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ETA ホフマンの 『イグナーツ・デナー』 における消失
Kobe University Repository : Kernel Title E.T.A. ホフマンの『イグナーツ・デナー』における消失 する境界線 : 表象としての"es"を手がかりに Author(s) 土屋, 邦子 Citation DA,10:3-17 Issue date 2014 Resource Type Departmental Bulletin Paper / 紀要論文 Resource Version publisher DOI URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81008753 Create Date: 2017-03-30 E .T.A. ホ フ マ ン の 『 イ グ ナ ー ツ ・ デ ナ ー 』 に お け る 消 失 す る 境 界 線 一表象としてのぷS“を手がかりに一 土屋 : 1 ' 1 ¥ 子 はじめに E .T .A ホフマン (ErnstTheodorAmadeusHotfmann,1776-1822) の作t R 1 に│ 刻 する従来の研 究では、変身や分身のモチーフに代表 されるように、ふたつの世界の対立と宥和l への試み について論証されたものが主流を 占めて きた。 1 しかし、ホフマン自身が作品の中で「阿者 の境目は、はっきり認、減していな 、 し J2と何度も強制しているよう に、彼にとって創作する l f lいは、どうすればふた つの世界の境問を読み手に意織 させずに、首l i 然一 体 │ 燃の基本的 なf とした物裕 世界 を生み出すことが できるかて'あ ったと 推療できる。 そこで本 論 では 、 区 ~J Ij のはっきりしないふたつの 世界、 すなわちホフマン独特の「幻視 者 (Gei s t e r s eher )J3 の見た加然一体とした世界に注目して、非人事1 ; 動詞の形式主加であ り 、 三 人物; 11' 性名詞の代名詞でもある "es“ l こ焦点を絞って、境界線の ì~í 去がどのようになさ れ て いるかを考察する 。 ホフマンの作品 l こは悲 ! 滋 (Teu f eJ )、サタン ( S a t a n )、成法 ( Zau b e r )、デーモン ( Damon) や露塊 ( G e i s t)、闘髭 ( Gespenst)、妖怪現象 ( Spuk) などのモチーフが消1 ちているだけでは れないデモーニッ・ンュな力に駆り 立てられ、 向分のな思に J 支し なく、登場人物が得体の知l 1!~ 意誠のうちに、とんでもないことをやらかしてしまうというシーンがよく出てくる 。 こ の「悲!底的な何かJとして表象さ れているも のが、ホフ 7 ンの作品 では " e s “という月来 で表 現されており、これはカイザーが『絵聞と文学におけるグロテスクなもの~ (D a sG / ' O l e s k e : 9 5 7) で指摘しているように行為の主体が特定でき S e i n eGesl a l l u n gi nMal e ' / e iundDi c h l u n g,1 ない、正 体不明の、不気味で不可解で:11 , 人間的な、 つま り幽髭現象的な何かの 日' , 1 ; ' .への「佼 J f I .の尻界線を消去するこ とになると与えられる。4 カ 入 Jを意味し 、この侵入がふたつの 世 イザーはさらに fグロテスタなものとは『非人称的なあるもの』の表現であり、心邸!瓜量 sf t e u tmich私は熔 しいーや自然現象的 な-esr eg n e t雨が│ 咋る、 e sb l i t z t稲 ! J d J (走る、 的な- e と並ぶ幽泌現象的 なエス ( Es) の衣 J 見である J' と述べて いる。 つまり 「 現実の 世界に居心 1Vg. lz .B.Hei nzPuknus :Dl I a l i s m l l sl I ndv e ' / . I 'l I c h l e路 町ohmm g .Ho J J i nann s抑 制 帰I l c nvom"Gol d n c n i s" Me i s l C / 'F l o h“ I n l e x l+k / ' i l i k.Hr s g.von H e i nzLudwigA r n o l d . MUnche n:E d i t i o n T o p f b t c x t +k r i t i k,1 992, [ Nr .3 .2 .] ,S .5 3 6 2 2E .T.A.Ho仔i nann:D i cAb c nl cl c rd e r今 I v e s l e r -Nac h l.I n・d e r s: .S o m l l i c h en 匂k ei l ls c c hs8ond e n Hr s g .vonH a r t m u tS t e i n e c k eundWul fS e g e b r e c h. tF r a n k f u r t / M :Deut s ch e rK l as si ke rVe r !ag, 1 993, Bd. 2 / 1 ,S .325 3E bd. 4W olfgangKays er :DasGrot e s k e:S e i n eG e s l al l l l n gi nM a l e / ' e ilIndD i c h l l l n g .OldcnburgundHambur g : G e r h a r dS t a l l i n g, 1 957, S.1 9 9. Ebd ι , 3 j 也の怒さを抱いている者は、世界に対する懐疑が般底にあるの で疎外感を務 らせやすい。 その疎外!惑が、自然現象や心理現象に 触 発されて 1!l~ )む織を掃さぶり、デーモンの~を {!? り て卜 1',',\' I":W に侵入する 。 それが 1~~ lM.現象的なエス (Es) である J 6 と白うのである。 ?! }体;の知 l れないものの侵入は『カロ胤幻位、作品集~ ( Fa n t a si e Sl i ic k ei nCal l Ol sM . 仰附, 1 81 4) よりも『夜来 作品集~ ( Nac h l s l uc k e,1 81 7 ) の方に顕著に凡られる 。 例 えば、 W l 沙i ! H (Oe' l San dl l lann,1 8 1 5 ) ならあたかも生きているかのような人形のオリンピア、 UÆ 肢~ ( Oasode HC/u s,1 8 1 7 ) なら生きて!fYJ き I.t\ しそうな絵、『石の 心臓~ ( Oass l e 川 町 即 He ' l z ,1 81 7 ) なら今に I l lが通いそうに見える石の心!搬などが、幽設現象的な何かの佼人として挙げら も ノ│ 三│殴かい I れる 。命のないはずのものに命があるように見せかけることこそ、そのよ うな佼人に他な らな い。 また、この侵入によって夜の │別に伐儲するものがろうそくの炎や月 明かりなどで !!日 らされ、昼 r: IJ は眼が充分出11 れ絞しんでいる対象物が、突然、奇 g~ で珍しいものに変貌し、 I l ! jには、 t 1れ る炎の中でよそよそしい外慨 を呈して │ 創鎚じみて凡えて くるのである 。 その ' H悩や葛藤が矯らめく炎に虫なり、つかみどころのないもの、不気味な"es“と して 背後には . t Zっている 。 このように『夜対作' , ' ; , , UUには人間の階部を!!告 らし 1 1すために、不思議な ( wunde r b ar ) ものと奇妙な ( s els am) もの、さらに不気味な ( unhei m l ich) ものとが、なん とも変な風 にからみ合った│止J f I . が 繰 り 返し t / l i かれているのである。 7 4zf命 では『夜jJt 作品 uu か ら 『イグナ ーツ ・ デナー~ ( 信na zOe nn e ' l ,1 81 6)を取り上げ る。 その |然、例入 の無意識レベノレで作動する欲望自体に光を当て、 "es“ を 下がかりに J1lW 車~の li~ 去がどのようになされているかを明らかにしたい。 この作品を選んだ耳目白は、敬度で忠実 な司itl玄兵アン ドレスと、 ~J鬼と契約を結び!鐙術を!駆使しí7.i.!l成の日íi として伐附な所業 をなす イグナーツ ・デナー(実は老ト ラパッキョの息、子)とい う対照的な 二人を主人公に して い ることと、風 │ こも文化も全く巡うふたつ の都市(ドイツのプノレダとイタリアのナポリ) を 郷台にしていることの 二点において、作品の枠組みとしてすでに具体的にふたつの世界 が 似示されて いるからである。 L ホフマン作品に見るくもうひとつの世界> ホフマン作品の受容においてよくいわれる くもうひと つの 世界 >8が どう い うものなの 6E b d . 71 百り下に月1 1 i tの説明やかl 作の意図を事i f 明かしさせる手法はホ フマンの常1 王手段である。! 日l えば m~段』のプロローグでは、エーパーハノレトの『類J定結論~ ( E b e ' l ha ' l l sミ Y l 1 onymik ,1 802) にも J F いであるから / J f Iき手も知っているはずだとして「理性によって依拠づけられない認、搬や欲望の表 l l i 併で 現をひっくるめて奇 妙なと 古うのに対して、不思議なとい うのは、人 々がありえないとかl きな いと凡なしている自然のよく知lられた力を越えたものなのだ。あるいは 1 ' 1然の通常'の道筋に 逆らうよ うなものを いうのだJと、号霊場人物に奇妙なものと不思議なものの区日1を知 らせた t で 双方の「恐 ろしく 微妙に入り混じ った 稲」を始めるとい う例目え になっている 。 Vg. l E.T .A 則。 I n:de r s . :S仰 げ/ i c heH匂 k e .Fr ank J l Ir t lM :De l l l s che rKl a s si k e rVer lag,1 992, Hoffmann:DasodeHa Bd. 2 / 1 , S .1 6 4 8 代J,<(J(J な論考 を 一 つ挙げると 、オ ッ ト ー ・ ランク は『分身ド ッ ベノレグンプJー ~( D剖 Doppelgängel', 1 91 2)で、ホフマンは分身 1 伴の古典的創造有で、彼の数ある作品の中でこのテーマを全く 1 1 青示し 4 か見ておこう 。 短縮『大 11毎日の夜の口 |倹~ ( Di eノ f be nl 印刷 d erSy l v 町l e r n a c hl ,1 81 5) は貞淑な 去 とtJ J い息子を 故郷のドイツに残して イタリアを訪れた 主人公エ ラスムスが 、 フィレ ンツ 燈医者ダペノレ トッ 卜の被造物である高級娼婦の魔女 ジュ リエッタに魅了され、 二人 ェてω態 1 の女 性 のr : J r で引き裂かれてしま い 、 ジュ リエシタに よって 自らの鋭像を管われてしまう 物 語である。 ; I t国の市民的秩序 と南国の誘惑という対立図式が l 際立つ作 I 県1であるが 、注目す べきは、ホフマンがこの作品 の初めと終わりで、 創 作の手の 内を明 らかにしていること で ある 。編者 の前口上 として 次のように述べら れ ている 。 ! i l l 幻想作 l払について諮られ 旅の途上にある熱烈な崇拝者の日記によれば、またもカロ J ているのであるが 、この男、どうや ら内而生活 と外部生活とをもうほとんど区別する ことができないようである 。 しかし 、親 愛 な る 読 者 よ 、 あ な た だ っ て そ ん な 監 旦 」 皇並区出注Lなどはは っきり認識し ていないの だか ら、多分この担盟主があな たを続 奇妙な得体 き守寄せ 、あなたは何時 の間にか見たこともな い魔法の図にい て、 この 闘の f れないものどもが他 ならぬあなたの外而生活に、当然のように踏み込んて‘きて、 の知 l きっと背からの古し 吻 lり合いのように、あなたと大変親しく付き合いをしたがるでし 下線は号 I n J者に よる) ょう 。 9 ( さらに迫仰 として次のように付け加 えられて いる 。 初、の人生にはあまりにもしばしば見知 lら/ l / ; ) .1 1 h、 力 ( ei nef r emdedun kl eMa cht ) がはっき 1 民りか ら至上の忍τを隠し取り ながら 、奇妙 な りと 目に見え、ずかずか入り込ん できて1 姿 の も の た ち (邑a rs el t s ameGes t al t en) を私の行く i 立にJ 1 j lL ./ : t Iしてくるのだ。 10 前 仁U=と迫イ 1 1 )から 、ホフマンは、熱が下がれば忘れてしまう 旅 の熱狂家のうわごとを維か が古き残したものである 、 と見せかけ て、高熱で うなさ れ怒'織が脱腕 とした l 瞬間に見た く もうひとつの I l ! :W >を、葬れが下がった H 寺、つまり迎性や合理!の支配する世界に戻った1 1 寺に、 l l i解可能 な物語に踊n i み直したのだ、と 創作の手の内を I y ' j かしてい 素早く追 体験 して他者 にl るのである 。 問機 のことは 、『 プランピラ王女 ~ ( P r i n 印 刷川 Bra l l lbi l l a,1 8 21 )でも言われてい [. .J 高揚した精神 の見る幻影が、 まさに 消え去って 無に帰そうと す るあ わやの│ 瞬間 る。 r にそれを引っ 捕 らえて 、造型する ことに成功した こと がないわけ ではなく 、読者も多分ご 自分の経験からそれはご承知l だろう が 、 この ような幻影を見ることので きる 幻視力を授か ないものは無 く、 多くの重要な文学作品 では分身そのものが 中心主組にな って いると述べて いる 。 つまり 、この分身こそが旅の熱狂家の幻想や主 r ! 想 、 の 世界の主人公であり 、くもうひとつの 世界〉 とは} i j'(の熱狂家の見た幻想、夢想の世界である。 E.T .A .I Io f f man n:D i eA b e n l e u e rde rS y l v e s l e rNachl .l n:d er s : .Sa l l 71 1 i c he We r k e . Fr a n kf u r t JM , 邑1 992, Bd. 2 1 1, S .325 Deut s che rKl a s si kerVer la 1 0 Eb d ., S.359 9 5 っている H 艮なら、必ずこの幻影を本当に人生のなかに透視していて、それゆえにこ そその 実在を信じるのであるん 11 またホフマンは くもうひとつの世界 >である惣像空間に堅固なリアリティーを付与する ために、尖イ王の街や普通の市民を克明に附 き、数々の生々しい具象イメージを導入してい 吹きと る。 そのために作品内では j n実、 L 佐怖とリアリズムという こ mのパース ベ クティヴ が相互に入れ主主わり、それが作品の'口絡をなしている。 2 . 三人称中性代名詞 ・非人称動翻 の形式主語と して の" 回 “ ぁ:~1t、て、作品の具体的な分析に入る前に "es“の表現の歴史について触れておく 。 "回“は 三 人称中性代名詞以外の用法では、非人称!f 9 J r.司の形式主語として用いられ、自然現象、状況 ・ 時l i i Iの経過、身体 ・心理状態や感覚の表現、 さらに主諮を 1 9 1俄にしない で出来事 を表わす 場合などに使用 される 。 ドイツ結表現で " e s “がどのように用いられてきたかを、本論に必要 と忠、われる範囲に絞り概観する。言語学的な観点からの考察ではないことを断っておく 。 Spra c hei nps yc hol o gi s c he rRu c k s i c h l,1 783) でカーノレ ・フ 「心理学的廊i!品、に法づく言語 J ( ィリッ プ ・モーリッツは「言諮そのものは人の心の刻印であり、人 間の心の内を忠実にtII i き出すことが可能であるため、心理学と深い│ 品l りを持つJ12 とb、う観点に立ち、「この分野 の研究には、とりわけ非人称!f 9 J l i 司がよさ検討材料になる Jと指摘している。 「例えば「 7 5が l ! ( lる ( esdonnert)J という訪を耳にした H寺,まず浮かぶのは '~~I!t:~そのものであり、この雷鳴 を起こした行為者が~fIであるかを IRJ うことは稀 である 。 非人称動詞を Hh 、るのは、これに よって表現される現象が、我々の身体ないし心による内的知覚の経路を通して感覚的に受 け止められ、その現象を起こした直接的な行為者が捉らえがたく " e s “でしか表現できな い場 e sdunktmichl と、私は考え る ( ichdenke ) を比 合 Jであり 13、「私には[…〕と思われる ( 般した時、 I I I i者が正確さを欠くあいまいな判断 を示すのに対し、後者は自己の意思が明礁 である J 14 と述べている。 この│刻辿を 山本は『カーノレ ・フィリッ プ ・モーリッツ』の中で 「非人称的表現は人間の; む、志によっては左右できない、あらゆる生命や自然現象を表象し ている」と まとめている。 15 さらに、ニーチェは 『 主主惑の彼岸~ ( J e ns e 山 ν onGulundBos e ,1886) で次のように述べて いる。 11 E .T .A.Hoffmann: P r i l 1 z 町s i nB r a m b i l l a .111:ders . :S oml / i c heWe r k e .F r a nk目u r t I M:Deu t s c h e rKla s si k e r Ve r l a g,1 985, B d .3, S .7 9 1 12 こ れに閲し てはパ ウノレも~ ~.符史 Jh\ J1J!~ ( Pr i l 1 z i p i e nde rS p r ac h g e s c h i c h l e .1 8 80)の中で「心理 的主総 ( d a sp s y c h o l o gi s che S u b j e k t)Jという 用符を徒唱して、「注意を向けさせようとする対象 e r m a l l l lP a u l:P r i l 1 z 抑制 d e l を強制する 心磁的 主詐tと非人柄、江抑制の関係 J を論じ てい る。 H やr o c h ge s c h i c h l e .Tubil 1g en:MaxNiemeyer ,1968, S.1 2 4. 一 ! 3 Ka 州r 吋I 附 Ph i 川 l i 仰 ppMor 山 : Ma 勾' g但a Z 川 I I 1目 Zu rβ E . ' 1 角 ' i 1 ル h 円 ,叩 1 1 d 岬 υ I m 1 g s 山 e . 伝 l e 此 l 1 山 k l l l 叫 N 吋 、 J 凸r 吋 ω 叫 di Ingen:肝 F = 守 r 悶a 剖 悶削 nzGr 問e 剖 附 叩 叫 n 1 @ 刊 1 5 Ebd iJ l 元締 二 『カーノレ ・ フィリップ ・ モーリジツ~ ).::~ ~~社、 2009 年、 25 3 点 参 !札 6 思想というものは くエ ス(それ) >が欲する 1寺にやってくるもので、 く自我(われ) 〉が欲する時にくるのではない。 したがって 主語 くわれ >が述語 く思う >の条件であ る、と主張するのは事実の歪 曲であるということだ。 つまり、それが思う ( e sd e n k t l のである 。 しかしこの くそれ ( e s) >を、ただちにあの古くて良く知られた くわれ >だ とみなすのは、控え目に言っても 一つの仮定一つの主張に過ぎな い。 まして直接的確 実性では決してない。要するに、この くそれが思う >ということさえ実は言 いすぎな e s ) >がすでに出来事の解釈を内容として含んでおり、出来事 のである。この くそれ ( そのものには属していないのである 。 16 デカ ノレ卜の「われ思う、ゆえにわれあり」の命題でよく知られる懐疑論の第一原理の隙立 e sd e n k t)Jと表記することで、文の主語に自 我 と して に対して、ニーチェは「それが思う ( の くわれ〉の代わりに非人称動詞の形式主語くそれ ( e s ) >を持 ち出し、形而上学批判の文 Jll~で自我の自明性そのものを否定したのである。この点に 関し てフロイ 卜は「 ニーチェは われわれのありかたにおいて非人称的なもの、いわば自然必然的なも のをくエス>と い う 、 ニーチェの論考がグ ロデック 文法的な表現で│ 呼ぶのを常としていた J 17 と主娠してお り 糾1分析理論の礎となったことは充分に考えられる 。 やフロイトに大きな影紗を及ぼし、粁i 心身 医学の父といわれるグロデッグは、 精神分析の泊1 1 始者フロイ卜の強い t W Jめで『エス の本ー ある女友達への 精神分析学的な 手紙~ ( DasBuchVOIl1Es: P . そy choa 叩 I y t i s c h eB r i 宅f 仰 eme Fr el l n d i n ,1 9 2 3) を著した。 この女友達とはフロイ卜に他ならないとされ、 i 1 1 8 彼も そこで J IJf~ される く エス > の存在を認め 、同年『自我と エス~ ( Das/chundd a sEs ,1 9 2 3 )を発表した。 精神分析の重要な概念である くエス>の起源につ いては諸説あるが 、今 日では、名前l 化さ れた エス ( d a sEs)はグロデッグのオリジナノレだと考えられている。 19 その由来を彼は『エ スの本』の中で、ゲーテの 中核思想「紳 なる自然 ( G o t tNatur)J20 から者想を得たと明か し 、 くエ ス 〉をニーチェの魁性批判の思位、 を背景に、 個 における主体の問題、生命 、 自然 というそれぞれのレベルにおいて考察し、生命現象すべてを司る存在であるとしたのであ ^。21 w 1 6F r ie d ri c hNi e t z s ch e :J e n s e i t sv o nG u tundBo s e ;Zu rGene , αl o g i ed erMoral .I n :N i e t z s c hef I 旬k e Be r l i n:W a l t e rdeGr u yt e r ,1 9 6 8, Ab. t6, B d .2, S. 2 5.ニーチェは小文字で " e s “と表記している。大文 字で "ES“と表記したグロ デッ夕、フロ イト、カイザーのようにそれをあえて名洞化し、さらに 高 官 官i hを股 1 ) : 1するな図のなかったことがうかがえる。 1 7S igml l n dFr e ld :J e n s ei l sd 凸 , Ll I s l p r i n z ψs ;Masse np . ¥ y c ho l o g i elIn d/ c h An a l y s e ;Das/ c hlIl1dd a sEs I n :d e rs . : G出 G川 m e l l e仲' e r k e. F r a 叫< f l lrt/M:F is che r ,1 999,Bd.1 3, S .2 5 1 1 8 野1 : [ 1俊一 『エスとの対話』新l 曜社、 2002年 、 6頁参照。 1 9 木村敏「エスにつ いてープロイ ト・グロデシタ ・ブーパー ・ハイデガー ・グァイツゼッカー」、 『木村敏著作集 7 臨床哲学論文J I U 弘文干上、 2005年 、 343 ・ 374頁参照。 2 0G eorgGroddeck: Da sBlIc hν 0 1 1 1ゐ P s y c h o a n al yl i s c h eBri , , 舟ane i ne} 可e L l l 1d i l 7 .F r a n k f lrt/M:F i s c h e r , 1 979, S .2 3 5 21 野 !日l 、i1í1掲 j~} 、 306・308 頁参照。 7 一方、フロイ卜は身体組織か ら発生する本能的欲求の無意識的衣現を "Es “とl 呼び22、 そ J ; l) l 1 1 に従い、 れをどんな組織も持たず、混沌としており、全体的意思も示さず、ただ快感 J !!l(な織的 であり、現実 mU[11 を 無視 し、白抜 的 または |州史的な方法 Uil~ 状]形成や外信)によ って満足 を求めるものであるとした。 23 4皮 は『快!~原則の彼岸~ ( Je n s e 山:d e sL川 I p川 n z i p s,1 920 ) の c~, で f Es における祁ー i品れには 論理的 J U 、考方法は通用せず、 " ' ¥ ' 1 1 ' 1 1 観念に中 ' 1 1 当するものは何もなく、社会' l I ( J { II j値 を' 1 ! HRすと h ' ' l l l Y J とな って 説れ、快楽駅員1 1 に支配 I ( J 欲求のエネノレギーであり、それは i i f t i i f Y J、欲動、 本 能( 糸 口1 1 を修正し、現尖の月l.Hi I I を受け入れ、現 されている」と述べている。 24 ちなみに、快楽j 二~と折り合いをつけて人絡の公定を創fj 持する心理過程の原理!は、現実原則と 呼 ばれている 。 さらに、 11主は「快楽j京!'III の支配が 1!t~JJ: Jf&過程では持続していることは、成人 f最も 4J\ 空1:1:\、 白昼夢、遊戯、機知などの ' 1 ]で快感JJ)UI [ I に支配される 心理過緩からも分かる J と指摘して J が 、 いる 。おつまり、願望や欲llY l l kも手 J j 1V、発防であるJJt':や幻覚という]杉で同生産される とすうのである 。 ホフマンの作品においては、似体の ~tlれない内而にうごめく何かが "es“ lこ 絡め ll~ られて、 |当分ででも 説明の つかないことをやらかしてしまう人 物像 をこの よS“ から彫 琢し、ホフマン作 l f bの典型的な } fJJ}人物である f } ,氏の熱狂家」を生み 1 : ¥ し、結果的に それ ; U:r.tとなっていると言える 。 が彼の摘くパラレノレワーノレドの W 『絵 l 面と文学におけるグロテスクなもの』でグロテスク論を展開したカイザーは、ホフ マンを始めとするロマン主義以降の多くの芸術家の作品を" e s “を月干し、て分析している 。カイ ザーは「人は死の不安よりも生の不安を感じた H寺に、現実世界 への疎外感を捗らせるもの だ」と述べ、 1行事 l ' の危機が訴えられる俊市 j~1 には決まってグロテスクな芸術が ー |止 を風加 するとして、グロテスクなものを次のように定議している。 すなわちグロテスクなものは 包情的な術進として疎外された|止JfI.であり、不可解な、 ~ I' 人事:1 ; 的な あるもの(エス)の表 現である 。 それは 、 気まぐれに不合 ~1 な ものをもてあそぶ遊戯 で:,y) り、この l!l: においてデ モーニシ、ンュなものを 1 呼び出 しつつ追い払ういわば1 1 7 被いの試みである 。 このデモーニッ シュなや ,[ かで表象されているものこそが " es “であり、行為の主体が特定できない、 1 巨体不明 の、不気味で不可 角平 で ~ I三 人 |制的 な、つまり f ,坐l 益現象 的 J な 何 かを衣現している、とカイ ザーは主仮している。 この指摘は、本論で扱 う『イグナーツ ・デナー』がもともと W l l t i 区 1 2 Vg . lFreud, a .a .0 ., S .2 51 .W自干上とエス』 の L J 'でプロイトは「自我と陵絞きでありながら無意 滅的な仮る郷し、をする心的なものを、グロデックのJrj認を借りてエスと 1 1 手ぶことにした b、」と述 べて いる。 2J Vg . lEb d. ,S .25 1 つまり、フロイトは "Es“を !!l~ 立織とし、う極所論に組み込んでし まったために " e s “が多lJIの意味を持ち、あらゆる実態に普遍的に存在して相互に彩轡を与え合い、自然Jji.の諸 : : 1 叫勿の;V J 織を可能にするものであるという点を J 1落としていたのである。このことが 、その後の E s “の起源とプライオリティーの│ 制組 とともに、その概念が 'li:)'に般論のがJ に 料利分析学において " される足~r';1 である 。 24 Vg. lEb d. , S .2 8. f 25 r快感 Jj~.( 則IJ 、「現実原則 IJ はフロイトが判事l ' 分析:l!Jl,沿に おけるエネノレギー経済愉1下J 凡 J也 から仮 定した心的機能を支配する こ つの以JlII をいう 。 氏応TJ!他編集『 心:l!J1臨床大 J lj. gl!,~ ~::\")瓜館、 ' 1 三 、9 71瓦参照。 8 1 992 兵一幽 益 物話~ ( De rRe ν l e l ] α' ge r-S p l l k g酎 c h i c h le ) とb、うタイトノレで出版 されることになっ ていたことをJ!fえると大変興味深い。 3 . Wイ グナーツ ・デナー』における " e s " 『イグナーツ ・デナー』は二郎併成にな って おり、 前半は、 フノレダの外れの森に住む猟 区兵アン ドレス・家が 、デナーが率いる総1 1 世団にy$き込まれ破滅に追い込まれてし 、 く物話 1 土 は 、ナ ポリに伐さ れた宗教J 品判所の記似によ って 、イグナーツ ・デナーの数奇な で、後 ' i 運命が 1 9 1らかにされると い うものである。凶作品のあ らすじは以下のよ うにまとめら れる。 、 アンドレスは領 主のお供 でナポ リに行った時、百:Ul世に狙われたが、命懸けて側主を寸2り その俊夫に術の .j~ f;t:ジョノ レ ジーナとのがi~\~ を J~・されて フ ルダに述れて川る 。 しかし、気候、 胤ヒの逃いと 1 m 慢の疲労で 1 5は衰弱しきってしまう 。そこへデナーが行商人の姿で現れ、 nl 復させる。 小関から 取り / 1¥ し た終でジョノレジーナ をI 長V Jが 9ヵnになった H、 寺 デナーが再来し Fどもをくれと哀願するが 2人は峻但した。2 年後、デナーは俗福な小作人の夜終になかば合迫 (~J にアンドレスを 加 担させる 。 さらに、 2 年後には次 V Jが誕生し、その直後に決定的 な 可1 f .{ ' 1 ニが起きる。 i f ! l 主の創l i が時 1 1}'、放火され、 制 Eも惨殺されてしまったのである。 この1 1 j ¥、ア ン ドレスはジヨ/レ ジー ナの養父か らの i l d 践を受け取りに、フランクフル トに U W' Jきフノレグを留守にしていたのだが、 , ' I r . 件 のγ ' i ; 謀者 にされてしまう 。デナーは Jr i守宅に大挙して押 しかけ、次男を虐殺し,心臓を切り 聞き、 I I l を抜き 1 &る。 しかし紡 ) " 1は、デナーがフノレグとナポリを行き来しながら数々の忠行を働 い ていたことが吋 l 司に館凡し、 一 l 床共々収監 され、公開処刑後に死体はがLかれることにな る。 先と ¥ ¥ f l k f jを結ん で デナーは、アンドレスが残断な拷 / 1 ¥ 1を受けているのを見て観念し、!i!I:1 いたことまでtJJ L Iしたので、ナポリか ら宗教裁判所の記録が取り 号 寄せ られ た。 そこには 卜 1 説傑と恐怖 に満ちた災様な出来事が E記録されていた。 ラパジキョ ー肢のなした、数々のI アンドレスは約 l 年 11日 の 収監後、 ~! I 'l が:1íE19 1 されて釈放される 。 が、直後にジョノレジー ナが萎えるようにして死んで し、 く 。 アンドレスは、ある日、牢~,主にいるはずのデナーが 1腕 のl rJ で瀕死の状態でもが いているところを 、デナーとは分か らず通りすがりに助けてしま い、家に辿れて削 る。 この H寺初めて、デナーが「ジョルジーナの父である j と告白する 。 l この小説はプノレダとナポ リを舞台 にして いるの で、ここで、ホ フマンとイタ リアと の│ 具 係を簡単に凡ておきたい。 後 J UI ロマン波以降世紀!伝換期│ に至るまでのドイツ文学には、イ タリアの風 t ゃJ 信史 と1 1M 妾な関りを持つ作品が多く凡られ、芸術家法のイタリア滞在体験 2 6 {刈えばシュタイネ yケはこの物符の紹介を次のように始めている。 「多くの怪淡物 J I fの要請号、 険制、 J 暗l f 司、紋人 、人身御供、品i i 1 事;めいたセレモ ニ一 、火の l t i fl : 去 、 l 翻彼現象、数々 主り 拠幣、 l , のイ川 然の ' I~ f'lー などのありそうにもな いあり とあら ゆる製紫からな って いる 。 何 よりもアンドレス は 、 他の『夜米作品集』 の中の どの人物よりも、 J iも得体の知れない、不合JlliでJ . t ¥ i" ' I ' ( 1 1な! ! ! ( I 抵の 力によ って孤立無径の状態に委ねられている。 L.lしかし、これらの夜的な要素がエンターテ e i ne c k e:Di eKW1SIde rF a l l l a s i e . イメ ン トとサス ペンスの要素をもたらして いる のだん HartmutSt εT .A.Ho f f mann sLe b e nltl7dHセr k e .F r a n k J u r l1M:I ns el ,2004,S. 293 9 が作風に色濃 く反映 されている 。ホフマンも、またイタリアに終生強い悩 1 1 ; tを胞 きながら、 也を踏むことはなかった。 にもかかわらず、彼 の作品 にはイタリアに │ 刻するモ ついに その j チーフが繰り返し井川、 られている。彼にと って イタリ アは、 何 よりも 芸術の I J l I を 意味し て いた。例 えば W GIlI"r のジェズイッ 卜 教会 ~ ( Di eJe s! li t e r k i r c hei nG,1 81 6 )や『クレス ペノレ顧 問 也~ ( RatKr e s pe l ,1 81 9) では、絵繭と音楽の図として拙かれている 。が 、 このふたつの物 却の結米が示して いる ように 、芸術の国イタリアは、病気や死と分かちがたく結びついて いる 。『砂 YHでは、イタリア人の 11 , ' r,布市売りと物磁!学者である教授が狂気と 死 をもたらす。 『廃屋~ ( Dasod eHa!ls ,1 81 7) もイタリア人に小さな丸し、手鏡を民 ったことから物誌が始ま ,日常 j をもたらすものの象徴とな って る。 このように 、ホフ マンにとってイタリアはけ 1 ' 1 らの空想の産物 をイ タリアの光と j 彩に還元したと言えるだろう 。『大│晦 I iの佼の 口 おり 、 1 │ 倹』は主人公がフイレンツェに行ったばかりに、 二人の女性の 聞に引き裂かれ鋭似を容わ れる請で、イタ リ アは自我に分裂をもたら し 分 身 を生み 出す 空 間 として、非日 ~:;:; を 体験 す る場 として使われていることが分かる 。 また 、アン ドレスはナポリでジョノレジーナと 出会 い、 五Dli泌 さ れおli 帰 と い う Jf手で彼女 を ~!T JN か ら 放出 することになるが、 J~ 方を変 えればこの 前'fÞ\Í'は彼女に誘惑された ~Ji 栄と読むことも可能であり、ナ ポ リに く 間同 の 誘惑 > と い う~~: l 床 も付与ーされていると 解釈できる。 Iiに眼を │ 向けると、アン ドレスと ナポ リ出身のその安ジョノレジー 次に主な登場人物の名古I ナと長刀ゲオノレタは名だけで外:がなく、さらに 9 ヶ月で祖父デナーに惨殺される次男には 寺、現実に存在したと思われる等身大の一家版として 名すら与えられていない。彼 らは当 H 、 子 トラバッキョには、姓だけでそれぞれに名は 拙かれているが 、老 トラパ ッキョ とその,g やl けられていな い。彼らは家族としての体をなさず、子どもは妖術を伝達する 道具 に過 ぎ I J " には、 ないのである。しかし、 旅の防人 を装い呉邦人 としてフノレダとナポリを行き来するI 息子の トラパッキョ には、作品のタイ ト ノ レにもなっている「イグナーツ ・デナー」 とい う フルネーム が与えられている 。 そのな , *につ いては次誌で詳述する 。 3 .1 .妄惣への入り口 ・心理現象と しての " e s " 以 |久 作品に添 って 心 J~H 現象と自然現象、時の経過そし て 知覚、感覚、 1!lt j低減という 観 l UJ、 ら 、 " e s “がどのように現実と非現実の境界線を消去して いるのかを考察する。 アン ドレス 一 家は頻発 す る 密猟や ì~.伐のため食街と悲惨を極めてし、 く 。 気候 風 土の溢い と1¥ i!sの疲労で衰弱 してしまった妻、ンヨ ノ レ ジーナのために 、下{ 業が フノレダに民 l 十l しに L l : ¥ か けた問守 に次のような 出来事が起こる 。 Dah 凸r teAndr e saufe inmal ~( 1 )vorde m Haus eda he rs ch r ei t e n, wi emens ch l ic heFu 日t r i t t e .Er gl au b te, ~( 2)wa r ede rz u r uc kk e hr endeKne ch t,une r a ch t e te ri h nn ic h ts of T U herwar tenkon n t e , a berd ieHundes pr ang enhe r ausundbel l t e nhef ¥i g .f u( 3 )must eti旦 Fre旦昼~ s ei n. Andr e sgi ng ,ha g er e rMa nne n t g e g en,i n gr a ue m Ma n tel ,d ie s el b s tvord ieTu r:dat r a tihmei nl a nger 1 0 2 7 Rei s emut z et iefi nsGesi c h tge d r uck . t 1 ¥1 の足音のようなもの (1 ) が、向こうから家の方に │ 向 寺、アンドレスは 、突然人 1 この H かつて来るのを耳にした。もし かした ら、その足音 ( 2 ) はこんなに早く 仰 って来ると は忠われなかったが、 使j 干 l 人のものかもしれないと沼、った。だが 、犬が飛び出し てい き激しく l 吠え立てたので、それ ( 3)はきっと見知らぬ人に迷いないと思い直;して、 戸 口に1 Uてみると、 一人の背の 目玉 し 、やせた男がこちらへ近付 し 、 て来るところであった。 その男は灰色のマン トを身に付け旅行用の相子を目 深に被っていた。 アンドレスは人間の足音らしいものを 聞 b 、 たが 、その音の正体は不 Y I i で気のせいかも しれ ないという 心理 が (J ) て寸/ I i写さ れ 、 ( 2) では、もしかし たら F 倹かもしれないとしづ半信 半疑の 心持 ちがうかがえる。しかし 、犬が激しく l 吠え立てるので 、その 足音 らしきものは 3)に逃いないと 硝倍する。疑念、疑惑 をl 呼ぶあい まいな表現が頻繁に使われ、 凡知 らぬ人 ( E この総晦ぶりが 、 どこまでが現実でどこ か らが妄相かわからない不気味 さをかもし 出 して いると 言えるだろう 。 e i nFremder) と して、それ も貧相な旅の行 アンドレスの前に初めてデナーが 見知 らぬ人 ( 商人の姿で現れ、彼らに 三つの頼みごとをする 。年に 二巨! 、行聞の途中 二、三泊させても らうこと 、小函の保管、そして、特に最近このあたりの森には.i?i.世 l !団が跳梁隙思して物騒 であるから、 街道 まで道案内 してほ しいと 言うのである。この道案内は実は、後にアンド レスを盗賊団に引き入れ、金持ちの俊民、さらには伯爵家を 鈍 うための伏線であることが 徐々に 明 らかにさ れる。 デナーそのものをぷS“と表致することで 、得体の知l れない存在 であることが表現される 。 凡知らぬ人の登場とは、 似れ親 しんで いない ものがアンドレスの日 常 へ侵入す ることを ~:、 l 床 し、この見知 らぬ人は アンド レスを彼の目指'から疎外させ、現実と妄惣の境界線上 に ; 誘 いI I : lす。境界線上 でどj税者 となったアン ドレスの 見たもうひとつ 世界 、妄先日、物語がここか ら始まるのである。 3. 2 . 共鳴する 心理現象と自然現象の "e s " 境界線上に立たされ幻視者となったアン ドレスには世界がどのように見えたのだ ろうか、 次の 引 m は、ジョノレジーナの f l j l l J I ニ を係り切り、 デナーに強要 され陰鯵で荒涼とした森の1 [ " を案内する シーンである 。 : >H ie ri s t~ ( 4) n ich tg eh e l l e r<( , s p r a c hAndres, s pa n n t edenHa hns ei ne rBus ch el In ds chl 'i t t 山denbeda ch t igvord ell1 f r ell1denKauf l l 1a nnh e r .Of ¥war~ ( 5) i h l l 1,a l sr a ls che~ m i tde nH、 ( 6) i nde nBa l l menundbal del 'b l ic k tee ri n . de rF e r n ef i ns t r eGest al t e n,d i egl e ic hwi e deri n . t I n: d e r s .: Sa mll i che" " 匂k e.Fr a n k f u r t I M・Deu ts ch e rK la ss i ke rVer la g, 1 992, Bd. 2 1 1, S .5 2 以下この作品からの号 │ 用はI gna zDe nn e lと略記する。 2 7 E. T .A.HofIl l 1a nn:旨11GZD白 川 町 1 1 28 dem Gebus chver s chw anden 「このあたりは物騒なんて‘すよ ( 4) J と言いながらアン ドレスは、銃の幣 f O<を起こし、 火と 一緒に慎重な足取り で見知 らぬ附人 の前 になって歩 いて行った。似 には 、 しばし ば木立の 中でが さが さと い うもの背 ( 6 ) がするような気がした ( 5) 。が 、 まも なく泣 くの方に真っ黒な~が い くつも 見 えた か と 思 うと、それはすくイ紫みの 'i J に ìì~ えた 。 もの 1 rの正体はデナー率いる . W o i J I 車問一 l 床のものだろうと H 音示さ れ るが、この時点ではまだ I~ I 般 にさ れず 、ぼやかして疑いがは っ きりと 解け ない工夫がなされている 。 まず 、木 立の なかでがさがさという 管 を何度も │ 測 し 、たように思う ( O f twa re sihm,al sr als chee si n de n t r eGes t al t en) とぷ記 saume n) とぷS“を用い 、つづいて具体的にい くつかの政.つ 熱 な 姿 (日ns J t i lとl 偲党 による認織の 混乱 を禾1 1 mし して、不気味 さをよ り強制し ていること が分かる 。 t 呼び起 こさ せる表現である。 風雨や) 孔 の背に過剰 に反応 した感党が つつ、 一磁 の共感党を 1 1!tttlff訟を 触発し、幻 聴や幻視を活性化 さ せ、 安組の}~'iにし てしまうと い う成り行きは、現 実 |止JfI. に 疎外J惑 を 抱き不 安定な 心耳目 状態にある人 間 によく見られる~象 で 、ホ フマンの 作 品を J . ' . t く ラ イ トモチーフとして繰り 返し J f J 、 し られ ている 。 カイザーは この凱象を q疑似 f E 気 ( q l la siWahns i n n)Jとl 呼び、 これらの人にあ っては人間的 なものが不気味なもの として現 れ、あたかもあるもの ( E s ) が、つまり米知 l の非人 間的な袋が魂に釆り移 った かのよう で ある」と述べて いる。 さらに 「自然現象や人 I I l Iの前 ! f i j J そして無意識はし、ずれも "CS“で衣象さ れた lI~i に、その効果を 般大限 に発事Ilするものである J 2 9と強制 して いることは注 円に1 1 1 ' [する 。 孔の夜ふけ、 一大1]]件が起 こる。 デナーがアン ドレスの前に現われてから 3年目の秋のj アン ドレスは、デナーから金持ちの小作人 の夜襲に参加するよう強要された。 その H キr M か抗し、がた い力 ( wi evQnwieunwider s t e h l i c h e rMacht)J30 に駆り立て られ て、負傷したデナ ーを助け て しまう 。 しかし、これは前哨戦に過 ぎず吏なる大事件が起 こる 。デナー斗旬、る 総賊 111 が {1'll'l'H巨を |鴨緑した後、火を放ち 11'1 1W!を 1~ 容してしまったのてーある 。 3 . 3 .心理現象、自然現象に触発 された無意織の "CS“ ナポリの記録には、テデ,ナ一の仏 出i 生の品庇E にまつわる事 剣錬|巨: 金術師、晃耳目立献いの術師、 m~誕百m愁 自ifi などという数々の呉綴な 1~1 と ともに 、 ある す I C件の一部始終が詳述 され ていた。それはあ る時 、 一度に大勢のi! U突が老ト ラバッキ ョから手に入れた楽を H 日用後、 急死したというものである 。 宗教裁判所が、右ト ラバッキ 箆が結託して いる ことを 1 i J ; !ぎl l j ( り; 捌ベを始めようとするが、その矢先に │ 凶作の裁判 ョと 恐1 所が彼 と召 使 の老女を l収~してし まう 。 老婆は老 ト ラパッキョの 製造 した 俗泌を 小函 に 入 れて売りさばいて いたのだ。 二人には火刑 の判決が下された。 "E b d ., S. 60 . 2 9 Ka y se r , a .a .0 ., S .1 9 8 3 0 I~I 分の行為の様拠を説 明 できな い という 無能 さの表現と読める 。 が、 また fi!t. j) の文学 的 表象 とも 解釈できるだろ う。 E. T .A.Ho t f ma nn, a . a . 0. ,S .69 12 一方フノレダでは、 , . WU I! (に狙 われ因鈎 を緩 めていくアン ドレス 一家の悲惨で陰惨と した 日 常 にトラパッキョという 偲倣上 の *'í'~'~ な人物 を 配 して別次 元の物認が 紡 ぎ 1-1\ されている 。 3 1 フノレネームを持つイグナーツ ・ デナーただ一 人 が ナ ポ リ とフノレダを 自 I:~I に往来することが でき、 彼 にはふたつの 日t界 の jJ~ Jfi.総 を 消 去する 役割 が 担 わさ れて い ることが分かる 。 ところで、この作品においてフルダとナポ リにはどう い う意味が付与さ れ ているのだろ 4 4年に他殺された修道院 を 0 : 1 ] 心に うか。フ/レダは、知ボエプアティウスの弟子によって 、7 発展した主教 f l ¥ l r i として知lられる 。 健気で敬 j 長な事i i 区兵アン ドレスはこのフノレダ l 也)Jにあ る荒涼とした 山林に住んでいる 。一方、ギリシャの勉民都市 として 山発したナポ リは、ゲ ーテの『イタリア紀行~ Ul ol i e n i s c heRe i s e ,1 81 7) によると 、「さまざまな氏族が行き来する 地中 海の中で、とりわけ 風光 明断 で lr.U!愛で怒 らしやす い ために、 代 々 ~'HíHの -1:によって支 配され、持取される絶'1 1 と諭念、と主主従だけの都 市 となっていく 。 人口過剰で 、 物騒で秋斤・ が1 来たれることはがとしてなく 、夜はー稀 ' J 9 1い者 、一帯感賢 い者が我が物顔に係る 郷 う! ! 1 ¥i & 小 説 の ~!ri;'干にふさわしし、 J , fj ¥d ' i なのである。 32 だ、からこそ 、 この地で ドク ト ノレ・トラパジ キョの l 鼠術に郎きがかかるという 仕掛、 けが さi 三きてくる 。すなわち『イグナーツ ・デナー』 においてはフノレダとナポリという 対比の妙が生む効果が段大│ 岐に発怖 され、それぞれの地 1 1 び、 さらに 、アン ドレスとデナーと い うこ人の対照的 な 名が持つイメージ以上の意味を f 人物像に、その新たなな l床 が投J;~ されていると言えるだろう 。 二人の人物像の愉郭がぼやけ、JJtJ f i .線 上で府和 していくシーン、つまり心理 I ! 現欽と 当 │然 I51 J F 1する 。 現象、そして無意識が締然一 体 となり担'tJ f i . 線が消失して U、く場而をもう 一節目f 頻死の状態でもがいているデナーを 、アン ドレスはまた今回 もなぜか通 りがか 脱獄し射でi りに助けてしまい、家につれて 仰 って 必死で看病 してやる。 次のシーンは、デナーがアン ドレスにジョルジーナの父であると 打 ち明け 「 わたしを 倣度なるキリス ト教徒 として1 ' 1 ' ' と 和解させて死なせてくれ け と哀願す るので、毎晩二人でお祈り をすることにしたある夜 の1¥ 来市である。 : ) Got t los erTr aba c ch io, ver r ucht e r色虫記 Dub i s t~ ( 7) , d e rh i e rhol l is chen. s 且 虫t r ei b t !Was 一般に『カロ J i l . ¥幻忽作品集』以後の作品に、心理的現象へのホフマンの執心が顕務に凡 られる。たとえば『プランピラモ女』の「ほら 、お客さん、あなた方は皆そうなんだ。E 江 1 が正気、 1 可が丈夫で准り阿っている 1 1は、自分の手でっかめるものしか f f lじない。ところが村仲なり肉 体 なりが消化しきれない具物に突き当たって吃終仰天すると、今度は差し 出されるものなら何でも、 ガツガツ手を伸ばすJ というくだりは、 アン ドレスがデナーに巻き込まれていく 粉t ' i ' ( I J (肉体的 経過に重なり、主体をなくした人 n が 阿の前の対象物に巻き込ま れていく心耳1 1 を揃写して いると .T .A.Ho f l ' l 1 1a nn:p川 z e s si n8 1印 l b i l l o .I n :d e r s S a m l l i c heft匂 k e .F r a n k f l l r t / M:D e l l t s c he . いえる。 E Kl as si kerVe r la g,1 985, Bd.3, S .786 J2具体的な紀述を 2 -3'持げると、ゲーテによ ればナポリでは「あらゆる欠乏を忍ぶという彼ら の恨本原則は、あらゆるものを与える気候によって擁護されている 」、「 単に生活せんがためでは なく、享楽せんがために働いており、 ' ) J O 働 している時でも享楽しようとしている j、r ( I ' / 侶は何ら ことをせずに安楽な生活を送っており、上流の人身はその財産をただ官能的快楽や鎖沢な装いや he:/ l a l i e n i s cheRe i s e .I n:So m l l i c he 気附らしのみに川いている J のである。JohannWolfgangGoet b 均r k e .Fr an k f u r t ! M:DeU ls cherKl a s si k e rVe r lag ,1 993, Bd.1 5 1 1, S. 360仁 3 1 , 守 1 3 wils tduvonm i r ?Heb ed i c hweg,dennduha stkei neMachtu b e rmich'-hebed i c hweg! <( - Sor i e fAndresm i ts t ar k e rStimme!Dal a ch t e~ ( 8) h o h n is chd l l r chda sZimmerh i n,I I n d s chl lgwiem i ts chwar z enF i t t i g e na nd asF e n s t e r .Unddochwar~ ( 9) n l l rd e rRe g e n, d e ra n d a s Fens t e rge s c hl a g e n,I I n dd e rH e r b s t w i n d,d e rd u r c hd a sZimmerg e h ell t ,wi eT r a b a c c i o l l 1e in t ea l sd asUnwesenw i e d e re i n m a lr e ch ta r gwarundGeorgv o rAng stw e i n t eH , f ! 先 制I者 、 トラパッキョよ、縦揺非道な恐 1 Mめ 1 ここにまで来て怨ろしい妖怪じみた 仮る型!f.v 、 に及ぶとは、お前がその張本人だな ( 7) !この私をどうしよ うって言うのか。 消えうせろ !もうお前には、私をどうこうするカなどありゃしないのだから !さっさ と消えうせろ リ アンドレスは戸にカを込めてこう IUI びた てた 。 するとこの lI~í 、部屋 の中を馴り笑うような声 ( 8) が突き抜けていき、黒い攻、で窓を激しく叩くような音が した。 しかし、それは トラパッキョが言うように 、ただ雨が窓に激しく吹き付ける背 ( 9)でしかなかったのである。 さらに、 部屋の 中をうなりながら l 吹き抜けたのは秋の I ! i ¥ ¥だった。 その形なき g 9 1恭な騒がし さがまたも 一段と激しくな ったI l i f 、ついに、グオ ノレクが不安のあまり泣き 出し てしまった。 ( 7)は意味的には i j i i 文の極恕非道な思! 彪 ( v e r r u c h t e rS a t a n)指すが、)(法的には d e r以下の |品l係文を指している 。 続いて、 fif~ が笑っているのか分からないが 棚 笑 ( 8) が突き抜けて行 くように│ 淵こえた。 が、それは秋の J l ¥に来って慾を 叩きつける雨の音 ( 9)が部屋の中を吹 き抜けて行 ったのだと 秘明かしされる 。 これは一種の幽君 主 現象で、自然現象が不安のため に 刺激 に敏感になっている人 111J の感覚をより先鋭化 させ、~!\\意識 を隠さぶり、その結果ア ン ドレスには幻聴と して噺笑が 1 mこえてきたのだと 解釈 できる 。 ないものがあるように思 われるのは、自然現象と共 I!!:~ した↑!?切j の嬬れに 、抑圧 されていた 無詰・ífft\!の発銀がおこり " e s “の勢! 戒が強烈になり幽訟を相起させたのである 。 このシーンは、 二人の主人公アン ドレ スとデナーが、 決定的な腕1 1 ) 1に決:A:! I ( Jなやり方で 係 をよく示 しており、表部的に は反発しあうように凡 街桜に絡み合 って しまう共依存の │ 品l えても、お互いがそれぞれの存在を ~!lt 視 できない 椛成になっていることが分かる 。そ れは アン ドレスの次のような行動にも見て取れる。 小作人を襲撃した H 寺、足に致命傷 を負って V J けなくなったデナーを、 何か抗いがた いカに駆り 立てられ府に担いで逃亡したり 34 、デ ! f ナーが淵の中で瀕死の状態でもがし、ているところを、デナーとは分からず通りすがりに助 の位│ 併は同等 であり、 けてしまったりするシーンである 。 35 すなわち、 二人の内奥の術切J その術!f Y J i ! f t :の波形も同じであり、反発 しあうのはベクト ルの│ 古l きが巡うに過ぎないと 言 え J 係 にあり、デナーにまつわる トラバッキョ父子の物。 訴は、 る。二人は写真のポジとネガのI.l!i アン ドレスの妄総であるとも考えられる 。そ れは、 アン ドレスの委ジヨ/レジ ーナは 、デナ ーの娘で、あり、アン ドレスとデナーは、ジョルジ ーナを 中心 とした 三角関係とい う形で符 g' i r o AU E O 03 AU 1 , , , ー 暗。 2 90 即6 l DSS ヲ .,, a 3 4 5 333 WE bb 匂E E 14 僚に絡みついていることからも分かる。 二人の同類1 3 、織は、ジヨノレジーナに与えられた「小 函」がさらに強固にしており、表現型は n反対であるが 、人絡の核をなす部分、つまり 情 動 の 的~tが黙 って いると解釈できる 。 ゲオノレクは子ど もの直感で " e s “の不気味さと、恐怖 を予知して泣き出したに逃いない。と 言 うのは 、 この直後ト ラバッキヨ父子に殺容を企てられるからである 。官 民 地 を継いだ伯悶 の甥は、 フノ レ ダの森で起きたこれら 一連の出来事を記録し、城の公文書館に保管させた。 物話はここで終 る。 3. 4 . r 小函 J と"e s “ アンドレスが受 け取 った小函には誘惑の楽である脱法の飲み物と金銀の 宝飾品 のような、 人間の本能 を刺激 し情欲を起こさせるものがぎっしり詰まっている 。 この小{却を預かった ばかりにアンドレスの運命が狂い出す。 「 不正な財産を平にするぐらいなら、むしろ空腹に 苦しむほうがまだましだと主仮するような健気で倣度な男であ った から、どのような誘惑 服務を忠実に勇敢に WJ め上げていた J36 アンドレスが、内なる良心の にも 抵抗し、自分の l t 7とは袋版な行動に出 て しまっ たのである。 r ¥ 1といわれるナポリ出身のデナーが持ち込んだ小函には、人 間の本問1 : を象徴す る 前}務 の者 ものが浴れるほど入 って いる。 ここでいう本性 とは、フロイ 卜が" es “と呼んだ人 1 ' 1 ¥ ' 1 のm l性 で はf J i l倒l 不能な伏楽原則l に支配されているがI かである 。 フロ イトは「川 小 / l 卜 、 紡 紡i 選謹びのモ チ一フ J ( 0 . α ω sMoμ I t νd 必' e rK4 α 多J 川 l 1され、女性における本質的な ものを象徴し、女性そのものであり、 それは巨匠む女、性 レ ジー 的な対象となる女 、破君事する女 である J37 と述べて いる。 これはアンドレスがジヨ ノ ナと I U会い、子どもをもう け、身の破滅に追い詰め られる直前に彼女と死別する経過に重 なる 。 小函 には生の 欲[f~J にも死の欲即j にも つ ながるものが入 って おり、 エロスとタナ トス の象徴とな っているので ある。 Bezi ehung sk is t e )J とい う表 さらに、ビーダーマンによると ドイ ツ諸闘では「 関係 の箱 ( m v、られているが、これは秘密にすべきことや私的 l 常生活の 中で驚くほど頻繁 l こ 現が、 f な事柄を含め、 二人の人 │ 剖の附に生じる │ 刻係全 体を指す表現であるとされている 。 38 この ように小函 が使われた作 品と して 『 マ ドモワゼ/レ ・ ド・ スキュデリ~ ( Da sFrau l ei nv onSc ud e r i , 1 8 1 9 ) を挙げることができる 。 この 作品は見知 らぬ!I~が突 然真夜中に、小紛i をスキュデ リ 般に預けに来るところから始まる。『 イ グナーツ ・デナー』においては、小聞はアンドレス とジ ヨ / レ ジーナ、ジョノレジーナとデナ一 、そ して アン ドレスとデナ一、さ らに、デナーと 父トラバジキョと い う、複雑な結びつきの象徴であり、 また 共犯 │ 刻係を象徴す る役 目も但 3 6E bd. ;S .51 3 7S igml l n dF r el l d:Da sMol ivde rKa s l c he nwah . lI n:Da sUnl 附 m li c he ;Aψ. a t z ez u rL i t e r a t u. rF ra n . k J u r t 1 M :Fi s che r ,1 963, S .21 3 8 ハンス ・ピーダーマン『図説 世界 ‘ンンボノレ事典~ j j ; 車 代幸一欧修、八反官房、2007年 、 31 6 頁参照。 1 5 っているのである 。 務 担 芸 f r を 迎い払い、我が家か ら; Jl l を│ 徐くために 、 イ" 1が 「ねにはよく分かつております。 i 私の似jめであるか使命であるか J39というアンドレスの&後の独 自は、「ト ラバッキョの小 閑をI J f Jきもせずに 、そのまま 深い谷 J g ;に役げ姶てる (nahmTrabacchio' sKis t c henl In dwa r 包2 ( I O ), ohne! l ] i( 1 1) Zl 1凸f f nen, i nei net ie f esergschl l lch. t)J行#)につながり、災いをもたらし 煽を 断固処分すること で欲出と i 副長に決心をつけたと 言える 。 しかし、それだけでは た小 l 0)、 ( 1 1)のよS“は、文法的には Trabacchio' sKis t chenを指すが 、 "es“で凶き換 える ない。 (1 ことによって立 ' J . l , 的 に はそれ以上のものにな って いる のである 。 つま り、併てたのはただ の小 l 勾でなく、 小函て 、象徴され るものすべてのもの 、W ' I えば内なるテ'モーニジ‘ンュなもの、 人 1I 1 に疎外感 を起こさせるグロテスクで不気味で奇妙で得体の),, 1 れ ないもの、本能や欲望 ' , I ' f ! V J、自分 を誘惑して追を誤らせるそれらすべてを捨てたのである。 にまつわる t エピ ローグ 「 アン ドレスは周託の 1 ! 慢、 し 朗 らかな老後を楽しみ、どのよ うな 敵刻 する ノJに 0 :1 *し、小闘が も倣城されることは無か った のである J40 は、w.が生まれ変わったことを : 「死と 再生」のシンボノレにな って いる こと が分かる 。さら に、引用 (1 0)、 (1 1)で 1 > > 1らかな ように、 小函という固有名前を mv 、るよりも よ “でi 泣き換 えた方が、より淡い多必的 な物 J l T │ 止 界 を生み I : Uしていることも見て 取れる 。 S 4 'ちなみに、函に象徴的な意味 をJ1!わせる必裂 42 43 、 し られている。 st en や、女性名詞の Kis t e が月j の無い シーンでは、男性名前│ の Ka おわりに 『仮公作品集』 には、本; t f uで扱 った『イグナーツ ・デナー』の他に 7 制が収め られてお 1 ¥ 1のデモーニツ、ンュな附 t { : i ) に焦点が当 てら れ ている。 り州、どの作品にも陰惨で妖気保う人 1 この人 |制 のデモーニシシュな IIJ~官 11 がどのように表象されているかを考察する ために 、 まず 、 ホフ マン作品独特 の 「幻視者」の凡たふた つ の世界について分析 した。 それはリ アノレな射 実 lJl芥 と、ロマン派 的 怪奇さを 備 えた mJJ~ 尖 I'I(J な妄f,fll比JJI- である 。 そして 、 11 Jj) 人物が、 ある H キは現実 世 J J I -にいるかと j Eえば、次 の,} , J j而 では芸5 1 目、世界 にいるというシーンが、 何度 も繰返 される複雑 な構成になっているが 、読み手に i 主和感は ほとんどない。 それは、読み 手に 、ふたつの世界の越境が、何時 どの時点 でなさ れたのかを感じさせない附写の工夫に あると考えられる。本論では『イグナーツ ・デナー』の 中でよS“が多用されていることに沌 │ 守し て、その工夫がどのようになされているかを考察した。結論とし て次の ことがコえる。 この作品においては、 "es“が、択のわからないデモーニッシュなノ]に駆り立てられ、自分 39 I gna zDenner , S.1 09 40 Ebd 41 木作 IWrl:I: 1 には|羽を意味する 111 誌が雌~UJ するが、下記の註 42 および註 43 で/f\した 2 箇所以外 は、すべて 田、 でi l lき換え可能な中十1 , 名澗の Kistchen並びに Ka st c hen1 , 使J Iされている。 42 I gna zDenn el ;S .81 4J E bd. , S .93 4" W 砂9 H、『 ; J i 版 』 、 W GIIITのジェズイ y ト教会』 、 Wi止襲倣~ (DasMajoraf,1817)、『皮j 丞』、『サ ンタ トウス~ ( Da sSancf L / s,1 81 7)、『石の心臓』の 7縦であ る。 1 6 の ,U : , 1 2 .に反し無意臓のうちにとんでもな いことをやらかしてしまうという 、主人公を併か す : I ! . ¥ g 道的な作I かの登場するシーンを、ごく 自然に衣脱することを 可能にしている。同時に、 "es“ の使 JTI は行為の主体が 特 定できない、 ~~ト{本 の 知れ ない正体不 明 の、不気 味 で不 , if!伴 な r l狙 ι射線的」な何かの A~!;~.への侵入をi&:fJI.する5;;!J J;IHr.J な手法になっており、この人 !l rJ:(7-1'E を 作かす倣源的 なものの F I; o j r ;への侵入が、ふたつの 世界 の境界線 をI I ' j去し 、ホフマン独特の 不気味な │ 止 界 を生み出し ている。 J j , 以七の深い さらに、モチーフやシンボノ レ を" e s “に位き 換 えることによって、字} 量 的な : 0 ;I 物 ;t.t f詮! 1/ rJ の 1I.'i 写が 可能 になっている。 例 えば 、 アン ド レスが 、 !ß~ き 物 が綜ちたように 思い 切って「トラパッキョの 小 闘を I J f lきもせずに、そのまま深い谷底に投げ総てる ( nahm o h n ee sZl IO仔 I 1e n,i ne i n et i e f eB e r g s chl l c h t lJ以後のシーンに T r a b a c c h i o' sK is t c h e nu n dw a r fe s, i ' t1 1 すると、次のように考えら れる。 災いをもたらした小函を断悶処分する ことで、 欲望i と, J iJ燐に決析をつけただけではなく 、ここに凡 られる I l “ は文法的には 丁 目b a c c h i o' sK i s t c he n e s を析すが、 " e s “でi 泣き換えることによって怠味的にはそれ以上のものになって いるのである。 恰てたのはただの小闘でなく 、小園で象徴 され るすべて のも の、つまり 、内 なるデモーニ / : 1に疎外l 惑を起 こさ せ るグロテスクで不気味で合唱 妙で斜体の知れないも ッシュなもの、 人 1 の、本能や欲望に まつわる 村t f ! Y J 、自分を誘惑 してi l lを誤らせ るそれらすべてであると言え 副長のシーンで繰返される " e s “は、それまでに作品中 に、非人. f f J ; j f Y J, l i l の形式主 s活と る。この j して頗 IJI した "es“ と 二重写しとなり、 ~tH本 の Ãll れないものの存在を |旅立たせ、ホフマン作品 独特の現実と空忽が i l f !然一体 となった不気味な 世界 を生成することに寄与しているのであ る。 17