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原口歌の軌跡を辿ろうとする時に、父・原口竹次郎の波乱に満ち
第 1 章 台湾時代:(1920~1929) 原口歌の軌跡を辿ろうとする時に、父・原口竹次郎の波乱に満ちた生涯と不可分である。 父の出自と時代背景がそうした生涯を決定づけた素因になったように、歌の誕生からその 終末に至る道程には、父の存在と時代の潮流があった。父と娘には、その資質において、 共通するものがある。それを検証することは、明治から平成までの激動した日本近代を生 きた1人の女性史の理解に繋がる。 父と娘は、共に時代のアンヴィバレントな性格を共存させていた。それは同時に、明治 維新以来の日本が近代化を推し進める中で明確に自覚されることなく、しかし、底流とし て常にその社会が内包してきたものである。原口父娘は、時代の差異はあるが、それぞれ に個を意識した自覚的な生涯を貫いた。その意味で近代リベラリストであり、2人のもつ 革新的な側面である。同時にまた、国家主義を唱えた父竹次郎の姿や、歌が日本的な美学 と情感を大切にしたのは、民族的な伝統を重視する側面であろう。父と娘が時代の流れと どのように向かい合ったか、時代背景の中で考察する。 第1節 父・原口竹次郎と早稲田大学 原口竹次郎は 1882 年(明治 15 年)2 月 28 日に元佐賀鍋島藩士である原口惣次郎の次男 として、佐賀県小城郡で生まれた。竹次郎の原籍には、長崎県佐世保市谷郷町 94 番地、ま た族籍は士族と記載されている。父・惣次郎は、地元佐賀県で小学校の教師であった。維 新から 10 年余り経過したが、長く続いた封建的身分制度からの意識変革は短期間でかなう ものではない。ことに佐賀鍋島藩は、外様大名として独自の路線で藩政を掌っていたこと もあり、独特の風土があったとされる。そうした風土から、父・惣次郎が士族としての矜 持を身上していたとしても不思議はない。息子である竹次郎への暗黙の教示となった。刀 を廃しても士族の意地は残る。尐年時代の竹次郎は、佐賀士族の子を意識していた。士族 への拘りは当時の日本社会に明らかであったことは、以下の様に、表現され、引用される1。 この家はね、こんな田舎に住んでいても、れっきとした士族なんだよ。士族の子と あろうものが、何という情けない真似をする。2 これらは、 『次郎物語』の中の一節である。下村湖人(1884~1955)の自伝的小説の中で、 母親が息子を叱責することばである。佐賀で尐年期を過ごしたという湖人であるから、同 時代を過ごした原口竹次郎も同じような環境で育った。 竹次郎は 1989 年(明治 22 年)に地元の小学校高等科に入学し、1895 年(明治 28 年) 1 2 後藤乾一『原口竹次郎の生涯』早稲田大学出版部、1987 年、13 頁。 下村湖人『次郎物語』上巻、新潮社、1987 年、44 頁。 5 に首席で卒業した。翌年に 14 歳で東京へ出る。この間の事情は、後藤の著書『原口竹次郎 の生涯』で、次のように述べられている3。 誰を頼って上京したのか、東京で何をして生活の糧を得たのか、この間の経緯につ いても何一つ記録は残されていない。三女歌(大正 9 年生れ、現国立音楽大学名誉 教授)の思い出によれば、竹次郎は「海軍に行かせるつもりであった」父惣次郎に 反発し、 「腰巻に一円五十銭」をしのばせ家出同然に郷関を出たという。 独立自尊の精神と実行力は、尐年期からのものであった。後藤の研究によると、東京で の竹次郎は、私立東京中学校に入学し、1901 年(明治 34 年)に卒業したとある。その後 に東京専門学校高等予科に入学した時は 19 歳であった。以後、原口竹次郎と早稲田大学(東 京専門学校から改称)との「運命的な」関係がはじまった。 早稲田大学の前身である東京専門学校は、「明治 14 年の政変」で下野した大隈重信 (1838~1922)が小野梓(1852~1886)とともに改進党を設立した後に、野党人材養成のために 翌 1882 年創設した学校であり、政府からの圧力に抗す反骨精神を旨としていた。大隈が佐 賀鍋島藩士であったことは、竹次郎と早稲田大学との最初の縁かもしれない。 原口竹次郎は、東京専門学校高等予科を1年半で卒業すると、1902 年(明治 38 年)改 称されたばかりの早稲田大学大学部文学科に第1期生として入学し、宗教哲学を専攻する 学生として 3 年余りを過ごした。当時の日本は、日清戦争に勝利し、近代国家として国際 社会に登場したアジアの光となった時代で、次第に北のロシアとの関係悪化が懸案となっ ていった。日本がヨーロッパの大国のイギリスと日英同盟の調印したのは、竹次郎の大学 入学と同じ年である。日本社会が加速度的に資本主義の体裁を整えるにつれ、副産物とし ての様々な矛盾がでてくる。土地を失った多くの農民が都市に流れ、貧困が問題となる。 横山源之助(1871~1915)の書いた『日本之下層社会』で描かれるのは、貧困層を人間として 無視する社会であり、社会格差が歴然とした現実であった。女工の悲哀を書いた細井和喜 蔵の『女工哀史』もそれに続く近代化の影の部分を明らかにした。こうした社会矛盾が表 面化し、人道問題や人権問題が取り上げられた時代であった。社会主義や水平社の運動が 若い学生を引き付けていき、また、人道主義の立場はキリスト教への共感となり、知識層 である学生を教会へ導いた。この流れは、大正デモクラシーの源流の1つとして、社会の 潮流となる。哲学を専攻する原口竹次郎がキリスト教と出会ったのも自然であった。後藤 はその著書の中で、竹次郎とキリスト教との出会いを次のように記す4。 先祖代々、禅宗を家宗としてきた原口家にあって、竹次郎がいつ、いかなる契機で キリスト教と出会ったかは定かでない。ただ常識的に考えるならば、その時期は明 3 4 後藤、前掲書、13 頁。 後藤、前掲書、26 頁。 6 治中期の都会に学ぶ知識青年の多くと同じ、大学の門をくぐった前後のことであろ う。原口より 9 歳年長で東京専門学校卒業後米国エール大学に学び、その後大学の 初めての日本人教授として比較法制史を講ずることになる朝河貫一は、17 歳の時の 処女論文「基督教に関する一卑見」の冒頭で、キリスト教との出会いをこう述べて いる。 「我僅に昨基督教を目して邪宗となし其の教徒を我敵とし其の牧師を国賊とし て怨恨の情遠く儕輩の上にありき、而して今や乃ち之を以て最も善美なる教門とな し此教にあらずんば以て人間の究竟地に達する能わず凡ての人悉く其教徒たらずん ば将た天下を如何せんやと思うに至りぬ」5。 キリスト教は、帝国憲法で条件付きながら「信仰ノ自由」として認められた6。この時期 多くの日本人がキリスト教を通して西洋の異質の文化に触れることとなり、日本人の道徳 観・文化意識・社会事業について、キリスト教は多岐にわたり変革をもたらした。ことに 知識層の熱心な青年信者は、指導的立場で発言するようになる。その1人が、内村鑑三 (1861~1930)であった。内村は、自伝『余は如何にして基督教徒となりし乎』で基督教との 出会いを精神の自由と捉え、以下のように書いた。 新しき信仰によって与えられし新しき霊的自由は、余の心と体とに健全なる感化を 与えた。余の勉学は更に一層の集中を以て為された。肉体に新しく活力を享けて、 余は山野を跋渉し、谷の百合花、天空の鳥を観察し、 「天然」を通して「天然」の「神」 と交わらんことを求めた。 それまでの日本人が疑義を挟むことの無かった道徳や、仏教と神道を規範とした習俗に は、内面を鑑みる余地はなく、不自由さのみが古さとして存続していたが、時代はそこに も変革を促した。西洋の神との接触で、日本人は宗教家でなくとも、精神の自由を学んだ。 内村も出生は士族の子であって、屈折した思いで時代の変化を感じ取っていた青年であっ た。彼が、後にアメリカ東部のボストン近郊アマースト大学で、ピューリタニズムの厳格 な生活に身を置くほど徹底したキリスト教徒となったのも、この時代の激変が底流にあっ た。神の世界に惹かれていった動機には、宗教哲学の学徒として情熱を以て勉学に取り組 もうとしていた、原口竹次郎のキリスト教との出会いと通底する。植村正久(1858~1925) 、 海老名禅正(1856~1937)、安部磯雄(1865~1949)といった明治期のキリスト教指導者が竹次 郎世代の人格形成に多大な影響を残した。後藤によると、竹次郎が通ったとされるのは、 海老名弾正が牧師を務めていた本郷教会である。海老名弾正は、牧師として神学上の解釈 で信者を魅了したばかりでなく、対外的な問題も論評した。ことに当時のキリスト教徒が 『六合雑誌』1993 年 5 月 15 日号。 日本帝国憲法第2章第28条「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス臣民タルノ義務ニ背カサル限 リニ於イテ信教ノ自由ヲ有ス」とある。 5 6 7 ロシアに対して好戦的であり聖戦との立場であった。内村の非戦論もあったが、明治期の キリスト者が国難と認識すれば、戦争への加担も声高に説教し、扇動すら辞さなかった。 弾正の戦争賛美は、社会主義者からの非難の的であった。 新しい思想として入ったキリスト教は、日本社会に「精神の自由」を教え、その人道主 義で社会の底辺へ視野を広げた一方で、戦争という究極の人間否定を容認するという矛盾 を内包していた。原口竹次郎も、大正デモクラシーの起点となった吉野作造(1878~1933) も、この本郷教会で弾正の説教に感銘を受けた7。後藤は、原口竹次郎を単純にリベラリス トの範疇で括らず、彼の相矛盾する気質を当時から認めている。 勉学に勤しんだ竹次郎の成績は抜群で、1905 年(明治 38 年)に東京専門学校が早稲田 大学と改称後の第1回の卒業生となった。原口竹次郎は卒業式の総代を務め、その卒業式 には、かつて大隈の政敵であった伊藤博文(1841~1909)が招かれ祝辞を述べているのは、 東京専門学校(早稲田大学)がその存在をもはや単なる一私学ではなく、優秀な人材の養 成機関と認識させたことにほかならない。この第 1 回目の式典は、早稲田大学に対して、 世間が大きく注目した卒業式であった。当時の『早稲田学報』に、竹次郎の答辞が残され ている8。 早稲田大学が大学部卒業生を出すのは本年を以て始と為す。思ふに世間万衆は特に 成績如何に注意するや必せり。生等の責任は重くして大なりと謂う可し。生等固く 決するところあり。 竹次郎の栄光と大学の期待の大きさが、その答辞での決意に現れている。卒業と同時に 「特待研究生」制度の創設が発表され、3 名の優秀な学徒が選ばれたが、原口竹次郎もその 1人であった9。早稲田大学は彼に、母校の発展と将来を担う教師となることを期待した。 名実ともに早稲田大学の栄誉に輝き、約 1 年間の研究生活に入った。その後、アメリカへ の留学へと更なる深化を求めるが、卒業から留学までの間に本郷教会での海老名弾正牧師 から受けた教えは、その後の竹次郎の転身にあっても、長く影響し続けた。 原口竹次郎が、特待研究生として期間を終え米国留学へ旅立つのは 1907 年(明治 40 年) の夏であった。本郷教会で信者として、また、早稲田大学で講師を務めていたことから親 交のあった内ヶ崎作三郎(1877~1947)は、次のような言葉で竹次郎を送った10。 原口竹次郎君は早稲田大学の第1回卒業生の中の俊秀なり。・・・きみは丈高く骨逞 7 後藤、前掲書、30~31 頁。 『早稲田学報』121、1905 年(明治 38 年) 、65 頁。 9 第1回 「特待研究生」は、文学科から原口竹次郎、政治経済科から大山郁夫(1880~1955) 、 法学科から北原淑夫であった。3 名は 1 年間にわたり、理想的な研究環境を与えられた。 10 後藤「 「変革期」早稲田大学における原口竹次郎」 『早稲田フォーラム』49、1985 年、98 頁。 8 8 し。体格に於いても決して米国青年に劣るものにあらず。願くは学と信とに於いて 彼を凌駕すべし。吾党は好個の選手として君をおくる。 竹次郎の留学先は、米国東部コネティカット州のハートフォード神学校であった。厳格 なカルビン主義の学校で、竹次郎より先に内村鑑三や安部磯雄も同校で学んでいる。外国 留学の体験がもたらす影響に個人差はあるが、竹次郎の場合も、留学前の理想主義的・精 神主義的な色合いであったものが、ナショナリスティックなものへと変質した。後藤は、 竹次郎の論文の詳細な分析から、次のように総括している11。 国際関係を基本的には「弱肉強食」の世界と捉えた原口は、一国内における個人間 の関係と異なり、 「(国民と国民との間には)絶対的利他的徳が現在存在せぬ、存在 しえられぬこと」を強調してやまない。こうした国際的な生存競争の中で、 「日本の 2千何百年とつづいて来た光輝ある文明が流星の如くに消えて無くなってしまうと 云ふこと」は日本人として耐え難いことだとし、 「国民的生命は如何なるものを犠牲 にしても之を存続せしめなければならぬ」と力説する・・・また彼は、その「国家 至上主義」の立場から、 「もし国家生存のための要請に不服ならば、そのひとは外国 に移住するか、監獄に入るか、自殺擦るしか道はない」・・・「それをしないで兵隊 に行くまじ、戦争に行くのはいやだと云ふのは余りに勝手がましいと言われてもし かたがない」 。 この竹次郎のやや「感情的」な発言は、日露戦争後、次第に露骨になった日本脅威論が 海外からの敵視となり、ことに米国では排日移民政策に対して人種的偏見や差別を肌身で 感じたからであろう。さらに続けて、彼はこう述べる。 真面目にキリスト教を信じて外国に行った私は、岩の如く堅き人種的偏見や国家的 感情にぶつかって遂に眼を覚まさずにはいられなかった。私の覚醒―其自覚は非常 に強い国家的色彩を持ってゐるのであった・・・。 竹次郎はハートフォードで神学の学位を取得後に、ニューヨーク総領事館で商務官秘書 として過ごした。この間に出合ったのが、最初の妻となる新井鶴子(1886~1915)であっ た。鶴子は日本女子大学からコロンビア大学へ留学していた。1912 年に博士請求論文を提 出し12、日本女性最初の博士号を授与された。鶴子は日本の心理学の先駆として、前途を期 待された女性であった。2人の結婚は、当時の『ニューヨークタイムズ紙』で、 「日本の花 11 後藤、前掲書、60~63 頁。 Mental Fatigue. Contribution to Education, No.54, Teachers College Press. Teachers College, Columbia University. 1912. 12 9 嫁博士―新井嬢、学位授与式当日、原口夫人となる」と紹介された。その時に竹次郎は 30 歳で鶴子は 26 歳であった。 新婚旅行でイギリスを訪れるが、竹次郎は単身ドイツ・ライプチッヒ大学へ半年間留学 している。帰国を出迎えたのは、身重の鶴子であった。鶴子との間には、長男と長女の2 子をもうけている。竹次郎は 1913 年(大正2年)に、5 年ぶりに帰国した。帰国した竹次 郎は、母校早稲田大学の文学科哲学科の専任講師として教壇に立った。鶴子も日本女子大 学で研究生活を続けたが、2 年後の 1915 年(大正4年)に結核で死亡し、竹次郎の失意は 想像に余りある。鶴子の死後、竹次郎は 34 歳で教授に昇進した。米国留学中に味わった「キ リスト教徒」の人種的偏見の強さを知り、帰国後には日本人キリスト教徒の軟弱さを感じ て、宗教への情熱を失っていった。後藤は、早稲田に戻った竹次郎は、在米時のような過 激な米国批判が見られなくなり、冷静に両国の国民性を分析し、 「原口は・・・アメリカ人 の自立精神にもとづく民主主義を高く評価する」13とし、リベラリストとしての竹次郎の側 面も明確にしている。第1次世界大戦中、日本にとっての対米緊張が高まる中で、「外交は 力の発現である・・・日本は今から戦争の準備をして置かなければならぬ。戦後の平和運 動などといふ事を夢見て居たならば、臍を噛むとも及ばぬ様な時が来る」14と警告するのも、 現実主義の竹次郎の側面である。 若き早稲田大学教授として、前途を期待されたが、愛妻の鶴子の死に加えて衝撃的な不 運が竹次郎を襲った。それは、1917 年(大正 6 年)の「早稲田騒動」での教授解任である。 早稲田大学の将来を担う新進気鋭の教授や研究者がプロテスタンツとよばれた大学改革運 動を展開したことがその発端となり、その後、多くの人々を巻き込んだ事件に発展した。 当時、民本主義の精神を体現する行動として、当時の早稲田大学が誇る生え抜きの研究者 や教授たちが毎週集会を開いた。帰国直後の竹次郎も、有力なメンバーとして参加した。 しかし、事態がやがて学長をめぐる問題へと変質していったときに、一方の側の雄であっ た原口が処分の対象となった。原口の一本気な性格と、日本的な問題処理が、教授解任と いう最悪な結果をもたらした。以後、竹次郎が早稲田大学に戻ることはなかった。しかし、 原口竹次郎が、突然の解任処分に納得したとは思えない。その不条理に対しては憤りを感 じつつも、母校へ思いは絶ち難いものがあった。 第2節 植民地台湾 竹次郎の転身と歌の誕生 13 後藤、前掲書、86 頁。 「代表的の米国人は雷同はしないが一致すべき時にはする。但し 彼等の一致は理解した上での一致である」の言葉の載る論文、「現代の亜米利加」を、後藤 は原口のアメリカ論の総決算とし、論客としての立ち位置を明らかにしている。 14 後藤、前掲書、 10 1)台湾総督府官僚 原口竹次郎がどのような経緯で、植民地台湾へ渡り、官僚としての新たな人生を始める こととなったかについては、後藤の研究に詳しい。しかし、彼は、最愛の妻鶴子を失い、 早稲田大学教授としての栄誉と将来を奪われ失意のどん底にあった。大正リベラリストと して、革新的改革を目指した大学人・自由人の大きな挫折であった。後藤は、以下のよう に当時の竹次郎を描いた15。 原口竹次郎は 33 歳にして妻鶴子を「天」に奪われ、35 歳にして母校の教授を「人の 手」でおわれた。彼の人生 70 年の、活力と希望にみちた前半生は、その折り返し地 点で両腕をもがれた結末を迎えることになる。欧米世界に深く接し、その学問、宗 教そして文明という、 「近代」の洗礼を受けた宗教哲学者原口竹次郎が、どのような 感慨を抱いて再び母国から船出したのか、今となっては知る由もない。 後藤が述べるように、宗教哲学者から植民地官僚への転身は、180 度の方向転換である。 30 代半ばの才気活発な青年学者が、その情熱と意気を満足させるものを、新天地台湾に期 待したのだろうか。竹次郎の輝かしい前半生は、台湾生まれの三女の原口歌には想像する だけの世界である。しかし、父竹次郎の前半生は、娘歌の資質形成において、重要な要素 として無視できない。 早稲田大学を去った失意の竹次郎のもとには、鶴子の2人の遺児である長男と長女が残 された。新生活の伴侶を求めたのも理解できる。竹次郎が後妻として迎えたのは、山田志 げを(1897~1987)であった。後藤によると、志げをは、愛知県出身の造り酒屋山田忠次 郎の三女として、1897 年 1 月 15 日生まれである。地元名古屋の高等女学校を卒業後、1917 年(大正6年)に 20 歳で子持ちの男性(竹次郎)と結婚し、2 年後には夫の赴任先へ同行 した。彼女についての資料はほとんどなく、推測の域をでないが、後藤の研究では、竹次 郎がかつてキリスト教への信仰を深めた東京の本郷教会で、渡台の直前に洗礼を受けた。 志げをが、その生涯において、教会と深く結びついていたことは、残されていた僅かな資 料からも推測できた16。女学校を出たばかりの 20 歳の若さで、幼い2人の乳飲み子を連れ ての海外赴任である。竹次郎とは 15 歳の年齢差もあり、当時としてはごく普通の結婚であ ろうが、竹次郎の先妻の鶴子との結婚を考えると対称的な夫婦像である。ただ、竹次郎の 女性観17には、伝統的な日本女性の生き方を肯定するところも認められる。竹次郎が志げを 15 同、110 頁。 志げを宛ての書簡は、ほとんどが港区の教会からのもので、冊子、信者通信、婦人会の 友人からのカードが残されている。 17 後藤、 『早稲田フォーラム』49 号、108~109 頁。後藤は、竹次郎がアメリカの「女子優 待」を良習として認めながらも、 「僕は此良習慣は日本に入れたくないとおもふのです。日 本に此様な習慣を持ちこんだら日本は忽ちにして亡びてしまひます」、 「男と女とが同等の 16 11 に求めたのは、伝統的な良妻賢母型の妻であり、 「三尺下がって夫の影を踏まず」の謹みあ る女性であった。しかし、鶴子を伴侶として選んだのも同じ竹次郎である。鶴子を失って からわずか 2 年後の再婚は、竹次郎の深層での不合理も見え隠れする。同時に、先妻の子 の養育を任され、夫にしたがって未知の地へ赴く若い新妻の姿には、健気さと初々しさも ある。竹次郎の妻として、台湾で 3 女をもうけ、戦中戦後を家庭婦人として生きた志げを もまた、明治の女性であった。 2)内地官僚の生活 台湾は、1895 年(明治 28 年)4 月 17 日に日清講和条約で正式に日本の植民地となった。 近代国家を志向した維新後の日本が、アジアの雄として自他ともにその存在を認めた証で あった。統治の初期には、反抗する台湾人を容赦なく平定した歴史がある。竹次郎が渡台 した大正初期になっても、 「台湾人の品性はすこぶる野卑なり・・・住居、衣服、食器、日 常の動作進退に至るまで日本人には耐えられない」18というのが一般的な日本人の台湾人評 価であった。日本はほぼ 50 年間にわたる台湾統治を続けた。その中心となったのは台湾総 督府であり、日本から送り込まれた官僚たちであった。近年、公開された台湾総督府文書19 は、当時の日本政府の植民地統治を研究する上で、重要かつ貴重な資料である。日本政府 の台湾統治は、内地延長として日本の官僚制度がそのままに持ち込まれた。しかも、限ら れた空間の中の日本人社会である。台湾は、日本以上に官尊民卑の強い階級社会であった。 台湾の官僚制度を研究した、中央大学の王鉄軍は、次のように述べる。 ・・・総督府文官官僚中に総督が親任官、台北帝国大学総長、総務長官、及び交通 局長、一部の技師、及び地方州知事等が勅任官、総督府部局課長等が奏任官とする 高等官の下には、数多くの技師、属、書記らといった判任官がある。こうした高等 官と判任官といった法的な意味での官吏のほか、総督府は、専門業務を携わる嘱託、 官吏の補助的な業務に従事する雇員、及び肉体労働に従事する傭人を雇ってい た。 ・・・同じ総督府官制定員外の嘱託員と雇員といっても、俸給などの待遇が異な っている。 ・・・嘱託は、専門的知識を身につけ、総督府から委託された業務に務め、 その資格が特別芸術を有するものとしているが、実際において総督府の嘱託員の多 くは、総督府から退官した高等官、内地から招聘した学者、または専門家からの採 位置に置かれてみた所で、果たして人間社会に、どれ程の幸福を持ち来すか」、「婦人能力 の妄用が続けば、今世紀末には人間の苦労は増加しはしないかを怖るる」と書いているこ と指摘する。 18 竹中信子『植民地台湾の日本女性生活史 大正編』田畑書店、1996 年、41 頁。 19 台湾総督府文書とは、総督府をはじめとする統治機関が作成した公文書の総称であり、 狭義では「総督府公文類纂」の永久保存書類をさす。この文書は現在、台湾省南投市にあ る国史館台湾文献館に所蔵されている。 (柏木一朗、法政大学史学会報『法政史学』71 号、 136 頁) 。また、岡本真希子の『植民地官僚の政治史 朝鮮・台湾総督府と帝国日本』(三元 社、2008 年)は、植民地時代の日本人官僚について詳細に分析・研究したものである。 12 用が多い。 ・・・待遇は総督府の自由裁量に属し、同じ嘱託でも異なっているが、報 酬は、全体的に判任官、雇員より遥かに高い20。 王の研究に指摘があるように、総督府は、植民地時代の 50 年間にわたり、高等官(学歴、 官歴) 、判任官、嘱託、雇員、傭人といったピラミッド型の特殊な階級社会であった。高等 官と判任官の間には「文官高等試験」があり、たとえ、高等官に昇進しても、文官高等試 験を通ってきた「エリート」とは俸給や官等において差別され、きわめて低く抑えられて いた。植民地官僚研究者の岡本真希子も、台湾人の任官が統治期全期を通して皆無であっ たと指摘する21。 台湾の総督府僚制度は、日本の官僚制度そのものが移植されたが、台湾の官僚の大多数 は「内地人=日本人」であり、 「本島人=台湾人」の総督府官僚への採用は極めて尐なかっ た。王によれば、1931 年に総統府事務官劉明朝が同府殖産局水産課長に命じられているが、 彼は本島人としてのはじめての総督府高等官であった22。1890 年生まれの劉は、 「内地留学」 で、第八高等学校・東京帝国大学法学部を卒業後に台湾人初の高等文官試験に合格した。 岡本も同様に、劉は、領台以来はじめての本府・台湾人課長(殖産局水産課長)であった と述べている。しかし、劉でさえも、ほぼ同等の経歴や資格を持った内地人とは昇進に大 きな格差があったことも指摘している23。台湾出身者の採用は、昭和初期 10 年代でも一 割足らず24であり、台湾総督府は、内地延長とはいいながら、台湾人官僚の採用には消極的 であった。 原口竹次郎は、早稲田大学を解任された後に早稲田の人脈からの推挙で、1919 年(大正 9年)に台湾総督府官房調査課嘱託として台北へ赴任した。同じ年に寺内正毅(1852~1919) 内閣で逓信大臣を務めた田健次郎(1855~1930)が第 8 代の台湾総督に就任している。田 総督ははじめての文官総督25だが、この田総督の時代を象徴する出来事として、台湾人によ る反植民運動の高揚があり、その代表的な行動が当時日本で学んで帰国した台湾知識層を 20 王鉄軍「近代日本文官官僚制度の中の台湾総督府官僚」 『中央法学』129 巻、2010 年、 220 頁。 21 岡本「帝国日本の植民地統治と官僚制」 『東アジア近現代通史 4』岩波書店、2011 年。 303 頁。岡本は、 「本府では、親任官は台湾総督のみで、その女房役である総務長官は勅任 官であり、各1名ずつ就任したが、この2つのポストには植民地期全期を通してすべて内 地人が就任した。本府・所属官署で勅任官に該当する局長・部長にもすべて内地人が就任 し、台湾人の就任は統治期全期を通して皆無である」と格差を述べ、総統府の民族・階層 別構造を明らかにしている。 22 王、前掲書、232 頁。 23 岡本、前掲書、303 頁。 24 王、前掲書、234 頁。 25 1919 年 8 月 19 日に台湾総督府官制が改定され、総督の資格は「親任し陸海軍大将また は中将を以て任ずる」との文言が削除され、総督は単に「親任する」に改正され、その結 果、文官総督の道が開かれた。田の在任期間は、1919 年 10 月 29 日~1923 年 9 月 1 日で ある。 13 中心とした「台湾議会設置請願運動」であった26。植民地時代を研究する周婉窈によれば、 これは 1921 年に日本帝国議会へ請願書を出したのを発端とし、1934 年までの間に繰り返し 行われた。中心となったのが、台湾人留学生と台湾の進歩的な旧社会の士紳層の人々で、 差別の撤廃と日本統治下での自治拡大が目的であった。周の論文でもしばしば引用される 若林正丈は、この運動が 1919 年に朝鮮で起こった 3・1 運動と、日本での大正デモクラシ ーの思潮が背景にあることを指摘する27。田総督の就任は、それまでの武官総督から文官総 督へ道が開かれた28のであり、日本の植民地政策の転換を意味していた。田総督は、教育の 差別撤廃を掲げて教育令の改正を命じ、時代の変化に対応して台湾人の不満の解消に努め た29。 原口の地位について、元台湾総督府調査官は「原口は総督府内において単に一嘱託に過 ぎず、有資格者、高等官万能の植民地台湾の官界において、調査事業を進める上に、如何 ほどの苦労や困難があったか察するに難くない」30と回顧し、「当時の前時代的な台湾、異 常な植民地社会の官僚の中にあって、諸々の反感や反対勢力の中で困難な闘争に耐えてい かねばならなかった」31とある。誇張もあるだろうが、台湾総督府が当時、「上級官庁であ る拓務省の指揮下にあり、さらに、台湾から南支南洋の調査となると、外務省の管轄とな る。省庁間の軋轢や、官僚組織の壁をこえて、竹次郎が調査官としての仕事をこなした」 と元総督府調査官が回顧している。原口竹次郎は、後に、正式に統計官としての地位を与 えられ、その時の記載された公文書32が残る。そこには、竹次郎の地位と共に手当も記載さ れていた。 大正 14 年 4 月 27 日、統計官任用ノ件 総督官房調査勤務 嘱託(月手当 340 円)原口竹次郎 任台湾総督府統計官 周婉窈、 「台湾議会設置請願運動についての再検討」 『東アジア近現代通史 5』岩波書店、 2011 年、216 頁。周は論文で、度々、若林正丈の論文( 『台湾抗日運動史研究』(研文出版、 1983 年、増補版 2001 年)を引用している。若林は、台湾知識人が日本植民地統治下におい て、台湾という地域の住民集団を想像する政治的共同体を形成した(若林、451 頁)といい、 周はこの点に同意し、台湾に残した日本統治の遺産と述べる(周、235 頁)。 27 若林正丈論文は、前注。2001 年、17~163 頁。 28 1919 年の官制改革で、文武官任用制度が導入された。 29 この点について、教育社会史の駒込武は、教育政策の観点から「教育セサルヲ以テ教育 ノ方針トス」といった従来の方針を改め、台湾人に教育の普及することを「安全弁」と位 置づけたに過ぎない、と指摘した。教育が植民地統治上有害な結果をもたらすことを危惧 していたことにかわりなく、教育を通して従順な台湾人を育てようとの意図であった(駒 込武「植民地支配と教育」 『新体系日本史 16 教育社会史』、(山川出版社、2002 年、417 頁)。 30 佐多則昭、 「台湾南方調査の回顧」 『別冊一億人の昭和史 台湾』毎日新聞社、1978 年、 163 頁。 31 同上。 32 台湾総督府文書、 「総督府公文類纂」のコピーより。 26 14 变高等官4等 3級俸下賜 総督官房調査課勤務ヲ命ス さらに、日本統治下で行われた戸口調査から、日本人社会の規模の変化がわかる。久留 米大学の山下昭洋33によると、台湾に居住していた内地人の人口を 1896 年(明治 29 年)か ら 1945 年(昭和 20 年)まで総督府が調査した資料があり、それによると、日本による戸 口調査の歴史は古く、台湾が割譲された 1895 年には憲兵隊が台北市内の戸口調査を先行調 査として行ったと記している34。以後も、総督府は治安維持を主たる目的に、台湾の人口調 査を行っている。1905 年(明治 38 年)には、第1回臨時戸口調査が大日本帝国領土内では じめて実施された。これは「当時の日本国領内における国勢調査の嚆矢となったもの」で あるとし、結果を「住居数:487,353、所帯数:585,195 戸、現住人口:3,039,751 人(「生 蕃数」は除く) 」と山下は記す。 1920 年(大正 9 年)35には、日本内地で第1回の国勢調査があり、台湾もその対象であっ た。調査結果は、住居数:596,208、現住人口:3,655,308 人であった。次の国勢調査では、 1925 年(大正 14 年)の現住人口:3,993,408 人と増加している。さらに、台湾の内地人の 数について、山下は、 「単純計算でも 1896 年(明治 29 年)から 1945 年(昭和 20 年)の 49 年間に約 30 倍に人口が増加した・・・本島人の増加数は約 2.28 倍にしかなっていないの とはかなりの差がある」36と指摘した。これから、日本から台湾への日本人の移動が激しか ったことが浮かび上がる。 原口竹次郎は、台湾総督府官房調査課の嘱託であったことから、1923 年(大正 12 年)に、 総督官房臨時国勢調査部兼務を命じられた37。また、当時の『台湾日日新聞』 (大正 14 年 9 月 30 日)には、総督府統計官の原口竹次郎として、国勢調査に関して彼の談話をまとめた 記事が掲載されている。そのなかで、竹次郎の関心は、 「急激な人口増加がもたらす社会の 諸問題」が「国民自身に関わる事である」と、国勢調査の必要性を強調した。そこでは、 食料や物資の不足、生活難、失業問題、財政問題解決にとって、基礎的資料としての人口 調査の重要性を述べており、早稲田時代に社会問題を論じる論客の1人であった竹次郎の 一面を彷彿させるものである。 内地からの移住が増えたが、台湾全人口からみると、台湾における内地人は圧倒的に尐 数であるが、17 歳から 64 歳までの日本人男子のほぼ半数が「総督府本府、各部署等、勅任 官、奏任官、嘱託及び雇員として務めている」と王が指摘するように、官僚の多さが際立 33 山下昭洋、 「日本統治下台湾の「戸口調査」と「内地人」人口」(『比較文化研究論文集』 22 号、2008 年、13~29 頁。久留米大大学院比較文化研究科)。 34 同、18 頁。 35 原口歌の誕生の年である。 36 山下、25 頁。 37 台湾総督府公文書である『台湾総督府及所属機構』 「公文類纂査詢系統」より。 15 つ社会であった。 総督府に勤務する高級官僚は、自他ともに認める植民地社会のエリートであり、台湾人 名家や富裕層とともに特権階級とみなされていた。総督府民政長官となった後藤新平の意 向を受け、大規模な総督府庁舎と、内地人官僚のための官舎の建設が計画された。それは、 台湾支配の初期は、植民地の地理的な位置から風土病が大きな問題であり、官僚の円滑な 移住を進めるためにも、大規模官舎の建設は必須であると認識されたからである。官僚た ちは内地より高い待遇で処遇されたが、同行家族のために、さらに小学校や官舎を作るこ とで、より良い環境を約束したものである。また、総督府文官服制38が定められて、官僚は 制服の着用を義務付けられていた。その目的は、①威厳の保持、②官民の区分、③官吏間 の階級の可視化、④住民からの尊重の4つであった。この制服の着用とともに「台湾総督 府文官礼式」も制定され、下位のものは上官に対して、いついかなる時も敬礼をしなけれ ばならず、官僚間の階級意識を徹底させるためであった。 日本政府が植民地に求めたものは、秩序ある社会であり、それが円滑な植民地統治の要 諦と考えられたからである。この秩序へのこだわりは、日本本土より純化されていた。内 地では、祝日を除き、文官大礼服姿は珍しかったが、台の字入りの肩章、袖章、佩剱をつ けた台湾官僚の姿は、在台の日本人にも、台湾人にも、威風堂々たるものに映り、階級格 差を印象づけた。 台湾総督府の文官官僚は、昇級と給与だけでなく、住宅(官舎、住宅手当) 、制服、諸手 当は内地官僚以上に優遇されていた。台湾の物価が本土よりも格段に安いことも、内地か ら赴任する官僚にとっては魅力であった。物価と賃金は、生活者にとって、生活の質を左 右する大切な指標である。竹次郎が 1913 年(大正2年)9 月に早稲田大学の講師・教授と して支払われていた給与は年俸 1000 円、時間割授業手当月 50 円であった。1918 年(大正 7年)台湾に渡航したときの手当は、月 100 円で、1920 年(大正9年)に嘱託としての手 当、月 315 円(年俸 3768 円)に 500 円の手当がある。その後も、1936 年(昭和 11 年)に 台湾総督府の統計官を辞すまで、昇給と加俸があり、また、海外出張の手当も潤沢に支給 されていた39。総督府官僚の俸給をみると、最高は総督と総務長官で、年俸はそれぞれ 6600 円と 5800 円で、また台北帝国大学総長が 5800~6200 円までの間、さらに総督府各局長や 州知事は 4000 円台とある40。単純比較であるが、竹次郎の台湾生活は、嘱託であったが高 等官とほぼ同等かそれ以上のものであった。 総督府に勤務する官僚間の交流も、大正期には盛んに行われ、ゴルフ場は、官僚と台湾 財界人との接点となった。王はその様子を、以下のように記す。 ・・・ゴルフの端緒は、フィリピンから帰台した台湾新聞社社長松岡富雄から始ま 38 39 40 1900 年、総督府編纂『台湾総督府民政部成蹟提要』による。 台湾総督府公文類纂報表より。 王、266 頁。 16 った。かつて下村民政局長の秘書官であった石井光次郎は、その『回想八十八年』 に、台湾でのゴルフについて記述がある。石井の回想によれば、フィリピンから帰 台した松岡は、下村長官と石井を料亭に招待し、その席上において、下村長官と石 井にゴルフクラブと球、それに鋲をうちつけた大きな編み上げ靴をプレゼントし、 ゴルフを実演した後、台湾でのゴルフクラブ創立とゴルフ場建設を要望した。同年、 松岡らは、 ・・・かつて清国時代の台北練兵場跡であり、陸軍が所有している敶地内 にゴルフ場を建設した41。 台湾ゴルフクラブは、1919 年(大正8年)に、名誉会長に下村宏(1875~1957)民政長 官、会長に台湾銀行頭取の桜井鉄太郎、委員には総督府官房秘書課長、秘書官石井光次郎 (1889~1981) ほか、を選出して発足した。 「昭和 3 年現在、上は総督長官から下は三井の 部長級社員に至るまで、正に百人42を超す」とし、ゴルフ場が、当時の台湾日本人社会の社 交場であった、その他、テニス、野球、ビリヤード、囲碁、将棋など内地と同様、盛んで あったと、王はその研究で述べている。 また、官僚の夫人たちは、愛国婦人会台湾支部会員となり、台湾の上流婦人たちととも にその活動に参加した。台湾の愛国婦人会の創設も、後藤民政長官の発議とされ、夫人の 和子が台湾愛国婦人会支部長、総督府警務本署長夫人が副支部長となった。顧問は歴代の 民政長官(総務長官)が務め、夫人たちの社会にも、総督府官僚である夫の官等に応じた 序列があり、上流婦人たちの社交場であった。夫人たちは、慈善会や赤十字の活動に積極 的に参加し、また、音楽会やスポーツ大会なども開催した。 竹次郎が赴任した頃の台湾は、一部の台湾富裕層と高級官僚が豊な経済生活を謳歌して いた。内地以上に階層格差は明らかであり、それは、教育格差でもある。 『植民地台湾の日 本女性生活史』の著者の竹中信子は、 「台北市は、内地人社会の人口比からいうと日本のな かで一番教育程度が高く、知識階級が多い」と指摘し43、また、台北市の様子を当時の新聞 の投書を引用して「立派な大都会、旅行客はその規模が尋常でないため、予想外なり」と 述べ、 「台湾領内は当初は城内は、田や藪のあったが、城壁は撤去され、市街は膨張するば かり」 、 「内地にも優る近代都市」であった44と書いている。 原口竹次郎が志げをとともに、幼い子供達(鶴子の遺児2人と結婚の翌年生まれた次女 の愛子)を連れて住居を定めたのは 1919 年(大正8年)のことで、その翌年の 1920 年(大 正9年)に、三女の歌がこの台北市で生まれた。 3)歌の誕生 41 同、268 頁。 台湾にいる内地官僚から銀行、商社、一般企業に至るまでその長が会員として名を連ね ている。 43 竹中信子、前掲書、1996 年、114 頁。 44 同、50 頁。 42 17 原口歌は、出生地「台北市文武町 2 丁目 2 番地」と自身の履歴書に記している。その中 の文武町は、総督府(現総統府)の東南に位置した官舎街であった。 総督府本庁舎は、歌の誕生の前年の 1919 年 3 月に完成した。原口一家の官舎も新築で、 そこからは、完成したばかりの壮麗な本庁舎を見えた。総督府庁舎は、当時の台湾唯一の 高層建築であり、台北市を見渡していた。その威風堂々とした姿は、宗主国日本の象徴で あり、父の勤務する職場であった。幼い歌にとって、誇らしさとともに、父と重なる幼児 期の記憶の原点である。 台湾総督府の建物は、20 世紀前半、半世紀にわたって日本の台湾統治の中枢として君臨 した。現在も、総統府として使用される現役の庁舎である45。その歴史は、児玉総督と後藤 新平民政長官時代に提案され、建設が決まった。後藤長官は、赴任するや台湾での鉄道、 港の整備、土地調査、給水事業、監獄の改築、官舎の建設に着手し、帝国議会へ法案を提 出した。それは官舎の必要が、官僚の安定した移住を促進するために必要と考えられたか らであり、台湾の気候風土が本土に比べて劣悪であることを考慮して決定された。日本が 台湾に入った当初は、清国が行政庁舎としていた巡撫衙門と布政使衙門を使っていた。後 藤の発案により、総督府新庁舎の建設が提案され、そのデザインは公募という形で募るこ ととなった。 「台湾総督府庁舎設計競技」と名付けられたコンぺは、日本において最初のコ ンペであったともいわれる46。1906 年(明治 39 年)に、総督府の名で実施された。審査の 結果、明治を代表する建築家の長野宇平治(1867~1937)に決まり、これに森山松之助(1869 ~1949)が修正を加えたものが確定した。赤レンガの壁面に花崗岩で白い帯を重ね、赤と白 のコントラストが見事な西洋古典様式の壮麗な建築物である。森山は総督府の意向に同意 して中央の塔を 60 メートルまで高くして、その威容を強調した。1912 年(明治 45 年)に 起工し、完成は 1919 年(大正8年)であり、敶地面積 2165 坪、部屋総数 152、総工費 280 万円であった。庁舎内には、総督執務室、総督官房室、内務、文教、財務、殖産、警務局 の執務室があり、常時 1500 名が勤務する大規模庁舎であった。 原口歌は、この総督府に隣接する官舎で幼い日々を過ごし、5 歳ではじめてピアノの個人 レッスンを受けた。歌は、 「満 5 歳から台湾台北市に於いて、サウター教授(Professor Hans Sauter)にピアノ師事」と自身の楽歴紹介47に書いている。ハンス・サウター教授について は、台湾総督府医科専門学校一覧(大正 14 年)に職員として記載され48、その第 5 章に、 「英 語・独逸語、エッチ・サウター」とある。歌自身の紹介と、サウター教授の在台時期が重 45 台湾は戦後日本の支配を離れ、蒋介石が率いる国民党政権に一時的な管理が委ねられた。 台湾総督府はこの時に「台湾省行政長官公署」と改名、その後国民党は共産党との内戦に 敗れて台湾に移るが、以後中華民国総統府と呼ばれた。片倉佳史「台湾総督府周辺」 『交流』 848,2011 年、18 頁及び 24 頁。 46 片倉佳史、前掲書、19 頁。 47 国立音楽大学への提出書類より。 48 国立国会図書館、 「近代デジタルライブラリー」 18 なるので、同人物と確定される。さらに、戦後、原口歌と長く親交のあった、菊野正隆49か ら、歌へ送られた紙面からもハンス・サウター教授の名が見つかった。菊野は、昭和初期 に台湾医科専門学校で学び、その後は衛生学教授となり、北海道大学50との関係が深い医師 でもある。以下は、菊野氏が台湾時代の思い出を寄稿した紙面のコピーで、歌の遺品にあ ったもので、サウター教授のピアノレッスンの様子を知ることができた。 ・・・あの講堂のピアノの蓋には Zur Erinnerung an Prof.Sauter と金文字で書か れてありました。ドイツ語を教えておられたサウター先生だと思います。サウター 先生とは不思議なご縁で、私がよく存じ上げている国立音楽大学名誉教授の原口歌 先生が幼い頃台北でピアノの手ほどきを受け得られたそうです。その頃サウター先 生は文武町後大正街の原口先生のお宅へ毎週行かれて、原口先生姉妹 4 人とお母様 にピアノのレッスンをされたそうです51。 人名事典によると、ハンス・サウターは 1871 年にアウグスブルグ(Augsburg)生まれの 昆虫学者とある52。 原口家の母と娘が毎週、ドイツ人教師(ハンス・サウター教授)から、自宅官舎でピア ノの個人レッスンを受けていたことは、以上のような資料の検証からも明らかとなった。 当時、家庭にピアノがあり、家族 4 人が個人レッスンを受けた事実は、原口家の教育的・ 文化的レベルの高さを示唆し、それを裏付ける経済力があったと考えられる。原口竹次郎 の娘たちの教育への配慮、ことに情操教育への意識の高さは、竹次郎の進取的な家庭像の 一端を感じさせる。 6 歳になった歌は、1926 年(大正 6 年)4 月に台湾台北第一師範学校附属小学校へ入学し 菊野正隆氏は、慶応大学医学部出身。1941 年 7 月から 1946 年 5 月まで、台北帝国大学 付属医学専門学校教授兼台北帝国大学助教授を務めた。戦後 1952 年から 1955 年 6 月まで 北海道大学教育学部助教授、教授として 1962 年 4 月まで在職。イタリア国立ミラノ大学医 学部で研究し、東京学芸大学や上智大学で教えた。スポーツマンであり、また音楽にも造 詣が深く、ピアノは玄人の域であった(菊野氏三男芳雄氏の著『時は恵みに満されて』菊 野正隆追悼伝より) 。原口歌の友人として、書簡の交換があり、1996 年に死去した。 50 北海道帝国大学出身者が、台北帝国大学理学・農学部に研究員・教授として数多く在職 した。王、274 頁。 51 この件についての菊野氏からの手紙はこのコピーのみで、 封筒からは 1986 年に出された のではないかと思われる。印字が不鮮明のため、年代は未確定である。菊野氏と歌との間 に、年賀状やクリスマスカードは見つかっている。また、菊野氏が死亡した際に、お悔や みの手紙を出したようで、家族からの礼状があった。さらに、1962 年に北海道大学で、同 大交響楽団に招かれ、ソリストとしてピアノ演奏をした際も、菊野氏の推薦があったもの と思われる。 52 1902 年に昆虫採集の目的で日本統治下の台湾へ渡り、その後 2 年に東京で、1905 年に日 本人の妻と共に台湾へ戻った。昆虫学者としての業績は、ドイツ昆虫研究所(DEI)の機関 誌に『H.Sauter の台湾採集物』のタイトルで 120 の論文として公表された。台灣歴史事典 http:wine.wul.waseda.ac.jp/record=b3050416~s12P*jpn 2011 年 6 月 13 日。 49 19 た。同小学校は、当時、もっとも難関の小学校であり、台湾各地の日本人子弟が目指した 名門校である。 当時の台湾の教育事情には、植民地という特殊な事情があり興味深い。歌の遺品には、 附属小学校の同窓会名簿53が一冊あるだけで、記載されているのは「昭和 8 年卒業、第 21 期生、原口歌」とあるだけで、当時の様子を推測しうるものはなかった。 国会図書館で保管があったのは、 「台湾台北第一師範学校の改革(年表)」と「あひるの 行列」と題した 1927 年(昭和 2 年)卒業の第 14 期生の記念文集のみである。年表には、以 下のような序文が添えられている。 台湾台北師範学校附属小学校は、1913 年(大正 2 年)2 月 13 日に設立され、父兄の 職業の関係で転出入者が多かったが、約 2500 名の卒業生を出し、大東亜戦争の敗戦 で台湾の中国復帰に伴って 1945 年(昭和 20 年)10 月に中華民国政府に接収され、 消滅しました。存続期間は 33 年であって、その間に主事(校長)9 名が交替しまし た。母校は稀に見る高水準の初等普通教育で人材が輩出し、島内随一の名門小学校 でありましたが、後継校の台北市立師範学院附属実験小學も、中華民国の台湾省の 有名小學として聞こえております54。 歌が誕生する前年に初の文官総督として赴任した田健治郎(1855~1930)は、それまでの 台湾人と日本人を差別してきた教育令の見直しを命じたことから、次第に台湾人の子弟が 日本人の学ぶ小学校への入学が可能になった55。台湾における日本人の教育は、1907 年まで は「中学レベル」までで、中学を卒業すると、本土へ帰国しなければ上級学校へ進むこと はできなかった。日本人を対象にした教育機関は、初等教育から専門教育機関まで十分な 教育が可能となり、内地の学校と同等の卒業資格が与えられた。一方で、台湾人への教育 は、教育への意識の高まりにもかかわらず、教育レベルにおいても、設備の点でも、日本 人教育に比べて低水準であった。台湾人卒業生は明らかに不利であり、不満をつのらせて いた。就任した田総督は、同化主義と「内地延長主義」を統治姿勢とし教育令の改正を命 じた56。 改正された教育令では、台湾の人々にも日本人と同等のレベルの教育を施すとし、 それまで日本人と台湾人との間にあった差別をなくそうとするものであった。この改正以 後、小学校に台湾人生徒の入学が可能となるが、植民地台湾の教育史に詳しい鍾清漢は、 53 『榕蔭会会員名簿』 (昭和 48 年現在)台北第一師範学校附属小学校同窓会。 「台湾台北第一師範学校附属小學校の改革(年表) 」序文より。 55 改正前まで台湾の初等教育は、台湾人向けに「公学校」と「蕃童学校」 、また日本人には 「小学校」とし、別学であった。また、駒込によると、台湾公学校の就学率は男女平均 1910 年 5.8%、1920 年 25.1%、1930 年 32%であるが、日本の義務教育外に置かれて有償であ り、中途退学者も多かった(駒込、2002 年、410 頁)。 56 改正教育令実施に関する田健治郎総督の諭言、1922 年 4 月 1 日「内台人間ノ差別教育ヲ 撤去シ教育上全ク均等ナル地歩ニ達セシメル」。 54 20 この教育令を特徴づけるものに「教育ニ関スル勅語」という文字が削除されたことに注目 した57。これは、台湾人が被植民者であることを意識した結果であろうが、小学校で「教育 勅語」が日本人・台湾人を問わず修身教育の目標として教えられたことに変わりはない。 小学校 4 年生までに教育勅語を一字一句正確に暗唱できることが期待された。台湾人の子 弟にも、徹底的に日本精神が教え込まれたのである。駒込も、植民地台湾の教育政策の欺 瞞を指摘する58。 台北第一師範学校附属小学校では、1927 年(昭和 2 年)に最初の台湾人生徒として、男 子1名を建成小学校から第 5 年学級への転入を認めた、と年表に書かれていた。それは、 歌が同小学校に入学した1年後であり、それ以前には台湾人との共学はなかったことにな る。 附属小学校にとって記念すべき事件として大きく記載があるのが、1923 年(大正 12 年) の裕仁皇太子(後の昭和天皇) (1901~1989)の台湾へ行啓である。皇太子が台北から台湾 全土を 12 日間で回り、その折に台北市の附属小学校を訪問した。以後、台湾行啓記念日と して毎年 4 月 16 日には、小学校において盛大な記念行事が行われた。台湾が天皇支配のも ので、安定した領土として確立したことを印象づけた。天皇行啓当時、原口歌は 3 歳であ ったが、姉たちとともに町に溢れる提灯行列をみたであろう。歓声に沸く大通りを進む皇 太子の姿をみたいと、子供から大人までが沿道に並んだ。台北師範学校附属小学校の生徒 が書いた作文には、その時の児童の気持であふれている59。 私は、皇太子殿下がおいでになるのを、まってをりますと、やっとおいでになった ので、大変うれしくおもひました。皇太子殿下は、おえらいかただから、晩でもち ょうちんをつけておりました。そして、中学校にもおいでになって、せいとがかい たのをごらんになりました。そして、そうとくさんのところへおいでになった、そ うとくさんといっしょに、ごはんをおたべになったとき、どんなおちゃわんで、お たべになったでせう。皇太子殿下はおばしゃでおかへりになりました。そして、あ とでもっと、皇太子殿下がおいででしたらよかったとおもひました。皇太子殿下が おかへりなるとき、あめがふってゐました。 4 月 16 日に皇太子殿下は台北にいらっしゃいました。わたしどもは本町で殿下をお むかへいたしました。まだ殿下がわたしどものまえをおとほりにならないうちから、 57 鍾清漢『植民地台湾下における台湾教育史』多賀出版、1993 年、256 頁。 駒込は、 「植民地における教育は、義務教育を施行しないという点では、国民教育の外側 にありながら、他方で日本語を国語として学ばせるという点では国民教育の一部として位 置づけられた。すなわち、一方において、あなた方は日本人でないと排除しながら、他方 において、日本人らしくありなさいと包摂しようとする使い分けが行われていた」(駒込、 前注。2002 年、420 頁)。 59 附属小学校同窓会記念文集『あひるの行列』より。 58 21 早くおとほりくださったらいいとおもひました。そのうちにせんせいが、かうれい をおかけになったので、わたしはうれしくてうれしくてたまりませんでした。殿下 がおとほりになっておしまひになったとき、たいへんありがたくおもひました。そ うして、また、じんみんどもを、かはいがってくださることをありがたくおもひま して、うれしくてうれしくてたまりませんでした。殿下は、そのばん、そうとくか んていにおとまりになったさうです。 いずれも、尋常科 3 年生の女子が書いたものである。当時の小学生の作文には、提灯行 列を家族とともに見たときの感激した様子が多い。幼い歌も姉たちと一緒に、沿道での人々 の歓喜を体感した。 歌の通った、台北第一師範学校付属小学校についての資料が見つからず、同窓会誌に紹 介されたものを参考にした。学童数は 600 人前後(昭和 2 年)、ドイツ的な教育理念で全人 格的な教育を施すことを目標に掲げている。教科としては、一般の教科に加えて、音楽、 絵画、書道、体育、理科、手芸、芸能、料理に工夫をこらし、児童の自主的取り組みに力 を注ぐとしている。当時としては珍しかったシンダー・トラックと 25 メートルのプールが あり、夏季休暇には新店に林間学校、また、基隆の仙洞に海水浴の臨海学校が開かれて生 徒はそこで過ごした。また、校庭の一部には理科園があり、猿、おしどり、ジャワ産のオ ランウータンなどを飼育していた。また、天体観測台もあり、このような「教育施設は、 アメリカの著名な教育学者でコロンビア大学教授、ジョン・デューイ氏から示唆を得た」60 との記述もある。学級数は 13、父母の参観や父母と教師の懇談会が毎学年度初めに行われ ている。1922 年時点であるが、1クラス 50 名前後であった。開校当初は男女の共学があっ たが、この時期には男女別のクラスになっている。以上から、歌の通学した附属小学校の 教育環境が恵まれたものであり、一部エリート層の学校であった。 原口歌が 10 歳までを過ごした台北第一師範学校附属小学校は、1913 年の創立から 32 年 後、日本の敗戦によって、中華民国に接収され台北市立女子師範専科学校附属国民小学に 改められた。原口歌が通った最初の学校は台湾随一のエリート校であり、また、家庭でも 情操教育としてのピアノのレッスンを早くから受け、これは両親の教育への強い思いの反 映である。 竹次郎にとって、娘たちの進学問題は熟慮すべき問題であった。歌が生まれた 1920 年代 から 1930 年代は、第1次世界大戦後の一時的な好景気を過ぎ、不景気へと内外の経済情勢 が悪化、台湾でも不景気から失業や倒産が相次ぎ、治安の悪化が顕著になった61。 60 附属小学校同窓会誌記念文集『あひるの行列』序文より。 竹中、前掲書、210 頁。 「・・・世界の人権運動に目覚めた台湾人インテリや学生のあい だには、植民地支配と差別に対する反感や抗議の風潮が強くなってきて、くすぶり続ける 不満は、ちょっとしたきっかけで収拾がつかなくなるほど燃え上がる」「反植民地意識を内 に秘めた学生のストライキや官憲に対する暴行事件は、新しい難題として総督府治政に波 紋を呼んだ」と記す。 61 22 台湾の女子教育事情にも問題があった。台湾の女学校は数も限られ、有名校への進学は 難関であった。こうした諸々の実情を踏まえ、竹次郎の決断は、台湾で小学校を終える娘 たちの教育をより広い選択肢を求め内地での学校に託すことにしたものと思われる。 歌が 9 歳の時に父を台湾に残し、母と娘一家が帰国した。歌の姉たちは、帰国後、東京 の雙葉女学校へ進んでおり、姉の進学に合わせた帰国であったと思われる。姉たちが入学 した雙葉女学校は、当時は子女教育の名門校である。竹次郎が雙葉女学校を選んだのは、 娘たちに日本女性として、エリートの子女として、遜色ない素養と教養を受けさせたいと 願ったためであろう。しかし、まだ小学生であった歌には、当時の自由教育の実験的な学 校を選び転入させた。個性重視、自然教育、情操教育に力を入れ、子供の自主性を伸ばす ことを目指す成城小学校の教育方針は、リベラリストであった父の理想と一致した。歌は、 この成城小学校で過ごした 1 年間を「最も楽しい学校時代」と、その思い出を大切にした62。 竹次郎の女性観には、デモクラティックな新しい女性観がある反面、旧来のしとやかで 控えめな女性への拘りもある。3人の娘は女学校時代に、いずれも日本女性として伝統的 な素養を与えられた。台湾での幼児期の生活は、歌の生涯に影響を残す原体験である。原 口竹次郎が内地官僚として過ごした台湾での生活は、「エリート」としての限られた社会で あった。歌が接したと思われる台湾人子女も、旧家・名家や富裕層の出身であろう。彼ら は日本人以上に日本的であることが求められており、市井の台湾人との接点はなかった。 植民地での初等教育は、当初から台湾人の子供と日本人の子供を区別していたので、歌の 入学時点では台湾人と日本人との共学はなかった。その後に教育令の改正で共学が可能に なるが、名門である附属小学校に入学できる台湾人子弟はほんの一握りのエリート層であ る。歌は台湾を第2の故郷として生涯のわたり懐かしく思うが、彼女の体験した台湾は「エ リート社会」であって、その外の「世界」に関心を寄せることはなかった。 父竹次郎の中には、一貫して流れる日本人としての伝統的な価値への誇りと、リベラル な知識人として時代を先取りする進取性とがあり、一見矛盾するようであるが共存してい る。早稲田大学時代の輝かしい学歴や、アメリカ・ドイツへの留学で学んだ理想主義者の 資質と、潔く転身して官僚として国家に尽くす父の気質は、三女歌にも引き継がれた。歌 は、この父から日本人としてのプライドや意識を台湾での生活を通して育まれた。 62 歌は、成城小学校の同窓会誌に寄稿し、その中で何度も楽しかった思い出と書いている。 23