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Twinkle:Tokyo Women`s Medical University

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Twinkle:Tokyo Women`s Medical University
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私の職業病研究
石津, 澄子
東京女子医科大学雑誌, 59(9):1217-1221, 1989
http://hdl.handle.net/10470/7182
Twinkle:Tokyo Women's Medical University - Information & Knowledge Database.
http://ir.twmu.ac.jp/dspace/
93
〔酪整亨22鐸護元墾1骨〕
最終講義
私の職業病研究
東京女子医科大学 第2衛生学
イシ
ズ
スミ
コ
石 津 澄 子
(受付 平成元年4月3日)
1
りました.しかし,その後,産業現場も少しずつ
私が社会医学の中の労働衛生学を学ぶように
整備され発生数も徐々に減少してきました.
昭和33∼34年ごろからの高度成長期には鉱山爆
なったのは昭和22年からでありますから今年で40
発などによる大きな災害が1∼2年おきFに発生
年になります.
当時はまだ敗戦による戦後の混乱期が納まって
し,そのつど,500∼600人にも及ぶ犠牲者が出ま
おらず,食糧難,住宅難,衣料その他日常生活用
したので,図1中の3つのピークのような発生数
品すべてが不足し,窮乏の極にいました.ただ,
を示しました.一般に鉱山爆発などで発生する中
産業界では,基幹産業の石炭,鉄,鉱業などが復
毒はほとんどCO中毒で,この当時は災害性の中
興しはじめ,化学工業では,食糧難対策のための
毒でも職業性の慢性中毒でもCO中毒は大ぎな問
肥料工業が重点産業に指定されていました.中で
題になっていました.
も硫安(硫酸アンモニューム)は政府から生産量
が指示され,現場は大変な努力を強いられたよう
(件数)
ですが,それだけ復興は早かったようです.
舞霧
料などの工業も復活するようになりました.しか
1薪
撃
2DOD
硫安工業に続いて油脂,塗料,タール製品,染
麟
劉田
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!800
し,当時は,どの産業もその製造設備は戦時中の
1600
荒廃したものを手直しして使用していた状態でし
寒
ζ
1400
たから,扱う原料や中間体が有害物であったりす
書
ると作業者はたちまち中毒や皮膚炎になり職業病
多
i
1200
↓
患者が多発しました.
1000
墨
その発生数の詳細は昭和26年まで集計されず明
800
らかにされませんでしたが,上述の硫安工業では
高度生長期
短
化学工業の生産規模5倍
評
年率17.4%という生長
上
1年間に100例程度の急性CO中毒が発生してい
500
たようです.
400
なぜ硫安を造る工場でCOガスが発生するかと
B窩和26
いう理由については後述しますが,とにかくこう
28
30
32
34
36
38
40
42
44
46
48
50
52
54
56
58
60(年)
図1 化学物質による業務上疾病の発生推移(昭和26
年∼60年までの35年間の集計 労働省労働基準局資
いつた化学物質による障害は業務上疾病として届
け出られたものだけでも1,800∼2,000件近くもあ
料)
Sumiko ISHIZU〔Department of Hygene, Tokyo Women’s Medical College〕:Occupational health
hazards in Japanese chemical industries
1217
94
2
%
50
冒頭にも一寸触れましたように,戦後の食糧難
を解決するための施策として化学肥料の硫安が増
産されることになりました.
30
硫安は硫酸とアムモニアから合成されますが,
当時の硫安工場ではアムモニアを合成する工程も
1D
あり石炭やコークスを燃やして発生する水性ガス
響懸割符饗縫1解
の中にCOが35%程度含まれていて,これがガス
発生炉に石炭やコークスをホッパーで投入する時
る
とか鉄棒で発生炉のなかを掻き回す時に噴出した
い
図2 CO作業者の自覚病状(82名)
のです.したがって,この現場に働いていた人々
は一度や二度は急性CO中毒の経験を持っていま
1 1 ’ 1
・ラケット状中心暗点
’曾燭’r騰慕・不・型
した.
一や一!…ヤφ一一・上ヒ較的中心暗点
昭和22年,硫安工業協会は硫安労働衛生研究会
1 [ 1 2
を発足させ,労務担当者,産業医,衛生管理者が
・マリオット盲点拡大
一轡’『膚壷〒山一聴灘瀞1こ
集まって当時多発していた急性CO中毒の発生防
図3 河本氏暗点表による暗点
止と急性中毒を繰り返していると慢性中毒になる
か否かを究明することを重要課題として取り上げ
表1 視野所見
ました.
COの生体作用の中で急性中毒については古く
からよく研究されていて,特にCOの血液Hbへ
視野狭窄,暗点あるもの
の親和性は02よりも300倍も強いため,CO−Hbが
形成され,その分だけ生体は酸素不足におちいっ
て中毒になることが明らかにされていました.た
だ,形成されたCO−Hbは02分圧の高い新鮮気中
対
象
CO発生現場
i尾倉機械)
13名(3)
0名(3)
視野狭窄のみあるもの
3〃
1〃
暗点のみあるもの
2〃(1)
0〃
異常なきもの
7〃
8〃
()内は合併疾患保持者
ではCOが解離し,呼気から排泄されるので,生体
の酸素欠乏も解消され,回復も早いといわれてい
ました.つまりCOは体内に蓄積しないので慢性
結果,2名に共通して見られた変化は赤色視野,
中毒はないのではないかと言われていました.
緑色視野の狭窄とラケット状,または棘状を呈す
しかし,私どもが常にCOに曝露され,時々急性
る中心暗点の出現など視機能の異常でした.
この結果に力を得た私どもはCO発生職場の25
中毒を起こしている作業者について健康調査を実
施して見ますと慢性中毒を疑わしめる2,3の結
名の作業者と対照作業者9名について視野検査,
果が得られたのです.
暗点検査を実施してみますと,前者25名中異常の
先ず,自覚症状を見ますと図2のごとく,「物忘
見られなかったのはわっか7名で18名(72%)に
れがひどい』と訴えた人が半数以上を占め,外観
異常が見られました(図3,表1).
は年齢よりはるかに老けてみえる人が少なくあり
ただ,視野検査や中心暗点検査は産業現場での
ませんでした.また,明るいところへ出ると「ま
集団検査には時間がかかって適当でありませんで
ぶしい』とか『おでこにものをぶつける』とか眼
したので,簡易かつ精度の高い色視野フリッカー
に関する『訴え』も少なくありませんでした.
検査法が開発されました.この方法を考えられた
そこで,2名の長期勤続者を選んで今で言う人
のは元東京大学教授大島正光博士で,早速CO作
間ドック式の精密検査を実施してみました.その
業者についてテストすることにしました.その結
一1218一
95
%
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10
40 50 60 70
80 90。
(視野)
1956 58 6D 62 64 66 68 70 72 74 76 78 80 82 84
長戸月CO曝露作業者
700
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一.
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年
次
工料〕 労働省労働衛生課
A
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診結果(有所見率の推移)(1956∼81)
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100
図5 芳香族ニトロ・アミノ化合物取扱い者の特殊健
\
\。、\、
オルソトルイジンが含まれていて,この物質で中
毒になったことが明らかになりました.
10 20 30 40 50 60 70 80 90。
(視野)
右眼 一一一X一一一左眼
このほかにも染料工業では多くの種類の,いわ
図4 “ちらつき”による視野測定成績
ゆる芳香族ニトロアミノ化合物を製造または使用
していて,このために中小企業では中毒や皮膚炎
果は図4に示すごとく正常者とCO作業者とでは
『ちらつき値』に顕著な差が見られました.
患者が多発し,その対策に苦慮していました.
これに対処するため,染料工業の企業団体であ
そこで,これを更に簡単にふるい分けるために
る化成品工業協会は昭和23年ごろから,工場衛生
先ず630nmの赤色感度を測定し,正常値より低値
研究会を発足させ,対策を協議していました.そ
を示す例についてのみ,630nmの赤色感度,540
して,昭和27年労働省労働基準局は各大学,研究
nmの緑:色感度,470nmの青色感度を測定しまし
所の協力のもとに,東京,大阪の中小染料工場の
た.また負荷心電図にも異常を示す例があったこ
健康診断を行ないました.そして,この検査結果
とから,これらを総合して慢性CO中毒の診断項
をもとに昭和31年有害物取扱業務を対象に特殊健
目を設定しました.そして慢性CO中毒の発生防
康診断を義務ずけるようにしました.
止対策はイコール急性中毒の発生防止対策という
染料工業でもこの健康診断を実施しましたとこ
ことになり,現場の施設改善を早急に実施するこ
ろ,図5のごとく,昭和30年代は30%程度異常値
とになりました.
を示す例がありましたから,3人に1人目貧血そ
3
の他異常所見を呈していたことになります.
冒頭にも一寸ふれましたように,敗戦直後の日
しかし,昭和50年,石油ショックを契機として,
本は極端な食糧難に陥りこれが原因でさまざまな
異常所見を呈する例は著しく減少し,現在は1%
事件が発生しました.
以下にまで低下しました.
その一つが大阪に起こった殺人糖事件でヤミ市
したがって,最近は微量曝露の有無を尿中代謝
で濃黄色の甘味糖を販売していた商人の一家がこ
物濃度で管理していこうという生物学的モニタリ
れを自家の食用に使用していたところ,3名が重
ングが諸外国で盛んに実施されるようになりまし
篤な中毒性黄疸で死亡し,使用人5∼6人も中毒
た.日本の染料工業では昔多発していたようなタ
症状で入院したという事件でした.この甘味糖は
イプの職業病はもう見られませんので,生物学的
紫素糖とも呼ばれ,有害な染料中間体パラニトロ
モニタリングで微量曝露の影響を見る方向にいく
一1219
96
表2 職業性膀胱腫蕩の潜伏期間比較
1950
著
1955
1某企糊胱鏡による
集団検診開始
1960
1965
1970
者
潜伏期間(年)
平均年数(年)
19∼29
21
1∼45
18
2∼28
18
Reh11
1895
OPPenheimer
1927
MUIler
1936
Goldblatt
1947
4∼48
19
Scott
1952
4∼33
16
Case et al.
1954
2∼45
18
Scott
1959
4∼41
Ishizu
1985
1∼50
20
22.2±9.1
1975
表3 各種職業がんの発生状況(昭和60年現在)
1980
分
1985
0
5
10
人
15
20
数
←ペンジシン,2一ナフチルアミンなとの製遣・使用禁止
図6 職業性膀胱腫瘍の年次別発生状況(1986年現在)
と思います.
4
ただ,染料工業ではヒトに膀胱癌を発生させる
ベンジジンや2一ナフチールアミン等の芳香族ア
類
部
位
ベソジジン,2一ナフチルアミン
357(43)
尿路系腫瘍
クロム酸塩など
103(42)
肺がん,上気道がん
コークス炉発生炉ガス
99(59)
肺がん
砒素化合物など
58(51)
肺がん,皮ふがん
石 綿
51(34)
肺がん,中皮腫
ビスクロロメチルエーテル
電離放射線
15〔10)
肺がん
10〔6)
白血病,皮ふがん
べγ一ゼン
8(6)
白血病
ベソゾトリクロリド
7(6)
肺がん
塩化ビニール
2(2)
肝血管肉腫
すす・タール等
1(0)
皮ふがん
その他
ミンをとり扱っていましたからこれによる膀胱癌
件数
i死亡数)
135(126)
計
846(385)
が現在もなお発生しているのです.
図6は職業性膀胱癌患者の年次別発生数をみた
ものですが,尿細胞診(パパニコラ法)による集
も異なり,したがって日常の生活条件などすべて
団検診が定期的に実施されるようになってから,
異なっているのに,曝露から癌発生までの潜伏期
平均1年間に10名ぐらいずつの患者が発生してい
間がほぼ同じ年数で有るのは興味深いことです.
いずれにしても,現在日本にどの程度職業癌の
ます.
そして昭和47年,労働安全衛生法の施行でベン
患者がいるかといいますと,表3のごとくそれぞ
ジジン・2一ナフチールアミンの製造も使用も禁止
れの発癌物質による犠牲者が846例見出されてい
された後までほぼ同じ発生数で推移しているのが
ます.実際にはもっと多くの犠牲者が発生してい
注目されます.
たと思います.
5
なぜ,曝露中止後も患者が発生するのか不思議
に思われる方がおられると思いますが,この現象
以上簡単に私が昭和22年から学んできた職業病
こそ職業癌の一つの特長といえるのです.つまり
研究の一端をご紹介してきました.当時,労働衛
どんな種類の職業癌でも一定の潜伏期間があって
生学をライフワークにしょうとした女性科学者は
発症して来るのであって,恐らく非職業性の場合
ごく稀で,まして男性社会の産業現場を研究の場
でも同じなのでしょう.いずれにしても,この潜
として出入りすることには正直いってかなりの抵
伏期間はどのくらいかをみてみますと表2のごと
抗がありました.しかし,幸いなことに私は恩師
くドイツ,スイス,英国,日本いずれの国の場合
や先輩や同僚の支援と援助ですこしずつ仕事を覚
も大体18∼20年となっています.
え,自分なりに研究の計画を立てることがでぎる
工場における労働条件も曝露量も異なり,人種
ようになりました.
一1220一
97
ことが工業界における仕事の範囲を拡大させたよ
そして,常に周囲の先輩から『日本のアリス・
ハミルトン』になれといわれてきました.アリス・
うである.なぜならぽ,工場の経営者たちに『女
ハミルトン女史はアメリカの著明な労働衛生学者
性は国のモラルの番人』という規定された考え:方
で1869年フォートウェイン家に生れ,10歳代の頃
に染まっていたから,労働者の健康については男
から社会で活躍できる独立した仕事をしたいと考
性より女性からの提案に対してより寛大であっ
え,医師になろうと決心していました.
た」という一節があります.・・ミルトン女史は1970
年に丁度100歳でこの世を去りました.
無事医学部を卒業し,24歳のときミシガン大学
で学位を得,続いてライプニッツ,ミュヘン,ジョ
戦後日本は憲法によって男女同権にはなりまし
ンスホプキンス大学で病理学,細菌学を学びまし
たが,女性は実績が少なくどうしても社会的に信
た.
用されていません.ただこういう社会風潮が残っ
40歳のとき労働衛生学の中の,工業中毒の研究
てはいるものの最近は多くの分野で実力ある女性
を始め,当時の症例を見ることができるハルハウ
が進出し,優れた女性指導者も輩出しています.
スに移り住んで鉛中毒の調査研究を始めました.
もちろん女性科学者も例外ではなく,それぞれの
その後,いろいろの工業中毒の研究を手掛けま
分野で優秀な業績を上げつつある:方々も増えてい
したが,1914∼1918第一次大戦の頃には鉛中毒の
ます.
権威者の1人になっていました.しかし,それに
皆さんがたの先輩の中にも,医学と医療の分野
至るまでの間,職業病の発生を認めようとしない
で活躍しておられる方々がたくさんおられます.
無知で頑固な経営者たちの説得に追われ,20世紀
皆さんがたはまだ若くて健康で可能性があっ
初期のアメリカの主業中毒との戦いであったよう
て,今後その気になれぽ何でもできる立場にいま
でした.
す.どうぞみずからのライフワークを決めて,そ
れにむかって研鑛され大成されることを期待し
最近刊行されたハミルトン女史の伝記のなかに
「私はつねに感じていたことだが,私が女性である
て,私の最終講義を終らせて頂ぎます.
一1221一
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