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「水を豊かにするための歴史」 「あばれ川」「めぐみの川」 金目川
明治45年(1912) 「水を豊かにするための歴史」 「あばれ川」「めぐみの川」 • 秦野町・東秦野村・大根村・土沢村・岡崎村・城島 村・豊田村・金田村・旭村・金目村の1町9ケ村が 共同して水源の山と金目川を守る • 160年の地上権契約 70町歩「植林」20年かけ た ・大正12年(1923)関東大震災で大山崩れ、太平洋 戦争の乱伐で水源の山大荒れになった。 ・昭和58年(1983)平塚市、秦野市、伊勢原市が 137haの山林を買った。 金目川 柳川 三郎 真田から遠望 大山 春嶽山 みずほ小学校の先輩たちが植林 • 平成10年(1998) 17年前です、 創立20周年に 水源の山「春嶽山」に、6年生39人がブナやケヤ キ100本を植えました。 • 「金目川水害予防組合」「秦野市森林組合」 など、大人の人の指導を受けました。 ・植林の成果 ①豊かな水を貯えることができます。 ②水は広い水田に豊かなお米ができるもとになりま す。 ③大雨が一度に川に流れることを防ぐためです。 水は ・みずから活動して、ほかを動かすは水なり。 ・しょうがいにあって激しくそのせいりょくを増すは 水なり。 ・つねにおのれの進路を求めてやまざるは水なり。 ・自ら清くしてほかの汚れを洗い流してきれいとよ ごれを合わせるは水なり。 1 めぐみ おいしいお米ができます 耕地面積は • 昔ら私たちの国をみずほの国と呼んで いました。 • 豊かな水のめぐみで 「みずほ」ってみずみずしい稲の穂の事 です。 • お米 平塚市47,875a 1aは30.3坪 金目地区は一番多く7,301a ・平塚市ではお米の品名は「キヌヒカリ」 です、神奈川県では一番多い生産高で す、平成25年(2013)は2840トン、金目 は一番多い地域です。 • 野菜は平塚市31,255a 金目地区は4 番目で3252a 一番多い地区は土沢 地区 金目川は、「あばれ川」「めぐみの川」堤防の決壊 が多い。 1.川すじ(川の流れ)がだこうをくりかえしている。 2.「天井川」 川どこが田んぼより高い。 3.流れが高低差があるため急流の川。 土屋橋⇔厚木小田原道路橋の高低差は22m 金目川の洪水被害の最初 の記録、鎌倉にある浄光明寺 の文書に出ています。 600年前応永28年(1421)12月 金目郷北方(今の北金目側) 田37町歩のうち20町歩流され た。 あばれ川 平成24年7月24日 早朝4時30分 元禄大地震元禄16年(1703) 赤穂浪士討ち入りから1年後 金目川の洪水の様子は江戸時代から分かるよう になった。 最初は慶長13年(1608) 「村々の百姓のかもい・はりまで」の大被害 北金目の言い伝え 徳川家康の鷹狩 休憩所として豊田青雲寺を引き払い中原に御殿 を つくるきっかけとなった大洪水です。 翌年に幕府が大堤を普請しま した。 大堤の土手の決壊 長さ318間(572.4m) 別名「大堤(おおづつみ」を 「御所様堤(ごしょさまづつみ)」 2 記録が少ない、日記が貴重になっていま す。平成25年国の内閣府データー 元禄大地震大磯の被害 その2 • 申の刻(午後5時)大磯の宿についた。 • 大磯の圧死者50人。 • 旅日記、京都下賀茂神社の神官「裕之地震道記」 • 馬入(須賀)家は倒れていた。八幡は町・家も同じ ように倒れていた。 • 平塚の宿も人家(678)ほとんど倒れていた。 • 地震の後日、海の潮、2丁(約220m)余あま り、男女とも山に逃げた。 • 22日夜高浪で漁船のおおくが破損した。50 0石船や300石船が高浪に引かれて沖へ漂 い、300石は磯に打ち上げられ500石は磯 ぎわで止めた(これは伝聞) • 花水橋は傾倒していなかった、だが、橋づめの地 形はさけて溝のようになっていた。 • 東海道の右手の山も崩れて、木も倒れていた。 • 金目川は1mも隆起か。 水防 川倉とながし 水の流れを弱くする 災害に対して江戸幕府は • 江戸幕府と諸大名の間では平素から情報伝 達の仕組みがキチンとできていました。 • 災害に対して情報の共有はしっかりとしてい た。 • 明治4年(1871)作成 北金目村「堤防治水 仕法」(平塚市史5)よれば、共同して2月・6 月・8月の3度、石どりをしてとめておく、元気 者53人が手弁当で見回り、修繕を行う。 金目川大洪水 宝永元年(1704)6月 と、翌 宝永2年6月の2年続けて災害 金目川通り28ケ村が共同しての取り組み • 原因は1年前の元禄の大地震マグニチュード 8.2 • 宝永2年に金目川通り28ケ村が共同して堤防 の修復をお願いした。 • 宝永2年10月金目川の曲線を直線の川に変 えた(現在の水神橋から長持まで) • 大根川と板戸川の合流点もずらしました。 3 元禄の大地震から4年後に再び宝永 の大地震と富士山の宝永噴火の大災 害が起きた • ここでも、日記が重要な記録です、「秋田藩、 江戸屋敷、家老、岡本元朝」 ・宝永4年11月23日(1707)富士山大噴火 とがガタ ガタと、ひるでも暗くなった、空気が振動(空振)、灰 が降ったり、異常現象の正体がわからない、5日 たって情報が届いた。富士山が鳴りだし、煙が立っ た、雪がながれ、煙が巻き上がり、富士山の近郊の 男女は気を失ったが死人はない。昼から夜まで黒 煙で見えなかったが火事であった。 宝永富士大噴火は100㎞離れた江戸 で30回の火山性地震が起きています 11月23日∼12月4日まで12日 の12日間も続きました。 宝永富士山噴火と金目川の被害 この噴火の火山灰はガラス質 のため目を傷めた。 • 金目川付近「川の通り沿い、田や畑・家の軒下ま で砂でいっぱいになり、大きな被害が出ました。 • 金目川は降った灰で埋もれ川底が高くなって 村々が共同して修復をお願いしました。 ・幕府は宝永5年に岡山藩に命じて工事をしました。 ・翌宝永6年にも川が埋もれたため浜松藩が8月に 工事を開始しました。このように日本の各地からの 支援があったのです。 宝永5年(1708)正月 幕府は砂よけを命じた、村々は共同して畑の砂は 土に混ぜ、田の砂は田の1角をつぶして 砂置き 場とした。その広さは全体の40%だ。 川は火山灰で川どこが上がってしまい大打撃、 火 山灰よけの救済を幕府は宝永5年の正月に全国 へ高100石につき2両の国役金をかした 南原村 ∼山下村∼花水橋から河口まで池田伊予守綱政 (備前岡山藩315千石) しかし、金目川・鈴川・玉川の合流点付近は、土 砂が堆積してはんらんを繰り返した。 豊田村大縄橋は常に水びたし、 特に正徳2年(1 712)から享保6年(1721)の10年間、水びたし だ、入野・長持・豊田本郷では家も浸水した。 享保6年(1721)幕府にたんがんした、12月に 南原村田地を長さ995m幅13間を狩の排水路と した、永川です。 4 左岸が決壊すると右岸は大丈夫。 右岸が洪水で決壊すると左岸は大丈夫なんです。 飯島村の住宅は土手下ですので、洪水の被害にさら されることになるが、村に洪水が 押し寄せる ことはない。 住宅地の背後に「控え土手」があるから、一部は今も 残っている。 学校が洪水の被害を直接に受けるところに出来てい る金旭中学・金田・みずほ小学校 なぜか 百姓は洪水の影響を受けやすい 不安定な農地を手放す。 元札の辻(飯島堤)と上河原堤 (広川) 享保19年(1734)8月 金目川は大堤・柳堤・元札の辻 がそれぞれ決壊したが、すぐに 修復。 広川村が異議 元札の辻が決 壊前の状態でなく川幅を広げ、 堤防がより強く補強された。 幕 府の裁定は修復工事のやり直 しでした。 なぜ、幕府は金目川水系流域にこんなに力を入 れてくれたのか? ここは、金目川と相模川の間のひよくな沖積地で、 土地の生産力が比較的高い地域です。 江戸時代初期は大部分が幕領地、その後、宝永 時代から旗本領地(直接に米を受け取る)(地方 知行) 零細な旗本支配を確実なものにする幕府 の領主支配が出来ていました。 金目川を中心とする用水体系は村々の共同体と して結束を強めることになりました。 5 おわり 平成24年11月3日撮影 6