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イスラエルの種まきと中国の種まき

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イスラエルの種まきと中国の種まき
イスラエルの種まきと中国の種まき
旧約単篇
詩篇の福音
イスラエルの種まきと中国の種まき
詩篇 126:1-6
「イスラエルの種まきと中国の種まき」と申しましても、中国の種まきの
方は 7 年住んでいても自分では見たことはありませんので、これは比較論で
はありません。この 126 篇の特に最後の 4 行から 5 行はよく知られていまし
て「種を携え、涙を流して出て行く者は、……」というところ、これはイエ
スが語られた種まきの譬えと結び付けて、御言葉の種をまく労苦の涙と受け
止められることがあります。種を携え、涙を流して出で行く者が、やがてそ
の労が報いられて束を携え喜びの声を上げて帰ってくる……と解釈しますと、
福音を伝える人には大きな励ましと慰めになります。
ご存知の聖歌 322 番、「まけやたねをあしたはやく」3 節はそういうイン
スピレーションから作詞されたものだと思います。「種携え涙流し出で行け
ども、帰るとき抱えきれぬ束のゆえに喜びもて神を褒めん……」多くの人に
勇気を与えた歌ですし、詩篇のこの 4 行をそういう意味に適用しても原作の
趣旨をひどく曲げたことにはならないと思いますから、今学期のテーマとテ
キストは、一クッションおいて美しくつながっています。
もっともこれを、「どんなに辛くても今しっかり種を蒔けば、いつか報い
られる。ガンバレ!」というように pathetic な意味にとりますと、これはこ
の詩の文脈とは無縁で、そちらはむしろ第1コリント書 15 章の末尾などから、
それも悲壮な顔をしないでサラリと扱うのが良いのでしょう。
「主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決
して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」
(1コリント 15:58)
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イスラエルの種まきと中国の種まき
さて、詩は 3 節と 4 節の間で分けられて、前半は喜びの記憶を呼び戻す部
分、後半はあの喜びをもう一度という切なる祈りになっています。
1.主のお力を見た者の喜び
:1-3.
1.主がシオンの繁栄を回復されたとき、われらは夢みる者のようであった。
2.その時われらの口は笑いで満たされ、われらの舌は喜びの声で満たされ
た。その時「主は彼らのために大いなる事をなされた」と言った者が、もろ
もろの国民の中にあった。
3.主はわれらのために大いなる事をなされたので、われらは喜んだ。
こういう経験があなたにはおありでしょうか。あるとすれば何でしょうか。
結局その事柄の質によって結論が違ってまいります。作者は主が大いなるこ
とを成されたと言います。主がシオンの繁栄を回復された。しかもそれを見
て周りの信仰とは無縁の民族までが驚きの目でわれらを見た。それだけでは
ない我々自身、夢ではないかと思った。「笑いが止まらなかった」に相当す
るような言い方がヘブライ語にもあるのです。
この全民族の大歓喜が何であったか、バビロンの強制労働からの解放か、
エルサレムへの帰還かと見る人が多いですが断定はできません。飢饉か悪疫
か、外国軍の侵入包囲か……そういうこともあったでしょう。とにかくあの
時は絶望で死ぬはずだったと思えたのが、奇跡的に一転して救いとなった。
夢なら覚めてくれるなと思った。笑いが止まらず大声で叫ぶのを自分で抑え
られなかった。でも、さすがは詩篇作者です。あれは幸運でも成功でもない。
主の御手による主の業であった……。というのが前半の中心点です。
2.主の力をもう一度……祈りと幻
:4-6.
4.主よ、どうか、われらの繁栄を、ネゲブの川のように回復してください。
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イスラエルの種まきと中国の種まき
5.涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。
6.種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰っ
てくるであろう。
1 行目は「主よもう一度あの喜びを」というのですから、現状はおそらく
不幸と悲惨、行き詰まりと絶望でしょうか、少なくとも不安と落ち込みの底
にあるのでしょう。でもその中で不満が愚痴と呪いに終わらず、祈りと希望
に向かうのですが、その希望の踏み台になっているのがかつてのシオンの繁
栄です。ちなみにシオンはエルサレムのユダヤ神殿のあった丘の名前ですか
ら、神を信じて仰ぐ人のシンボルと見てよいでしょう。そのシオンの繁栄が
再び回復される時のことが二つの象徴的な絵で描かれます。
まず、ネゲブの川ですが、日本語では何の連想もわかないでしょうが、ネ
ゲブはイスラエル南部の砂漠地帯です。ヨルダンの谷とシナイ半島の間がネ
ゲブで、その中心はアブラハムの物語に出てくるベエル・シェバです。「川」
と訳していますが、“river”ではなく
qypia'
というのは年中を通してほとん
ど干上がっている涸れ谷です。空っぽの乾いた川床ですが、あの国ではそこに何
が起こるかというと、ごく短い雨季だけ豪雨が降って鉄砲水が流れるのです。す
ごい勢いで泥と一緒にワーッとやって来る。つまりネゲブの涸れ谷のように今は
カラカラでも神の恵みにより突然大水がドバーッと激しく溢れる。それと同じよ
うな力を神に委ねて待とう。……譬えのスケールが大きいというか豪快ですね。
最後の 4 行は、「あの時の我らの繁栄を回復してください。かつて国土は豊か
で収穫は敵に奪われたりしなかった時代、種をまけばいつも刈取りを喜ぶことが
できた時代、あの喜びと繁栄を回復してください」という趣旨です。でも、この
最後の 4 行の種まきの絵には実は分からない部分もあります。
種まきの労働自体が涙を流すほど辛いという表現は、ユダヤの文学にはあまり
見られません。特にこの「涙を流して」と訳すところ、「悲しいのをグッとこら
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えて」というのではなく直訳すると「声を上げて泣きながら」なのですが……
これは中近東やエジプトの習慣にあって、種を蒔くときには弔いの歌を歌った
そうです。エジプトではモーツァルトのオペラに出てくるオシリスの神を土中に
葬って、それが春に復活するというので、オシリス埋葬の挽歌を歌いながら種を
蒔いた。ギリシャ神話の方はアドニスとなります。もっとも唯一神を信じるユダ
ヤ人ですから、アドニスやオシリスの復活を本気では信じなかったでしょう。で
も習慣として種を蒔くときには、嬉しいではなく悲しい歌を歌いながらやった方
が実りが豊かになるという俗信はユダヤ人も周囲から受けて持っていたらしい
と旧約学者たちは書いています。
ですからここは、涙を流すほどの辛い種蒔きということではなく、「挽歌を歌
って蒔いた種が喜びの収穫をもたらすように」と一クッション置いた比喩になっ
ているわけです。ここは、時代考証なしに読むとおかしいですね。
「今は絶望・悲惨と見える現状の中で主に信頼をおいて与えられた勤めを果た
せ。やがて主がネゲブの涸れ谷に奔流を起こされるのを待て、投げ出したりする
な、自分を呪ったりすればおしまいだが、仮に弔いの歌の種まきのように見えて
も主の手に委ねて今この勤めを果たしていることが、やがて来る喜びの下準備に
なる。だって、我々にはあの時のシオンの繁栄の記憶が生きているではないか。」
という詩です。
3.中国への種まきを垣間見る。
中国への種まきといいますと御言葉の種まきですが、「命の水計画」……
団体で観光旅行を装って、大量の聖書を持ち込む運動です。そのほか中国人
の亡命希望者への支援をされている方たちもおられます。それは、50 年後・
100 年後に実るのでしょうか。ひょっとして、ロシアで起こったようにアッ
という間に開かれて、5 年もたたないうちに宣教師の誰かが日本の仕事をた
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たんで、北京か上海へ移るのでしょうか。
神戸で元々台湾から日本に定住した華僑の人たちを牧会されてきた友人の
牧師は、今は北京や上海からの留学生のお世話を使命として考えておられま
す。「その人たち自身が種だ」という説教も先日うかがいました。私は彼の
招きでその教会で説教をさせていただきました。序論の中で先ず私は日本人
として、中国に少年時代を過ごしたものとして、過去の侵略戦争に関しては
中国の皆さんにお詫び申し上げねばならないと正直に申しました。天皇のお
言葉を先取りして 1 週間早く行ったのは少し気になりましたが……
マルコ 4 章から、主が嵐を鎮めてパニックの弟子たちに信頼を教えるとこ
ろをテキストに話しました。その説教での結びの部分を読みます。
「私が今まで一番不安に戦いたのは、自分の国と自分の家族を離れて外国
で一人暮らしをした時です。1962 年のキューバ危機の時、私はたまたまギリ
シャのアテネに留学しておりました。ギリシャ人の学生やアラブの学生と一
緒に神学部の学生寮にいたのです。その年フルシチョフはキューバにミサイ
ル基地を作り、それに補給しようとしてソ連海軍に護衛させた輸送船団を送
りました。ケネディーはソ連が船を戻さねば核ミサイルのボタンを押すと宣
言しました。それは、第三次世界大戦のまさに瀬戸際でした。―日曜日の
NHK の番組「10 月の悪夢 1962 年キューバ危機・戦慄への記録・核戦争への
綱引き」ご覧になった方もあるでしょう。―ヨーロッパの人たちは戦争で国
土が焦土になるのを何度も経験していましたから、今度こそ終わりが来るの
かという危機感に怯えました。明日という日は無いかもしれない。私自身留
学生として、国を離れた遠い地で戦争に巻き込まれて、ここでこのまま核兵
器で焼かれる……という思いが、「主が一緒にいて下さる」ということさえ
一瞬忘れさせて、不安の底に落ちました。今でも思い出しますが、その日私
は、アテネの町中のある食堂の前で羊の丸焼きを作る料理人の作業を立って
見ていました。ギリシャ人は羊の内臓を抜いたものを鉄の串に刺して丸ごと
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機械でグルグル回しながら焼くのですが、『明日は私もあれと同じになるの
か』……そう思いながら、焦げた丸焼きの羊に自分の運命を見ていました。
外国に一人で住んでいて足元が危ない不安感は恐らく皆さんの方がよくご
存知でしょう。ここには中国本土から来ていらっしゃる方もあり、台湾から
おいでの方もありましょう。わたくしも 46 年前に着の身着のままコロ島の港
から船に乗って帰国する途中、言いようのない不安に襲われました。私の国
はいったいどうなったのか、これからどちらの方向に進むのか、日本には未
来はあるのか? …… でも皆さん主はこの船に乗っておられるのです。私と
いう小さな船にもおられて嵐を支配されるだけではなく、この日本という船
にも皆さんのお国中国という船にもやはり乗っておられて、神の意図される
歴史の目標に向かって着実に船を進めておられるのです。これはイエス・キ
リストを信じ合う物に与えられた特権と洞察です。いや、世界という舟全体
が天の父のお定めになったコースを完成に向かって突き進んでいるのです。
何よりこの世界歴史という舟にイエスが同船しておられるということ、いや
これはイエスの舟なのです。マタイ福音書の最後にある主のお言葉をご記憶
でしょうか。ガリラヤの山の上で主は弟子たちに言われました。
『わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』
英訳はここのところ“to the end of the age”です。この“end”は日本語
では「終わり」と訳しますが、マタイが使ったギリシャ語の単語
は「終わり」というよりも、「仕上げ」つまり“finish”「完成」意味する
言葉なのです。イエスは今のこの時間と世界の完成まで私たちと一緒にいて
下さいます。
その時まで、中国をも日本をも御旨に従って完成なさるその時まで、主を
信じるものと共にいつもいて下さるのです。今のあなたのお国がどんなに矛
盾と苦難に満ちていてもです。」
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イスラエルの種まきと中国の種まき
これで、中国の方々への励ましになったかどうか? 私なりに努力してお話
してきました。
(1992/10/28-OBS チャペル)
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