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裁くためにではなく、救うために ―― 汚れた墓から清められた

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裁くためにではなく、救うために ―― 汚れた墓から清められた
「裁くためにではなく、救うために ―― 汚れた墓から清められた墓へ」
平安教会聖書研究・祈祷会(2016 年 3 月 30 日 水曜日)
坂東 滋巳
・私は今、晩年の日々を送っていますが、これまでの人生の歩みの中で、いくつかの過ちを犯して
きました。そしてそのことが今の私の人生に大きな影響を及ぼしており、そのことについて後悔
の思い、自分を裁く思いで苦しめられることがあります。しかし①で引用した御言葉によって救
われているのです。
・東洋では、一般的な社会通念として災難や病気、不運について因果応報的な考え方をします。ユ
ダヤの社会でもそうでした。②生まれつきの盲人に対して、これは両親かまたは本人の罪の報い、
罰ではないかと考えました。弟子たちのその問いに対して、主イエスは「本人が罪を犯したから
でも両親が罪を犯したからでもない。神の御業がその人に現れるためである」と言われました。
・これは③や④の御言葉と矛盾するように思えます。②の「~でもない、~でもない~のためであ
る」と訳されたところは、原語で「アラ」という言葉が使われており、
「~でも~でもない、とい
うよりもしかし~である」というニュアンスで訳することも出来る言葉です。原因としての本人
や両親また先祖の罪の存在を否定したのではなく、「神の業がこの人に現れるため」という目的
を強調し、そのことに目を向けて、
「過去にではなく、未来に目を向けよ」と教えておられるよう
に解釈できると思います。
・因果応報、前世の報いが現世に現われ続ける宿業、カルマというものに支配されているこの世そ
して私たち、その負の連鎖を断ち切るために「父のもとから世に遣わされたのである」③と教え
られ、
「わたしは世を裁くためではなく、世を救い、癒し、回復するために来た」と宣言されたの
です。ここに私の救い、そして世界の救いの希望があります。
・戦前の頃まで、刑務所を訪れている仏教の教誨師は、再審を求める受刑者、特に死刑囚の再審請
求の求めに対して、それに反対し、自分の過去の因果が招いたこの現在の報い、その運命に逆ら
わず、それを受け入れなさいと説いて、死刑囚の再審請求に反対することが多かったと聞いてい
ます。しかしキリスト教の教誨師は、自己の無罪を訴えて苦しみの中にある受刑者、特に死刑囚
を冤罪から救い出すために積極的に再審請求の提出を助けました。
・人類は原罪という宿業の中で縛られ支配されています。人間の努力によってその宿業から脱する
ことは出来ません。その重荷を背負い続ける以外に方法はありません。宿命という呪いの十字架
に釘付けられたままの人類なのです。闇の力、罪の力に支配されている人類(ヨハネの手紙Ⅰ
5:19)。しかし、その悪の連鎖から人類を解放するために、神の御子が天の御父の御許から地上
に降りて来て下さったのです。そして「私は裁くためではなく、救うために来た」と言われてい
るのです。⑤
・そして世に降ってこられた御子は、闇の力によって宿業・原罪という十字架に釘付けられて苦し
んでいる人類と同じ姿になられたのです。人類と同じように闇の力、死の力の支配の中に入れら
れ、呪いの十字架に付けられている人類と一つになるために、御子も御自身を死の力の支配の中
に引き渡されて呪いの木である十字架に釘付けられ給うたのであります。しかし、十字架に釘付
けられた御子は闇と死の支配の中で律法を成就し、信仰によって勝利され、義とされ、御父は御
子をその死の束縛、支配の中からよみがえらせ、解放してくださいました。
-1-
・主イエスは、十字架に付けられる前の晩、弟子たちと共に聖餐式を行われました。⑥聖餐式のパ
ンは、主イエスの殺され、割かれて死なれた御体です。このパンは主イエスの死んだお体の一部
分なのです。死なれた主イエスの御体を受け取ることによって、私たちは主の死につながり、死
なれた主と一つになり、私は死なないままで(古い罪の存在である)私も死んだものとみなされ
るのです。⑦
・そして、十字架から降ろされた主は墓に埋葬され、三日後に復活されます。⑧
・聖餐式にあずかることは、そしてそのパンを頂くことは、主の御遺体を私たちの内に受け入れる
ことだと思います。私たちは土から造られたものであり、しかも神に背き、罪と呪い、闇が支配
している地(世界)に生きている存在であり、このことは私自身が汚れた墓と同様な存在だという
ことです。
・このような私という汚れた存在、すなわち汚れた私という墓を主イエスの流された血が清めて下
さって、その御血は私たちを「清められた墓」にして下さり、そこに主イエスの御遺体をパンと
して頂いて私たちの内にお納めするのが聖餐式です。だから聖餐式は聖なる埋葬式なのです。
・そして私の中に安置された主イエスの御遺体は「三日後」に復活されます。歴史上では、二千年
前に復活されましたが、私たち一人一人の内に埋葬されている主は、
「三日後」すなわち神様が良
しとされる時によみがえられるのです。
「三日後」とは象徴的な言葉で、文字通りの「三日」では
なく、神的な数字の「三」、すなわち神が良しとされるカイロスの時に、私たちの内でよみがえら
れるのです。しかしそれは終末の時であるかも知れません。⑩
・ここで大変興味深いことに気が付きましたのでお話しいたします。先に引用した⑥「わたしの記
念としてこのように行ないなさい」この御言葉の中の「記念」という言葉は、原語で「アナ・ム
ネーシス」という言葉です。
「ムネーシス」
(思い出すこと)という単語に「アナ」
(再び)という
接頭語が付いて「アナ・ムネーシス」
(記念)という言葉になっています。この「アナ・ムネーシ
ス」
(記念)という言葉は、
「ムネエマ」
(記念碑、墓)という単語を語源とする言葉です。だから
「記念する」ということは、
「記念碑を建てる、墓をつくる」ことも意味しています。だから聖餐
式にあずかるということは、主の御遺体を私という墓の中にお納めして、私の中に安置されてい
る主とその死を絶えず覚え、記念し、記憶し続けるということ、なのです。
・⑨一粒の麦の種が地に落ちて死ぬ。私たち一人一人はその地であり、その地に一粒の種がまかれ、
地の中に埋葬されてから、何日か後に芽を出し、復活し、花を咲かせまた実を結ぶのです。私た
ちは神の御子のいのちという種がまかれる地であり、イエス様を埋葬しているお墓です。落ちて
死ぬ種、死なれたイエス様の御遺体をしっかりお受けし、神が良しとされる日である「三日後」
の御復活の希望の中で生きたいと思います。
-2-
[引用聖句]
12:47b)
① 「わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである」
(ヨハネ福
② 「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それと
も両親ですか。
・・・本人が罪を犯したからでも両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの
人に現れるためである。」
9:1~3)
(ヨハネ福
③ 「その後、イエスは、神殿の境内でこの人(ベトサイダの池で癒された病人)に出会って言わ
れた。
『あなたは良くなったのだ。もう罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが
起こるかもしれない。』」
(ヨハネ福
6:14)
④ 「人は自分の蒔いたものを、又刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅び
を刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。」
(ガラテア人への手紙
6~7~8)
⑤ 「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためで
ある。」
(ヨハネ福
3:17)
⑥ 「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り感謝の祈りをささげてそれを裂き、
『これは、あな
たがたのためのわたしの体である。私の記念としてこのように行いなさい。』と言われました。
また、食事の後で、杯も同じようにして、
『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契
約である。飲むたびに、わたしの記念としてこのように行いなさい。』と言われました。だから、
あなた方は、このパンを食べ、この杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知
らせるのです。」
(コリント人への手紙
11:23~26)
⑦ 「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼(又は聖
餐)を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼(又は聖餐)を受けたことを。」
わたしたちは洗礼(又は聖餐)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなり
ました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたし
たちも新しい命に生きるためなのです。もしわたしたちがキリストと一体になってその死の姿
にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。
・・・わたしたちは、キリストと共
に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」
(ローマ信徒への手紙
6:3~5,8)
⑧ 「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する。」
(マルコ福
9:31)
⑨ 「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」
⑩ 「主イエスを復活させた(過去形)神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ(未来形)、あなた
がたと一緒に御前に立たせてくださる(未来形)と、わたしたちは知っています」
(コリントの信徒への手紙 Ⅱ 4:14)
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