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第18号 1989年10月1日

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第18号 1989年10月1日
1989年10月1日発行 第18号 毎月1回発行
軸変AN¶∧玖mEのNE捏S L∈rTER軸g
バルトヘイト
ニュースレター
NO.18 1989年10月 発行 アフリカ行動委員会
9月12日に臆殺された、SWAPO(南西アフリカ人民機構)の白人幹部
アントン・ルポウスキー氏の死を悼む人々。表文P.2をお読みください。
NAM=【BIA NOW
2
のぞみのプライベート(いんさいど)リポート
6
Fアパルトヘイトの白人たち』学習会 日管諾薫訟雲アパルトヘイト委員会について 10 12 14
アシナマリ再浜決る
15
俳優座劇場公浜Fサムとハロルド』を観て
16
次量蓋蓋羞三三芸ミ豊富妄空き芸こそう
17 19 19
ケニア・サブブリ
20
第1回「子供支攫小委員会」報告 F経済制裁』ブックレット途中経週
22 23
NAMI BI A NOW
上林 陽治
_ヌジ≡暮マSWA p O議長の帰還
ナミビア最大の解放組織SWAPO(南西アフリカ人民機構)のサム・ヌジョマ議長が
9月14日、約30年の亡命生活に終止符をうちナミビアに帰国した。首都ウィントフー
ク空港に降りたった議長は、まず、大地にロづけをし、それから出迎えた同志たちと次々
と抱擁し、最後に89才になる母親へルビー・コンドンポロさんとかたく抱きあった。
独立選挙まで二カ月弱を残しての議長の帰国を迎え、SWAPOはムードを一挙に盛り
上げ、選挙戦へとむかおうとしている。これに触発されたように、反SWAPO勢力も対
抗キャンぺ一ンを繰り広げている。
9月12日、政党の届け出が行なわれ11の政党が登録された。届け出には少なくと
も2千人の投票登録室の氏名とサインが必要とされ、また1万ランドの供託金を出さなけ
ればならない.43の小党分立状藍が続いていたが、選挙戦に勝ち抜くため、政党間の連
立が行なわれたようだ。
選挙人登録業務期日だった9月15日には、潜在選挙権所有藷は67万7千人と見碩ら
れていたが、すでに95%以上の65万人が登録を済ませていた。このうち約4000人
の南ア人が選挙権を取得している。これは、ナミビアで出生したか、もしくは丙親がナミ
ビアで生まれた場合、選挙権が与えられるからだった。また、1975年以来、南ア政府
によって「南西アフリカ」の身分証明書を与えられていたアンゴラ人にも、投票権が与え
られていたのである。SWAPOの支持者が多く、そのため南アの秘密警察等によって様
々な妨害工作が行なわれていたナミビア北部のオバンポランドでは83%の選挙登録しか
終わっていなかった。SWAPOは登録業務の延長を求め、国連監視団はこれを認めたと
いわれる。
選挙戦は終盤を迎えた。しかし、「自由で公平な」選挙のためには数多くの難問を抱い
たままだ。
アこノ トニ/暗莞廷
9月12日夜9時15分、アントン・ルポウスキー(37)がナミビアの首都ウィント
フークの自宅で臆殺された。被はSWAPOの白人幹部として、また、ナミビア全国労組
の財政諮長として最も知られた男だった。
昨年12月4日付毎日新聞で、アントンりレポウスキーの組介・インタビュー記事が大
きく親裁されている。それによると、彼がSWApOに加わったのは1984年のことで、
白人として初めてのメンバーだったという。1952年、ドイツ系の父、アフリカーナー
系の母という両親の長男として、ナミビアに生まれた。南アフリカの大学に学び、84年
当時は弁護士をしていた。SWApOに加入した理由について、彼は「もし自分たちの子
供や孫たちからFあなた方はどのようにして抑圧者に加担してきたのか?』と問われた時、
私たちは何と答えれば良いのか。F私たちは人巷差別主義者ではなかった。アパルトヘイ
トにも賛成しなかった』と言い訳しても∴本当に信じてもらえるだろうか」と言い、さら
に「白人たちが自由の中で生き延びてゆくために臥抑圧された人々の人権と自由を尊重
し、自らを抑圧薯の立場から鰯故するしかない」と語るのだった。
一2−
火曜
ー3−
彼のSWAPO加入が契機となって、その後、ナミビアの南ア支配を嫌い、特に南ア国
防軍への徴兵を拒否するナミビア白人が多数現れるようになっていった。そのうち数人は、
SWAPOへと加入していったのである。賠穀犯として北アイルランド出身と祢する白人
ドナルド・アチソンという人物が逮捕されたが、暗殺の背後関係については今のところわ
かっていない。事件直鼠南アからナミビアに入っていたらしい。
「ナミビアン」紙記老、G・リスターによると、鰍は暗殺の2週間程前から「ヌジョマ
(SWAPO議長)が帰ってくる、お前は死に向っているのだ」という脅迫電話を受けて
いたという。また、事件直後、ナミビアン紙に「白い狼(it WolYe)」のメン′ヽ−と名
のる人物から犯行声明とうけとられる電話がかかってきていた。この「白い狼」とは、元
南ア讐案官8・ストリダムが創ったといわれ、南ア国内でも数多くの犯行を繰り返してい
る白人右者組織である。これに対し、南ア派遣ナミビア行政長官L・ビエナール軋「白
い狼」なる組織は知らないし、存在しないとしている。
アントン・ルポフスキーは独立後の政権で法務大臣になるといわれていた。また、白人
リベラル、黒人民族主義者双方に人脈を持ち、その「かけ槙」役としての期待も大きかっ
た。彼の死は、将来にわたるナミビアの混乱を象徴するような出来事だった。
「自由 − うミ正」な選挙くまありうるのカー
自由・公正な選挙を実施するためには.選挙の手続き・実施がそうであるばかりか、国
内の治安が保たれていなければならない。アントンの暗殺がはからすも明らかにしている
ように・SWAPOメンバー、支持恵特に亡命帰還者の安全は全く保障されていない。
アントンが暗殺された9月12日には、アンゴラの反政府ゲリラUNITAがアンゴラ
・ナミビア国境を越えてオバンポランドに侵入、手留弾によってカーナ・シュウムブァき
ん(14)はじめ3人が重傷を負った。
9月7日、ナミビア教会協議会(CCN)は、「自由・公正な選挙の実施のためには、
様々な障害が存在している」という声明を発表した。その障害の第一は、北部の農村地域
での住民への脅迫である。独立選挙実施にあたって活動を禁止されていた秘密警察KOE
VOET臥いまだに北部で展開中で、陰に陽に住民に恐怖感を与えている。南アに支援
された政党民主タ▼ンハレ同盟(DTA)は自警団(ビジランティス)を組織、住民への
圧迫を強化している。8月27日には、SWAPOを支持していた少女が行方不明になる
事件が発生している。また、8月3日に臥亡命帰還者サッキー・アンデレアが警寮によ
って逮捕された。容疑は不法出国たったが二カ月程前には「恩赦」が宜言され、この容疑
では起訴しえないことを警察は承知している。第二の問題は、白人所有農園の労働者に関
して、選挙人登録が進んでいないことである。4500人の農業労働者のうち、9月初頭
で2000人しか登録を済ませておらず、登録証も白人農園経営者によって保管されてい
るのた。白人農園ではDTAのみが選挙運動を蕊められている。第三にアンゴラ反政府組
織UNITAの役割である。UNITAは自由にナミビアに出入りし、DTAの自警団的
活動をしているそして彼らは選挙人登銀をし、独立選挙では「ナミビア」人として投票し
ようとしている。
アントン暗殺事件を契練に、国連の監視精勤への不信が一居つのってきている。予算も、
人員も遇少な国連監視団は、南アが支援している警案機構に頼って活動を行なっている。
ナミビアの書楽にとっては、国連監視のもと、自由に動き回っているのである。
一4−
SWA P Oiこよる人権侵害
ヌジョマ議長の帰還に際し、彼に「殺人鬼」「行方不明になった仲間を返せ」と非難の
言葉をぶつける一団がいた。彼らこそ、アンゴラやザンビアのナミビア人難民キャンプで
SWAPOによって拘禁されていた人々やその豪族だった。
ナミビア難民4万2千人の帰還に伴い、SWApO指導部によって収容所に胸兼されて
いた人々の人権抑圧の実態が明るみになった。事態は7月4日まで逆のぼる。この日、ア
ンゴラのルパンゴ収容所に拘禁されていた153人のナミビア人が帰還、キャンプでの人
権抑圧の実態を詰りはじめたのだ。収容所に入れられた人々は.SWAPO棚ソロ
モン・<ワラ(弘loton H加帽la)一コード・ネーム「ジーザス」−の手によって、南アの
スパイという嫌疑をかけられたのだった。彼らは「死に至るような」拷問をうけ、70∼
100人が死亡したと言われる。南ア紙「ウイークリー・メール」によると、ヌジョマ議
長の妻もスパイとして数カ月拘禁させられていたという。女性の拘禁者の中には、性サー
ビスを強制されたと告白する巷もいた。ほとんどのSWAPOメンバーは、スパイ容疑者
が拘禁されているという事実は知っていた。しかし、彼らは、「拘禁薯は人道的に扱われ
ている」という持善部の言葉を受諾していたのだった。
何人ぐらいが拘禁されていたのか、真相はヤプの中だ。SWAPOに反感を持つ難民帰
還者は500人以上の名を挙げている。一方.SWAPOが釈放したと報告されているの
は283人である。今だに、収容されているナミビア人も存在するようだ。
今日に至るまで、南ア勢力と闘い掛ナてきたナミビア教会協議会は、8月23.24日
の丙臥元収容者、SWAPOリーダーと別々に会談を持ち、28日声明を発表した。そ
れは、「いかなる人、いかなる場合においても、人権抑圧を許し得ない」ものであるとし、
両者の和解のため、民族としての統一のため、教会は仲介者となり努力していくと請って
いる。
反SWAPO勢力はこの人権抑圧問題を格好の宜伝材料としてキャンペーンを繰り広げ
ている。これに対しSWAPOは、「南アの宜伝工作。事実無根」と決めつけているにす
ぎない。
延び延びになっていた投票日の決定も.11月7∼11日の5日間とようやく決定した。
報道によるとその3日後に結果が判明するということだが、現地からの情報によると、1
8日にならないと結果が出ないという。
いずれにせよ、投票まであと1ヵ月になった。
をウィントフーク空港に出拶見た南西アフリカ
148、30年ぶりに帰国したヌジョマ隕長︵左︶
人民機構︵SWAPO︶選挙局長︵ロイター︶
9月15日付読売新聞より
_J gβエ′棚▲/■庸二芦二重仰のf7ノ 司声1−J′′一、r−_ニー
のぞみβプライ/ヾ−八嶋かピケ.ポ」阜
まず、なんでプライベート・リボ」トかっていうと、そもそも行動委員会なるところは、
ごちゃごちゃ集まっている人の意見をrまとめる」なんてことがおよそ不可能な構造にな
っていて、わたしの書いたものがr女性ぐる→ぷJとか、「キャンペーン実行委員会」の
代表意見だとまちがえられるといけないと思ってのことなのです。つまり「オレがやるっ
!」とかrあたしがやるわっ=って手を上げた人が∴最初から最後まで責任も無責任も
ぜんぶひっくるめてやってしまうという仕掛けになっている(ならざるをえない9)、そ
れが行動委員会の「良いところであり惑いところ」なのですから。
そもそもこのキャンペーンだって,そんな構造の行動委員会が他の剋綴(これはもうし
っか 組織でした)といっしょに何かやるってところからして、最初っからギシギシ軋み
欄こえていたんだけれど、そこはもういつものことで、ひばりの「コンサートやるっ」
っていう軽い乗りから嘲陣から駒」、わたしも乗せられたり人を乗せたりで、ほとんど
てんやわんやで嫡始したなあって、今になって思いますね。
なんせ、7∼8月は、ひばりは仕事をまったく入れず、多恵子は失業中、わたしは家族
も仕事も省みずに酢け抜けたのでした。ところが、キャンペーンが終わったか終わらない
うちに、身の軽いシングルのひばりはタイへ多恵子は南アへ(なんと!日 と消え去っ
て、しっかり子持ちで三つ錘のついたわたしと、やむなく金の盤理を任された(9)遠山
の健さんが残務処理というわけです。
4月にこのキャンペーンが期鵡如こ始まって、6∼7月と準備に追われ始めたころから
ゲストの最後の1人が成田を発った8月25日の朝までに、わたしはここ数年分のエネル
ギーをすべて使い果たした感じで、1カ月ほど人たこっとなって、気力も体力もまったく
尽きてしまった自分に気がついたのでした。おまけに9月は追い打ちをかけるようにひど
い残暑だったでしょ。涼しくなったいまも、思い出すだけでゾッとします。
* * *
それにしても、みんながんばりましたねえ。
「まいったなあ」を連発しながら、去年のアジア・ワークショップに引き掛、て今年もま
た暑い夏を趣け抜けた植原さん、8月8EIの記者会見とレセプションを取りしきり、ほと
んどr疲れJということばを知らない甜さん、エリザベスの手紙をいっぱいタイプした
り、プレトリアに急遽「逆夢の電報J打ったりでなにかと便和に二コ二コと働いてくれた
心優しいブライアンさん、マンデラの写真の橙に座ると「示ント二、マンデラそっくり」
とミリアムやノントに言われたり、10日の集会で司会を降りてしまったひばり(前日の
∵遷
コンサートでわたしの代わりに司会をやらざるをえなくなって、疲れ果てたためでした)
のピンチヒッターを勤めて、後であちこちからプープ言われ、ちょっと気の毒だった牛嶋
さん、ナミビア支援委員会・東京をたった独りでがんばり、ジョー・カパンダ来日を抱え
ながら、女性の日キャンペーンもちゃんと手伝わされた(わが行動委事務局長)上林さん、
10日の集会を取りしきって子守りもやった田中さん、佐竹さんと女二人で重い重い荷物
を持ってミリアムを飛行場まで送っていった福地さん、マンデラリヽウスでの歓迎会(オ
ーナーの勝俣さんもアリガト)や高柳邸での送別会ではもっぱら料理番をやり、女性ぐる
−ぷ内唯一の男性としてミリアムに「あら、じゃあオノラリー・ウーマンね」なんて言わ
れてしまった遠山の腱さん、ミリアムにぴったり付き添って、通訳では大活躍した大阪の
佐竹さん、rあたしもうダメだわ”」なんてひょろひょろ言うんで、いつ倒れるかいつ倒
れるかとまわりが気をもむのを尻目に、細身ながらも柳のようにしなやかで、結局、一番
体力があると判明した松島多恵子(長期滞在のエリザベスに最初から最後までしっかり付
いて歩いた)、そして自分でも書いていたように「勢いと思いつきだけはいいけど、ワガ
ママだし、根性も体力もない」のに、キャンペーン準備中に何度も熟を出して倒れたわた
しの仕事まで、多恵子を巻き込んでさばくことになってしまった森下ひばり。ほかにもた
くさんがんばった人がいる、おお、シスターズあんどブラザーズ、ごくろうさん、よくや
ったよね。
広島、大阪、千葉、]臓道で、なかなか決まらないゲストに気をもみながら集会の準備
をなきったJAACのみなさん、突然来日したノントを迎えてくれた京都のみなさん、と
数え上げたらきりがなくなりそうだけれど、このキャンペーンは実は、こういう座談で、
こういう削こ見える範臥声が聞こえる範囲での交流を日清していたんだから、やっぱり
そのことはしっかりと確認したいのです。
たとえば、JAAC以外では、記者会見とレセプションの会場を快く貸してくださった
落合恵子さんとクレヨンハスのみなさん、いろんな意味でほんとうにお世話になった「婦
人之友」のみなさん,青田ルイ子さん,通訳の岩田さん、そうそう忘れるところだった、
なんて言ったら、あの低音で優しく叱られそうな豊田勇造さん、このコンサートのために
何曲も作って歌ってくれましたね。9日のコンサートはとってもよかった。歌もミリアム
やエリザベスのスピーチも心に深く伝わってくるものがありましたよ。
それから、いっしょにキャンペーン実行委員会構成メンバーになってくれたNCCの、
カーター愛子さん、フェミニストここにありっていう感じで、日を見張るような活躍でし
た.そして、なんといってもスポンサーの鹿野平和財団の大山さんや高谷さん、どうなっ
てるんだかよう分からん欄垂のなかの、わたしら「女性ぐる−ぷ」特有のやり方に戸惑
われたことも多かったでしょうが、親局3人も呼んでしまったんですね.本当にお世話に
なりました。
ほかにもキャンペーンのためにカンパして下さった方々や、P】⊃21、先住民族会議、
忘晶久磋フォーラム∴戦争への道を許さない女たちの会、岩波のr世界」編集部、朝日ジ
ー7−
ヤーナルなどなど、ゲストを快く迎えてくださった方々、ありがとうございました。
ほんとうは、このキャンペーンの成果とか∴意味付けとかなんとか、七面倒臭いことを
しっかり書こうと患っていたんだけれど、体力気力がマイナス状態からゼロ地点までやっ
と回復したわたしとしてkL「ヤッタンダネ一、ゴクロウサン」って言ってしまったら、
もう言うことなんかないような気がしてきてしまうのです。
ミリアムやエリザベスが公式の場で言ったことを、新聞やら雑誌で読んだ人も多いだろ
うし。それにしてもやっぱり、南アの女たちや子どもたちの状況を生の声として実際に聞
けたことは、ものすごい迫力があってビンビンと伝わってきて、すごい越でした。
でも、それにも増して今回、3人ものゲストが来たことでわかったのは、rアパルトヘ
イト反対!」って拳を競り上げて集会をやったりするわたしたちが、実は知らず知らずに
あるヴェールを通して彼女たちを見ていたんじゃないか、ということに気がついたことで
す。三人三様の、英に個性豊かな女たちがいっしょにやってきてくれたおかげで,「これ
は南ア黒人女性特有のもの」と椒いしたかもしれないところを、rいやいやこれはアー
チスト、ミリアムの個性の部分だなJとか「族馴れしているエリザベスの癖だな」なんて
ちゃんとわかったのは、2∼3日の短期間だけのお付き合いではなくて、2”3週間とい
う行動委員会始まって以来の長斯l夢在ゲストを迎えたからこその経験だったんだと思いま
す(「ええっ、なんで9j rかんべんしてくれよJなんて声もたびたび聞こえてきました
が・・・)。
こちらの勝手な思い込みが」、気味よく裏切られていく場面もいろいろあって・・・。で
もそれは早いうちに某切られてホントによかった、といった類のものだったようです。だ
って、そういう思い込みのヴェールをこ取り除いて、これでやっと人と人として付き合える
出発点に立ったという気がするからです。ミリアムもrいままで日本人っていうと、南ア
じゃビジネスのためにやって来る人で好きじやなかったけれど、日本にきて、アパルトヘ
イトに反対する人がいるのを知って心強い」って言ってました。rOO代表」と「00代
表」の形式的な会合ではけして分からない、他人的なことがらを含めて、人が人と繋がる
ことが大切だとわたしは信じているし、エリザベスも人と人の繋がけが大事だってくり返
し書っていました。
アノウレトヘイトという極めて疎納な状況を背景にしながらも、人間関係はけして「政
治的」にはしたくない、とわたしなどは思っているので、「偲人的に」という部分にこだ
わりたいのです。お互いに、ヴェールを一枚一枚取り去って、そういう過程のなかで、情
緒的な感情に読されずに、しっかりアノ勺レトヘイトの世界的な構造を見賠えていきたいで
すね。
そういう意味で、今回のキャンペーンは、ホームステイしてもらったりして、その人の
人柄とか蘇みたいなものまで僅かながらでも分かるような付き合いができたのは∴得難い
体験だったように息われます。その辺のエピソードなんかは、次回のお楽しみ。女女女
一8−
身分分子のごろ盾制でぼ鬼舶
南ア国内での今年の南ア女性の日は、9月の総選挙ボイコットのための全国的なデファ
イアンス・キャンペーンの流れのなかで、活発な動きを見せたようです。
「今日の女性の日は、明日の自由の日Jを、今年のテーマとしてFEDTRAW(トラ
ンスヴアール女性連合)によって、ウィッツウオータースランド大学のキャンパス,フラ
ワーホールでいろいろな催し物が行われました。劇、音楽,歌、藷の朗読などや、日曜経
費や食べ物の出店もあって,なかでもFEDTRAWの保育園の子どもたちによる劇がハ
イライトだったと伝えられています。マーケット・シアターではブラック・サッシュが「
女性を讃える」写真展を関いたり、FEI)TRAWがスポンサーになってコンサートを闊
いたり、と8日間にわたってさまざまな催し物相かれました(8月10日付ウイークリ
ー・メイル紙から)。
また、COSATUを中心に、全国的な女性組織の再結成が進み、60年代初頭にAN
Cの非合法化に伴って事実上組織の崩壊を金縁なくされたFEDSAW(南ア女性連合)
を再結成するための会議が開かれたと伝えられています(8月4日付ニュー・ネイション
耗)。
8月9日のために、エリザベスの要請に答えて、わたしたち「南ア女性の日」キャンペ
ーン(イン東京)実行委員会も、達者のメッセージをファックスレターで送りました。
また、9月23日に,1956年のパス法反対のデモを上回る規模で、プレトリアの政
庁の建物に向けて、南ア国内で址DM(マス・デモクラティツク・ムーブメント)を中心
に女たちがデモを予定しているという知らせを受け、行動委員会もそのデモを支持するメ
ッセージを送りました,
23日当日、プレトリアでは警察が建物を固く囲って、人々は近づくことができず、逮
捕者も多く出たと伝えられました(9月24日付ジャパン・タイムズより)が、日本の大
手新聞にはほとんど載りませんでした。その直前に、デクラークの「改革路線」なんて記
事をいっぱい載せたり、ケープタウンでの大きなデモに対して警察の放り締まりがなかっ
たという報道をして、いかにも「改革」が進むような気配を読者に印象づけて、実際に南
アの女たち棚の建粉にかけたデモはしっかり暴力的に抑え込まれているのは記事にし
ないのですから、何かの力が飽いているとしか考えようがありません。
(文責:くぼたのぞみ)
昏
♂
『アノヾル トへ一r トの白人たち』学習会
松太仁一一氏講塀
9月30日、総評会館において、あぼるとへいとを考える会主催の「アパルトヘイトの
白人たち」の学習会が催されました。参加者35名。アパルトヘイトの改革か廃止か、緊
迫した南アの状況の伝わってくる熟のこもった松太仁一氏のお話でした。
以下、その内容を要約させていただきます。
★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★
アパルトヘイトについて述べるとき、黒人の視点に触れないことは間違いだが、今日は、
黒人の状況を押さえた上で、にもかかわらず崩れないアパルトヘイト。それを支える白人
たちは何を考えているのか。このことにしぼってお話します。
1945年、戦争が終ったころ、いわゆる先進国人にとって、アジア・アフリカ人は
「土人」であった。
ジョン・ガンサーの「アフリカの内某」などにも.土人という言葉が出てくる。世界全
体が、アフリカ人を見下していた。その後、アメリカ黒人の公民権運動、ガーナのエンク
ルマなどのすぐれた指導者の出現によるアフリカ諸国の解放運動・独立。国連加入。世界
の意議は、アフリカの植民地を解放すべきであるという方向になる。一九経済的にも、
植民地経営はあわなくなってきた。
このような状況の中で、南アの白人も、このままでは自分たちも黒人を解放しなければ
ならなくなるという危練感をつのらせ、又、国際的孤立をも恐れた。
他の世界では、社会の変革に伴って少しずつ社会的意義が変えられたのに、南アの場合
は法律によってアパルトヘイトが国の秩序として固定してしまった。
そして、現在にいたると、南アと他の世界との意義の差は歴然とする。アパルトヘイト
は、言ってみれば化石のような讃二会システムである。
1948年、のちの大統領フルウールトによって、アパルトヘイトシステムが考塞され
た。アパルトヘイトは黒人に権利を与えないシステムであり、外国人にしてしまうシステ
ムである。南アの中に、黒人の部族別の国中回を作り、外国からの出稼ぎ労静著として、
すべての権利を規制してしまう。これが、アパルトヘイト、即ち別れて住むということの
基太である。
なぜ、このような政策をとらねばならなかったか。他のアフリカ諸国の白人たちと違っ
て、南アの白人たち、特にアフリカーナは、1650年頃、南アに入植。はじめ、ケープ
の近くに入植する。が、19世紀、イギリスの進出によりケープを追われたアフリカーナ
たちは、悪人を追い払い内陸を開拓していく。そして、1854年、オレンジ自由州とし
て独立する。が、1860年代のダイヤモンドの発見により、イギリスが内陸に侵入し、
ボーア戦争を戦う。アプリカーナにとって、300年にわたる南ア建設は苦難の連続であ
った,
この南アを黒人に渡したくないという感情。又.南アの場合、他のアフリカ諸国のよう
な植民地一宗主国の関係は切れている。南アの中にいる少数の自人たちが、自分たちの経
済活動を行っているのである。
−10一
しかし、世界的な植民地の解放、人種の平等という社会意識の確立の中で、黒人に権利
を与えない法的根拠が必要であった。これがフルウ▼ルトのアパルトヘイト政策であった。
そして、現在の南アは、1948年にできたアパルトヘイトシステムが、黒人から全ての
権利を埜いとった形でそのまま続いている。
1948∼60年、少数白人が多数黒人を支配するという体制を維持するため、様々の
法律が成立した。人口登録法、集団地域法.集団居住法、糀菓確保法、パス法などである。
これらの法律によって、黒人をホームランドに登録し、居住法によって指定された黒人
居住区に住むことを強㈲する。又、集団地域法を支えるためのパス法は、出身地、部族、
雇い主等々を印したパスブックを持たずに白人地域を歩いていると、逮捕され、ホームラ
ンドに送り返される。が、都市の黒人にとって、ホームランドは登鎧上のものであり、一
度も行ったことのない土地である。
更に、背徳法.雑婚禁止法がある。背徳法は、異人種間の性的関係を泉止する法律であ
るが、証人を必要とすることから、国家が主婦たちにのぞきを奨励する鈷果となり、白人
社会の間でさえ不道徳として反対が強かった。
1984年、人種別三浣制議会の制立。
1985年、バス法改正。といっても、今まで恩人、インド人、カラードだけが持って
いたバスを全人種が持つことになっただけで∴実体としては変らないが‥・。 又、背
徳法も廃止される。 実質的には意味のない改革だが、南ア政府がなぜこのような小さな
改革をしなければならなくなったのか。
1976年のソウェト蜂起。これは、黒人の組織的なな 航続 動として、はじめてのもの
であり、1年間続いた。きっかけは、英語の授業をアフリカーンス詩でしょうとしたこと
にあるが、このことで、家畜のようにおとなしいとされていた黒人たちの抵抗に白人たち
が驚いたこと、それに対する弾圧が世界に報道され 国際的批判が非同盟諸国だけでなく
先進国にも鉱がった。又、黒人自身が自居をつけ、不買運動など∴組織的抵抗を行うよう
になった。
これに対し、1976年以降、南ア政府はソウェトの谷に、電気・水道・下水等の設備
を整えはじめるなど、鶴改善に手をつけるが、黒人の権利の回復までは考えていなかっ
た。 現在、南ア政府は外国からの経済制裁・賛太引上げ等により、アパルトヘイト政策
を見直さざるを得なくなっている。
南アのような、原料輸出製品輸入の途上国璽経済は、経済制裁の釘撃を受けやすい。絵
響太の1雲は外国賛未であり、これを引上げられて旺経済成長がストップしてしまう。経
済成長がストップし失業者が増えると、失業者は黒人であり黒人は政府に石を投げる。そ
うすると治安が惑くなり、更に、外国資太が違げでしまう。 このジレンマの中で、現在、
デクラーク政権臥 どこまでアパルトヘイトを改善すれば外囲資未が戻ってきて、経済制
裁がやむのかということをせぷみしている。
黒人の真の代表となりうるマンデラ‡ま70才であり、彼との話し合いのチャンスは今し
かない。が、ANC謹長オリバー・タンボの「アパルトヘイトは犯罪であり、犯罪を改革
することはできない。犯罪はなくすしかない。」という発言もあるように、アパルトヘイ
トの廃止しかないのか。 経済の悪化の前に、南ア政権はアパルトヘイトに何らかの結論
を出さざるを得なくなっているのが現状であろう。(文責;福地 秀子)
−11−
付けl中]Hh旦HH]闇・
南ア総選挙大勢(ANCニュースブリーフインクより)
獲得議席数
国民党(NP)93
保守党(CP)39
された。投票日には、合計252人が、非常
民主党(DP)33
奉應宜言合によって逮捕されている。このう
9月3日から始まる過で、739人が逮捕
ち、20名が18才以下である。
総得票数
Np・・・・
1031,566(48%) 〃血.血′叫
CP・・・・
・673,079(31%) 監:諾霊㌢
DP・・・・
・430,199(20%) 〃‘作句ld血血W机叱叩
HNP・・・
・・・5,501(1%以下)
真正国民党
内訳
トランス八一ル州 1,141,69
Np・・・
520,034(46%) ナタール州
CP・・・
453,826(40%) NP・・・・・107,077(44%)
Dp・・・
159,383(14%) Cp・・・・・・32,809(13%)
HNP・・
・・3,308(1%以下) Dp・・・・・103,547(42%)
オレンジ自由州
174,096 ケーブ州 589,965
Np・・・
・・・・88,490(51%)
Np‥・・・315,956(54%)
Cp・・・
・・・・80,068(46%)
CP・・・・・106,376(18%)
DP・・・
・・・・・4,382(3%)
DP‥‥・162,887(28%)
−12−
九月八日付朝日新聞より
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自由人権協会(J C L U)
反ア′ヾルトヘイ ト重点会(La▼yerS鹿alnStApartheid)
もこつレ、て
林 陽子(弁護士)
私は87年秋から1年数か乱イギリスの大学に留学する機会があり、さらにその後3
か月、西独に滞在して帰国しました。この歳月は私にとってヨーロッパを知る稜会であっ
たと同時に、南アフリカを知る機会でもありました。
イギリスの大学の多く臥南アフリカからの果_人望学生を迎え入れるための特別奨学金
を持っています。また、南アフリカから多くの白人留学生も学びに来ています。ナタール
でUDFの活動をしていたミーナ、ソウェトで学校の先生をしていたプムラ、殺嶽覚悟で
「煽ったら兵役を拒否する」と言って帰国したアラン(白人)…‥「自由になった
南アフリカ(Free鮎uthAfrica)でまた会おうね」と再会を約して別れてきた彼ら・彼
女らのことは、生涯忘れることができません。
こうして、日本に帰ってきたら始めよう、と思ったことのひとつは、まわりの法律家に
呼びかけて、反アパルトヘイトについての法律家委員会を作る、ということでした。既存
の日大の反アパルトヘイト市民運動から謙虚に学びつつ、専門家の特性を生かして運動を
活性化させたいと思ったのです。
私は89年の3月に帰国し、とりあえず自分の所属する自由人権協会(JCLU)の若
手弁護土司法修習生に声をか臥この5月から毎月1回乳都内の法律事務所で例会を開
いています。
私は日太で弁護士という専門家集団が反アパルトヘイト運動に関わることには、次のよ
うな意義があると考えています。
第1に、皆さんもご承知のとおり、アパルトヘイトという体制そのものが、単なる差別
意議や社会通念の問題なのではなく.さまざまな法律(パス法、集団地域法・・・etC.)
による「力の支配」の貫徹であることです。私たち法律家は、その文脈をより正確に読み
とり、支配の意図を的確に見抜くことで、運動に貢献することができるかもしれません。
第2に、アパルトヘイトがr法律による差別の強制」である以上、これに対する制裁、
対抗冶置もまた法律という形をとることが考えられます。アメリカの連邦読会で討議され
ている対南ア包括経済漸裁法案、EC諸国の南ア進出企業指針などはその1例です。日大
は昨年度世界1位、今年度第2位の南ア貿易パートナーでありながら、経済制裁を立法の
レベルで議論する榛連は未だ全く生れていません。このようなタタキ台を作り、各政党や
議員に磨きかけをすることも、法律家の重要な役割のひとつです。
その前提として、あるいはそれと併行して南ア進出企業における黒人労働老の労働条件
の調妻は必用だと思います。
−14一
第3に、私たち法律家の側の問題として、弁護士といういわゆる“エリート集団 ̄(実
際の中味はともかく、少なくとも自分はそうだと思っている人が多い)の中で、アパルト
ヘイトについて情報を提供し∴南アフリカに目を向けさせる努力をする必要があると思い
ます。最近私はロンドンのLaYyerS Against Apartheldの機関誌を読みましたが(なお、
このグループの名誉会長はネルソン・マンデラである)このグループの活動の柱のひとつ
は、弁護士会の総会などで南アに対する経済制裁支持声明を上げさせ、弁護士会という職
業集団全体を通して、イギリス政府の対南ア政熊に圧力をかけることです。
私たちの委員会はまだ始まったばかりであり、上に挙げたような行動を具体的に開始す
るのはまだ先のことですが、これまたイギリスで学んだ楽天主義で、少しずつ仲間をふや
して歩みを進めたいと患います。日東反アパルトヘイト委員会の皆さんにはさまざまな面
でお世話になることが多いと思います。どうぞよろしくお顔いします。
なお、自由人権協会は萄定の党旅にとらわれない、市民、学生、学者や弁護士の集まり
です。当委員会は、現実に活動を担っている多くが弁護士、司法修習生ですので、便宜上
LaTyerS短さlrlSt ApartIleidと名乗っていますが、どなたでも参加できますので、どうぞ
関心のある方は例会においで下さい。そしてぜひ自由人総協会にお入りください。
次回10月の例会は、ANC駐日代表のジェリー・マツイーラ氏を招いて、彼が日太の
法律家に何を期待するかについて、私たちと意見交換をすることを予定しています。この
例会も公開ですので、参加を歓迎いたします。
とき・10月21日(土)午後2時より
場所・愛宕山弁護士ビル(港区愛宕山1−6−7)地下1階、第5会議室
(林の名前で子和
終了後同ビル3Fの自由人権協会事務室でマツイーラ氏を囲んで二次回をやります。参加
を希望される方は事前に林まで連絡して下さい。tel.262−9951(古賀法律事務所)
\、lノ
攣二
個F便座劇場公撰
『サムとノーロJl/lミ』を観て
舟越 正一
どしゃ降りの雨の午後、客のいない喫茶店でサムとウイリーの二人の黒人使用人が働い
ているところへ主人の息子である17歳のハロルドが帰って乗る。サムとウイリーは近々
あるダンス大全の話題で盛り上がっていたが、やがて、お互いに盛りか、学び合ったサム
とハロルドの勉強の話になる。サムとハロルドは使用人と主人の息子という関係を越えた
人間的なまじわりをもっていた。しかし、そんな彼らの楽しい語らいは、ハロルドの母親
からの電話でもろくもくずれてしまう。
ハロルドの父掛は足が悉くて入院しているが家に慮りたいため母親が迎えに行っている
という。ノヽロルド臥足が意くて酒におぼれている父親を愛していると同時に恥ずかしく
また、みじめに思っている,父親が家にいることで夜中に足をさすってやったり.し尿ぴ
んをかたづけたりすること、そして、父親のためにみじめな思いをさせられた思い出がど
うしようもなくハロルドに父親を拒否させる。それでお父さんを退院させないように頼ん
だり、バカにしてあざけり笑ったりする。サムはそんなハロルドに「鶴をそんなふうに言
うもんじゃない。ノ、リーはお父さんを恥じている。そして愛している。」とさとす。
自分にとってもっとも身近な「人」である親との関係をないがしろにして,人と豊かに
ふれあっていくことはできない、という人のこころの原点を示してくれる。ハロルドは自
分の醜さに気づいているから、そこをサムに突かれて逃げ軸−なくなり.ひそんでいた白
人優抵主義があらわになる。サムに「ハロルド掛>ちゃんと言え」と命合し、黒い尻をか
らかい、顔につばをはきかける。差別㈲度を引っ張り出すことで自らの醜さをごまかそう
としたが・サムの人間的な強さの前にそれはハロルドの荒廃をますますうきぼりにするも
のになってしまう。
この棚で輿始一貫して感じられたのはサムの人間的な豊かさ、強さだった。ハロルド
の自らをおとしめるひどい言葉、行為に対しサムはあくまでハロルドを見守る人間的なあ
たたかい言葉を返し掛ナる。「気をつけてよ′、リー。」「もう止めなよ。」「今の言葉は
忘れるようにするよ。」そして、からかわれた自分の黒い尻を見せてあげる。つばを顔に
はきかけられるという最低の行為に対しても、最後は「もう一度いっしょに凧あげをやっ
てみないか。」とあくまで同じ人間としてふれあおうとする。強いというのは弱者支配の
構造の上にいることではない。人をいためつけることではない。強さというのは弱老の上
に立つことではなく、正しいと思うことを貫くために恥をかけたり、自分をさらせること
だと思う。強いということがそういうものなら、ぼくは強くなりたい。
サムは「いったい、坊っちゃんや旦那さんのゆがんだ心根を、どうやったらまっすぐに
してあげられるんだろう。」とハロルドと父親が非人間的に生きていくことを、差別意義
を持ち続けていくことに自分のことのように心をいためる。人を否定して自分のこころは
自由になれるのだろうか。「できない」、「軌、」、「劣る」、「違う」ということを否
足して・人とわかち合えた時に得られる未当のやすらぎ、憩いを感じられるだろうか。差
別することを認めることは、いっかは差別される伸に立たされるかもしれない自分を許す
ことだと思う。人を分けて見ることや差別はしょうがないんだ、必要なんだと患った時、
その人は人間として限りなく豊かになっていく道を自ら閉ざしてしまう。ぼくにとって南
−16−
アフリカのアパルトヘイト体制を考えることは、身のまわりの人との人間らしい関係を考
えることと同時だ。そして、そこには「生きる」ということの無条件の肯定があり、生き
ることにいろんな条件を課せられ いのろを削られるような、生きる喜びをあたりまえに
じかに感じられないような日常を壊したくて、そこに生きる希望を感じて向い合っている。
弔いということは悪いことじゃないんだということも確かめていたくで、能力主義の指神
の蟻地域から抜け出したくて向い合っている。
ぼくは、今、役所勤めという権力的な仕事をして、大学までいくことができ、体格にも
恵まれて弱者を平気で踏みつけて生きているかもしれない。しかし.他巷を踏みつけるこ
とや弱老からの搾取の上に居る限り、心から人と自由に、そして豊かにまじわることはで
きず、自分の貧しさ、愚かさに気づいていたいと思っている。自分がこれまで切り捨て撞
けできた人たちへの思いと向かい合って居続けたい。
「今やるべきこと臥立ち上がって白人専用の白いベンチから離れることじゃないか」
と最後にサムが言った。これは、搾取、抑圧、人を踏みつけることで成り立っている自分
の立場から手を引くことだと思う。差別することは自分をおとしめて傷つけることだと知
っているから、差別される側の人のことを考えようとする。しかし、それは彼らの犠牲の
上に成り立っている自分の生活や特権が侵されない範囲内であって、その一線を超える時、
人を踏みつける人たちは自らの醜い太性をさらす。今ぼくたち日本人がすべ虐ことは、ア
パルトヘイト体制下の人たちを圧迫することから手を引くため自らのあり方を変えていく
ことだと思う。
** * * * ** *
観姦眩
** * * * * * *
『サムとノ、ロルド』 を上演して
俳優座劇場 下妻 奈保子
先回のニュースレターで紹介していただいた俳優座劇場プロデュース公演Fサムと′ヽロ
ルド』も好評のうちに無事に終了させていただくことができました。棚して下さった方、
協力して下さった方々に感謝いたします。どうもありがとうございました。
期間中、観て下さった方々からいただいたアンケートの感想をご紹介させていただこう
と思います。
*13才(女)中1
私乱入種差別はなんていやなものだろうと思いました.肌の色だけのちがいで黒人は
使用人にされてしまい、なんで白人がこんなことをする権利があるんだろうと思いました。
それと、それを韓じる役者さんもすごいなあと思いました。少しむずかしかったけれど良
かったです。
*13才(女)中1
私は、この劇の舞台である南アフリカのことはほんの少ししか知らない。私の知ってい
るのはこの国の人口の約7割をしめるという愚人にいまだ参政権がないということなどだ。
−17−
この劇の出演者はたったの3人。3人だけで南アフリカの大きな問題を演じていく。でも
私はこの劇では南アフリカの黒人と白人の羞別問題だけをとりあげているのではないと思
う。なぜならば劇の中にも出てくるようにぶつかり合いのない世の中にしなければいけな
いのだから。
しかも南アフリカの間題のように大きくなくても私たちの周辺には小さなことがたくさん
あるように思えてきた。例えば学校札クラス内での差別。この劇ではそんなぶつかり合
いをタンスをまじえて話を進めていく。
サムとウイリーがハロルドにダンスの選手権のことをありのままに話すところがあったが、
私はそこで自分で空想しなくても舞台はレストランではなく.タンス会場があるように思
えて、しかもだれひとりとして他人にはぶつからない。みんな自分の思った通りにのびの
びとおどり、もちろん私ももどっているような感じになったので′ヽロルドの母親からの電
議はサムやハロルドたち以上にがっかりしてしまった。最後はサムとハロルドが別れてし
まったが、太当にいい劇たったと思った。
*21才(女)
妹、友人と来たのですが、妹が「あの人息ほんとの象人?」といったくらいです。
(まあ日も掛いのですが)ト本当に演出家の方がおっしゃっているように、違和感は全く
なく、芝居が進むにつれ、ノヽリーの心と自分の心が重なってつらくて涙が止まりませんで
した。頭の中が真っ白になって、こういう時自分がとても人間らしくなれるように感じら
れます。これからもこういう芝居をたのしみにしています。
*21才(女)学生
とてもいい作鼠人間の普遍的な差別意義の太箕、つまり差別を受ける傭ではなく差別
をする側の人格の問題を、非常によく表現していた。声高にならず、しかしどぎつくリア
ルに出していることに好感を持つ。
*38才(男)銀行員
この作品は1南ア・アパルトヘイトの意味がヒューマニズムのレベルで分析した作品で、
好隠熱演に心打たれた。差別する側も、される側も人間的にズタズタにされている。
*42才(女)教員
つきささるせりふをききながら、考えさせられました。障害があるということ、人種差
別のねっこがひとつであること、よくよく感じ、差別をうけた側の心持ちがジーンとこた
えました。
*55才(女)主婦
最後ふたりでタンスをしている場面では思わず涙が出ました。現実に差別されている人
々の悲しみ、しかし、それを何とか乗り越えていこうとしている人々の強さ‥・みたい
なものを感じました。私も障害者でいわれなき差別をされているのを感じますから大変身
にしみました。みなさんとてもよかったです。
まだまだたくさんいただいたのですか、一応このへんで‥・。今回ご覧になれなかっ
た力のために来年の9月に再演が決定しました。東京公演のあとは関西の陵公演も決りそ
うです。今回ご覧になった方も是非あの感激をもう一度!また来年もよろしくも掛、し
ます。 どうもお世話になりました。
−18−
ポイ =コ ッ トノJ、委_邑会から
了三「ク豆′二ノ・ぷ∼ささ二a三㌘上l
アフリカで知り合ったある女性の口から「白人が黒人を奴隷にした気持がわかる」とい
った言葉を聞いた。差別や偏見は社会の仕組みが作りだし、人間の無知や心に潜む優越意
識によって根深く拡がっていく。私自身、油断していると醜い顔を出しかねない。心に潜
む差別意識と闘うのはそう簡単ではない。しかし、反アパルトヘイトを唱えるのは難しい
ことではない。今すぐにでも私たちにできることがある。それは南アの商品を買わないこ
と。南アと日本との関係を一人でも多く理解してもらって不買運動を広めることは、強い
ては南アの経済にダメージを与えアパルトヘイトを廃絶する近道だ。
そこで、ボイコット・メンバーはこの秋、ユニークな戦略を考えている。
1つには、ダイヤモンド、プラチナのキャンペーンに歯止めを掛するべく、『結婚指輪
にタイヤを贈るのはやめよう』をコピーにチラシを作成し、ビラまきをする。また、ダイ
ヤ、プラチナの広告掲載や放送に対して、マスコミに一斉に抗議文を送る。
2つ日には、すでに動き始めている『経済制裁ブックレット』の発刊についての資料収
集など。
意欲清々のメンバーも加わり、軟から冬にかけてボイコット旋風を巻き起こそう。
、・トト
全国一合宿もこT=トレ、て
悪霊孟宗完忘芸;て 率螢
去る9月9日、10日に大阪にて日大反アパルトヘイト委員会(JAAC)連絡詣整会
議が行われた。各グループのメン八一が集り、ナミビア支援キャンペーン等の報告、その
他いくつかの重要テーマが話し合われた。ここでは太年度の全国合宿について報昏したい。
今年の合宿は、11月2日(太)、11月3日(金)の2日間をメインに大阪で行われ
ることになった。そのコーディネイトを東京の行動委員会があたることになり、席上いく
つかの点で合意がなされた。まず全体のイメージであるが、各グループ共、ここ数年新し
いメンバーが増え、活動も多厳にわたって来たので、それぞれの人々との交流を主にいろ
いろな面で運動への関わり、こだわり等を話し合っていきたいと思っている。
そこで、メインの11月3日の日にそれぞれ抱えている問頴を出し合えるテーマで、い
くつかに分けた(主旨がはっきりとした)ワークショップ的なものにしたいと思う。
*経済制裁 *南アの人々との交流 *子どものこと等
いくつかは考えられてはいるが、今後、当委員会内でも話しを煮詰め、名グループとも相
諌しなから決定していきたいと思う。そのようなものを過して「私」を語り合い、お互い
の顔が見え、ネットワークづくりを探めていけたらと思う。
合宿の件は、終了後、この紙面で詳細を報昏するつもりでいるので、参加できない方々
もご安心ください。(日中 啓正)
−19一
ーAre
ケニア ー サフ ァ リ
you
J
apanes
e?−
(スワヒり語で、サファリ=旅) 矢野 フヲ里子
この夏、ケニアを旅した。イベントを控え大忙しにしているみんなを尻目に飛んで行っ
てしまうことに後ろめたさを感じながら、日本を離れれば、どこ吹く風とばかり十分に解
放感に浸らせてもらった。
東アフリカの玄関口ナイロビはいつも雲におおわれ肌寒く、町はどことなく暗い雰囲気
でアフリカの大地を踏みしめたというよりヨーロッパに来たような感じが強かった。
ナイロビに到着した翌々日の夜行列車で東海岸の町モンパサに行った。モンバサはアラ
ビア語で「戦いの島」との意味で、アラブ人とヨーロッパ人がアフリカの独占を狙って攻
防戦を繰り広げた地である。その象徴が400年経て今もその姿を残しているフオート・
ジーザス(FortJesus)だ。海からの侵略を防ぐために築いた砦をイエス砦と名付けた。
『ポルトガルはアフリカ植民地征服のためキリスト教の布教という大義名分を必要とし
た。侵略の道具に宗教が使われるのは歴史的事実だが、キリスト教が犯した最大の罪は、
のちにここが奴隷貿易の拠点となり、それを認めたことにある。アフリカの伝統、文化、
民族を徹底的に破壊し歴史を変えてしまった奴隷貿易。もし、ヨーロッパ人による暴挙が
なかったなら今のアフリカの飢え、貧困、後進性は存在しなかっただろう。』(北沢洋子
「黒いアフリカ」)
黒人の血と魂が染みついたフオート・ジーザスは今は穏やかなインド洋を臨み静かに歴
史を見守っているようだった。
現在、モンパサは欧米人のリゾート地としても有名で市内から車で20分走らせれば高
級ホテルが海岸線を埋めつくしている。ナイロビとはうって変わって日射しが強く暑いの
が爽やかだ。私もアフリカの太陽を浴びようと、ホテルのビーチチェアに寝そべった。し
かし、何か居心地が悪く落ち着かなかった。海と反対側に広がる畑では農夫が働いてい
た。一か月たって振り返ってみると、あの時の居心地の悪さが何だうたのかわかるような
気がする。かつて、アフリカの地を支配した白人と支芦己欲の犠牲となった黒人とのコント
ラストが現在も見えない境界線となって存在していることに対しての素直な反応だったの
かもしれない。その頃から私の胃はちくちくと痛み出し、モンバサの旅は心から楽しめな
かった。
今回の旅のメインはキャンプツァーで、3ヶ所の国立公園を巡り、ゲイム(動物観察)
をすることだった。屈折したアフリカを見た後だけに本来のアフリカを感じることができ
るだろう期待に胸を躍らせた。果たしてアフリカの自然は私を裏切らなかった。
自然に逆らわず共存している動物と人間。観光開発の波が押し寄せているのも事実だ
が、まだ伝統的な営みを失わず生きているマサイ族の誇りに触れて初めてアフリカの息吹
を感じた。マサイの勇士に名前を訊いて英国名でジョンとかピーターと答えたことが悲し
かったけれど……。
−20−
ツアーのメンバーはいろいろな国からやって来た寄せ集めで給勢12.3名.ボンコツハ
スに揺られゲイムを楽しみ、食べては蓮、起きてはゲイムの単調な繰り返しが続いた。片
言の英語しか話せない私だが、寝食を共にすることが国境を越えたコミュニケーション手
段の一つに成り得るんだなと身をもって体験した。
モンバサでのもやもやはもうすっかり晴れ、次のサイト地ナクル湖へと向かう時だっ
た。いったん日本を脱出したら、仕事のこともアパルトヘイトのことも煩わしいことはみ
んな忘れ、自由を満喫し旅を楽しんでいる真っ只中で衝撃的なことが起こった。
途中、食料の調達をするため町に入ってパスは止まった。物売りの黒人たちが車を囲っ
てセールスを始めることは別段珍しいことではない。一人の青年がバスに近づき私たち
(友人と一緒)の前に座っているイギリスの女性に話しかけた。「Yollareangel.…」
あとは何と言っているのか聞きとれなかったが、早口でまくしたてる彼の顔は妙に無表情
だった。彼の視線が私たちに向いた。「AreyollJapaneSe?」。「Yes」と答えたら、また彼
はしゃべり始めた。何と言っているのか必死に耳を傾けていたがさっぱり分からなかっ
た。突然、「SouthAfricaj「You」rElll」という3つの単語が耳に飛び込んできた。いっ
たい彼は何を言いたいのだろうか。唐突で穏やかならぬ言葉に私は動揺した。信じられな
い気持ちで「Ⅸ111?」と問い返んたが、相手の表情は変わらず一通りしゃべりまくると
去って行ってしまった。彼が何を訴えたかったのか、英語力のない私はわからず苛つい
た。楽しい雰囲気を壊さぬようにひどく傷ついたことを隠し、私は平静を装い考えた。
彼が何を言いたかったのか、わずかな単語をつなげ想像力をふくらませればストーリー
は出来上がる。南アフリカとの貿易によって日本はアパルトヘイトを支え、その結果とし
て大多数の黒人が人間としての権利と尊厳を抹殺されている。名誉白人こと日本人を非難
しているのだろうか。エンジェル777……彼の友人の一人にアパルトヘイト廃絶のため献
身的な働きをしているイギリス女性がいるのだろうか。私の考えはあくまでも推測の域を
越えない。でも、はっきりしていることは私が日本人であることを確認してから彼は訴え
姶めたということだ。私の頭から消えていたアパルトヘイトを思い出させたのは、まさに
日本人であることを突きつけられたことからだった。
しばらく・暗い気分に沈んでいた私は、生来現金な気質なのか、何百万羽というフラミ
ンゴが演じる自然の大舞台を目にしたら、途端に舞い上がってしまった。本当に自然って
偉大だ。
最後に、キリマンジェロの眺望が素晴らしいアンボセリに行って7日間のキャンプ
ツァーを終えた。私たちを運んでくれたボンコツバスは2回のパンクと数回のトラブルに
見舞われたが、抜群のドライブ・テクニックの持ち主の運転手兼ガイドのおかげで何とか
無事ナイロビに着くことができた。また、私たちの食事を一手に引き受けたゴマ塩頭の耳
に大きな穴のあいた、でかい手をしたおじさんは最高の調理人で、私たちに食べる楽しみ
を味わわせてくれた。
体調を崩したり、嫌な思いをしたこともあったが、今思えばみんな楽しい思い出に変
わっている0旅は日常からの脱出と新しい発見への出発だ。機会があれば、北アフリ九
西アフリカに行ってみたい。どうやら私もアフリカ中毒に患ったようである。
−21一
㈹ アンチ・アパルトヘイト・ニュースレター 1994年5月1日発行 第三精郵便物議可
は、予算計画書を作ろうというと、じゃあ分かった来週の火曜日の昼2時までに作ってお
くから後で来てくれって言われ、行ってみると酒飲んでマリファナ吸っているわけです。
仕方ないから、こちらも粘り強く粘り強く接します。できるだけ向こうの人たちの自発性
を尊重しようという理念がありますので、時間をかけて話します。すると、物をパァーと
買うわけですね。気が付いてみたら倍くらい予算がないと足りないような状態になるので
す。こんな状況ではまずいから組織をちゃんと作ろうよというと、組織はもう出来ている
と言うのです。ジェフスビル憲法があり、ジェフスビル大統領がいるのです。でも、それ
が実際に機能しているかはまた別の問題です。
とにかくきちんとやらないことにはお金だってどこに消えたか分からなくなって後で大
変なことになるよと言うと、じゃあミーティングをやる、と。そのミーティングでは 50D
人くらい集まって最初にコシシケレ・アフリカの大合唱があり、その後にピーバANCl
ピーバマンデラl 一致団結してこのプロジェクトを成功させよう1そうだ!と掛け声だけ
があって、最後にまた歌をうたって家に帰ってしまうのです。反対から建設へと変わらざ
るをえない流れに乗っていけないようです。今までは白人の体制に反対することで、自分
たちのアイデンティティーを確立してきたわけです。でも、これからは自分たちを取り匪
んでいる白に見えないシステムを酷のようにして自分たちの暮らしを何とかしていかなく
てはなりません。
最後に、話題提供というか、こういうことについて話し合いをされたらいいのではない
かということをいくつか言っておきます。
一つは、南アフリカは反アパルトヘイトの闘いの歴史があり、解放観争を営々と続けて
きたことです。そして、外国人が思っている以上に黒人たち、特に中間層以上の人たち
は、もう反対の時代じゃない、建設をどうするかなんだという問題について真剣に議論し
ています。かつての反アパルトヘイト幽争団体はほとんど開発系の事業に変わっていま
す。これが4万5千あります。NGOにいろいろなレベルがあって、マンデラの右腕のエ
リックモロビが理事をやっているカギソトラストというものすごく大きなNGOは、選挙
後おそらく南アフリカ開発省のようなものになると言われています。年間予算 300億ラン
ドですからね。そういう大きな組織から、ジェフスビルの人たちが自分たちでつくった地
域に根ざした町内会みたいなものまであります。
南アフリカの場合はOECDのダック委員会の規則の関係もあって、普通の発展途上国
のようにODAをボンと入れられない国です。日本政府・南ア政府という援助ではなく、
むしろ4万5千あるといわれるNGOを中心に社会の隅々にあまねく援助を行き渡らせて
いこうとする動きが、ヨーロッパでは十年くらい前から考えられています。日本も遅れば
せながらJ VCが行ったりしているわけですが、そういう意味では他の発展途上国よりも
草の根の人たちとタイアップしていける可能性があると思います。ですから、向こうにど
ういうパートナーをつくるかという問題を我々は真剣に考えたらどうかと患います。
乱暴な言い方をしますと、もう肌の色が白いか、黒いかという認識ではなく、パート
ナーとして選ぶのに黒人ならば誰でもいいという問題ではないのです。
乙と子 アパルトヘイト ニュースレター 摘4年5月1日発行 策三種郵便物認可個
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この容、南アフリカでは全人種参加による総選挙を無事終え、属人初のネルソ/マンデラ大統領の誕
生により新たに生まれ変わろうとしています。国家の法律や政治か変化することで、すくに農人たちの生
活や保守的な白人たちの差別的な欄神構造までもが変わったと理陪するには無理があるものの、その後の
甫アフリカの人々の様子はだんだんと変化を見せ始めているようです。
激増する失業率に超力事件。教育問題に住居問題。彼らの将来は決して安泰ではなく、むしろ鼓の道の
瀕といえましょう。しかし\そんな状況の中でも法や政治の力だけに顛らず、自らの力で状況を変えて
いこうとしている人々が存在していることも謎かな事実なのです。
そこで私たちは、そんな南アフリカで前向きに生きようとしている人々の状況を知るた捌こ、宵アフリ
カに精通された方々からお話しを伺う催しを企画いたしました。この日本で、甫アフリカの人々と共に、
現状を変革するための前向な第づ歩を踏み出してみたいと思われる方は、是非ご参加ください。
一一一 首已 −
(日 時〉1994年6月18日(士) 午後6時一9時
(会 勧フォーラムよこはま 会議室1(桜木町駅下車、徒歩3分、ランドマークタワー13F)
(内 容〉 l 講演「新生南アフリカの現状と女性たち」
講師/佐保 美恵子さん(横浜市在住・フリーライター)
1988年より6回(延べ日数400日)南アフリカを訪れ、今回の選挙にも立ち合う
この4月に「マリーの選択一一アパルトヘイトを超えた愛」(文芸春秋)を出版
(南アフリカの黒人男性と甜した白人女性の半生を描いたノンフィクション)
il 鼎談「新生南アフリカを考える」(予定)
勝侯 誠〔明治学院大学国際学棚・本会実行委月長)
備庶 彰(国学院大学教授・南アフリカ間研究所)
佐保 美:藍子(上言己蓼昭)
く入 土星〉 5ロ0円(座席完蒲100名)
(連纏先〉 写真展「南アフリカ」の人々神奈川実行委員会事務局(宮野)℡//TAXO45−982−5323
(共 催〉 日本国際ポラノティ7センター神奈川事務所
1EWSOLTH皿ICA
南ア鮎、写真家ヴィクタ一・マト阜乗自記む/1軌注溺シンポジウム
顔と顔か見える雛をめざして
只今発売中ll 600円沌5版、送料鋸
お申し込みは、学生27 神奈川県秩済市織成すg市蟻町も44−6−201
TEL 糾5−982舶5323冨井属哨アの人々J神奈川壷指事員全く首軌まで
第1[萱]「二f一俵支援ノJ→委員会」 報告
∼∼∼∼∼{…〟}∼∼∼∼∼∼∼∼∼轟〟′′∨∼∼∼∼■
9月22日(金曜日)第1回の「子供支援小委員会」の会合が持たれました。集ま
ったメンバーは、舟越・福地・宮野・君島(日本キリスト教団)・田中 神野(京都
南アフリカ問函研究所 当日オーストラリアからの帰国)牛阻以下7名でした。
予想を越えた参加者で・しかも岩出 神野のお二人が ぐっと会を実り多いものにし
てくれました。
さて、当日会で話し合われた事を一人ひとりの発言を中心に報告します。
田中「今なぜ南アの子供達なのかをはっきり自分のなかでしたい。その上で私(達)
に何が出来るのかをすすめたい。とうも支援というと物質的支援に走りやすい。問題
はとう南アの子供達・大人達とつながっていくかだから、日本の子供達と南アの子供
達の状況を重ねながら・・・そして 南アの状況を知っていくだけでなく 日本の状
況を送信する事も大切なのではないかと思う.」
福地「やはり、ちがった社会状況でもつながっているものがあるはずで、そういう
ものを求めていきたい血私も足立区で小さな会に参加しているけれとも この連動を
やるなら口コミでやっていきたい。いろいろな問題をやっている人と直接会って 南
アの子供の事をぶつけてみたいんです。」
若鳥「大人同志だけが子供の問題をやるのではなく 子供同志が出会っていく運動
が出来ないものかと思う。『二匹の犬と自由』の前半部分の子供の絵と作文を、日本
の子供がとう読むだろう。「自由」を語ったり、「夢」を語ったりしている、これは
すごくいいね。やはり運動でも希望がなければ。悲憤さだけではあの飢餓キャンペー
ンと同じになってしまう。メシを食い そこで生きて、状況を乗り越えていく婆をな
んとか伝えることが大切だね。」
神野「ひどい状況を語るのが今までの運動には多かったように思う。希望があるの
だという事を訴えて僕は来た。スタッフ・ライダーという文学誌に闘いのなかで子供
達か針金で作ったインコう(手作り自動車)の競争をする場面があるが、その中で子
供同志が励まし合う婆など心打たれる■そんな事をなんとか…・一・」
宮野「子供の生の声、ボイスメッセージなんかなんとか手に入れられないれカセ
ットで歌 コーラス 詩の朗読など。それを交換したらとうですか心−(これには
全員がイイネの声)この頃、学校の先生から熱心な問い合せが多い、この人たちのつ
ながりで小さな会を持っていけると思う。」
舟越「僕はこの行動委員会に来てまだ半年もたっていないけれど、やります。連絡
係を引き受けます.」
このようにそれぞれ自分の考えを言いました。これから小さな連動を進めていく上
で本当に大切な意見ばかりだったと思います。その後ティスカションに入り、とにか
くいろいろな人に呼びかけるためにも南アの子供達の姿を表現したものを作ろうとい
うことになりました。絵・作文、ビデオ・スライド、歌のカセットそれにパンフレッ
ト(ユネスコの資料にもとづいて)などです。次回はtこれを作るためにリストを作製
したいと思います。
−22−
この日は7時半に始まり、9時に終わりました・9時前になると何人かが時計を見
始めて「今日はオワリ」の声、“会議は短く行動にエネルギーを”ということで、恵
比寿駅前の店に入りました。この辺は本当に息がピッタリです。7人という人数でし
たが、これからなんとかやっていけるという思いはそれぞれ持てたのではないかと思
います。有意義な集りでした。
翌2柑(土)に「手紙を轟く会」に出てブライアンさんやメンバーの方に数えても
らい いっしょにやれるところはやろうという事になりました。
とに芸孟苧吉昌子言言LJ羞デ憲も芸ひ言霊芸三墓誌所です。(用)
・… く竃了......′菅漣....
「集圭済誇l」裁」ブックレット途中義堂過
先号のボイコット小委員会からの3つのお威し、、でお知らせしたように11月20日発
行をめざして、憎済制裁」ブックレットの作成をすすめています。10月15日脱稿競
切で、次のような内野で執筆者に依頼しました。
1.とびら 序文‥・藤井あや子
2・アパルトヘイトとは何れ今、なぜ経済制裁なのか・・・桶臆 彰
3・経済制裁の意味するもの。金、プラチナ ダイヤを中心に ボイコットの意味・川寺
門基光
4・経済制裁における金の重要性=・・神野 明
5層済制裁を呼びかける 日本を訪れた南ア黒人代表者たちの証言−アラン・ブーサ
ツク ツツ司教他…・福地秀子
6・日本の市民への呼び掛け・=ジェリー・マツイーラ
7・南アと日本の貿易の実体叫・笹生博夫
8改革路線の本質と、今こそ、経済制裁をゆるめるな‥=勝俣 誠
9・全国のボイコット連動の現状その他=・全国のJAAC
lO・あとがき・‥ボイコット小委員会
なお、先考のお願いに・いくつれハガ与やアイデアを寄せていただいたり.更に、注
文までいただいて感激しています。
今、ブックレットの蓑に・企業又は ダイヤープラチナの広告に対して∴雑誌社、遇〒り
誌への抗議ハガキをつけよう。又・毎月3日は・ボイコットデーとして、抗議ハガキ、抗
議TELをしょう。
など、いくつかのアイデアがうかんでいます。ぜひ、皆さんからご意見をお知らせ下さ
いD (福地秀子)
一23−
10月王三呂‡雪月琵蒜葦憲実宴委員会 欄委事務室
『南アフリカのアパルトヘイトについて』 69年館920番教室
講師=北沢洋子さん 問合せ先264−9628尾形研究室 14日(土)『アパルトヘイト否!国際美楯展』名古屋国際センター
16日(月)5時半『私にとってのアフリカ』
対談:緯度 彰・腸俣 誠 上智大学
19日(太)7時『ANCニュースブリーフィングを読む会』
文京婦人センター(地下鉄丸の内線本郷三丁目下車3分)
24日(火〉1時半『アパルトヘイト廃絶にむけて今求められていること』
問合せ先06−568−0905友永・福庶さん 25日(水)4時半『♯留文科大学園祭』
問合せ先0554−45−2932今井さん
『南アの日太人たち』
29。(雷撃i蓋軍慧 ㌔定川会館地賢妻削孟
31億賢慮芸室川−し滞 鋼路市民文化会鮒ホール 彰説岩垂一句賢
慧㌫鎧完 ̄7411 ■も 州.㌢富′ヰ
11朋日(未ト3日(金)F全国鮪㌧// 淀川会館 費用:約3万円 月5日(日)F国際基督大学学園祭j 吉田ルイ子さん
10日(金)6時半F南アに手紙を善く会j文京婦人センター
*先頃の革済同友会の世界の主要菰南の物価の発表(数字)をみて、鋸ま再度怒りました。 米、牛肉の値段からはじまって、ホテル代、タクシー代、電気料金‥の高いこと、高い ・こと。東京の物価は世界平均の1ゝ4倍だそうな。日太のおとなしき消費老たちよ!たち あがろうでIまありませんかっ!大気よ(たむ)相律象が立ち上がられたことは心強い限 りです(P・14)。次は政治家の参加を待っています。編集担当のTorさんがラジオで南 ア生活3年の体験を語ります。NHK第1、10月14日(土)午前1 時10分∼50 分まで す。9月にも文化放送に出臍。歯切れの良さは(日太橋生れです)アナウンサー 以上という評判でした。ぜひ、軌、てください。(高柳)
発行 アフリカ行動葬具会 J肝蛸〟汀Ⅰ〟耶旺JD∝柵lITlEEmbo舌03−崩3−9775
〒150.東京都渋谷区恵比寿4−5−23−306 南アフリカ間等研究所内
発行日1989年10月定価3百円 年間脂料3千円 郵便振替 東京7−は2710
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