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週末鉄道紀行 - Hi-HO

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週末鉄道紀行 - Hi-HO
週末鉄道紀行
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目次
週末鉄道紀行
まえがき
4
東京∼大阪間を旅に変える
あとがき
三泊三日稚内への旅
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いざな
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まえがき
週末鉄道紀行への誘い
4
5
私の人生は、鉄道の旅とともにありました。
六歳で時刻表を読み始め、通過を表す﹁レ﹂や座席指定の記号、星マークで表される寝台車の種
別、幾多の路線と列車名を、漢字やかけ算よりも先に覚えたほどです。駅や線名から日本の地理を
知り、列車の名称で人々の旅や移動を思い描き、季節ごとに現われる臨時列車を見付けては、まだ
見たことも行ったこともない土地の歳時を想像し、大きくなったら、鉄道で日本の隅から隅まで乗
りつくして、小さくて狭い世界から抜け出したいと夢見ていました。
私にとっては、いつも近所の小駅を颯爽と通過する京阪電車の特急や、時刻表上に﹁レ﹂マーク
ばかりを並べる﹁明星﹂
﹁なは﹂
﹁あかつき﹂といった大阪発のブルートレイン、博多まで行くディー
ゼル特急﹁まつかぜ﹂のほうが、仮面ライダーやゴレンジャーよりも憧れの対象です。時刻表に太
字のゴシックで表示されているそれらの列車を見つけては、﹁レ﹂や寝台車種別、指定席、食堂車
といった設備記号の多さにうっとりしながら、乗る時のことを空想して小さな文字と数字の羅列を
眺める毎日。細かい字を見過ぎたせいかゲームウォッチやファミコンで遊ぶ以前に、目が悪くなっ
てしまいました。
一二歳のころ、初めて﹁青春 きっぷ﹂を使って少しだけ遠くへ出かけてみました。
﹁レ﹂マークとは無縁の鈍行列車の旅です。近郊のローカル線に乗り、流れていく景色を一瞬たり
とも見逃さないように、ディーゼルカーの窓をいっぱいに開けて、軽油の臭いが混じった草木の香
りを吸い込み、初めて出逢う風景を興奮の眼差しで眺めていました。駅では写真撮影と入場券購入
と記念スタンプの三点セット。ローカル線の若い車掌も、田舎駅の老駅長も、私たちのそれらが終
わるまで、ドアを閉めずに何度も待ってくれたのです。まだ子供ながら普段の生活では味わったこ
とのない未知の楽しさが、その後も鉄道の旅に駆り立てられるきっかけとなりました。
中学生になり、今度は夜行列車を乗り継いだ泊まりがけの鉄道旅行に挑戦することになりまし
た。
天王寺駅を夜遅くに出る普通夜行列車に乗り、紀伊半島を反時計回りに一周。名古屋から東京へ
す わ
出て、新宿発上諏訪行の鈍行夜行に乗るという、夜汽車を使って宿泊費を浮かすために編み出した
ルートです。
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青い客車を連ねた新宮行きの普通列車は、私たちのような きっぷの若い鉄道旅行者とクーラー
まえがき
バッグを肩にした海釣り客、背広姿のほろ酔い帰宅客でいっぱい。初めて独りで乗った夜行列車に
興奮して寝られるはずもなく、長時間停車の駅を探しては深夜のホームに降りて、
〝三点セット〟
を繰り返し、車中では闇の中に広がっているはずの海の姿を求め、食い入るように窓を眺め続けま
した。夜を越える旅の寂しくて妖しい不思議な魅力に触れたのは、この時が初めてでした。
新宿からは、真夜中の中央本線を上諏訪まで走る深夜列車に乗りました。登山者と終電サラリー
マンのためのような列車でしたが、夜を通して走るので、私たちと同じく宿泊費を浮かせたい同年
代の鉄道旅行者も数多く使っていた列車です。同席をきっかけに同好の友と語り、共に〝三点セッ
ト〟を繰り返していると、あっと言う間に空が明るくなっていました。翌日もまた、
同じ列車に乗っ
なよろ
しべつ
6
7
て、同じ年代の人や、ずいぶん年上の人たちと黒い窓を見つめながら、他愛ない話をして夜を明か
した記憶があります。普段、学校ではほとんどできない鉄道や旅の話ができたことで、自分の夢や
嗜好が初めて認めてもらえたような気がして、じわじわと声にならない喜びが湧いてきたのです。
自分が生きていくうえで、鉄道の旅は欠かせない存在なのだと気付きつつありました。
高校生になる頃、北海道まで足を延ばすことになりました。
学割周遊券を握りしめ、上野発の急行夜行列車に乗車。北上するにつれて、落ちていくような寂
ひとけ
しさと同時に未知なる地への期待感が湧き上がってきます。吹雪のなか、人気のない夜行船で津軽
海峡を越えてたどり着いた函館。氷の欠片を体全体に振りかけられたように冷たい透明な空気と、
高い空の下に悠然と建ち並ぶ建物。これまで感じたことも見たこともない大陸的な雰囲気に接し、
異国へ来たのかと思ったほどです。
氷雪だけが続く車窓、地の果てまで吸い込まれてしまいそうな灰色の海、すべてが白色で覆われ
た街並み、戦慄を覚えながらも、心の奥底から惹かれてしまう風景を幾度も見せられ、魂が救われ
るかのような気になったのです。そのせいでしょうか、これ以降、とりつかれたように北海道へ行
き、その後は移住までしたほどです。
大学時代は、
長い休みになる度に北海道へ渡っていました。
大阪発新潟行の急行
﹁きたぐに﹂
、
高校、
上野発青森行の急行﹁八甲田﹂、﹁津軽﹂といった自由席のある夜行急行と普通列車、津軽海峡を越
みちのく
える夜行フェリーを使って二日間かけて北上するのが定番です。毎回、どのルートで行くのかを考
えること自体が楽しく、渡道への鼓動の高まりを感じながら、東北や陸奥を旅するのは、大きな楽
てんぽく
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しみの前の贅沢で幸せな時間でした。
しんめい
ーカル線
北海道には、札幌を中心に各都市を結ぶ急行夜行があり、これらを宿がわりに隅々のてロ
い
を巡りました。この頃の道内は、もうほとんどの線路がはぎ取られて、末期の様相を呈していまし
たが、まだ深名や天北、名寄、標津といった余命いくばくもない長大赤字路線が生き残っていたの
です。
そうした廃止路線を見届けるために、長い休みには全国各地から周遊券を持った鉄道旅行者が大
挙して北海道へ押し掛けていました。渡道する度に覚えきれないほど多くの人と語り合い、
時には、
まえがき
かいこう
たの
共に旅をしました。貧乏旅行者で、嗜好も同じく、列車の本数も少ないので、行く先々で出逢って
しまうのです。偶然のような必然の邂逅も北海道の鉄道旅ならではの愉しさでした。残っていたこ
とが奇跡なほど、人の乗っていないローカル線の車窓を思い出す度に、旅で出逢った人々の顔がぼ
んやり浮かんできます。そろそろ、私と同じように仕事と家庭に追われる世代になり、過去の貧乏
鉄道旅行を照れくさく思いながらも、ふと懐かしんでいるかもしれません。
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北海道の鉄道旅は、若かった自分に未知の出会いと、日常では見られない大きな風景を楽しませ
てくれた忘れられない思い出です。
社会人になってからは、鉄道旅行と離れた時期がありました。
新たな価値観を見出そうとしていたのかもしれません。北海道で暮らし始めてからは、好きな時
間に好きな所へ旅立てる乗用車を手放すことができず、不便で融通の利かない、なおかつ運賃の高
い鉄道を軽蔑するような有様だったのです。旅行はといえば、海外のビーチや車でしか行けない山
深い温泉など、あえて鉄道とは縁のない場所を選んで行っていました。年を追うごとにローカル線
や夜行列車、長距離列車が次々消えていくという現実から目を背け、鉄道の旅の形が変わっていく
姿を見たくなかったのです。
それでも、鉄道への思いが自分の奥底から抜けることはありませんでした。
東京へ転居後は海外の鉄道に乗る旅を試してみました。どこの国に行っても、新しい発見こそあ
るものの、考えるのは日本のことばかり。知らないうちに比較し、優位点を探し、車窓でさえも、
﹁○○線に似ている﹂と近似性を求めながら、異国の風景を眺めていたのです。逃げようとしても
結局は日本の風景や鉄道の旅から離れられませんでした。長い間離れていた生まれ故郷のタンスを
ひとつ一つ開いて、軌跡を確かめるかのように、また国内の鉄道旅に戻ってしまいました。
三〇歳も過ぎた頃、子供の頃に思い描いていたように、この国の鉄道に隅々まで乗ってみようと
思い立ちました。日々の仕事の合間を縫って、週末になる度に日本の各地に出掛け、約二年をかけ
てJ Rと旧国鉄だった第三セクター鉄道にすべて乗りつくしました。
全部乗り終わってしまった今、不思議なことにまったく達成感も満足感も湧いてきません。それ
どころか、通勤電車で吊革を握りながら見た蒼い空、鉄橋を渡る音、北の国の観光ポスター、客が
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まばらな反対方向への列車、帰路の車窓に流れていく光の帯、ターミナル駅で出会った長距離列車
など、日常のふとした一瞬から旅心がやどり、鉄道に乗ってどこかへ出掛けたいという思いは募る
ばかりなのです。
仕事を終えた帰路の地下鉄で、頭の中にはもう一人の自分が現れて、北辺の海岸線を走るディー
ゼルカーを眺めていたり、雪に埋もれたローカル線の車内にいたり、夜行列車の寝台車から流れて
いく車窓を追いかけています。
遠くに旅立てる次の週末を指折り数えながら、大きくなるばかりの旅心を癒し、鎮めるための、
まえがき
ささやかで小さな﹁鉄道旅﹂を暮らしのなかに創り出すことにしました。週末は子供の頃に夢見た
あこがれの鉄道風景や、幸せな時間を与えてくれた鉄道の旅を今も追い求めて、住んでいる所から
少しだけ遠くへ行くことに決めています。これらは、私が生きていくうえで、欠かせない生活の一
部になっています。
慌ただしく過ぎていく日々のなかで、無心になって楽しんで心が満たされていく、わずか数時間
から二日程の儚い現実逃避。この本はそんな短い時間と少ない休日を使った、日常にある鉄道旅の
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記録です。
週末鉄道紀行
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第一章
月曜日、新しい旅の誕生日
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■通勤電車での流儀
私にとって月曜日は新しい旅の誕生日である。
目的地をぼんやりと定め、乗るべき路線や列車を想像しながら時刻表をめくっていると、これか
ら始まるであろう苦難の五日間が、別世の出来事のように思えてくる。
毎朝、私は薄めの新書三冊分を重ねた位の太さの﹁携帯版全国時刻表﹂を持って出勤している。
大型判同様にJ R︵交通新聞社︶とJ TBパブリッシング版があり、定価は両社とも五百円である。
私が手にする二〇〇九年一月号のJ TB版は、縦一六・四センチ、横九・九センチ、太さ二・五五セ
ンチで、重量は二八〇グラムほど。J TB版の大型時刻表だと縦二五・八、横一八・一、太さは三セ
ンチほどある。携帯版は約半分のサイズだ。何より重量が大判の九九〇グラムに対して三分の一以
下で、それでなくても重い鞄を、肩に下げる負担が減るのは有り難い。
満員の車内でも辛うじてページを繰ることができるし、背広の腰のポケットにも無理をすれば入
らなくもない。吊革につかまりながら、厳粛な顔つきで眺めていると、これから出張するビジネス
マンに見てもらえそうな気もする。
あ お
ただし、
携帯版時刻表はスペースの都合で、
J Rであっても小さな駅の発着時刻は省かれている。
元国鉄線の第三セクター鉄道は主要駅時刻こそ掲載されているが、兵庫県南東部の北条鉄道のよう
に、粟生の次が終着駅の北条というような乱暴な載せ方もあるので油断はならない。私鉄に至って
は、西武﹁ちちぶ・むさし﹂﹁小江戸﹂、小田急ロマンスカー、東武﹁けごん・きぬ・しもつけ・き
りふり﹂﹁りょうもう﹂や名鉄の特別車両付き特急、近鉄アーバンライナー、京成スカイライナー、
南海ラピートなど、指定席付きの有料特急が辛うじて掲載されている程度である。京阪特急は特別
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料金不要がゆえに載っていない。網羅性には欠けているため、時刻表を﹁読む﹂という我々独特の
好奇な行為には使いづらいが、路線地図や臨時列車といった必要最小限の情報は盛り込まれている
ので、通勤途上での鉄道旅プランニングには適している。
る。
月曜の朝、憂鬱と怠惰な空気が入り混じる東急東横線の急行電車に乗り込む。わずかな空間を見
つけて必死に時刻表を開き、巻頭路線地図をパラパラとめくることから週末の旅思案をスタートす
週末鉄道紀行
いで空白
変形手裏剣のようにデフォルメされた独特の北海道のページをまず眺める。廃線が相る次
もい
部分が異様に多くなった路線図で、果てへ向かって延びている宗谷本線や根室本線、留萌本線、日
せんもう
高本線あたりに自然と目が行く。旅をしていると、地が尽きる先端の地に憧れてしまうものである
が、時刻表でも同じことのようである。
次は海沿いの路線や区間に関心が向く。
釧網本線には今頃、
早い流氷が来ているだろうか。
そして、
﹁氷﹂に埋め尽くされたオホーツク海が頭の中で広がる。流氷がやってくると、オホーツク地方の
おちいし
空気が急に冷えてくる。これを肌で感じたい。網走から釧網本線で釧路へ抜け、次は東端の根室へ
行きたい。根室へ近付くにつれ、荒涼感が一層増してくる。落石を過ぎると太平洋に突き出た断崖
ましけ
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の車窓が続く。地の果てへ向かっていくような列車に乗ってみたい。
おふゆ
毛の間も気になる。高波に飲み込まれてしまいそうな寒々しい日本海を走る
留萌本線の留萌と増
一両のディーゼルカー。一本の線路が途切れる終着駅の増毛。私の頭の中では、黒いコートの襟を
立てた男が雄冬からの連絡船で増毛にたどり着き、待合室のダルマストーブの火に当たっている。
駅長が﹁次の発車は留萌行﹂と書かれた白い案内板を改札の上に掲げながら、
﹁まもなく最終が出
ますよ﹂と声をかける。黙って硬券切符を手渡すと、木製の改札口に納まった駅長は﹁今日はシバ
れるなあ﹂と独り言のように話しかける。コートの男は、少し微笑んで赤いテールライトが灯る気
動車に独り乗り込んでいく⋮⋮。どうも増毛駅が舞台となった映画﹃駅∼STATION﹄に完全
に影響を受けているようだ。
じゃくまく
時刻表の地図を見ては、縦横無尽に勝手な空想の世界を想像しながら、真冬の白い寂寞の世界に
心を鎮めたいと、暖房と人いきれで暑苦しい車内で、独り吊革を見つめて溜息をつく。
今日夜の東京二〇時四分発、東北新幹線﹁はやて﹂ 号に乗り、八戸で在来線特急﹁つがる﹂
号へ乗り継げば青森着は〇時三分だ。そこからタクシーで港へ出て、二時過ぎの深夜フェリーに乗
船。トラックの運転手ばかりの船内で一風呂浴びて寝ると、函館だ。
でお金はかからない。
北海道のことを頭の片隅に置きつつも、次はアメーバのように変形させられた九州の路線図を見
る。一カ所さえ行けるかどうか分からないのに、つい欲を出してしまうが、旅を想像するだけなの
うな体勢で代々木駅まで我慢し、総武線の黄色い電車に乗り換えると同時に時刻表を開いた。
Rの改札口に吸い込まれて、東横線よりさらに混んでいる山手線に乗り込む。ここから数分は
J
再びプランニングタイムとなるが、今度は乗るのがやっとで本などとても開けない。エビ反りのよ
ムに押し出されて現実に引き戻された。
実際には行けもしないのに、時刻表をにらみながら真剣に北海道への行程を悩んでみる。東横線
の急行電車は、さんざん徐行と駅間での停止を繰り返した末、
渋谷に到着。行き止まり式の狭いホー
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かつて炭産地路線が密集していた北九州は少し寂しくなったけれど、北海道に比べると、まだ賑
やかでほっとする。
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いすぶき
南端の指宿枕崎線から、日南線、南阿蘇鉄道と行き止まりになったローカル路線を眺めていく。
指宿枕崎も日南も、かつては別の線とつながって鉄道が半島を横断していたが、もうずいぶん昔に
廃止になってしまった。
南阿蘇鉄道の場合は少し事情が違い、前身の高森線の頃に宮崎県側の高千穂線と結ぶ計画で作ら
れており、実際に一部は路盤も完成している。しかしペアとなるべき高千穂線は第三セクター化の
のち二〇〇五年に災害で鉄橋が流されるという不運に見舞われ、再建を断念。実質的に廃されてし
まった。世紀が変わって鉄道が交通の主役に返り咲かない限り、両線がつながることはないだろう。
鉄道空白になってしまった部分を眺めると、朝からやり切れない気持ちになる。鉄道があった過去
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を知らないほうが幸せなのかとも思う。
次は豊肥本線と九大本線に注視する。九州を横断する両線は、どこまでも連なる山々が男性的な
たくましさを感じさせてくれ、車窓を想うとなぜか麦焼酎が呑みたくなってしまう。肥薩線なら米
焼酎、指宿枕崎線はもちろん芋だ。朝から夜が待ち遠しくなってきた。
彦山線に加え、田川線、井田線、糸田線から転じた平成筑豊鉄道と、大部分は生き残っている。歳
を重ねるにつれて、この付近の無骨で派手さや愛想のない車窓が好きでたまらなくなってきた。眺
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思い出や想像を勝手気ままに巡らせたあげく、北九州の炭産路線に目を移す。
その昔は蜘蛛の巣のごとく、東京顔負けの路線網が形成されていたが、石炭産業の衰退で幾つか
の路線が廃止されてしまい、空白部分が少し増えた。それでも筑豊本線、篠栗線、後藤寺線、日田
週末鉄道紀行
めていると、土地の懐の深さに守られているような安らかな心持ちになる。街を歩くと時に異様に
ざんし
巨大なバスターミナルや黒ずんだコンクリートの古い炭坑住宅、山に突き刺さった立抗跡など、高
度経済成長期の残滓が現れる。目の前が黄色くなって、古き昭和に戻りたいと思う瞬間がある。学
生時代は海の見える路線や山間部のローカル線ばかりに目が行き、ほとんど興味の湧かない地域
だったが、今は私の九州鉄道旅では外せなくなった。
電車は四ツ谷を過ぎ、もうすぐ会社に着こうかという頃、今週末に九州へ行ってみよう、と真剣
に考え始めた。東京駅を一八時三分に出発する大分・熊本行の寝台特急﹁富士・はやぶさ﹂にも乗
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りたい。
八〇年代初頭のブルートレインブームの真っ最中に少年時代を過ごした私のような団塊ジュニア
世代には、﹁富士﹂と言えばブルートレインの代名詞であり、強い羨望の対象となっていた列車で
ある。列車番号は九州行が一番、東京行きが二番だ。東京から大分・宮崎の両県を経由し、二四時
間近くかけて西鹿児島︵現在の鹿児島中央︶まで走る国鉄最長列車であった。当時は画期的だった
一人用の個室寝台車も連結。少年向けの鉄道図鑑では必ず巻頭に登場していた。
﹁富士﹂
に続いて
﹁二番目に格好いい﹂
存在が熊本経由で西鹿児島まで行っていた
﹁はやぶさ﹂
である。
関西に住んでいた私にとって、深夜に大阪駅を通過する両列車に乗ることはおろか、一目見ること
さえ困難だった。時刻表に﹁レ﹂マークが並ぶ﹁富士﹂﹁はやぶさ﹂の時刻を追いながら、駅のホー
ムで徹夜して、一度でいいからその姿をカメラに収めたいと幾度も思った。
今や九州行のブルートレインは絶滅寸前で、最後まで残ったのが一番格と二番格の列車である。
少し前から両列車は合理化で合併させられた末、ついに二カ月後には廃される。少年時代の憧れの
寝台特急に乗って、九州に渡りたい。往路は﹁富士﹂に乗り、帰りは﹁はやぶさ﹂というのも面白
い。早退して金曜の夜に出れば、北九州のローカル鉄道の旅も存分に楽しめそうだ。
そんなことを考えていると、月曜の朝だけど会社に行くことすら楽しくなってきた。知らないう
ちに黄色い電車は市ヶ谷に着いていて、慌てて降りた。オフィスまでの一〇分弱、週末の旅を具現
化する旅行予算をどうするか、という極めて大きな問題の解決法を歩きながら頭の中で巡らせる。
幼少時代から三十半ばを過ぎた現在まで、少ない予算で旅することばかり考えて実践してきたの
で、東京発の格安切符の価格と内容は、ほとんど頭に入ってしまった。しかし、行きたいと思った
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場所や乗りたい列車に安価で使える最適なものがいつも見当たらない。これらの企画切符は、一般
的な観光向けに作られているから、鉄道だけに乗る旅で使おうと思うこと自体に無理があるのかも
しれない。日本全国へ格安で長距離・長期間の鉄道旅を可能にしてくれたワイド・ミニ周遊券も、
今はもうない。
明細や通帳残高を見ると、絶望的になる。妻の顔も浮かんできた。
比較的フレキシブルだが割引率が低い﹁周遊きっぷ﹂や、割引はないが自由度の高い普通乗車券
を使えば済むことなのだが、自分の財布の中身から考えると、確実に実現不可能な気になる。給与
週末鉄道紀行
例えば、﹁富士﹂のB寝台を使って東京から大分まで行くと、乗車券だけで一万四二八〇円、そ
れに特急料金三一五〇円と客車二段式のB寝台料金六三〇〇円を合わせ、片道二万三七三〇円であ
る。
復路の﹁はやぶさ﹂の場合は、大分から熊本経由で東京まで乗車券を買うので一万五九六〇円、
大分∼熊本間の﹁九州横断特急﹂の自由席特急券が一三七〇円、
﹁ は や ぶ さ ﹂ の 特 急・ 寝 台 料 金 は
往路の﹁富士﹂と同額で、復路合計で二万六七八〇円。往復の総計は五万五一〇円にのぼる。
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ちなみに私の小遣いは昼食代も含めて月額三万五千円という状態であるから、毎日昼食抜きで過
ごしたとしても往復各駅停車の旅で精一杯である。往復割引という手もあるが、往復とも同一経路
ただ、昨今の きっぷの爆発的なブームや普通列車の短編成化で、発売期間中の列車混雑が年々
ひどくなっている気がする。窮屈な中、通勤電車のような車内で長時間耐え続ける難行苦行が当た
り前になってしまい、本来使うべき対象であったはずのお金のない学生が、自由な旅をのんびり楽
しむ、という牧歌的な雰囲気はなくなってしまった。
私のようないい歳をしたサラリーマンが邪魔をしているようで、申し訳ない気持ちになる。自分
自身も学生時代にさんざん楽しませてもらったので、そろそろ身を引くべきとは思うのだが、それ
だけの収入が伴ってこず、 きっぷの旅からは卒業できそうにもない
そんなことをいつも思いながら、寂しい懐具合から考えると、やはり今週末も きっぷでどこか
に行くしかない。出来レースのようにいつも同じ結末である。そうなると、遠くへ行くために金曜
れ、また愉快になってきた。
臨時列車﹁ムーンライト信州﹂の場合は信州、北陸あたりだろう。北海道や九州のことはすぐに忘
が取れたら中京から関西方面、﹁ムーンライトえちご﹂なら新潟、日本海方面だ。週末だけ運転の
日夜に発車する夜行快速列車の指定券を確保することが先決だ。行き先は﹁ムーンライトながら﹂
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にするという制約が課せられるので、復路に大分から熊本に抜けて﹁はやぶさ﹂に乗る計画が破綻
する。二大寝台特急で行く週末の豪華九州旅行は、諦めざるを得ない。歩いているわずかな間に、
心地良い夢から覚めた。
代わりに﹁青春 きっぷ﹂の存在が頭に浮かんでくる。これなら安く遠くまで行ける。一二歳の
頃から夢を描いては壊れ、 きっぷで妥協する、その繰り返し。安さと自由度の高さは他に勝るも
ちまなこ
効率良い旅行にするために時刻表を駆使し、中距離を走る各駅停車や快速列車を血眼になって見
するお得感と充実感は、 きっぷの旅ならではかもしれない。
山陽、果ては九州まで普通列車だけで遠方まで行けるプランを作る時の興奮や完成させた時に去来
つけ出すのは、ある意味、宝探し的な面白さがある。絶妙な接続を考えて、東京から東北や関西、
とが当たり前の感覚にさえなり、鈍行列車で旅すること自体が楽しい事だと気づかされた。
のがない。二〇年以上にわたって愛用してきたためか、妥協どころか、鉄道旅に普通列車を使うこ
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これはすぐにプランを練らねばならない。一分一秒が惜しくなる。エレベータを待つ間にも時刻
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表を開いていると、遠い関係の同僚から﹁おや、また出張ですか﹂と声をかけられた。いや、まあ、
などと曖昧な返事をしながら、背広のポケットに時刻表を押し込んだ。一通り説明したところで、
﹁へぇ、それは面白そうですね﹂などと、さも興味のなさそうな返答が来るだけである。
午前中の仕事を終え、一二時一分に会社を出て一目散に吉野家に入り、瞬時に豚鮭定食を注文し
た。牛丼や豚丼の次に速く出てくるメニューで定価は四九〇円である。
本来は現在三三〇円で最安値の豚丼を食して旅費を稼ぐべきなのだが、既に二〇代の頃に食べ過
ぎた。最近はメタボなるお節介な言葉もある。だから今は、豚丼は吉野家来店三回に一回程度に減
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らした。その昔、在籍した会社の五〇代管理職の男は、毎日昼は当時二九〇円だった牛丼並盛以外
は一切食さなかった。牛丼が好きなのではない。年収は一千万近かったはずなのに、ローン返済で
困窮していたようだった。日々並盛昼食の影響かどうかは知らないが、二年後に胃ガンでこの世か
ら消えてしまった。そんなことを思い出しながら、半分生身のようで、不自然に塩辛い鮭を短時間
で食す。私も長生きできないかもしれない、と食べる度に感じるが、速さと安さには代えられない。
五分足らずの昼食を終え、オフィスビル内によくありがちな中型書店に入る。街の個人書店より
は大きいが、置いてあるだろうと思った本がないことも多々あり、昼休み時間の週刊誌・雑誌コー
ナーだけが異様に盛り上がっている類の店である。ここで平積みになっている大型判のJ TB時刻
表を閲覧。携帯版で見ていても、一度は大きな時刻表で再確認しないと落ち着かない。大判で見る
と、その列車がどんな風に走っているのか、どこで追い抜かれるかなど全体の流れが見えてくるこ
とがある。今より便利な列車や接続を見つけることが希にあり、携帯版では見逃していた臨時列車
が載っているかもしれない。
今はインターネットでも旅の情報は調べることはできるのだが、会社のパソコンはすべて接続記
録が取られていると見て間違いない。メールについても﹁監査﹂と称して、中身は適宜検閲されて
いる。
﹁一二時四三分から四分二三秒間、マーケィング部二課の西村はJ Rサイバーステーションにアク
セスし、今週末金曜日の新宿発新潟行﹃ムーンライトえちご﹄の普通車指定席の空席を照会し、J
R東日本のサイトにおいて、列車時刻の検索も行っていた﹂などという記録を取り、時の管理者が
私をどう見ているかによって、この情報が懲戒に有効活用されるのである。せめて﹁のぞみ﹂の照
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会なら言い訳もできそうだが、金曜日夜の新宿発﹁ムーンライトえちご﹂で出張は皆無である。
大型判時刻表を一読して携帯版と相違ないことを確認。納得したあとは近辺のJ TBトラベラン
ドで週末金曜日の夜行快速列車の指定券を検索する。
て窓口に提出。同一日で全部違う行き先という奇妙なリクエストを、若い女性係員は﹁のぞみ﹂の
ハワイやフィジーという地名が聞こえてくるなか、
隣のカウンターにいる制服姿の若い女性から、
私は指定券申込書にムーンライトや新宿、新潟、白馬、豊橋などの文字で第三希望まで埋め尽くし
週末鉄道紀行
指定券でも発券するかのように極めて事務的にキーを叩いている。
余計な手間のかかる窓口でのトライはやめて、駅の指定券販売機でこまめに見つけ出していこう
と思った。 きっぷの旅は、苦労することを幸せと思わねばならない。
確率で手に入るのである。
こんなところで諦めるわけにはいかない。これから五日間の地道な活動によっては、半分くらいの
一分も経たないうちに﹁あ、全部ありませんね﹂と手慣れたような返事がきた。 きっぷシーズ
ンの週末、夜行快速はいつも混雑しており、係員も私のような客に慣れているのであろう。しかし、
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■東海道本線の始発電車に乗る
仕事で川崎や横浜などへの遠方移動する際はもちろんだが、私は品川へ行く場合でも東京駅から
東海道本線の列車に乗ることにしている。
こ
う
づ
山手線に乗っていたとしても、東京で一旦降りて乗り換える。可能なら、丸の内の赤レンガ駅舎
を一瞥して敬意を表し、旅行者然として改札をくぐりたいところであるが、途中下車をすると余分
な経費がかかってしまうので、そこまで贅沢はできない。
東海道本線のホームでは、まもなく発車する列車には乗らず、小田原や国府津、熱海行などの始
発電車がドアを開くのを待つ列に並ぶ。
﹁熱海行、まもなく扉が開きます、七番線、ドア扱い願います﹂という始発駅ならではの業務放送
が混じった案内を聞きながら乗り込める幸せと、﹁熱海﹂という駅名に思いを馳せ、遠くへ行く雰
囲気をかみしめる。理想は駅弁を買ってグリーン車で移動することであるが、わずか七分の区間に
七五〇円を支払う勇気と経済力はまだない。
列車内に入ると、進行方向に向かい合わせにボックスタイプになっているクロスシート席に腰を
下ろす。カーブの際に編成全体が見渡せる編成後方の車両で、なおかつ車窓の変化が多い進行方向
右側の席が望ましい。左側だと新幹線の高架ばかり見えてしまう。
ボックス席は、短距離の業務移動でも中長距離の旅をする気分に浸れる。座っているのは案外、
品川や川崎までしか乗らない背広姿の近距離客も多い気がする。品川到着間際で同時に席を立った
りすると、自分と同じような考えなのかと独り密かに微笑んでしまう。昨今は窓に背を向けて座る
ロングシート車両だけの電車も多く、それに当たった時は、一日仕事上でも何かで不幸なことが起
こりそうな気にさえなる。
の700系﹁ひかり﹂と併走しながらゆっくりと走り出した。
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熱海行きの普通電車は、右手に赤レンガの最端部を一瞬見て、左手の新幹線とともに東京駅を出
発。林立するビル街のなかを山手線や京浜東北線など無数の電車と目まぐるしく行き交い、岡山行
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東京駅始発の列車は、新幹線も特急も普通列車も、時の流れなど関係がないように、全部の列車
が優雅なスタートを切ってホームを離れていく。これが日常を忘れられてとても心地良く感じる。
新橋までのわずか三分の間が、私にはもっとも興奮が高まる瞬間である。このまま、列車に乗って
どこか異国へ消えてしまいたくなる。
トウキョウ・ハフトバンホフ︵独語で中央駅の意︶で別れを惜しみ、国際列車インターシティで
遠い国へ旅に出るというありがちなストーリーを勝手に描き、自分を欧州映画の世界に迷い込んだ
ような感覚に陥らせた。終点までの停車駅と到着時刻を次々告げていく案内放送も、バックミュー
ジックとしてこの作品を盛り上げてくれる。都心のターミナル駅は今や新宿駅の方が巨大ではある
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が、なぜか新宿発の列車だとここまで盛り上がれない。
普通電車はビル街の横っ腹に突っ込む。﹁ビックカメラ﹂や﹁読売新聞﹂と表示された曲線形の
旧有楽町そごうを右の窓に見て、有楽町駅の存在を無視するかのように、ゆったりと過ぎていく。
山手線の駅など我関せずといった本線の列車ならではの風格を見せている。
新橋へ向けて東海道、山手、京浜東北の六本並んだレールが一斉に左に大きく曲がる。新幹線も
合わせると計八本になり、左にも右側にも線路が重なっている。炭産全盛期の北九州や北海道、は
たまたアメリカの鉄道黄金時代にも劣らぬような迫力で、世界の鉄道の中心地にいるかのようだ。
カーブの際に一五両編成の最後尾から前方を望むと、蛇のごとく長い電車が左右にくねらせながら
走る姿が見え、その力強さに胸が熱くなってくる。
格子柄の古風なニュー新橋ビルをホーム越しに見ながら、列車は新橋に到着。左手で伴走してき
くちばし
たガチョウの嘴のような顔つきの新幹線700系が、シャーという音を立てて抜いていき、これを
合図にわずか三分の超短編映画はフィナーレとなった。次の楽しみは、品川駅到着直前に現れる田
町車両センターと呼ばれる車庫である。
しおどめ
汐留のビル街を後ろに、浜松町を通過。次の田町駅を通ぎたあたりから、枝分かれした線路が二
本、三本と広がり、最終的には電車の見本市のような空間になる。
﹁富士・はやぶさ﹂の青い寝台客車や寝台特急﹁サンライズ﹂、特急﹁踊り子﹂、朝の湘南ライナー
やホリデー快速に使われている二階建て電車など東京駅のオールスターが次々と目の前に現れる。
ディーゼル機関車や電気機関車も何両かある。少し離れたところには、京浜急行の真っ赤な電車が
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トンネルから出てきた。
新橋までがクラシック映画なら、こちらは子供の頃に見た特撮ヒーロー番組の世界。日常では乗
る機会が少ない電車が勢揃いしているから、大人になった今でもドキドキしてしまう。だから大崎
や東十条の山手線や京浜東北線の電車ばかりの車庫を見ても、それほど心に変化は現れない。
もしれない。これから何か別の用途があるのだろうか。廃車を待っているのか。あるいはどこかの
車庫の片隅の草むした線路には、一両だけ切り離された青い寝台客車が放置されていた。機関車
が引く寝台客車列車は、日本では数えるほどしか運転されていないから、もう要らなくなったのか
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国へ売られていくのかもしれない。廃車両を買い取って、自分の家に置きたくなる人の気持ちが分
かる気がする。
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そんなことを考えているわずかな間に、熱海行の電車は車庫を通り過ぎて品川駅のホームに入っ
た。鉄道唱歌のチャイムが流れ、電車のドアが閉まる。東京駅からわずか七分、
運賃一六〇円の﹁旅﹂
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は終わった。
第二章
火曜日、新しい旅を育てる日
■夜行快速列車の指定券
出勤途上の渋谷駅では早速、指定券自動販売機を操作し、今週末金曜日の指定券を照会。しかし、
火曜日は新しい鉄道旅を育てる日である。
週末プランの具体化を図ることで、けだるさ漂う週の前半を高いモチベーションを持って乗り越
えたいという思惑もある。
﹁ムーンライトながら﹂も﹁えちご﹂もあえなく﹁×﹂印である。いつの間にか私の後ろには背広
姿のビジネスマンが現れたので、臨時快速夜行﹁ムーンライト信州﹂は諦めた。
販売機では作業を短時間に済まさなければならぬような無言の圧力を感じる。指定席照会は手軽
にできるが、機械はいたって冷酷に﹁×﹂を出すことと、ご希望の列車を選択してください、など
という合成音が響くだけ。国鉄時代の窓口のように、同じような列車を幾度も検索依頼するとあか
らさまに嫌な顔をされたり、
挙げ句の果てには舌打ちをされたりするような対応こそ回避できるが、
こわもて
愛想はない。期待薄のなか、思いがけずOKを示す緑ランプが点灯して、
﹁よかったですね﹂と声
をかけてくれたり、強面の駅員が親身になって懸命に指定券を探してくれた時の驚きの感覚などは
もう昔話なのかもしれない。
きっぷで夜行列車を使おうとする直前の旅計画はなかなか育て切れない。この不安定な間は、
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今は人減らしと同時に、指定券の自動販売機利用を促すためか窓口が最小限まで削減されてしま
い、いつも混雑している。乗車変更や払い戻しといった販売機では対応できない案件がない限り、
窓口を使ってはならぬ雰囲気である。J TBや日本旅行などの旅行会社窓口で手数料収入の少ない
少額のJ R券を発券してもらうのも気がひけるし、朝の出勤時はほとんどの店が閉まっている。
また過去を美化し、どうでも良い事を嘆いてしまっ
指定券が取れなかったことで少々機嫌が悪く、
た。
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数日先にどこへたどり着いているのか分からないという面白さはあるが、すっきりはしない。幾日
か後に来るであろう旅の姿があまりにもぼやけてしまい、想像している間のリアリティがないので
ある。
週末に﹁ムーンライトながら﹂に乗るなら東海道本線のオレンジと緑帯の電車に乗り、味噌カツ
や味噌煮込みうどん、きしめんを旨そうに食べている自分を浮かべては悦に入ることができる。も
しかしたら、関西や岡山、四国あたりまで足を延ばしているかもしれない。﹁えちご﹂なら、日本
海と上越の温泉、そして透明な旨みを持つワンカップの地酒だ。
﹁信州﹂だと、晴れた日の頂上に
雪を戴いたアルプスの山々を眺めながら味わうワイン、一両きりで走っている大糸線の古いディー
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ゼルカーといった具合である。
今の私は、オレンジと緑の東海道線の電車内から日本海を眺め、信州ワインを飲んでいる。
こういう日は、時刻表を読むのはやめて、日常の中で実現しうる現実の鉄道旅を楽しんで気を晴
らすことにしている。
たとえば、通勤電車でも乗車する場所や経路を変えて非日常を生み出し、ささやかな鉄道旅を創
る方法である。私のなかでもっとも手軽な実践法は、先頭車両に乗って前面展望を楽しむことなの
だが、日頃通勤に利用する東急東横線の電車は、激しいラッシュなので悠長に前面を眺められそう
にない。かといって、早起きして経路を変えるのも少しつらい。その後に出社しなければならない
のかと思うと心からは楽しめない。
■旧新橋停車場と汐留ターミナル
だから、仕事で外出する時や帰宅時に、ちょっとした立ち寄りや工夫を加えることで日常鉄道紀
行を企てている。
月に二∼三度は新橋や汐留へ行く用事がある。倦怠感が増す火曜日の訪問場所としては幸運だ。
胸を張っては言いづらいが、空き時間を見つけ、日本の鉄道発祥の地である﹁旧新橋停車場﹂に立
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ち寄ることができる。
新橋駅から案内板に沿って﹁シオサイト﹂と名付けられた半地下街を歩いて行くと、ビルの谷間
の広場に出る。
地上二一五・七五メートル、四三階建ての汐留シティセンターと、直角に突き出した三階建て付
属レストラン街、
地上一一九・八五メートル、
二四階建てのパナソニック電工東京本社ビルによって、
まだらいし
コの字状に囲まれた僅かな空間に、明治初期の鉄道開業当時の駅舎やホームの一部を原寸大で復元
した施設がある。
塔のようなビルに見下ろされ、ちょこんと鎮座している斑石張りの洋風建築物。汐留再開発の際
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に発掘調査が行われたのち、二〇〇三年四月に旧新橋停車場と同じ場所に建てられた再現駅舎だ。
百数十年前の明治五︵一八七二︶年一〇月一四日、この駅から現在の桜木町の場所にあたる横浜
停車場まで、日本で初めての鉄道が開通した。﹁汽笛一声﹂と唱歌に唄われた日本の鉄道の原点で
ある。実際にはその四カ月ほど前に、品川から横浜間は先行開業しているのだが、正式には新橋停
車場の開業時が鉄道開通の日になっている。
駅舎を正面から見ると、左右の二階建てを低い柱廊でつないだ逆凹型。欧風な建築スタイルは、
西欧のターミナル駅のような雰囲気も漂わせているが、復元した新しさと高層ビル街に忽然と建つ
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不自然さゆえか、周辺ビルのオーナー邸宅、あるいは明治期の学校校舎といった感もする。昭和通
りを渡って、少し離れた銀座側から眺めると、ビルに駅舎が溶け込んでしまって壁画のようである。
たつの
原型である新橋停車場は米国人のリチャード・P・ブリジェンスという建設技師の設計による
もの。一世紀以上経た現在は、米国文化の象徴のような高層タワーにとり囲まれてしまっている。
龍野やら仙台やら会津の武家屋敷を取り壊して以来百数十年間、この辺りはすべて鉄道に関係する
施設で占められていた。駅舎やホームに加え、機関庫や車両工場、宿舎などが配された。その後、
昭和末期までは巨大な汐留貨物駅だった。
一世紀超にわたって鉄道とともに歩んできた場所なのに、
ギラギラ光る巨塔が威圧するように見下ろしているのは、愉快ではない。
駅舎が再現されたビルの谷間の僅かな広場には、舞台のようなプラットフォームと短いレール、
ゼロマイル
〇 哩 標識が再現され、停車場の雰囲気を出すための工夫はなされている。時折、地面に穴が開い
ており、その下には発掘調査で見つかった往時のホームや建物跡の石積みが保存されていて、本当
に駅があったのだなと腑には落ちる。
いぬくぎ
復元駅舎内は、都内繁華街で頻繁に目にするビアレストラン﹁銀座ライオン﹂と、無料で入れる
﹁鉄道歴史資料室﹂。資料室という控え目な名称の通り、スペースはそれほど広くはない。入場も
無料であった。
室内には、明治や大正期の車両銘板、犬釘、新橋工場の労働者用バッジ、チェッキと呼ばれた手
荷物引換証、お茶を入れて売っていた汽車土瓶、さび付いた改札ハサミなど、発掘調査の出土品が
小ぢんまりと展示されている。汐留の地で百余年、土の中に眠っていたものである。こうした動か
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ぬ証拠とともに、当時の写真を眺めていると、この地が広大な一大ターミナルであり、車両工場だっ
た頃の映像が頭の中にぼんやりと映し出される。海外製の陶器や皿、パイプは﹁お雇い外国人﹂が
遺したものだろう。再現映像に青い目の男達が加わった。
新しい再現駅舎もシンボルとしては悪くないが、往時の出土物や遺構は真実のものだけにリアリ
れる。
ガラス張りになった床下には、苔で所々が緑色になった駅舎の基礎石積みも保存されている。地
面は現在より相当に低い位置にあったらしく、現在の建物が復元物であることをそっと知らせてく
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ティがある。じっと見つめていると、ここが停車場や工場だった百年以上昔の息づかいや賑わいが
頭の中の映像から聞こえてきて、心が体から抜け出していきそうに気分が高揚してきた。この気持
ちになりたいがために、いつもここを訪れている。
資料室の二階には鉄道敷設や歴史を説明する学習教材的なオンデマンドビデオコーナーもあり、
常時五∼六作品が公開されている。あまり見続けると仕事に影響してしまうので、過度な閲覧は自
粛せねばならないが、私のお気に入りは﹁汐留のあゆみ﹂と名付けられた話で、汐留の名の由来か
ら始まって、新橋停車場の繁栄や汐留貨物駅となった以後の出来事まで、終盤には汐留駅最後とな
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る貨物専用列車の出発シーンも収められている。
一九一四︵大正三︶年の東京駅開業によって、東海道本線の終起点駅という表舞台からは退いて
﹁汐留貨物駅﹂となった新橋停車場。その後、関東大震災で駅舎を失い、大正の台風災害、第二次
世界大戦での度重なる空爆を経て、昭和三〇∼四〇年代の貨物繁栄期に入る。昭和三四年には日本
初のコンテナ専用列車﹁たから﹂号が運転を開始するなど、荷貨物需要の高まりとともに都心の貨
物ターミナルとして脚光を浴び、﹁汐留の荷物で四季の移ろいが分かる﹂﹁秋から冬にかけては運び
きれない荷物があふれる﹂といった状況。一九八六︵昭和六一︶一一月に廃止となるまでは、この
鉄道開業から百年後に生まれた私にとっては、新橋停車場は触れることのできない伝説のような
国を代表する貨物駅だった、と白黒の映像が伝える。
世界である。天井に届かんばかりの荷があふれ、緑色の長いコンテナ列車が発着していた汐留貨物
駅時代のほうが馴染みがあり、手が届きそうな場所にある。ゆえにこの映像作品が好きなのかもし
れない。
毛細血管のようにレールが密集していた巨大な貨物ターミナルは、平成に入る前に消し去られ、
国有地として﹁塩漬け﹂にされた広大な空地は、背比べコンクールのような高層ビル街に変ってし
まった。汐留はこの二十年ほどの鉄道の凋落を象徴しているかのようである。
過去を懐かしんでいる時は心が穏やかなのだが、外に出てふとビル群を見上げると虚しさを感じ
た。
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■都会の海を走る二つの﹁鉄道﹂
夜汽車に乗って海を見たいとか、
仕事や日常で色々と詰まってくると強い逃避願望が湧き起こり、
長距離列車で遠くへ行きたいとか、心の中でつぶやいてしまう。鉄道の旅でしか人生の疲れや倦怠
を脱する手だてを知らないせいもある。
大阪で学生時代を過ごしていた頃は、朝の京阪電車のラッシュに嫌気が差し、京橋駅で逃避を決
意。難波から南海特急﹁サザン﹂に乗って和歌山の海を目指したり、大阪からJ R神戸線の快速に
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乗って須磨の海岸を眺めたり、時には京橋駅の窓口で突然﹁山口・秋芳洞ミニ周遊券﹂を買って一
泊二日で山陰と山陽両本線を乗り通したこともある。さらには、運賃の安い近鉄と名鉄を乗り継い
で豊橋まで出向き、天王寺から先の紀伊半島が一〇日間フリーになる﹁南近畿ワイド周遊券﹂を購
入。自宅を拠点に大学へ行く振りをして毎日旅に出たりと、大学生の立場をいいことに、逃避願望
を叶えるべく社会性のない五年間を過ごした。
人様に僅かながらの金銭を頂くようになってからは、
やがて会社という名の利益生産組織に属し、
決められた休みの日だけしか逃避することはないが、やはり平日の忙しい時に限って、今でも海が
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見たいという気持ちが抑えきれない。晴天の日はさらに増してくる。
仕事中でも堂々と海を感じられる鉄道がある。﹁ゆりかもめ﹂と東京臨海高速鉄道﹁り
そんな時、
んかい線﹂だ。
仕事上でも数ある訪問先の中で必ず落ち着ける会社が一カ所くらいはあって、その時だけはホッ
とできるのと同様に、この二路線は東京を業務移動するうえで、私にはなくてはならない精神安定
を図れる貴重なスポットなのである。しかも最近は臨海副都心への企業訪問や東京ビッグサイトで
のイベントなどで、利用する機会が度々訪れる。また、業務利用なので少々高い運賃もあまり気に
はならない。
ゆりかもめは、ほとんど知られてはいないが正式名称を東京臨海新交通臨海線と言う。新橋から
竹芝、日の出、芝浦と埠頭としてよく耳にする都心湾岸部を通り、レインボーブリッジを経てお台
場に入る。
お台場内の観光地や公共施設に立ち寄りながら、ビッグサ
イト最寄りの国際展示場正門駅から突如都心方面へと向きを
とよす
変える。テニス場で有名な有明から築地市場の移転が予定さ
れる新豊洲を通り、埋立地内をことごとくグルグルと廻りな
がら、最終的に地下鉄有楽町線が接続する豊洲へとたどり着
く。距離は一五キロほど。タイヤで走るミニ車両を連ねた﹁列
車﹂が専用の高架軌道上を自動運転で走り、どこか遊園地の
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乗り物のような感じもする。
東京都が主体の第三セクターとしては経営状態が良好なのだ
海部への企業進出が進み、
観光地化も図られたことによって、
がまだ荒れ地で何もなかった頃に計画されたが、その後に臨
交通機関として幾つか導入されている。ゆりかもめはお台場
立地や郊外のニュータウンなど、採算の厳しそうな新興地の
この手の乗り物は新交通システムと呼ばれ、地下鉄や一般
の鉄道を建設するよりはお金がかからないらしく、全国の埋
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という。
この新交通システムと呼ばれる乗り物が﹁鉄道﹂と呼べるかどうかはあやしいが、法律上は鉄道
に区分され、軌道上のタイヤが接する部分にはレールのような二本線も引かれている。何にせよ、
決められた場所を定期的に動いて、面白い景色が見えれば私はそれが鉄道ではないかと思ってい
る。
鉄道とバスの中間のような新交通﹁ゆりかもめ﹂は、新橋から乗ることは避け、利用客の少ない
江東区側の豊洲駅から乗ったほうが、じっくり車窓が楽しめる。ビッグサイトやお台場方面へ行く
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なら豊洲側のほうが時間も短縮できるので、言い訳にもなる。なにより、豊洲からの乗客はスーツ
姿の男性が大半だ。観光客が少ないので先頭車両の前面展望座席も低競争率である。
やはりこの日も展望席は空いており、ほくそ笑みたい気持ちを抑えつつ、いかにも業務然とした
厳粛な顔で、偶然を装い腰を下ろした。目の前にはカバーを被せた運転台があり、運転士になった
気分である。
豊洲を出発すると、不自然なほどに土色がむき出しになっている更地と、アスファルトで固めら
れた人工的な香りがする空地ばかりが広がっていく。遠くには時折、河口だか海だか分からない水
面も見える。少し離れた所にはレインボーブリッジも姿を現す。海の先には銀色に光る巨大ビル群
がそびえ、まるで香港島のような風景である。
列車が走っていくのはかつて豊洲埠頭と呼ばれた埋立地で、鉄鋼資材の積み下ろしが行われる埠
頭や鉄鋼工場、火力発電所があったという。近い未来に築地の東京都中央卸売市場がこの場所に移
転される予定になっており、その準備を進めている。時折、ショベルカーが穴を掘っていたり、青
いビニールで地面が覆われている。
臨海部の荒廃した未開発地を高架上から一望できるのは、非日常という意味で面白く、都心でこ
れだけの広い更地は他では見られない。開拓地のような光景である。近い将来には、この付近もお
台場のように華やかな場所なってしまうのだろうか。なにより土壌が有害物質で汚染されていると
しののめ
言われているのに、築地市場は移転してくる気なのだろうかと思う。
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賑やかになってきた。
列車は東雲運河を渡り有明地区に入った。途端に巨大な建築物が多くなり、
土地が余っているためか、巨人が無造作に建物を置いていったかのような豪快さを感じる。
豊洲から十分足らずで、東京ビッグサイトの最寄駅である国際展示場正門駅に到着。一旦、仕事
モードに逆戻りする。
業務を終えて、再び新橋行に乗車。ここからだと展望席に座るのは難しいが、ゆりかもめはクロ
スシートタイプの座席になっていて、車窓を眺めやすい。
左側に座り、荷物用クレーンが並ぶ倉庫群を眺めながらテレコムセンターという駅を出ると、船
ようていまる
の科学館に係留されている﹁J NR﹂の国鉄マークが付いた青函連絡船﹁羊蹄丸﹂が一瞬見える。
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私はしっかりと目に焼き付ける。
連絡船には乗ったことはないが、羊蹄丸が活躍していた頃は、広大な大地に幾多のディーゼル特
急や、自由席をいっぱい連結した夜汽車が走っていた。上野発の夜汽車で青森に着き、荷物を抱え
て青函連絡船に乗り込む。津軽海峡を越えて函館駅に降り立つと、長編成の長距離列車がずらりと
並んで待っていたに違いない。私にとっては古い時刻表の中だけの世界である。三十年くらい前の
北海道の鉄道風景を頭で描いていると、すべての過去が愛おしい気持ちにさえなってくる。
都内有数の観光地と化した著名テレビ局前駅で多くの観光客を乗せた後、いよいよ全長八〇〇
メートルの大吊橋、レインボーブリッジに挑む。二階建て構造となった橋の下部は、左右と上部が
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フェンスで囲まれて檻のよう。見通しはよくないが、窓からは木々が生い茂った小島の台場が少し
望める。海面に緑の無人島が浮かんでいる景色は、どこか心が和まされる。
最大の見所は、橋を渡っている間ではなく、そこから下りていく時、眼下で一気にはじける東京
湾の姿だ。
レインボーブリッジは海面約五〇メートルの場所に掛けられているため、列車はループを駆け上
がっていくのだが、新橋側へ下りる際に、金網や建築物に遮られないわずかな区間がある。
左右と眼下の三方に青い水面が現れ、飛行機の着陸時のごとく、波間に吸い込まれていくような
感覚に陥る。湾を航行するミニチュアのような大型船や停泊中の巡視船、コンテナを積み込む貨物
船、橋脚の下に浮かぶ緑の台場島、スモッグの彼方に消える海原が次々と目の中に飛び込んできて、
遠くの海を旅しているようで、日々の雑事すべてを海の底に沈めてしまいたくなる。晴天なら海と
空の蒼さが重なって、声でも出したくなるほどの爽快な気分だ。
ゆりかもめ最大のビューポイントである巨大吊橋を渡り終えた列車は、都心に入る。
車窓にはマンションと倉庫が続いていく。竹芝桟橋で小笠原や八丈島といった離島航路の案内文
字をあこがれの眼差しで眺めているうちに、汐留の高層ビルが迫ってきた。
巨人のような塔に、いつも飲み込まれてしまいそうな気になってくる。新橋駅から早く会社へ戻
らねば、という思いにさせられた。
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一方、もう一つの都心逃避スポットが、りんかい線である。
正式には東京臨海高速鉄道﹁りんかい線﹂といい、ゆりかもめ同様に、都心と臨海副都心と呼ば
れる埋立地を結ぶ目的で作られた東京都主体の第三セクター鉄道だ。
山手線の車庫がある品川区の大崎駅から、東京港下をトンネルで貫き、お台場や有明地区を経由
して、京葉線と地下鉄有楽町線が交わる新木場駅に至る約一二キロを結んでいる。
年は経営状態が良いようである。
袋、新宿、渋谷を通って直接お台場や有明へ行くことができるようになったこともあり、ここも近
一九九六年に
﹁臨海副都心線﹂の名で新木場側の旧貨物線のトンネルを転用した一部区間が開通。
その後二〇〇二年に大崎まで全通し、J R埼京線との相互乗り入れを開始した。川越や大宮から池
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りんかい線は、かつての京葉貨物線という千葉県臨海部と都心を結ぶバイパス線計画の建築物を
転用して建設されている。この貨物線の大半は京葉線として生まれ変わったが、都内の副都心埋立
地へ至る海底トンネルが使われずに残っており、それを一部活用して作った鉄道である。ゆえに大
半は﹁地下鉄﹂で、車窓が見られるのは全線一八分のうちわずか五分足らずだが、私はこの間の車
窓が好きでたまらない。
渋谷駅で十分ほど待って、J R埼京線から来たりんかい線直通の新木場行に乗った。直通列車は
一時間に三本ほどしかないが、原宿と目黒、五反田の三駅には停まらず、山手線の電車を追い抜き
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ながら走るので気分が良い。大崎で乗り換えをする面倒もない。
池袋から五分の一周ほどを山手線と伴走してきた列車は、大崎駅を出ると四角く口を開いた地下
トンネルにそのまま吸い込まれ、りんかい線に入る。車内放送の車掌の声が心なしか愛想がなくなっ
てんのうず
た程度で、まだJ R線に乗り続けているかのようだ。車両も埼京線のステンレスに緑のラインが入っ
た電車である。
王洲アイルと、その名だけは楽しそうに聞こえる横文字の新興駅を過ぎ、列
品川シーサイド、天
車は東京港を突っ切ってお台場に入ったが、地下なのでまったく実感はない。トンネル内のコンク
リートの継ぎ目や壁を這うケーブルが二本になったり、三本になったり、時折シュシュと空気音が
して弱々しい蛍光灯が目の前を過ぎていく。窓の変化はその程度である。ゆりかもめよりも速くて
便利だが、面白さは皆無である。
前駅の天王洲アイルからわずか三分でお台場内にある東京テレポート駅に着いた。三駅連続で横
文字が続いているのは、日本ではこの区間くらいではないだろうか。
ここはお台場観光の中心駅で、著名テレビ局や、大観覧車と商業施設が密集する﹁パレットタウ
ン﹂の最寄駅である。観光客風の乗客がほとんど下車し、暗い背広を着た私のようなビジネスマン
だけがとり残された。次の国際展示場駅で多くの背広族を降ろしたが、イベントの紙袋を下げた背
広族と入れ替わっただけであった。
次のお台場海浜公園駅を出ると、レールを打つ轟音がどこかに抜けるように小さくなっていき、
車内が一気に白くなった。長いトンネルを終えて地上に出る瞬間は、何か嫌な出来事を終えたよう
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にいつも嬉しくなる。車窓変化のない地下鉄の楽しみは、トンネルから抜け出す一瞬にあると思っ
ている。
列車が出た場所は、有明コロシアムの少し先の倉庫や工場が密集する東雲鉄鋼団地の中で、建物
群の向こうには東京湾が望める。左手に首都高湾岸線、右手には国道三五七号線と工業団地。右も
左も路上駐車の車が並んだ幅広の道路には、大型トラックと灰色の制服姿の労働者が行き交う。
私は右側の出入口ドアの握り棒を持ちながら真剣に車窓を眺めた。眼下には地方の幹線国道でよ
く見かける﹁宇佐美﹂と書かれた大きなガソリンスタンドもある。商業施設や住宅地がほとんど見
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えない乾いた雰囲気の中を列車は走っている。
こちらは日々の生活に根ざした無骨な海の風景がある。
ゆりかもめの華やいだ雰囲気に比べると、
物見遊山の一見者を寄せ付けないストイックさを漂わせる工業地帯の車窓が心地よい。貨物船に荷
積みしている様子まで見られればなお良いのだが、残念ながら車窓から埠頭までは見えない。それ
でも、鶴見線やかつての桜島線に乗っている時と同じように安らかな気分である。
私鉄の郊外駅といった感じがする高架駅の東雲を過ぎた。赤と白のクレーンが突き出す工業団地
の反対側には、大型マンションが次々と迫る。
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辰巳運河を越え、終点の新木場に近付くと、いつの間にか地下鉄有楽町線が左手から寄り添って
くることがある。
■指定券入手の苦労
第三章
水曜日、新しい旅の分岐点
今日も、有楽町線の電車が現れて併走してくれないかと期待し、注視していたのだが、現れては
くれなかった。
水曜日は週末の旅の分岐点となる日である。
月曜日の通勤時に私が計画を思い立ってから丸二日が経過した。未だ具体化がままならない。金
曜夜の夜行列車で出発するのなら、指定券の入手は今日を含めて残り二日間が勝負となる。
今朝も昼休みも、週末の夜行快速﹁ムーンライト﹂シリーズの指定券を一枚求めて、駅の指定券
販売機を計六回操作してみた。結果は軒並み×印である。この機械には○印を出す機能を備えてい
ないのではないか、と疑いたくもなるが、出発日を木曜日に変えると、すべて○印になった。正確
に動いているようである。単なる言いがかりであった。
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一日違うだけで、これほど楽に入手できるのなら、金曜日に有給休暇でも取りたい誘惑にかられ
てしまうが、私の残日数はゼロに近い。あるいは一息にクレジットカードを機械にさし込んで﹁土
日きっぷ﹂や﹁函館フリーきっぷ﹂でも買おうかとも思うのだが、来月以降に明細書が届いた時点
でひどい目に遭うことは容易に想像がつく。
に入れかかった幸せを直前で取り上げられて諦めるのは、容易ならざることである。
行った時より、中止に追い込まれた十回足らずのケースの方がなぜか鮮明に記憶している。一度手
そこまで無理をして旅行など行かなければ良いのではないか、と考えてはみるのだが、一度頭の
中で計画した旅を消すほど、苦しいことはない。これまで何百回と鉄道旅行に出てきたが、実際に
週末鉄道紀行
札幌行寝台特急﹁カシオペア﹂や﹁トワイライトエクスプレス﹂のスイートルームA寝台券を苦
心の末予約したのに、突然の仕事でキャンセルせざるを得なかったり、目の前でドアが閉まって乗
り過ごしてしまった類の悔しさである。
この本をお読みの有識諸氏にご指摘いただく前に明かすが、両列車とも上野や大阪で乗れなかっ
た場合でも、後続の新幹線や特急で追いつけることは事実である。ミステリー作品の主人公や犯人
の気分にはなれるかもしれないが、始発駅で乗り損ねた心傷は、追いついて乗ったところで癒すこ
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とは難しい。
本来、今日は指定券入手の絶好機のはずだ。金曜日から数えて出発二日前にあたり、指定券のキャ
ンセルが多い日と言われている。出発前日以降は、払戻手数料が購入金額の三割または最低三二〇
円以上に跳ね上がるからである。この法則によって、これまでトワイライトエクスプレスや北斗星
の個室寝台を幾度か手に入れたことがあった。
しかし、快速列車の指定席料金は五一〇円。払戻手数料は三二〇円で、一九〇円しか戻らない。
ゆえに払い戻さずにそのまま放っておく人も多いとみられる。全席売切の夜行快速に乗ると時折不
自然な空席があるのはそのためである。
払い戻しはこの有様なので、安い指定券に変更する人がいるかもしれない。変更は一回まで無料
だ。変更後の指定券の料金が安い場合は差額が返還される。例えば、北海道の﹁エアポート﹂とい
う快速列車の小人指定券は一五〇円である。通常の払戻手数料より一七〇円安い。私の家にはかつ
て仕事で乗れなかった特急寝台券の代わりに、﹁乗車変更﹂とスタンプされたエアポート号の小人
指定券が二枚ある。快速エアポートの乗客に少々後ろめたい気がして、以後は増やしていない。
今日の時点では、まだ﹁ムーンライト﹂シリーズの指定券を、﹁エアポート﹂号へ乗車変更する
ような小細工は行われていないようだ。そもそも、払戻金三六〇円のために乗車変更手続きの手間
を惜しまないような人は、指定券をネットオークションにでも出品しているだろう。
慌てても仕方がない。明日木曜日の前日キャンセルが出ることに、わずかな希望をつなげるしか
ないと思った。
■勝浦行の通勤快速電車
この日はめずらしく夕刻の早い時間に仕事を終えた。
外出先の大手町でそのまま拘束が解けた。自由の身である。私は夜の旅に出ることにした。週末
の旅がままならぬ不安と、仕事から解放された不思議な高揚感が入り混じって、そのまま家に帰り
たくない気がした。
東京駅へと歩きながら、鞄から携帯版の時刻表を取り出して、どこへ行こうか考えた。現在、時
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