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Page 1 Page 2 二四 さて、 人足寄場の外囲の丸太矢来の延長は一一百

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Page 1 Page 2 二四 さて、 人足寄場の外囲の丸太矢来の延長は一一百
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加役方人足寄場 に
てはしがき
二、人足寄場設立当時の社会情勢
三、人足寄場設立の事情
四、無宿の収容(以上前号)
五、設備及び掛役人
六、手業及び待遇︿以上本号)
七、教誠方法i 石門心学の採用
"?
て
(一一)
丸
山
十二、常川上郷村寄場、函館寄場
十三、寄場制度の変遷及び終 意
十四 、 ま と め
十一、人足の実例
寸、経費
八、釈放及び爾後の措置
九、罰則
イ'
¥
忠
綱
ド れ れqhh日 誌 川 町 人 に 貸 し て 空 米 会 所 後 に は 薪 、 炭貯蔵 所、物置場となっていた
0
5 支、一 一千坪余は人足達
既にのベた如く、石川島へ足寄場の敷地はもと石川大隅守の屋敷のあったところで広さは一万六千三十坪であった。
話時間訪問主Um
昨一荒川市部⋮市日出
五
Hosei University Repository
二四
きて、人足寄場の外聞の丸太矢来の延長は二百四十九間五尺七寸、みめるいは二百六十八聞などの数字が残されている
から、まず二百五、六十聞と見てよかろう。註き時代は下るが安政三年(ト問)八月二十五日の江戸の大暴風の際、ここ
泊蔵
表門
l棟
31
.5
78.15.-
l棟
22.25
聞の長屋三棟が細長く一一線上に並び、二間半に長
けられており、人足の居住、仕事をする場所はこ
勿論この中には、設置当初には存在しなかった
1棟
外構丸太矢来 268間
エl
鉄砲製作場
用j陶器焼立場
さ七間半の長屋二棟が門の両側に連っていたの他
失
半潰大破
の一つの部分に炭団製造所及び蛤粉製造所の二棟
があった。なお別に人足収容長屋の劃内に女置場、病人置場がそれぞれ別棟だ有在していた。﹁一話一言﹂の図では収
の中の二つを占めているつそうして、二間半に八
それによると、役所は場内の中央部に近いとこ
ろにあり、この役所によって、大きく三部分に分
に見える‘図は寛政年中のものと考え,
られ、当初の
様をうかがうには恰好のものである。
る割合は小であった。大田萄山人の﹁一話一一吉田﹂
建物もあるのであるが、概して言えば役所の占め
菜種蔵
差国人並舟頭小屋共 4ヶ所
58.人足共米麦春立場 1棟
7
.
5
も七分通りの大損害を蒙ったのであるが、その時の﹁寄場破損ケ所書付﹂なるものによって、その当時の施設規模が判
る。それによると次の如くである。
46.1棟
油絞新小屋
31
.7
5
1棟
仮役所
18.1棟
f油製所
3
2,2
3
.ー
流 菜種入置場 l棟
舟頭小屋 3ヶ所
物置 2ヶ所
i
7
.ー
1ケ所
L舟頭小屋
2
6
0
.一
l
l
泊絞小屋 2棟会所向共
24.全 │人足共飯米仕立所 1棟
If/
湯小屋 1ケ所
85.5
手業場所 2棟
I/
/
建坪
82.25
1棟
f役 所
場であったと考えてよかろう。 ﹁宝暦現来集﹂によると、﹁一番部屋より六番部屋迄 、罪の軽重に て部屋を 分置く﹂定
めであったと云うが、これは文政末年天保初年の状態没一言 ったものであろう。 年代不詳 の﹁人足寄場配 置図﹂ (国会図
書館蔵)によれば、一番から七番迄の人足部屋が見えているし、佐久間長敬の﹁清陰筆記﹂にも部屋は七番迄あり、八
容長屋を細かに区切って、紙スキ、カヂャ、ヵゴャ、ャネヤ、竹笠、ホリ物、一冗結、草リ、縄細工、百姓、等々の記入
がある。百姓や、屋根屋は、この収容長屋は全くの寝所と考えてよいが、その他の職業では、当時時そこが同時に手業
潰
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番部屋を病室にあてたとあるから、その後更に 一棟 建 増 し さ れ た も の で あ ろ う 。 幕 末 期 の 状 態 で は 、 各 室 四 聞 に 三 間
Z 保十三年(トコ)募から同十四年春にかけ
員は凶十名町あった。註(却﹀ へ
半、三方は板羽目、表口は三寸角の格子戸で、 bk
ての、鳥居甲斐守忠耀や、遠山左衛門尉景元の問で取交わされた一連の文書によると、次のような事情が宥する。即ち
一大保十 三年当時において、同七年の鍛僅来漸次入所者が増加した結果、遂に四百 三十余人になったので寛政以来の火足
部屋では足りなくなって一棟新規に建増をした。ところがそれでも足りず混雑状態を呈するようになって来たから、更
r
に建増しもせねばなるまいと思われるが、町奉行所の方から差廻しにする人足どもに勺いてもしかるべくこの点配慮あ
云うのが、七番部屋 はなかうたかと思わ
りたしと云うのである。 実むこの天保十 三年暮 迄に一棟建増しされていたと 一
れる。その後、更に必要に追られて遂に増築するに至った椋が、人足寄場配置図において新部屋と記されているもので
︿ぎ
J註
はなかろうか。新部屋の建築の年は明かでない
前 述 の 安 政 三 年 の 洪 水 被 害 調 査 報 告 書 に よ れ ば 、 人 足 共 手 業 場 所 二 杭 八 五 ・五坪とあるが、ここでは大工、建具、差
物、塗師等種々の手業を営ましめたもので、人足寄場配置図に見える炭団干場 、米春場(安政三年の被害届けによれば
円に油絞小屋二棟会所向
建坪五十八坪可図面片隅構外に﹁是ぷ油絞部屋﹂と為る、曲絞り場、また安政 三年洪水被害調査幸一
とも二百六十坪と見えるものなどは、当時謂わゆる手業場と云う観念の中に入っておらなかったらしい。当時、特別手
業のなかった入所者は春米、絞油、炭団製造、藁細工などに従事せしめた趣が江戸会誌に見える。泊絞りは素人にでも
m
v
出来る仕事でおったのであろうが、それとともに天保の頃から菜種油の重要性がまして来たことにも原因がある。 自(
ヲ
安政 三年の噴には、既に油絞新小屋一棟 四十六坪さえ増設されていた程である。 註(
女性に関して云えば、前項で一寸ふれておいたように、寄場開設当初には一話一言の図に見えるような女置場が設け
られていたのであるが、中途から女性の入所する者がなかったために、自然に磨れていた。それが、幕末に至って復活
。寛政 五年
(
J
Z
)
一筒年間の 平均収 容 人数百 三十二 人
され、この時には女性に適した手業が課せ 、られることとなり、人足寄場配 置図に見られる如く、女部屋、後には女手業
場を加えてのこ 椋 となって実現したのであったろう。註(況)
このよ うな施 設で、その収 容 カは 六百人吃以て限度としていた
二五
大
保 十三年
号 、文政 五年(一一一ユ)九月当時、百 四 十六人 主号、 一
文化 十四 年(一が)年 平均百 三十 二人余 訂(
四分七厘余、 註(?
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一
一
六
(トユ)当時四百一一一十人会主与、同十四年三足当時五百三十一人注号、弘化元年(ト臥)一一月当時六百余人(中、追放刑入
所 者二 百四十 人)、 さ さ 同 二 年 平 均五百八人一仔 ぺ厘 余 在日さと一疋う 実 際 上の数字が残されている。これは既述の如く、
入所者の範囲変更の上で 云う第四期即 ち 水 野 忠 邦 の 宍 保 改 革 の 結 果 、 こ こ に 送 ら れ る 者 の 激 増 し た あ と を 明 瞭 に 物 語 っ
ている。収容限度を超過した場合は、当分溜預けとしたことが文化十年七日)募の史料によってうかがえるが芸号、い
つも同様の扱いであったか否かは明かでない。
さ て 次 に 掛 役 人 に つ い て み る と 、 創 費 当 時 は 専 ら 事 に 当 っ た 長 谷 川 平蔵 が 管 理 の 任 に つ き 、 単 に 取 扱 い と 唱 え て い
たっ建策者であった彼は人足寄場のことについてはかなり専断的にその権を握ったものの如くである。 一
二
年後 の 寛 政 四
年 六月四日取扱いを免ぜられ 註(刊)、村田鉄太郎が徒日付から転じて新たに人足容場奉行に任ぜられ、爾来廃止に至る迄
寄 場 奉 行 が お か れ 、 寄 場 管 掌 の 任 に 当 っ た 。 も と 、宏司揚奉行は作事下奉行格、投高百俵 、役扶持十口であったが、寛政
六年 ( 紅 ) 月改めて大工頭格とし、役高 二百俵、役扶持 二十 日 を 袷 せ ら れ た 。 若 年寄 の支配に属していたが、慶応 三
一
一
年( ゑ )六月勘定奉行の所管に移された。この下に役所持元控伐・同心なるものが三人あり、小普請世話役格で高五十俵
である。元締役の二名増と云い、更に寄場奉行と元締役の中間に吟味役一名の設けられたことと一五い、幕末風雲急なる
(ぢ 安 政 武 鑑 に は 元 締 役 五 人 と あ る 外 に 御 投 金 五両とある。投金のこ とはそれ以前の史料にも御手
三 人扶持であった。 註
当 金 三 両 と か 五 両 と か 見 え て い る も の が 多 いが、これがそれ に 当 ろ う 。 主 ぢ 元 締 役 は 一 名 ず つ 宿 直 し 、 大 休 一 切 の 監 督
庶務に従事したの註︿似)それよりも問題になるのは安政武鑑、万延武鑑などに克える吟味役一 人、百俵 七人扶持なるもの
に当って、幕府の綱紀を張ってみせ 、あるい は と も す れ ば 反 幕 的 行 動 に 出 で ん と す る 者 の 混 入の恐 れある無宿 人に対し
幕 府 が 気 を 配 り 、 寄 場 に あ る 意 味 で カ を 注 ぐ に 至 っ た こ と を 示 す も の に 外 な る ま い 。 こ の 元 締 役 の 下に、計 二十九 人に
達 す る 下 役 同 心 が お か れ て い た 。 そ の 内 訳 は 手 業 掛 三 人 、 見 眠 鍵 役 三人 、 畑 掛 一 入 、 油 絞 方 掛 八 人 、 春 場 掛 三 人 、 踊 殻
灰製造掛一人、新見張番所掛二 人、門 詰八 人 で あ り 、 各 二十俵、二 人 扶持であったっ 人
Z 保十一二、四年当時の調べによる
と、これらの外、その筆頭に﹁役所詰﹂なるものが 三人 あ る こ と に な っ て お り 、 合 計 三 十 二人である。 受付)これ-らの伎
。空白)
は隔日に宿直し、不寝番をも勤め、人足の取締、授産、戒護等の任に当った ‘
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RAW)
頭 若 干 名 が あ っ た 。 船 頭 は 拾 金 三両 二分 、 二 人 挟 持 で あ っ た が 、 母 子 あ る も の は 四 両 、 二 人 扶 持 と
一
一
七
に人足寄場掛が命ぜられ、南北両粗から隔日に一人ずつが常務として勤務したー
更 に ま た 、 徒 日 付 二人、小人目付四人が定一語となり、毎日その半数宛が朝 五 ツ半から、タ七ツ時過までここにつめて
いた。 註(きこのような謂わば監査の役人に対してさえも、幕末には賄 賂 が遣われたこともあったらしい。さは)
が、寄場見廻りの任に当るのは与力申の末輩、芳年者、新参考で、これを呑方与力と称した。京ぎ叉、町奉行組同心中
特 色 の あ ら わ れ で あ っ た 。 即 ち 寄 場 に は 、 町 奉 行 の 目 代 と し て 南 北 与 カ 二人 的 隔 日 交 代 に 出 役 し て 見 週 り 伎 を つ と め た
以上のような寄場太一来の諸投に対し、側面からこれを牽制する役員がおかれていた。これは江戸幕府の償制における
崎
改められた。叉、一
当分 一筒・月銭一貫文の斡料であるものもあった。船頭の多︿はもと寄場人足にして、取立てられたも
巴
のであった。 主(
さらに下男及び
し字兵衛一人となり、爾来文化 十 四 年 の 時 は ま だ こ の 男 が 元 気 で 任 事 に当 っていたのである。 空想
その外、医師二人あり、病人次笥で毎日又は隔日に来診した。去作)ゴ一人扶持(時に人足の中に医術の心得ある者あっ
てこれに診察、投薬せし めた こ と も あ る 匂 婁 号 心 学 教 師 一 入 。 こ れ に つ い て は 後 述 す る 。
ら お か れ た の か 明 か で な い が 、 人 足 寄 場 開 翼 後 七、 八 年 に し て 既 に 、 こ の 地 位 に 任 ぜ ら れ た 考 が現われたちしい。更に
享和元年 (か吠)一 二月に取立てられた宇兵衛なる男が出て差配人は二人と一式うことになったが、前の男一は、その翌年死亡
て、人足の 気 持を
理
解
し
う
る
先
輩
と
し
て
、
前
記
の
よ
う
な
仕
事
に
当
っ
て
い
た
特
殊
な
も
の
で
あ
っ
た
。
文 化 十四位 (一目)以降
はシケの時の不便その他の理由から附芦敷内 一
二十 俊
A 一坪の、今犀を貸与するようになった叶この 一
差配人なるものはいつか
改惨の情著しく、働きもある考が特別取立てられ、寄場の費用を以て、町中に庇を持たせられ、毎日容場役所に出動し
Ae
また別に寄場差 配 人部 二人または 一人 お か れ て い た 。 こ れ は 人 足 釈 放 前 後 の 保 護 、 手 業 場 、 部 屋 内 の 見 廻 り 、 賄 方 請
負などのことに当ったものである。元主 これは問万より召抱えられたと一式うものではなく、曾て容場人足であった者で
が出たこともある。
そうして職員には、朝、昼は一汗一菜、タは一菜の食事を給し、叉、下俊同心には、その出動日数に信じ、一日銀一
匁の 割合で 手当 を給 与し た。それ ら の零 用 は一一切容場持費の う ちか ら山山
森
芸
人
一(臨 時 賞 与 )
さ れた。 さ ぎ 特別の 場令には 御
J
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二八
o芸む宝暦現来集によれば、こうして人足達がつくり出した品物の出来がよろしい時は、それぞれ
一の目、年末年始は募の二十 五 日から正月 日迄、(なお神田川川波紘 の特別の重労働があった場合は正月七日迄休憩
寸
一
十
せし めたこともあった。)お盆の七月十五、一
六日の両日、という定めであった。 主 ぎ
働時聞は朝は五ツ時からタの七ツ時迄であるが、仕事によっては払暁より、晩刻に及ぶ場合もあった。註(関)休日は毎月
の筋の問屋を差紙を以て呼び出し、好みに応じて之を引取らしめ、また出来の如何を問わず製品は買上げたと一広う。労
せしめたようである
座頭たらさしずめ炭団を丸めさすと伝えている。一般に女は人足の被服の裁縫、洗濯、つくろい、雑巾刺しなどに従事
はこまりものではあるがとりあえい庁寄場に収容するとあり、いざりなら縄な一レ、わらじりくり、女芸者は川岸で洗濯、
うちあげられた古木類をひろいあつめての風呂焚なども数えあげられている。向者一には、手習師匠、料理人、芸者など
などもあり、渡船の船頭働き、細細工と云う中のわらじ製造、人足と一式う中の土の鋪ならし、あるいは、焚出し、汐に
のとしていつからかは明かでなかが鉄砲製作芸ぎなどもあった。﹁会事余筆﹂理によると、この外、たか掛(範かけ)
官、人足、米ツキ、蛤粉製造、炭団製造等であり、‘更には建具差物、塗物、米春、油絞、袋張り、陶器製造、特殊なも
百般の業種に亙ることは到底不可能であった。前にもふれた一話ご苔の図中に記されている手業の種類は、紙スキ、ヵ
ヂャ、カゴヤ、ヤネャ、竹笠、ホリ物、元結、草り、細川細工、百姓、ヤリ、銭サジハ銭差 U、グパ 2、カミ結、大工、左
の得意を活かし、追々その範閣を拡大して行ったもののようであるヴ場内における手業は設備を要するものもあるので
可 ν被ニ申間一候
と見えている。これは設立当初の方針であるが、別に場内、場外の作業を何勾と限定しておった訳ではなく、本人々々
とあり、第八条には
一、人足共追山内相増候節、御蔵人足、其外御普請場川竣佐一寸之場所江ハ差出し候様いたし、 共外も遣方心附候義は追々
致可 ν申候
一、人足之作業之義ハ勝手次第得手之義を為 ν
寛政二年二月二十六日附の松平安信の御渡し註(臼)なるものを民ると、その第一条に
-'、
"
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人足達はその日の手業が終了すれば日々入浴せしめられた。註︹号
さて人足達の手業に対しては何れも労逸の次第によって賃銭を与えた。本人の手業の成果たる製品が売れると、元入
用ならびに一日の諸費用として半顔は差引き、その残高の中一芦割合で強制貯蓄(溜銭)させ、外は本人に手渡す定め
であった。そうして溜銭 H貯 金 が 十 貫 文 に 達 す る か 、 あ る い は 精 励 協 勤 な る 者 は 十 貫 文 未 満 で も 褒 美 金 を 与 え て ↓ 貫 文
と し 、 た と え 引 取 人 が な く 三 も 放 免 し た ( 寛 政 四 年 十 二 且 規 定 ) o斐 巴 後 に こ の 規 定 に 多 少 の 変 更 が 加 え ら れ た こ と と
思われるが、弘化四年当時の規定委ちによると、売払代金の二割は道具代として上納させ、残銀の三分の一を更生資金
として強制的に積立てさせ、三分のこを且々十日目毎に三回に当人に渡すこととなっており、尤も仕事の種類によって
は四分の一を積立て、四分の三を本人に渡す場合もあった。また直接に製作品をうみ出さない仕事にあっても、、それ相
とにかく三貫文以上にして放免する規出ーであった(寛政四年十二用定)。安ヲその後に至って仕事に精を出す傾向を馴
応の日当を与え、適当に溜銭させ三貫文に達するか、あるいは真面目に働く者はこれに満たなくとも、褒美手当を与え
致せしめんがために煙車銭なるものを支給した。その額は油絞り仕事においては、能率に応じて一日二十文から三十二
﹁手業﹂という一言葉もその時々によって多少異った意味に解されていたが、宜同揚においては多く特殊の手先の仕事、細
文 位 の 割 合 で 用 に 二 度 程 支 給 し 、 赦 免 の 際 は 褒 美 銭 と し て A7迄 に 支 給 さ れ た 煙 草 銭 の 四 分 の 一 位 を 与 え た 。 油 絞 り 以 外
の仕事だと、煙草銭は十日に一回支給。その額二百文を超えた場合は半分、二百文未満の場合は三分の一を前述のよう
に 強 制 貯 金 さ せ 、 放 免 の 日 に 積 立 て た も の を 渡 し た (一
六保十五年当時)。実与このようなやり方は今日の刑務所におけ
ると殆んど変りがない。
工というように考えられていたようである。随って既にのべたように油絞りなどには特別な手業一をもちあわせない者が
当てられた訳である。その外、こう云った特別な手業のない者は場合によっては、日雇穣として場外で働かせるほか川
に寄場人足達の日々の食用に供すべき野菜類を栽培せしめたことは前述の通りである。
設を始めとし、道路、橋梁、官街地目請などの際の人足としても働かせた。註(ぢ百姓の経験ある者はなるべくその経験を
活 か し 、 上 郷 村 の 人 足 寄 場 の あ っ た 聞 は 主 と し て こ こ に 送 っ て 開 墾 に 従 事 せL めたのであった。附屋敷地の中二千坪余
また寄場人足中追放刑に相当した者比入所期限があったのであるが、大体こうした連申は満期前三ヶ月の頃から、外
二九
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十 五 年 二 月 中 か ら 頭 取 一 人 、 地 柄 揖 向 打 、 初 取 、 抽 〆 と も 二 人 、 都 合 三人 を 一 組 と し て 、 従 来 五 人 で し て い た 仕 事 佐 負
担せしめるに至った。そのため朝は六ツ時過から出て夕刻迄骨折って働き、良型地柄揖向打の役についた者の如きは寸
水質が極めて悪いことの 三 点 に あ る こ と が 判 明 し た 。 そ こ で 労 働 過 重 の 点 は し ば ら く お き 、 他 の 二 点 は 当 然 改 善 す べ き
も の と し て 、 食 糧 を 増 給 し 、 飲 料 、 炊 事 用 水 は 上 水 を 取 寄 せ用いるに 至 った。そもそも、油絞りは頭取一人、地柄揖向打
兼 二 人 、 初 煎 と 唱 え る 菜 種 を 煎 る 者 一 人 、 油 〆 一 人 計 五人 が 一 組 を な し て 、 仕 事 に 当 っ て い た の で あ る 。 し か る に 天 保
直 に 御 目 付 及 び 定 組 り に 対 し 秘 か に 探 索 す ベ く 命 を 下 し た ο その結呆逃亡を企てた原因の¥王なるものは、治絞りの労働
が余りにも重いこと、食料の給与がこの重労働に対しては不十分であること、寄場におけるこつの井戸による飲料水の
人足七人が堪えかねて逃亡を計るという事件がおきた。事は未然に発覚したのであるが、その原因究明のため町奉行は
れ に 反 し た 。 泊 絞 り が 多 く の 人 員を 殴 収 し え た だ け に 勢 いか作り 苛酷た 労 働 条 件 と な っ た の で 天 保 十 五年五用に至り、
なる斎も多かった。註徐)しからば最ゐ多くの人数を吸収しえた油絞りが快適な仕事であったかというに、事実は全くこ
月(肱)の墳において、﹁手明之もの弐百人程も有之﹂る始末で、自然ごもごろしているだけで運動不足にたり病気に
一一一向巳罷在候而自然諾病相発し死亡之もの多罷成﹂った実状であるが、天保十二年泊絞りを開始じてから、二 三年の聞
に、大体毎日二百人程ハ各種の手業は合計して百人余)をこの仕事に吸収出来るようになった。それでもなお弘化元年三
作業の中では、後期におい之最も重要な地位を占めたりは油絞りたあった。一穴保十二年(ト﹂ハ)以前においては前述し
たような種類 の 手 業 と 云 っ て も 、 そ の 一 つ 一 つ は 極 め て 小 規 模 な も の に 過 ぎ な か っ た 。 そ の 結 果 ﹁ 手 明 之 も の 部 屋 内
たというからには﹁日本近世行刑史稿﹂に考えてしるような﹁信用制度﹂そあったか否か疑わしいといわねばならぬ。
類に註︿ゼ﹁壱人は兼而外使申付置候処出先市中三間質物致度段差添候下役江申偽赴去﹂ったとある。下役を差添えてレ
寛政四年十二用、寄場奉行村田鉄太郎の人足一同に対する申渡の中に既に、﹁外使﹂ 註(管なる言葉が見えているから
霊場創設出﹁一初からの制度とは考えられる。しかしながら享和 三年(か日)に霊場人足二名が逃亡してとらえられた際の書
い c追 放 刑 以 外 の 人 足 ほ 随 時 ﹁ 外 使 ﹂ と な っ て い た よ う で あ る 。
﹁満期前三ヶ月﹂という数字は﹁日本近世行刑史稿﹂にレうところであるが、何を典拠としたものであるか明かでな
使と称し、市中への賞物使いなどの雑務にあたらせ、日用品の現金貨出しあ百一いは製作品の運搬などをさせたという。
。
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暇もえられず、盛相飯を常一-にうけて、これを嘆しつつ就役する実状陀あった 1 註(習もともとは、代るがわるに食事没す
るのであるが、その時間も十分でなレので、やむをえず飯を手拭に包み部屋の中にかくしておくものもあった。随って
よほど身体のよい者でなくては堪え切れなかった ο しかも下役は毎日の油の出来高を調査し、ノルマに達しな-い者は不
精から出ているものとして厳しく叱り、帯びている木刀でなぐりつけるようなことも屡々あったのである。元来働き者
P
で寄場人日比になるような者は殆んどなく、人足め多くは怠惰者であるから、俄かに朝から晩まで働かされると節々が痛
い
。.何 と か 休 み た い と い う の で 気 分 が 悪 い か ら と か 、 僅 か の 怪 我 を 大 げ さ に 至 っ て 早 退 を し よ う と す る と 折 櫨 を つけ
る。お腹が痛レから休ませて呉れと申立てると、役所に呼びだし、仰向けにし、手足を押え、支を径一寸位にひねり併
に灸を据えるので 、と ても真実の腹痛でなくては一日でも休むどころではなかった。この︼ような悪条件に加えて、天保
十五年当時ここに寄場人足を喰い物にする所謂、グニのような有在があったのである。それは寄場の対岸、霊巌島長崎二
町目平六の庄子 、栄次という 寄場人たあがりの男であった。彼はもと布施村無宿であり、寄場に収容せられたが、非常
に精勤したため、下物金(褒美金)を貰い、釈放後も寄場にそのまま勤め、 人
Z 保十二年当時油絞り事業を開始する煩か
ら
、 いろいろ尽力し、寄場差配人もし、役人にとりいることも巧みであったので、その気受もよかった。彼は干肴その
・
他、お菜になる物をつくって寄場にもって来ては人足達にうりつけた。人足達は腹めへるままに前後の考もなく十日ま
たは十五日目に支給される多葉粉銭を引あてに彼からいろいろのものを買食いし、多葉粉銭を貰っても右から左へ彼に
とゐれ、その時になって後悔しても及ばない有様一℃あった。また追放刑の適用をうけて寄場入りをした者は寄場国外の
所用には使役せられなかったのだ、それ以外の軽非者が外出 (1外使)となって町中に伎に出るような時に、それに依
頼して買物をして来て貰う習慣であった。外佼となったものは、それを利用し、八十文の口聞を買って帰り、依頼者へは
F
吉文でうり、 その差顔十九文(これは云うまでもなく九六銭であるからである。)を手数料、利益として自分の懐に入れ
ていた。寄場としては殆んど公然これを認めていたようである。
しかるに入用の品物はすべて栄次の手を経由しなくては栄次のうけ'ゅよくないし、外使となったものも従来のように
すると栄次にひどく憎まれるので、自然、品物の購入依頼を断らざるを符なくなり、外伎となっても、何らの利得も見
られなくなってしまった。また栄次に依頼して入手した品物が、外出者に依頼した時の物より品質が劣っていても、栄
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の、その結末はどうなったかは遺憾ながら不明である。註(冗)
次の権威に恐れを な し 、 心 な ら ず も そ の ま ま 受 け と っ て お く と
い
う
有
様
次
で
あ
っ
た
。
栄
以
外
に
も
二
三
人
寄
場
人
足
上
り
で
遇 っ て 来 る 男 も あ っ た け れ ど も 役 人 が格別に自をかける訳モもないので従っ て栄次 ほどには実害を及ぼさ ないのでふめ
っ
た。目 付の内偵害 上申の 結 果、﹁ 栄 次 と 申 も の 不 時 之 筋 有 之 趣 ニ 候 得 は 得 と 取 調 ﹂ べ る よ う に と い う こ と に な っ た も の
上に食事のことをのベて来たので、ここには寄場の全般的な食事についてのべておく。主食は米麦の混炊で、その具
体 的 な 量 の 数 字 は 後 述 す る ﹁ 経 費 ﹂ の 項 に 大 き な 関 係 の あ る も の で あ る が 、 寛 政 五 年 (主 )度は一年を平均して一人一
日、き一合四勺二才余、割麦二合四勺三才余、米麦計五合八勺六才余、文化十四年 (一切)度は同じく、米四ム口五勺四才
(
m
Z
)
余、割麦二ム口四勺二才余、米麦詐六合六勺九才余、弘化二年
度ほ同じく米二合九勺七才余、割麦二合九勺七才余
米麦計五合九勺五才余、この年、上述のような油絞り人即応の待遇問題がおきた後のこととて、油絞り人足に対してのみ
増配 が な さ れ て い る 。 そ の 分 、 米 一 合 六 勺 余 、 割 麦七 勺六才余、米 麦 計 二合 三 勺七才余。 註(
η)此上の数字は平均であり
大体男子 一人 六 合 前 後 、 泊 絞 り の 人 足 は 八 合 半 位 で あ っ た こ と が 分 か ろ う 。 天 保 十 三年当 時の規定によると、手明きの
ままごろごろしている男子は玄米二合一勺六才、白米二合五勺、割麦二合五勺、味噌二十七匁、女子は玄米二合一勺六
才、白米二合、割麦二合、味噌二十二匁、手業に従事している場合、男子、玄米二合七勺、白米三合五勺、割麦二合五
六勺二才、白米二合二勺五才、割麦二合二勺五才、味噌ベ十六復。女子、玄米一合六勺二才、白米一合五勺、割麦二合、
勺、味唾三十二匁、女子、玄米二合忠勺、白米二合五勺、割麦二合五勺、味噌二十七匁、病人の場合。男子、玄米一合
味噌十四 hto註込)以上の如くであった。これに加えて、天保十五年の大量逃亡計画発覚後の泊絞り人日比に対する特配、
増 配 分 を 考 慮 に い れ る と 、 先 ず 重 労 働 者 に は ほ ぼ 一 升 の 支 給 が あ っ た 訳 に な る o前 述 の 平 均 値 か ら 算 出 し た 八 合 五 勺 見
当よりは、この一升見当という数値に従うへきであろう。副食は朝夕は味噌汁、昼食には多葉粉銭のうもから一日五文
ずつ差引いて、香のもの、あるいはいささかなるお惣菜をこしらえて与えた。日本人の食事に共通なことではあるが、
とにかく組食 大量主義であり 、 蛋白質 の供給源を専ら味 噌 に 仰 いでいた。これでは 空腹 を覚える場
合が多く、それが恐
らくは、前述の栄次のようなグニ的有在をはびこらしめた根本の因の一であったのであろう。しかも右は油絞りの重労
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働に従事するものへの支給である。随って、一般にはそれ以下で、平均値以下のものも勿論あった。油絞りの仕事に関
聯はあるにしても、油蔵、種蔵の尾張番人足、あるい日袋造り、髪結その他の肉体的に楽と考えられる人足に対しては
﹁揚げ度盛相﹂と唱え、厚さ 五分程の板を震に入れ、飯を盛り、病気と称して仕事を退いた者に対しては底板を二枚入
れたの守、極くの重病人ででもない限り普通の病人では食事の足りる筈はなかった。そうしてこの﹁盛相﹂に底板を入
れ、減Lをつける際の出自はどうやら元締役句役得であったもののようである。炊飯用の竃は各部毎に設けられており
﹁一と部屋毎一一人足共之内見立一人ツ、卯昨役有之日々元締役より米飽割味噌等同下役立合W
.時一役受取都て食事持致﹂
すのごあった。註(江)
正且三箇日は、雑煮餅、鮭の塩引などを給し、寄場開場記念日、稲荷祭の日には赤飯、汗、菜を与え、五節句社休業
として赤飯を与え、その中の七み忙は索麺を出した。また暑中にH 必ず一度は鯖汁を苧ぇ、月見には因子汁船出た。註
(九)江戸会誌に暑中には日々、際邪湯を給与したとあるが、同肝邪湯の正体は枇杷葉湯 司
吹きで占めったー
衣類は寄場入りの際、著用していた物は一切、役所へあずけ、註(巴支給された柿色へ水玉模様を白く染出した四季施
(仕著)を著用 Lた。この水玉の数も一年毎にすくないものにかえられ、 三年を経過すれば無地の柿色となった。随っ
て箸衣を一見すれば、入所後何年をたっているかが直ぐ分かった。また役附の人足も無地の衣服であった。このような
生地を以て、冬場付袷、夏場は単衣としてわたした。柿色を採用したのは、既に長谷川平蔵の時からのことらしいがこ
註 (花)
れが最下等の安染めであったことと一般人がその薯衣に柿色無地などを用いることがなかったのによると見てよい。
ところで、人足達は際さえあれば脱走を企てて成功する者もあったし、死亡者も出る。その衣類は年二回入札によっ
て払下げ、その代金一間不浄金と唱えて、霊場で積立てていた。交政五年(一一一一羽)以来、このような払下ぐべき布子、袷、
単物の類はなるべく払下げずに囲っておいて、入足達の蒲団の修繕切地に用いるようにされた。また寄場入りの際の衣
類があまりにもひどい場合はやはりこの年までは洗濯の上、帯地に用いていたのを、これまた蒲団の修理切れとし、帯
地の方は、御四季施木綿を以てこれに充てるようにした。この蒲団そのものもこの年迄は一人一枚の支給であった。(枕
は木枕であった o
u勿論、安価なものを購入支給したのであるから一冬もてばよい方で、年々新規購入であった 1 それを
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布蒲団を一人一枚の割で給与した。そ
Y 寺社、江戸町、勘定三奉行漣暑の上、阿部遠江守
者、好候筋ニも有 三御座一間敷 候問、右目印之儀ハ、先ヅ仕来之通﹂りに据 置く 方 が よ ろ し か ろ う と い う に 落 著 し た の で
別
)
ある。 聖路)要するに男女人足何れも髪形などでは常人と何らの差はなく、既婚女子には鉄紫をつけしめた。 註戸
めにおどして見ても、脱走する者はするのであるから、かかる眉の剃落しとか切禿にするとかの﹁異体之厳法相立候
の意見を支持し、この採用方のしかるべきを老中に答申しているのである。結局、死罪に処すべしと寄場脱走防止のた
実施すれば事足るべしとの町奉行阿部遠江守の考とのこ説が現れた
難を感ずる。よろしく寛政年中K 年限を限り寄場入り仰付けられた人足どもに対して実施したように、男子は片眉剃落
し、女子は切禿にすべしとの目附榊原主計頭の意見と、一般にそれ程迄にする必要はなくごく重罪と思われる者のみに
には、水玉模様の四季施だけでは、脱ぎすてられると、全く平人と区別する目標が・なくなってしまい、逃亡者逮捕上困
中に入れた。 註(幻)しかし、日中、手業場には別に締りは無く自由に出入することが出来た。その点が浅草の非人寄場と
の大きな差異の一つであった。実例)
このように割合に人足の取扱いにルーズな点もあったので逃亡する者もちょいちょい出た。そこで天保十四年(監)
の戸は当番の元締役立合レで見張鍵役が開いて、人口北を出し手業につかしめ、夕刻にはまた人足の蒼到をつけて部屋の
と同時に毎室とも夜中は殊に火を警しめ、主ハ外取締のため人足二人ずつ不寝番とし、拍子木をうたせた。空ヴ入足部屋
大体この藁蒲団と近い寝子駄は一般に人足部屋の中に敷いていたもので、世話役及び病室のみは無様の琉球畳を敷い
た。告別)室内には火炉があり、冬季は薪を燃して陵をとらしめ、あるいは喫煙、あるレは煮焼するを許した。差別﹀それ
ものでもなかろうが、いささか非人道的な感門仇する。
一
一た。
れ以外の役附人見に対しても迫々従前の如く一人一枚支給せルとずる方針であっ
七番部屋に坤吟す右重病人に対しては、手業場で藁蒲団をつくらせて、これを用いさせた。芸乃﹀藁蒲団必ずしも悪い
康休と一組にはしなかった。
投附人足中の頭立った下物書並に世話役とも五人に対しては従前と同じく、
蒲団のかわ、単物地などを利用したものとした。勿論、 三人が一枚の蒲団という以上、湿病(皮癖湿疹など
この年、五布蒲団を三人につき一枚支給ということに切かえたのでおお。しかも古綿打直し、表裏とも、使えるだけ古
U の者を健
四
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更に病人の取扱方について見ると、重症に躍った者は七番部屋(あるいは八番部屋)と称せられた病人室に移し、世
話役及び平人足のうちより年かさの看護人を選びつけおいて、厚く介栴せしめ、薬餌を与えた。軽症の病人でも自室で
服薬せしめ、湿病などを患う者は日々薬湯に浴せしめた。 註(幻)年代不詳の人足寄場配置図には同一建物に平湯、薬湯と
ならべ記入してある。病人の食事は、前述の如く、男子は玄米一合六勺二才、白米二合二勺五才、割麦二合二勺五才、
味噌十六匁、女子は玄米一合六勺二才、白米一合五勺、割麦二合、味噌十四匁の給与でハ天保十三年当時)註(号、よほ
どの重症でない限り、空腹をしのぎかねた。芸的)しかし手業による溜銭は病気の際は引出し、使用するを許し、太人の
晴好に応じ塩梅醤鼓その他を購入せしめた。医師は病人次第に毎日または隔日に来診した。薬物は時価購入で、来診が
食事時に及べば寄場経費の中からの費用で、一汁一菜の飯を供した。註(卯)但し、寄場人足の中にも、医術の心得のある
これら病人に対する規定を見ると、創立当初の寛政二年(友)一一月二十六日附の松平津信の御渡し註(幻)には、
の如くである。性別)
者がある場合には、これを利用し、療治に当らせていたもめ、,
一、重病又ハ長病之分、溜江預け申付、かろき義ハ寄場にて手当可コ串付一候
とあるが、これは元来、長谷川平蔵の考を上申し、そのように取計らうことになったものでゐるが、その後直ぐ平蔵は
思い直し、三月二日には、一日一寄場に入れた者をまた溜に入れ非人共に取扱わせるのもいかがであろうし、寄場内の情
ζとに致したい。溜より
報が溜の方へ漏決するの恐れもあるから、寄場内に病人小屋一ケ所補理し、ここで療養させる
寄場の方が手当も4く行届くから、自然他の人足にも好感を以て迎えられるであろう。そうすれば経費は寄場ではかさ
み、溜では減ることになるが、全体として見る時、やはり大きな節約になると思われるというのであったが、これは朝
令暮改の傾きもあるかで、採用とはならなかった。註(関﹀同年十一月の容場人足御仕置並心得宝門註(ぎには、
伺放遣苛 v申候
一、癒病叉者療毒之類、湯治致し度回目相願候ハパ相応之草軽銭差遣不 r
及v
と見えている。恐らく寄場に送られて来た連中の中にはこの種の病に躍っていたものが少なくなかったのであろう。寛
o 当時これらの病気は何と
政九年(む)度の霊場人足仕置並心得書においても、この箇条はそのまま踏襲せられている
ったものであろう。註(%以
も始末に負えf 、甚だ責任逃れのようではあっても、ただ寄場から態よく追払う以外にはとるべき方策も見出しえなか
五
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」ー
足 の う ち か ら 手 代 り と も 三 人問えb ばれて運搬していった。註(卵)
1
幕末混乱期においては病室は相当の惨状を呈して
小人目付と立合検死の上、千住なる回向院の墓地に送って埋葬する定めであった。その際、寄場下役一名が差添い、人
死亡者は有宿者は保護者に通告して死骸を引渡じ、 註(仰)無宿者は元締役、同下役・むうち鍵伎のものが町方与力同心、
ったようである。註(関)
とあり、悲惨な有様を伝えている。こめような死に至る重病者でなくとも、皮癖などの皮膚病の蔓廷はひどいものであ
ても不快を覚ゆる程なり。それをしきみの葉を嬬ベて紛らしたり。室外へ出ると塩を播きたり。﹂
の﹁人目見に死亡者あれば町方与力見廻りの時に検分したり。病室及死体の有様甚だ不潔にして悪臭あり、今に思ひ出し
おったと思われる。人足の死亡者も多かったようである。佐久間長敬の思い出﹁滑陰筆記﹂によると病室たる八番部屋
ったであろう知、さもない場合はよほどひどいものであったらしい
銭でも多く、有効にこれを掛役人に 賂 いするか、親類縁者で働きかけてくれるような人達恥あった場合には比較的よか
天保改革の際、元町 奉 行矢部 駿 河守もモの下僚とともに 罪 をえた程で、封建支配階級にくいこんでいた頚廃の病毒は
既に救いがたいものになっていたのでみめる。請託、賄賂の横行は自に余るものがあった。地獄め沙汰も何とやらで、溜
通りには行っていなかったのではないかと思われるリ
以上の清人仁対する扱いの記述を昆ると、いかにも親切で行届いていたように見えるが事実においては必ずしもその
ノ、
ハ幻﹀﹁寄場人足旧記留﹂所収﹁人足寄場附属地之件﹂享保三年(?)十月、栗田喜兵衛伺
(詑)﹁宝暦現来集﹂
(お)註(幻﹀(泣)に同じ。また﹁張紙留﹂に
一、人足寄場地所内一一建置候空米会所御払之節立ム口御目付方-一不構町方計-一一m取計侯車、右者寛政十二申年三月取計候事
と見えている。
(担)註(幻)に同じ。
(お﹀大田南畝﹁一話一一一吉 ﹂
r 所収﹁加役方人足寄場絵図﹂に は﹁二百四十九 間五 尺七寸﹂とあり、﹁安政三年津浪損御普請御用留﹂
の﹁寄場破損ケ所書付﹂には﹁一、外構丸太矢来寄而 E7
延弐百六拾入 間﹂の 数字が目下えている。なぼこの 書類は今次の戦火で焼
註
‘
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失したものら しい 。いま﹁日本近世行刑史稿﹂にひくところによる。以下閉じ。
天保十三年十二 月││天保十四年四月、寄 場人足相増可差入部屋建増相成侯迄無宿引渡取 計方之犠 調
(
叩
C
﹁江南会誌﹂二ノ 八
(幻)﹁市中取締類集 ﹂人足寄 場ノ部
tZ
ぬ)六番部屋までであったものが、夫保十三年頃一部屋建増しされ、更に同十四年頃もう 一部屋建増されたというので筋は通
るようであ るが、ここに 問題がある。﹁寄場役所、日出合物動仕留﹂たるものは今次の戦災に遭ったものか 、疎開で紛失 したか
(m
a
'
で、刑務協会では見るを得なかったが、﹁日本近世 行刑史稿﹂の続者、辻敬助氏の覚書こよると 、こ れは一字 和二年へ一八)
一
一
¥
文政四年(一一九)に至る閣の室豆類を含むという。この中の
覚
人足高官四拾六人
司 五 人下物室田弁世 話役共五人分引
P 六 人 七 番 部 屋重病之者引
〆拾壱人
(中略﹀
/一
O¥
午九月
元〆役
'h
御小人目付中
なる-通 の文書によると、既 に ﹁七番部屋﹂ とある。享和二年より交政四年の聞で﹁午﹂の年といえば文化七年へ一八 Jしミ£
ぃ。またこの年のこととして 、百四十六人なる 人巴数 は寄場一般の趨勢からして 、極めて 妥当である。既に寄場創設当時 、長
谷川平蔵 から病人小屋の補理を願出している程であるから、当然、病人部屋も出来ていたと考えられる。ここに考えなければ
ならな いのは、﹁江一円の撃﹂といわれた火事のことである。﹁新張紙留 ﹂に収められた天保十四年寸二月の寺社、江戸町、 勘
定三奉 行の人足目 印についての答申意見書中に﹁文政度、寄 場類焼之節 詩書物焼失いたし﹂たと ある。これは増訂武 江年表に
は天保五年(一
一
一
臥 )のことで、二月七日の大火で焼失したものらしい(増訂武江年表)。
一
一
肌 )一一一月二十一日から二十二 日にか けての大火の際と認めら れる。
jば文政十二年 (一
また註(幻 )の文書の続きに、天保斗四年 二月 の下ケ札がついて おり 、それ には﹁去る午年同所焼失﹂し たと見える。牛年と
4
二
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化 三 年 ( 敗)正月の大火でも寄場は類焼の厄にあっている(耳目錨町担当﹂)。
入浴も刻限を分けたとしても四百人前後の人巴達が手業終了後入浴しおえてから、女を入れるとすれば深夜に及び、燃料の失
、
費も多 いから、別に 風呂をつくる方がよ く、ただ 薬湯は人数も多くないことであるから 刻限をかえて交替入浴とすればよろ
しかろう。女部屋は人数も少ないこと故 、病室を分けず平人と同一部屋におき 、部屋には琉球畳を用い しめよう。などの予定
付調。この交書によれ
(但)﹁市中取締類集﹂人足寄場ノ詐。天保十三年十 一月!l十四年 二月。人足寄 場江無宿女差遣候儀一
一
ば水野 の天保改革はここにも彰響を与え 、江戸町奉行渡山左衛門炉 、直府間甲斐守の手で召捕えられ、 視類縁者 なく、寄場に収
ず百名位に上るだろうとのことであった。
容せねばならぬ女無宿は天保十三年末で十三 人あった。容場の目算では女人足は tJ
これを再収容するため、長谷川平蔵当時の保例をしらぺ取扱い方法はよく判明した。きて男女を同一建物におく訳にも行かず、
(叩﹀註(お)参 照
︹却) 前号、本女、四、参照
を再収容するに当って、創立当初の女置場に当る女部屋を建てる必要が生じ 、絵図面二枚を相添えて申請したが、御勝手方、
御勘定奉行などの評議で、牛かず四分の一程 に削減さ れ、女部屋とか一手業場は業当つては別棟とする必要なく将来、 人数が多く
手狭になった場合、女手業場を別棟にしたらよかろうとのことで、 結局、江戸町奉行遠山左衛門尉、鳥居間斐守から寄場牽行
に﹁害付一通絵図面二枚返上﹂されているバこの絵図面は建築設計図と考えられるので直ちにその中の一枚が﹁人足寄 場配置
図﹂であるとは 云えな いが、あるいはそうであるかも知れない 。この図に﹁ 女手業 場﹂が﹁女部屋 ﹂と別に 画かれているので
Hち らにもうけとれ るからで あ
る。
あ るから、 設計図 とも、その後の 事実を反映 したものとも ど
八 J八月 二十五 日の大暴風雨の後の 容易奉行安藤伝蔵の報告書 (
安政三年津波損御普誇御用留 ﹀ にも、再建
らに安政三年 ヘ一
匂主
f
五六
﹂
、ら 、差当っ て必要度 のうすい 建物は繰延 ぺにする方針が 語られ ている 。その必要再建々築 の仕様絵図面
には緊縮財政の培地か
を添えたと断ってあるから、この場合の物であるやもはかり難い。
十二年創設の油絞部屋が見山えていることを考え合わせて、夫保千四年以降の物かとも思われる。註(幻﹀の交室回では、女無宿
される。﹁宝暦現来集﹂の数もまた正し いとすれば、七番部屋まであったのが 、交政十、二年焼失後 、六 番部屋まで として再建
¥ - tノ
、 復興され
されたものと考えられる。同書の自序は夫保二年( ,
、
、
ご 元旦と なっているからである。これも天保五年にま た席亡
一
棟薄増しされたものとすると 、年月不祥の﹁人足寄場配慣図﹂は図中に天保
た。その後、天保十三年に一棟、更に十四年頃一一一
こう見て来ると、その時々に復旧建築される際に 、予算の関係などがあって多少部屋数や模様に変更が加 えられたことが 推察
i
¥
.
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で、寄場から願を出したものの、すぺての方面に亙って削減せられ、女人足収容は二寸五名前後を目やすとすぺく、建築もそ
なって落若いたようである。
れ相志となり、入浴も燃料節約のむらいもあり、出胃々大した手業もさせぬのであるから、隔日叉は三日目位でよかろうなどと
(詑)︹泊)(羽)﹁市中取締類集﹂人足寄 場 ノ部所収、﹁人足 寄場御入用 ﹂。﹁東京 市史稿﹂救済篇四、もこれをかく。
(鈍﹀註ハ
m
u 参照
(羽﹀(坊﹀註ハ幻)に閉じ。
(幻)﹁寄場人足旧記留﹂所収、桜井庄兵衛、行方源兵衛連名、﹁寄場人足共之儀一六付取計方奉伺 候書付﹂。 この文書には﹁辰
三月﹂とのみあるが、文言中に﹁天保十二年丑年以前之姿一一復し﹂云々と見え、弘化一尤年たること は明白である。﹁日本近世
ι。
行刑史稿﹂は、この辰年を一つ前の天保三年にあてているが(臥子)こ れはゐや まりであ
(却﹀﹁寄場人足旧記留﹂所収、文化十年寸二月 二十 八日附文書
(川刊﹀前号 註 ハ2﹀参照。ま た﹁江戸会誌﹂ニ ノ八。長谷川平蔵の専断的取扱 いについては﹁寄場人足旧記留﹂中の左の一連の
文書が 示唆するところ あり 、叉、同 じく寛政三年度と思われる﹁加役万人足寄場江立合候変配之者動 方相伺書付﹂にもうかが
われる。
八月十日越中守殿御書取写
御口達御室田原之趣泰承知候
八月十一日長谷川平蔵
間宮諸左衛門
座
よ寄場江誇原候様可被申合候事
定
所
寄湯江差遣候無宿其外共三奉行,t平蔵江誇取侯上容場江差遺来 候得共左侯 而者無益之手数も掛候事一一候間以来三奉行より直
間宮諸左衛門殿
評
無宿召捕御仕置相済侯者勿論悪事無之ものも以来都而加役方人足寄場江可遺旨去ル成二月三奉行江被仰渡有之候-一付石類是
九
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。
寛政 4)
ア﹁(
1:
衆
.・
迄長谷川平蔵江引渡南侯然ル 処今般平蔵倭人足寄場掛 D相離レ候得共拙者共江無宿引渡方否ミ御晶一包囲ハ無之間出上人足寄場
江可遣無宿ハ是迄之通平蔵江引渡申候心得一一而右之趣-一而構候儀ハ無之候哉否致承知度候以上
図
評定所一座
御零一面之通二
m差支無之侯
附札
子七月
以
上
ョ六月ゆ
七月ゴ一日達ス
行
h
選候而も御差支之義有御座間敷哉与存候此段御問ムロ申侯 以 上
﹀
七月間宮諮左衛門
出) ﹁ 江一同会誌﹂ 二ノ ムハ。松平太郎﹁江宵時代制度の研究﹂上、,主ハ章六節
川
戸
、 見合物勤仕留﹂
(
位
﹀ ﹁寄場 役所
(刊日﹀註(お)に同じ。
向心得方室目付
a
可
f
(日叩﹀註(お)に 同じ。
(門別)﹁安政三年大風雨津浪須御並日誇御用習﹂所収、容場役所向其外御並田誇御用掛之者御褒美之儀奉願侯童日付
?)年、差配人動
(必﹀﹁寄場人足旧記留﹂所収、すへ化十四年、寄場人足差配人附震敷内住居為仕偉儀雨上候誓付 、間交化五 (
﹀ 註 ︿汎)に同じ 。
H
(U
(
め﹀ ﹁ 寄場人足 旧記留﹂ 交政十年 、鈴役勤務法
﹁
一体得者以来御引渡者有之候而も渡船等差支も無之候間直々容場江被
是迄之接ムロレ 寸先達而御達申侯併寄場奉行も被仰付候 事 -
免被成候得共組与力同心之儀ハ其侭場所附近相動平蔵義も界廻御仕置筋者唯ム﹁迄之通与被仰渡候-一付御引渡之者有之侯ハハ
無宿被召捕御仕車問椙済侍者ハ勿論悪事無之ものも饗場江被遺伝類固定迄長谷川平蔵へ御引渡-一相成候然ル処平蔵儀寄場取扱御
奉
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(品目)註(部﹀に閉じ。
(日)﹁寄場人足旧記留﹂所収
(若年寄堀田正敦)
摂津守殴江丑六月
届(張紙)
可相成程之手当差遺居為持候依之奉入御聴侯以上
(寛政5)
丑六月
-一
aa
寄
寄場奉
場人足
石
丑 三十九
村田鉄太郎
(臼)﹁公事余筆﹂理。﹁日本近世行刑史稿﹂。﹁江戸会誌﹂二ノ八。﹁江丙時代制度の研究﹂上
(日)﹁寄場人足旧記留﹂所収、文化十二年船頭給金
(臼﹀﹁寄場人足旧記留﹂所収、寛政三年、加役方人足寄場江立合候支配之者動方相伺候書付
(日)﹁窒媛県先哲偉人議室田﹂第二巻﹁三瀬諸淵伝﹂
四
(印)註(お) に同 じ。但し、﹁日本近世行刑史稿﹂でま﹁入浴ま隔日入浴 (暑気厳き節は時 J であ っ た よ と い う 。 こ れ は 註
ttf
宜に依り毎日¥
(幻)の受章目
一に ﹁尤男子同様荒き手業は有之間敷候間風巨之儀は隔日叉は三日目位にも入候はど乍明失費も相減可申哉﹂とあ
一
るところからすれば、男子一般は毎日入浴であったのではなかろうか。勿論経費節減のため、隔日となったこともあったろう
門田﹀﹁日本近世行刑史稿﹂
鉄砲製作場等不残流失﹂云々の字句がある。
(訂)註(但)(川 H Uに同じ。
︿臼﹀註(お)に同じ。
(日﹀﹁安政三年大風雨津浪損御普請御用留﹂所収、寄場役所雨風破並津波損其外之儀-一付向上候書付、の中に﹁陶器焼立場、
(町﹀﹁憲教類典﹂。﹁囚獄留帳書抜﹂二、も同じ。﹁徳川禁令考﹂は引書﹁憲法類集﹂とす。
z-
右之者医道心掛候一一付常々寄場内ニ而療治等為仕見侯処功者一一相見其上心底も宜御座侯間此度鉄砲洲祖松町江借宅為仕医業
肥後玄
行
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が管見の及ぶところでは史料に回出当らぬまうである 。
無之分も其日之御手当被下候間右}一准し溜銭致し三貫文以上
て 線成手業或ハ藁細工船頭並 地所 内掃除口持叉ハ堀凌等手業-一 一
至日侯ハハ赦免可申付侯
一
但常よ出精致 し溜銭候者山曹三貫文以 上不至候共為褒美別段手当致し三貫交以上之高一一致 し赦免可申付候
伺済
申渡
一
出精可致侯尤呉遺侯内割合を以役所江
其方共手業搾候 相払元入用 並 一日 諸掛日 之内半減引落し相残分ハ不残可呉遺侯其業 一
問
口
預溜鈴可致事右溜銭拾貴文一一至 D侯ハマ 警引取人無之とも赦免申 付侯 事
但常土手業出精致候者ハ溜銭拾貫すへ-一不至侯共為褒美拾貫女高手当致赦免申付侯事
(日)(臼)﹁寄場人足旧記留﹂所収
五十二月四日諸左衛門殿寄場御馬廻り人足共不夢呼出於役所御同人御出席寄場奉行村田欽太郎南渡候趣左立通
四
て 世 話 役 小 遣 外 使等之類も溜銭可相成様之手当致し可遣 問其己目 可存候常よ不正 之筋も無之設を守動 方猶宜者相応之手当を以
右
衛
下略)
赦免可申付候 (
*﹁子﹂ 年は﹁日本 近世行刑史稿﹂では文化元年にあてているが、これ は寛政四年 とすぺ きであろう。なおこれにか らんで 前
号註 (1 ) の文化元年もあ為いは寛政四年のこ ととすべ きである かも 知れないが極め手がない。
溜銭については 、閉じ﹁寄場人足旧 記留﹂中に
v
溜銭土
金弐朱 ト
銭壱貫五拾壱文
、
-
て 金壱分 ト
銭弐貫弐百七文
神田
八
南新堀
与
一、金弐朱
銭壱貫百九拾文
門
次
菅直E
濃
一、銭七拾弐文
}
平
ヱ
エ
後
伝長
信
筑
Hosei University Repository
銭五百六拾文
八町 堀
相模
神田小柳町
常陸
下総千太郎事
五
て金弐朱ト
一、銭八拾三文
一、銭五百六拾文
一、金弐朱ト
銭弐百拾文
一、銭拾弐文
銭四貫九百六拾国交
メ金三分ト
右之通御座候以上
戊八月
なる文書が収められている。
丹、位﹀﹁両潤書留﹂﹁市中取締類集﹂。﹁東京市史稿﹂救済第四もこれをむく。
ハ臼)﹁天保十五年幕府取締類集﹂寄場人足之儀一一付風間取探申上侯書付
¥
日程も懸り可申侯而申日数承り可申詮義候事
あるいは矢田揮雲一﹁江戸から東京へ﹂に見られる石川島燈台構築についての話など参照。
四
神主平岡田向
寄場御役所
(
朱室田﹀
右先例ハ差添下役無之日々人足引渡遺借侯処当時ハ差添も無之侯而者相成間敷賃銭之義先例一人-一付九口yyニ候処比度凡幾
享和元酉年八月佃島住吉
仰付被下置候様奉願侯以上
俗島住吉社裏川岸通地形仕度奉存候前々之通り御人足五六人宛拝借仕度奉存候尤賃銭之儀ハ先達之通御上 納可仕間願之通可為
乍恐以室田付奉願上侯
ハ臼)﹁寄場人足旧記留﹂所収
郎八苦
蔵吉
七彦三
圧定
Hosei University Repository
(印﹀註(臼)ハ臼﹀参照
(伯)註(幻)に同じ。
(肝)﹁寄場人足旧記留﹂所収
註(勾)に同じ。
(刊﹀孔証(日)に同じ。
ハ印)円九)註(悦)に同じ。
(η)
(九)註(臼)に閉じ。
(百)註(況)に同じ。
(市)註(お﹀に同じ。
信
外l
回
濃
彦
長
八
五
右
衛
四
四
(河)﹁和漢三才図会﹂山果類、枇杷の条に﹁倭方有一社杷実湯二治-盃傷及淫乱一以為 v
妙﹂とある。 ﹁大日本 国語辞典﹂には
﹁枇杷の葉の宅を去りて乾したるを煎じたる汗。飲めば暑気を払ふといふ。﹂と説明している。
(付)註(お)﹁寄 場役所、見合物勤仕留﹂所収﹁覚﹂の続き。﹁寄場人足旧記留﹂の中には左の如き、入所時預った衣類の覚
が収められている。
神
縫物書付
一つ
壱足
'0
一、花色木綿単物
内金壱分入
壱つ
一、同股引
壱切
一、鼻紙袋
一、木綿縞若物
相
λ丁堀
門
良E
主ロ
八
一、小倉帯
一、木綿縞袷
壱つ
木綿縞袷羽織 壱つ
一、同袷
つ
Hosei University Repository
一、総木綿単物
。袖な し羽織
壱筋
南新堀
(引山)(山田)﹁市中取締類集﹂﹁ 両溜書留 ﹂
伝
定
下総千太郎事
七
与
小柳町
陸
て木綿縞布子
一、衣類無之
一、右同断
一、右同断
成八月
右之通御座候
(沌)﹁清陰筆記 ﹂
後
門部﹀註(幻)に同じ 。
t口
吉
五
四
(部﹀(部)註ハ訂﹀に同じ 。
(町)﹁寄 場人巴旧記留﹂所収、寛政二等三月二日附、﹁人足之内病人取扱之儀相伺候書付﹂同じく 、天保十二年十一 月二日附
﹁堀田摂津守殿荒井甚之丞ヲ以御下有之侯御書取写﹂及び﹁江戸会誌﹂二ノ 八
(回)﹁寄場人足旧記留﹂所収、 鐙役勤務法、 および﹁江戸会誌﹂二 ノ八
(出)﹁新張紙留﹂所収、天保十四年千二月二十三日附、榊原主計頭、御目付之節申上候寄場人足目印Z儀一一付、評議仕侯趣、
申上候童日付
(胞)註(お)に同じ。
虫E 次
蔵
常
圧
平
ー
ユ
コ
し
筑
つ
つつ
以
帯
路 ) ( h H ) ﹁寄場役所、見合物動仕留 ﹂所収﹁覚﹂の続き。
(叩) 註 (
(
加
﹀ 註 (引むに 閉じ。
上
袷
Hosei University Repository
門的)
(卯)
(川出﹀
(小出﹀
同じ。
( M m )に
M
C に同じ。
註(
註
註(印)に同じ。
﹁寄場人足旧記留﹂所収
﹁徳川禁令考 ﹂所引
註 (臼)に 同じ。
註 (訂)の うちの寛政二年三月二日附文書
(川出﹀
門的)
︿旬)
無宿 久
、
ノ
吉牛廿九
四
AA
嘉
古口
御請取被下候様仕度此段御閉会申上候
村
以上
寛政叩カ)
F(
p
q十 一 月 四 日
一牛十
一月
この文章は註(部)にも関係して来よう。
(部)註(部)に同じ。
門部)註(日﹀ に同じ。
(肝)﹁寄場人足旧記 留﹂所収、 死骸引取方願 上 の文書
中
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一御書面之趣致承知 侯然ル処無宿久米土口儀猶叉拙者万江誇玖候而ハ可引渡引受人も無之もの之儀左候漣右淋病気之
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者ニ侯上者佐州水替人足一二差遣侯儀相成問敷努よ拙者方-一て反計一一ハ難致寄場人足共病気之者も夫よ御手当等有
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マク杭一 之侯上九執共其御方一一而御取計可有之筋与存候依之御挨拶侯以上
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取計-一難致事よ以差支申候依之其御役所江猶叉御引渡申渡奉存候御差支も無御座候
侯且叉右之類病人ハ寄場一一而療治為致候市半年程相立治し兼候もの山湯治差遣候儀-一御座候得共右者儀ハ丈夫エ相見候間右株
病気之者是迄寄場開之外江小屋相立差置候仕来-一御座候処右之者 -鉢丈夫之者-一相見候間関外江差出候儀も相成兼取扱差支申
右之者一昨二日御引渡被成候ニ付請取候処右者掴病相煩候者之旨医師申聞候一一付当人江相礼侯処相違無之旨申立候間然処右淋
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Hosei University Repository
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Hosei University Repository
人'足寄品明記ま図パ年代不詳、禽会畑明書令哉命一初日 h-Sピ
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