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[第7回]ヌーシャテル。ピアジェが育った街へ行ってきました。

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[第7回]ヌーシャテル。ピアジェが育った街へ行ってきました。
ヌーシャテル。ピアジェが育った街へ行ってきました。
サトウタツヤ
[第 7 回]
立命館大学文学部教授・研究部長。今回,研究交流と
調査のために,初めてスイスの地を踏みました。ピア
ジェと言えば,腕時計。このピアジェも心理学者のジャ
ン・ピアジェ(1896-1980)もヌーシャテルがふるさと
です。
ピアジェのふるさとヌーシャテ
われます。
会文化的アプローチに則って」ピ
ルは人口およそ 3 万 4000 人の小さ
アジェの生涯を本にまとめたの
な街で,フランスとスイスの国境・
だそうです。この本の副題が The
ジュラ山脈の麓に位置していま
Learner and the Scholar であるの
す。彼はその幼少期,ヌーシャテ
は,学者としてのピアジェを知る
ル湖でモノアラガイなどを採集し
には,学習者としてのピアジェを
て近所の博物館に熱心に通ってい
知る必要がある,という理由から
たそうです。当時の博物館長はゴ
写真 2 銘板の設置されている建物
デという分類学者で,軟体動物の
この銘板を設置しようと発案し
いくつかの話の中から印象深い
収集と分類を教わっていました。
たのが,ヌーシャテル大学のア
話を振り返ると,ピアジェの母が
10 歳の時に近くの公園で身体
ン・ネリー=ペル・クレモント
アリソンという時計製造の家の出
の一部が白い雀を発見。そのこと
だそうです。
(Anne-Nelly Perret-Clermont) であること,また,彼女が神経症
を書いた文章を博物学愛好家の雑
教授です。彼女は,
『ピアジェと
的であったという記述が多くなさ
誌に送ってみたところ,それが掲
ヌーシャテル』という本の編者の
れているが,むしろ田舎には似つ
載されるという栄誉を得ること
一人ですが,わざわざ私が滞在す
かわしくない聡明さを持ち合わせ
になりました。この雑誌が学術雑
るホテル(ALPESETLAC)を訪
ていたので,そのように蔑まれた
誌であるかどうかはともかく,ま
ねてくれました。
のではないか,ということです。
た,分量もわずか 1 頁(100 語程
また,ヌーシャテルは,フラン
度)であるということもともかく
スからプロテスタントが逃げてく
として,自分の発見が大人に認め
るような場所だったためか,印刷
られたということはこの幼い少年
業が盛んで知的雰囲気に富んでい
に影響を与えたものと思われま
たということも話してくれまし
す。ピアジェは地元のヌーシャテ
た。そういう事情があるため,小
ル大学理学部に進学し,1918 年
写真 3 アン・ネリー先生と
には同大学で軟体動物(スネー
某研究員から「本にサインも
こと,その大学は決して大きくな
ク)の研究により動物学の博士号
らってきて!」と頼まれたので,
いため色々な分野の研究者が交流
を取得しました。
この本を差し出したところ,この
していたこと,それがピアジェに
さて 2014 年 12 月 1 日,ヌーシャ
本の目次にそって,ピアジェの生
良いように影響したのではない
テルでピアジェの生誕地を訪れま
涯を解説してくれることになりま
か,ということもおっしゃってま
した。記念の銘板がありました。
した。ラッキーです(本が良い
した。
媒介となりました)
。彼女はジュ
話は尽きなかったのですが,紙
ネーブ大学でピアジェに学生とし
数は尽きました。より詳しくはア
て接したとのことですが,その印
ン・ネリー教授のご著書をお読み
象は「エゴセントリック!」だそ
下さい。
さなヌーシャテルに大学ができた
うです。
写真 1 ピアジェ生誕地の銘板
そして,アン・ネリー教授が
ヌーシャテルに赴任してみると,
ただし,この銘板,ある家の壁
ピアジェのことを知るにはヌー
面に埋め込まれているもので,知
シャテルの知的環境のことを知ら
らなければ見過ごしてしまうと思
なければならないと感じて,「社
参考文献
Anne-Nelly Perret-Clermont, JeanMarc Barrelet(2007)Jean Piaget
and Neuchâtel: The Learner and
the Scholar. Psychology Press.
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