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NIE(教育に新聞を)の課題と展望

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NIE(教育に新聞を)の課題と展望
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NIE(教育に新聞を)の課題と展望−特に公民科教育に視点をおいて−
NIE(教育に新聞を)の課題と展望
−特に公民科教育に視点をおいて−
冨
塚
秀
樹
TOMIZUKA Hideki
1 問題の所在
わが国のNIEは,若者たちの活字離れ,新聞離れ傾向になんとか歯止めをかけようと1
988(昭
和63)年,日本新聞協会を中心にして活動が開始された。東京でスタートした活動はNIEに関
心をもつ先生に3か月間,複数の新聞を提供して教育効果を実証する方式(パイロット計画)
を取り,小学校1校,中学校1校の先生4人が新聞を使った公開授業や研究発表を行なった。
(以上,天野勝文・村上孝止・編『現場からみた新聞学』,学文社,1996,pp.184-185参照)
ここで,問題になるのは,NIEが教育の場からではなく,新聞(販売)の側から提言された
ことである。それは,日本のNIEの範となった米国の事情を反映している。
『新聞研究』によれ
ば,「1970年代後半,米国では新聞の浸透度の低下と発行部数の伸び悩みが大きな経営課題と
なった。それまでは,新聞社と教育界の話し合いにより,いわば自然発生的に生まれてきたNIE
がNRP(ニュースペーパー・リーダーシップ・プロジェクト=筆者註)の中で新聞社にとって
もきわめて重要な事業であることが再確認され,米国新聞発行者協会(ANPA)財団(ファウ
ンデーション)が業界全体の仕事として取り組みを強化して今日に至っている。〔中略〕こう
した中で(日本新聞協会内の新聞販売の最高責任者で組織する=筆者註)販売委員会では昭和
60年11月,NIEを研究する組織としてNIE専門部会を設置,米国で年1回新聞関係者と教育関係
者が一堂に会するNIE大会に代表を送ったり,北欧のNIE視察に委員を派遣,海外の事情把握に
努めた。」(「マスコミの焦点」『新聞研究』No.441,日本新聞協会,1988年4月,p.85)
こうした経緯について,筑波大学助教授(当時)の天野勝文氏は,
『新聞研究』に一文を寄せ,
「このNIEが日本の新聞界に導入されるきっかけとなったのは,1
983年に新聞協会販売委員会
が派遣した米国新聞販売事業視察団の視察報告(「新聞通信調査会報」309号・深沢亘氏)であ
る。
〔中略〕つまり,NIEはまず販売マンの目にとまったのである。それは当然といえば当然の
ことだが,日本の新聞界,そして教育界の現状をみると,ある意味で『不幸』なスタートであ
ったといえなくもない。」
(「新聞にとってNIEとは何かー自らの反省の機会として」前掲書,
1988
年10月号,p.90)と語った。続いて天野氏は,NIE導入に対する新聞界の「本音」が,新たな読
京都精華大学紀要 第二十二号
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者層の開発と若年層の“新聞離れ”対策にあるとし,「米国では新聞界がイニシアチブをもっ
てNIEを進めた。北欧諸国では教育界の方が,積極的だった。新聞側は協力,支援する立場と
いっても,こうした国情の違いがある。
」(前掲書,1988年10月号,p.87)と安易に米国型NIEを
日本に取り入れることに警鐘を鳴らした。こうした天野氏の心配は後述するように,今日杞憂
であったことが判明するが,1988(昭和63)年当時,教育現場では,社会科の解体をめぐって
様々な議論が交わされていた。それらの中で,天野氏も引用している専修大学教授(当時)の
高須正郎氏の論考を取り上げて検討してみる。
高須氏は,「教育に新聞を−NIE推進の日本的課題(急がれる教育実践の土壌づくり)
」(『総
合ジャーナリズム研究』総合ジャーナリズム研究所,No.123,1
988年冬,pp.84-91)と題する
論文でNIEの導入に対する新聞界の今日的ニーズが,‚ 情報メディアが多様化し,情報及び情
報手段に対する社会のニーズが大きく変化する中で,新たな読者層の開発と販売促進の施策が
将来の重要なテーマであること。„ とくに若年層の“新聞離れ”は先進諸国に共通した現象で
あり,それに対処する方策の一つがNIEである。とした上で,
「マスコミ教育の重要性」および
「新聞と教育の歴史(戦前・戦後)」を説き,特に後者(「新聞と教育の歴史」)の戦後において,
「新しい教育で,生徒の自発的学習が強調され,社会科が中心教科として取り上げられている
のも,生徒を将来社会に役立つ市民として,自由で責任ある人間に育てあげるためである。
」
ことを力説した。最後に「NIE推進のよりどころ」の見出しで,文部省の教育課程審議会(高
校分科会=筆者註)の動向に触れ,
「戦後の新しい教育のシンボル的存在だった社会科をなくし,
現在までの六つの科目を地歴科と公民科の二教科にふりわけ,地歴科の世界史を必修科目とす
る一方で,現代社会を選択教科に格下げするとしているのである。この改定が本決まりとなっ
たらNIEにとっては致命的なことになってしまう。新聞を最も重要な教材としていたのが社会
科であるからだ。現代社会が残るとはいえ,進学教育の中で選択科目の比重は著しく落ちる。」
と危惧を表明している。
1999(平成11)年3月の文部省告示第58号により,1989(平成元)年告示の高等学校学習指
導要領は改正され,2003年度新入生から学年進行により段階的に実施される新指導要領では,
選択科目のまま現代社会の標準単位数は2単位とされている。十数年前に高須氏が指摘された
ように,果して今回の改正でさらに「NIEにとって致命的なことになってしまう」のか,私は,
今回の改正を条件付きながら逆に現代社会とNIEにとってのチャンスと捉えている。その理由
をメディア・リテラシーを中心に特に公民科の視点から以下考察をしてみる。
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NIE(教育に新聞を)の課題と展望−特に公民科教育に視点をおいて−
2 日本におけるNIEの受容と変遷
前述のようにわが国のNIEは,若者たちの活字離れ,新聞離れ傾向になんとか歯止めをかけ
ようと1988(昭和63)年に,日本新聞協会を中心にして活動が開始された。
それより前の1987(昭和62)年,日本新聞協会販売委員会NIE専門部会部会長(現・NIEコン
サルタント)の妹尾彰氏は,米国のNIEの現状を「米国新聞発行者協会の付属財団(ANPA
Foudation)が新聞と学校の橋渡し役としてNIE計画を推進しており“NIE”計画とは新聞を学校
の教材として利用するための新聞社と地域の学校の共同活動」と紹介している。(「日本におけ
るNIEの課題」『新聞研究』日本新聞協会,1987年11月,p.70)さらに「日本的NIE計画推進の
ために」で以下二つの提案を掲げた。
①新聞業界に対して…日本新聞協会にある編集委員会・販売委員会・広告委員会・研究所な
どによる合同連絡会議のような組織を早急に作る必要がある。さらに一歩進めて,最終的
には日本新聞協会にNIEの専門機関を創設する必要がある。
②新聞社に対して…NIE計画実施にあたって,新聞社はNIE関係部局の連携体制の確立が必要
であり,かつNIEの主役が教育界であるとの観点から,新聞はそれを応援するという意識
と具体的な土壌づくりが必要である。(前掲書,p.73)
こうした提言を受けて,販売委員会では,1987(昭和62)年4月,
「ご存知ですかNIE」とい
うパンフレットを製作,全国の小・中・高校や教育委員会等に配布した。
したがって,前掲の天野論文が指摘した米国をモデルとする新聞主導で始まった日本のNIE
ではあるが,内実は教育界にかなり配慮してスタートしたのである。そこには,新聞・教育両
面において,日米双方の実情の差があったことも反映している。大きく3点に絞ってその差を
あげると以下のようになろう。
①米国では州単位で教育行政が行なわれており,新聞も日本のように全国紙と呼ばれるよう
な発行部数を誇るものはない。
②米国のNIEは新聞のすべての欄を対象とした教科書としての「新聞」学習であるのに対し,
社会問題の理解を進めたり,教科の授業を行なう日本のNIEは各教科・科目毎の切り抜き
が中心であった。
③米国のNIEでは,コーディネータと呼ばれる教育に詳しい人材(元ベテランの教師など)
が新聞社によって教育現場へ派遣され,現場と新聞を緊密にかつ迅速に結びつけるのに役
立ったが,日本では,こうした人材の育成・派遣が遅れた。
上記3点の他,米国では,多くの新聞社がNIEを実施している学校に定価の半額という低廉
な価格で新聞を多量に販売したのに対し,わが国では新聞の再販売価格維持制度のため,最近
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まで特例制度は認められず,教育現場で児童・生徒に複数種の新聞を大量に与えることは困難
だった。ちなみに,2000(平成12)年4月以降,
『朝日新聞』では,10部以上購入という条件で,
学校に,朝刊40円・夕刊25円という低価格を設定し頒布している。
以上の日米における差をもって,ただちに日本のNIEへの取り組みが米国より劣っていたと
することは,もちろん早計である。ただし,次に述べるメディア・リテラシーの観点からは,
欧米諸国に学ぶべきものが多くあるのではないだろうか。
3 メディア・リテラシーと公民科教育
まず,メディア・リテラシーとは何かという定義について,立命館大学教授の鈴木みどり氏
は「メディア・リテラシーとは,市民がメディアを社会的文脈でクリティカルに分析し,評価
し,メディアにアクセスし,多様な形態でコミュニケーションを創りだす力を指す。また,そ
のような力の獲得をめざす取り組みもメディア・リテラシーという。」と規定している。(鈴木
みどり・編『メディア・リテラシーを学ぶ人のために』世界思想社,1997,p.8)
従来の「新聞を使った授業」から脱却し,「新聞を読み解く」あるいは「新聞を批判的に受
容する」のが,新聞に関するメディア・リテラシーの特徴である。日本の新聞は,学校教育の
場で,すでに戦前から深い関わりをもってきた。高須氏によれば「第一は,新聞の社会的機能
や役割を科学的に教える『新聞教育』。第二は,新聞記事を教材として利用し,社会問題の理
解を進めたり,教科の授業を行なう『新聞学習』
。第三は,児童生徒に新聞を編集・発行させ
る『学校新聞』である。この中で一番古いかかわり合いは『学校新聞』であったようだ〔中略〕
しかし,当時,学校新聞の発行は必ずしも普遍的だったわけではなかったし,昭和十年代に入
ると,軍国主義教育のもとに学校新聞はしだいに消滅してゆくことになった。」と述べている。
(前掲『総合ジャーナリズム研究』pp.87-88,高須論文)
この後,高須氏は「新聞学習」と「新聞教育」について触れ,戦前のわが国の先駆的業績と
して昭和七年発行の岡山光雄著『新聞学習提要』(中文書房発行)と同著『新聞学習』(先進社
発行)を紹介している。さらに高須氏は続けて,「この二著は,先の西川三五郎編『掲示資料・
学校新聞』とともに,日本的NIEが六十年以上も前からはじまっていたことを示す極めてユニ
ークで貴重なものだといえよう。だが,こうした先達の先見的示唆が果たしてどの程度まで教
育現場に受け入れられたか,また当時の新聞界がこうした新聞学習にどれほど関心を寄せ,協
力,援助したかは,ほとんど不明である。むしろ戦前の日本の教育状況から推して,折角芽生
えた日本のNIEも,そのまま立ち枯れてしまったと考えてよいように思う。」と結論づけた。
(前
掲『総合ジャーナリズム研究』p.88,高須論文)
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NIE(教育に新聞を)の課題と展望−特に公民科教育に視点をおいて−
こうした状況から勘案すれば,戦後の日本のNIEが,「新聞を学習する」のではなく,「新聞
で学習する」ことから始まったのも首肯できる。
「市民主権という観点からのメディアの公共
性論は,GHQに教えられて戦後はじまったものにすぎない。」(渡辺武達『メディア・リテラシ
ー』ダイアモンド社,1997,p.150)という言葉どおり社会科および公民科が戦後に生まれた新
しい教科であれば,メディアの公共性概念の育成が児童・生徒に与える影響もまた大きいとい
わねばならない。その意味において,メディア・リテラシーを念頭に置いた「新聞を学習する」
公民科の役割は,今後ますます増大するものと考えられる。『新聞研究』に寄せられた2本の
連載「NIE奮戦記」から,現場の公民科教師の声を抜粋してこの節を閉じたい。
「(教科としての)政治・経済を難しいという生徒が増え,日常的に新聞を読む生徒は一向に
増える気配を見せませんでした。生徒の弁では,地歴の科目と比べて公民科の科目は何を暗記
していいのかわからないとのことでした。」
(『新聞研究』No.586,2000年5月,p.44,青森県立
田名部高等学校教諭・森田勝博氏)
「生徒に新聞記事を自由に取り上げさせ,自分の考え・意見をまとめ,リポートを提出して
もらったのですが,うれしすぎる出来事になってしまいました。B4紙一枚を一回分として月
単位でまとめて提出。枚数は制限なし。評価に加点するとしたために,一か月に百枚を超える
リポートが提出され,そのリポートの評価(必ず私のコメントを入れ,個人別に整理してフィ
ードバックし,授業の中でも取り上げた)にとんでもない時間を取られてしまったのです。中
には一人で一か月に二十枚近いリポートを提出する生徒もいて,活字離れ,新聞もろくに読ま
ないと言われる現代っ子ですが,単にそういうきっかけがなかっただけだと痛感しました。」
(『新聞研究』No.593,2000年12月p.4
8,高知県立高知南高等学校教諭・正木秀市氏)
4 総合的な学習の時間とNIE
東京都高等学校新聞教材開発研究会と東京都NIE推進協議会は,1
998(平成1
0)年11月21日
に「思考力・判断力・表現力を育てる新聞活用教育の展開」をテーマに第九回研究発表会を開
き,高校教員・新聞関係者など約六十人が参加した。開会冒頭で後藤英照会長(都立富士森高
校長)は,「生きる力とは予想もつかない時代の変化が投げ掛ける問題に対応できる力であり,
こうした力を身につけさせるため,また新たに導入される総合的な学習の時間に対応するため
にも新聞は最も有効な教材になる。いよいよNIEの時代がきた。」と挨拶した。
(『内外教育』第
4970号,1998年,12月,p.8参照)
また座談会「総合学習で新聞を効果的に活用する道を探る」で大阪NIE推進協議会事務局長
の枝元一三氏は「『総合的な学習』のからみでいえば,一つの学習材を他の学習材と関連させ
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て活用する能力,これは『メディア・リテラシー』ということになるのかもわかりませんが,
こうした能力を持っていないとだめなんじゃないかと思います。少なくとも,そういう努力を
しないといけない。もう少しつっこんでいえば,『教師のカリキュラム開発能力』というので
しょうか,子ども自身が問題を解決していくのに適応したいくつかの道筋を考えてやれるだけ
の力が教師の側に必要ではないかと思うのです。」と述べた。同じ席上で,聖心女学院初等科
教諭の岸尾祐二氏は「NIEは基礎・基本というものを定着させるものだと思います。欧米では
かなり読み方を練習します。今まで日本では,学習指導要領にないから,時間がないからとい
うことでなかなかできなかったのですが,私は『メディアリテラシー』を考える意味でも,新
聞の読み方というものをもう少しきちんと学習することにより,NIEで基礎学力というものを
定着させていくことが可能だと思います。」と語っている。(妹尾彰・編著『総合学習に生かせ
るNIE中学校実践事例集』晩成書房,2000年11月,p.25およびp.29参照)
メディア・リテラシーの定義は前述した通り,「マス・メディアから送られる情報を,批判
的に受容し,理解すること。
」である。それが,総合的な学習の時間との相関で,学校現場に
おいて,「一つの教材を他の教材と関連させて活用する能力」とされたり,
「新聞の読み方をき
ちんと学習すること」と捉えられることを必ずしも私は否定しない。(児童・生徒の発達段階
に応じてメディア・リテラシーを把握すべきである。)
新聞の主な紙面は,政治面・経済面・社会面などで構成されている。標準単位数が,いずれ
も2単位の「現代社会」や「政治・経済」にとって,総合的な学習の時間の活用は願ってもな
いチャンスではないだろうか。こうした意味で,今回の学習指導要領改正により,1988年に表
明された天野勝文・高須正郎両氏の(現行)学習指導要領がNIEに及ぼす懸念を,ある程度払
拭するものといえるだろう。
5 おわりに
これまで,NIEと公民科教育とを,メディア・リテラシーや新学習指導要領の総合的な学習
の時間との関連で検討してきた。新学習指導要領では,教科「情報」
(「情報A」
・
「情報B」
・
「情
報C」,標準単位=各2単位)が設けられる。
1999(平成12)年度より「ジャーナリズム」を普通科国際・英語コースの必修選択科目(国
語表現・古典・ジャーナリズムから一科目を履修)として設置した昭和第一学園高等学校の授
業実践を取り上げ,学ぶべきものに注目して本稿の結語に代える。(以下の引用は,すべて昭
和学園第一高等学校教諭・松井孝二氏「
『情報』教育と新聞−『ジャーナリズム授業化』一年
間の実践から」,『新聞研究』No.589,2000年8月,pp.27-30.に拠るものである。)
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NIE(教育に新聞を)の課題と展望−特に公民科教育に視点をおいて−
「なぜジャーナリズムを授業化したか」
本校に「ジャーナリズム」を設置した背景には,学校新聞の取材を通じてたくましく成長し
ていく生徒の姿を,新聞部の顧問として見てきた体験があった。
新聞の取材は,さまざまな人との出会いである。それが学校新聞という小さなメディアでも,
取材される側の人たちは,自らの体験や思いを,丁寧に熱意を込めて語ってくれる。取材の中
で生徒たちは,自らの「常識」を揺さぶられ,人々の生き方に感動する。〔中略〕
生徒たちの取材に同行する中で,次第に「こうした機会を部活動だけでなく,授業の中で持
たせられないか」と考えるようになった。
1994年8月,第44回全国学校新聞指導者研修会(浦和市)で講演したジャーナリストの故斎藤
茂男さんが,「受験教育の弊害として,『いわゆる正解』をできるだけ早く求める風潮や,何に
対してもマニュアルを求める風潮が,
『真理』を追究すべき裁判官や新聞記者にまで広がって
いる」として「自らの力で『真理』をつかむ手段として,新聞の『取材活動』を,『新聞部』
というワクを超えて全校に広げるべきだ」と強く訴えたのを聞き,「取材を授業に」という思
いは確信に変わった。〔以下略〕
「ジャーナリズム授業の可能性」
2003年から学年進行で,高校に新学習指導要領が導入される。このカリキュラムでは新たに
「情報」,「総合的な学習」が置かれる。
高度に発達した情報化社会を生きる生徒たちに,はんらんする情報の中から必要なものを見
極め「よく生きるための知識」を養成しようというわけである。教室を超えて社会に目を向け,
「生きる力」をはぐくもうという「総合的な学習」には,「新聞づくり」の経験を生かすべき
場面がたくさんある。〔中略〕
しかし,総合学習はともかく,教科「情報」は難しい問題を持っている。
例えば,
「情報C」という科目では,
「さまざまな情報から必要な情報を選択する力の育成」
が目標の一つとなっている。
「コンピューターはその道具の一つ」と文部省の担当者も強調し
ていた。
しかし,今年3月の「教育職員免許法改正」では普通教科「情報」と専門教科「情報」の免
許は一本で,今年から2002年に全国で行なわれる現職教員講習会の対象となる基礎免許は,数
学・理科・工業・商業・農業・水産・看護と理系中心に限定された。これでは文科系からの
「情報」への参画の道は閉ざされてしまう。
このままでは,教科「情報」は,コンピューターやソフトの「使い方」を教える「情報リテ
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ラシー」的な科目になってしまう。教科「情報」を取り巻くこうした現状に,
「新聞」という
立場からどう食い込むことができるのだろうか。〔以下略〕
「ジャーナリズムの輪を広げよう」
「ジャーナリズム授業化」は,学校新聞への理解者を増やす意味でも重要だと考えている。
学校新聞が「NIE」や「メディア・リテラシー」との比較で優れているのは,
「つくる」こと
が主体になっていることである。一歩踏み込んでメディアを考える上で,つくることは大切で
ある
NIEでは「新聞を活用すること」が中心であり,メディア・リテラシーでは「メディアを批
判的にみる」となる。どちらも利用する立場からの資質を育てることに重点がおかれている。
一方,「つくること」の大切さは,メディア・リテラシーでも認識されており,「番組をつく
る」ことが重要とされている。しかし,実際にカメラを回し,番組に仕上げるのは大変な作業
を伴うのだが,つくることの利点は,メディアの持つ力の大きさに,「つくる」という自身の
行為を通じて気づくことにある。〔以下略〕
以上みてきたように,松井氏の論考には,メディア・リテラシー先進国の一つカナダの実践
例が紹介されていない等,不満な点もある。しかし,学校新聞作りに長年携わってきた現場か
らの声として,2003年度以降の高等学校新学習指導要領に対する警鐘は傾聴に値するものがあ
る。私も教科教育実践学の研究者として,今後の推移を見守りたい。
6 補論
この稿を終えるにあたって,2002年度から実施される学習指導要領全般について,私論を付
け加えておく。
既にマス・コミ等で流布している「学校週5日制」を含む「新・学習指導要領」が,公私間
格差をひろげ,教科・科目の時間数削減や児童・生徒の学ぶ力を重視する(=いわゆる機会の
平等)結果,学力低下(特に理数系科目)を招くという論に,私は反対する者ではない。拙稿
の目的は,総合的な学習の時間にNIEを導入することにより,公民科教育の更なる改善・発展
をはかることにある。
インセンティブ・ディバイド
一方,教育社会学者である苅谷剛彦氏は,
『階層化日本と教育危機−不平等再生産から意欲格差社会へ
(有信堂,2001年)において,
「新・学習指導要領」批判をおこなっている。すなわち,今
−』
の日本(苅谷氏のいう「大衆教育社会」
)では親の学歴(生育歴)によって,階層が再生産
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NIE(教育に新聞を)の課題と展望−特に公民科教育に視点をおいて−
(「教育は不平等を再生産する」)されるというのが彼の説く主旨である。「新・学習指導要領」
が俗流[教育]心理学者による誤った学力観に基づく認識の結果生まれたものかどうか(詳し
くは,市川伸一『学ぶ意欲の心理学』PHP新書,2001年参照)は措いて,
「学校週5日制」を含
む既成の教科・科目学習量の見直し・削減が,私学・学習塾への依存度をいっそう高めること
は容易に予見でき,その意味で苅谷氏の論旨に私は賛成する。
「新・学習指導要領」によって,規制されるのは,あくまで初等・中等教育(小・中・高校)
であり,高等教育(高専・短大・大学など)に関して,少なくとも前掲二著からは,市川なら
びに苅谷両氏の所見を窺うことはできない。苅谷氏は2001年12月から200
2年1月にかけてNHK
教育テレビで放送された「人間講座」(テキストは『「学歴社会」という神話∼戦後教育を読み解く
)の中(第5回「教育の平等とは何か」)で,「機会の平等」と「結果の平等」をとりあげ,
∼』
米国はマイノリティーに配慮した結果,R.B.ジョンソン大統領時代に「(教育)機会の平等」か
ら「(教育)結果の平等」に移行したのであり,今回の日本の「指導要領」改訂は,かつての
米国の教育政策とは逆行するものであると非難している。苅谷氏の論理は,
「学歴社会という
神話」の裏に「親の学歴による不平等再生産という現実」が隠蔽されるというものである。こ
こには「学校歴社会」という視点が欠落している。特に高等教育において,私は「学歴社会と
いう神話」=「学校歴社会という実話」と認識しており,東大を頂点とする学閥ヒエラルヒーは,
高等教育機関の教員や国家公務員Ⅰ種合格者(キャリア)に根強く受け継がれていると考える。
現行のⅠ種・Ⅱ種臨床心理士資格取得制度や法学・経営学修士号取得者に対する税理士試験優
遇策および将来の法科大学院(ロースクール)構想は,大学院レベルでの学閥(学校歴)強化
を予感させる。こうした高等教育段階における学校歴は,旧制時代に比して戦後の新制時代の
方が,(苅谷氏のいう)「大衆教育社会」到来により,前記2分野(高等教育機関教員・キャリ
ア官僚)においてより顕著な傾向が見られるのではないだろうか。
(旧態依然たる高等教育機
関の女性教員比率の低さは,改めて論じなければならない問題である。)
[主要参考文献(本文中に記載のものは除く)]
①文部省『高等学校学習指導要領(平成11年3月)』大蔵省印刷局,1998年
②文部省『中学校学習指導要領(平成10年12月)』大蔵省印刷局,1997年
③文部省『高等学校学習指導要領(平成11年3月)解説−公民編−』実教出版,1998年
④文部省『中学校学習指導要領(平成10年12月) 解説−社会編−』大阪書籍,1998年
⑤文部省『特色ある教育活動の展開のための実践 事例集−「総合的な学習の時間」の学習活動の展開−
(中学校・高等学校編)』大日本図書,1999年
⑥大野晋・上野健爾『学力があぶない』岩波書店,2001年
⑦菅谷明子『メディア・リテラシー』岩波書店,2000年
⑧寺脇研『21世紀の学校はこうなる』新潮社,2001年
⑨竹内洋『大学という病−東大紛擾と教授群像−』中央公論新社,2001年
J 戸瀬信之・西村和雄『大学生の学力を診断する』岩波書店,2001年
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