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中部学院大学・中部学院短期大学部 研究紀要第 号( ) 「ハンセン病隔離政策の被害」 論 ―ハンナ・アーレントの所説にてらして― On the Nature of the “Total Life Damage” Caused by the National Policy of Segregation for the Hansen’s Disease 窪 田 暁 子 Kyoko KUBOTA ハンセン病隔離政策は、 ハンセン病患者をすべて、 その生涯にわたって隔離して他人との接触を絶ち、 子孫をつく らせず、 その継続によってハンセン病を 「根絶」 させようとする極めて日本的なものであった。 この法律の違憲性を 訴え、 国による賠償をもとめた訴訟が、 熊本地裁に提起され、 勝訴した。 本論文では裁判の経過のなかで明らかになっ た 「人生被害」 の質を焦点に、 これをハンナ・アーレントの提起する 「人類に対する罪」 の概念にてらして改めて論 じた。 人権についての思想性を養うこと及び、 共生の概念とそれにつながる社会行動の重要性に論及して結びとした。 キーワード:ハンセン病隔離政策、 ハンセン病違憲国賠裁判、 ジェノサイト、 人生被害、 福祉の思想、 はじめに ―研究の背景と研究の意義 マン―悪の陳腐さについての報告」 に記されているとこ ろを中心に参照した。 まず強制隔離政策のもたらした被害について述べ、 そ ハンセン病強制隔政策は、 ハンセン病に対する誤った れがアーレントのいう 「人類に対する罪」 であることを 認識 (感染力の強さおよび治療の不可能性) を前提とし 論じる。 つづいて、 そのような全体主義的な罪が、 現代 て、 年から 年に到る 年の長きにわたって継続 社会においては、 普通の人間の、 この世界で当面してい された。 療養所への完全隔離を内容とするこの政策は、 る 「職務」 における忠実さや、 人並みの出世願望や、 上 国際的な批判の対象とされながら、 収容者の退所をみと 司への誠実さといった事柄の集積、 また絡み合いとして めず、 子孫をつくらせず、 その意味でもきわめて日本的 現象することを論じるアーレントの所説にふれ、 現代社 な政策であった。 その被害の深さを明らかにしたのが、 会では、 個人の担う部分的な職務の、 より広い視点に立っ 平成 年 月熊本地裁の判決に至るハンセン病違憲国賠 ての吟味が求められるべきこと、 特にそれを共同で、 開 裁判である。 本小論は、 この裁判の結果を生かし、 今後 かれた場で論じあうことの意味につなぎたい。 同時に、 同様の問題を引きおこさないための教訓を探る作業のひ 組織の一員としての個人が示すわずかの共感と相互理解、 とつとして、 隔離政策のもたらした 「被害」 の質はどの また寛容のもたらす可能性にもふれておきたいと考える。 ようなものであったか、 さらにそのような、 医学的に不 紙面の制限から、 後半部分についての資料による補強は 合理、 かつ人権を極端に無視した政策が何ゆえあれほど 次号にゆずることとなるが、 本号でも部分的に扱ってお の長きに渡って継続したのか、 という二点について、 考 きたいと考える。 察しようとするものである。 考察の観点を定めるにあたっ て、 ハンナ・アーレント 「イェルサレムのアイヒマン― )1 に示唆を求めた。 悪の陳腐さにつての報告」 ( ハンナ・アーレント ( ∼ 1. 「人生被害」 ということ ―犀川一夫証言及び判決文から ハンセン病違憲国賠訴訟弁護団がまとめた著書 「開か ) は、 ドイツ系ユダ ヤ人としてハノーバー近郊に生まれ、 年アメリカに れた扉」 ( )2 は、 年 月 日に行われた犀川一 亡命した政治哲学者。 その緻密な考察の多面的な内容に 夫の証言について語り、 それが実に重い意味を持ってい ついて筆者はこれを論じる力を全く持たない。 ただ、 政 たことを論じている。 「人生被害」の証言という小見出し 治における全体主義の悪と、 それを担う人間の問題につ に用いられた、 この象徴的な言葉は、 犀川証言が弁護団 いての思索に触発される思想家たちは多いことを知るの にとって、 その眼を開かせる類のものであったことを思 みであるが、 今回は 年刊の 「イェルサレムのアイヒ わせる3。 ― 49 ― 研究紀要 第9号 犀川一夫は、 年東京生まれ。 年長島愛生園の 医師になり、 ハンセン病の薬物治療に大きな貢献をし、 個々人による相違があったとしても全体として均一のも のとみなすことができる点を強調して次のように述べる。 年、 絶対隔離政策に疑問を抱いて長島愛生園を退職、 すなわち、 「その現れはそれぞれの被害者によって幾分 台湾でハンセン病の外来治療に携わる。 国際会議への出 異なるものの、 均一に社会から切り離され、 収容所へと 席、 WHO太平洋地域らい専門官、 琉球政府らい専門官 隔離され、 苛烈な療養所での生活を強いられて今に至っ の立場に相応しい広い視野と学識を持ち、 沖縄復帰後は ており、 その人格、 人間としての尊厳を徹底的に破壊さ 沖縄愛楽園の園長も勤めた。 その犀川が日本のハンセン れたという点において、 被害は共通しており、 その深刻 病政策は、 根絶をめざした収容に終始していたことを断 さ、 重大さにおいて異なるところはない。」 (第 章第5) 言した証言は、 裁判官の心証に大きな影響を与えたとい また、 被害の累積性については、 「原告らに対する加害 4 行為は、 単に収容という措置の時点にとどまらない。 ― 犀川は証言のなかで、 療養所にはいるということは、 中略―子孫を残すことすら許されず死に絶えることを待 生活のすべてを失うことであり、 そこから家に帰ること つ療養所において、 被害は日に日に重さを増し、 元の生 ができないということは、 その人生を全面的に失うとい 活に戻ることは一層不可能になっていく。 療養所という うことである、 という意味の発言をしている。 次のよう 器の中にある間、 種々の形での制限や烙印付けが日々原 な表現であった。 (引用者注:おそらく、 ここでスポイ 告らを攻撃し続け、 療養所の外に出てもなお苦しめ続け ルするという語を用いているのは 「全面的に駄目にする」 た。 新法の存在は、 原告らを繰り返し攻撃し、 累積的な という意味であろう。) 「大体施設に入るということは、 ・・ 被害を生み出してきた」 (同項) と記しているのである。 家族と別れ、 子供と別れて入る。 学問をしている人は学 特に苛烈なスティグマによる被害をまとめて、 「スティ 校を中退して入る。 職業を持っている人は職業を捨てて グマはよみがえり、 傷を広げる。 原告らは、 社会から拒 入るんですから、 3年、 4年して復職するということも 否され続けることにより、 これまで受けた屈辱、 苦しみ、 まずできません。 また学校に入るということもできませ 悲しみが、 何度となくよみがえり、 追体験され、 その上 ん。 帰ろうにも、 家庭が破壊されているということもあ にまた苦しみ悲しみが積もっていく。 ―中略―苛烈なス りましょう。 そういうことを考えますと、 私は施設に入 ティグマは原告らを家族と切り離した。 原告らは、 今な れるということが、 先ほどもうしましたように、 ハンセ お、 入所の際に断ち切られた故郷との絆、 家族との絆を ン病の患者さんをスポイルすることで、 ハンセン病自体 再び結ぶことができない。 時の経過とともに被害は堆積 が患者さんをスポイルしているのではないという私は結 し、 そして状況は悪化していく。 自分が死ねば終わる、 う 。 5 論に達しています」 。 犀川は、 自身が診断し、 入所さ 自分が死にさえすればもう迷惑はかけない、 そういう存 せ、 薬物の効果で見事に治った後も家族関係から家に帰 在だという、 苛烈なまでのスティグマは、 繰り返し原告 れなかった患者の写真を見て、 自分が 「あの時彼女の許 らを苦しめ続け、 その傷を深くしている」 と要約してい に薬を届けながら在宅のままで治療しさえすればよかっ る。 いいかえれば人生そのものの喪失を内容とする 「被 6 た」、 とその過ちを語って号泣したという 。 害」 である。 この証言は、 弁護団の確信の源泉となる。 らい予防法 被害を、 当該患者の人生に決定的に重大な影響を与え そのものがハンセン病患者の全生活を、 全生涯にわたっ るという視点からとらえ、 また 「人として当然に持って て圧殺したものであった、 という意味で 「開かれた扉」 いるはずの人生のありとあらゆる可能性が大きく損なわ はこれを 「人生被害」 と名づけたのであった。 れる」 という表現で、 被害の特質を述べている。 判決文には 「人生被害」 という必ずしも明確でない用 この見方は、 「隔離されたことだけを損害と捉えるの 語がそれとして用いられているわけではないが、 原告ら ではなく、 ハンセン病を隠して社会の中で生きて来ざる の受けた被害を要約して同じ意味のことを断言している。 を得なかったことをも損害」 として捉え、 その意味で 判決文は、 次のように記す。 判例時報 「ハンセン病被害の構造を明確にした」8 ものである、 と を要約して 「らい予防法 (法律第 よび 条は、 憲法 号は判決内容 号) 6条、 条お して、 弁護団も高く評価している。 条第1項の居住・移転の自由を包括 的に制限するものであるが、 ハンセン病患者の隔離は、 2. 被害についての原告の言葉から 人として当然に持っているはずの人生のあらゆる発展可 隔離政策の被害の質を措定するのに、 裁判の当事者、 能性が大きく損なわれるものであり、 その人権の制限は、 原告の要求がどういう形で語られたかが基本になること 人としての社会生活全般にわたるもので、 このような人 はいうまでもない。 弁護団はこの点をどうまとめるか、 権の制限は、 単に居住・移転の自由の制限ということで 訴状作成段階での苦心について、 「開かれた扉」 で語っ 正当に評価し尽せず、 より広く憲法 ている。 原告の思いを 「国の責任を問い、 隔離政策の歴 条に根拠を有する 人格権そのものに対するものと捉えるのが相当である」 史のなかで壮絶なまでに痛めつけられた原告の人権を回 としている7。 復すること、 そして国の謝罪とそれに見合う賠償を受け 判決はさらに被害の事実について、 特にそれが被害者 ること」 と受けとめ、 被害の等質性、 共通性をもって包 ― 50 ― 「ハンセン病隔離政策の被害」論 括一律請求とし、 請求額については同じく人生を奪われ 事実、 彼は幼くして母を失い、 父は同病で、 残された たと訴えた薬害エイズ訴訟の請求額の1億円を基準とし 家族全員で療養所に移り、 きょうだいはばらばらに親戚 た。 しかし弁護団は悩む。 「誰にでもわかりやすかった に預けられ、 妹は精神を病み、 回復後は健康なまま、 療 薬害エイズの健康被害に比べて、 本件の隔離被害は目に 養所内で紹介されたハンセン病の夫と結婚し、 夫の断種 みえにくい。 国民世論の共感は得られるのか」。 弁護団 で子どもを生むこともなく、 何としても社会に出て自立 が悩んでいるとき、 最年少の原告であった堅山勲 (当時 したいという願望を持ったまま、 結婚後 年で、 絶望し 歳、 星塚敬愛園) は口を開く。 「弁護士さんたち、 一 て自殺。 原告本人は激しい労働の結果、 両手、 両脚、 唇 億円で私の人生と代わっていただけますか」。 弁護士の に障害を持ち、 眼はほとんど見えなくなり、 老後の介護 誰もがその問いに返す言葉をもたなかったという9。 を障害重い妻に頼ることはしたくないと考えて離婚、 いっ これはまさに 「人生被害」 の内容をもっとも端的に表現 てみれば人生のさまざまの可能性をひとつひとつ失って している言葉ではなかろうか。 人権の回復をめざし、 そ 生きていたのである10。 のための 「人権裁判」 という位置づけで訴状を作成して 若くても、 年をとっていても、 草津のように比較的人 いた弁護士たちにつきつけられた 「人権の内容から発せ 間的な生活が残っていたとされる療養所でさえ、 失った られた言葉」 であったともいうことができる。 ものは人生そのもの、 という点で、 何の違いもない。 もう一つの例をあげることができる。 それは鈴木時冶の陳述書として裁判全史の第8巻、 東 3. 絶対隔離原則の先行 このように、 残酷なまでに徹底した被害をもたらした 日本訴訟の被害実態編に収録されている陳述書である。 彼は療養所の生活とそこでの 年について述べたのち、 らい予防法による隔離政策について、 熊本地裁の判決文 特に 「裁判で一番訴えたかったこと」 について、 次のよ は、 これを 「絶対隔離絶滅政策」 と称している。 (判決 うに述べている。 文第 章第 節) この命名はきわめてリアルに、 かつ対象 「この裁判で私自身、 一番訴えたかったのは、 学校に 者にとっては実に残酷な響きを露わに示す呼称である。 いきたかったということと、 本当の恋愛・結婚をしたかっ 内容を具体的にいえば、 それは、 すべてのハンセン病者 たということです」 と。 彼は、 当時の夫婦舎が一組につ をその対象とする、 という意味と、 その隔離は一生涯の き4畳半、 それが ものである、 という意味の、 ふたつを含んでいる。 個も並び、 トイレは共通、 その様子 この絶対隔離の発想の起源に関して、 ハンセン病問題 をハモニカの穴の中に蛆虫がつまっているように感じら れ、 自分は 「こうやってまで生きなければならないのか 検証会議報告書の第 と、 ほんとにいやでした。 ましてや自分が愛する人とそ した医学・医療界の役割と責任の章は、 光田健輔を頂点 うやって生活しなければならないというのは、 そうぞう とするハンセン病医療の第一世代の考え方にその出発を するだけでたえられませんでした。」 みている。 すなわち、 第一世代にとっては、 絶対隔離政 そういう、 人間の価値を無視した生活のなかでの恋愛 章ハンセン病強制隔離政策に果た 策の推進という結論が先ず始めにあって、 そのために間 や結婚は本当のものではありえず、 まやかしに過ぎない、 違った情報を国民に流し、 国民がハンセン病を恐怖し、 という。 何度か自殺を考え、 妹の自殺後は実際に死のう 社会から排除するようにしむけた、 と断定するのである。 と試みた。 睡眠薬を呑んだが目が覚めてしまった。 「死 そのような、 「公衆衛生学的に無意味な予防対策を実行 ねないから生きるしかない、 という思いは絶望をいっそ して、 国民のなかに強い恐怖心を醸成した責任はこのう う深めた。」 池に飛び込んだこともあり、 でも 「今は、 えもなく大きい。」 というのがその結論である11。 じさつすることは、 不条理の存在―世間の偏見やそれを 年代から行われたらいは治癒するという議論 (小 助長した国の隔離政策―を仕方ないことと認めてしまう 笠原登、 櫻根孝之進、 谷村忠保ら) も、 無らい県運動に ことになってしまうと考えています」 という彼は、 次の よる 「全ての患者の収容」 という政策の強化のもとで抑 ように宣言する。 圧されてしまった。 「私にとってこの訴訟は、 死に場所でもあり生き場所 じであったし、 年の療養所所長連盟の態度も同 年には、 化学療法中の患者が感染源 でもあります。 それは、 これまでの不条理をついきゅう とはならないことがより明確に証明された (大阪大学高 しなければ死んでも死に切れないという意味と、 やっと 坂による研究) にも拘らず、 たどりついた一人の人間としてはじめて肯定され、 認め 「入所者の られうる場所、 やっとたどりついた 「人として」 死ぬこ 可能性を残しております」 と報告しているのである。 検証会議報告書はまた、 とができる場所であるという意味です。 自分の生きてき 年の療養所長連盟は %前後は菌陽性であり、 伝染源になり得る ページに次のように記し ている。 た証を刻みうる最後の砦なのです。 「光田はハンセン病を撲滅する唯一の正しい対策は、 収容された療養所のなかでは、 人間としての生もなく、 従ってまた、 人間としての死もない、 という叫び、 それ 全患者の終生隔離であり、 そのためには患者・家族の断 をもたらした隔離政策はあらゆる意味で 「人生を奪った」 種による子孫絶滅であると信じていた。 この 「妄信」 は ものであることを鋭く表現している。 スルフォン剤の治療効果が確立し、 すべてのハンセン病 ― 51 ― 研究紀要 第9号 患者が治るようになった 年になっても変更されるこ 4 とはなかった。」 国際的な流れをみれば、 絶対隔離を支えた 「根絶」 の思想 犀川一夫は、 彼が裁判所に提出した意見書のなかで、 年時点で既に、 (第 回国 際らい会議で)、 菌数の少ない型の患者は疫学的見地か 次のように明言する。 すなわち、 「先ず、 第一に指摘せ ら隔離する必要のないことが合意されていたのであった。 ねばならないのは、 そもそも 年 「らい予防ニ関スル これらの経過を一貫して明らかなのは、 「絶対隔離政 件」 によってハンセン病対策が始まったときから、 「根 策の堅持」 の原則の存在である。 この見解は隔離政策を 絶」 という考え方がその対策の底流にあったということ 維持させた力がどこから来たかを考えてみると、 それは です。」13 と。 医学研究の状況に対する単なる無知や、 研究成果の評価 全に追放してしまいたいという発想は、 様々に形を変え の相違、 あるいはまた国際状況への認識不足、 情報不足 ながらその後も継続する。 に由来するほど単純ではないと思われる。 ハンセン病医 もとづく 「国土浄化」 というスローガンがそれであり、 療を他の分野の医療とは別のものとして特殊化し、 より 無らい県運動の推進を各府県が競った歴史がそれである。 いっそう閉鎖的にしたのも、 それらが絶対隔離政策を補 そのためには、 さまざまの手段が用いられた。 ハンセン 強したというよりも、 むしろ隔離政策が先行したことの 病は恐怖や排除の対象であっただけではない。 人々を有 諸結果であったと考えることができるのである。 史以来苦しめてきている病を根絶するという理想を背景 ハンセン病をこの日本の国土から、 完 年代の民族主義的発想に この前提にたてば、 らい予防法が、 退所規定を持たず、 として、 民間のボランティアが巧みに動員され、 愛生園 様々の形で退所して社会で生活していて症状が増悪した をはじめとして、 各療養所内には、 国家予算を無視する 場合の治療も療養所以外で受けられないような状況が存 規模の増床が、 各地からの寄付で実施されていった。 宿 在した事実も、 また、 退所した人々をふくめてのカルテ 舎を寄付し、 県名をつけてそこに同郷の患者たちを収容 の整備や、 経過の追跡調査がなされていないという状況 するなど、 慈善的な寄付とも結び付きは強かった。 いず も、 すべて自然に説明がつくのである。 れにしても、 当初は浮浪している患者を中心にしていた 方針は不変のものとして始めから存在していた。 その 療養所はつぎつぎに拡大、 増床をつづけ、 地域ごとの一 基底には、 光田の主張した 「ハンセン病の根絶」 という 斉検診などによって在宅の患者たちが根こそぎ集められ 期待 (あるいは野心) があった。 ハンセン病を撲滅する ていったのであった。 療養所によっては自由地区という 唯一の正しい対策は全患者の終生隔離と患者・家族の断 ものをつくり、 患者でない家族を同伴してそこで暮らす 種による子孫絶滅であるという光田の 「妄信」12 を、 多 ことが許されるなど、 「社会からの隔離」 が強調され、 くの第一世代は支持し、 少数の例外を除いてすべての療 そしてその隔離からの解放 (軽快による退所) の規定も、 養所で断種手術が行われた。 ここでもまずはじめに結論 それへの援助も法的には皆無であった。 ライ菌による感 ありきであった、 というのが検証会議の報告書の結論で 染問題が教育されると共に、 その不治性が強調され、 家 ある。 族間感染の事実は遺伝や家系に原因を求める風潮をも否 関係者のなかのある人々はそれを光田の個性の問題と 定せずに利用されていった。 し、 あるいは当時のファシズムの台頭と狭い民族主義・ 基本には、 「患者が唯一の感染源」 という発想があっ 全体主義に思想的な根拠を求める。 光田の温情に感銘を た。 ハンセン病菌は、 極めて純粋培養の難しい細菌であ 受けた人々の、 さまざまの弁護もある。 それぞれに一定 る。 その発見以来、 幾多の研究者の努力にも拘らずその の根拠を有するように思われる。 しかしながらなお、 当 培養が極めて困難であったという事情が、 逆説的ではあ 時の日本の軍国主義、 ファシズムの力がハンセン病の隔 るが結果的に絶対隔離を支えたのであった。 離政策の支援を必須の要件としてこれを進んで求めたと 単純な展開である。 当時すでに、 臨床の医師たちは、 は考え難い。 むしろ、 存在していた隔離主義が、 ファシ ハンセンによるらい菌の発見以来、 自然な結論として、 ズムの体制によって一層強化・拡大されたと考えるほう 「ハンセン病は、 人から人に感染する。」 ことを知ってお が自然である。 り、 しかし培養も、 それを利用しての感染のメカニズム 世界恐慌後、 そして軍事費の増大のもとでの国家予算 研究の不可能であったことから、 感染としては患者から の逼迫の時期、 三井報恩会のように、 財閥が自らの延命 患者へという以外のことを考えることができなかったの のために設立した財団の援助を大幅にうけながら、 皇室 であった。 「患者との接触というほかに、 感染の詳しい の名をもって民間の奉仕・寄付をあつめつづけて、 療養 メカニズムは全く分からない、 しかし、 それが当面分かっ 所の増床ははかられたのであった。 ている限りの感染経路である。」 というのが結論であっ 一貫した隔離の主張を支えたものは、 日本から、 ハン た。 その 「感染力」 が如何に微弱なものであったとして セン病そのものを抹殺する、 根絶する、 そのために最も も、 患者との接触がなければ感染はおこらない、 という 確実な最も徹底した方策をとる、 という発想であったの きわめて粗雑な、 しかし、 この病気を怖ろしいものとし である。 て忌み嫌う社会的力と結びつけて強調されれば、 それは そのまま、 絶対隔離、 完全隔離、 そしてそれによる病気 ― 52 ― 「ハンセン病隔離政策の被害」論 の根絶、 という連鎖を作り出す。 べき病の根絶」 という発想ではなかったか。 西欧諸国に こうして、 「隔離」 は 「現在においてはもっとも論理 対して、 近代科学 (医学を含む) の遅れを痛感していた 的な感染防止の方法」 という根拠を得ることになった。 新興日本が、 一つの大事業を成し遂げる。 古代から人々 ハンセン病者との接触を避けることがもっとも確かな予 を苦しめてきた病気、 人々から嫌われ、 貧困を生み出し、 防法である、 という考え方は、 感染のメカニズムが不明 社会から放逐される原因ともなる一つの病気、 しかもそ であるというブラックボックスを抱えこんだまま、 次の れを路上に放置しているとはなんという野蛮な国かと外 論理、 すなわち、 その予防には、 たとえ病菌が減少して 国から非難される原因となっているこの病気を、 国を挙 も、 あるいは検査時に消滅しているかに見えたとしても、 げての努力をもって完全に放逐することができたら、 そ 患者との接触を避けさせることが必要である、 という考 れは何とすばらしい成果ではないか。 近代西洋医学の観 え方を生む。 もちろん、 病気そのものの恐ろしさの宣伝 点からも、 国民の感染を防ぐという大義名分がある。 公 はそれとして社会的な差別につながる偏見をつくり出す 衆衛生には、 明治期からの警察との深いつながりがあり、 力を持っていたのであるが、 しかしそれらも、 当時の 市町村行政とも密接に関連し、 軍隊の維持にも直接つな (そしておそらく今日までつづいている) 近代科学への がる行政組織がある。 それらは全国的な患者の発見と収 信仰に裏付けられて、 いっそう強力になったと考える。 容には十分な力を持っている。 付け加えられるべきは、 医学、 医療, 医療行政が科学的な議論を無視したことの 療養所をつくる財政基盤と、 場所の選定と、 そこで働く 責任は大きい。 医師や関係職種のの養成のみであった。 当時の社会風潮 犀川も、 国際的に隔離不必要論が大勢を占めた後にな とも、 皇室中心の家族国家という思想とも、 見事に合致 お、 わが国が完全隔離政策を維持した理由を語るなかで、 する夢が追求された。 資力があってそれまで在宅で過ご この問題にふれ、 光田がハンセン病の絶滅 (エラディケ していた患者も、 医療の必要と他者への感染防止という イション・消去とも訳すことができる) をめざしていて、 二つの目的を達成するためには、 療養所に入ってもらっ それは国際的に受け入れられていた除去 (エリミネイショ て、 この 「悲しき病」 をこの国から、 完全に追放するの ン) よりもはるかに厳しい内容を持っていたことを論じ が一番よい、 という論であった。 ている。 このような考え方は、 一般に向かってひろく語 若い医師たちにとっては、 さらに加えて、 光田の研究 られてはいなかったであろうこともまた記憶されるべき 熱心と、 約束された豊富は解剖の経験が大きな魅力であっ である。 た、 という事実もまた、 ここにつながるものである。 医 研究の進展と共に、 感染の問題には新たな事実も加え られてきている。 年代にらい予防法の廃止を主張し 学研究者としての名誉をかけるに足る業績を望み見る道 でもあったであろう。 てきた一人の人物、 療養所医師としての診療も、 京大に いずれにしても、 絶対隔離の原則は、 新薬によるその おける外来診療の経験も持つ、 ハンセン病の血清学およ 後の目覚しい症状改善、 退所希望者の増加、 新規入院、 び疫学の世界的権威でもある和泉真蔵は、 ハンセン病は 新規発病数の激減とその維持などの展開にもかかわらず、 らい菌による感染症とはいえ、 らい菌の性質からいって、 そしてまた、 療養所側の、 さまざまの 「暗黙の了解」 ハンセン病を発症するのはらい菌に感染した人間のうち 「無断退所の黙認」 「院外労働の準公認」 などの蓄積にも ほんの一部であることを説明する。 この立場は、 患者が かかわらず、 原則としては、 強固に継続したのである。 唯一の感染源であることが明らかであるという単純な考 その理由として職員から入所者に告げられていたことは、 え方に新たな地平をひらくものである。 しかしこれは広 いくら感染力が弱いとはいえ、 一旦感染・発病すると、 く受け入れられるには至らなかった。 和泉のこの説は療 その後遺症をふくめ、 悲惨な道をたどらなければならな 養所の在園者たちには、 必ずしも評判がよくなかったと い。 それはきわめて深刻な被害であるから、 感染予防は いう。 ハンセン病は感染し難いという通説に対して、 感 厳密でなければならない、 というものであったという。 染しても発病しないのだという考え方は、 患者たち自身 病気の治癒と、 後遺症の医療とは混同されたままの論で にとっても、 分かりにくかったことから来るものであろ ある。 う14。 いずれにしても、 当時はなかなか難解な医学知識 重要なのは、 あれこれの 「被害」 事実よりもさらに根 ではあった。 この 「感染と発病」 に関する理解が、 免疫 深いところに存在した、 この絶対隔離の考え方そのもの 機構の研究成果の普及や、 栄養状態、 過重労働などの要 であった。 「科学の名における思い上がり」 ともいうべ 件を含んだ発病理解につながったとき、 隔離問題は全く き視野の狭さである。 人の生命、 生活、 その生涯につい 別の様相をみせたに違いない。 部分的に研究も討論も行 て、 生殺与奪の権を持ってもよいのだという錯覚である。 われながら、 政策は変わらなかった。 わが国の絶対隔離 それが人権の徹底的な無視につながるという重い事実へ 政策の原則は揺るがなかった。 の想像力を失わせてしまった。 日常的なわずかの 「人情 明治期に、 ハンセン病にとりくんだ医療者たちの、 そ 的な接触」 や 「人間的な交流」 などの時間と空間をはる の時代としては科学的、 かつ野心的で、 ある意味で、 かに越えて、 人間の、 人生の総体が無視されるという、 「人道的」 でさえあった一つの考え、 それがこの 「忌む 悲惨な歴史が積み重ねられるに到ったのであった。 ― 53 ― 研究紀要 第9号 絶対隔離政策がもたらした 「人生被害」 とよぶべき人 いう、 近代の法体系に共通する仮説が成立しない種類の 間の生活破壊の罪の深さを理解するのに、 ハンナ・アー 犯罪」 であった、 というのである17。 レントの所論から学ぶものは多い。 彼女は、 ナチがとっ ユダヤ人の追放からはじまり、 次いで強制収容所の開設 たユダヤ人抹殺の企ては、 それまで人類が知らなかった とそこへの大量の組織的な移送、 そして殺戮へと動いて 種類の罪である、 として、 次のようにいう。 「それは、 ゆく。 そしてその過程では一人の極悪者の思想や方針が 一民族全体の抹殺とか、 一地方からその住民を一掃する 細部までを支配していたというよりも、 多くの分業の内 とかの前代未聞の残虐行為、 すなわち・・・事実上戦争 部で、 その限りにおける忠実な規定の執行者によって、 とは無関係な、 そして平和時にもつづけられる組織的虐 罪という自覚の全くないままに整然と実行された計画な 殺政策を予告する犯罪である」15 とその罪を描き、 それ のであった。 は人類もしくは人間性という言葉そのものが意味を失う ジェノサイトは ナチによるユダヤ人の絶滅作戦とハンセン病隔離政策 ような人間の地位の特徴に対する攻撃である、 と論じて が同様の要素を持っている、 といっているのではない。 いる。 しかし、 絶対隔離政策の 「被害」 の側から見えている事 目的の如何を問わず、 一つの人間集団の人生を奪うと 態の本質を理解する上で、 ハンナ・アーレントがナチの いう政策の持っている悪の本質を論じて十分であるとい 政策について語っている 「人類に対する罪」 の概念が、 えよう。 一定の有効性を持つのではないかと考えるのである。 ひ ろくいえば、 地球上の生態系の特定の一部の意図的な、 5. 「人類に対する罪」 ―アーレント かつ徹底的な抹殺などとも、 思想的には共通の刻印を帯 ハンナ・アーレントの著書 「イェルサレムのアイヒマ びているのではないかとさえ想像させる。 ン」 は、 ナチによるジェノサイドをとりあげて、 それが 現代社会のなかで、 どのように組み立てられ、 どのよう 6. 違憲・国賠裁判におけるジェノサイトへ の言及 に実行されてゆくかについての深い、 独自の省察を展開 国賠訴訟のなかで、 ジェノサイトの例が引用されたこ する。 ハンセン病患者の 「抹殺」 のもたらす被害 (その とは、 それほど多くないが、 少なくとも つの場面を上 罪) とは、 規模も目的も大きく異なっているとはいえ、 げることができる。 いずれも、 隔離政策の 「被害」 を論 本質において共通の要素を見出すことができるのではな じている場面である。 全く許されざる、 極刑に値する罪であることと、 それが 一つは、 裁判に原告・被告双方から申請の証人として いかというのが筆者の考えである。 「人類に対する罪」 という語について、 訳者大久保和 出廷した大谷藤郎の言葉である。 大谷は 「らい予防法廃 郎が巻末に加えている解説によってその意味するところ 止の歴史」 の著者、 元厚生省国立療養所課長、 同省医務 を探ってみよう。 アーレントは、 ある人種、 ある民族、 局長であって、 この裁判では自分は被告の立場であると ある人間集団の存在を全体として否定すること、 その存 語り、 原告・被告のどちらとも打ち合わせをしないとい 在を否定する権利が自分にあると思い上がること、 これ う、 中立的立場を堅持しての証言台であった18。 は”人類に対する罪“という、 まったく新しい範疇の罪 「開かれた扉」 によれば、 大谷は弁護団が社会復帰の 悪であり、 このような犯罪者とは倶に天を戴くことがで 希望者がどうして少ないのかという質問を発したのに答 きないと断定している、 と大久保はいう。 大久保の解説 えて、 怒りをこめて発言した。 「私、 前回と今回の証言 はさらに続く。 彼女は英語の と を通じて感じますのは……」 そしてナチス・ドイツによ いう語は必ずしも彼女の主張したいことを伝えていない、 り強制収容所に収容されたユダヤ人を例に出す。 フラン という。 理由は、 ドイツ語には クルの 「夜と霧」 を引用しながら大谷は続けたという19。 「未来のないところに投げ込まれた人の心理というもの と という二つの言葉があるという。 前者を人道に対する を考えなければいけない。 患者さんが帰りたくないと言 罪というならば、 後者は人類に対する罪ともいうべきも われても、 それは 年もの間の隔離の結果に過ぎません」 のであって、 二つは質的に異なっている。 彼女はいう。 と。 この証言は被告、 国側の代理人には大きな衝撃であ 「捕虜虐待とか人質の射殺というような戦時の残虐行為 り、 裁判は原告の勝利に向けて大きな一歩を進めた、 と ですら、 人道に対する罪ではあるが、 人類に対する罪で 弁護団は感じている20。 はない、 と16。 もう一つは、 原告鈴木時次が語るストーリーと、 彼が しかもアーレントは主張する。 ジェノサイド、 この新 入所していた楽泉園とアウシュビッツを重ねて語る両者 しい型の犯罪者たちは、 自分が悪いことをしていると知 間の共通点である。 彼は自分が絵を描き始めたのは、 ア る、 もしくは感じることをほとんど不可能とするような ウシュビッツに収容されていたある女性が、 その収容所 状況のもとで、 その罪を犯していることが、 その特徴で のなかで子どもに絵を教える物語に感動して、 自分も絵 ある、 と。 それは現代社会の組織的な成り立ちと無縁で を描き続けようと思った、 ということを語っている21。 はない。 「罪を行う意図が犯罪の遂行には必要であると 彼は言う。 「結局、 将来に希望が全然持てないというこ ― 54 ― 「ハンセン病隔離政策の被害」論 とと、 何というのかな、 結局……結婚、 まあ、 年頃だか 弁護団長であった徳田は主張するのである23。 ら結婚もかんがえてはいましたけれども、 ここでは、 若 罪の深さとその結果の重大さに加えてアーレントは、 くて結婚できれば断種でしょう。 そういう、 何と言うか それが、 ごく普通の人間によって犯されたいわば陳腐な ね、 ちょうど猫を飼って、 猫は近所となりがとにかく困 悪であったことを明らかにする。 この大きな悪はその大 るというんで、 キンを抜いたり、 子宮まで抜いた。 飼っ きさと並ぶような特別な人物の、 周到な計画によって練 ているあの猫と何も変わらないんじゃないかなと。 そん り上げられたものではなかった。 ユダヤ人の追放にはじ な思いがして、 犬猫のね、 そんな思いまでして一緒には まり、 強制収容と、 それを目的として、 収容所への移送 なれないし、 それで、 結婚そのものが将来につながって という大事業が展開され、 それは第二次大戦中に、 戦争 いるものではないし、 これはどうしても結婚できないと。 のための必要性などとは全く別個に、 むしろ戦力を阻害 それで、 自分が、 まあ、 本当4人とも苦労しちゃったけ する可能性さえ含むこの政策を強行し、 ついに大量殺害 ど、 4人のなかの長男ですよ。 そんなことがあって、 絵 につながっていったのであるが、 この経過において最も をかき、 アウシュビッツと楽泉園を重ねあわせて絵を・・・ 重要なアウシュビッツへの移送の責任をもっていたアイ 」 ヒマンは、 ヒットラーの意向を早くから知らされるよう 人生そのものを抹殺されるということが何を具体的に なサークルに含まれていた人物ではなかった。 また、 ニュー ルンベルグで絞首された元ポーランド総督ハンス・フラ 意味するかと語っている。 ンクの日記が検察側からの証拠資料として提出されたと 7. 悪の陳腐さ―アイヒマンとその思考様式 アーレントがこの著書のなかで力をこめて明らかにし き、 アイヒマンの弁護人は稀な抗議を行って、 その (実際には 巻 巻) のなかに、 アードルフ・アイヒマンと ようと論じているのは、 ナチによるジェノサイトの罪の いう名前が出てくるかどうかを問うている。 実際彼の名 深さと、 同時にそれがごく普通の、 日常的な成功願望を 前は全く出てこない。 彼はその答えを得て、 ありがとう 持った人物、 上司、 先任者、 指導的な一群の人々に対し ございます、 と答えている24。 ポーランドへの移送を全 て忠実な、 見たところも少しも特異的でない人間によっ 面的に担当していた彼は、 いわば無名の一人の人間であっ て担われた犯罪であったことの考察である。 それは現代 たのだ。 彼は自分の仕事は移送であって、 殺害ではなかったと の、 この種の悪について、 それがどのように形成され、 受け継がれ、 分担されて遂行されるものであるかについ 主張する25。 彼はユダヤ人問題の専門家と自負しており、 て、 一連の洞察を提供している。 ヨーロッパ各地からのユダヤ人の輸送計画を推進するの 彼女はこの裁判の傍聴報告のなかで、 自ら 「人類に対 する罪」 と命名したユダヤ人への残虐行為について克明 は、 自分をおいて他に適切な人物はないと考えていた。 そしてそれは事実でもあった。 イェルサレムにおける裁判は、 アイヒマンが に論じ続ける。 この犯罪が 「犯罪的な法律のもとに犯罪 年 的な国家によっておこなわれたのであり、 そしてそれ以 月ブエノス・アイレス近郊で逮捕され、 9月空路イスラ 外におこなわれ得なかったという問題」 は覆い隠されて エルに運ばれ、 はならないことを論じている 22 。 は 年4月 日に開始された。 起訴理由 項。 体制全期間を通じ、 特に第2次大戦中、 ユダヤ ユダヤ人憎悪とユダヤ人主義の長い歴史から説明でき 民族に対する罪、 人道に対する罪、 および戦争犯罪を犯 るのは、 罪の性格ではなく、 その犠牲者の選択のみであ した、 とされて告発されたのであるが、 起訴理由のいず る、 という。 したがって、 犠牲者がユダヤ人であったと れについてもアイヒマンは 「起訴状の述べている意味に いう意味でそれはイスラエルの法廷が裁判を行うことの おいては無罪」 を主張したのであった。 正当性が存在するのであるが、 その罪が人類に対する罪 彼は言う。 「ユダヤ人殺害には私は全然関係しなかっ であるという限りにおいて、 それを裁くには国際法廷が た。 私はユダヤ人であれ、 非ユダヤ人であれ、 ひとりも 必要だったのだ、 と述べる。 殺していない。 ・・・私はユダヤ人もしくは非ユダヤ人 この種の犯罪を裁くべき法廷の質が、 それとして問わ れることの意味は深い。 ハンセン病違憲・国賠裁判もま の殺害を命じたことはない。 全然そんなことはしなかっ たのだ」 と26。 彼の全体的な精神状態は正常であり、 妻子や父母や兄 た、 わが国の法廷がこれを扱ってその責任を果たすべき であるということと、 しかしそれとはいささかも矛盾せ 弟・友人に対する彼の態度は 「単に正常であるのみか、 ずに、 この政策のもたらした被害は、 より深い 「人類に 最も望ましい」 ものだったと専門家は診断している27。 対する罪」 としての次元を持っており、 それはそれとし 彼はまた狂的なユダヤ人憎悪や狂信的反ユダヤ人主義の て論じられ、 考察されるべき内容を持っていることを示 持ち主ではなかったし、 ナチの思想に共鳴して入党した 唆しているからである。 現にわが国の法廷が、 療養所入 わけでもなかった。 しかしアイヒマンは、 所者に対して自ら違法な人権無視の裁判を療養所内で行っ 年代半ばから、 ナチの組織 件の特別法廷が開か のなかで、 次第に 「ユダヤ人問題の専門家」 になってゆ れていた) とそれについての検証のないことの重大性を く。 ナチは、 ユダヤ人の虐殺の過程をさまざまに 「言い ていた事実 ( ∼ 年の間に ― 55 ― 研究紀要 第9号 換え」、 実行過程とそのなかでさらに分断された組織に は排除されていた、 と。 これらの人々の頭にこびりつい よる執行によって、 ひとつひとつの 「分断された部分」 ていたのは、 或る歴史的な、 壮大な、 他に類例のない、 をつないでいった。 結果として、 彼が担った綿密な計画 それ故容易には耐えられるはずのない仕事に参与してい とその実行なくして大量虐殺はなかったのであった。 ア るという観念だけだった。 イヒマンは、 政策決定の中枢からはるかに遠いところに さらにアーレントは次の事実をも指摘する。 どんな支 いた人物であり、 アウシュビッツへの輸送の責任者では 配も、 その徹底した実行のためには、 相手からのある種 あっても、 それ以上ではなかったのである。 彼はユダヤ の協力、 「たんなる従順以上のもの」 を必要とする。 そ 人の全面的な殺戮を目標とする法制度の本質を見通さず して、 アイヒマンは、 本当に驚くべき程度にそれを得て に、 現実の、 当面の機能だけを見ていたという意味で、 おり、 それは彼の仕事の基礎になっていた、 という30。 きわめて現実主義的な人間であった。 彼は自分の、 当面 アーレントがその克明な観察から引き出す結論は、 こ の狭い 「専門」 にこだわり、 それをまもるなかで、 全体 の大きな 「悪」 が実にありふれた、 人間が自らの義務と 的な状況のなかでのその意味を考えない、 という思考様 心得ているところを忠実に行い、 命令に従うばかりでな 式にはまっている。 く、 法律にも従って行われた行為の集積の結果として現 彼は言う。 「私は移送を助け、 実行させねばならなかっ 実のものになっていったという事実である。 結論として たからです。 しかも移住の仕事は、 これについては自分 アーレントは、 アイヒマンの犯した悪の行為の底には、 が専門家だと私は思っていたのですが、 新米の者に委ね 「自分の昇進には恐ろしく熱心だったということのほか られていた・・・私はうんざりしました。 ・・・私は移 には何らの動機もなかった」 のだ、 という。 この熱心さ 住の仕事を自分の手にとりもどすために何かしなければ はそれ自体としては決して犯罪的なものではない。 「彼 ならぬと結論しました。」 28 と。 は自分のしていることがどういうことか全然分かってい 現実主義者アイヒマンにとっては、 「ドイツとユダヤ なかった」 ことを強調する31。 の両民族の間に我慢できる程度の関係がなりたちうるよ 彼女の記述を引用すれば、 「彼は愚かではなかった。 完 うな状態をつくりだすこと」 としてはじまったこの政策 全な無思想性――これは愚かさとは決して同じではない―― は、 一つ一つ、 「すべてユダヤ人が事実上追い込まれて 、 それが彼があの時代の最大の犯罪者の一人になる素因 いた状態を法制化したものにすぎない」 ものと見えてい だったのだ」32。 このことは、 ハンセン病の隔離のなかで、 行われた無 たのであった。 (因みにハンセン病患者の療養所への収容にも、 そこ 数の残酷な行為の或る部分を説明するであろう。 この政 での苛酷な生活条件にも、 おなじ言訳は用いられている。 策の責任を担う人々が、 自らの担当部分について、 誠実 一般社会にいたとしても、 同じだったではないか、 むし に命令に従い、 法律を守り、 かつそれらの法律や命令に ろもっと惨めであった、 という意見がそれである。) 守られていたという事実が、 あの長い人権無視を可能に アイヒマンは限られた仕事 「移送」 をするために心得 してきた力の一つであった。 それは、 愚かではない人間 ておかなければならないことしか聞かされず、 「自分の の、 組織のなかで任された部分における、 無思想性、 し 29 同時に必ず命令 ばしば美徳でもある忠実さ、 昇進への願望といった力だっ を守り、 逆に言えば命令で自らを守るという行動を常と たことを容易に想像させ、 また患者のなかに生まれる協 した。 力者の存在もまた、 十分に考えられるのである。 光田健 責任で決定を下すことを決してせず」 指導者たちは問題をどうとらえていたかということに 輔の果たした役割の大きさと共に、 それに従い、 忠実に ついて、 アーレントは次のように分析する。 ヒムラーの 隔離を成立させていった人々のなかに、 実は現代社会の 演説の中の 「これは未来の世代がふたたび行う必要のな 問題が流れていたことを学ぶことができる。 い闘いである」 という言葉と、 そこで意味されているこ 発想が光田個人のものであったかどうか、 反対意見は の仕事の重大性、 そしてそのなかで、 「忠誠こそわが名 どうだったか、 それらを検討してゆく際にも、 アーレン 誉」 としてヒムラーが語ったように、 「これをやりぬき、 トによって示されている視点は重要である。 しかも人間的な弱さのために生じたいくらかの例外を除 両者の間には比較すべくもなく大きな相異があること いては、 あくまでみぐるしい態度を見せなかったこと、 は言うまでもない。 第一その規模が全く異なる。 背景と これこそわれわれを鍛えあげたのである。 これは未だか なっている文化も、 政治の原理も、 異なる点は無数にあ つて書かれたことのない、 今後も書かれることのないわ りながら、 しかもなお、 この書からの示唆が大きく響く れらの歴史の光栄の1ページである」 との教えに忠実で のは、 実際に療養所で、 その生涯をすごす多くの人たち あった人たちによって、 結果としてもたらされた悪であ の苦しみと、 絶望の深さを語っても語っても尽きないと る、 と。 いうその思いに触れるからである。 アーレントは述べている。 殺害者たちは、 サディスト でも生まれつきの人殺しでもなく、 むしろ反対に、 自分 8. 結び のしていることに肉体的な快感を覚えているような人間 ― 56 ― われわれの思索は、 ハンセン病療養所から、 ナチの強 「ハンセン病隔離政策の被害」論 制収容所へ、 そしてそこに働いていた諸力、 諸悪に関す めて強く自覚しなくてはなるまい。 そのような文化の形 るアーレントの考察がもたらした発見を経て、 ふたたび 成を基盤として、 ハンセン病隔離政策と同様の過ちの再 療養所とそれをめぐる当時の日本社会へ、 そしてそこか 発を防止する法律、 制度、 プラクティスがつくられなけ ら、 今日の社会状況へと、 回転してゆく。 ればならない、 と考える。 以上 なぜ、 隔離政策はつくられ、 かつ継続したか、 何故、 光田への評価――感謝と憎しみ、 栄誉と激しい恨みとが 追記 年6月 同居しているのか、 なぜ療養所の入所者のなかにも裁判 日の新聞は、 国連人権委員会理事会 (本 の過程での協力を拒むひとたちが存在するのか、 いわゆ 部ジュネーブ) が、 同日ハンセン病の患者や元患者、 そ る 「犯人探し」 では解けない問題の数々をかかえながら、 の家族らに対する差別の撤廃を求める決議が全会一致で 検証会の一員として隔離政策の問題を考えてきた筆者自 採択されたことを伝えている。 日本はその提案国になっ 身の立場からすると、 この問題を単なる 「医学論争」 を ている。 決議は、 各国政府に差別撤廃の対策をとるよう 越えた次元のものにするにはどういう道筋をたどればい 求めると共に、 国連人権高等弁務官事務所による報告書 いか、 依然として大きな課題でありつづけている。 それ 作成、 さらに人権理事会の諮問委員会に原則およびガイ らを解明する力の一端をこの著書から得たように思う。 ドラインの原案を求めているという。 (朝日新聞) 本小 われわれ一人ひとりが、 人権という問題についての無 論において論じた隔離政策の悪の質を全人類のものとし 思想性のゆえに、 また無知の故に、 無関心の故に、 いわ て明確にする作業が展開していることの証左の一つとい ば力をあつめて、 その重みで押しつぶしてしまった多く えよう。 の方たちの生命を思わずにはいられない。 それはひとり の英雄によってではなく、 例外的な水準での知的に優れ 1 ハンナ・アーレント た人間の集団によってでもなく、 多数の、 多分野の人々 ルサレムのアイヒマン の手によって、 行なわれた残虐であった。 大久保和郎訳 イェ みすず書房、 同時に筆者としては付け加えたい。 この暗黒の絶望の なかで、 その重さを加えた力の存在とともに、 英雄的で 2 ハンセン病違憲国賠訴訟弁護団編 ハンセン病裁判を闘った人たち もなく、 大きくもなかった多くの力が、 現実の生活のな 開かれた扉―― 講談社 頁 かのささやかな喜びや憩いや仲間意識の育つきっかけを 3 ハンセン病違憲国賠訴訟弁護団 つくりだしもしたことを。 「陳腐な」 悪と同じように陳 4 ハンセン病違憲国賠弁護団 腐かもしれないが、 あつめられれば大きくなる力をも、 5 ハンセン病違憲国賠裁判全史編集委員界編 セン病違憲国賠裁判全史 様々に生み出していた、 という事実である。 それは時を かけてではあったが、 違憲・国賠訴訟という、 大原告団 6 と大弁護団を生み出し、 歴史的といってもよい短期間に、 7 判決時報 勝訴し、 被告たる国が控訴を断念するという流れに育っ 8 判決時報 たのである。 9 小さな、 陳腐な悪 しばしば美徳でもある をつなぐの ではなくて、 自覚的な、 人権思想を互いに繋ぎ合わせ、 それぞれの力で他者の覚醒をうながし、 専門や職務分担 を越えることのできる力に育てることは単なる夢想に過 ぎないのだろうか。 科学研究における国際的な視野と交 流、 一つの科学、 一つの専門職の独善的な言論支配への 開かれた扉 , 皓星社 号 頁 頁 ハンセン病違憲国賠裁判全史 ハンセン病問題に関する検証会議 題に関する検証会議 年 月 頁 ハンナ・アーレント 頁 ハンナ・アーレント 頁 かで、 様々の人々の人間としての輝きを育ててきた力に ハンセン病違憲国賠裁判全史 頁 開かれた扉 頁 開かれた扉 頁 ハンセン病違憲国賠裁判全史 に考える共生の思想の重さである。 発達や老化の過程に ハンナ・アーレント おける個人差も、 性差でさえ、 明確な一般化を拒む個人 徳田康之 第 巻 第 巻 頁 頁 頁 ハンセン病市民学会年報 巻頭言 ずれかを徹底的に否定することの 「悪」 を、 福祉のよう ハンナ・アーレント な、 「生活上の諸困難」 を対象とする専門職は、 あらた ハンナ・アーレント ― 57 ― 頁 第 巻 をどう創り出すか。 課題は尽きない。 療養所の生活のな 差は人間の本質のなかに本来深く含まれている。 そのい 頁 頁 ハンセン病違憲国賠裁判全史 開かれた扉 ハンセン病問 最終報告書 検証会議最終報告書 ∼ 第 巻 いう問題を、 開かれた討論の場で議論できるような風土 もう一つは、 人間のなかにある個人差、 個性差を大切 頁 頁 ハンナ・アーレント みである。 ハン 第 巻 抵抗、 それぞれの分担を超えたところで、 人格の尊厳と 敬意を表し、 その人々の人生にあらためて頭をたれるの 頁 頁 号 開かれた扉 同上 ∼ 頁 頁 研究紀要 第9号 ハンナ・アーレント 頁 ハンナ・アーレント 頁 ハンナ・アーレント 頁 ハンナ・アーレント 頁 ハンナ・アーレント ∼ ハンナ・アーレント ∼ ハンナ・アーレント 頁 頁 頁 参考文献 大谷藤郎 らい予防法廃止の歴史 犀川一夫 門は開かれて ハンセン病市民学会年報 勁草書房 みすず書房 ∼ ハンセン病市 民学会 ハンナ・アーレント 2) アーレント政治思想集成 (1・ みすず書房 ― 58 ―