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ROSEリポジトリいばらき (茨城大学学術情報リポジトリ)
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ケストナーと第一次世界大戦
佐藤, 和夫
茨城大学人文学部紀要. 人文学科論集(20): 55-72
1987-03
http://hdl.handle.net/10109/2149
Rights
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お問合せ先
茨城大学学術企画部学術情報課(図書館) 情報支援係
http://www.lib.ibaraki.ac.jp/toiawase/toiawase.html
「ケストナーと第一次世界大戦」
佐 藤 和 夫
1.はじめに
まず議論の発端としてエーリヒ・ケストナーの子ども時代の伝記くAls ich
ein Kleiner Junge war>(『私が子どもだったころ』)から三っのエピソード
を紹介したい。その理由は子ども時代の伝記にあえて後の戦争のエピソードを
挿入したのはそれだけ彼の心に深い印象あるいは傷を残したと思われるからで
ある。
ケストナーは上記の自伝の最後をこう締めくくった。 1
u世界戦争が始まった。そして私の子ども時代は終わった」(W−150)
1899年2月23日に生まれたケストナーにとって第一次世界大戦が始まった1914
年夏は14才半になるところであった。したがって自伝はその時までを描いてい
ることになるが、彼は
「これはここには関係ない」
という文句を各エピソードの最後に使いながら、0才から14才までに限定され
ずに、かなり自由に時間をさかのぼり、また下って記述を進めているので、当
然戦争とのかかわりも出てくる。
直接戦争と関連することを述べているところは三箇所ある。
1・召集後の訓練期間中に懲罰練兵をやらされたこと(第5章)
2. 師範学校生のとき、上級生が召集されたため予定より早く教育実習をや
らされたこと(第6章)
3.バルト海岸で休暇を過ごしている際中に戦争が勃発したこと(第16章)
上記の数字の順序とはちょうど逆になるが時間的な順序に従って、まず戦争
が起こったときのケストナーの様子を述べることにしよう。
1914年の夏,それは他の多くの人々と同様師範学校生徒ケストナーにとって
も休暇の楽しい時期であった。特にこの夏は生まれて初めての大旅行で、母と
56
従姉妹とともにバルト海岸へ出かけ、その旅行を十分満喫しているときに戦争
になったのである。 ¶
「1914年8月1日,楽しい休暇の真っ際中に,ドイツ皇帝は動員を命令し
た。死神はかぶとをかぶった。戦争は松明を手にした。黙示録の騎士は馬小
舎から馬を引き出した。そして運命は長靴でヨーロッパというアリ塚を踏み
つけたのである」 (W−149)
それまで古都ドレスデンの,父親がいくらか軽くみられた存在であったとは
いえ,比較的安定した家庭でつつましく生きてきた15才の少年ケストナーにと
って世界戦争の始まりは人生の大転換であった。戦争をきっかけとしてケスト
ナーは除々にではあるが,はっきりと自分の進路を変えていくことになるから
である。
戦争の長期化は人的資源を消耗させ,兵士はしだいに弱年化していく。師範
学校の生徒にも召集の網がかぶせられ、上級生が学校から戦場に去っていく。
残された下級生たちも,予定を早め短縮された教育課程で学ぶことになる。
「私は17才で教室の中に立ち,師範学校の上級生たちは戦場に行ってしまっ
たので,授業をしなければならなかった」(V【−59)
この授業を通してケストナーが体得したのは,授業それ自体はうまくいったが
自分は教職には向かないということだった。
「私は教師ではなく学習者だったのだ。教えるのではなく学びたかった。教
師ではなくできるだけ長く生徒でいられることを願っていたのだ」(VI−59)
教育実習はケストナーの胸の奥底に抑えられていた思いを浮かび上がらせたの
である。
「『進学するのかしないのか』という問いに答えるのは私たち自身ではなく
父親の財布であった… それは不当な方角からの解答であった。それは多く
の子どもの心にほろ苦さを残さないではいなかったのである」(Vl−127)
常にクラスの首席を誇ってきたケストナーも自分の「父親の財布」によって決
められた進学先(師範学校)と一般の人々の評価する学校(ギムナジウム)に
悩まされずにはおられなかった。彼我の学校の実力に評判ほどの差はなく,む
しろ自分の力を信頼してもよいことが実証されたのは皮肉にも召集された軍隊 2
フ中でであった。
’
P917年7月師範学校生工一リヒ・ケストナーは召集令状を受け取る。その配
属先はEinjahr三9−Freiwilligen−Kompanie der Schweren Art三llerie(一年志願兵
佐藤: 「ケストナーと第一次世界大戦」 57
重砲中隊)で,そこで士官候補生としての即成訓練を受けることになる。軍隊
ではほとんど何もよいことはなかった。初年兵の担当の教官はとにかく過酷な
訓練を行ない,ケストナーはそれを生来の負けず嫌いから生まじめに実行した
からである。
「このヘラー原で私は… 兵士として懲罰訓練を受けねばならなかった。98
型小銃を構えたまま,250回のひざの曲げ伸ばしをやったことが一度でもあ
りますか_ その後の入生で再びまともに息を吸えなくなりますよ。何人か
の仲間は50回ぐらい曲げ伸ばしをやった後でもう倒れてしまった。彼らは私
より賢明だった」 (V【−49)
こうした一連の限度を越えた懲罰訓練のためにケストナーは心臓を病み、野戦
病院へ入院する。しかし戦争は静養を許さず,4週間で軍務可能とされ,部隊
に復帰させられる。健康なスポーツ青年だったケストナーは戦争終了時には一
生心臓の発作に苦しむ病人になってしまっていた。そうした中で唯一の成果は
自分の能力に対する自信を得たことだった。軍隊は学校に対する世間の評判と
は無関係に編成されていたから、さまざまな学校の出身者と自分を比較した結 3
果、彼らに劣るところは何もないという結論を下すことができたのである。
以上三っのエピソードはしたがって子どもの読者にも語らずにはおられなか
ったものだけに,それをモチーフとして作品化されている。その対応関係が非
常にはっきりしているのは次の四作品である。
1. <Primaner in Uniform>(『軍服を着た最上級生』) (詩)
2.<Sergeant Waurich>(『ヴァウリヒ軍曹』)(詩)
3.<Duell bei Dresden>(『ドレスデン近郊の決闘』) (短編小説)
4.<Fabian>(『ファービアン』)(長編小説)
以下それらについて述べていくことにしよう。
2. <Primaner in Uniform》
ドイツ皇帝の動員令の発動に驚いて慌しく休暇先から我が家へもどったケス
トナーたちであったが,15才の少年にただちに直接戦争の影響が及んでくるこ
とはなかった。秋の師範学校の新学期は平常通り始まったのである。しかし当
初の見込みとは違って戦争が長期化しはじめる一方で,少年も長じて青年にな
ると戦争の人的資源の対象となるのをまぬかれない。そのことを自らの体験と
して卒直に表現したのが彼の詩<Primaner in Uniform>である。
58
Der Rektor trat, zum Abendbrot,
bek廿1nmert in den Saa1.
Der Klassenbruder Kem sei to¢.
Das war das erste Ma1.
‘
vir saBen bis zur Nacht im Park
und dachten lange nach.
Kurt Kern, gefallen bei]Langemarck,
saB zwischen uns und sprach.
, Daml lasen wir Daudet und Vergi1
und wurden zu Ostern versetzt.
Und Rochlitz sei schwer verletzt.
Herr Rektor Jobst war Theolo9
f泣rGott und Vaterland.
Und jedem, der三n den Weltkrieg zog,
gab er zuvor die Hand.
Kems Mutter machte ihm Besuch.
Sie ging vor Kumlner krumm.
Und weillte in ihr Taschentuch
vorm Lehrerk・11egium.
Der Rochlitz starb im Lazarett.
Und wir begruben ihn dann。
Im Klassenzimmer hing ein Brett
mit den Namen der Toten daran.
Wir saBen o丘im Park am Zaun.
Nie wurde mehr gespaBt.
佐藤: 「ケストナーと第一次世界大戦」 59
Inzwischen丘el der kleine Braun.
Und KoBmann wurde verga」3t.
A
Der Rektor dankte Gott pro Sieg.
Die Lehrer trieben Latein.
Wir hatten Angst vor diesem Krieg.
Und dann zog man uns ein.
Wir hatten Angst. Und hof銑en gar,
es sprache einer Halt1
wir waren damals achtzehn Jahr,
und das ist nicht sehr alt.
Wir dachten Rochlitz, Braun und Kem.
Der Rektor wUnschte uns Gltick.
Und七lieb mit Gott und den andern Herrn
gefaBt in der Heimat zurUck.
「校長が夕食のときに
悲しそうに食堂に入ってきた。
級友のケルンが戦死したという。
これがその最初だった。
ぼくらは日暮れまで公園にすわりこんで
長い間考えこんだ。
クルト ケルン,ランゲマルク付近で戦死してしまったが
すわって話しこんだ一人だった。
それからぼくらはまたドーデーとウェルギリウスを読み
復活祭に進級した。
するとハイムボルトが戦死した。
ロフリッツは重傷だという。
60
ヨープスト校長先生は
神と祖国のための神学者だった。
世界戦争へ出征するだれとでも
まず握手をかわした。
ケルンのお母さんが先生を訪問した。
悲しくて腰をかがめて歩いていた。
先生たちの前で
ハンカチに涙を流した。
ロフリッツは野戦病院で死んだ。
ぼくらは彼のお弔いをした。
死者の名前を書き入れた板が一枚
教室に掲げられた。
ぼくらはたびたび公園の垣根のそばにすわりこんだ。
もう冗談も出なかった。
その間にチビのブラウンが戦死した。
コスマンはガスでやられた。
校長は勝利のたびごとに神に感謝した。
先生たちはラテン語の授業をした。
ぼくらはこの戦争に不安を抱いた。
そしてそれからぼくらが召集された。
ぼくらは不安を抱いた。
そして一人の人が止めと言うのを切望した。
ぼくらは当時18才だった
それはさほど昔のことではない。
ぼくらはロフリッツ,ブラウン,ケルンのことを思い起こした。
校長はぼくらの幸運を祈願した。
佐藤: 「ケストナーと第一次世界大戦」 61
が神や他の紳士らとともに
じっと故郷にとどまっていた。」 (1−182£)
この詩は最初の戦死の報告がもたらされた日を起点として,その後自分自身
が召集される日までを一見淡々と生徒ケストナーの目を通して表現されてい
る。しかし当然ながらこの時期は第七節のように「もう冗談もでなかった」と
いう深刻な時だったのである。否応なしに無邪気な少年時代との決別をせまら
れ,そして「イーダ ケストナーの『小さな息子』から今はすでに批判的な観 4
@をする若者に成長」していったのである。
戦死した級友たちはもう教室では板に書かれた名前としてしか存在しない。
迫りくる戦争への不安は一転して教師,特に校長への批判となって噴出する。
同じ神を信じているはずの者同士が血を流して戦っているのに神学者として矛
盾を感じずにドイツの勝利のたびごとに神に感謝をし,自校の生徒の無事を祈
ってはくれるが,しかし危険な場所へ赴くわけではなく,若い生徒の前にその
グロテスクな行動をさらしている。
ケストナーとしては教師たちへの指弾はこれだけでは足りずにこの詩にさら
に注を加えている。
「彼らは今日なお年金を使い尽くしながらあの偉大な時代をなつかしんでい
る」(1−183)
亡くなった級友たちの無念さを察してあまりあるケストナーの心情が吐露され 5
トいるように思える。
3.<Sergeant Waurich>
軍隊に採られた青年はまず兵士となるための訓練を受けなくてはならない。
っまるところ敵にできるだけ損傷を与え,味方のはできるだけ少なくする教育
を受けることになる。ケストナーら召集された初年兵というのは思考・想像力
を働かすためではなく,指揮官の言うままに動く生身の戦争の道具として必要
とされる。ものを考え批判する能力は軍隊の最下部に位置する者にはむしろ不
要な能力であろう。もしそういう能力をもった人間と初年兵をいくらでも補充
のきく安価な道具と考える指揮官あるいは訓練教官が出あったらどうなるか。
ケストナーの軍隊生活はまさにその遭遇であった。特に彼の直接の訓練教官と
62
のあつれきは深刻で,徹底して自分に正直に生きようとすれば,そこに加えられ
る圧迫は肉体の限界を越えてしまうことになる。その点を先ほど述べた自伝の
エピソードが示唆しているが,詩として明確に表現し告発したのがくSergeant
Waurich>である。
Das ist nun ein Dutzend Jahre her,
da war er unser Sergeant.
Wir lernten bei ihm:。Prasentiert das Gewehr!“
Wenn einer um且e1,1achte er
und spuckte vor ihm in den Sand.
,,Die Knie beugt!‘‘war sein liebster Satz.
Den schrie er gleich zweihundertmal.
Da standen wir dann auf demδden Platz
und beugten die Knie wie die Goliaths
und lernten den HaB pauscha1.
Und wer schon auf allen v三eren kroch,
dem riB蓄er die Jacke auf
und brUllte:,Du I」uder伍erst ja noch!‘‘
Und weiter ging’s. Man machte d㏄h
in Jugend Ausverkauf・・
Er hat mich zum SpaB durch den Sand gehetzt
und hinterher lauernd ge{ヤagt:
。Wenn du nun meinen Revolver hattst一
brachtst du mich um, gleich jetztP・・
Da hal)’ich,Ja!‘‘gesagt.
Wer ihn gekannt hat, vergiBt ihn nie.
Den legt man sich auf Eins!
Er war ein Tier. Und er spie und schrie.
佐藤: 「ケスけ一と第一次世界大戦」 63
Und Sergeant Waur1ch hieB das Vieh,
damit es jeder weiB.
Der Mann hat m董r das Herz versaut.
Das wird ihm nie verziehn.
Es sticht und schmerzt und hammert laut.
Und wenn mir nachts vorm Schlafen graut,
dann denke ich an ihn.
「今では10年以上前になるが
あいつはぼくらの隊の軍曹だった。
ぼくらはあいつの訓練を受けたのだ,『捧げ銃』と。
だれかが倒れると,嘲笑って
その前の砂にっばを吐いた。
『膝の屈伸始め』があいつの一番気に入りの文句だった。
その文句を二百回は叫んだものだった。
荒涼とした広場に立っていたぼくらは
ゴリアテのように膝を屈伸し
部隊全員が憎しみを覚えた。
前のめりに倒れる者があると
その上着をっかみ上げて
こう吠えるのだ,「こん畜生凍え死にしてえのか」
膝の屈伸は続行され,若い身空で
肉体の廉売をさせられてしまった。
あいっは面白半分に砂でぼくをせき立て
あとからさぐるようにこうたずねた
『おれの挙銃をお前にやったら
今すぐここでおれを殺すか』
ぼくは『はい』と答えた。
64
あいつを知る者は決して忘れはしない。
まともに接しはしない。
あいつはけだものだ。っばを吐き,どなりちらした。
ヴァウリヒ軍曹は畜生だった
そのことをみんなが知ってほしい。
あいつはぼくの心臓をダメにしてしまった。
けっして許されないことだ。
心臓は刺すように痛み大きな鼓動を打つ。
夜眠るのがこわくなると
あいつのことを思いだす。」 (1−101f.)
特定の個人を名指しで告発したこの詩は衝撃的である。虐待を受けたありさ
まが具体的に叙述され,「ぼく」は上官に対する敵意を隠そうともせず,彼の
悪意を含んだ殺意の問いに「はい」と答える。それがどんな結果をもたらすご
とになるかは明白であった。19才の若者は回復不能なほど心臓を傷め,除隊後
アパートの三階にある両親の家に上がるのに二人に後押ししてもらわなければ
呼吸困難のために一人では階段があがれなくなってしまったのである(V一
53)。
この実戦に参加する以前の無意味で有害な肉体の酷使の強制による心臓の持
病,その直接の原因をつくった上官そしてそのような状況へ追い込んだ戦争へ
の怒りと憎しみがケストナーの作品のライトモチーフの一っとなり,この詩以
後の散文作品ではそのジャンルに見合って一層生々しい虐待の様子が表現され
ている。
4. 《Duell bei Dresden>
前述の詩で「ぼく」は非現実話法として上官の射殺を肯定した。それを現実
に実行しようとすればどうなるかという想定の下で描かれたのが短編小説
<Duell bei Dresden>である。ただこの短編においては詩のヴァウリヒ軍曹は
アウリヒとして登場する。アウリヒは戦争時の命知らずの勇敢な働きで将校の
副官にまでなるが,前代未聞の残忍な不法行為のかどで降等処分を受けた結果
軍曹に落とされたことになっている。彼が新兵を残虐に扱ったのはもちろん現
「
佐藤: 「ケストナーと第一次世界大戦」 65
在の不本意な境遇に対する腹いせもあったろうが,実利も伴っていて,成りた
ての兵士を乱暴に扱うほど我が子がかわいい親からその難を逃れるための金品 6
ェ贈られてくるからでもあった。このように同じ軍曹であっても短編では人物
の倭少さがより前面に出てきており,それとともに話の流れの上でも副次的な
人物として位置づけられている。
この小品でケストナーの姿が刻印されている化学技師グラフの正面の敵は軍
曹アウリヒではなく,さらにその上官のグラフの配属された隊の中隊長キネで
ある。新兵たちの教練教官たちの選択を行なったのは彼であり,彼にとっては
どの軍曹も残忍さの点では不十分だった。彼は部下に卒先して新兵の手荒な扱
い方を教えてやり,自分の隊のそうした取扱いに反してまともに若い兵士と接
した教官は前線送りにしたのである。その結果残った下士官たちは残虐と悪態
のつき方と懲罰の発明にしのぎを削ることになる。彼らの「訓練」の仕方の例
をいくつかあげてみよう。
1.チフスやコレラの予防注射をした後で250回の膝屈を深々と正確にさせ
@る
Q. 中隊長の上官に過酷さを届け出た者に対しては炎暑の中を三時間練兵場
の中で這いまわらせる
3.重い長靴をはかせて高い横木から膝を曲げないまま飛び降りさせる 7
S.馬小屋を素手で掃除させる
ともかく文字通り「新兵つぶし」をねらっているとしか思えない仕打ちであ
る。
グラフはここでも心臓を傷め,その症状を部隊つきの医師に訴えるが取り合
ってもらえないのでさらに上級の委員会に申告し,ようやく野戦病院で療養が
できる。だがそれも4週間のみで部隊に復帰させられ,以前と同じ訓練が繰り
返され,病み上がりの病状はさらに悪化してしまう。グラフは後に一年兵中隊
から配属換えになる。彼は中隊長にこう語りかけて去っていく。
「あなたは故意にしかも楽しんで私の体をこわしたのです。私たちを家畜同 8
然に扱ってくれました。戦争が終わったらまたお会いしたいものです。」
一年志願兵を直接酷使したのは下士官であり,グラフにピストルで撃ち殺し
たいかと問うたのもアウリヒ軍曹である。しかしグラフの復離の対象となった
のは訓練教官たちの指揮官であり,彼らに輪をかけて残忍な性格の持ち主であ
った中隊長キネ中尉であった。戦争が終結し軍隊から解放されるとグラフはギ
66
ムナジウムの終了試験を受け,大学に進学し食品化学会社に就職するが,健康
状態ははかばかしくなく,仕事にも全力を集中できず,結婚もあきらめざる
をえない。そうした中で彼の唯一の情熱の対象は復雛に備えての射撃の練習で
あった。その究極の的であるキネ中尉は今や判事補として裁判所に勤務してお
り,その動静は友人を通じて逐一グラフにもたらされている。
この二人はある日偶然電車の中で出会う。話しかけたのはキネの方だった。
被害者はその痛みを片時も忘れていないのに,加害者は加害者であったという
意識は全然なく,ただ昔なつかしさのあまりついかつての部下に語りかけるの
である。部下からの反応は痛烈だった。グラフは怒りを抑えきれず,キネに殴
りかかった。キネは殴られるにまかせ,一切抵抗はしなかった。この事件の四 9
T間後に二人の間に決闘が行なわれることになるのである。
そしてこの短編の冒頭で叙述されているように二人の決闘は結局成立しなか
った。なぜなら二人の撃ち合う距離を立会人が測っている間にグラフが心臓麻
痺で死んでしまったからである。したがって自分の肉体を損わせた相手にビス
トルで撃つという目標は達成できなかった。一見喜劇的とも思える書き出しで
あるが,そこからケストナーの真の意図が見えてくるように思う。彼の主眼は
復離の成就にあるのではなく,復雛を決意させるに至った過程にある。そこに
読者を注目させ,戦争中に行なわれた全く戦闘以前の非人間的行為を告発して
いるのである。しかも虐待の責任者が戦後はすっかりそうした行為をしていた
ことを忘れ果て,人間を裁く職務に就き,虐げた相手になつかしそうに話しか
けている。この加害者と被害者の全くずれた意識の差こそ最も告発されるべき
ものかもしれない。
5.<Fabian》
心臓病と初年兵いじめの中隊長のエピソードは長編<Fabian>にも出てく
る。かつての上官の件は故郷にもどった主人公ファービアンの電車の中での元
中隊長との偶然の出会いでよみがえる。
「電車がカーブしたためファービァンはノッポの男性とぶつかった。二人は
不快げに見つめあった。『おや見憶えがありますね』とその男性は言って手
を差し出した。かつての予備役中尉でクノルとかいう男だった。その男に
ファービアンが所属していたあの一年中隊の訓練がゆだねられていたのだっ
た。彼は17才の青年たちを死神と悪魔から報酬をもらっているみたいに自ら
佐 藤: 「ケストナーと第一次世界大戦」 67
虐待し,また部下に虐待させた。
『すぐに手を引っ込めなさい』とファービアンは言った。『さもないと唾を
ひっかけますよ。』
運送屋を営むクノル氏は相手の本気の助言に従ってとまどいの笑みを浮かべ
た。プラットホームにいたのは彼ら二人だけではなかったからである。
『いったい私が何をしたというのだ』とクノルは知っているくせにたずねた。
『あんたがそんなに背が高くなけりゃ,即座に横面に一発お見舞してやるの
だが』とファービアンは言った。『けれどもあんたのほおまで届かないから
別なやり方をしなけりゃならない。』そう言うとファービァンはクノル氏が
唇をきゅっと引きしめ,顔が青ざめるほど魚の目を踏みつけてやった。周り
の人々はどっと笑い,ファービアンは降りて残りの道を歩いていった。」
(∬−184£)
ここでは<Duell bei Dresden>のように相手を殴打し,決闘を申し込むとい
うような深刻な事態にはならず,握手を拒否し,魚の目をしたたかに踏みつけ
て痛い思いをさせるだけで,ささやかではあるが一種爽快な復雛を遂げさせる
にとどめている。
しかし心臓病に関しては
1.小説の冒頭の女性紹介所の入会に際して氏名,住所・職業とならんで心
臓病(herzkrank)と自己紹介し(皿一13),
2.恋人と離別し,親友が自殺してしまった後で眠れずに悶々としている主
人公を「彼が狭心症の発作を起こすたびにその後で指の生気が消えうせて
いくみたいに感情が生気を失ってしまった」(∬−156£)と描写し,
3.上記の二つの打撃をようやく克服して気持ちを切り換えたところでは
10
uその金は半年あるいはそれ以上暮らすのに十分だった。病気の心臓が異
論を唱えぬかぎりハイキングもできるのだ…」(皿一187)と述べている。
いずれも主人公の特徴を述べ,気持ちの有様を伝える重要なポイントで心臓病
が使われ,それが作者にいかに重大な刻印を残しているかを窮わせている。た
だ<Duell bei Dresden>では心臓病と復離がテーマであり,その結末はブラッ
クユーモア的でほろ苦い味を残すのに対して,<Fabian>ではあくまで挿話に
とどまり,上官に対する復雛も前述のようにさらりとしていて清涼感を残すも
のになっている。
68
U. 終わりに
ケストナーの身体に巣くって一生離れることがなかった心臓病は彼の徹底し
た反戦主義を強固に支える源泉だった。心臓は常にケストナーに戦争の内臓す
る悪を思い起こさせた。例えば彼の詩<Monolog des Blinden>(『盲者の独
白』)の中にもそれを見てとることができる。
Meine Augen hatten im August
ihren zw6豆ften Sεerbeta&
Warum traf der Splitter nicht dle Brust
und das Herz, das nicht me}πmagP
● o ●
Kdeg macht b1三nd. Das sehe ich an mir.
「私の目は八月で
十二周忌になりました。
どうして弾片は胸と
休みたがっている心臓にあたらなかったのでしょうか。
■ ・ ・
戦争は盲にします。それは自分のことでわかります。」(1−141)
詩,短編および長編小説にみるケストナーの戦争体験に共通していえるのは
いずれも直接の前線体験はなく,彼にとっては戦争はまだ訓練段階にとどまっ
たので・敵は国外ではなく国内にあったということである。具体的には教師で
あり,軍人であり,広く言うなら彼らの背後にある政治であり,その政治を追
認している一般の人々である。戦争は母の秘蔵っ子としてふんだんに愛情を注
がれ,それに報いることが人生の目的であったケストナーを鋭い批判者に変え
ていった。そうであるとするならば彼が詩人として従来の叙情詩をそのまま受
け継ぐことを拒否し,あえて実用詩を唱え目的をもたせたのもまた当然と言え
よう。そこには叙情詩に再び生命力を吹き込みたいとするケストナーの意欲が
佐藤: 「ケストナーと第一次世界大戦」 69
感じとられる。
「ケストナーは自分の詩を『実用詩』(Gebrauchslyrik)と名づけた。この
言葉はプログラムであり,同時に自己規定でもあった一つまり二重に実用
的だった…叙情詩が『実用になる』のはどういう時なのか。読みとられ,伝
えられ,応用される時だ。自分と他の人との対話の一部でありうるときだ。 11
?ヘある文学的生命の要素となるときだ。」
詩の実用性の一つが反戦の訴えであったことは明白である。<Stimmen aus
dem Massengrab>(『集団墓地からの声』)(1−96)を初めとしてその例証
は枚挙にいとまがないし,彼の詩全体を流れる基調であると言っても過言では
ない。その最も徹底したものは大胆にもドイツの敗北を積極的に肯定し,軍国
主義を手厳しく批判した<Die andere M691ichkeit>(『別の可能性』)であ
ろう。
Wenn wir den Krieg gewon鍬en hatten,
mit Wogenprall und Sturmgebraus,
dann ware Deutschland nicht zu retten
und gliche einem Irrenhaus.
Man wUrde uns nach Noten zahmen
wie einen wildell V61kerstamm.
Wir sprangen, wenn Sergeanten kamen,
vom Trottoir und stUnden stramm.
● ● ●
Dam lage die Vernunft in Ketten.
Und st加de st{indlich vor Gericht.
Und Kriege gab’s wie Operetten.
Wenn wir den Krieg gewonnen hatten一
zum G1直ck gewannen wir ihn nicht!
「もし我々が疾風迅雷怒濤のごとく
戦争に勝っていたら
70
ドイツは救われず
精神病院も同然であったろう。
我々は野蛮人のように
楽譜通りに仕込まれ
軍曹たちがくれば,歩道から飛び上がって
直立不動の姿勢で立ったことだろう。
■ ● o
理性は鎖にっながれて
毎時間法廷に立ち
戦争はオペレッタみたいに行なわれたことだろう
もし我々が戦争に勝っていたら一
幸いなことに我々は勝たなかったのだ。」(1−163f£)
マンクも言うようにケストナーはいわゆる「前線体験(Fronterlebnis)」が
なかったから実戦そのものをテーマにすることはできなかったが,そのために 12
ゥえって戦争を一層醒めた目で見ることが可能になった。その醒めた目で彼は
自らとは切り離されたところで戦争が決定され,それに巻き込まれ,戦後はイ
ンフレ,失業などその債務を一一身に背負わされた同世代の人々を代表して言語
を通して表現したのであった。この点にっいてはすでに『ケストナーの初期作 13
iについて』で述べたことであるのでこれ以上は触れない。ただ最後にケスト
ナーの最初の詩集<Herz auf Taille>(『腰の上の心臓』)の冒頭の詩くJahrgang
1899>(『1899年生まれ』)は彼の世代の体験を要約しているので,その最初
の二節を掲げて上記拙論へのつなぎとしたい。
Wir haben die Frauen zu Bett gebracht,
als die Manner in Frankreich standen.
Wir hatten uns das vlel sch6ner gedacht・
Wir waren nur Kon5rmanden.
Dann holte man uns zum Millitar,
佐藤: 「ケストナーと第一次世界大戦」 71
bloB so als Kanonenfutter.
In der Schule wurden Banke leer,
zu Hause weinte diO Mutter.
「夫たちがフランスにいっていたころ
ぼくらは妻たちをベッドに寝かせた。
ぼくらはもっといいものだと思っていた。
ぼくらは堅信礼を受けたばかりだった。
それからぼくらの召集の番となった
ただ弾丸のえじきとして,
学校の席は空っぽになって
家では母が泣いていた。」(1−37)
注
1)Kastner, Erich:Gesammelte Schriften 7 Bde.からの引用の場合は巻数をロー一
マ数字で,ページ数をアラビア数字で本文中に示す。
2)vgl. Enderle, Luiselotte:Erich Kastner S.31(以下本書をEnderleと略す)
3) vgl. Enderle, S.31f.
4) Bemmann, Helga:Humor auf Taille, S・37
5)教師や聖職者への批判はケストナーのライトモチーフの一つとなっている。
vg1. Schneyder, Werner:Erich K乞stner, S・79 f・(以下本書をSchneyderと略
す)
6) Kastner, Erich:Gesammelte Schriften f廿r Erwachsene Bd.4S.260 f.
7) idid. S.259f.
8)idid・S・262
9) idid. S.262f.
10) ファービアンが親友から遺産としてもらった金。vg1.皿一149
11) Schneyder, S.66f・
12)Mank, Dieter:Erich K琶stner im nationalsozialistischen Deutschland, S。19
13)佐藤和夫,金沢大学大学院ドイツ文学論集1
72
文 献
1 基礎文献
Kastner, Erich:Erich Kastner Gesammelte Schriften 7 Bde. Kiepenheuer&
Witsch, Kδln,1959
:Erich K盗stner Gesammelte Schriften f茸r Erwachsene 8 Bde. Droemer
Knaur, MUnchen/ZUrich,1969
皿 参 考文献
Bemmann, Helga:Humor auf Taille, Erich Kastner Leben und Werk.
Verlag der Nation, Berlin,1983
Enderle, Luiselotte:Erich Kastner in Selbstzeugnissen und Bilddokumenten.
Rowohlt,19753
Mank, Dieter:Erich Kastner im natinalsozlalistischen Deutschland:1933−1945:
Zeit ohne Werk?Peter Lang,1981
Schneyder, Werner:EricR K註stner, Ein brauchbarer Autor. Kindler,1982
皿 翻 訳
板倉靹音訳編:『ケストナァ詩集』思潮社,1975
小松太郎訳: 『ファービアン』,東邦出版社,1974
高橋健二訳: 『ケストナー少年文学全集』,岩波書店,1962
: 『ケストナー博士の叙情詩家庭薬局』,かど創房,1983
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