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報告資料編2 - 内閣府経済社会総合研究所

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報告資料編2 - 内閣府経済社会総合研究所
事例3:青森県 青森市 浅虫地区
コミュニティの暮らしをサポートする活動組織「活き粋あさむし」
1.地域の概要
<青森市>
(1)人口・財政力等
人口
人口
男 147,413 人 、 女 165,839 人 高齢化率 19.8%
計 313,252人
(住民基本台帳 平成17年3月末
世帯数 130,728世帯
現在)
(住民基本台帳 平成18年9月30日現在)
人口推移
平成17年4月1日に浪岡町(人口20,626 財政状況 財政力指数0.63
(動態)
人)と合併し、新「青森市」としてス
経常収支比率91.7%
タートしている。旧青森市人口でも、
(平成16年度)
平成12年から社会減、平成15年から自
歳入額87,974百万円
然減に転じており、平成13年から17年
歳出額92,150百万円(平成16年
では自然減△199人、社会減で△1,396
度決算)
人になった。新市における平成27年人
口は297,446人で現在より約1万人の
減少、高齢化率25.7%になると推計さ
れている。
行政面積
824.56 km2
(2)地勢
青森市は、本州最北端青森県のほぼ中央部に位置し、東部、南部は東岳山地から八甲田
連峰に、西部は津軽平野、北部は陸奥湾に面している。豊かな自然に恵まれ、また県都と
して、青森県の交通・行政・経済の中心として発展してきた。気候は冷涼で、特に冬の積
雪量は多く、市域全体が「特別豪雪地帯」に指定されている。
(3)沿革
明治4年に、弘前から県庁が移されて、県庁所在地となる。明治6年に 函館・青森間に
定期航路が開設され、明治 24 年には東北本線が開業する。青森駅は東北本線、奥羽本線の
終着駅として、また青函連絡船(現在は津軽海峡線)により本州と北海道の結節点として
発展する。浪岡町との合併を経て、平成 18 年(2007 年)10 月には中核市に移行した。平
成 20 年度(2010 年度)に東北新幹線新青森駅開業予定。
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(4)地域の特性
東北の夏祭りとして8月に開催される青森ねぶた祭(昭和 55 年(1980 年)、国の重要無
形民俗文化財に指定)には、全国・世界各地から 350 万人を超える観光客が訪れる。また、
約 5500 年∼4000 年前の日本最大級の縄文集落跡三内丸山遺跡が発掘・整備されている(平
成 12 年(2000 年)国特別史跡に指定)。
土地柄としては、一見とっつきにくいが真摯で情熱的。また港町であるため、開放的
で進取の気性に富む。
(5)まちの目指す方向
青森市は、中心市街地の活性化に向けて既存ストックの活用と都市機能の集約化・複合
化による「コンパクトシティ構想」を推進してきた。新青森市における総合計画・前期基
本計画においても、その構想を継承し、機能的で都市的魅力を持つ市街地形成を目指して
いる。将来都市像として「恵み豊かな森と海 男・女(ひと)が輝く 中核都市」の実現を
掲げている。
総合計画策定の基本視点
○交通の要衝としての拠点機能を高め、「新たな交流を創造する」まちづくり
○山、海、田園等の豊かな自然環境を守り育てて「新たな生活環境を創造する」まちづくり
○自然や、りんご等の農産物、伝統工芸品など、魅力ある地域資源を活かした「新たな活力ある産業を
創造する」まちづくり
○人と人とが支え合い「新たなコミュニティを創造する」まちづくり
○祭りや遺跡などの文化を生かして「新たな文化を創造する」まちづくり
(平成 18 年度∼27 年度「青森市総合計画」)
(6)地域資源
海・港、田園、山岳、河川等の自然環境に恵まれるとともに、歴史・文化資源も点在し
ており、都市としての多様な魅力を持っている。
青森市全体の観光客数は、5,604,000 人(平成 17 年「青森県観光統計概要」)。青森ねぶ
た祭りで 3,340,000 人が訪れており、県内では八戸市に次ぐ入込客数になっている。市内施
設別にみると青森観光物産館アスパム(633,200 人)、三内丸山遺跡(330,621 人)、青森
県営浅虫水族館(328,792 人)の順に多く、浅虫温泉を含む温泉地の入込客数も 205,429 人
になっている。浅虫地区は、青森市の奥座敷として重要な観光スポットとして位置づけら
れてきた。
また、棟方志功(版画家)等の著名な芸術家のほか、各界の個性的な逸材を多数輩出し
ている。
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青森市の主な資源
<食>りんご、味噌、海産物加工品、八甲田牛、七子八珍(青森県の魚介類の総称)
<伝統工芸>津軽塗、ガラス工芸品、こぎん菱刺し
<祭り・イベント>青森冬まつり(2月)、青森春まつり(4∼5月)青森ねぶた祭(8月)、浪岡北
畠まつり
<建物・遺跡>三内丸山遺跡、青森県観光物産館アスパム、青森県営浅虫温泉、青森県立郷土館、棟方
志功記念館、メモリアルシップ八甲田丸、浅虫海づり公園 等
<温泉>浅虫温泉、酸ケ湯温泉
<ゆかりの文化人>棟方志功(版画家)、寺山修司(作家・弘前市生まれで少年時代を青森市で過ごす)
、
ナンシー関(コラムニスト)
、淡谷のり子(歌手)、矢野顕子(シンガーソングライター)、三浦敬三・雄
一郎(スキー)、鳴門親方(相撲)、斎藤仁(柔道)、畑山隆則(ボクシング)等
(7)産業
産業別就業人口構成比(平成12年国勢調査)によると、第一次産業4.1%、第二次産業
19.5%、第三次産業75.1%で、とくに三次産業の商業、サービス業、公務のウェイトが高
くなっている。北海道と本州の交通の要衝であり、県都として中心都市であることから、
県内で最も卸売・小売業の商業集積が進んでいる。第二次産業では、農産物・水産物を
加工する食料品製造業が大きな割合を占める一方、加工組立型の機械製造業の割合は低
い。一方、旧浪岡町では米やりんご等の生産が盛んであり、農業を基幹とする第一次産
業が発達している。
東北新幹線新青森駅開業を契機とした、交流人口の増加や、大消費地・市場との結節を
産業振興に結びつけていくことが重要な鍵になっている。
(8)インフラ
東北縦貫自動車道・津軽自動車道IC、青森空港、東北新幹線青森駅(開業予定)、
青森港(重要港湾)
2.地域活性化の取り組み
(1)浅虫地区の概況
浅虫地区は、青森市の東端にある。地区にある「浅虫温泉」は津軽藩主も来湯したとい
う由緒ある温泉地であり、青森市の中心部から17km、陸奥湾を望む国道4号線沿いに、50
軒ものホテル・旅館が建ち並んでいた(現在は20件程度)。温泉街は陸奥湾に面した海側と山
側に分かれており、山側は昔ながらの温泉旅館が多く、海側には大きなホテルが建ってい
る。「観光の町」であるが、団体観光型から個人客型への転換に立ち遅れ、宿泊産業として
は衰退傾向にある。
浅虫地区全体では人口約2,000人(平成12年国勢調査、現在は1700∼1800人に減少か)、世
帯数70戸。高齢化率は32%で、青森市平均の約2倍に及ぶ。単身高齢者は90名で市内でも
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最も多い地域であり、また児童数の減少が進み(全校でも70名の児童数)、少子高齢化が顕
著になっている。温泉地が不況となり、地元に職がなくなり、若者は浅虫を離れ、また高
齢者も子供夫婦のもとへと移住し始めるようになった。
浅虫地区は、コミュニティの境界が分かれ、さらに海と山に狭まれて宅地が開けない
ために、旧来からのコミュニティの人間関係で固定され閉鎖的な一面もある。観光業が
枢要な産業であるが、観光に携わっている人は人口の 1∼2割に過ぎない。しかし、公
共投資も、観光主導になっており、「コミュニティの暮らし」「住み良いまちづくり」
に向けた取り組みや、高齢者、子ども達の暮らしへのサポート活動が必要になっていた。
(2)活動のきっかけ
平成11年度(1999年度)に青森市による「ヘルスプロモーション事業」(コミュニティの
Well beingを創造し、維持していくための取り組み)が、浅虫を地域モデル地区として展開
された。当時、市の保健師であった三上公子氏は、行政の担当職として、その任にあたっ
た。行政主導から住民主導への移行を意図して、市民ワーキングメンバーを公募し、健康
をテーマにしたまちづくりを目指して「これからの健康づくり研究会」を結成した。
研究会では、フォーカスインタビュー(地域内の一人暮らし高齢者、既存組織へのイン
タビュー)や5回のワークショップ(インタビュー結果を受けての話し合い)、アンケート
(100名を対象に地域づくり指標について調査)を通じて、浅虫地区の地域課題について話
し合った。そこでまとめられた「まちづくりの目標と計画」は、a 地域に一体感があること、
b 地域の人々が共に支えあうこと、c 地域に誇りを感じる、d 地域に活気があること、e 地
域の中に自分の居場所があること、であった。当時は、「働く場がない、若い世代が減少し
ている…」という問題は提起されたが、それほど切迫した課題は浮上してこなかった。研
究会は既存組織・団体を越えて、また女性・高齢者の参加を得ながら、ゆるやかなネット
ワークによる運営で始まった。
その後、研究会は住民主体で活発に動き始めた。メンバーからは「まちをきれいにする」
「住民が浅虫のことを知る」「自然を次世代に残していく」「子ども達、学校とつながる」
等々の意見が出され、具体的活動へと結びついていった。
(3)活動の経緯
平成 11 年(1999 年度)、研究会の具体的活動として、高齢者も子ども達にとっても住み
やすいまちづくりを実現するために、花の植栽、自然を呼び戻すための蛍の飼育、交流体
験イベントが実施された。それらの取り組みは子ども達、小学校との結びつきを強め、後
の活動へと広がっていくことになる。
平成 12 年度からは、本格的な住民活動へとステップアップするために、「活き・粋サー
クル浅虫」と名称を変えた。地元医院長であった石木基夫氏、そして三上公子氏がリーダ
ーになって活動が展開されていく。花植え、蛍の飼育と放流、自然体験をしながら浅虫の
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魅力を探る「うれし、たのし、あさむし倶楽部」、平成 13 年度にはシニアパソコン教室、
樹木(巨木アカマツ)の治療費のためのポストカードの製作・販売を手がける。
その後、高齢化、過疎化、雇用問題など地域の現状が一層深刻化していく中で、活動の
スタイルを変えていく必要が生じた。これまでのイベント中心の活動から、地域課題解決
に向けた継続的な活動へと方向転換するようになる。平成 14 年(2002 年)4 月にはNPO
法人化を目指し「活き粋あさむし」と名称変更し、平成 15 年(2003 年)3 月にNPO法人
の認証を取得する。その間、浅虫の食文化を残し伝えようと「浅めしレシピ」を編集・刊
行したり、子ども達の自然体験コースとして「サマースクール」を企画・運営する。
平成 15 年度(2003 年度)から、NPO法人格取得を契機に、地域課題解決に積極的に取
り組むこと、高齢者の健康支援、子育て支援、地域の魅力づくり、雇用の場づくり等を目
標に据えて、これまでの「思いを語る」活動から、「成果」をきちんと出す活動へとシフト
していくことになる。平成 16 年には、地域の高齢者の健康づくりと憩いの場づくり、地産
地消をテーマにしたコミュニティレストラン「浅めし食堂」を開業した。
(4)活動内容
現在の活動として、ホタルが育むまちづくり(蛍の飼育と観察)、地域の学校や子どもの
居場所づくりのための浅虫コミュニティスクール(平成 17 年度(2005 年度)ではのべ 500
名が参加)、浅めし食堂・給食事業、食文化を記録に残すレシピ集「浅めしレシピ」の発行、
3泊4日の健康ダイエット体験「ヘルシーツァー」等を行っているほか、遊休農地を活用
するため農業経営にも着手している。
コミュニティレストラン「浅めし食堂」は地域の食文化を伝えるとともに、地域の高齢
者の健康づくりと憩いのサロンづくりを目的に開業した。石木医院の近くにあった「閉店
したスナック」を改装して厨房を整え、テーブル席をしつらえた。地元の主婦が調理をし
て、栄養バランスのとれた(医師と栄養士が 650cal、塩分4gの定食とデザートを考案)、
地域の食材を使った郷土食をベースに日替わり定食を 1 食 500 円で提供している。バラエ
ティ豊かな日替わりメニューと店の温かい雰囲気が評判を呼んで、近隣の高齢者が多数利
用している。
写真
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http://www.ikiiki-asamushi.net/
(5)構成メンバー
NPO法人活き粋あさむしの会員は、研究会時代からのメンバーも含めて 90 名程度
(賛助会員含む)である。理事長には石木氏、事務局長には三上氏が就いている。
「浅めし食堂」のスタッフは、地方紙の新聞折り込み広告で公募した。調理担当の主婦
3人、経理1名、病院の食堂職員(派遣)3名、配達を担当する副理事長1名、パートの
女性を含めて全員で9名である。パートとして働きたいという 30 代の女性も複数スタンバ
イしており、少ないながらも、地元の雇用創出に貢献している。
(6)運営・管理の体制、方法
a 「浅めし食堂」の運営・経営
当初は不慣れなこともあって、週3日、1日おきの営業であったが、毎日の開店を望む
声が多かったことと、1日休むと廃棄食材も多くなり、調理スタッフである主婦の食材を
無駄なく使う腕を生かせない問題もあって、毎日営業することにした。食堂は年間のべ
12,000 人が利用しており、地元高齢者以外にも、青森市内や近隣の町からも客が訪れてい
る。また、給食事業として病院への配食(およそ 18∼19 食)を受託しているほか、高齢者
宅への弁当配達サービス(1 日 20 戸)も実施している。
b NPO法人経営
平成 16 年度会費収入が 7 万 2,000 円、食堂売上が 660 万円、それに各種事業の参加
費を加えると事業費計で 818 万円程度となる。そのほか文部省、青森県からの事業受託
収入、助成金(青森県「青い森ファンド」)の収入を含めると 1,381 万円になる。人件
費等の事業運営コストや管理費などの支出を除くと約 42 万円の黒字経営となっている。
コミュニティレストランが好調であること、国・県からの受託収入があること、18 年
度には給食事業として病院への配食を受託していることから(約 1000 万円見込み)定期的
な収入が確保されており、組織経営としても安定してきた。
(7)国等の支援措置について
3年間事業として文部科学省「子どもの居場所づくりプラン」の事業を受託して、「浅
虫コミュニティスクール」を実施している。平成 16 年度(2004 年度)の事業費は 125 万円
であったが、17 年度(2005 年度)には 85 万円に減額になり、また使い方にも制限が出て
きた。将来受託収入がなくなった場合のコミュニティスクール運営方法を模索していると
ころである。また、青森県の事業「健康増進サービス産業創出育成事業」から受託して(平
成 16 年度 189 万円)、そのパイロット事業として「ヘルシーツァー」を実施している。さ
らに、青森県の「青い森ファンド」(ボランティア・市民活動の資金を支えるため県が1
億5千万円を基金として毎年度 1500 万円を助成。平成 20 年(2010 年度)で廃止予定)か
らも助成を受けており(平成 16 年度(2004 年度)には 60 万円)、事業経費にあてている。
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(8)取り組みの成果
「浅めし食堂」には、常連客が3∼5人おり週に2、3日の頻度で訪れてきている。そ
のほか、青森市内や隣町の平内町から足を運ぶ客や、サラリーマンや観光客が訪れるケー
スも多い。(石木氏の)病院でマッサージや治療を受け、温泉に入り、食堂で昼食をとるの
が日課になっている高齢者も多く、ミニデイサービスの機能も果たしている。1日およそ
1000円程度の負担で、マッサージをして、美味しい食事をとり、皆と語らいあうことがで
きる高齢者の生きがい、楽しみの場になっている。
NHKテレビで紹介されたり、コミュニティを基盤としたNPO活動が注目されるよ
うになって、視察もかなり多くなってきた。また、全国のコミュニティレストランとの
ネットワークが構築され、その活動を支援する立場になっている。
3.キーパーソンについて
(1)プロフィール
三上公子氏は、青森市出身。青森市保健師としてヘルスプロモーション事業に携わって
いたが、その後退職して、石木氏と結婚。「活き粋あさむし」事務局長となる。
理事長の石木基夫氏は、浅虫出身。大学進学で浅虫を出てから内科医局長としてしばらく東
京で勤務していたが、平成11年(1999年)に浅虫に戻り、石木医院を継ぐ。
(2)活動のきっかけ
a 三上公子氏
市の保健師として地域の子供、高齢者と一緒にやる仕事も多く、以前から地域に対する
関心は深かった。自分の信念として「地域」に関わっていくスタイルを貫いてきたが、市
役所の職員としての限界もあった。平成 11 年(1999 年)からの3年間の「ヘルスプロモー
ション事業」の経験を経て、地域課題解決に本格的にアプローチしていく必要を感じた。
行政の仕事は縦割りで、地域全体に総合的に関わっていくことには制約がある。しかし、
ここであきらめたらもう二度とできないだろうという思いがあった。職を辞して、浅虫の
住民の一人として、この地域のために活動しようと決めた。そして、「健康づくり」から、
地域全体の課題解決へと目標を広げていった。
観光地なので行政からも多大な公共投資があったが、むしろ住みにくい地域になってい
た。ここに住む人のためではなく、観光客のための投資になっていたからである。地域に
魅力がなければ観光も成り立たない。この地域を住み良く、高齢者も子ども達も生き生き
と暮らせる地域にしていく必要を痛切に感じた。浅虫に住むようになって、「あんなところ
に住んでいるの」と言われたこともあり、みんなからうらやましがられるような地域にし
たいと思った。
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b 石木基夫氏
最初は、ヘルスプロモーション事業に医師として参加した。地元に戻り地域医療に関わ
ることになって、地域の開業医は住民とつきあい地域のことを考えて医療をしなければな
らないことを感じた。父親の時代には、浅虫の人口は4000人もあり、観光業も盛況で活気
があった。今は、人口も減り、高齢者が多く、目に見えて地域が衰退している。毎日、高
齢者に接していると、暮らしの不安や地域の問題が見えてくる。病院の経営にとっても、
この地域をより良くしていくことが大切であると考えた。
(3)活動の信条と理念
観光地としての浅虫よりも、住む人にとっての地域の価値を高めていくことを信条に活
動を進めている。そのために地域の人の声に耳を傾けて、課題や活動方向を探っている。
例えば、高齢者から「子ども達の声が聞こえたり、地域に働ける仕事がある地域にしたい」
という話があった。そこから、子ども達のためのコミュニティスクールや、地域に雇用の
場をつくろうという活動方向が定まってきた。
常に、地域の人が何を求めているかを知り、それをひとつひとつ実現していくことを心
がけている。浅めし食堂も、高齢者のニーズから始まっている。地域の食文化を残してい
こうというレシピづくりの一環で、食のお披露目会を開催した。高齢者から「こんなに楽
しく食事をしたのは久しぶり」等の反響がたくさんあった。皆で語らいながら健康に良い
食事ができる場所をつくろうと、取り組みが始まった。
(4)心がけていること・活動のポイント
最初の活動は、「やれることからやっていこう」ということで始めた。しかし、やれるこ
とだけに限ると「イベント」をこなすだけになってしまった。皆でわいわいと盛り上がっ
ているうちは良かったが、次第に「楽しくない、ただ苦痛だ」という声が聞こえてきた。
そして、単発イベントの繰り返しをやっても地域は変わらないというむなしさも感じた。
困難なことをやっていかなければ成果はあがらないし、地域は変わっていかないというこ
とに思いあたった。自分のためにも人のためにもなって、そして最終的には自分自身が「や
って良かった」と思うことをしていかなければならないと考えるようになった。
地域が変わったという姿をどう見せるかが重要である。当初は、自分たちの「活動」を
こなすだけで精一杯であった。浅めし食堂のように「成果」を出すことを意識するように
なって、初めて地域の人からも理解してもらえるようになった。
(5)活動を支えるネットワーク
当初からのメンバーは、女性や高齢者が多い。最初は自己紹介さえも「紙」に書かな
ければ話せなかったほど話し合いにも慣れていなかったが、浅めしレシピや食堂の企画、
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ダイエットプランなどのアイデアはその女性達から生まれている。
地元に戻った技術系サラリーマンOBがいてパソコン指導をしたり、浅めし食堂の配達
を担当している。食堂に通う高齢者の話し相手として人気者になっている。
また、コミュニティスクールの講師には、元教師など地域の人の力を活用しているほか、
近くにある東北大学大学院研究センターの大学の先生、水族館の職員の方にお願いしてい
る。理事長が医者という信頼感もあって、地域外とのネットワークが広がりやすかった
側面もある。
(6)最も苦労した事柄
浅虫にはこれまで行政のさまざまな事業が入ってきたが、事業期間が終われば成果を出さ
ずにそのまま終わってしまうことが多かった。三上氏も「ヘルスプロモーション事業」で浅
虫に来た時、
「また同じことの繰り返しだ。やるなら本気で関わってほしい」と、住民に釘
をさされた。一方、住民の方でも行政依存の意識があった。当初、行政が声をかけたことも
あって事業の集まりには地元既存組織の長が大勢参加した。しかし、行政からの事業費がな
く自分達で活動するという「研究会」になると、かえりみなくなってしまった。その代わり
に本当に地域のために活動をしたいという人だけが残ってくれたので、結果的に良かったと
いえる。
浅めし食堂のスタート当初は、「食」を扱うということもあり、地域の食堂経営者や旅館
の板前さんとの軋轢もあった。しかし、高齢者のための薄味の健康食であると説明して、
結果的に認めてもらった。今でも、定食だけに絞り、競合するようなメニューは出してい
ない。
(7)岐路に立ったときの解決策
試行錯誤の後、地域を変え地域の理解を得るために継続的に事業展開していくことを目
標とするようになった。本格的に地域課題の解決に取り組もうと、NPO法人化を企図し
た。しかし、それについて来れずにやめたメンバーもいた。一方、「今までやれなかった
ことやりたい」と新たに入ってくる人もいた。組織改変によって入れ替えはあったが、活
動の節目として必要であったと考える。
行政からの助言も問題解決に役立っている。例えば、遊休地が増えて悲しいという農家
の話を聞いて、子供達の農業体験の場にするために、自分達で農業経営に参画しようと決
めた。しかし、NPOが農地を取得して、さらに農産物を食材として食堂で使うには障壁
があった。そこに、県や市の農政担当者から、農業特区の仕組みを利用すれば良いとのア
ドバイスがあり、農業委員会の認定も受けることができた。しかし、基本的に行政に頼ら
ずともやっていける力はつけていきたいし、またその自信がなければ自立していけないと
考えている。
135
(8)阻害要因
観光業も厳しく、自分達の経営で手いっぱいで、地域全体を考えて行動するのは難しい。
最初は、一緒に「仲良くやること」が協働だと思っていたが、行政、地域の既存組織・団
体と同じ思い、同じ方向で活動をすることは困難であった。それぞれの思い、方法で地域
に関わっていくことによって、結果的に地域のためになれば良いと考えている。
(9)成功要因
常にトライアンドエラーでやってきており、その度に皆の力をコラボレーションして乗
り越えてきたといえる。皆で話し合ったことがアイデアになり、事業の企画として実現
している。
浅めし食堂などの事業が軌道に乗ったこともあって、地域の理解が広がりつつある。食
堂が一つのサロンになっていて、食事に来る高齢者のほかにも、取り組みに関心を持つ人
が訪れている。ここにくれば何かある、活動ができるという場所になっている。活動や
組織の形が見える場所があることは、地域づくりにとって必要な要因である。
(10)失敗談
スタート時は思いだけで行動しており、資金や経営のことまで考えていなかったので、
いろいろな失敗があった。例えば、樹木(巨木アカマツ)の治療費を稼ぐためにお金を借
りてポストカードを製作し販売したが、結局目標の30万円に到達するまで2年かかってし
まった。ただ、その経験で、事業には資金が必要であり、計画的な経営が必要なことを学
んだ。そういう失敗の繰り返しにより自立的経営を意識するようになって、浅めし食堂や
給食事業の発想が出てきたとも言える。
(11)今後の方向性
青森市内に生まれた8つの市民活動グループと連携しながら、その活動が軌道にのるよ
うサポートしていくことを、活動テーマとして掲げている。多くの人が行動で提示してい
くことが、行政、住民に対しても最も効果的なアピールになるだろう。
また、浅めし食堂では直接的に地元雇用の場を創出しているが、今後は多くの人が地域
で仕事をつくっていくための「環境づくり」をサポートしていくことも必要となる。
将来的には、浅虫の温泉資源を活用した事業を展開していきたいと考えている。
(12)事業の継承
現在は、事務局が事業の企画・運営の主体になっているほか経理も担っているので、
専任の事務局スタッフが必要になっている。
136
ヒアリング先情報
住所・連絡先
URL
〒039-3501青森市浅虫字蛍谷65-116
TEL
特定非営利活動法人活き粋あさむし
FAX
http://www.ikiiki-asamushi.net/
e-mail
137
017-737-5070
[email protected]
事例4:岩手県
宮古市「行政改革と地域福祉への挑戦」
1.地域の概要
(1)人口・財政力等
人口
高齢化率 26.6%
宮古市人口
男 28,826人、女 31,496人
(住民基本台帳 平成18年3月末
計 60,322人
現在)
世帯数 23,220世帯
(住民基本台帳 平成18年8月1日現在)
人口推移
国勢調査ベースでは、平成17年人口 財政状況 財政力指数旧宮古市0.46、旧田
60,251人で、平成12年時63,223人より、
老町0.18、旧新里村0.13
2,972人の減少となっている。2010年に
(平成16年度)
は57,953人、2015年には54,825人と1
歳入額18,342百万円
歳出額18,228百万円
(旧宮古市16年度決算)
万人近く減少すると推計されている。
行政面積
696.82 km2
(2)地勢
本州最東端で岩手県沿岸のほぼ中央に位置し、東は太平洋を、西は北上山地に面する。
三陸リアス式海岸の北端で、県庁所在都市の盛岡市より直線距離で東に約 90km の位置にあ
る。市の中心部を、閉伊川(へいがわ)が流れ、宮古湾へと注いでいる。西側は山地が迫り、
平野が狭い。
(3)沿革
内陸部との交通の便が悪く物資輸送が滞り、江戸時代から飢饉になるたびに深刻な状況
に見舞われ、大規模な一揆も行われた。また、津波等の災害が多く、明治以後も被害が続
いた。昭和 30 年(1955 年)に崎山村、津軽石村、重茂村、花輪村を編入後、平成 17 年 6
月に旧宮古市と、漁業の町田老町、林業の町新里村が合併し、新宮古市となった。
(4)地域の特性
資源豊かな三陸漁場を擁し、国内外の大型商船が出入りする貿易港を持つ。陸中海岸国
立公園の中心地で、浄土ヶ浜は観光のスポットになっている。
交通アクセスが悪く、買い物、医療・介護、教育も地域ですべて「完結」しなければな
らない環境にあった。そのためコミュニティのつながりは濃密で、行政と住民の距離も比
較的近い。また、災害の多い地域であったため、行政が常に主導的な役割を担ってきた。
(5)まちの目指す方向
新宮古市では、平成 18 年(2006 年)4月に総合計画を策定した。将来都市像として「『森・
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川・海』とひとが共生する安らぎのまち」の実現を掲げ、とくに「子育て支援」と「産業
振興」を施策の柱に据えた。
総合計画策定の基本方向
○豊かな自然や伝統など地域の多様な資源を守り活用する「創造」のまちづくり
○市民と行政とのパートナーシップによる「協働」のまちづくり
○新たな地域が一体的につながり、相互に高め合う「連携」のまちづくり
○「自己決定、自己責任」の原則に基づく「自立」のまちづくり
(平成 18 年度∼26 年度「宮古市総合計画」)
(6)地域資源
景勝地の浄土ヶ浜のほか、世界有数の漁場・三陸沖から水揚げされる魚介類、ワカメ等
の海草が豊富である。さけのふ化・稚魚放流は、本州一。高さ 10m、長さ 2.4Km の大防潮
堤がある。陸中海岸国立公園の中にあって、自然の造型による奇岩が多く、雄大な景観が
続く。また、閉伊川の清流や、山間部の源兵衛平高原の森林など、海、川、山の自然資源
が豊かにある。
岩手県出身の宮沢賢治や石川啄木がこの地を訪れ、歌や日記に残している。また、徳富
蘆花の小説「寄生木」は宮古在住の実在の人物を主人公にしたものである。
歴史的には、義経北方伝説のルートにあって、義経主従が逗留したいわれが残ってい
る。
宮古市の主な資源
<食>海産物、さけ中骨缶詰、鮭フレーク、乾しいたけ、いかせんべい
<伝統工芸>南部桐げた、組木細工、神棚、ウニ染め
<伝統芸能>黒森神楽(国指定重要無形民俗文化財)
<祭り・イベント>宮古鮭まつり(1月)、宮古毛ガニまつり(2月)、浄土ヶ浜まつり(4・5月)、宮
古夏まつり(7月)、みやこ秋まつり(9月)、三陸シーカヤックマラソンin宮古(10月)、宮古サー
モンハーフマラソン、鮭・あわびまつり(11月)等
<建物・遺跡>
浄土ヶ浜地区:浄土ヶ浜、臼木山、ローソク岩、潮吹穴
田老地区:三王岩 真崎海岸
崎山地区:姉ヶ崎、日出島
重茂地区:魹ヶ崎(本州最東端)、月山、十二神自然観察教育林
新里地区:リバーパークにいさと
<観光施設>シートピアなあど、寄生木(やどりぎ)記念館、県立水産科学館、グリーンピア田老
等
<ゆかりの文化人>
伊藤奏子(バイオリニスト)、吉田タキノ(児童文学者)、佐香厚子(漫画家)、茂市久美子(童話
作家)、日蔭暢年(柔道家)等
(7)産業
産業別就業人口構成比(平成12年国勢調査)でみると、第一次産業10.7% 、第二次産業
28.8%、第三次産業60.5% になっており、漁業を中心とする第一次産業の割合が高い。
第二次産業には、伝統的地場産業である水産加工業のほか、戦前の国策企業による銅精
錬、肥料製造、港湾を活用した合板産業が盛んであったが、昭和 45 年代(1970 年代)にコ
ネクター・金型(携帯電話、パソコン等の部品)の誘致企業が立地して以降、技術集積と
139
ともに、海外輸出向けの一大生産地として成長している(現在、宮古地域では、関連会社
30 社、従業員総数 1700 人)。平成 13 年(2001 年)、コネクター・金型関連企業の連携に
より「宮古金型研究会」(16 社)が組織され、共同研究、技術研修や人材育成に取り組ん
でいるほか、岩手大学の産学官連携組織である「岩手ネットワークシステム(INS)」
とのネットワークも生まれている。なお、宮古地域の産学官連携組織として「宮古・下閉
伊モノづくりネットワーク」(事務局:宮古地方振興局)も誕生し、モノづくりを基盤と
した産業振興への期待が高まっている。
(8)インフラ
内陸部からの交通アクセスが悪く、時間距離にして盛岡市から2時間、東京からは5時
間を要する。人口5万人以上の市では東京から最も(時間距離ベースで)遠い。現在、三
陸縦貫自動車道、宮古盛岡横断道路が建設中である。
宮古市の主な交通インフラ
鉄道:JR山田線・宮古駅 JR岩泉線:茂市駅 三陸鉄道北リアス線:宮古駅、田老駅
高規格道路:三陸縦貫自動車道 国道45号宮古道路(建設中)
宮古盛岡横断道路 国道106号宮古西道路(建設中)
一般国道:国道45号、国道106号、国道340号
港湾:宮古港(重要港湾)
2.地域活性化の取り組み
(1)活動のきっかけ
宮古市でも、行財政の逼迫に加えて、急激な少子高齢化の進行に備えた高齢者福祉、子
育て支援等への対応が必要になっていた。地方行政においても、行財政改革に取り組みな
がら、ますます需要の高まる公共サービスの質を落とさずに提供していく方途が問われて
きた。また、地方分権時代の地方自治の基盤形成に向けて、自治体経営のあり方も転換の
時期に来ていたといえる。熊坂市長は、二期8年間にわたり「NPM型」(New Public
Management:成果主義、市場メカニズムの導入、顧客主義を基本として行政部門の効率化・
活性化を図ること)の行政改革を目指し、さまざまな取り組みに着手した。
(2)活動の経緯
平成9年(1997 年度)に熊坂義裕氏が市長に就任して以降、市民参加、行財政改革、地
域福祉政策を市政の主要テーマとして展開してきた。
a 市民参加と協働に向けた情報の共有化、機会創出
初年には、市政への住民参加に向けて市長と市民のパイプをつなぐために、市長室にお
ける「市政暖和(談話)室」、「おばんです市役所(各地域)」、「市長への手紙(市施
設への手紙箱)」制度を創設した。平成 11 年(1999 年)には、市と住民の情報共有に向け
て「宮古市情報公開条例」を施行している。また、市民に市財政の情報を分かりやすく提
供するため、平成 11 年に一般会計のバランスシート(貸借対照表)を、平成 12 年(2000
140
年)には特別会計と企業会計との連結バランスシートを公開した。続く平成 13 年(2001 年)
には、「わかりやすい予算書」を全戸配布している。いずれも、東北の市では最初の試み
であった。平成 14 年(2002 年)には、ホームページでの情報公開度において、人口 10 万
人以下都市(429 市)で第3位にランクされている(東洋経済新報社)。
一方、市民参加のすそ野を広げるため、平成 12 年(2000 年)から各審議会への市会議員
の参加を止め、かわって公募による市民がより多く参画できる仕組みにした(女性の登用
率 31.9%)。平成 14 年(2002 年)、自治基本条例制定のための「市民懇談会」を発足し、
新市における条例制定に向けた検討を開始した。
平成 15 年(2003 年)、行政とNPOとの協働推進ガイドラインを作成し、市役所各課に
協働推進員を配置した。また、各分野で活躍するNPOに、勤労青少年ホーム、ヨットハ
ーバーの管理運営、リサイクル資源分別事業、学童保育事業等をアウトソーシングしてい
る。
b 行政サービスの高度化・効率化、透明化
行政サービス改革の一環として、平成 11 年(1999 年)に「たらい回し」を排除するため
ワンストップ総合窓口を開設しフロアマネージャーを配置した。これは日本一簡単で速い
という評価を得て、自治大臣賞を受賞している。
平成 12 年(2000 年)から事務事業評価システムを導入し、平成 16 年(2004 年)には評
価結果をホームページに掲載した。また、市職員の採用の透明性を高めるために、面接試
験管に民間人を起用するとともに、平成 12 年(2000 年)から市職員採用試験の募集要項に
点数配分を明確に記し、試験の成績順位も希望者に通知するようにした。
平成 13 年(2001 年)から、市営建設工事の受発注を透明化し公正な競争原理を働かせる
ために、条件付一般競争入札を導入した。平成 14 年(2002 年)には、予定価格と最低価格
を事前公表するとともに、平成 15 年(2003 年)には東北で初めて受注希望型郵便入札制度
を実施している。
平成 14 年(2002 年)に市役所の効率化を目指して構造改革推進本部を設置し、15 年間
で 185 人(全体の3割)の職員数削減方針を掲げ、現在 83 人削減を達成している。平成 14
年(2002 年)には人口 10 万人以下都市(429 市)で、行政改革度第1位にランクされた(日
本経済新聞社)。
平成 14 年から市長給与の 10%、平成 16 年には 20%をカットしており、これは新市にお
いても継続している。
c 地域福祉政策の重点化
介護保険制度の導入に際して、いち早く「いきいき健康都市」宣言を行い、全国に先駆
けて薬局・薬店に介護保険についての「まちかど相談所」を設置し、介護保険のオンブズ
マンとして「サービス向上委員会」を組織した。
福祉構造改革として福祉事業にも競争原理を導入し、市民がより高度な公共サービスを
享受できる体制に転換していった。社会福祉協議会も例外ではなく、旧宮古市では、市か
らの人件費補助を廃止し、独立採算制の自立的経営へとシフトさせた。福祉事業、施設運
営の委託についても、既得権の及ばないコンペ方式を導入し、価格とサービスの質で公正
141
に選定することにした。平成 16 年(2004 年)には、指定管理者制度により養護老人ホーム
の運営を社会福祉協議会に委託している。
子育て支援として、平成 13 年(2001 年)から小学校就学前児童の医療費について所得制
限なしの全額助成に踏み切るとともに、子育て支援センター「すくすくランド」を開設し
た(その後、社会福祉協議会が運営)。平成 15 年(2003 年)には次世代育成支援対策法に
よる地域行動計画策定モデル市町村に、平成 16 年(2004 年)には子育て支援総合推進モデ
ル市町村に指定されている。
(3)活動内容<合併後>
合併後、新市長に就任した熊坂氏は旧市の改革路線を継続して、「改革に基づく新たな
地域づくり」「改革なくして合併なし」のキャッチフレーズを掲げ、市民参加と協働を基
盤として、「簡素で効率的な小さな市役所」「開かれた市役所」の実現を目指している。
市長は、合併後の新市重点施策として「産業振興」と「子育て支援」を挙げた。合併協
議会でも「子育て支援小委員会」が設置され、子育て支援施策についての議論が行われて
いた。その検討を踏まえて、新市では保育料の軽減率を 42%に設定する。これは、県内 13
市で最も安い保育料となった。また平成 18 年(2006 年)から市内の私立幼稚園(4 箇所)
への入園選択に影響がでることを避けるために、全国的にも珍しい「幼稚園保育料軽減補
助」を実施している。これは、幼稚園就園奨励費補助金を使っても保育所の保育料よりも
高くなる世帯に対して、市独自で上乗せの補助を行うものである。
(4)運営・管理の体制、方法
市長は、効率的な市政運営をするためのさまざまな行政改革を行ってきた。新市におい
てもその路線を堅持して、職員の意識改革と意思決定システム改革に取り組んでいる。18
年度からは、幹部からなる「庁議」を廃止し、かわりに市長が主宰し助役、教育長、各部
長等で構成される「経営会議」を据えた。「経営会議」は、民間企業の取締役会に相当す
るもので、各部長は年間の主要事業の目標を定めた協約書に基づき(MBO)、市政経営
者の一員として参画することが求められる。また、各部長も課長からの協約書によって、
それぞれの事業の到達目標と進捗を管理する仕組みにしている。
また、平成 19 年度(2007 年度)から「宮古型フラット化」と称し、組織内の大幅な権限
委譲と年度内の人事異動ができるシステムを導入する計画である。
(5)国の支援措置について
住民に最も近く、そのニーズを把握しているのは基礎自治体である。しかし、国庫補助
負担金を自治体の裁量で適切に使うことができず、必ずしも住民ニーズに即した有効な使
い方ができなかった側面がある。一方、介護保険制度で実証されたように、国から自治体
に権限と財源が移譲されれば、自治体の力量によってかなり効果的な使い方ができるはず
である(熊坂市長談)。
(6)取り組みの成果
平成17年(2005年)の行政職ラスパイレス指数は92.4で、これは岩手県内の13市で最も
142
低くなっている。また、平成15年度(2003年)末の市民一人当たりの市債残高は44万2000
円で、これも県内の13市で最も少なく、行財政改革の効果が表われたものといえる。
現在、社会福祉協議会は市からの事業を自力で受託し、自立的経営を果たすまで成長し
た。改革前は4人の職員が現在は250人の規模になり、年間事業実績も約8億1000万円に及
んでいる。社会福祉協議会が質の高いサービスを低価格で提供する経営努力を行うことに
よって、競争相手としての民間サービスの質も高めていく効果があった。
合併後にも、特別職 10 人を3人に減らし(平成 17 年(2005 年)から収入役を廃止して
助役が兼務)、9500 万円の年間報酬費を削減した。この削減分は、保育料引き下げのため
の財源に当てられている。また、議会議員は平成 18 年(2006 年)5月から 21 人減の 30 人
とし、5000 万円を削減した。一般職員も、15 年後には、管理部門の統合と退職者補充を抑
えることにより、合併時 753 人から 235 人減の 518 人を目指す計画である。以上の減員効
果で、15 年後には 47 億 3000 万円超の人件費削減が予定されている。
3.キーパーソンについて
(1)プロフィール
昭和27年(1952年)福島市生まれ。福島県立
福島高等学校卒業後、東北大学工学部を中退し、
医療の道を志す。弘前大学医学部に再入学し、
卒業後は同大学附属病院内科医師として務める。
その後同大学医学部助手となるが、妻(伸子氏、
弘前大学理学部で知り合う)の出身地である岩
手県宮古市に引っ越し、臨床医として地域医療
にかかわる。昭和60年(1985年)から岩手県立
宮古病院の内科科長を務めた後、昭和62年(1987
年)に宮古市内で内科医院を開業した。
平成9年(1997年)に宮古市長に当選する。
宮古市長 熊坂義裕氏
市長就任後さまざまな改革に取り組み、平成13
年(2001年)に再選、二期目に入る。平成の大合併では、周辺町村との合併を先導する。
合併後の新市の基盤をつくるべく新市市長選に立候補し当選。自治体首長で初めてケアマ
ネジャーの資格を取得。妻の伸子氏は平成15年(2003年)5月から17年(2005年)3月ま
で岩手県滝沢村助役を務め、平成18年(2006年)4月から岩手県普代村教育長に就任して
いる。
著書:「地域から日本を変える」(改革の灯を消すな市長の会編 清水弘文堂書房)2006年、「自
治体経営革命」(メタモル出版)2003年、「青年市長∼ニッポンの新世紀∼」(全国青年市長会
編:河出書房新社)2000年
(2)活動のきっかけ
最初は、2、3年のつもりで宮古市に来た。しかし、とても良いところであったので、
そのまま住み着つくことになった。宮古市に開業して以降、さまざまな患者に接するうち、
143
地域の問題にも関心を持つようになった。診察した患者は3万人で、市の半分の人とは触
れ合っていることになる。この住民とのかかわりが、市長を志すベースになっている。
宮古市に住み続けようという気持ちになって、医者同士だけではなく地域の人とのつな
がりを持つように心がけた。平成2年(1990年)には陸中宮古青年会議所理事長に就任し、
地域課題への認識をいっそう深めていった。「明日の宮古・下閉伊を考える会」に参画し、
講師を呼んで地域づくりについて学びあった。
若さの勢いもあって、41歳の時に、人口減少と産業の衰退で活気がなくなった宮古市を
「どうにかしよう」という純粋な思いを抱いて市長選に挑んだ。しかし、現職と県議を相
手にした三つ巴の戦いになって、結局僅差で敗れてしまう。患者たちは励ましてくれたり、
医師に戻ったことを喜んでくれたが、不完全燃焼の思いが残った。その後、4年間は、政
策についての勉強を徹底して行い下地を作り、平成9年(1997年)に再び市長選に出て当
選した。二期を務めたころ、平成の大合併の時期にかかり、行政の効率化のために合併の
必要性を感じて推進してきた。その責任もあって、新市の基盤をつくるべく、新市長に立
候補した。
(3)活動の信条と理念
公平・公正・公開、対話と思いやり、改革と挑戦の姿勢という言葉を、選挙の公約とし
て掲げてきた。座右の銘は、昔は「誠心誠意」、今は「一隅を照らす」にしている。
「政治家になる」ことが目標になると、住民のためにという意識が薄まり、住民意識と
ずれが生じてしまう。政治の基本は、あくまでも住民のニーズをいかに的確に汲み取るか
にあると考えている。そのために「市民参加」、「情報公開」、「行政評価」に積極的に
取り組んできた。
(4)心がけていること・活動のポイント
情報は市民のものという姿勢を貫き、情報公開条例も先駆けて施行した。市交際費や入
札結果も 100%公開している。それが市民参加の原動力になり、行政評価の基となる。
また、行政を組織として動かすためには、完璧に情報を共有していくことが肝要である。
宮古市では、行政情報を皆がリアルタイムに共有できるシステムにしている。2週間に1度
くらいの頻度で市長から職員あてに、施策・方針についてのメールを送っている。それに
対しての職員の反応もあり、その意見を汲み取るための「話し合い」も意識的に行ってい
る。また、経営会議の決定事項も随時掲示板に掲載している。そのほか、毎朝1時間程度、
市長・助役・総務企画部長の三者でミーティングを行い、トップ情報を常に共有している。
(5)活動を支えるネットワーク
市長のネットワークとして、改革派市長による青年市長会、改革の灯を消すな市長会、
医家市長会がある。市長同士で互いに良いところは学んでいく関係にある。また自民党の
県議や代議士、党派を超えた先輩たちとのつながりもある。妻(伸子氏)からの辛口のア
ドバイスもある。
144
(6)最も苦労した事柄
市長になって最初に、職員の意識改革に取り組んだ。住民は顧客であるという意識を持
ってもらうために、市役所の窓口に来た方を「∼さま」づけで呼ぶようにした。また、転
出届けひとつにしても、お客を各課に動かすのではなく、職員が動いて対応するようにし
た。このようなワンストップサービスにするためには、全てのデータをコンピューターに
入力して瞬時に処理できなければならなかった。そのための仕様書は 3000 枚に及ぶもので
あったが、職員はそれをこなしてくれた。
最初は職員も仕事を増やしたくない心理が働き「できない理由」を並べることもあった
が、この 10 年で、職員の行動は随分変わった。心まで変化したかどうかは分からないが、
行動こそが意識の表れであり、それは評価したいと考える。
市民参加を推進するために、審議会・委員会への議員の参加を廃止した。議員にとって
は肩書きが減ることになるので抵抗感もあっただろうが、議会の承認もとりつけて実施に
こぎつけた。
(7)岐路に立ったときの解決策
市長就任時の宮古市は、県内市町村で福祉サービスが最下位レベルであったこともあり、
福祉最優先という公約を掲げた。しかし、財政逼迫のなか一般財源でそれを実現するには
厳しい状況であった。特に宮古市は災害も多く、インフラ整備も遅れており、財政的な余
裕はなかった。平成9年(1997年)に24時間訪問サービスを実施したときには、敬老祝い
金を廃止してそれに充てたが、そのような対応にも限界があった。
その時に、介護保険制度導入の動きがあった。反対の多かった制度であったが、これを
チャンスと受け止め、「介護保険を追い風に」という姿勢をいち早く表明し、宮古市の地
域福祉向上の足がかりとして活用した。制度について徹底して勉強し、自治体首長では最
初にケアマネージャーの資格を取った。そのような姿勢が評価され厚生労働省からモデル
として取り上げられた。本省からキャリア職員が派遣され、制度導入のパイプ役として務
めてくれた。また社会福祉協議会も積極的に対応するようになって、お陰で地域福祉の基
盤を作ることができた。介護保険の導入によって、住民のニーズをどのように捉えるか、
また自治体経営のあり方、地方分権の何たるかを学ぶことができたと確信している。
(8)阻害要因
合併によって、他の町村と足並みをそろえることが必要になった。自治基本条例につい
ても、宮古市は先進的に取り組んできたが、合併までそのスピードを緩める必要も出てき
た。しかし合併後には、新市としての改革路線を敷いて対応している。
(9)成功要因
住民のためにという志で市長になり、また医師という職業を持っていたこともあって、
政治家としてのしがらみが一切無く、改革を思うように進めることができた。例えば、入
札制度の改革についても、建設業界の反発は大きかったが、躊躇無く実行できた。
改革の推進によって、とくに社会福祉協議会の位置づけが変わった。人件費を一切出さ
145
ないという方針は社会福祉協議会にとっては衝撃であり、緊張感が高まったようだ。しか
し、福祉サービスは住民のためのものであり、より高質で安価なものを提供することも社
会福祉協議会の役割である。NPMの考えを受け入れて努力したことによって、社会福祉
協議会のサービスだけでなく、結果的に民間のサービスもレベルアップすることができた。
(10)失敗談
一度目の市長選で失敗したことが、結果的には良かったといえる。もしそこで勝ってい
たら、政策的な勉強も不十分なまま、議会と渡り合うことになっていた。改革には、議会
とうまく調整をはかりながら、
「二歩下がって三歩進めていく」ような姿勢が必要であった。
公共施設の設計にミスがあり、工事の差し止めをした結果1億円を越す損害になった。
その時、責任をとって市長給与を50%カットした。既に財政的事情で20%カットしていた
ので、合わせて70%にもなった。しかし、どんな失敗があっても、「とかげのしっぽ切り」
をしてはいけない。職員も、一生懸命やっても失敗することはある。しかし、やらないよ
りは、失敗をしてもやった方が良い。失敗したら、長たる者が毅然とそれを受け止め責任
をとることが大切である。
(11)今後の方向性
地方行政は、基礎的自治体を基本とするが、その効率的な運営のためにも、効率的とさ
れる15万人程度1に統合していくことが必要と考える。さらに、道州制を進めて地方政府が
権限を持ち、国は「小さな政府」として外交・防衛を担うなど、役割分担をしていくこと
になる。基礎的自治体である市町村は、公的サービスに相当の力を入れてやっていかなけ
ればならない。市民が望むことを、行政が協働して実現していくこと、そのためには市民
参加、行政評価、情報公開を徹底して行い、これまでのNPM型改革を加速していきたい
と考えている。
平成19年度(2007年)から実施する「宮古型フラット化」は、年度内で部課内の人事異
動ができるようにしたものである。これは、「職員が年中忙しくなる」システムであると
説明している。これまでは、部課内での職員の稼動に偏りがあったが、忙しい所に人を異
動させて補充する仕組みにする。効率を高めることによって、結果的に人員削減に結びつ
く。合併後2年間で10%人員削減をし、15年間で31%の削減を目標としているが、おそら
く7、8年で目標をクリアできるだろう。
(12)事業の継承
改革のための改革ではなく、それが目的になってしまうと本末転倒する。あくまでも住
民のための改革であることを忘れてはいけない。合併協議会で実施した住民対象のアンケ
ート調査で宮古市に一生住み続けたいという人が、8割もいた。その人たちに対する責任
の重さを感じる。産業振興、子育て支援を柱として、より良い地域にしていきたいと思っ
ている。
1
宮城県ホームページ http://www.pref.miyagi.jp/sichouson/gappei/gp-y-5.htm 参照
全国の市町村における人口 1 人当たりの歳出総額の理論曲線(平成 7 年度)より
146
いったんシステムが作られれば、逆行することはない。例えば、情報公開でも一度公開
システムが作られれば、たとえ市長が変わっても、クローズすることはできない。市民の
ために、誰がなっても(左右されずに)続いてくシステムを、自分の時代に築くことが責
務と考えている。
今は任期を全力で果たすことが大切なので、その後のことは余り考えていない。医療現
場に戻って、また医師として市民のために働く道もあるだろう。
(13)後継者(担い手)育成
組織は人である。どんな改革をする時も、最後は人である。市民の喜びを自分の喜びに
していくことが公務員としての志、価値であり、そういう職員としての意識を持ってもら
うことが望みである。「全体の奉仕者」として宣誓した初心にもどり、税金で働いている
ことを自覚しなければならない。そういう仕事をしていくための環境・基盤をつくってい
くために、市長としての自分を利用していって欲しいと職員には話している。
ヒアリング先情報
住所・連絡先
URL
宮古市役所
〒027-8501 岩手県宮古市新川町2-1
TEL
0193-62-2111
FAX
0193-63-9124
http://www.city.miyako.iwate.jp/
e-mail
[email protected]
147
事例5:新潟県
越後妻有地域「大地の芸術祭」
1.活動概要
(1) 活動のきっかけ
平成 6 年(1994 年)、新潟県知事によって提唱された将来的な地域再生のビジョンを考え
り そう
る「ニューにいがた里創プラン」の指定地域(14 の広域行政区域のうち 3 地域指定)として、
6市町村(十日町市、川西町、津南町、中里村、松代町、松之山町)からなる越後妻有地域が
選ばれ、アートにより地域の魅力を引き出し、交流人口の拡大等を図る「越後妻有アートネ
ックレス整備構想」がスタートした。しかし、この地域は典型的な中山間地域であり、また
世界でも有数の豪雪地域で、年間の5ヶ月は雪の下での暮らしを余儀なくされる厳しい環境
の地である。さらに、高齢化が進み、65 歳以上の高齢者割合が 25%を超え、棚田の多いこの
地域での農作業は厳しく、マイナス要因の多い地域での芸術による地域再生は、直ちに住民
の理解が得られるものではなく、多難な活動の開始であった。
この「越後妻有アートネックレス整備構想」の事業の柱は、地域の魅力を再発見するため
に行われた写真と言葉のコンテスト「越後妻有 8 万人のステキ発見事業」、花を使って広域を
繋ぐ美しい交流ネットワークをつくる「花の道事業」、3年に1回開催する野外アート展「大
地の芸術祭
越後妻有アートトリエンナーレ」
(2000 年、2003 年、2006 年開催)と異なるテ
ーマを持ち地域の拠点施設を整備する建築プロジェクト「ステージ整備事業」からなり、10
年間事業として位置づけられている。
(2) 活動内容
2000 年に始まった「大地の芸術祭
越後妻有アートトリエ
ンナーレ」は、越後妻有地域の里山の自然と約 200 ある集落
に徹底的にこだわり、現代アートの世界のトップアーティス
トが、広大に広がる里山にアートを点在させ、観客がそこを
巡回する形式になっている。地域活性化の主旨から、出来る
だけこの地域をじっくりと見て回ってもらおうという北川総
合ディレクターの思いからである。
開催時期は 7 月から 9 月の 50 日間に開催され、今年(平成 18 年(2006 年))は、
「ニュー
にいがた里創プラン」10 年計画の総括の年として、7 月 23 日から 9 月 10 日まで開催された。
40 の国と地域から約 200 組のアーティストが参加し、第 1 回、2 回の常設の作品を合わせて
330 を超える作品が展示された。
この運営には、
「こへび隊」と呼ばれる都会からやってきた若者のサポーターがボランティ
アで協力し、準備段階から大きな支えとなっている。
第 1 回から第 3 回開催の 10 年間をとおして多くの集落が参加し、アーティストとの協働作
業、地域を変貌させる個性的な拠点施設、地域振興の核として廃校や空家をアートによる交
流の場として再生した「空家プロジェクト」等、トリエンナーレにより広がった大学や他地
148
域との連携が生まれつつある。
(3) 構成メンバー
・
北川フラム氏(総合ディレクター)とアートフロントギャラリー職員(10 人)。
・
こへび隊(都会の若者)
・
大へび隊(企業スポンサー、また社会人・シニアのサポーター、
ベネッセコーポレーション
代表取締役
福武總一郎氏:福武氏は第 3 回から財界ス
ポンサーを発掘。次に繋がる資金ベース作りとなる。)
・
アーティストと作品展示集落の住民(リーダー)
(4) 運営体制
事務局:十日町地域広域事務組合企画振興課
行
政:新潟県、地元自治体(十日町市、川西町、津南町、中里村、松代町、松之山町
6 団体、2005 年より十日町市、津南町
2 団体)
運営受託者:(株)アートフロントギャラリー
サポーター:こへび隊、大へび隊
にいがたサポーターズ会議(新潟市を中心に構成されたボランティア組織
第
3 回より参加)
(5) 事業の成り立ち
本事業は新潟県の単独事業として実施。
県:6 億 700 万円、
市町村:5 億 300 万円
拠点施設(4 箇所):63 億円
第3回
(10 年間)
(過疎、地域振興債)
県、市町村:2 億 8000 万円
企業寄付:2 億円
パスポート売り上げ:1億 4000 万円
(6) これまでの経緯
1994 年
「ニューにいがた里創プラン」策定
1997 年
「越後妻有アートネックレス構想」立ち上げ。北川フラム氏は同委員会メ
ンバーとして当初より参画
2000 年
第 1 回「大地の芸術祭」開催
2 集落参加
観客総数 16 万人
<公共スペースでの展示が中心>
2003 年
「越後妻有アートネックレス整備構想」の地域拠点整備として 3 施設完成。
・越後妻有交流館・キナーレ(十日町市)、
・まつだい雪国農耕文化村センター「農舞台」
(松代)、
・越後松之山「森の学校」キョロロ(松之山)
第 2 回「大地の芸術祭」開催
50 集落参加
観客総数 20 万人
157 アーティスト
<集落での複数展示>
149
2006 年
第 3 回「大地の芸術祭」開催
200 集落参加
観客総数
35 万人
「空家プロジェクト」をテーマ
<家の中まで入った展示>
(7) 目に見える成果
<ソフト面>
・ 「大地の芸術祭」が、県を代表するイベントとなった。
・ 地元住民にとっては合併間際で行ったこともない集落もあったが、芸術祭を通
じて足を運ぶきっかけとなり、同じ地域だという意識が生まれた。
・ 観光客やこへび隊等と接することで、住民が自分のふるさとに誇りをもつよう
になった。
・ 住民の連鎖で回を重ねる毎に参加集落が増え、参加意識が高まった。
・ 今まではアートフロントギャラリーという外の力で開催していたが、3回目以
降は、自分たちで何とかしていかなければという意識が芽生えた。
・ アーティストにとっては、この芸術祭の公募展は新人の登竜門となっている。
<経済的効果>
・ 延べ 35 万人もの観客動員(国内外のマスコミに取り上げられたことがより効果
を生む)
・ 海外メディア(特にアジア)が注目し取り上げたことにより、観客の中には海
外からのツアー客も含まれた。
・ JR、JTB等のツアー
・ パスポートの売り上げ 7 万枚。
(特に、小中高校生は無料パスの中で地元で 1 万
枚売り上げる)
・ 空家プロジェクトでの家屋の修復等、地元工務店への発注。
2.キーパーソンについて※
(1) プロフィール:北川フラム氏
(株)アートフロントギャラリー
代表取締役
アートディレクター
昭和 21 年(1946 年)新潟県高田市生まれ。東京藝術大学卒業。
「ガウディ展」、「アパルトヘイト否!国際美術展」等の巡回展、
企画展をプロデュース。また、都市・建築・まちづくりにおけるア
ート計画を多数実践。平成 6 年(1994 年)の「ファーレ立川アート
計画」では 36 カ国 92 名のアーティストとの協働で都市の再開発にアー
<北川フラム氏>
トを活用。
平成 9 年(1997 年)より十日町地域「ニューにいがた里創プラン事業」の総合コーディネ
※
「2.キーパーソンについて」に関する記載は、主に北川フラム氏のヒアリングから事務局(
(財)
関西情報・産業活性化センター)で取りまとめたものです。
150
ータとして、越後妻有アートネックレス構想に携わる。
(2) 活動のきっかけ
新潟県の単独事業として知事の提案により「ニューにいがた里創プラン」が策定され、ア
ートによる地域活性化事業であることから、県出身者でありアートプロジェクトの実績があ
る北川フラム氏が、委員として構想段階より「大地の芸術祭」総合ディレクターとして関わ
ることとなった。
(3) 信条・活動理念
・ 越後妻有で生活できることを豊かだと実感できるようにしたい。
・ 『夏耕冬読』の地にしたい。豪雪地帯の雪を財産にする。
・ 里山と越後妻有にある約 200 の集落に徹底的にこだわればなんとかなる。
・ 美しいけれど見ただけで農作業の大変さがわかる棚田を長年守ってきたことへのお礼
と、地元の人たちがそのことに対して誇りをもてる環境を作りたい。美術の力を使って
里山を見せる。
・ 美術は赤ん坊。手間がかかる。とにかく皆で面倒をみることが必要。良い悪いを越えて、
その赤ん坊が場所とか人を繋げた。それが美術の最大の働き。
(4) 特に心がけていること
この地域は十日町を抜くと高齢化率が 4 割であり、後 10 年余りで農業をやることも不可と
なるであろうと言われている。農業をやってきたお年寄りが、180 度違うところの都市の若
者やアーティストとが出会って動き出す。違えば違うほど面白い。アーティスト、サポータ
ー等と集落の人たちとのコミュニケーションを図ることで元気になる。
(5) 活動のポイント
広大に広がる里山にアートを点在させて、美術の力を使って徹底的に里山を見せる。地域
の人だけでは何も出来ないので、ふるさとづくりが始まっている都会からの応援団(こへび
隊、大へび隊)と協働する。
里山に魅せられたアーティストが、集落の人たちとコミュニケーションすることによって
地域を理解し、また、地元の人たちはアーティストの忍耐強い態度に刺激を受けて一緒に作
業に加わることで、参画意識が芽生える。
(6) 活動を支えるネットワーク
・ こへび隊(都会の若者)
:
第 1 回開催前年から集落に入り、一軒一軒回って開催主旨
を説明。アーティストの作品づくりのサポートから運営のサポートまでボランティアで
行う。第 3 回展では社会人やシニアまで年齢層が広がった。
・ 大へび隊(企業スポンサー
ベネッセ
福武氏等):協賛金、ネーミングライツとして
協力。
・ アーティストと作品展示集落の住民(リーダー):
アーティストとの協働による作品
作りや、観客受け入れによる地元のもてなし(各地域の工夫による)
151
・ 十日町地域広域事務組合(事務局)
:事業の実施から財政的な管理運営全般。自治体間
の調整。
<地元での協力者(一部)>
松代・東部タクシー
代表取締役
村山達三氏
川西・川西里創プラン委員
押木敦子氏
十日町・下条地区振興会長
生越誠一氏
十日町・願入・「うぶすなの家」リーダー
水落静子氏
(7) 最も苦労した事柄
この地域は典型的な中山間地域であり、冬季は雪に閉ざされる世界的にも屈指の豪雪地帯
であることから、日常的に外部との交流も少なかった。従って、まず現代アートに対しては、
前衛芸術でアーティストが独りよがりで環境を破壊するのではないかというイメージの先行
でしかなかった。そんな中での最初の地元への説明会では、参加者(約 100 名)が全員反対
の状況であった。また、地域外の他者と関わりながら物事を進めるという経験が少ないため、
外部の人間や新しい事柄に対する抵抗感が強くあった。
もうひとつ大変苦労した点は、行政の仕組みである。当時 6 つの市町村と広域事務組合の
調整で、夫々には議会があり、また担当者から首長まで各階層での会議を何度も繰り返さな
ければひとつのことが決まらないという状況であった。振り返ると約 2000 回にも及ぶ会議、
説明会を行っても充分な理解が得られなかった。
(8) 岐路に立ったときの解決策
この地には市町村や広域事務組合とか複雑な機構があるが、現実的な単位は集落であると
いうことが、隈なく現地を見て回ってわかってきて、越後妻有にある約 200 の集落に徹底的
にこだわったこと。そのため、アーティストやこへび隊が集落に入り、その地を勉強しコミ
ュニケーションを深めたこと。
(9) 今後の方向性
「大地の芸術祭」は県の「ニューにいがた里創プラン」の一環として、10 年間の事業である
ため、次回(第 4 回)からは、自立の道を歩むこととなる。3 回の開催を通して、地元の人
の心が動いたことが大きな成果であるだけに、地元自治体も開催の方向で検討せざるを得な
いと考えられている。
また、会期終了後も土、日、祝日に空き家プロジェクトや恒久作品を見て回る地元の「越
後妻有里山アートツアー」や東京はとバスのツアーも運行されている。
さらに第 3 回までの 10 年間でしっかりと今後の布石が築かれており、
「空家プロジェクト」
や棚田のオーナー制度、そのための「里山協働機構」の立ち上げ等、自立のための具体的な
取組みのステップを踏み出そうとしている。
※
「空家プロジェクト」
:第 3 回開催時の主力プロジェクト。この地の空家や廃校を修復し展示場やレスト
ランに活用。 空家探し→建物調査→契約交渉→アーティストの視察・決定→プランの検討と地域への説
152
明→建築家の設計→掃除・片付け→工事
のプロセスを経て活用。廃校は指定管理者制度を活用し、空
き家は個人財産のため行政の関与は難しく芸術祭開催期間の短期賃貸物件はアートフロンドギャラリー
が契約主体となり、長期賃貸や買取物件は(有)里山妻有を立ち上げ、持ち主と契約し、改修・購入費
を立替、次のオーナーを探す仕組み。
※
構想「里山協働機構」
(仮称)
:
「大地の芸術祭」の企画運営を行う会社と想定。日常活動として、都会に
農産物を送るケータリングサービスや棚田のオーナー制度を行う。都市の応援団に出資してもらい、ま
たオーナーとして労働も提供してもらう。指定管理者となった施設を活用して、学会やセミナーの開催
や美術館として活用することを検討。夏耕冬読の地、ダボスやアスペンを目指す。
(10)事業の継承
「大地の芸術祭」は、総合ディレクターの北川フラム氏とアートフロントギャラリーに負う
ところが大きく、またそのネットワークで成果を収めてきたといっても過言ではない。しか
し、この間、地元住民の意識も確実に変化し、北川氏のこの芸術祭の意図するところが理解
されてきている。すなわち「人が来て終わりではなく、その後どうするが大事で、地域間の
交流や地域住民の意見交換を踏まえ、作品の使い方を都会の人たちと協働で考えていきたい。
またそれによって、他の中山間地域との差別化を図りたい」
(住民の弁)との意識と行動に現
れてきている。
・ 川西 「ベリースプーン」をきっかけに、ベリー園をつくり、ジャム作り等をとおして、
今では川西地区を「ベリーの里」にしようという動きに繋がっている。
・ 願入「うぶすなの家」
:
「空家プロジェクト」の一環として、作品展示とレストランとし
て地元野菜を中心とした料理を振舞う。このレストランの経営はアートフロントギャ
ラリーであるが、会期後も土日に営業を行っており、地元の女衆には活気と自信が出
てきている。
・ 拠点施設や空家プロジェクトの一部は、指定管理者による運営が開始されており、指定
管理者の創意工夫による企画運営がなされようとしている。
153
地域概要
<地理>
越後妻有地域は、新潟県南部の長野県との県境に位置している。東は南魚沼市、北は小千谷市、西は
上越市、南は湯沢町と長野県栄村などと接し、東京からは約 200km、新潟市からは約 100km の地点にあ
る。市域の東西は 32km、南北は 43km の広がりをもち、面積は 760km2 で新潟県の 6.1%を占める地域で
ある。
市の東側には魚沼丘陵、西側には東頸城丘陵の山々が連なり、中央部には日本一の大河信濃川が南北
に流れ、十日町盆地とともに雄大な河岸段丘が形成されている。また、西部中山間地域には渋海川が南
北に流れ、流域には集落が点在し、棚田などにより美しい農山村の景観を呈しており、最南部は上信越
高原国立公園の一角を占め、標高 2,000m 級の山岳地帯となっている。
<気候>
気候は日本海型気象区分に属し、毎年の平均積雪は 2m を超え、全国有数の豪雪地帯である。1 年の 3
分の 1 以上が降積雪期間となり、この気象条件が、独特の生活文化の形成や経済活動などに大きく影響
している。
<市町村合併の流れ>
越後妻有地域の中で十日町市は、平成 17 年(2005 年)4 月 1 日に旧十日町市、川西町、中里村、松代
町及び松之山町の 5 市町村が新設合併して誕生している。
<交通>
交通網は、南北には信濃川沿いに国道 117 号と JR 飯山線、渋海川沿いに国道 403 号が走り、東西には
北から国道 252 号、253 号、353 号、405 号が走っている。また、平成 9 年には、市域の中心部を横断す
る第 3 セクターのほくほく線が開業し、上越新幹線越後湯沢駅から日本海側の JR 信越本線・北陸本線を
最短距離で結ぶものとして、首都圏や北陸方面からの近接性が高まっている。
<産業>
産業面では、旧十日町市の地域は昭和 30 年代(1955 年代)の高度経済成長期からきもの産業が大き
く成長を始め、これを主産業として栄えてきたが、昭和 50 年代(1975 年代)に入り生活様式の変化等の
波に洗われ、現在に至るまで出荷額や従業者数が減少してきている。津南町、川西地域、中里地域、松
代地域及び松之山地域は、稲作を主体とする農業を主産業としてきたが、新規学卒者の市外流出や昭和
45 年からの減反政策などもあり、農業離れや後継者不足が問題となっている。
一方、日本三大薬湯といわれる松之山温泉や豊かな環境に包まれた当間高原リゾート、大地の芸術祭
の開催をきっかけとするアートのあるまちづくりなどを資源としながら交流人口の拡大を進めている。
また、情報化社会の進展を基盤とするソフト産業の拡大や、特用林産物であるきのこの栽培、農山村で
あることを活かしたグリーンツーリズムへの対応、構造改革特区の制度を活用したどぶろくの製造など
多様な活動を展開してきている。
<過疎>
津南町、川西地域、中里地域、松代地域及び松之山地域は、従来から過疎地域として指定され、国・
県の支援を受けながら地域の活性化や自立に向けての取組みを行っている。また、十日町地域も、合併
を機に初めて過疎地域に指定されることとなった。十日町市の人口は 63,135 人(平成 18.3.31 住基)、津
南町の人口は 11,868 人(平成 18.3.31 住基)。将来人口の推計では、出生数の減少と新規学卒者の市外流
出が著しいことから、当分の間毎年 700 人から 800 人のペースで減少する見込みでとなっている。また、
高齢化の状況は厳しく、65 歳以上の高齢者人口比率は十日町市では 28.3%(平成 16.3.31 住基)で、新
154
潟県平均を約 5 ポイント、全国平均を約 9 ポイント上回っている。
<地域のシンボル>
・「火焔型土器」:昭和 57 年(1982 年)、笹山遺跡から発掘された「火焔型土器」は、日本の原始美術
を代表するすぐれた造形美は世界から注目を集め、平成 11 年(1999 年)に新潟県初の国宝に指定。
・美しい棚田と日本有数の米どころ。
・ゆかりの人:志賀卯助(日本を代表する昆虫採集家)
ヒアリング先情報 1
(株)アートフロントギャラリー
〒150-0033
住所・連絡先
東京都渋谷区猿楽町 29-18
ヒルサイドテラスA棟
URL
http://www.artfront.co.jp
e-mail
fram@ artfront.co.jp
ヒアリング先情報 2
03-3476-4868
FAX
03-3476-4874
TEL
025-757-2637
FAX
025-757-2285
十日町地域広域事務組合
〒948-0036
住所・連絡先
TEL
十日町市北新田 1 番地 10
http://www.echigo-tsumari.jp/link/index.html
(「大地の芸術祭」公式ホームページ)
URL
http://www.pref.niigata.jp/chiikishinko/toukamachi/
(但し、新潟県十日町地域振興局のホームページ)
<ヒアリングに協力いただいた方々>
・ (株)アートフロントギャラリー
・ 十日町地域広域事務組合
代表取締役
企画振興課
課長
北川フラム氏
小堺定男氏、参事
氏
・ 松代・東部タクシー
代表取締役 村山達三氏 (観光カリスマ)
・ 川西・川西里創プラン委員
押木敦子氏
・ 十日町・下条地区振興会長
生越誠一氏
・ 十日町・下条願入・「うぶすなの家」リーダー 水落静子氏
・ 十日町市中里支所 地域振興課 自治振興係 主事 高橋 剛氏
155
久保田行雄
事例6:東京都
千代田区「ちよだプラットフォームスクウェア」
1.概要
千代田区では以前より、夜間人口の減少、空きビルの増加といった問題があり、また、
時代のニーズにそぐわなくなった中小企業センターの設備老朽化、利用頻度減少という問
題も抱えていた。そこで千代田区は、これらの問題を解決するための施策として、平成 15
年(2003 年)12 月に中小企業センターを空きビル再生のモデルケースとしてリニューアル
を行った。同時に、ビルを一括管理し、入居者への育成支援を行うマネジメント事業者を
企画提案方式にて公募を行った。この施策から選ばれて生まれたのが「ちよだプラットフ
ォームスクウェア(CPS)」である。
CPS の企画は、千代田区が平成 12 年 2000 年に小林重敬氏(横浜国立大学教授)を委員
長にして興した「千代田 SOHO まちづくり検討委員会」より生まれた。委員会では、千代
田区における新しい産業の振興
コミュニティの創生を目指し、外郭団体のあり方や公的
施設の見直しが検討された。
・ 事業内容
CPS の事業内容は、千代田区の地域特性を踏まえた「SOHO まちづくり」を推進するた
め、SOHO 同士が集い、共に連携・協働しながら、様々な新しいプロジェクトを生み出し
ていく為の拠点施設として運営することである。入居者に関しては、プラットフォームサ
ービス株式会社が直接入居希望者を探すのではなく、まず核になるエージェントを呼んで
きて、その人のネットワークを活かし、発展させていくという手法をとった。独立系フリ
ーエージェント、企業家・社会企業家、大企業 SOHO、SOHO 予備軍と関係のあった、支
援していたエージェントをまず探し、交渉を行った。現在公式にはエージェントは 11 人存
在する。月1回程度、エージェント同士が議論をし、それぞれの会社の事業を成功させつ
つ、より活性化させるというエージェント連絡会議の場を設けている。
現在は周辺地域への展開を進めている。その第1弾として、フリーランスが 7 社ほど入
れるスペースを民間のビル内に設けた。7 社それぞれの仕事と、7 社合同での仕事を行う。
首都大学東京との連携も進めている。機能も含め老朽化した中小企業センターの再生事業
をコアと位置づけ、第2弾、3弾と進展していきたい。
・ 構成
運営は、CPS 代表取締役の藤倉潤一郎氏と、取締役会長の田辺恵一郎氏を中心として行
われている。会長の田辺氏は、事業構想の中に「まちづくり」の視点を入れるように要望
した人物であり、立ち上げ時の出資のお願いやインフォーマルな交流の支援といった形で
156
藤倉氏を支えている。
■ 特徴
・ 非営利型株式会社
地域の担い手は企業ではいけないと言われる。しかし、NPO は行政主導で作られ、最後
まで行政が介入する。それならば行政がやればいい、となる。また、同様の理由で NPO は
意思決定が遅く、金を集められない。(もちろん、地域の特性によっては行政主導でやった
ほうがいい場合もある。全部民間主導でやらないといけないわけではない。)これらの結果
から模索した方法が非営利型株式会社である。
非営利型株式会社とは、通常の株式会社と異なり、配当は無い。配当は地域の活性化等
の社会的利益を生み出す事業に参画し、地域に還元することだ、と出資者には説明してい
る。この趣旨に賛同して出資を行った金融機関が政策投資銀行、商工中金、興産信用金庫
であった。その他地域ファンドとして「志しある投資」が集まった。
・ 家守制度
家守は明治以降、地面差配人と呼ばれた。地主のエージェントとして、土地の価値を最
大限に高め、地域の現在・未来に必要とされる人材を土地に住まわせ、定着化させる役割
を担ったという。
一方で公私分離以前の江戸時代の家守は、上記のような差配人としての機能・役割以上
に、今日で云うところの住民基本台帳の整備や下水処理的な仕事など、現在の役所の仕事
の原型となった機能・役割の多くを担っていたといわれている。
現在、現代版「家守」を旗印に事業を営もうとすることは、官から民への時代の流れを
象徴する意味合いで、適当であると思われる。また今日的には、当時の家守が職人を親方
に仲介し、身の回りの世話を焼くなどの店子のエージェント、すなわち、ビジネスマッチ
ングやビジネスコーディネートの機能・役割がより重要性を増している。
このような仕事を、官が担うことも出来るが、その場合に果たすべき機能・役割は限定
的なもので、民の活力が発揮される方向で、そうした取り組みをオーガナイズすることに
注力することが期待されるのではないか。
今日では様々な SOHO エージェントが存在しており、総務省、経済産業省、厚生労働省
の施策に於いても、その健全な伸張・発展が期待されているところである。プラットフォ
ームサービス株式会社では、SOHO エージェントを現代版「家守」の潜在的な事業者とし
て位置づけ、これら SOHO エージェントがちよだプラットフォームスクウェアの活動を通
じて、ファシリティ・マネジメントやタウンマネジメントなどの理解を深め、地域的な機
能・役割を発現していくことで、現代版「家守」として成長していく機会・環境を整えて
いきたいと考えている。
157
■ 千代田区を選んだ理由(地域資源)
国の主要な機能が集中していること。大企業が存在し、ニューヨークの SOHO 地区と同
様の意味で、SOHO が起ち上がる環境要因が整っていること。全国区域からのアクセス、
効果の波及を考えた場合、他の地区と比較して圧倒的な優位性があること。
・ 地域資源としての歴史的文脈の活用
とりわけ神田地区は歴史的に見て、江戸文化を支えた職人が集積した場所であり、全国
から腕の良い職人が集まり、切磋琢磨しながら成長し、また地元へと帰っていった、人間
マッチポンプのような機能・役割を果たしてきた土地であり、SOHO の全国的なハブ、メ
ッカとして相応しいと考えられる。
いわゆる 2003 年問題と言われるオフィスビル供給過剰問題を抱えており、膨大なハード
ストックが未活用の状態となることが予想され、小規模オーナーが単独でこのような事態
に対処していくことは困難であること。また、土地の歴史的・文化的遺伝子の観点から、
大規模型の再開発は適切ではなく、限界があると考えられた。
上記のような事態・状況や機会を適切に理解し、検討委員会の契機として、意欲的かつ
効果的に SOHO 振興の施策を推進しようとする区職員の存在があった。また、事業の立ち
上げに際しては、千代田区の著名な有識者をはじめ、青年会議所 OB などの民間事業者、ビ
ル・オーナーの賛同が得られ、広く一般から非営利型の株式会社に対する「志ある投資」
が得られたことが大きい。
2.キーパーソン
藤倉氏について
(1)信条、活動理念、心がけている事項
・ 常に利用者としての視点から新たな価値、機会の
発掘に取り組むこと。(客観知ではなく、その場=
コンテクストの中から知恵を創造すること。)
・ 人の話を良く聞き、自分の話はなるべく相手の問
いかけに対する回答として発すること。
・ 発掘された新たな価値、機会は、関係者が理解・
共有できるよう、効果的にプロジェクションして
いくこと。
<藤倉潤一郎氏>
・ (元来やりたがりなのでなかなか難しいが)全てを自ら解決しようと考え、実行するの
ではなく、自らはなるべく裏方に徹し、CPS を利用する事業者間の連携・協働により、
施設の運営や利用上の、あるいは地域に於ける課題解決に向けてのイニシアティヴが形
158
成されるよう、良きセットアッパーとして振る舞うこと。(常に、いつ自分が死んでも
良いような状態にしておくこと)
・ その際、取り組みの理念的な意義・効果に訴えかけることを基礎に置きつつも、各事業
者の現在の状態や経済的効果のベクトルとマッチさせ、実効あるコーディネートを行う
こと。
・ 情報は隠さず、透明に徹し、機会の平等と負担に応じた公正な利益の配分に努めること。
・ 頑張らず、頑張ったとしてもそれを見せず、常に仕事を楽しむ姿勢を貫くこと。
(2)苦労したこと
・ 関係者間の理解・認識の共有化(現在も取り組んでいる過程)→
こまめな情報提供、
問題提起
・ 入居者の確保、とりわけオープン時の(つまり何も無い状態での)クローズドネストの
入居者の確保(力業であって必ずしも適切でなかったと考えている)と、オープンネス
トの利用者の確保(好循環のスパイラルと認知が形成されるまで)。
(3) 失敗
・ ネットワーク設計に関する失敗
ユーザーのネットワーク運用スキルを過信して、自由度の高いネットワーク設計とした
が、実際にはユーザースキルが及ばず、当初大きな混乱に見舞われた。コストとの見合い
もあり、難しかった面もあるが、当初からもう少し予算を割いて高度な環境(ユーザーに
負荷を掛けない)として設計すべきであった。
・ 必ずしも、理想通りのテナントを揃えることができなかった点。
・ 必ずしも、理想通りのワークプレイスをデザインすることができなかった点。
いずれも、上記の理想(ゴール)と現実(打開策)のバランスにより妥協をした点であ
り、今後段階的に修正・対応しているもの。
3.活動を支えるネットワーク
(1) 田辺 恵一郎氏 プラットフォームサービス株式会社会長
応募するにあたり、事業構想の中に「まちづくり」の視点を強く入れるように要望した。
田辺氏は東京青年会議所の出身で、これまでもお金を出してボランティアをしてきた。年
会費、登録料、弁当代、時間とお金が可能ならば出すことを惜しまないということが第一
の意識であった。
資金調達には投資事業有限責任組合という仕組みが用いられているが、田辺氏が自ら無
限責任社員となっている。この CPS 事業については、
「自由にやらせてもらえる、千代田の
159
シンボルになる。創造性を発揮して、本当の意味での経営ができる」という点に価値を見
出している。
(2) 財団法人 まちみらい千代田(旧 千代田区街づくり推進公社)
小藤田氏をはじめとした問題意識の高い職員が平成 12 年(2000 年)に千代田 SOHO ま
ちづくり推進検討会を組織し、神田の歴史的文脈や都心立地の利便性を活かした「SOHO
まちづくり構想」を提案した。平成 15 年(2003 年)には具体的な実践活動を経て「中小ビ
ル連携による地域産業の活性化と地域コミュニティの再生」と題した提言書をまとめ、現
在の CPS の活動の基礎となる現代版「家守」構想等を打ち出した。
これらの委員会にアドバイスを求められたことが藤倉氏と千代田区との関わりの最初で
あり、SOHO まちづくり構想から生まれた事業の1つが CPS である。
現在は「家守塾」として、次世代の家守候補の育成事業等を行っている。
(3) 資金調達(志ある投資)
・ 当初(無配)
:プラットフォームスクウェア株式会社役員4名 1,750 万円
・ 第1次増資(無配):山田長満氏(かながわサイエンスパーク)等 11 名
・ 第2次増資(有配):投資事業有限責任組合(地域ファンド)
・ 金融機関からの融資:政策投資銀行、商工中金、興産信用金庫
1,750 万円
3,500 万円
7,500 万円
(4) その他
これまで様々な活動の基盤としてきた全国デジタル・オープン・ネットワーク事業協同
組合
→ コンセプトの立案、詳細設計、入居者の募集、今後の事業の展開
ある意味で、利害を超えて協力してくれた武蔵学園後援基金(中学・高校の OB ネットワ
ーク)→ 最大の出資者・事業の理解者・支援者である当社会長との出会いをはじめ、入居
者、出資者を募る上でも、今後の事業推進を図る上でも。
その他、これまで様々な取り組みを通じて協力関係等があった(財)社会経済生産性本
部、(財)日本 SOHO 協会、(社)日本テレワーク協会などの機関・関係者
160
4.成功要因
(1) リスクテイク
田辺会長が事業組合の無限責任社員になっている等、経営チームがリスクを負っている
こと。
(2) 施設設計
施設が目的を持って設計されており、一階のカフェやオープンネストなどに集まって、
テナントの人々が自由闊達かつ自然に話ができ、そこから様々な連携・知恵が出てくるこ
と。
(3) 人的ネットワーク
ある程度の人的集積があってはじめて連携・知恵の相乗効果や補完効果が働くというこ
とを前提に、藤倉氏が核になるエージェントを意図的に事業に巻き込むことで、ネットワ
ークを増殖させていること。
(4) ビジョン
エージェントを集め、ネットワークを広げることが、新しい事業形態を志向する企業家
たちを呼び寄せ、周囲のビルに増殖し、新しいまちづくりができるという、画期的なビジ
ョンを持っていること。
(5) まちみらい千代田との協働
金は出すが口は出さない、という理解ある行政側の対応が成功に繋がった一因。
■ 今後の発展性・展開について
・ CPS を核とした周辺の中小ビルの連携による SOHO まちづくりの面的展開
・ CPS 事業の効果測定の尺度、2014 年段階でのゴールイメージの明確化・共有化
・ 連携・協働プロジェクトへの重点的サポート(サポートシステムの体系化)と成功事例
の創出
・ 千代田区をフィールドとして活動している様々な主体の様々なプロジェクトとの連
携・協働
・ 千代田区内に於けるセカンド・コアの開発
・ 千代田区外に於ける新たな SOHO まちづくりの活動に対するサポート
・ CPS をモデルとした他地域での展開(埼玉県、高知県)
161
■ 事業の継承、後継者問題
CPS では、現代版「家守」として期待される複数の SOHO エージェントが活動を行って
おり、エージェント間の連絡・連携体制も整いつつある。このようなことから、事業継承
を期待できる裾野は深いと考えており、また、今後更に進行していきたいと考えている。
藤倉氏は、自身がいつ居なくなっても、(その環境さえ整備すれば)たぶん誰かが、(氏
とはあるいは違う形で)もっと上手くやっていくに違いないと感じている。何人かの方々
に、
「プラットフォームサービス株式会社の代表はエージェントの代表者が持ち回り制とか
でやるのもいいかも」という話が出たこともあり、今後議論を深めて行きたいとしている。
ヒアリング先情報 1
プラットフォームサービス株式会社
〒101-0054
住所・連絡先
東京都千代田区神田錦町 3‐21
ちよだプラットフォームスクウェア
URL
http://www.yamori.jp/
e-mail
[email protected]
ヒアリング先情報 2
03-3233-1511
FAX
03-3233-1501
TEL
03-3264-2111
FAX
03-3264-4792
千代田区まちづくり推進部
〒102-0074
住所・連絡先
TEL
東京都千代田区九段南1−6−17
千代田会館2階十日町市北新田 1 番地 10
URL
http//www.city.chiyoda.lg.jp
e-mail
[email protected]
162
事例7:富山県
富山市「岩瀬まちづくり」
1.概要
(1)地区の特徴
岩瀬地区は富山市の最北部にあり、飛騨に発する神通川が扇状地の富山平野を北上して富山
湾に流れ込む河口にある。
江戸時代より明治にかけ北前船の寄港地と
して栄えた。明治6年に大火があったが、明治
時代の廻船問屋や町屋などの伝統的なたたず
まいが残っている。(右写真参照)
鉄道の開通等により陸運が物流の中心とな
り海運業は衰退したが、大正 13 年に地元の有
志により電気鉄道で富岩鉄道(後に国有化しJ
R富山港線)が富山まで開業するなど、戦前は
大陸貿易や安い水力発電により重化学工業等
国重要指定文化財・廻船問屋森家
が立地し、戦後は北洋材の輸入が盛んであった。
しかし、円高等による産業構造の変化により
工場の撤退・縮小等が続き、また郊外の新興住
宅地への転居や郊外型店舗に購買が流れ、人口
の減少と高齢化(H17、65 歳以上 32.1%)が進
んでいる。
なお、天然のいけすといわれる富山湾に面し
しろ
ており、富山湾の宝石と称される白えびは県内
の半分の漁獲量がある。
また、毎年5月に開催される岩瀬曳山車祭り
は勇壮で、別名けんか祭りとも言われる。
(写真は富山市 HP より一部転載し当研究所で加工)
163
(2)富山ライトレールの開業
平成 13 年(2001 年)に、北陸新幹線が長野から富山まで延伸着工した。ここで、岩瀬と富
山駅をつないでいるJR富山港線の取り扱いが問題となった。
新幹線に合わせて、JR 富山駅周辺で在来線を高架化する連続立体交差事業が採択され、利用者
の減少が続く JR 富山港線の存廃問題が浮上したのである。
結局、平成 15 年(2003 年)5 月に富山市長の決断で第
ポートラム(富山ライトレール)
3セクターによる路面電車化として公共交通の再生を図
ることとなった。
平成 17 年(2005 年)2 月に着工し、平成 18 年(2006
年)4 月 29 日に富山ライトレールとして開業した。愛称
ポートラム(LRV)が富山駅北∼岩瀬浜駅間 7.6km
を運行し、日本初の本格的LRTとして注目を受けてい
る。
そして、これに付随して、にわかに注目を浴びている
のが、本稿のキーパーソン・桝田隆一郎氏らによる岩瀬
のまちづくりである。
桝田隆一郎社長
2.岩瀬まちづくり(株)の事業
(1)事業のきっかけ
岩瀬まちづくり(株)の社長・桝田隆一郎氏(40 歳)は、岩瀬中心部に明治時代から続く(株)
桝田酒造店の桝田敬次郎現会長の長男であり、後継者である。
昭和 64 年(1989 年)に大学卒業後、灘の酒造会社に就職して、平成 4 年(1992 年)3 月に(株)
桝田酒造店の取締役になる。その間に、欧州遊学など見聞を広めている。全国 12 の蔵元の若
手経営者が集まり、酒造りのための情報収集や勉強会を行う「日本八壷会」にも参加しており、
そのような活動の中で他地域の活性化事例に触れ、まちづくりに対する関心が醸成された。
活動の原点は、自分が育ったころと比べて、旧市街地から若者が出て行き、非常に寂しくな
っている現状であり、自分の住んでいるところを良くしたい、家族にも良いと思ってもらえる
ために、魅力のあるまちを創りたいと思い立ったことである。どうあるべきか、父親の世代は
議論や提言をよくしていたが、自分の代で実際に変えようと思い定めたことによる。
(2)まちづくりへの着手
平成 17 年(2005 年)7月、ライトレールの着工後に、富山市は岩瀬のまちづくりに本腰を
入れ、 富山市岩瀬大町・新川町通り街並み修景等整備事業
を制定し、景観整備に注力し始
めた。
しかし、桝田氏は、これを遡ること4年前の 2001 年、まだJR富山港線がどうなるか揺れ
164
動いていた時期に、個人やグループ会社で空家・土蔵の買い取りを始め、まちづくりの準備に
着手している。後述の「森家土蔵群」やそば処「丹生庵」となる物件群である。
このように、桝田氏は当初、富山ライトレールとの連動を意識しようもなく行動を起こし、
結果的に、行政が桝田氏を後追いする形のまちづくりとなっている。
富山港線のライトレール化が確定した後の平成 16 年(2004 年)8 月に、正式に「岩瀬まち
づくり(株)」を設立し、このまちの活性化の先鞭を切った。
(3)組織体制について
岩瀬まちづくり(株)は、桝田酒造店グループの資産管理会社の出資として純粋なオーナー会
社で設立した。自らの力と責任でまちづくりを行う決意であり、当時は、この地に関して官民
の連携という機運がまだ盛り上がっていなかった経緯もある。
資金的にも外部を頼らず親会社の蓄積を原資とし、常勤のスタッフは桝田氏のみ、無報酬の
ボランティア活動となっている。(酒造店の従業員が業務に携わればそれに応じた賃金を支払
っている)
事業は、大きく2つ、空家の再生と土地建物の権利関係の整理から成る。
(4)空家の再生事業
明治時代に北前船で繁栄した名残を残す町屋や土蔵が、現在では多く空家となって、放置さ
れたり取り壊されてきた。
これらを、壊される前に買い取るか賃借し、昔の技法で修復したうえで、まちの賑わい創造
に資する形で、賃貸又は売却する事業である。
ここでのポイントは、単に景観の再生だけではなく、そこに若い新たな芸術家や職人を呼び
込み、定住させ、まちに賑わいとそれまでにない魅力を加えていることである。
順に実績を辿ると、
a
岩瀬大町・新川町通り沿いで最初に購入した旧木材店には、富山市稲荷町で店舗を構え
ていた有名そば店「丹生庵」に平成 13 年(2001 年)
11 月に入居(転居)してもらった。
現在、昼時には限定食数が売り切れ続出の人気
店である。
b 約百年前に建てられた4棟が連なる旧・森家土蔵
群は、元は北前船廻船問屋森家の積荷倉として、後
に旧米穀店の米蔵として使われていたが、廃業後老
朽化が著しいため取り壊しを検討していた。これを
購入し、修復再生後に順次テナント貸ししている。
旧・森家土蔵群
・ 地元岩瀬でコンビニ店を経営していた田尻氏が
「酒商田尻本店」を出店(右写真)。
・ 富山県立山町で江戸時代から続く越中瀬戸焼の釈永岳氏が「陶芸工房」を構える。
・ 富山市呉羽町で市営の個人工房に入居していた安田泰三氏が「タイゾウ・グラス
165
ス
タジオ」(ガラス工芸)を構える。
・ 世界演劇祭で有名な富山県旧利賀村(現南砺市)の利賀そばの郷にある「利賀そば・
なかじま屋」が出店。
各々、新たな出店機会を探っていた人物を、
桝田氏の人脈で探し当てたものである。
極力、建築当事の技法で再現された空間は、古さと新しさの両方を実感でき、通りの街
並みや国指定重要文化財廻船問屋森家と並び、新しい岩瀬の文化の発信拠点、観光拠点と
なっている。
c 肥料店であった旧・江尻家には前述の陶芸家・釈永氏がギャラリー兼居宅として、また、
旧・馬場分家にも前述のガラス工芸家・安田氏がギャラリー兼居宅として入居している。
今後も、来春には土蔵を改修した家具工房が入店予定で、さらに漆工芸家や木彫作家のオ
ファーがあり、若い芸術家が集まる流れを加速したいとしている。
釈氏のギャラリー兼居宅
安田氏のギャラリー兼居宅
なお、この事業では、若手の人材に資金力が乏しい場合が多く、採算的には市の条例(既
述)による補助金を勘案してもパトロン的立場に陥るケースがあるが、観光客が増えれば
自社商品(酒)の拡販に繋がるので、この地で商売を続けている酒造会社の宣伝広告費と
割り切っている。
(5)土地建物の権利関係の整理
岩瀬は借地が多く、しかも1軒の敷地内に複数の地主がいるなど権利関係も複雑で不在地主
も多い。また、昔から裕福で保守的な土地柄から、地主は簡単によそ者に土地を売ることがな
い。老朽家屋を建替えるにも地主の同意が必要なため、これらを嫌ってどんどん新興住宅地へ
人口流出していく側面があった。
そこで、古くからの地元に根を張っている桝田氏の信用で貸地を買い取り、権利関係を整理
して、希望する借地人には売却する。そうすればそのまま住み続けることができる。
地主にとっては集金も大変であり、不在地主も多い。地主と借地人双方のニーズに適い、昔の
ままの地代水準から買収価格を計算するので、この事業は、基本的に赤字にはなっていない。
これまでの実績として、約 110 筆を購入し、借地人に 40 筆前後を売却済みである。
166
(6)活動のポイント
a 労多くして儲からず、しかし赤字とはしない経営センス
町屋を買い取ってから改修に 1 年はかかるなど、この二つの事業は、手間・暇・資金がかか
り、かつ、不動産業として労多い割りにはリターンの多い事業とは限らず、桝田氏のまちづく
りへの情熱がなければできることではない。
誤解しやすいが、損益計算では収支ほぼ均衡しており、決して資金力に飽かせた放漫経営で
はなくバランスを見ている。空家再生事業で多少の赤字を蒙ることがあるが、土地の権利集約
事業は確実に黒字ベースで、双方合わせると昨年度決算は収支トントンということであった。
b 究極の目的は観光客ではなく住民の目線
これも間違えやすいのだが、桝田氏はコマーシャルベースの観光のまちを究極の目的として
いるわけではない。あくまでそこに住む市民が活気を持って生活できるまちを目指しているの
であって、たまたま、その方向性が若い職人や芸術家の集合による創造的文化の薫りに向いて
いるのである。このことは、彼らを岩瀬に定住させている手法からも窺い知ることがでよう。
3.事業を支える人々
(1)「富山国際職藝学院」との縁
富山国際職藝学院(富山市東黒牧)は、大工・家具・建具及び造園のプロ(職藝人)養成を
目的に 1996 年に開校した珍しいタイプの専門学校で
ある。実物実習において、県内各地の伝統的な建物の
再生に携わっている。
間口 10m・奥行き 60mの旧・森家土蔵群の修復再生
工事は、平成 16 年(2004 年)に上野幸夫教授の監修
により建築職藝科社寺コースを中心としたチームによ
り実施した。出来る限り建築当時の工法を用いること
に努めている。
また、伝統的な町屋の修復に手間を惜しまず心血を
修復中の町屋
注いでいるのは、大工の棟梁・新迫弘康氏である。棟
梁は国際職藝学院を卒業後、仕事がない時期に酒蔵の
アルバイトに来ていた。その縁から旧材木店(現在の
そば処・丹生庵)の改修を任せたところ全身全霊を注
いでやり遂げたことから、今では桝田家御用達である。
また、この青年棟梁を慕い、若い大工が集まってく
る循環が生まれている。彼らが賃金より仕事のやり甲
斐を求めて働いてくれるので、割安な予算で町屋の良
167
修景後の銀行と街並み景観
い修復ができる。
新迫棟梁にも、岩瀬のまちなかで仕事場と自宅を貸家として紹介し、今は岩瀬の住民である。
(2)財界、行政とのつながり
父親の代より財界に人脈があることから声をかけ続け、銀行の岩瀬支店・商工会議議所の岩
瀬支所といった建物が比較的早期に修景工事を行ってくれた。
また、行政との関係も大事にしている。旧森家土蔵群にガラス工房を作ったのも、市の事業
に協力する目的のためである。富山ガラス工房の野田館長から、富山市ではガラス工芸の育成
に努めているが若い作家がなかなか富山に定着して工房を構えないという話なので、それでは
市に協力しようと反応し、ガラス工房を造って安田氏を紹介してもらった。
4.成果と今後の展開及び目標
(1)成果
a 景観の修復
紹介してきた事業の総合的な結果として、通り沿いに残っていた旧廻船問屋や町屋等の古
い建物と再生建物群が合わさり、伝統的景観が甦りつつある。
また、地元の住民や商店では、これに呼応して市の修景等整備補助事業を利用して改修や
新築する機運が盛り上がっており、通り沿いの約 80 軒中、40 軒近くの整備の計画が持ち上
がっている。
b 住民のモチベーションの高まり
富山ライトレール開業という時期柄もあってマスコミの大々的な報道もあり、訪れる市民
や観光客も激増(今までは関心もなし)しているため、休日の昼食時は通り沿いの飲食店に
入りきれない状態である。少し前の岩瀬界隈を知る者にとって、ある種、異様に感じるほど
の風景である。
岩瀬は元々、郷土史研究が盛んであったが、この機会に積極的に住民が地域を説明しよう
と、「観光案内グループ」が平成 17 年(2005 年)11月に結成された。
また、白えびの産地・岩瀬をPRする企画として、漁業関係者が中心となり「岩瀬白えび
祭り」が平成 18 年(2006 年)8月に初めて開催され、新聞報道では約2万人来場の賑わい
となった。
このように、富山ライトレールと桝田氏のまちづくりが、相乗効果と波及効果を両方一度
に地域にもたらしている。
(2)成功要因
a 地元を知り、知られていること
既述のように、地元の名家の出身で、地元を知り尽くし、また、父祖の代から築き上げて
きた広い交流と信用を活用している。
桝田氏自身の気配りとして、地元の人との親密な距離感を保つため、気軽に声をかけても
168
らえるように、情報がもらえるように、極力ラフなスタイルでぶらっと街を歩くようにして
いる。
b 地元資源の再発見
岩瀬には、明治期からの大店があってグレードの高い建物が残っており、また造り酒屋、
料亭、港などがピンポイントで存在していたが、これらを総合的にまちづくりの観点で再評
価する機運はなかった。
これに気付いて行動を起こしたのが桝田氏である。
(3)今後の目標
昔の町屋文化は、日中もそこで生計を立てる職人や商人で形成された。そんな人たちを再び
住民として取り戻し、活気を持って、かつ落ち着いて生活できるまちづくりが目標である。
なお、富山市では桝田氏のまちづくりに呼応して、修景事業が一段落する5年後を目処に、
重要伝統的建造物群保存地区の指定を目指す方針である。
5.人材の育成について
当初から人材育成を大きく意識した行動ではなかったと思われるが、結果的に、若い芸術家
や職人のやり甲斐ある環境を整備したことになり、彼らが集まって刺激しあう好循環が見られ
る。
(1)芸術家との交流
再生した町屋・土蔵群を工房・ギャラリーとして安く提供することで、若い芸術家が集まり、
その好環境を聞きつけて、さらに新たな若い芸術家が集まる循環ができつつある。
(2)棟梁との交流
若い大工に思い切って伝統的な技法を活かした町屋再生を任せたところ、彼はやり甲斐を持
ってやり遂げ、その新迫棟梁を慕って若い大工が集まってきている。まちの人も、彼らが一生
懸命作業をする姿を見ており、また高くないということを知っているので、皆修復などの話し
を持って行く。ここでも職人の集まる循環が見られる。
169
(3)主な流れ
170
事例8:石川県
七尾市「御祓川浄化作業と街の賑わい」
1.地域の概要
御祓川とシンボルロード周辺
(1)地域の特徴
石川県七尾市は能登半島の中央に位置し、天然
の良港・七尾湾に面している。
万葉の時代より能登国の国府が置かれ、海都と
して発展し、歴史的にも現在も、能登地方最大の
政治・経済・文化の拠点都市である。
重要港湾・七尾港を抱える海都として発展した
関係から、港と中心市街地が、南北に徒歩7∼8
七尾港と七尾市街地
分の間に近接している。
観光資源として市郊外に和倉温泉があり、日本有数の温泉旅館として名高い加賀屋がある。
せいはくさい
また、毎年 5 月に開催される能登最大の祭礼「青柏祭」では、日本一の「でか山」が運行さ
れる。
昭和 45 年(1970 年)代に入ると、陸路が発達し、また、港湾機能も金沢市の新たな重要港
湾・金沢港の整備に押され、産業の地盤沈下と人口の減少・高齢化がいち早く進むこととなっ
た。
3,000
海上出入貨物量の推移(千トン)
2,500
2,000
1,500
金沢港は1970
年に正式開港
国勢調査の人口推移(千人)
1,300
1,200
1,100
1,000
900
800
七尾港
金沢港
1,000
500
60
石川県
55
50
七尾市(右軸)
700
600
0
1960
65
70
75
80
85
45
40
0 5 0 5 0 5 0 5 0 5
196 6 7 7 8 8 9 9 200 0
(2003年、3町と合併前の旧・七尾市人口で表示)
(出典:各港・港湾統計年報)
みそぎがわ
(2)御祓川について
御祓川は、中心市街地を東西に分けて七尾湾に注ぐ川幅 10m前後の都市河川である。
戦国武将・前田利家が 1581 年に能登入国を果たし、新たな築城(小丸山城)の際、この御
祓川を境に東西に長い城下町を建設し、その東側を職人街、西側を商人街とした経緯があり、
今でも各々の特徴を残した歴史的建造物が残っている。七尾市で単に「東」と言えば御祓川以
東地区、「西」と言えば以西地区を指すほどで、市街のランドマークとなっている。
前記の「青柏祭」の「でか山」は、この御祓川河畔の仙対橋で勢揃いし観客に披露されるほ
か、四季折々の多くの行事がこの河畔で開催され、市民に親しまれてきた。
しかし、1931 年にこの地を訪れた与謝野晶子が「家々に珊瑚の色の格子立つ/能登の七尾の
みそぎ川かな」と歌ったその風情は、その後の都市開発により失われ、汚染が進み、ヘドロが
171
悪臭を放つ
ドブ川
と化していった。
2.(株)御祓川の誕生まで
(1)フィッシャーマンズワーフ・能登食祭市場の建設
本稿のキーパーソン・森山氏の現在の活動と人脈の原点は、
約 20 年前の青年会議所活動から培われたものである。
昭和 60 年(1985 年)、(社)七尾青年会議所の理事長を務
めていた当時、活気の失せた七尾市を何とかしようと「市民
大学講座」を6回連続して開催した。そこで、港町としての
アイデンティティを取り戻すことを核に地域を再生しよう
とする「港からまちへ」というコンセプトが生まれ、昭和
森山外志夫社長
61 年(1986 年)に「七尾マリンシティ構想」が取りまとめられた。昭和 62 年(1987 年)には
JCメンバーを中心に構想を実現するための「七尾マリンシティ推進協議会」を立ち上げ、米
国西海岸の視察でヒントを得たフィッシャーマンズワーフをシンボル施設とすべく、建設計画
を練った。市民会議、市民アンケート、市民集会と重ねて市民を巻き込んだイベントを行い、
平成元年(1989 年)には森山氏らが中心となって開催した疑似体験イベント「能登国際テント
村」も 16 万人を集客する成功を収めた。
この動きは、行政の理解を得るに十分な力となり、平成 2 年(1990 年)に県・市の出資を受
けた第三セクターが設立され、平成 3 年(1991)年9月に待望のフィッシャーマンズワーフ「能
登食祭市場」が七尾港にオープンし、現在では毎年 90 万人の集客がある港の核施設となって
いる。
「能登食祭市場」の成功は、停滞していたJR七尾駅前の
再開発にも良い影響を与え、95 年に再開発商業ビル「パト
中心部の南北端に 2 つの集客核施設ができたので、この南
ー
北軸を結ぶ「シンボルロード」が整備されることになった。
化基本計画では、この南北軸に新たな商店街の形成を謳い、
能登食
祭市場
シ
ン
ボ
ル
ロ
リア」が完成した。
平成 11 年(1999 年)3月に示された市の中心市街地活性
(七尾港)
御
祓
川
(2)シンボルロードの整備構想と御祓川
パト
リア
ド
JR七尾駅
JR七尾駅
そのためにTMO会社も設立されていたが、常勤スタッフも
ない状態で、森山氏らはハード先行のソフト不在に不安を持った。
(3)設立契機は人的ネットワークによるアドバイス
森山氏らと交流のあった長浜市の(株)黒壁・笹原氏から、単に商業施設の誘致を目指すので
はなく総合的なまちづくりを目指すべきであり、そのためには悪臭を放つ御祓川の浄化が先決
であると指摘を受けたことが、同社設立の契機となった。
TMOへソフト面の協力を考えていた森山氏らは、これも笹原氏の忠告を受けて、自分達の
出資による純粋な民間の株式会社組織を立ち上げることとした。その理由は、迅速な意思決定
が容易で、かつ、自己責任でまちづくりを進める熱意があったからである。
172
平成 11 年(1999 年)6月、民間8人から出資を募り、資本金 5,000 万円の(株)御祓川が誕
生した。社長の森山外志夫氏は、一部既述のとおり、元七尾青年会議所理事長、七尾マリンシ
ティ推進協議会第2代会長(初代は加賀屋小田会長)、元七尾商工会議所青年部会長など、七
尾市の若手経営者のリーダー的活動を行なってきた人物である。
3.(株)御祓川の活動
(株)御祓川の真骨頂は、株式会社としての収益事業と非収益部門としてのまちづくりを、し
っかりと相互に関連付け、絶対にブレないように理論武装し、確固たる経営理念として活動し
ている点にある。
それは、右図に示されるように、御祓
川を媒体してヒト・イエ・ミセの3者関
係を相互に意味づけし、総体としてマチ
を形成するための3本柱で成り立ってい
る。
・まずは発端となった川の浄化活動。
これを通じた親水環境の復活、浄化技
術の向上。
・次に、その川沿いに走るシンボルロー
ド界隈の賑わい創出。ここで、まちづ
(株)御祓川の事業内容(HPより)
くりに相応しい商業施設の直営や賃貸
プロデュースにより、収益事業を営む。
・3つ目として、浄化活動や親水イベントを通じ、疎遠となった地域のコミュニティ再生。
(1)御祓川の浄化事業
まず平成 12 年(2000 年)2月に「御祓川浄
化方策技術ワークショップ」を開催し、企業等
から多くの提案を受けた。平成 14 年(2002 年)
8月には県・市・大学・NPO・企業・高校生
らの官民共同研究体である「御祓川浄化研究
会」を作り、御祓川において ばっ気方式 と
ビオパーク という植物を使った浄化実験を
行なっている。主に、技術向上を図る活動であ
る。
この ビオパーク 実験では、水のきれいな
ところでしか育たないといわれるクレソンを
ビオパーク実験事業
栽培し、それでケーキを作って販売しその収益から実験装置の運営費を捻出している。
(2)界隈の賑わい創出に関する事業
a 直営店のテナント出店
平成 12 年(2000 年)4月、TMOがハード整備し、旧十二銀行の歴史的建物を商業施設
173
に改修した「寄合処
く館
御祓館」の1階に、能登地方の工芸作家達の作品を並べた「暮らしっ
葦」を自らテナント出店し、工芸家とユーザーの交流も支援している。併設して、料
理の専門店「まいもん処いしり亭」も後から出店し、能登特産の魚醤「いしり」を使った天
然素材の郷土料理を扱っている。2階は同社事務所が入居して館全体の管理を受託しつつ、
起業家養成のためのマーケティング塾も開催した。
b 賃貸事業
平成 12 年(2000 年)7月には同社で「御祓川2号館」を建設し、1階に飲食店、2階に
美容院を誘致して賃貸経営している。飲食店「くつろぎ処 麺の華」
(うどん・そば、定食等)
は、界隈に高齢者の交流の場が少ないので、高齢者が自然と集まりコミュニティができると
ころを作ることを念頭にプロデュースしており、美容院「リアルヘアカッティングYOU」
は前記のマーケティング塾の出身者が出店している。
シンボルロード、御祓川と「寄合処 御祓館」
「御祓川2号館」
(3)コミュニティ再生事業
平成 12 年(2000 年)8月、コミュニティ再生事業の活動主体としてNPO法人「川への祈
り実行委員会」を設立し、同社が事務局を担当している。
市民の無関心も川の汚染の原因のひとつとして、川と市民の関係・距離を取り戻し、川の再
生を願う市民の輪を広げるため、「川はともだち」を合言葉に、セミナーや川への祈りコンサ
ート、川そうじ&川あそび、源流探検などを開催し、平成 14 年度(2002 年度)からは毎月「川
そうじ&川あそび」を実施している。
この活動資金に「川への祈りファンド」募金を呼びかけたところ、これまで 1,000 万円余が
集まっている。前述のクレソンケーキも(菓子製造の許可も取得)年間に千個以上売れ、1個
売れる度にその代金から 100 円をファンドに積み立てる仕組みを作った。
その他にも、全国ドブ川サミットの企画運営など、簡単に紹介しきれないほど各種活発な啓
蒙活動を行っている。
4.活動の特徴
印象深いのは、事業主体をその時々の状況や目的に応じて上手に使い分けている点と、常に
行政当局や一般の市民を巻き込んで事を起こすエネルギーである。
174
(1)事業主体の役割分担
行政からの支援を受けて大規模な事業を行う場合はTMO会社が有利であるし、非営利事業
として一般市民が参加しやすい川のイベントはNPO「川への祈り実行委員会」、その中間と
して各種の交渉負担や店舗展開を伴う事柄は同社、というように、内容に応じてふさわしい行
動主体を選び、必要な場合には新たに組織していく手法である。
別の側面から同社の自己分析では、「まちづくり会社型」と「ワークショップ型」という分
け方になる。商業開発等、スピードと投資負担や投資責任が伴うものは同社のような「まちづ
くり会社型」でダイナミックに行い、逆に、皆で楽しむところからスタートし、充実感や満足
感を重視し、お金より時間をかけて熟成していく事柄は「ワークショップ型」という分別で、
「川への祈り実行委員会」などは後者に属する。
まちづくりを進めていくうえでは、これらのどちらか一方ではなく、両者の活動が車の両輪
となって働く必要がある、との哲学である。
まちづくりの2つのタイプ
まちづくり会社型
ワークショップ型
・主体が明確
・皆で楽しむレベルから
・自己責任
・ゆるやかな責任
・投資負担
・お金をかけない
・スピード感
・時間をかける
・ダイナミックな展開
・地味でも着実な成果
・リスク大
・精神的な充実感・満足感
(出典;当社「御祓川をめぐるマチ・ミセ・ヒト」より一部加工)
(2)行動のエネルギーとネットワーク
自社単独の自己完結で終わらせず、
「寄合処 御祓館」の整備ではTMOと役割分担し、
「川
への祈り実行委員会」ではNPOの力を借り、諸々のイベントやワークショップを起こす度、
県・市や商議所、企業、市民に呼びかけて運動の輪を広げる手法は膨大なエネルギーを必要と
すると思われるが、これこそ、森山氏らのまちづくりにかける熱意と人的ネットワークの賜物
である。
5.事業を支える人々
(株)御祓川を支える出資者・役員の多くは、既述のように七尾青年会議所時代から活動を共
にしてきた仲間7∼8人が中心であり、七尾マリンシティ推進協議会の主要メンバーでもある。
森山氏(第 2 代会長)、今井富夫常務(第 4 代会長)、間蔵信行取締役(第 3 代会長)、田尻正
志取締役(副会長)など。
唯一の正社員・チーフマネージャーの森山奈美氏は森山社長の娘で、金沢市に本社を置くシ
ンクタンク・(株)計画情報研究所の研究員である。仕事で受託事業として、七尾市のTMO構
想を検討した際、どんなに良い報告書を作成しても、その時点で自分の手から離れてしまうた
め、実際に実行に到るかどうか不確実な点に悩み、父である森山社長に相談したところ、「そ
れなら自分でやるか」という決断を引き出した側面があるようだ。この経緯から、(株)御祓川
設立時よりチーフマネージャーを務め、今でも計画情報研究所と兼務しながら、日常業務や対
175
外折衝の中心となって活動している。本人としては両社に迷惑が掛かるので早く(株)御祓川専
任になりたいとの希望はあるが、現在はまだ同社では無給であり、いわばボランティアである。
また、金沢市のマーケティング・プランナー出島二郎氏、湯布院・亀の井別荘の中谷健太郎
氏や(株)黒壁の笹原氏等との交流でも多くのことを学んでいる。
6.成果と課題、目標
(1)成果
NPO「川への祈り実行委員会」の事業は、
市民参加で、すでに 100 回以上の開催実績を持
つ。
ある中学生の参加者が「わたしの主張」で「川
への祈り実行委員会」活動を取り上げ、県大会
で優勝した事があり、たいへんうれしかったと
の述懐がある。
また、御祓川浄化方策技術ワークショップの
開催の後、検討内容を県・市に提案して、ヘド
「川への祈り実行委員会」のパンフレットより
ロの浚渫など公共事業化につながっている。
これまでのさまざまな活動を通して、御祓川の水質は少しずつではあるが改善してきており、
(株)御祓川では、毎日、御祓館の前で水質を測定し、店頭に表示して啓発に努めている。
一方、町の賑わいという観点では、近年、中心商店街等がイベントを盛んに企画するなど、
地域づくりに取り組むようになっており、マーケティング塾のようなひとづくりは、いつかは
効果が出る。
これらの活動が評価され、平成 11 年(2003 年)に日本水大賞で国土交通大臣賞、平成 16 年
(2004 年)には全国「川の日」ワークショップでグランプリを受賞している。
(2)成功要因
当初考えていた単なる店舗開発の枠を越えた活動の広がりや深化、目的・方向性・方法を学
んだのは、人(先進地)のネットワークと仲間の存在が大きく、笹原氏、出島氏や中谷氏等と
の出会いとそのタイミング、人の縁に恵まれたことによる。しかし、先進地とのネットワーク
は最初からあったわけではなく、積極的な活動と学ぶ姿勢の中から生まれてきている。
またイベント等では、しっかりとしたコンセプトを創り、そのことが成功へと結び付いてい
る。
(3)課題
まちづくりのプロデュースに対して適正な報酬を支払う仕組みがなく、そのことが会社の運
営に響いている。
事業的には、直営店(暮らしっく館
葦、いしり亭)の売り上げと御祓川2号館(1F飲食
店、2F美容院)の賃貸料が主な収入であり、資金的には楽ではない。
最近ようやく収支均衡から黒字計上もできるようになっており、残っている累損の解消に努
176
めているところである。川の浄化研究事業では行政の補助金があるが、NPOはまだ自立して
おらず、早く両者の自立を目指している。
(4)目標
今後の目標は、御祓川沿いにまだまだ未利用地があるため、センスの良い店をもっと作り、
川を媒体として賑わいを取り戻すことである。
また、人づくり、そして店の経営の安定と、川をきれいに、七尾湾をきれいにすることであ
る。さらに、クオリティーの高い、品のある・質の高い七尾を創ることであり、世界から認め
られる「小さな世界都市七尾」を目指したいとしている。
7.ひとづくりについて
(1)若い世代へのささやき
既述のように、川への祈り実行委員会の活動を発表してくれた中学生のことなど、若い世代
に手応えを感じている。地域の人達が自律的に地域との関わりに取り組むようになるまで、辛
抱強くささやき続けることが大切である。
歴史があり住民を熱くさせる祭りのあるところは、元来郷土愛や地域への誇りを人一倍強く
持っており団結力もあり、きっかけがあれば燃え上がるように思われるので、教育に祭を取り
入れることは郷土愛を育むうえで重要である。
ちなみに、七尾青年会議所では、次世代の人材を育てるため「ジュニアウィングス」という
中学生の海外視察研修事業を毎年行なうようになっている。
(2) 風の人
の必要性
地域づくりの基本は、生まれ育った 土の人 が中心となり、地域内発型で知恵を出してい
くことだが、地域外の 風の人 も必要である。その地域の価値や問題点が、地元の人だけで
はわからない場合もあるからである。七尾市の場合、笹原氏、中谷氏、出島氏等が
風の人
として適切な方向性を与えてくれた。また七尾市のTMOには、当初専属のスタッフがいなか
ったが、森山奈美氏の尽力で、京都のNPOでまちづくり経験の豊富な内山博史氏が来てくれ、
今は
土の人
となって、(株)御祓川と役割分担しつつまちづくりを行ってくれている。
(3)森山奈美氏のこと
中学生の頃、七尾市のまちづくりに取り組んでいる父の姿をみて、七尾のまちづくりがした
い七尾が面白いと思い、大学の進路は建設学科に、就職も地元のシンクタンクとその分野に進
んでいる。今年度は兼務等で超多忙の中、改めて(財)地域活性化センターの全国地域リーダ
ー養成塾を受講している。
8.その他
森山氏の活動の原点は能登食祭市場であり、その成功体験が自信となって今日まで突っ走っ
てきた。
その時の教訓として、方向性に間違いないと思ったら、机上で長々と議論するよりも、まず
177
は目に見せることが効果的だということである(先進地の視察、実験事業など)
。
能登食祭市場の構想は、加賀屋の小田現会長のネットワークにより米国モントレー市のフィ
ッシャーマンズワーフを皆で視察し、すぐに異論なく決断できたとのことであった。
七尾マリンシティ構想から(株)御祓川の活動
178
事例9:静岡県
富士宮市「富士宮やきそば学会」
▲渡邉英彦氏
▲渡辺孝秀氏
1.地域の概要
(1)人口
・富士宮市の人口は 121,779 人(平成 17 年国勢調査)と、静岡県全体(3,792,377 人)
の 3.2%を占め、県下 22 市中7位である。人口は、一貫して増加傾向にあり、最近で
も、+3.0%の伸び率を示すなど、着実に増加している。
・男女別では、男性が 60,113 人で構成比 49.4%、女性が 61,666 人で構成比 50.6%と、
女性の割合の方が若干高くなっている。
・年齢別にみると、15 歳未満の年少人口が 18,181 人で構成比 14.9%、15 歳から 64 歳ま
での生産年齢人口が 80,697 人で構成比 66.3%、65 歳以上の高齢人口が 22,901 人で構
成比 18.8%と、全国に比べて高齢人口の割合は 1.36 ポイント低くなっている。
(2)地勢
・富士山の西南麓に広がる富士宮市は、東西 19.5km、南北 29.04km のひろがりを持ち、
面積は 314.81km2 となっている。
・市内に富士山を有することから市の最高海抜は 3,776mであり、一方、最低海抜は 35m
となっており、その標高差 3,741m は、日本一を誇る。
・当地域は、昔から、駿河と甲斐の交易ルートとして栄え、現在でも、静岡県と山梨県
の県境に位置し、身延線(富士駅と甲府駅)の中間駅として、両県を結ぶ交通の要衝
となっている。
(3)沿革
平安時代(806 年)
浅間神社造営。以後、社領として発展
室町時代の終り
富士登山が盛んとなり、表口登山道として、また、駿河と甲州
179
を結ぶ交通の要衝として栄えてきた
明治 22 年
旧大宮町、大宮西町など近隣 11 カ町村が合併して大宮町に
大正2年
身延線開通し、町勢は発展
昭和7年
大火で町の中心部は焼失
昭和 17 年
隣村富丘村と合併し、市制施行
(4)土地柄
■富士山への愛着心が強い
・日本一の高さを誇る富士山という他の地域に類をみない地域資源を保有しているこ
とから、自らの地域への愛着心が強く、地域を大切にしようとする気風がみられる。
・反面、地域外に出るといった志向は低い。
(5)まちの目指す方向(総合計画等)
・富士宮市は、平成 18 年(2006 年)3月に第4次総合計画を策定し、平成 27 年度(2015
年度)における当市のあるべき姿と理念を掲げている(下図参照)。
・また、この目的実現のためのキーワードとして「食」を挙げているが、これは、富
士宮市には、富士山をはじめ、豊富な自然資源に恵まれるとともに、多彩な食材が
あること、食関連企業立地が見られること、静岡県が進めるファルマバレー構想(※
次ページ以降参照)の一角に位置しており、連携による効果が期待できるなどの理
由によるものである。具体的には、フードバレー構想を策定し、取り組んでいる。
■総合計画が目指す将来像
「富士山の自然に抱かれたやさしく元気なまち」
・富士山の優れた自然・歴史・文化にはぐくまれて発展してきた富士宮市は、今後も
富士山の恵みを大切にするとともに、富士山を生かしながら、安全・安心で健康な
まちづくりと産業の振興に取り組み、日本一元気な自立したまちを目指します。
■実現に向けたキーワード「食」のまちづくりの方向性
a 食の豊富な資源を生かした産業振興
b 食のネットワーク化による経済の活性化
c 食と環境の調和による安全・安心な食生活
d「地食健身」「食育」による健康づくり
e 食の情報発信による富士宮ブランドの確立
180
2.地域の資源
(1)地域のシンボルとセールスポイント
■地域のシンボル
・日本の象徴
富士山
富士宮市は、市域の6割が富士箱根伊豆国立公園に指定され、美しい自然や豊かな
歴史・文化に恵まれる。世界になだたる富士山をはじめ、朝霧高原、田貫湖、白糸
の滝、浅間大社などには、年間、多くの観光客が訪れる。また、最近では、キャン
プやスカイスポーツなどアウトドアの拠点としても注目されている。
■観光資源
・富士登山…富士山の5つの登山口のうちでも富士宮口は、富士山表口として昔から
一番親しまれている登山口
・浅間大社…全国 1,300 余社あるといわれている浅間神社の総本山
・白糸の滝…高さ 20m、幅 200mの湾曲した絶壁にかかる大小無数の滝。日本観光百
選滝の部で第1位
・朝霧高原…富士山西麓に広がる高冷地
・田貫湖キャンプ場…ボート遊び、へら鮒釣り、サイクリング等が楽しめる
■歴史・文化・ならわし・伝説
・富士宮
駿河の国一の宮・富士山本宮浅間大社の奥の宮は一名「富士の宮」ともいい、市名
はこれに由来する。
■文化・芸術・スポーツ活動
・清流
富士山に降った雪解け水が、長い年月をかけて市内のいたるところに湧き出る富士
宮市。その豊富な湧き水が、市民の暮らしに潤いを与えるとともに、養鱒や製紙な
どの産業の発展を支えてきた。
■ゆかりの文化人・芸術家
・里見浩太郎:時代劇俳優。時代劇ドラマの水戸黄門では、17 年間助さん役を務める
とともに、平成 14 年(2002 年)10 月より5代目黄門役も務める。
・渡辺梓:俳優。平成元年(1989 年)放送NHK連続テレビ小説『和っこの金メダル』
のヒロインに抜擢され脚光を浴びる。
・高野進(陸上):400 メートル走の日本記録保持者(44 秒 78、1991 年日本選手権)
で、バルセロナ五輪では日本のスプリント選手としては 64 年ぶりの
181
決勝進出を果たし、ファイナリストとなる
・沢登正朗(サッカー)
:Jリーガー。J リーグ通算 283 試合出場は歴代トップ。
(2)主力産業・産業構造
・富士宮市の産業構造は、第1次産業 4.1%、第2次産業 44.8%、第3次産業 50.8%
となっており、ものづくり県である静岡県の特性同様、第2次産業の割合が高くな
っている。
・主力産業としては、農林業では、富士西麓を中心に乳・肉用牛、豚、採卵鶏卵、ブ
ロイラーなどの畜産が盛んとなっている。また、水産業では、虹鱒の生産量は日本
一を誇る。一方、工業では、豊かな水資源を背景として、食品メーカーの進出や、
紙関連産業、化学工業(フィルム、医療機器)
、輸送用機器が発達しており、最近で
は、静岡県が進めるファルマバレー(富士山麓最先端健康産業集積プロジェクト※)
の一角を占め、高度な産業集積を図っている。
・また、観光面では、富士山を中心に、平成 16 年(2004 年)の観光交流客数は 612 万
人を数える。
※2002 年(平成 14 年9月)の「静岡県立静岡がんセンター」
(静岡県長泉町)開院を契機に、県民の健
康保持および増進に資するためなどに策定された構想。静岡県東部地域にある自然環境や産業・研究
集積といった諸資源を生かしながら、世界レベルの高度医療・技術開発を目指して先端的な研究開発
の促進を図るとともに、それをベースとした医療産業からウエルネス産業まで広がる健康関連産業の
さらなる振興・集積を図っていくことを狙いとしている。
3.地域活性化の取組み概要
(1)これまでの経緯
平成12年 11月
やきそば学会設立(第1回やきそば学会)
平成13年 4月
富士宮やきそばマップ2万部、のぼり100本完成披露
平 成 14 年 5 月
やきそばだけでなく、富士宮のさまざまな資源を使って中心市
街地活性化を目指す「NPO法人まちづくりトップランナーふじのみ
や本舗」認証取得
平成16年春
中心市街地の一角にお宮横丁がオープン。火付け役のふじのみや本舗
が経営する店や関連グッズ販売、名産品販売店などが出店
平成17年1月
「富士宮やきそば」が登録商標として認可を受ける
(2)活動のきっかけ
■活動団体創設の背景
・富士宮市は、大型店の出店などにより、中心市街地の低迷が続いていた。
・そうした中、富士宮市では、中心市街地の低迷に対して、「中心市街地活性化基本計
182
画」の策定を目指し、平成 11 年より、富士宮市役所と富士宮商工会議所により、一
般市民を対象とした「中心市街地活性化の為の市民によるワークショップ」が開催
された。
■活動の直接的なきっかけ
・上記ワークショップに集まった渡邊英彦氏を含むメンバーの一部(13 名)が、ワー
クショップ終了後も再集結し、路地裏の魅力について研究を続け、その中で、市内
の裏通りには焼きそば店が多いことに気づいた。
・「富士宮やきそば」の特徴は、独特の蒸し面を使用し、調理方法も「肉かす」を入れ
るといった他にはない特色があることがわかり、メンバー13 名を中心に、市内の焼
きそば店を調査するため、任意団体「富士宮やきそば学会」が組織された。
(3)活動内容
・焼きそばを材料としたさまざまなイベントを仕掛け、中心市街地の活性化に結び付
けていくこと。とくに、そのネーミングはユニークで、マスコミなどに数多く取り
上げられている。
例)富士山の標高にちなんだ「3,776 食分のやきそばづくり」というギネス挑戦
やきそばでまちおこしを図る秋田県横手市と、焼きうどんの町の福岡県北九州市
との「天下分け麺の戦い」
富士宮やきそばを公認して「麺許皆伝」する「やきそばアカデミー」開催
県内外のイベントに出張してやきそばを焼く「ミッション麺ポシブル」の派遣
・最近では、B級グルメによる街おこしのリーダー役として、他の食による地域おこ
しの先導役的存在なっている。
(4)構成メンバーと人的なネットワーク
・団体の構成メンバーのうち、主な活動をしているのは下記7名。その他に、渡辺氏の
理論・知識のバックボーンとなった未来塾でともに学んだ塾生や、情報発信の面で大き
く貢献するメディアの人たちが支援する。
(5)運用・管理の体制・方法
・富士宮やきそば学会会長の渡邉英彦氏と行政マンの渡辺孝秀氏の両氏が、事業の概要
を決定。マスコミなどのPRは代表が行い、行政との調整や事務的な側面は渡辺孝秀
氏が行う。
(6)経済的な事業の成り立ち
・行政の予算を使わずにまちづくりを行うことを基本としている。当初は、ネーミング
183
など費用が掛からない取組みを中心に行った。イベントは、企業協賛などの費用で賄
ってきた(人件費などは手弁当)。
・現在は、やきそば店の売上やお土産の販売などの収入が拡大し、NPOとして 10 名程
度の(パートなど)雇用が可能となっている。
(7)目に見える成果
・富士宮市では、焼きそばのまちおこしの流れに呼応して、食によるまちおこしを目指
した「フードバレー構想」を策定。総合計画と並ぶ同市の中心的な政策に位置づけら
れるきっかけを作った。
・本年2月、第1回全国B級グルメ選手権「B-1 グランプリ」が青森・八戸市で行われ、
静岡県の「富士宮焼きそば」が見事グランプリを獲得。来年度、第2回大会が富士宮
市で開催される。
・観光客数の増加。(はとバスツアーのルートとして盛り込まれるなど、やきそば店への
観光客数が当初は記録が無かったが、H16 年度で 29 万人、H17 年度で 29 万 4 千人の実
績を誇るまでに成長。)
(8)最も苦労した事柄と解決策
(渡邉英彦氏とともに、事業推進のパートナーである富士宮市役所の渡辺孝秀氏より)
・軌道に乗る前は、都市計画のセクション、商店街を担当する商業担当、街路担当など
さまざまな部局との調整。縦割り行政の弊害。
・軌道に乗った後は、マスコミの取材が、やきそば学会代表の渡邉英彦氏や自分だけに
集中しないように、みんなが登場できるように心がけている。メンバーそれぞれの働
きがあるから、成功につながっていること、やきそば学会を支えるメンバー全員が主
役でることを忘れないようにしている。結果として、会長への取材が多くなってしま
っているが、そうした時でも、取材前には、メールでメンバーと連絡をとりあいなが
ら、今後の取り組みの情報を流すなど、独断専行にならないようにし、情報の共有化
に努めたこと。
(9)成功要因
・渡邉英彦氏のプロモーションに重点を置く着想と広報活動が一番の成功要因であるが、
行政との連携、組織内部や外部機関との調整役などクロコ的役割を果たした渡辺孝秀
氏の存在も欠かせない。両者の役割分担がうまく機能している。
(10)今後の方向性
・やきそば学会の活動で、富士宮やきそばの知名度は十分にアップしたので、今後は、
市内の麺業者ややきそば店などが結束して、活動をさらに発展させようとする取組み
184
に期待したいとしている。そして更に、他の業種を含め、まち全体としての取り組み
に波及させていきたい。特に、もてなしの研究をまち全体で行い、まちの魅力を最大
限に引き出していきたい。
また、やきそば自体の事業も、数名の雇用が可能な水準までに売上も伸びており、
将来的には株式会社化などの方向性も考えている。
・一方、B1グルメの参加地域との交流を活発にすることで地域のさらなる活性化に結
びつけたい。とくに、ネーミングで地域活性化を図っている地域も多く、そうしたモ
デル地域として富士宮の名前を高めていきたい、としている。
(11)事業の継承と後継者(担い手)育成
・やきそばは、富士宮活性化の1つの手段であり、他にも地域の名産品を使った食材で
地元の活性化に結びつけていく活動につなげていきたい。最近では、富士宮の特産品
である鱒を使った「マスバーガー」の開発に取り組む人も現れている。
4.キーパーソンについて(渡邉英彦氏)
(1)プロフィールと活動のきっかけ
・帰郷後、JCの活動を重ねるうちに、中心市街地の低迷に危機感を覚え、その後、
静岡県主催の未来塾に参加して、地域おこしの先進事例や討議を重ね、地域おこし
の知識を習得して、富士宮市が主催する中心市街地活性化基本計画のワークショッ
プに参加した。そのメンバーとともに、やきそば学会を組織した。
(2)信条、活動理念
・言葉の力は大きい。さまざまな地域の特色や取り組みを端的に伝えるためには、人
の心をつかむ、キャッチコピーが重要である。
・ネーミング付け。ただのダジャレでは人々の心に訴えるものが薄い。そこに、いか
に活動のコンセプトを込めるかがポイントとなる。たとえば、「ミッション麺ポッシ
ブル」というコピーには、ただ、
「イン」を麺に変えるといった言葉遊びだけでなく、
否定語の「イン」を取ることで、肯定的な意味に変えるとともに、焼きそばを通じ
て富士宮を活性化しようという布教活動と人に説明している。このように、ダジャ
レでなく、活動のコンセプトを込めたキャチコピーを作成する点に苦労している。
(3)特に心がけている事柄、活動のポイント
・話題づくりと情報発信。これまでの地域活性化の取組みには、話題づくりという視
点が不足していた。どんなに良いものを作っても、話題性が乏しければ注目される
ことは難しい。そこで、現在テレビで流行している番組は、お笑い番組であること
に注目し、おやじギャクのような個性的なネーミングでマスコミの関心を集め、地
185
域の知名度上げていった。また、こうした話題づくりは、資金負担が軽いというメ
リットがある。
・市民が自主的に活動している点。これまでの商店街や組合単位では、それぞれの利
権が係るため調整が難しく、事業が進まなかったり、地域全体への活動につながり
にくい面がある。しかし、市民が自主的に活動することは、どこの業界や団体にも
気兼ねすることなく活動できる。最近、地域ブランドの商標登録で本家争いをして
いるところが多く、そうした活動では商標使用も限定的なものにとどまり広がりが
期待できない。しかし、富士宮焼きそばの商標は、県外の業者でも自由に使用が可
能であり、広くPRができるといった、大きなメリットがある。
5.キーパーソンについて(渡辺孝秀氏)
(1)プロフィールと活動のきっかけ
・企画調整課で、自らが市民まちづくりワークショップを担当し、ワークショップに
参加。そのグループが、後のやきそば学会のグループとなる。
(2)信条、活動理念
・まちおこしについては、行政マンは主役として活動するのではなく、クロコに徹す
ることが重要。やる気があり、さまざまな個性ある人材を見つけて、その人が活躍
できる場を提供することによって、その人の能力が磨かれ、大きなまちづくりの力
となる。
(3)特に心がけている事柄、活動のポイント
・声の大きな人の意見だけでなく、小さな意見も大切にしていくこと。これまでの会
議といえば、会議の常連、顔役、声の大きい人など一部の人の意見が重視されがち
であったが、ワークショップを担当し、参加者の一般公募を行い、計画を作成する
中で、多くの人の意見を取り込んでいくことが重要であることに気づいた。とくに、
以下の点は、ワークショップの実施にあたって気をつけている。
a 人間関係(小さな町であるから、どうしても既に知り合いであったり、意見があわ
なかったりという問題が出てくるので、グループ討議などの際に事前に注意)
b 他人の意見を聞かない人や行政に文句をいうことだけに終始する人
c 市民活動団体のメンバーや活動内容、守備範囲等を理解しておく
d 政治活動を入れない
e リーダーになりそうな人を意識しておく
f 会議を開催した際に、参加者に満足感を持ってもらえたかを意識する
g 欠席者へのフォロー
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