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陶淵明「詠三良」詩について

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陶淵明「詠三良」詩について
陶淵明「詠三良」詩について
忠と濟民
『陶淵明集』卷四に、「詠三良」と題する詩がある。春秋時
代、秦穆公に從死した三人の良臣(三良)に取材したもので、
殉死=忠義 という、やや政治 なモチーフをもつだけに、
な作品の一つと言ってよい。だが、これまでの
作 の思想ないし、その複雜な政治態度を理解するうえで、
きわめて重
史
位置づけについては、必ずしも
究史においては、創作の動機を穿鑿することに重きが置か
(1)
れ、作品の志向とその
十分な目配りがなされてこなかったように思われる。
舊
一
井
上
の文字の
一
同のうち重
つるを懼る
え
之
ならんことを
を盡くし
功の愈ゝ
なものは
まず詩の 文を以下に示しておこう。テキストは、汲古閣
本を底本とし、 本
す
おそ
津に乘ず
但だ時の我を
る
謬って露はるるを
あやま
ひて
常に
忠
めに
したが
冠を彈きて
はじ
によって言 する。
彈冠乘 津
功愈
盡
但懼時我
常
露
謬
遂に君の 私 む
と爲る
遂爲君 私
かざ
小稿では本作品の意味解釋を改めて檢討するとともに、
について考えて
底本 、
忠一作中。
出でては則ち文れる輿に陪し
いつくし
出則陪文輿
「殉死の是非」をめぐる中世士大夫の忠義
みたい。
7 6 5 4 3 2 1
17
とばり
れ
く
められ、
(6)
げようと
は、きわめて
體
めに
んだ かくし
命に背くわ
れがたく、臣下
。
でとくに
和感を與え
義』 に見えるものの、いずれも三
(7)
(
)
詠三
されている
、曹植 の
( )
詩を見ても、穆公の死後を中心に作品が
ことから 斷して、東晉時代に三良の傳記が行われていたと
良
また、本詩の先行作品である、王粲 、阮
(8)
人の姓名以外、傳記に關する 報は傳えていないからである。
(8)
『左傳』、『史記』、『風俗
(5)
(後 )をはじめ、
從死事件については、
『詩經』秦風「 鳥」
るものではないが、おそらく史實ではないであろう。三良の
この一 の敍
けにもゆかず、從死したいと自ら願った
として「死後も哀しみをともにしよう」という
(4)
君のお氣に入りとなって「厚恩」
ことを れ、さらに功績を
入りては必ず丹き帷に侍す
あか
入必侍丹帷
て「忠 」が
さき
嚮に已に從はれ
しん き
固より
ところ
君穆公が薨ると、その恩義を
箴規
か
ここ
厚恩
な
ふべけん
(2)
た め ら
安んぞ
いづく
たが
願はくは言に此の歸を同じくせん
の後
箴規嚮已從
長
を受けた
一
初めより虧くる無し
後
計議
長
もと
計議初無虧
一
君命
ねが
穴に臨みて惟疑ふこと罔く
陶詩析義、張
願言同自烈
本作從。此歸
、一作心。
厚恩固底本
李公煥 本作因。
、
君底本
一作 。命安可
底本 、
臨穴罔惟一作遲。
疑
こ
を籠め
(3)
はなは
正 だ悲し
↓
"
義に投ずるは志の希ふ攸
高
けいきよく
荊棘
あがな
聲
鳥
良人は贖ふべからず
!
投義志攸希
荊棘籠高
鳥聲正悲
句)は、史實に據らない作
素の一つで
淵明の創作であ
は考えにくい。したがって、仕官から穆公の死に至る敍
(第1句~第
作品にはない、本詩の新しい
死という理不盡な行爲に身を投じた三良の心の 理 を、讀
な
問題は、第二段 四句である。場面は一轉して語り手の現
の經
すじみち
あることは疑いない。そして、この創作があるからこそ、殉
り、これが先行
'
良人不可贖
うるほ
然として我が衣を沾す
げんぜん
句
$
%
然沾我衣
この詩は、大きく二つの段 に分けられる。第一段
が無理なく理解できるのだと言ってよいだろう。
出仕して「重
)穴に臨む」までが、時
されている。すなわち
'
は、「詠史」の「史」實を べる部分。三良が「冠を彈いて」
って敍
津)」を占めるようになっても時勢に取り殘される
陶淵明「詠三良」詩について(井上)
↓
出仕の準備をしてから、
「(
を
地位(
10
&
16
#
(
16 15 14 13 12 11 10 9 8
20 19 18 17
18
中國詩文論叢
い ば ら
る
第二十五集
在へと移る。荊棘の生い
、悲しげな聲で鳴く
鳥、
。ここには、「義に身を投じること」=殉死を賞
そして「善良な人を救うことができない」と を流す語り手
(作 )
するかのように、三良の死を哀し
な心
がある。もしかりにこの一段がなかったなら
と衝
む否定 な心
贊する肯定
だろう。
忠君守義
を顯彰する、とともに、作
淵明の忠君
まず現行 釋書 のなかでもっとも多數を占めるのは、A=
三良の
(忠晉)思想を反映する、という解釋である。
操、竝自傷不能從晉恭
而死也。
』〔山東大學出版
、一九九九年〕)
淵明此詩、亦是詠三良從穆公而死、歌頌其忠君守義之高
となっていたであろう。それだけに、最 四句における論理
(渭卿『陶淵明詩
にある種の
和感を與えるわけで
の屈折ないし斷 は、讀
この解釋は、第一段 を「三良の忠義を稱えるもの」と見
(
、
が三良の身代わりと
句「良人不可贖」の「贖」字を「身
しかにこうすれば、詩の
に
假
明さ
であ
提となるのは、本詩を
史事實に對する
價を客
の陶 は、その「事件」をさらに明確に
に
べ
況のもと
べている。
淵明が、現實のある事件・
べた作と見なすのである。
るものではなく、作
る。つまり、本詩は、
「詠懷詩」であって、「詠史詩」ではないとする
れるだろう。ただし、この論理の
段と後段の屈折も合理
して(晉) に從死できない」ことを悲しむ詩だとする。た
代わりになる」(贖代)と解して「作
たうえで、第二段
19 )
ある。では、 段と後段との關係をどのように解釋すればよ
しておきたい。
に本詩の趣意に關する先
いのか。そもそも作 は、三良の生き方に對して、どのよう
を確
' &
ば、本詩は「忠義の さ」をテーマとした分かりやすい作品
で自己の感 を
な 價を下しているのだろうか。
行
性ゆえに宋
樣々なコメン
二
よく知られるように、本詩は、その題材の特
目を集めてきており、この
代以來、 家の
トが加えられてきた。しかし、それらのコメントの大 は、
別できる
である。
斷章取義 に文中の數句を引用して立論を行っており、作品
)
"
, $
#
+
+
代以
(
げれば、以下の三つに
%
%
%
%
# !
してその趣意の究明を試みるのは
を
! )
+
&
-
/
體を
このうち だった
.
"
*
$
19
毒、而自飮
。 ・・・淵明云、
之不
、「荊軻」寓報讎之志、皆是
」、「投義志攸希」。此悼張
古人詠史 、 皆是詠懷 、 未有泛作史論
「厚恩固
之
(『
先生集』卷四)
家紛紛論三良之當死不當死、去詩意何
先死也。況「二疎」明
治
が示されている。それ
劉宋の永初二年(四二一)秋、宋 劉裕は、靈
鑑』卷一一九にも事件の
張 については『晉書』卷八十九「忠義傳」に傳があり、
い
啻千里。
詠懷、無關論古。而
『
によれば
今日この を支持する論
は少なくない。
のように
った秦穆公を批
鷺山氏は
第二は、B=三良に從死を
鳥」詩
う解釋である。 人、
「
歌贊三良從死
殉
する、とい
べる、
慘無人
、竝不是
、一九八五年〕
「詠三良」、意思也正如此。
是暴露秦穆公
忠。陶淵明
非本旨。
鷺山『讀陶叢札』
〔浙江文 出版
鳥」詩とは、『詩經』秦風「
(
家們謂詩人借三良以隱射張 、
「
「關於三詠」)
鳥」。本詩制作の基礎史
鳥」の原意
料となるもので、その小序には「 鳥、哀三良也。國人刺穆
は別として、 史
には穆公批
公以人從死、而作是詩也」とある。つまり、「
した。
の詩として受容されてきた
體を
三良を悼んでいる(第二段
げるならば、作品
があまりにも隱 すぎることであろう。
ただ問題點を
であれ
であれ、自發
'
して穆公への批
)と見るのも、あ
制
わけである。とすれば、その詩を踏まえる本詩が、穆公批
斌『陶淵
にとっては、三良の「殉死」と
張する陶
に共
滿先『陶淵明集淺
、二〇〇一年)など、
, %
氏は、第5・6
! 」との
楊 『陶淵明集校箋』、
明傳論』(第二章、 東師範大學出版
』、
を繼承し、殉死せざるをえなかった
を
るくらいなら、死んだほうがましだ」と自ら毒酒を飮んで自
ちん
'
點があるように感じられたので
す
#
$
びず、「生き殘るために君を酖
"
$ $
/
-
淵明忠臣
張 の「自
'
.
0
陶淵明「詠三良」詩について(井上)
'
+
は實行するに
*
' !
%
&
'
(
)
しかし
陵王(晉恭 )の側 、張 に命じて王に毒酒を めさせた。
あろうが、この事件が創作の 機となっているのかどうか、
!
ながち見當 いとは言えないであろう。
實際のところ確證に乏しい。しかしながら、王瑤『陶淵明集』
、
$
$
20
句「忠
辭
にほか
の寵愛を受けた
私」を取り上げ、賢君は私昵の臣
第二十五集
露、遂爲君
中國詩文論叢
謬
を持たないはずなのに、 いま三良が君
(「遂爲君 私」)、とあるのは、穆公に對する
されているわけであるから、ここで淵明がわざわざ
るものに、袁行霈『陶淵明集箋
』、李長
袁氏の は、さきの二
が君に
と
謬
露」について、
なって立論に根據のあるとこ
をも否定
( )
釋書
にとらえ、第二段
しても明らかである。とすれば、作
行の
められたこと」を語り手(淵明)が「謬」と
ろが新しい。すなわち、第5句「忠
「忠
陶詩の他の用例を
三良の殉死どころか、忠
だと
は
に
してよい。
が竝び行われていることが改めて確
ともにそ
今日相反する三つの
れを肯定・顯彰するものと讀むが、C
に批 すると
、B
見る。一方、「殉死の意義」については、A
では
爲三
では無價値なものと
私」。
穩當なのであろうか。
だけが價値
價している、
と見なすわけである。ではこの三 のうち、どれがもっとも
なものとし、B 、C
爲君
」については、A
されよう。「三良の忠
さてこのように見てくると、本詩の趣意の解釋をめぐって、
目に値する假
師とする立場であり、本詩の解釋史においても、また淵明
ある。この
、建功名。
言三良受重恩於
の思想 究においても、
、盡殷
『陶淵明傳論』
(棠棣出版 、一九五三年)がある。
之(張 )
此詩首言人皆求仕
、君命
.
。淵明
以身殉之。言外之意、反不如不乘
秦穆公、君臣相合、求仕 至此蓋無憾矣。而厚恩
、
露、
投身羅
謬
/
何 。一旦君王長
、明哲以保身也。「忠
私、無
功
一「謬」字最可深味。爲君
書局、二〇〇三年〕)
憾也。
を
と悲しんでいることになるだろう。これは三良を人生の反面
はないはずである。
おいて「善良なる三良を救うことができなかった」
(
「不可贖」
)
・ 辭・を用いる必
*(
+
に批
が言うような「 讓の辭」ではなく、 謬の意であることは、
)
見なしている點である。たしかに、「謬」は
(
)
&
, %
+
津、不
良之死而傷感、又爲其忠 謬露而
(袁行霈『陶淵明集箋 』〔中
" / 0
! $
#
-
最後、第三の解釋は、C=三良の忠義・忠 が身の破滅を
'
を殉死させた穆
ならないと指摘する。が、一七七人もの人
公は、すでに『詩經』のみならず、
『左傳』『史記』にも痛烈
%
もたらしたとして、明哲保身を唱 する詩、と見なすもので
21
結論を先取りして言えば、C
が詩の原意にもっとも
い
ように思われる。ただし、それは、「忠=殉死」を非(反價
にこの點に關し
する詩」と見るC
露」、とくに「謬」字の存在
を批
値 )とするという意味においてである。
て私見を べておきたい。
三
謬
にふれたとおり、「三良の忠
の根據は、第5句「忠
である。だが、これ以外にもこの を支持する理由が二點あ
る。
一つめは、第 句「荊棘籠高
』卷一三が「『荊棘』二語、
」という敍景句である。
の陳祚明『采菽堂古
。
景だと言っ
之後、宗廟必不血
された
人句法」と指摘するよう
。千秋萬
北芒
四五有り
何ぞ壘壘たる
・桓譚『桓子新論』琴
北芒何壘壘
高陵
(後
高陵有四五
・・・・・
蒙朧荊棘生
蹊逕に童豎
蒙朧として荊棘生じ
第十六)
まば
いかに榮
況
として機能する。張載
とりわけ文學作品においては
廢した
十八首」其七)
(西晉・張載「七哀詩」其一)
登る
蹊逕登童豎
・・・・・
し
松柏の園に
げて四
但だ見る
頭を
荊棘
頭四
但見松柏園
鬱として蹲蹲たるを
荊棘鬱蹲蹲
(宋・鮑照「擬行路
を表すばかりでなく、
このように「荊棘の生じた陵 」は、たんに
"
に「荊棘」が生ずる、というのは、
詩
更
代以來常用され、ほとんど記號
に、
てよい。
、
!
「人の世の激しい移り變わり」の象
天 不常
高臺 以傾、曲池又已
生荊棘、狐兔穴其中。游兒牧
「七哀詩」は、その典型と言えるであろう。生
。
!
豎、躑躅其足而歌其上。行人見之悽愴曰、孟嘗君之 貴、亦
是乎。
$
%
を誇った王侯貴族であろうと、またいかに忠義を盡くした忠
'
陶淵明「詠三良」詩について(井上)
#
&
17
22
中國詩文論叢
第二十五集
臣であろうと、その行爲が普
な價値をもたない限り、時
を補
するもう一つのポイントは、「詠二疏」詩との
よいかもしれない。
C
關係である。本詩が同卷に收 される「詠二疏」、「詠荊軻」
句「但懼時我
の
で
(二疏)を
容から見て、この三
の疏廣・疏受の叔
作であることはほぼ疑いないであろう。
てよい。たしかに排列の 況や作品の
篇が
その「詠二疏」詩は、
詠ずるもので、本詩の直 に排列される作品である。そして
後二つの段
先に別稿において詳論したように、その詩の趣意は、二疏の
用されているのであ
理は、すべ
( )
點からの
される。すなわち、第一段
察すると、
頭に置かれていることは、留意されてよ
の點から
の句が第2段 の
いだろう。
本詩を
は第
點が
四句は語り手の現在か
」が示すように、一人稱
點が切り替わっていることが確
知
と
誰か云ふ
め、そこに人が
其の人
な
」を見出しているわけ
かなり
し、と。
むべき「
早期 職によって自らの人生を樂しむことに作
意義を
誰云其人
である。
る第二段
彌ゝ
は積極
(散財)を顯彰することにある。すなわち、
「 讓」と「揮金」
(
かつ 體
な
價は、むろん三良の行動原理と相
久しくして
な價値
敍 となっており、一方、第二段
らの敍 であって、三人稱
における抒
點からのものであって、必ずしも語り手
る。これは するに、第一段
點を
斷を示すものではない、ということを示唆
價を示すのは、三人稱
久而
こうした積極
彌
」の句が
しい」もの
頭に「荊棘籠高
あることは、作 淵明が三良の忠義=殉死を「
として けたことを意味するように思われる。從來この敍景
( )
されてきたが、本
容れるものではない。なぜなら、二疏は自律
たちにほとんどまったく無
*
+
,
の價値
%
"
」に含意されてい
擇するのに對して、三良の生き方はむしろ他律
-
である。そうであれば、その
&
)
*
句は、
釋
'
$
#
て三良の立場・
!
, +
)の價値
生き方を
*
(作
する。作
詩の解釋にとって、意外に重 な意義を擔っていると言って
!
しさ」が「荊棘籠高
そうした「人爲の
の經 とともに 會からは れ去られてしまうものである。
と同時期の 作であることは、先行 論の一 した見解と言っ
ると考えるのは、けっして無理ではあるまい。そしてまたこ
2
.
23
ないし從屬
だからである。もしこの二作品が同時期の
作
臨其穴
おそ
其の穴に臨まば
彼の
惴惴として其れ慄る
惴惴其慄
我が良人を殲せり
ずいずい
彼
如し贖ふべくんば
は相互に矛盾する價値を等
だとする假 が正しければ、作
殲我良人
人
其の身を百にせん
人百其身
句「如可贖兮」が、「詠三良」詩の「良人不
つく
たる天は
しく肯定していることになり、論理 に破綻をきたさざるを
如可贖兮
み、ついに殉
天
えないであろう。それ故、
「三良の忠義=殉死」を贊美した、
ち
とするA は、この點からも反駁されるわけである。
こうして考えてくると、「自ら深みに
この詩の第
釋
たちは、典故であることを
可贖」の典故となっていることはだれの目にも明らかである。
だが、C を含む、大方の
の多くが指摘するように、この句は
としての解釋を行っている。言うまでもなく、
容を取り
鳥」
んでテクスト
性をもたらすための修辭技法である。では、「
鳥」詩は、多數の人を殉死せしめた秦穆公の殘
容とは何か。
「小序」
して
三人の良臣を失った民の
容自體に
を風刺したものと解されている。それは
一般に「
詩の思想
に重
い。それは先行作品の文 ・思想
典故とはたんに古典作品の語句や故事を借用することではな
て、 白
めつつも、「善良なる人の命を救うことができない」とし
釋書
問題がある。それは、第 句「良人不可贖」の解釋である。
には一つ
死に至った三良の事跡を批 する」というC の 當性がいっ
鳥」の詩句を典故とする。その第一章を以
鳥
三章、章十二句)。
交交たる
そうよく理解されるであろう。だがしかし、この
つとに現行
鳥
鳥
誰か穆公に從ふ
棘に止まる
きよく
げよう(
『詩經』秦風「
下に
交交
止于棘
非
人數の多寡でなく
誰從穆公
えんそく
において見たとおりである。しかし、詩の
言えば、
子車の奄息
こ
維れ此の奄息
百夫の特
子車奄息
維此奄息
百夫之特
11
陶淵明「詠三良」詩について(井上)
19
24
中國詩文論叢
第二十五集
悲しみ を詠うものである。なぜなら、三良は「百夫の特」
(鄭箋に、「百夫之中最雄俊也」とある)であり、他人では代
替がきかないからにほかならない。『左傳』文公六年にはこ
の點が明確に示されている
君子曰、秦穆公之不爲盟 也、宜哉。死而棄民。先王 世、
、邦國殄瘁。」
そうして見ると、「
(『焦氏易林』卷十三、革之小畜)
解釋を踏まえていると考え
鳥」を典故とする、本詩「良人不可
贖」の句が『左傳』以來の傳統
(
)
るのはごく自然であろう。つまり、「良人不可贖」とは、國
然として我が衣を沾す」わ
を輔佐する優秀な人材は他人では代用できない、との意味で
あり、それゆえに作 淵明は「
のように三良の立場に立って同
するもの
けである。もちろん、この「悲しみ」は民の立場に立ったも
のであって、
民を濟う
身
く
職に
。おそらく本詩の思想
は、本詩を「明哲保身」を唱うものと見て、「
身 すれば名も亦た盡きん
されていることは留意してよい。たとえば、
名亦盡
わめて重
が、淵明自身の思想のなかで「立善」(努力すること)がき
就かず、功績を げない方がよい」ことを示唆する詩と
C
ポイントはここにあるだろう。
を擇ばなかったのか
な批 となっているのである。なぜ從死を思いとどまって
佐役でありながら、民を棄て君に從死した三良に對する
接
ではない。そしてさらに論を めて言えば、代替不可能な輔
詒之法、而況奪善人乎。『詩』曰、「人之云
も、むしろ民から「善人」を奪い取ったことにあると考えら
にかかる
鳥」解釋は、
の撰
れていた。この場合、「善人」とは、國政を輔佐する賢臣を
の焦
指す。そして、こうした價値 に基づく「
代にも確實に受け繼がれており、後
『焦氏易林』にも のようにある
けん こ
子車の鍼虎
善人は危殆
子車鍼虎、
善人危殆。
無きを傷む
鳥は悲鳴し
國に輔
無善人之謂。 之何奪之。
鳥悲鳴、
傷國無輔。
このように古來、穆公の 失は、人を從死せしめた點より
25
念之五
熱
立善有 愛
胡爲不自竭
熱す
一國の輔佐として民生の安定という責務を擔っているがゆえ
いう素朴な 擇しかないからである。しかし、三良の場合は、
之を念へば五
愛有り
んだこと
して「忠義=殉死」を
に檢
問に對して淵明の
るべきか、それとも士大夫として
るべきか。この
位置づけであろう。
)
人牲人殉』によれ
(
は、洋の東西を問わず、世界各地に存在した共
會現象である。 展岳『中國古代
殉死の風
討すべきは、本詩の思想史
ここまでの考證にもし大きな りがないとすれば、
四
出した答えが、本詩なのである。
「立善=經世濟民」を
られることになる。臣下と
善を立つれば
めに
擇を
に、より複雜かつ高度な
つ
三首・影答形」)
胡爲れぞ自ら竭くさざる
な ん す
(「形影
とあるように、淵明自身は、自ら力を盡くすことで 會に
恩惠を殘すことができる、それが有限の人生の しさを一時
げないこと」を提唱する
してくれる、と考えているわけである。こうした
をいだく淵明が、「功績を
點は、かれらが
にせよ
價値
の
とは、無理ではないとしても考えにくいであろう。そうであ
れば、淵明の三良批
の
ば、中國最古の人殉は、 三三〇〇年
後にまで遡るとされ
るが、殷 時代に んとなり、それが の民族に受け繼がれ、
んな地
の事例が記 されている。
な流行が收束に向かう時期にあ
を辿っていった。三良の從死事件
しかし、春秋時代中期以後は、しだいに
國
會の批 を受け
であったらしく、『左傳』には數多く
そもそも淵明にとって、三良が「詠史詩」の興味深い題材
が正
がこれで
!
六二一)は折しも
$ !
るようになり、衰 の一
(
が存在する。もしC
しいとするなら、妻妾や奴僕(實際、殉死 の大
ある)を題材にしたとしても、さしたる支障はなかったであ
ろう。なぜなら、ここには殉死か、それとも自己保 か、と
陶淵明「詠三良」詩について(井上)
&
中國には數多くの從死 ・殉死
東 に入っても依然廣範圍に行われていた。そのなかでも齊
てたこ
を自ら
となりえたのは、かれらが「良人」(秦國の雄俊な輔佐)で
とにある、と考えられるのである。
#
%
"
魯はとくに
あるからにほかならない。『左傳』が傳えるように、古來、
" で自ら死を招いたことでなく、「立善」の
26
中國詩文論叢
第二十五集
に反對した。「生
を
して死
する
を
に生
の品を使うこ
張す
させるように見える「俑」の使用さえ、
批
にはいくつかの理由・背景が考え
げられよう。「孝」
な理念だと言ってよ
關係にすぎない「忠」(君臣關係)を重んじ
るか、とい
て殉死を受け入れれば、子は親に事えることができず、「孝」
い。一種の
は儒家思想の根幹をなす、もっとも重
られるが、その一つに「孝」との對立が
儒家のこうした殉
「不仁」として却下しているのである。
る。しかも人を殉
價し、もしそれがなかったら、副
を
の大きさは當時
たり、それだけに殉
とになって、人を殉 させるのと同じではないか、と
一七七人という規
の 會を震撼させるに十分なものであったと言える。秦はこ
人」もの宮女、工
三八四)に從死を禁ずるものの、依然と
)
陵であることは言を俟たな
えることなく、そのピークが「
の後、獻公元年(
して
匠を殉 したと傳えられる始皇
い。
(
さて春秋戰國時代における殉 論の沿革をここで詳
家は首尾一貫して殉
)」(『荀子』「禮論」第
えていよいよ衰
俗は、儒
いなく「孝」を擇ぶであろ
の實現が脅かされる。「忠」を るか、「孝」を
死、謂之
代を
し(一部の地域、
い反發にあった殉
擇において、儒家は
する
び妻妾・奴僕の
している。「
鳥」の「交交
く、自發 な從死においても同樣で、後
制
な殉死ばかりでな
では殘存するものの)、その實行を聲高に
明之也。
が國
このように儒家からの
う。
るのは
、
唱えることは しくなった。それは
矣。備物而不可用也。哀哉、死
であったようである。
う二
も殉 には否定
、知喪
也、不殆於用殉乎哉。其曰明
孔子謂、爲明
之
生而
#
の鄭玄は三良の從
鳥、止于棘」句
+
善。謂爲
死を暗に批
に對する『箋』には、
& 而用生
"
+
也。孔子謂爲芻靈
品)」の考案
(『禮記』檀弓下)
した埋
'
である(
十九)と 彈する『荀子』はその最たるものであるが、孔子
ことはさし控えるが、 目に値するのは儒家思想である。儒
(
"
&
*
) $
$
%
が用いた品を
塗車芻靈、自古有之、明 之
(死
! 俑 不仁、不殆於用人哉。
孔子は、
「明
27
鳥止于棘、以求安己也。此棘
不安、則移。興
、喩臣
のようにパラフレイズする。
想の基盤が儒家思想にあるとすれば、三良を批
するのはご
く自然だからである。むしろ三良の行爲を肯定することの方
末魏
に、思想 な矛盾や抵抗感が生まれやすくなるであろう。
ところが、三良を贊美する時代が到來する。それが
忠臣
人生
に就く
はず
各ゝ志有り
られず
(阮
「詠史詩」)
誰か謂はん、此處るべし、と。
ここ
に隨ひて死
命
就死
忠臣不
隨
・・・・・
誰謂此可處
命に
色濃く反映していて興味深い。たとえば、
初の頃である。建安詩人たちの作品には、その時代の空氣が
之事君亦然。今穆公使臣從死、刺其不得 鳥止于棘之本意。
とあり、
『正義』はこれを
不行則移去。言臣有去留之 、
鄭以爲、交交然之 鳥、止於棘木以求安。棘 不安則移去。
以興臣仕於君、以求行 、
を求めて止まり木を
不得生死從君。今穆公以臣從死、失仕於君之本意。
鄭玄の考えによれば、 鳥が身の安
移るように、臣下もまた「安己」(生活の保障)を求めて徙
恩義
行使しなかった三良にもまた當然非があることになろう。こ
るべからず
恩義不可
結髮より明君に事へ
利を
結髮事明君
動の自由があるという 識があり、そうであればその
の見解がたんなる「 鳥」詩の意味解釋なのか、鄭玄自身の
人生各有志
恩を受くること良に
に此が爲に移らず
不爲此移
・・・・・
はか
受恩良不
の言うように、淵明の思
まこと
思想なのか、さらに檢討を するが、いずれにせよ、儒家の
經典たる『詩經』を鄭玄がそう解釋していることの意味は重
い。
くに當たらない。
利と移
こうして見ると、淵明「詠三良」が三良の殉死・從死を批
するのも
陶淵明「詠三良」詩について(井上)
るべきだ、とされる。ここには臣下にも生命保 の
28
身を埋むるの劇しきを
い
第二十五集
同じく知る
中國詩文論叢
同知埋身劇
從關係が 立しつつあった。臣下から君
へという、一
が恩を與える代わりに臣は
・雙務
な「忠」から、君
方
・ 務
心も亦た施す
義を以て應える、という相互
有り
心亦有
生きては百夫の雄と爲り
である。かれらの詩に「恩」「恩義」と見えるのは、この點
僚たちはある種任
な紐帶によって結ばれており、それだけに、命を てて
を裏書するものであろう。實際、曹操の
侠
を盡くした三良を建安詩人たちが理想像にまで美
入ってもなお三良贊美は續いてゆく
感三良之殉秦兮
三良の秦に殉ずるに感じ
』卷十六、潘岳「寡
生を捐てて自ら引くに甘んず
の私
となるのは、士人の ・歸屬意識・の問
(『文
甘捐生而自引
ところでここで重
( )
にすぎない。それだけに
從 の絆は
題である。魏晉の「忠」は、あくまでも個人と個人の
關係における
賦」)
することは必然であったと言えよう。そしてこの後、西晉に
まで忠
施
生爲百夫雄
死しては壯士の規と爲る
なり
爲すべからざるも
す
に獨り
し
を捐つるは易し、と
すれば憂患を同じくす
生時は榮樂を等しくし
に
すは
誰か言ふ
身を
な「忠義」への轉換
死爲壯士規
功名
獨
(王粲「詠史詩」)
功名不可爲
・・・・・
生時等榮樂
同憂患
身
誰言捐 易
、王粲)、
(曹植「三良詩」)
する(阮
はあるものの、三良を批
に歸屬するばかりではなく、王 ・體制や國家にも歸屬して
ごされることになりやすい。だが實際、臣下・官吏は君
く、從死もありうるわけだが、同時にそれ以外の關係性は看
に批
として仰ぐ點
とあるように、穆公を積極
している。
しない(曹植)という表面 な差
に一
しない點、むしろその行爲を自己犧牲の極
において、三 は完
!
この時期、 會は大きく變動し、恩義を媒介とした、新し
忠義は我の安んずる
忠義我 安
29
いるのである。臣が君
までも君命を受けた臣下個人の問題
を下した君 の
ではなく、あく
とくに
門士族や土豪
において
大で安定した
國の滅
の流行による價
の後、相 ぐ戰亂の
もっともこうした問題意識のあり方は淵明ひとりに限ったこ
は
なかで失われた 會秩序、そして玄學と佛
)
。當時の士人はみな自らの行動の規
擇の基準を求めていたはずである。なかでも「忠」と
( )
は、かれらを深く惱ませたに相 ない。
となる。その最たるものが殉死であると言えよ
くて新しい問題であった。
「忠」とはどうあるべきか。人は何に對して忠
べきか。その生涯にわたって「去留の
)
"
(1)「詠三良」詩については、 の陶 が張 の自 事件との
」(人生の
考え續けた淵明の結論が「詠三良」詩なのであろう。
(
價史においては、穆公もしくはその子、康公
(
)
*
良に對する同 を示すことで十分であっただろう。實際、
代以後の三良
擇)を
心を持つ
う。その意味において三良の從死事件は、かれらにとって古
己犧牲が必
「忠」が「義」であるとするなら、そこには自己抑制・自
いう不自然な人倫
範と
思われる。六
」とい
値規範の混亂と喪失
個人 の「義」を重んじる時代であったからである。その思
( )
の考察によって改
容と
代を待たねばならない。
和感なく理解されるのは、「國家に對する忠
する
價値について論じてきた。この一
%
想が
史
!
をいかに深く考え、その解答を 索していたか、である。も
問題
(
とではなく、おそらく六 の士大夫すべてに言えることかも
として、三良從死事件をとらえなおしたのである。
すなわち自分自身の
質や殉死という制度・風
るためには從死も已むを得ないであろう。しかし王 に歸屬
問題
にのみ歸屬するものなら恩義に報い
するなら、新 を輔佐し、國家に歸屬するものなら、國家のた
明が指摘するのはまさにこの點である。だが淵明のこうした
を盡くすべきではないのか。淵
#
$
"
流を占めている。だが淵明は、殉死の命
陶淵明「詠三良」詩について(井上)
'
し純粹に儒家思想に立脚するのであれば、穆公を批 し、三
めて確 されるのは、淵明が士人にとっての行動上の
&
う、「忠」の定義が廣く
結 語
以上、陶淵明の「詠三良」詩をめぐって、その思想
を批 する意見が
#
めに
忠
しれない。
稷の民に
考えは、六 時代においてやや受け入られにくかったように
30
中國詩文論叢
第二十五集
を指摘して以來、「靈陵王に對する淵明の忠
(忠晉思
想)を表す詩」と見る論 が多い。一方、李文初『陶淵明論
關
が濃厚だとして、「淵明が
かりし頃の
張する。淵明のこの詩が建安詩人の先行作
を受けているかどうかは別として、「詠荊軻」も
作」だと
からの影
略』
(廣東人民出版 、一九八六年)などは曹植、王粲の 詠
擬
三良詩
品から影
機の一つであることはほぼ
いない。
作っていることから判断する限り、かれらの先行作品が本詩
創作の
(2)「惟」字について、 ・何 『義門讀書記』卷五十に「惟、
にも見えており、そこでは安陵君(纏)を
人公とする。
奄息・仲行・鍼虎爲殉、皆秦之良也。國人哀之、爲之賦『
(5)『左傳』文公六年の條に「秦伯任好卒。以子車氏之三子、
鳥』。」とある。本稿第三章參照。
雍。從死
(6)『史記』には二箇 。卷五「秦本紀」に「三十九年、繆公
卒、
鳥』
百七十七人、秦之良臣子輿氏三人、名曰奄
息・仲行・鍼虎、亦在從死之中。秦人哀之、爲作歌『
秦穆公
三良而死、罪百里奚而非其罪也、故立號曰繆。」とある。
之詩。」とある。また卷八十八「蒙恬傳」に「昔
去、
髮之計、而
之敗、 賢臣百里奚、以子車氏爲殉、
(7)『風俗 義』卷一「五伯」には「而繆公受鄭甘言、置戌而
はない。
爲作、故謚曰繆。」とあるだけで、三良の
小
」
十二、困之大壯では「子輿」に作っている。
『焦氏易林』卷十三、革之小畜では「子車」に作りながら卷
,
』卷十三「
謀」
-
-
士「曹植『三良詩』考
.
「文
誄」との關 を中心と
して」(早稻田大學中國文學會『中國文學
究』第十九期、
「秦穆公與羣臣飮酒酣、公曰『生共此樂、死共此哀』。於是奄
・王先
話は、『戰國策』楚策や『
』を指す。なお「生共此樂、死共此哀」に
を引用する。
似する
田
息、仲行、鍼虎許 。 公薨、皆從死。
『 鳥』詩 爲作也。
」
很、完
詞語彙釋』(語文出版
は「子車 氏」に作り、『史記』は「子輿 氏」に作る。また
生『魏晉南北
1
0
云」とは『 書
$
,
#
!
"
/
(4)『史記』卷五「秦本紀」の「正義」に「應劭云」として
品と王・阮詩との差 ならびに曹詩の獨自性については、矢
1110
一九八八年)は「副詞、表示 度之深、相當于
と く。
(9) 王粲「詠史詩」(『文 』卷二十一、 收)。
( ) 阮 「詠史詩」(『古詩紀』卷二十六、 收)。
( ) 曹植「三良詩」(『文 』卷二十一、 收)。なお曹植の作
『詩三家義集疏』によれば、「應劭
たとえば江
(8) 三良の名については 同はないが、姓氏について、『左傳』
(3)「正」字については、六 關 の語彙辭典に廣く見える。
鳥」之
傳記についての記
收)には「『惟疑』
正」(『徐復語言文字學
『詩』「
、一九九五年〕
爲魏晉時常語。『三國志』・・・等文均有『惟疑』語。
論稿』〔江蘇 育出版
思也」とあり、徐復「『陶淵明集』
、
改
%
'
%
&
爲『遲疑』
、非其原義矣」と く。
「惟」は「思、懷」の 語。
'
+
)
*
(
% %
31
(
(
として、李文初『陶淵明論略』では、「穆公を風
同が
(
ではなく
人牲人殉』(文物出版
には 挽回・挽
、一九九〇年)
換代、贖身 (身代わりとなる)の意で讀ま
人皆百死其身以贖之」とあるように、傳統
救
展岳『中國古代
れてきた。
俗』(第一書
しており、きわめて示
して
便で
、二〇〇〇年)はその日本語版で
) 中國の初期の殉 論においてとくに重 なものとして、晏
ある。
あるとともに、一九八八年以後の 加論文を收
代の殉
唆に富む。また宇津木章監譯・佐 三千夫譯になる『中國古
史を考古學の最新の知見をもとに詳
は、先史時代から明 時代にいたる、中國の人牲・人殉の
)
18
(
一九九三年)に詳論されている。
) 他の
合 を贊美する詩」と く。これによれば、淵明は「 鳥」
刺するものでも、三良を誹るものでもない」として、「 君臣
詩を借りて、儒家の政治理想を表現したことになる。
百七十七人」とあ
百七十人」と記す。『史記』の本文に
るが、『毛詩正義』卷六には「又秦本紀云」として「穆公卒、
) 現行の『史記』「秦本紀」には、「從死
於雍、從死
見られる。
)『陶淵明集』には「謬」の用例が凡そ7例見えるが、いず
賦」
中作、
れも「 る」
(動詞)
、
「 謬」
(名詞)の意で用いられている。
十二
之意乎」(「閑
」(「癸卯
鳥」の「交交
鳥、止于楚」(三章)を
の大部分は、この句が「
」)、「雖文妙不足、庶不謬作
たとえば、
「高操非 攀、謬得固窮
與從弟
釋書
序)など。
行の
鳥、止于棘」(一章)および「交交
#
晏子立於崔氏之門外。其人曰、「死乎?」曰、「獨吾君也乎
子の發言を引用しておく。
稷是
。
稷死、則死之。爲
、豈以陵民?
。故君爲
之。 爲己死、而爲己 。非其私 、誰敢任之?
、豈爲其口實?
稷是
哉?死也?」曰、
「行乎?」曰、
「吾罪也乎哉?吾 也?」曰、
臣君
「歸乎?」曰、「君死、安歸?君民
稷 、則
且人有君而弑之、吾焉得死之?而焉得
之?將庸何歸?」門
(『左傳』襄公二十五年)
而入、枕尸股而哭、興三踊而出。
てるべきだが、君が
の問いに對して、晏子は
稷の爲に死ぬなら臣下も命を
「從死されますか」と言う、從
自分自身の爲に死ぬなら、お氣に入りの臣下でもなければ死
「君が
%
$
)
の是
集、二〇〇五年)
"
(
(
(
究會『中國文論叢』第
知足
性もないように思われる。
踏まえる、と見なしている。しかし「荊棘」の典據が、「
鳥」であると見なす論據も必
非」(中國詩文
) 井上一之「陶淵明『詠二疏詩』について
を參照。
皆百其身」とあり、正義に「如使此人可以他人 代兮、我國
)「贖」字は、鄭箋に「如此奄息之死、可以他人贖之 、人
$
*
(
(
陶淵明「詠三良」詩について(井上)
!
&
$ '
$
19
24
$
)
12
13
14
15
16
17
32
第二十五集
」(
田功
て新天地をめざすのは不義か?
を
詩經解釋に
められた
史・
『民族の表象
メディア・國家』〔慶應義塾大學出版會、二〇〇六年〕 收)
國家への歸屬意識の變
を「同姓の臣」、「
姓の臣」、そして民の三つの範疇から分
を參照。當該論文は先秦から宋代にいたる、殉國意識の變容
) 梁代に 纂された『文 』では、王粲と曹植の 詠三良
析を行っており、 發されるところが多い。
するものの、淵明「詠三
、竭忠
書』卷八十)
、遏密八
していない。この點も淵明詩が當時 價されなかっ
たことを暗示するだろう。
纏悲四
無ニ、千古懍然。」(『舊
の上疏に「
託、一
高宗の時、韓
良」を
詩 を同一題材にもかかわらず
君、戰陳
、朋友信、揚名顯親、此之謂孝。」(『舊
書』卷
識が示されている。
) この點は、
詩を含めて3例)ものの、「忠義」という語は一例も用いて
陽秋』卷九を參照。
、種村論文に詳論されている。また『韻語
(
) 興味深いことに、陶淵明は「忠」という語は使用する(本
國家への貢獻を優先すべきだとの
べており、ここには「孝」(父子關係)よりも
二十四)と
(
とある。また、太宗は「孝 、善事父母、自家刑國、忠於其
國家、親承
)
いない。これは曹植(
「三良詩」
)と對照 であると言えよう。
!
中國詩文論叢
ばない」と答えている。ここには殉死反對論の
) 古代中國人の歸屬意識の變 については、種村和史「國を
見ることができよう。
ぬに
(
(
(
20
21
22
23
24
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