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満洲国における身分証明と「日本臣民」 - J
満洲国における身分証明と「日本臣民」 戸籍法、民籍法、寄留法の連繋体制 遠藤正敬 はじめに 日本が 1932 年 3 月に樹立した「満洲国」(以下、「」は略)は建国時に 3000 万以上の人口 をもち、その構成としては日本人以外に漢族、モンゴル人、満洲族、朝鮮人など複数の民 族からなる多民族国家であった。かかる社会的亀裂を与件とした満洲国において「国民」 の資格はいかに法制上に規定され、そしていかに統治されようとしたのか。これは満洲国 がはたして擬似国家、傀儡国家としてどのような特色をもつものであったかという問いか けである。けだし、およそいかなる国家でも、領域内にある住民を登録し、 「国民」とし て把握する制度をもたないものはないのである。 筆者はかつて、満洲国における法と政治がいかに「日本」と不可分に展開されたもので あったのかという観点から、 「満洲国人民」たる身分を公証して国民意識を醸成すべく 1940 年に制定された民籍制度が、 「皇国臣民」たる公証としての戸籍制度といかに相関し つつ立案・実施されたのかを検討した(遠藤、2010)。 本稿ではこの問題を敷衍して、1939 年の第二次世界大戦の勃発以後、総動員体制が整備 されていく過程での民籍制度をめぐる日満両政府の対応について、在満「日本臣民」の戸 籍に加えて寄留制度との関係に焦点をあてる。寄留とは本籍以外の地に一定期間住所を有 することをいい、寄留者を登録する公簿が寄留簿である。すなわち寄留制度は、領域内の 住民の居住動態を把握することで戸籍の管理機能を補完する、いわば住民登録制度であ る。 満洲国では 1943 年に寄留制度が導入された。かように民籍、戸籍、さらに寄留制度が 交錯するという住民管理のメカニズムは日本の植民地統治という文脈においていかなる政 治的意味をもつものであったのか。ここでは第 1 に、対外的問題、すなわち満洲国にある 「日本臣民」の処遇と満洲国建国の憑拠となる「民族協和」という国是との関係、第 2 に、 対内的問題、すなわち在満「日本臣民」の枠内における内地人と朝鮮人の関係、この 2 点 に焦点を当てて検証する。なお、本稿では「日本臣民」という用語は大日本帝国憲法第 18 条に基づき「日本国籍」を有する者を包括する概念として使用していくこととする。 ????? 1 Ⅰ 暫行民籍法の実施と「日本臣民」の戸籍 満洲国では主権国家としての形式を備えるために「国民」の法的な画定を必要とみて建 国草創より国籍法の立案が着手されていた。これと並行して「国民」に対する徴兵制の実 施に備えて戸籍法の立案が検討され、両者の確立は遠からず実現するものと目されていた ( 『満洲日報』 、1934 年 1 月 13 日付)が、いずれも遷延の様相を呈した。 1939 年にソ連と満洲国の国境で発生したノモンハン事件での日本軍の敗北により、満洲 国における対ソ国防強化の要請が切迫したことで徴兵制は実現が促され、1940 年 4 月 11 日に国兵法(康徳 7 年勅令第 71 号) として公布(同年 4 月 15 日施行) をみた。ここで国兵法 の適用対象となる「帝国人民タル男子」(第 1 条)の具体的範囲を画定することが肝要とな る。満洲国では 1941 年度の満洲国軍入隊兵より国兵制を実施する計画の下に、1940 年の 壮丁検査開始前に適正な「仮民籍簿」を作成し、これに編入された者を「帝国人民」と認 定して徴集事務を行うという段取りであった(満州国治安部情報課、1940: 83)。 当然、民籍法の必要性はかかる軍事動員上の要因にとどまるものではなかった。1939 年 9 月 30 日より満洲国協和会の第 6 次全国連合協議会が開催された。全国連合協議会は協和 会における最高決議機関として年に一度開催され、協和会の総意とされるものであった。 協議会の第 8 日目(10 月 7 日) に「国籍及民籍法制定ニ関スル件」が奉天、間島、錦州、 安東、興安東、濱江、熱河、三江の各省の連合協議会(各省協和会の代表会議)より議案と して上程された。ことに間島省代表による意見では、満洲国でも速やかに国籍法および民 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 籍法を制定して「一、暫行戸口届出ヲ以テ直チニ入籍手続ニ転換シ 二、協和会分会ヲシ テ各街村ニ於ケル区、屯、若シクハ牌ノ長ヲシテソノ管内ニ於ケル現住者ヲ調査届出デシ 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 メ 三、満洲国住民ハ一律ニ民籍ニ登録シ外国籍ニアル者モ之ヲ満洲国籍ニ転入セシメラ レタシ」(傍点、筆者)という立法政策を提案していた。すなわち、従前からの戸口届出を 戸籍に準じた制度に昇格させて民籍法と連動させ、満洲国住民を民籍に登録することで 「満洲国国籍」とみなす、外国籍者は成文法による国籍法を制定して満洲国に帰化させる というものであった。その理由については以下のごとく表明されていた(満洲国司法部、 1939: 133–134) 。 未ダ国籍法ノ制定ナキ為メ我等 4 千万民衆ハ国民トシテノ資格ヲ立証スルノミナラズ 又新興国民トシテノ矜持ヲ傷ツクモノナリ、而シテ満洲帝国ハ民族複合セルタメ往々 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ニシテ民族意識ノ対立ヲ招来スルノ虞レナシトセズ、コレヲシテ帝国々民トシテノ同 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 一意識ヲ把握セシ以テ忠良ナル国民トシテ建国ノ使命ニ邁進セシムルニハ各民族ヲ一 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 律ニ包含スベキ法ノ制定ヲ急速ニ実現スルコト肝要ナリ。是レ真ニ民族協和ノ理想ヲ 顕現シ又協和治政ノ実績ヲ招来スル所ナリト信ズ(傍点、筆者)。 2 アジア研究 Vol. 56, No. 3, July 2010 すなわち、満洲国の諸民族を統一的な身分登録法のなかに包摂することによって国民と しての同一意識を涵養すべきであるという提言であった。これに対する菅原達郎司法部民 事司長の答弁では「取リ敢ヘズ簡略ニシテ弾力性ニ富ム暫行民籍法ヲ制定シ現下ノ要望ニ 0 0 0 0 0 0 0 0 0 応フルト共ニ之ヲ以テ民籍制度確立ノ先駆タラシメントスル意図ノ下ニ目下法案ノ具体化 ニ努力シ居リ。出来得レバ明年度中ニ実施シ度キ意向ナリ」(傍点、筆者)として 1940 年度 中の「暫行民籍法」制定の実現を約束していた(満洲国司法部、1939: 134)。 かくして「民籍制度確立ノ先駆」となるべき「暫行民籍法」が 1940 年 8 月 1 日に勅令第 197 号として公布をみた。これにより、従来、地方警察機関が主として取扱ってきた満洲 国住民の身分登録が国家的事務として体系化された。民籍法の適用対象の範囲について満 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 洲国政府の公式見解は「慣習法タル国籍法ハ、満洲国ノ人民トハ国内ニ生活ノ本拠ヲ有ス 0 0 0 0 0 0 ル日鮮漢満蒙ノ建国ノ聖業参加ノ民族デアルトノ回答ヲ与ヘル(傍点、筆者)」(満洲国司法 部参事官室、1940)としていた。ここで「慣習法タル国籍法」としているのが、国内に「生 活ノ本拠」を有する「日鮮漢満蒙」すなわち「五族」を「満洲国人民」とするという「国民」 の定義であり、居住地主義(=属地主義)と出自主義(=属人主義)を抱合させたものである。 これは、1932 年 3 月 1 日に発布された「満洲国建国宣言」第 5 段において、 「原有ノ漢族、 満族、蒙族及日本、朝鮮ノ各族ヲ除クノ外、即チ其他ノ国人ニシテ長久ニ居住ヲ願フ者モ 亦平等ノ待遇ヲ享クルコトヲ得」(『満洲国政府公報』、第 1 号、1932 年 4 月 1 日、2 ページ) と 闡明された「国民」概念を踏襲したものであった。 だが、 「日鮮漢満蒙」と一口にいっても仔細にみれば 20 余りの種族に分別される住民構 1) 成であり 、家族に関する観念や慣習も種族によって多様であった。かかる民族の多極化 現象は、満洲国における司法整備の過程で旧慣尊重と同化主義との相克を生じ、多大な影 響を及ぼしていた。ここで「民族協和」の理念に則するならば、地縁を基に「五族」を包 括する統一的身分法の制定が社会的亀裂の表面化を抑え、各民族を「満洲国人民」たる意 識の下に統合していく有効な方途として考えられたのである。 暫行民籍法の施行される 1940 年 10 月 1 日、満洲国では国内の現在人口を民族別、性別、 職業別、年齢別等によって的確に把握して民籍編製の根本資料とすべく、全国一斉の「臨 時国勢調査」が実施された。この結果、表 1 のように 4300 万人あまりの人口が確認され たが、やはり漢族が圧倒的に大部分を占め、内地人との差は歴然としていた。 民籍簿の記載事項は、戸長および戸員の氏名、本籍(籍貫)、住所、出生地、種族、出生 年月日、来満年月日、戸長と戸員の続柄などであった(第 20 条)。この民籍制度の実施に より、満洲国法における「本籍」とは民籍の所在する場所と法的に観念されるものとなっ たのである。 それでは、 「日本臣民」における戸籍法に基づく従来からの本籍はいかなる取り扱いに なったのであろうか。 「大日本帝国」の戸籍制度においては、内地人は戸籍法(1898 年法律 第 12 号) 、朝鮮人は朝鮮戸籍令(1922 年総督府令第 154 号)、台湾人は戸口規則(1905 年総督府 令第 93 号)に基づき、それぞれ内地、朝鮮、台湾に本籍を設定すべきものとされていた。 満洲国における身分証明と「日本臣民」 3 表 1 第 1 回臨時国勢調査(1940 年 10 月 1 日)の結果 単位:人 内訳 満 洲 人 満州国総人口 総 数 漢 族 満洲族 モンゴル族 回教族 総数 内地人 朝鮮人 無国籍人 第三国人 人数 日本人 43,202,880 40,858,473 36,870,978 2,677,288 1,065,792 194,473 2,271,495 819,614 1,450,384 69,180 3,732 比率(%) 100.0 94.6 90.2 6.2 2.5 0.5 5.3 1.9 3.4 0.2 0.0 (出所)満洲国史編纂刊行会(1971: 58)より筆者作成。 その上、原則として、内地、朝鮮、台湾間における相互の本籍の移動を認めていなかった。 かくして戸籍が民族的帰属を示す排他的標識となり、本籍がいずれに所在するかによって 「日本臣民」という対外的地位の枠内で内地人、朝鮮人、台湾人の区画が固定される法的 構造が形成された。また、そもそも同一人が 2 つの家に属することはない以上、本籍を 2 つ有せざることは当然とされていた(関、1930: 4–5)。 そこで「日本臣民」すなわち内地人、朝鮮人、台湾人に対しては、 「外国」である満洲 国において新たに暫行民籍法に基づく本籍を創設させるものとする方針が採られた。満洲 国司法部は 1941 年 7 月、 「日本戸籍法ノ適用ヲ受クル日本人」に対して暫行民籍法および 日本戸籍法におけるいずれの届出義務をも負担するものとする(満洲国司法部、1941: 116) と訓令した。これにより「日本臣民」はそれぞれ内地戸籍、朝鮮戸籍、台湾戸籍の適用を 受ける上に、満洲国では民籍の適用をも受けることで、日本と満洲国において戸籍、民籍 に基づく 2 つの本籍を有することが認められたのである。 ただし、満洲国司法部参事官として民籍法立案の主導役を担っていた新関勝芳は、 「日 系に付ては、日、鮮、台を問はず完備した戸籍制度を有するのであり、更に二重に民籍を 持つことは蛇足であり、無用な届出を要求する為に却つて届出人側に於ても、執務者側に 於ても、混乱を来すのではないか」として、既存の戸籍制度の完成度からかえって懸念が 拭えなかった。だが、 「民籍が国民の身分関係を公証する文書である以上、民族の如何を 「民族協和」の 問はず総ての国民に適用せざるを得まい」(新関、1940: 31)というごとく、 国是に立脚して満洲国の国民意識を醸成していくという民籍法の本旨に則すれば、 「日系」 のみ民籍への登録を免除するという例外的取扱は容認しえぬ方針に帰したのである。 日本政府は、1936 年 8 月に広田内閣において決定された「20 箇年 100 万戸 500 万人」の 満洲開拓移民計画を修正して 1941 年 12 月 31 日に「滿洲開拓第二期五カ年計画」を閣議決 定した。ここでは「日本内地人開拓民」を中核とした開拓移民事業を 5 カ年 22 万戸を目 4 アジア研究 Vol. 56, No. 3, July 2010 表 2 満州国在住内地人・朝鮮人人口の推移(1941 ∼ 1943 年) 単位:人 年度 総 人 口 内 地 人 朝 鮮 人 1941 1942 1943 43,188,000 44,462,000 45,323,000 1,017,000 1,097,000 1,148,000 1,465,000 1,541,000 1,634,000 (注)年度末。 (出所)大蔵省管理局(1949: 210) 。 標として継続することとした(『公文類聚 第 65 編 昭和 16 年 第 87 巻 外事 4・国際 4・移 住』 ) 。そのため在満日本人人口は表 2 のように着実に増加を続け、これに対応すべく民籍 事務の簡便化が図られた。満洲国では 1942 年 12 月 23 日、 「満洲国ニ在住スル日本人ノ就 籍ノ特例ニ関スル件」(康徳 9 年勅令第 254 号)が公布され、内地戸籍、朝鮮戸籍、台湾戸籍 の適用を受け、満洲国に在住している者は区法院の許可を要せずに街村長への届出により 民籍への就籍を行い得るものとされた(第 1 条)(『満洲国政府公報』、2578 号(市の下部機関と して 1937 年 12 月より実施) 、1942 年 12 月 23 日、4 ページ) 。こうした特例措置により、 「日本臣 民」における日満二重本籍という変則的状態がいっそう促進されることとなった。 しかしながら、内地人に関する民籍事務にあたっては「日本ノ戸籍ト満洲ノ民籍ノ内容 記載ガ身分上其ノ他ニ於テ全然相違スルコトハ許サレナイ」(寺田、1941: 89)ものとされた。 実際的な行政指導において民籍の処理は日本の戸籍法に準拠したもの、すなわち戸籍にお ける家族観念と符合したものとすることが第一義とされたのである。例えば、1942 年 7 月、 日本戸籍法では家族として登載の対象とされない内縁の妻とその子女の民籍上の取扱につ いて、奉天省次長より照会を受けた満洲国司法部は、 「日本戸籍上家族ト認メラレザル者ヲ モ同一民籍ニ記載セシムルコトハ暫行民籍法第 11 条ノ本旨ニ反ス」と回答した(満洲国司 法部民事司、1942: 129) 。 「第 11 条」というのは、民籍における「戸」とは世帯を同じくする 家族であると定義したものであるが、ここで司法部は満洲国において「戸」の内容は日本 戸籍における家族観念と符合したものであることが暫行民籍法の「本旨」であると訓令し たわけである。民籍は「家ノ観念ト完全ニ縁ヲ切ルコトハ許サレナイ」(満洲国司法部参事官 室、1940)ものとされ、 「民族協和」の国是に則して「五族」の慣習を平等に尊重すべきで あるという建前の下、日本の戸籍の基幹をなす家の秩序は不可侵の扱いとされたのである。 Ⅱ 朝鮮寄留制度と在満朝鮮人 在満朝鮮人についても朝鮮戸籍と満洲国民籍による二重登録とすることは、日本政府と して統治上好都合であった。在満朝鮮人においては韓国併合以前、すなわち前述の朝鮮戸 籍令の施行されるはるか以前から満洲に移住し、朝鮮戸籍に登録されぬまま間島を中心に 満洲国における身分証明と「日本臣民」 5 定着していった者が多かった。日本政府では、満洲にある無籍朝鮮人に対して「帝国臣民」 としての管轄権を主張する対外的根拠のために、就籍すなわち無籍者を新たに朝鮮戸籍に 編入する手続きを徹底させる対策が必要とされていた。 朝鮮に本籍をもたない無籍の朝鮮人は満洲国において 1939 年時点で少なくとも約 60 万 人が確認されていた(表 3)。朝鮮総督府は皇紀 2600 年となる 1940 年を期して朝鮮人に対 する創氏改名の実施を決定していたが、1939 年 12 月 26 日に公布された「朝鮮人ノ氏名変 「氏名ノ変更」の申請 更ニ関スル件」(1939 年朝鮮総督府令第 222 号) の第 2 条第 2 項には、 書には本籍を記載して戸籍謄本を添附すべきことが規定された(朝鮮総督府、1939: 1)。こ れにより創氏奨励が無籍朝鮮人の就籍を促進する手段たり得たといえる。 ことに在満朝鮮人に対しては、朝鮮総督府は 1939 年度において「就籍事務便覧」1 万 2000 部を配布し、満洲国各地で就籍事務講習会を開催するとともに、 「特ニ在満朝鮮人中 各地ノ有力者ニ協力ト促進トヲ懇談スル等種々画策」するなどして就籍の徹底に余念がな かった。それでも「在満朝鮮人ノ大部ヲ占ムル農民特ニ奥地僻陬ノ地ニ在住スル無智文盲 ノ鮮農等ハ依然無関心ノ状態ニ在リ、之等ニ就籍及氏制度ノ必要性ヲ理解セシメ、彼等ガ 進ンデ自身手続ヲ履行スル様望ムガ如キハ、如上ノ対策ノミヲ以テシテハ、自然ノ成行ニ 委スルト何等ノ相違ナク遂ニ百年河清ヲ俟ツニ等シト称スルモ過言ナラズ」(「朝鮮の状 :123–124)というごとく、そもそも在満朝鮮人の戸籍制度に対する認識度が低いこと 況」 からその成果については悲観的であった。加えて、在満朝鮮人は職業別にみると約 80% が 農業従事者であり、都市外での人口集中率が高かった(宮川、1941: 33–34)ことも無籍者の 表 3 在満無籍朝鮮人の分布状況(1939 年 10 月) 単位:人 省別 戸数 人口 新 京 吉 林 通 化 奉 天 間 島 牡丹江 安 東 錦 州 三 江 東 安 濱 江 北 安 龍 江 1,141 11,159 6,950 11,839 49,820 7,771 4,966 2,122 4,174 2,301 4,215 1,591 1,210 6,234 59,954 41,077 63,832 274,358 38,057 27,743 10,363 11,762 13,656 21,085 7,919 5,034 計 107,259 581,060 (注) 「錦州」は錦州、興安西、熱河の 3 省、 「北安」は北安、黒河の 2 省、 「龍江」は龍江、興安東、興安南、興安北の 4 省の各々合計である。 また「本表ニ統計漏レ相当アル見込ナリ」との注記がある。 (出所) 「朝鮮の状況」 。 6 アジア研究 Vol. 56, No. 3, July 2010 探索が困難となる原因であったとみられる。 無籍朝鮮人の把握は戦時動員体制の推進からも喫緊となった。日本では「帝国臣民」と しての忠誠心が前提とされる徴兵制において植民地人を対象外とする“内地人服役の原 則”を維持していた(遠藤、2010: 134)が、1941 年 12 月より太平洋戦争に突入して戦線拡 大に伴う兵員増強が必須となると、日本政府では 1942 年 5 月 8 日、東条英機内閣により「朝 鮮ニ徴兵制施行準備ノ件」が閣議決定され、朝鮮における徴兵制は「昭和 19 年度ヨリ之 ヲ徴集シ得ル如ク準備ヲ進ムルコト」(『公文類聚 第 66 編 昭和 17 年 第 84 巻 軍事 1・陸 軍・海軍・防空・雑載』 )となった。 これを受けて 1942 年 7 月 27 日、朝鮮総督府より内閣総理大臣宛に「朝鮮寄留令制定ニ 関スル件」が建議された。ここでは「徴兵制度実施其ノ他人的資源ヲ基調トスル各種重要 制度ノ企画及実施ニ資スル為朝鮮ニ於テモ寄留制度ヲ設クルノ必要アル」(『公文類聚 第 66 編 昭和 17 年 第 104 巻 賞恤二・賑恤二・共済』 ) ことを訴えていた。関連して同年 9 月 28 日の日本政府における次官会議での陸軍次官からの提議によれば、朝鮮への徴兵制施行 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 準備に関して「最モ難シイ問題ハ、朝鮮以外ノ地ニ在ル、朝鮮人ノ掌握デアリ」(傍点、筆 者)毎年調査する必要があると認識していた。だが、実施には事務的に極めて不利なこと から、 「結局ハ、戸籍ノ整備(無籍者ノ就籍)ト、寄留法ノ徹底トノ二点ニ帰スルト言フコ トニ落付イタ」(司法省民事局、1942)のである。 日本内地では国民の居住事実における本籍と現住地との乖離に対応すべく 1914 年に寄 留法(1914 年法律第 27 号)が制定されていたが、同法は朝鮮には施行されなかった。そこ で内閣の承認を得た朝鮮総督府は即座に寄留制度の立法化に移り、1942 年 9 月 26 日に朝 鮮寄留令(1942 年制令第 32 号)および朝鮮寄留手続規則(1942 年朝鮮総督府令第 235 号) が公 布(同年 10 月 15 日施行)された。これにより、朝鮮において本籍外に居住する者、本籍の ない又は不明な者、外国人が 90 日以上一定の場所に住所を有する場合は「寄留者」とし て寄留簿に登載するものとされた。 さらに朝鮮総督府は 1942 年 12 月、朝鮮各地方法院長 、 各支庁判事に対し、在満朝鮮人 について「満洲国ノ民籍ニ入籍シタル者ト雖モ朝鮮ノ戸籍ヲ除籍スベカラザルハ勿論ノ儀 ナル」ことを示した上で「右入籍証明書ハ満洲国ニ於ケル本籍従テ住所ヲ明瞭ナラシメ朝 鮮寄留令ニ依ル住居用紙ノ記載ヲ整備スル好個ノ資料ナル」ため、住居用紙に満洲国にお ける本籍を記載するよう指示した(朝鮮総督府法務局、1942: 57)。こうして満洲国の民籍を 朝鮮寄留簿と連繋させることにより、在満朝鮮人の身分関係と現住地を確実に把握して戦 時動員を完遂しようとする軍部と朝鮮総督府の企図が具現したのである。 Ⅲ 満洲国における民籍法と寄留法 「高度国防国家」建設に向けて満洲国では国兵法に続いて 1942 年 11 月 18 日に国民勤労 満洲国における身分証明と「日本臣民」 7 奉公法(康徳 9 年勅令第 218 号)が公布され、兵役に就かない者は勤労奉仕が義務づけられた。 しかしながら、移民国家ゆえに人口変動がめまぐるしく、域内流動も繁繁であった満洲国 では、住民における本籍地と居住地との乖離は日本内地以上に顕著であり、農村部から都 市部への人口流入だけでなく、1935 年以降は南部(奉天、安東、通化省)の零細農家や季節 労働者において、労働力需要と未墾地のある北部(牡丹江、龍江、濱江省等)への流入人口 が増加していた(宮川、1941: 42–43)。 満洲国において戦争動員体制を推進していくには国内人口動態の把握が不十分であっ た。例えば、首都の新京市では「国都の幽霊人口撲滅」を図るため 1943 年 2 月 10 日より 24 日までの間、首都警察庁による戸口調査と重要物資購買通帳の照会による一斉調査を実 施した結果、実在人口は 55 万人から 63 万人に訂正され、およそ 7 万人にのぼる「幽霊人口」 が発見された(『満洲日日新聞』、1943 年 2 月 24 日付)。また、民籍法上の本籍を持たない者が その摘発を恐れ、有籍の戸主に金銭を払ってその同郷あるいは親戚として同一戸内に入 籍、居住しているように偽装し、当局に届出るというケースもあった(孫、1993: 278)。民 籍事務の根本となる住民の本籍の把握は杜撰なものとなっていたのである。 そこで日本内地に倣い、満洲国でも 1943 年 2 月 10 日に寄留法(康徳 10 年勅令第 3 号)が 公布され、本籍以外の一定の場所に 90 日以上居住する者は「寄留者」として寄留届を行 「日本臣民」は満洲国にあっては同法の適用を うよう定められた(第 1 条)。これにより、 受けるとともに、日本内地にあっては内地の寄留法、朝鮮にあっては朝鮮寄留令の適用も 併せて受けることとなった。ただし、内地の寄留法では外国人一般が寄留者として登録さ れたのに対し、満洲国の寄留法では日本の現役軍人 ・ 軍属および「第三国人」(日本・中華 民国および関東州出身者を除く「外国人」 )は寄留簿の登載対象から除外された( 『満洲国政府公 報』 、第 2612 号、1943 年 2 月 10 日:1–4) 。ことに「第三国人」については、1941 年 8 月 1 日 に公布された「外国人入国滞在取締規則」(康徳 8 年治安部令第 22 号)に基づき満洲国治安 部による厳重な取締の下に置かれた(新関、1943: 15–16)。 寄留法の制定により、満洲国政府官僚は、満洲国の「国民」と「国土」の連結性が明確 になったことで「国籍」の具体的な観念が定立されたものと認識していた。すなわち、満 洲国の「国民」について民籍によって身分関係を把握し、寄留簿によってその現住所を把 握することで登録者とその家族の実態が明白となり、満洲国ならではの戸籍制度が完備さ れたと評価していたのである(吉林省図書館偽滿洲国史料編委会、2002: 301)。 だが、こうして寄留法が重要性を認められることは、人口移動の激化による民籍の空洞 化を示唆するものであった。寄留法が施行された 1943 年という時期は日本の戦況の悪化 から、満洲国に本籍を定めながら日本、朝鮮、関東州などの隣接地に避難的に移住する者 が夥しい数に上っていた。しかも日本内地の場合と比べて住民間の近隣関係が緊密でない 満洲国では、本籍定住者が退去した場合、本籍地に問い合わせても当人の現住地を突き止 めるのが容易でないという事情があった(新関、1943: 74)。 このため、満洲国寄留法では本籍定住者が満洲国外での居住を意図する場合には、事前 8 アジア研究 Vol. 56, No. 3, July 2010 に退去の届出をするように義務づけていた(法第 31 条)。注目すべきは、この寄留法に基 づく退去届には「満洲国国籍」の喪失という効果が加味されていた点である。具体的には、 満洲国における生活の本拠を廃して国外に退去した者がそのまま「帰来の意思」がない場 合には、退去届を以て「満洲国国籍」を喪失した者とみなし、民籍から抹消すべきものと 2) した (満洲国司法部民事司第一科、1943: 119)。 かかる退去届の運用はとりわけ「匪賊」の容疑のある者や華北からの「苦力」に関する 事件の処理において強調されていた点が見出し得る。例えば 1943 年 8 月、熱河省次長か 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ら司法部に対して「本省治安不良地区ニ於テ集家工作ニ伴フ国外逃避者ニシテ爾後本籍ニ 帰還ノ見込ナキ者」(傍点、筆者)の取扱いについて照会がなされたが、司法部は当事者か ら退去の届出がない時には「国外退去者」とみなして「満洲国ニ再度帰来ノ見込ナキトキ 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ハ国籍ヲ喪失シタルモノトシテ取扱ヒ」(傍点、筆者)区法院の許可を得て民籍簿より抹消 することを指示していた。ただし、 「当該逃避者ガ満 17 年以上ノ男子ナル場合ハ既ニ兵役 ニ服シタルトキ又ハ兵役ニ服スル義務ナキニ限ル」として満洲国における徴兵の徹底を指 示することも怠らなかった(満洲国司法部民事司、1943a: 99–100)。 また、司法部は 1943 年 9 月 10 日、 「全戸北支ニ帰郷シ再度来満セザルコト明カナルトキ ハ国籍ヲ喪失シタルモノトシテ取扱ヒ」 「国籍喪失ノ届出ナキトキハ市街村長ハ……管轄 法院ノ許可ヲ得テ民籍ヲ抹消スルコトヲ得」と指示していた。これは出稼ぎで満洲国に渡 来してくる「苦力」を対象としたものであることは論を俟たない。(満洲国司法部民事司、 1943b: 101) 。つまり、こうした「国籍」喪失の措置は「匪賊」や「苦力」における移動性 と治安維持との緊張関係から要請されたものといえる。 ただし、こうした法運用も現実には定着しなかった。前出した満洲国司法部の新関勝芳 は「現状に於いてはかかる場合の国籍喪失の観念は容易に徹底せず、これが為国籍喪失者 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 の民籍がそのまま存置されるものが相当数に達してゐる。国籍観念の徹底してゐないこと は満洲国の民籍整備上の癌である」(傍点、筆者)と断じ、 「帰来の意思」なき者の退去届 は民籍法上の「国籍喪失届」に転用するよう民籍事務官に要請していた(新関、1943: 74)。 国籍法も未制定である以上、満洲国の事務官レベルでも「国籍観念」が了解されていない のは当然であった。ここには、民籍制度に国籍証明の機能を代行させようという立法目的 が実践できていない行政実態に対する立法者の切歯扼腕ぶりが看取できよう。 民籍の整備状況としては、満洲国全国の 3600 の関係機関において 43 万人にのぼる担当 事務者を動員した結果、1944 年 1 月時点で、心臓部である吉林省では 1943 年度中に 50 万 件にのぼる事務処理がなされ、ほぼ完了をみるに至った。このほか興安北分省(1943 年 10 月より興安北・南・東・西の 4 省は興安総省として統合される) 、錦州省の各県でも完了に近づ き、一両年中には民籍も完成の域に達するとみられていた(『満洲日日新聞』、1944 年 1 月 17 日付) 。 だが、確認されるべきは、満洲国の多元的な民族構成に適した身分登録法として「満洲 国人民」たる国民意識を醸成する目的を託された暫行民籍法であったが、立法の核心であ 満洲国における身分証明と「日本臣民」 9 る「満洲国人民」という地位の取得や喪失について規定をもたず、民籍と「満洲国国籍」 との関係について確たる方針を闡明することはできなかった点である。満洲国の「国民」 は法的定義のないまま、統治者の観念上に存立するばかりの擬制であり続けたのである。 おわりに 満洲国では主権国家として不可欠な国籍法という「国民」の法的範囲を規定する立法が 実現することがなかった。しかし、民籍法、戸籍法、寄留制度という 3 通りの身分登録制 度が連繋を密にして在満「日本臣民」を管理するという統治のメカニズムが形成された。 ここで注視すべきは以下の 2 点である。 第 1 に、日本の戸籍制度における属人主義が満洲国でも民籍制度を凌駕して貫徹された 点である。在満「日本臣民」は戸籍と民籍という二重の身分証明をもつこととなったので あるが、満洲国にあってもあくまで「日本臣民」たる帰属意識が首座に置かれ、アイデン ティティの競合は抑止されようとした。従って民籍法は日本戸籍法に従属した運用となっ たのである。 第 2 に、満洲国では内地人と朝鮮人を他の「五族」とともに単一の戸籍のなかに統合す ることで「満州国人民」として平準化を図るのではなく、むしろ既存の戸籍による峻別を 維持することで民族的境界が固守された点である。朝鮮人については徴兵制実施という日 本における喫緊の要請もあって満洲国においても「皇国臣民」として練成する指導方針が 維持されたものの、戸籍に基づく内地人との法制上の差別は堅持されたのである。 帝国日本の異民族統治において、内地人と植民地人を統一的な戸籍のなかに一元的に登 録することは民族の混淆に帰するものとして峻拒され続けた。このような戸籍が担う民族 峻別の機能は登録対象の本籍の把握なくしては成り立たないものである以上、登録者にお ける本籍と居住地との乖離を追跡する装置として寄留制度は不可欠とされたのである。ま さに満洲国における戸籍問題には、内地人優位の統治という実質と「民族協和」という建 国の国是との整合性の破綻が渗み出ていた。 (注) 1) 例えば「蒙古人」というカテゴリーをとってみても、 「ハルハ族」 「ブリヤート族」 「バルガ族」 「チプ チン族」 「オレート族」に分別されるものであった(滿洲事情案内所、1940: 9) 。 2) ただし、国兵徴集義務の免除されていない者は対象から除かれた。これは暫行民籍法の第 109 条にお いて、国籍喪失者が満 17 歳以上の男子である場合、 「兵役ニ服シタルコト又ハ之ニ服スル義務ナキコト ヲ証スル書面ヲ届書ニ添附スルコトヲ要ス」と規定していたことに照応したものである。本規定は国兵 法の成立を受けて、兵役義務徹底の要請から「満洲国人民」の国籍留保をうながすものであり、日本国 籍法の第 24 条第 1 項における滿 17 歳以上の男子は「既ニ陸海軍ノ現役ニ服シタルトキ又ハ之ニ服スル義 務ナキトキニ非サレハ日本ノ国籍ヲ失ハス」とする規定に相当していた。暫行民籍法上には「満洲国国 籍」の「取得」については規定がみられないのに、その「喪失」をめぐる規定は存在していた点に本法 の便宜主義的性格が窺知しうる。 10 アジア研究 Vol. 56, No. 3, July 2010 (参考文献) 日本語 遠藤正敬(2010) 、 『近代日本の植民地統治における国籍と戸籍―満洲・朝鮮 ・ 台湾』明石書店。 大蔵省管理局(1949) 、 『日本人の海外活動に関する歴史的調査 通卷第 22 册 満洲編 第一分冊』 大蔵省管理局。 『公文類聚 第 65 編 昭和 16 年 第 87 巻 外事 4・国際 4・移住』国立公文書館所蔵 2A-12- 類 2495。 『公文類聚 第 66 編 昭和 17 年 第 84 巻 軍事 1・陸軍・海軍・防空・雑載』国立公文書館所蔵 2A-12- 類 2644。 『公文類聚 第 66 編 昭和 17 年 第 104 巻 賞恤 2・賑恤 2・共済』国立公文書館所蔵 2A-12- 類 2664。 司法省民事局(1942) 、 「内地及樺太在住朝鮮人ノ男子ノ戸籍及寄留整備関係書類」 『公文類聚 第 66 篇 昭和 17 年 第 15 巻 官職 11・官制 11【海軍省】 』国立公文書館所蔵 2A-12- 類 2573。 」 『法曹雑誌』第 7 巻第 7 号、30–54 ページ。 新関勝芳(1940) 、 「我国民籍制度の確立に就て(2) 新関勝芳(1943) 、 「寄留法解説」 『法曹雑誌』第 10 巻第 2 号、1–78 ページ。 関宏二郎(1930) 、 『戸籍制度』常盤書房。 朝鮮総督府(1939) 、 『朝鮮総督府官報』号外、1939 年 12 月 26 日。 朝鮮総督府法務局(1942) 、 「満洲国暫行民籍法ニ依ル入籍通知書ノ取扱方」 (1942 年 12 月 24 日法民 乙第 619 号法務局長通牒) 『司法協会雑誌』第 22 巻第 2 号、57 ページ。 「朝鮮の状況」 『大野緑一郎文書』国立国会図書館憲政資料室所蔵 R-133。 寺田利夫(1941) 、 『満洲民籍必携』満洲国書、1941。 滿洲事情案内所編(1940) 、 『滿洲国の現住民族』滿洲事情案内所。 満洲国史編纂刊行会編(1971) 、 『満洲国史 各論』満蒙同胞援護会。 満洲国司法部(1939) 、 「協和会全連提案事項ニ対スル司法部回答」 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