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当日配布資料 - NPO法人インテリジェンス研究所
NPO 法人インテリジェンス研究所第 17 回諜報研究会(2016 年 12 月 10 日、会場:早稲田 大学 3 号館) 内閣調査室の核保有研究――その背景と意味を巡る一考察(1952~1970) 岸俊光(早稲田大学アジア太平洋研究科博士後期課程、毎日新聞記者) 問題意識 ・中国初の核実験後に佐藤栄作内閣の下で内閣調査室(現・内閣情報調査室)が行った核 開発研究に焦点を当て、その意図や政権との関係を明らかにする。 ・内閣調査室(以下、内調)が、長年支援する知識人グループに、日本の核武装の可能性 を委嘱した資料を用い、非核三原則や核不拡散防止条約(Nuclear Non-Proliferation Treaty : NPT)など、佐藤政権期の核政策との関連性を考察する。 ・内調が一連の核研究の推進母体となった理由について、日本独立直後の内調発足の経緯 などを踏まえ検討する。 ・日本の核政策構想史の研究と内調の組織研究を融合し、内調が核保有研究を行った背景 と意味を考察する。 先行研究 <核政策構想史> ・佐藤政権の下で行われた核研究に、内調の核政策研究、外務省の外交政策企画委員会の 議論、私的研究グループ「安全保障調査会」の研究がある。新聞報道などにより知られる ようになったが、学術研究はまだ少数にとどまる。 ・一方、近年充実してきたのが沖縄返還交渉に深く関わった国際政治学者、若泉敬の研究 である。佐藤政権期の日米核「密約」や繊維交渉を取り上げた論考が多いが、非核政策と の関わりにはあまり論及されていない。 ・内調が 1968 年と 1970 年に実施した核開発研究は国内外で検討されつつある。しかし、 内調が研究を行った背景や意味についてまでは深められていない。 ・民主党政権下の 2010 年 3 月に外務省の「いわゆる『密約』問題に関する有識者委員会」 が事実上「密約」の存在を認める報告書を提出し、その後の外交文書公開により沖縄返還 交渉の研究が進んだ。だが、佐藤政権期の非核政策研究はなお途上にある。 <内調組織> ・内調は内閣情報調査室に組織変更された現在まで組織の公式記録を残したことがなく、 業務内容も簡単なものしか公表していない。そうした中で、政府の情報機関構想を含めた 内調創設当時の分析や先行研究は概ね、①同時代の新聞記事、②ジャーナリストや作家の 手になる内部資料に基づく雑誌記事や書籍、③米公文書に基づく研究者の論文、④元内調 幹部の証言や内部資料――に分けられる。 ・米議会が 1998 年に制定したナチ戦争犯罪情報公開法(Nazi War Crimes Disclosure Act) に 基づき公開された米国立公文書館所蔵の CIA 文書を利用して、山本武利、加藤哲郎、吉田 則昭の研究グループや有馬哲夫らが内調創設時の研究を発展させた。 1 Ⅰ.中国核実験後の非核政策構想 1. 内調による核研究の特徴 (1)沖縄返還交渉において佐藤首相の密使を務めた若泉敬らのキーパーソンが関係者に名 を連ねている。 (2)1964(昭和 39)年 10 月 16 日の中国核実験直後に簡易な報告書が作られ、時間をおい て 1968 年と 1970 年の 2 回にわたり、製造、運搬、組織、財政、戦略、外交・政治という 広範な観点から論じられている。 (3)核政策研究についての内調報告書に加え、『佐藤榮作日記』(佐藤の日記) 、『楠田實日 記』 (首席秘書官の日記) 、 『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』 (沖縄返還交渉において佐藤の 密使を務めた若泉の著書、以下『他策』 )などの当事者による貴重な記録を利用できる。 2. 核実験直後の「若泉」報告書 (1)中国核実験から 1 カ月半後の 1964 年 12 月 2 日、内調が委託する社団法人・国際情勢 研究会が「中共の核実験と日本の安全保障 わが国のとるべき基本政策の方向について」 と題する報告書を内調に提出。 (2)内調元幹部職員によると、執筆者の氏名は明記されていないが、防衛庁防衛研修所に 勤務する若泉敬である。経済第一主義の戦後日本の風潮に対する疑問など、後年『他策』 において物質金銭万能主義を「愚者の楽園」と断じた姿を思い起こさせる記述も。 (3)内調と若泉の関係は東大在学時にさかのぼる。内調の準職員のような存在で、盛んに 行き来していた。ただ、本人は何もそのことに言及していない。 (4)日本は核武装しない国是を貫きながら、いつでもやれる潜在的能力、すなわち必要な 科学・技術水準や工業基盤などの国力を中国より高いレベルに引き上げるよう主張した。 (5)報告書の表紙にマル秘の印。国際情勢研究会の名称で約 200 部が印刷され、首相官邸 などに配布されたという。 3. 若泉の 1966 年論文と 67 年論文 (1) 「中国の核武装と日本の安全保障」を『中央公論』1966 年 2 月号に発表。原子力及び ロケットの平和利用のための研究開発を進めること、日本は経済・技術・工業等総合的に みて核武装が可能な潜在的能力を有しているが、自らの国策として核武装せずとの方針を 明確に表明することを、重点国策として提言した。 (2) 「核軍縮平和外交の提唱」を『中央公論』1967 年 3 月号に発表。①〝特権階級〟であ る核保有国と〝非特権階級〟である非核保有国の間には、安全保障問題と外交政策遂行に 落差があり、核保有国の中でもずば抜けた力を持つ米ソは共通の利害を自覚しつつある。 ②年間 3 億ドル程度の負担で原爆製造が可能な国は日本や西ドイツなど7カ国ほど。中国 は核独占の打破が核兵器消滅につながると主張する一方、米ソは核拡散を阻止することが すべての国の利益だと訴えている。③核拡散防止条約の成否に有力な発言権を持っている のは技術的に核武装が可能な日本などの潜在核保有国。潜在核保有国グループを結集し、 核軍縮の実現、中仏の軍縮討議への参加、非保有国の安全保障措置を求めていくよう提唱 した。 2 4.若泉作成「核4政策」との関連性 (1)佐藤首相は 1967 年 12 月 11 日の衆議院予算員会で、初めて非核三原則を明言。さら に 68 年 1 月 30 日、佐藤は衆議院本会議で核4政策を打ち出した 。核4政策とは、①非核 三原則を守る、②核兵器の絶滅を念願し、実行可能な核軍縮に力を注ぐ、③通常兵器によ る侵略には自衛力を堅持し、国際的な核の脅威に対するわが国の安全保障は米国の核抑止 力に依存する、④核エネルギーの平和利用を最重点国策とする、という 4 本の柱から成る。 2 つの政策の発表時期は、内調の若泉論文が提出された時期と一致しない。 (2)1967 年 11 月の日米首脳会談前に、若泉は大統領の意向を瀬踏みする佐藤首相の密使 役を務める。 「両三年内」に返還時期を合意するという日本の希望を 11 月 15 日の共同コミ ュニケ に盛り込むことに成功し、若泉の名前は佐藤首相の脳裏に刻まれた。佐藤が非核三 原則を初めて明らかにするのは約 1 カ月後、核4政策の表明はそのさらに 50 日後である。 (3)明治百年にあたる 1968 年 1 月、若泉は第 58 国会の施政方針演説作りを楠田の求めに 応じて行った。若泉はそこで核時代の問題を第一に取り上げることを力説し、楠田が成文 化した。ところがこの演説を受けて、野党が非核三原則の国会決議を求める展開に。沖縄 返還後の基地の「白紙」論を維持していた佐藤首相にとって、非核決議容認は交渉の手を 縛ることになりかねず 、若泉は楠田の相談に応え、核4政策を提案した 。 (4)若泉の核軍縮平和外交は、佐藤首相らとの個人的つながりから核4政策として結実し た。日米安保条約の堅持を前提にアメリカの核抑止力に全面的に依存するという骨格は、 中国核実験直後に書かれた内調の無署名論文に盛り込まれていたと言える。 5. 「カナマロ会」の核政策研究 (1)カナマロ会のメンバーは核化学者の垣花秀武、政治学者の永井陽之助、政治学者の前 田寿、国際政治学者の蠟山道雄の 4 人。永井が中心となり、研究会は内調の外郭団体であ る社団法人・民主主義研究会が主宰した。4 人の頭文字をとって「カナマロ会」と名づけら れた。 (2)永井に白羽の矢を立てた内調幹部は、中国核実験後の報告書を若泉敬に依頼したのと 同一人物。 (3)カナマロ会は、蠟山が調査室長を務めていた国際文化会館を主会場に 1968 年 1 月 30 日から 1969 年 2 月 21 日まで、月に 1 回以上のペースで開かれた。1968 年 7 月 12、13 両日 には、軽井沢で泊りがけの研究会も重ねた。国際政治やロケット工学の専門家らをゲスト に招いた。 (4)1968 年 9 月に「日本の核政策に関する基礎的研究(その一) 」が完成。 「日本の核政策 に関する基礎的研究(その二) 」が 70 年 1 月にまとめられた。「その一」には「独立核戦力 創設の技術的・組織的・財政的可能性」の副題が、 「その二」には「独立核戦力の戦略的・ 外交的・政治的諸問題」の副題が付けられている。垣花が「その一」を、蠟山が「その二」 を執筆した。 (5)日本の核武装の先例となるのはフランス。フランス核武装はヨーロッパにおけるフラ ンスの指導的立場を再確立する政治的意図の方が大きかったと考えられる。フランスの核 の脅威がソ連のみなのに対し、日本はソ連と中国の 2 国であることに留意すべきだ。 (6)日本は技術的、外交的、政治的に核兵器を持つことはできない。だがそれは、日本の 3 安全保障にとってマイナスとはならないだろう。核保有が一時的にナショナリズムを満足 させたとしても効果は長続きせず、より困難な拘束条件を作り出してしまうからだ。 (7) 「日本の核政策の基礎的研究」も 200 部印刷され、楠田秘書官を通じて佐藤首相らに 届けられた。 「基礎的研究」は 2003 年に亡くなった楠田の資料の中から見つかった。 6.永井の 1966 年論文と蠟山晩年の証言 (1)2000 年に蠟山が研究の背景について証言。1968 年に日本が初めて貿易黒字に転じる 中で、核武装した場合の世界の反応を内調は知りたかったのだろうと推定した。核武装が 国際政治的にマイナスで安全保障上の効果も減退すると結論づけたのは「国際関係、外交 から眺めて「損」だと考えたから」であって、「「平和憲法」があるから核を作らない」と いう言い分は世界に通用しないとも強調した。 (2)2006 年にも、北朝鮮が初の地下核実験を行った際に閣僚や自民党から日本の核武装に ふれる発言が相次いだことを憂慮する論文を発表。日本を核攻撃すれば米国は必ず報復核 攻撃するから日本を攻撃しない方がよい、と北朝鮮が考える限り米国の核抑止力は有効に 作用していることになると記した。米国の抑止力についての北朝鮮の評価が変わるのは、 「日本が「普通の国」になって軍備増強を進め、日米安保体制への依存度を低めた場合に 起こりうる」とし、日本核武装は論ずるまでもなく対日不信の要因になると説いた。 (3)永井は「日本外交における拘束と選択」を『中央公論』1966 年 3 月号に発表。①自主 外交=核武装という方向でなく、米国に対し政治的に信頼感と安心感を与える方向にある。 ②日本は中国の核脅威の増大に対しては米国の核の傘に入る以外に道はない。たとえ自主 核武装をしても程度の差にすぎないし、米国は日本の核武装を最も恐れている。ただし日 本本土、沖縄の固定した核基地化には反対すべきである。③核兵器は政治的効果のための 心理作戦であり、いかなる国の核恐喝にも不感症、無関心になることが良策である。 (4)永井論文は日米安保体制を堅持する一方、非核三原則を先取りし、核拡散防止条約の 署名・批准に道を開くものだった。2006 年の蠟山論文とも共通点が多い論考である。カナ マロ会は佐藤政権の非核政策の正当性を理論的に裏付けるとともに、その後の日本の非核 政策を支えてきた。 Ⅱ.内閣直属の情報機関構想 1. 村井室長更迭の衝撃 (1)1952(昭和 27)年 4 月に内調が創設された時のメンバーの証言から。最初に遭遇した のはサンフランシスコ講和条約発効直後にデモ隊の一部と警官隊が皇居前広場で衝突、死 者 2 人と多数の負傷者を出したメーデー事件だった。内調はスタッフがそろわない中で、 村井が吉田首相を大磯の私邸に訪ね、事件の概要を説明することで一応の責任を果たした。 (2)草創期に業務の中心になったのは中国引揚者への尋問調査。元陸軍軍人で厚生省から 内調の職員になった押田敏一が中心になり、内調や外郭団体の職員を動員して大がかりな 尋問を行った。内調が中国に一貫した関心を寄せる出発点になったと考えられる。社会党 の飛鳥田一雄は 1960 年 4 月の衆議院日米安保条約等特別委員会で、押田機関が中国、ソ連 からの引揚者からチチハル、長春、鞍山、重慶などの軍事情報を、地図を示しながら収集 していると指摘した。 4 (3)内調の行方に深刻な影響を与えた村井順初代室長の「闇ドル事件」について。村井が 欧州、米国を私費旅行中、英国の空港で腹巻きまで調べられ、3000 ドル(当時約 108 万円) の闇ドルを所持していたことが発覚したと 1953 年 9 月 16 日付の産経新聞朝刊などが伝え たが、日を置かず誤報と判明した。誤報の原因は西独駐在の書記官が日本外務省に送った 私信である。それを記者に漏らした張本人は、内調の「助っ人」だったソ連通の外務官僚 と言われる。 (5)緒方竹虎が第 4 次吉田内閣に入閣し、吉田後継として評価されるようになるにつれ、 吉田側近グループと緒方が反目。1953 年の内閣改造の際、官房長官は吉田側近の福永健司 になり、緒方は国務大臣(副総理)専任に転じた。だが緒方は、村井を通して内調を勢力 圏に入れようとしたため、緒方と福永の不仲がそのまま福永と村井の不仲に発展した。 (6)福永は村井より年下で、村井は相手にしなかった。意気投合した緒方とだけ接触し、 福永にはろくな報告をあげなかったようだという。このため福永は村井を疎んじるように なり、京都府国家地方警察隊長に飛ばすことを考えた。その頃の村井は吉田首相の支持を なくし、更迭の動きにも吉田の手助けはなかった。 結びにかえて ・日本の共産化を防ぐことを目指した内調にとって、中国は創設当初から最も重要は調査 対象だった。その意味では中国核実験への関心は当然であり、日本の核政策のありようは 長期にわたる関心事になった。 ・内調は争点化しそうな問題を政府首脳に先回りして調査研究し、必要な時に提言するの が役割だった。内調の報告書と実際の政策がつながるとは限らないし、首相によって内調 との距離感もさまざまだったと考えられる。 ・佐藤は歴代首相の中で最も内調と近く、一連の報告書は佐藤政権期に作られた非核政策 を裏書きしたと評価できよう。ただし、その政策は日本独自の核開発を行わず、さりとて 全面的な非核政策でもない「潜在核保有国」 (若泉)と言うべきものである。 ・内調の核問題への関心は、管見の限りでは 1960 年代前半に始まる。若泉や「カナマロ会」 の研究を含め、内調の核政策構想はどのような経緯をたどったのだろうか。 ・核研究を担ったのは現実主義の研究者たちであり、内調は彼らの孵卵器のような役割を 果たしたと言える。彼らを含む知識人グループと内調の関係はいかなるものだったのか。 ・草創期の内調について、先駆的なリポートを発表し続けたジャーナリストがいる。論拠 とされた内調の内部資料は日本の文書群であり、検証がまたれるところである。 ・内調とは「日本版 CIA」と呼ばれるような戦前の情報局に通じる組織か、それとも戦後の コンパクトで分散型のインテリジェンス機関と言うべきだろうか。 ◇参考文献(中国核実験後の非核政策構想) <未公刊史料> 外務省「いわゆる『密約』問題に関する有識者委員会報告」 (2010 年 3 月 9 日) 内閣調査室「中共の核実験と日本の安全保障」(1964 年 12 月) 内閣調査室「日本の核政策に関する基礎的研究 その一」(1968 年 9 月) 内閣調査室「日本の核政策に関する基礎的研究 その二」(1970 年 1 月) 5 <公刊史料> 安全保障調査会『日本の安全保障――1970 年への展望 1968 年版』 (朝雲新聞社、1968 年) 「堂場文書」DVD版(丸善株式会社、2015 年) <定期刊行物> 朝日新聞 東京新聞 毎日新聞 <日記・オーラルヒストリー・回顧録> 楠田實/和田純、五百旗頭真編『楠田實日記――佐藤栄作総理秘書官の二〇〇〇日』 (中央 公論新社、2001 年) 佐藤榮作/伊藤隆監修『佐藤榮作日記』第 1-6 巻(朝日新聞社、1998-1999 年) 若泉敬『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス――核密約の真実[新装版]』(文藝春秋、2009 年) <単行本> 「NHK スペシャル」取材班『“核”を求めた日本――被爆国の知られざる真実』 (光文社、 2012 年) 太田昌克『盟約の闇 「核の傘」と日米同盟』(日本評論社、2004 年) 我部政明『戦後日米関係と安全保障』(吉川弘文館、2007 年) 黒崎輝『核兵器と日米関係――アメリカの核不拡散外交と日本の選択 1960-1976』 (有志 舎、2006 年) 後藤乾一『 「沖縄核密約」を背負って――若泉敬の生涯』 (岩波書店、2010 年) 佐々木芳隆「核戦略の中の日本」坂本義和編『核と人間Ⅰ――核と対決する 20 世紀』 (岩 波書店、1999 年) 杉田弘毅『検証 非核の選択――核の現場を追う』 (岩波書店、2005 年) 永井陽之助『平和の代償』 (中央公論社、1967 年) 中島琢磨『沖縄返還と日米安保体制』(有斐閣、2012 年) 中曽根康弘『自省録 歴史法廷の被告として』(新潮社、2004 年) 中曽根康弘/中島琢磨、服部龍二、昇亜美子、若月秀和、道下徳成、楠綾子、瀬川高央編『中 曽根康弘が語る戦後日本外交』 (新潮社、2012 年) 波多野澄雄『歴史としての日米安保条約 機密外交記録が明かす「密約」の虚実』(岩波書 店、2010 年) フィッツパトリック・マーク『日本・韓国・台湾は「核」を持つのか?』 (勁草書房、2016 年) 前田寿『軍縮交渉史――一九四五-一九六七年』 (東京大学出版会、1968 年) 森田吉彦、2011、 『評伝 若泉敬 愛国の密使』(文芸春秋、2011 年) Lewis, John W. and Litai Xue, China Builds the Bomb (Stanford,CA: Stanford University Press, 1988) <論文> 飯塚央子「中国の核開発と国際戦略の変遷」 (茅原郁生編著『中国の核・ミサイル・宇宙戦 力』蒼蒼社、2002 年) 岸俊光「中国核実験と佐藤政権期の対応に関する一考察 1960 年代の内閣調査室核保有研 6 究を中心に」 ( 『アジア太平洋研究科論集』2015 年 30 号) 黒崎輝「日本核武装研究(1968 年)とは何だったか 米国政府の分析との比較の視点から」 ( 『国際政治』 、2015 年第 182 号) 斎藤明、新井敏司、河内孝「安保と非核 灰色の領域(1)-(23)」 (『毎日新聞』1981 年 4 月 21 日-6 月 18 日朝刊) 土山實男「国際政治理論から見た日本のリアリスト――永井陽之助、高坂正堯、そして若 泉敬――」 ( 『国際政治』 、2013 年第 172 号) 等雄一郎「非核三原則の今日的論点――「核の傘」 ・核不拡散条約・核武装論」(国立国会 図書館調査及び立法考査局レファレンス、2007 年) 蠟山道雄、神田憲行構成「30 年前の「核武装は不可能」の結論は今も生きている」 (『SAPIO』 2000 年 1 月 26 日/2 月 9 日号) 蠟山道雄「日本核武装論批判の立場から」(メールマガジン『オルタ』2006 年 11 月 20 日 35 号) 若泉敬「中国の核武装と日本の安全保障」(『中央公論』1966 年 2 月号) 若泉敬「核軍縮平和外交の提唱」 ( 『中央公論』1967 年 3 月号) Kase, Yuri,"The Costs and Benefits of Japan's Nuclearization: An Insight into the 1968/70 Internal Report," The Nonproliferation Review (Summer 2001) Kusunoki, Ayako "The Sato Cabinet and the Making of Japan'’ s Non-Nuclear Policy," The Journal of American=East Asian Relations, Vol. 15 (2008) ◇参考文献(内閣直属の情報機関構想) <公刊史料> 内閣官房内閣調査室のパンフレット 内閣官房内閣調査室「米国中央情報局(CIA) アメリカの政策において果たすその役割り」 (執務参考資料、1966 年) <定期刊行物> 朝日新聞 産経新聞 東京日日新聞 毎日新聞 読売新聞 <単行本> 有末精三『有末機関長の手記 終戦秘史』(芙蓉書房出版、1987 年) 有馬哲夫『CIA と戦後日本 保守合同・北方領土・再軍備』 (平凡社、2010 年) 井上正也『日中国交正常化の政治史』(名古屋大学出版会、2010 年) 猪瀬直樹『民警』 (扶桑社、2016 年) 今西光男『新聞 資本と経営の昭和史 朝日新聞筆政・緒方竹虎の苦悩』 (朝日新聞社、2007 年) 延禎『キャノン機関からの証言』 (番町書房、1973 年) 緒方竹虎伝記刊行会『緒方竹虎』 (朝日新聞社、1963 年) 7 大森義夫『日本のインテリジェンス機関』(文藝春秋、2005 年) 清國重利『内閣調査室への報告書でつづる 秘録戦後史(1)~(5) 』 (学陽書房、1978 年) 栗田直樹『緒方竹虎 情報組織の主宰者』(吉川弘文館、1996 年) 里見脩『ニュース・エージェンシー 同盟通信社の興亡』(中央公論新社、2000 年) 鳥居英晴『国策通信社「同盟」の興亡』 (花伝社、2014 年) 内外文化研究所編『学者先生戦前戦後言質集』(全貌社、1954 年) 萩野富士夫『特高警察』 (岩波書店、2012 年) 秦郁彦編『日本近現代人物事典』 (東京大学出版会、2002 年) 春名幹男『秘密のファイル CIA の対日工作(上) (下)』 (新潮社、2003 年) 筆者不明『戦前の情報機構要覧 情報委員会から情報局まで』(出版社不明、1964 年) 松本重夫『自衛隊「影の部隊」情報戦秘録』 (アスペクト、2008 年) 松本清張『松本清張全集 31 深層海流・現代官僚論』(文藝春秋、1973 年) 三田和夫『赤い広場-霞ヶ関』 (20 世紀社、1955 年) 三好徹『評伝緒方竹虎 激動の昭和を生きた保守政治家』(岩波書店、2006 年) 村井順『国際共産主義運動の沿革と現勢』(日本出版協同株式会社、1954 年) 村井順『ありがとうの心』 (善本社、1974 年) 村井順『日本よ何処へゆく』(善本社、1976 年) 村井順『 「ありがとうの心」の経営』 (善本社、2000 年) 森詠『黒の機関 戦後「特務機関」はいかに復活したか』(祥伝社、2008 年) 湯浅博『歴史に消えた参謀 吉田茂の軍事顧問 辰巳栄一』 (文藝春秋、2013 年) 吉田則昭『緒方竹虎と CIA アメリカ公文書が語る保守政治家の実像』(平凡社、2012 年) ワイナー・ティム、藤田博司・山田侑平・佐藤信行訳『CIA その誕生から今日まで(上) (下) 』 (文藝春秋、2011 年) <論文> 相川孝「内閣調査室の素顔」 (内閣調査室監修『明日の課題』4 月号、国民出版協会発行、 1977 年) 井上正也「吉田茂の中国「逆浸透」構想 対中国インテリジェンスをめぐって、一九五二 -一九五四年」 (日本国際政治学会編『国際政治 吉田路線の再検証』151 号、2008 年) 加藤哲郎「20 世紀メディア研究所・特別研究会 CIA と緒方竹虎」(2009 年) 加藤哲郎「戦後米国の情報戦と六〇年安保 ウィロビーから岸信介まで」 ( 『年報日本現代 史』第 15 号、2010 年) 黒崎竜太郎「松本清張『深層海流』のモデルたちと公安機関誕生秘話!」 (『別冊宝島 Real012 号 公安アンダーワールド』宝島社、2002 年) 清水正義「ナチ戦争犯罪情報公開法の成立について」 (『白鷗法学』第 18 号、白鷗大学、2001 年) 筆者不明「緊急レポート これが中・ソ戦略地図だ それでも戦争の危険はないという?」 ( 『週刊スリラー』1960 年 5 月 13 日号) 藤原弘達「内閣調査室 疑惑に包まれたその正体」 (『現代』2 月号、講談社、1967 年) 8