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1 内地延長主義政策の展開と義務教育実施構想の提起

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1 内地延長主義政策の展開と義務教育実施構想の提起
呉 文星
1 内地延長主義政策の展開と義務教育実施構想の提起
1872 年、明治政府は学制を公布し、日本の近代的教育制度を築いた。学齢児童に対し
て小学校上等科・下等科で 8 年間の修業義務を課したが、実際にはこれは完全には達成さ
れなかった。1879 年に当局は教育令を公布し、学齢児童が少なくとも 16 カ月の普通教育
を受けること、そして 8 年制の公立小学校課程は地域によって 4 年に短縮できると規定し
た。この 4 年間のうち、毎年少なくとも 4 カ月以上の授業期間を設けたことにより、義務
年限は実質わずか 16 カ月に短縮された。さらに 1886 年には小学校令を公布し、小学校を
尋常小学校と高等小学校に区分し、修業年限をそれぞれ 4 年とした。そして前半の 4 年を
義務教育に定めた。1890 年の小学校令の改正により、義務教育の尋常小学校修業年限は 3
年または 4 年、高等小学校については 2 ~ 4 年となった。1900 年小学校令の再度の改正
によって政府が尋常小学校の修業年限を 4 年に改めたことで、義務教育は 4 年と確定され
た。その後学齢児童の就学率は上昇し、1906 年になると 96.5%にまで達した。この状況
に鑑み、当局は翌(1907)年には小学校令を改正し、義務教育を 6 年制と確定して実施し
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た。以上のように、日本の近代教育制度の成立当初において、政府は義務教育年限を実際
の状況にあわせて調整し続けた。学齢児童の就学が普及するのを見計らって、それを 6 年
制と定め、正式に実施したのである。
1895 年、日本は下関条約によって台湾を獲得し、特別統治主義にのっとって、1896 年
に「法律第六十三号」を発布した。委任立法制度をとり、台湾総督府に法律効力を有する
命令の発布権を与えて、日本国内とは異なる植民地統治体制を構築した。教育の面では義
務教育は実施せず、差別待遇と隔離政策に基づき、1898 年の日本国内の小学校制度を参
考にして公学校令を公布し、それを台湾人の初等教育とした。中等以上の教育機関につい
ては非常に不十分かつ制度を欠いており、修業年限 3 ~ 4 年の国語学校、5 年の医学校、
半年~ 2 年の農事講習生と糖業講習所、
および 3 年の工業講習所などを設立しただけであっ
た。渡台日本人子弟に対しては、総督府が日本国内の小学校令と中学校令に基づいて別に
小学校と中学校等を設立し、日本国内と同様の教育を施した。一方、台湾人子弟が受ける
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初・中等教育は日本国内での教育とはまったく異なっていた。
1900 年 6 月に総督府事務官兼文書課長木村匡が学務課長に転任した際、台湾の初等教
育において義務教育を実施すべきだと主張した。これは総督児玉源太郎と民政長官後藤新
平の教育方針と相容れないものであったため、彼は翌年(1901)2 月に失職することとなっ
た。1903 年 11 月、後藤新平は台湾全島の小公学校長と各庁学事主任を召集して学事諮問
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会を開いたが、ここでも一刻も早い義務教育実施を主張する者がいた。1904 年 6 月、三
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詳細は松本賢治・鈴木博雄『原典 近代教育史』(福村書店、1962 年)32 ~ 121 頁を参照。
詳細は呉文星『日拠時期台湾師範教育之研究』(国立台湾師範大学歴史研究所、1983 年)12 ~ 13 頁
を参照。
吉野秀公『台湾教育史』130 頁。佐藤源治『台湾教育の進展』
(台湾出版文化株式会社、
1943 年)164 頁。
日本統治下台湾における社会的リーダー階層と義務教育の実施
十四銀行台湾各支店総支配人となった木村匡は、台湾教育会定例会において「台湾の普通
教育」と題する講演を行い、新領土台湾を統治するには「国民的統一主義」の方針をとる
べきであって、台湾では国民教育、すなわち義務教育を実施するのがよいと主張したので
ある。また、当局によるアヘン政策と「土匪討伐」はすでに効果を上げており、縦貫鉄道
敷設や基隆港建築第一期事業、そして土地調査も次々に完了している点を挙げ、積極的な
措置、被統治者の精神面に関連する事業の発展、そして精神的感化の効果如何は教育の力
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に依るという主張にのっとり、義務教育の実施が急務であると強調した。しかしこの意見
は学務当局に採用されなかった。学務課長持地六三郎は、以下のように反対を表明してい
る。台湾の初等教育は同化主義の方針をとり、台湾人が日本国民としてのアイデンティ
ティーを形成すること、ならびに彼らに国語[筆者註:日本語、以下同様]を十分に習得さ
せることに尽力している。しかし、義務教育は教育を「国民教育」のレベルにまで到達さ
せる手段の一つにすぎず、他の植民地における先例はいまだ見受けられない、しかも台湾
で実施されている法律および制度は日本国内と異なり、義務教育を実施する段階に到達し
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ているとはいえない。
総督府は漸進主義にのっとり、公学校を同化政策を貫徹するための主要な機関としたが、
そのカリキュラムにおいて、国語は最も重要な科目であり、1 週間の総授業時間の 7 割を
占めていた。同時に、古くからの教育機関である書房の廃止が一時容易に進まなかったこ
とから、「書房義塾に関する規程」を公布した。それにより書房には漸次国語・算術・修
身などの科目を増設すること、ならびに「漢文読本」を編纂してこれを書房の教材とする
ことが課された。書房への管理を強めることで、公学校教育の補助機関としての役割を付
与しようともくろんだのである。
その結果、書房はその力を次第に弱め、1904 年以降、公学校の生徒数は書房の生徒数
を上回るようになった。1910 年代中期以降、公学校の学科や教材に倣って授業を行い、
修業年限の規定を設けた「改良書房」が各地に出現し、伝統的な書房はさらに減少した。
1910・20 年における生徒数を見れば、書房はそれぞれ 1 万 5811 人・7639 人、これに対し
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て、公学校はそれぞれ 4 万 1400 人・15 万 1135 人であった。以上から、1910 年代より公
学校がすでに台湾初等教育の主流となっており、書房は公学校の補助機関へと変貌を遂げ
ていたことが明らかにわかる。
1918 年 6 月、明石元二郎は、台湾総督に就任すると同化主義を施政方針として掲げ、
その目的は台湾人の感化と、彼らを徐々に「日本国民」として養成することにあると言明
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した。翌年(1919)1 月、
「台湾教育令」が公布されたが、その要点は以下の五つ、すなわ
ち、①徳育を主とすること、②普通教育の完備、③職業教育の重視、④修業年限の延長と
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詳細は木村匡「台湾の普通教育」(『台湾教育会雜誌』第 28 号、明治 37 年 7 月)1 ~ 13 頁を参照。
詳細は持地六三郎「台湾に於ける現行教育制度」(『台湾教育会雜誌』第 31 号、明治 37 年 10 月)1
~ 7 頁を参照。
詳細は呉文星「日據時代台灣書房之研究」(『思與言』第 16 巻第 3 期、1978 年 9 月)62 ~ 89 頁。「日
據時期台灣書房教育之再檢討」(『思與言』第 26 巻第 1 期、1988 年 5 月)101 ~ 108 頁を参照。
井出季和太『台湾治績志』(台湾日日新報社、1937 年)598 ~ 600 頁。
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専門教育の開始、⑤進学の便宜を図り、上級学校との連結の障害をなくすこと、である。
教育施設については、公学校を原則 6 年制としてそれを普通教育と位置付け、高等普通教
育機関として 4 年制の(男子)高等普通学校と 3 年制の女子高等普通学校を設置し、女子
高等普通学校には実科を置くと規定した。実業教育については、実業学校の修業年限を 3
年から 4 年に延長し、これとは別に簡易実業学校を新設した。高等教育では、専門学校に
修業年限 3 年あるいは 4 年の予科制度を設けた。本科の修業年限を 3 年としたが、医学専
門学校本科は例外的に 4 年制とした。師範教育では、師範学校の修業年限を 4 年から 5 年
に延長し、高等普通学校と女子高等普通学校および実業学校には師範部(科)を設置し得
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るとしたほか、公学校教員講習科を設置した。
これらの点から、この教育令は「内地・台湾人差別教育主義」の原則にのっとって制定
されたものであり、それゆえ、台湾人の各級学校の修業年限と水準は日本国内に及ばず、
実業教育に偏重していることは明らかである。総督府総務長官下村宏は、台湾の教育は台
湾の特殊な状況に合わせたもので、植民地教育ではなく一国内の異民族に対する教育なの
であり、フランスがベトナム、イギリスがマレー半島、アメリカがフィリピンで行ってい
る教育とは異なっていると弁解した。また、台湾人は言語・風俗と習慣において日本人と
異なっており、そのため初等教育から日本人との共学にして、日本人と同じ教育を受ける
ことは非合理的であると詭弁を弄した。同化政策は台湾統治の基本方針であり、この「同
化」が内包するところの意義は、形式的な改造というレベルのみならず、日本の国民精神
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の会得による、精神的な同化に努めることにあると述べている。また、総督府参事官鼓包
美は、この教育令の重要性は台湾人教育の方針の確立にあり、台湾人の教育が日本人の教
「皇化に浴する」日がまだ浅く、
育系統と異なっているのは、台湾人が「新附の民」であり、
国語の習得が一つの大きな難関であるためだが、今後時勢の変化や台湾の文化レベル向上
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に合わせ、教育令の内容を改正してもよいと述べた。このやや後、
『台湾日日新報』は、
今のところ台湾人児童は普通教育を強制的に受ける準備ができたとはいえないが、アメリ
カのある地方の方法に倣い、今後学童に対して毎年の出席日数と最低修業年限の義務を規
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定すれば、支障なく義務教育という最終目標に到達できるかもしれないという、某教育家
の意見を掲載した。この報道から、台湾教育令の公布によって義務教育の問題が再び注目
されたことがわかる。
1919 年に原敬内閣が成立したが、世界各地の植民地における民族運動の機運の高まり
と朝鮮で発生した三・一運動の衝撃によって、植民地統治政策および制度の改革を迫られ
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たため、
「漸進的内地延長主義」に基づき武官総督に代わって文官総督を起用した。田健
治郎は台湾総督を拝命後、内地延長主義政策の執行者として、施政方針の中で教育の普及
10 「台湾教育令説明(上)・(下)」『台湾日日新報』第 6661・6662 号、大正 8 年 1 月 4・5 日、2 面。
11 詳細は下村宏「台湾教育令に就いて」(『台湾時報』大正 8 年 9 月号)1 ~ 8 頁を参照。
12 「台湾教育令説明(上)」『台湾日日新報』第 6661 号、大正 8 年 1 月 4 日、2 面。
13 「義務教育問題」『台湾日日新報』第 6839 号、大正 8 年 6 月 30 日、2 面。
14 詳細は春山明哲・若林正丈『日本植民地主義の政治的展開(1895 ~ 1934 年)──その統治体制と台
湾の民族運動』(アジア政経学会、1980 年)48 ~ 66 頁を参照。
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日本統治下台湾における社会的リーダー階層と義務教育の実施
を目下の急務として強調した。その後開かれた地方長官会議において、各庁長に対して
11 項目の施政要項について具体的な指示を下し、
「教化問題」をその第一点に挙げた。教
化は台湾の民衆を同化するための重要手段であり、その目標は台湾人の知識と文化レベル
の向上、および世界文化の発展への順応にあること、そして教化の目標を達成するために
は、政治的措置・社会との連携・学校教育の三つの手段があることを指摘している。また、
現時点で実施されていない義務教育について、将来的な実施に向けて今から十分準備する
必要があることを述べ、時勢の進展と社会一般の学識知能の進歩に鑑み、必要に応じて現
行の教育令を改正してもよいとの立場を明らかにした。とはいえ、目下教育政策の核心は
依然として普通教育の普及に努めることであって、公学校の増設を進め、学齢児童の就学
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の需要を満たしていくことが肝要であると主張した1。田総督の上述の訓示に対し、
『台湾
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日日新報』は即座に支持を表明し、万難を排して早急にその方向に進むよう訴えた。
田総督は着任してすぐに、教育令の抜本的改正に向け、内務局長に対し関係調査の指示
を出した。1921 年 1 月 31 日、田総督が英国 Manchester Magazine の記者 Y. Hamilton の取
材を受けた際、内地延長主義政策に再度触れ、教育の普及──将来的な義務教育実施の準
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備──に尽力する意向を表明した。1921 年 3 月 25 日、田総督は、東京で原敬首相に謁見
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した際、台湾教育令改正の必要性を訴えた。後の 4 月 12 日にも、再び原敬首相に教育制
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度の抜本的改善の必要があることを報告した。4 月 30 日、総督府官邸で各部局長を召集
して会議を開き、八つの事項に対する指示を出した。その第 1 項がすなわち初等義務教育
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実施に向かう手順についてであった。6 月 5 日、部局長会議を再度召集し、教育の根本政
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策の制定に関する評議会の諮問案の審査について検討した。そして義務教育の実施問題を、
諮問案として総督府評議会に提出して検討する旨を確定した。
以上の経過から、義務教育の実施は田総督にとって内地延長主義政策を貫徹するための
重要な措置の一つとなっており、であればこそ総督府評議会が成立してすぐに諮問案に付
された、と判断できよう。
2 台湾総督府評議会における義務教育案の検討
1921 年 6 月、総督府は台湾人の台湾議会設置請願運動に対応するため、地方制度の改
革に乗り出した。台湾総督府評議会官制と同会規程を制定し、評議会を設置し直すととも
に律令審議会を廃止した。同会は総督を会長、総務長官を副会長とし、総督府高級官僚と
15 「田総督訓示(一)」『台湾日日新報』第 6989 号、大正 8 年 11 月 28 日、2 面。
16 「日日小筆」『台湾日日新報』第 6991 号、大正 8 年 11 月 30 日、2 面。
17 呉文星・廣瀨順皓・黄紹恆・鍾淑敏編『台湾総督田健治郎日記』(中)(中央研究院台湾史研究所、
2006 年)大正 10 年 1 月 31 日、37 頁。
18 同上書、大正 10 年 3 月 25 日、104 頁。
19 同上書、大正 10 年 4 月 12 日、132 頁。
20 同上書、大正 10 年 4 月 30 日、156 頁。
21 同上書、大正 10 年 6 月 5 日、205 頁。
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