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1 身体の構造化と複合感覚的視覚 ――相互行為分析と「見ること」の

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1 身体の構造化と複合感覚的視覚 ――相互行為分析と「見ること」の
身体の構造化と複合感覚的視覚
――相互行為分析と「見ること」の社会論理――
西阪 仰
1. はじめに
「会話分析」の手法を用いた相互行為研究は、相互行為が成立するための「メカニズム」
を解明しようとするものである(Sacks 1992; Schegloff 2007)。一方、会話分析の手法は、
そのメカニズムを、相互行為参加者(以下、参加者)が実際に行なっていることのなかに
見出そうとする。じつは、会話分析といっても、外からみるほど一枚岩ではない。が、私
は、相互行為のメカニズムは、参加者が実際にやっていることの(記述の)集積以上でも
以下でもないと考えている。となれば、参加者が実際にやっていること(プラクティス)
はどのように記述できるかということが問題になるだろう。
会話分析の 1 つの重要な特徴は、実際の相互行為の録音・録画の直接的な観察に、すべ
ての主張をもとづかせる点にある。初期の会話分析は、
(録音・録画の)技術的制約により、
もっぱら電話における会話を扱っていた(シェグロフ & サックス 1989)。それでも,発話
のデザインおよび発話の産出方法における微細なプラクティスの記述をとおして、相互行
為の様々な組織が解明されてきた。1980 年以降には、チャールズ・グッドウィンおよびマ
ージョリー・グッドウィン、それにクリスチャン・ヒースの研究(Goodwin 1981; Goodwin
1980; Heath 1986)を嚆矢として、録画を用い、相互行為資源の様式の複合性に着目する研
究が、多く公表されている。とくに、1990 年代後半になると、ビデオカメラおよび録画媒
体の小型化、録画・録音の解像度・音質の飛躍的向上、そしてなによりも、コンピュータ
によるビデオの処理能力の向上により、会話分析の基本的なデータは、電話の録音から対
面的な相互行為へと変わっていった。言葉もしくは音声だけではなく、視線の向き、身振
り・手振りが、同時に考慮されるようになる。すなわち、相互行為の音声資源と視覚資源
の詳細な分析がなされるようになる。
一方、会話分析の基本的な精神は、次のようなものだ。相互行為の只中で、参加者は互
いのやっていることを理解しながらしか、相互行為を維持することはできない。だから、
参加者たちは、相手をそのつどどう理解しているか、このことを互いに明確にし合ってい
るはずである。であるならば、かれらの理解は、第三者である分析者にも近づきうるはず
だ(サックス, シェグロフ & ジェファソン 2010)。これは、相互行為の音声的資源について
も視覚的資源についても言える。つまり、参加者はどの発話をどう聞いたのか、あるいは
何をどう見たのか、その理解が相互行為の展開のなかで参加者たち自身により公的に示さ
れる。これが会話分析の基本的な前提であり、これにもとづき、参加者のプラクティスの
記述を積み重ねていくという研究実践が今日まで続けられている。
本稿では、1 つの事例の分析をとおして、プラクティスの記述の集積がどう相互行為の
組織の記述になるかの例示を行なう。具体的なデータ分析を提示したあと、その分析を、
ウィトゲンシュタインが「アスペクト知覚」について考えていたことへと接続してみたい。
1
そのさい、
『知覚の現象学』におけるメルロ=ポンティが「世界の相互感覚的統一」につい
て考えていたことを、補助線としよう。そのうえで、もう一度、相互行為分析のほうに折
れ返り、参加者自身の理解への接近可能性の基盤について考えたい。本稿は、日頃、相互
行為の経験的研究の側に身をおく者が、ウィトゲンシュタイン流の概念分析(あるいは「表
現形式の連結分析」)をとおして、相互行為分析の可能性を広げようという試みである。本
稿がウィトゲンシュタインの思考の広がりの 1 つの例示となればと思う。
2. 実演という行為――視覚と身体
ここで扱うのは、4 歳の子どもにバイオリンの弓の動かし方を、プロのバイオリニスト
が教えている場面である(この事例には、西阪 2008 においても分析を試みている)。この
事例では、子どもの演奏のあと、教師が、その悪い点を指摘し、正しい動かし方を実演す
る。以下、この事例を、4 つの断片に分割して提示しよう。最初の断片 1 では、子どもの
実際の弓の動かし方を、教師が「引用」する。次の断片 2 では、教師は、正しい弓の動か
し方を実演し、ついで子どもが、その実演どおりにやって見せる。断片 3 と 4 では、「身
体の動かし方を見る」という「見ること」の 1 つのタイプについて、その際立った特徴が
明らかになる。
なぜ「実演」という行為をここで取り上げるのか。論点は、2 つある。1 つは、実演は、
すぐれて視覚的な行為だという点である。もちろん、音声資源のみによる実演もありうる
だろう。しかし、上の事例において、実演は、正しい(あるいは間違った)やり方を相手
に「見せる」行為にほかならない。視覚という「心理学的現象」を、相互行為の経験的研
究においてどう扱えるかは、上記の会話分析の基本的な精神に照らしても、相互行為研究
の可能性を探るための試金石となりえよう。
「見る」という動詞は、ギルバート・ライルに
よれば、あくまでも「達成」を表わすものであって、決して、行為・過程・出来事を表わ
すものではない(ライル 1987)。例えば、それは特定の場所において行なわれる、もしく
は出来するものではない(PI-II も参照)。確かに、「見る」という動詞は「どこ」の問いと
結びつくとしても(「ぼくのメガネどこで見た?」
)、その「どこ」への答え(「机のうえ」)
は、見た物(対象)の所在を表わすのであって、見ることの起きた場所を指しているわけ
ではない(もし「見ること」が起きた場所というものがあるとすれば、それは机の「うえ」
ではなく、机の「前」――つまり、見る主体のいる場所――だろう)。であるならば、
「見
ること」の相互行為分析的課題は、相互行為のどこに「見ること」が出現しているかを探
ることではあるまい。むしろ、
「見ている/見た」という概念を、参加者たちが相手にある
いは自分にどう帰属しうるか、これを捉えるべきだろう(クルター 1998)。実演の場合、
実演をきちんと見ていたことの帰属可能性の条件は、まずは、実演どおりに行なうことで
あろう。
実演に関するもう 1 つの論点は、視覚的な実演は、すぐれて身体的な行為だという点で
ある。それは、身体を動かして身体の動かし方を示す行為にほかならない。例えば、正し
い肘の動かし方を自分の肘を用いて示すというように。一方、このような言い方は、間違
いではないが、実際の実演の様々な(相互行為上の)微細な事象を覆い隠してしまう。何
2
が問題かは、例えば、次のことに思いやってみるとよいだろう。第 1 に、肘の動かし方を
実演するとき、教師の肘と子どもの肘との間になんらかの類似関係が確立されていなけれ
ばならない。この類似関係はどのように達成されるのか。とくに、教師は自身の身体全体
を実演に用いるわけではない。肘、腕、手、上体の一部を用いるだけである。つまり、そ
の類似関係は、2 つの身体全体の間にではなく、2 つの身体の部分どうしの間に選択的に
打ち立てられる。であるならば、この選択的な類似関係は、どのようにして達成されるの
か。第 2 に、悪い例ではなく、正しい例の見本として実演がなされるとき、その正しさは
身体のうえにどう表わされるのか。第 3 に、逆に、「実演に従う」とは、どういうことだ
ろうか。身体全体を用いるべきか、あるいは身体の一部を選択的に用いるだけで、実演に
従うことになるのか。あるいは、肘の位置、腕の動きなど、物差しで測って一寸たりとも
違わぬ形で身体を動かすことが、実演に従うことではあるまい。であるならば、子どもが
実演と「同じように」行なったという判断が、参加者である教師と子どもにより下されう
るための条件は、何なのか(Garfinkel 2002 のインストラクションに従うことに関する議論
を参照)。以下では、まず、いま挙げたいくつかの問いに応える形で分析を行ない、そのな
かで、実演における「見ること」の意味を考察する。
3. 身体的編成と類似関係
この節では、ビデオの詳細な書き起こしにもとづき、何が行なわれているかを順次記述
していく。書き起こしにおいて用いられている記号については、章末に一覧を掲げておく。
断片 1 の冒頭では、子どもがバイオリンを弾いている。教師は弓を取り、それを停止し
ようとする。1 行目は、子どもの注意を得るために、教師が子どもの名(「はなちゃん」)
を呼んでいる。3 行目以降、教師は、子どもがどのように「悪い」やり方でバイオリンを
弾いていたかを示す。とくに 3~5 行目では、教師は、子どもが上腕だけを動かしていた
ことを指摘している(「ここ: (0.4) うごいてるの」)。以下では、3 行目以降を詳細に見てい
こう。
3
4
3 行目で教師は、子どもの右腕を擦りながら(図 1)「ここ」という指示表現を用いるこ
とで、その右腕を焦点化する。そのとき、バイオリンを弾き続けることが教師により停止
されたこと(とくにその理由)と、この右腕は関連付けられて捉えられるはずである。す
なわち、右腕はなんらかの「問題」の所在として示される。そして、4 行目で子どもの視
線が子ども自身の腕(
「CA」)に向けられると、5 行目で教師は、子どもの右腕を軽く叩き
ながら、自身の左肘を子どもの右腕のうえに掲げる(図 2)。この教師の左肘の位置は、子
どもの現在の右腕の位置と並置されることで、両者の位置の差を際立たせている。つまり、
子どもの腕の実際の位置が、教師の肘の位置と対照化され、ひるがえって、教師の肘の位
置が、規範的な状態として見えてくる。言いかえれば、その位置は、子どもの腕の実際の
位置が評価されるための基準として設定される。とくに、5 行目で(教師の発話全体は、
文法的にいくらか崩れているものの)想起が促されている(「おぼえた::?」)ことにも注意
したい。この想起の促しと教師の肘の位置との並置も、教師の肘の高さの規範的地位(想
起されるべき、過去に教えられた事柄という地位)に貢献しているように見える。
関連して、7 行目の教師の発話(
「こうゆうふうに 動いて↓た °から°」)の組み立て(お
よび並行する身振り)に注意しよう。第 1 に、過去形を用いることで、子どもの実際に出
来した腕の動きに言及している。第 2 に、「こうゆう」という指示表現を用いながら、教
師は弓を(バイオリンのうえで)動かす。これにより、7 行目の発話は、全体として、こ
こに生じる動きに言及するものと聞こえる。第 3 に、問題の所在を示す教師の左手が、7
行目においても、依然、子どもの右腕のうえに(実際の動きがそれと対照化される位置に)
かざされている(図 3)
。この 3 つの点を合わせると、教師は、ここで、子どもの「実際に
なされた悪い動かし方」を実演的に「引用」(Keevallik 2010)していると理解できる。
5
この「悪い動かし方」の実演は、以上見てきたように、特定の身体的編成のなかで達成
されている。とくに、7 行目で教師が行なっていることは、弓を動かすことである。しか
..
し、7 行目の実演は、決して、弓の動きそのものを見せようとしているのではない。それ
.......
...
は、あくまでも子どもの右腕の(しかも悪しき)動きを見せようとしている。この違いは、
7 行目における発話と(並行する)弓の動きだけからは成立できない。音声資源と視覚資
源(とくに教師の左腕の位置)、それに運動知覚資源が、2 つの身体の構造化された編成の
なかに時間的・空間的に配列されることにより、初めて達成される。
ところで、この身体的編成には、じつは亀裂が入っている。実演が特定の動きを見せる
ものであるならば、それを見せられる側は、実演の焦点となる身体部位を見ていなければ
ならない。上の実演も、このことを織り込んだ身体的編成のなかでなされるはずだった。
実際、3 行目では、両者の視線は、子どもの右腕に集まっていた。しかし、5 行目ですで
に、子どもは視線を教師の顔(
「XX」)に向け始める。そのあと、教師が左手を掲げ続ける
ことで、子どもの右腕を視覚的に焦点化し続けているにもかかわらず、子どもの視線が自
分の右腕に戻ることはない。
1 点注意しておきたい。断片 1 の実演においては、身体間の類似関係は必ずしも打ち立
てられていない。むしろ、焦点となっている子どもの腕を、直接動かすことによって、そ
の実演は成立していた(それゆえ、
「実演」というよりは「再現」と言うべきかもしれない)。
断片 2(断片 1 の続き)における実演は、この点において断片 1 のものと異なる。
断片 2 の 9 行目で、教師は、「こう」という指示表現を用いながら、自分の右肘を左手
で触れる。この指示表現に誘われて(Goodwin 1986)、子どもは、視線を教師の右肘(腕)
に向ける。教師は、この子どもの視線の動きを確認したあと(「XX」で示されるように教
師は子どもの顔を見ている)、10~11 行目で正しい右手の動かし方の実演を行なう(図 4)。
(ちなみに、「わんわん」というのは、四分音符の拍を表現したものである。
)子どもは、
その実演を見たあと、低い位置にあった自分の肘を上げ(図 5)、視線をバイオリンに移し、
実際に弾く用意を始める。
6
7
この教師による実演においては、教師の身体と子どもの身体のとの間に選択的な類似関
係が打ち立てられている。教師は、弓を動かす動作を行なうことによって、自身の身体を
子どもの身体の「モデル」として用いている。図 4 と 5 に見えるように、手もあたかも弓
を握るような形に作り、さらに、顔を前方に向ける(ただし、目は子どものほうを向いて
いることがビデオからわかる)。さて、この 2 つの身体の選択的類似関係は、どのような
...
身体的編成において打ち立てられているのか。また、とりわけ、この実演は正しい動きの
実演として知覚できる。この知覚可能性は、どう達成されているのか。この 2 点について
考えたい。
第 1 に、「子どもの悪い動かし方」の再現のさい、子どもは、その再現のなされている
場所ではなく、教師のほうを見ていた。断片 2 における実演は、この子どもの視線の向き
を利用している。教師を見ている子どもの周辺視野のなかを,教師の左手が(指示表現と
ともに)右肘に向かって通過することによって,また同時に,子どもの周辺視野に教師の
右肘が突き出されることによって、いまなされようとしている実演へと、子どもの視線が
誘導される。第 2 に、直前まで、子どもの右腕を動かしていた、
(教師の)同じ右腕が、
弓を動かす動作と知覚可能な動きへと持ち込まれる。第 3 に、2 つの身体が、正面に向き
合うのではなく、L 字型に配置されることにより(しかも、教師は実演にさいし、あえて
上体の前面を、子どもの正面に開かれた空間に向けているように見える)、両身体の左右の
対応関係が(逆転することなく)維持されている。以上の身体的編成のなかで、教師の実
演は成し遂げられる。
さらに、第 4 に、教師の右腕は、子どもの右腕と空間的に並置される。これは、2 つの
右腕の類似関係の成立に貢献するとともに、肘の位置の差異を際立たせる。第 5 に、教師
の右肘の位置は、直前に子どもの右腕のうえに掲げられていた教師の左肘の位置とも、関
係づけられる。現在の右肘の位置は、先ほどまでの教師自身の左肘の位置および子どもの
現在の右肘の位置と関係づけられることにより、教師の現在の右肘の位置は、子どもの現
在の右肘の位置と対照化され、規範的な基準という地位を獲得している。
一方、図 5 に見られる、子どもの引き上げられた右肘の位置は、教師の右肘と並置され
ることにより、および、まさにその引き上げる動作により、教師の右肘の高さと「同じ」
位置にあるものと知覚される。
「同じように」行なうこと、すなわち実演に従うことも、特
定の身体的編成のなかで達成される。
4. 身体の動かし方を見ること
子どもは正しい位置に自分の肘を引き上げることにより、教師の示した正しい肘の動か
し方をきちんと見たこと、そしてその要点を正しく理解したことを、明確に示している。
すでに述べたように、実演はすぐれて視覚的な活動である。しかし、実演を見ること、す
なわち、身体の動かし方を見ることには、独特の特徴が具わっているように見える。実演
にあっては、視覚が運動知覚に結び付けられていることが、決定的に重要であろう。実際、
断片 2 の 11 行目において、子どもは、自身の腕の動きに視線を向けないまま、教師の実
演に従っている。言いかえれば、実演を見ることは、教師の腕の動きを見ながら、同時に、
8
いわば自身の運動知覚をも「見る」ことにほかならない。このように、身体の動かし方を
見ることは、本質的に複合感覚的な達成である。
断片 2 のあとに起こることは、この特徴を露わにしてくれる。断片 3 は断片 2 の続きで
ある。子どもが肘を上げて弓をバイオリンに戻そうとするとき、教師は、その弓の方に両
手を伸ばし(12 行目)
、
「あら::?」と、何らかの「異常」に気付いたことを明らかにする(13
行目)。そして、そのまま弓を両手で押さえる(14 行目)。15 行目で、教師が「銀色の: ち
ょっと↓上:」と言うとき、教師がどのような「異常」に気付いたかが明らかとなる。「銀
色」とは弓の銀色部分を指し、この銀色部分は、弦に弓のどの部分を置くかの目印として、
いつも用いられている。つまり、この銀色部分の「ちょっと上」の部分を弓に接するべき
ことを、教師は、子どもに思い起こさせている。しかし、子どもは、教師が弓を押さえた
とき、視線を自分の肘(「CE」15 行目)のほうに向けていく。そして、15 行目において、
子どもは、教師によって実演されたのと同様のやり方で、自分の腕を動かす。つまり、子
どもは、教師の気付いた「異常」を自分の肘の位置であると理解(誤解)したこと、この
ことが子どものこの振舞いにより明らかになる。
9
10
教師の実演を正しく見たことを確認するために、子どもは、自分の肘に視線を向ける。
すなわち、自分の肘の高さが自分の見たものと同じ状態にあることを、視覚的に確認する。
しかも、単に事実として確認しているだけではなく、
「確認していること」を、教師の前で
(いわば、それとわかるように)実際に行なっている。
ここには 2 つ問題がある。第 1 に、実演に従うこと(実演どおりに行なうこと)とは、
実のところどういうことか、という問題がある。すでに述べたように、実演において用い
られる身体の類似関係は、選択的である。確かに、教師は、断片 2 における実演において、
自身の顔の向きも類似関係に組み込んでいた。すなわち、顔の向きも実演の構成部分とし
て用いられていた。しかし、同時に、肘の位置と動かし方こそが、実演の焦点として際立
たされていた。だから、子どもが肘を見やったことが誤解にもとづくとはいえ、だからと
いって、それでも肘を実演どおりに動かしているかぎり、子どもが実演に反したことをし
ているわけでもない。実際、断片 3 に続く断片 4 において子どものこの振舞いに対して、
教師は承認を与えている(19 行目)。
11
12
とはいえ、腕を動かしながら、その動かしている腕を見やることは、バイオリンを弾く
ときの姿勢として、決して正しいものではない。20 行目から、子ども自身そのことを了解
しているのがわかる。つまり、教師が弓を弦のうえに戻したとき、すなわち、
「バイオリン
を実際に弾く」ための身体的編成を再構築しようとしたとき、子どもは、その動きに誘導
されて、弓(と弦の触れる部分)に視線を戻す(20~21 行目において視線は「CE」から「B」
に移動している)。さらに、断片はもはや引用しないが(図 8 参照)、この直後に教師が弓
を右手に持ち替え、左手を(たまたま)子どもの右肘に当てるとき、それに誘導されて、
子どもはふたたび自分の右肘を見やる。このとき、教師は、こんどははっきりと「こっち
見ながら弾こうか」と弓のほうを見るよう促す。
図 8 教師が左手を子どもの右肘に当てると、
子どもは視線を右肘に向ける。
ここから、実演に従うときに子どもが自分の右肘を見やることにまつわる第 2 の問題を
....
考えたい。すでに述べたように、実演を見ることとは、相手(教師)の身体の動きを運動
知覚的に見ることにほかならない。これは、他のタイプの見ること(物を見ること、ある
いは何かを何かとして見ること)とは根本的に異なるタイプの見ることである。他のタイ
プの見ることの場合、自分が見たことが正しいかどうかを確認するための最も重要な手段
は、何らかの形で(もう一回自分の見たものを見る、見たものとまねて描いたもの・やっ
ていることを見比べる、自分の見たものの視覚的形状・色などを説明する、など)視覚的
であるように思う。しかし、実演を見ること(あるいは、より一般的に、身体の動かし方
を見ること)の正しさは、むしろ、
(見たり見比べたり説明したりすることではなく)端的
に(すなわち、自分の身体の動きを見ることなく)同じようにやることによって示される。
このような本質的に複合感覚的な視覚は、にもかかわらず、直接的なものであり、さら
に、ビデオを用いた相互行為分析の方法的基盤となりうる。次節では、これまでの分析を
振り返りつつ、この点について議論してみたい。
5. 相互感覚的統一とアスペクト知覚
以上、1 つのデータを詳しく分析しながら、2 つの事柄について検討を加えてきた。1
13
つは、様々な様式の資源が特定のやり方で時間的・空間的に配列されるなかで身体が(例
えば、選択的な類似関係へと)構造化されることだった(相互行為における複数の身体の
他のタイプの構造化については、Nishizaka 2014 を参照)。特定の(実演や実演に従うとい
うような)行為タイプは身体の特定の構造化において実行され、かつ、行為の実行はこの
構造化を更新する。グッドウィンは、「共生的身振り」もしくは「環境と連結した身振り」
という概念を提出した(Goodwin 2003, 2007; Nishizaka 2003 および西阪 2008 も参照)。これ
は、構造化された環境と連結することによってのみ意味を持つような身振りのことである。
例えば、多くの指差しはそのような身振り(手振り)である。一方、身振りのなかには、
とくに他の身体と連結することによってのみ意味を持つものもある。例えば、断片 1 の 7
行目における教師の左腕の形状・位置の意味は、子どもの右腕との連結において達成され
る(図 2)。あるいは、断片 2 の 11 行目において子どもが右肘を引き上げとき、それが「実
演に従うこと」という意味を持つのは、教師の右腕との連結においてである。このように
身振りの意味は、しばしば、身振りが互いに時間的・空間的に連結し合うなかで、さらに
それぞれの身振りが発話および環境(弓など)と時間的・空間的に連結することによって
達成される。あるいは、そもそも身振りは相手の視線の向きとの連接なくして意味を持つ
..
ことができない。すなわち、構造化された身体的な編成全体のなかに位置を持つことで、
個々の身振り・発話・道具は意味を獲得する。行為の達成は、このような意味の全体に依
存している。
本稿が検討してきたもう 1 つの事柄は、複合感覚的視覚とでも呼ぶべき視覚のタイプで
..
....
ある。教師の実演を見るとき、子どもは、教師の腕の動きとともに,腕の動かし方を見て
いた。メルロ=ポンティは、
『知覚の現象学』のなかで「世界の相互感覚的統一」について
語っている(1967: 232)。あるいは、諸感官が「互いに交流する」と述べ、次のような観
察を行なっている。
「われわれはガラスの硬さともろさを見るのであり、それが透明な音と
もに割れるときには、この音も目に見えるガラスによって担われる」
(1974: 40)と。この
タイプの相互感覚的対象の知覚は、ウィトゲンシュタインが「対象の絵」の知覚について
論じたことと相通じるものがあるように思う。つまり、いずれの知覚も、
「アスペクトを持
続的に見ること」
(PI-II: 194/118)の事例であるように見える。ウィトゲンシュタインによ
れば、アスペクトを持続的に見ることは、アスペクトの知覚である点で、対象を(端的に)
見ることと異なるとともに、持続的である点で、何かを何か「として見る」(「アスペクト
のひらめき」)とも異なる。すなわち、顔の絵を見るとき、確かに顔を見ているとしても、
あくまでも絵を顔というアスペクトのもとで見ているし、ガラスの硬さやもろさを見てい
るときも、ガラスを硬さやもろさのアスペクトにおいて見ている。一方、顔の絵は、顔以
...
外には見えない以上、
「いま、その絵を顔として見ている」という言い方を体系的に排除す
る(PI-II: 194-195/121; この点については、山田 2016 が緻密な議論を展開している; 山田
2015 も参照)
。
一方、アスペクトを見ることは(
「ひらめき」であれ「持続的に見ること」)であれ、ま
ずは、絵そのもの(すなわち、顔のアスペクトをはぎ取られた線や色の束)を見、それに
....
解釈のような付加的操作が加わって得られるわけではない。それはあくまでも直接的な視
14
覚である。例えば、
「として見ること」について、ウィトゲンシュタインは、次のように言
っている。
「解釈をすることは、仮説を立てることである。それは仮説である以上、検証の
結果、偽となることもありうる。――『私はこの図を……として見ている』という命題は、
『私は明るい赤を見ている』という命題と同じぐらい(あるいは、まったく同じ意味で)
検証にかからない」(PI-II: 212/250)。ところで、メルロ=ポンティも、いわゆる「恒常性
仮説」
(
「刺戟と要素的知覚とのあいだの一対一対応および恒常的連結」
[1967: 36]の仮定)
を批判するなかで、ほぼ同じ議論を展開しているように見える。例えば、
「補助線をつけ加
えると、客観的には相等しい 2 つの図形が不等に見えることがある」。しかし、彼は次の
ように問う。
「現象が刺戟としっくりゆかないこうした事例をも恒常性法則の枠内におしと
どめて、これを注意とか判断とかの附加的要因でもって説明すべきであろうか。それとも
いっそ、恒常性の法則そのものを放擲してしまうべきであろうか」
(1967: 6)。つまり、ま
ずは、線と色の束と、それに対応する要素的な視覚経験が与えられ、それに解釈や判断の
ような付加的操作が加わって、特定の見えが得られるわけではない。私たちは、直接、そ
のように見るのである。
重要なことは、「見ること」は多様だということである。対象を見ること、絵に描かれ
た顔を見ること、ウサギ-アヒルの絵を(いま)ウサギと見ること。同じ「見ること」で
も、これらは概念的に異なり、いずれかにその他が還元できるわけではない。つまり、い
ずれかが基礎的な視覚であって、それに対する付加的操作により、他の視覚がもたらされ
るわけではない。さらに、おそらく、
(すでに「ひらめき」と「持続的に見ること」の違い
によって示唆されるように)
「アスペクトを見ること」自体が多様でありうる。本稿で検討
した「身体の動かし方を見ること」は、アスペクトを見ることの一例である。子どもは、
教師の腕の動きを、いわば運動知覚のアスペクトにおいて見ていた。とはいえ、これは、
次の点において、他のアスペクト知覚と比べ際立っているように思える。つまり、運動知
覚が視覚の成立そのものに本質的に関わっているように思える。メルロ=ポンティは、
『行
動の構造』で、
「箱の高い垂直のヘリの向こうに置かれた果物を自分のほうに引き寄せると
いう課題」(1964: 177)の遂行のために要求される複雑な空間関係の知覚について、次の
ように指摘していた。そのような知覚は、その組織そのものに「運動的態度」を含み込ん
でいる。
「運動的態度がもたらすのは、さまざまな内容ではなく、むしろ視覚像を組織化し、
表象された空間の諸点間に必要な関係を追尾する能力である」
(1964, p. 178; 訳語一か所変
更)。あるいは、
『知覚の現象学』でも、次のような観察がなされている。
「ある対象にむか
って手を伸ばすとき、その手振りはその対象への指し示しを含んでいるが、しかし、それ
はその対象の表象では断じてない。そのとき、その対象は十分に規定されてしまっており、
われわれはそれへとすでに投げ込まれ、予測とともにそれに少し先んじ、もはやそこから
離れられなくなってしまっている」
(1967: 233; 訳変更)。そのとき、その対象は見つめら
れているとしても、運動知覚は、視覚の後に付け加わるのではなく、むしろ,運動知覚が
先行的に投射されることによって初めて視覚そのものが成立する。それゆえ、運動知覚に
結びついた視覚は、いかなる意味においても表象となりえない。ちなみに、ウィトゲンシ
ュタインは、『心理学の哲学』第 1 部 874 節で、「ほら、あの走り方を見て」という表現
15
が、その走り方についての情報を与えようとするものでなく、その表現の受け手と共有す
るべき反応にほかならないと述べている(RPP-I: 874)。「絵に描かれたその馬は走ってい
る」と言うことは、「その絵が、走っている馬の表象であることを知っている」と言うこ
ととは異なる(RPP-I: 874)。なぜなら、運動知覚がその絵の「内容」になっているのでは
なく、その絵の見え方そのものを組織しているからだろう。確かに、何かを何か「として
見ること」(アスペクトのひらめき)は、現在の独特の視覚的経験の表明である(RPP-I:
12-13)。そのかぎりにおいて、「A を X として見る」と述べても、A が X を表象・記述し
ているという主張になりえない。一方、「描かれた馬の走りを見ること」「誰かの走りっ
ぷりを見ること」は、それ以外に見ようがないかぎり、経験の表明ではありえない(山田
2016 参照)。しかし、その描かれた馬への指し示しは、決して表象・記述関係なのではな
く、むしろ「反応」である。
以上の議論において示唆されるとおり,「見ること」は多様である.一方で、対象を見
ること、見たことを解釈することと、アスペクトを見ることは、概念的に根本的に異なる
ものである。が、それとともに、他方で、アスペクトを見ること自体、概念的に多様であ
....
る。とりわけ、身体の動かし方を見ることの独自性は、それを正しく見たと言えるための
基準にあった。前節で述べたとおり、それは、視覚情報にもとづく確認(見比べることで
あれ、形状・色を説明することであれ)から切り離されている。少なくとも顔の向き、目
の向きも含めて「実演に正しく従うこと」、すなわち「実演を正しく見た」ことの基準は、
何も見ずに同じようにできること以外にないだろう。このような視覚の根本的な多様性に
注意するならば、視覚の(要素的な視覚への還元可能性を想定する)還元主義に対抗しつ
つ、視覚の経験的研究を豊かにする道が開かれるように思える。
関連して次の点も指摘しておきたい。身体の動かし方の実演においては、実演者の身体
が正しい、あるいは誤った身体の動きの「モデル」となっている。そのかぎりで、実演と、
それが実演している身体の動きとは、「表象」関係にあるようにも思える。しかし、2 つ
の点において、注意が必要だろう。第 1 に、実演は、あくまでも身体の動きを実演してい
るのであって、それを表象しているわけではない。だから、実演者は、決して、精確に身
体の動きを描写することに関心はないだろう。それは、例えば、正しい弓の使い方を教え
るという実際上の目的に照らして「精確」であればよい(Drew 2003)。
第 2 に、実演は、実演に従ってどう身体を動かすかを決定しない。むしろ、実演の意味
自体、実演に従うことにおいて明らかになることもある(Garfinkel 2002; Liberman 2013)。
例えば、断片 2 において、子どもは、自分の右肘を引き上げることにより、教師の実演ど
おりに行なった。子どものその所作が「実演に従う」という意味を得るのは、教師の身振
りとの時間的・空間的連結においてにほかならない。一方、教師の身体の「モデル」とし
ての地位、および実演者の個々の身振り・手振りの意味は、逆に、実演に従う側の身体の
動きとの連結において確立される。「モデル」身体とそのモデルに従う身体との関係は、
互いに意味を与え合う関係にあり、必ずしも、前者が後者の動きを表象(=代理)すると
いう関係にはない。(ジョージ・サーサスの「道順指示用の地図」についての研究を思い
起こすとよいだろう。いくつかの目印となる建物などだけが書き込まれた手書きの粗い地
16
図は、それを眺めただけでは、それぞれの線や目印が何を意味するかは定かではない。そ
の意味は、その地図に従って目的地に行く、まさにその過程の中で明らかになる[Psathas,
1979]。Garfinkel 2002; Liberman 2013 も同様のことを実演的に示している。また関連して、
Lynch 1988; 上野 2000 の「並置」の議論も参照。)
6. 結論
メルロ=ポンティは「世界の相互感覚的統一」を、身体とともに動きまわる「世界内存
在」の統一にもとづかせているように見える。「2 つの眼が視像のなかで協力するように
諸感官は知覚のなかでたがいに交流し合うのだ。音を見たり色を聞いたりすることが実現
されるのは、まなざしの統一が 2 つの眼をとおして実現されるようなものであり、それと
いうのも、私の身体が並置された諸器官の総和ではなく、その全機能が世界内存在という
一般的運動のなかでとりあげ直され、たがいに結び付けられている 1 つの共働系であ」る
からだ(1974: 46)。さらに「世界内存在」の統一は、世界の統一、すなわち他者との不
可分性へとつながっている。世界は「私の知覚と他者の知覚とに分割されぬままでありつ
づけようとし」、知覚する私は知覚される私を不可能にするような特権をもつことはない
(1974: 217)。さらに、ずっとあとになってメルロ=ポンティが「間身体性」について語
っていたことは有名である。世界内存在の統一が、2 つの眼をとおして実現されるまなざ
しになぞらえられていたように、自己と他者は、同じ 1 つの身体の 2 つの手が自分にとっ
て「共現前・共存在」していることになぞらえられる。つまり、自己と他者は、「同じ 1
つの間身体性の〔2 つの〕器官なのだ」(1970: 18)。
一方、ビデオにもとづく会話分析研究は、相互行為の「複合様式的」環境の重要さに着
目してきた。「身体および、相互行為場面の設定により、〔相互行為のための〕様々な資
源〔発言、視線、身振り、道具など〕が与えられる。これらの資源は、現在の行為におい
ていま何がふさわしいものとなっているかを、相手に示すために多様なやり方で用いられ
る」(Goodwin et al. 2002: 65)。この多様なやり方で用いられる多様な資源は、多様な知
覚様式によって近づきうるものである。さらに、会話分析的研究は、とくに視覚について
も多くの研究を行なってきた。とりわけ、その時々の活動の組織に関連したアスペクトの
もとで物事を見ることがどう組織されるかが、様々な場面設定において探求されてきた
(Goodwin 1994, 1995, 1996; Goodwin & Goodwin 1996; 西阪 1997, 2001 など)。しかし、ア
スペクト知覚の多様な「種」の論理的地位については、何も検討されることがなかった。
進行中の活動の偶然的展開において、多様な様式の知覚を巻き込みつつ、様々なタイプの
「見ること」がどう組織されるか。本稿が、このことを経験的に明らかにしつつ、間身体
性の具体的組織を研究しようとする試みの端緒であればよいと思う。
ところで、ビデオに依拠する相互行為研究は、自分たちの「見ること」を研究の対象と
することなく、研究の資源として用いている。しかし、本稿で考えたことは、分析者自身
がどのように見ているかの基盤をも与えてくれる。私たちはビデオをとおして様々なこと
を直接見ている。確かに、参加者たちが用いている触覚的資源に、分析者がビデオをとお
....
して触覚的に近づくことはできないだろう。しかし、分析者は、じつは触覚的・運動知覚
17
....
的資源に直接視覚的に近づくことができる。本稿が示したのは、その体系的な基盤が相互
行為のなかに仕込まれているということである。本稿の研究は、その意味で、私たちが「同
じ 1 つの間身体性の諸器官」であることを実演的に示すものであるとも言えよう。
断片で用いられている記号の一覧
引用されている断片の音声部分は、ジェファソンが開発したトランスクリプション・シ
ステム(Jefferson 2004)により書き起こされている。行番号のある行には発話を記し、そ
の下に、視線とその他の身体の動きを記してある。以下は、本章で、実際に用いられてい
る記号の説明である。
(n.m) 音声が途絶えている状態があるときは、その秒数がほぼ 0.2 秒ごとに括弧内に示
される。
直前の音が延ばされていることは、コロンで示される。コロンの数は引き延ばし
:
の相対的な長さに対応している。
下線
音の強さは下線によって示される。
°
音が小さいことは、当該箇所が°
°
°で囲まれることにより示される。
語尾の音が下がって区切りがついたことはピリオドで示される。語尾が継続の音
.,?
調であることはカンマで示される。語尾の音が上がっていることは疑問符で示され
る。
↓↑
音調の上がり下がりは、それぞれ上向き矢印と下向き矢印で示される。
言葉<
急激に発話が終えられていることは、右開きの不等号が付されることで示される。
(言葉) 聞き取り(および見え方)が確定できないときは、その部分は括弧でくくられる。
(( )) 注記は二重括弧で囲まれる。
|
動作と発話との位置関係は縦棒「|」によって示される。
-->
動作の継続は矢印で示される。
-->>
動作が行を超えて続いていることは、二重矢印で示される。
XX
視線の向きはアルファベットによって示され、それぞれ何を表わしているかは、
そのつど欄外に注記される。ただし、
「XX」は、相手の顔に視線が向けられているこ
とを示す。また、小文字は、視線が向かいつつあること、もしくは外れつつあるこ
とを示す。
文献表
【欧語文献】
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18
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みすず書房.
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てつながっているのか」, 本書所収.
ライル,ギルバート (1987):『心の概念』, 坂本百大・井上治子・服部弘幸 (訳), みすず書房.
荒畑靖宏・古田徹也・山田圭一編『甦るウィトゲンシュタイン』(リベルタス出版),収録予定
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