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Page 1 占領下における日本史教育 和 はじめに 昭和20年ポツダム宣言

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Page 1 占領下における日本史教育 和 はじめに 昭和20年ポツダム宣言
占領下における日本史教育
兼
重
宗
和
はじめに
昭和20年ポツダム宣言の受諾により,日本は7年間GHQの占領下となっ
た。この間,日本の教育にも改革のメスが加えられた。この時期は,日本史
教育の面からすると昭和20年の「修身・日本歴史及ビ地理ノ授業停止二関ス
ル件」の指令から翌年の「学習指導要領」(社会科編)発行以前と以後の二
期に分けられよう。
本稿では,その占領下における教育改革のなかで,日本史教育はどのよう
に確立されたかを論じたい。
占領下初期における「日本史」教育の模索
戦後の教育は,大別すると昭和20年ポツダム宣言受諾後の占領下時期と,
昭和27年ポツダム政令廃止による独立回復以降の二期に区分されよう。ただ
し,今後は臨時教育審議会の答申をふまえた教育改革が実施されると三期に
分けられる。その第一期に教育改革の基本路線がしかれた。歴史教育はその
なかでどのように確立されてきたであろうか。
終戦とともに戦時教育の処理と旧体制清算のためCIEは,第1に昭和20
年10月22日に軍事教育・軍事教練の廃止,教科書から軍国主義的教材の削除
等を主な指令内容とした「Administration of the Educational System of
Japan(日本教育制度二対スル管理政策)」を,第2に同年10月30日に軍国
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徳山大学論叢
第26号
主義者・超国家主義者の教育機関からの解職,教育職員適格審査機関の設置
などを内容とした「Investigation, Screening, and Certification of Teachers
and Educational Officials(教員及教育関係官ノ調査,除外,認可二関スル
件)」を,第3に同年12月15日に学校における神道の教育・行事の禁止等
を内容とする「Abolitation of Governmental Sponsorship, Support,
Perpetuation, Control and Dissemination of State Shinto 〈Kokka
Shintδ, Jinja Shintδ〉(国家神道,神社神道二対スル政府ノ保讃,支援,
保全,監督虹二弘布ノ廃止二関スル件)」を,第4に同年12月31日に「Suspention of courses in Morals 〈Shushin> Japanese History and Geography
(修身,日本紙史論ビ地理停止二関スル件)」を指令した。第4の「修身,日'
本歴史,・地理停止二関スル件」は,翌21年1月11日に通達された。日本政府・
文部省は,既にこれ等指令を受ける前に自主的な改革をなしていたが,この
改革は不徹底であると,前記「四大教育指令」が出された。
昭和20年10月に文部省内に「公民教育刷新委員会」が設けられ,従来の修
身科を廃止し,政治経済,社会文化的内容を総合的に教育する公民科を新設
するように同年12月に文部省へ答申した。その答申の第2号に「六,純正な
る歴史的認識の重視,歴史的認識に於ても実証的合理的な精神を徹底せしめ
て事実を歪曲し真実を隠蔽するが如き態度や誤った精神主義を排除し,正し
い歴史的認識に基いて現実を判断せしめること1)」と,科学的な教育を今後
の方針として示した。
「修身,日本歴史及ビ地理停止二関スル件」は次の如くである。
一 昭和二十年十二月十五日附指令第三号国家神道及ビ教義二対スル政府ノ保障ト
支援ノ撤廃二関スル民間情報教育部ノ基本的指令二品キ且日本政府が軍国主義的及
ビ極端ナ国家主義的観念ヲ或ル種ノ教科書二執拗二織込ンデ生徒二課シカカル観念
ヲ生徒ノ頭脳二画面マンガ為メニ教育ヲ利用セルニ鑑ミ菰酒壷ノ如キ指令ヲ発スル
(i)文部省瓢飲二官公私立学校ヲ含ムー切ノ教育施設二於イテ使用スベキ修身日本
注1)上田薫編『社会科教育史資料』1(昭和49年)57頁。
128 一
1986年12月 兼重宗和=占領下における日本史教育
歴史及ビ地理ノ教科書及ビ教師用参考書ヲ発行シ又ハ認可セルモコレラ修身,日
本歴史及ビ地理ノ総テノ課程ヲ直チニ中止シ司令部ノ許可アル迄再ビ開始セザル
コト
(ロ)文部省ハ修身,日本歴史及ビ地理夫々特定ノ学科ノ教授法ヲ指令スル所ノー切
ノ法令,規則又ハ訓令ヲ直チニ停止スルコト
㈲ 文部省田本覚書附則(イ)二摘要セル方法二依リテ処置スル為メニ←う〔イ)二三リ影響
ヲ受クベキアラユル課程及ビ教育機関二於テ用ヰルー切ノ教科書及ビ教師用参考
書ヲ蒐集スルコト
9)文部省口引覚書附則(ロ)二摘要セル措置二依リテ本覚書二依リ影響ヲ受クベキ課
程二代リテ挿入セラルベキ代行計画案ヲ立テ之ヲ当司令部二提出スルコト之等代
行計画ハ薮二停止セラレタル課程ノ再開ヲ当司令部が許可スル迄続イテ実施セラ
ルベキコト
㈱ 文部省ハ本覚書附則㈲二摘要セル措置二二リ修身,日本歴史及ビ地理二用フベ
キ教科書ノ改訂案ヲ立テ当司令部二提出スベキコト
ニ 本指令ノ条項二依リ影響ヲ受クベキ日本政府ノ総テノ官吏,下僚,傭員及ビ公
私立学校ノ総テノ教職員ハ本指令ノ条項ノ精神五二字句ヲ遵守スル責任ヲ自ラ負
フベキコト
最高司令官二代リテ
参謀副官部参謀副官補
陸軍大佐 H・W・アレン
三 1 附則(/)教科書,教師用参考書蒐集ノ措置
2 附則(ロ)代行計画提出案
3 附則の改訂計画提出措置
附則 イ
教科書及ビ教師用参考書回収措置
文部省バー切ノ教育機関及ビ課程用二制定発行乃至認可セル修身,国史,地理科教
科書及ビ教師用参考書ヲ全部回収スベシ
東京,京都,大阪,神戸各地区二階テハ是等教材ノ回収ハ可及的速カニ如何ナル場
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徳山大学論叢
第26号
合ニモ昭和二十一年度新学期開始迄ニハ完了スベシ 尚該時期二於テ当司令部二対
シ回収本総部数,同総重量及ビ回収セル是等書籍ノ蒐集場所ヲ明記セル報告書ヲ提
出スベシ
尚日本ノ他ノ全地域二於ケル同教科書教師用参考書ノ回収二関シテハ昭和二十一年
四月一日二当司令部二対シ明細報告書ヲ提出スベシ 右計画報告ハ左記ヲ含ムモノ
トス
関係府県当局ヘノ命令,当覚書ノ照会,回収実施上ノ明細ナル注意,部数,重量及
ビ是等教科書ヲ製紙ノ為二中央パルプ工場二輸送スル如何ナル便アルヤニ就テ
附則 ロ
代行計画提出二関シテノ案
文部省ハ当覚書甘口リ影響ヲ受クベキ課目二代ルベキ代行教育計画実施案ヲ立案シ
可及的速カニ当司令部二提出スベシ
該代行計画ハ本覚書ニョリ停止サレタル課目ノ再開ヲ当司令部が許可スベキ時期マ
デ続イテ実施セラルベキモノトス 当計画ハ社会,経済,政治ノ根本的ナル真相ヲ
被教育者ノ世界及ビ生活二関聯セシメツツ提示スルコトヲ目的トスベシ 是等真相
ハ当司令部提供資料ニモ立脚シ教室内討論二依リ教ヘラルベキコト 出来心ル限り
討論ハ時事問題二関聯セシムルモノトス
文部省ハ教師用参考書ヲ発行シソノ参考書ノ中二於テ当計画ノ趣旨ヲ解明シ独立思
考ヲ助長スベキ討論法ヲ規定シ討論主要題目ヲ解題シ且新聞ラヂオ其ノ他ノ参考資
料ヲ列挙スルコト
附則 ハ
改訂案提出二関シテノ措置
文部省ハ可及的速カニ修身,国史,地理科用教科書教師用参考書改訂計画案ヲ立テ
之ヲ当司令部二提出シテソノ認可ヲ受クベシ
当計画案ハ昭和二十一年度新学年ヨリ使用サルベキ暫定的教材ノ準備ヲ目的トスベシ
当計画二包含サルベキ諸点ハ左記ノ通りトス 教材準備委員適当ナル内容ヲ持ツ主題
ノ選定,英訳,当司令部ヨリノ承認ヲ求ムルタメノ協議教科書印届吸ビ配布2)
2)注1)同書,11・12頁。
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この指令は,昭和20年10月頃にその基本方針が決定されていたようである。
海後宗臣氏はこの経過について,「東洋では書物を焼き,儒者を坑にすると
いうのは,非常に悪い政治であることを象徴しているので,この度の教科書
処理方法は,日本に対する戦後の文化方策として酷すぎると思われると言っ
たところが,その課員(C・1・E)は自分もこれはひどい仕うちだと考える。
しかしこうした戦時教科書の処理をしなければならない理由がある。それは
全世界の人々がアメリカの日本に対する処理の方法を見守っている。それで
教科書を全部とりあげてこれを廃棄したということは日本に対して連合国が
如何に教育を処理しているかを示す大きなジェスチャーである。これでジェ
スチャーは目立っようにしないと認められないから,これは日本の教育界に
我慢してもらわなければならない3)」と,回顧している。
この指令により日本歴史の授業は停止され,日本歴史の教科書および教師
用参考書は全国から全て回収され,その書籍類は製紙にして再利用されるこ
とになった。一方,この指令をうけた文部省は,昭和21年2月「修身,国史
及ビ地理教科用書ノ回収二関スル件」を発布し,国民学校の初等科国史上・
下,高等科国史上・下,中等学校の中等歴史二・三,歴史皇国篇(検定本)
一,師範学校の師範歴史本科用巻一・二が回収された4)。また,昭和21年4
月地方長官および学校長に「新学期授業実施二関スル件」が出され,国史の
授業を停止するよう厳しく言い渡された。そして歴史教科書・教師用指導書
および授業については「昭和二十一年度使用教科用図書ノ発行供給計画要
領」にて,「修身国史及地理ノ授業ハ二二停止セラレ,之が教科書ノ回収ヲ
進行中ナルモ,之が授業再開二関シテハ目下左ノ準備ヲ進メッッアリ。イ,
修身国史及地理ノ授業再開二至ル迄ノ代行教育計画 教師用指導書(仮称新
教育指針)ヲ編纂;中ニシテ聯合国軍総司令部ノ許可アリ次第発行供給ス。本
書ハ内容ヲ三部二分ケ,第一部二於テハ教育ノー般方針ヲ内容トシ,第二部
二三テハ具体的教育方法,例ヘバ討論二二依ル授:業ノ方法及其ノ資料,実例
3)海後宗臣著『海後宗臣著作集』第九巻(昭和56年)73頁。
4)注1)同書,26頁。
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等ヲ登載セルモノナリ。尚聯合国軍総司令部提供邸内ル「太平洋戦史」ハ高
山書院二於テ近ク発行,日本出版配給統制株式会社ヲ通ジテ供給セラルル予
定二藍,各学校ハ夫々之ヲ購入ノ上,国史等授業停止期間中ノ教材トシテ適
宜利用セラルベキモノトス」,「ハ,国史及地理 暫定教科書ヲ各学校別二編
纂発行予定ニシテ凡ソ六月中ニハ発行ノ見込ナリ。之が授業再開ハ文部省ヨ
リ別命アル艶語厳二禁止セラレアルモノナルニ付,特二留意セラレ度5)」と
した。すなわち,日本歴史の授業停止の間は,「太平洋戦史」が教材とし
て使用された。日本歴史の授業停止に関し,その後昭和21年6月「教科用図
書の使用について」や同年7月の「国民学校6青年学校・中等学校・師範学
校及び青年師範学校において使用する教科用図書に関する件」が通達され,
徹底した政策方針がとられた。
日本の戦時下における軍国主義的・超国家主義的な教育体制を一掃し,非
軍国主義化・民主主義化を目的とした教育の占領政策は,昭和21年4月の
「第一次米国教育使節団報告書」により,具体的な構想とその制度化への段
階へ移った。これには,歴史教育について次の如く記されている。
歴史および地理
歴史と地理は通常生徒をして,時間および空間の中に自らの位置を定めるに役立
つよう設けられたものである。すなわち歴史と地理は,生徒が歴史的展望,自己の
自然的環境の知得,さらにその環境とその他の世界との関連についての認識を発展
せしめうる客観的基礎を,与えるものと考えられている。
日本の歴史は,両学科の教授に関して,これと相容れない点を強調して来た。そ
の記録されたる歴史は,意識的に神話と混同され,その地理は,保身的にさちに宗
教的にさへ自己本位であった。
歴史科と地理科は,典型的日本カリキュラムの中で客観的学科としては,非常に
軽い位置しか与えられなかったので,政治的軍国主義的教育に大いなる役割をなし
たのであった。テキストのあいつぐ改訂は国策の線に沿って来,1939年(昭和14年)
5)注1)同書,28頁。
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最新の改訂版におけるような大損傷を受けたのであった6)。
日本の歴史教育は,客観性に欠け非科学的であるがゆえに,政治的軍国主
義的教育に大きな役割をはたす学科となったと批判した。そして歴史のテキ
ス『
gが回収されたため,「(1)適当な代行材料の供給(2)内容,観念および活
動のさらに大なる民主主義化のため教育課程の転換(3噺たなる歴史,地理
教材の選定のための適切な基準の確立.7)」の問題が起こっている。これに
対しては,テキストの書き直し期間中「(1)1926年(大正15年)版に用いられ
たテキスト材料の利用.(2)指導用としての教師用参考書を急いで調製するこ
と.(3)中学校以上における社会科学の研究の拡充,特に地方自治体の機構と
機能とに重点を置くこと.'
i4)諸外国民を取扱っているテキストの翻訳.(5)客
観的歴史と神話の分離および文学として外国神話とともに日本神話の保
でママコ
存.(6)自国民の業績の実例を生徒に知らせるため旅行の利用.(7)生徒の作業
計画としての歴史材料の客観的編集.8)」など臨時の処置として行う。また,
「歴史および地理のテキスト編集の責任は,文部省内にとどめられるべきも
のでない。日本の有能なる学者の委員会が設置され,日本歴史の書き直しの
ための,拠所ある客観的基礎材料を明らかにすべきである。9)」と,ただし
教科書の作成は報告書に概説される原則に従うよう指示した。そして,「地
理および歴史科の教科書は,(神話は10))神話として認め,そうして従前よ
りいっそう客観的な見解が教科書や参考書の中に現われるよう,書き直す必
要があろう。初級中級学校に対しては地方的資料を従来よりいっそう多く使
用するようにし,上級学校においては優秀なる研究を,種々の方法により助
成しなくてはならない。11)」とした。この報告は,ヂョーヂ・D・ストダード
博士団長以下27名の米国教育使節団,聯合国最高司令部民間情報教育部教育
6)教科教育百年史編集委員会編『原典対訳米国教育使節団報告書』(昭和60年)39・41頁。
7)注6)同書,41頁。
8)注6)同書,41・43頁。
9)注6)同書,43頁。
10)筆者加筆。
11)注6)同書,145頁。
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第26号
課の将校,文部大臣指命の日本側教育委員および学校・各職域の代表者間で
協議され,積極的提案として本報告がなされた。
文部省は,昭和21年5月教師のためにCIEと連絡をとり新教育の手引書
の編集作成をなし,「新教育指針」として示した。その中で「例えばこれま
での国史の教科には,神が国土や山川草木を生んだとか,をうちの尾から剣
が出たとか,神風が吹いて敵軍を滅したとかの神話や伝説が,あたかも歴史
的事実であるかのやうに記されてみたのに生徒はそれを疑ふことなく,その
真相やその意味をきはめようとしなかった。12)」と欠点・弱点を指摘し,日
本人の合理的精神のとぼしさ,科学的水準の低さを反省している。また,研
究協議題目に「1,日本の歴史を通じて,国民の平和を愛する精神を好む精
神とが,どんな形であらはれてきたかを研究しよう。13)」と,歴史教育を平
和教育に用いた。
昭和20年10月に「暫定初等国史(上・下)」の稿本が,文部省図書監修官
豊田武を中心とした委員会の意見に基づいて作成提出された。しかし,この
教科書には古事記・日本書紀に記述された説話がそのまま引用されるなどの
問題があった。よってGHQのトレイナーはこの原稿を拒否し,文部省外の
日本史研究者を編集委員とし,歴史教科書の著作を依嘱した。これにより,
昭和21年9月に小学校用歴史教科書「くにのあゆみ(上・下)」が,同年10
月に中等学校用に「日本の歴史(上・下)」が,昭和22年1月に師範学校用
に「日本歴史(上)」が,同年2月に同書の下巻が発行された。
「日本の歴史」の内容を目次によってみると,上巻は第1章が「日本の黎
明」で「原始文化」「小国家の成立」の2節からなる。以下,第2章「大和
朝廷の発展」は「国家の成立」「社会と文化」「大陸文化の摂取」の3節,第
3章「大化の改新」は「改新の先駆」「文化の改新」「新政の整備」の3節,
第4章「奈良時代」は「国運の隆昌」「文化の極昌」「庶民の生活」「仏教と
政治」の4節,第5章「平安時代」は「初期の盛運」「藤原氏の栄華」「文化
12)注1)同書,67頁。
13)注1)同書,84頁。
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の成熟」「地方の政治」「武士の興起」の5節,第6章「鎌倉時代」は「鎌倉
幕府」「社会と経済」「鎌倉文化」の3節,第7章「室町時代」は「建武の新
政」「室町幕府」「社会と経済」「対外関係」「文化の発達」の5節から構成され
る14)。「日本の歴史」の下巻では,第8章「封建制度の確立」に「国内統一
と対外政策」「政治組織の確立」「社会機構の整備」の3節,第9章「国民生
活の向上」に「経済の発達」「学問と芸術」「信仰及風習」の3節,第10章
「江戸幕府の政治」に「朝廷と幕府の関係」「政治の理想と現実」「政治の推
移」の3節,第11章「封建制度の衰亡」に「社会機構の破綻」「幕末の政情
と外交問題」「武家政治の終焉」の3節,第12章「世界の動向と明治維新」
に「維新前後の世界の動向」「明治維新」「社会・経済の変化と西洋文化の輸
入」の3節,第13章「立憲政治の発達」に「自由民権運動」「立憲政治の確
立」の2節,第14章「対外関係の推移」に「外交の展開」「日清・日露戦
役」の2節,第15章「明治の経済と文化」に「経済界の発展」「文化の状態」
の2節,第16章「大正・昭和時代の推移」に「国際関係の推移」「国内情勢
の推移」「満州事変から太平洋戦争へ'5)」の3節によって内容が構成される。
日本歴史の各教科書の発行とともに文部省は「新国史教科書について」を
同時に発表した。これによると,新教科書の編纂方針として「←)神話伝説を
省いて科学的に一,」「この科学的・客観的態度が全体を一貫」し,「仁)王侯
貴族の歴史だけでなく,人民の歴史を一,」「歴史が人民と結びついて成り立っ
てみることを,つねに注意」し,「E)狭い日本から見るだけでなく,広い世
界史的立場から一,」「近代日本が「世界の動き」を背景として取扱」われ,
「四戦争や政変の歴史よりも,産業経済文化の歴史を一,」「文化史の重視」
をしだ6)。また,新教科書の取扱いに関しては,「e旧教科書よりも相当に
増加した内容について,重点を逸せずに取扱ふこと。仁)「問題」を有効に利
用し,さらに教師が適切な問題を加へること。日戦時中に旧教科書で国史の
14)注1)同書,113頁。
15)注1)同書,126頁。
16)注1)同書,139頁。
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徳山大学論叢
第26号
一回分を既に学んで来た児童生徒に対しては,新教科書の精神を速かに徹底
させること。(四)初等科用の教科書をもって高等科を教へるにあたり,児童の
程度や社会的事情に応じて適切な取扱ひをすること。㈲本年度の後半期間に
一年分の授業を完結するやう時間配当を工夫すること17)」と,教.師に新たな
る工夫が必要であるとしている。そして「新国史教科書は,旧い日本への反
省と新しい日本の行く手とを端的に示してみる。「今度こそ,.ほんとうに,
国民が力をあはせて,日本を民主主義の国にするときであります」と,明る
く力強く少国民に呼びかけてみる18)」と,新日本史教科書のもつ最終的目標
を示した。
前記の日本史の教科書は,教育制度の激しい変動期であったため使用期間
が短かかった。「日本の歴史」は昭和22年11月、に改訂委員会が組i織されたが,
6・3制の実施や教科書国定制度の廃止で改訂出版されなかった。「日本歴
史」は師範学校の廃止により使用されなくなった。「くにのあゆみ」は,「日
本の歴史」「日本歴史」に比べ最も長く使用され,小学校高等科でも「くに
のあゆみ」が使用されたため,6・3制が施行され,社会科が成立したが,
中学校2・3年で歴史が独立して扱われることとなり,しかるにここで本書
が使用されることとなった。
昭和21年10月,日本歴史の教科書の発行とともに,聯合国軍最高司令官総
司令部(民間情報教育部)より日本政府宛に「日本歴史の学課再開について」
を指令した。
一,「日本歴史の学課再開」に関する昭和二十一年九月二十日附の日本帝国政府終
戦連絡中央事務局提出の書面(C・L・〇四八三九号)参照
二,文部省が出版し或は認可する教科書を使用する官公私立学校各教育機関に於て,
日本歴史の学課を再開する事を許可する。但しその国史の授業に於ては,文部省
に於て編纂し聯合国軍最高司令官総司令部に於て認可せる教科書に限り之を使用
すること。
17),18)注1)同書,139頁。
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最高司令官代理
高級副官大佐
.ジョン・ピー・クーレー19)
この指令をうけ,1週間後の昭和21年10月19日に文部次官は諸学校長・地
方長官に「国史の授業再開に付て」を次のごとく発した。
昨年十二月三十一日附聯合国軍最高司令部指令並に之に基く本年一月十一日暴発
三八号文部次官通牒に依って停止せられてみた国史に付ては,別紙の通聯合国最高
司令部より授業再開の許可があったから,左記事項に御留意の上,其実施に遺憾の
ない様に取計はれたい。
記
一,授業の再開は,文部省に於て編纂し聯合国軍最高司令部の認可した教科書を使
用することを条件とするものであること。前項の教科書は,国民学校用「くにの
くママ
あゆみ」上,下,中等学校用「日本の歴史」上,下及師範学校用「日本の歴史」
上,下であってその中,国民学校用教科書は既に製造を終り輸送中であるが,そ
の他は多少おくれる見込である。授業はすべて之等の教科書が到達した時から再
開すること。
二,国民学校用図書の上巻は,初等科第五学年及高等科第一学年に,下巻は初等科
第六学年及高等科第二学年に於て使用せしめること。但し,高等科に於ては児童
の心理的,社会的諸事情を考慮して適切な指導を行ふこと。
三,青年学校に於ては,教師に於て国民学校用又は中等学校用の教科書を使用し,
適宜授業を行ふこと。所要の冊数は学校をして取次,供給所を通じて至急各発行
会社に申込ませること。
四,授業は,本年度中に一応終了する予定を以て時間配当を計画すること。
五,授業の指導要旨については追って詳細に通牒すべき筈のこと。
(中略)
聯合国軍最高司令官総司令部発
19)注1)同書,54頁。
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徳山大学論叢
第26号
(民間情報教育部)AG(八号)
(司令官閲一二六六号)
昭和二十一年十月十二日
日本帝国政府宛覚書
終戦連絡中央事務局経由
最高司令官代理
高級副官大佐
ジョン・ビ・クーレー
日本歴史の授業再開について
一,「日本歴史の授業再開」に関する昭和二十一年九月二十日附の日本帝国政府終
戦連絡中央事務局提出の書簡(C・:L・〇四八三九号)参照
二,文部省によって準備され,聯合国軍最高司令部の承認を得た教科書のみが用ひ
られるといふ条件で,国定又は検定の教科書を使用する官公私立学校を含む総て
の教育施設に覧て,日本歴史の授業を再開することを許可する20)。
日本歴史の授業の再開許可により,これ迄の国家主義・軍国主義的な教育
から一転して民主主義・平和主義の基礎としての歴史教育へ転換した。
昭和21年11月,文部省は地方長官・学校長に「国史授業指導要項について」
通達した。これによると,新国史教育の方針は「正しい国史の教材を通して,
歴史的事象に対する思考力と判断力とを養ひ,以てわが國家及び社会の発展
を総合的に且つ批判的に理解せしめると共に,新日本建設に対する自覚と実
践に培ふ。21)」と示した。また,新教科書編纂の趣旨(授業全般について留
意すべき匙)について「1,軍国主義,極端な國家主義,國家神道の三三並
びに排外的思想を助長する教材を排除する。2,公正の立場からあくまで真
理を追求する科学的態度を以て,歴史の発展を総合的合理的に把握させ,併
せて正しい傳統の理解にっとめさせる。3,単なる治乱興亡の跡をたどり,
政権争奪の歴史に偏することなく,町民生活の具髄的展開の様相を,社会・
20)注1)同書,139頁。
21)石川 謙著『近代日本教育制度史科』第23巻(昭和39年)10頁。
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経済・文化の各方面より明かにする。4,濁断偏狭の史観に陥ることなく,
世界史的立場に立ち,国際親善,共存共栄,文化の交流互恵の史実を挙げ,
以て世界平和の増進並びに人類文化の進展に寄上せしめる。22)」と示した。
教材の取扱上特に留意すべき点として,「古代及上代史」に関し,教師は冷
静な批判的態度を持ち,常に学会の成果に留意して授業内容を深め教授する
こと。「古代及上代史」の「神話・話説」は,歴史的事実と混同しないこと
が必要であり,教科書から省かれた。「日本民族の由来」では,神秘的取扱
を排し,生成・渡来の経緯等は断定をしないこと。「日本国家の起源」では,
記紀の最初の記述が神話的要素を含んでいるため,今後は考古学・社会学等
の研究成果や大陸の文献を参照し,学問的に客観的史実と認められる事項の
み教える。「日本文化の始源」は,考古学的な資料を羅列することなく,外
来文化との関係を明らかにし,また農耕文化の渡来に伴う社会組織の変化等
に注意し,文化統一の経過を説明すること。「摂関政治」は,政治史上の一
現象として理解させ,社会・文化に及ぼした影響を説明する。次に「中世及
び近世史」は,武家政治が成立するに至った社会的・歴史的事情を明らかに
し,封建社会の実態を批判的に説明し,それが現代に及ぼした影響を適切に
考慮する。「中世及び近世史」の「建武中興」は,社会の動きからこれを取
りあげ両統こう立の問題もありのままに説明する。「戦争・人物」は,従来
戦争史的叙述が詳細を極めて英雄中心主義に陥る傾向があったのを排除し
て,一般社会および国民生活との関係で扱い,社会の進歩発展に寄与した人々
の功績を考慮し,これを郷土史とも結びつけて取りあげる。「社会・経済史
的事象」では,従来顧みられなかった農民の生活や商工業都市の発達,庶民
文化の向上等の史実にも注意して現代との関係を明らかにする。次に「現代
史」では,現代史の正しい理解により新社会が建設されるので一層重視する
必要があり,ここでは資本主義や立憲政治の進歩等の史実を明らかにする。
その際,「外交問題」は歴史的事実に基づいて正しく取扱い,国際親善の立
22)注21)同書,10・11頁。
139
徳山大学論叢
第26号
場に立ち教授すること。また「対外戦争」は,日清・日露以下の対外戦争の
取扱いに特に注意し,満洲事変から太平洋戦争終結までの教授は資料の取扱
いを慎重にすること。「紀元」は,皇紀の算定に種々の学説があり不十分な
ので,一応西暦を採用する。「皇室」は,歴史的事実に基づき取扱う。
各学年で使用する教科書は次の通りである。初等科5年では,古代から安
土桃山までを記述した「くにのあゆみ」上を,初等科6年では,江戸時代か
ら現代までを記載する「くにのあゆみ」下を,中等3年では,古代から室町
末期まで記述した「日本の歴史」上を,中等4年では,近世から現代までを
記載する「日本の歴史」下を,師範一年では「日本歴史」上を,師範二年で
は「日本歴史」下を,国民学校高等科1年では「くにのあゆみ」上を,国民
学校高等科2年では「くにのあゆみ」下を使用して教授することになった。
歴史授業の方法に関する注意として,国史の流れを理解させること,暗記
を強いらない,教授者は教科書以外の適切な問題を取上げること,初等科6
年・中等学校4・5年生の授業は最初の数時間を従来の既学習教材の整理批
判にあて,中等学校5年では現代史を中心に教える。初等科の時間配当は,
1週4時間とする23)。
以上のごとく歴史教育再開に際し,その基本的指導方針が示された。しか
し,これより約5か月後の昭和22年3月「教育基本法」「学校教育法」の公布
により4月から6・3・3制が実施され,歴史教育も変革をみることとなった。
二.社会科発足と「日本史」
社会科新設問題の検討が,昭和21年8月設置の教育刷新委員会で行われた。
聯合国最高司令部は米国各地の社会科のプランを示し,文部省はその中から
小学校社会科にバージニア・プラン,中学校社会科にミズリー・プランを参
考として,社会科学習指導要領の編纂の検討をした。そして,昭和22年3月
23)注21)同書,11∼15頁。
140 一
1986年12月 兼重宗和:占領下における日本史教育
の教育基本法・学校教育法の制定により,教育課程の改革がなされ,新しく
社会科が設けられた。
昭和22年3月差「学習指導要領 一般編」が出された。その第3章に新制
中学校の教科と時間数が示された。「社会」は,第7学年(中学1年)に175
時間(週5時間),第8・第9学年(中学2・3年)に各々140時間(週4時
間)があてられた。「国史」は第8学年に35時間(週1時間),第9学年に70
時間(週2時間)があてられ,「社会」とともに必修科目となった。
社会科が新設された理由は,同指導要領に次のごとくある。
この社会科は,従来の修身・公民・地理・歴史を,たS“一括して社会科という名を
つけたとし{うのではない。社会科は,今日のわが国民の生活から見て,社会生活に
ついての良識と性格とを養うことが極めて必要であるので,そういうことを目的と
して,新たに設けられたのである。たS“,この目的を達するには,これまでの修身・
公民・地理・歴史などの教科の内容を融合して,一体として学ばれなくてはならな
いので,それらの教科に代わって,社会科が設けられたわけである24)。
昭和22年5月に「学習指導要領『社会科編(1)(試案)」が,同年7月に
「学習指導要領 社会科編 (ll)(試案)」が発行された。「社会科編(1)」は,
小学校の第1学年から第6学年の生徒を対象に作成された。その中で「今度
新しく設けられた社会科の任務は,青少年に社会生活を理解させ,その進展
に力を致す態度や能力を育成することである。25)」と,また「社会科におい
ては,青少年が社会生活を営んで行くのに必要な,各種の能力や態度を養成
する26)」必要があり,「特に社会科は,民主主義社会の建設にふさわしい社
会人を育て上げようとするa「)」と述べている。
「学習指導要領 社会科編 (ll)(試案)」は,中学校第1学年から高等学
校第1学年までを対象に作成された。その中で「これまで社会科の内容とな
っている歴史・地理・公民などは,いずれも別々の教科として扱われて来た
24)注1)同書,202頁。
25),26)注1)同書,218耳。
27)、注1)同書,219頁。
141
徳山大学論叢
第26号
のであるが,一般社会科としては,本書に示してあるように,中学校あるい
は高等学校の生徒の経験を中心として,これらの学習内容を数箇の大きい問
題に総合してあるのであって,教科そのものの内容によって系統だてるよう
なことはやめることにした。28)」と記載する。
「学習指導要領 社会科編 (ll)(試案)」では,各学年とも各々6単元づ
っ設け,各単元は設問方式でなされ,以下その要旨,目標,教材の排列,学
習活動の例,学習判定の順に記載される。
昭和22年4月,「社会科実施について」が産せられた。これによると,「小
学校,中学校等における一般社会科,すなわち第一学年より第十学年までの
総合的に扱われる社会科は,その性質上,実施の時;期を一応九月の新学期ま
で延長せられたい。29)」とし,「第八学年,第九学年(中学校第二学年,第三
学年)において課せられる社会科中の国史は,教科書「日本の歴史上下」を
用いて学習を実施することは差支えない。30)」と,さらに「総合的に取扱わ
れる一般社会科を実施する迄の間の社会科に配当された時間は,昭和二十一
年五月七日再発学ニー○号の通牒に係る「公民教育実施に関する件」を参照
し,公民教師用書(国民学校用および中等学校用)にもとづいて,第一学年
より第六学年まで(小学校)は生活指導を中心にし,第七学年より第十学年
までは郷土調査,時事問題の討議等をも取入れて,授業を実施して差支えな
い。………郷土調査,時事問題の討議等の指導は,公民,歴史および地理担
当教師が協力してこれに当ることが望ましい。31)」と述べている。ここに於
て,小学校の全6学年,中学校の全3学年および高等学校第1学年まで,総
合社会科を学習させるとしながら,中学校第2・3学年で国史を並行して存
続させる矛盾を生みだしている。これは,国史教育が「くにのあゆみ」の編
纂をとおして体系化されたばかりで,社会科へ総合化されることに強い抵抗
があったからである。
昭和22年10月,「中等学校第四・五学年における国史教授について」が,
28)注1)同書,285頁。
29),30),31),注1)同書,456頁。前掲『近代日本教育制度史料』第23巻39・40頁。
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1986年12月 兼重宗和:占領下における日本史教育
学校教育局長より各知事に出された。
現在の中等学校で,第四・五学年生徒に,これまで,終戦前後のいろいろな事情
のため,国史の授業を満足に行うことができず,または,東洋史,西洋史の授業を
行って国史の授業を行っていない学校では,新制高等学校の教科に東洋史,西洋史
が含まれ国史が含まれていない関係上,生徒は国史に対する正しい理解をもたずに
終ることになるので,右のような学校においては,社会科中の一教科として適宜国
史の授業を選択履修させるよう指示されたい。
なお,教科書には当分「日本op歴史」を使用することとするが,これを右のため
特に配給することができない事情にあるので,生徒又は教師の手持のものを利用し
て実施させる.&う措置されたい32)。
昭和23年10月,「新制高等学校教科課程の改正について」が通達され,そ
の中の高等学校教科課程表に,社会として一般社会・国史・世界史・人文地
理・時事問題がおかれ,国史は第2・3学年にて175時間5単位とされた。
ただし,国史は選択とされた33)。ここにおいても,一般社会と国史が並列さ
れるという矛盾が生じている。
「高等学校社会科日本史世界史の学習指導について」が,,昭和24年4月に
教科書局長から発せられだ。その中に「それぞれの学習指導要領は目下作成
中であり,完成は昭和24年度末の予定であるが,概要はそれ以前に発表する」
予定であると,また指導にあたっては「(i)社会科の一般目標に合致すること。
(ロ)現代文化の歴史的背景を理解することにより現代社会の諸問題の意義を認
識すること。㈲歴史の発展の必然性を理解させること。(;)現代社会の生活文
化を総合的発展的に理解すること。㈲歴史が進歩の発展であることを理解す
ることにより,社会進展に対する自己の責任と情熱とをいだかしめること。
(A)歴史の時代観念を理解させること。(ト)各時代各社会に共通する人間性の
は握にっとめさせること。(チ)事実を合理的,批判的に取り扱う態度と技能
を育てること。(リ)史実の理解を通し,現在の社会並びに経済,政治の問題
32)注1)同書,457・458頁。前掲『近代日本教育制度史料』第23巻 323・324頁。
33)前掲『近代日本教育制度史料』第23周頃400・401頁。
143
徳山大学論叢
第26号
解決に必要な能力を発達させること。34)」等の社会科歴史学習の目標達成に
留意するよう述べた。この頃から国史は日本史と改称された。
そして,同年6月に「高等学校教科課程の一部改正について」発せられ,
「教科,科目の別を設けること」となり,「これまでは,社会と,それに属す
る一般社会,日本史,世界史,人文地理,時事問題もすべて一様に教科とよ
ばれ」ていたが,「今回それを別表の通り改正して,社会,数学などを教科
とよび,一般社会,日本史,世界史,時事問題をそれぞれ社会に属する科目35)」
とよぶことになった。これにより,社会科における日本史の位置付けが明確
になった。
一方,中学校に関しては,昭和24年5月に学校教育局長から「〔新制中学
校の教科と時間〕,の改正について」が発せられた。すなわち,各教科の年間
時間数を最大最小で示すこととなり,社会は第1学年140-210,第2学年
105-175,第3学年140-210時間とし,日本史は,第2学年35-105,第3
学年35-105時間と,弾力性をもたせた。そして,社会科と日本史に当てら
れる時間は,各々の時間をあわせて運営してよいこととなった。また,国史
がここにおいて日本史と改称された36)。
昭和26年3月,文部省初等中等教育局長から「中学校・高等学校学習指導
要領 社会科編 日本史の指導計画について」が発せられた。それによると,
「中学校および高等学校,社会科日本史の学習指導要領は,目下委員会によっ
て編修されつつありますが,今回,次のような日本史学習の目標の試案や,
単元作成上の参考資料を公表37)」するとし,「社会科 日本史の意義および
その学習計画については,後日の中等社会科学習指導要領において,詳しく
触れることになっていますが要するに,これは単に過去のことを知るために
学習するのではなく,現実の問題を理解し,民主的社会人として望ましい態
度,技能等を養うために,その手がかりを,おもに日本史の重要な史実に求
34)注33)同書,414・415頁。
35)注33)同書,415∼417頁。
36)注33)同書,275∼277頁。
37)上田薫編『社会科教育史資料』2(昭和50年)335頁。
144 一
1986年12月 兼重宗和:占領下における日本史教育
めようとするものであります38)。」と,また「学習の目標に照らしてもわか
るように,社会科日本史は,近代社会の理解に重点がおかれることは当然で
あり,近代以前の社会は,近代社会成立の歴史的背景として理解すること
に,その学習の重点がおかれなければなりません39)。」とし,「日本史の学習
における時代概念としては,「原始社会」・「古代社会」・「封建社会」・「近代
社会」の4類型に分けて取扱うことが便宜であり,これを常に,現代社会に
対比して理解することによって,日本の社会の発展がはあくできると考えら
れ40)」るとした。
昭和26年4月,「中学校教育課程時間配当表の一部改正」がなされた。す
なわち,「これまで中学校教育課程時間配当話中の」「日本史は」,「社会の一
部として,掲げられていたのにすぎませんが,、独立教科のような誤解を与え
がちであったりこれらの時間配当がある学年に固定していたために運営上不
便な点がありました。そこで今回これらに割り当てられていた時間を,」「社
会に」「加えて別表のように改正することにしました。」「したがって」「日本
史は各学年の生徒の必要に応じて」「社会の一部としてどの学年で授けて
も,あるいは時間を特設せずに,」「社会の教育計画中に融合させて授けても
よい41)」こととなった。社会の授業時間数は,第1学年140-210,第2学年
140-280,第3学年175-315となり,最大・最小時間数で示され弾力性のあ
る時間配当となった。これは,その後の「学習指導要領 一般編(試案)一
昭和26年(1951)改訂版一」においても同様であった。
この昭和26年7月改訂の「学習指導要領 一般編」に,高等学校の教科と
時間配当および単位数を載せ,これも昭和23年10月の「新制高等学校教科課
程の改正について⊥にある社会の時間配当と同じく,一般社会第1学年175
時聞5単位,日本史第2・3学年175時間5単位と定められた。同様に「一
般社会科は,必ず第1学年で5単位とらなければならない。社会科に属する
その他の科目のうち,どれか1科目5単位は,第2学年または第3学年で必
38),39),40)注37)同。
41)注33)同書,298・299頁。
145
徳山大学論叢
第26号
ずとらなければならない。一般社会科のほかに,2科目以上とることは自由
である。42)」とされた。
昭和26年12月に「中学校高等学校学習指導要領 社会科編 1 中等社会
科とその指導法(試案)昭和26年(1951)改訂版」が出された。第1章の
「社会科とその目標」に,「社会科と社会科学」の違いをあげ,次に「中等学
校の目標」として,理解6項目,態度7項目,能力・技能5項目より構成さ
れる「一般目標」をあげ,さらに「現在の中等社会科の教育課程では,中学
校においては一般社会科の形で課され,これとは別に日本史が課されてもよ
いことになっているし,高等学校第2学年以上の社会科は,日本史・世界
史・人文地理・時事問題に分かれ43)」ており,「これらの分化した社会科に
おいては,そのおもに取扱う分野にもそれぞれ特殊性がある44)」ので特殊目
標を設定した。それは,中学校日本史の特殊目標8項目,高等学校特殊目標
11項目で構成された。第H章の「社会科の教育課程」の「一般社会科と分化
した社会科」で,「中学校の社会科として,歴史・地理・公民の三科目に分
け,これらを必修として課す45)」ならば,「科目の数が全体としてはなはだ
しく多数となり,それぞれを一週きわめてわずかな授業時間で受け持つこと
になる。そしてこのような教育課程では,生徒は幾つもの小さな部屋に分離
されたような知識や考え方をばらばらに得るにとどまりがちである46)」し,
また「各科目の内容にはなはだしい重複をきたし,しかもそれぞれの科目に
よって教師が違う場合には,相互の関連もふじゅうぶんとなって,生徒は同
じようなことを違った醜聞に,違った教師からくりかえして教えられること
・が,しばしば起りがちとなる47)」ので,「そこで人間関係をその学習の中心
とする社会科関係のものについても,その内部の科目の境を外して,大きく
まとめたほうが中学校の教科としては有効ではないか48)」と,一般社会科一
42)注37)同書,288頁。
43),44)文部省著『中学校高等学校学習指導要領 社会編
(昭和26年)3・4頁。
45)注43)同書,8頁。
46),47),48)注43)同書,9頁。
146 一
1 中等社会科とその指導法』
1986年12月 兼重宗和:占領下における日本史教育
本主義を主張している。そして,中学校社会科に日本史が別に設けられたの
は,「矛盾のように見える。事実,日本史を一般社会科と別個に課さなけれ
ばならないという積極的理由は存在しない。しかし一方,過去の日本史が極
端な日本中心主義の思想の養成に大きな役割を演じていたことは否定できな
い。」「そこでせめて義務教育の間に,生徒に,日本の現代社会の歴史的背景
を誤りなく理解させたいとのことから,これが別個に設けられてもよいこと
になっているにすぎない。49)」よって「各学校の実際指導計画では,両者を
合わせたものを作ってさしつかえない。50)」とした。
そして,昭和27年10月発行の「中学校高等学校学習指導要領 社会科編
H一般社会科(中学校1年一高等学校1年,中学校日本史を含む)(試案)
昭和26年(1951)改訂版」には,「中学校の一般社会科は,第1学年は地
理的分野,第2学年は地理および歴史的分野,第3学年は歴史および政治・
経済・社会的分野の問題を中心として単元が構成され」,昭和22年版の「学
習指導要領 社会科編(E)」と同様にその単元は設問形式をとっている。そ
して皿付録「中学校日本史各時代指導上の参考目標および参考内容」に参考
目標があげられ,「原始社会」に「理解」9項目,「態度・能力」に2項目,
「古代社会」に「理解」10項目,「態度・能力」に3項目,「封建社会」に
「理解」6項目,「態度・技能」に3項目,「近代社会」に「理解」8項目,
「態度・技能」に8項目を設けている。すなわち,「原始社会」「古代社会」
が「理解」「態度・能力」で目標が構成されるのに対し,「封建社会」「近代
社会」では「理解」「態度・技能」で構成され,前者の「能力」が後者で
「技能」にされた。
以上のように,「一般社会」と並んで置かれた「日本史」は,昭和31年の
改訂により日本史も社会科の指導計画の中に織りこまれた。これに関しては
別稿で述べることとしたい。
49,50)注43)同書,10頁。
147
徳山大学論叢
第26号
おわりに
昭和22年,学校教育法が施行され,同年に小学校・中学校,23年に高等学
校,24年に大学が新制の学校として発足した。
中学校では一般社会科に並行して国史が置かれた。これは,社会科発足に
対して「くにのあゆみ」編纂によって体系化された国史教育の関係者等に強
い抵抗があって,両者の検討が十分されずに社会科の実施となったからであ
る。これは,社会科出発時点で歴史教育の位置づけが明確でなかったことに
原因しよう。
文部省は歴史教育をどのように考えていたであろうか。
昭和21年に「国史授業指導要領」を出しているが,「学習指導要領」では
昭和22年版「学習指導要領 社会科編H」に,「これまでは,社会科の内容
となっている歴史・地理・公民などは,いずれも別々の教科として扱われて
来たのであるが,一般社会科としては,」「中学校あるいは高等学校の生徒の
経験を中心として,これらの学習内容を数個の大きい問題に総合してあるの
であって,教科そのものの内容によって系統だてるようなことはやめること
とした51)」と,一般社会科の性格を記し,その学習内容に日本歴史の内容も
含まれることとなった。これに対し,中学校第2・3学年に国史がおかれ,
高等学校第1学年に必修の一般社会,第2・3学年に選択の国史がおかれ
た。すなわち,中学校では社会と国史が分離されて設置されるのに対し,高
等学校では社会科の一科目として国史(昭和24年に日本史と改称)が置かれ
た。
昭和26年,学習指導要領が改訂された。中学校第2・3学年で一般社会科
の歴史的分野を学習することを定め,日本史は「社会科としてのたいせつな
目標の多くを見のがされ」ないように,「たとえば第2学年の終りのほう,
あるいは,第2学年の終りから第3学年にかけて,集中的に行う計画をたて
51)文部省編『学習指導要領 社会科編H(試案)』(昭和22年刊)1頁。
148 一
1986年12月 兼重宗和:占領下における日本史教育
ることも一つの方法である52)」と述べている。さらに一般社会科と日本史の
関係について「一般社会科とは別個に指導計画をたててもよいことになって
いるが,これは,そうしなければならない積極的理由があるわけではない。53)」
(… 筆者加)と言及している。そして「まず第一に,この学習を通して,
社会科の一般目標をできるだけ達成」し,「その学習形態も一般社会科の場
合と,そう違ってはならない54)」とする。
また,「中学校高等学校学習指導要領 社会科編 1中等社会科とその指
導法」には,1,社会科を各科目に分けると内容の重複が起こる,2,各教
師によってくり返し教えられる,3,同一事象が各科目の立場から異った見
解を教える,4,科目の数が多数となり,一週間わずかな授業時間で消化し
なくてはならない等の欠点を鑑み,この細かい「ワク」を外して一般社会科
としてまとめたほうが,中学校の教科としては有効であると考えられると記
す。そして,「中学校の社会科で,日本史が別に設けられてよいことになっ
ていることは,矛盾のように見える。事実,日本史を一般社会科と別個に課
さなければならないという積極的理由は存在しない。しかし一方,過去の日
本史が極端な日本中心主義の思想の達成に大きな役割を演じていたことは否
定できない。」「そこでせめて義務教育の間に,生徒に,日本の現代社会の歴
史的背景を誤りなく理解させたいとのことから,これが別個に設けられても
よいことになっているにすぎない。55)」としている。そして,「中学校から高
等学校第1学年までのものは,社会科内の科目を明りょうには区別しないで
組織されている。これらは戦後のわが国の教育課程における一つの試み56)」
であるとする。
これを受けて「中学校高等学校学習指導要領 社会編 皿(a)日本史(b)世界
52)文部省編『中学校 高等学校学習指導要領 社会編ll
一般社会科(試案)』(昭和27年刊)
3頁。
53)注52)同書,117頁。
54)注53)同。
55)文部省著『中学校高等学校学習指導要領 社会編1
(昭和26年刊)10頁。
56)注55)同書,46頁。
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中等社会科とその指導法(試案)』
徳山大学論叢
第26号
史(試案)」では,「一般社会科にあっても,現代社会の理解のために,各学
年ともそれぞれの段階に応じ各単元に即して,歴史的なものの見方,考え方
を行うよう,活動が試みられてはいる。しかし,』わたくしたちの今日の日本
および世界が,どのような歴史的位置にあるのか,ということ,すなわち,
.日本が今日置かれている世界的立場と,その日本に生活しているわたくした
ちの行動が,どのようなものであり,いかに過去につながり,将来に関連す
るかということを,はっきりとらえるには,今日の日本の社会の姿をつくり
出してきた歴史発展の姿を,じゅうぶんに知らなければならない。このため,
歴史の学習は,有効な結果を生むであろう。57)」と記している。
中学校の日本史は,戦時中の軍国主義・超国家主義に多大なる役割を演じ
たため,これを民主主義化に向け是正するためにあえて設けられ,高等学校
においては,一般社会科で学んだ日本史的内容をさらに深めるのに役立っと
している。以上のごとく,一般社会科と日本史の関係を学習指導要領に示し
ている。しかも,日本史は一般社会科の歴史的分野へ今後含めることを意図
した文部省の動向といえよう。
57)文部省編『中学校高等学校学習指導要領 社会編皿(a)日本史(b)世界史(試案)昭和26年
(1951)改訂』(昭和27年刊)1頁。
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