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第28号
1987年 3月 23日 発行 ー ス _ ニ ャ ベ ル チ (1)第28号 松 蔭 女 子 学 院 大学 宗数 セ ンタ ー 松蔭 女子学 院短期大学 神戸市離区篠原 冶 母野 山町 1-2-1 し よ 人 所 定 の学業 を 終 え 無 卓 卒 業 の 日を 迎 え りれ お め 。 てと う ご さ いま す 私 が 学 ■ の虫 新 聞 の連 、 載 で 連藤 周 作 の ﹁お 木 カ さ ん ﹂ を行 日楽 し み に読 ん 。 英懸 ナ だ 記憶 か あ りま す 本 レオ ンの子 孫 と 称 す るヽ づ ら の大 男 か の っそ り と フラ ン スか ら や って来 て 二週間 ほ ど で何 処 へと も な く 蒸 発 し た よ う に消 え てし 。日 本 に到着 早 々 ま う の です か そ の間 に彼 、 は周 り の人 々 に 人 間 的 な 暖 か い印 象 を 残 し て去 って いき ま す いか け て いき 遠藤 に人 殺 しを さ せ な い よ う に 彼 な 。 り にガ ンバ ッテ いる お 人 よ し そ れ は単 な る ﹁バカ ﹂ 、 では な く 晏切 ら れ ても 殴 ら れ ても 素 直 に人 間 を 信 頼 し慈 し む 心 に敬 忘 を こあ て ﹁お バ カさ ん ﹂と 呼 ぶ を 取 お う す る のも そ の心 か ら であ る 肺 債 や み の殺 し 唾 遠 爆 1 。 1形 ま で追 遠 い1 こ の社 会 で弱く 虐げ ら れ て いる者 な 京 を も つ者 に対 。 し て 慈 し む 心 を 持 って いる 、 の斉 司 屋 で 日本 の ナブ キ ンだ と 言 って貰 った 越 中 フ 、 ンド ンを首 に巻 き つけ た り ネ マキと靴 の姿 で散 歩 し 、 た り 層 候 のく せ に ヨボ ヨボ の老 大 を 沿 って来 て飼 い 、 始 め た り す るガ スト ン ボ ナ パ ルト には 近 代 的 如性 、 。 を感 じ さ せ な い 大 男 であ る け れ ど 街 のチ ンピ ラ の 殴 る 朗 る の暴 力 に ただ 大 声 を あ げ て泣 く だ け では 。 若 い女 性 の自 には男 の ミ リ 十 に欠 け る こと 甚 だ し い し か し 萌 虫 で憶 病 で患 鈍 と も 見 え る ガ スト ンには お 1987年 3月 23じ 発 行 ー ・ チャベルエユ ス 、 。 に相 応 し い 学仁 時代 の私 は こ のよ うな 生 き 方 に去 。 感 を覚えました 今 の日本 の社 会 は 人 を 押 し のけ 蹴散 ら し ても自 分 の利 を 追 い 利 にな ら な い こと には 一敵 だ にしな いと 、 。 ころ が あ る こ の世 はい いイ か 幅 を 利 か せ てお り 弱 、 。 いイ は, き る権 利 す ら得 わ れか ね な い 指 し み争 いも 。 これ ら 強 い者 向 志 が利 を 求 め る争 いでしか な い ガ ス ト ンのよう に 利 を度 外 視 し て弱者 に心 を 傾 け る i き 。 方 を し て いては 忽 ち 落 ち こば れ てし ま う か も 如 れな い し か し こ こ に人 間 と し て大 手 な 生 き 方 かあ る の で は 。 な いでし !う か お 年 的 の皆 さ ん の場 合 ガ スト ン のよう な 間 のぬけ 、 た 知 的 セ ン ス のな い弱 A では な く 自 分を ぐ ん ぐ ん 、 引 っば ってく れ る 知 的 で せし い男 性 か い つの日か 日 の前 に現 われ る のを 脩 か に行 ってお られ る のか も 知 。 。 れ な い ても 男 の見掛 け に臨 さ れ ては いけ ま せ ん 男 。 ﹁お バカ さ ん ﹂ の中味 を 見 極 め る日 を 持 っては し い のよ う な お 人 よし て善 良 な男 の値 打 ち を 認 め て はし い 。 と 思 いま す そ のよ う な 男 性 は ま た 波夕 に いな い て 、 し ょう。 な ら は あ な た方 自 身 が これ か ら お人 よ し 。 ょ の人 生 を 目 指 され る のも い い の では な い てし う か 、 そう す れ ば こ の世的 には言 ま れ な く と も 大 に宣 を 積 む ︿マタイ 六章 二十 節 ︾ こと にな り 神 さ ま か ら ょ 。 の祝 福 に満 ち た 人 生 と な る でし う ﹁わた し に予 言 を す る 力 があ り あ ら ゆ る奥 義 と あ 、 ら ゆ る 知 識 と に通 じ て い ても ま た 山 を移 す ほ ど 、 の強 い信 仰 が あ っても も し 受 が な け れば わ たし 。 は 無 に等 し い ﹂ ︵コリ ント人 への第 一の子 紙 十 二 青 二節 ︶ 昭 政 道 中 ●︱ド ス島 では 、 年前 中 は 島 北韓 の olド ス市 に、 年 後 は鳥 の南 西 にあ る リ ンド スに上 陸 。 こ の島 は エーゲ しました 海 の諸 島 の中 でも ト ル コに近 いド ー デ カ ニサ諸島 の最 。 ﹁ド 大 の島 です ーデ カ ニサ ﹂と い つのは ﹁十 二 の息営 どう いう わ け か 実 と いう意 味 です が 。 際 には十 二 の島 があります 四季 の気 候も温 、 。 和で 緑も豊 かな美し い島な のです ロード ス島 の形 は台湾 に似 ていると いわれ ます。 しかし そ の大 きさ は台湾 の二十 五 分の 、 。 一以下 で 淡路島 の二倍 強 の大 きさ です 、 古代 ギリ シアの叙情 話人 ピ ンダ ロスの コ ギ リ シ ア の 旅 ( 0 - 一 ロ ー ドス 島 一 ― ード ス島 出身 の筆聞競 技 の勝利者 のため に書 、 いた ﹁オリ ンピ ア勝利 歌第七 ﹂ によります と 、 ロード スと いう のは 太 陽神 に安 された ニン 。 フの名一 則な のです 、 さ て島 の北端 にある 01ド ス市 は 人 口三 、 万 そ の中 の旧市内 は成壁 に取 り囲まれ て い 、 ます が これは 一三〇六年 から 一五 二二年ま 、 で この島 を支 配した ヨ ハネ騎 士団 の築 いた 、 。 城壁 です ヨ →ネ騎士団と いう のは 第 一回 の十字軍 ととも に 里地 パ レスチナ に根を下 、 ろし た二大 騎士団 の 一つて 最 初 は病人 や傷 病兵 のため奉仕 する医療活 動を中 心とす る騎 。 士団 でした それが イ スラム教側 の巻き返 し によ って 一四九 一年 キブ ,ス島 に撤退 し さら に 01ド ス島 に移転 した のです。 旧市内 の北部 の 一番高 い所 に騎士団長 の館 。 があります 古代 の アポ コンの神殿 の跡 に建 、 、 てられ たそう ですが 巨大 な妓壁 と円 かあり 、 、 館 と いう より 城 の中 にもう 一つ城があ る 。 潮社 刊﹀ によれば そ こから海 の方 へ下 る道 は ﹁ 騎 士 の通 り﹂と 呼ば れる石曇 の狭 い道 です 、 、 が 家 の円 日には いまも家 紋 にあた る店 の 。 枚章 が残 っています 騎士達 は フラ ンス イ 、 、 タリ ア、 ド イ ツ スペイ ン 英国 など の出身 。 別 に固有 の館を持 っていま した 騎士 たち の 。 共通 の言語 は ラ テン語 であ った そう です 塩野七 生 さん の ﹁コード ス島 攻防記﹂ ︵ 新 、 騎士 たち の人数 は多 い時 と いう感じ です 「 騎■の道Jの 家の枚章 1987年 3月 23日 発行 ー ス _ ュ チ ャ ベ ル ( 2 ) 第握 号 。 でも せ いぜ い五 六 百 人 でし た し か し 校 ら は航海 術 に巧 み な ギ リ シ ア糸 の ロード ス島 、 民 に船 を 操 ら せ ト ル ヨ船 と 見 る と 襲 撃 し た 。 の です ト ル コ船 は潜 ぎ 手 に■ リ スト教 徒 を 、 、 奴 熱 にし て使 って いた の で これ を解 放 す る と いう のが 大 義 名 分だ った のです。 い っぼう 、 騎 士 た ち の殆 ど は貴 本業 の医 療 活 動 です が 族 階 級 の出身 で医 師 とし て訓 擦 を 受 け て いる 者 がな く て 医 師 の多 く は ユダ ヤ人 であ った と い いま す 。 ま た 騎 士 団 に協 力 し て堅 回 な 城 、 壁 を 造 り上 げ た のは ヴ ≡ネ チ ア出 身 の築 城 。 技 師 た ち でし た 同質 性 の強 い日本 では 想像 も つか な い、 入 り組 んだ 国 際 社 会 であ った わ 。 け です 、 当 時 新 興 の大 帝 国 と な った ト ル ヨにと って 口,ド ス島 の ヨ ハネ騎 士団 は ﹁目 の上 の タ ン コブ ﹂ のよう な 存 在 だ った でし ょう 。 、 一五 二 二年 後 に ス レイ マン大 手 と 呼ば れ 、 る よ う にな った 若 い ス レイ マン 一世 のも と 、 に十 万 の大 軍 が動 員 さ れ て コード ス島 の攻 。 略 戦 か は じま りま し た 半 年 も の間 騎 士 団 も よ く 戦 った のです が 西 欧 か ら の援 軍 も 来 ず 生 き 残 り の騎 士 百 八 十 名 は ク レタ島 に退 。 騎 士団 長 の き 後 に マルタ島 に移 り ま し た 館 は ト ル ヨ時 代 には 年 獄 にさ れ て いた そ う で 。 す 一九 一二 年 イ タ リ アが ト ル ヨと の紛 争 に実 じ て、 こ の島 を 占 額 し 第 二次 世 界 大 戦 の終 了 る ま 、 ,︱ ド ス島 は イ タリ ア領 にさ れ す で 。 、 騎 士 団 長 の館 は こ の間 て いま し た イ タリ 、 イ アエ や独 裁 者 ム ノソリ ー ニの別 荘 にさ れ と白 く 酔け る波 に囲 まれ て、 ﹁聖 バ ウ コの港 ﹂ と よばれ る港が見え ます。伝 承 によると、 ギ リ シ アから パ レステナ ヘの海路 の途 中、聖 パ ウ 0が ここ に上陸し た のだ そう です。しか し、 、 聖書 そ のも のには ︵ 使徒行伝 二 ≡章 一節﹀ ただ理 パウ oが エペツに近 いミ レトから輸出 し て ■ス島 に直 抗し、次 の日に コード ス島 に 、 着 いたと 記され ているだけ で ど こ に上 陸 し 。 たと は言 い てありませ ん アク ロポリ スの頂上 には智恵 の女神 アテナ の神 殿 の遣 防が残 っています。周 りは後 の時 、 代 の城壁 で回 められ ては います が す っかり 中世 の家囲気 に塗 り つぶされた olド ス市 の 、 城壁 や ﹁ 騎 士 の道 ﹂とは対 照的 に ここでは 、 ただ青 空 の下 に 伊 か に立 っている神殿 の円 、 柱 には 古代 ギリ シアのひそやか な息 吹きが 。 残 って いま した イ ー ス タ ー ・パ ッ ハ の 夕 、 ∧イ エス わが喜び V 四月十 八 日 ︵ 土︶ ユ ハニニO pm 於 松蔭 女子学院大学 チ ャベル 曲 ロ カ ンタ ー第 一二番 、 、 、 ﹁泣き 嘆き 憂 い え﹂ 怯 BWV 一二 モ テ クト 、 ﹁イ エス わが喜び ﹂ BWV二二七 プ レリ ュードと フーガ ハ短調 BWV五 四六 フ ァンタジ ーと フーガ ハ短 調 BEV五三七 指揮 オ ルガ ンソ コ 鈴 木 雅 明 ア ル ト 鈴 木 衰 バ スオ ーポ エ 今 ノク 長尾志 有豆子 バ 0 輯 ・仁 大嶋泉 バ ロブク ヴ ァイオリ ン 十 二月 二十 五 日 金井寅 之助先生 の大人 の 。 母堂 が近去 されま した 木 o ノイ チ ェ0 上 回 康 雄 バ 0 ノク フ アゴ フト 山 川 す み男 近藤倫代 近藤昌 子 バ ロック ・ブ ィオ ラ 大津 陸 佐藤 泉 平安 と慰め がありま すようお析 り申 し上げ 。 ます 前売 一一 〇〇〇 円 ︵ 在学 生五〇 〇円︶ 間 い合 わせ ほ宗教 セ ンターま で 松蔭室内 合唱団 ラ トス ンス 内 藤 離 一 オ ルガ 亀 谷 喜久 子 報 タリ ア人 の手 で修復 さ れ ま し た 。 し か し ム タ ツリ ー 一は こ こ にあ ま り来 な か った と いう こ 、 と です 。 いま こ の館 は博 物 館 と な り コス島 、 か ら 運 ん で来 た 音 の モザ イ ク の床 な ど が 展 。 示 さ れ て いま す 、 さ てい った ん 船 に戻 った私 た ち は 年後 に は ,︱ ド ス島 の南 西 にあ る リ ン ド スに上 陸 し 。 ここ は 高 いこ の上 に古 代 の アク ロ まし た ボ リ スが あ り ま す 。 辻 田先 生 やか な り の数 の 、 学生 たち は 下からは馬 の背 に揺 ら れ な が ら、 アク ロポリ スの入り 口ま で登 ってきまし 。 、 た しかし のんびりした日馬 のこと 楽 では 、 あるが 早 く着くわけ ではありま せん。ガ イ 口木の背にゆ られてアクロポ リスヘ ド の人たちと私 は従歩 で近道 を上 がり 先回 りし て、 感馬 に乗 って上が ってくる人たち の 。 写真を 最る ことが できまし た アク ロポ リ スの頂上から 見下 ろすと、 一〇 、 〇 メ ート ルも あ る断 崖 の下 の方 に 村碧 の海 1ト 1987年 3月 23日 発行 ニ ュ ー ス チ ャ ベ ル (3)第28号 1 9 8 7 年 3 月 跡 日発 行 ュ ー ス ー チ ャ ベ ル 4)第 囲 号 往 時 よ り修 道院 は多 く の土 地 と人 、 を所 有 し 戦 時 下 には横 々農 民達 を 敵 か ら か く ま った こ の ト ロイ ツ ≡ セ ルギ ー大 修 道 院 も 堅 回 な城 壁 を 四 。 囲 にめ ぐ ら し た 一 種 の ク レ ムリ ︿ 城 塞 ︶ で 主 な 空 堂 は 三位 一体 聖 堂 と 双 壁 のサ ポ ー ル 三 二六 年 さ ら に モ スク ワ ヘの遷 都 によ って府 。 i教 座 も モ スク ワに移 った 従 って 一四七 二 年 か ら 七 九 年 の間 に モ スク ワの ク レ ムリ内 に 、 建 立 され た 堅 母 昇 天 大 寺 院 も こ の修 道 院 内 の 一五 五 九 年 か ら 八 五 年 に建 立 さ れ た 同 名 大 。 寺院 も 共 に ウ ラジ ーミ ルの聖 母 昇 天 大 寺 院 。 ィ の コピ と 言 わ れ て いる こ の大 寺 院 の正 面 人 回 の上 方 に ﹁天 の業 な る救 世 二 ﹂ の尊 顔 が 。 ある 内 に入 ると勤行 の最中 であり修 道僧 の 。 み の聖歌 が厳 か旦 つしあ やか に流 れ て いた ガ イド氏 は私 の立 っていた右側 に 一二九 二年 逝去 し た 者 聖 セルギー 設 創 の 木 市 の柩 があ った と言 う。 この聖堂 の正面右隣 ︵ 向 って左︶ に 。 な い屋根 の小 屋が見え る イ ワ ン言市 の臨 子 フ ョード ルの死 ︵一五九 八年 ︾後 皇帝と なり 劇 的な生 産を終え たポリ ス ゴ ド クソ フはじ 。 め 一円 の墓 であ る 十七世紀初頭 のA動乱 V 、 時代 発端 の立役 者 であり 十 九世 紀 ブ ーシキ ンの史劇 とな った彼が、 ムツ ルグ スキ ー の激 。 動的 な オ ペラの場面 が 一瞬鮮 やか に蘇 った この大寺院 の左時 には十 七世紀 に水 が湧き出 た ため建立 され た小さな ナ フドク ラーゼズ ナ 。 ヤ ︿ 井 戸 の上 にあ る︶教会 がある 0シア風 。 ではな く西 欧 の影警が 見え る 聖水 が流 れ出 、 。 てお り 三位 一体 像 がある 人 々 に倣 って 一 。 日口 に合 ん でみた 冷 たく心地 良 い。 こ のほ か十 五世 紀 に建立 され た イズ ポ ット コ,ヨー 、 リ スイ に る︾教会 十六世紀建 ︵ 鐘 の あ 桜 下 。 立 のト ラ ーピザナ ヤ ︵ 食堂 ︾敦会 もあ る 前 レスク ウスベンスキー大寺院 ザ ゴー′ に て右側はナ,ド クラキズナヤ教会 子 淑 見 二 ︵ 大 寺 院 ︶ の称 を 持 つウ ス ペ ン スキ ︱ ︿聖 母 昇 天 ︶ 望堂 のほか ツ ェル コラ ィ ︵ 教 ク 会 ︶ の称 を 持 つド ホ ー フ スカ ヤ ︵聖 露 ﹀ 、 ど アト ニ ッカ ヤ ︵ 受 難 日︶ ヴ ヴ ェゼ ン スカ 、 ヤ ︿聖 母 宮 入 ︶ 洗 礼 者 イ オ ア ンナ ミ ヘ ェ 、 フ スカ ヤ ゾ シ マと サヴ ァテ ィイ セ ルギ ー 。 など 多 く の教 会 が あ る 案 内 人 の説 明 によ る と ,サポ ー ル″は幾 つか の建 物 の集合 体 の称 。 と いう こと であ る 古 代 ロシ アは十 二世 紀 モ ンゴ ル タタ ー ルの侵 略 を 受 け 、 キ エフか ら 、 ウ ラジ ーミ ル ヘの通都 に伴 い 二 一 九九 年府 、 主教 座 も キ エフか ら ウ ラジ ーミ ルに移 り 一 モスクフ、 プ ゴール スク ロシア正教会 を訪ね て(2) 者 の建 築者 は北 ,シ ア のプ ス コフ出 身 であ っ 。 た 後 者 は 三位 一体 大 手 院 の正 面 右 側 ︵ 向 っ 、 て左 ︶ にあ り 焼物 で飾 ら れ ﹁冬 の教 会 ﹂ の 。 別 名 が あ る 二位 一体 聖 堂 には暖 房が な いた 。 め冬 期 は こ の教全 で祈 購 す る 習 慣 が あ った イ ワ シ宮 市 の命 で カ ザ ン戦 争 ︵ 対 モ ンゴ ル ・ 、 タ タ ー ル︾ の勝 利 を 記念 し て建 立 さ れ た が イ タリ ア出 身 の建 築 家 の作 で フレ ス コ画も イ 、 タリ ア ギ リ シ ア の作 品 であ り今 は博 物 館 と 。 な って いる 聖 母 昇 天大 寺 院 の左手 には前 述 の十 八 世 紀建 立 のド クホ ー フ スカ ヤ教会 が あ り 鎮 桜 も 円 柱 も バ p ック スタイ ルで西 欧 の 。 影轡 が こ の教 会 にも 見 ら れ る 聖 母 昇 天大 寺 院 と井 戸 の上 教 会 前 の小 広 場 の松 の木 のそば 。 には 記念 碑 か あ る ニ ハ三 〇 年 代 の対 ポ ー ラ ンド戦 争 時 ポ ー ラ ンド軍 は こ の修 道 院 にま 、 で迫 り 十 六 ケ月 間 激 し い戦 闘 が 続 いた が 遂 に修 道 院 の内 部 ま で侵 人 す る こと は出 来 な 、 、 。 か った そ の史実 を 四 ケ国 語 ︵露 仏 独 実 ︶ で記 し ﹁ポ ー ラ ンド人 は カ ト リ ック教 、 徒 ゆ え賞 のキ リ スト教 徒 で はな く コシ ア正 。 し 少 離れ た 教 の故 であ る ﹂と 記 さ れ て いる 処 に古 い大 砲 七 円も 擢 え つけ ら れ 当 時 の戦 闘 。 を 行 彿 さ せ る 見 学 の最後 に イ コ ン博 物 館 に 。 入 った イ コ ンの語 源 は ギ リ シ ア語 の エイ ヨ 。 ン ︿ 絵 ︶ であ る 通 常 吉 提 崩 ま た は シ ベリ ア 、 か ら松 の板 を素 材 と し た テ ン ペ ラ画 であ る が 材 質 の湿度 を 考 慮 し て三枚 の板 か ら 成 って い 。 る フ レ ス コや モデ イ ク のイ ヨ ンも存 在 す る 、 が遠 近 な く 日 つき 大 き さ も 総 て 一定 し て い 。 て これ を 通 し て神 を 拝 し 認 識 す る手 段 と な る ロシ ア正 教 会 独 特 の イ コノ スタ シ ス ハ聖 画 壁 ︶ 。 の聖 画像 の列 は伝 統 的 に定 め ら れ て いる 最 、 、 上列 は 旧約 聖 書 の族 長 連 第 二 列 は 予言 者 造 1987年 3月 23口 発行 ュ ー ス ー チ ャ ペ ル ( 5 ) 第瀦 号 、 大学 には いりた てのころ いろ いろな人 に 第 二列 はキ リ ストと マリ アの生 産 の中祭 日と 、 ャ し ておかれ る場面、第 四列は析顧 の列 で聖母 学生 のあ いだ に多く のこと にチ レンジ しな 。 、 、 さ い といわれま した 今思えば勉強も合 め て 洗礼者 ヨ ハネ 大天使 聖人を左右 に従えた 、 、 後悔す る ことも 多 いのです が 学友会 で の経 キリ スト 最下段 は地方 の理人 と天使 達 の列 。 験 はと ても自 分にブ ラスにな ったと思 います とな って いる。信者 を内陣 から隔 てて いる聖 高 校時 代 やある いは それ以前 の私 を知 ってい 画壁 の中央 の■費用 の原 を開く こと によ って 、 る人 は 口を そ ろえ て信じられ な いと いう でし 聖界 と人劇 界 の結び つきを象徴 し 内障 の神 。 ■う。 ひま であ ったと いう ことと何 かやりた 父 の元 に男性 のみ入場を訴 され る 扉 のと は 、 、 、 いと いう単純 な動機 では い った のです が な 常 に望母 中央が ■リ スト 右 が地方寺院 の 三位 一体寺院 なら二位 一体 のイ ヨン︶ にぶ ん大き な行事 を やる には あまり に少人数 聖画像 ︵ 、 。 な ので 責 を感 と行動力 が養 われた こと は確 と定ま って いる 中世 のイ ヨン画僧 ルブ リ ョ 。 かな よう です 学 友会 がどう いう こと をし て フの作 品 は三分 の 一で他 は別人 が彼 の作を手 。 る のか知 っていら っし ゃる方 がどれくら い い 本 とし て描 いたと言 う 最も有名 な聖回線 は 、 。 ィ いる でし ょうか ダ ンスパー テ ゃ文化祭 十世紀 ウ ラジ ーミ ル大 公 の受 沈 に際し てどザ 、 クリ ス マスの昼食会 など 一つの行事 がおわれ ンチ ンから持 参 した イ コンである が キ ュフ 、 ばま た次 の準備と いう よう に 私 の想像 を は から ウ ラジ ーミ ル ヘの府 二教 座の移動 に伴 い ヽ るか に こえ たほとんど奉生活動 のようなも の ヽルのウ スペ ンスキー大 寺院 に安 置 フジ ー、 ウ一 。 、 し た しかし そ の中 で先守方 や他 の大学 の で ﹁ウ ラジ ーミ ルの理母 ﹂と 称さ され たため 、 々など多 く の人 にあえ てと っても うれしか 人 れ 現在 モスク ワのト レチ ャヨフ実 行館 の三 。 ったし 、文化祭 が無事 おわ った時 の満足感 み まとな っている 、 た いなも のは 普通 の学生生 活 では経験 でき 。 なか った ことだと思 います 一年 の峙と 学友 会 には い ってか ら の二年 では学校 の知らな い 。 、 一面が見 え て 愛書 心が強くな ったよう です 、 でき れば 学生 の方 々が これを読 ん で少 し で 。 も 理解 し てくれ たらと 思 います 学友会 には 。 い ってくださ ればな おうれし い のですが 、 息えば た った 二年と いう短 い間 でし たが 、 初 め て ア ル木イ トをし た こと 旅行 に行 一た 、 。 こと など多く の思 い出 があります それ に みんな が大人 にな ってきれ いにな った ような 。 気が します これから はみんな進む道 が違 い 。 、 ます が が んば って下 さ い み んな元気 で同 。 窓会 であえ る のを楽 し み にし ています 、 今 ま で私 は共学だ ったせ いも あ って 松蔭 に入学 した時 はど ちらをむ いても 女性ば かり 。 と いう生活 になれる のに時間が かかりました 、 それから 二年たち いざ卒業 と いう今 は のん 、 びりとし た生活 にひたりきり タ クシーに乗 っては運動不 足を痛感 し ていた毎 日を反省 じ 。 て います それと同時 にも うすぐ社会人 にな ろうとし て いる のにこれ で大丈夫だ ろうかと 。 不安 にか られ ている のです 、 私 にと って大学生活 は 中学入学から始ま 。 る松蔭生活 の 十年間 の中 のラ スト四年間だ 。 、 見回せば い つも 同 じ仲 間がそ こに いた 授 、 、 業 中 の家囲気も 放 課後 の賑も 住 み慣 れた 、 。 光景だ った チ ャペルの前 の陽だ まり で 皆 、 ﹃ 卒 業﹄と いう 日が来 る こ と互 いに話す時 、 。 、 と は 心 の隅 にも なか った 講 豪 のこと 快 、 、 画 の話 これから のこと などを話す時 未来 。 、 のこと であ っても 心は い っも現在 にあ った 。 、 一瞬 一瞬が 意 味も なく楽 しか った 、 、 い つか 池 の大 きな優 に名前を つけ て そ 、 。 こを 通る毎 に呼び かけ た 題 は 何をす ると 、 いうわけ でも な いのに そんなた わいも な い 、 。 ことがおもし ろか った 定期 試験が近づくと 、 議義 ノートの整 理 に追 われ 友達 同士貸 し合 ったりした。 学食 や シルバ ーの片 隅 で、 夏休 、 み の旅行 の計 画を た てたり 雑誌 をめく った 。 りし て、昼 休み のひとときを過ご した 始業 、 のベ ルに間 に合う よう にと 教堂 に駆け 込ん 。 だ ことも しばしばだ せ っかく間 に合 った の 、 、 、 に 休講 だと 知 って うれしがる やら が っ 、 。 かりす るやら そんな時 は行 に出 て 仲 間と 。 行 き つけ の店 で長 いことすわり こんだ 、 季節 がど んな に寒 い冬 でも どんな に暑 い 、 、 夏 でも 学校 の円 の内 摘は ま るで暖 かな春 。 、 のよう に ゆ っくりと流れ てい った 。 、 今 私達 は別れを告げ ようとし て いる も 。 、 う 二度と戻 っては来 な い あ の時 に 誰も が 。 、 それ ぞれ の道 を歩 ん で行く のだ これま 要 皆 1 9 8 7 年 3 月 2 3 日発行 ス チ ャ ベ ル ・二 4 ( 6 ) 第2 8 号 、 では 道 に向 か って歩 い てき た が これ か ら は 。 道 の真 只 中 に 一人 立 ち す る のだ い つでも が 、 。 ﹃ 春 ﹂ と いう わけ では な い だ か ど ん な 時 でも 目 を 開 じれ ば あ の時 は 何 度 も 何 度 で 、 も 色 鮮 か に 甦 ってく る 。 、 私 は 松蔭 か 与 え てく れ た暖 か さ と 感 謝 。 の気 持 ち を 胸 に歩 い て行 く 先 4 方 に 友人 、 達 に そ し て誰 より も 両 親 に感 謝 す る気 持 ち 、 、 を胸 に 目を 見 開 い て し っかり と 踏 み し め 。 て歩 い て行 く 。 あ り が と うご ざ いま し た ■ 111,1 ヤ チ ャ ベル で 結 婚 お め で と う ︲ 0 0 ◎ 6 年 1月 1 日 0 岡 崎 晃 兄 と 村 川 知 恵 子 姉 0月2日 ◎同1 働 今非崇智兄と山 口恭恵子姉 0 8 ◎同 1月 1 日0 篠 田潤 一郎 兄 と山 中 茜 怖 0 9 ◎ 同 1月 1 日旧 山 根 昭 子 姉 ︵ 短大 英文学科 五 四年 卒 ﹀と 柏 原 登 兄 5日 0月2 短大家政学科五 ◎同 1 的 中津森姉 ︵ 七年卒︾と黒田誠兄 6日 0月 2 米国 兄と竹田裕美子姉 吾 の同 1 仲 □ 1 ◎同 1月 1日的 広瀬美子姉 ︵ 短大英文 学科 五六年卒 ︶と藤元清兄 1 ◎同 1月 2日□ 久崎真由美姉 ︿ 短大服飾学 科五四年卒︾と前田正紀兄 ◎同 H月 3 日的 は下袴子姉 ︵ 大学英米文字 科 五八年卒︶と内口雅和兄 1 ◎同 1月 も日山 小出実保姉 ︵ 短大英文字科 五七年卒︶と比石 ︵ひせき︾益 二兄 1 3日 ◎ 同 1月 2 大学英米 働 溝 口由紀子姉 ︵ 文学科六 一年卒︶と丸尾精 一兄 0 刷田宮 久 子姉 ︿ ◎ 同 H年 3 日旧 車 短大真文学 科 六 〇 年卒 ︾ と 橋 詰 秀 久 兄 4 0 同 2年 1 日 日 木 戸 広 美 姉 ︵ 大 学英米文 学 科 六0年卒 ︶と大久保正文 兄 2 1 日山 金 田産 子姉 ︵ ◎ 6年 1月 0 短大英文字 科 五 八年 ■ ︶ と 永 田啓 こ 兄 1 ◎ 同 ︰月 1 日 旧 西 浦 千 幸 姉 ︵ 大 学国文学科 六 0 年 卒 ︾ と寺 田 治 昭 兄 ◎ 同 1月 ぁ 日旧 宮 崎 直 美 姉 ︵ 短大 実文学科 二 七 年 卒 ︾と 滝 勝 次 兄 ◎ 同 2月 舞 日旧 竹内 久 恵 姉 ︵ 短大 服飾学科 五 二年 卒 ︾ と 山 口秀 昭 兄 。 そ れ ぞ れ チ ャベ ルで結 婚 式 を あ げ ら れ ま し 。 神 様 より の豊 か な 祝 福 を お析 り いた し ま ◎ 同 3月 1 日旧 久 美 瀬 由 加 姉 ︿短 大 服飾 学 科 五七年卒 ︶と安江広 兄 た す 〓一 フラ ッヽ ン ュ・ ュ︲,ス ◎ 慈仁 会 スポ ー ツ賞 受賀 財 団 法 人 慈 仁 全 体 育 スポ ー ツ振 興 財団 よ り 兵 直 県 の体 育 スポ ー ツの振 興 に寄 与 し功 、 績 が あ った の で 以下 の通 り 松 蔭 の選手 が 慈 。 に 会 スポ ー ツ賞 を 受 賀 し ま し た ■金 メダ ルΛ軟 式 テ ニス部 V 山 [ 崎 漉 軒一 雑 販一 帯 一 全 国 私 立 短期 大 学 体 育 大 会 優 勝 ■銀 メダ ルA軟 式 テ 一ス部 V 藤 田 純 子 ︵国 文 三年 ︶ 関 西 学 生 軟 式 庭 球 シ ング ル ス大 会 優 勝 Aな ぎ な た部 V 家 政 二年 ︶ 佐 古 恭 子 ︵ 近機 学 生 なぎ な た 選 手 権 大 会 優 勝 穴 原 山組 子 ︵ 実 米 二年 ︶ 近捜学仁な どなた新人戦優勝 ハ硬 式 テ ニス部 V [ 昧 購 囃 難 緋 市≡ 一 幹 一 全 日本 学 生 テ ニス選 手 権 大 会 ダブ ル ス準 優 勝 ■銅 メダ ルA軟 式 テ ニス部 V [ 赫 抽 打≡ 細 幌 峡 〓 幹 一 兵庫 県学,優勝大 会 優勝 な お 受 賞 式 は十 二月 十 七 日 ︵ 水 ︾ 午後 四時 、 。 神 戸 国 際 会 常 大 ホ ー ルで行 わ れ ま し た より ∧卓 球 部 ∨ ◎ 会 長 杯 争 奪 草 球大 会 十 二月 十 一日内 ︱十 四 日 田 東 大 阪 市 立 中 央 。 体 育 館 で行 われ た シ ング ル ス準 優 勝 松葉 ︵松蔭 ︶ 0 1 2 藤 井 ︿ 大 阪教育大 ﹀ こ の結 果 松 案 責 美 選手 ︿ 国 文 二年 ︶ は こ 位 と 。 な った A軟 式 テ エ ス部 V ◎ 全 日本 選 抜 イ ン ド ア静 周 大 会 一月 十 五 日内 静 岡 市 中 央 体 育 館 で開 催 二位決定 戦 藤 田 津 村 組 ︵ 松 蔭 ︶ 5 1 1鈴 木 格 山 綱 ︵ 東 京 女 子体 育 大 ︾ こ の結 果 藤 □ 津 村組 は 三 位 と な った 。