...

第ー章 ランボオ と植木にみる女性観 明治大学短期大学教授 権藤南海子

by user

on
Category: Documents
23

views

Report

Comments

Transcript

第ー章 ランボオ と植木にみる女性観 明治大学短期大学教授 権藤南海子
80
第1章 ランボオと植木にみる女性観
明治大学短期大学教授 権藤南海子
1: 先ずはじめに、表象としての言葉「コミュニケーション」を調べ
てみましょう。そのことによって、何気なく使っていた言葉の意味が理
解される筈です。 Communication:
広辞苑 新村出編
岩波書店
①社会生活を営む人間の問に行われる知覚・感情・思考
の伝達。言語・文字その他視覚・聴覚に訴える各種のも
のを媒介とする。②[生]④動物相互間での、身振りや
音声などによる心的内容の伝達。@細胞間の物質の伝達
または移動。細胞間コミュニケーション。
新潮国語辞典 久 言語・文字その他視覚・聴覚に訴える各種のものを媒介
松潜一監修、新潮 として、思想・情報などを伝えること。伝達、コンミュ
社 昭和59年
ニケーション
詳解国語辞典 山
口明穂秋本守英編
旺文社 1985年
仏和大辞典、
(名)気持ちや意志などを、ことば・文字・音声。身ぶ
りなどで伝達・交換すること
[lat. COmmuniCatiO−communicare communiquer]n.f.
伊吹武彦他…編
◆伝えること、伝導:∼du mouvement運動の伝導/∼d’
白水社
une maladie病気の伝染 ◆伝達、通知、通告;(図書
などの)閲覧、(書類の)送付:∼des id6es思想の伝達
◆(学会での)報告、発表(expos6)… ◆思想の
交換… ◆情報、知らせ… ◆連絡、通信… ◆交通(路)
往来、出入り… ◆[海](船と船、船と岸を連絡する)
小船。
81
LE GRAND
communication n。f.−1365《relation sociale》: lat. com・
ROBERT DE LA
municatio, du supin de communicare. communiquer.
FRANgAISE
ensemble d’informations ainsi communiqu6es, La com・
deuxi6me 6dition
munication d’une nouvelle, d’un renseignement, d’un
diri96e par
ALAIN REY du
avis(a qqn par qqn). La communication des id6es
LANGUE
DICTIONNAIRE
ALPHABETIQUE
ETANALOGIQUE
◆1 Action de communiquer(qqc. a qqn.);information
(diffusion),des sentiments(Effusion, expression, man・
ifestation).…◆2 La chose que 1’on communique;
ensemble d’informations communiqu6es.…◆3 Le fait
de communlquer, d’6tablir une relation avec(qqn,
DE LA LANGUE
qqch.).…◆4 Ce qui permet de communiquer dans l
FRANCAISE de
espace, de passer dans lieu a un autre;passage d’un
lieu a un autre.…◆5Moyen technique par lequel des
PAUL ROBERT
Paris 2001 Tome
personnes cOmmuniquent;messages qu’elles se trans−
2CHAS−ENTH
mettent.→Transmission.…
・SHOGAKUKAN communication國(→communiquer)1’コ ケー
ROBERT GRAND ンヨン、意思の疎通 交渉。 2伝達、公報(活動)。
DICTIONNAIRE
FRANGAISJAR)N
AIS・
小学館 ロベール
仏和大辞典
編集 小学館 ロ
ベール 仏和大辞
典編集委員会 大
賀正喜… 1988
3通信、交信、文通 (特に)電話連絡、通話…
メヅセージ、伝言 通知、通達 (学会などの)報出 発
表。… 5交通、往来 連絡。… 6連結、接続、関連。
7(文書などの)提出 閲覧、貸し出し。 8[電
気通信]通信。… [軍事]連絡、交通。… 10[医
学]交通、中隔欠損(症)。… 11[情報科学]∼homme−
machineマン・マシン・インターフェース 人間と計算
機との対話機能で、人間にとって使いやすいシステム構
築に重要なもの。 12[法律]伝達。… 13[動物学]
@animale動物間のコミュニケーション 同種の他の個
体に対して通信の役をする身ぶりや音声など。 14[心
一一
理][社会学]コミュニケーション。…15[言語]∼intersub−
jective王体間コミュニケーション。
−ation[接尾](→−tion)《形容詞・名詞語尾》《動詞の語
幹につく》「行爲 行爲の結果」を表す。
82
The Pocket
OXFORD
DICTIONARY
of CURRENT
ENGLISH
communication n.,(esp.)imparting or exchange of
information by message or otherwise, such message&
c.,common door or passage or road or rail or tele−
graph or other connexion between places,(Mil., pl.)
connexion between base&front
Compiled by F.G.
communicate, v.t.&i.(−cable). Impart(heart, motion,
FOWLER&H.W.
feeling, news, discovery, to), have communication
FOWLER OX−
with;receive Communication, administer Communica−
FORD AT THE
CLARENDON
PRESS 1952・
tlon to.
−ation, suf. forming nouns denoting verbal action
(hesitation, creation), instance of this(flirtations),
resulting condition(in perfect preservation), and
resulting product(plantation).[L, a form of−ion]
小学館ランダムハ
communication n.1伝えること(過程);伝染:…2(言
ウス英和大辞典 論・文書・合図などによる思想・意見・情報の)伝達;
SHOGAKUKAN
RANDOM
通信、文通、連絡;交わり、交際(converse):…3(伝
VOLUME I A−L
えられる、やりとりされる)情報(information):消息、
通知、手紙(letter)、伝言(message):…4(情報・意見
表明・情報伝達などのための)書類(document)、メッセー
ジ。5交通(連絡)、交通機関:…6《pL》(1)(電話・電
信・ラジオ・急使などの)通信機関、通信施設。(2)(基
地から前線へ軍隊・物資を輸送する)輸送路、輸送機関、
小学館 昭和56
年〈パーソナル
communicate v.−v.t.1(知識・情報などを)伝える、伝
HOUSE
ENGLISH−
JAPANESE
DICTIONARY
版〉
兵姑線。
達する、知らせる。…2(病気などを)うつす、感染さ
せる;(熱などを)伝える。…3聖餐にあずからせる、
聖体を授ける。4《古》共にする、あずかる。−v.i.1通信
(文通・連絡)する:…2(場所・部屋などが)通じて
いる:…3聖餐にあずかる、聖体を拝領する。…
−ation−ateと一ionの結合形;−ateで終る語幹から名詞
を作る:…
83
SAITO’S
IDIOMOLOGICAL
ENGLISH−
JAPANESE
DICTIONARY
熟語本位英和中僻
曲齋藤秀三郎著
com・muni−cation【抽名】通知、通牒。②交通、通信、照
會。【普名】書信、書面、書簡、手紙。②(新聞の)寄書、
投書。③通路、交通機關、聯絡。
com・muni−cate【他動】(some news to a person一人に報
を)傳へる、通知する、通牒する。(知識などを)傳へる、
傳授する、教へる。(病気を)傳染せしめる。
【自動】(with a person−一一人と)交通する。(人に)通信
豊田実増補
する、照會する。(警察へ)届ける。…
NEW EDITION
REVISED&
(With a place…場所が場所と)相通ずる。
com−mune【自動】(with another−一一人と)親しく談ずる、
ENLARGED新
増補版 岩波書店
親しく交際する。
communique【彿名】公報、コミュニケ。
1973
以上、何度も同じことを書き連ねてまいりましたが、要するに「人間」
という動物が地球上に現れて以来、お互いに相手が何を考えているか察
知する必要があり、初期の頃には自分が獲物とならないために、相手に
自分のことを説明して、相手と親しくなる必要があり、そこに「ことば」
が生まれ、「人」が増えていくにしたがって、相互に親しみを感じた者ど
うしが一つの集団を形成し、その集団が幾つかに分かれ、幾つかの集合
体が部族と呼ばれるようになり、部族の仲間内で秩序が自然に発生し、
各種の規則ができてきます。先ず仲間内で交信をする必要があったため、
必然的に仲間の問で通用する「音声伝達手段」が増えていき、部族固有
の「ことば」が生まれるのです。その種の部族が各地に誕生し、各部族
間で意思の疎通を行わなければならず、又物々交換する上での取り決め
がなされ、そこに一定のルールが出来る訳です。ただ、初期の頃は、「人」
は生き長らえなければならず、過酷な気象条件、生活条件の下で、人々
はお互いに協力しなければ落着いた生活は送れず、現在各地に残る貝塚
や本州に残る栗林・ブナ林は、我々日本人の祖先が協力して生きた証な
のです。文明が発達するにつれ、人間の欲望も増大し、部族間の争いも
増えていきますが、争いの終焉に際し、必要となるのも又「意志の伝達」=
「相互理解」なのです。そうやって、人々の意思の疎通を図るための種々
の方法が産み出されてきた訳です。
84
我々日本人はコミュニケーションというカタカナ英語を21世紀の言葉
のように持て難し、それさえ使えば恰も自身も新しくなれるような錯覚
をしているのではないかという疑問さえ生じますが、アリストテレス、
イソクラテス以来のレトリックが紀元前4c.のギリシャから始まり、
2000年余をかけて欧米諸国に根を延ばし、現在の民主主義を支えている
ように、フランスにおいては、コミュニカシオンという言葉は1365年以
来、社会関係に使われる言葉として使用され、1791年9月3日に発布さ
れた「人権宣言」に:
《art. XI La libre communication desρ6η∫6εs et des
opinions est un des droits les PIUS Pre’cieur de l’homme,’…》
《第11条 思想と言論の自由な伝達は人間の最も貴重な権利の一つ
である;…》
と記されています。 民衆にも遍く知らしめられたこの一文こそが、幸
いにもかの地においては、レトリックが時に技術的問題として扱われて
いたのに反し、コミュニカシオンという言葉其のものが文化的背景を捨
象することなく、より広範に学際的・超域的な学問領域として捉える真
のコミュニケーション・インテリジェンス研究へと導く大きな要因と
なっているのです。
以上は、1968年11月から70年6月にかけて、リオン大学言語文明学講
座で学んだ講義を基に私見を述べたものです。70年11月以降、パリ第3
大学においても、言語音声学を学びましたが、リオンで精神面を中心に
学んだ身には、ソルボンヌ・ヌーヴェルの学問はあまりに技術的・理論
的に思え、又、本当に尊敬できる方はデュブワ教授だけであったため、
パリ第4ソルボンヌ、コレージュ・ドゥ・フランスで、解らぬまでも聴講
していたものです。
71年当時アリストテレスについて話されていたミッシェル・フーコー
教授が、77年11月から81年6月の講義では全く違う内容であったことで
85
混乱し、感じの良いお取り巻き青年達を掻き分けて『71年に聴講してい
た者ですが、もう一度お聴きしたいと思ったのに、何時又話してくださ
るのですか?』と尋ねたところ、にこやかな笑顔と闊達なご様子で『お
嬢さん、研究とは沢山の小川が集まって大河となるのに似ているので
す。』と答えて下さったのが印象的でした。学問の点でも人間的にも大き
な包容力を感じた方でした。
難解ではあっても興味深かったロラン・バルト教授の講義は、78年一81
年当時住んでいたアメリカ合衆国館4階のバルコン付きステユディオ
に、挨拶がわりの小さなお土産を持参した初対面のアメリカ人留学生が
大勢押し寄せ、拙室に入るなりバルコンに出て、中庭を挟んだ真向かい
の同様のステユディオに住んでいたアスパラガス少年の部屋を眺め、大
騒ぎをしているので、尋ねたところ、『彼の許を今尋ねているのはバルト
教授なのよ!』と言われ、自身眺めたところ、確かにバルト教授でした。
あまりにうるさいので、2回限りで彼等の訪問を拒絶しましたが、教授
に対する尊敬の念は大きく減少しました。1980年冬、ソルボンヌ校舎の
リュ・デ・ゼコール側出口を出た時、沢山の人が『バルトが! バルト
が!』と叫んでおり、異様な雰囲気でした。数台の車が止まっており、
多くの人々が取り囲んでいました。間もなく救急車が来て車に礫かれた
らしい体を運んで行きましたが、大勢の人間が興奮状態であったため、
私は急いでサンミッシェル大通りに出て、大学町行きのバスに乗り帰宅
しました。記憶では同日の晩、下の階に住んでいた日本人留学生が『権
藤さん聞いた? 今ニュースで言ってたけど、ロラン・バルトが亡くなっ
たのよ!』と興奮して教えてくれました。「あ一やはりあのバルトだった
のだ!」と実感しました。フランスが偉大な人的財産を失ったことを痛
感し、個人的感情から講義に足が遠のいた事を後悔しました。
源氏物語で有名なルネ・シフェール教授は、背の高い金髪白人女性のお
取り巻きを多く従え、漸く教授の許に辿りつき、久しぶりの日本語で質
問したところ、不機嫌なお顔をなさり、取り巻き連中には白い目で見ら
86
れる始末でした。フランス語での質問に変え、講義中疑問に感じた、季
語についての解釈が日本人の解釈と微妙なニュアンスの違いがあるので
はないか? と口にしたところ、困ったようなお顔で何も答えては頂け
ませんでした。
結局、興味深く継続して隔週或は毎月聴講したのは、ルイ・フォレス
ティエ教授、レヴィ・ストロース教授、ジャック・ラカン(Lacan)教授、
ジャック・ラカン(Lacant)教授、ジュリア・クリステヴァ教授の講義
でした。
フォレスティエ教授については拙論『ジェルマン・ヌーヴォー友の会』
(明治大学短期大学紀要50号pp.57−75)で記述しており、省略致します。
ジャック・ラカン(LACANT)教授はアグレジェでアカデミーフラン
セーズの会員であり、拙論の主査でもありました。『論文は、引用を出来
るだけ少なくして、自分の考えを書いてください。アクサンを一つでも
間違えると《Tr6s Bien》は与えられないので、気をつけてください。』
とご教示くださいましたが、いかにも「フランス語を守る会」の会長ら
しいご発言でした。ケルンで、長く教鞭をとられていただけに、ドイツ
思想には大変造詣の深い方でした。
もう一人のジャック・ラカン(LACAN)教授とも、文書などが間違っ
て配達される関係もあり、大変仲が良く、LACAN教授を紹介して下さ
いました。
昨年、狂牛病で大騒ぎをした時、レヴィ・ストP一スの思想が取り上
げられ、今頃になって彼の昔の考えが漸く皆に認知されたのだな一と懐
かしく思い、木村信子氏に話したところ、『彼は未だご存命なのよ!今
話していらっしゃる事が載っているのよ1』と言われ、仰天しました。
四半世紀前の講義で、最もお歳を召しておられるようにお見受けしたか
らです。文化の成立基盤を探求し、集団間のコミュニカシオンが婚姻関
係によって成り立つことを立証された方ですが、人類の食肉に関しての
講義には胸の悪くなる思いをしたことを覚えています。教授が話してい
87
らした、アメリカから始まった、自然の摂理にそぐわない植物肥料や飼
育肥料の問題は、氏が本物の見者であったことを証明しているように思
います。最初にご挨拶しただけのLACAN教授と同様に、余りに近寄り
難く、一度も直接質問をしたことはありません。
パリ第7大学一ジュシュウ校舎で教鞭をとられていたジュリア・クリ
ステヴァ教授は、少しきつい感じの方でしたが、彼女の熱情が学生皆に
伝わってくるようでした。時折、ご自身東欧の出身である事にトラウマ
をお持ちなのではないか? と気になる事が講義中にありました。大変
お忙しい方で、質問したい我々学生は彼女の車まで追いかけて行ったも
のです。当時小さかったご子息の送り迎えのことで、美男の夫君(フィ
リップ・ソレルス)と揉めていらっしゃるのに3回遭遇しました。女史
は現代フランスのコミュニカシオン研究の第一人者ですが、クリステ
ヴァを専門とする木村信子氏にお任せ致します。
数多くの講義の中で、強く印象に残り、感銘を受けたのは、Lacan教
授の『コミュニカシオンは社会学の源泉です。』というお言葉と、Lacant
教授の『文学的要素である心理・思想・哲学のないコミュニカシオンは、
人間のコミュニカシオンではありません。』というお言葉です。25年近く
経た現在に至って、最も重要な考えなのだと理解する事が出来るように
なりました。
以上に記した教授達の思想は、師を仰ぎ見ていた彼らの生徒達に、生
徒の思考の許す範囲で吸収され、筆者のような聴講しただけの学生たち
にさえ多くの影響を与え、知の糧となっているという現実が、彼らの思
想の伝達(=コミュニカシオン)が果され、継承されていることの証の
ように思えます。
コミュニカシオン研究、及び120年以上にわたる植民地のフランス語教
育で培った言語コミュニカシオンの教授法は、大挙して押し寄せたアメ
リカ人留学生(1968年当時、パリでもリオンでも外国人留学生の8割は
88
アメリカ人)によって、アメリカに持ち込まれ、異質なもの・アメリカ
ンコミュニケーションへと変化していきました。
即ち、ジャック・ラカンが「東京におけるディスクール」で述べてい
るように『フロイトは、精神分析がアメリカ社会の思考のシステムのな
かに取り入れられたことによって、非常に重大な手直しを受けるだろう
と見ていました。…そこでは、コミュニケーションは諸制度、諸原則、
あるいは諸偏見と呼ばれてしかるべきもの、つまりけして論議されるこ
とのない基本的な諸制度の上に立っています。…』(ディスクール、ジャッ
ク・ラカン、佐々木孝次・市村卓彦共訳、弘文堂、東京、昭和60年7月、
pp.4−7)ということになるのです。それは精神分析学会について話さ
れた言葉ですが、全てについて言える事実なのです。
奇しくも、現在行われているイラク侵攻に際して、アメリカの諸制度、
諸原則が絶対であり、他の制度、原則は軽んじられ、他国の宗教・文化・
精神性・理念は無視され、力と技術と手段が優先されています。他者及
び他国から観察した場合、明らかに偏見にすぎない思考ではあっても、
『アメリカが正しい。』のです。其の思考法は総てにわたり、軍事力・財
力をともなった国力によって、ヨーロッパから吸収した知的財産までも
が、アメリカ式に歪められ、異なった理論へと変化してしまう危険を伴っ
ています。無論、其の事自体は、退歩・歪曲ではなく、新化・新思想で
あると考える人々が存在することも事実です。
我々古い国の人間は、もう一度自身の精神文化を見直し、誇りを持つ
べきです。何故なら、200に達する全ての国が、独自の宗教・言語・文化・
精神・思考法を保有してこそ、人類は自由・平等・博愛に満ち、豊饒な
精神と自由闊達な思考を持つ星の住民となる未来が約束されるのではな
いでしょうか。
II: フランスにおけるフェミニズム(女権拡張運動)は、フランス革
命の影響下、1791年のオランフ・ドゥ・グージュ(Olymphe de Gouges)
89
が記した『女性と女性市民の権利』宣言から始まっています。1840年に
は婦人クラブがぞくぞくと誕生しますが、女性が選挙権を得たのは1928
年のイギリスに大きく遅れ、1944年のことでした。その後1949年にシモー
ヌ・ドゥ・ボーヴォワールが『第二の性』を出版し、社会における女性
の地位についての論争は女性解放運動によって再開されました。1968年
にアメリカではウーメンズリブが、フランスではMLF(Mouvement de
Lib6ration des Femmes)が創設されました。
ジェンダーという言葉は、もともと文法上、名詞の性別について使わ
れます。フランス語ではジャンル(genre)と言い、英語ではジェンダー
(gender)と呼んでいます。例へば;食卓は女性ですが、机は男性、肘
掛椅子は女性で、長椅子は男性、駅は女性で、汽車は男性…となります。
そして、生物学的な性の役割をも社会が決めているのだと説いたのがシ
モーヌ・ドゥ・ボーヴォワール(Simone de Beauvoir)です。女史の著
作『第二の性』の「解放に向って」第四部に触れられているのが、ラン
ボオの《見者の手紙》中の一文です。では其の部分を引用致します:
…昔のヨーロッパは、芸術家も作家ももたない野蛮なアメリカ人に、
かつて軽蔑の言葉を浴びせた。これに対してジェファーソン[アメ
リカ合衆国第三代大統領]はおおよそ次のように答えている。「私たち
の存在の正当性を証明しろと要求する前に、まず私たちを存在させて
ください」と。黒人たちは、おまえたちはホイットマンもメルヴィル
も生まなかったではないかと責め立てる人種差別主義者たちに同じよ
うに答えている。フランスのプロレタリアもまた、ラシーヌやマラル
メに対抗できるような名前をあげることはできない。自由な女はいま
ようやく生まれようとしているところだ。それが勝ちとられたら、た
ぶんランボー[1854−91、フランスの象徴主義期の代表的詩人]の予言
は正しいことになるだろう。 「詩人たちが生まれるだろう! 男一こ
れまで忌まわしきものであった男一が女に暇を出し、女の果てしない
90
隷属が打ち破られるとき、女が自分のために、自分自身で生きるよう
になるときが来れば、女も詩人になるだろう! 女は未知のものを見
つけるだろう! 女の思想の世界は私たち男のものとは異なるのだろ
うか? 奇異なもの、はかり知れぬもの、むかつくもの、甘美なもの、
これらを女は見つけるだろう。男たちはそれらを取りあげ、理解する
だろう」。女の「思想の世界」が男の「思想の世界」と異なるのかど
うかは確かではない。なぜなら、女は、自分と男たちを同列に置くこ
とで、解放されるからだ。どの程度女が個別にとどまるか、その個別
性がどの程度の重要性を得るのかを知るためには、思いきって大胆な
予想を立てなくてはならない。確かなことは、これまで女の可能性は
ふさがれていて、それが人類にとって損失となっていたこと、そして、
いまこそ、女自身のために、みんなのために、女にあらゆる可能性を
自由に追及させる時である、ということだ。
(ボーヴォワール、第二の性、II体験[下]、[訳]『第二の性』を原
文で読み直す会、新潮文庫、新潮社、東京、平成十三年四月、pp.
447−448.以下DSと略す。)
女史のこの文章で、ランボオは一躍フェミニストの天使のような存在
になりましたが、この手紙を書いた当時16歳のランボオ自身は、陸軍大
尉の父親が家庭を顧みることもなく、地主の娘で泉を所有していた母親
が、一人で農地と家族を守っていたため、厳格な母親に抑圧されている
という意識はあっても、女性を軽んじることなど夢にも考えなかったに
違いないのです。
ロベール大辞典に掲載されている同時期の詩人たちの文を読むと、現
代人の意識では想像もつかないほどです。ランボオが《見者の手紙》文
中で語っていた先輩詩人を例に揚げますと:
Qzaoi de PIZtS 1傷9θγqu ’une Plume∼laρo%ssゴ魏 一de Plz{s 1勿27
que‘αρo郷s伽θ?le vent− de Plzes J磯7 que le vent∼la femme
− de Plus 1匁θ7 qzae la femme∼rien.
91
羽より軽いものは何? 埃一埃より軽いものは? 風一風
より軽いものは?女一女より軽いものは∼何もない。
A.de Musset, Comm6die et Proverbes,
《Barberine》,II,1.
La femme, esclave vile, orguilleuse et stmpide(...)
女、卑しい奴隷、高慢で愚かな…
Baudelaire,1es Fleurs du mal, R6volte
《Le voyage》 (Esclave, citユ6).
ミュッセ(1810−57)もボードレール(1821−67)も、これらの言葉は、
彼らが女性に対して抱いていた憧憬の裏返しであるという考へ方もあり
ますが、根底にあるのは当時の男社会が有していた女性に対する偏見な
のです。
何故なら、ボーヴォワールが言うように「人は女として生まれるので
はない、女になるのだ《On ne nait pas femme, on le devient.》(DS II
上p.12)」からです。子供の時から『女とは精神性のかけらもなく…』と
教えられれば、誰でもそういうものだと思いこむのは当然です。その点、
ランボオは、夫に裏切られた厳格な母親によって、お行儀の良い子供と
して育てられました。母親が公証人や小作人などの男共を相手に孤軍奮
闘する姿を見てきました。理不尽な女性の立場を、母親を通して観察し
ていた筈です。ボーヴォワール式解釈では、ランボオは「人は男として
生まれるのではない、母親を惧れ・愛し・頼る息子になるのだ」という
成長過程を経たのです。
ランボオは終生結婚する事もなく、15歳で家出をした反抗期を初めと
して、天才と言われる所以である数々の詩作品を書いていた時代も、ア
フリカでの商人としての放浪生活のおりにも、苦しい時や困った時は母
親に泣き言を書き綴り、最後は大枚を懐に、マルセイユの病院で妹に看
取られて他界しました。けして世に言うところの落ちついた一生ではあ
りませんし、社会が考える男性としての役割を果したとは申せません。
92
それ故にかもしれませんが、100年を経て漸く世間一般に理解される思想
の持ち主であったことは、大変興味深い一事です。彼の女性に対する考
えは、彼の生存中は理解されることもなく、ただ、〈我は他者なり〉の一
文と〈「見者」たるべし、「見者」となるべし、と私は言うのです。…〉
からなる有名な「見者」「詩人」となる過程に関して書かれた節のみが大
きく取り上げられてきました。ランボオの思想の伝達は、78年後にボー
ヴォワールによって世間に明確な形でなされ、第二次大戦後真の意味で
成就したと申せます。
ランボオが、フランスの北北東ドイツ国境に近い、シャルルヴィル・
メジエールで生まれた1854年10月20日から、二年三ヶ月経った1957年1
月20日に、土佐國土佐群井口村で、我が国が誇るべき思想家植木枝盛が
生まれました。1873年2月、16歳で上京し海南私学に入校、9月には退
校し、12月に帰郷します。17歳の6月に高知新聞に積多(当時の呼称)
に対する差別を非難する投書をし、18歳の春に再度上京、夏から東京日
日新聞・朝野他に投書するようになワます。19歳の2月に郵便報知に「猿
人君主」を載せ、3月に投獄させられ、5月に解放され、8月7日初め
ての演説を行い、10月にはキリスト教弁護の投書をし、翌年2月帰郷し
ます。3月からは「仏国革命史」を読み、立志社に入社、言論活動を活
駿にし、10月には高知県土佐第八大区議員に当選します。22歳の4月に
「民権自由論」を出版。23歳の7月に「言論自由論」、9月15日に大阪で
「婦人解放論」の演説を行います。この演説に関して植木は日記の中で:
第九月十五日『晴、仙石留一来る。夜堀江市の側演説会に臨む、今夜に
て終会。一昨夜より今夜まで毎夜聴員千余人、今夜女子に代るの演説を
なす。』とだけ記しています。
その後、出版と遊説を続け、1886年の末頃から婦人解放運動の女流民
権家達;吉松ます、富永らく、岡崎豊子等と交流を持つようになり、1889
年9月28日「東洋の婦女」を上梓します。この本の出版に際し、植木は
93
知人の女性達に序文を請うています。上記の3名の他に:中島とし、佐々
崎とよ、浜田さわ、千頭とし、森岡かつ、河田さと、大谷きよえ、大伴
せい、平井みちよ、中村とく、山崎たけ、村雨のぶ、長崎きやう、女子
興風会が参加しています。
では、「東洋の婦女」第一篇、第一章 第一篇の首論○男尊女卑の状態
を一部引用致します:
笈に人間社会に取りて、最も大体なる事、最も大切なる事にも関は
らず、天理に惇り、人舞に違ひ、道徳を汚し、文明を傷け、世を辱め、
人を誤るの最も著大なるものを何とかするやと問ふものあらん。…曰
く男尊女卑の一事是れなり、男女不同権の是れなりと。…
(植木枝盛集 第二巻 植木枝盛、岩波書店、東京、1990年3月、p.219。
以下UEIIと略す)
冒頭から男女の不平等が間違っている事を高らかに謳い、続く文章でも
東洋古来の教え:「幼きときは父兄に従ふ、嫁しては夫に従ふ、夫死し
ては子に従ふ。」を痛烈に批判しているのです。
第二章 男尊女卑の原因 第一節 第二章の首論○封建に日本が男尊
女卑となった八つの理由を述べています。
即ち:1) 封建時世の産出。 2)戦国時代の遺物。 3)腕力を主と
する業態より生じたもの。 4)儒教 5)仏教 6)神道の産出と常助、
7)国に於ける専制主義の感化。 +8)婦女の自棄 以上入つの理由に
より男尊女卑になったのだと説いています。1)∼3)は一般的な意見
ですが、次に続く理由は誠に画期的と言わねばなりません。
4)儒教では、幼少の時から学んだ書として孔子・孟子・女論語・女
小学・女大学を揚げています:『孔子曰く、婦人は人に伏す、是故に専
に制するの義無し。三従の道あワ。家に在っては父に従い、人に適ては
夫に従ひ、夫死しては子に従ふ。…』…『孟子の母も亦曰く、婦人の礼
五飯に精く酒醤を幕ひ、舅姑を養ひ、衣装を縫う而已 。故に閨門の修
むるあり、而して境外の志なし。』他三論に関してもこの教えに倣ったも
94
のでありここでは引用しませんが、これに対し植木は下記の如く悲憤慷
慨しています:
儒教の婦女を軽蔑する楚に此の如きの甚しきことなるに、若くは日
本、若くは支那、若くは朝鮮等に於て其の人民が古来該教の為めに感
化を与へられしこと、即ち上文記するが如き次第なりとすれば、因っ
て彩しく男尊女卑の風習を増長したること、其れも亦宜 と謂わざる
べからず。臆世の婦女よ、君等は孟んぞ之を怒らざる、君等は盗んぞ
彼の儒門の経典中に記載せらる・怪語を破砕せざる。皇に是れ汝が為
め讐敵にあらずや。(UEIIpp.242−243)
これぞ正論と拍手をしたくなる文章です。徳川時代に国民を容易に統制
するために持ち込まれたこれらの教えに、男性は自身の優位性を保つた
めに、女性は恰もそのことが美徳のごとく従ってきたのです。
5)仏教では、「女には五障三従と称へ男にまさりて深き罪あり」を引
用して、何の理由もなく女性を蔑視していると憤慨しているのです。
6)は、神道が男尊女卑の考えを常助してきたことを指摘していま
す。
7)の理由として「人間の精神を考える上で、専制国家では専制圧制
の社会となり、家庭でも専制の家風となるし、自由同等の国家では自由
平等の社会となり、家庭において専制の家風となるのは少ない。(意訳)」
と説いています。
8)の理由が大変重要で、植木は「婦女の自棄」を揚げているのです。
「婦女は煮炊き、拭き掃除、縫い針の仕事さえできれば良いと自分から
勉強する事をしないので、自身を賎しめているのだ(意訳)」と説いてい
ます。
以上のうち、最後の理由が特筆すべき点です。何故なら19世紀には家
庭の仕事が如何に軽んじられていたかの証でもあるからです。拭き掃除
が満足にできれば、これは一つの立派な職業であり、煮炊きに才を示せ
ば、職人芸ですし、縫い針仕事において有能なら、これは芸術家である
95
からです。何時の世にも家庭でどんな才能を発揮しても認められる事は
なく、公の場で行えば、立派な職業となり、その種の職業には男性がそ
の地位に就いているのです。但しこれには女性の側にも責任があります。
親から習った事・学校で習った事以外、自分で工夫しようと努力する女
性が少ないからです。家事ですらその有様では、外に職場を確保しても
責任感の一切ないOLが多いのも致し方ないことかもしれません。彼女
達の口癖は『良い人をゲットして結婚するのが一番!」ですが、まさに
これらの女性は煮炊きも拭き掃除も満足に出来ない、縫い針仕事など
もっての他の、植木の考えを待つまでもなく何の対象にもならない存在
のように思えます。
要するに妻としての仕事のほかに人類で最も尊敬すべき仕事、育児が
あるということの自覚がないのです。その事実は、お酒も煙草も男性以
上に嗜むことを自慢にしている女性が存在することです。どんなに技術
が新化しても機械を作るのは人間であり、その人間より優秀な機械はな
く、宇宙で最も優秀な産物を女は産み育てるのです。その一点に気付き
さえすれば、未来に自身の腹中に定床するであろう生命のことを思って、
無謀な行為はできない筈です。女性はそのことにもっと自覚と自信と自
負を持たなければならないと考えます。
「東洋の婦女」に序文を寄せ、当初から植木と親交のあった3名につ
いて少し触れて見たいと思います。
吉松ます(1870−1930)土佐・香美群夜須村に生まれ、1886年12月9
日に植木を訪れ親交を持ちます。板垣退助の新田屋敷に一時身を置き、
令嬢猿子と共に高知英和女学校に通いましたが中退して上京。後に板垣
の側近中西幸猪と結婚し、東京で他界しました。 では序文の後半部分
を引用致します:
…、嬉しきかもこたび植木のぬし其すじの事を山管のねもごろに考
96
へ、浅茅原つばらかに書あらわされて、此国原の女等がいぎたなき眠
を覧してんとし給ふはいみじきいさほなりかし。さるをおのれにも其
端つかたに一言をと、なにはわたりよりの玉ひごされつるはめいぼく
の身にあまる心地はすれど、拙きおのが身におはぬ事にしあればいな
み聞こえんとはせしかど、さては鼻白みたりや、爪くひ居たりや、夫
やがてこの国原のあしき弊へそと主の笑ひ給はんもおもなく、強て念
じかへしていさ・か其よしかい記すものは、
創太刀土佐の国人 吉松ます
(UE II pp.195−196)
要するに自分の考えていた事を植木が世に現してくれることを喜び、序
文執筆者の端くれに加えてくれたことに対して感謝しているのですが、
女性解放運動の先駆者としてどれほどの仕事をしたのか、植木の思想の
伝達を明確な方法で行なったのかどうかは不明です。
富永らく(1866−1938)土佐郡江の口村で誕生したらくは、1873年共
立学舎英語学校女子席に在籍。86年助産婦を開業します。同年6月に高知
県の女性として初めて演説を行ないます。87年元旦に植木の許を訪れ、
後親交が続きます。89年民権派の医師・源頼紀と結婚し、90年夫の赴任
地森村で尋常小学校の教師となります。92年キリスト教に入信。95年夫
に死別し上京、看護婦や助産婦として働き生活を支えます。後年「土佐
婦人会」の活動を続け、高知市において73歳で他界しました。では、働
く女性の先駆けである女史の序文の一部を引用致します:
… 而して先生は又最も女権を拡張し、女風を改良することに熱心
し給ひ、最早数年以前より此点に就て苦慮せらる・こと一ならず、此
の問題に対しては或は文章を以て、或は口舌を以て時々思想を発表せ
られ、切々社会の公衆に訴へられしことも有りし次第なるが、此度は
又東洋乃婦女と題する一書を著述せられ、此書近日に出版すべき筈な
れば一覧の上何なり共端に書き記して回送せよと、其の稿本を小妹共
97
へ迄も視めし給ひぬ。宴に感激すべきことどもなり。 … 中略 …
建に其意見の正確なるを信ずるなり、此書の世に出つる、女権の拡張
に至大の勢力を添加すべきことを疑はざるなり、女風の改良に非常の
機動力を付与すべきを疑はざるなり。乃ち此書を以て婦人新社会の案
内書と為すとも寧ろ過言なりと云ふもの有らん哉。謹んで数言を記し
弁髪と為すと云爾。
明治二十一年入月三十日 富永らく女 拝識
(UE II pp.201−203)
以上の文章作法を見ても推察出来るように、当時の女性として破格の教
育を受けた女史の現代的な感覚が伝わってきます。家永三郎は「解題」
で女史のことを『…女性の経済的独立と社会的自覚との範を時代にさき
がけて示した近代女性の草分け的人物であったらしい。…』と述べてい
ます。
岡崎豊子(清水豊子=清水紫琴 1868−1933)
明治女学校の出身で、『女学雑誌』に文筆をふるい、多くの創作を発
表したほか、政治や婦人問題にも積極的な意見を持っていた、という。
『黙移』によると、植木と「相思相愛の間柄であったと伝へられてゐ」
たそうであるが、真否のほどは明らかでない。大井憲太郎とも関係が
あったようで、後に東大総長となる古在由直の妻となってから、それ
以前の生活と一切絶縁し、家庭婦人として後半生を終った。相馬黒光
の『明治初期の三女性』所収「紫琴女史の片影」と古在由重編『紫琴
全集』(草土文化、1983年)は、彼女についての最も基本的な文献であ
る。 (UE II p.359)
少し補足しますと、植木とは1888年4月に会い、親交を結んでいます。
ホームページ上のyomidasランドこの日何の日?「女の暦」10月11日に
よれば、彼女は岡山の出身で、1890年に「女学雑誌」に入社、主筆を務
98
めています。古在由直が海外留学中には盛んに小説・評論・随筆を発表
し、夫の帰国後は筆を絶っています。要するに自分自身に厳しい真の自
立した女性と申せます。
女史の通った明治女学校は現在ホームページ上の「巣鴨百選」で知る
事が出来ます。それによれば、明治18年創立の明治女学校は同41年には
廃校となっています。僅か23年間でありましたが、紫琴を初めとして五
島千代槌・羽仁もと子・相馬黒光・野上弥生子…を輩出しています。
植木の著述には、明治21年8月7日に「土陽新聞」に寄稿した「婦女
の参政権」があり、非常に重要と思われますが、次の機会に執筆の予定
です。
第二次世界大戦後、日本人は自由も平等も権利も婦人解放も全て、占
領軍であるアメリカが齎したものと思い込み、アメリカ崇拝者はひたす
ら崇め、アメリカ嫌いの男性は「アメリカの所為で女が強くなった」な
どと慨嘆していますが、我が国には110年以上も前から男女の平等を称え
た人間が数多く存在した事をもう一度思い出すべきであると痛切に思い
ます。 我々研究者は、声を大にして其の事実を知らすことが必要なの
ではないでしょうか? それが、思想の正しい伝達、真のコミュニカシ
オンであると確信します。
〈参考文献〉
(アイウエオ順):無印=私蔵、(T)二多摩市立図書館蔵
アルチュール・ランボー、有田忠郎、白水社、東京、1982.2(T)
一般言語学、ロマーン・ヤーコプソン、川本茂雄監修、みすず書房、東京、1985.
1
植木枝盛研究、家永三郎、岩波書店、東京、昭和42年8月
植木枝盛集 第七巻、岩波書店、東京、1990年2月
歌と詩の系譜、叢書比較文学比較文化5、川本皓嗣編、中央公論社、東京、1994.
7
99
女として人類学者として マーガレット・ミード自伝、和知緩子訳、平凡社、
東京、 1975,11 (T)
家族複合、J.ラカン、宮本忠雄+関忠盛訳、哲学書房、東京、1986.6
言語と無意識 ジャック・ラカンの精神分析、H.ラングー著、石田浩之訳、誠
信書房、東京、昭和59年6月
言語と文化の記号論、ミハイル・パフチン著、北岡誠司訳、新時代社、東京、
1990.4
言語とメタ言語 RJAKOBSON、池上慕彦・山中桂一訳、勤草書房、東京、
1990.4
現代史への試み、唐木順三、筑摩選書13、筑摩書房、東京、昭和53年3月
構造意味論 方法の探究、AJ.グレマス、田島宏・鳥居正文訳、紀伊国屋書店。
東京、1988.5
声と現象、ジャック・デリダ著、高橋充昭訳、理想社、東京、1995.8
個人と杜会的自我、G.H.ミード著、小川英司・近藤敏夫訳、いなほ書房・星雲
社、東京、1990。5 (T)
ことばと対象、W.V.O.クワイン、大出晃・宮館恵訳、勤草書房、東京、1991.
6
コミュニケーション論、林進編、有斐閣、都京、2001.1
根源の彼方に グラマトロジーについて上・下、ジャック・デリダ、足立和
浩訳、現代思潮社、東京、1990.12
詩とことば ヤコブソンの言語科学1、山中桂一、勤草書房、東京、1989.8
宗教の比較文明学、梅樟忠夫・中牧弘允編、春秋社、東京、1993.3
西欧世界と日本上・下巻、G. B.サンソム、金井圓・多田実・芳賀徹・平川祐弘
訳、筑摩叢書53、筑摩書房、昭和60年5月
性差別する仏教、大越愛子・源淳子・山下明子、法蔵館、京都、1990・3
男性と女性 上・下、Mミード、田中寿美子・加藤秀俊訳、東京創元社、昭和
56年12月 (T)
知覚の言語 センスとセンシビリア、J.Lオースティン、丹治信治・守屋唱進
訳、勤草書房、東京、1988.4
テクスト 危機のの言説、小林康夫・松浦寿輝編、東京大学出版会、2000.3
東西抄 日本・西洋・人間、石田英一郎、筑摩叢書86、筑摩書房、東京、1985.
5
東西の思想闘争、叢書比較文学比較文化4、小堀桂一郎編、中央公論社、東京、
1994.4
日本女性史近代、女性史総合研究会編、東京大学出版会、東京、1990.1
100
比較文学原論、大塚幸男、白水社、東京、1988.3
比較文学辞典、松田穣編、東京堂出版、昭和53年1月
比較文学とは何か、 ピエール・プリュネル/クロード・ビショワ/アンドレ=
ミッシェル・ルソー共著、渡辺洋訳、白水出版センター刊、白水社、東京、
1986。6
比較文学一日本と西洋、A.0.オールドリッジ、秋山正幸編訳、南雲堂、東京、
1988.10
表象 構造と出来事、 小林康夫・松浦寿輝編、東京大学出版会、2000.2
漂流の思想、一マルクスとフロイトからの漂流一、ジャン=フランソワ・リオ
タール著、今村仁司/塚原史/下川茂訳、国文社、東京、1987.9
仏教とキリスト教の比較研究、益谷文雄、筑摩叢書113、筑摩書房、東京、1984.
4
仏陀のおしえ、友松圓諦、講談社学術文庫、東京、1993.2
ブッダのことば 一スッタニバーター、中村元訳、岩波書店、昭和46年2月
フランス革命の哲学、B.グレトウイゼン、井上尭裕訳、東京、1988.10
フランス文学/男と女と、上村くにご・西川祐子編、勤草書房、東京、1991.4
文化とコミュニケーション、エドマンド・リーチ、青木保・宮坂敬造訳、紀伊
国屋書店、東京、2001.1
朴の木 人生を考える、 唐木順三、講談社学術文庫、昭和61年12月
マーガレット・ミードは語る一女性、教育、社会、ローダ・メトV一編、原ひ
ろ子監訳/宇川和子訳、誠信書房、東京、昭和61年1月 (T)
メディア 表象のポリティクス、小林康夫・松浦寿輝編、東京大学出版会、2000.
7
ユリイカ詩と批評7 特集ランボー没後百年記念、青土社、東京、1991.7
(T)
ヨーロッパ人、ルイジ・バルジー二、浅井康範訳、みすず書房、東京、1988.3
ヨーロッパ文明史、フランソワ・ギゾー、安土正夫訳、みすず書房、東京1987.12
ラカンの〈死〉、S.シュナイダーマン箸、石田浩之訳、誠信書房、東京、昭和
60年10月
ラカンと文学批評、パメラ・タイテル著、市村卓彦+萩本芳信訳、せりか書房、
1987.6
ラカン、ジャン=ミッシェル・パルミエ、岸田秀訳、青土社、1988。4
ラカン派社会学入門、樫村愛子、世織書房、横浜、2000.11
ランボー、101年 現代史手帖特集版、思潮社、東京、1992.1 (T)
Fly UP