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プルーストとライプニッツ――統一性の概念とアナモルフォーズの視点

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プルーストとライプニッツ――統一性の概念とアナモルフォーズの視点
プルーストとライプニッツ
── 統一性の概念とアナモルフォーズの視点──
西 脇 雅 彦
『失われた時を求めて』(以下『失われた時』と略記する)の語り手が、「世界はわれわれ皆に
とって真であるが、それぞれにとって異なるものである」(1)というとき、あるいはまた、「私が見
たのは、私や他の人たちが抱く考えに従って、人々の容貌は変化し、眺める人たちに従って、た
ったひとりの人間が複数になるということだった」(2)というとき、そこに見て取れるのは、遠近法
主義と結びついた「一」と「多」をめぐる哲学的命題であり、このことは、若きプルーストがア
ルフォンス・ダルリュ(3)とエミール・ブートルー(4)を通して親しんだ、ライプニッツの哲学を想い
起こさせる。
ライプニッツは主に、最終的な、つまりは形而上学的な単純実体として着想した「モナド」
« Monade » を通して、一と多に関わる哲学を深めていった。モナドは、ギリシア語の « Monas » に
由来し、「単一性」、「統一性」« unité » を意味する。また、ライプニッツにおける「表象」
« perception » とは、「一」のなかに「多」を含みかつ表現する推移状態に他ならない(5)。そして無
数のモナドは、それぞれの視点に従って唯一の宇宙を表現するので、その視点と同じだけの宇宙
が存在することになる(6)。問題となるのは ―― プルーストにあってもまさにそうなのだが ――、
個体や宇宙の一性とその現象の多様性だ。宇宙の複数性についていえば、対象となるのは「唯一
の」宇宙であり、多数化するのはその「眺め」であるので、宇宙の単一性と複数性とは対立する
ものではない。またライプニッツは、いかにこの世界が混沌として見えようとも、そこには神に
よって調和、統一性が保証されていることを何度も強調している。かくしてライプニッツの哲学
体系においては、個体や世界の認識にかかわる水準で(「多」と共に)、統一性という概念が極め
て重要な位置を占めている。
ところでプルーストも、芸術作品一般および自らの作品における統一性について思考を巡らせ
ていたことはよく知られている。ただし、ヴァンサン・デコンブの一連の分析の核心にあるよう
に(7)、プルーストによる芸術や哲学についての理論的分析と、小説家プルーストによって紡ぎださ
れた物語のあいだに、少なからぬ隔たりがあることは確かで、事実、統一性の問題についても同
--- 37 ---
じことがいえるのだ。では一体、そこにはいかなる差異が見出されるのだろうか。また、その小説
世界、物語構成における統一性は、何によって確保されているのだろうか。この点については、実
のところ、ドゥルーズの唱えた「横断線」(8)があまりに有名であるが、それ以外の可能性はないと
いいきれるだろうか。一方、さまざまな姿を呈する個人の統一性に関しては、物語のなかで、どの
ような考察が行われているのだろうか。『失われた時』では一度、ライプニッツの『弁神論』のな
かの一節が引かれており(9)、この著作のなかで言及されているアナモルフォーズの視点は、こうし
た問題を考察する上で極めて示唆的であるだろう。
プルーストは 1921 年にロズニー・エネに宛てた手紙のなかで、芸術作品がその作者を反映して
いることを認めた後、「一方、哲学体系はその著者の外部に存在します。しかしながら、スピノザ
における必然、ライプニッツにおける〈調和〉への好み等々は、彼らの体系に先立って存在し、選
択を決定させたことでしょう」(10)、と続けている。芸術家と哲学者の差異がまず強調され、次にあ
る例外について触れられている。哲学者の特定の好みが哲学体系の形成に決定的な影響を及ぼすの
であれば、その哲学体系は著者を反映しているということだろう。そして「調和」« l’Harmonie »
への言及は、『失われた時』で展開される主張と相反するものであるにもかかわらず、プルースト
とライプニッツの親和性をも示しているようだ。
ライプニッツの世界には、調和、統一性が厳然と存在する。それは、それぞれのモナドが同じ宇
宙を表現すると同時に、それぞれが互いに映し合うことによる。あるモナドの表象が判明でない場
合、それは別のモナドのそれが判明であることを示すので、つねに全体としての調和は保たれるの
だ。また「調和」とはそもそも、「予定調和」« Harmonie préétablie » を意味し、神がさまざまな可
能世界のなかから最善の世界を選択したことを裏付けるものでもある。最善の世界が選ばれたこと
によって、そこには統一性がア・プリオリに保証されているのだ。このことは、矛盾を含んでいる
ように見える状態、つまり、最善の世界に悪が存在することと対立するように思われるが、実はそ
うではない。『弁神論』には、こうある。
神は見事な技巧によって、この小世界のあらゆる欠陥を神の偉大な世界の最も優れた装飾へと変える。
それはちょうど、ある美しいデッサンが、それらを真の視点におくかガラスや鏡を用いるまで、混乱
にしか見えないという遠近法の発明にあってそうであるように。そうしたデッサンを小部屋の装飾に
できるのは、適切な位置におくか、しかるべき用法をもちいてこそなのだ。したがって、われわれの
小世界にある外見上の奇妙な形は、偉大な世界の美のなかに溶け込むのであり、この上なく完全な普
遍的原理の統一性に対立する何ものをも含んではいない。それは、むしろ反対に、悪をさらに大きな
善に役立てる神の知恵に対する賞賛を高めるものなのである(11)。
--- 38 ---
言及されているデッサンとは、17 世紀中葉にガスパール・ショットが「アナモルフォーズ」と
名づけたもので、ある決められた視点から見られた場合のみ、あるいは特定の形態をした鏡のなか
でのみ、正しい像が浮かび上がるような、一見混沌としか見えない遠近画を指す(12)。ここでのアナ
モルフォーズとはしたがって、悪の存在によって歪められているように見える世界、しかしそこに
確固たる調和と秩序がある世界の謂いに他ならない。「この上なく完全な普遍的原理の統一性」が
揺らぐことはないのである。そしてアナモルフォーズの視点は、直接的には、欠陥を優れた装飾に
変える神の技巧に譬えられてはいるが、われわれが混沌のなかに統一性を見出すことの重要性を示
唆するものでもあるだろう。問題は、「真の視点」の把握にある。われわれの世界の調和は、神の
視点によってあらかじめ保証されていて、その視点を理解し捉えることで、見出すことができるも
のなのである。
プルーストの指摘を敷衍していうならば、調和への好みが、モナドが互いに映し合い、完全な対
応をみせている世界、そしてア・プリオリな統一性に支えられた世界が象徴する、ライプニッツの
体系を決定したということになるだろう。
一方、『失われた時』において強調されているのは、芸術作品におけるア・ポステリオリな統一
性である。20 世紀の偉大な作家を取り上げ、語り手は次のように述べている。
[…]20 世紀の極めて偉大な作家たちは書物を書き損なったのであり、彼らは自らを、同時につくり
あげる者であり、また判断を下す者であるかのように働くのを見つめ、この自己に対する熟視から、
作品の外にあって上位に位置する新たな美を取り出し、その作品に、その作品にはない統一性、偉大
さを遡及的に課したのである(13)。
ここでは芸術家によって「遡及的に」与えられる統一性に焦点が当てられていて、引用文の後に
は、バルザック、ユゴー、ワグナー、ミシュレなどの作品が引かれている。そして語り手はさらに、
芸術作品において重要なのは、「あとからの統一」« Unité ultérieure »(14)であると述べる。このよう
に強調して言及されているのは、諸作品を束ねる芸術家のヴィジョンによってもたらされる事後的
な統一性であるが、それはライプニッツのおいて見られた統一性と全くの対照をなすものであるよ
うにみえる。
ところでプルースト自身は、「20 世紀の極めて偉大な作家たち」の系譜に連なるのだろうか。
『失われた時』が、所謂未完の作品であることを鑑みれば、彼は書物を書き損なったのだから、指
摘されている要件をひとつ満たしているといえる。ただしプルーストは、「最終巻の最終章は、第
一巻の第一章のすぐ後に書かれたものである」(15)、と述べていた。発言それ自体が完全に正しいか
どうかはともかく、ここからは、プルーストが対称的な構成によって、『失われた時』に統一性を
与 え よ う と し て い た こ と が 窺 え る 。 よ く 知 ら れ て い る よ う に 、 実 際 物 語 は 、「 長 い あ い だ 」
--- 39 ---
« Longtemps » ではじまり、「時のなかで」« dans le Temps » という語で終わっている。また、プル
ーストは自らの小説を「建築物」に譬え(16)、作品の堅固な構造を強調していたことからも、同様の
想いが確認できる。プルーストはこの点において、先の引用で触れられていた 20 世紀の偉大な作
家たち、「遡及的に」、諸作品に統一性を与えることに気づいた作家たちとは決定的に異なる。それ
は実のところ、理論家プルーストと小説家プルーストの差異でもある。というのも、統一性に関す
る着想それ自体は、あとからではなく、自身の作品が完成するまえに、プルーストの精神のうちに
芽生えていたことが認められるからである。この意味では、プルーストの「調和」あるいは統一性
の好みは、その作品に先立って存在し、選択を決定しているということができる。霊感を授かるよ
うなかたちで偉大な芸術家たちが持ちえたヴィジョンについての考察は、あらかじめ作品に統一性
を与える方向へとプルーストを導いたのではないか。そうであるならば、プルーストが書簡でライ
プニッツについて述べていたことは、ほとんどそのままプルースト自身にも該当し、両者の親近性
は、こうした調和、統一性の好みと、その好みの作品への反映に見ることができるだろう。
プルーストにおける「あとからの統一」についていうならば、物語構成の水準においてより具体
的に見出すことができるといえる。その統一性を見出すこと、それは、ライプニッツの世界におい
てそうであったように、アナモルフォーズの視点を捉えることに他ならない。
ポール・スーデーは 1913 年に『スワン家のほうへ』が出版された際、『ル・タン』紙において、
「マルセル・プルースト氏の厚い本は、構成されておらず、並外れて渾沌としているように思われ
る」(17)と評している。この指摘は、当時のプルースト作品の受容に関するひとつの典型を示してい
るといえよう。ところで、ライプニッツがプルーストの小説を読んだとしたら、どのように評価し
たのか、興味を惹かれるところである。フレデリック・ド・ビュゾンによれば、ライプニッツは、
小説を読むことによって得られる楽しみを認め、とりわけスキューデリー嬢を高く評価していたと
いう(18)。そのライプニッツは、「小説の美は、秩序よりもとにかく、大いなる見かけ上の混乱から
出発したほうが、それだけいっそう壮麗なものとなる。そして読者が小説の結末をあまりに早く見
抜くことができるとすれば、それは構成における欠陥でさえあるだろう」(19)、と述べている。まず
は見かけ上の混乱を纏っているという点において、次に結末を予見させないという点において、ど
うやらプルーストは、知らずしてライプニッツと小説美学を共有しているようだ。
それだけではない。プルーストは、エミール・ブートルーのいう、ライプニッツ的方法をも共有
しているように思われる。ブートルーによれば、それは「折衷的方法」であり、「反対物を並置す
るだけに止まらず、それらを上位の統一性において両立させること」(20)にあるという。対立するよ
うに思われるものの両立とは、感覚と知性、印象と真理、小説とエッセイなどを巡って、プルース
--- 40 ---
トにおいても深く考察された主題である。このことは、『失われた時』の物語内容に関わる水準で
反復して思考されてもいる。メゼグリーズ(スワン家)の「ほう」とゲルマントの「ほう」をめぐ
る対立がそうである。
この二つのほうは、物語のはじめ、「全く対立している」(21)ものとして提示され、そのあいだの
「境界線」は、独特な散歩の習慣によって、さらに強固なものとなる。
そしてこの境界線がいっそう完全なものとなったのは、同じ日の一回の散歩で、決して二つのほうへ
は行かず、一度はメゼグリーズのほうへ、また一度はゲルマントのほうへ行くという習慣のせいで、
その習慣は、いわば遠く別々に、お互い知りえないようにして、コミュニケーションのない異なる午
後の閉じた壷のなかに、二つのほうを閉じ込めたのだった(22)。
この散歩の習慣は、二つのほうのあいだに、「いっそう完全」な境界線を刻み、それぞれを孤立
して配置する。が、物語の終盤、『消え去ったアルベルチーヌ』において、ジルベルトは不意にあ
る近道の存在を明らかにする。その時のジルベルトの発話と語り手が抱く感想は、次のように描か
れている。
「もしお望みでしたら、やはり午後に外出することができますし、メゼグリーズを通って、ゲルマント
へ行くこともできます。それがもっともすてきなやり方です」――私の幼少期の考えを転倒させたこ
の発言は、二つのほうが思っていたほど両立しないものではないことを私に教えたのだった(23)。
二つのほうが「両立しないものではない」ということ、それはここではまだ、地理的な問題にす
ぎない。また、この一節よりも前に、ゲルマント家のサン=ルーとスワン家のジルベルトの婚約を
告げる手紙によって、二つのほうが、いわば観念的な次元で、繋がりを持ったことが暗示されても
いるが(24)、ライプニッツ的方法に照らしてみるならば、いずれにせよ、「上位の統一性」に欠けて
いる。それを具象化するのは、無論、サン=ルーとジルベルトの娘であるサン=ルー嬢である。
『見出された時』のなかのゲルマント大公夫人のマチネにおいて、彼女を認めた語り手は、こう述
べる。
エトワール
そもそも多くのひとがそうであるように、彼女も、森のなかにある交差路の「広場」のようなもので
はないだろうか。そこには、人生についても同様なのだが、多くの道が全く異なるさまざまな地点か
ら集まってくる。サン=ルー嬢へ至る道、彼女の周りに放射状に広がる道は、私にとって数多いもの
であった。なによりもまず、私があれほど散歩し夢見たふたつの主要な「ほう」が、彼女のもとへ至
っている。[…]すでに、このふたつの道を結ぶいくつかの横断線が出来上がっていたのだった(25)。
二つのほうはサン=ルー嬢へと続いており、彼女が二つのほうを上位の統一性として両立させて
--- 41 ---
いる。ここに見られるのは、いわばライプニッツ的な方法なのだが、それはまた、ライプニッツの
小説美学に沿うものでもある。というのも、ある書簡においてライプニッツは、「小説家の最良の
技巧のひとつとは、すべてを混乱へと向わせた後、思いがけない方法でそれらを解きほぐすことに
ある」(26)と記しているからである。思いがけない方法とは、『失われた時』の場合、サン=ルー嬢
の登場であると、ひとまずいうことができるだろう。
ところで、ここで想い起こしてみたいのがアナモルフォーズである。それはしかるべき「真の視
点」から見られた場合のみ、奇妙な形態から美しいデッサンへと変貌するといわれていた。だとす
れば、プルーストの小説においては、いままで漠としていたものが解きほぐされたのだから、語り
手の位置こそが所謂アナモルフォーズの視点を指しているのだろうか。おそらく、それは正確では
ない。なぜなら、語り手の視点以上に、二つのほうに続く道を明瞭に望むことができる場所が示唆
されているからである。それはサン=ルー嬢が位置する視点であり、さまざまな道が集まる交差路
エトワール
の「広場」という譬喩がこのことを裏付けている。ライプニッツの体系の分析において、「見るこ
とは建築することであ」り、「建築することは見ることである」(27)といったのはミシェル・セール
であるが、「建築物」に譬えられる『失われた時』もまた、見ることによって最終的な完成がなさ
れ、統一性が保証されるのではないだろうか。語り手は、混沌のなかに秩序があることを示す、ア
ナモルフォーズの視点をわれわれに指し示している。それは、繰り返し強調するが、サン=ルー嬢
の位置が象徴的に示している視点に他ならず、『失われた時』という物語=建築物をもっとも明瞭
に望むことができるのは、その位置からなのである。小説におけるさまざまな次元を結びつけると
いう点では、ドゥルーズが指摘する「横断線」による統一性を認めることができるとしても、二つ
のほうをめぐる物語の統一性は、サン=ルー嬢の出現、いやそれ以上に、彼女の位置する視点によ
って最終的に確保されているといえるのではないだろうか。プルーストは、物語世界の統一性を支
え、それが明らかになるような「真の視点」をしかるべく配置していたのだ。この意味において、
「思いがけない方法」とは、語り手の視点からサン=ルー嬢の視点へと、読者の視点を反転させる
ことにあるということもできる。プルーストの小説世界の統一性は、この「真の視点」を捉え、そ
こから眺めることによって、見出されるものであるだろう。
思考方法と小説美学、さらにアナモルフォーズの視点による統一性の把握などを考慮するならば、
プルーストとライプニッツは極めて近いところに位置するようだ。では次に、プルーストにおける
個人の統一性の概念に目を転じてみることにするが、そこでのアナモルフォーズの視点に類するも
のには逆説的で両義的な意味合いが付与されていることが確認されるだろう。それはバロックの位
相に関わるとともに、最終的には、プルーストとライプニッツの近さを再び示唆するものである。
--- 42 ---
クリスティーヌ・ビュシ=グリュックスマンは、バロックが驚異、予期せぬ出来事、幻想、幻滅
などに関わることを踏まえ、「アナモルフォーズの眼差しとは、バロックの眼差しと定義されうる
ほどである」(28)と述べているが、『失われた時』のなかでより直截的に見出される、この「アナモ
ルフォーズの眼差し」は、プルーストとバロックの「奇妙な親和性」(29)のひとつを例証しているだ
ろう。この眼差しは、たとえば、スワンの容貌を描いた箇所に認められる。場面は、ゲルマント大
公夫人の夜会にスワンが到着し、彼が皆のいる一室へ入ったところである。
すべての視線は、ほとんど不快感を与えるほどの驚きを持って[…]病が頬を三日月のように蝕んだ
その顔に固定された。ある特定の角度を除いては、それはおそらくスワンが自らを鏡のなかに見る角
度であるが、その両頬の方向は突然変わっていて、まるで視覚上の錯覚だけが厚みの外観を加えるこ
とができる、堅固さを欠いた舞台装飾のようなものであった(30)。
この一節では、『失われた時』において頻繁に出会う、普段見慣れない特異なイマージュととも
に、通常慣れ親しんだ、ごく自然で正確に見えるようなイマージュも描き出されている。アナモル
フォーズにおいてそうであるように、「ある特定の角度」から見られた場合のみ、病理が蝕んだス
ワンの頬は、厚みが取り戻され、いわゆる正しいイマージュが得られるのだ。しかし頬の厚みが取
り戻されるのが「視覚上の錯覚」によるのであれば、自分の姿を知覚するスワンは、自らの病につ
いても錯覚し、誤った認識を持たざるを得ない。つまり、このアナモルフォーズの眼差しが示して
いるのは、知覚と認識の、おそらく不可避的なズレあり、正しいように見える像それ自体が実はま
やかしであるという逆説なのだ。
この独特の眼差しは、恋愛のテーマの介入によって、見ることの根源的な両義性と、見ることと
欲望の関連性をも明らかにする。着目したいのは、サン=ルーがいかにしてラシェルに恋するよう
になったのかを伝える箇所で、語り手は、こう述べている。
ラシェルの顔は、遠ざかると[…]うまく描きだされるが、近くから見ると粉々になってしまう、そ
のような顔であった。彼女の傍にいるとき見えるのは、そばかすや小さな吹き出物の星雲と銀河、そ
れだけだった。ある適切な距離をおくと、そうしたものすべては、見えなくなり、消え去り、吸収さ
れ、頬からは三日月のような、とても繊細で端正な鼻が聳えているので、ひとはラシェルの好意の対
象でありたいと願い、彼女を好きなだけ眺め、自分のもとに所有しておきたいと思うだろう、もし別
な風に、すぐ傍で、彼女を一度も見たことがなかったとしたら。それは私ではなく、彼女が演じてい
るのをはじめて見たサン=ルーに起きた事態だった(31)。
--- 43 ---
ここでもアナモルフォーズ的な視点が示唆されていて、サン=ルーが恋に落ちたのは、ラシェル
の顔立ちが美しく見える、「ある適切な距離」から彼女をはじめて見たことに端を発していること
が語られている。サン=ルーが娼婦であったラシェルの過去を知らず、その後、彼女との不幸な恋
を辿るとすれば、そもそもその恋が、視覚上の錯覚と結びついたような、限定された条件によって
生み出された限りでの美しいイマージュに起因しているからだということもできる。クリスティー
ヌ・ビュシ=グリュックスマンが、「見ることの享楽とは、まやかしと錯覚の場でもある」(32)と述
べているとおり、見るという行為には、バロック的と呼びうるようなこの両義性が付きまとうので
ある。さらに、ジャン・スタロバンスキーは『生きた眼』において、「見ることは欲望への扉を開
ける。が、見ることは欲望にとって十分ではない。見ることは危険な行為なのだ」(33)、と述べてい
るが、このことは、ラシェルを見つめることで「彼女を自らの傍で所有したい」と思ったサン=ル
ーが典型的に示しているような、欲望のメカニズムを見事に表しているといえるだろう。
かくして恋愛というテーマのもと、欲望の働きを通して、視覚と認識の捩れを孕んだ関係性がい
っそう顕になっていくわけであるが、『失われた時』における恋愛とは、そもそもそれ自体、歪ん
だ世界の謂いであるということもできる。ジルベルトに恋する若き主人公は、彼女のなにげない親
切を情熱的な告白と取り違えること、また、彼女が約束の時間に正確に到着しないことを取り返し
のきかない敵意と勘違いすること、そうした「二つの危険を冒すこと」の可能性を前に躊躇する。
そしてその後には、「私はこの二つの同じように歪みをもたらす視点のあいだにある視点、事物の
正確なヴィジョンを自分に与えてくれるような視点を探そうとしていたのだった」(34)、という発話
があるが、「正確なヴィジョン」を提供するアナモルフォーズの視点が求められるのは、主人公が
ジルベルトに恋に落ちた世界そのものが歪曲を蒙っているからに他ならないのだ。
アナモルフォーズの眼差しとは、ひとつには混沌や混乱のなかに秩序や統一性を見抜く役割を担
っているはずで、それこそがわれわれが物語構成のレヴェルにおいてその存在を指摘したものであ
り、またジルベルトとの恋愛おいて、主人公が探し求めていたものでもある。しかし、スワンやラ
シェルの描写を通して見て取ることができたのは、正しく、美しく見えるようなイマージュを捉え
たとしても、その像それ自体がまやかしであるという逆説と、そうしたイマージュへひきつけられ
ていく、欲望と絡まりあったわれわれの知覚と認識のありようを明らかにする機能を備えたアナモ
ルフォーズの眼差しである。こうした両義的な知覚と役割を担った特異な視点の存在は、アルベル
チーヌに関わる描写においても認められるもので、それはアルベルチーヌの統一性をめぐる主題と
深い関わりがあるようだ。
個体の一性という場合 ―― それはまさにライプニッツがモナドを通して考察したことであるが(35)
--- 44 ---
―― 二つのレヴェルの区分が必要となる。ひとつは、他の個体との比較において考察すべき個別
性、単一性に関わり、もうひとつは、個体の内的な一貫性を保障し、その多様性を包括するような
統一性に関わるものだ。ヴァンサン・デコンブが指摘しているように(36)、この二つのレヴェルは、
いずれもプルーストにおいて深く考察されているものであるが、われわれがアルベルチーヌをめぐ
ってさしあたり問題とするのは、後者についてである。
周知のように、アルベルチーヌは実にさまざまな容貌や性格を呈し、「ひとりではなく、無数の
少女」(37)であるかのような印象を語り手に与える。アルベルチーヌの多数性は、語り手が彼女を眺
める視点と緊密に関連していて、たとえば、ベッドの上のアルベルチーヌを正面から見つめた後、
語り手は、「彼女はすばやく性格を変えるのだった、というのも、私は彼女の傍らに寄り添い、彼
女の横顔を見出したからだ」(38)、という。主体の視点の多数化は、対象の多様性を明らかにするの
である。もうひとつアルベルチーヌに関する例を引くと、語り手が、「拡大鏡を通して見るように
より近くから見た彼女の首は、その肌の粗さを通して、顔の特徴を変えるような逞しさを示してい
た」(39)、と述べる箇所がそうである。この一節は、彼女のそれまで未知であった一面が発見された
ことを記しているし、さらに「拡大鏡」の譬喩は、奇妙で見慣れない映像へのプルーストの嗜好を
顕にしてもいる。しかし、そのような彼女も、サン=クルーの森のなかである特定の一点から見ら
れると、異なる様相を呈することになる。
アルベルチーヌは、大きな森のなかでただひとり台座の上に聳え立っている大理石の女神像をより近
くから見ようと丘の上に登り[…]
、そのあいだ私は路上で彼女を待っていた。この前ベットの上で見
たときの彼女は、丸くふっくらとしていて、拡大鏡を使うように近づけた私の目には、首のきめの粗
さが見て取れたのだが、こうして下から見上げると、今はそうではなく、彼女自身が繊細に彫られた
小さな像のようであり、その上にはバルベックの幸福な瞬間の緑青が塗られていた(40)。
「私」の位置する視点から見上げると、アルベルチーヌは、彼女自身が「繊細に彫られた小さな
像のよう」に見える。この直喩(あるいは換喩)は、以前の「拡大鏡」を用いたときのような映像
とは異なる、極めて均整の取れたアルベルチーヌの姿を表している。おそらくこの譬喩の対比には、
見慣れぬ特異なイマージュと、身近にある、慣れ親しんだ、安心感を与えるようなイマージュとの
対比があり、「幸福な瞬間」が想起されたのは、この後者の映像と無縁ではないだろう。ここには、
単に審美的な水準だけではなく、他者の理解に関わる心理的な水準があるようだ。
他者の理解や他者とのコミュニケーションは、『失われた時』における主要なテーマのひとつで
ある。しかし、それはほぼ否定的なかたちでしか触れられていない。たとえば語り手は、「あるひ
とりの人間」を理解することはそもそも不可能なのであり、それは、「彼についてわれわれが持つ
ヴィジョンを修正しても、不動の対象ではないその人自身が自ら変化するのだから」(41)、と述べて
いる。プルーストの考える存在者とは、常に変化のうちにあるようで、それはライプニッツの、
--- 45 ---
「すべての被造物は変化を免れ得ず、したがって創造されたモナドもそうであ」り、「この変化はそ
れぞれのモナドにおいて継続される」(42)、という記述と符号している。このような存在の継続的な
変化は、プルーストにおける、他者を正確に把握する上での二重の困難をも明らかにするものだろ
う。というのも、その変化は当然、対象を見つめる主体においても起こるはずであるから。モナド
を譬えにドゥルーズが指摘しているように、プルーストにおいては、「われわれの唯一の窓、唯一
の扉とは、精神的なものであり、間主観性は芸術的なものでしかありえない」(43)のであって、コミ
ュニケーションが成立するのは、芸術が介在しない限り不可能なのである。
したがって、先に触れた、彫刻のようなアルベルチーヌのイマージュについていえば、ある一点
から捉えられたその「幸福な瞬間」を呼びおこした姿は、スワンの映像がそうであったように、視
覚上の錯覚が含意されているかもしれず、そうであってほしいという語り手の欲望の投影がわずか
に見えこそすれ、他者に対する理解とその統一性の把握に関して肯定的な示唆を提供するものでは
ないだろう。
ところで、対象である存在のうちに起こる変化が停止したとすればどうであろうか。実のところ、
アルベルチーヌの死は、事態に大きな転換をもたらすわけではない。というのも、存在は記憶に依
存し、ある記憶と結びついた瞬間とその存在は生き続けるのであり、それに伴って生じる「存在の
細分化」は、「死者を生きさせるだけではなく、多数化させもする」(44)からである。アルベルチー
ヌは、この段階においてもまだ捉えることができないのだ。それでも、語り手は、何とか彼女の統
一性を見出そうと努める。
アルベルチーヌは私の記憶のなかで、生きているときに次から次へと私の目に現れたように、時の諸
部分として存在する他なく、彼女のうちに統一性を回復しようとした私の思考は、再び彼女をひとつ
の存在につくりあげた。そして、彼女は私に嘘をついていたのか、女性たちが好きだったのか、私と
別れたのは彼女たちと自由に交際するためだったのかどうかを知り、総括的に判断を下そうと思った
のは、この存在に対してなのだった(45)。
アルベルチーヌが「時の諸部分」« des fractions de temps » としてしか存在できないとすれば ――
ベルグソンの「持続」と対立するプルースト的時間がまさにそうであるように ―― それらを繋ぐ
一貫性を見出すことは困難であるだろう。「彼女のうちに統一性を回復しよう」という試みは、し
たがって、はじめから失敗に終わる可能性を孕んでいるのであり、語り手が再びつくりあげた「ひ
とつの存在」の正当性は、極めて疑問が残るものとならざるを得ない。
ところが、物語の終盤に差し掛かったところで語り手が、ジルベルトとアルベルチーヌについて、
出会った最初の瞬間に、彼女たち自身の眼差しのなかに自らを差し出していたのが、おそらく「真
のアルベルチーヌ」、「真のジルベルト」であったと自らに言い聞かせ、そのことを理解したのは、
後になってから、記憶のなかにおいてだったと続ける場面がある(46)。このことは何を意味するのだ
--- 46 ---
ろうか。実はこの一節よりも前に、「現実のアルベルチーヌ」という表現で、同様な趣旨がより詳
しく語られている箇所があるので、その場面を引く。
[…]アルベルチーヌの多くのさまざまな外観を知った後で、私が見出した現実のアルベルチーヌは、
はじめの日にバルベックの堤防に現われたときに推察した、乱痴気騒ぎをするような少女とほとんど
異なるところがないのであって、その少女が次々に多くの様相を差出したのであった。それはちょう
ど、ある街が、近づいていくと、その街の建築物のプロポーションを次々に変え、さらには遠くに見
えた中心的な建造物を押しつぶし、消し去ったとしても、やがてその街をよく知り、正確に判断でき
るようになると、その街の真のプロポーションとは最初の一瞥による眺めが指示したものであったと
わかるようなものである[…](47)。
ここでは「現実のアルベルチーヌ」が見出され、それが、はじめて出会ったときの直感が告げて
いたアルベルチーヌとほとんど異なるものではなかったことが語られている。そして視点の移動が
明示されているからには、「最初の一瞥による眺め」という表現は、ある特定の視点、アナモルフ
ォーズ的な視点の存在を含意しているだろう。着目したいのは、これまでは、たったひとりのアル
ベルチーヌから複数のアルベルチーヌへという、いわば一から多へ向かう方向性が示されていたの
に対し、ここではそれとは逆の、多から一へ向かう方向性が明瞭に示されているということである。
このことは、語り手がアルベルチーヌの統一性を最終的に把握したことを意味するのだろうか。そ
うではないだろう。このアナモルフォーズ的な眼差しから読み取るべきは、語り手の言葉とは裏腹
に、アルベルチーヌの統一性を捉えることの困難さ、さらに言えば、不可能性なのだ。
その不可能性とは、先に触れた存在者における継続的な変化の他に、ひとつには、そもそも語り
手の視点が制限されていることに起因する。
「ひとは決して物事の一面しか見ることができない」(48)
のであり、事後的に「現実のアルベルチーヌ」を見出したのだと主張したとしても、そう述べる語
り手の視点が制限されていることに変わりはない。アルベルチーヌの矛盾を孕んださまざまな様相
を統合する上位の視点などは存在しないのである。
また一方で、モナドとは視点であり、また絶対的な差異であることが、われわれの考察に重要な
示唆を与えてくれる。「モナドは他のすべてのモナドと異なっていなければなら」ず、「二つとして
同じ存在者はない」(49)、という「不可弁別者同一の原理」は、モナドそれ自体が差異であることを
示している。マエル・ルヌーアールが、「他の人々は、決してわれわれと同じ視点に位置すること
ができない」という『失われた時』の一節を引いて指摘しているように、プルーストにあっても、
視点の差異性は明確に意識されている。そして視点であるモナドとは、「表象」によって、多を含
みかつ表現しつつも、それ自体「統一性」を表すものであった。プルーストにおいて個人の統一性
が常に逃げ去り、捉えられないとすれば、われわれが他者の視点=統一性の場を占めることができ
ないこと、その不可能性に収斂するという言い方が可能だろう。
したがって、ある一点から捉えられた、街並みとの比較によって暗示されたアルベルチーヌの
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「真のプロポーション」とは、その内的な一貫性が最終的に見出されたことを意味するのではなく、
それを捉えたと思うこと自体が幻想に過ぎず、語り手の欲望の投影に他ならないことを告げている
だろう。アルベルチーヌは、その統一性は、最後まで「逃げ去る」のだ。『失われた時』において、
とりわけ恋愛のテーマにかかわるかたちで見出されるアナモルフォーズ的な視点は、知覚と認識の
不可避的なズレを暗示しつつ、個人の統一性を捉えることの不可能性を、真の理解を示唆する正し
いイマージュを用いて、いわば裏側から描き出しているのである。もっとも、強調しておかなけれ
ばならないが、問題となっているのは、知覚や認識の正誤なのではない。賭けられているのは、欲
望を通したそれらのありようそのものなのだ。
*
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『失われた時』において見て取ることができたのは、統一性を確保する役割と、それを捉えるこ
との不可能性を明らかにする役割を担ったアナモルフォーズの視点である。ライプニッツが『弁神
論』で言及していたのは、世界の調和、統一性を保証する隠喩としてのアナモルフォーズの視点で
あり、その意味では、プルーストにもとりわけ物語構造に関わるものとして同様な視点を見出すこ
とができた。一方、プルーストにおける個人の統一性に関わる部分を通じては、逆説的、両義的な
意味合いを帯びた眼差しの存在が確認できたが、そこに、『モナドロジー』で展開されているライ
プニッツ哲学の反映を読み取ることはできるだろう。
はじめに述べたように、プルーストとライプニッツは、視点を媒介とした「一」と「多」を巡る
問題系を共有している。本論では、いわば「一」のほうにより焦点を当てて分析を試みた。両者に
おける「多」の概念を通した考察については、稿をあらためて行うことにしたい。
註
(1) Marcel Proust, À la recherche du temps perdu, édition établie sous la direction de Jean-Yves Tadié, Paris,
Gallimard, « Bibliothèque de la Pléiade », 1987-1989, t. III, p. 694.
以下、R. T. P. と略記する。
(2) Ibid., t. IV, p. 491.
(3) プルーストは、1910 年、ロベール・ドレフュスに宛てた手紙のなかで、リセ・コンドルセでダルリ
ュからライプニッツ哲学を学んだことに触れている。Correspondance de Marcel Proust, texte établi,
présenté et annoté par Philip Kolb, Paris, Plon, t. X, p. 181.
以下、Corr. と略記する。
(4) ソルボンヌでのブートルーの講義において、プルーストは同僚のフェルナン・グレーグと共に、ライ
プニッツの『モナドロジー』を読んだという。C.f., Anne Henry, Marcel Proust – théories pour une
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esthétique, Paris, Klincksieck, 1981, p. 127.
(5) La Monadologie, § 14. 『モナドロジー』については、ブートルー版を参照した。La Monadologie,
édition annotée, et précédée d’une exposition du système de Leibniz par Émile Boutroux, Paris, Delagrave, 1880.
(6) Ibid., § 57.
(7) Vincent Descombes, Proust – philosophie du roman, Paris, Minuit, 1987.
(8) Gilles Deleuze, Proust et les signes, Paris, P.U.F., 3e édition, « Quadrige », 2003, p. 201 sq.
(9) 「彼女[カンブルメール侯爵夫人]にとって、十分に現代的ではない哲学者、ライプニッツは、知性か
ら心情への行程は長い、と言った」
。R. T. P., t. III, p. 315. この一節は、プレイアッド版の注釈者が指摘
しているように、『弁神論』の第 311 節に対応すると考えられる。
(10) Corr., t. XX, p. 335.
(11) Essais de Théodicée, § 147. 『弁神論』はポール・ジャネ版を参照した。Essais de Théodicée dans
Œuvres philosophiques de Leibniz, avec une introduction et des notes par Paul Janet, Paris, Alcan, 1900, tome
second.
また『弁神論』にアナモルフォーズへの言及があることは、ドゥルーズの指摘による。C.f.,
Gilles Deleuze, Le pli : Leibniz et le baroque, Paris, Minuit, 1988, p. 27, note 11.
(12) ユルギス・バルトルシャイティスは、作図法を考慮に入れ、アナモルフォーズを「形態をその目に
見える限界まで漸進的に還元していくのではなく、ある定められた視点においてのみ元に戻るように、
形態をそれ自身の外部へ投影、膨張させること」と定義している。Jurgis Baltrus̆aitis, Anamorphoses ou
Thaumaturgus opticus, Paris, Flammarion, 1996, p. 7
(13) R. T. P., t. III, p. 666.
(14) Ibid., p. 667.
(15) Lettre à Paul Souday en 1919, Corr., t. X VIII, p. 536, cité par Antoine Compagnon, Proust entre deux siècles,
Paris, Seuil, 1989, p. 9.
(16) Lettre à Jacque Rivière en 1914, Corr., t. X III, p. 98, cité par Luc Fraisse, L’esthétique de Marcel Proust,
Paris, Sedes, 1995, p. 99.
(17) Cité par Antoine Compagnon, op. cit., p. 9
(18) Frédéric de Buzon, « Romans, mondes possibles » dans Leibniz, philosophe de l’universel, Magazine
Littéraire, janvier 2003, p. 46.
(19) Méditation sur la notion commune de la justice, cité par Frédéric de Buzon, op. cit., p. 49.
(20) « Notice sur la vie et la philosophie de Leibniz » dans La Monadologie, op. cit., p. 132.
(21) R. T. P., t. I, p. 132.
(22) Ibid., p. 133.
(23) Ibid., t. IV, p. 268.
(24) Ibid., p. 234.
(25) Ibid., p. 606.
(26) Lettre à Anton Ulrich von Braunschweig, cité par Frédéric de Buzon, op. cit., p. 49.
(27) Michel Serres, Le système de Leibniz et ses modèles mathématiques, Paris, P.U.F., 2007 (1968), p. 168.
(28) Christine Buci-Glucksmann, « La folie du voir. De l’esthétique baroque » dans La folie du voir. Une esthétique
du virtuel, Paris, Galilée, 2002, p. 100.
(29) Françoise Leriche, l’article « Baroque » dans Dictionnaire Marcel Proust, publié sous la direction de Annick
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Bouillaguet et Brian G. Rogers, Paris, Champion, 2004, pp. 118-120. プルーストはバロック演劇をシェイク
スピアを除いて知らず、バロックの建築、絵画、彫刻にも関心を持たなかったが、
『失われた時』にお
ける小説ジャンルの混交、状況の逆転、視覚上の錯覚が見られるエルスチールの絵画、さらには、堅
固な構造のなかに不安定な反転を孕むプルーストの文章などに、バロック的要素が見られることが指
摘されている。ただし、アナモルフォーズについての言及はない。
(30) R. T. P., t. III, p. 89.
(31) Ibid., t, II, p. 472.
(32) Christine Buci-Glucksmann, op. cit., p. 93.
(33) Cité par Christine Buci-Glucksmann, ibid., p. 96, note 1.
(34) R. T. P., t. I, p. 576.
(35) C.f. 佐々木能章、『ライプニッツ術 ― モナドは世界を編集する』、東京、工作舎、二〇〇二年、一五
二−一五四頁。
(36) Op. cit., p. 300 sq. さらに、哲学的な文脈においては、前者は « individualisation »、後者は
« individuation » に関わる問題であることが指摘されている。
(37) R. T. P., t. III, p. 580.
(38) Ibid., p. 620.
(39) Ibid., t. II, p. 660.
(40) Ibid., p. 684.
(41) Ibid., p. 229.
(42) La Monadologie, § 10.
(43) Proust et les signes, op. cit., p. 55.
(44) R. T. P., t. IV, p. 60.
(45) Ibid., p. 95.
(46) Ibid., p. 269.
(47) Ibid., p. 188.
(48) Ibid., p. 260.
(49) La Monadologie, § 9.
(50) R. T. P., t. III, p. 888.
(51) Maël Renouard, « Proust et Leibniz : points de vue et mondes » dans La Polygraphe, n° 24-26, hiver 20022003, p. 253. 因みにこの論文では、語り手の視点の制限は、時間的な遅れにのみ関わると述べられてい
て、最終的には、語り手が個人の統一性を後から再構成できるという主張に力点が置かれている。
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