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カントの認識批判における図式と象徴 -図式論に寄せて-

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カントの認識批判における図式と象徴 -図式論に寄せて-
NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE
Title
カントの認識批判における図式と象徴 -図式論に寄せて-
Author(s)
井上, 義彦
Citation
長崎大学教養部紀要. 人文科学. 1979, 19, p.225-239
Issue Date
1979-01-31
URL
http://hdl.handle.net/10069/9701
Right
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http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp
カントの認識批判における
図式と象徴
-図式論に寄せて-
井上義彦
Schema und Symbol
in der Erkenntniskritik Kants
-zu dem Schematismus-
YOSHIHIKO INOUE
1
『純粋理性批判』は, 「私〔カント〕がこの純粋理性批判において意味することは,書物や
体系の批判ではなくて,理性が一切の経験にかかわりなく達得しようとするあらゆる認識に関
して,理性能力一般を批判することである」 (AXII)という意味において, 「純粋理性の批判」
(Kritik der reinen Vernunft)である.だが,純粋理性がそれ自身認識能力としてあるべ
き限り,理性能力一般を批判することは,同時にそれによって可能となるべき「認識の起源,
範囲及び客観的妥当性を規定する学」 (A57, B81)という性格を帯びることになり,その意味
でF純粋理性批判』は「認識批判」 (Kritik der Erkenntnisse)とも言いうるであろう(A57,
B81).
そしてかかる理性能力批判と認識批判を通して, 『純粋理性批判』は「形而上学一般の可能
性もしくは不可能性の決定,この学の源泉,範囲及び限界の規定」 (AXII)を行うことになる.
カントにおいて,認識(Erkenntnis)とは一般に「経験的認識」即ち「経験」 (Erfahrung)
のことを意味する.従って認識の可能性とは,経験の可能性を意味する.
さて,かかる認識の可能性の問題を一般的に表現すると,「ア・プリオリな総合的判断〔認識コ
は如何にして可能であるか」 (Wie sind synthetische Urteile a priori moglich?)と定式
化しうる.カントはこれを「純粋理性の一般的課題」 (B19)と呼んで,批判哲学を通じての
ゥ
根本的問題と考えている.
周知のように,カントはこの問題解決の為に,所謂「コペルニクス的転回」 (Kopernika-
井上義彦
226
nische Wendung)と言われる考え方,即ち「思考法の革命」 (Revolution der Denkart)を
提示した(BXVI).
それによると,認識に関して従来の思考法は, 「我々の認識は全て対象に従わねばならない」
(alle unsere Erkenntnis mussen sich nach den Gegenstanden richten, BXVI)と想定
していた.だがこの想定では,経験論の破綻が端的に示しているように,我々の認識を確実性
を以って拡張しえないのである.そこでカントは,それを逆転して「対象が我々の認識に従わ
ねばならない」 (die Gegenstande miissen sich nach unserem Erkenntnis richten)と
いう「思考法の変革」 (Umanderung der Denkart)を想定してみた(BXVI)のである.
認識を成立させるということは,カントによると認識の対象を成立させることである.従っ
て,対象(即ち経験)の可能性は,対象(即ち経験)認識の可能性と根本的に同じ構造にある.
「経験一般の可能性の諸条件は,同時に経験の対象の可能性の諸条件である」(die Bedingungen
der Moglichkeit der Erfahrung iiberhaupt sind zugleich Bedingungen der Moglichkeit der Gegenstande der Erfahrung, A158, B197).
それ故に,問題解決の方向は,対象の方ではなく,認識を可能ならしめる認識主観の方に定
位されることになる.
2
カントによると,認識の構造は,感性(受容性)と悟性(自発性),直観と概念という二元論
的な要素の存在から成り,認識は両者の総合的統一において成立するのである.このように認
識の構造を二元論的に考えるだけに,その総合統一を説明することが, r純粋理性批判』の根
本的問題となり, 「ア・プリオリな総合的判断は如何にして可能か」という課題になる.横棒
論や図式論は,この間題解明のために存する.
認識の経験的(質料的)な素材は,感性において直観として与えられ,それが悟性において
概念によって思惟される.両者の結合において,認識は成立するのである.
感性なしにはいかなる対象も与えられず,悟性なしにはいかなるものも思惟されない.
この間のことをよく示すのが, 「内容なき思想は空虚(leer)であり,概念なき直観は盲目
(blind)である」 (A51, B75)という周知の言葉である.
ところで, 「我々の認識は経験と共に始まるが,我々の認識が全て経験から生ずるのではな
い」 (Wenn aber gleich alle unsere Erkenntnis mit der Erfahrung anhebt, so ent・
springt sie darum doch nicht eben alle aus der Erfahrung, Bl).
こういう言葉には,確かにカントの批判哲学が,イギリス経験論(Empiricism)と大陸合
理論(Rationalism)の総合であると言われる所以が明瞭に窺え,しかも批判哲学の特質が明
白に表われている.
カントの認識批判における図式と象徴
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イギリス経験論の教訓が示すように,確かに我々の認識は経験と共に始まり,経験的なモメ
ントなしには認識は経験的に無意味であり,空虚である.だがしかし,経験はいかなる普遍必
然性を持った認識をも生み出しえない. 「なるほど経験は,何かあるものが事実しかじかであ
るということを教えはするが,しかしそのものがそれ以外ではありえないということ〔必然性〕
を教えるものではない」 (B 3).また, 「経験はその判断に真の,あるいは厳密な普遍性を与え
ず,単に(帰納によって)想定された比較的(komparativ,相対的)な普遍性を与えるだけ
である」 (B 3).かくして,イギリス経験論は,学閥成立に不可欠と思われた普遍必然的な認
識をもたらしえないという絶望から,ヒュームにおいで陵疑諭に陥入り,自壊の道を辿った.
他方,合理論は,普遍必然性を有した理性的認識をもたらすと考えた.合理論的認識は理性
による認識であり,概念による理性認識であるからして,常に正当で確実であると考えた.合
理論者の信じた演樺推理は,確かに理性的原理が真である限り真である.しかしそれは認識の
拡大をもたらすものではなかった.合理諭的認識は概念による理性の認識(理性推理)を信ず
る余り,偶然的な経験的モメントを無視していった.経験の有する意味を正当に評価できなか
った.それ故に,合理諭的認識は経験的な意味即ち客観的妥当性を持ちえず,理性のみによっ
て徒らに概念をもてあそび内容空虚な形而上的な思弁を弄することになり,そこに仮象や誤謬
推理が行われることとなった.このことは,やがてカントが「弁証論」 (Dialektik)において
論証することではあるが,従来の形而上学(合理諭)はこうした独断論に陥入っていった.
いずれにせよ,批判哲学者カントは,経験論から認識に対する「経験の必要性」を学び取っ
た.これは認識の豊かさ(拡張性)を約束する.合理論からは「概念による認識」の思想を引
き継いだ.カントにおいては,哲学的認識はそもそも「概念からの理性認識」 (Vernunfterkenntnis aus Begriffen )であった(A837, B865).また経験的な認識たる「悟性の認識は
概念による認識(Erkenntnis durch Begriffe)」 (A68, B93)であり,この悟性概念に認識
ゥ
の普遍必然性は基づいていると考えたから,これは認識の確実性を約束する.
懐疑論に陥入った経験論の教訓には,後者の「概念による認識」の考え方で答え,独断論に
陥入った従来の形而上学(合理諭)の教訓には,前者の「経験の必要性」で応答したと言える
であろう.
かくして,カントは両学説の長所を学び取り,短所を克服する術を相対立する両学説からそ
れぞれ吸収し,両者の轍を踏まない思想的な立場を確立した.カントが,経験論と合理諭の批
判的総合者と言われ,批判哲学が両学説の総合的止揚と言われる所以である.
このことを,カントの言葉に即して説明すると,認識は「経験と共に」 (mit der Erfahrung)
始まり,確かに経験を英機に認識の材料(質料)が直観的所与として与えられる.だが,認識
は全て「経験から」 (aus der Erfahrung)生み出されるのではなくて,それ自身は経験から
生み出されえないもの(即ち認識主観の内に見出されるア・プリオリな形式)が,経験的所与
(直観)と結合することによって,経験的認識は一般に成立するのである.このア・プリオリ
井上義彦
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な形式は,経験の可能性の条件としての,時間と空間(直観の形式及び感性の形式としての)
並びにカテゴリー(悟性の純粋概念としての)とである.
換言すれば,経験論は,経験を可能にする条件(原理)まで全て経験から汲み取り,それに
よって経験を説明しようとした.だが,それは不可能なことであった.
カントは,経験が経験の可能性の条件によって成立する以上,認識論的にも存在論的にも,
かかる条件が認識主観の内にア・プリオリな形式として予じめ存するということを想定し,そ
れを論証しそしてそれの客観的妥当性を証明することによって,経験の可能性を説明するとい
う超越論的な立場を開拓したのである.そこに,経験論と合理諭を批判的にアウフヘーベンで
きる批判哲学の立場が確立きれたと言える.
コペルニクス的転回という思考法の逆転の要諦も,かかるア・プリオリな形式の想定に存す
ることは今や明らかであろう.
すると,問題は,かかるア・プリオリな形式が直観の対象に如何にして必然的に関係するの
かということの証明如何にかかってくる.
この間題の解決に, 「ア・プリオリな総合的判断は如何にして可能か」という純粋理性の∼
般的課題の解決もかかってくるのである.
このように考えると,演鐸論も図式論も根本吋には同じ問題構造の枠の内に存することが理
解できる.
カテゴリー〔範噂〕の超越諭的清輝とは,カテゴリーがそれ自身悟性の純粋概念でありなが
ら,如何にして感性的な対象(直観)とア・プリオリに関係しうるのかという権利問題(quid
juris)の解明を課題としている.換言すると, 「〔純粋悟性〕概念が如何にしてア・プリオリに
対象に関係しうるかという仕方の説明」 (die Erklarung der Art, wie sich Begriffe a
priori auf Gegenst邑nde beziehen konnen, A85, B117),即ちカテゴリーの客観的妥当性
の証明である.
ところで, 「純粋悟性概念は元来経験的(感性的)直観とは全く異種的であり,いかなる直
観の内にも見出されえない」 (A137, B176).従って,次に「純粋悟性概念が如何にして現象
一般に適用されうるか」 (Wie konnen reine Verstandesbegriffe auf Erscheinung iiberhaupt angewandt werden? A138, B177)という問題が生じてくる.
ここに, 「純粋悟性概念がそこにおいてのみ使用されうる感性的制約」 (A136, B175)を論究
する「図式論」が成立する所以がある.
演樺論においては,カテゴリ-が可能な直観一般に適用しうることが原理的に証明されたが,
図式論においては, 「カテゴリ-の現象-の適用」 (die Anwendung der Kategorie auf
Erscheinungen)は,具体的には如何にして可能かということが論証きれるのである.
従って,図式諭は,演鐸諭と同じ問題構造の内にあり,演鐸論の感性化あるいは図式化と比
㊨
愉的に言いえよう.
カントの認識批判における図式と象徴
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3
カントは,図式論の問題即ち「カテゴリ-の現象-の適用可能性」の問題を,直観(現象)
のカテゴリーの下への「包摂」 (Subsumtion)の問題と捉えている.別言すると,判断力の包
摂の問足として論究している.
包摂とは,特殊を普遍の下-限定することであり,判断力は規則(普遍)の下-包摂する能
刀(A132, B171)であり,認識に関しては, 「概念の使用には,なお対象を概念の下に包摂す
る判断力の機能(Funktion)が必要である」 (A247, B304).そしてこの判断力の機能は,図
式機能において,従って図式の適合において作動するのである.
カントによると,こうした包摂が可能であるためには,包摂するものと包摂されるものとの
間に,ある同種的(gleichartig)なものが存せねばならない.換言すれば,カテゴリーが現
象に適用しうるためには, 「一方ではカテゴリ-と,他方では現象と同種性の関係にある第三
者(ein Drittes)が存せねばならない」 (A138, B177).
この両者の媒介作用をなす第三者は, 「一面では知性的(intellektuell)であり,他面では
感性的(sinnlich)」 (A138, B177)な表象である.かかる第三者が「図式」 (Schema)に外
ならない.
図式とは,いかなるものであろうか.
悟性の純粋概念であるカテゴリーが,個々の経験的概念から区別されるように, 「図式」は
「形像」 (Bild)から区別されねばならない.
例えば,三角形の概念は,あらゆる三角形に適合する普遍妥当性を有しており,個別的な三
角形の図形として一つの「形像」に限定化しえない.つまり我々は三角形の概念によって三角
形を様々に思い描くことができるが,その思い描かれた三角形は,特定の形に限定された三角
形の形像であり,どんな三角形も妥当しうる一般的な三角形の形像ではない.我々はそういう
一般的な形像を思い描くことはできない.しかしそれにも拘らず,我々が様々な個別的な三角
形の形像や図形を見て,それらを三角形として概念的に理解できるのは何故か.あるいは別言
すれば,我々がどんな三角形の概念に対してであれ,その三角形の形像を思い描くことができ
るのは何故か.
それを可能にするのが,カントによると「図式」 (Schema)なのである.
図式は,形像(Bild)を一般に可能にするものであるが故に,それ自身形像ではない.図式
は形像化の根拠であって,形像を可能ならしめる一般的な表象である.それ故に,図式は「概
念にその形像を附与するという構想力の一般的な仕方(Verfahren)の表象」 (A140, B179180)と呼ばれている.
図式も形像も,根本的には形象化能力である産出的構想力の所産であるが, 「感性的概念の
図式は,ア・プリオリな純粋横根力のモノグラム(Monogramm,略図)」 (A142, B181)で
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井上義彦
あり,形像はこの図式を介してのみ概念に結びつくのである.これに反して, 「純粋悟性概念
の図式は,決して形像化しえないものであり,カテゴリーによって表現されるところの,概念
一般に従う統一の規則に則った純粋総合であって,構想力の超越諭的な所産である」 (A142,
B181).
個々の経験的概念の根底に,それを可能にするカテゴリーが存するように,個々の概念の図
式の根底にも,それを可能にするカテゴリーの図式,即ち超越諭的な図式が存せねばならない
のである.またそれによって,カテゴリーは図式化きれることになり,カテゴリーの現象-の
適用が可能になるのである. 「純粋悟性概念の図式は,純粋悟性概念に対象-の関係を与え,
従ってまた意味(Bedeutung)をも与えるところの,真正にして唯一の条件である」 (A145'6,B185).
かくして,図式はそれによって可能となる形像を介して,直観と経験的概念を媒介総合する
ことになり,一般的に言って超越論的な図式は,感性と悟性とを媒介し,カテゴリ-の現象へ
の通用を可能にするのである.
既述したように,図式論と演鐸論は同じ問題構造の内にあった.いずれにおいても,直観と
概念,感性と悟性は根本的にはカテゴリ-に則った超越諭的な構想力によって媒介総合されね
ばならない.
カテゴリーの超越諭的演樺は,カテゴ]) -の使用を経験に制限する「形像的総合」 (synthesis
speciosa)として解決されている.この形像的絵合は, 「構想力の超越論的総合」とも言われ,
「直観をカテゴリーに則って総合する構想力の総合」(B152)とされている.
図式論においても,構想力は超越諭的な図式機能(Schematismus)として,感性と悟性,
直観と概念を媒介総合する.その際,総合は図式化されたカテゴリーに則って行われる.
カテゴリーの図式化は,超越論的図式としての「超越論的時間限定」 「transzendentale
Zeitbestimmung)によって可能になる. 「超越諭的時間限定は,それが普遍的でア・プリオ
リな規則に基づいている限りにおいて,カテゴリー(時間限定の統一を成立させるところの)
と同種的である.しかしそれは他方また,時間が多様な経験的表象の全ての内に含まれている
限りにおいて,現象と同種的である.それ故に,カテゴリ-の現象-の適用は,悟性概念の図
式として,現象のカテゴリ--の包摂を媒介するところの,超越諭的時間限定によって可能に
なる」 (A138-'9, B177-'8).
それ故に,カテゴリーの図式化は,現象とカテゴリとに同種的でかつ根源的な「超越諭的時
間限定」によって可鱈となり,かく図式化きれたカテゴリーが,あらゆる概念の根底に存して,
それぞれの概念の直観や現象-の通用を可能にするのである.
カントの認識批判における図式と象徴
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4
カントは,「図式に関する悟性の仕方を純粋悟性の図式機能(Schematismus)」 (A140, B179)
と名づけて,それに関して次のように言っている. - 「我々の悟性の図式機能は,人間の,も
の奥深い処に隠された技術(eine verborgene Kunst)であって,我々がこの術の頁の伎偶を
自然について察知し,これを明らさまに呈示することは困難であろう」 (A141, B180-'D.
さて,カントは図式諭の問題を包摂の問題として捉え,かかる図式機能を判断力の包摂の能
力の中で考察していた.
カントのこうした捉え方は,形式論理の伝統的な発想に基づくものであり,果して妥当なも
のと考えうるであろうか.
我々は,図式機能を単に判断力の包摂能力の中にのみ限定すべきではなく,従ってまた図式
の問題を包摂の問題に限定すべきではないと考える.以下,かかる観点から論じたい.
『判断力批判』において周知のように,判断力(Urteilskraft)は二種類,即ち「規定的判
断力」と「反省的判断力」とに区別されている.それによると, 「もし普遍(規則,原理,法則)
が与えられていれば,特殊をこの普遍の下に包摂するところの判断力は規定的(bestimmend)
である.だがもし特殊だけが与えられていて,判断力がこの特殊に対して普遍を見出すべきで
㊨
あるとなると,この判断力は単に反省的(reflektierend)である」.
カントが図式論において包摂能力として取り上げた判断力は,今や「規定的判断力」である
ことが判明する.しかし我々は認識構造において根本的な図式機能の働きは,規定的判断力に
限定しえないのではないかと考える.
直観と概念,感性と悟性,かかる「両者が結合してのみ,認識が生じ得る」 (A51, B75-'6)
°
°
°
°
°
°
°
°
°
°
°
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のである.この為には, 「対象の概念を感性化すること(即ち対象の概念に対象を直観におい
°一e
°
°
°
°
°
°
°
°
°
°
て附与すること)が必要であると同様に,対象の直観を悟性化すること(即ち対象の直観を概
念の下にもたらすこと)も必要なのである」 (Es ist ebenso notwendig, seine Begriffe
sinnlich zu machen, (d. i, ihnen den Gegenstand in der Anschauung beizufiigen,)
als seine Anschaungen sich verstandlich zu machen (d. i, sie unter Begriffe zu
bringen. A51, B75).
この引用文で明解に示されたカントの考え方は,我々に極めて重要な解釈の論拠を与えるも
のである.
認識の成立の為には,概念の感性化と直観の悟性化とが共に必要不可欠であり,かつ同時に
それらは相即不離に行われねばならないということである.
しかも,概念の感性化においても直観の悟性化においても,認識成立の為には,感性的なも
のと悟性的なものとを媒介する「図式機能」は存在せねばならない.するとその際,図式機能
における判断力は,概念の感性化においては規定的に,また直観の悟性化においては反省的に
井上義彦
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働いていると考えられる.何故ならば,認識形成における判断力は,概念の感性化においては,
予じめ概念が与えられているが故に,規定的に働くことになり,これに対して直観の悟性化に
おいては,与えられているのは特殊な直観であり,それらを総括する概念が求められているが
故に,反省的に働くことになるのは,けだし明らかであろうから.
この間のことをもっとよく示す事例は,幼児が言葉を習得する過程において典型的に見出さ
れる.
言葉の習得の段階にある幼児は,最初当然ながら全然言葉や概念を所有していない.先ず幼
児にとって存在するのは個々の日常的な経験体験である.そうした中で,幼児は親の指示によ
って直示的に事物の言葉を学習してゆく.そして周囲の経験現象を自己の体験に基づいて少し
づつ理解し,やがて自分の欲求を片言ながら言語的に表現するようになる.このように,言葉
の学習期の幼児は,はじめ言葉(概念)を所有していず,与えられるのは特殊な経験直観のみ
である.それ故,特殊な経験直観からそれらを総括する言葉を形成(習得)しようとする直観
の悟性化が,反省的思考においてなされているといえる.
何かを理解するとは,直観から言葉(概念) -の到達を意味している.こうした理解によっ
て,言葉や物の意味が習得されてくる.そしてこれにより,言語的表現は可能になる.
「概念に直観を与える横根力の操作は表現(exhibitio)である.経験的直観から概念を作
ゥ
成する構想力の操作は理解(comprehensio)である」.
経験的直観から概念の作成は直観の悟性化に,また概念に直観を与えることは概念の感性化
に対応する.しかも両者において働くのは同一の構想力なのである.従って両方の操作におい
て図式機能が営まれていることは明らかであろう.
上記の幼児の事例は,極めて自明なことであり,我々の諭旨を裏付ける.
第一に,末だ言葉(概念)をもたず,経験的直観のみをもっている幼児にとって,包摂の問
題はありえないということである.これは,図式の問題を単に包摂の問題とのみ解するカント
の考え方に対する決定的な反証になる.
第二に,図式論が認識論の中心的問題である以上,カントの認識批判にとってもこの事実は
無視することはできない.それ故に,経験的直観から概念を作成するという直観の悟性化にお
いても,図式機能は見出されなければならない.従って図式機能は規定的判断力だけでなく,
反省的判断力においても見出されねばならないと考えられる.
5
それでは,何故にカントはこうした観点を見落し,図式の問題を包摂の問題と考えたのであ
ろうか.
カントは,次のように反論するかも知れない. -批判哲学は,日常的な知覚経験の次元を
カントの認識批判における図式と象徴
233
問題にしているのではなく,学の基礎づけという超越諭的な次元での認識批判を問題にしてい
る.従ってそれの問題は,知覚判断ではなくて,経験判断であり,換言すると能力心理学的な
発生的認識論ではなくて,経験の可能性を究明する超越論的な認識批判であると.
これは確かに説得力のある反論である.しかしカントの認識批判が経験の可能性の解明にあ
る限り,図式化という経験認識の本来有する真実の「機能」を正当に評価し把捉しないのは,
本末転倒である.知覚判断であれ,経験判断であれ,それらが経験的判断である限り,それら
は図式機能によってのみ可能であるから.
また,カントが何故に図式の問題を包摂の問題として解したかも説明できる.
学の基礎づけという超越諭的な立場に立つと,学の事実を基に経験(認識)を一般に可能に
するカテゴリ-は, 「判断表」から形式論理的に求められてくる.すると,問題はかかるカテ
ゴリ-を如何にして現象に適用するかになる.かくして,図式の問題は当然に包摂の問題とな
り,規定的判断力の働きにおいて説明されることになる.
こうしたカントの一連の考え方は,それなりに辻接の合ったものであるが,原初的な経験認
識に対する反省の欠落が,カントをして図式の問題から経験認識の真実を見極める視点を覆っ
てしまったと推察される.
いずれにせよ,我々のこうした解釈は,カントの経験認識の考え方に対する見直しを迫って
くる.
つまり,これによって,従来経験を固定化する枠であったところの,カテゴリーによって奪
われていた経験そのものの豊鏡さと生産性とが回復されてくるということである.
我々は常に新たな経験の場にあることになり,新たな経験事態に即応した新たな概念の形成
や更には新しい根本概念(カテゴリー)の創出に迫られることもありうるであろう.むしろ,
それが現在我々の経験の現実なのである.こう考えると,カントのようにカテゴリーが形式論
理的に12簡に限定されているということは疑問であろう.そしてカントの認識構成主義という
固定化された思想は,その本来有すべきダイナミズム(dynamism)を回復しうることになろう.
これと関連して想い出されるのは,フッサールの現象学的還元における「自然的な態度」 (die
natiirliche Einstellung)に対する評価の変遷である.
現象学は,無前提の立場からあるがままの経験現象を純粋に記述しようとする.かかる場に
到達する為に,現象学的還元はなされる.初期のフッサ-ルでは, 「自然的な態度」は自然科
学などの様々な先入見にとらわれた日常的な簡度で,還元されるべき対象であった.しかし後
期のフッサ←ルでは,むしろ日常的な経験の場においてこそ,経験の純粋な本来の姿が示され
ていると考えて,かかる「自然的な簡度」は,現象学的還元によって見出されるべきもっとも
ゥ
原初的な経験成立の場,即ち「生活世界」 (Lebenswelt) -導きうるものであると考える.
これと同様に,カントの超越論的な立場も,やはり原初的な経験を生かしうるものでなけれ
ばならないと考える.
井上義彦
234
6
認識の成立にとって,概念の感性化と直観の悟性化とは相即不離に存在すべきであり,また
両者の相互作用においてこそ,完全な認識は本来成立すると考察される.
従って,それに対応して,我々が既に論究したように,図式機首削ま概念の感性化と直観の悟
性化,換言すれば我々(判断力)の規定的思考と反省的思考のいずれにおいても作動している
と考究きれねばならない.
図式機能(Schematismus)は,直観と概念の媒介作用として,概念に対応する形像を描き
出す図式化(Shematisierung)の一般的な働きであるから,産出的構想力に基づいている.
カントは,それを「概念にその形像を附与する構想力の一般的な仕方」 (A140, B179-180)と
していた.
産出的構想力は,自発的に形象化(形像化)する能力として「根源的な表現」 (exhibitio
originariva)の能力である.かかる表現(exhibitio, Darstellung)とは, 「概念に直観を与
ゥ
える構想力の操作」である. 「概念に直観を附与する操作は,客観の表現(Darstellung, exョ
hibitio)と呼ばれ,これなしにはどんな認識も存しえない」.
また,カントは『判断力批判』の『第一序論』において,規定的判断力の衝きを「概念にこ
節)
れに対応する対象を直観において表現すること(Darstellung, exhibitio)」としている.
かくして,カントにおいて図式化とは,表現化として,いずれも「概念に直観を附与する操
作」という点では,言葉の表現においても同じ性格を示していることが分る.
図式化とは,表現化であり,また概念の感性化従って包摂化でもある.
しかし図式化をこうした面にのみ限定するのは,既述したように,直観の悟性化という側面
を見落とすことになろう.
直観の悟性化が,図式諭にとって不可欠な所以を「時間」に関して考察してみよう.
カテゴリ-を図式化する超越論的図式とは, 「超越論的時間限定」であり,それ自身形像化
しえないものであった.しかるに, 「感性一般に対する一切の対象の純粋な形像(das reine
Bild)は時間である」 (A142, B182).ところが, 「時間は,それ自体だけでは決して知覚され
えない」 (B225).しかも周知のように,時間は本来直観であり概念ではない(A31-'2,B47).
こうした時間が,そのままであらゆる概念(及びカテゴリー)の根底において,元来形像化
の働きである図式作用を営むとは,極めて理解しがたいことである.そこで,時間直観の悟性
化即ち概念化がなされない限り,時間は表象化も形象化もしえないと考えられる.
カントは言う. -「我々は,一本の線を引いてみる限りにおいて,一本の線(eine Linie)
という形像の下で以外では,時間を表象化する(vorstellig machen)ことはできない」 (B156).
時間は,一本の直線を引くという一種の空間化によって,初めて表象化できるのである.
カントはまた,明瞭に言う. -「時間は一本の線(線は一つの空間である)によって表現
カントの認識批判における図式と象徴
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され,また空間は時間(時刻は運行する)によって表現されるということは,悟性概念の一つ
㊨
の図式機能(em Schematism)である」.
我々は何らかの意味で時間を空間化しない限り,時間を表象化することはできないし,また
㊨
時間を図式として利用することもできないのである.
時間は,カテゴリ-の図式化を果す超越論的な図式の役割を与えられながら,時間それ自身
は一本の直線を引くという空間的表象によって図式化されているのである.超越論的時間限定
によるカテゴリーの図式化は,時間のこうした図式化によって初めて理解できると言える.
ここにも,図式論の中核をなす時間に関しても,図式機能にとって概念の感性化と直観の悟
性化とが相即的に必要な所以が理解されるであろう.
今や,この直線(を引くこと)が時間の図式になっていることが理解される.カント自身,
㊨
「時間の図式は線である」と認めている.
そうすると,この直線,あるいはその先端に矢印を付けて見ると,この図形は言うまでもな
く時間を象徴的に表現していることが理解できる.けだし, 「事物の形態Gestalten (直観)
㊨
は,それが単に概念による表象の手段としてのみ役立つ限り,象徴(Symbol)である」から.
別言すると, 「象徴は悟性の手段にすぎないが,しかし対象の表現によって悟性の概念に意味
を附与する為に,象徴は悟性の概念がそれへ通用されうるところの一定の直観との類推(Ana一
㊨
logie)によって,間接的(indirekt)にのみ存するのである」.
つまり,直線は,一面時間の図式を意味し,他面時間の象徴を意味していることになる.
これは,図式機能としては一体いかなる事態を意味しているのであろうか.
それは,判断力に規定的(bestimmend)な作用と反省的な(reflektierend)な作用とが存
したように,それに対応して図式機能に,図式的(schematisch)な作用と象徴的(symbo1isch)な作用とが存するということであると推察される.
カントは言う. - 「認識は経験の為に図式機能(Schematism)を含み,それは実在的
(real)な図式機能(超越論的, transzendental)を含むか,それとも類推(Analogie)によ
⑯
る図式機能(象徴的, symbolisch)を含むかのいずれかである」.
図式機能は,認識にとって図式的か象徴的かである.図式機能が,概念をそれに対応する直
観によって直接的に(directe)表現する時,それは図式的な図式機能と呼ばれる.しかしそ
の概念が類推により,その結果において間接的に(indirecte)表現されるならば,それは概念
㊨
の「象徴化」 (Symbolisierung)として象徴的な図式機能と呼ばれている.
「我々がア・プリオリな概念の根底におく全ての直観は,図式であるか,それとも象徴であ
るかである.図式は概念の直接的表現(direkte Darstellungen)を含み,また象徴は概念の
間接的表現(indirekte Darstellungen)を含んでいる.そして図式はこれを直観証示的
(demonstrativ)に行い,象徴は賛推(Analogie)によって行う.ところで判断力は,この
類推において二通りの仕事をする.即ち第一には,概念を感性的直観の対象-適用する,次に
井上義彦
236
第二にはかかる直観に施された反省の規則を,全く異なる対象へ通属する,そうすると最初の
⑲
感性的直観の対象が第二の対象の象徴(Symbol)になるわけである」.
我々は,既に,図式の問題は単に包摂の問題に限定されないこと,従って図式機能は規定的
判断力のみならず,反省的判断力においても見出されるべきことを論及し主張した.
これは,今やカント自身図式機能に二種類の,即ち図式的と象徴的な在り方を区別している
ことによって,もはや明白に確認されたと言えるであろう.
これに対して,次のような反論がなされるかも知れない.即ち,カントの象徴的な図式機能
は本来超感性的なものを対象としていること,従ってそれは,例えばいかなる感性的直観も適
合しえないような理念(理性概念)杏,類推によってある具象物によって表現化しようとする
働きであるから,図式的な図式機能と同一次元で論じられるべきではないと.
例えば,カントはこう言う. - 「感性化(Versinnlichung)としての全ての表現(DarsteHung)は二様である.即ち図式的であるか,象徴的であるかである.第一の場合には,悟性
の事とする概念に,これに対応する直観がア・プリオリに与えられる.第二の場合には,理性
のみが考えることができ,いかなる感性的直観も適合しえないところの概念に,ある種の直観
が配せられる.そしてかかる直観に判断力の仕方が合致するのは,判断力が図式化(Schema⑲
tisieren)において観察するもの,即ち単に類推的(analogisch)なものに関してだけである」.
我々は,こうした反論に対する我々の返答をかねて,もう一度言葉(概念)の乏しい幼児や
未開人の事例を参考にしたい.
幼児が「お空が泣いているよ」と言ったり,アメリカ・インディアンが「我々は戦いの斧を
埋めたい」と言う.それは, 「雨が降っている」の意味であり, 「和睦したい」の意味である.
幼児や未開人が,我々を驚嘆させるような生彩ある象徴的表現を,しばしば行うのは何故か.
カントは,これを次のように説明する. -「常に象徴的にしか自己を表現しえない者は,
まだ僅かな悟性概念しか持たず,野蛮人がその物語の内で聞かせるところの生彩ある叙述がし
ばしば感嘆せられるのは,概念の貧困(Armut)に,従ってまた概念を表現すべき言語の貧困
㊨
に他ならないのである」.
カントがここで述べた理由は,そのまま幼児にあてはまる.未開人と同じく,いわば主客未
分化の「融即」の状態にある幼児は,言葉(概念)の貧困の故に,象徴的表現をなしがちなの
である.
それ故,象徴的思考は,超感性的な,あるいは形而上学的な領域にのみ見られることではな
㊨
くて,日常の経験現象の内にいくらでも見受けられることである.例えば,子供の象徴的遊び
(何々ごっこの類etc)
「我々の言語(Sprache)は,類推(Analogie)に従う間接的な表現に満ちているが,それ
によって表現は,概念のための本来的な図式を含むのではなくて,単に反省のための象徴を含
㊨
むにすぎない」.
カントの認識批判における図式と象徴
237
いずれにせよ,結論的にこう言えよう-我々は,直観の概念化を可能にする象徴的な図式
機能なしには,経験的な直観からいかなる概念や言葉も作成しえないし,また学習しえないで
あろう.このことは,またかかる概念や言葉なしには,概念の直観化たる包摂化もそれだけで
一義的に成り立つとは言えないのではないかということを示唆している.
それ故に,認識の成立において,直観の概念化(悟性化)と概念の直観化(感性化)とが同
時に相即的に行われているとするならば,その認識作用の根底においては,図式的のみならず
象徴的な図式機能も相即的に作動していると考察されねばならない.
7
カントによると,象徴は類推(Analogie)によってのみ可能となる. 「 (性質的意味におけ
る)類推は, 〔異種的な二つの物におけるそれぞれの〕理由と帰結(原因と結果)との間の関
係の同一性である.即ち物の種別的な差異や,類似の帰結に対する理由を含む物の特性それ自
㊨
体を度外視しても,その関係の同一性が成立する限りにおいてである」.
「象徴」 (Symbol)とは,元来語源的には「割符」を意味するギリシャ語のHcrbμβoλov=
㊨
から由来しており,カントの象徴解釈には,多分にその名残りが感じられる.
割符の役目は,両者の同一性の身分証明である.両者が相互に同質的な同一性にある場合,
それは図式である.両者が相互に異質で類似がない,それにも拘らずそれぞれの因果関係が同
一性(あるいは類似性)がある場合に,それは象徴になる.
「独裁的専制国家と手挽き白との間には何の類似点もない.しかしこの両者とそれぞれの因
㊨
果関係とを反省する規則の間には,確かに類似性(Ahnlichkeit)がある」.それ故,手挽き白
は独裁的専制国家の象徴たりうるのである.
ところで,カントにおいては,図式や象徴となりうるものは,それ自身直観的表象である.
「直観的な表象の仕方は,図式的な表象の仕方と象徴的な表象の仕方(Vorstellungsart)
㊨
とに区分されうる」.
また, 「事物の形態(直観)は,それが単に概念による表象の手段に役立つ限りでは,象徴
㊨
である」.
すると,図式や類推を介して象徴となる直観は,経験可能なものであり,健界の因果関係と
何らかのつながりを有することになる.この場合,図式は経験の可能性の条件として,経験に
とって構成的図式として働くのであるから,このことは言うまでもない.これに対して,類推
において成立する象徴は,類推の基になっている経験においては,経験可純なものである.
それ故に,カントにおける「象徴」は,規約的な純粋シムボルではなくして,経験世界と何
らかの地縁関係を有する「有縁的シムボル」即ち「イコン〔似姿〕的なシムボル」であると考
㊨
えられる.
井上義彦
238
㊨
だから,カントにとっては, 「文字(Charaktere)はまだ象徴ではない」.カントはそれを
次のように理由づけている. - 「なぜならば,文字はそれ自体では何物をも意味せず,ただ
組み合わさること(Beigesellung)によって直観に達し更に直観を介して概念に到達すると
㊨
ころの,単に間接的な記号(Zeichen)にすぎないから」.
言語(記号)を純粋に規約的なシムボルと考える今日の立場では,カントのあげた理由の故
に,言語(記号)を象徴と解するであろう.
註
㊨ Kant : Kritik der reinen Vernunft.本文中の引用文の頁付は,慣例に従って第一版(1781)をA,
第二版(1787)をBとする.尚,以下引用文中の傍点は論者による.
@こうした問題提起とその解決にあたる演揮論は,例えば, 『実践理性批判』 (Kritik der praktischen
Vernunft, 1788)においては,第一部の一節「純粋実践理性の原則の演樺について」 (Phil. Bibl,
Ausgabe, SS50-58)で,また『判断力批判」 (Kritik der Urteilskraft, 1790)においては, 「第36
節,趣味判断の演樺の課題について」 (Phil. Bibl. Ausgabe, SS138-'9)で,見出される.
cf. Benett : Kant's Analytic
④これに関連しては,拙稿参看「カントの経験の第二類推」 ( 『哲学』 (日本哲学会編) No. 21, 1971)
150-'1貢
㊨ Kant : Kritik der Urteilskraft. Vorrede IV, XXV-XXVI
㊨ Kant : Reflektionen zur Metaphysik. Nr. 561 Kant's Gesammelte Schriften C以下KGSと
略記⊃ Bd. 18 S320
⑦ Vgl. Husserl : Husserliana Bd. Ill (Ideen. I )
derselbe : Husserliana Bd. VI (Krisis.)
前著では,フッサ-ルは「この自然的な態度にとどまることなく,我々はその態度を根本的に変更し
たいと思う」 (I deen,I与31, S63)と言い,後著では, 「我々は,この自然的な態度のままで,生活
世界の不変な構造を問うこともできる」 (Krisis, 隻 51, S176)と述べている.
Kant : Refl. z. Meta. Nr. 5661 KGS Bd. 18 S320
㊨ Kant : Preisschnft uber die Fortschritte der Metaphysik. KGS Bd. 20 S325
㊨ Kant : Die Erste Einleitung in der K. d. U. 隻 VII, (Phil. Bibl. Ausgabe) S27
㊨ Kant : Refl. z. Meta. Nr. 6359 KGS Bd. 18 S687
㊨ Vgl. Heidegger : Kant und das Problem der Metaphysik.
derselbe : Die Frage nach dem Ding.
-イデッガ-は, 「超越論的図式論は,根源的な本来的な概念構成一般である」 (Kant, SI04)と言い,
また図式論を根源的な真理生成の場と解して高く評価する(Frage, S97 od. S141).
-イデッガ一においては,図式化はいわば時間化において考察されているが,しかしこれに対して我
々は更に,図式とは本質的に形像的性格を有するものであるから,図式化はいわば空間化においても
考察されるべきことを提言したい.
㊨ Kant : Reflektionen. KGS Bd.23 S27カント自身による『純粋理性批判JI (第一版)の自家用本
への書き込み
㊨ Kant : Anthropologie in Pragmatischer Hinsicht. ら 38 KGS Bd. 7 S191
㊨ Kant: op.cit.
㊨ Kant : Preisschrift iiber die Fortschritte der Metaphysik. KGS Bd. 20 S332
⑲ Kant : op. cit. S279
⑲ Kant : Kritik der Urteilskraft. 隻 59 (Phil. Bibl. Ausgabe) S212
カントの認識批判における図式と象徴
239
㊨ Kant : op. cit. S211
㊨ Kant : Anthropologie. 隻 38 KGS Bd. 7 S191
㊨ cf. Piaget : La Psychologie de L'intelligence (知確の心理学),波多野・樽沢訳,みすず書房
それによると, 「記号とか象徴とかの使用は,あるものを別のものによって表象(再現)する能力であ
る」(239頁).
だから, 「なぜ,象徴がつくられると同時に言語が,習得されるかが,わかる」 (239貢).
尚,三波幸雄:カント哲学研究(協同出版)参照「第十章批判哲学の図式構造」 (627-732頁)におい
て,図式と象徴についての示唆に富む考察がなされている.
㊨ Kant : Kritik der Urteilskraft. 隻 59 S212
㊨ Kant : op. cit. 隻 90 S337 Anmerkung
㊨ vgl. Biemel : Die Bedeutung von Kants Begriindung der Asthetik fiir die Philosophic der
Kunst. KanトStudien, Erg邑nzungshefte 77 S113
㊨ Kant : Kritik der Urteilskraft § 59 S212
㊨ Kant : op. cit. S211
㊨ Kant : Anthropologie 隻 38 KGS Bd. 7 S191
㊨ cf. Guiraud : La S6mantique (意味論)佐藤訳白水社23貢以下参照
㊨ Kant : Anthropologie 隻 38 KGS Bd. 7 S191
㊨ Kant: op.cit.
(昭和53年9月30日受理)
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