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『ピリー・パッド』における矛盾の連鎖 矛盾に囚われている。そして、彼ら三

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『ピリー・パッド』における矛盾の連鎖 矛盾に囚われている。そして、彼ら三
『ピリー・パッド』における矛盾の連鎖
杉浦亮
序
メルヴィル(HermanMelville)の遺作『ピリー・パッド』')の主要な三人の
登場人物(クラガート・ピリー・ヴィア)は、物語の中でそれぞれが解決困難な
矛盾に囚われている。そして、彼ら三人が各々の矛盾の中でもがく際に事件(告
発・殴打・裁判)は発生する。よって、この物語のストーリー(事件連鎖)は、
三人の主要人物の陥った「矛盾の連鎖」によって構成されていると言える。本論
では、彼ら三人の陥った各々の矛盾を、ベイトソン(GregoryBateson)らの提
唱したダプルパインド理論を援用することによって分析し、検討していく。そう
した作業によって、我々は、クラガートの告発・ピリーの殴打・ヴィアの裁判で
の有罪判決への誘導といった行為が、それぞれの陥った矛盾から導きだされたも
のであること、そして同時に、ヴィアの行為の中には近代社会の抱える問題が垣
間見えることなどを明らかにできると思う。
1ダブルパインド理論(その一般的特徴)
『ビリー・パッド』を検討する前に、まず、ベイトソンらの提唱したダプルパ
インド理論とは一体如何なるものであるかについて簡単に説明することから始め
ていきたい。
分裂症の強度の発作からかなり回復した若者のところへ、母親が見舞いに来た。喜ん
だ若者が衝動的に母の肩を抱くと、母親は肩をこわばらせた。彼が手を引っ込めると、
彼女は「もう私のことが好きじゃないの?」と尋ね、息子が顔を赤らめるのを見て
「そんなにまごついちゃいけないわ。自分の気持ちを恐れることなんかないのよ」と
言い聞かせたの。
精神分裂症の理論化に向けて提唱されたダプルバインド理論を端的に示す例とし
て最もよく用いられるのが上記の例である。分裂症患者の若者は、ここで母親に
愛を示したことで「身体的反応」によって罰せられ、身を引いたことで「言語」
-66-
によって罰せられている。彼は母親によって示されたレベルの異なる二つのメッ
セージ(身体的反応によるものと言語によるもの)の矛盾の中で呪縛(ダブルパ
インド)されているのである。ベイトソンらはこうしたダブルパインド状況を、
そこに囚われた者の「論理階型の識別能力に支障をきたす」(ベイトソン、296)
ものとした。その状況の一般的特徴は、まず、そこでは「抜き差しならない関係
が支配している。すなわち、適切な応答を行なうために、行き交うメッセージの
類別を正確に行なうことが、自分にとって死活の問題だと感じられている」。し
かし、「相手から届くメッセージは、その高次のレベルと低次のレベルにおいて
矛盾している」。そのため、「その矛盾を解きほぐそうにも、それについてコメン
トできず、相手のどちらのレベルのメッセージに対して反応したらよいのかわか
らない状況にはまってしまう」のである(ベイトソン、296)。上記の例において
は、若者にとって母親との関係が決して断ち切られたくない「抜き差しならない
関係」である。しかし、母親から届くメッセージは愛を示すこと/示さないこと
のいずれに対しても罰を与えるものである。それゆえ、若者は全く身動きのとれ
ない状況へと陥ってしまうのである。
このような絶望的な状況に長らく身を置かれてきた人間は、やがて「いくつか
の選択肢のなかから自己を防御する方法を選び取るようになる」。その際の主要
な選択肢としては以下の三つが考えられる。1,「あらゆる言葉の裏に、自分を脅
かす隠された意味があると思い込むようになるケース」。2,「人が自分に言うこ
とを、みな字句通り受け取るようになるケース」。3,コミュニケーション自体を
放棄し、自分の殻に閉じこもるようになるケース(ベイトソン、299-300)。これ
ら三つの選択肢は、精神分裂症の三つのタイプ、妄想型・破瓜型・緊張型にそれ
ぞれ対応している。
ダプルバインド理論が優れていた点は、コミュニケーションにおけるメッセー
ジの階層性という視点から、分裂症の成因を一貫したパースペクティブのもとに
捉えようとした点である。つまり、分裂症の成因は、患者「個人」の問題ではな
く、患者の「家族」(特に、母子)間において繰り返されるダプルパインド状況
にあるとした点である。
小田亮は、ベイトソンらのこうしたダプルバインド理論をさらに一歩推し進め
る補足として、母子関係において起きるダプルパインド状況を「近代家族」の問
-67-
題であるとした。近代における市場社会の台頭が労働力の商品化を引き起こし、
そこから、男は公共領域(パブリック)・女は家内領域(プライベート)という
性的分業が生まれ、そして、女を家庭に閉じ込め、家事労働というタグ働きをさ
せることを正当化するために「母性愛」という「公」的な「規範=命令」が発生
する、というのである3)。このような社会史的な視点を含み込んだ上で冒頭に掲
げた例を読み直してみると、また違った側面も見えてくる。つまり、ここでダブ
ルバインド状況に陥っているのは子供だけではなく、母親も実は同様の状況に陥っ
ているのである。母親の「私」的な感情は分裂症の息子に対して恐怖(あるいは
憎悪)を感じており、それが息子に肩を抱かれたときに身体をこわばらせるとい
う拒否の「態度」となって表われている。しかし、「母性愛」という「公」的な
「規範=命令」が彼女に「もう私のことが好きじゃないの?」(すなわち、「私は
あなたを愛しているのよ・だから、あなたも私を愛して欲しいわ」)という受容
の「言語」を発せさせているのである。母親は「私」的な感情と「公」的な感情
(すなわち、「公」的な「規範=命令」によってもたらされた感情)との間でダブ
ルバインドされているのだ。もちろん、彼女自身はこの「公/私」の感情の矛盾
を識別できてはいない。もし、彼女が自分は受容的言語を「言わされている」の
だということに気付きさえすれば、彼女は自分が置かれている矛盾から開放され
るであろう。しかし、彼女にとってその点が未分化であるがゆえに、彼女自身も
ダブルパインドな状況へと追い込まれているのである。ここでの母親の姿は、次
章において論じる『ピリー・パッド』の中でのクラガートの置かれている状況と
全く同じものである。
2クラガートが囚われた「公/私」の感情の矛盾
ある一つの対象から矛盾したメッセージが与えられ、しかしそれがどのような
矛盾であるかを正確に識別(分化)することができない人間は、その矛盾の中で
ダプルパインドされてしまう。『ピリー・パッド』においては、クラガートとピ
リーがまさにこうした状況に置かれている。ヴィアも、同様に、ダプルパインド
されかねない解決困難な矛盾に囚われてはいるが、しかし彼はその矛盾を正確に
識別できており、それゆえ「戦略」を用いることでそれを解消していく。
我々は、『ピリー・パッド』というテキストからこうした解決困難な矛盾を幾
-68-
つか発見することができる。それらはテキスト内に散在しているのではなく、一
つの矛盾が新たな矛盾へと連なり、さらにその後にまた新たなそれが続くという、
「矛盾の連鎖」とでも言うべき様相を呈している。
具体的に検証していこう。テキスト内でまず最初に解決困難な矛盾に囚われる
のはクラガートである。軍艦ベリポテント号内において先任衛兵伍長の任に就い
ている彼は「並々ならぬ知性」(64)の持ち主であると同時に、「自然に従って発
生した堕落」とでも言うべき「邪悪な性質」(76)を身に備えている。「素晴らし
い容姿の美しさ」(77)と「無垢」(78)な性質を兼ね備えた「ハンサム・セイラー」
(43)たるピリーを憎んだクラガートは、好計を用い、ビリーを「反乱」(54)を
企てている者としてヴィア艦長に告発する。
では、一体何故クラガートはビリーを憎んだのであろうか。そして、一体何故
ビリーを告発したのであろうか。前者の問いについてはテキスト内に語り手の見
解が示されている。語り手によれば、クラガートがビリーを憎み出した原因とは、
ピリーの「素晴らしい容姿の美しさ」に対する「妬み」(77)であった。しかし、
その「妬み」とは「愛」が否定されたことによるものである。クラガートがホモ
セクシャルであるという「読み」は過去の批評においても為されてきた。その前
提に立つと、我々はクラガートが囚われていた矛盾とそこでのダブルパインド状
況が如何なるものであったかを理解することが出来る。それは、以下のようなも
のではなかったか。
まず、クラガートは「私」的にはビリーに愛を示したい:
WhenClaggart,sunobservedglancehappenedtolightonbeltedBillyrolling
alongtheuppergundeckintheleisureoftheseconddogwatch,exchanging
passingbroadsidesoffunwithotheryoungpromenadersinthecrowd,that
glancewouldfollowthecheerfulseaHyperionwithasettledmeditativeand
melancholyexpression,hiseyesstrangelysuffusedwithincipientfeverish
tears、ThenwouldClaggartlooklikethemanofsorrows・Yes,and
sometimesthemelancholyexpressionwouldhaveinitatouchofsoft
yearning,asifClaggartcouldevenhavelovedBillybutforfateandban.
(87-88)
-69-
しかし、ホモセクシャルを「禁制」とする「公」的な「規範=命令」はそれを決
して許さない。それゆえ、クラガートの「公」的な感情は、ピリーヘの愛という
「私」的な感情を否定するもの、すなわちビリーヘの憎悪となったのである。第
一章における母親と同様に、クラガートもここで未分化な「公/私」の感情の矛
盾によってダブルパインドされているのだ。前章の母親との唯一の違いは、母親
が「公」的な「規範=命令」によって愛を「示さざるを得ない」のに対し、クラ
ガートは「示すことが出来ない」ことであるが、これは憎悪と愛のネガ/ポジが
逆転しただけのことであり、その構造は全く同じである。このように考えを進め
ていくと、我々は先ほどの後者の問い(なぜ、ピリーを告発したのか)について
もその答えを得ることが出来る。前章の母親の「公」的な愛のメッセージには、
そのメタ・メッセージとして、「私」的な恐怖・憎悪が付随していた。クラガー
トの場合はこれが逆転している。つまり、告発というクラガートの「公」的な憎
悪のメッセージには、そのメタ・メッセージとして、ピリーヘの「私」的な愛が
付随していたのである。
3ビリーが囚われた矛盾(1)
クラガートからの告発を聞いたヴィア艦長は、事を荒立てないように、場所を
「広い後甲板よりももっと目立たないところ」(96-97)である艦長室へと移し、
そこでクラガートとピリーを対決させる。「素晴らしい容姿の美しさ」と「無垢」
な性質を兼ね備えた「ハンサム・セイラー」のピリーには、唯一の欠点として、
急激な精神的ショックを受けた場合に「言語障害」(53)を引き起こす点があっ
た。クラガートからの思いもよらぬ告発を聞いたビリーは、「突き刺されてもの
が言えなくなった者」(98)のように立ちすくむ。そこに追い打ちをかけるよう
にヴィア艦長から命令が発せられる:“speak,man1,,,“Speak1Defend
yourself1”(98)。この命令に従おうにもピリーの舌は既にひきつって縫れたよ
うになっており、一言も発することが出来なくなっていた。ヴィアはビリーに
「言語障害」の癖があることを全く知らなかったが、自らの過去の経験と照らし
あわせ、そのことをその時直ちに察した。彼はビリーのもとに行き、慰めるよう
に肩に手を置いて言った:“Thereisnohurry,myboyTakeyourtime,take
yourtime.''(99)。慈父のような調子のこもったこれらの言葉は、ピリーの心を
-70-
打ち、その言葉の意図に反し、語ることへのもっと激しい努力をビリーに促して
しまう。しかし、その努力はまもなく彼を完全な麻痒状態へと追いやり、十字架
に礫にされたかのような表情を彼の顔に作り上げる。その次の瞬間、彼の右手は
突き出され、ビリーはクラガートを殴り殺してしまうのである。
それではここで、矛盾の新たな犠牲者ピリーについて見ていこう。ピリーはこ
の物語の中で、解決困難な矛盾に二度囚われている。-度目はクラガートから与
えられる言語の矛盾であり、二度目はヴィアの命令がビリーの中に引き起こす矛
盾である。この第三章では、ピリーをダプルパインド状況に陥らせる一度目の矛
盾を中心に考察を進めていく。
母親から与えられる矛盾したメッセージは、子供をダプルパインド状況に陥ら
せる。それと同様に、クラガートから与えられる矛盾したメッセージは、ピリー
をダプルパインド状況へと陥らせる。「無垢」なビリーは「どちらにも取れる言
い方やほのめかしなどとは全く無縁な性質」(49)であり、「人が自分に言うこと
を、みな字句通り受け取る」破瓜型のような人物である4)。それゆえ、自らの周
囲で不審な出来事が起こり、それを古参の水兵ダンスカーに相談しにいった際、
それは「ジェイミー・レッグズ(先任衛兵伍長を意味する)がおまえを嫌ってい
るからだ」(71)と言われても納得することが出来ない。なぜなら、クラガート
は自分のことを「気持ちのよい愉快な若者」(71)だと言っているそうだし、実
際「自分はいつもすれ違うたびに彼から気持ちのよい言葉をかけてもらっている」
(71)からである。言葉をリテラルにしか解せないピリーは、ダンスカーが容易
に読み取ったような、クラガートの言葉(メッセージ)に潜む憎悪(メタ・メッ
セージ)のコンテクストを読み取ることができない5)。それゆえ、艦長室におい
て為されたクラガートからの告発(憎悪溢れる言語)は、ビリーを驚かせ、彼を
判断不可能な状況に追いやる。ピリーは、クラガートから与えられる日常の愛情
溢れる言語と今ここでの憎悪溢れる言語の矛盾を解きほぐせないのである。そう
したクラガートの言語の矛盾が、ピリーをダブルパインドし、彼を「突き刺され
てものが言えなくなった者」のようにしてしまうのである。
-71-
4ビリーが囚われた矛盾(2)
ダブルパインド状況に陥ったビリーは「言語障害」を引き起こす。何も「言え
ない」状態に陥ったときに、ヴィア艦長から「さあ、話せ!」「話せ!自分を弁
護しろ!」との命令が下される。このヴィア艦長の命令は、ビリーを新たな解決
困難な矛盾へと引き入れるものである。そして、ピリーがその矛盾を解消しよう
ともがく際に殴打事件は発生する。
それでは、ビリーが陥ったその新たな矛盾について見ていこう。その矛盾が如
何なるものであるかは、以下に紹介する禅の師匠と弟子のたとえ話を用いると理
解しやすい。
禅の修業において、師は弟子を悟りに導くために、さまざまな手口を使う。そのなか
の一つに、こういうのがある。師が弟子の頭上に棒をかざし、厳しい口調でこう言う
のだ。「この棒が現実にここにあると言うのなら、これでお前を打つ。この棒が実在
しないと言うのなら、お前をこれで打つ。何も言わなければ、これでお前を打つ。」
(ベイトソン、296)
ここで注目しておきたいのは、弟子が頭上の棒を「ある」と言うことは破瓜型的
対応であり、「ない」と言うことは妄想型的対応であり、「何も言わない」という
ことは緊張型的対応である。しかし、そのいずれを選択したとしても師は弟子を
打つと言っている。このような防御のしょうがない矛盾が与えられた際に、弟子
は一体どうすればよいのであろうか。少なくとも、言語的レベル(言う/言わな
い)では、この矛盾から逃れることはできない。その際には、「師から棒を奪い
取る」(ベイトソン、296)という直接的な行動にでればよいのである。
上記の例と同様に、ヴィア艦長は、ビリーの頭上に「クラガートからの告発」
という棒をかざし、それについて何か言うことを強要している。しかし、「言語
障害」に陥っているビリーは、その棒が事実で「ある」とも「ない」とも言うこ
とができない。そして、何も「言わない」ことも許されてはいない。ピリーが
「言えない」ことを見てとったヴィアは「あわてなくてもいいぞ、おまえ。ゆっ
くりやれ、ゆっくりやれ」と優しく声をかけるが、それすらもあくまで「言う」
ことを前提にしたものであり、より激しい「言う」ことへの努力をビリーヘ促す
-72-
ことになる。「言う/言わない」という言語的レベルでは解決不可能な状況が極
限にまで達したときに、ピリーがとった直接的な行動は「殴ることで言う」こと
であった:“Ihadtosaysomething,andlcouldonlysayitwithablow,God
helpme!',(106)。ピリーは、クラガートを殴り殺してしまうことで、結果的に
「クラガートからの告発」という棒をヴィアから永遠に奪いとってしまったので
ある。
5「公」的な立場と「私」的な感情の矛盾
ヴィアの注視の下に起こった今回のこの不幸な出来事は、その処理において幾
つか困難な点があった。まず、時期的な問題がある。この物語は「1797年の夏」
(54)の物語であるが、その時期は海軍当局にとって「非常に危機的な」(103)
時期であった。なぜなら、同じ年の四月には「スピットヘッド」にて、そして五
月には「ノア」にて「反乱」が起こり、とくに後者は「大反乱」として知られる
ほどの規模の大きいものであった(54)。それゆえ、二つの「反乱」が鎮圧され
た後もまだ多くの士官たちの間には「懸念」が存在しており、再発防止の為の
「予防警戒」が強められていたのである(59)。また、時期的な問題と同時に厄介
なのが、この事件が抱える「道徳的なジレンマ」(105)であった。罪の無いビリー
を陥れようとしたのはクラガートである。しかし、法的な見地からみた場合には
悲劇の犠牲者はクラガートとなる。そして、ビリーの行為(上官殺し)は軍の犯
罪の中では最も凶悪とされているものである。それゆえ、ピリーとクラガートの
上に人格化されていた「潔白さと罪」(103)は、結果においては入れ替わってし
まったのである。
ピリーが「クラガートからの告発」という棒をヴィアから奪い取ったことによ
り、そこには「ビリーによる殴打事件」という事実だけが残される。そして、こ
の事実はヴィアを解決困難な矛盾へと引き入れる。なぜなら、この事実からは二
つの異なるメッセージが発せられているからである。まず、「上官殺し」という
メッセージ。次に「ピリーは本来は無実」というメタ・メッセージ。もしヴィア
が、あくまでも艦長として「公」的な立場でメッセージにリテラルに対応するの
であれば、それはビリーが本来は無実であるというメタ・メッセージを切り捨て
たことになり、他者からの「非人道的である」等の批判を受けかねない。しかし、
-73-
メタ・メッセージを重要視し、ビリーを裁かない、あるいは「有罪にはするが罰
は軽減」(112)したのであれば、水兵たちは士官たちを「臆病」(113)であると
思い、「反乱」を起こす可能性がある。このように、どちらを選択しても罰を受
けるような状況が確かにヴィアを捕らえている。しかし、ヴィアはその矛盾によっ
て判断不可能な状況に陥ることはない。なぜなら、ヴィアはその矛盾が「公」的
な立場と「私」的な感情の違いからきていることを明確に理解(分化)している
からである。そこで、ヴィアは、自分はあくまでも「公」的な立場に立ち、しか
し「私」的な感情(苦悩)もそこでは垣間見せる、という「公」「私」の領域を
行き来することによってこの矛盾を切り抜け、「ビリーによる殴打事件」を処理
しようとしてしている。
具体的に見ていこう。まず、ヴィアがメタ・メッセージを正確に理解している
こと、しかしそれを切捨てようとしていることは、軍医を混乱させた二つの叫び
からも明らかである:“ItisthedivinejudgmentonAnanias1Look1”(100),
"StruckdeadbyanangelofGod1Yettheangelmusthang1”(101)。ヴィア
は、ここで、クラガートを「アナニヤ」という嘘をついたために神罰を受けて死
んだ人物になぞらえ、ビリーを「神の使い」になぞらえている。しかしその「天
使」=ビリーは「絞首刑にされなければならない」のである。この叫びは、「略
式軍事裁判」(101)が開かれるよりも前、ピリーによる殴打事件のあった直後に
既に発せられているものなのだ。
自らはあくまでも「公」的な立場にたち、ピリーを裁く(殺す)ことを決断し
て以降のヴィアは、「公」的な「規範=命令」の最たるものである「法」に全面
的に依拠するようになる`)。ヴィアは自らが召集した「略式軍事裁判」において、
裁判官たる彼の部下たちに向けてこのように述べている:
Forsupposecondemnationtofollowthesepresentproceedings・Woulditbe
somuchweourselvesthatwouldcondemnasitwouldbemartiallaw
operatingthroughus?Forthatlawandtherigorofit,wearenot
responsible、Ourvowedresponsibilityisinthis:Thathoweverpitilesslythat
lawmayoperateinanyinstances,weneverthelessadheretoitand
administerit.(110-111)
-74-
ビリーを有罪にするのはあくまでも「法」であって、ヴィアを含めた「我々自身」
ではない。そして、そのような「法」のもとでは、クラガートの告発の「何らか
の考えられる動機」(107)も、ビリーの「意図、あるいは意図の無さ」(112)も
何ら問題にはならない。「法」が問題にするのはあくまでも「殴打の結果」であ
り、「殴った者の行為」なのである(107)。このようなヴィアの論理は、自分た
ちの「私」的な感情が、自分たち自身によってではなく、あくまでも「法」によっ
て犠牲に「させられている」とする自己正当化の論理である。
しかし、そのような盲目的な「法」への服従という態度自体も、当然批判の対
象となる。そこでヴィアは、そうした批判を回避するために、ある「戦略」を用
いている。それは、セジュウィック(EveKosofskySedgwick)が指摘している
ように、自分は「私」的には苦悩しているのだということを「公」的な場におい
て示すことである7)。裁判の場において、ヴィアは裁判官たる部下たちに向けて
このように述べている:
Butlbeseechyou,myfriends,donottakemeamiss、Ifeelasyoudoforthis
unfortunateboyButdidheknowourhearts,Itakehimtobeofthatgenerous
naturethathewouldfeelevenforusonwhominthismilitarynecessityso
heavyacompulsionislaid.(113)
こうした「戦略」を用いることによって、ヴィアはピリーが無実であることを分
かってはいるが、艦長としての立場上、やむを得ずビリーを裁いたのだという印
象を与えることが出来る。つまり、メタ・メッセージをただ単に切り捨てたので
はなく、「やむを得ず」切り捨てたのだと思わせることである。『ピリー・パッド』
批評史において、その最初期の批評をなした「受容派」は、この作品で描かれて
いる世界をメルヴィルは「受容」していると見ており、ヴィアの残酷な判決やピ
リーの死を、メルヴィルはやむを得ぬものとして受け入れていたと考えている8)。
こうした「受容派」の見方は、ここでのヴィアの「戦略」が、見事に成功してい
たからのものであろう。
先程の言葉は、ヴィアの裁判での長広舌の一番最後に言われた言葉である。ヴィ
アはこう言い終わると、裁判官たちが判決を下すのを無言で待った。判決は、ヴィ
-75-
アの青写真通り、ピリーの有罪判決(絞首刑)と決まる。ヴィアは、判決がおり
ると、今度はそれを囚人に伝える役目を自ら買ってでる。ビリーが収監されてい
る部屋でのヴィアとビリーのこの「密室の会見」(119)は、刑の伝達以外に何が
起こったのかは誰にも判らない。語り手にも判らないので、語り手は「推測」
(115)という形をとることで幾つかの見解を示している。我々もここで推測をし
てみよう。我々は、この「密室の会見」で、ヴィアは、これまでの「戦略」を逆
転させ、先程の言葉を実践したのだと考える。つまり、「公」的な立場にたたざ
るを得ないことの苦悩を「私」的な場において示し、それによってビリーの理解
を得ようとしているのである。
ビリーは処刑される間際、このような叫びを放つ:“GodblessCaptain
Vere1”(123)。ピリーが「どちらにもとれる言い方やほのめかしなどとは全く
無縁な性質」であることからみても、これは文字通りビリーがヴィアを祝福した
のだと考えられる。ビリーは「密室の会見」で示されたヴィアの苦悩を理解し、
そして同情したのであろう。それが、死の間際にこのような言葉となって表われ
たのである。
これまで見てきたように、ヴィアは、「公」「私」の領域を行き来することによっ
て、与えられた矛盾を解消していく。しかし、それは同時に、ビリーを犠牲にす
ることによって初めて達成可能な解消の仕方であった。そのことに対して、ヴィ
アの自意識が自らを罰するということはないのであろうか。「公」的な場で示さ
れたのではない、ヴィア本来の「私」的な感情とは如何なるものだったのであろ
うか。しかし、それはこのテキストの中では最後まで明らかにされていない。ビ
リーの生涯を綴ったこの「ある内側の物語」には、「外側」の物語として三つの
後日談が付されている。その中の一つにヴィアの死について書かれたものがある。
ヴィアは、戦いによって負傷し、麻酔薬をかけられた状態で、その死の間際「ビ
リー・パッド、ビリー・パッド」と咳く。語り手は、この咳きが「後悔の口調で
はなかったことは、付添い人がベリポテント号の水兵長に告げたところからも明
らかなようだ」(129)と述べている。しかし、この咳きを聞いた付添い人とは、
「ビリー・パッド」という言葉自体が「不可解」(129)であった人物であり、ビ
リーのこともまた彼にまつわる事件のことも知らなかったと推定できる。そのよ
うな人物が、この僅かな咳きを聞いただけで、それが何の口調であったのかどう
-76-
して理解できるのであろうか。
ヴィアの感情が明らかにされない以上、我々はヴィアの行為についてだけコメ
ントし、本論を終わりたいと思う。ヴィアの行為とは、「法という合理」だけで
は解決困難な状況に際し、「苦悩という情」を「法」に括りつけることによって、
結局は「法」を押し通してしまうという行為であった。多少の飛躍を恐れずに言
うならば、それは、近代の社会において、合理が、「自由・平等・博愛」という
人々の「情」に訴える理想と結び付き、結局は人々を抑圧するものとして機能し
ていることと奇妙にも似てはいないだろうか。
Notes
l)HermanMelville,BiZZyBudd,SaZJo7(A7zI7LsideM・「ratZue),ed・Harrison
HayfordandMertonM・Sealts,Jr.(ChicagoUofChicagoP,1962).以下、
テクストからの引用は全てこの版により、括弧内に頁数を記す。
2)グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学』(佐藤良明訳、思索社、1990)306頁。以下、
ベイトソンらのダブルバインド理論に関する引用は、全てこの版によるものとする。
3)小田亮『構造人類学のフィールド』(世界思想社、1994)204-207頁。
4)ビリーが破瓜型であるのに対して、クラガートは妄想型である。スープ事件からも明
らかなように、彼は「偶発的なできごとの背後に潜む意味を絶えず探し求め」(ベイト
ソン、299)ている。クラガートのビリーに対する憎悪は、彼が抱く妄想の中でますま
す増長していったのだと考えられる:
[W]henthemaster-at-armsnoticedwhencecamethatgreasyfluidstreaming
beforehisfeet,hemusthavetakenit--tosomeextentwilfully,perhaps--not
forthemereaccidentitassuredlywas,butfortheslyescapeofaspontaneous
feelingonBilly,spartmoreorlessansweringtotheantipathyonhisown.
(79)
5)第二章での考察を踏まえれば、ここでのクラガートのメッセージとは、「ビリーヘの愛」
(レベル1)を抑圧したことによる「憎悪」(レベル2)を押し隠す「装われた(偽りの)
愛」(レベル3)である。メッセージ、メタ・メッセージ、メタ・メタ・メッセージと
いう、複雑なメッセージの階層性を、ビリーは到底理解することはできない。
6)BarbaraJohnson,‘`Melville'sFist:TheExecutionofBtJZyBudd,,inT7De
CritjcaJDiノツセre7zce(Baltimore:JohnHopkinsUP,1980),103.
7)EveKosofskySedgwick,“SomeBinarisms(1):BillyBudd:A/terthe
-77-
HOmosegmaZ''inEpistemoJogyQ/WDeCZoset(Berkeley:UofCaliforniaP,
1990),115-18.
8)「ビリー・パッド』批評史に関しては、RobertMilder,“Introduction''inCrZticaJ
Essaツso〃MCM此'sBiJb'Budd,StziJo7(Boston:G,K、Hall&CO,1989),1-21
を参照。
-78-
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