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スパルタとともに

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スパルタとともに
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スパルタとともに
清 永 昭 次
じゃあ私はスパルタの歴史をやってみようかという気になりまして、
それで最初に書いた論文が、97頁レジュメのーの︵1︶のーにあり
パルタの一番古い時代を扱いました。こういうものをテーマにして
いうものでございます。ミケーネ時代にまでさかのぼりまして、ス
ということで、主なところは、私が今までどういうことをスパルタ
の︵3︶のーに挙げましたハモンドというイギリスの学者の、蕊
書こうということで、一番私が触発されましたのは、レジュメのー
ます、一九六一年に発表した﹁スパルタにおけるポリスの成立﹂と
に関してやってきたのかというお話でございまして、最後に、これ
という題の論文でございます。私のは、スパルタにおけるポリスの
っていう雑誌に載りました﹁スパルタにおけるリュクルゴス改革﹂
メを、それぞれA4一枚で作ってまいりました。この順序を必ずし
ましてポリスが成立する過程について考えたものでございます。そ
おりました、そういうスパルタ社会の中からミケーネ王国が解体し
れ以後は、時代を追って段々下がってくる、ということで研究を続
成立の年代と、それからそれ以前のいわば氏族制的な関係が残って
期あるいは古典期と言われるものの一つ前の、貴族制期、あるいは
けました。
も踏みませんで、少し前後してお話しするかも分かりません。
前古典期といわれる時代を対象にいたしました。最初はスパルタに
他方スパルタというポリスには、スパルタに住んでいる人々の区
分として、スパルタの市民と、ペリオイコイと、ヘイロータイとい
アテネについては研究者が日本にもたくさんいるのに、スパルタの
研究というと比較的やる人がいなくて手薄であったものですから、
は特には関心がなく、修士論文ではアテネのことを扱いましたが、
私はギリシア史の研究を始めましたときに、時代としては民主政
させていただきたいと存じます。地図と、お話しする中身のレジュ
からどのようなことをしようと思っているのかについても、お話し
二ヶ月半ぶりに皆様にお目にかかれて、大変懐かしい気持ちでご
j
ざいます。私が今日お話しいたしますのは、﹁スパルタとともに﹂
(一
タイとペリオイコイについても研究いたしました。ヘイロータイに
代順ということではありませんが、その三つの住民区分のヘイロー
う、大きく分けて三つの住民区分があります。こちらは必ずしも年
スがあります。すべてポリスというのは、中心市というところとそ
ネソス半島、そのペロポネソス半島の南の方にスパルタというポリ
ご存知だと思いますが、ギリシアの南に大きな半島があってペロポ
在だと、そういう言い方が非常に多かったわけですけれども、私と
でございまして、当時ヘイロータイというのは中世の農奴に似た存
に出しました一九六六年の﹁スパルタのヘイロータイ﹂という論文
スパルタの中心市、後にアミュクライを含んで五つの村からスパル
白い丸はアミュクライというところですが、四つの黒い丸が本来の
集まっているところがございます。その少し下に白い丸があります。
した地図でございます。この地図の左上のところに四つの黒い丸が
図︵地図B︶99頁はスパルタというポリスの中心市とその周辺を示
ついて調べました結果を発表したのが、レジュメのHの︵1︶の2 の周辺の田園地帯と二つの部分からなっておりまして、左の下の地
なんだということを書きました。
は四つの村からなる部分を拡大したものでございます。右の下の地
タの中心市ができるようになります。右の上の地図︵地図C︶㎜頁
してはそうじゃなくて、身分的に言っても階級的に言っても、奴隷
︵二︶
ルタの中心市の四つの村の部分とほとんど重なっております。初め
てスパルタに参りましたとき、大変小さい町だという印象でした。
図︵地図D︶皿頁は、現在のスパルタ市の地図でして、古代のスパ
当時人口一万人あまりでありました。今日でも大体一万二千人前後
私が学習院に奉職いたしましたのはさっきご紹介がありましたよ
いた翌年に就職いたしましたので、﹁スパルタにおけるヘイロータ
うに一九六二年ですから、﹁スパルタにおけるポリスの成立﹂を書
イ﹂などは学習院に勤めてから書いたものでございます。その後も
ギリシアで県のことをノモスというんですが、ラコニアーノモスの
八七年版で見ますと、=九=名。小さな町ですがラコニア県、
県庁所在地であります。小さいけれどもきれいな清潔な感じのする
じゃないかと思っております。︿ブルーガイド﹀の﹃ギリシア﹄の
いうことでお暇をいただきました。主としてイギリスで勉強したん
二、三の論文を書きましたが、レジュメのーの︵1︶にありますよ
ですが、その行き帰りに二度ギリシアにまいりました。行きがけに
が植えてありました。
町であります。それから南国的でして、目抜き通りには綜欄の並木
うに、一九六九年の四月から一年間、学習院大学から、国外研究と
ものですから、一週間くらいのツアーに参加いたしました。ちょう
るということで、半日休んでその晩はスパルタに泊まるということ
さてツアーはスパルタに午後つきまして、それまでの疲れを休め
でしたので、私は一番大事な古代スパルタのアクロポリスとアゴラ
んだわけであります。初めてスパルタという町を訪ねました。
この地図の左の上︵地図A︶98頁はギリシアの地図で、もちろん
どスパルタにも行くということでありましたので、そのツアーを選
寄ったのが五月でございまして、なにしろ初めてのことで慣れない
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にあるわけです。この地図で言いますと、ローマ時代以後の城壁で
の下のところにクセニア︵×①巳四︶と書いてあります。これがツア
を見学に行きました。この右下の地図︵地図D︶で申しますと、右
いう印象を持ったかというと、さっき申しました清潔で南国的な街
私はまあ、そういうわけで初めてスパルタにまいりまして、どう
何にもありません。ただ草が生えているだけでした。
これはヘレニズム時代の劇場の遺跡ですけれども、アゴラの跡には
リスだったんですけれども、今日においてはアテネとスパルタと言
ということを別にすれば、古代にはアテネと並び称される大きなポ
ーが泊まったホテルでありまして、アクロポリスというのは北の方
であります。その下にアゴラって書いてあります。この現代のスパ
すが囲ってあります横に細長いところ、これが古代のアクロポリス
う感じでありました。見方によれば、これはスパルタが国家主義、
スパルタのアクロポリスには誰も行かない、かわいそうだなあとい
アクロポリスには毎日何千人という観光客が訪れるんですけれど、
えばまるっきり月とスッポンだということでありました。アテネの
のところに来ましたら突然、夕立に降られまして、全然雨宿りする
多分、︼キロ半かニキロくらい、歩ける範囲でありました。アゴラ
っていうホテルからアクロポリスまで私は歩いて行ったのですが、
ルタの地図にもアクロポリスとアゴラが書いてあります。クセニア
場所がないのでびしょぬれになっちゃったんですね。今でもよく覚
いでもないですけれども、やはりスパルタっていうポリス、あるい
は現代のスパルタの町に対するいとおしさ、愛着が非常に強く起こ
軍国主義でやっていたからそのバチが当たったんだという気がしな
そのままずぶぬれでもってアクロポリスに登りました。
ちになりました。それが一回目の経験でございます。時間もあんま
りまして、それから、ますますスパルタの勉強をしようという気持
えていますが、時間が限られているので戻るわけにもいかなくて、
皆さんアテネのアクロポリスなんかを連想されて、ああいう岩山
ところを見学することはできませんでした。
りありませんでしたし、知識もありませんでしたので、それ以上の
をアクロポリスというと想像されると思うんですが、スパルタのア
ルってレジュメに書きましたが、これはアクロポリスの南側のアゴ
︵三︶
クロポリスというのはたいへん低い丘であります。比高二〇メート
ラと比べてということでして、アゴラからアクロポリスのてっぺん
レジュメーのスパルタ訪問の︵2︶っていうのが一九八八年九月
まで高度の差が二〇メートルきりないんです。アテネのアクロポリ
って植わっていて、羊飼いなんかが勝手に羊を追って上り下りする
スと違いまして全然入場料をとるわけでもなし、オリーブが畑にな
うことでさせていただきまして、その時はアテネに一年住んでおり
となっておりますが、これも二度目、学習院大学から国外研究とい
に半円形のものがありますが、これは劇場、半円劇場でして、アク
た。スパルタにも行ってまいりました。それが九月であります。こ
ましたので、ギリシアの本当にあちこちを見て歩くことができまし
という、そういう景色でした。このアクロポリスの地図の西南の隅
ロポリスで一番目立つというか、ほとんど唯一目立つ遺跡でした。
この右下の現代のスパルタの地図︵地図D︶を見ますと、中央よ
もございましたので、かなりいろいろと見学してまいりました。
の時には、前の時よりも知識も増えておりましたので、また、時間
していた時代のスパルタの青銅製の戦士の像、小さいんですが、な
のスパルタは経済的にも文化的にも繁栄していたんです。まだ繁栄
ざっぱにいって紀元前六世紀半ば以後のスパルタでして、それ以前
ルタには文化の栄えた、経済も繁栄した一時代があったんだという
かなかいいもので、そんなものも展示してありまして、かつてスパ
ことをここで見ることができます。
がありますが、このレオニダイオンっていうのは紀元前四八〇年の
それから、レジュメでその次にアルテミスーオルティア神殿とい
り少し左下のあたりにレオニダイオン︵じΦo巳ユ巴8︶っていうの
パルタの王様レオニダスの社跡だと言われるところであります。確
テルモピュライの戦いで三〇〇人のスパルタ兵とともに討死したス
ここがアルテミスーオルティアの神殿でありまして、例のスパルタ
一番隅あたりにω雪oε角蔓oh>詳①ヨお○胃け匡㊤と書いてあります。
うのは、この地図で申しますと、アクロポリスから真東に行くと、
っていうのは恐らくアクロポリスの西側の南の麓あたりにあったん
教育の一環としてスパルタの青年男子へのイ一一シエーションの儀式
の遺骨が納められたのかどうかは分かりません。レオニダスのお墓
かに石積みの遺跡がありましたけれども、ここに本当にレオニダス
じゃないかということですが、今日では埋め戻されていてぜんぜん
る。そうしますと、アルテミスーオルティア神殿の祭壇で見世物と
がここの祭壇で行われていたわけです。スパルタが落ちぶれ果てて
して、スパルタの青年を鞭打ちにするという、一種のショー化した
しまったローマ帝政期になりますと、観光客がスパルタにやってく
は、レオニダイオンから右下の、地図で言うと東の方に何か公園み
その次に、レジュメに博物館と書きましたが、博物館っていうの
たいなものが書いてあります。レオニダイオンの真東ではなくて南
に書いてあるのがこのアルテミスーオルティア神殿の観光客観覧席
儀式がありました。右上の地図︵地図C︶で言うと、半円形みたい
分かりませんでした。
に、そうですね、四〇〇から五〇〇メートルのところ。もしスパル
東です。南東のところに、ミュージアムって書いてあります。南東
タにお出でになることがあれば、この博物館を見学されるといいと
テミスの由緒ある神殿であります。
でありまして、ここで見せていたらしい。そのような、しかしアル
いうのは、この左下の地図︵地図B︶でもスパルタの四つの村の東
思います。あるいは世界史の教科書にもひょっとすると載っている
側をずっと南に流れてラコニア湾に注いでいます。この川は、スパ
ータス︵国焉o鼠の︶という川が流れています。エウロータス川って
実物が、この博物館に置いてあります。スパルタっていうポリスを
それから、アルテミスーオルティア神殿の直ぐ東のほうにエウロ
私たちはなんとなく陰気な、文化もないし市民の自由もないし、と
ルタを象徴する川でございまして、ギリシアの川としては水量が豊
ぶとをかぶった、大理石製の上半身の戦士の像があります。あれの
いうようなそういうポリスとしてイメージするんですが、それは大
場合があると思いますが、レオニダスの彫像って言われている、か
スパルタとともに
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よりはちょっと濁っていました。
で見ることができます。スパルタにはミケーネ時代に一つの王国が
まいりました。この出土品の主な物は、アテネの国立考古学博物館
それから、南の方のアミュクライにも行ってまいりました。この
レタ文明があった、そのクレタ文明とスパルタとの文化的交流を証
あったわけですが、そのミケーネ時代よりも一つ前にクレタ島にク
富であります。川岸まで行ってみたんですけれども、予想していた
四つの村から南へ下りまして、七ー八キロメートル行ったところに
ございます。今日では小さな町ですが、スパルタの中心市を構成し
ミュクライといい、ヴァフィオといい、ミケーネ時代のスパルタの
明する遺物がヴァフィオの墓から出てまいりました。ですから、ア
っていうギリシア正教のチャペルがあるんですけれども、その近く
これはピレウスがアテネの外港でありましたように、ギュテイオン
面してギュテイオン︵O旨げΦδ昌︶っていう港が書いてあります。
それから、この左上と左下の地図︵地図A・B︶のラコニア湾に
大事な場所だったということであります。
ていた、五つの村のうちの一つであります。ここにアヤーキリアキ
に、アミュクライオン、アミュクライ神殿というものの遺跡があり
っていう神様を祀っておりました。ピュアキントスっていうのは、
ます。このアミュクライ神殿には、ギリシア神話のピュアキントス
アポロンに愛された美少年だったということになっておりますが、
にスパルタが大艦隊を造りまして、エーゲ海に乗り出して行くんで
すが、そういう場合のスパルタ艦隊は多分、このギュテイオンから
がスパルタの外港でありまして、例えば、ペロポネソス戦争の末期
民が信じていた神様であります。この神様をギリシア人であるアカ
イオンにも足を伸ばすことができました。
出港したんじゃないかなあと思います。一九八八年の時にはギュテ
要するにドーリス人が入ってくる前のアカイア人に征服された先住
イア人も受け入れてアミュクライ神殿に祀ったっていうことで、ア
っちこっちスパルタについて見学することができたんですが、特に
ですから、一九六九年の第一回目の時に比べますと、ずいぶんあ
ミュクライはアカイヤ人の拠点になっていたところでありました。
スの中心市の一つに取り込まれたわけです。ですからアミュクライ
それが結局ドーリス人のスパルタ人に征服されて、スパルタのポリ
ありがたかったなあと思うのは、レジュメのーの︵2︶の三︵四︶
行目に書きました、アテーナ・カルキオイコス︵︾昏①コ㊤o=巴匹?
っていうのはミケーネ時代のスパルタの一つの中心的な位置にあっ
たんです。
ございます。アテーナ・カルキオイコス、カルキオイコスというの
は﹁青銅の家の﹂という意味の形容詞なんで、ですからアテーナ・
時om︶神殿と、メネライオン︵冒㊦昌9毘8︶、これを見たことで
はもう、盗掘され破壊されて、トロス、丸屋根も全然なくなってい
カルキオイコスというのは、﹁青銅の家のアテーナ女神﹂っていう
ころにヴァフィオのトロス墓っていうのがあります。今日ではこれ
ますけれども、墓泥棒がお墓の床の下に、もう一つ小さな場所があ
意味です。これがスパルタっていうポリスの守護神で、この守護神
また現在のアミュクライ︵アミクレ︶の町から少し南に下ったと
ることを見逃していたために盗掘をまぬがれた副葬品がかなり出て
出来ていて、スレートなんかとは違う立派な屋根でふかれていたと
図B︶で言いますと、スパルタの四つの村からちょっとエウロータ
それから、メネライオンっていいますのは、この左下の地図︵地
ない状態であります。
はつまり青銅の家といわれる神殿に祀られていたわけです。青銅の
いうことのようでありまして、神殿全体が青銅で囲まれていたわけ
ス川の下流の反対側にメネライオンって書いてあります。メネライ
います。ただ、私はその場所をここだとまだ申し上げることができ
ではないと言われています。この神殿の場所ですけれども、この右
オンっていうのはメネラオスのお宮っていう意味でして、トロイ戦
イコスの神殿はアクロポリスにあったんだということは言えると思
上の古代のスパルタの地図︵地図C︶で言いますと、アクロポリス
家っていうのはどういうのかと言いますと、恐らく、屋根が青銅で
の西の隅、劇場のすぐ上の方にあったとなっております。アテーナ
伝説の上でですが。メネライオンっていう社に今日まいりますと、
争の時のスパルタの王様がメネラオス、そのお后がヘレネーです、
基礎が残っているだけですが、ここにメネラオスとヘレネーの社が
ありますが、そのうちの左のがアテーナ神殿。ほかにもそこがアテ
あったということは、出土品によって分かっております。メネライ
・カルキオイコスと書いてございます。劇場の上に長細い印が二つ
ーナ神殿の場所だとなっている地図があります。ところが、この右
です。そこにメネライオンがあります。紀元前八世紀頃に造られた
下の地図、︿ブルーガイド﹀の地図︵地図D︶で言いますと、アテ
んじゃないかと言われておりまして、ミケーネ時代にはなかったも
オンは、エウロータス川の東側の急な斜面の上にあります。スパル
の中でもアテーナ・カルキオイコスの神殿はそこにあったが、今で
のです。そこにメネラオスとヘレネーの神殿が造られたということ
タを含むラコニア平野を一望の下に収める非常に眺めのいいところ
は埋め戻されていると書いてあります。ですから、アテーナ・カル
は、そのあたりがメネラオスの住んでいた王宮に関係のある場所だ
のどこかにあったように書いてあります。︿ブルーガイド﹀は文章
キオイコスの場所については少なくとも二つ説があるんですが、一
い鱒ぎα讐ヨo巳簿って書いてあります、い葵&臥ヨo巳p・のじのあた
きにも、メネライオンから一〇〇メートルから二〇〇メートル北東
年ぐらい前から再開されまして、私が︸九八八年にまいりましたと
そのメネライオンのある丘の発掘が六〇年ほどの中断を置いて二五
ったから、それで後のスパルタ人がここに社を建てたんじゃないか。
り、もうちょっと北かも分かりませんが、そこに細長い、あんまり
の跡が発掘されておりました。ミケーネ時代のスパルタの王国の王
に行った、紀元前一五世紀から一二世紀にかけてのかなり大きな館
宮がどこにあったのかということは、今日でも分からないんでして、
アテーナ・カルキオイコスの神殿の跡であるという標識が付いてい
ども、とにかく、スパルタの守護神でありますアテーナ・カルキオ
ました。私はそれ以上確かめることができないでいるわけですけれ
大きくありません遺跡、基礎が掘られた跡がございまして、ここが
また別に、この右下の地図︵地図D︶で言いますと、﹀。目80冨
九八八年にスパルタのアクロポリスに行ってみましたら、それとは
ーナ・カルキオイコスっていうのは、アクロポリスの西側の北斜面
スパルタとともに
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ィオのあたり。もう一つはメネライオンの丘でありまして、今日で
補として挙がるのはさっき申しましたアミュクライオンとかヴァフ
少なくともスパルタの四つの村の中にはなかったんじゃないか。候
ざいます。スパルタで毎年五人選ばれる大事な役人にエフォロス
問題は三点セットのスパルタを誰がつくったのかということでご
ります。
ました館はどうも王宮ではない、まだ王宮だということは証明され
ういう改革をやったということを、はっきり言っている史料はあり
の人について少ないですが史料が残されておりまして、キロンがそ
ます、その年の筆頭エフォロスがキロンという人でありました。こ
︵監督官︶というものがありますが、紀元前五五六年だったと思い
ておりません。ミケーネ時代のスパルタの王国の王宮の跡も今日で
はメネライオンの丘が有力候補になっております。ただ、発掘され
はまだ分からない、可能性のある所が一、二言われているけれど分
な史料がございます。大体エフォロスっていうのはスパルタでは大
ませんけれども、エフォロスの地位を強化したことを窺わせるよう
ていうのが非常に少ないんですね。もう、本当に指折り数えるほど
事な役人ですけれども、そのエフォロスの名前が残されている例っ
からない、ということでございます。
についても私はそれだけ見聞を広めることができまして、大変あり
八八年に一年間ギリシアに住まわせていただきまして、スパルタ
がたいと感謝しているわけでございます。
ました。﹁キロンの改革﹂っていうのは、そういうふうな言い方を
私は一九八四年に﹁キロン︵O鉱一〇づ︶の改革﹂という論文を書き
レジュメの∬のスパルタ史研究の︵1︶の3にございますように、
度と民主政とペロポネソス同盟、これとキロンっていうのは関係が
うしますと、今申しました新しいスパルタの三つのリュクルゴス制
ォロスに選ばれた年代は大体分かっていて、紀元前五五〇年頃。そ
ロスだったんだと考えてよいように思います。また、彼が筆頭エフ
ロンっていうのは何かとても大きな業績をあげた大変重要なエフォ
しか残っていません。その一人がキロンであります。ですから、キ
した人はまだいないと思いますが、スパルタの国家体制が、大体紀
︵四︶
元前五五〇年頃、大きく変わるわけです。貴族制だったものが民主
﹁キロンの改革﹂と呼んだわけであります。アテネの場合は﹁ソロ
そういう体制を作ったんじゃないかというふうに考えまして、私は
ンの改革﹂、スパルタの場合は﹁キロンの改革﹂と、こういうわけ
あったんじゃないか。いや、キロンがいわば中心人物の一人として
いうものが形成される。それから、スパルタ人の生活を規制した、
制に変わる。それから、スパルタを盟主とするペロポネソス同盟と
あるいは縛ったリュクルゴス制度というものが出来あがるのも大体
であります。
リュクルゴス制度と、それからペロポネソス同盟、この三点セット
紀元前五五〇年頃から五〇〇年頃ということで、こういう民主制と
を持ったスパルタが、いわゆる私どもが思い浮かべるスパルタであ
大体この﹁キロン︵○匡一〇昌︶の改革﹂でスパルタの民主政の成
の分解を防こうという制度で、市民には大変な無理を強いたわけで
民主政や民主政の基盤でありますスパルタの市民団、こういうもの
従来の理解ですと、スパルタのリュクルゴス制度っていうのは、
やっていないという部分になっております。
前五〇〇年と四〇〇年くらいの間っていうのは両方でまだ本格的に
立まで跡づけたつもりでありまして、要するにポリスの成立から民
すけれども、そのおかげでスパルタは中産的な市民層というものを
︵五︶
タの研究というのを一応私としてはいたしましたが、もちろん今に
軍を形成して、それでスパルタの覇権というものを維持できた。そ
維持することができて、そういう市民が、ギリシア第一の重装歩兵
主政の成立まで、つまり貴族制の時代、古典期以前の時代のスパル
なってみますと、もう一回考え直さなきゃならない問題も少なくご
でずうっと続いていて、それで紀元前五世紀の後半のペロポネソス
ういう体制が紀元前五世紀、つまり紀元前五〇〇年から四〇〇年ま
ざいません。レジュメのーの︵3︶にハモンド以下三人の研究者の
は翻訳が出ておりますが、原著は一九六八年に出ましたから、私が
名前をあげました。フォレストの﹃スパルタ史﹄っていうのは今日
て、大手前女子大の先生をしてました方ですが、﹃広辞苑﹄の最初
期のスパルタの研究をしてこられた方は新村祐一郎さんでありまし
ですが、日本の中で申しますと、私と同じように貴族制期、前古典
てきたスパルタが外部世界に接触したことが、例えば貨幣経済に接
世紀以後は、急に崩壊が進むんだ。それまで鎮国主義の姿勢をとっ
う体制だったから、とうとう持ちこたえきれなくなって、紀元前四
度下のスパルタの体制っていうのは、市民に無理を強いる、そうい
の衰退っていうのが大変急速に進むわけです。元々リュクルゴス制
ところが紀元前四世紀以後、ことに三世紀になりますと、スパルタ
の編集者の新村出先生の御長男です。新村さんと私とはいわば古い
触するというようなことも加わって、スパルタの経済的政治的な崩
戦争においても、スパルタは結局アテネをねじ伏せることができた。
方から段々下がってまいりましたスパルタ史の研究者であります。
第一回目に国外研究に出かける前に読むことができました。小さい
他方、国学院大学の古山正人さん、それから長谷川岳男さん、この
去年中央公論社から出ました︿世界の歴史﹀の第五巻、﹃ギリシ
壊が急速に進んだんだと、こういう風に説明されてまいりました。
本ですが、非常に刺激を受けました。また、レジュメのHの︵2︶
大学の非常勤講師をされている方ですが、この二人はヘレニズム時
方はまだ正式なポストを持っていらっしゃいませんで、あちこちの
ております。ですから新村さんや私は上の方からこう下がって来て、
っていうと、更に下がっていくという感じの、そういう研究をされ
あるかな、という感じがいたします。ただ、やはりああいう一般向
問題にもちょっと触れられていて、今までの書き方とは少し違いが
きになっておられ、リュクルゴス制度下のスパルタの体制の動揺の
アとローマ﹄のギリシアの部分は東京大学の桜井万里子さんがお書
古山さんはヘレニズム時代から上に上がって来ると、ちょうど紀元
代のスパルタから、古山さんは遡っていき、長谷川さんはどっちか
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むことは差し控えられたと思いますが、実は紀元前五〇〇年から四
けの書物ではこういう問題についての新しい動向をはっきり盛り込
から︸五〇年間もスパルタ社会はいわば凍結されていたと、そうい
私はやはり、従来のように紀元前五五〇から五〇〇年以後一〇〇年
進みつつあった、ということが言われるようになりました。紀元前
その時期にもスパルタ市民団の間で富める者と貧しい者への分解が
今日のお話は何か学術講演というには値しない、お粗末な報告で
と考えております。
の辺のことを実際はどうなのかということを明らかにしていきたい
ども、私としては今後その時代のことを少し勉強いたしまして、そ
がいたします。それはいわゆる古典期という時代に入るんですけれ
四六五年にスパルタでは大地震があって、大変な被害を出すんです
うふうに言うのは今日では無理になってきてやしないかなという気
が、ああいう大地震はスパルタ社会の中に大きな影響を与えなかっ
す。
したけれども、これで私のお話を終えさせていただきたいと思いま
〇〇年、つまり紀元前五世紀の間、リュクルゴス制度が市民をがん
たはずはないだろう。例えばそういうことでございます。レジュメ
じがらめに縛っていて、スパルタの社会の崩壊を食い止めていた、
のHの︵3︶の二番目のフォレストも、紀元前五世紀のスパルタ社
会が決して経済的に全く平等な市民団ということではなかったんだ
えで書いております。その次の三番目のカートレッジの﹃スパルタ
ということに触れておりますが、やはり彼も大体において従来の考
とラコニア﹄は、さっき申しましたメネライオンの丘がミケーネ時
らせてくれた書物でありますが、カートレッジ自身、その確証はな
代のスパルタの王宮の跡じゃないかという説の存在を私に初めて知
いと言っております。このカートレッジが、紀元前五世紀における、
ます。これは一九七九年のものでありますが、その後、紀元前五世
富の分化ということがやはり大問題なのだということを言っており
うふうに考える研究者がだんだん増えてまいりました。その代表は
紀中にスパルタ社会の分解を促進するような現象が進んでいたとい
あります。確かに史料を見ただけではそうは読めないことが多いん
最後に四番目に書きましたスティーヴン・ホドキンソンという人で
ですね。ですから史料の解釈っていうことが問題になるんですが、
スパルタとともに
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︿第十四回学習院大学史学会大会講演﹀ 一九九八年六月一三日百周年記念会館小講堂
新村祐一郎
大学文学部研究年報﹄三〇︶
スパルタとともに︵レジュメ︶ 清永昭
ー スパルタ訪問
︵2︶
古山正人、長谷川岳男
︵1︶ 一九六九︵昭和四四︶年五月
﹃葵O巳P県︵昌O日Oω︶の県庁所在地。人口一万人強︵一一、
塑Oい国⊆8甑ロωo昌q巳く①謎一貯い一げ弓母ざお①゜。︵丹藤浩
2≦P国。霞①ω眞︾鎚吻8蔓ミ曾9ぎ㊤㎝o占㊤b。
oo唱胃けP霧刈ρお㎝0
1 客9い出ゆ8巨8F弓冨い閤qおΦ雪國Φho胃ヨ讐
桜井万里子
︵3︶
九=人切冨①09貼pお。。刈︶。9D碗o円p四す8巳冨︵比高二〇
メートル、劇場︶
︵2︶ 一九八八︵昭和六三︶年九月
いoo巨画巴oコ博物館、﹀り8ヨδO胃爵昼神殿、国ξ9器川、
﹀ヨ団匹巴︵﹀覧9開貯猷臨・﹀巳網匹巴op<碧げΦδ島90ω墓︶、
Q旨9δ⇒
一九九〇年︶
二訳﹃スパルタ史 紀元前九五〇−一九二年﹄渓水社、
鎚巴oq鎚Sも軌趙9菊2自①Ω⑩Φ卸丙Φσqき℃碧ご
3勺・9託巴σq①19p・ミ§R卜罫§貯1︾肉翁。§N
H スパルタ史研究
4ωけ﹄9喜ω。p.窪乱勺一。§ω.γo。暮§9冨曙
﹁スパルタのヘイロータイ﹂
﹁○ぼざづの改革﹂︵﹃学習院
9ミミ層切oロ自巴σqPH㊤漣
﹀・勺o≦①印即GQけ゜国o鼻言の8︵①Ωω゜︶憎§⑩望9合sミ
一ヨ陣のΦのoP冨8﹃oh≦Φ巴爵ヨo冨の巴09。一ω冨コ勲営
おお
3 一九八四︵昭和五九︶年
︵﹃歴史学研究﹄二九四︶
2 一九六六︵昭和四一︶年
の成立L︵﹃古代史講座﹄四、 学生社︶
︵1︶ 1 一九六一︵昭和三六︶年 ﹁スパルタにおけるポリス
一。コ①聖所、前一五∼一二世紀の館︶
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