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Page 1 ウィリアム・ゴールディングの 『ピンチャー ・マーティン

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Page 1 ウィリアム・ゴールディングの 『ピンチャー ・マーティン
ウ ィ リ ア ム ・ゴ ー ル デ ィ ン グ の
『ピ ン チ ャ ー ・マ ー テ ィ ン 』
坂
本
仁
1
『ピ ン チ ャ ー ・マ ー テ ィ ン 』(PincherMartin
ゴ ー ル デ ィ ン グ(WilliamGolding,1911-)三
第 一作
,1956)は
、 ウ ィリアム・
作 目 の 長 篇 小 説 で あ る。
『
蠅 の 王 』(TheLoydoftheFlies,1954)で
は、 孤 島 で漂 流 生 活
を 送 る 子 供 た ち が 次 第 に 残 忍 性 を 発 揮 し 、 原 始 生 活 に 退 行 し て 厂楽 園 」
を 焼 き 払 っ て し ま う 寓 話 性 に 富 ん だ 話 が 語 ら れ 、次 の 『
後 継 者 た ち 』(The
ニ ユ け ピ プ ル
劭 舵 痂o鴬,1955)で
は 、 ネ ア ン デ ル ター ル人 と 厂新 し い人 々 」 の 出 現 で
両 者 が 混 在 す る過 渡 期 に 背景 を求 め、 知 恵 を得 た人 類 の 始 祖 が 、 旧人 類
を駆 遂 し、 「
森 の 生 活 」 を逃 れ て 暗 い 不 安 を抱 きな が ら海 へ 乗 り出 す ホ
モ ・サ ピ エ ンス の チ ュ ア ミ(Tuami)の
姿 で 描 写 を終 え て い る。 この 三
作 目で ゴー ル デ ィ ン グ は漸 く、 現 代 の大 人 を主 人 公 に 据 え た作 品 を展 開
す る こ とに な った 。キ ン キ ー ド=ウ ィー ク ス と グ レ ゴ ー ル は言 う。「この
小 説 は 、 ゴ ー ル デ ィ ン グが 初 め て 表 題 に個 人 の 名 前 を冠 し、 個 人 の意 識
内 の視 点 か ら物 語 を語 り、 現 代 の 世 界 の(ど の よ う な次 元 で あ れ)性
的
関 係 ・社 会 関 係 に 関 心 を もっ た 当 代 の 大 人 を主 人 公 に据 え て存 分 に描 い
た 作 品 で あ る1)。
」
しか し、 展 開 され る作 品 世 界 の ほ とん どが、 個人 の 日常 生 活 で の 出 来
事 で は な く、 第 一 作 同様 、 こ こで も漂 流 生 活 を 送 る男 の 意 識 内 で の事 柄
で あ る。 前 作 との 関 連 で 言 え ぱ、 毛 む く じゃ らの 薄 気 味 悪 い 最 後 の ネ ア
ン デ ル タ ー ル人 の 子 供 を 同乗 させ て 舟 出 した 「新 しい 人 々 」 の 一 行 が 、
遙 か に時 を 隔 て て 現 代 に そ の 末 裔 を求 め る と き、 ク リ ス トフ ァー ・ハ ド
リ ィ ・マ ー テ ィ ン(ChristopherHadleyMartin)と
41
な っ て 登 場 した と
い う訳 で あ る。しか も海 の 中 に た だ 一 人 取 り残 され た男 が 主 人 公 で あ る。
した が っ て 、 ゴー ル デ ィ ング は三 度 、 通 常 の社 会 生 活 に情 況 設 定 を選 ば
な い 独 特 な 作 家 と言 え る 。 それ は、 この 作 者 の執 着 す る対 象 が 特 異 な情
況 設 定 を強 い る類 い の もの で あ るか らだ 、 と も言 え よ う。 ゴー ル デ ィ ン
グが これ まで 一 貫 して追 求 して きた 問 題 は、 悪 の 所 在 の探 究 で あ る。 そ
し て 、 この 作 品 で は、 ジ ョン ス トン も言 う よ うに 、 悪 が 胚 胎 して い る人
間 に知 性 に よ る救 済 が あ り得 るの か 、 とい う問 い 掛 けが な され て い るの
で あ る2)。
作 者 ゴー ル デ ィ ング は、 しか し、 こ の よ うな倫 理 問 題 を平 板 に述 べ た
て て い る訳 で は な い 。 特 異 な抵 抗 感 を与 え る文 体 、 巧 み な 時 間 処 理 と構
パ ロディ
成 、 無 数 の譬 喩 や 象徴 の 連 鎖 を駆 使 し、 しか も彼 一 流 の翻 案 化 を施 して
い るの で あ る。
本 稿 で は 、作 者 が 上 記 の 問題 を ど う究 明 し よ う と した の か を、 人 物 ・
時 間 ・構 成 ・パ ロ デ ィな どの 諸 点 を通 して検 討 し て み る こ とに す る。
2
作 品 の 冒 頭 か ら主 人 公 は助 け を求 め て い る。 とい うの も彼 は 、 第 二 次
大 戦 下 、 英 国 海 軍 大 尉 と して 駆 遂 艦 に乗 り、 ドイ ツ軍 のUボ
ー トの 攻 撃
を受 け て 、 大 西 洋 沖 に投 げ出 さ れ人 物 と して 登 場 した か らで あ る。 彼 は
溺 れ か けて い る の で あ る。 救 命 具 に す が り、 必 死 の努 力 の末 、 とあ る小
さ な岩 礁 に辿 り着 く。 もち ろ ん こ こは 、人 の 棲 息 す る よ う な場 所 で は な
く、 身 を横 た え て体 力 の 回復 を待 ち、 救 助 隊 が 発 見 して くれ る こ とを期
待 す る 。 そ う した 彼 の生 活 と彼 の脳 裏 に 去 来 す る断 片 的 な記 述 や 想 念 と
か ら、 次 第 に主 人 公 の人 とな りが 読 者 に伝 達 され る。
彼 は顕 著 な 性 格 を三 つ備 えて い る。 まず 忍 耐 強 く、 知 的 か つ英 雄 的 な
側 面 が 告 げ られ る。 次 い で 、 貪 欲 で 、 攻 撃 的 か つ 倫 理 意 識 の乏 しい人 物
で あ る こ とが 徐 々 に明 らか に な り、 最 後 に、 頑 迷 で 傲 慢 な 本 性 を露 呈 す
る こ とに な る。 こ う した性 格 面 で の三 つ の特 徴 は、 重 な る部 分 もあ り、
相 対 立 す る と こ ろ もあ っ て 、 必 ず し も截 然 と区 別 で き る訳 で は な い。 し
42
か し、 主 人 公 が 異 な る情 況 下 で 示 す著 し い態 度 表 明 を折 出 す る とそ うな
るの で あ り、E.M.フ ォ ー ス ター の言 う よ う に、 この幾 つ か の性 格 面 で の
特 徴 が あ る が故 に、作 品 内 の人 物 とし て現 実 味 が で て くる の で あ る3)。こ
う した それ ぞ れ の 面 を、 も う少 し具 体 的 に見 る こ とに し よ う。
岩 礁 に漂 着 し、 落 ち着 い て か ら、 彼 はお 決 ま りの延 命 策 を講 じ は じめ
る 。 自分 の置 か れ て い る場 所 や 食 料 の有 無 を観 察 す る。 そ こは 、 海 面 に
ち ょっ と突 き出 た 歯 型 に似 た 、 岩 だ ら けの 小 さ な島 で あ る こ と(p .78)。
草 木 とて一 切 な く、 飲 み水 は 雨 水 、 食 べ る もの は岩 に付 着 した貝 や 苔 類
しか な い こ とが 判 明 す る。 そ れ で も主 人 公 は 、 知 的 に冷 静 に振 舞 お う と
す る。 自分 は救 済 され る の だ と 自 らに言 い 聞 か せ る(p.81)。 海 草 を利 用
した 十 字 型 の 目印 や 、 石 を積 み 上 げ て作 った人 形 を島 の頂 き に置 く。 自
分 の 生 活 空 間 に 望楼(Look-out)、
赤 獅 子 亭(TheRedLion)、
(HighStreet)な
小 人(Dwarf)、
安 全 岩(SafetyRock)、
希 望 の 崖(ProspectCliff)、
ど と命 名 す る(pp.84-5)。
果 て は本 通 り
そ れ は彼 が 次 の よ うに考 え
て い るか らで あ る。「
名 前 を つ け る こ とは封 印 す る こ と。鎖 を つ け る こ と。
(中 略)自 分 の 日常 の流 儀 を、地 理 を岩 に押 しつ け る。名 前 で 縛 りつ け る。
そ して、 自分 の 言 葉 が 反 響 し、 意 味 の あ る音 声 を 聞 くこ とで 自分 が 自分
で あ る こ と を確 信 す る 」(pp.86-7)た めだ か らで あ る。 つ ま り、 日常 性 、
社 会 性 を通 して の 自 己確 認 が そ の 目的 で あ る。
また 、 自 分 が 海 中 に放 り出 され て か らの 日数 を数 え、 ロ ビ ン ソ ン ・ク
ル ー ソー の よ う に生 活 を律 して 行 こ う とす る。激 しい 夜 中 の大 海 原 の 中 、
一 入 で 岩 に しが み つ く自 ら を神 話 の英 雄 プ ロメ テ ウ ス(Prometheus)に
た と えて み た り(p.164)、 不 安 の あ ま り 自分 が 狂 気 に陥 りそ う な精 神 状
態 を見 越 し て、荒 野 を彷 徨 す る リア王 の境 涯 に類 比 して み た り もす る(p .
97)。 が 果 して彼 は、こ う した崇 高 な英 雄 を 引 き合 い に 出せ る ほ どの人 物
で あ る の だ ろ う か。
な る ほ ど主 人 公 は、 友 人 ナ ッ ト(Nat,Nathaniel)が
言 うような 「
人並
外 れ た 忍 耐 力 の 持 主 」 で は あ る(p.71)。 しか し、 倫 理 意 識 は相 当低 い 。
な に し ろ、 ナ ッ トの 妻 とな る メ ア リ(Mary)を
43
凌 辱 し よ う と して果 せ ず 、
そ れ を恨 み に思 っ て ナ ッ トを殺 害 し よ う と した の だ か ら。 しか も、 誘 惑
対 象 は メ ア リ に 限 ら れ て い る の で は な い。 友 人 の 演 出 家 ピ ー タ ー
(Peter)の 妻 ヘ レ ン(Helen)を
寝 取 る ばか りで な く、 彼 女 を 口説 い て三
文 役 者 で あ る 自分 に好 い 役 を 回 して くれ る よ うに頼 む 厚 顔 無 恥 な人 物 で
あ る。 さ ら に、 別 の友 人 ア ル フ レ ッ ド(Alfred)の
恋 人 を も籠 絡 す る、
とい う具 合 で あ る。 英 国 海 軍 で は 、 マ ー テ ィ ンの姓 を持 つ者 は皆 ピ ンチ
ャー(Pincher=つ
まみ 屋)の 諢 名 で 呼 ばれ る慣 例 が あ る とい うが 、 この
ピ ン チ
ヤ い
主 人 公 は 、 ま さ に存 在 そ の ものが 飽 くこ と無 きつ まみ 屋 で あ った の だ。
彼 の そ う した 性 癖 は、 対 女 性 関 係 にの み 限 られ て い る訳 で は な い。 彼
が 役 者 と して 演 じて きた 役 割4)寓
119)一
意 劇 で は貪 欲 の 役 が 当 て られ る(p.
や 、 ピ ンチ ャ ー の も う一 つ の 意 味 で あ る螯(Pincers)そ
の もの
と化 して 岩 に しが み つ い て 生 き よ う とす る態 度 や 、 中 国 人 の 珍 味 とし て
引 き 合 い に 出 さ れ た 大 き な 蛆 虫 に も比 せ られ る大 食 漢 の 有 様 に よ っ て
も、 この 特 性 が 強 調 さ れ て い る の で あ る。 要 す る に彼 は、 自分 の 望 む も
の を何 で も手 に入 れ よ う とす る貪 欲 の 権 化 な の だ 。名 前 が ク リス トフ ァ
ー で あ る に も拘 らず、表 題 に ピ ン チ ャ ー とい う名 を冠 せ られ て い るの は、
主 人 公 の こ う し た貪 欲 さが 明 記 され て い る訳 で あ る。
岩 に しが み つ い て い る主 人 公 の 意 識 に、次 第 に不 安 が 忍 び込 ん で くる。
頭 上 を飛 ぶ 鴎 に悪 態 を つ く。 幼 児 期 の 地 下 室 の 暗 闇 へ の恐 怖 感 が 蘇 っ て
き て 眠 る こ とが で きな くな る。 食 べ られ そ うな もの を手 当 り次 第 に 口 に
入 れ ざ る を得 な い貧 困 な 食 料 事 情 が 原 因 とな っ て、 消 化 不 良 を起 こす 。
発 熱 の た め意 識 が 混 濁 して 来 る。 そ う した 状 態 の 中 で 、 彼 は神 の 姿 を見
る。
厂も う充 分 で は な い の か 、 ク リス トフ ァー?」
(略)
「充 分 と は何 が?」
「生 き る こ と。 しが み つ い て い る こ と。」(pp.194-5)
44
\丿
神 との こ う した対 話 を交 わ し なが ら、主 人 公 は不 遜 に も神 に 毒 ず き、「あ
な た を作 っ た の は こ の お れ だ 。 お れ が 自分 の 天 を 創 造 し た の だ 。」(p.
196)と
言 い 切 る。 神 は 「これ を 創 造 した の はお 前 だ。」 と意 味 深 長 な こ
と を言 う。 主人 公 は 自 らの執 着 心 、 死 を認 め まい とす る頑 迷 な態 度 に よ
り、 自分 で 苦 痛 を招 来 し て い る の に気 づ い て い な い の で あ る。 し か も、
自 ら を創 造 の神 に比 す 傲 慢 さ を あ く まで 固 持 して い る。 オ ー ル ドセ イ と
ワ イ ン トラ ウ ブ が 指 摘 し て い る よ うに 、「キ リス ト教 の 神 に対 す る一 番 の
大 罪 は、 貪 欲 で は な く高 慢 な の で あ る5)。
」 した が っ て、 主 人 公 が 「黒 い
稲 妻 」 に打 た れ て 意識 を失 うの は 当然 と言 え る。
この よ う に、 主人 公 は、 生 き る こ と に冷 性 ・知 的 に し か も忍 耐 強 く対
処 し よ う とす る が、 そ の 目 的 も単 に 自分 一 箇 の 飽 くな き欲 望 充 足 の た め
だ けで あ り、 そ の よ うな 生 き方 自体 が す で に罪 深 い も・
の で あ る に も拘 ら
ず 、 自 らの 非 を認 め る ど ころ か 、 自 身 を創 造 の 神 に比 す 倨 傲 な 態 度 を示
す 人 物 で あ った の で あ る。
彼 は他 人 に対 す る 思 い や りな ど微 塵 も持 ち 合 わ せ て は い な か った の で
あ る。 メ ア リを求 め た の は 「愛 で は な く、(中 略)彼 女 の 存 在 そ の もの に
対 す る嫉 妬 か ら合 成 さ れ た 」(pp.103-4)感
情 に由 来 す る行 動 で あ り、 自
分 の欲 望 が容 れ られ ず、 しか もそ の メ ア リが 自分 の 友 人 ナ ッ トと結婚 す
る こ とに した と知 り、 彼 は ナ ッ トを「唯 一 の 敵 で あ る か の よ う に憎 悪 し」
(p.103)、 共 に志 願 兵 と し て海 軍 に従 軍 して 、友 人 殺 害 の機 会 を狙 って い
た の で あ っ た。 上 部 甲板 に ナ ッ トが 一 人 だ け に な る よ うに 仕 組 み、 急速
旋 回 の 指 令 を発 して 、 主 人 公 が 彼 を海 に ほ う り出 そ う と した 刹 那 、 敵 の
攻 撃 を受 け て 自分 が 海 に顛 落 して い た の で あ る。 これ は単 な る偶 然 の一
致 で あ る、 とい え な くも な い 。 しか し、 作 者 が 天 罰 を下 した の だ 、 との
見 方 もで き るか も知 れ な い6)。V・ タ イ ガ ー女 史 は こ う述 べ て い る。 「海
で 犠 牲 に な った の は、 お そ ら くピ ンチ ャー た だ 一 人 で は な い か、 と推 測
で き る。 とい うの も、 他 の 乗 組 員 は 救 助 さ れ て い る の か も知 れ な い か ら
で あ る7)。
」
また 作 者 ゴ ー ル デ ィ ング 自身 は、 自作 を次 の よ う に解 説 し て い るの で
45
あ る。
ク リス トフ ァー ・ハ ドリ ィ ・マ ー テ ィ ン は 自分 の 生 命 が 大 事 だ と思
う以 外 に は何 も信 じて はい な か った 。 愛 も神 も信 じ て は い な か った
の だ 。 彼 は神 の 姿 に形 造 られ た の で あ る か ら、 世 界 を 自分 中心 に し
て きた 生 き方 を 選 ぶ か ど うか の 自由 が あ った の だ 。(中 略)彼 の本 性
の原 動 力 とな って い た 貪 欲 な 生 き方 の た め に、 無 心 の死 に方 は拒 ま
ざ る を得 な か った の だ 。 自 らの 凶 悪 な本 性 か ら形 造 られ た 世 界 に存
在 し続 け た の で あ る8)。
主 人 公 は、 自 らの 生 命 を何 よ りも尊 重 した 。 生 命 維 持 の た め の知 的 努 力
は 惜 し まな か った 。 が 、 恐 ら くは生 命 を大 事 に し な けれ ば な らな い の は
な ぜ な の か 、 と問 う て み た こ とは なか った の で あ ろ う。 そ の よ う な問 を
発 す る に は 自分 自 身 の生 の 執 着 心 が あ ま りに勝 ち過 ぎて い た し、 他 者 の
存 在 を容 認 す る に は あ ま りに 自己 中心 的 で あ り過 ぎた し、 神 の 存 在 を許
容 す る に は あ ま りに 自尊 心 が 強 過 ぎた か ら で あ る 。
人 間 は 、 地 球 上 の他 の い か な る存 在 に も増 して 知 的 で あ る。 火 や道 具
を使 用 し、 言 語 や 記 号 や 象 徴 を駆 使 して 社 会 生 活 を営 ん で い る。 とい う
こ とは 、 しか し、 人 間 は一 人 で は生 きて は い け な い とい う こ とで あ る 。
わ ざ わ ざ知 性 を働 か せ て 道 具 類 を利 用 す る の も、 言 語 や 象 徴 を継 承 ・発
展 させ て き た の も、 他 者 との 交 流 の 必 要 性 か らで あ る。 自分 一 人 の た め
だ けで あれ ば、 これ ら は ほ とん ど必 要 とし な い で あ ろ う。
主 人 公 は死 に頻 して な お 、 他 人 は 自分 の た め に だ け しか存 在 して い な
い 、 か の ご と くに 考 えて い る よ うで あ る。 彼 は 厚 か ま し くも、 「ナ ッ ト、
助 けて くれ!」
と 自分 が 殺 意 を抱 い て い た 男 に救 助 を求 め る声 を何 度 も
発 す るの で あ る。 しか も、 自分 が 殺 人 計 画 に利 用 した 急速 旋 回 の 指 令 は、
結 果 的 に 「間 違 っ て い な か った 」とあ くま で 自己正 当化 す る の で あ る(p.
186)。 この よ うな態 度 で は、 作 者 の 言 う と う り 「自 らの 凶悪 な本 性 か ら
形 造 られ た 世 界 に存 在 し続 け」 る よ り他 に は道 が な い で あ ろ う。L・
46
ホ
ドソ ンは 言 う。「ゴ ー ル デ ィ ン グ は ピ ンチ ャー の 悲 劇 、よ くあ る悲 劇 の状
態 に思 い 当 った の は確 か だ。ピ ンチ ャー は 全 く悔 悛 す る こ とが で きな い 。
ひ た す ら抵 抗 せ ざ る を得 な い の だ。 強 情 な の が 彼 の 覚 束 無 い 徳 性 な の
だ9)。
」
自 己反 省 を伴 わ な い主 体 が い か に知 性 を駆 使 し よ う と、 事 態 の 改 善 に
は 繋 らな い 。他 者 の存 在 を容 認 で き な い と ころ に、 他 者 は救 済 の 手 を差
し延 べ て は 来 な い 。 自分 の本 性 に巣 喰 う悪 を見 据 え る こ とな くして 、 荒
涼 た る大 海 の岩 礁 に光 が 射 す こ と は な い 。「黒 い稲 妻 」が 走 るだ け で あ る。
ギ リシ ャ悲劇 以 来 お 馴 染 み の 「よ くあ る 悲 劇 の 状 態 」 が 繰 り返 され る だ
け で あ る。 よ く生 き る に は、 知 性(intellect)だ け で な く、 い や 、 知 性 よ
りむ し ろ 自己認 識 を促 す 知 恵(wisdom)が
必 要 で あ ろ う。 この作 品 の 主
人 公 に は、 そ れ が 欠 け て い た の で あ る。
3
ゴ ー ル デ ィ ング の 巧 み な時 間処 理 に着 目 して 、V・
タ イ ガ ー女 史 は秀
れ た作 品 分 析 を行 って い る。
… …究 極 的 な見 方 は 黙 示 録 的 な もの で あ る
。 とい うの も(中 略)「 正
確 な計 画 」 は全 時 間 を包 含 す る もの だ か らで あ る。 ピ ンチ ャー の岩
の 上 で の経 験 、 この見 せ か けの 厂現 在 」 は、 過 去 の 生 活 の模 様 と正
し く符 合 す る も の で あ る。 記 憶 が フ ラ ッ シ ュ バ ッ ク し、 絶 えず 「現
在 」 に割 って 入 り、 時 に は 厂
過 去 」 が 「現 在 」 に 捉 え られ て い る。
同様 に未 来 が 主 人 公 の意 識 を疼 か せ る1°)。
『ピ ン チ ャー ・マ ー テ ィ ン』 は
、 島 に漂 着 した 男 が た だ単 に昔 を思 い 出 す
とい う回 想 形 式 の小 説 で は な い。 中 心 は あ くま で 「見 せ か け の 『現在 』」
にある。
しか し、 現 在 の 時 間 に過 去 が 断 片 的 に混 入 し て くる点 で 、E・
47
ヘ ミン
グ ウ ェ イ の 『キ リマ ン ジ ャ ロ の雪 』 に多 少 の類 比 を求 め る こ と もで き よ
う。 両 作 品 と も間 近 に 死 を控 え た 主 人 公 の脳 裏 に、 過 去 の 想 い 出 が フ ラ
ッ シ ュバ ッ クす る事 と、混 濁 した 意 識 の 中 に神 の存 在 を思 う点 とで あ る。
だ が 、 類 似 点 が 求 め られ る の は そ こまで で 、作 品 の色 調 は双 方 で 全 く異
な る 。 ヘ ミン グ ウ ェ イ の そ れ は 、 主 人 公 が 最後 に神 の 国 を見 て 自分 の 死
を容 認 す る とい う穏 や か な結 末 で あ る に対 し、 ゴ ー ル デ ィ ング の作 品 で
は、 主 人 公 は頑 迷 な ま で に 自分 の 境 遇 を認 め ま い とす る強 い拒 絶 の 態 度
に終 始 し、読 者 に 安 堵 感 を与 え る結 末 に は な っ て い な い か らで あ る11)。
そ
の 理 由 は、 や は り、 この作 品 の 中心 が 「現 在 」 に置 か れ て い る と こ ろ に
あ る。
主 人 公 の 「現 在 」は、 先 に少 し触 れ た よ う に、 第 二 次 大 戦 の さ中 、 ドイ
ツ軍 の攻 撃 を受 け て大 西 洋 をた だ 一 人漂 流 し、 小 さ な岩 礁 に流 れ 着 き、
救 助 の手 が 差 し延 べ られ る の を待 って い る男 の送 る時 間 で あ る。 異 常 な
情 況 下 に あ っ て な お 、 知 的 か つ冷 静 沈 着 に 日常 性 を維 持 し よ う とす る 意
識 が そ れ で あ る。 そ して 、 そ の 意 識 に現 実 味 を付 与 す る三 つ の レ ヴ ェル
の作 用 が あ る。 一 つ は、 歯 痛 ・騒 音 ・光 の 知 覚 ・腹 痛 ・発 熱 な どの感 覚
レ ヴ ェ ル の そ れ で あ り、 次 は、 場 所 の命 名 、 救 助 を求 め る活 動(石
を積
み 上 げ て人 形 を作 る こ と、 海 草 を利 用 して 十 字 形 の 目印 を考 え る こ と)、
狂 気 に 陥 る の を回 避 す るた め の独 白 とい った 知 的 営 為 で あ り、 最 後 は、
死 の不 安 で あ り、 混 乱 しか け た意 識 の 中 で 、 黒 い稲 妻 や 神 の 姿 を見 る幻
想 レ ヴ ェル の それ で あ る。
主 人 公 が 岩 礁 に漂 着 し、 意 識 が 蘇 生 す る の は、 風 の 音 や岩 に砕 け る波
の 「騒 音 」 の知 覚 に よ る(p.24)。 次 い で 、 頬 に触 れ る小 石 や 波 の 触 知 作
用 が加 わ り、歯 痛 を感 じ る と共 に 島 の形 状 把 握 に及 ぶ 。「岩 の 突端 が 一 つ
だ け 、 山脈 の 頂 きが 一 つ 、 海 底 に 沈 ん だ 世 界 の太 古 の 顎 骨 に 嵌 め 込 ま れ
た一 本 の 歯 が 、 想 像 し難 い ほ ど広 大 な 大 海 原 に突 き出 て い る 」(p.30)の
が 自分 の 存 在 して い る場 所 で あ る、 と主 人 公 は看 取 す る。
や が て 、 彼 は意 識 が 鮮 明 に 回復 す る と共 に、 「考 え るの だ 」(p.31)と
自 らに 命 じ、 厂お れ に は知 性 が あ る の だ 」(p.32)と
48
自惣 れ る。食 料 の有
無 の 確 認 、 休 息 場 所 の確 保 とい っ た 生 存 に要 す る 必 須 条 件 の 整 備 を済 ま
せ 、 日常 性 の復 元 を計 る 一 方 、 救 命 手段 を講 じて 自分 の 存 在 を知 ら しめ
よ う と努 力 す る 。 そ の た め の 生 活 の 指 針 を 四点 に簡 略 化 して 心 に銘 記 す
る一
生 き抜 く意志 を持 つ こ と、 肉体 管 理 に留 意 す る こ と、 精 神 異 常 を
回避 す るた め に話 をす る こ と、 救 出 の た め の 目 印 を作 る こ と、 で あ る。
そ うす れ ば 「生 命 の 糸 が 跡 切 れ な い か ぎ り、 過 去 と未 来 を結 び つ け る こ
とに な ろ う」(p.81)か
ら。
しか し、そ う した 自恃 の 心 に不 安 が 忍 び 込 ん で くる。「岩 の 上 で 一 週 間 」
(p.88)も 過 ご し 眠 れ な くな って くる。 「眠 りは意 識 的 な監 視 、識 別 者 と
し て の 意識 の 弛 緩 。(中 略)眠
こ とへ の 同 意 」(p.91)で
りは死 ぬ こ と、完 全 な無 意 識 に入 っ て行 く
あ る。 死 を何 よ り も容 認 し得 な い 主 人 公 に は、
眠 る こ とを も肯 定 で きな くな る。 身 体 と精 神 に活 力 を 回復 させ る 眠 りを
恐 れ る よ う にな った 時 点 か ら、 主 人 公 の意 識 が混 乱 しは じ め、 狂 気 の徴
候 が 現 わ れ 出 す 。 厂夏 の 稲 妻 」に 身 を潜 め る岩 間、 暗 い閉 所 空 間 へ の恐 怖
が 嵩 じ て、 つ い に は現 実 に は存 在 す る はず の な い赤 い ロ ブ ス ター を海 中
に 見 掛 け る 。厂あ あ し て海 の 中 を泳 い で い る よ うな ロ ブ ス タ ー を見 た者 が
誰 か い る だ ろ うか 。 赤 い ロ ブ ス タ ー を?」(p.167)茹
で られ て は じ め て
ロ ブ ス ター は赤 くな る の だ。 こう して何 か が 決 定 的 に取 り去 られ 、 彼 は
暗 闇 の 中 に転 落 す る 。
T・S・ エ リオ ッ トは 、 『四 つ の 四 重 奏 』(1944)の 冒頭 を卓 抜 な 時 間 省 察
の 句 で、 次 の よ う に は じ め て い る。
現 在 の 時 と過 去 の 時 とは
恐 ら く共 に未 来 の 時 の 中 に現 在 し、
未 来 の 時 は また過 去 の 時 の 中 に含 まれ て い る12)。
瞬 時 に過 ぎ去 る現 在 の 時 は 、 す で に して過 去 とな る 。 し か し、過 去 が
現 在 を規 定 して い る よ う に、 現在 と過 去 が 未 来 を 出現 させ る。 エ リオ ッ
トの この句 は、 人 間 存 在 と時 間 との 微 妙 な 関係 を見 事 に 捉 え て い る。
49
人 間 が 生 き て い る とい う こ と は、 この連 綿 と続 く時 間 の 連 鎖 の途 上 に
あ る 、 とい う こ とで あ る。 主人 公 の言 う 「生 命 の 糸 が … … 過 去 と未 来 を
結 び つ け る こ と」 で あ る。 した が っ て 、 主 人 公 の 「見 せ か け の 『現 在 』」
を理 解 す る に は、 過 去 を知 ら な け れ ば な らな い 。 な ぜ な ら、 タ イガ ー 女
史 の 言 う よ う に、 そ れ は 「過 去 の生 活 の 模 様 と正 し く符 合 す る もの」 だ
か らで あ る。
主 人 公 の 「記 憶 が フ ラ ッ シ ュバ ッ ク し」、現 在 の 意 識 に過 去 が 混 入 して
キビ ワ ド
くる際 に、作 者 は い くつ か の 鍵 語 を用 い て い る。 そ れ は、絵(pictures)
で あ り、 絵 模 様(patterns)で
あ り、 時 に ス ナ ップ(snapshots)で
もあ
る。 『
後 継 者 た ち』の 中 で 、 旧人 類 た ち が 「お れ に絵 が あ る 」と言 う と き、
記 憶 や 考 え や 未 来 の 予 測 が 浮 か ぶ 、とい う意 味 で 作 者 はや は り、この 「絵 」
を用 い て い た 。(つ い で に 言 え ば、 自己 確 認 を促 す 道 具 立 て は、写 真 で あ
り、 鏡 で あ る。)
主 人 公 は 安 ん じ て 眠 りに 身 を委 ね る こ とが で きな くな る。 そ れ に呼 応
し て 、過 去 の 雑 多 な場 面 が 意 識 に蘇 え っ て くる 。 プル ー ス トが 用 い た よ
うに 、 何 か の刺 激 が 契機 とな っ て 、 記 憶 の世 界 へ 帰 っ て行 く。 こ こで の
そ れ は、 紅 茶 や マ ドレー ヌ の味 覚 で は な く、 稲 妻 で あ っ た り、 言 葉 の連
想 で あ った り、 岩 礁 の イ メ ー ジで あ っ た りす る。 そ の過 去 の想 い 出 や 出
来 事 は全 て、 主 人 公 の 自覚 と は別 に、 彼 の 現 状 を招 来 す る要 因 で あ る こ
と を読 者 に 告 げ て い る。 ま さ し く過 去 が 現 在 を規 定 して い る の で あ る。
稲 妻 が 喚 起 す るの は、 主 と して ナ ッ トと メ ア リに 関係 す る事 柄 で あ り、
言 葉 が 連 想 を誘 うの は役 者 仲 間 の 出来 事 で あ り、 岩 礁 の イ メ ー ジ は主 人
公 の本 性 を象 徴 す る もの で あ る。
ナ ッ トは 、 カ ー モ ー ドが指 摘 し て い る よ うに、 『蠅 の王 』の サ イ モ ン の
如 く、 一 種 予 言 者 的 な人 物 で あ る13)。彼 は主 人 公 に 「黒 い稲 妻 」の存 在 、
主 人 公 の死 とその た め の心 の 準 備 とを 説 い て い た。
今 の ま まの わ れ わ れ を考 えて み る ん だ 。 そ うす れ ば天 国 な ん て 、 全
くあ りは しな い の さ。形 もな い し、何 もな い んだ 。 そ う だ ろ う?生
50
命 と呼 ん で い る もの を こ と ご と く滅 ぼ して し ま う もの が 黒 い稲 妻 み
た い な もの な ん だ(p.70&p.183)。
そ う述 べ るナ ッ トの 意 味 が、 しか し、主 人 公 に は 何 の こ とか 解 らな い 。
そ こで 、 ナ ッ トは さ ら に 「死 ん で 天 国 に行 く技 術 」 を 身 につ け る必 要 を
告 げ る。 そ れ は 主人 公 が 「二 ・三 年 の うち に死 ぬ」 運 命 に あ る か らだ 、
と(p.71)。 主 人 公 は激 怒 し、 この予 言 を認 め ま い とす る。
こ う指 摘 した ナ ッ トが 海 軍 に 志 願 し た こ と を主 人 公 に 告 げ る。 彼 は一
緒 に従 軍 す る こ と を決 意 す る。 そ して 「夏 の 日 の稲 妻 」 が 一 人 の 女 性 の
姿 を投 影 す る。 そ の 稲 妻 が彼 の脳 裏 の 中 で車 の ラ イ トと連 結 す る。 あ る
夏 の 日の 夜 、 メ ア リ を 同乗 させ た 主 人 公 は、 彼 女 の激 しい 抵 抗 に会 い 、
彼 女 を意 の ま ま に し よ う と した欲 望 を満 た す こ とが で きな か っ た の だ 。
そ の メ ア リが ナ ッ トと結 婚 す る とい う のだ 。 た だ 一 人 の 親 友 と も言 え る
ナ ッ トが 仇 敵 に転 じ る。 主人 公 が 発 し た指 令 と同 時 に 、 自 らが 海 中 に投
げ 出 され て い た の で あ る 。 こ う して ナ ッ トの予 言 は 的 中 す る。
言 葉 に よ る連 想 。 一 生 き る こ とは食 べ る こ とで あ り、 時 に他 人 を食 い
物 にす る こ とで も あ る。 とい う こ とは 、立 場 が 変 わ れ ば、他 人 に食 わ れ、
殺 され 、 死 ぬ こ と に も な る。 最 も旺 盛 に生 き る者 は、 最 も貪 欲 で あ るの
か も知 れ な い♂ 食 べ る とい う事 は格 別 に意 義 深 い こ とな の だ 。あ らゆ る
次 元 にお い て儀 式 的 な 事 柄 とな って い る。 … … 口で 食 べ る とい うの は 、
一 連 の 宇 宙 的 な過 程 を一 纒 に した表 現 なの だ。 男 子 の一 物 で 食 べ る こ と
もで き る し、あ るい は拳 で 、あ る い は 声 で食 べ る こ と もで き る」(p.88)。
こ こか ら 厂声 で 食 べ る」 役 者 仲 間 の事 、 そ の妻 や 恋 人 を寝 取 っ た事 な ど
が 思 い 出 され る。 仲 間 と入 り浸 っ て い た 赤 獅 子 亭 で 「蛆 虫 ク ラ ブ」 に つ
い て話 した 事 が あ る。「中 国人 が 珍 味 を用 意 した い と思 う とき に は、ブ リ
キ の罐 に 魚 を一 匹入 れ て 土 の 中 に埋 め て 置 くん だ 。 間 もな くち っ ち ゃい
蛆 虫 が這 い 出 し て きて 、 食 べ は じめ る。 や が て、 魚 は な くな り、 蛆 虫 だ
け に な る。(中 略)小
さ い のが ち っ ち ゃな の を食 べ る。 中位 の 大 きさ の
が そ の小 さ い の を食 べ る。 大 き い の が 中位 の を食 べ る。 そ れ か ら、 大 き
51
い の が お 互 い 同 志 で 食 べ 合 う。 す る と二 匹、 そ し て一 匹 とな り、 魚 が 一
匹 い た と ころ に今 で は巨 大 な蛆 虫 が 一 匹生 き残 る。 か くし て珍 味 の で き
あ が り」(pp.135-6)。 彼 等 の 人 間 関 係 も これ に類 似 した 喰 い 合 い の世 界
だ 、 と言 うの で あ る。
チ ヤイ ニ ロズ
主 人 公 は 、 こ の 〈喰 う ・喰 わ れ る〉 とい う人 間 関係 を 中 国人 の 珍 味 に
そ の 類 比 を求 め た と ころ か ら、 世 界 の イ メー ジ に連 想 が 飛 ぶ 。 それ が 、
箱 の 蓋 を 開 けた ら中 に また 同 じ よ うな箱 が 入 っ て お り、 そ の箱 を開 け る
と ま た 同 じ よ う な箱 が 入 って い て、 そ の また 箱 を … … と果 て し無 く続 く
と思 わ れ る よ う な入 れ子 構 造 に な っ て い るチ ャ イ ニ ー ズ ・ボ ッ ク ス の構
図 で あ る。 これ が、 彼 の 考 え る喰 い合 い の 世 界 とい う存 在 認 識 に近 しい
図 柄 な の で あ る。
喰 い 合 い の世 界 で あ れ ば、 自分 が絶 えず 食 べ る側 に立 て る とは限 らな
い。 赤 獅 子 亭 で レ ッ ド ・ロ ブ ス タ ー を珍 味 と して 舌 鼓 を鳴 ら し て ば か り
は い られ な い。 自分 も こ の ロ ブ ス ター と同 じ立 場 に立 た され る運 命 に あ
る か も知 れ な い 。 喰 わ れ る側 に移 行 す る か も知 れ な い。
こ う した 予
感 とチ ャ イ ニ ー ズ ・ボ ック ス の形 態 が 包 摂 す るイ メ ー ジ とか ら、 主人 公
は地 下 室 や棺 を想 い 浮 べ る。 そ れ は、 子 供 時代 に体 験 した 暗 闇 ・死 の 世
界 に対 す る 抜 き難 い 恐 怖 に根 差 した もの で あ った 。「あ り と あ らゆ る もの
が 夜 の世 界 、 善 以 外 の もの な ら何 で も起 り う る別 の 世 界 。(中 略)精
神
が 肉 体 か ら離 れ て 歩 い て行 き(中 略)地 下 室 の 壁 の と こ ろで 、 棺 の 四 隅
が 朽 ち て粉 々 に な って い る処 へ と通 じ て い る 恐 ろ し い 階段 を下 りて行 っ
た 」(p.138)。 この 夢 想 体 験 が頭 を過 ぎ る よ うに な って 、主 人 公 は 眠 れ な
くな っ た の で あ る。
こ の死 の 恐 怖 感 を払 拭 す るた めの 努 力 が 、 何 か を考 え る こ と、 喋 べ る
こ と、 口 を 動 か す こ とで あ る。 そ こか ら歯 の痛 み を思 い、 聞 き手 の な い
自分 の語 り掛 けの む な し さを思 い 、 自身 の存 在 場 所 の 形 状 を見 る。 岩 礁
は 歯 型 に類 似 して い る な、 と思 うの で あ る。 こ う して 、 過 去 と現 在 が 一
つ に な っ て未 来 を出 現 させ る。 過 去 の 想 い 出 が フ ラ ッシ ュバ ッ ク して 、
現 状 と一 致 した とき、 な い しは、 現状 認 識 が 過 去 の 出 来 事 と呼 応 した と
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き、 「未 来 が 主 人 公 の 意 識 を疼 か せ る」の で あ る。 こ こで の作 者 の 描 写 技
術 は、 〈意 識 の流 れ 〉の技 法 に近 い。 主 人 公 の意 識 が 混 濁 しは じ め た章 の
冒 頭 は、 次 の よ う に書 か れ て い る。
「狂 っ て い る」 と口 が 言 っ た 。
「全 く狂 っ て い る
。 何 で も み な 説 明 が つ く。 ロ ブ ス タ ー で も蛆 虫 で も
… … 」(p.190)。 食 べ る こ と、 喋 べ る こ との 存 在 を窮 め た と き、 主 人 公 は
口 と化 し た の で あ る。
この 口 の紡 ぎ 出 す 言 葉 の 糸 は、 一 層 断 片 的 に な った 過 去 の 出 来 事 の 反
芻 と、 そ の結 果 、 現 状 を 招 き寄 せ て し ま った 苦 い想 い、 捨 て切 れ ぬ生 へ
の貧 欲 な執 着 心 、 死 へ の不 安 な想 い 出 と現 実 の 死 の 予 感 、 幻 覚 な どが 錯
綜 した もの で あ る。 語 られ る 口調 は、 役 者 で あ っ た 男 の 口 を通 して で あ
り、 語 られ る世 界 は 、 劇 作 家 で も あ っ た者 の 意 識 を通 過 す る 言葉 を以 っ
て 創 造 され た もの で あ っ た の だ 。 だ か ら彼 は 、 過 去 の 現 実 世 界 で は寓 意
劇 で 〈貪 欲 〉 の役 が 嵌 り役 で あ った に しろ 、 プ ロ メ テ ウス の苦 悶 ぶ りを
嘯 い た り、 リヤ 王 の狂 気 を演 じ よ う とす る の で あ る し、 また 、 創 世 記 の
作 者 よ ろ し く、しか し そ の 内 容 を逆 転 させ て 、「六 日 目 に彼 が 神 を作 っ た 」
(p.196)と
倒 錯 し た世 界 を作 り出 し も した の で あ る。 主 人 公 の 口 を通 し
て 語 られ る事 柄 、 彼 の 意 識 に展 開 され る世 界 は、 彼 の現 在 で あ り、 過 去
で あ り、 未 来 で あ っ た の だ 。
人 間 は 自分 自身 の 思 い 描 く世 界 に住 ん で い る。 そ れ ぞれ の神 や 天 国、
あ る い は 煉 獄 や 地 獄 を見 る。そ の 実 体 は、自 分 の 脳 裏 に浮 か ぶ イ メ ー ジ、
自分 の 口 を通 して語 られ る 言 葉 、 自分 の もの の 考 え 方 や 思 想 に相 応 し た
も の で あ る の だ 。 しか し、 た とえ ば、 古 代 の 部 族 社 会 、 な い しは 中世 キ
リ ス ト教 の神 概 念 な ど、そ れ ぞれ の思 想 の 滲 透 して い た 圏 内 に あ って は、
一 元 的 に秩 序 立 った 思 想 統 一 が な され て もい た で あ ろ うが
、 そ う した世
界 認 識 が 崩 壊 して 久 しい 現 代 に住 む わ れ わ れ に と っ て は、 こ う し た考 え
方 は 、 一 種 の宿 命 で あ る 、 と言 え よ う。
旧約 聖 書 中 の ノア や ヨナ の とき の よ うに 、神 が 話 し掛 け るの で は な く、
こ の作 品 で は、主 人 公 が 神 を作 り、「お れ 自身 の 用 語 以 外 の もの を用 い る
こ とを許 さな い 」(p.196)と 彼 は神 に命 ず る の で あ る。 した が っ て、 「な
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ぜ あ な た は お れ を責 め 苛 む の か。 お れ が あ い つ らを喰 い物 に し た とい う
の な ら、 お れ に 口 を 与 え た の は誰 な の だ 。」 と尋 ね て も、 「お 前 の用 語 に
は そ の 答 えが な い 」(p.197)と 神 は 答 え るだ け で あ る。 なぜ な ら、 主人 公
は 、 自己 省 察 の 余 裕 と自 己変 革 の意 志 と を 自 ら放 棄 して し ま うか らで あ
る。
「よ くよ く考 え て きた 。 今 の ま まの 方 が い い 。 苦 痛 で あ れ 何 で
あ れ 」(p.197)。 主人 公 は、 キ ル ケ ゴ ー ル の 言 う 「絶 望 し て な お 自分 自身
で あ ろ う とす る」 「
死 に至 る病 」に犯 され て い た の で あ る14)。つ い に彼 に
は光 明 が訪 つ れ る こ とは な い 。 や が て 、 「口が な くな っ た 」(p.200)の で
あ る。
口 が な くな る、 とい う こ と は言 葉 が な くな る こ とに通 じ、「無 時 間 の 慈
悲 の な い 」(p.201)世
界 へ 入 る こ とを意 味 す る。 それ は、 主 人 公 が 子 供
時 代 か ら あれ 程 に も恐 れ た無 明 の 闇 の 世 界 へ と下 っ て行 くこ と、 で あ っ
た の だ 。 なぜ な ら、 時 間 も神(=慈
悲 ・光)も
共 に言 葉 に よ って 紛 ぎ 出
さ れ る もの、 だ か らで あ る。 ま さ に 『ヨハ ネ福 音 書 』 の 告 げ る 「言 葉 は
神 な り き」で あ るの だ 。 が しか し、 「太 初 に言 葉 あ りき」の 意 味 は、 この
作 品 と福 音 書 の 伝 え る 内 容 とで は 著 し く異 な って い る の は 明 らか で あ
る。 この作 品 で は主 人 公 は 、 当 初 か ら白 と黒 の 絵 模 様 が 織 りな す、 明 と
暗 の 薄 明 の世 界 を さ迷 っ て い た の で あ る(p.24)。 そ の 彼 が 、 福 音 書 の 光
の 世 界 で は な く、 決 定 的 に暗 黒 の世 界 へ 入 る こ とに な る。 か く して 、 エ
リオ ッ トが 正 し く指 摘 した よ う に、主 人 公 の 「未 来 の 時 は また 過 去 の 時
の 中 に含 ま れ て い 」 た の で あ る。
4
『ピ ン チ ャー ・マ ー テ ィ ン』 は、 主 人 公 ク リス トフ ァー ・マ ー テ ィ ンの
視 点 に 密 着 し、 大 部 分 が 彼 の 意 識 世 界 で構 成 さ れ て い るの で あ るが 、 そ
れ が 全 て で あ る訳 で は な い 。 最 後 に、 主 人 公 の後 日談 とで も言 うべ き比
較 的 短 い 一 章 が 付 加 さ れ て い て 、 そ れ で作 品 全 体 が 終 了 す る仕 組 に な っ
て い る。 この 最 終 章 が 、 読 者 の 現 実 世 界 と主 人 公 の世 界 との 間 隙 を埋 め
54
る橋 渡 しの 役 目 を果 して い る の で あ るが 、 あ ま りに巧 妙 な仕 掛 けが あ る
た め、 この 最 終 章 を巡 って 、 作 品 が公 表 さ れ て か ら久 し く論 議 が 盛 ん に
な っ た時 期 が あ っ た。
最 終 章 は 〈作 者 全 知 〉の描 写 方 法 で 、 英 国 海 軍 士 官 の デ ヴ ィ ド ソ ンが 、
ヘ ブ リデ ス 諸 島 の一 小 島 を訪 れ 、 そ こ に住 む ス コ ッ トラ ン ド人 の キ ャ ン
ベ ル 氏 との 会話 を 中心 に 、 話 が 展 開 さ れ る。 キ ャ ンベ ル 氏 は こ こ に毎 日
の よ うに漂 着 す る遺 体 を発 見 して は、 英 国 本 土 に 無 線 で 連 絡 を と る役 目
を して い る 。一 方 の デ ヴ ィ ドソ ン は、 そ う した遺 体 収 集 作 業 に明 け暮 れ
る毎 日 を送 って い る。 この 日、 彼 が や って き て確 認 した 士 官 の亡 骸 の 首
に 掛 った 認 識 票 か ら、これ が マ ー テ ィ ン の屍 体 で あ り、「この 男 は ゴ ム 長
靴 を脱 ぎ捨 て る 時 間 さ え な か っ た 」(p.208)こ とが 読 者 に伝 達 さ れ る15)。
こ こか ら、 マー テ ィ ン は海 に投 げ 出 さ れ て 間 もな く、 溺 死 した の で あ る
こ とが判 明 す る訳 で あ る。
す る と、 それ 以 前 に呈 示 さ れ て い た 作 品 世 界 とは、 一 体 何 で あ っ た の
か 。 主人 公 が 死 ぬ まで の ほ ん の数 秒 間 の 意 識 を ドラ マ化 した もの で あ る
の か、そ れ と も、死 ん で 冥 界 を さ迷 う魂 の 有 様 を描 い た もの で あ る の か 。
こ の点 が 、 作 品 の 発 表 され た 当初 、 物 議 を か も した 問 題 点 で あ った 。 こ
の作 品 に対 し、 や や 批 判 的 な 見 方 を と る者 は、 前 者 の解 釈 に組 す る者 が
多 く、 逆 に、 高 い 評 価 を付 与 す る者 は、 後 者 の観 点 か ら作 品 を解 読 す る
傾 向 が あ る。 そ う して 、 時 間 の経 過 と共 に 作 品 の位 置 づ けが 定 着 す る に
つ れ て 、 前 者 の見 解 か ら後 者 の そ れ へ と移 行 して来 て い る よ う で あ る。
例 え ば 、V・S・ プ リッチ ェ トは ゴー ル デ ィ ン グ の もの の 「動 き方 や 変
化 す る様 を とら え る描 写 力 」 を高 く評 価 しな が ら も 「水 夫 の 混 沌 と した
記 憶 世 界 へ誘 う と きに は 成 功 し て い な い」 と述 べ て い る16)。ま た、F・ カ
ー ル も生 き生 と し た描 写 力 に も拘 らず
、作 者 が 主 人 公 の 生 の本 能 を強 調
す る余 り「作 品 を平 板 な も の に して し ま っ て い る」と指 摘 し て い る17)。K・
レ クス ロ ス は 「使 い古 した仕 掛 け につ き合 っ て185頁
も読 まな け れ ば な
らな い こ とに異 議 を唱 え るJと 言 い 放 っ て い る18)。
また も う一 方 で は、 当初 か ら、F・ カ ー モ ー ドや ジ ョ ン ・ピー タ ー が こ
55
の作 品 を 「寓 話 」 と捉 え る観 点 か ら高 く評 価 し19)、S・ハ イ ン ズ2°)やJ・
ベ イ カ ー21)な ど は、 最 終 章 か ら作 品 の 冒頭 へ 帰 っ て再 読 し 「再 解 釈 」 を
施 こす 必 要 性 を 唱 えて い る。
作 品 が 発 表 さ れ て か ら十 年 を経 過 し て も、P・エ ル マ ン は最 終 章 を巡 っ
て幾 つ か の解 釈 を比 較 考 証 して 、そ の 当否 を検 討 して い る22)。(1)ゴ
ールデ
ィ ン グ が最 初 に長 靴 を主 人 公 に脱 が せ て い た の を最 後 に忘 れ て し ま って
い た とい う説 。(2)作者 は 意 図 的 に曖 昧 な ま ま に放 置 して い る の だ とす る
説 。(3)アメ リカ版 の表 題 『ピ ン チ ャ ー ・マ ー テ ィ ンの 二 度 の死 』 の よ う
に、 主 人 公 は 冒頭 で死 に、 そ の死 者 に つ い て 語 られ た の が この作 品 で は
あ る が 、「精 神 が夢 の よ う な状 態 を さ迷 い、超 現 実 的 で 夢 魔 の特 質 を備 え
た 」 存 在 の 中で 「六 日後 に二 度 目 の死 を経 験 す る」 世 界 を扱 った 作 品 だ
とす る説 。(4)1957年 にW・ ヤ ン グ が提 唱 した 「ピ ンチ ャー の煉 獄 」を扱
っ た もの だ とす る説 。(5)C・ウ ィ リア ム ズが 述 べ た 「海 底 の地 獄 」を扱 っ
た もの だ とす る説 。
これ らい つ れ もが 多 少 の 妥 当性 が あ り、 そ れ ぞ
れ に欠 点 を も備 え て お り、 そ の い つ れ か 一 つ の 説 で決 定 的 な解 釈 だ とす
るの に は難 が あ る こ とを 指 摘 し、最 後 に、 ゴ ー ル デ ィ ング が 、1958年 に
こ の作 品 がBBCで
ドラマ 化 さ れ て放 送 され た と き に述 べ た 説 明 を紹 介
し て 、 その 解 説 を通 して 、 エ ル マ ンは 自分 の 立 場 表 明 と して い る。 そ れ
は 「ピ ン チ ャー は 明 らか に地 獄 に い る。 『ピ ン チ ャー ・マ ー テ ィ ン』 は ピ
ンチ ャー の死 後 の経 験 全 体 を扱 っ た もめ だ 」 とす る見 解 で あ る23)。
ク リス トフ ァー 、 この 神 を担 う もの が ピ ンチ ャー ・マ ー テ ィ ン に な
っ た の で あ る。 彼 は貪 欲 以 外 の 何 者 で もな い 。 ピ ンチ ャー にな る こ
とは まさ し く煉 獄 で あ る。 永遠 に ピ ン チ ャー に な る こ とは地 獄 で あ
る24)。
と ゴ ー ル デ ィ ン グ は言 う。 これ を受 けて,す な わ ち この作 品 は、厂ピ ンチ
ャー が人 間 宇 宙 の 論 理 を不 条 理 の 極 限 に まで追 求 した 」 もの で あ る、 と
言 う の が エ ル マ ン の結 論 で あ る。
56
また 、 最 近 、J・ ギ ンデ ィ ン とB・F・
デ ィ ッ ク と は、 共 に ゴ ー ル デ ィ
ング 論 の新 訂版 を刊 行 し、 マ ー テ ィ ン論 を そ れ ぞ れ 再 説 し、 以 前 に述 べ
た 自説 を変 更 した り、 修 正 を加 え た りして い る。 ギ ン デ ィ ン は 「作 品 の
大 半 は末 期 の ひ との 観 点 か ら語 られ た もの25)」
だ とい う前 説 を捨 て て、主
人 公 は 当初 か ら死 んで い て、 この 作 品 は 「生 存 の苦 闘 を直 線 的 に述 べ た
もの で は な い26)」と指 摘 して い る。 一 方 、 デ ィ ック の 方 は 「作 品 の 主 要 部
分 は主 人 公 が経 験 す る死 後 の世 界 を扱 っ た もの で あ る27)」とい う説 を は
じ め か ら支 持 して い た もの の、 そ の 解 説 に ダ ン テ の煉 獄 と ゴ ー ル デ ィ ン
グ の そ れ との相 違 の 説 明 を追 加 して い る。「ダ ン テ の煉 獄 は島 に位 置 した
山 で あ る」の に対 し、 「ゴー ル デ ィ ン グ の煉 獄 は地 獄 に 向 か う休 止 点 で あ
る28)」と。 これ も作 者 の 言 説 を考 慮 に入 れ た 見 解 で あ る 。
と こ ろで 、 この デ ィ ッ ク は最 初 の解 説 書 の 中 で 、 この作 品 の構 造 を三
部 編 成 で あ る と分 析 して い る。-A溺
9-201)。C溺
れ て い る る聞(p.7-8)。B煉
死 の結 末(第14章pp.202-8)29)。
獄(pp.
そ して 、 現 在 で は、 作 品
の構 造 を考 え る場 合 、 これ が ほ ぼ 定 説 と な っ て い る 。 し た が っ て、 ピ ン
チ ャー の 現 在 は先 に タ イ ガ ー 女 史 に よ り、 「み せ か け の 『現 在 』」 と呼 ば
れ た の で あ る。 また 、 解 釈 上 、 力 点 の 置 き方 に そ れ ぞ れ ニ ユ ア ン スが あ
る もの の 、 主 人 公 の 扱 い に関 して は、 作 者 の 自作 解 説 に 敬 意 を払 っ た形
で 、 これ は、 主 人 公 の 死 後 の世 界 の 葛 藤 を 扱 った 作 品 で あ る、 とす る の
が 大 勢 で あ る。 そ う した 中 で 、 最 終 章 の 位 置 付 けで 一 際 異 彩 を放 つ解 釈
を施 こ して い るの は、H・S・
パ ブで あ る。
パ ブ の考 え方 は こ うで あ る。「最 終 章 の 様 式 は基 本 的 に は 寓 話 的 な もの
で あ り、 ゴ ー ル デ ィ ン グ の結 論 の 要 点 は 、 キ ャ ンベ ル氏 が 裸 の 島 で 死 者
を前 に した と きに 、 マ ー テ ィ ン と は どれ ほ ど異 な っ た型 の 人 間 で あ る か
を示 す こ とで あ り」、 一 方 、 「デ ヴ ィ ドソ ン は、 海 軍 士 官 で あ る ば か りで
な く死 に神 で も あ る3°)」
と考 え られ る と し て、そ の 前 提 に立 っ て詳 細 な 分
祈 を加 え る 。 結 局 、 キ ャ ンベ ル は、 死 に神 を 前 に した と き傲 岸 不 遜 な マ
ー テ ィ ン とは 異 な り
、厂死 に対 す る問 い掛 け に何 の答 え も持 た な い万 人 の
役 割 を果 して い て 、物 語 の読 者 の 立 場 を象 徴 して い る。これ は 、『蠅 の 王 』
57
の 海 軍 士官 や 『後 継 者 た ち』 の チ ュ ア ミの よ うな 役 割 を担 った 一 つ の 手
段 と して機 能 し、 これ に よっ て ゴー ル デ ィ ング は、 先 行 す る話 とそ の 問
題 点 と を も っ と直 截 に読 者 と関 連 づ け て い るの で あ る31)」と。 この 説 は、
V・ タ イ ガ ー 女 史 の よ う な一 部 の 例 外 を別 に す れ ぼ、一 般 に は あ ま り注 目
され て い な い よ うで あ る が 、 主 人 公 の意 識 世 界 に ば か り着 目 す る だ けで
な く、 作 品 全 体 の 結 構 を 充 分 考 慮 に入 れ るな ら ば、 も っ と傾 聴 さ れ て し
か る べ き解 釈 で あ る と思 わ れ る。
5
この 作 品 は、 誠 に知 識 豊 か な ゴ ー ル デ ィ ン グ に よ って 書 か れ た もの だ
けあ っ て、 古 今 の 文 学 作 品 が 縦 横 に採 り入 れ られ て お り、 しか も、 そ の
導 入 方 法 も、 単 に知 識 をひ け らか す とい う軽 薄 な もの で は な く、 作 品 効
果 を高 め る た め の 入 念 な 工 夫 が 施 こ され た もの で あ る。 作 家 の修 業 時 代
に ゴー ル デ ィ ン グが 滋 養 を求 め る対 象 とした と言 うギ リシ ャ悲劇 の 由 来
や プ ロ メ テ ウス とい う人 物 の借 用 に は じ ま り、 主 人 公 の 甲殻 動物 に比 せ
られ る手 法 はオ ヴ ィデ ィ ウ ス の 『
転 身 物 語 』 か ら ヒ ン トを得 て い る と も
言 え る し、 部 分 的 に創 世 紀 をパ ロデ ィ化 した もの だ とす る見 方 もで き る
し、 ダ ンテ や ミル トンの 世 界 か ら素 材 を得 て い る と も考 え られ る し、 ま
た、 作 者 自身 の 演 劇 活 動 の体 験 を踏 ま えた シ ェイ ク ス ピ ア の 『リヤ 王 』
のパ ロ デ ィ化 も指 摘 し得 る。 フ ロ イ ト的 ア レ ゴ リー とし て 主人 公 はイ ド
を体 現 す る もの だ とい う解 釈 もあ る し、 ヘ ミ ング ウ ェ イ や コ ンラ ッ ドの
小 説 作 品 にい くつ か の類 似 性 が 求 め られ る、 との考 察 も あ る。
この作 品 が 主 人 公 の死 の 瞬 間 を扱 った もの だ 、 とい う解 釈 が流 布 して
い た頃 に は 、A・ ビ ア ス の短 篇 小 説 「ア ウ ル川 橋 の 事 件 」 との構 想 上 の 類
似 点 に着 目 し、 先 に 引用 したK・
レク ス ロス の よ うな 批 判 が 出 さ れ る こ
と も あ っ た が 、 最 近 で は さす が に そ の よ うな 言 及 も され な くな っ た 。
こ う した指 摘 の ほ とん ど は、 オ ー ル ドセ イ とワ イ ン トラ ウ ブ の 『ウ ィ
リア ム ・ゴー ル デ ィ ン グ の技 法 』の 中 で 開 陳 され て い る32)。そ う した 素 材
58
の比 較 考 量 に接 して 受 け る印 象 は、 ゴ ー ル デ ィ ング が その よ うな 素 材 を
利 用 し て い る の は 、 読 者 の単 な る啓 蒙 を 目的 と した もの で は な く、 パ ロ
デ ィ化 と も言 え る作 者 独 自の 異 化 効 果 を狙 った もの で あ る、 とい う こ と
で あ る。
そ の 点 で 最 後 に触 れ て お か な けれ ば な らな い の は、 この 二 人 の 研 究 書
の 中 で も言 及 さ れ て い る この作 品 の 表 題 の起 源 と もな っ たH・P・ ドー リ
ン グ の 小 説 『ピ ンチ ャー ・マ ー テ ィ ンニ 等 水 兵 』(PincherMartin
1916)と の 関 係 で あ る。 これ は、 タ フ レ イ ル(Taffrail)と
,O.D.,
い う筆 名 で発
表 さ れ た も ので は あ るが 、 以 後 、 英 国 海 軍 に マ ー テ ィ ン とい う姓 を有 す
る者 は全 て ピ ン チ ャ ー の 諢 名 を付 け られ る原 因 とも な っ た、 と言 わ れ る
位 に人 口 に膾 炙 し た作 品 の よ うで あ る。
ゴ ー ル デ ィ ン グ は、J・
バ イ ル ズ との 対 話 の 中 で タ フ レイ ル の 作 品 を「実
際 に読 ん だ こ と は あ る が 、 思 い 出 す こ とが で き るの は、 た だ、 相 当 つ ま
らな い 水 兵 の こ と を扱 っ た 一 連 の 物 語 だ とい う位 の 事 で あ る33)」と述 べ
て い る。 しか し、 に も拘 らず 、 両 作 品 の比 較 考 証 を試 み た1・ブ レ イ クの
説 に よ る と、 作 品 の 設 定 や 事 件 な どで単 な る記 憶 に 残 って い る とい う以
上 に、 類 似 点 が 多 く見 られ る との こ とで あ る。 オ ー ル ドセ イ ら も この ブ
レイ クの 研 究 成 果 か ら類 似 した 描 写 を引 用 して い る し、 タ イ ガ ー 女 史 も
ブ レイ クの この 説 明 に言 及 し、 タ フ レ イル の作 品 とゴ ー ル デ ィ ン グ の作
品 との大 きな類 似 点 と相 違 点 とを紹 介 して い る34)。
それ は、魚 雷 攻 撃 を受
け て主 人 公 が海 に転 落 した と きの長 靴 の 扱 い方 の類 似 と、 主 人 公 が 創 造
主 の 下 す 己 が運 命 に従 順 で あ るか 否 か 、とい う相 違 点 とで あ る。さ らに 、
坂 本 公 延 氏 は、 この ブ レイ ク説 を紹 介 す る と共 に タ フ レ イル の作 品 に実
際 に当 っ て、 ゴ ー ル デ ィ ング の作 品 との異 同 を詳 細 に説 明 し て か ら、 最
後 に、「ゴー ル デ ィ ング が マ ー テ ィ ン を創 造 す る こ とで 自我 の 鎧 を つ け た
神 不 在 の 現 代人 を描 い た と考 え、 彼 が 二 つ の死 を通 過 す る こ とに よ っ て
我 々 の存 在 の贖 い を した とす れ ば、 ク リス トフ ァー つ ま り 『キ リス トを
ママ
荷 う もの』 と して の 意 味 が 明 らか に な って くる」 と述 べ 、 「肉体 の 死 と魂
の 死 とい う二 つ の死 を く ぐ らね ば な らな 」い現 代 人 の宿 命 を描 い て い る、
59
と 指 摘 し て い る35)。
ゴ ー ル デ ィ ン グ は そ れ に し て も 、 『蠅 の 王 』 に 対 す る 『珊 瑚 島 』、 『後 継
者 た ち 』 に 対 す るH.G.ウ
タ フ レ イ)レ の
ェ ル ズ の
『ピ ン チ ャ ー
「怪 物 た ち 」 と 同 様 、 こ の 三 作 目 で も
・マ ー テ ィ ン ニ 等 水 兵 』 の 翻 案 化 を 計 る こ と
で 、 独 特 の異 化 効 果 を企 画 し、 作 品 の 緊 密 度 を高 め て い る巧 妙 な手 腕 の
持 主 で あ る。
本 稿 を書
くの に 用 い た テ キ ス ト は 以 下 の も の で あ る 。
WilliamGolding,PincherMartin(London:Faber&Faber,1956.:/
1974)
な お 、 こ の テ キ ス トか ら の 引 用 箇 処 は 本 文 中 に 略 記 し て あ る 。
註
1)M.Kinkead-Weeks&1.Gregor,WilliamGolding:ACriticalStudy(London:Faber&Faber,1975),p.156.
2)ArnoldJohnston,OfEarthandDarkness:TheNovelsofWilliamGolding
(Columbia:UniversityofMissouriPress,1980),p.38.
3)EM.Forster,AspectsoftheNovel(PenguinBooks,1927/1968),p。70.い
る フ ォ ー ス タ ー の`roundcharacters'と
わゆ
い う こ と で あ る 。 し か し 、T.Dewsnapは
この 作 品 内 の 他 の 人 物 は 「寓 話 的 性 格 か ら 人 物 の 丸 味 に極 端 な 制 限 が 課 せ られ て
い る 」と指 摘 し て い る。T.Dewsnap,Golding'sPincherMartin(N.Y.:Monarch
Press,Inc.,1966),p.14.
4)B.F.Dickは
マ ー テ ィ ン が 演 じた 役 割 を 五 つ ほ ど列 記 し、 これ が 主 人 公 の
「人 格
を 映 す 鏡 とな っ て い る」し 、 貪 欲 の 特 性 を示 して い る 、 と述 べ て い る 。
B.F.Dick,WilliamGolding(Boston:TwaynePublishers,1967),pp.51-2.
5)B.S.Oldsey&S.Weintraub,TheArtofWilliamGolding(N.Y.:Harcourt,
Brace&World,Inc.,1965),p.80.
6)Dewsnapは
「ゴ ー ル デ ィ ン グ の 作 品 に は 人 間 の 運 命 を 左 右 す る 精 神 的 な 力 を 喚
起 す る 要 素 が あ り、 こ れ は 絶 え ず 論 議 を呼 ぶ こ と に な ろ う 」 と述 べ て 、 主 人 公 が
ナ ッ トを 殺 そ う と し た 瞬 間 に 船 が 水 没 す る と い う事 件 に 言 及 し て い る 。T.Dew・
snap,op.cit.,p.44.
7)V.Tiger,WilliamGolding:TheDarkFieldsofDiscovery(London:Marion
Boyars,1974),p.105.
8)S.Hynes,WilliamGolding(N.Y.:ColumbiaU.P.,1964),p.27か
60
らの 引用 。
9)L.Hodson,WilliamGolding(N
.Y.:CapricornBooks,-1971),p.71.
10)V.Tiger,op.cit.,p.113.
11)B.S.Oldsey&S.Weintraub,op.cit.,p
.78.
12)T,S.Eliot,FourQuartets(London:Faber&Faber
,1944/1970),p.13.
13)F.Kermode,`TheNovelsofWilliamGolding'inWilliamGolding'sLordof
theFlies:ASourceBookeditedbyW
Inc.,1963),p.117.以
後
.Nelson,(N.Y.:TheOdysseyPress,
この 本 に 収 め ら れ て い る 文 章 を 引 用 す る場 合 は
、SBと
略
記 す る 。
14)キ
エ ル ケ ゴ ー ル(斉
15)と
こ ろ が 本 文 の 最 初 の 方 で は 、 主 人 公 が こ の 長 靴 を 脱 い だ こ とが 何 度
藤 信 治 訳)『
死 に 至 る 病 』(岩
波 文 庫 、1970年)18頁
。
と な く言 及
さ れ 、 そ れ が 余 計 に 読 者 を混 乱 さ せ る原 因 と な っ て い る こ と は 確 で あ る
16)V.S.Pritchet,`SecretParables'inS.B,p
。
.38.
17)F.Karl,TheContemporaryEnglishNovel(N
.Y.:TheNoondayPress,1962/
1970),p.258.
18)B.S.01dsey&S.Weintraub,op.厩'.,p.78か
ら の 引 用 。
19)J.Peter,`TheFablesofWilliamGolding'inSB
.,p.31.
20)S.Hynes,op.cit.,p.26.
21)J.R.Baker,WilliamGolding:ACriticalStudy(N
.Y.:St.Martin'sPress,
1965),p.34.
22)P.Elmen,WilliamGolding:ACriticalEssay(USA:W
.B.EerdmansPub-
lishingCo.,1967),p.27.
23)ibid.,p.28.
24)ibid.,p.29.
25)J.Gindin,"`Gimmick"andMetaphorintheNovelsofWilliamGolding'in
SB,p.135.
26)J.Gindin,WilliamGolding(London:MacMillan
27)B.F.Dick,op.cit.,p.50
,1988),p.38.
.
28)B.F.Dick,WilliamGolding(Boston:TwaynePublishers
,1987),p.55.
29)B.F.Dick,op.cit.,pp.50-51.
30)H.S.Babb,TheNovelsofWilliamGolding(TheOhioStateU
31)ibid.,p.91.な
.P.,1970),p.88.
お 、 パ ブ の よ う に キ ャ ン ベ ル 氏 を 寓 話 的 人 物
の の 、 この 最 終 章 は 、 ゴ ー ル デ ィ ン グ の 最 初 の 二 作
と は 指 摘 し て い な い も
と同 じ よ う に
、 そ れ ぞ れ 読 者
と 作 品 と を 結 ぶ 役 割 を 果 す も の で あ る 、 と ベ イ カ ー は す で に 指 摘 し て い る 。J .R
Baker,op.cit.,p.34.
32)B.S.Oldsey&S.Weintraub,op
.cit.,pp.75-100.
33)J.1.Biles,Talk:ConversationswithWilliamGolding(N
.Y.:HarcourtBrace
Jovanovich,Inc.,1970),p.72.
61
34)V.Tiger,op.cit.,pp.107-8.
35)坂
本公延
年)81頁
『
現 代 の黙 示録 一
ウ ィ リ ア ム ・ゴ ー ル デ ィ ン グ 』(東 京 ・研 究 社 ・1983
。
62
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