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「私の国際交流」会“ 「私の国際交流」会“Cross Culture”ニュース NO.11

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「私の国際交流」会“ 「私の国際交流」会“Cross Culture”ニュース NO.11
「私の国際交流」会“Cross
「私の国際交流」会“Cross Culture”ニュース
Culture”ニュース NO.11
<目次>
(責任者および事務局:高田勝)
出席者
P1~P2
[email protected]
話題提供 P2~
P2~P
2~P 10
発行日:2010
発行日:2010 年 12 月1日
第 11 回「私の国際交流」会 ”Cross Culture”
出席者:
:
(順不同・敬称略)
Culture” 出席者
2010 年 11 月 22 日(月)会 議:17
議:17:
17:30(クローバーハウス
30(クローバーハウス 2 階会議室)
夕食会:19
(
「養老之瀧:上京区役所前店」
)
夕食会:19:
19:00(
○ 三上賢悦
三上賢悦:
賢悦:Kenetsu Mikami 講師
○ 西田 毅:Takeshi
毅:Takeshi Nishida 法学部名誉教授
○ 西田久子:Hisako
西田久子:Hisako Nishida
○ 徳弘篤介:Atsusuke
徳弘篤介:Atsusuke Tokuhiro 元校友会青森県支部長
○ Romelle Whalen:アーモスト・同志社フェロー
Whalen:アーモスト・同志社フェロー
○ 斉藤祐三子:Yumiko
斉藤祐三子:Yumiko Saito 研究支援課、職員英語クラブ
○ 田中澄子:Sumiko
田中澄子:Sumiko Tanaka 元大学職員、職員英語クラブ
○ 山根 蘭:Lan
蘭:Lan Yamane 元中国留学生会会長
元中国留学生会会長
○ 韓 謐:商学部 3 年 中国留学生会
○ 盧 葉丹枝:理工学部 2 年 中国留学生会
○ 李 源:生命医科学部 2 年 中国留学生会
○ 王 シ:生命医科学部2年 中国留学生会
○ 張 榮祐:YoungWoo
榮祐:YoungWoo Jang 経済学部 5 年、英字新聞部<韓国>
○ 李 芸元:文学部美学芸術学科 2 年 英字新聞部 <韓国>
○ 張景愛:Chang
張景愛:Chang GyeongAe 経済 2 年<韓国>
○ 李 アルム:日文センター・全南大学交換留学生 <韓国>
○ 尹 裕盛: 同上
○ 宣 恵利: 同上
○ 谷川祐紀:Yuki
谷川祐紀:Yuki Tanikawa
Tanikawa 経済学部 3 年 英字新聞部
○ 川 恵実:Megumi
恵実:Megumi Kawa 社会学部 3 年
○ 三井喬広:Takahiro
三井喬広:Takahiro Mitsui 商学部 2 年 アイセック副委員長
○ 三石瑠璃子:Ruriko
三石瑠璃子:Ruriko Mitsuishi 法学部 2 年 DESA
○ 鳥居亜由美:Ayumi
鳥居亜由美:Ayumi Torii 同志社女子大学学芸学部 4 年 SIVIO
○ 大坪繁雄:Shigeo
大坪繁雄:Shigeo Otsubo 大阪トヨタ物流株式会社特種用途自動車改造
1
コンサルタント 英字新聞部 OB
○ 小西幸信:Yukinobu
小西幸信:Yukinobu Konishi 滋賀県立近代美術館解説サポーター 英字新聞部OB
○ 高田 勝:Masaru
勝:Masaru Takada 職員英語クラブ、英字新聞部 OB <事務局>
合計 28 名
話題提供
「私の人生とラテン・アメリカ」
三上 賢悦 氏
(経歴・職歴)
経歴・職歴)
1938 年 10 月 24 日 北海道小樽市生まれ。
1963 年 3 月 同志社大学商学部卒業
1963 年 8 月~1965
月~1965 年 3 月 民間企業にて貿易業務に従事
1965 年4月 日本貿易振興会(JETRO)入会
1970 年6月 日本食品輸出促進業務のため,米国、カナダ出張
日本食品輸出促進業務のため 米国、カナダ出張
1973 年9月 繊維製品輸出促進業務のため、グアテマラ、コスタカ、
エル・サルバドル、パナマ、メキシコへ出張
1977 年 12 月~1982
月~1982 年 4 月
JETRO キトー(
キトー(エクアドル共和国)
エクアドル共和国)事務所開設・所長
1986 年 9 月~1990
月~1990 年 4 月
JETRO サン パウロ(
パウロ(ブラジル)
ブラジル) センター 次長
1991 年 1 月~3 月
総務庁(内閣府)派遣第 3 回「世界青年の船」主任指導官
として、米国、メキシコ、ベネズエラ、コスタリカへ出張
1996 年 6 月 兵庫県「ブラジル・NAFTA
兵庫県「ブラジル・NAFTA 経済調査団」の一員として
米国、メキシコ、ブラジルへ出張
1997 年 8 月「神戸・ミラノ・ファッシヨン・シンポジュム」開催準備の
ためイタリアへ出張
1998 年 11 月 JETRO定年退職
1998 年 11 月~2004
月~2004 年 4 月
JETRO神戸事務所貿易アドバイザー(嘱託)
語学履修:
1976 年 8 月~11
月~11 月
JETRO 語学研修としてスペイン語インテンシブ・コースを
履修
1978~
1978~1980 年 Quito Catholic University 外国人コース(スペイン語)
1983~
1983~1985 年 大阪外国語大学 2 部スペイン語学科聴講生
2
1998~
1998~1999 年 神戸市外国語大学 2 部スペイン語学科聴講生
はじめに
国際交流とは:国際間の異文化や異なったシステム等の相互理解と交流?
国際交流とは:国際間の異文化や異なったシステム等の相互理解と交流?
私が考えている「国際交流」とは、
「国際間の異文化や異なったシステム等の相互理解と交
流」であり、英語で言えば、International exchange among(of) different culturesand systems
と云うことになるでしょう。
1.子供時代の体験と夢
(1)戦中~
(1)戦中~戦後の疎開生活
・1945 年 4 月~8 月 防空頭巾を被って通学
・1946 年 11 月 新憲法公布のポスター書き
・1947 年 昭和天皇の行幸を目撃
私は、敗戦の年(1945
私は、敗戦の年(1945 年)に富山県の田舎の国民学校に入学し、敗戦直後のⅠ~2年生の
年)に富山県の田舎の国民学校に入学し、敗戦直後のⅠ~2年生の
間に3度の転校を余儀なくされた。
敗戦直後の2年生の時に、
「新憲法」のポスター書きをさせられ、3年生に時には、昭和天
皇の行幸に直面した記憶が、今でも強く残っている。
この行幸は、我が人生の師とも言うべきオーテス・ケーリさんが、終戦直後、皇室の民主化
と開放策の一環として、昭和天皇の弟であった高松宮殿下と数回お会いして進言された可能
性がある。
私は、戦時体験者の1人として、戦後65年経過した現在でも、あの15年戦争の責任追及
が未だになされていないように思っている者です。同じ敗戦国であっても、戦争追及につい
が未だになされていないように思っている者です。同じ敗戦国であっても、戦争追及につい
ては、日本とドイツとは非常に違っているのではないでしょうか。
(2)未知なる世界への憧れ
・古い港町に育って
・外国航路の船にロマンを抱く
人間の一生には、子供時代の夢や体験等が大きく影響すると思うが、私は、親父が船乗り
であったこともあり、また、富山県の古い港町での生活が長かったので、時折入港する外国
航路の船を見ては「将来、外国に行ってみたいなあ、
」と夢を持っていた。
その子供時代の夢とロマンが、社会に出てから貿易の世界でパン代を得るきっかけになって
その子供時代の夢とロマンが、社会に出てから貿易の世界でパン代を得るきっかけになって
いる。
2.同志社教育と異文化との出会い
(1)キリスト(教)との出会い
3
・チャペル・アワーの説教
・宗教センターの利用と4人の教師
私は、同志社に入って初めて異文化であるキリスト教(又はキリスト)に出会い、チャペ
ル・アワーには殆ど出席した。全学休講でチャペル・アワーがあるにも拘わらず、出席する
教職員が少ないので、大塚総長にクレームをつけたこともあった。
チャペル・アワーの説教が動機となって聖書を習ったのは、宗教センターの公開講座で、外
国人教師では G.G.Loyd(英国
、日本人教師では河崎洋子さんと笠
G.G.Loyd(英国人
英国人)と John Young(米国人)
Young(米国人)
原芳光さんの4人から聖書を教えてもらった。
半世紀経た現在も、
「西宮市民大学」で神戸女学院名誉教授である茂先生より週1回、聖書を
教えてもらっている。
但し、神・キリスト・聖霊の「三位一体」を信じられないので、教会には通っていない。
(2)スペイン語との出会い
・忘れ難き 2 人の教師
私にとっては、スペイン語もキリスト教と同様に異文化であったが、将来、貿易会社に入
って、ラテン・アメリカとの貿易をやってみたい、との夢もあって、当時、スペイン語講師
って、ラテン・アメリカとの貿易をやってみたい、との夢もあって、当時、スペイン語講師
であった長南実先生と同志社大学教授大島先生より初めてスペイン語を習った。
大島先生は、「サラリーマンの税金は高すぎる」との裁判をされ、新聞紙上で有名になった。
(3)アーモスト館での教育(Liberal
(3)アーモスト館での教育(Liberal Arts)
Arts)
私は 1960~
1960~63 年までアーモスト館でオーテス・ケーリ一さん一家やアーモスト・フェロー
と共同生活を送ったが、アーモスト館では、先輩・後輩のタテ関係での生活ではなく、ケー
リさんが命名するニック・ネームで呼び合い、その人格的な人間関係は卒業後の今でも続い
ている。
私がケーリさんからもらったニック・ネームは「ベッサ」で、その由来は、同期生が何時
私がケーリさんからもらったニック・ネームは「ベッサ」で、その由来は、同期生が何時
もラテン音楽のトリオ・ロス・パンチョス(Trio
パンチョス(Trio Los Panchos)の歌
Panchos)の歌 Besa me mucho(Kiss Me
Much)を唄っており、彼と私のニック・ネームが「ムーチョ」
「ベッサ」と命名された。
Much)を唄っており、彼と私のニック・ネームが「ムーチョ」
そのニック・ネームが、卒業後に私がラテン・アメリカで働くようになった遠因であるよ
うに思うことがある。
① アーモスト館の歴史と国際精神(資料1.<
アーモスト館の歴史と国際精神(資料1.<略>)
・Nichols(
Nichols(1900~
1900~25)
25)Tablet
アーモスト大学初代学生 Stewart Burton
Burton Nichols のタブレット
・Neesima (1843~
(1843~90) Tablet
同志社創立者新島襄のタブレット
4
上記2つのタブレットは、1932年にアーモスト大学よりアーモスト館が寄贈された際に
併せて寄贈され、同志社の国際交流のスピリットである。現在でも、毎年5月に開催される
アーモスト館開館記念日に、我々アーモスト館で教育を受けた卒業生は、このタブレットを
朗読してから、同志社アーモスト・クラブ(DAC
朗読してから、同志社アーモスト・クラブ(DAC)の総会を開催している。
DAC)の総会を開催している。
このタブレットは、戦争中といえども、同志社当局の努力により、軍部に没収されなかった。
このタブレットは、戦争中といえども、同志社当局の努力により、軍部に没収されなかった。
このタブレットと併せて、アーモスト大学総長より同志社総長(大工原銀太郎)宛に、
「アー
モスト大学からの贈呈書簡」が贈られており、そのなかに次のような重要な文言が明記され
ているので、関連箇所のみ読みます。
「拝啓 同志社創立者ジョゼフ・ハーデイ・二イシマと、最近まで同志社の教員の1人であ
り、アーモスト大学の学生代表であったスチュアート・バートン・ニコルズとを併せて記念
するために、一つの建物を同支社大学に贈呈したいとのわれわれの願望を促進するために、
これまで幾度かの機会に分けて総額4万ドルを送付しました。
、
、
、
、
、
、
これまで幾度かの機会に分けて総額4万ドルを送付しました。
我らの願うところは、同志社当局に委託されるこの建物が、アメリカと日本、同志社とアー
モストの間の善意の精神を永続させ、増加させるための中心として用いられることである。
また、願わくば、この建物が東洋と西洋の文化、思想、理想の共通の場となり、また両国民
の相互理解と寛容を増加せしめるための一手段とならんことを、
、
、
」
(出所)石井信平編集「アーモスト・スピリット」
より抜粋
上記4万ドルの中、2万5千ドルは故ニコルズの母親が寄贈された。
本日(11
、キャンパス内で、フレンド・ピース・ハウスでアーモスト・フェローと
本日(11 月 22 日)
一緒に生活して国際交流を希望する寮生募集の案内を見たが、アーモスト・フェローは何故
アーモスト館で生活しないのか大変疑問に思っている。
同志社当局は、私が読み上げた書簡の精神を裏切っているように思われる。
・Otis Cary(
Cary(1921~
1921~2006)
2006)Tablet
アーモスト館館長であった Otis Cary さんのタブレットは、同志社大学が作成したものでは
なく、ケーリさんより教育を受けたアーモスト館出身の OB 達の寄付で作成され、
2009年5月30日に開催された同志社アーモスト館開館77周年記念式典の際に除幕式
2009年5月30日に開催された同志社アーモスト館開館77周年記念式典の際に除幕式
が行われ、アーモスト館の2階に設置された。
②アーモスト館の週間行事
・懇談会(毎週月曜日 7 時~9
時~9 時)
懇談会のスピーカーは、内外の著名人で、特に忘れ難い人は、当時、米国大使であったライ
シャワーさんとハバード大学教授であったリースマンである。
この懇談会では、スピーカーに対する礼儀として必ず質問することが求められた。
5
・寮会(毎週月曜日夜 9 時~深夜)
門限を決めるにも多数決で決めないで徹底的に議論する訓練を受けた。
「安保反対声明文」を
明徳館前に公表するに際しては、徹夜の議論をしたが、安保賛成者が 1 人いたので、声明文
はアーモスト館寮生有志とした。
ケーリさんは、寮会を通じて、民主主義の理念や少数意見を尊重することを教えられたので
はないか、と理解している。
・English Speaking Day(毎週火曜日
Day(毎週火曜日)
毎週火曜日)
田舎者の私には英語が苦手だったので、この日は朝早く館を出て、夜遅く帰ったこともあっ
た。今から思うと、勿体無いことしたものだ。
・Night Service(毎週水曜日夜)
Service(毎週水曜日夜)
キリスト者であるか否かを問わず、自分の思想・信条等を述べる場であったが、他人の前で
キリスト者であるか否かを問わず、自分の思想・信条等を述べる場であったが、他人の前で
自分の価値観等自己表現する訓練となった。
・研究会(毎週木曜日夜)
講師はケーリさんやアーモスト大学留学から帰った藤倉先輩達であった。
「New
「New York
Times」の記事を読みながら、主として米国の政治状況について教えられた。
Times」の記事を読みながら、主として米国の政治状況について教えられた。
③オーテス・ケーリ館長の人間教育
正当な理由が無い限りアーモスト館の寮行事に欠席することは許されず、超多忙なケーリ
さんも必ず出席された。その目的は、日々のプログラムを通じて、寮生達に「Liberal
さんも必ず出席された。その目的は、日々のプログラムを通じて、寮生達に「Liberal Arts」
Arts」
と「民主主義」の意味を頭と身体で理解させることであったのだはないか、と思っている。
と「民主主義」の意味を頭と身体で理解させることであったのだはないか、と思っている。
新島襄の言葉を借りれば、ケーリさんの裸の教育は、
「知育」
「徳育」
「体育」の総合バラン
ス教育にあった。
④ケーリさんから受けた人間的インパクト
学生時代にケーリさんから受けた人間的インパクトを、卒業後に自分なりに整理した内容
を簡単にまとめれば、以下の通り。
・1 人 1 人の個性を最大限に引き出し、如何なる場合でも人間(Individual
人の個性を最大限に引き出し、如何なる場合でも人間(Individual)としての
Individual)としての
主人性を発揮する精神と行動力の養成
・何でもよいから、誰にも負けないものを一つ継続して実践する
・何でもよいから、誰にも負けないものを一つ継続して実践する
・組織人(Organization
・組織人(Organization Man)である前に、良き個人(
Man)である前に、良き個人(Individual
)である前に、良き個人(Individual)であれ
Individual)であれ
・問いを問い続ける人間であれ
ケーリさんは、私にとって「人生の師」的存在である、と云ってもよい。
3.ラテン・アメリカとのつきあい
タイトルに「つきあい」と書いた理由は、多くのラテン・アメリカ諸国を訪問したからで
あるが、私が訪問したラテン・アメリカの国々は、①メキシコ(4
、②ギャ
あるが、私が訪問したラテン・アメリカの国々は、①メキシコ(4 回、内 1 回は船)
6
テマラ(1回)
、③エル・サルバドール(1回)
、④コスタ・リカ(2回、内 1 回は船)
、⑤パ
ナマ(4回)
、⑥コロンビア(3回)
、⑦ベネズエラ(2回、1
、⑧エクアドル(3回、
ナマ(4回)
、⑦ベネズエラ(2回、1 回船)
駐在 1 回)
、⑨ペルー(10
、⑩ボリビア(2回)
、⑪チリー(2回)
、⑫アルゼンチン
、⑨ペルー(10 回以上)
(3回)
、⑬パラグアイ(2回)
、⑭ウルグアイ(1回)
、⑮ブラジル(5回、内駐在1回)で
ある。
この中で第 3 回「世界青年の船」
(1991
(1991 年派遣)で訪問した国は、メキシコ、ベネズエラ、
コスタ・リカの 3 カ国。
(1)ラテン・アメリカとは
日本では中南米と称されているが、正確にはラテン・アメリカ(Latin
日本では中南米と称されているが、正確にはラテン・アメリカ(Latin America)
America) と云う
べきである。英国からの移民で始まった北米とは違い、スペイン人やポルトガル人等ラテン
べきである。英国からの移民で始まった北米とは違い、スペイン人やポルトガル人等ラテン
系の国々の人達が植民し、支配した地域を指すので、ラテン・アメリカと称される。
コロンブスが第 1 回航海からスペインに帰国した後の 1494 年、ローマ教皇の裁定「トルデ
シーリャス条約」により、当時、Indias(
シーリャス条約」により、当時、Indias(インドを含む東アジア全体
Indias(インドを含む東アジア全体)
インドを含む東アジア全体)と称されていた地域での
スペイン領土とポルトガル領土の取り決めがなされ、ポルトガル人が発見した土地が現在の
ブラジル領土になっている。
(2)ラテン・アメリカ征服に係る4人の人物
①コロンブス(Cristo
①コロンブス(Cristobal
Cristobal Colon:1451~
Colon:1451~1506)
1506)
“新大陸”到達
第 1 回航海
コロンブス(英語名)の第 1 回目の航海により、
「新大陸が発見された」と云うことがよく
言われるが、近年になってから、コロンブスが発見したのは「新大陸航路」であり、そ
の結果、
「新大陸」に到達したと云うべきである、と言われようになった。
コロンブスがスペインを出港した 1492 年 8 月 3 日は、
「ユダヤ人追放令」によるユダヤ人
のスペイン出国最終日でもあったので、その日には、スペインより 15 万~20
万~20 万人のユダヤ
人がスペインから出国したと、言われている。
人がスペインから出国したと、言われている。
従って、コロンブスの航海目的は、Indias
従って、コロンブスの航海目的は、Indias での金銀や香料等の発見とか、発見した土地での
キリスト教の普及とかの他に、ユダヤ人の安住の地を探すことであったのではないか、と云
う見方をするドイツの学者も現れている。
コロンブスの名前は、世界のあらゆる場所で使用されており、米国のコロンビア大学やコー
ヒーで有名な南米の国コロンビアも、コロンブスから命名されている。
②神父バルトロメ・デ・ラス・カサス(Fray
②神父バルトロメ・デ・ラス・カサス(Fray Bartolome de Las Casas:
Casas:1484~
1484~1566)
原住民(In
原住民(Indio
Indio)の保護官、新大陸征服の審問者
dio)の保護官、新大陸征服の審問者
ラス・カサス神父は、1502
ラス・カサス神父は、1502 年の第 4 回航海で Espanola 島に渡り、現在のキューバ、メキ
シコ、ベネズエラ等で原住民にキリスト教を宣教していたが、当時の大西洋を何回も往来し
7
て、Indias
て、Indias におけるスペイン人の侵略や先住民の虐殺等をスペイン国王や王子に報告し、生
涯を通じて原住民の生命と人権を守る運動を展開した。
ラス・カサス神父は、自分が目撃・体験したスペイン人による Indias の破壊及び原住民虐
殺に関する記録として、
「Brevisima
「Brevisima Relacion de La Destruccion de Las Indias」
Indias」(「インデイ
アスの破壊についての簡潔な報告」と「Historia
アスの破壊についての簡潔な報告」と「Historia de Las Indias」
Indias」(「インデイアス史」)
「インデイアス史」)を遺
しているが、前者は大阪外国語大学教授染田秀藤先生によって翻訳され、後者は私が学生時
代にスペイン語を習った長南実先生が 10 年の歳月をかけて翻訳され、それぞれ岩波書店より
発行されている。
私は、インカ帝国の第 2 の都であったエクアドルのキトー(Quito
の都であったエクアドルのキトー(Quito)で約
Quito)で約 4 年半駐在したの
で、帰国後にラテン・アメリカの歴史とラス・カサスの書物を勉強する目的で、大阪外国大
で、帰国後にラテン・アメリカの歴史とラス・カサスの書物を勉強する目的で、大阪外国大
学夜間聴講生となり,これらラス・カサスの文献を読み始め、今後とも原書を読むことを残さ
学夜間聴講生となり これらラス・カサスの文献を読み始め、今後とも原書を読むことを残さ
れた人生における宿題としている。
如何なる歴史であれ、征服された立場からの歴史も勉強することが不可欠であろう。
③エルナン・コルテス(Hernan
③エルナン・コルテス(Hernan Cortes:1485~
Cortes:1485~1547)
1547)
Azteca 王国の征服(1521
王国の征服(1521 年)
サラマンカ大学出身のインテリであったが、アステカ王国の金銀・財宝を奪い尽し、アス
テカ王国を滅亡させてしまった。
④フランシスコ・ピサロ(Francisco
④フランシスコ・ピサロ(Francisco Pizarro:1476
Pizarro:1476~
1476~1541)
1541)
Inca 帝国の征服(1532
帝国の征服(1532 年)
ピサロは、パナマを拠点にして金銀を探していたが、コルテスのアステカ王国滅亡の話に
刺激され、パナマ地方の原住民から聞いた南の国(インカ帝国)を探し、現在のエクアドル
海岸から上陸して、コルテスと同様にインカ帝国の金銀・財宝を奪い、インカ帝国最
後の王であるアタワルパを処刑してし、現在のリマ市を作った。
4.ラテン・アメリカでの異文化体験
4.ラテン・アメリカでの異文化体験
(1)初めて訪れたラテン・アメリカ印象(1973
(1)初めて訪れたラテン・アメリカ印象(1973 年)
初めて訪れた国は中米のグアテマラ、エル・サルバドル、コスタ・リカ、パナマであるが、
とりわけグアテマラの印象が強く残っている。
その理由は、グアテマラはマヤ文明の中心地であり、原住民は我々アジア人と良く似てお
り、何万年前かにベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸を南下した民族の末裔と言われてい
るが、現在に至るも民族衣装を着て長年の伝統を守っているからである。
1992 年に「新大陸発見」500 周年を記念するオリンピックと万博がスペインで行われた際、
周年を記念するオリンピックと万博がスペインで行われた際、
グャテマラを中心として先住民達が「新大陸発見」に大々的な抗議運動を展開し、その一部
は米国のワシントンでもデモ行進を行った経緯がある。
8
グアテマラでは内戦で多くの国民が軍部によって虐殺されたが、肉親全員が虐殺され、米
国と結託した軍部に対して大きな国民抵抗運動を行っていたリゴベルダー・メンチュウ女史
が、1992
が、1992 年にノーベル平和賞を授与された。
(2)インカ帝国(エクアドル)での生活体験(1977
(2)インカ帝国(エクアドル)での生活体験(1977~
1977~82 年)
首都キトー市(高度 2900m)には、スペイン人の植民初期の古い教会が多く残っており、
2900m)には、スペイン人の植民初期の古い教会が多く残っており、
首都から 2 時間余りのところには、現在も先住民の町が残っており、インカ帝国時代の風景
時間余りのところには、現在も先住民の町が残っており、インカ帝国時代の風景
や名残が非常に強い。
私が、ラス・カサス神父の著書を読んで、目から鱗が落ちるようにその思想に共鳴したの
は、自分がインカの匂いと香りがするエクアドルで、先住民達の生活を観ながら 4 年半余り
の生活を体験した影響が非常に強い。
(3)人種のるつぼブラジルーその光と影―(1986
(3)人種のるつぼブラジルーその光と影―(1986~
1986~90 年)
私が駐在していた 1980 年代後半のブラジルは、年率約 2,000%のハイパー・インフレの国
2,000%のハイパー・インフレの国
であったが、今世紀初めに労働党から立候補して当選したルーラ現大統領になってから、
であったが、今世紀初めに労働党から立候補して当選したルーラ現大統領になってから、
貧富格差も少しずつ是正され、去る10月に行われた大統領選挙でも、引き続き労働党のジ
ルマ・ルセフ女史が当選し、政治は安定し、経済成長率も7%達成の見込み。
ブラジルは、今や BRICs のリーダ的存在であり、今後のブラジルは、米国に替わってラテ
ン・アメリカの盟主になるだろう。
今後の課題は、経済面では「闇経済」の廃止、社会面では教育格差の是正と治安対策であ
ると思われるが、これだけは一朝一夕に好転する見込みはなく、とりわけ治安の悪化が
ブラジル最大の癌と言えよう。
(4)ラテン・アメリカから学んだこと等
(4)ラテン・アメリカから学んだこと等
①ラテン・アメリカは 33 か国で構成されているが、全体的に共通した良い面は、人間の生活
リズムがゆったりしており、日本社会におけるようなこせこせした面が皆無で、ストレスを
感じないことである。裏で他人の噂をするような陰湿な人間関係も皆無である。
②日本の労働者社会(サラリーマン社会)では、組織優先であるが、ラテン・アメリカでは、
一般的には個人原理が優先され、且つ家族・親族間のつながりが非常に強い。
日本人も、仕事人間や組織依存型人間から脱して、家族や個々人の生活を優先する個の確立
が必要であろう。
ラテン・アメリカのどこの国でも、日本社会に見られるような残業はなく、管理職とい言え
ラテン・アメリカのどこの国でも、日本社会に見られるような残業はなく、管理職とい言え
ども定時退社が原則である。
③Amigo(
Amigo(Friendship)精神
Friendship)精神
例え中央官庁職員でも、信頼関係が出来ると非常に柔軟な対応をしてくれる。
例えば、自分が公務面で必要と思われる役所関係の人物には、誕生日プレゼントでもしてお
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けば、仕事面で非常にやり易くなる。
個人的関係では、家庭のパーテイに呼ばれるようになれば一生の友達と言えよう。
ラテン・アメリカでは、日本のような会社組織内でのパーテイは無く、どこの世界でも
ラテン・アメリカでは、日本のような会社組織内でのパーテイは無く、どこの世界でも
あくまで個人対個人の人間関係が優先される。日本のような上下関係の人間関係はない。
④政治意識の高さ
1970 年代後半より 80 年代初めにかけて、米国と関係が深かった軍事政権から民主政治
に移行し、今はラテン・アメリカ各国では民主主義が定着している。
国民の政治意識は非常に高く、特に近年は中道左派の政治が主流となっている。
日本と違って、何処の国においても理由無く投票しない場合には罰金が課される。
以上
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