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近世近代の日本絵画における美術交渉

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近世近代の日本絵画における美術交渉
近世近代の日本絵画における美術交渉
中
谷
伸
生
それぞれの時代、各々の画家の個別的かつ具体的な問題を採り上
層複雑に反映しているあり方を﹁交渉﹂という言葉で説明してお
げて、美術交渉の根底にある伝播、影響、交流といった事態とは
江戸時代から近代にかけての絵画史を概観すると、いうまでも
なく、中国文化圏から西洋文化圏への大きな転換がみられ、少な
く。その際、影響、伝播、交流、交渉に関わるさまざまな局面を
はじめに
くとも江戸時代後期以後の近世近代絵画史の﹁近代化﹂が、全体
示す画家について、具体例を挙げて論じることにする。
何か、を問うてみたい。ここでは一応、これらの関わりをより一
的 に は ゆ る や か に、 あ る い は 局 所 的 に は 急 速 に 進 ん だ こ と が 確 認
で き る。 し か し、 こ う し た 流 れ の 細 部 を 詳 細 に 検 討 し て み る と、
流では、フランスなどが中心になり、アジアとの交流では、中国
ぐ っ て、
﹁ 人 と 人 と の 交 流 の 絵 画 ﹂ と い う 枠 組 が 想 起 さ れ る。 そ
大坂の画家たちの交流を採り上げて論じると、その場合、木村
蒹葭堂︵一七三六 ︱一八〇二︶とその周辺の画家たちの交流をめ
一
大坂の文人画における画家たちの交流
などが中心になるとはいえ、日本の画家たちにとっては、当然な
の 場 合、 も ち ろ ん 私 淑 の 関 係 も 含 ま れ る。 そ の こ と は ま た、﹁ 模
そ こ に は、 い わ ば 行 き つ 戻 り つ の 断 続 的 な 展 開 の 諸 相 が 見 ら れ、
が ら、﹁ 日 本 ﹂ と い う 土 着 の 文 化 と の 関 わ り が 浮 上 す る こ と に な
倣︵粉本︶による画家同士の交歓の絵画﹂という江戸時代の基本
事態はかなり複雑であることが明らかになる。また、西洋との交
り、画家たちは、それらのさまざまな地域性と対峙しながら、独
と な る 絵 画 制 作 と そ の 交 流 の 問 題 に 繋 が る こ と に な る。 こ れ に つ
一
いては、木村蒹葭堂と大坂画壇の画家たち、あるいは画家同士の
自性の確立を目指したわけである。
以 下、 日 本 近 世 近 代 絵 画 史 の 中 か ら、 半 ば 恣 意 的 で は あ る が、
近世近代の日本絵画における美術交渉
示 す も の で、 絵 画 に 限 定 し て も、 か な り 複 雑 な 伝 播 ・ 交 流 が な さ
の交流のあり方は、それ自体で江戸の文化の典型的な型を露わに
文人たちが集まっていた。ともかく、蒹葭堂を取り巻く文人たち
にした詩文の混沌社には、細合半斎、篠崎三島、頼春水らの若い
俳諧の関係も浮上してくるであろう。とりわけ、片山北海を盟主
熊嶽と儒者の細合半斎や佐野山陰との交流、あるいは中村芳中と
江、そして上田公長らの交流関係も明らかになり、福原五岳や岡
深 い。 そ こ で は、 岡 田 半 江 は い う に 及 ば ず、 八 木 巽 處 や 中 井 藍
ついての研究は、画家や儒者たちの意外な繋がりを示す点で興味
あ っ て、 中 で も、 大 坂 を は じ め と す る 各 地 の 画 帖 類 や 寄 せ 書 き に
か な よ う に、 日 本 各 地 の 画 家 た ち と 儒 者 た ち と の 交 流 も 重 要 で
交流のみならず、紀州の野呂介石と奥田元継の関係などでも明ら
言及することに終始してきた感がある。ともかく、江戸時代から
辺崋山、浦上春琴、田能村竹田らとその周辺の画家たちの事績に
国の文人画概念をこと細かに述べながら、池大雅、与謝蕪村、渡
う。これまでの文人画論は、士大夫の存在について論じ始め、中
大坂画壇の絵画を見渡すと、大坂画壇を抜きにした従来の江戸
絵画史研究が、如何に偏ったものであるかを理解する必要があろ
までもない。つまり、絵画による伝播の連鎖ということである。
ねているが、彼らの絵画がまた、全国各地に広がったことはいう
わったわけである。浦上玉堂や田能村竹田も来坂して蒹葭堂を訪
影響力をもち、大坂画壇はもちろんのこと、全国各地の絵画と関
ば素人芸でもある蒹葭堂の絵画が、作品自体の実力以上に大きな
た各地に去っていった事実を今一度想い起こすべきであろう。半
及びその周辺の大坂の文人たちの住処を訪れ、多くを学んで、ま
二
れていたことが鮮明になる。蒹葭堂は、当時の大坂の文人として
近代にかけて、最も中国的な絵画を展開させ、本格的に文人画を
︶
は、別格の吸引力をもつ重鎮であることから、蒹葭堂を軸にして
盛んにした大坂の絵画を無視して、文人画を論じた研究には基本
︵
画家たちの交流を考えることは近世絵画を考える上で重要であ
る を え な い。 ま た、 学 問 や 芸 術 に つ い て の 中 国 理 解 が 深 ま っ た 江
ともかく、蒹葭堂をはじめとして、岡田半江に至る大坂の画家
たちの交流を除外した文人画論は、かなり偏ったものだといわざ
る。たとえば、池大雅の研究においても、大雅を支えた裾野とも
蒹葭堂と愛石らの友情を踏まえた多岐にわたる検討が不可欠であ
だとすれば、それを跡付けるためには、たとえば、池大雅と木村
的 な 欠 陥 が あ る と い わ ざ る を え な い。 と い う の も、﹁ 人 と 人 と の
戸後期の社会において、大坂の岡田半江の絵画から、鼎春嶽、十
いうべき、愛石や少林らの文人画についての研究が、大雅の絵画
る。
時 梅 厓、 少 林、 愛 石 ら の 作 品 は、 近 世 の 文 人 画 を 考 え る に あ っ
とは何であったかを、これまでとは異なる観点から明らかにする
交流の絵画﹂というのが、日本で展開した文人画の基本的な枠組
て、見逃すことができない。全国各地の画家たちが、木村蒹葭堂
1
]では、広瀬旭荘︵一八〇四 ︱一八六三︶による
久しいにもかかわらず、大雅の絵画についての受容層の解明は意
れておらず、美学美術史学における受容美学の重要性が叫ばれて
の川でもあり、中国の川でもあるイメージは、画と詩の交響によ
淀川、すなわち大川を長江︵揚子江︶に重ねて描いている。日本
墨 書 の 題 字﹁ 濠 濮 間 想 ﹂ が 揮 毫 さ れ 貼 付 さ れ て い る が、 半 江 は、
図書館蔵︶[図
外に遅れている。これについては、まず、その弟子たちの作風か
る 画 面 に よ っ て、 現 実 の 淀 川 か ら 想 像 上 の 長 江 へ と 広 が っ て い
であろう。従来の研究では、こうした事実関係が、意外に考慮さ
ら 大 雅 の 作 品 を 見 る と い う 研 究 を 進 捗 さ せ ね ば な ら な い。 た と
三
く。その美しく錯綜した大川の情景に、旭荘は濠水と濮水という
4
え、 愛 石 の 絵 画 が、 当 時 の 文 人 画 の 中 で 見 劣 り が す る と し て も、
愛石の絵画は、大雅理解にとっては見逃せない一級資料であるこ
]
、
] で は、 樹 木 の 形 態 描 写 は、 明 ら か に 大 雅 風 の 点
描の狙いがどこにあるかを究明することが可能となる。こうした
画家間の交流を除外しては、人と人との交歓を基盤とする近世絵
画史の全容は見えてこない。
また、岡田半江と広瀬旭荘と藤井藍田らの交流からは、中国文
化との交流の軌跡が浮かび上がる。たとえば、天保一二︵一八四
一︶年に、半江が制作した︽山水図巻︵大川納涼図︶
︾
︵関西大学
図 1 愛石《雲低
山水図》
と は い う ま で も な い。 た と え ば、 愛 石 に よ る︽ 雲 低 山 水 図 ︾
︵紙
]、[ 図
本 墨 画 淡 彩・ 縦 一 二 七、三、 横 二 六、二 セ ン チ メ ー ト ル ︶
[図
[図
1
描を採り入れたものであることから、愛石の特徴から、大雅の点
3
近世近代の日本絵画における美術交渉
図 2 愛石《雲低山水図》(部分)
図 3 愛石落款
2
四
文 を 習 っ た 経 歴 を も つ。 こ の 図 巻 で
田 能 村 竹 田 に 絵 画 を 学 び、 旭 荘 に 詩
坂 の 南 堀 江 に 暮 ら し た 文 人 画 家 で、
に 貼 付 し た。 阿 波 出 身 の 藍 田 は、 大
書 き 込 み、 そ の 跋 を 藤 井 藍 田 が 巻 末
の著書として﹃水石画譜﹄が挙げられている。息子にはやはり画
い。嘉永元年︵一八四八︶刊行の﹃浪花当時人名録﹄には、魚大
文政頃は過書町、天保頃は長堀三休橋南に住居を構えていたらし
保八年︵一八三七︶までの生存が確認されている。文化頃は塩町、
に師事して一家を成す。その名は文化年間から知られており、天
佐藤魚大︵生没年不詳︶は、名を益之あるいは魚大といい、字
は士朗あるいは広年という説もある。号が水石で、四条派の呉春
江戸時代後期から明治にかけて活動した佐藤魚大、佐藤保大、佐
は、 淀 川 の 情 景 を 中 国 の 山 野 に 繋 ぐ
家 と し て 活 動 し た 保 大 と 守 大 が い た。 さ ら に 、 付 け 加 え て お く
中国の河川のイメージを付け加えた
半 江 の 想 像 力 と、 そ れ を 理 解 し て 揮
と、 明 冶 に な っ て か ら の 魚 大 落 款 の 絵 画 が 遺 存 し て い る こ と か
藤守大らの文化史的価値の高い絵画がそれである。
毫 し た 旭 荘 の 学 識 が 示 さ れ る。 こ の
ら、 明 冶 前 半 期 に、 二 代 魚 大 が 活 動 し て い た こ と が 明 ら か に な
のである。後の嘉永二年︵一八四九︶
図 巻 を 制 作 す る 際 に、 半 江 が、 何 ら
る。その絵画には、文明開化の象徴でもあるガス橙が描かれてい
に旭荘は再び別紙に紙本墨書で跋を
かの中国絵画を念頭に置いていたか
る。魚大の作風は、呉春譲りの四条派風の平明な写生画で、山水
︶
ど う か は 分 か ら な い が、 日 本 と 重 な
人物などさまざまな領域をこなしたようであるが、得意な領域は
︵
る 中 国 の イ メ ー ジ は、 絵 画 に お け る
人物図だといってよい。さまざまな人物素描を集めた魚大の﹃水
]、[図 ]、[図 ]
、
墨人物粉本﹄︵紙本墨画淡彩・表紙・縦二三、八、横一六、
〇、画面・
美術交流の美しい痕跡を留めていて
感動を呼ぶ。
縦二三、四、横三〇、四センチメートル︶
[図
]を検討すると、この粉本集には、狩野探幽の︽獅子舞図︾、
7
あ て は ま る 特 質 だ と い っ て よ い。 た と え ば 、 粉 本 を 縦 横 に 駆 使 し
であるとともに、文人画のみならず、狩野派や四条派においても
大坂の写生派画家の魚大が、江戸の狩野派から京の四条派までを
呉 春 の︽ 月 次 図 ︾、 望 月 玉 川 の︽ 漁 夫 図 ︾ な ど が 含 ま れ て お り、
[図
6
学 ん で お り、 そ の 関 心 の 幅 広 さ を 見 て と る こ と が で き よ う。︽ 漁
も ち ろ ん、 こ こ で 述 べ て き た 人 と
人 と の 交 歓・ 交 流 と い う の は、 日 本 美 術 全 体 に 関 わ る キ ー ワ ー ド
5
2
た 狩 野 常 梅 や 四 条 派 の 西 山 完 瑛 ら が 描 く 爽 や か な 絵 画、 そ し て、
8
図 4 岡田半江《山水図巻(大川納涼図)》
(部分)
らかにする。
ではあるが、これもまた美術交渉というべき複雑な事実関係を明
る で あ ろ う。 魚 大 に つ い て は、 日 本 国 内 に お け る 美 術 交 流 の 一 例
ける日本の絵画界の各派融合の有り様が手に取るように理解でき
馴れた印象を与えている。この粉本帖からは、江戸時代後期にお
現が描かれ、望月玉川に倣ったというその描写は、無駄のない手
夫図︾では、二隻の小舟を操る漁師たちの活き活きとした運動表
をめぐる関係が生じており、かなり複雑な交流がなされたわけで
こでは、特定の個人と個人の交流のみならず、直接・間接の伝播
江 戸 時 代 の 文 人 画 の 典 型 的 な あ り 方 を 示 す も の で あ る。 し か も そ
画 家 や 文 人 た ち と 親 し く 交 流 し た。 こ う し た 画 家 同 士 の 交 友 は、
外の吹田で亡くなった田能村竹田らも大坂にやって来て、京坂の
人仲間の交流を深めた。そしてまた、豊後竹田の出身で、大坂郊
浜田杏堂、船頭の墨江武禅、表具師の松本奉持らが集まって、文
証的に裏づけることができないにしても、まず間違いなく何らか
図 6 魚大『水墨人物粉本』
(探幽「獅子舞図」)
図 7 魚大『水墨人物粉本』
(呉春「月次図」)
ある。直接的な交流、あるいは間接的な交流として事実関係を実
魚大らに見られる師弟関係および私淑の複雑な交流は、美術作
品というものの、幅の広い交流を裏づけるものであるが、江戸後
の影響関係があったとしか考えられない痕跡が浮上してくる場合
五
図 8 魚大『水墨人物粉本』
(望月玉川「漁夫図」)
期の大坂では、伊勢長島藩主の増山雪斎、商人の蒹葭堂、医者の
近世近代の日本絵画における美術交渉
図 5 佐藤魚大『水墨人物粉本』
(人形図)
が あ る。 従 来 の 美 術 史 研 究 は、 こ う し た、 い わ ば 複 雑 な﹁ 反 映 ﹂
とでもいうべき事態については、学問的な正確さがないとして判
断停止を続けてきた。しかし、この問題については、もう少し広
範囲にわたる視野から、対象を半ば大掴みに理解する姿勢が求め
られよう。つまり、ここで留意すべきは、直接、間接の影響関係
で は な く、 曖 昧 で は あ る が、 そ う と し か 考 え ら れ な い 間 接 的 で 複
雑な反映のあり方である。こうしたあり方を、日本内部における
﹁美術交渉﹂と定義しておきたい。
六
への出品において、その名前が見出される。続いて文政六年︵一
幕末の京において、写生派の画家として健筆を揮った田中日華
︵生年不詳 ︱一八四五︶、横山清暉︵一七九二 ︱一八六四︶、柴田是
が明らかで、この︽韃靼人狩猟図屏風︾においても、かつての狩
したと記されており、四条派の流れを汲む幕末の画家であること
八 二 三 ︶ の 呉 春 十 四 回 忌 の 追 薦 書 画 展 観 に︽ 月 下 秋 景 図 ︾ を 出 品
真︵一八〇七 ︱一八九一︶の三人による三点の作品を採り上げて、
野 派 や 雲 谷 派 の そ れ と は 異 な っ て、 幻 想 性 や 異 国 趣 味 は 後 退 し
田 中 日 華 は、 六 曲 一 双 の︽ 韃 靼 人 狩 猟 図 屏 風 ︾
[図 ]を制作
した。韃靼人とは、すなわち蒙古人を指し、その狩猟場面を扱っ
次に、やはり幕末の京で活躍した横山清暉の︽蘭亭曲水・舟遊
図屏風︾
[ 図 ] を 採 り 上 げ る と、 右 隻 に﹁ 蘭 亭 曲 水 図 ﹂ が、 左
が高く、おそらく六〇歳代まで活躍したものと思われる。岡本豊
ら推測して、一七七四年以降、一七九五年以前に生まれた可能性
構成を示している。日華の生年は不明であるが、師弟関係などか
い て、 師 匠 の 四 条 派 画 家、 岡 本 豊 彦 の 作 風 を 引 き 継 ぐ 平 明 な 画 面
たと伝えられる王羲之の逸話を示す鵞鳥が遊んでおり、右手には
物が王羲之であろう。蘭亭の手前には、食通で食用の鵞鳥を飼っ
する。右隻左側には蘭亭が大きく描かれ、その建物の中に座す人
年は幕末期安政三年︵一八五六︶六五歳の作品であることが判明
隻 に﹁ 舟 遊 図 ﹂ が 描 か れ て い る。﹁ 安 政 丙 辰 ﹂ の 墨 書 か ら、 制 作
た作品である。右隻に六人の韃靼人が、左隻には四人の韃靼人が
て、平明な写生的要素が強調されている。
その中国図様について検討してみたい。
二、京の写生派における中国図様の問題
図 9 田中日華《韃靼人狩猟図屏風》
(部分)
彦 の 高 弟 で、 文 化 十 一 年︵ 一 八 一 四 ︶ に 河 村 文 鳳 社 中 主 催 の 展 観
10
9
が描かれている。
ところである。左隻の﹁舟遊図﹂では、広々とした写生的な景観
川の流れのそばで、多くの人物が詩を詠み酒を酌み交わしている
景文の一番弟子であった。
︽蘭亭曲水・舟遊図︾に見られる平明か
し、 弟 子 た ち 五 名 連 記 の 霊 前 誓 文 書 で は、 筆 頭 に 署 名 が 記 さ れ、
じめは呉春に就いて絵画の修行に励んだが、次に松村景文に師事
杯 を 科 せ ら れ た と い う。﹁ 蘭 亭 曲 水 図 ﹂ の 図 様 は、 近 世 絵 画 に 頻
を通り過ぎぬうちに詩をつくらねばならず、出来なかった者は罰
故事をさす。蛇行する川の上流から杯を浮かべて流し、自分の前
すなわち悪を祓う祭りの酒宴を催して、皆で詩をつくったという
に、 文 雅 の 士 四 一 人 と 集 ま っ て、 上 巳︵ 陰 暦 三 月 三 日 ︶ の 修 禊、
ところで、右隻の﹁蘭亭曲水﹂とは、いうまでもなく、中国東
晋 の 永 和 九 年︵ 三 五 三 ︶ に 、 王 羲 之 が 会 稽 山 陰 に あ っ た 名 勝 蘭 亭
淡彩による障壁画がは
に は、 是 真 の 紙 本 墨 画
続いて、柴田是真を採り上げると、山水、花鳥、人物を描いた
妙心寺大雄院方丈五室
写生的空間などは、幕末四条派の本領というべき描写であろう。
遊図﹂の中国趣味あふれる構図や、彼方まで広がる奥行きのある
かれた樹木の群葉は、呉春や景文らを髣髴とさせる。左隻の﹁舟
つ爽やかな写生的風景は、師匠譲りの四条派の作風の典型で、描
繁に採り上げられ、江戸時代の中国趣味の一端を明らかにする。
め ら れ て い る。 そ れ ら
] が 描 か れ た。 こ
11
︶
い る。 下 間 一 之 間 の 是
︵
品であると推定されて
歳から二七歳の初期作
の 障 壁 画 は、 是 真 二 四
[図
面 に よ っ て︽ 郭 子 儀 図 ︾
の 中、 室 中 に は 襖 一 六
清暉の住所は京都六角室町東、新町四条北と記されている。は
近世近代の日本絵画における美術交渉
図10 横山清暉《蘭亭曲水・舟遊図屏風》
(部分)
図11 柴田是真《郭子儀図》(部分)
七
る唐代の武将郭子儀︵六
︽郭子儀図︾は、実在す
真初期の落款は珍しい。
3
子儀は、身の丈六尺を越える偉丈夫で人格者と伝えられ、八人の
中書令という高位に登ることになる。八五歳の長寿を全うした郭
を平定して唐朝の危機を救った。その武勲によって、ついに太尉
乱後も、僕固懐恩が北族兵を指揮して挙兵すると、郭子儀は反乱
回するという功績によって、汾陽王に封ぜられた。また、安史の
の時代に安史の乱︵七五五ー七六三︶を鎮圧し、長安・洛陽を奪
九七 ︱七八一︶とその家族を描いたものである。郭子儀は、粛宗
て蘇東坡などの人物図が日本の絵画に流入して、江戸時代の中国
室町時代以降、中国の西湖の風景や瀟湘八景などの山水図、そし
風俗であり、中国の故事であり、中国の人物伝である。とりわけ
日本の図様であるといってよい。しかし、図様の内容は、中国の
風 の 形 態 描 写 を も 含 め て 考 察 す る と、 も は や、 こ れ ら は 伝 統 的 な
描かれた図様の変化したものではあるにしても、日本的な写生派
承されてきた中国画題の図様が描かれており、かつては中国でも
て制作される場合とは少々異なって、ここでは、日本の内部で継
八
息子と七人の娘、そして七人の婿と数十人の孫をもち、子孫のそ
趣 味、 す な わ ち、 日 本 人 に よ る 中 国 理 解 お よ び 中 国 憧 憬 と な っ
︶
の 理 解 は、 一 般 的 に い っ て、 し っ か り と し た 文 献 に 基 づ い た も の
おそらく是真は、先行する円山応挙らの︽郭子儀図︾を参考に
して筆を採ったに違いない。江戸後期の画家にとっての中国文化
り、 も と も と 中 国 に 源 泉 を お く 図 様 内 容 が、 日 本 の 内 部 で 伝 播、
も形式面においては、日本の図様へと変容したものである。つま
ば、幕末期の図様の多くは、中国の図様というよりも、少なくと
︵
れぞれが栄進したという。
ではなく、流布された絵画の図様を参考にして構想を練った場合
影 響、 交 流 し て い く 中 で 日 本 化 し た と い う こ と に な る。 要 す る
満な老翁として、子供や孫たちに囲まれた郭子儀が描かれた。
ている。とりわけ、江戸時代後期の平安な市民社会では、人格円
世長寿を象徴する画題として、近世絵画においてしばしば描かれ
制 作 さ れ た と い わ れ る︽ 十 六 羅 漢 像 ︾
︵東京国立博物館蔵︶に見
曲する乱反射にも似た伝播、影響、交流の結果である。こうした
そ﹁交渉﹂という言葉で定義しておくしかない、いわば複雑に屈
誕生した日本の中国図様は、次の段階として、日本内部での影
響、交流など、実にさまざまな接触の状況を示していて、これこ
て、日本の絵画の多くが中国の画題を扱うことになる。換言すれ
が 多 い。 そ の た め に 、 し ば し ば 誤 っ た 図 様 が 絵 画 化 さ れ る こ と も
に、日本的な﹁型﹂というものの誕生である。
さ て、 以 上 に 述 べ て き た 日 華、 清 暉、 是 真 ら の 三 点 の 作 品 に
は、
﹁韃靼人狩猟図﹂
、
﹁ 蘭 亭 曲 水・ 舟 遊 図 ﹂
、
﹁郭子儀図﹂の中国
られる羅漢の穏やかな風貌や、美しい形態描写にも見てとること
中国図様の日本化という事態は、中世に遡れば、十一世紀中頃に
画題が扱われている。日本の絵画が、中国絵画の影響を直接受け
山派や四条派を筆頭に、多くの画家たちによって、一家繁栄、出
多 か っ た よ う で あ る。︽ 郭 子 儀 図 ︾ で 採 り 上 げ ら れ た 図 様 は、 円
4
し、中世とは時代の隔たる江戸時代、とりわけ幕末期における中
に、 お っ と り と し た 雰 囲 気 が 漂 っ て い る、 と い っ て よ い。 し か
が で き る が、 そ こ で は、 あ く ま で も 厳 し い 中 国 画 像 と は 対 照 的
な い。 一 応、 伝 狩 野 永 岳 筆 と し て 論 を 進 め る。 こ の 障 壁 画 の 中、
ついては、すでに別稿で論じたことがあるので、ここでは言及し
の手になるものだと推測される。春光院客殿障壁画の作者特定に
も、京狩野家九代の狩野永岳︵一七九〇 ︱一八六七︶周辺の画家
︶
国由来の図様は、中国のものとも日本のものとも区別することの
下間前室には、古来、中国の士大夫の教養として尊ばれ、日本で
12
︵
で き な い 図 様 と い う よ り も、 も は や、
﹁ 型 と な っ た ﹂ 日 本 の﹁ 伝
]
も 室 町 時 代 か ら 頻 繁 に 描 か れ た︽ 琴 棋 書 画 図 ﹂︾[ 図
]、[ 図
統的画像﹂とでもいうしかない図様である。こうした美術交流の
が見られる。
︵ ︶
あり方は、日本内部の﹁美術交渉﹂ではあるが、中国図様の日本
的展開という意味を含めると、やはり、日本と中
九
13
図13 伝狩野永岳《琴棋書画図》(部分)(
「書」)
国に関わる﹁美術交渉﹂と捉えるべきであろう。
図12 伝狩野永岳《琴棋書画図》(部分)(
「琴」)
三、京の狩野派と袁江、袁耀
江 戸 時 代 ま で の 日 本 の 絵 画 が、 中 国 絵 画 の 影 響
を 受 け て 制 作 さ れ た こ と は 自 明 で あ る に し て も、
両者の関係を明確に裏づけることができない場合
が 多 い。 江 戸 時 代 後 期 の 絵 画 史 を 振 り 返 っ て み る
だ け で も、 膨 大 な 絵 画 や 資 料 類 が 消 失 し て い る わ
け で、 も と も と 関 連 が あ っ た 絵 画 同 士 の 関 係 を 実
証的に証明することは困難だからである。こうし
た問題提起を踏まえながら、その一例として、京
の狩野派の作品を論じてみたい。
妙 心 寺 春 光 院 客 殿 に は、 伝 狩 野 永 岳 の 金 碧 障 壁
画 が 遺 存 し て い る。 そ の 作 者 は 不 明 で あ る に し て
近世近代の日本絵画における美術交渉
6
5
書物が置かれた。さらに手前には、布で包んだ小さな手荷持を持
墨戯風の絵画が描かれた衝立が立てられ、手前の机には食器類と
る。 ま た、 室 外 に も 会 話 す る 二 人 の 人 物 が 立 ち、 そ の 後 ろ に は、
の 男、 加 え て、 奏 者 の 後 ろ で 床 に う ず く ま る 童 子 の 姿 が 見 ら れ
まず、西側の襖四面は﹁琴﹂の場面である。そこでは室内で陶
器の椅子に腰をかけて琴を奏でる人物と、その前と横に座る二人
め る 二 人 の 身 分 の 高 い 人 物 が 配 置 さ れ て い る が、 そ の 一 人 は 長 く
差しながら説明する人物がいる。加えて左側には、その様子を眺
には、矢筈で掛幅を支え持つ童子と、その傍で牧谿風の絵画を指
後方には、険しい連山が姿を現わしている。中央に座した男の前
を振り向いている。童子の後には柳の枝が垂れ下がる。その遥か
に巻かれた掛幅を持って、右手にいる三本の掛幅を抱く童子の方
一〇
つ童子が控えている。建物の周辺には、枝振りの良い松樹と岩石
て白い鬚を生やした、かなり高齢の人物である。後方には机が置
団扇が積み込まれた。小舟の上方には柳の枝が垂れ下がり、遠方
続く南側の襖四面は﹁棋﹂の場面で、水面に浮かぶ小舟が見ら
れる。籐で編んだ日除けの屋根を戴く小舟には、飲茶の食器類や
を持って中央へと歩み寄るところであろうか。背後には大きな樹
側の場面には、背中に笠を吊るした童子を引き連れた人物が、杖
方には、なだらかな丘陵と、密集する群葉が見られる。さらに右
牧谿風の猿猴を描いた掛幅を前にして、椅子に座す人物が、左手
などが配置された。
には山岳が聳えている。画面の至る所に金銀の砂子が蒔かれ、典
木が二本立ち、その後方には岩山が姿を現わす。
生活の基本である読書が原義だという。そのため、画面には書籍
さ れ、 金 雲 が 描 か れ て い る。﹁ 書 ﹂ と い う の は、 元 来 は 知 識 人 の
的に配置されている。カーテンを引かれた室内の上部は、霞で暈
には童子が佇立して、周辺には太湖石や生い茂る樹木の葉が印象
さて、北側の襖四面は﹁書﹂の場面で、室内で机に向かう三人
の人物が描かれた。床の碁盤状の幾何学模様が目を引くが、近く
はり江蘇省揚州の画家として袁江の作風を受け継いで、父親譲り
を強調する楼閣を描いたことで知られる。その息子の袁耀は、や
仰ぎ、独特の立体感漲る装飾的な作風によって、幾何学的な形態
︵一七二三 ︱三五︶に宮廷の画院画家を務め、北宋の山水画を範と
の 作 風 の 影 響 で あ る。 袁 江 は、 江 蘇 省 揚 州 の 画 家 で、 雍 正 年 間
これらの襖絵において見逃せないのは、中国清代の画家、たと
えば一八世紀前半に活躍した画院画家の袁江やその息子の袁耀ら
かれ、その上に筆や硯や紙などの画材が置かれている。さらに後
雅で優美な性格が強調される。
が置かれた場面が選択されるのだが、後漢の頃から書籍が書芸の
の山水画や楼閣などの建築描写を得意としたが、文人画の特質を
︵ ︶
意味に転じたと推測されている。
東側の襖六面には﹁画﹂の場面が描かれる。中央の襖二面には、
も採り入れ、花鳥画でも有名である。乾隆年間︵一七三六 ︱九五︶
7
そ れ に 酷 似 す る。 一 例 を 挙 げ る と、 袁 江 の︽ 海 屋 沾 䝱 ︾︵ 中 国 美
]
︵ ︶
に活躍した。金地濃彩画をよくした袁江、またそれに文人画風を
九 成 宮 意 ︾︵ 中 国 美 術 館 蔵 ︶[ 図
術 館 蔵︶[ 図
] や 袁 耀 の︽
加味した袁耀ら清代の画家たちと幕末の画家たちとの関係は、江
などの作品である。そこでは、やはり斜線を強調する幾何学的な
なっている。こうした形態は、京狩野の山楽、山雪、とりわけ山
テ ィ ー フ は、 平 行 線 に さ れ た 斜 線 を 強 調 す る 幾 何 学 的 な 形 態 と
の部分に敷き詰められた模様のある敷瓦︵タイル︶など、形態モ
屋台とでもいうべき建物、室内に置かれた長机や衝立、さらに床
注目すべきは、春光院客殿の︽琴棋書画図︾の中の﹁書﹂や﹁琴﹂
の 場 面 で あ る。 こ こ で は︽ 源 氏 物 語 絵 巻 ︾ 風 に い え ば 、 吹 き 抜 き
のか、と考えたとき、ごく自然に袁江、袁耀の作品が想起される
狩野派の絵画において、この種の形態モティーフが何に由来する
いう言い方しかできない。しかし、江戸時代、とりわけ幕末期の
ティーフが描かれているわけでもなく、あくまで酷似していると
の関係を裏づける資料は残されていない。また、まったく同じモ
図15 袁耀《拟九成宮意》(部分)
一一
関係に言及して、﹁支那人
幕末期日本の絵画の影響
こ の 書 で 湖 南 は、 袁 派 と
を挙げることができるが、
内藤湖南の﹃清朝史通論﹄
に 言 及 し た 論 文 と し て は、
と い う わ け で あ る。 袁 派
する決定的な資料がない
れ て き た。 つ ま り、 実 証
こ う し た 絵 画 に 見 ら れ る 類 似 関 係 は、 従 来 の 影 響 関 係 を 論 じ る
美術史研究からは排除さ
であろう。
が、袁江や袁耀の作品と類似していることは明白であるが、両者
戸 絵 画 史 に お い て 重 要 で は あ る が、 こ れ ま で ほ と ん ど 言 及 さ れ て
15 8
建 物 の モ テ ィ ー フ が 印 象 深 い。 春 光 院 の 伝 永 岳 筆︽ 琴 棋 書 画 図 ︾
拟
こなかった。
14
雪のそれにも近いと考えられるかもしれないが、それよりも、こ
の幾何学的形態モティーフは、先に言及した清代の袁江や袁耀の
近世近代の日本絵画における美術交渉
図14 袁江《海屋沾筹》(部分)
係 が 成 り 立 つ と す れ ば 、 そ の 学 問 の 方 法 は、 大 き な 意 味 を も つ と
一二
は氣品の無いつまらないものとして居りますが、當時は畫院で寫
いわねばならない。
四、萬鐡五郎における西洋と東アジア
實 の も の が 盛 ん に 行 わ れ る と 同 様 に、 民 間 に も 此 等 の 派 が 行 わ れ
る と い ふ 時 代 思 潮 が あ っ た の で あ り ま す。 し か し 是 は 近 年 ま で は
大正時代の洋画界において、最も先鋭に近代的な性格を担った
画家といえば、まず萬鉄五郎︵一八八五 ︱一九二七︶の名前を挙
日 本 に は 知 ら れ な か つ た の で、 徳 川 の 末 年 の 畫 風 と 相 類 似 し て 居
寫生の山水でも、我が文晁などは袁一派よりは上品な畫を畫いた
げ ね ば な ら な い で あ ろ う。 一 九 一 七 年︵ 大 正 六 ︶ に 制 作 さ れ た、
つても、少しも日本畫に影響した痕跡はないのであります。同じ
。
﹂と述べている。湖南の﹁是は近年までは日本に知られなかっ
﹁大正六年﹂の年記をもつ︽筆立てのある静物︾
︵岩手県立博物館蔵︶
︵ ︶
たので、徳川の末年の畫風と相類似して居つても、少しも日本畫
[図
] で は、 斜 め 上 方 か ら 眺 め ら れ た テ ー ブ ル の 上 に は、 奥 の
に影響した痕跡はない﹂という主張は、やはり似てはいるが、そ
な い こ と か ら、﹁ 日 本 畫 に 影 響 し た 痕 跡 は な い ﹂ と い う 主 張 も 成
れを裏づける物証がないということである。逆にいえば、物証が
湯呑とマッチ箱と灰皿、それに七つの小さな猪口を載せたお盆が
入れた筆立が描かれる。テーブルの手前には、黒っぽい布の上に
方に正方形の敷物に載る急須と細長い壷、その右側に三本の筆を
し て も、 こ の 類 似 は た だ 事 で は な い。 た と え 間 接 的 で は あ っ て
も、明らかに両者には何らかの関係があるはずだ、と考える方が
自 然 で あ ろ う。 ひ ょ っ と す る と、 両 者 の 間 に 介 在 す る も う 一 つ 別
の絵画が存在し、その絵画を媒介として伝永岳の作品が生まれた
の か も し れ な い。 要 す る に 、 こ う し た 微 妙 な 関 係 に 言 及 す る の が
﹁ 美 術 交 渉 ﹂ と い う 立 場 で あ る と 言 っ て お き た い。 さ ま ざ ま に は
ね 返 り、 屈 折 し、 複 数 の も の に 突 き 当 た り な が ら 反 映 さ れ る 事 態
を積極的に採り上げていかなければ、ある広範囲の地域、たとえ
ば東アジアというような地域における美術の複雑な関係性は見出
されないであろう。もし、今述べたような﹁美術交渉﹂という関
図16 萬鐡五郎《筆立てのある静物》
り 立 た な い こ と に な る。 し か し、 も し 両 者 に 直 接 の 関 係 が な い と
16
9
ル・クロスだけが灰色に近い深緑色で、他のほとんどは、濃淡さ
描 か れ て い る。 画 面 の 中 央 左 に 置 か れ た グ レ ー の 湯 呑 と テ ー ブ
は、セザンヌの絵画を想起させるといった方が適切であろう。
という意識に貫かれていることから、やはり︽筆立てのある静物︾
ともよく似ているが、空間全体の表現は、現実の空間を把握する
]な
まざまな茶褐色で描かれている。緑色と茶褐色の組合せは、ピカ
ソ の︽ テ ー ブ ル の 上 の パ ン と 果 物 入 れ ︾
︵一九〇八年︶
[図
この︽筆立てのある静物︾は、次に採り上げる︽薬罐と茶道具
のある静物︾
︵岩手県立博物館蔵︶
[図 ]と比較すると、運動表
ると、ファン・レースの静物画を想起させる萬の︽パイプのある
静 か な 静 物 画 で あ る。
︽薬罐と茶道具のある静物︾について萬が
現という点において、かなり異なっており、ともかく動きのない
︶
︵
︶
のような批評文を載せて
美 術 ﹄ 誌 上 に お い て、 次
筆 し た 山 脇 信 徳 が、
﹃中央
た洋画家で美術批評も執
そ れ は、 当 時 活 動 し て い
で あ る と 考 え ら れ て い る。
罐と茶道具のある静物︾
る が、 こ の 静 物 画 は︽ 薬
し﹂ と い う 記 述 が 見 ら れ
︵
︵一九一五年︶
静 物 ︾︵ 一 九 一 四 ︱一 五 年 ︶ や︽ 手 袋 の あ る 静 物 ︾
テ ィ ー フ は、 そ れ ぞ れ の 存 在 感 を 押 し 出 す よ う に 、 他 の
事物とは一定の距離をもつように置かれている。それら
の周囲の空間は、ひとまとまりのものとして描かれてお
図18 萬鐡五郎《薬罐と茶道具のある静物》
書 い た﹁ 私 の 履 歴 書 ﹂ で は、﹁ 七 年 に は 院 展 の 方 へ﹃ 静 物 ﹄ を 出
どの静物画の色彩を想起させる。モティーフの配置を検討してみ
17
と は 異 な っ て、
︽ 筆 立 て の あ る 静 物 ︾ で は、 湯 呑 な ど 個 々 の モ
18
10
一三
年記をもっている。
た も の で、
﹁大正七年﹂の
正七︶に院展に出品され
物 画 は、 一 九 一 八 年︵ 大
い る か ら で あ る。 こ の 静
11
り、 そ れ は ピ カ ソ、 ブ ラ ッ ク ら の 一 九 〇 八 年 頃 の 静 物 画
近世近代の日本絵画における美術交渉
図17 ピカソ《テーブルの上のパンと
果物入れ》
茶碗が皆、摘まんだ様に横にのめっていて、徳利?の口が
飴のように滑かに歪んで畸形な瓢箪形にねじれていたり、又
正面図の薬缶に平面の蓋がのっかって今にも辷り落ち相なの
︶
も 頗 る 真 面 目 な お か し み で あ る。
︵中略︶ここに新しい静物
︵
一四
に 、 真 上 か ら 描 か れ た 朱 色 の と っ く り の よ う な 容 器 に よ っ て、
いっそう強調されている。そのために、お盆やその上の急須や湯
呑が、手前に滑り落ちそうな格好になっている。
つまりこの画面について正確に述べると、画家が、ある一つの
場所から見た情景を描いたものではなく、フランス後期印象派の
示している。テーブルに置かれた湯呑や茶筒などは、山脇の言葉
と は 異 な っ て、﹁ 真 面 目 な お か し み ﹂ を 表 わ す 動 き の あ る 表 現 を
九一七年︵大正六︶までに萬が制作した動きのない堅固な静物画
︽ 薬 罐 と 茶 道 具 の あ る 静 物 ︾ を 観 察 し て み る と、 こ の 作 品 は、 一
独 自 性 を 指 摘 し 絶 賛 し た。 こ う し た 批 評 文 を 手 が か り に し て、
﹁ 真 面 目 な お か し み ﹂ と﹁ 新
山 脇 の 批 評 文 で 印 象 深 い 言 葉 は、
しい静物画の一種﹂という部分であるが、山脇は、この静物画の
ムに没頭して、キュビスム風のさまざまな実験を行った時期にあ
四︶から一七年︵大正六︶にかけては、萬がフランス・キュビス
静 物 画 に 近 い 性 格 を 示 す も の だ と い っ て よ い。 一 九 一 五 年︵ 大 正
九年頃の静物画にも見られるが、それよりもやはり、セザンヌの
を保持する描写法である。こうした空間描写は、ピカソの一九〇
曲、歪曲させながらも、依然として西洋の伝統的な遠近法的空間
いるということになる。要するに、多視点によって空間全体を屈
セザンヌの絵画のように、いわゆる多視点︵いくつかの異なる場
に 従 っ て 説 明 す れ ば、﹁ 今 に も 辷 り 落 ち 相 な ﹂ 運 動 感 を 見 せ て お
たる。この時期、萬はフランスを中心とするヨーロッパの前衛芸
の 面 は、 あ た か も 凸 面 鏡 さ な が ら に 、 手 前 に 迫 り 出 す よ う に 湾 曲
くほど、壺や薬罐を真上から見下ろした格好になって、テーブル
で 描 か れ て い る た め、 画 面 の 下 方 、 つ ま り テ ー ブ ル の 手 前 に 近 づ
い る よ う に も 思 わ れ る。 テ ー ブ ル が 高 い 位 置 か ら 俯 瞰 す る や り 方
うな、濃い灰色の線描によって一層強調されている。こうした運
箪形の壷の上部周辺において、輪郭線に沿って並行に走る影のよ
て﹂いるために生じているのだが、その印象は、薬罐と茶筒と瓢
て い て、
︵中略︶飴のように滑かに歪んで畸形な瓢箪形にねじれ
この︽薬罐と茶道具のある静物︾に見られるユーモラスな運動
感 は、 テ ー ブ ル に 置 か れ た 瓶 な ど が、﹁ 摘 ま ん だ 様 に 横 に の め っ
所から見た情景を一画面にまとめて描くこと︶を用いて描かれて
り、 ま る で、 生 き 物 の よ う に 、 テ ー ブ ル か ら 転 が っ て ゆ き そ う な
術に強い関心を抱き、その影響を直截に受けていた。
した印象を生み出すことになった。こうした印象は、画面の左下
えられた茶系統の色彩には、抑制された生真面目な気分が漂って
雰囲気を醸し出し、まことにユーモラスである。しかし、渋く抑
画の一種が生まれた事をよろこぶ。
12
りがあるかもしれない、という指摘もあるが、事実関係は分から
動表現については、時間の表現を狙ったイタリア未来派との関わ
の風土に岩手の風土が重なって、世界のどこにも存在しない油彩
術 と 日 本 美 術 と の 入 り 混 じ っ た 画 面 構 成 に な っ て い る。 フ ラ ン ス
土 着 性 と の 混 淆 と で も い う べ き 絵 画 で あ る。 つ ま り、 フ ラ ン ス 美
︵ ︶
ない。
ソの作風から離れ、独自の作風へと向かったようである。この画
正七︶に︽薬罐と茶道具のある静物︾を制作し、セザンヌやピカ
萬 は、 一 九 一 五 年︵ 大 正 四 ︶ か ら 一 七 年︵ 大 正 六 ︶ に か け て、
フランス・キュビスムの作風に没頭した。しかし、一九一八年︵大
年にかけて、萬の造形思考が急転回したと考えられるのである。
制作する。要するに、作品を観察する限り、一九一七年から一八
ユーモラスな運動感を際立たせる︽薬罐と茶道具のある静物︾を
ス ム の 様 式 を 用 い な が ら も、 反 面、 そ れ を 否 定 す る か の よ う に、
のある静物︾を制作した翌年、つまり一九一八年に、萬はキュビ
とはいえ、あるていどはキュビスムの様式を咀嚼している︽筆立
にも思われる空間把握に到達した。そして、いまだ不徹底である
スムの様式を採り入れるとともに、セザンヌの影響を受けたよう
や︽手袋のある静物︾
︵一九一五年︶から出発して、徐々にキュビ
図式的に考えれば、萬は、
︽パイプのある静物︾
︵一九一四 ︱五年︶
︽薬罐と茶道具のある静物︾には、江戸の文人画、中国の文人画、
こ ろ に ﹁ 美 術 交 渉 ﹂ 研 究 の 意 義 が あ ろ う。 も し そ う だ と す れ ば 、
を 前 に し て 受 け る こ の 印 象 を 大 事 に し て、 新 し い 解 釈 を 考 え る と
﹁ あ る 程 度 は 納 得 で き そ う ﹂ と い う 以 上 の も の で は な い が、 絵 画
も、いわば﹁墨絵﹂のような印象を与えていることからも、ある
彩が、あたかも日本や中国の水墨画にも似て、油彩画というより
罐と茶道具のある静物︾に見られる渋く抑制された焦げ茶色の色
ジ ア の 文 人 画 が 浮 か ん で い た の か も し れ な い。 そ の こ と は、︽ 薬
本の文人画家のみならず、
﹁東洋畫﹂、つまり中国をも含めた東ア
晁はもちろんのこと、池大雅や浦上玉堂、さらに岡野石圃らの日
したが、江戸の文人画に傾斜していった後年の萬の脳裡には、文
は或る種類の表現主義、其手段としては構成主義である﹂と主張
﹃ 文 晁 ﹄ を 出 版 し た。 そ の 序 文 に﹁ 東 洋 畫 を 按 ず る に、 そ の 内 容
しかも見逃せないのは、後年の一九二六年︵昭和元年︶に萬は、
江 戸 の 文 人 画 家 と し て 谷 文 晁 を 採 り 上 げ、 ア ル ス 美 術 叢 書 の 一 冊
画が誕生したといってよい。
面には、萬の故郷である岩手地方の鉄瓶や陶磁器が、ある種の土
そ れ に フ ラ ン ス 後 期 印 象 派 と キ ュ ビ ス ム、 加 え て 萬 の 故 郷 岩 手 の
一五
程度は納得できそうである。しかし、これについても、あくまで
臭さを伴って描かれている。もちろん、未だセザンヌの作風の残
土着的なイメージが入り混じって層を成していることになる。
近世近代の日本絵画における美術交渉
滓が見られることから、この絵画は、後期印象派の構成と東北の
ここまで考察してきた︽筆立てのある静物︾から︽薬罐と茶道
具のある静物︾への転回は、一体何を意味しているのであろうか。
13
一六
究 が 有 効 に な ろ う。 と り わ け、 美 術 史 研 究 で は、 本 質 的 に い っ
られるわけであるから、ある意味でかなり極端な伝播、交流のみ
う事象のみから、一定の地域の文化的な影響、伝播、交流が論じ
な い と い う 弱 点 を も つ。 つ ま り、 間 違 い な く 影 響 関 係 が あ る と い
いことから、広がりをもつ美術作品の研究が、それ以上に進展し
わ め て 誠 実 で は あ る が、 他 方、 ゆ る や か な 影 響 関 係 を 主 張 で き な
関係について論じることを避けてきた。そのことは、学問的にき
な裏づけが取れない場合には、従来の美術史研究は、そのような
よる裏づけが存在する場合、一定の説得力をもつ。しかし、明確
ある美術作品が、別の作品から影響を受けたという研究は、両
者の形態モティーフや図様が酷似している場合、あるいは文献に
は、 し ば し ば 嘘 を つ く こ と が あ る か ら で も あ る。 研 究 に 際 し て、
の美術史研究者の自己満足だということになる。文字というもの
家の思い込みでしかない場合も多い。厳しくいえば、それは当該
よ る 裏 づ け が あ れ ば 、 研 究 が 客 観 性 を も つ と 考 え る の は、 美 術 史
う美術史学においては、このことは本質的な問題となる。文字に
という考えも成り立つわけである。少なくとも、表象を中心に扱
く、 そ う し た 文 字 資 料 が、 作 品 解 釈 を 決 定 づ け る わ け で も な い、
安 心 感、 あ る い は 反 論 を 封 じ る た め の 弁 明 で し か な い 場 合 も 多
めに有効であると思われがちだが、実際には、それは美術史家の
的に裏づける古文書などの﹁文字資料﹂は、通常、作品理解のた
て、文字による裏づけなるものは邪道とも考えられ、やはり美術
が 浮 き 彫 り に な り、 そ の 影 響 関 係 に 特 化 さ れ る こ と で、 実 際 に
文 字 資 料 に 対 す る 資 料 批 判 と い う こ と が な さ れ る に し て も、 や は
おわりに
あったであろうふくらみのある現実が、いわば典型的な事象のみ
り不明朗さはつきまとう。
れば、たまたま遺存するごく一部の資料から、複雑な全体が説明
り落とした骨だけの美術交流像が描かれることになろう。換言す
真贋の判定においては、究極的には、作品自体を凝視するしかな
釈 を 行 う 学 問 と し て 成 立 し た 経 緯 を 忘 れ て は な ら な い。 と り わ け
近代に成立した美術史学が、文字による客観性という立場に疑
問を抱いて、何よりも形態や色彩という表象を手がかりに作品解
作品自体から解釈がなされる必要がある。美術作品の解釈を実証
に限定されて説明されることになる。要するに、現実に存在する
されることが往々にして起り、その主張では、真に全体を把握す
い場合がほとんどである。近年は、X線の使用をはじめ、科学的
事実関係が、典型化、単純化、そして抽象化され、いわば肉を削
ることができず、美術交流の全体像が、かなり偏った理解に陥り
︽紅白梅図屏風︾
︵MOA美術館蔵︶の科学的調査の結果をみても、
な真贋判定も行われる場合もあるが、かつてなされた尾形光琳の
この弊害を打破するために、上記に述べてきた﹁交渉﹂的な研
やすくなる、ということである。
依然として判定の困難さを払拭することができない状況である。
第二次世界大戦を相前後する時期に流行した画家たちについて
の伝記研究が、多くの美術史家によって胡散臭く思われたのも当
然かもしれない。つまり、伝記研究というものが、如何に詳細に
事実関係を明らかにしているとしても、それが当該の美術作品と
一体どのような関係にあるのか、という懐疑である。極端な言い
方をすれば、文字に頼る美術史研究は、真の美術史研究ではない、
と明確に述べておきたい。美術史学において、最終的に頼りにで
きるものは、形態と色彩によって出来上がった美術作品だけであ
る。 こ う し た 主 張 は、 再 び 古 め か し い 様 式 論 へ の 遡 行 で は な い
か、あるいは極端な議論ではないか、と思われるかもしれないが、
美術作品の解釈においては、やはり正論だといわざるをえない。
美術作品の解釈をめぐって、直接的な影響関係を論じることが
できない、あるいは古文献などの文字資料による裏づけがとれな
い事象について、それでもなお、複数の美術作品間には影響、伝
播、 交 流 が あ っ た の で は な い か、 と 考 え る と こ ろ に﹁ 美 術 交 渉 ﹂
という研究が成り立つように思われる。その意味では、従来の影
響関係の研究の限界が見えてきた今日、さらなる美術史研究の展
開が求められるとすれば、半ばあいまいで、いわゆる﹁客観的な﹂
裏づけがなくとも、作品間の類似を見据えて、大局を押さえなが
ら、 大 胆 に 交 渉 の 問 題 を 扱 う 美 術 史 研 究 が 望 ま れ る に ち が い な
い。 そ う し た 研 究 の 拡 大 は、 一 国 主 義 の 日 本 美 術 史 研 究 の 狭 隘 な
近世近代の日本絵画における美術交渉
性 格 を 打 破 す る こ と に も 繋 が る で あ ろ う。 萬 鐡 五 郎 の 東 洋 回 帰
や、伝狩野永岳による春光院障壁画︽琴棋書画図︾と袁江、袁耀
との関係は、そうした可能性を示す一事例となるはずである。
註
︵ ︶ 拙稿﹁大坂の絵画・蒹葭堂とその周辺﹂、﹃日本思想史学﹄第三四号、
日本思想史学会、平成一四年︵二〇〇二︶九月、七 ︱一五頁。拙著﹃大
︵ ︶ 同書、﹃大坂画壇はなぜ忘れられたのか﹄、二八四頁。
︵ ︶ 郷家忠臣﹃幕末・開化期の漆工・絵画、柴田是真名品集﹄、学習研
究社、昭和五六年︵一九八一︶、二一一頁。
へ ︱ ﹄、醍醐書房、平成二二年︵二〇一〇︶、二四九頁 ︱二六〇頁。
坂画壇はなぜ忘れられたのか ︱ 岡倉天心から東アジア美術史の構想
1
2
︵ ︶ 池内宏他監修﹃東洋歴史大辞典﹄上巻、平凡社、昭和一三年︵一九
三八︶、四六九頁。谷川道雄﹁郭子儀﹂、﹃平凡社大百科事典﹄第三巻、
3
︵ ︶ 前掲書、﹃大坂画壇はなぜ忘れられたのか﹄、一一八 ︱一二〇頁。
︵ ︶ 拙稿﹁狩野永岳の客殿障壁画﹂、﹃関西大学博物館紀要﹄第三号、関
西大学博物館、平成九年︵一九九七︶、九九 ︱一一〇頁。
平凡社、昭和五九年︵一九八四︶所収、一一九頁。
4
5
︵ ︶ 青木正児﹃琴棊書画﹄︵東洋文庫︶、平凡社、平成二年︵一九九〇︶、
二三 ︱二四頁。
6
︵ ︶ 張万夫、勇建平編﹃袁江袁耀画集﹄、天津人民美術出版社、一九九
六年、図版三二、図版一〇五。
7
︵ ︶ 内藤湖南﹁清朝史通論﹂、﹃内藤湖南全集﹄第八巻、筑摩書房、昭和
四四年︵一九六九︶、四三九頁。
8
︵ ︶ 萬鐡五郎﹁私の履歴書﹂、﹃中央美術﹄、大正一四年︵一九二五︶一
一月号。萬鐡五郎﹃鉄人画論﹄︵増補改訂︶、中央公論美術出版、昭和
9
一七
︵ ︶ 陰里鉄郎﹁萬鐡五郎︵三︶︱ 生涯と芸術 ︱ ﹂
、﹃美術研究﹄二六二号、
六〇年︵一九八五︶、一五頁。
10
11
昭和四四年︵一九六九︶、二一六頁。
︵ ︶ 山脇信徳﹁二科会の出品作品﹂、﹃中央美術﹄、大正一六年︵一九一七︶
一〇月号。
︵ ︶ 前掲書、﹃大坂画壇はなぜ忘れられたのか﹄、四〇〇頁。
12
の成果の一部である。
︶
資料のアーカイヴズ構築と活用の研究拠点形成﹂
︵代表・松浦章︶
︵ 本 研 究 は 私 立 大 学 戦 略 的 研 究 基 盤 形 成 支 援 事 業﹁ 東 ア ジ ア 文 化
13
一八
Modern and contemporary Japanese painters
influenced by the inflow of foreign culture
近世近代の日本絵画における美術交渉
NAKATANI Nobuo
In the history of Japanese painting from the Edo Period to Modern Age, the
style of painting underwent considerable change and development due to the
exposure of other cultures, with an evolutionary transition from one culture (China)
to another (Western countries). Tracing the Japanese history of painting during the
later Edo period and onward, an overall change to “Modernization” progressed
slowly on the whole, but individual paintings, however, influenced by the inflow of
the Western aesthetics showed rapid changes. In fact, the changes in the expression
and motifs running through individual works are not quite as simple as we think.
Intermittent, back-and-forth movements were found in the works created under the
influence of other Western and Asian countries such as France and China. Japanese
painters, who were conscious of their indigenous culture, sought for a unique
painting technique based on their own regional traditions.
In this article, the author introduces Japanese painters who were active in the
modern and contemporary age and who addressed their specific and individual
problems in their works. In addition, the underlying events effecting developments
in the history of art such as “propagation”, “influence”, and “cross-cultural
exposure” are discussed in terms of “contact and assimilation with other cultures in
art”. The Japanese painters discussed in this article are AISEKI, SATO Gyodai,
KANO Eigaku, and YOROAZU Tetsugoro, and their acculturated works are
presented for discussion.
一九
Fly UP