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- 1 - 異文化の旅 チュニジアを行く1998
異文化の旅 チュニジアを行く1998-15 チュニジア紀行6日 ザグーアン水道橋 チュニスの民家訪 a068 問 草原で草をはむ羊の彼方に山 が 見 え て き た ( 写 真 )。 Mt. Zaghouan ザグーアン山らしい。 稜線は緩やかで、いくつか頂の ある山だ。日本なら観音様の寝 姿とでもいいそうな形である。 地 図 に は 1295m と 記 さ れ て い る。カルタゴを属州とした古代ローマ帝国の 15 代皇帝アントニヌ ス・ピ ウス( 86-151) がカル タゴの 海沿いに Termes d'Antonin = Antonin Baths アントニヌス共同浴場を着工した。完成は、 16 代皇 帝マルクス・アウレリウス( 121-180)の代である。この共同浴場 の水はカルタゴから南およそ 60km のザグーアン山から引かれた。 直線なら 60km ほどだが、山あり?谷あり?の地形をおよそ 1cm / 10m の一定の勾配で引いてくるために地下水路と水道橋を組み合わ せた全長 132km になったそうだ。 車はその水道橋に着いた。古代ローマ帝国衰退後、ヴァンダル族 がチュニジアを支配するが、ビザンティン帝国が奪回したときヴァ ンダル族は水道橋を破壊してしまう。ビザンティン帝国は水道橋を 復元して使用したが、イスラム・アラブ人が侵攻したときにまたも 破 壊 さ れ て し ま う 。 1265 年 ご ろ 、 イ ベ リ ア 半 島 の ム ッ ワ ヒ ド 朝 ( 1130-1269)のチュニジア総督が興したハフス朝( 1229-1574)の ころに水道橋が再建され、使われたらしい。しかし、維持管理を怠 ったためか、その後の戦乱のせ いか、いつの間にか破断され、 放置されてしまった。 その遺構が ザグーアン水道橋 と し て 残 さ れ て い る ( 写 真 )。 高さは 8 ~ 9m、アーチの間隔は 6m ほど、水路・柱脚の幅はおよ そ 6m で、柱脚は約 50cm 角の直 方体を積み重ねている。素材は砂岩のようだ。アーチ部分も板状に 加工した砂岩でつくられている。維持管理をなおざりにすれば、水 路に砂が堆積し流れが悪くなるし、砂岩はもろいからアーチの石版 がずれて勾配が変ったり水が途中で抜けてしまうこともある。放置 されたのは古代ローマ人とイスラム・アラブ人の水に対する執着度 の違いかも知れない。 ザグーアンから北のチュニス に向かう。 12 月 21 日にパリ・ オルリー空港を発ってチュニス ・カルタゴ空港に着き、カルタ ゴの遺構やメディナを見たあと 、 その日のうちにトゥズール空港 に移動しているから、チュニス の印象はわずかだが懐かしく感 じる。 4 時半ごろ、 Abou Nawas アブ・ナワスホテルに着いた。 5 星 の大きなホテルだ。 8 階の部屋からは幹線道路に沿った水路が見え る。その向こうに Lac de Tunis チュニス湖が広がる。水の豊かさが うかがえる。樹木もしっかり根付いている。 6 時に ロビー に集 まり、あら かじめ依頼しておいた 民家訪問 に出かけた。ところが訪ねたお 宅は高級住宅であった。ご主人 は会社を経営し、奥さんはいま は産休だがなんと現役のパイロ ットで、まさにエリート夫婦で ある。高台斜面地の分譲住宅地 に開発された集合住宅で、 4 階建てメゾネット形式の 1-2 階がこの お宅になる(写真右手の 1-2 階 )。外観は白く仕上げられ、ドアや 窓の面格子、バルコニーの手すりなどに焦げ茶色の木製が組まれて いて、洗練された印象を感じる。外観は直線を基本にしながら、大 きな凹凸 、小さな凹凸が工夫されていて 、表情が豊かになっている 。 これまで見学した先々でベルベル人、アラブ人のたくみなデザイン を何度も見てきた。チュニジア人のデザイン力は無理をせず、てら - 1 - - 2 - いもなく、景観に馴染んでいて、違和感がない。さまざまな文化交 流の結果であろうか。 挨拶を終え、みんなが居間で お茶を頂き始めたころ合いに間 取りを取り始めたところ、ご主 人が図面のコピーを用意してく れた。延べ床面積は 180 ㎡の大 住宅である。 1 階 Entree 入口を 入ると Hall ホールで、右手にト イレがある 。ホール右奥が Cuisine 台所で食堂を兼ねている( 写真 )。 地中海を挟んでチュニジアの対岸はフランス、モナコ、イタリアで あり、フランスはチュニジアを保護領とした歴史もあるから、チュ ニジア人はヨーロッパ先端デザインに慣れ親しんでいる。キッチン のデザインがいいのは当然であろう。 ホール正面奥が Salon 居間で 、 9.4 m × 4m ほ ど の 広 さ だ か ら 37.6 ㎡、日本風にいえば 23 畳の 広さになる。居間の左手にソフ ァーが並びゆったりくつろぐス ペース、右手には食卓が置かれ ていて、正餐や客が来たときに ここで食事をとる(写真、ソフ ァの方から食卓を見る )。家具はやはり洗練されている。 ホール左の階段から 2 階に上がる。居間の上部にあたる場所にメ インの寝室とバストイレを挟んで子ども用寝室がある。夫婦の寝室 は遠慮したが、子どもは生まれたばかりで部屋はまだ使っていない からと見せてくれた。すでにベッドが用意され、おもちゃも並び、 飾り付けもされていて、いつでも使えるように準備は整っていた。 ヨーロッパ流に子どもの独立は早そうである。台所の上部にはバス トイレ付きの予備寝室がある(次頁写真 )。子どもが増えたらここ を利用し、客が泊まるときはここを使う。いまは夫婦寝室をママと 赤ちゃんが占有しているのでご主人が予備寝室を使っている。ゲス ト用のバストイレを見せてもらったら、一流ホテルと遜色のないつ くりに、明るいデザインタイル で仕上げられていた。居心地良 さそうである。 それぞれの部屋は大きく、内 装や設備も充実していて、暮ら しを楽しんでいる雰囲気にあふ れていた。しかし、これまで見 てきたサハラに近い各地の民家 とはスタイルを異にする。 1 階にリビング・ダイニング・キッチン の家族室、 2 階に 3 ベッドルームの私室とする構成は欧米の現代住 宅や面積は小さいが日本のマンションに共通する。デザインは住み 方や使い方、考え方と裏表である。中庭型の伝統的な住み方とは異 なった家族団らん +プライバシー重視のヨーロッパの新しい住み方 が広まっていることをうかがわせる。 私が図面コピーを片手に部屋を見て回っているあいだ、みんなは お茶を頂きながら経営者 +パイロット夫妻の暮らしぶりを聞いてい たようだ。あとでまた聞きした話ではご夫婦の結婚パーティは伯父 の家で開き、 700 人が集まったそうだ。 700 人が集まるというのも 驚きなら、 700 人が集まれる住まいも驚きである。おそらく伯父の 住まいは中庭型の大邸宅だったのではないか。中庭と中庭を囲んだ 部屋がパーティ会場に使われ、家族親戚、友人知人が顔を合わせ、 結束を確認しあう、血縁・地縁重視の住み方だったに違いない。ど ちらの住み方にも長所がある。同時に短所もある。ご夫婦のように 住み方を自分たちの考えで選べるというのが平和であり、自由であ る。チュニジアが歴史の大きなうねりを経験してきて、いまや平和 であり自由であると確信した。 8 時近 くにお いと まし、ホテ ルのレストランパノラマで夕食 をとった。チュニジア湖が静か にさざ波が立っている。星は見 えない。灯りがにじんでいる。 明日は雨か?。穏やかな時間で あ る 。( 9812 現 地 、 2014.2 記 ) - 3 - - 4 -