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124 世界樹の導くもの ――宮崎駿『となりのトトロ

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124 世界樹の導くもの ――宮崎駿『となりのトトロ
世界樹の導くもの
――宮崎駿『となりのトトロ』をめぐって――
今村 純子
はじめに
『風の谷のナウシカ』
(1984 年)
、
『天空の城ラピュタ』
(1986 年)と、戦争や産業社会と
いったきわめてテーマ性の高い作品を「ファンタジー」において結晶化させてきた宮崎駿
のアニメ作品にあって、
『となりのトトロ』
(1988 年)は、あらゆるテーマ性から抜け出て、
ただただ「生きるということ」を表現している。そしてこの表現が観る者ひとりひとりの
心に宿り、その心を震わせるのならば、それぞれに抱かれた鮮烈なイメージにおいて「生
きること」に関するすべての問いへと舞い降り、大地に種をまき、やがて大きな樹を育て、
その樹は確かな答えとなるであろう。
『となりのトトロ』において「生きること」は「大地に根を下ろすこと」としてあらわし
出される。戦争や産業社会の残虐さを表立ってうったえることなく、それらはすべて不問
に付され、ただただ人間性の介在しない圧倒的な自然の偉大さと、その自然が提示する「世
界の秩序」
、さらにその秩序が醸し出す「世界の美」を描き出すことで、わたしたち自身の
拠って立つ「根」とは何かを問いかけるのである。
たとえば、原子力発電所の巨大事故を経験した 2011 年 3 月 11 日以降の世界を生きるわ
たしたちにとって、森と田園が広がる風景のなかで、その風景にまったく馴染まない鉄塔
と長く細い送電線の上を、子どもたちの夢と願いが生み出したであろう「ネコバス」がよ
じ登り駆け抜けてゆく様は、こうした人工物の陳腐さを感受させるものである。あるいは
この映画冒頭で描かれる引っ越し先の家は、西洋建築と日本家屋が折衷されることなくそ
のまま異質なものとして共存している。すなわち、映画は何も語らず、わたしたちが「生
きること」にいったい何が大切なのかを映し出すことで、人間の営みの陥穽をあぶり出し
ているのである。
他方で、あたかも風そのものとなるように、
「空と戯れること」あるいは「空を舞うこと」
がつねに重要なモチーフとなっている宮崎アニメにあって、
『となりのトトロ』におけるこ
のあらわれは、人工物を介さずにどのようにして可能となるのであろうか。
『となりのトト
ロ』には、
『風の谷のナウシカ』や『天空の城ラピュタ』との決定的な相違が見られる。そ
、、、、、、、、、、、
れは、外的な何ものにもよらずに、あくまで登場人物の内的な心の変化によって、自然性
のうちに「超自然的な働き」が見出されるということである。とはいえ『となりのトトロ』
においても、宮崎駿作品の多くがそうであるように登場人物の超能力や魔術によって奇跡
が引き起こされるのではない。そうではなく、登場人物それぞれが置かれた苛酷な必然性
のなかで、それぞれが力のかぎり生きるという、きわめてシンプルな営みを成し遂げた、
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世界樹の導くもの〔今村純子〕
まさしくそのときに奇跡は起こるのである。
その事態はつねに自らの無力を思い知らされ、
その無力さに押しつぶされそうになる状態と表裏一体である。そのどこにも寄る辺のない
脆弱さの直中で、自分にとっていったい何がもっとも大切であり、いったい何がもっとも
愛しいものであるのかが、なによりもまず自分自身に感受されることになる。そこからそ
れを守りたいという願望に貫かれて自らが自らを離れ、
「祈り」そのものに、
「願い」その
ものになる心の状態において、奇跡はわれ知らず果されている。それゆえ個々人の心の根
源的な転換が起こるその働きこそが奇跡にほかならない。それはまた、この世界でわたし
たちが知りうること、なしうることはほんのわずかにすぎず、わたしたちはほとんど何も
知りえず、何にも与しえないことを感受させる。
『となりのトトロ』は、そうした「世界の
秩序」のひとかけらとして生きる喜びと素晴らしさを描き出している。本小論では、この
ことを少しく浮き彫りにしてみたい。
1.植物的生命
『風の谷のナウシカ』と『天空の城ラピュタ』において、
「空を飛ぶ」ためには人間が自
然界につくり出した「科学技術」の力をもってしなければならなかった。だが『となりの
トトロ』においてそれを可能にするのは、
「自然」
、わけても「植物」をじっと見つめ、そ
の植物の生に倣って生きることである。あらゆるものが「重力」の支配から逃れられない
この世界の直中で、植物は、光と水によって、重力に拮抗しつつしなやかに垂直方向へと
伸びてゆく。しかしながらわたしたち人間は、垂直方向へは一歩も進むことができない。
わたしたちが垂直方向へと上昇しうるのは、植物に敬意を払い、植物に祈りを捧げること
によってである。自らの意志がどうにもならない必然性に激突し、しかしそうであるにも
かかわらず、そこから逃げず、そこに立ち止まり、そこで自らを離れ、自らを取り巻く自
、、、、、、、、、、、、
然へと眼差しが向けられるまさしくそのときにこそ、自らにおいて自らを超えてわたした
ちは、われ知らず「空へと舞い上がる」のである。
『となりのトトロ』の主人公サツキとその妹メイは、母親が病気で入院中であり、父親
と三人で――おそらく母親が空気のきれいなところで静養できるようにと――田舎に引っ
越してきたばかりである。古い田舎の家は小さな子どもたちにとってなんとも言葉にし難
いもの、何かの気配、すなわち“もののけ”を感じさせる場所である。明るいところから
ずっと雨戸が閉じられていた暗い家のなかに入ると、沢山の「ススワタリ」がうごめき、
サツキやメイの姿に接して慌ててざわざわと逃げてゆくように感じられる。小さな子ども
たちの目に世界はそのように映るのであり、それは現実をはるかに超えるリアリティを有
する。
引っ越ししてきた家の門から庭に抜けるには木立が木のトンネルをつくり、庭からは森
の大きなクスノキが見える。クスノキは、子どもたちには天まで届くかのような大きさに
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感じられる。人間がこの世に生まれ、生き、そして死ぬ期間に比べて、森の樹々はその何
十倍、何百倍もの期間、毎日、太陽の光を浴び、雨や風を受け、それにもかかわらず、一
歩も水平方向には動かず、同じ場所に佇んでいる。嵐の日は嵐とともに荒れ狂い、太陽が
光り輝く日は太陽とともに笑っている。そうした姿を日々わたしたちに見せることで、わ
たしたちは自らの生もそのように成り立っていることをいつしか知悉するようになる。
2.夢見る権利
サツキとメイがトトロに出会えるのは、それぞれのうちにどうしようもない「虚無」を
抱え込み、それにもかかわらずそこから逃げることなく、その虚無をじっと「堪え忍ぶ」
ときである。映画前半では、考古学者の父親は自室で仕事をしており、姉のサツキは小学
校に通っている日中、
母親のいない四歳のメイはひとりで遊ばなければなければならない。
それは四歳の女の子にとってはきわめて酷なことであり、メイは遊びだしてすぐに「お父
さん、お弁当まだ?」と戻ってきてしまう。メイにとってひとりで遊ぶ時間はとてつもな
く長く感じられるのである。メイを取り巻く「人気のなさ」は、草むらや家の縁の下や森
のなかに、人間に代わって、引っ越しの日と同じ“もののけ”を感じさせる。引っ越しの
日に見た「ススワタリ」のようなものから、もう少し大きな小動物のようなものもいる。
そしてその小動物のようなものを追いかけ、クスノキの根っこに空いた穴から転げ落ちる
と、そこには森の精霊トトロがお昼寝をしているのだ。メイの寂しさ、そしてその寂しさ
が充満し空虚となった心のなかで、メイは大きなトトロのお腹の上にのぼり、いつしか眠
りにおちている。だがメイを探しにきたサツキや父親にトトロの居場所を必死に案内しよ
うとしても、メイはどうしてもその場所を見つけることができない。メイと父親のあいだ
には次の対話が見られる。
メイ
ほんとだもん、ほんとにトトロいたんだもん。ウソじゃないもん。
父親
メイ?
メイ
うそじゃないもん……。
父親
うん。お父さんもサツキも、メイがウソツキだなんて思ってないよ。メイは
きっとこの森の主に会ったんだ。それはとても運がいいことなんだ。でも、
いつも会えるとは、かぎらない。
父親が述べる「運がいい」というその幸運の契機は、いったいいつ訪れるのだろうか。
それは逆説的にも、心が虚無となり、その虚無に押しつぶされそうになりながらも、必死
、、、
に堪え忍ぶまさしくその瞬間にほかならない。そのとき人は、見えないものを見る心の目
をもつようになる。さらにその幸運が訪れるのは、自らの「小ささ」を自ら感受すること
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世界樹の導くもの〔今村純子〕
によってである。そのとき、世界は自分を中心に回っているのではなく、自分は世界のほ
んのひとかけらにすぎないことを、ほんの一滴にすぎないことを知るまさしくそのことに
よって、かえってわたしたちの心は満たされるのである。わたしたちが自然や芸術に接し
て心が満たされるのはこの働きゆえである。
『となりのトトロ』は、芸術においてまさしく
自然によるこの心の充溢の有り様を描いていると言えよう。
サツキ、メイ、父親の三人で塚森に挨拶にいくと、メイは自分が落ちた大きなクスノキ
の根っこを見つける。だがそこから落ちたはずの肝心の穴が見つからない。それはなぜで
あろうか。それは、いまは姉のサツキも父親も傍におり、かれらの存在だけでメイの心は
満たされているからである。そして居てくれるだけで心が満たされる父親は、サツキとメ
イに向けて、自らの小ささを知らしめてくれるもののありがたさを次のように述べる。
立派な樹だなあ。きっと、ずーっと、ずーっと昔から、ここに立っていたんだね……。
昔々は、樹と人は仲良しだったんだよ。お父さんはこの樹を見て、あの家がとっても
気にいったんだ。お母さんもきっと好きになると思ってね。
サツキとメイの父親が田舎の古い家に引っ越しすることを決めたのは、家そのものを気
に入ったことが第一の理由ではない。そうではなく、家の近くにはおそらくその家が建て
られるはるか昔から、晴れの日も、雨の日も、風の日も、その土地を見守ってきた樹の存
在があったからである。わたしたち人間はたとえどんな人であろうとも、当然のことなが
ら、その人自身の力だけによっては生きられない。だがわたしたちは生活の慌ただしさの
なかでしばしばそのことを忘れ去ってしまう。そして個々人の生活の慌ただしさが社会の
慌ただしさへと拡大投影されるとき、この作品の前二作がモチーフとしてきた産業社会や
戦争において人間が自己自身を破壊するという矛盾に陥ることになる。すなわち、それぞ
れの「生のリアリティの欠如」は、そのまま「歴史のリアリティの欠如」といとも容易く
結びついてしまうのである。そうであるからこそ、日々、刻一刻、生きているのではなく、
「生かされている」ことを知らしめる環境、すなわち、個々人の一生よりもはるかに長く、
はるかに昔から生息している樹々や“もののけ”の存在に感謝せざるをえない心を育てる
環境が、子どもたちや病身の妻の生が生であるために不可欠だと、サツキやメイの父親は
直覚しているのである。
他方で、サツキはいつトトロに出会うのであろうか。10 歳のサツキはしっかり者で家の
手伝いもよくし、友達にも恵まれている。それゆえその状況の苛酷さとは裏腹に、サツキ
はメイのようにそう簡単には虚無に陥らない。だが寂しくて小学校を訪れてしまったメイ
を先生にお願いして一緒に授業を受けさせ、クラブ活動を休んでメイを家に連れて帰る途
中で大雨に降られてしまう。さらには傘をもっていかなかった父親に傘を届けようとメイ
とふたりでバス停まで父親を迎えにいくも、父親はいつもの時間のバスに乗っておらず、
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眠くなってしまったメイをおんぶしなければならない。このようにサツキには苦難が、こ
れでもかこれでもかというように次から次へと襲いかかる。そしてまさしくサツキがトト
ロに出会うのは、この不気味な静けさのなかでメイを背負う重さと誰にも頼れない孤独を
堪え忍びつつ、父親が戻るバスを待っているそのさなかなのである。ふと横を見やるとト
トロがいる。傘を持っていないトトロに父親の傘を貸してあげると、トトロは傘の用途で
はなく、傘に雨が当たるその音に興味を示し、あたかも新しい楽器をもらったかのように
楽しんでいる。やがてネコのかたちをした「ネコバス」が到着すると、傘のお礼にとサツ
キに木の実の詰まった小さな包みをくれ、トトロはネコバスに乗り込み、走り去ってしま
う。ようやく次のバスで父親が到着すると、メイとサツキは、父親に抱きつきしばらく沈
黙した後に、次のような会話をする。
サツキ
出たの。お父さん出た、出た!
メイ
ネコ、ネコのバスー。
サツキ
すっごい、おっきいの。
メイ
こーんな目しているの。
サツキとメイ こわーい!
サツキとメイ 会っちゃったー。トトロにあっちゃったー。
サツキ
すてきー。
メイ
こわーい。
非日常の経験は、とても恐ろしい経験であるのと同時にとても素敵な経験でもある。歓
喜と恐怖が表裏一体であることをこの幼い姉妹は直覚し、
「とても不思議で不気味で楽しい
一日でした」
とサツキは入院中の母親に手紙を書き送る。
「庭が森になると素敵だと思って」
と手紙に書くように、サツキとメイは、トトロにもらった木の実を庭にまく。しかしそう
すぐには芽が出ない。だが「芽が出てほしい」
、
「庭が森になってほしい」と願うサツキと
メイそれぞれの夢のなかで彼女たちは、トトロと二匹の小トトロと一緒におかしなお祈り
をしつつ、種をまいた場所の周りをめぐっている。すると種は芽を出し、樹々はぐんぐん
成長し、すぐさま庭は森となる。そうしてサツキとメイはトトロのお腹に飛び乗り、風に
のって――彼女たち自身が風となって――月に照らされたクスノキのてっぺんまで登りオ
カリナを吹いている。
だが朝がやってくると夢は醒めてしまう。
だがそれにもかかわらず、
サツキとメイが庭を見にいくと小さな芽が出ている。ふたりは昨夜の夢のなかと同じく種
を撒いた場所をめぐりつつ次のように述べる。
サツキ
夢だけど……。
メイ
夢じゃなかった!
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世界樹の導くもの〔今村純子〕
サツキ
夢だけど……。
メイ
夢じゃなかった!
「夢だけど……」
、
「夢じゃなかった」と彼女たちが述べるのは「芽が出たこと」のため
だけではない。すなわち、夢のなかで彼女たちが「祈ったこと」
、つまり、芽が出て、樹々
、、、
が成長し、庭が森になることを彼女たちが切望したというその事実は、夢ではなく現実で
、、
あるということである。わたしたちは、ただただ心の奥底から「欲望するということ」の
うちに、すでにその望みを手にしている。このことは、この映画のクライマックスに拡大
投影されることになる。
3.仲介の働き
自らの力ではどうにもならない、動かし難い世界の必然性との接触の直中で、その苛酷
な必然性をひとつひとつ「世界の美」との出会いの経験に変えてきたサツキとメイであっ
た。そうして彼女たちは、母親の帰宅を刻一刻と「待ち望むこと」によってかろうじて自
分たち自身を支えてきたのである。だが、隣家のおばあさんとトウモロコシを穫って食べ
ているさなか、突然、病院からの電報が届く。世界でもっとも愛する他者のひとりである
母親が「死んでしまうかもしれない」という事態に接して、彼女たちはその事実を受け止
めることも、その事実に対してなにか働きかけることもできず、青ざめるしかない。そし
てサツキの虚無はついには彼女の心から溢れ出て、それらは滝のような涙となって流れ出
してしまう。
電報を受け取るのは、おばあさんと一緒に畑の傍で採りたての野菜を食べはじめたばか
りのときである。そこでは次のような会話が見られる。
サツキ
いただきまーす。おいしい!
おばあさん おてんとさまいっぱいあびてるから体にもいいんだ。
サツキ
お母さんの病気にも?
おばあさん もちろんさ。おばあちゃんの畑のもん食べればすぐ元気になっちゃうよ。
自分の畑の野菜は太陽の光を沢山浴びているから栄養がある、とおばあさんは言う。植
物は葉緑素が光を受け止めてはじめて自らのエネルギーをつくり成長する。すなわち、光
がなければ、そしてそれを受け止める葉緑素がなければ、植物はけっして成長しえず、自
らエネルギーをつくることも、実をつけることもない。この葉緑素の「仲介の働き」は、
一歩も動けない絶体絶命の状況において、人間の行為へと移し替えられることになる。
しっかり者のサツキが号泣している場面を見たメイは、深刻な事態を察知し、トウモロ
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コシを抱えて病院の方角にひとり駆け出していってしまう。メイは、自分が採ったトウモ
ロコシだから、きっとこのトウモロコシを食べたらおかあさんは元気になるにちがいない
と思うのだ。だが途中で道に迷い、行方がわからなくなってしまう。村の人々の手も借り、
サツキは全力で走りまわって必死に探すものの、メイは見つからない。池にメイが履いて
いたものに似たサンダルが発見され、一時は池に落ちたのではないかと村の人々は池を捜
索し、サツキは全力疾走して池に戻る。だがサンダルがメイのものではないことを確認し
ひとたび安堵すると、サツキは突如森へと突進してゆく。心が真空になり、もつべきもの
、、、、、、、、、、、、
が何もなくなったとき、サツキの行為はサツキを超えたところから導かれる。すなわちサ
ツキは、トトロならこの絶体絶命の窮地を救ってくれるにちがいないと思い、トトロに会
いに行こうとするのだ。森に到着すると、メイがはじめて会ったときと同じくトトロはお
昼寝をしている。そしてサツキが「どうしていいかわからない」と当惑し、トトロにお願
いすると、トトロはサツキのためにネコバスを呼び寄せ、ネコバスの行き先表示は「めい」
と変わり、サツキはネコバスに乗り込み、妹を探しにいく。
ここで銘記すべきは、トトロとネコバスという「仲介者」がいなければサツキは自力で
はメイを探せないということである。さらに、トトロとネコバスを出現させたのは、サツ
キの心の奥底からの「祈り」であり「願い」であるということである。
「われを忘れる」ほ
どまでに、つまり「自己が完全に無となる」ほどまでに心底祈ることで、メイはトトロと
出会うことができ、またトトロに必死にお願いすることで、ネコバスがやってくるのであ
る。だが、空中を疾走するネコバスは村の人々の目には映らない。ネコバスは底なしの虚
無に陥れられ、絶望の淵で、それでも祈り願う者にのみあらわれる。そうしてネコバスは
あたかも植物の葉緑素が光を受け止めエネルギーを出すように、サツキの行為の「仲介の
役割」を果たすのである。
他方で、大人の目には見えないトトロやネコバスであっても、子どもを想う親の心には
――父親が仕事中、本が風にめくれるのを不思議そうに眺めたり、電報の知らせを受け、
職場から駆けつけた夫に「いま、そこの木でサツキとメイが笑ったように見えたの」と母
親が述べるように――見えない世界がかすかに感じられる。
そしてそれを可能にするのは、
ひとえに子どもたちへの愛にほかならない。
ところで、様々な困難に直面するサツキにその都度助力を与えてくれるのは隣家に住む
同級生のカンタである。カンタはサツキが引っ越してきたその日からサツキに淡い憧れを
抱いている。だがそうであるからこそ、いつもサツキに悪態をついている。しかし、様々
な困難に直面しつつサツキが精一杯に生きる姿を、カンタはいつもじっと蔭から見つめて
いる。それがふとした折に――大雨のなか雨宿りしているサツキとメイに自分の傘をわた
し自分はびしょぬれになって走って帰ったり、サツキに代わって自転車で病院までメイを
探しに行ってくれたりするといった――行為となってあらわれ出る。
ここで大切なのは、カンタがなした行為そのものではない。そうではなく、カンタがサ
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ツキの生きざまに接して、カンタ自身の心のうちに変化が起こるということである。サツ
キはカンタになにか具体的な働きかけをしたわけではない。サツキは彼女自身の生を力の
かぎり生きているだけである。その「存在の強さ」が「存在の美」となってあらわれ出て、
カンタの心に反響し、カンタの心を目覚めさせるのだ。このように、倫理とは、人と人と
いう水平方向にのみ構築されるものではない。そうではなく、垂直方向に自らの個を深め
ることにおいて、おのずから他者と世界との水平の関係が築かれてゆくのである。すなわ
ち、他者との関係の構築とは、根源的には自発性によるものではない。自発的であるのは
あくまで自分の生を生たらしめることにおいてであり、その行為の結果として、われ知ら
ず、世界と他者へと関係の橋は構築されているのである。
結びに代えて
『となりのトトロ』は、田園風景が広がり、森に囲まれた田舎への引っ越しシーンから
始まる。主人公のサツキとメイは底なしに明るく、よく飛び跳ね、よく働く。だが彼女た
ちには当然守ってくれるはずの母親が不在である。
『となりのトトロ』が自前で引っ越しを
し、子どもたちはトラックの荷台のなかで戯れているのに対して、その 10 年あまり後の宮
崎駿作品『千と千尋の神隠し』
(2001 年)では、荷物はすべて引っ越し業者任せで、千尋
は自家用車の後部座席でふてくされている。サツキとメイには母親が不在であるのに対し
て、千尋には両親が揃っており、見掛け上は何ひとつ不自由がないように思われる。だが
千尋はけっして自由ではなく、千尋が自ら自由を獲得しうるのは、両親をブタにされ、さ
らに自らの情念や情動をはぎ取られたあとに芽生える感情によってであった(1)。この両者
の差異は、物質的に豊かになったわたしたちの生きる社会の変遷をも反映しているであろ
う。
『となりのトトロ』において、父親の自転車で母親の入院する病院まで快適に行ける晴
天の日もあれば、びしょぬれになって心細くなってしまう嵐の日もあるように、あるいは
また、引っ越しの長い一日のうちには、急に暗い部屋に入って「ススワタリ」が見えるよ
うな強い陽が刺す昼間から、薪が吹き飛ばされるほどに風の吹き荒れる夜があるように、
人生にはわたしたちの意志とは無関係に様々な事柄が降りかかり、それらひとつひとつに
対してわたしたちが自らの意志でなしうることはごく限られている。
『となりのトトロ』の二作前の映画『風の谷のナウシカ』に目を転じてみよう。そこで
は、
「産業社会が崩壊してから千年後の世界」が描かれている。人々は防毒マスクをして、
人間が住めるのは谷間の水がきれいなわずかな土地にかぎられる。そうした世界を描いた
『風の谷のナウシカ』を『となりのトトロ』を遠景に置きつつ考察してみると、次のこと
が浮き彫りになってくる。すなわち、ナウシカがナウシカであるのは彼女の心が「やわら
かい心」であるときにかぎられるということである。すべての生きとし生けるものに愛を
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注ぐように思われるナウシカであっても、自分の父親を殺害されたときには、
「かたくなな
心」となり、父親を殺した敵をそのまま自らの手で殺めてしまう。ナウシカは自らの生命
オー ム
を賭して巨大な怪物「王蟲」の暴走をとめる。だが王蟲の怒りを止めさせたその核となる
ものはいったい何であろうか。それは、ナウシカがいっさいの武器をもたず王蟲に愛を傾
け、また王蟲からの愛を傾けられること待ち望んでいるからである。その「愛の映し」が
「存在の美」としてあらわれ、王蟲の心を動かし、王蟲の怒りを解消するのである。
『となりのトトロ』の一作前の作品『天空の城ラピュタ』ではどうであろうか。まさし
く「大地に根をもつ」ことなく、人造の結晶体「飛行石」によって空中に浮遊するラピュ
タは滅びる運命にある。樹木は大地に根を張ったときにはじめて重力に逆らって水を上昇
させ、垂直方向に成長することもできる。それはわたしたち人間の心とて同様である。
「低
くなる者は、高められる」
(マタイ 23・10-12)という言葉は「大地に根をもつ者は、高めら
れる」と言い換えることができよう。
注
(1)『千と千尋の神隠し』については次の拙論を参照のこと。
「アニメーションの詩学――映画『千と
千尋の神隠し』をめぐって」
、今村純子『シモーヌ・ヴェイユの詩学』慶應義塾大学出版会、2010 年、
71-81 頁。
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