認してまわり,事務所や需要者と連絡 を取るなどしながら,セリの参加方針を練る。買受業者には,魚種別・サイズ別・出荷者別にデータが記 載された入荷物一覧の冊子が,市場から配布される(図7)。 図 5 選別を終えたタグのつけ 図 6 魚種・サイズごとにレーン られた出荷物 表示 図 7 入荷物一覧の冊子 セリは,正午から魚の並べられた冷蔵倉庫横の部屋で行われ,前方の高台にセリ人と記録係が着席し, フロアに並べられた机に買受業者が着席する(図8)。セリは,魚種・サイズごとにまとめて行われる。例え ば,ある魚種のlargeに該当する出荷物を取引し,次にsmallサイズのセリに移り,その魚種の区分が全て - 59 - 取引終了すると次の魚種のセリに移行する。セリは上げゼリで,区分に対し一番高い価格をつけた買受 業者に最初の選択権が与えられる。その買受業者は,必要とするロット数と,どの出荷者のロットから購入 するかを申し出て,自身の付けた価格で引き取る。引き続いて,残ったロットについて再度上げゼリで価 格を決め,最高値をつけた買受業者が必要数と購入ロットの宣言をする。その後も同様の方法を,その 区分のロットが全て取引されるまで繰り返す。 セリの進行状況は,会場前のスクリーンにセリの進行と同時に表示される(図9)。取引開始時には各区 分に該当するロットの情報(出荷者名と合計重量)が映し出されている。セリで価格が決まるとその値が表 示され,選択権を持つ買受業者が引き取るロットを決定すると,その条件に合わせて最初に表示されて いたロット情報から差し引きされ,残量の情報に切り替わる。記録者による買受業者の購入記録の入力画 面もスクリーン上に写し出され,公平に取引できるようにしている。セリと同時に,取引管理のパソコンにも この結果が記録,保存され,台帳管理や代金決済などの業務の合理化に役立っている。セリ終了後直ち にセリの結果は公開され,出荷者にも連絡される。 図 8 セリ会場 図 9 出荷物の情報やセリの進行を映し出した スクリーン (左上に今進行中のセリで扱って いる魚種・サイズ,中段に現在の価格。左下は 競り落とした買受業者の購入内容を登録・表示 する欄と操作ボタン。右側はロット情報(出荷 者名とロット番号,重量) セリ終了後,買受業者は購入商品を市場からトラック等で搬出する。買受業者の個別の商取引のため 正確な調査は無いが,PFEの職員によると,商品の多くはメーン州,特にポートランド周辺の需要者に出 荷されるが,2割程度がニューヨーク方面に,その他ボストン方面にも多く出荷されているという。代金決 済は,出荷者に対してPFEが水揚げから1日以内に手数料を差し引いた売上金を支払い,買受業者はセ リ後14日以内にPFEに購入代金と手数料を支払う。 - 60 - PFEでの買受業者による価格形成は,需要者のニーズに応える集荷を確保するため良質な魚を確実 に競り落としたいという思惑から,より高価格帯での集荷競争を発生させる。同時に,買受業者が付けた 価格は,需要者に対して品質を保証する責任を伴うものでもある。一方出荷者は,最良の評価(価格)を 付けられるよう,より良い品質の漁獲物を出荷する努力をし,他の出荷者と競うことになる。自分の出荷し た魚の品質が良ければ,確実に高価格がつくというPFEへの安心感・信頼が生まれ,PFEへの出荷が促 される。この相乗効果が,PFEの活動,この地域の水産業の活性化につながると考えられている。なお, 買受業者が付けた価格が納得できない場合,出荷者は品物を取り下げる(・その価格での販売を拒否す る)ことができ,買受業者が不当に安く買い叩くことを防ぐ。ただし実際には,取り下げて別の市場に出荷 するにしても,その手間が報われPFEでの評価より高い価格を獲得することは困難で,実行されるケース はまれという。しかしながら,出荷者側にも意思表明の権利が確保されていることは,公正性,買受業者と の力のバランスの確保の点で意義があるとされる(Anderson 2003;Portland Fish Exchange,2004)。 Ⅲ ロブスターの取扱い 1)ロブスター漁業の概要 Acheson (1988),Pallotta and Bolster (1990),Trueworthy and Michael (2003)を参考に,ロブスター 漁業の漁具・手法を整理しておく。 漁獲者は,かごの準備(餌の取り付け)に多くの時間を費やす.餌は,塩蔵ニシンやアンチョビー,くず 魚・残渣(フィレ加工時に出る廃棄物等)で,かごの中の針に取り付け,仕掛けを引いておく.これを漁船 に積み込み,漁場に向かう。かごは,一つ一つ投下して仕掛け,それぞれ引き上げる場合と,一本の軸 になるロープに個々のかごを支線で結び付けておいて沈め,漁獲時はそのロープを手繰り寄せて順に かごを引き上げていく方法がある。かごの目印につけるブイは,漁業者それぞれが決めた色をつけて作 成する。ブイは,昔は木製だったが今はプラスチック製が多い。ロープは,昔は麻,マニラ麻,木綿だっ たものが,現在ではポリプロフィレン製となっている。かごも,昔はオーク材の板を組み立てて作ったかま ぼこ型のかごが用いられていたが,今はプラスチックでコーティングしたワイヤーメッシュで作られた直方 体のかごが主体である(図10)。今回視察した地域でも,直方体のワイアーかごが山積みされた風景をよ く目にした。ちなみに,セント・ジョンズにある北米最古の漁村の一つといわれるQuidi Vidiに立ち寄った が,そこでは旧来の木製かまぼこ型のかごがみられた(図11)。漁船は, lobsterboat と呼ばれるロブスタ ー漁向きに造られたもののほか,船外機つきの小型ボートが利用され(図12),他の漁業に用いられる小 型の漁船も用いられている(図13)。 資源保護の観点から,メーン州の例では,州法(詳細は,Main Department of Marine Resources,2003 を参照)で規定されたサイズよりも大きすぎるもの(甲羅が5インチ以上)・小さすぎるもの(3 1/4インチ以 下のもの)は,捕獲しても海に返すことになっている。抱卵したメスが入っていた場合は,漁業者は尾ひ れにナイフで切れ込みを入れて海に返す( V-notched females)。水揚げするロブスターは,つめをテー - 61 - プで巻いて固定し,バケツや樽に入れて帰港し荷揚げする。 Acheson (1988)によると,ロブスターは漁業者からディーラーやいけす業者,卸売業者,輸送業者,小 売業者らのネットワークを通じて流通されている。多くの場合,長期の取引関係のもとに結びつた業者の 間でロブスターをやりとりしている。漁業者は,直接販売するよりも,価格は低めに抑えられるが,豊富な 市場情報を有し,確実に売りさばいてもらえることから,ディーラーに大半のロブスターを出荷している。 ロブスターは,特に夏の終わりから秋にかけて漁獲が多く,価格が低下する。ディーラーは,価格の低い この時期に各地を回って多くのロブスターを確保し,いけす業者に備蓄させ,需要が多く価格も上がる冬 (クリスマスや新年)や夏(観光シーズン)に十分供給できる体制をとっている。メーン州沿岸で漁獲された ロブスターは,ディーラーらによって,州内はもちろんより高額取引の期待できるニューヨークやボストン など東海岸の大都市を中心に出荷され,一部はヨーロッパなどに輸出もされている。 図 10 ロブスターかご(Gloucester にて) 図 11 木製かまぼこ型のロブスターかご(St. John s にて) 図12 Lobsterboat と小型ボート(Gloucester に 図 13 船尾の開放している曳網が可能な小型 て) 漁船でかごを引き上げ中(Portsmouth(NH)に て) - 62 - 2)ロブスターの活用,地域における重要性 今回視察した地域では, lobstering(ロブスター獲り(をする)) という言葉が存在し,利用されている。 専業の漁業者だけでなく老若男女ロブスターの捕獲に関わるものはみな lobstermen と表現され,ロブ スターの捕獲は特別な仕事(職業)ではなく身近な存在(作業)として捉えられてきた(Trueworthy and Crowley, 2003)。現在では,免許を持った漁業者によりロブスターが漁獲されることが中心で,資源管理 に配慮しルールを守って漁獲されている(詳細はメーン州の場合,Acheson etc. 2000参照)。それでも, メーン州の場合,州法(Main Department of Marine Resources,2003)で州住民に限り,自家消費を目的 とした漁獲免許を制定・交付している。この免許では,他者への漁獲物の販売は禁じられており,一度に 5個以上のかご(ロブスターかご・カニかご合わせて)を仕掛けてはいけない。 今回視察した地域では,スーパーマーケットでも水槽に入れられた活ロブスターあるいはボイルしたもの が常時数多く販売されていた(図14)。ロブスターは活ものでの出荷が基本であるため,商業的な漁業と 販路拡大は輸送手段の発達を待ち徐々に進展してきた。そのなかでニューイングランド地方は,開拓時 代の初期には既にロブスター漁業や販売に着手されていた記録が残っており,当時から今日まで食卓 を飾っている地域と指摘されている(Acheson,1988)。また,子どもにも分かり易い説明でロブスターの資 源管理や漁獲活動を取り上げた絵本(Pallotta and Bolster,1990)(図15)や,ぬいぐるみなどが販売され ていたことも興味深い。 視察地域での観光の要素の一つとして,「ロブスター(を食べる・漁船や漁業の風景を見る)」が重要視 されている。我々が,「北海道に行ったらサケやカニを食べて・・・」と思い描くことと類似する存在・役割と いえよう。本物のロブスターだけでなく,菓子や置物,衣類など様々なロブスターにあやかった土産物が 売られ(図16・17),町のあちこちにロブスターを模したオブジェや看板があふれている(図18)。1都市だ けでなく広い地域にまたがっているところは異なるが,ロブスターを町の名物と謳い,本物のロブスター 図 14 スーパーの水産コーナー 図 15 ロブスターの絵本 図 16 ロブスター関 に置かれた活ロブスターの水槽 (Gloucester にて購入。ロブスター 連土産品(視察各地 (Lexington(MA)にて)(他の視察 を獲るおじいさんが子どもたち で購入)(このほか, 地のスーパーなどでも多く確認で に,サイズを確認し,規定サイズ キャンディーやクッ きた) 外のロブスターは海に返すことを キーなどもあった) 説明している場面) - 63 - 図 17 ロブスターグッズを売る店 (Boston にて。右端の物体は巨大 図 18 街角のロブスターの 図 19 積み上げられた ロブスターぬいぐるみ) オブジェ(Gloucester にて) かご(Gloucester にて) を食べさせることから土産物でのキャラクター化にまで利用している点は,「下関のフグ」などに近い様子 と感じられた。また,港のスペースや停泊した漁船に積まれているロブスターかご(図19)や,湾内でロブ スター漁をする漁船といった独特の風景を眺めることができることも,観光客を惹きつける要素でもある。 ポートランドの場合,実際の水揚活動は底魚漁業が中心でロブスターの水揚げは小規模だが,同市の 観光産業にとっては「ロブスター(の水揚地)」イメージが重要であり,水揚規模以上にロブスターを大切 な存在・必要なものと考えている。あわせて,前章で取り上げたPortland Fish Exchangeの存在も,新鮮な 魚が多く集まる活気ある港湾のイメージを形成する上で重要である。ポートランド市の経済において,水 産業の重要性は小売業や貿易・運輸などより小さいが,同市の重要産業である観光業を支える要素と位 置づけされている。水産関連の活動や施設の存在,新鮮な水産物があるイメージを活かしてウォーター フロント整備を進め,ポートランドに訪れて港散策を楽しみロブスターや魚を食べる観光客を増やそうと, 市当局や関係者は考えている(Aguirre International,1996;Acheson,1988)。グローセスターやロックポ ートなどでは,ボストンなど都市部より安価で新鮮なロブスターを食べることができるので,風光明媚な岬 めぐりとセットで人気がある。ボストンの中心部からこれらの港町まで,車で片道2,3時間あれば移動でき る。休日になるとこれら地域には,ニューヨークなど他州ナンバーの車も含めて,多くの人々が詰め掛け て賑わっていた。ロックポートのあるロブスターの提供を主とする飲食店(図20)では,活ロブスターをい けすから取り上げてその場で釜茹でし,溶かしバターとレモンを添えて提供していた。3尾盛りのお得セ ット(図21)の価格は1尾あたり10ドルで,観光客に人気であった。そのほかにも,客がいけすから好みの 大きさ,尾数のロブスターを取り出して,調理を依頼することもできる。ちなみに,グローセスター中心部 のレストランなどでは活ロブスターのボイルが1尾15ドル程度,ボストン市内のレストランで1/2から1/4尾2 0ドル前後で提供されていた。 - 64 - 図 21 釜茹でされたロブスター(Rockport に て) 図 20 ロブスターを 出す店 (Rockport にて) Ⅳ おわりに PFEで行われていたDisplay Auctionは,取引にともなう帳簿等の管理の合理化,取引の公正性の向上 とそれによる市場への信頼度や魅力の向上に効果を発揮していた。ヨーロッパでは電子セリの導入実績 があるが,商習慣や取引に対する考え方の違い,人を介した 相手への信頼とあいまいさ を生かした伝 統的な取引方法への安心感や支持などもあって,日本では導入に至っていない。アメリカも同様の背景 で,導入の検討が見られたが大半が成功していない。PFEの方式は,電子セリと日本のセリの中間的存 在のように感じられ,活動の合理化・公正化を推進する視点は,日本の取引活動にとっても参考になる部 分があると考えられる。また,セリ場の温度管理や清掃しやすい床面など,PFEの衛生管理や品質保持 への取り組みは,日本の市場施設の改善にも示唆を与え得る。脱線するが,互いにライバル業者を意識 しながら緊張感あるセリをしつつも,買受業者がハンバーガーやコーラを食べながら,子どもを膝に抱き かかえながらセリに参加している様子は,日本ではまず見かけられない何ともアメリカらしい雰囲気だな と印象に残った。 今回視察した地域でのロブスターの漁獲と活用の様子は,地域資源を守りつつ地域活性化にも積極 的に利用している点や,地域資源を地域住民が誇りに思い,日常的に消費している点が印象的であった。 資源管理にも触れたロブスターの絵本のように,子どもでも分かる簡単な説明や情報提示は,地域の住 民の資源管理への認知・理解と支援を醸成する手段として有益なヒントを示してはいないだろうか。水産 物を観光に活用している点,地域のシンボル的存在である様子は,下関のフグや滑川・魚津のホタルイ カ,太地のクジラなどと類似した面があり興味深い。他の魚種,他の地域も含めて,地域の水産物(資源) - 65 - を生かした諸活動や産業振興,地域の価値創出への取り組みについて,今後多くの事例を考察できれ ばと思う。 一方で,ロブスター生産の盛んなアメリカは, ロブスターの世界有数の輸入国でもある。 Anderson (2003)によると,カナダなどから大量のロブスターが輸入されているという。アメリカのロブスタ ー輸入や販売・消費の構造,アメリカ人のロブスターに対する嗜好・選択要素など,今回は考察に至らな かったが,追求,深化の価値がある課題といえる。 付記: 視察・報告にあたり,文部科学省科学研究費(課題番号:16780152)の一部を使用した.また,Portland Fish Exchangeの見学では,同市場のRobert Inman氏にご協力賜った.記してお礼申し上げます. 参考文献 James M. Acheson 1988 : The Lobster Gangs of Maine, London, Univeresity Press of New England. James L. Anderson 2003 : THE INTERNATIONAL SEAFOOD TRADE, Cambridge, England, Woodhead Publishing Limited. Jerry Pallotta and Rob Bolster 1990 : GOING LOBSTERING, Watertown, MA (US), Charlesbridge Publishing. Nance Trueworthy and Michael Crowley 2003 : Down the Shore, Camden, ME (US), Down East Books, pp24-49. Portland Fish Exchange 2003: Annual Price & Landings Report. Portland Fish Exchange. Virginia L. Thorndike 1998 : MAINE LOBSTERBOATS, Camden, ME (US), Down East Books. *ホームページ(PDFファイル)等 Aguirre International 1996:http://www.nefsc.noaa.gov/clay/50-DGNF-5-00008.pdf(2004/6) James M. Acheson, Terry Stockwell and James A. Wilson 2000:Evolution of the Maine Lobster Comanagement Law(http://www.umaine.edu/mcsc/inages/pdfbutton,gif)(2004/11) Kirk Mattie 2001:Economically Enhancing the Southwest Nova Fixed Gear Fishing Industry:Understanding New England Models(http://www.stfx.ca/research/srsf/ResearchReports/StudentReports/KMattie.html) (2004/6) Main Department of Marine Resources 2003:http://www.maine.gov/dmr/Guide%20to%20Lobstering.pdf (2004/11). Portland Fish Exchange:http://www.portlandfishexchange.com(2004/6). NOAA:http://www.st.nmfg.gov/pls/webpls/(2004/6). - 66 - 教室巡検報告 森晃史 2005年度5月20日(金)∼21日(土)の期間に行われた教室巡検では初日壺阪寺を出発し途中高 取城跡を経由し祝戸研究所を目指した。この巡検では石の基本的な測量方法を身につけることであっ た。また教室巡検の前に準備として Arcview を用いて観測地点と巡検経路を地図上に打ち込む作業を 行った。この報告は巡検中に記録した風景の写真とフィールドノートの紹介である。 巡検結果については巡検が終了した次の授業から Arcview に結果をまとめていった。この巡検での学 習は 8 月の合宿に向けての予行演習である。 20 日9 時40 分近鉄壺阪山駅に集合。壺阪山駅からバスに乗り壺阪寺まで移動。10 時に壺阪寺に到 着。約 45 分間トイレ休憩及び参拝をし、10 時 45 分に出発し高取城跡を目指す。1 時間山道を歩き 11 時 45 分に高取城跡に到着する。昼食をとり、その後3班に分かれて石垣の測量をする。 石舞台古墳 飛鳥駅 壷阪寺 壷阪山駅 高取城跡 壷阪寺 巡検経路 高取城石垣 - 67 - 1時間の測量をした後宿泊する。祝戸研究所に向 かう。山道で猿石を見つける。 猿石 16時に祝戸研究所に到 着。とても疲れていた人も いたようです。 石舞台古墳 - 68 - 2日目は9時10分に祝戸研究所を出発し石舞 台古墳を目指す。9時25分に到着。石の大きさ を測量する。 11時に石舞台古墳出発。橘寺に向かう。11 時20分橘寺到着。橘寺には人間の2面性を示 している2面石がある。この2面石の測量を行っ た。 橘寺 12時に出発し亀石に向かう。12時15分に到着。 亀に似ていることからこの名がついた。 亀石の測量を行う。 亀石 12時30分に亀石を出発し鬼の俎板に向かう。 12時45分に到着。昔鬼がこの石を使って料理 をしたと言われている。鬼の俎板を測量する。 13時に出発し近くにある鬼の雪隠に向かい測 量する。この鬼の雪隠は鬼のトイレであると考え られている。この鬼の雪隠がこの巡検の最後の 目的地であった。測量後は途中猿石を見て解 散地である飛鳥駅に向かった。 13時40分飛鳥駅に到着。各自解散。 最後に巡検に行ったみなさんお疲れ様でした。 鬼の俎板 また引率していただいた先生方ありがとうございました - 69 - 名所図会の出版状況 山近博義 前号(第 47 号)で、名所図会の代表的な挿絵を紹介しましたが、今回は、名所図会の挿絵と出版状況 の概要を紹介することにしたいと思います。一部は、地理学報 36 でも触れていますので、あわせてご 覧いただければと思います。 名所図会は、18 世紀後期以降に出版された一連の作品群です。その最初の作品は『都名所図会』と されています。編者は秋里籬島、画工は竹原春朝斎で、京都の寺町通五条上ルの吉野屋為八という本 屋から出版されました。ちなみに、寺町通は平安京の東の端、東京極大路にあたるといわれています が、江戸時代には、この通り周辺には、本屋や地図屋が集まっていました。現在でも、京都市役所近く の寺町通り沿いに、何軒か本屋さんがあります。 この『都名所図会』の初版が出されたのは安永 9(1780)年のことです。その後、天明6(1786)年には 再版本が、また、翌年の天明7年には続編の『拾遺都名所図会』が出されています。要するに、当時とし ては、かなりのベストセラーであったようです。吉野屋では製本まで手がまわらず、綴じられる前の段階 のバラバラの状態で販売されていたとの言い伝えもあるようです。もっとも、出版に至るまでの経緯や出 版直後の売れ行きなどについては、あまりはっきりしていないようです。 編者の秋里籬島は、京都で歴史物の絵本作家、俳諧師として活躍していたといわれています。『都 名所図会』の出版で、ある意味で流行作家となったわけですが、晩年、籬島軒秋里と名のり、江戸で作 庭にもかかわったという説もあります。また、画工の竹原春朝斎は、大坂で絵本の挿絵などを描いてい たようです。 ところで、『都名所図会』の人気の秘密は、前回も書きましたように、その挿絵にあったようです。それ は、次ページの3枚の図を見比べてください。いずれも現在の八坂神社を描いた挿絵です。上段は、 最初期の名所案内記である『京童』(中川喜雲 明暦4(1658)年刊)、中段が『洛陽名所集』(山本泰順 万治元(1658)年刊)のもので、下段が『都名所図会』のものです。 『京童』の挿絵は、物語の添え物程度のもので、現実の風景をふまえた描写とはなっていません。この 当時の本の挿絵はしばしばこのようなものでした。それに比べると、『洛陽名所集』の挿絵は、17 世紀段 階のものとしては、現実の風景をふまえた描写の図であるといえます。しかしながら、写実性という点で は、『都名所図会』の挿絵が最も優れているといえるでしょう。このような写実的な挿絵の多さが、名所図 会人気の要因のひとつだったようです。 次に、この『都名所図会』が出された後の、名所図会の出版状況についてです。名所図会自体は、 様々な名所を紹介する地誌的なジャンルの本です。しかし、この名所図会の出版がきっかけとなって、 その後、他のジャンルの本にも「図会もの」と呼ばれる作品が出されるようになったといわれています。 名所図会の出版状況はどのようなものだったのでしょうか。 - 70 - 『京童』の祇園社 『洛陽名所集』の祇園社 『都名所図会』の祇園社 - 71 - ここで、地理学報にも載せた一覧表を再度かかげます。この表は、『都名所図会』をはじめ、代表的 な名所図会を初版年順に並べたものです。これによりますと、名所図会がさかんに出版されていた時 期が2回あったことがわかります。1回目は『都名所図会』の出版後で、1790 年代から 1800 年代初頭に かけての時期です。2回目は 1830 年代後半から 1850 年代にかけての時期です。そして、これら2つの 時期の間には、出版が下火になっていた時期があったこともわかります。 1回目の時期には、近畿地方を対象とした作品がみられます。そして、それらの多くに、先ほどの秋里 籬島がかかわっていました。したがって、この時期は、秋里流の名所図会が出版された時期ともいえる でしょう。 一方、2回目の時期は、『江戸名所図会』がその出発点となっています。これは『都名所図会』に対抗 して、江戸の名主をつとめていた斎藤氏が3代かかって仕上げた作品といわれています。ですから、も っと早い時期に出版された可能性もありましたが、結果的には、天保年間にようやく出版されたという経 緯を持つ作品です。この時期には、近畿以外の場所を対象とした作品も多くなっています。また、京都 を対象としたものでは、『花洛名勝図会』という、『都名所図会』とは異なった趣の作品も出されています。 なお、この時期に編者でしばしば登場するのは、暁 鐘成で、画工の松川半山とのコンビでの出版も何 点かみられます。 1回目と2回目では、出された作品の特徴に変化がみられます。たとえば、名所図会のセールスポイ ントのひとつであった挿絵にも、かなりの変化が認められます。この点については、また、別の機会に 紹介したいと思います。 あと、名所図会の特徴について、もう一点、紹介したいと思います。名所図会は、基本的に、その場所 にまつわる和歌などを紹介しながら、各地の名所旧跡を紹介していくというものです。名所とは、元来、 誰もが知っている歌に詠まれた「歌のなどころ」という意味を持っていました。その場合、ひとつの作品 でどの範囲の名所旧跡をどのように紹介するかという点で、2つのタイプがみられます。ひとつは、ある 一定の範囲内の名所旧跡を網羅的に紹介するというもので、「地域型」と名付けました。作品の数では、 大半がこのタイプです。そして、各作品が扱う一定の範囲は、河内国や摂津国という「国」単位であるこ とが多かったようです。最初の作品である『都名所図会』も、「都」のみはなく、より広い山城国の範囲が 対象となっていました。 もう一つのタイプは「道中型」ともいうべきものです。作品の数はそれほど多くありませんが、『東海道 名所図会』などがこのタイプです。これは、ひとつの街道、あるいは伊勢参宮などのような巡礼道などに 沿いながら、沿道の名所旧跡を紹介するというものです。 このように、名所図会はいくつかのタイプものもが、明治初期まで、出版されることになります。この作 品群を追っていくことで、当時の人びとがもっていた名所観、旅に対する意識などに迫ることができると 考えています。 - 72 - - 73 - 留学生の横顔 鹿川紅美 対談:김 현 진 金玹辰 Kim HyunJin キム・ヒュンジン 金さんってこんな人 出身地は大韓民国済州島です。大阪に昨年の 10 月に来ました。1 年半国費の大阪教育大学研究生 として地理学と地理教育とを研究する予定です。 韓国ではどんなことを専攻されていたのですか? 梨花女子大学大学院博士課程で地理教育を専攻していました。研究者志望です。 日本という国にどんな印象を持っていますか? 気候があまり変わらないと思いました。近いので外国という感じはなく、カルチャーショックもありませ ん。大阪の人は韓国人のようです。住みやすいです。 日本の韓流ブームについてどう思われますか? 少しおかしいと思います。その理由は、韓国で今人気のない人が日本で騒がれている場合があるか らです。韓国で売れている俳優は、外見が良いだけでなく、演技のうまい人です。韓国人はドラマや映 画を見るとき、ストーリーより演技を良く見ています。 金さん、インタビューありがとうございました。ちなみに日本映画の『Love Letter』(中山美穂主演)は2 ∼3年前に韓国で上映されて大ヒットしたそうです!金さんも見に行ったそうですよ! 「インターネット GIS による社会科地図教材のホームページ」の紹介 山田周二 当地理学教室のホームページにおいて,インターネット GIS による社会科地図教材のページを開設 しました.以下のような項目を設け,それぞれの項目において各種の地図を閲覧できます: ・大阪府各市町村の基本図 ・大阪府の学校に関する地図 ・大阪府の市町村別統計に関する地図 ・大阪府の自然環境に関する地図 - 74 - ・日本の都道府県別統計に関する地図 ・日本の自然環境に関する地図 ・自然災害に関する地図 このページの URL は http://www.osaka-kyoiku.ac.jp/ syamada/gismap_chiri.html で,大阪教育大学の トップページ(http://www.osaka-kyoiku.ac.jp/)から,「教育・研究の紹介」→「社会科教育講座」→「教 員紹介」→「地理学教室 Homepage」→「インターネット GIS による社会科地図教材」で表示されます.こ のページで,閲覧する地図を選択すると,地図が表示され,地図の拡大・縮小や,複数の地図の重ね 合わせができます(図 1).2005 年の 9 月に開設したばかりで,まだ閲覧できる地図は多くありませんが, これから充実させていく予定ですので,閲覧できる地図の種類やデザインなどについて,ご要望がご ざいましたら是非ご連絡ください. なお,基になる地図は汎用 GIS ソフトウェアである ESRI 社の ArcGIS で作成したものですので,地図 データをダウンロードできれば,ArcGIS ではもちろん,無償で利用できるソフトウェアである 「ArcExploler」や「ArcReader」でも利用できるようになります.「ArcExploler」や「ArcReader」を利用すれ ば,地図を閲覧するだけではなく,デザインの変更や高品質な印刷もできるようになります.現時点で は,まだデータをダウンロードできるように整備できていませんが,近い将来それができるよう整備する 予定です. 図 1 表示される地図の例 - 75 - 諸連絡 1.会報 51 号の原稿募集について 会報 51 号の原稿を募集しています。論文,短報,地理授業紹介,巡検記録,エッセイ,文献紹 介など奮って投稿してください。昨年度から印刷所での編集をせずに,直接事務局が編集をして います。投稿される原稿は,テキスト形式,マイクロソフトワード,一太郎,ロータスワードプ ロなどによって B5 用紙,行数 34,一行 43 文字のフォーマットで,電子メールや CDROM やフロッ ピーディスクで送ってください。写真や図表も可能ならデジタル形式でお願いします。締め切り は平成 18 年 8 月末日とします。 2.地理教育部会案内 地理教育部会では地理教育の研究会・巡検などの活動を行っております。地理教育研究のための 例会は,毎月第2土曜日に主に附属天王寺中学校で行っております(3, 8 月は休み) 。教材研究・ 資料交換・指導方法の研究などを,各例会において1∼2名の発表をお願いし,それをもとにし た討論をおこなっております。最近ではパソコン利用の情報交換も行われております。巡検も定 例化され,年間3回程度行っております。また Web(http://chirikyouiku.tripod.co.jp/)上での 活発な議論もあります。 地理教育部会の活動についてのお問い合わせは,下記までしてくださ い。橋本九二男(自宅 Tel.0745-48-4856) 3.会費納入についてのお願い 本号に会費納入用の振替用紙を同封します。平成 17 年度の会費(2000 円)を同封の振替用紙(振 替 00940-6-49251 大阪教育大学地理学会あて)で納入してくださいますよう,お願い申し上げま す。 4. 平成 16 年度(2004 年度)学会役員 会長(教官) ・・・・・・正木久仁 顧問(元教官) ・・・・・内田秀雄,位野木寿一,鳥越憲三郎,前田昇,守田優,石井孝行 理事(教官 3 名) ・・・・水野恵司(編集) ,辻本英和(会計監査) ,山近博義(総務) 理事(卒業生 3 名) ・・・磯高材,橋本九二男,奈良芳信 理事(学生 4 名) ・・・・委員長(学部) :福井正訓 委員(院) :後藤百志 会計(学部) :池田智子 学生委員(7 名) ・・・・四回生:池田智子,福井正訓 三回生:岡本泰樹,中川慶太,図書委員(院) :後藤百志 - 76 - 5. 平成 17 年度(2005 年度)学会役員案 会長(教官) ・・・・・・正木久仁 顧問(元教官) ・・・・・内田秀雄,位野木寿一,鳥越憲三郎,前田昇,守田優,石井孝行 理事(教官 3 名) ・・・・水野恵司(編集) ,辻本英和(会計監査) ,山近博義(総務) 理事(卒業生 3 名) ・・・磯高材,橋本九二男,奈良芳信 理事(学生 4 名) ・・・・委員長(学部) :岡本泰樹 委員(院) :北浦雅生 会計(学部) :中川慶太 学生委員(7 名) ・・・・四回生:岡本泰樹,中川慶太 三回生:前畠千賀子,溝延直也 6.地理卒業生就職先,進学先一覧 〔教員養成課程〕 有澤将行:広島県小学校教員、池田智子:大阪府小学校教員,鹿川紅美:本学大学院,田中克奉: 本学大学院,鶴田由加里:中央会計事務所,丸山航:本学大学院,後藤百志:大阪府小学校教員 〔教養学科〕 大西智也:トライアンフコーポレーション,中前智子:日本住宅保証検査機構 7.編集後記 今年度 47号はホームページ上でも見ることができます。アドレスは以下の通りです。 http://www.osaka-kyoiku.ac.jp/ shakai/chiri/kaihou/kaihou49.pdf - 77 -