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近代都市における盛り場と宗教施設: 神戸新開地を事例

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近代都市における盛り場と宗教施設: 神戸新開地を事例
Kobe University Repository : Kernel
Title
近代都市における盛り場と宗教施設:神戸新開地を事例
に(The amusement district and the facilities for religion
in modern Kobe)
Author(s)
高岡, 麻希子
Citation
兵庫地理,51:39-48
Issue date
2006-03-31
Resource Type
Journal Article / 学術雑誌論文
Resource Version
publisher
DOI
URL
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/90002454
Create Date: 2017-03-30
近代都市における盛り場と宗教施設
村1)新開地を l
'
手例に
高│尚麻希子
1.はじめに
年にあたり、盛り場・新開地の暦)Qを同!制するに
(1) 日:
1
起の!訂作
ふさわしい年でもあった。このような新開地の盛
近代都市における盛り勾ーは、 j由理γ
:
や社会乍な
り場としての性絡が、保々な系 l
h
専の片 l
で尻在も維
J
比
と
ど多分野治、ら注 1され、全国各地の盛り場の)
1
ラ)
持されていることからも、近代に形成されたその
系l
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j
Jされていった。午、?に社会学で、盛り場を
文中Hを解明することには現代的立味が存する。
¥
社l
士、新開地本通り治、ら 500
また、松)己稲川和1
↑
│I
(常的に多数の│村名的な人び、とが盛っているこ
と」、つ主りく l~t\ ;K il;:> とJi:義されてからは 1) 、それ
m ほど南にある小さな社である。そのけ1来は、!日
主での商業施設や上地平 I
J
J日咋といったノ¥ードの分
淀川の堤防上にあった補正成ゆかりの松の木とそ
析に加え、そこに集う人びとの行動やイベン卜に注
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]
'嗣が松尾稲荷という社
の似元に 111日られていた稲 1
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自民し
号になったと伝わる
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:におし、ても、大阪の 1
1
1市街地市部を対象
3
)年に造営され、然科lは稲倉魂NIで線香をあげると
にした:fí:,件以や山 ~IUiI5"Î 天文館地区を分析した論
いう珍ししサバ仰をイイし、縁結びの神様として花柳
1
考;;)などで、盛り場をく 1
+
'
1来事>と捉えている。
界の女性から、また商売繁盛の神様として新開地
ところで各地の盛り場の起源を追求すると、法
。呪在の社殿は 1
914(大正
4
)
の商売人や相場師から手厚い信仰を集めてきた。
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i
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や、戦前の
新開地 J~iJ 辺には淀川神社をはじめ、有名な、円上
1
1
戸の三J
出
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克 1*1とその)主l
辺、東京の浅草など、
も多いが、松!己稲荷材料L
はそれらに比べてもかな
出主・竹林寺と隣接する}~阪の千 1-1
;
j
j教施設を原点に成立した場合や、判 l社境内など
り古し、歴史を有する。盛り場が形成される以前か
の宗教施設の敷地内が盛り場に変容した事例が多
らの対象地域を調査するにあたり、この神社によ
いことに気づく。それにもかかわらず、盛り場と
って、宗教と民衆との強固な結び、つきを垣間見る
宗教施設とを絡めた既往研究は、皆無に近い。劇
ことができると l
J
l
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析した。
場や映│由i
f
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Hなどの遊興施設や制市場などの昨i
業施
以l
二の上うに、新開地と松尼稲荷神社は、民衆
I
没が集応寸る盛り場にあって、それらとは什:栴を
J" :II)J や彼らが引き起こした事象に花[~して盛り
の1
見にする宗教胞 I没は、そこで生起した出来 'J~ や
場
イi
H究を進める上で、ふさわしい事例である。
人々の行動に少なからず影響を与えたはずである。
(2)イ肝究方法
本稿の 11 的は、その村iI ~J 関係が密接にもかかわら
戦 lìíTの神戸・新開地と松!己稲何十I~社の実相を矢11 る
寸三これ主で等閑制されてきた、 I
A
Eり場と宗教施I
没の
手段として、、1時神戸で発行されていた新聞 I
神戸
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関係を併|リ j し、 ~{rt V
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耕1
)
1
ー究に;Nたな視点を提示する
又新 1
1報 J (
以下、y..新と 1与す)と、対象地域を M
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ことにあるつ本イjJI 究で(士、何 l 戸・新開地と松尼稲 1~;f
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やエッセ一等の文献を利用寸ーる
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tl l'tl:を 'j\:Wlj( こ ~X り上げるが、その f~~ 山は、-N1)f ・新
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i末期、十中戸川 i
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k l.-、伝統を J与つ *J~(. ?長爪ぴ〕ような帰り l
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1886年頃、 J
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奇造船!肝の自 I
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川1
1
府正蔵の子
息、川 1奇万太郎に資金を仰ぐこととなり、川1
1
向の支
1
配人であった渡辺尚が H'
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(
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jして経'討にあたった。
1896年 10)
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主j
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lは川 1むl
巨j
誌に l
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iワ古川であることにある。
る、比較的!需!との浅い行j
加えて、
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:2005
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ムく新は 1884(明治 1
7
)年 4月 17日に創刊されたり
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でL"{l.-、うけて個人経'日とした上で、川 11舟攻 阜の ,
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を
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ら均、にした。しかし 1898t
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三、川1
1
舟l
E蔵は松方
年は新開地が J~)1比されて 100 同
39
幸次郎や川崎芳太郎と謀って対抗紙として神戸新聞
である。通行人の数を通りに立って実際に数えたり、
を発刊した。当初は順調な経営を続けていた又新だ
I題に「顕
関係者のインタビューを抱載するなど、面J
が、時代とともに神戸新聞の勢力が強まり、 1
9
3
6
(
昭
微鏡的研究j とあるとおり、その描写はたいへん細
1
)
年1
0月 2日付からは夕刊紙に切り替えた。そ
和1
かい。芸妓の生活の実状や不良少年の実態など、新
して、太平洋戦争の直前、国の一県一紙を建前とす
開地の“闇"の部分も描写されている。
939年 6
る新聞の統合政策によって、社告も無く 1
月 30日をもって廃刊となった 5
)。
2. 神戸新開地成立と発展
(1)開港から湊川埋め立てまで
一般に、新聞記事は[書き手の一方的な産物では
なく、読み手(=盛り場に多かれ少なかれ関わる
867 (慶応
江戸時代尼崎藩領で、あった神戸村は、 1
人々)の需要に応じており、読み手の持つ社会的な意
3
) 年の神戸港開港をきっかけに大変本をとげるこ
識を反映している J6
) と言える。又新を資料に選ん
ととなる。開港に伴い、海外からの人や物の出入り
だ理由としては、神戸新聞が発刊される以前の対象
が頻繁となり、神戸港付近には外国人居留地や雑居
地域に関する記事を利用できる点、また反川崎の立
地が造成された。そして、外国人だけではなく、全
場をとっていたということで、当時の庶民の声や考
国各地から多くの人々が仕事を求めて神戸にやって
きた。このような人々の多くは港の荷役作業に就き、
え方などを読み取ることができる点を挙げうる。
新聞とは別に、新開地や松尾稲荷神社の周辺に居
長屋や木賃宿、下宿屋などに集住するようになった。
住していた人物による記述も考察する。具体的には、
神戸市会は、 1
8
8
7
(
明治 2
0
)
年に制定された「宿屋取
横溝正史の『横溝正史自伝的随筆集」、林喜芳の『わ
締り規則」によって、下層民の住居を、長屋は橘通・
し、らの新開地』、村島帰之の『わが新開地』である。
川崎町・葺合、木賃宿は北長狭通 1丁目・古湊通 1
9
0
2
(明治 3
5
)年、薬種
推理小説家・横溝正史は、 1
'
"
'
'
4丁目・今出在家町・新)1と指定し、それ以外の
商を営む両親のもと、神戸市東川崎町 3丁目に生ま
場所からは排除する聞い込みを行った 8)。これらの
れ
、1
925年江戸川乱歩を頼って上京するまで東川崎
居住地域は、時が経るにつれて固定化、スラム化し
町に住んだ。その聞の「卓越した記憶力で精微に風
たのである。
) 東川崎町や新開地の記述をはじめ、
俗を記した J7
8
6
8
(明治元)年には早くも遊
また、開港間もない 1
作家としての半生などを綴った随筆が『樹茸正史自
郭の開設が許可され、現在の神戸駅の位置に福原遊
伝的随筆集』である。東川崎町の町や住民の気質、
郭が設置された。ところが、 1
871年、大阪一神戸問
松尾稲荷神社周辺の芝居小屋の描写に詳しく、盛り
の鉄道開業に伴う神戸停車場の設置により、福原遊
場・新開地と対比する上で参考になる記事が多い。
郭は開業からたった 3年で移転を余儀なくされた。
また、林喜芳は 1
9
0
8
(明治 4
1
)
年、神戸市東川崎町
.
5
B
7丁目に生まれた。神戸市立楠高等小学校を中退す
1
8
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1
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5
1
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4
5
るが、その聞を含めて彼の仕事場の多くは新開地と
O
そのような生まれ育った町・仕
事場・遊び場・憩いの場としての新開地の様子を綴
ったものが『わいらの新開地」である。正月や祭の
際の風習や出来事が詳述されており、当時の庶民の
生活が活写されている。
村島帰之は、大阪毎日新聞の記者で、あったO 彼が
神戸支局に勤務していた頃、毎日のように通った、
大正期の新開地を詳しく描写したのが『わが新開地』
40
、
J粉 川 弄J
'J.巴 V.
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i面
新開地における出来事
平λ 円り I -<
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年代
るまでそこで過ごし、その後しばらく市外に転出す
その界隈で、あった
I 主文
(
慶 応3
)
福原遊郭開設の許可
福原遊郭移転
「宿屋取締り規則 J制 定
(
明治元)
(
明治 4
)
(
明治 2
0)
(
明治 2
9)
(
明治 3
0)
(
明治 3
4)
(
明治 3
8)
(
明治4
0)
湊川氾滋
湊川付け替え工事着工
湊川付け替え工事完了
旧湊川護 i
肪埋め立て完了
「相生座 J湊川跡に移転
(
明治4
3)
(
明治4
4)
(
大正 2
)
(
大正7)
(
大正 1
0)
(
昭 和3
)
(
昭 和8
)
(
昭和 1
0)
(
昭 和2
0)
関連する出来事
神p
;
巷開港
阪神電気鉄道開通
兵庫電気軌道開通
湊川公園開園
「緊楽館」オープン
新開地駅 5市電開通
米騒動
川崎争諮回大ァモ騒動
御大典奉祝行事
「みなと祭り」開始
大繍公 6
0
0年祭
神戸大空襲
その代替地としてあてがわれたのが「湊川堤の東、
西国街道の北手数町を離れた人跡絶えたる荒涼の
地 J9)、すなわち現在の福原町である。福原遊郭は
盛り場・新開地の発展を語る上で欠かせない存在と
なったので、ある。
その頃、後に新開地となる地にはまだ湊川が流れ
ており、しかもたびたび氾濫していた。湊川は普段
は水無川で、川底の砂が見えていたが、その堤防は
周囲の家屋の屋根よりも高い天井川で、一度氾濫す
ると周囲に大きな被害を及ぼした。明治期に入って
からも、 5度の水害に見舞われたが、特に 1
8
9
6
(明
治2
9
)年 8月の湊川氾濫はすさまじく、約 60間(=
約 109m) にわたって堤防が決壊し、福原町・荒田
見世物小屋、和田山甲から移転した水族館などが、連
町一帯は甚大な被害を蒙った。この水害は湊川付け
日賑わいを見せ、神社正門を南に下ったところには、
替えの機運を高めさせ、翌年からの工事着工につな
神戸第一の劇場と言われた大黒座があった。このよ
がったので、ある。この工事は会下山をくりぬいてト
うな歓楽地・湊川神社の周辺に存在していた劇場の
ンネル(湊川隆道)をつくり、そこに湊川の水を流
一つに「相生座」があったが、 1
905年 2月、公演
して苅藻)1
1と合流させ、新湊川として海へ流し、旧
907年、新劇場を湊川
中に全焼し、その 2年後の 1
湊川は埋め立てるという難工事で、あったoそのため、
跡に再建することになった。この相生座の移転は神
工事は大幅に遅れた。多くの困難を乗り越えて、
戸一帯に散在していた劇場や映画館、勧商場などが
次々に湊川跡地に集積する契機となった。すなわち
905年開通の
盛り場「新開地J 10) の創出である。 1
阪神電気鉄道をはじめ、 1
910年の兵庫電気軌道
(現・山陽電鉄)、 1
913年の市電等、交通機関が次々
と開通したことも背景として、新開地は確実に盛り
γ
場としての地位を確立していった。湊川改修工事中
に先送りされた湊川公園は、 1
9
1
1年、ようやく神戸
市による土地の買い上げが実現し、同年 1
1月正式
に開園した。さらに 1
913年には、「衆楽館J11) が
オープンした。その後、新開地は 1
918年の米騒動
921年の川崎争議団大デモ騒動といった政治行
や 1
動を含む都市騒擾の舞台となり、また映画と温泉が
楽しめる湊川温泉や、東洋一の高さとうたわれた湊
川公園内の神戸タワーなどの施設が次々に建設され
て、一大盛り場が形成された。
(2) 盛り場・新開地としての発展
しかし、第二次世界大戦の勃発は、娯楽場を次々
湊川跡地は、若者の自転車遊びの場となったり、
沿道に飲食庖や見世物小屋などが並んだりはしたも
945年 3月の神戸大空襲によ
と閉鎖に追いやり、 1
のの、依然「ドテ」と呼ばれる荒地のままで、あった
って、湊川新開地付近は一帯焼け野原と化した。戦
O
その当時の神戸の代表的な歓楽地は、湊川神社の境
後は新開地の東側から神戸駅前にかけての土地が占
内とその周辺で、あった。境内には香具師や飲食露庖、
領軍に接収され、 Iウエストキャンプ」が設置される
41
などして復興の機会を失い、湊川公凶│には引揚者'
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削
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ーの目論見」とJmされた記事で、 l
士、│口 i
奈川の保
℃がえt
ち並び、新開地はドヤ街に変貌していった。
子を次のように同じている。
その│日l
、娯楽施設のみならず、市役所などの行政施
|松JGtll 1 社は従 *',;II~"検特に許しとかへ参 liH の人々は
こ移転した。劇場や映 l
l
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昨
'
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う
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託
楽
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、
設士でもが三'白 l
~J 々引き絶え寸可抗 11 q
場春の如きはJ
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kとも1
[
,反はしくし
淡川 1
ヰ泉なども次々に閉鎖された。 1968年、神戸高
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二
放 E布等を Hち敷遊び戯むる人
て参詣かたへ¥t
速鉄道が開通し、阪t
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場の相互乗り入れ
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:の辺は勿論此の堤 1
:にはイド々数
が完現したが、これにより新開地駅は、
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.なる通過
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多の控│、茶尽等も /
!択となってし主った。 瓦
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その後明治 30{F代の記事には、, 1 ,'くからの1YM~J
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rj'仰の様千が拙 '1] されている。例えば、
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'ij)旦も大きな被存を変った。
災では、新開地I
1 b'~1'íーからの
投稿│ょせふみ」には、 「十日持ら寸つi
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々々野肱 1
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防災企震災を乗り腿えた現在の;
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地は、泊、つて
の繁栄を失ったとは I-I・え、背ながらの飲食応や 1
)
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J.j)と騒しく 1Jf:1~f:f,IE 木肢を敵き細るが '1' には随分 lüI
とボーリング場などの新しい胞設が絶妙なノ tランス
くも忌はしい醜行を」ヤる組もあるさうだ
安1I民の;
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在し、ユニークな応舗や看板があちこちで見受
3ともなるが風紀上 x相千i
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けられる。主た、大衆演劇場や競艇の場外発売所と
れに放任されつあるは何故だ、らう J15) という,意見や、
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没され、三','与や元町とは異なった、かつての盛
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り場の悟史を利川した主ちづくりが進)足している。
線香の煙でムッとするがまた其煙のまつ 1音な堂の 1
'1
1 1-,主りだ」、|松尼の稲 1~l さんへお IiH りをすると
例区かに戦後の新開地は、戦前の栄華を失った。し
で択の判らん事をふーって捻って居る 1与があるが衛生
かし羽在の新開地には、若者ーから年配{i,;tで街のど
には'庄しくない話しだ J16) という立見があり、背な
こかにそれぞれの J
/
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'
場所があり、盛り場の 1
文化の
がらの稲 1~H 三1flJ を嫌:i.Eト)一る人もし、たようである。
づ自信地 J としての性栴が今なお維持され、場所の個
もっとも、 IH乍 1] の初午J という Ih~'tÇの 11' では、 IL
手の松尼稲荷の ~IJ きも(壬かに械十足灯咋:を飾りイ、j' けた
性が確立されているのである。
る位にて参指名ーなどは実に少なかりし山 J17) とあり、
3,言説に見る神戸新開地と松尾稲荷神社の系譜
この時点で初午を冬の一大イベントとして捉えてい
(1)神戸又新日慨に拙かれもた松尾,fìTI1~IHlfj,t L
神戸や新聞 J
也の崎!よ:に関する文献の多くでは、湊
川跡は相生!ヰミ進 l
叶i
以前、特に人が集まるわけでもな
み始めた明治 40年代頃から、松 J
G
t
i
向;
l
t
神社のtrYi'l
j
く、閑散とした場所で、あったと記述されている。確
事では、「境外にはl
i
l
見き眼鏡」悼文食 J
J
I
;、菜子!古の露;;ty
かに、埋め立てが完 fしたばかりの渋川跡地は、夜
で流石に農い宅き地もギツシリ一杯になっている J
になると夜盗や泊いはぎのたぐいが出没し、通行人
1
H
)、「初午と戊祭
をおびやかしていたようである
彼処も淋しいお祭」と題された記 'J~ では、 frJ午日から
1
2
)0
た様子はない。ところが、新開地が盛り場として歩
に変化が見受けられる。
;
{
f
r聞記事におい
r
昨日の初午j という題の記
初午と点祭りの鉢合せ・一何処も
ても、│外人の付I}ニi
M
U とし、う記事の 11Iで、この地域
境内も掃き清め t
U
I
世にはI
J
呈幕を担l
らして
を 1
i
奈川の堤防はJ
目指の法家なり J d としており、
人を当て込んだ住民 J , lf~A目当に什\tこ J
m意 )j端、
、│初午めぐ
1
9
)
1
:
1
J1り
jにある多くの飲食府で、頼んで、もし、ないのにビ
り」と夫題の付く Jj~ 'l~ では、 I 御銭Jyrーには1nJの官たい、
ールや果物が 11-¥てくることを非難している。だがこ
十IY!っ/.\~と大 JH,H~: との芝J&のピラが治、かっていた J 2
0
)
のj也j
戒は必ずしも危険で1
誌しいだ、けで、はなかった
とあり、初j守二が稲'
i
,
:
d
r
j
f
f
I
Jの イ J
:
'
),:から冬の娯楽イベ
O
i
奈川改修以前から、この地域には人が集まってお
ン卜に変化していったこと、新開地との結びつきが
り、この集客において、松尾稲子~~ttll十|が一定の役割
始まったこと、またかつての信-fi'に )
)
1
1え、速方から
を*たしていた。 1
8
8
6
(明治 1
9
)年 3
より多くの参作容を│呼び込もうとする神社{
!
{
I
jとえ新
n11日の│花
42
変化している。湊川埋め立てと新開地の盛り場化 は
側の姿勢が読み取れる。
このことは、阪神電鉄や兵摩軌道などが開通し、
松尾稲荷神社や稲荷信仰にとって、変革の大きなポ
イントで、あったことが明らかである。
遠方からの参拝が容易になったことも深く関係して
ところで、松尾稲荷参拝の客層の約半数を占めて
いる。例えば、同時期の又新では初午に限らず、阪
神電鉄を利用して、西宮の十日戎への参拝を勧めて
いたのは、福原遊郭の芸妓や仲居たちで、あった。松
いる。汽車を増発させたり 、運賃の割引券を新聞に
尾稲荷神社は商売の神様 ・縁結びの神様として信心
掲載する力の入れようである
2
1
)。京都の伏見稲荷の
され、本殿の天井には芸妓や商売人たちから寄進さ
ーの午参拝も勧めており 、祭期間中の臨時列車や割
れた「煤け返った提灯が数へ切れぬ程ブラ下がり」
引乗車券の販売を報じている
26)
、松尾稲荷神社は「提灯もちのお稲荷さん J27)
。
22)
と呼ばれていた。戦前、着飾った芸妓達が参拝する
大正中期には第一次世界大戦による好景気もあり、
エンタ ーテイメン卜性を含んだイベン 卜としての初
様子は、松尾稲荷神社の風物詩となっており、又新
午が民衆に定着したようである。新聞記事でも例え
日報には、芸妓達が艶やかな着物姿で参拝する様子
ば、「奥殿に入ると参詣人で、ゴ、ッタ返して居る。 (
中
を写した写真がしばしば掲載されて いた。一方で、
略)一本一銭の蝋燭お御畿、さてはお札・稲荷餅・赤
芸妓達以外の参詣人は「寝ンネ子で、子供託背負って
飯が飛ぶやうに売れる J23)、「猫の額のやうに狭い
るのや半纏着裏庄の妻君等で他 と比べると一段見劣
川市居前に飴、関東炊、おでん、豆板などの子供の喜
りがする J28) ょうで、あった。これは、湊川神社が維
開運のお守札やお御畿
新の原動力となった楠正成を祭神とし、明治天皇の
受けで社務所前は混雑し(
中略)
兎に角お祭ら しい賑
神社創杷の沙汰で 1
8
7
2年に建立された日本初の別
ひであった J24) などとある。また、1
9
1
4年 2月 1
格官幣社であるのに対し、松尾稲荷神社は桐の歴史
日付の記事「初午祭」では、当時人気の歌舞伎俳優 ・
が南北朝時代以前にまで遡れる、古い宗教施設であ
ぶ露庖が所狭 しとご陣取り
尾上梅幸によって初午の風習が紹介されているが、
ることと関係している。湊川
!神社内にも楠本稲荷神
その内容はある石鹸会社の広告である。同様の記事
社としづ稲荷神社があるが、その初午祭の新聞の描
は翌年の同時期にも見受けられる。更には「舞台の
写は 「新築の稲荷だけに締麗で総てが新規だ、(中略)
初午祭マ喜劇式大黒座の夜J25) と題された記事では、
お供物には何何時計庖の料理屈のと 筆太に献納者が
湊川
!神社前の劇場 ・大黒座で、初午を祝う特別な舞
広告しである 、何処迄も抜目がないヨ J29) というよ
台が催されたことが報じられている。このように、
うに、よそよそしさが感じられる。
松尾稲荷神社と湊川神社の性格の違いは、松尾稲
初午は単なる稲荷の祭から企業の宣伝や演劇場の演
荷神社にビリケンが奉納された経緯にも現れている。
目に利用されるに至ったのである。
このビリケンは、 1
9
1
0年代初めにアメ リカ の船員か
更に 1
9
2
1年からは毎年、新聞に小さな初午の広
告が載せられ始める。また又新では、新開地が盛り
苫主が
ら持ち込まれたビ リケ ンを見て、元町の洋食j
場として発展し始めた頃からほぼ毎年、初午の記事
見ょう見まねで、「福の神」として作ったもので、ある。
を写真も添えて掲載しており、初午をこの地域の年
ところが居先に置いたビリケンに人が群がるばかり
中行事の 1っとして定着さ せよ うとした又新と松尾
で肝心の商売はさっぱりうまくし、かず、海へ流そう
稲荷神社の意図が看取できる。
としたものを松尾稲荷神社が引き取ったので、ある。
また、 1
9
13年 2月 6日付の「初午酎市むには、「小
このように、松尾稲荷神社の主な参拝客は福原の
一位稲荷大明神と 書いた赤白の峨を押し立て十二三
芸妓達と庶民で、湊川埋め立て以前からこの地域の
を頭の子供等が隊を組んで『お稲荷さんのお祭ち、や
集客要因 とな っていた。そして、湊川が埋め立てら
蝋燭一本上げてんか』 と家毎を廻ったのは十年昔の
れ、新開地が盛り場として歩み初めた頃から、初午
事、今ではソウ云ふ風習は見られなくなった J とあ
や神社の新聞記事での描かれ方が変化し、 松尾稲荷
り、湊川埋め立てが完了した頃から初午時の風習も
は古い信仰体系を残す稲荷神社からエンタ ーテイメ
4
3
ント性にあふれた歓楽 I
Y
Jな場左描写されるようにな
ばならずJ:14) 、白究会とィ'5Z更けの松f己fr'f\1~:JtIH L
への参
った。士た松尼稲荷は、比│勾に新開地の劇場のピラ
f
T存にも対応していたは寸三だ、と考えられる。つまり、
が n~ られるなど、盛り場・新開地との rY~J係を d志向し
劫・新開地や川 1
1
1
(
.
f造船所だ、けで、はなく、松尾稲
佐り i
ていた υ 史に、;長1
T聞によって伝えられたイベントと
荷が近くにあることによって、新 I
j
i
'
l地から続く通り
しての初午を劇場などが利川するようになり、松)己
切8は商いを維持できたので、ある
の1
j
t
やその祭で、ある初f
rは史にエンターテイメント
稲
ィ;
的要素を色濃くしていくので、ある
O
新開地の│萌人たちが、参詣客の絶えなし、松)己稲荷
を IWî'疋 l こ手Ij ffl しないはずはない。 rfr lJ~ll也には祈梼!':Ijî
O
1
1
(2
) 住民が記述した松)'
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J
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1
:
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上と新 I
J
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也
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ij&のように、松)己l
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'ω主な参拝存は品川 (
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邦
1
j
1
tl
:
が wのうちでJ
訟も賑わ
の芸妓よ主であり、この t
せる)狐の辻占)3aが多くの人を集めていた J ょうで
ったのは新開地や福万五が│別じる夜更けで、あった。こ
ある ο 主た、 I
このお稲山さんのご利益をその主主受
J江遊郭の芸妓・
れら悩 )
l
iの紙を選ば
ちに、(稲荷の神肢の使いで、ある狐に辻 I
1
1
1
,
1
}といった│色分衆」は、
1
)
廿の参作客約 1
000人のうち実に、│三数を r
1
jめた
11 1 1 居 ~K を
11
1 心とした
けたのが辻占屋で」あり、「新開地筋をイ[に折れる小
:
3
0
)。
ところで、村局は新 I
J
N地を 1
'
J
き来する人の流れを、
福原J!li~I)の芸妓・
がし、たし、│人:T
l
:から 1
1
{
1干
1の戦後まで新J
I
ト
J
I由のあちこ
k 述:を指す|亦
)
投への近道とあって、この三十米
路、ここが稲荷干上J
ほどの狭し、小路に、人は渦巻いて歩めぬほど、の有様」
,
1)引士、生駒 I
・
l
G
)で、あった。ちなみに、新開地の辻 1
!
L
;
9
Jタに大通りを通過する川崎造船所のl
械工達
き流」、 1
の瓢匂:山稲荷t
L
l
1
tl
:
で'
ti!.られた辻占い :
1
6
)ではなく、
を指寸 I
l
l
tき流」、新開地の問を縫う不良少年や杏具
月kの名前を書いた紙の実にそれぞ、れ文イJ
Iを記した
師連を指寸 !
J
;
t
'
!
,
き
流
」
の 3つの流に分類している
ものを選んだり、多くの紙のうち、 1枚をキツネに
:
3
1
)。
松尼稲仰はこれらのうん、│亦き流」を生み 11-¥すー要
選ばせたり左いった、いわゆる辻占借りで、あった:l7)。
l
屈になり、新開地の 1
1の人の流れを締めくくった。
松)品川y
:
は│新開地の繁栄も(山陽本線のトンネル
i
上が:震と関係、を持つ場で、あったことはよく知られ
ているが、そこで<;t~や仲とうと信し、イミ;,Kを矢11 ろうと
1
咋l
u
r・東
の)南側主で及ぶことはなかった J:12) 東川1
したものが本来のよl~î で、あったようだ。し治、し、近
唯ーの集
出町刊において、新開地!戊,"1.以前からの I
代化が進み、神や ぷに対する畏敬の念が滞主るにつ
幼い横出正!とが好きで、あった娘剣舞
味が失われ、│前売色の強し、もの
れて本/kの辻占の怠l
客地であった
O
J
Y
I
J
f
J
'
1:色の強し、新開地の辻占に、
-U:Jの芝厄小屋や、松)己Vl~・稲街JM というず1 の劇場
になっていった;対
が湊川堤防の埋立地に住っていたこともあった。そ
古などの神秘、性はほとんど感じられないりだが、稲
こには跨j百も建ち並んでいた。松尾午前ィ;,rN'tL-'~ff は、
V
fの象徴である狐を使って松尼稲荷との関係、をつく
ィ
信仰の場に加えて歓楽的な場で、あったと言える。
o
ろうとする辻占屈の行為には、商売 I~I 的とともに、
また、新開地本通りから続く道筋には、来縄尚を
辻 11
1
や新開地の辻に t
r
j
l脳性を持たせようとする意図
営んでいた償措家のように、明と夕方に大通りを群
が凡てとれる。客のほうも、本気で、i
lたると思って
i
上占を買っていたわけではなく、線吾と蝋燭の煙で
れとなって通過する
I
'
iき流」や、新開地を訪れる
I
民衆を i
:な客層とした 1
耳目が軒を連ねていた。償併
)
J
安J
J
d
uとした松尾稲 1
I
r
[
i
N
I十:
1
の持つ独特な雰│用気と辻 t
i
I
'
1分の家の 1
t置を 1搬 .
rさんの大半は、わが家の
は[
の ~tkJíl会|企を|日Jn~f に|味わっていたのだろう。さらにこ
まえをiLUって往復するのである。したがって I閉止夕
れら辻占屋は、初午などの祭時だけではなく、日 JI!~"
方は広いわが家の主えの道は人並みで准れ、ィ交とも
的に十I\J ;!iしていたことから考えると、松)c'JI百 1~( こ、
なれば新│井J
I
也へ遊びにいくひとたちで、やはり惟れ
↑日r:',;;~rl~Jf~ エンターテイメント的性栴を与え、人々を
んばかりで、:鹿屋にしろ M
I
Y
f
i-J己にしろこのうえもな
集める 1
1
5Z史けの借り場」に変科させたといえる。
し、格好の場所で、あった J:n) と描写してし、る。このよ
[
は
、
うな昨日 It
また、|日1 1'(が交し、」とし、ふ事が、 M 主り必~なこ
とJ
:
m
)で、あった新 I
J
T
l
l由は、 J
,¥!:民にとって気I怪に訪れ、
l
i
却 1新開地という盛り場をすぐそばに
ひかえて JI 夜は卜 ~II 与過ぎ士で屈を聞けていなけれ
楽しめるところであったと言えるが、 i
l
1
"
J
慌に、松f
s
4
4
f,Tí1'r~
Lu
n(にとって参 l
i
Hしや寸い相│ヰ1で、あった。そ
I
Hされた 1907年主でには下層 1
(の集住地は、ほぼ
のf
'
H
I
J
Iの 1つに、松厄稲仰がJi
D
I
I
I
I
I
奇I
I
I
Tの向かい、東
形成されていたことになる。このような人びとは、
1
'', IIIT にあることが挙 ~y られる o H
f
t
i位の抑i
写によると、
,
奈川村I
前述の│二│露中毒和反対騒擾や米騒動といった、 j
I
I
fは
以川附 I
[
I
'
lI
I~ I
し、といえば n
1
r
iI
弘、が、貧しくて柄
社や新開地を舞台とした都市!騒優の j二ー人公となっ、た
r
O
r
や下請
盛り場とし、う不特定多数の人が集まる場所で、世間
L場の労働打、~-'稼ぎり'}J制'r1'í-U) ド宿屋、その人たち
への不満が噌|幅し、騒擾を.:~~じる新聞や参加を 11予び
を十U
fに寸る 1
;
:
.たち、新開地から容をくわえこんで、
かける張り紙をきっかけにそれが爆発したのである。
I
I
f
J,
1
0
) で、川 1
1
奇造船所の職
が:1fく、殺伐な I
くる
r
,:,',咋同必」と称せられる
kた ち 、 ま た 、 横U
:
i
1
4 盛り場形成と宗教施設の関係
'ぶの主うに、それらの人々を対象とした商売人らが
(1)宗教胞設のもつ役割
住むところで、あった】これは、償措正!どと林山芳の
/
~J:校で、あり、松 J C
'
J
,
古
川
市I
'
t
[
:とj
奈川跡を隔てたほ (
f向
泊、しリこ{りそしていた点川崎小九斗交が r1
'
1だたる貧乏
ある。特に松尾稲荷の場合、
生徒のうfヰ交であり、通称しんで、ん(新1l1)がつこと
垣内、に深い迷信を持つJ.
j6
) 花柳界の人々を
よりも、 j
l
呼ばれたJ41J ことからも似像に難くない。その東川
'1'心に、熱心な{三省-を多数抱えていた。初j 午の r~~ に
λ
i
そ
奈川跡を隔てたところに松尾稲刊行中社は鎮)
附町と j
しても、 11苦肉敷置胎劇場ぺ~~の大きいところは特に此
jJ ミ教胞設の役~ð'J として肢も大きいものは、伯作11 で
r
f
也のやl
J
れの社会の人々
しているので、ある。大 1
1
:
i
''頃からは i
新開地の松尾
初午祭を盛大にする慣例があり、抱え妓厄人等を集
f
i1~f J12: と、むと)己稲荷t
[
l
'
t
l
J,
J
;
t;21 士でをも ~fr開地にキ且
めて酒盛りを催し!騒ぎ立て J47)、
み込もうとする動きが見えるが
Hめ史て以
荷への思い入れが人ーきかった。また湊川上[
実際は賑やかな新
x
前は、堤│防坊の上カか、ら官主でで、たくさんの ,
斗
IJÞl 地や胞や均、な福原とはかけ lîi1~れたNJt上で、あった。
そして、東川崎町に│以らず、新開地は下層 l
亡の屈
んでいて 4
制8
が)、庁から多くの信占ーを集めていた。
)
{
l地と│持り合わせで、あった。│キI
l
t
(
k
J
せと水卜/
t
活f
f
の住む町、それが新開地では・の客Jで、あったし、
'.~t,~f.!険あらたかなことが矢I1れ波り、参詣客が明える
と、彼らをターゲッ卜にした露出や芝居小屋などが
UH¥衆)も貧乏人も区別が
な」治、った針。 t
l
[
'
戸
!
Il
は 1
894年 の ]
1消戦争まで緊
述の娘剣舞は│松!己稲荷のその場所へくると、ご 1
縮財政をとっていた。そのため、神戸市会は下)吾氏
所をヨてこんで、で、あったろう、必ず楠公の子別れと
でき、宗教胞設に歓楽的要素が加わるのである。前
│ここに米ればええし
を-定の地域に(主主わせ、他の I
I
f氏から隔離した。
j
奈川合戦が什¥J 49) ていたし、辻 ~l屈は狐を使って客
1890{
fの恐慌u
、日こは、;t
1
r
J
f
l
T
地に隣接する荒川町.や点
の興味を誘い、他の宗教施l没の歓楽的要素との J
Z
2異
;
ヒ長狭,凶・十日生町・干l
Il
J
J
l
l
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奇町に 1
3,
000
川崎町・楠通.1
'
l
i
や占し川市は
化をはカミっていた。 このように、香具n
f
-J
r
:
I
r民がし、たとされる 1.1) 明治 '
I
'
Jり
l
泊、らの政業
本命と f
1易の先)艮は、労働寸当初 t
t
f
J戸 i
f
i
t人を更に加速
N
'
t
Lの性格を利用して存を呼び込み、松l
(
'
J
,雨前川辺
人の
900年には、荒田町 3
させたり 1
出にまで進出していた。
にとどまらず、新開地方 l
r~,l に!神戸労働
l市'
t
州 知l
辺は
つ士り、松尾干i
労働弁を集め斡旋することを
1~j{rI1J
r
という、宗
教
}
j
包 I没の J
l
tも大きな役害J
'
を利用して人を集め、歓楽
│朱工℃会社」なるものができたけこれは、 1
,
000 人の
的な場として次第に楚出した。その歓楽的な I
場易は、
1j'1~J として、人犬の寄
j
'
仙台を佳品し、',;
;
;
;
1
1
キ200人 l
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f後の労働寸}?が'C.Hdして
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栴
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必
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1
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こ必要な一つの要つぷ
j
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竹
いた。 主た、 ,
ンタ一テイメント1
'
生
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を盛 り
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)場
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本?件千付}地由カか、ら売られてきた人た t
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Jで あ る 5~ I!,I~やか
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汁寸寸一るように、松)厄己稲荷 ド
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{にや悦イi
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lニ金を少しずつ返済寸ると、懐具合
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"
J
j
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詰所は、ほとんどが J
付上の近辺に
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r:で、あった
位目していた川)。すなわち松厄稲何十村1:と新開地に
1
,
,
)
このように、十11!IJ':I~/):; J.lli II\ して慌り場・新開地が自 IJ
ついて雌認した盛り場と宗教胞誌の関係が、他の宗
45
しいタイプの盛り場へと道をr1~~ったと指摘し、その
教施 I没にもあてはまる。
松!己千fTI 1~J: の人気は第」次世界大戦後の不祝叫にも
~!4)fjl~ 的な例として、ドI , jlkl を半げている日
新I
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系l
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川i
以えることはなかった。 1
9
1
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) 年七日泊、ら新
.
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開地の露Tr!{f~(気が:~くなり始め、その年の〉く新には
イ
了
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1していたし、j,'i
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(の1r'}fU也には私9
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1や
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1
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凪俗や衛生の改 J与を求める J?~*
でも
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'
I
i
u
i
i
や劇場などの興1
J
j
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包
合わせてし、 f
5
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) が見える。それ
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t民のまち・新開地で、はなんとか売り Lげを{i在
二
設と飲食山や勧 I
{
'
f
i場などの昨i
業施 JI止が咋ち怯ぶ近代
保したが、比較的富裕な層を{
I
有完十I
J
fとした相似Jllf
的な借り l坊の1[ 1 で、近 jl J:の盛り場の師、U~( も維持して
郭は相当な不景気で、あったと考えられる。しかし、
いた。このような立味で、;f
f
r
I
J
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I地 は I
l
u
j囚や銀Hそのよ
n
1
9
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3l
J付ーの記事には、芸妓たちが装って
うな盛り i
坊とは見なり、浅 f
l
tと似た1
'
、/凶作を持ってい
参作する政子が写真で叩じられている。彼女らの松
たり|この|時代 (1 リ Jlfì~くから大 lE) の浅川 υ) 本 1['[1 士、
j
己f
雨前への信仰心は、不呆気で、も揺らがなかったり
活動写真や浅草オベラに代表される『モダン」な要
(2)時代の果たした役割l
近代は政治から
素と、観 izf 堂を 11 I 心とした『伝統的』な '~っ誌が出然
1常生活にうfるまで、大変 1
てがな
一体となったところ」にあり、│そこには乞食や必存
された H
年代である。その変可ヴ刊
t
L
川
,
:
(
に
lこ飲み込主れた当I
1
婦や不良少年も -Il~抗なく溶け込んでいける明間があ
人々には、大きな不安や不j
l
i
t
iがあったことは想像に
る
。 j そして、│浅草は、これら下 I
l
l
fの下 ]
I
;
r
i
l
(たちに
難くない。大槻が指Jl;~îするように、新開地には大通
手頃でしかもこの上なく!魅力的な借り場として!,~~じ
りの北端に淀川公│主│、作j
端に川 111奇造船所があり、│公
られていたことであろう JJ
f
6
) という占見の指摘は、
iを
園と大工場という、多くの民衆を擁し、近代都 d
新開地のあらゆる性栴と驚くほど・致している。
構成するとでも
i
f
(要な二つの常問を
A
(
f
r開地が近世的盛り場の'
1
"
1
:格を維持するこ
ここで、 ;
直線に結」ん
I
I
I
I
I
奇i
i
l
船所の正 I
j
[
J
i士新開地の 1心
でいるfJ:l)。特に、 J
I
J
能、だ、った.f
l
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Bを考えてみる υ それは│庶 l(の
とが '
街路を j制lliJ にイrp ばした突き苛たりに IJ~ し、ており、:?[r
1
"こ
、
まん」という新開地の性格の 1
I
l
t
f見が i
jミすく浅
開地と空間的に官接な関係、が見られる:,4)。湊川公闘
草なるもの>fJ7) とl
i
Jじものが合主れていたからで
にしても、旧淀川が埋め立てられた上地の一部を神
主体的には、くりありとあらゆる桁煩のヒ卜
あろう o J
戸市が買い取って開閑するという近代の都市計│削に
'1性を失
やモノを 乏け人れ、それでいておのれの独 1
沿ってできたものであり、その主な人仁│は新開地の
わない、強烈な消化能力、②次から次へと新しし、ド
d
1I心街路に向けられた。松尾稲ィ苛神社もこの 2つの
ラマが繰り広げられていく弔問の先取り 1
'
也、③人も、
空間の聞に位置している。これらの弔問とその間に
また出来 it~ t
)無│岐に変幻自在な顔を持っていたこと、
できた新開地は、盛り場としての地位をゆるぎない
5
H
) である。それらを新開地に即して考えてみると、
ものとするにつれて、松尾稲荷ーの知名度を近代以前
l
t
物や│商品が紹介されそれが'乏け
①次々と新しい凡 j
と比べ、 7両日~Áfj( こ|苛めた。
:問には香
入れられていること、②新開地の辻では H
更に新聞というメディアの経展が、これに柏 It(を
具F
1
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]
i
や 露1
9商が ¥
'
rっていると思ったら、仮には I
l
i
Jじ
かけ、都市公園と[場、情報メディアという、近代
場i
r
9で、キリスト教の伝道が行われているとし、う流動
に新しく性場したものが、松地稲荷とし寸前近代的
性、③金持ちも貧乏人も関係なく、JiQしめる弔問1
で
存1'1:を広く知らしめた。このため新開地は明治後期
1
する u そ
あること、それぞれに説、当寸ーる 要素がイ子イ:
に形成された盛り場でありながら、近世的要素を持
して、そのような街の保子を(唱道する情 '
Wメディア
t
(=;
f
f
r間)の存イ:
1
があった。
ち合わせていた。 117 見は、 ìrゾの盛り場では、比 IU~
物小屋や大道芸人、
/
K茶屋がひしめき、川辺に乞食
e
J
i
T
I
N
n土盛り場・新聞 j也が持つ公i
主│や
主た、松 1
r
l
I1
交していたという。しかし明治以降、見
や私娼が i
場ーなどの都市機能、その保了・を怖じる↑I
引!日メディア
世物や大道芸の取り払い命令により、博覧会的な新
の力を借りてその存在を広め、エンターテイメン卜
1
1
46
I
'
J
'
.
J
性格を強めていったりだが、松川稲荷は1'1身のエ
ば│型j 的な性質を持つ要素を利用して集客をした
ンターテイメントr
'
牲を強めると I
l
i
J時に、 j
新
i
7
開地左の
が、より多くの参拝客を取り込んでいくにつれて、
,
明
引
問
的
近
近
牟
怯
接
;
斗
,
性
│
次第に境内やその川辺は露府や辻占屋、劇場などが
i易とはせ「寸ず
、
¥
立
久
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凶
│
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仇
(
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寸
寸
寸
寸
J
-る近仕凹世t
の盛
j
虚
d
Eり場場.的
り場
並ぶ│俗」な場所に変化していった。俗な要素を強
嵯
l反
づ
必
持
4
毛
をI
Lえた
1
円
1三
:
二
二
の
で
あ
るO
i
T
I
i
町村l
f
上は盛り場・新開地と結びつきを強
めた松)色t
す
折
!
庁
C3)松)己稲市の
め、劇場などのアミューズメント機能を新開地に t
E
巴と(谷
j
lìíIif の k うに、 tl百 l~;d ,~fffll は多十;五で、ある。特 l こ松j己
供し、逆に新開地の主要な人の流れである│亦きがむ
til1 l',:j'においては、その 1 ,~f作11 体系や参'Ií 日客用を凡る IIH
を引き 1
1
1
せ
、 l
ィ交史けの盛り場」と化したのである。
り、十J
q担さは屯視されないじむしろ、ビリケンとい
その問、ビリケンを神様にするなど、松尼稲荷の 11~­
う
仰そのものも│型j から│俗」へ変科していった。
1
1
止俗的」なものを引き取り、あらゆる祈願を'支
、│松福依」にしてしまうほどだ。
け人れる j
J
i
t
出面のネ1
11
5 おわりに
そこで慌り場・新開地の性質と!似合してみると、芸
妓 1'1 1 居衆・件只師や芝 },~l小屋・信仰 8 ・ビリケンなど
以上、松尾稲荷村1ネ
1;6'盛り場・新開地の形成にい
の│俗」を受容し、ビリケンにでつては│型化」す
かなる影響を及ぼしたかについて、盛り場を吉見の
るという、松!己稲荷の多保性と'広谷さが、不特定多
ように新聞記事や文献に記されたことも合めて<出
A
-新開地の性格に」致してい
数の人々が集う盛り I
来事>として捉え、たどってみた
O
その結果、松厄
r
場と近代の公園で
直前とし、う雑多な
稲荷は、新開地との空間的関係、市i
扶士れた新開地本通りから続く道の、すぐjJ
t
j手とい
信仰体系、不特定多数の人々が集うという盛り場の
う松!己 ti111~;Hq ,社の雫間 (i~J配置が、新開地からの人の
匿名性、近代とし、う時代の変化を通して、盛り場・
J
i
e
f
れを可能にし、逆に松尾稲荷からは俗な伯作l
f
要素
を合む狐の辻占や、新開地形成以 l
i
i
Tの劇場といった
新開地の形成とその特性に深く関与し、また、松尼
アミューズメント機能を新開地に提供したのである。
わいを維持したことが明らかとなった。
るのである。そして、│件│ヒを大
稲荷 1~1 身も、盛り場・新開地の性質を利用して、賑
比ずにする以前の神
大槻は、新開地が歓楽街 Eして h
本稿では松尼稲荷神社と盛り場・新開地形成の関
戸の歓楽的な場の 1っとして、松f
己稲荷t咋
l
J
,
'
J
i
辺を
係について取り上げたが、新開地周辺にはキリスト
挙げている。その後、盛り場・新開地の形成により、
教伝道館や金刀比縦白神戸分社、 j
奏川神社など、他
l
{
.NI 戸各地に散らばり、 I,if~設営業のできる十地を求め
にも多くの宗教施設が存在するつこれら他の宗教施
ていた興行 }j位設が急激に ;(fr 開地に集積し、大 Æ 巾 J~j
設と新開地との関係を解明することが I課題となる。
,
には、わずかに三官十I
l
l
f
上川辺が独自の歓楽的な場を
維持してし、た、と指附している
コ確かに、劇場な
i
)
!
)
)
主た、今回は盛り場のエンターテイメント性や対
象地域の雫間的関係を 1 1心にまとめたが、盛り場に
とマの興行j
}
包ぷは新開地に集主ったが、それにより、
I
集う保々な人たちーイ列えば、川 1荷造船所の職工、 1
賑わしリ士でもが新開地に
かつての歓楽的な場の l
雇し、労働 f
号、芸妓イ中居衆、商売人、不良少年少女、
移っていったとは言い切れないけ少なくとも松尾稲
下屑 t
(
ーの社会的)叶│性に合わせて、それらの人々と
山におし、て(士、淀川刷;に佳っていたげl屈が集主って
盛り場や宗教施設との関係を探るという方向性もあ
点|砕に ri fJ坊が形成され、辻 r!-I}~ には人がひしめきあ
(
f
r
る。そのためには、神戸新!日!などを含めた史なる ;
い、参詣'初対:色えなかったっ j
架ィ主にやっと n
'
l
王を終
聞記 '
l
Cの*
I
l
i査や、可能ならば吋Il午を知る人に聞き取
えることのできる花街ωk性や~1x)劫、芸行述にとっ
りをすることも必要であろう υ そ れ ら の 情 同 を 、 <
て、松)己 til\ í~;HIj I 社 WI;.民(士|ィ交史けの lAE り j易J で、あり、
111\ 来ー J~ ;>として盛り l
J
,
;
)
をf
Jiえていく 11
jJ
lJ
で、どう平I
}1~1 1\lは似楽や字楽を f1i:iJ tする \'OJ,á U) 彼らが、それら
していくのかも、今後の課題ーとしたい。
を Iど,乏できるつ治、 ω
Ir'¥Jのひとときを Ij_えていた。
すなわら、松尼稲 1~;Hqqq~は1 , Hfll という、イメ米なら
4
7
付記
本稿は、神戸大学文学部に提出した
:I~) 横j訂正!と (2002) :i
r
l
'1
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1
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l
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J随筆集J] f
C
J川 却 h
, 105f
T
,
:
1
:
1
)前
十
担1:
32) 106頁
け
2005 年度卒
業論文を大幅に改杭したものである。本稿を士とめ
るに際し、神戸大学文学部の i
そ谷川孝治教授から指
1
'
1
Jn
I
i
t
,
砧
:
32) 1
4
:
3・34U,
1
:
,,1林 喜 芳(
2001
):~わいらの新開地』神戸新 Il'rJ総-,1 1 H
版七ン
32・88頁
ター, :
y
I
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桁
1
“
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4
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):I中小社寺{仙凶凶り
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与を受けたことに対し、感謝し、たします。また 2005
滑
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μぴ)会
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1 所収) 194百
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l
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りお祈りいたします。
,一,
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I
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辻につし、ての )号 f~J (
山i
l
l校・坂本'
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注
制『日本!世!と l
¥
;
俗論集 10l
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,
1
JWIJと民衆;
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i教 』 出 I
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、
立
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i:¥所以)167-201 '
LL
l)Jf見
俊,t
l
(
;
(1987):r
l
都J¥i
のドラ γ 卜')ルギー』弘文堂, 24
〈
目 占[比ぴ)H
i
f
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請するく,'
¥
J
,米争:>とは、政変などの政治的't
d牛
:
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)
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I
I
i
拘:
3
0
) 45頁υ
だけではなく、人びとの II 1r\ fU,~- において、盛り場で起こ
I
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泊:
3
2
) 79F
f
1
1
)I
J
I
i
掲:
3
5
) 44頁
。
る1出品目な'1'':柄七台むリ
~) )
J
I
I
J
i
事政訂二(2002):~大阪のスラムと岨り場近代都市と均所
1
以又新 1921(大t
l
ミ10)イ
│
二 2r
J 1311f、
l
¥
1
:
¥
)1
請掲 :
3
5
) 156頁
の系譜学』白J
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元社,
f
(
1
9
9
7
):I
新聞記 拝にみる盛り J
Jhーの!世史的変容
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也
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,
1
2
第 2次│吐界大戦後ぴ)}血児島市天 )
J
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3
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'
[
1 I松尾稲1Hf中市中上F1 1* I'f, jl~1 .
tり
け
引伸戸市制(1965):f
l神戸 d
i史第 3
'
1
出 社会・文化編~80:3
:
1
) 前屋敷史
u
1
11客台 i
l
l
f,
'
j
(
1975):I
r
神)I
(
j
)歴史
1
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J徒
l
i
i
j
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T,
制
1
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1 又新 1
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1
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3 (大正 2
) 2J
J6 1
1十L
,
l
H
Jl
i
i
i
+
砧 12) 91 百
》
815頁υ
f
j
l1
出品:3)
26頁。括弧内は前屋敷によるコ
7
1新保博久(2002):1
1E史もまた永速にして不滅である J(
偵
溝正史 l
i自伝的随筆集J角川 Wh
,:
3
0
1-307民
村
)
中
、l仔│誠治称H
針(1898):i
l
神戸開港 :
.
1什
三I
克 │
マ
巻
よ 629Ft
日
1J
J
D
l
i
長政洋(2005):I
f花街 見空間ぴ)都市史J]i~VJ ¥
-1新聞社, 201
百
決川跡地は川を開め u
:てて「新しく│井1
し、たI:J也 j という広
と呼ばれるようになったり
1
1
)探楽館は東京の帝I
司
)
長Igおーを岐した凶劇場としてオープンし、
後にl
峡l
I
J
li
M
r
やスクー卜場となり、 1978(00,
f1
日)
3
)年の問自1主
で新開地の、ンンボルとして組し主れたり
1~) のじぎく丈!r\f編(197:3) :~神戸新|用地物語』、 21 頁1
:
1
¥1又新 1901 (明治 34) イ
1
'
-4 月 241
1什
[
(
判
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味で、いつしか「新開地 j
1
9
1 l~íI掲 32) 4
:
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T
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J 大槻洋ー (1997):l
f
J
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l
)I・新開地ぴ)空間形成と歓楽 ,
j
父
、'
f
の契機近代都市の歓楽街形成に閲する史的研究その
1
1 H
木建築学会計l
I
J
i
j
系 論 文 集 抗 496日
, 1
9
:
3
- 200t
'
T
,:11又本片 1918 (
)
く
J
l
:7
)イ
,
.1}]161
1 17 H付
九日)又新 1918 (大正 7
)イ
│
二
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J241
1付
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μI.新閃 地
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冗 その 2
引│
の変容 i近丘町イ代℃有相都|日l川Iバ市|打7ぴの)歓:淳来来忠正恥Sí佐L封州iJf形[杉手知
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主
会計
l汁│幽剖系論丈集 第 5
印07)
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、 207l~L
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:
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) 207民
日 1IlíI+~J
1
)1
5
:
3 164ff
出
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) 208・
209・
218頁
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1
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11
1
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) 209見
1
)
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IÌÎit~J 1
) 209 212(
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1I五it~) 50) 198頁σ
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狐や担!に対する伯作1の現れの 1つであるつ
1
1
)1又新 1
902 (明治 35) 年 2)i4 H付
〉
l
“)又新 1904 (明治 :
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7
) 年 2月 2 ¥
1 ・11 け付け
1
7
1 又新 1901 (明治 34) イ
二 2円 1
│
11
1付
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l
川又新 1909 (
1
円
治 42) 年 2J28H付
、
l
円)又新 1910 (明治 4
:
3
) ,J 2月 l
lH付
っ
:
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I 又新 1911 C
f
:
l
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台44) イ
二 2J6 1
│
1f
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l 又新 1
9
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(
1
明治 41)イ
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1
f
】
上
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~~)又新 1907 (明治 4
0) イ¥
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J 11 H
付
。
山 又 新 1918 (大正 7
)二
│
イ 2月 5 1
1付
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~11 又新 1919 (大正 8
)二
│
イ 2 月 12 H
付
け
お)又新 1916 (
大l
七5) イ¥
'
.
2月 51
1
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1
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台42)イ¥
:
.
2r
J28¥
1十L
九
州
日
付
文献
橋}f¥紳也(1990):~明治の迷宮者1\11 1'
新修神戸 r
l
j
l
よ
J
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l
新修神 j
二I
d
i
'
ど !世 rJ.: ~~IIIIV
近代・現代』け
f
l肝│克己 (1997):r
Iむかしの神戸絵はがきに見る│り J
1
台.Jc
u
l
ビ
・
1
I0
f
l
l初J
り 神戸新聞総合同版センター】
川H
事政(Y:0999): I ゆ J1台 qq~l の)(I'iI\llí における J也|式改良計 p iJ j と
,
その帰結
~7) ~ìíi掲 12) 91Q
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砧26)
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東山.kl阪の遊楽空間』
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1"1切、ら近代主で
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) 70目
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どの会(2004):l
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E史と!荘川崎111]1
:
1
0
1村島帰之(1922):I
rわが新開地』文化書│抗, 66頁
:
1
1
1前掲 3
0) 62頁
。
0
(たかおか
48
まきこ
神戸大'字文学部・学'
U
Fly UP