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カ の企業家精神
アメリカの企業家精神 三 丿 ︲ ︲ I 。 そ の 歴 史 的 考 察 ー ぐ ’ 尾 上 一 雄 六 現代の企業家精神 Oその形成時代 I 前項においてU・S・スティールのエルバート・H・ゲイリーの企業家精神を考察したが、彼は、まだ、現代 の大株式会社の経営者の多くのものと異なり、その会社の下部組織の中から上昇してきたものではなかったし、 集団経営の実践者でもなく、そして、また、経営者の社会的責任の認識においてもまだかなり欠けるところがあ った。とくに労働組合に対する彼の感情や態度は、現代の大株式会社の経営者のそれではなかった。彼は弁護士 出身であり、金融資本家J・P・モーガンの懇請を受けて実業界に入った人であり、彼の時代を通じてU・S・ スティール会社はJ・P・モーガンの銀行の支配下におかれ、彼はモーガン父子の支持を得て地位を保持するこ アメリカの企業家精神 ■125 とができたということ、そして他の多くの取締役の意識が旧時代のそれであり、彼は取締役会の、経営者たちの 指導者として行動したということのために、彼の意識や態度は、現代の大株式会社の経営者のそれに近いものと 認められるにしても、同じものではあり得なかったのである。彼の意識や態度のうちの現代的なものは、その後 の実業界の指導者たちによって継承されているが、より現代的な企業家精神が発達してくるためには、なお、会 社経営の複雑化に伴う経営の責任の分散と高度の経営技術を体得した経営専門家の最高幹部への昇進、会社の財 政状態や市場の事情の変化、労働者の力の増大、﹁ビッグ・ビジネスの横暴﹂に敏感になってきた世論の圧力、 政府の経済規律権の増大が必要であった。 rule︶が行われていた︹前稿に述べた通り、同社の創立二九〇一 ゲイリlが一九二七年に死亡した時、U・S・スティlルは繁栄期にあり、彼の経営は成功だったと考えられ た。ゲイリlが死ぬまで彼の一人支配︵one-man 年︺と同時にゲイリlは経営常任委員会の委員長に就任し、一九〇三年に取締役会会長に就任、死ぬまでその地位を維持し た・彼は﹁その会社の社長を経験したことのない、最高経営担当役員であり、かつ積極的な指導者Lであった︶がヽ彼は、巨 大な、結合を急ぎ過ぎてまとまりのないものになってしまっていた組織体を単独支配することに不安を感じてい なかったし、二〇年代に需要の比重が、自動車工業の発達と共に、重いスティlル︵厚板やレlルその他の構造材︶ から軽いスティlル︵薄板︶へと移っていたことに注意を怠っていたようである。彼は多忙すぎたばかりでな く、工学技術の知識を欠き、製鋼施設の改善に積極的になり得なかった、彼は熔鉱炉を見たこともなかったとい われている。彼の死後、J・P・モーガンニ世が取締役会会長に就任し、銀行家の支配が始まったように見えた が、一九一一年以来社長の地位にあったJ・A・ファlレルが最高経営担当者に指名され、一九二五年以来取締 126 役会のメムバlになっていたマイロン・テイラlが財務委員会の委員長に任命された。それから二年二、三ヶ月 後、一九二九年の秋に、恐慌が勃発し、U・S・スティlルもその渦中に巻き込まれ、不振の時代を迎えるに至 り、その機構とゲイリー以来の経営方針がきびしく批判されることになった。 一九三二年にテイラlはモlガンニ世に代わって取締役会会長に就任し、同時に最高経営担当役員となり、フ ァlレルは社長を解職された。テイラlは、ゲイリlと同様に法律関係の前歴を持つものであったが、﹁病気の会 社の金融科の﹃医師﹄としてちょっとした評判をとっていたL人物であるO︵不況の中でその会社は、フォlチュ ン誌が観察しているように、﹁その株主のため十分かねをもうけず、その労働者に高い賃金を支払わず、そして その顧客に低い価格を与えなかった﹂︵ゲイリlの理想や目的は失われてしまった!︶のである。その会社は創立当 初においてはその国の鉄鋼生産のほば三分の二を占めていたが、四一パlセントを占めるに過ぎなくなったほ ど、競争会社の抬頭をゆるしてしまっていた。動かせばがたがた音をたてそうな、まとまりのない、しかも極度 に業務決定の権力の集中が行われていた巨体は、生産能率をあげることもてきず、需要の変化にすばやく応じる こともできなかった。テーラlの改革は、そのような事情に対する反応であつた。彼は長期債務の整理を行った cmmand︶への道をひらいたことである。 のみならず、軽いスティlルの生産能力の拡張のために多額の支出を行ったが、さらに、より重要なことは、ビジ ネス・リlダlシップに関する権限の分散を行い、集団指揮︵group 従来の一人支配から集団指揮への移行は、一九三八年にテイラlに代わってアlヴィング・S・オlルズが取締役 会会長に就任し、ベンジャミン・F・フェアレス、エンダlズ・M・ゲァヒlズ、エド・ワlド・R・ステティニア スニ世がトップ・マネジメントの地位を与えられたことによって、より具体的な形をとって現われてくるのであ 一一127 る。これに就いては後に述べるが、テイラlは集団指揮を認めることにおいてゲイリlよりも進んでいたが︵ゲイ りlにとってそれが不可能であった理由は前稿に述べた︶、労働者に対する感情や態度においても、ゲイリl︵前稿に示 したように、彼は労働者に好意を示したが、彼の被用者ではない労働運動指導者の指導に従っている︹と彼の目に映じた︺労 働組合に敵意をいだき、ストライキは無責任な外部の煽動者のしわざと信じていた︶より進歩的なl現代的な経営者で あった。 Organization c産業別組織委員会︺=Congress Workers 。多数の労働者を擁し、しかも反組合主義の牙城と考えられていた、そして、鉄鋼業界のみなら Organizations。 C. I. O. ︹産業別労働組合会議︺の前 labor union︶を交渉の相手と承認したことは、 Committee︶を、それのメムバlたる従業員のための of Industrial Organizing 一九三七年三月十七日に、U・s・スティlル傘下のカlネギl・イリノィイ会社は、CIO︵Committee Industrial 身︶の鉄鋼労働者組織委員会︵Steel 4 団体交渉の代表と認める協定を結び、その後三ヶ月足らずのうちに、同様な協定がU・S・スティlル傘下の十四 の会社で結ばれた union︶ならぬ﹁外部Lの組合︵outside ず、産業界において指導的地位を占めており、その行動が他の会社のそれの規範とされるべきU・S・スティlル が、御用組合︵company アメリカ労働運動発達史上のみならず、アメリカ資本主義の歴史の上でも、劃期的な事件といわなければならな い。U・S・スティlルは、一〇パlセントの賃上げを認め、一日八時間、週四〇時間労働制を確立し、苦情処理 機関を設置する労働協約を締結した・U・S・スティlルは、その前年︵一九三六年︶十一月に、鉄鋼労働者組織委 員会との交渉以前に、一〇パlセントの賃金引上げを認めており、上記のそれは、これに次ぐ第二次引上げであ for 128 ㈲ った。 s Untold Labor Relations Act or Wagner StoryによればIIII﹁この闘争︵引用者註=鉄鋼業労働者の組織 このことは、左翼的労働組合主義者の目で見られると、次のようなことになる。リチャlド・O・ボイヤlとハ ーバlト・M・モレlス共著のLabor 闘争︶は、当時フィリップ・マレlによって、﹃人類の記憶にとどまる範囲では労働組合によってかってとりあ げられた課題のなかで最大の課題だ。それは労働運動史上、かって彼らによってになわれた任務のなかで最も重 要な任務だ﹄とよばれた。⋮⋮︹ところが︺テイラlは、最近のジェネラル・モータlズに対する勝利によって すっかり権威を加えたジョン・L・ルlイスと交渉をつづけていたのだが、突如として、ストライキも行われな いうち、何らの前触れもなしに、この世界最大の製鋼会社は屈服してしまった。CIOが最も手強いものと考え ていた敵は、一戦をも交えることなく降服したのだ。こうして鉄鋼労働者組織委員会はたんに自己の力を示威し ただけでU・S・スティlルのいく千にも上る鉄鋼労働者のために、一〇%の賃上げと、一週四〇時間労働制と を獲得し、組合を承認させたのだ。U・S・スティlルの降服に一番おどろいたのが、労働者だったか、それと も﹁小製鋼会社﹂を経営している資本家たちだったかを言いあてることはむつかしいだろう。﹂ テイラーの処置が労働者をも驚かせたということは誠に興味深い。右に引用した敍述は、左翼陣営の論客が、 資本家︵経営者︶、とりわけビッグ・ビジネスの経営者︵彼等のいう︵独占資本L︶は、常に、十九世紀中葉の資本 家︵経営者︶がしばしばそうであったかも知れないような、労働者の頑迷非情の敵であるという先入観にとらわ れていることを理解するのに役立つだろう。テイラlは、鉄鋼労働者組織委員会の要求を拒絶したとしても、い ずれは、一大三五年の全国労働関係法︵ワグナl法=;National Act︶によって 129 設置された全国労働関係局︵National untoldStoryの通りに、そこで未 Labor RelationsBoard︶の命令︵・によって、いかなる組合が団体交渉の 代表とされるべきかということを決定する労働者の無記名投票が行なわれ、結局は鉄鋼労働者組織委員会を団体 交渉の代表と認めざるを得ないということを察知していた・景気は回復して来た時でもあり︵それから間もなく、 夏には、激しいリセッションが始まったが︶、ビジネスは好転し、不況の初めの時期における会社の損失を取戻せる 見込みがあると考えられていた時に、ストライキによって生産を阻害されることの愚を知っていたはずである。 また、﹁組合を承認し、長い高価なストライキを避けることは、競争会社で組合承認問題をめぐってストライキ が行われるなら、U・S・スティールは競争会社に優越する地位を確信することができるということを意味してい た﹂のである。テイラーは情勢を判断するに敏であった、ということができるかも知れない。しかし、彼がCI Oの勢力の増大や全国労働関係局を通じて加えられるニュー・ディール政府の圧力を十分に考慮に入れていたに せよ、﹁鉄鋼労働者組織委員会がたんに自己の力を示威しただけでLU・S・スティールの頭脳である彼が屈服し たと言うのは不当であろう。ストライキも行われないうち、﹁何らの前触れもなしにL労働者の要求は容れられ たのである。彼が前年十一月のそれに続き、再び一○パーセントの賃上げを承認したことは、彼が組織労働者に 多分に好意を持っていた証拠にはならないだろうか。右に引用したような、﹁テイラーが最近のジェネラル・モ ーターズに対する勝利によってすっかり権威を加えたジョン・L・ルーイスと交渉をつづけていたのだがLとい う敍述は、たとえそれが事実であったとしても、それだけの敍述では、テイラーが、ルーイスの権威あるいは威 力の前で屈服をやむなくされたという印象を与えるだろう。労働者の気勢をあおるのが目的であればそれでいい かも知れないが、より詳しい事実、その著者たちが自らつけた書名Labor's 130一一− "Um^ir\^i4111m ︵untold story︶はヽこうであるoー一九三七年三月十七日に結ばれたカーネギー・イリ ノイ会社と鉄鋼労働者組織委員会との協定は主としてテイラーとルーイスの個人的な交渉の所産であったが、テ イラーとルーイス︵ゲイリーの目をもって見れば、この男こそ、無責任な外部の煽動者の元凶であった︶ は、フランクリ ソ・D・ローズヴェルト大統領の個人的な勧説の後、二人の共通の友人であったH・C・フリック石炭会社のトマス ・モーゼスによって引き合わされたのであるa。そして彼等は、﹁ジェネラル・モーターズに対する勝利﹂以前に 知りあっていたのである。四十四日間にわたるストライキ︵主に坐り込みスト︶の後、一九三七年二月十一日に、 ジェネラル・モーターズは組合を承認し、労働時間や賃金やスピード・アップについて団体交渉に応じるであろう と声明し、三月十二日に、ストライキが行われた工場においては、六ヶ月間、全米自動車労働組合︵United mobile Workei's︶にのみ団体交渉権を与える契約。に署名したが、ストライキが行われていた頃、テイラーは﹁秘 Steel︶の経営者たちのそれと比較すれば興味深い。後者こ 叫る﹂のである。 密裡にジョン・L・ルーイスと会っており、⋮⋮全米自動車労働組合を承認するよう、。ジェネラル・モーターズ の経営者たちにしきりに勧めていたと伝えられてい テーラーの態度といわゆる﹁小製鋼会社L︵Little そ、政府の︵とくに全国労働関係局を通じて行使される︶権力を、より従順に受け入れそうなものではなかったか。 彼等こそ、CIOやルーイスの権威や威力に屈しそうな相手ではなかったか。ところが、彼等は大製鋼会社の経 営者と反対に、公然と戦う道を選んだのである。これらの会社の一つ、リパブリック製鋼会社のトム・ガードラー は、製鋼業はテーラーに裏切られたと語り、﹁わし自身についていうならば、CIOとの団交に署名するくらい なら、社長を辞職してリンゴでも植えるだろう﹂と言い、﹁わしは決してアメリカを共産主義の手に引渡す役割は AutO:: 131 演じないだろう﹂と宣言したa。彼は、自伝の中で、﹁われわれの工場が包囲された時、私は、CIOの指導者たち は、ただ、労働者に、かれらの組合に加入し、組合費を払うことを強要しようと欲しているだけなのだ、と言って いた。私は、彼等は、労働者を助けようと思っているのではなくて、自分たち自身のために、巨大な政治上および 経済上の権力を獲得しようと欲しているのだ、と言っていた﹂と書いている。このような例は、小会社の経営者 あるいは小企業家こそ、保守的な精神の保持者であり、マルクス主義者の攻撃が妥当でありそうな、古い時代の 資本家に近いものだということを示しているように思われる。いずれにせよ、U・S・そティールが決定発表す る鉄鋼価格に他の競争会社が追随したように︵そのようにして定められる価格はアドミニスタード・プライスとしてしば しば非難の的になっているが︶、テイラーの新しい労働政策は他の多くの会社の経営者の追随するところとなり、カ ーネギー・イリノイ会社と鉄鋼労働者組織委員会との協定は多くの会社において模写されるに至ったのである。 テイラーは、﹁私の手の一払いで国内の労働組合を廃止できるとしたって、そんな気はありません。実際かれ らのおかげで仕事が乱れないのです。しかしわれわれは勢力の均衡ということに注意を払っています﹂と言って ー に似ているように思われる。オズボーン・エリ attheTopの中で、﹁トップ・マネジャーたちは現実主義者なのだから、労働組合主義の事実 いる現代の経営者︵レタソール薬品会社社長、ジャスティン・ダート蝕 オットは’ Men を認めても驚くに当らない。しかし、多くの人々は、労働組合主義の事実をただ認めるにとどまらず、組織労働 者が二十世紀の資本主義を生活力のある制度に造り直すことを助けることに主要な、そして有益な役割を演じた と信じているのである﹂と述べている叫が、テーラーは現実主義者として労働組合主義の事実を認めた時、組織労 働者がそのような歴史的使命をになっていると考えることができたとさえ思われる。 一一132一一 テイラlによる再建以来、U・s・スティlルでは従来の一人支配︵one-man mand︶にとって代わられてきたことおよび、明らかに集団指揮の時代に入ったと思われるのは一九三八年にテ イラーに代わってオlルズが取締役会会長に就任し、フェアレス、ヴァヒlズ、ステティニアスがトップ・マネジメ ントの地位を引継いでからのことであるということは、さきに指摘したところであるが、フェアレス、ヴァヒl ズ、ステティニアスの三人のうち、フェアレスが社長に任命され、ヴァヒlズは財務委員会の委員長に指名された。 この年、同社の定款が改正され、それ以後、会長はもはや、ことさらに最高経営担当役員とは呼ばれず、社長が最 rule︶が集団指揮︵group ㈲ 高管理役員︵chief administratio vf eficer︶という新しい肩書を与えられている。それでは、取締役会会長の役 割は何か。R・A・ゴlドン教授︵カリフォルニア大学︶によれば、U・S・スティlルにおいては、一九四一年 には、社長は業務を担当し、財務委員会委員長は財務問題を処理するのに対し、取締役会会長はパブリック・リ Dynamicsof American Economyの中で、フェアレス、ヴァヒlズ、 呻 レイションズを担当し、また会社の業務の全般的見通しをも行うものと考えられていた。チャールズ・H・へッ ション教授︵ブルックリン大学︶はThe い る。彼はオハイオ州の炭鉱業者の子で、オハイオ・ノ ステティニアスの三人による三頭支配が行われたと述べているが、同時に、この三人のうちの中心人物は、就任 当時四十七才だった社長フェアレスであったと指摘して ーザン大学を卒業︵土木工学を専攻︶し、鉄鋼技術者としてのみならず、鉄鋼セlルズマンとして人目を引く業績 をあげていた。彼の経歴は新しい、現代の大会社の経営者の一つの型を示すものであり、そのような経歴の理解 たくしては、現代の経営者ないしは企業家の精神がいかにして形成されたかということを理解し得ないと思われ るが、そのことについてはそのよりよい例として次項にスタンダlド・オイルのフランク・エイブラムズを取り com- 一一一一 ----133 上げる際に述べたいと思う。 フェアレスが社長に就任した頃までに、その会社の鉄鋼生産が全米のそれの中で占める比率は三十三パlセン トに低下してしまっていた。競争会社の挑戦は激しくなっていたし、U・S・スティlルの価格指導権は失われて いたのである。フェアレスは、価格の下落に直面して同社が絶えず顧客を失って行き、市場が狭められている危険 を見て、ファレlル前社長が﹁すべての価格変更は自分の許にもってこなければいけないと主張することによっ て、彼自身を︹同社の発達のための︺隘路にしていたL事態を改善したな。この例が示すように、彼は、従来社長に Review誌の問いに対し、自分を競技の 属すると考えられていたような業務上の権限の分散を行い、職能別専門化の傾向を拡大させた。彼は、戦後に なってからのことであるが、﹁社長は何をなすべきか﹂というDun's 監 督 の よ う な も の と 考 え て い る 、 と 答 え 助た。彼のような考は、彼と同時代のあるいは彼の後に現われた他の大会社 ード・H・グリlンウォルトは﹁経営担当者は有能であればあるほど、彼自身の正体と個性 の社長あるいは取締役会会長︵肩書のいかんにかかわらず、最高経営担当者︶の間に広がってきたのである。デュポ ン社の社長クロフォ はますます彼の組織の背後にとけこんでしまう⋮⋮その人が有能であればあるほど彼は目立ないし、直接、接触 す る サ l ク ル 以 外 で は 彼 の 名 は ま す ま す 知 ら れ な い も の に な る も の だ ﹂ と 言 っ て い る 。 匈このことについては、そ れが経営者の﹁働く動機﹂をいかに変えたかということと共に、後に詳しく取上げたい。また、フェアレスは、 U・S・スティlルの他の役員と共に、同社は、ある想定操業規準のもとで、﹁適正収益﹂を達成することを目 標としており、その政策は、﹁コスト・プラス適正利潤と見合った最低価格で﹂売ることであると述べいるが、彼 のいう適正利潤の意味と適正価格の定義は、彼の経営者哲学を知るのに役立つだろう。TNEC︵臨時国民経済調 134一一 査委員会︶での証言の中で、彼は次のように言っている。﹁ある価格は、もしそれによって、私たちの会社が適正 な収益をあげろことができれば適正といえます。すなわち、その価格によって、もし会社の従業員に高賃金を支 払い、会社の機能を調子のいい状態に保ち、会社の設備を鉄鋼業内部ての発展に遅れないようにしておくことが でき、さらにできれば、株主に適正な収益を支払うことができるならば、これは適正価栴であります一ごと。この 言葉のなかで、彼は、なにより、経営者の果たすべき従業員に対する責任と株式会社という巨大な資産の管財人 としての責任を主張しているのである。 フェアレスは、一九五〇年に、下院司法委員会の独占力調査小委員会で、﹁政府は︹第二次世界大戦中︺、われわ れの国家の安全保障のために必要な仕事II不可能に近い生産上の仕事︲I−を行っていると、その産業設備の巨 大さを自慢し、敬意を払っていました。政府は、U・S・スティールに、単独で、すべての枢軸諸国の全生産高よ り多く生産するよう要求しました。そして、わたしたちはそれを行いました。政府は、わが社の大きな研究所と 熟練した技術者たちに、。携帯包飛行場といったような、おとぎ話にでも出てくるような不思議なものを設計し、 創造することを要求しました。わたしたちはそれを行ないました。政府はわが社の経営者に、その経験、独創力、 能率、知識のすべてを用い、政府のための巨大な新しい製鋼施設を建設し、人員を配置し、経営するよう要求し 叫 ました。わたしたちはそれを行ないました。そして、政府はわれわれ︵わが社︶を賞賛しました。⋮⋮U・S・ スティールは、大きな国が戦時および平時においてそれに求めた大きな仕事を行なうためにIIIそして、それを 立派に行なうためにIII、大きなものにならなければならなかったが故に、大きくなったのであります。それは、 アメリカが成長するにつれて大きくなったのであります。そして、それは、アメリカの成長と繁栄と安全への道 一一- 一一135 程のどの段階においても貢献して参りました帥﹂と述べたが、彼は1彼の会社が独占体あるいはオリゴポリスト ︵少数独占を行っているもの︶であるという非難を受け止めながらII︱・ビッグ・ビジネスとその経営者の国家に対す る責任を論じているのである。 彼を﹁死の商人﹂と考え、彼の言葉を﹁死の商人﹂の自己弁護と解釈するのは不当である。彼やその他のU・ S・スティールの経営者が、軍需品生産による利潤を求めて、政府に戦争を売りつけたのではなかった。軍需品の 生産は、外国における反民主主義勢力の攻撃を防止しようとした政府が求めていたものであり、財界・実業界の指 導者たちの多くは、少なくとも一大四〇年の秋までは、連合国を経済的に援助する政策さえ、これを戦争に近づく 政策であるとして、反対し、いわゆる﹁資本家の坐り込みスト﹂が行われていたのである。彼等は、彼等の先輩た ちが第一次世界大戦の際に連合国に援助を与え、合衆国を大戦に巻き込み、それによって巨額の利潤を収めたと民 衆の非難の的になっていることを知っており︵一九三四年の上院のナイ委員会の調査は民衆の非難を再燃させた︶、彼等 自身も﹁死の商人﹂という烙印をおされることを恐れていたこと、軍需目的のために生産設備を改造あるいは増 設することは、戦争の危機あるいは戦争が永続し、軍需品の発注が長期にわたって継続して行なわれなければ、採 算がとれないものだと知っていたこと︵第一次世界大戦後のU・S・スティールの収益の激減は当時なお記憶に新しいこ とであったし、より近代化された生産設備の改造と復旧は第一次世界大戦当時のそれとは比較にならぬ程多くの費用を要する ものである︶、またかくして拡張された生産のために雇入れた労働者を、平和回復後、軍需発注の減少と共に、整 理することは、労働者の抗議と民衆の非難を招くものであると予想していたこと、さらにニュー・ディールによ って強化されてきていた、アメリカの実業家が伝統的に嫌悪してきた﹁ビジネスに対する政府の干渉﹂は、戦時 -一一 一136 体制への移行と共により一そう進められると考え、戦争に近づくことを恐れていたことを想起する必要がある。 国防の強化と戦争は、また、原料の価格の騰貴と増税を伴うものである。これらのことに就いては、﹁孤立主義 の放棄とニュー・ディールL︵本誌第七号所収︶および﹁第二次世界大戦の接近とニュー・ディール﹂︵本誌第ハ・ 九合併号所収︶において述べておいたが、さらに、ここで、とくに巨大会社の﹁被傭経営者﹂型の経営担当者は、 会社に一時、巨額の利潤をあげさせるよりもllそれに伴う彼等自身の経済的利得はさして多くないIIII‘、彼等 がそれの管財人であるという意識を持つに至っている株式会社という巨大な資産の安全を図ることを、より重要 な任務と考えるものであるということを補足し、強調しておきたい。U・S・スティールの経営担当者の軍需生 産と戦争に対する基本的な考は、とくにそうであった。 U・S・スティールの経営担当者は、ジェネラル・モーターズのそれも同様であるが、国際危機の増大と戦争 の到来と共に、国家の安全の防衛に協力することを義務と考え、彼等の会社に﹁国家の安全の安全保障のために 必要な仕事−II不可能に近い仕事Lを行わせることに、とくに経営専門家としての誇りを感じるに至ったと思わ れる。このことは、大会社の最高経営担当者は、さきに指摘したようこ、﹁その人が有能であればあるほど⋮⋮ ・:接触するサークル以外では彼の名はますます知られないもの﹂になってきていた一方、巨大な会社の最高経営 担当者という職といえど、連邦政府の高級官吏、医師、大都市の市長、大学教授などのそれより、社会的に低く 評価されていた︷戦後に至ってもそうである如が、このことと経営者精神に対するその影響については、続稿において取上げ る︶I−‘’従って、彼等は、より広い社会的・国家的範囲で活勤し︵多くのトップ・マネジャーが共同募金運動やその他 の慈善事業に積極的に協力しているの叫もその一例である︶、会社のPRに努めるのみならず、彼等自身の名をあげ、存在 --一一137一一 を明らかにし、社会的信望あるいは威信を高めようと努めるものになっている−︼ことに関係がある。 大会社の経営者にして、ニュl・ディlルを行なった民主党政府によく協力したものとして忘れることができ ないのは、オlルズに代わってU・S・スティlルの取締役会会長になったエドヮlド・R・ステティニアス︵二 世︶ である。 ResourcesBoard.WRB︶の局長に選ばれ、一九四〇年五月には国防 Defense AdvisoryCommission N。 DAC︶の委員に任命され、一九四一年十月には武器貸 彼は一九三九年八月に戦時資源局︵War 諮問委員会︵National 与局︵Lend-Lease Administration︶の長官に就任し、国務次官︵一九四三∼四五年︶、国務長官︵一九四五年︶を歴 任した。実業家がワシントンで重要なポストに就いたことは過去に多くの例があることである。しかし、彼の場 合は、ハリソン、ハlディング、フlヴァーなどの共和党政府に、実業家たちが彼等自身の利益を促進するため に加わったのとは趣きを異にしている。過去の、とくに共和党の政府は︵シオドーア・ローズヴェルトの政府はその 中の顕著な例外であるが︶、財界・実業界の支配下にあり、その利益を図っていたものであるが、フランクリン・D ・ロlズヴェルトの民主党政府はウォlル街やビッグ・ビジネスの援助を求めずに成立し得たものであり、銀 行家・実業家による政府の支配を排除したことに、その歴史的意義の一つを見出すことができるものである。 ステティニアスがU・S・スティlル在職中に戦時資源局の局長や国防諮問委員会の委員を兼務したとしても、彼 が、彼の会社あるいは製鋼業の利益を擁護促進するために、あるいはニュl・ディlルの進路を阻み、政治に対 する実業家の支配権を奪回するために、政府内部に足場をつくろうとしたと考えるのは不当であろう。彼は、ロ 一一 --138 lズヴェルト大統領によって、国家的見地から、招致されたのである。 ステティニアスが、後に、武器貸与局長官、国務次官、国務長官などに就任するよっになるきっかけは、戦時資 源局局長や国防諮問委員会委員としての彼の業績によってつくられたのであるが、まず戦時資源局の局長に彼が 任命された理由を見よう。戦時資源局は、陸海軍軍需品局︵Army-Navy Munitions Board︶が作成した戦時に おける産業動員の計画を再検討させるため設置されたものであるが、ロlズヴェルトの真の目的は、孤立主義外・ 交政策の放棄と戦時体制に対する国内の、とくに実業界の反応を知ると同時に、対外的には、政府は、世界の事 件に対して、議会のように無関心ではないということを枢軸国に警告することにあったのである。彼が招致され た理由は、彼がU・S・スティlルの取締役会会長として実業界の指導的地位を占めていたばかりでなく、彼が ー’︲︲Iエリオット・ジェインウェイによればII﹁ニュl・ディlルによって生ぜしめられた最もセンセイショナ ルなドラマーーーアメリカにおいてオlプン・ショップ時代を終わらせ、ビッグ・ビジネスがロlズヴェルトに反 対して形成しようと努めていた共同戦線を分裂させた、ビッグ・スティlル︵大製鋼会社︶の、労働者との新しい 協約・−1の主人公の一人として、マイロン・テイラlと共に、姿を現わした﹂人物であったことと、また彼が、第 一次世界大戦中、英・仏政府の財務代理人J・P・モlガンに命ぜられ、英・仏両国に供給すべき武器・軍需品を 調達し、後にウィルスン内閣の国防次官補を勤め、さらに連合国間軍需品委員会の委員にもなったエドヮlド・ R・ステティニアスの子であり、ロlズヴェルトは、父ステティニアスの能力と功績を期待したと同時に、同姓同 一 名の彼の名はドイッに第一次世界大戦中の合衆国の対英仏援助を想起させることができると考えたからである。 また、ジェインウェイは、ロlズヴェルトがそのようなモlガン系の実業家に産業動員計画の作成を託したのは、 139 −一一 彼が非難を受ける場合の身代わりをつくっておく必要を感じたからだ、と判断しているa。ローズヴェルトは、モ ーガン系の実業人によって支配され、労働者や農民の利益代表を加えられない戦時源資局に労働者や農民の非難 が集中するものと予想し、後に本格的な産業動員機構をつくる時には、実業家の協力を求めねばならないにして も、それによって、実業界の人々に、労働者と農民の支持や協力なくしては何事もなし得ないものだということを 熟知せしめておこうという効果を狙っていたように思われるが、そうであったとしたら、かれの企ては確かに成 如 功したのである。同年十一月に戦時資源局が報告書を提出するや、ローズヴェルトはステティニアスに感謝の手 ofNational Defense=陸軍、海軍、内務、農務、商務および労働の各省の長 紙を送った後、同局を棚上げしてしまったが、それは、実業界の人々に前記のようなことを認識せしめる教育機 関の役を果たしたと思われる。 国防諮問委員会1︲︱−国防会議︵Council 官によって構成︶の諮問委員会︵七名の委員で構成︶l︲は、﹁軍備増強計画実施のため、産業を一致協力して努力 せしめるためLに設置されたものであるが、ステティニアスは、工業部門担当のウィリアム・S・ヌードセン ︵ジェネラル・モーターズ社長︶、輸送部門担当のラルフ・バット︵アメリカ鉄道技術協会理事、シカゴ・バーリングトン &クウィンシー鉄道会社取締役会会長︶、労働部門担当のシドュー・ヒルマン︵C10加盟全米衣服仕立工労働組合委員 長︶、農業および食料品生産部門担当のチェスター・デイヴィス︵セイント・ルイス連邦準備銀行頭取︶消費者保護 担当のハリアット・エリオット︵サウス・カロライナ大学女子部長、消費者価格の研究家︶等と並んで、原料部門担当 の委員に任命された。彼は、国家の安全の危機が深まりつつあった時、政府に協力し、ニュー・ディールの哲学 をより深く学び、新しい時代における経営者の態度について多くの教訓を得ることができたであろう。 140 −−-- いずれにせよ、ニュー・ディールと第二次世界大戦は、企業家精神に対してもはかり知れない影響を及ぼし た。大恐慌によって、実業家は、あのスペンサー主義によって鼓舞された自信を失い、政府に救済を求め、政府の 権力の増大をやむを得ないものと認め、広い視野に立って資本主義の行きづまりを打解し、その更生を図ろうと する政府の政策に協力する態度をとるようになった。景気の好転と企業の健康状態の回復と共に、実業家のうち には、ローズヴェルトが言ったように、﹁︹かって救済と治療を与えた︺医師に松葉杖を投げつける匈﹂ような態度を 示すものが現われてきたとしても、実業界の基本的態度は、その利益をよりよく代弁しているものと考えられた 共和党の一九四〇年の政綱からある程度推測できるように、自由放任主義に終止符をうち、連邦政府の経済規律 権を拡大し、ビッグ・ビジネスの力を抑えると共に、労働者と農民の地位を向上せしめ、社会保障制度を充実させ て、資本主義に新しい活力を与えながら、社会福祉国家を建設するというニュー・ディールの理想を否認するも のではなくなった。実業界の態度の変化は、国家の安全の危機の増大と、ニュー・ディールによって元気づけら れた労働者およびその他の一般大衆の圧力によって促進されたが、この後者については、現代の実業界の人々の 政府に対する態度や彼等の政府入りの動機や目的についてと同様、後に述べることにし、ここでは、そのような 変化の過程を示すにとどめた。 -一一141 ---―- -142- 一一-143一一 n 次に、ニュージャージー・スタンダード・オイル会社のフランク・W・エイブラムズに注目したい。彼は、前 述のU・S・スティールのトップ・マネジャーたちよりも、もっと新しい時代を代表する、もっと新しい型の、そ してもっと新しい経営者哲学を持った経営者である。彼のそれがもっと新しい経営者哲学であったと言っても、 それは、彼以前の、特に本稿で既に取上げたような軽営者たちによって保持され、発達せしめられてきていた現 144 -一一 代的な経営者哲学p企業家精神が彼によって集成され、さらに一そう現代的なものに昇華されたものである。 田 エイブラムズは、アlサl・H・コlル教授︵ハlヴァlド大学︶も特に注目しているように、会社の機構の下 部から上昇してきた﹁ビュlロlクラティックな経歴﹂を持つ被傭経営者型の最高経営担当者であり、そして会 社の最高の地位を占めていた時も、経営者グルlプの指揮者あるいは指導者としてではなく、その中の一員として 行動しつつ、そのチlムワlクを維持することに努めると共に、経営者を株式会社という巨大な資産の管財人と 認め、自分自身の利得のためよりは、自分たちがそのような資産の管理を引継いだ時よりもそれをもっと健全に して安全な状態にするために努力すべきものと考え、そしてそのようた経営者の職業を、医師・教師・弁護士のそ れらに並ぶ知的専門職業︵profession︶と認められるよう、公共社会に献身的な奉仕を行わなければならないと 説いていた。彼は一九五〇年にニュlヨーク大学から名誉商学博士の学位を授与されたが、その理由はわれわれ の興味をひくだろう。同大学が彼に名誉学位を授与する際に与えた学位記は次のように述べている。 ﹁技術者および経営管理者としての意義深い業績のために、石油精製︹の方法︺を限られた機械技術的な方法 から現在行われているような化学的に精密な製法に発達せしめるために演じた役割のために、従業員の福祉に対 する心からの配慮と彼等のためにした多くの善行のために、社会と国家に対する産業上の責任を進んで引受けた ということのために、学術機関の擁護者としての神の啓示に従った聖戦のために、アメリカの良心の象徴である ということのために、尊敬と賞賛の念をもって、名誉商学博士の学位を授ける︵︵ブ 彼はシラキュlス大学︵ニュlョlタ州︶で土木工学を専攻し、一九一二年に卒業すると殆ど同時にニュlジャ lジl・スタンダlド・オイル会社の子会社に入社したが、彼はスタンダlド・オイル機構の殆ど最底部から、 一一145−一一 イーグル工場︵ジャージー市︶の製図工として、スタートしたのである。一九二二年にその工場の支配人になっ たが、一九二〇年代の中頃スマトラに建てられる大きな精油所の建設の監督を命ぜられ、任務を果した後、ジャ ージー地区で行われる石油精製の全責任を託された。一九二七年に現在エッソ・スタンダード会社になっている 会社の管理委員会の委員に選ばれ、一九三三年にその社長に任命された。そして、七年後に、本社、ニュージャ ージー・スタンダード・オイル会社の取締役に選ばれ、一九四四年にその副社長に、その翌年には取締役会会長に 就任し、一九五四年に隠退するまでその職を維持していた。このような経歴、会社の機構の殆ど最下部から上昇 した、典型的なビューロークラティックな経歴は、彼の時代のスタンダード・オイルの取締役の間でさえ、普通 に見られることであった。エイブラムズによれば、﹁取締役会は十四名から成り、彼等はそれぞれ、金融、労働 関係、PRおよびその他の問題に精通している人たちです。私たちの中には、多数の子会社と接触している連絡 係もいますし、特殊な分野での経験を持つ人たちもいます。私たちは皆会社で育った者なのです。﹂ かってはロックフェラー一世の支配によって特色づけられたこの会社でさえ、会社の資本の代表的な所有者や 供給者によってではなく、会社の中で育った一群の専門的な経営者によって運営されるに至っていることは、特 に注目に値することである。大多数のアメリカの大会社で、このような専門的経営者が勃興してきた理由のうち 最も重要なものは、能力、知識および頭脳の所有が資本の所有より遥かに重要になったことである、とジョン・ ケネス・ガルブレイスは説いている。これらの事情が現代の経営者哲学lu企業家精神の形成に大きな役割を果し たことは疑問の余地がない。しかし、さらに、エイブラムズによれば、﹁今日の複雑な世界において成功を収め るビジネス経営者たるための不可欠な条件はL技術の教育や訓練によって修得された知識などではなくI︵彼が技 -146- balancw eheel︶の役を勤 術者出身であるため、特に注意したい︶、﹁公共の福祉に対する責任感と公共の福祉と一体になっているという思識﹂ な の で あ る ㈲。 彼は、﹁現代の社会では、最高経営担当者は、三つの利益集団IIそれらのすべてが産業の生産高に利害関係 を持っている、所有者︵株主︶、従業員および公衆の利益集団1に対して平衡輪︵a める機会”I1実際には、義務と言うべきでありましよう。︱︲︱−1を持っていることが明らかになりつつあります。 経営者は、従業員や公衆の要求についても同じように、公正にかつ思慮深く働くことによって、所有者の利益を 最もよく代表することができるのであります。それは、困難ではありますが、絶対必要な任務なのでありますL と説き、また、﹁経営者が、株主、従業員、顧客および一般公衆の要求の間に調和のとれた均衡を保たせること に成功した時、︹会社は︺社会的に最も有益なものになります。しかし、最も広い意味で、経営者の責任は⋮⋮ 善 良 な 市 民 ︹ で あ る こ と で あ り ま す 哨︺﹂と言っている。彼がこのように経営者の社会的責任を説いていても、彼 を、崇高な利他主義・没我主義の精神の所持者と考える必要はない。彼は偽善者でもない。彼は自由企業制度と 彼が自分と一心同体ののものと考えていた会社の擁護と繁栄のために、さらに経営者の社会的威信の向上のため に、十分利己的な意図をもって、そう説いていたのである。彼によれば、﹁私企業の生存のためには、私企業が、三 つの要素、すなわち、利潤に対する個人の権利とそれ︵利潤︶の社会的必要、すべての労働者の経済的欲求と人間 としての向上心、安い値段で豊富な物資をという公衆の要求の間に、生産的にして公平な関係を維持するように働 くことが必要だということは、私には、この上なく明白なことのように思われます。他の方法を選べば、明らかに 産業界の紛争を激化し、がまんできなくなった公衆の要求によって政府の取締りが強化されることになります︵・・ −一一147一一 彼にとって、経営者の社会的責任感の振起は、私企業と資本主義の維持と発達のために絶対必要なことてあった のである。 ︹本項未完・以下次号︺ -148-