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21 霞ケ浦の治水と利水

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21 霞ケ浦の治水と利水
霞ケ浦への招待
ファイル 22
§21
21.1
霞ケ浦の治水と利水
居切堀(いきりぼり)
霞ケ浦の洪水被害が大きくなる原因のひとつに水の落ち口が狭すぎることがあります。このため、北
浦から鹿島灘に水を抜く放水路計画が文化文政時代から検討されましたが、実現には至りませんでした。
幕末になると、水戸藩浪人中館広之助が「居切堀」(鰐川の居切から鹿島灘に抜く放水路)の掘削を水
戸藩に願い出て、幕府もこれを許可しましたが、着工前に維新となります。新政府は慶応 4 年(1868 年)
に改めて許可し、中館は工事にかかりますが、地元の反対が強く、進捗を見ないまま手を引いてしまい
ました。その後、曲折を経て、工事は東京府の士族授産事業に引き継がれ、居切堀は明治 4 年(1971 年)
に完成したようです。堀が完成してみると、周囲の水田は水をとられて干上がり、増水時には北浦の水
を引き寄せて氾濫するうえ、河口は漂砂で埋まってしまいました。このため堀は排水路でなく用水路と
して使われましたが、明治 43 年の洪水では河口の砂を退けて排水したといいます。居切堀はいま掘割川
(鹿島港中央航路に向かう水路)として残っています。現在の霞ケ浦でも、大洪水に備えるためには利
根川を経由しない放水路が必要だと考えられています。
21.2
近代治水のはじまり
河川工事には低水工事(舟運の確保を目的とする)と高水工事(洪水防除を目的とする)があります。
明治の新政府は内陸輸送の根幹である舟運の確保に努力して、洪水防除は局地的な問題として地方にま
かせました。政府が 1880 年に治水経費を地方税負担としたところ、茨城県では土木費を治水に向けたい
県南県西選出の県会議員(河川党)と道路優先を主張する県央県北選出の議員(山岳党)との間に深刻
な対立がおこり、分県騒動にまで発展しました(旧茨城県と新治県および印旛県の一部が合併して新し
い茨城県が発足してから 10 年あまりのころです)。
利根川改修計画
明治 20 年代(1887~96 年)の利根川は 1888 年、90 年、96 年と大洪水を起こし、国による利根川治
水の必要が叫ばれました。このころになると近代国家の整備が進み、政府(内務省)は低水工法を高水
工法へと切り替えはじめます(鉄道の敷設が進む時代です)。1896 年に「河川法」が公布されて利根川は
国管理の河川となりました。利根川の抜本的改修には膨大な経費を要することから、なかなか手が付け
られませんでしたが、明治 32 年になって「利根川改修計画」(30 年計画)が帝国議会を通過し、改修
工事は翌明治 33 年(1900 年)に佐原から始まりました。この計画のうち霞ケ浦に直接関係する部分は
① 霞ケ浦への逆流を防ぐため横利根川を締め切り、舟運があるので閘門を設ける
② 利根川と霞ヶ浦を分離し、利根川の通水能力を高めるため横利根分岐点から笹川まで新川を開削
する
の 2 点です。①に対応する横利根閘門(稲敷市西代地先)は 1921 年に完成しました(平成 12 年重要文
化財に指定)。横利根閘門は昭和 10 年代まで年に 5 万隻の航行があって、いまも年に 1000~2000 隻の
漁船や釣り舟が通過しています。②に対応する利根川改修は 1930 年に完工し、利根川の現河道が出来あ
がりました。改修以前の西浦の水は 2/3 が北利根川経由で、1/3 が横利根川経由で利根川に落ちていま
したが、横利根川を締め切るとすべてが北利根川経由で落ちることになるので、茨城県は北利根川、常
陸川を幅 109m、水深 2.1~2.4m に浚渫拡幅する計画を立てました。この拡幅工事は 1985 年になってよ
うやく完成しています。
利根川増補計画 利根川の大改修が終わって 5 年後の 1935 年に利根川の大洪水が起こります。内
務省は「利根川治水検討専門委員会」を設置して再検討を始めますが、1938 年にも大洪水(昭和 13 年
洪水、7日間雨量 600mm、順流、霞ケ浦最高水位 YP+3.34m)が襲います。政府は翌 1939 年に「利根川増
補計画」を策定し、15 年事業として着工しました。この計画は常陸利根川を拡幅し、本新島地先の利根
川堤防に排水門を設けるとしましたが、日本はまもなく戦時体制に突入し、工事が進捗しないまま終戦
を迎えます。この間に 1941 年の大洪水(昭和 16 年洪水、逆流、霞ケ浦最高水位 YP+2.90m)が起こっ
ています。「利根川増補計画」とは別に、本新島~十六島~外浪逆浦~掘割川~鹿島灘という新水路を
掘削する計画があり、茨城県が一部着工しましたが、財政上の困難と「漂砂による河口の閉塞を避けが
たい」との理由で 1946 年に工事中止となりました。
横利根閘門
(広報広聴課資料)
居切堀
内浪逆浦
与田浦
横利根川
八丁面
霞ケ浦下流域の利根川改修計画
(霞河川資料)
朱線が計画河道(現河道) ○印は旧利根川河道
21.3 霞ヶ浦治水方針の決定
利根川改修改訂計画
終戦の翌年(1946 年)、戦後の混乱のなかで「利根川増補計画再検討委員会」が設置されました。同
委員会は 1947 年に中間報告をまとめ、霞ケ浦に関しては「新たな放水路を開削するよりも北利根川、常
陸川を拡幅するほうが地形的にも経費的にも妥当である」としました。これを受けた建設省(内務省を
廃し 1948 年設置)は 1949 年に「利根川改修改訂計画」を策定し、その中で霞ケ浦治水の基本方針を次
のように決定しました。
順流による昭和 13 年洪水と逆流による昭和 16 年洪水をふまえ、
①
霞ケ浦の最高水位を YP+2.85m 以下とすること
②
YP+2.00mを超える高水の継続を 7 日以内にとどめること
この基本方針は現在に引き継がれています。基本方針の達成には利根川上流のダム群建設(洪水調節)
と霞ヶ浦放水路の建設(北利根川・常陸川の拡幅浚渫)が必要です。茨城県は知事を会長とする「霞ヶ
浦治水利水対策委員会」を開催し、北利根川・常陸川の改修を決議しました。利根川水系の上流には奈
良俣・草木・川治・矢木沢などのダム群が建設されてゆきました。
霞ヶ浦放水路事業(常陸利根川の改修) 利根川改修改訂計画の実施にあたり、水理上の審議、
沿岸開発計画の策定、地元との調整などを行うため、1949 年に建設省・茨城県・千葉県で構成する「利
根川下流開発委員会」が設置されました。この委員会は改修改訂計画の基本方針を再確認し、治水の基
本条件を 1941 年洪水にとって、
・北利根川を底幅 240m 深さ YP-3.0m に浚渫、拡幅する
・常陸川を底幅 240m 深さ YP-3.3mに浚渫、拡幅する
・両河川の両岸に YP+3.5m の堤防を築く
という計画を固めました。この計画に基づく事業を「霞ヶ浦放水路事業」といいます。
1948 年、常陸川~外浪逆浦~北利根川を「一級河川常陸利根川」に指定して霞ヶ浦放水路事業が開始
されます(常陸利根川という名称のはじまり)。はじめ茨城県が着手しましたが、1953 年から国(利根
川下流工事事務所)の直轄事業として進められました。
北利根川の拡幅では、人家が密集する茨城県側を避けて千葉県側に 100m 広げることとしましたが、そ
れでも家屋の立ち退きが必要でした。工費は不十分(当時、国の治山治水経費は 300 億円程度で要改修
直轄河川は 100 本、貧乏県の茨城県は分担金納入もままならない)、立ち退きの反対もあって工事はな
かなか捗りませんでした。それでも浚渫・引き堤・築堤の工事は 1965 年ごろから本格化し、1970 年か
ら「霞ヶ浦開発事業」に引き継がれて、放水路の全体は 1985 年に北利根川 9.2km、常陸川 12.0km の合
計 21.2km としてほぼ完成しました。
浚渫拡幅が進むにつれて、利根川から常陸利根川に逆流する塩水が増え、霞ケ浦下流域で汽水性の魚
介類が獲れるようになります。1953 年には外浪逆浦と北浦南部でマハゼの、1958 年には潮来でヤマトシ
ジミの漁獲があり、常陸川のシジミ漁は 1958 年から漁業統計に載るようになりました。シジミ漁は 1965
年に麻生まで、1967 年には稲敷市地先まで広がりました。
逆水門設置の計画 茨城県は利根川下流開発委員会で常陸川の背割堤(スムーズな合流のため2河
川を並流させる両河川併用の堤防)を延長すること、利根川からの逆流を防止する逆水門を設置するこ
との 2 点を要望しています。委員会は「水門は順流型洪水に無効であるが、逆流型洪水では最高水位を
水門で 60cm、霞ヶ浦放水路で 20cm の合計 80cm 低下させることが可能である」との結論に達して、水門
設置の方向で検討することとしました。逆水門の設置は 1953 年に採択されています。
十六島総合開発(水郷景観の消滅) 河川の浚渫拡幅には浚渫土砂の処分地が必要です。霞ヶ浦
放水路事業で掘り出される大量の土砂を処理し活用する方策として、建設省と千葉県の事業に茨城県が
協力する「十六島総合開発計画」が策定されました。新島地区について、遊水池と排水路を残して与田
浦を埋め立て耕地化する、低地水田を土盛りして土地改良する、附洲の水門施設を拡大して排水機を増
設する、水路(エンマ)に頼る交通を陸路に切り替えるよう整備する、というものです。この事業を「十
六島総合開発」と呼びます。工事は霞ヶ浦放水路事業と並行して進められ、これによってエンマを巡ら
す水郷の中心が消えました。
北利根川(1958 年)
中央に見えるのは魚網
(広報広聴課資料)
塩害の頻発と逆水門の設置
霞ヶ浦放水路の工事が進むと利根川から霞ヶ浦に遡上する塩水が増して、佐原、鹿行地方の水田に塩
害が起こるようになりました。1958 年の夏には息栖の塩素量が 3000mg/L に達して水田 56000ha が被害
を受けます(水田の塩素許容量は田植え期 350mg/L、出穂期 500mg/L とされています)。佐原市では上
水に塩分が混入し、北浦では高塩分による淡水魚類の斃死が起こりました。このため逆水門を早期に着
工して塩害を防止しようとの声が高まり、茨城県議会は 1958 年に「常陸川逆水門工事を繰り上げ施工さ
れたい」との意見書を採択しました。建設省はさっそく水門工事に着手し、常陸川水門は幅 28.5m の主
ゲート 8 門と幅 10m の閘門2門として 1963 年に完成します。工期は 4 年半、総工費約 18 億円で、当時
のわが国では最大級の水門です。
塩害発生状況 (水機構資料)
完成した水門の運用については、常陸川のシジミ漁に配慮した「常陸川水門暫定操作試案」が作られ
て、農水取水に支障をきたす時期だけ水門を閉鎖することにしました。しかし実際に運用してみると、
冬の渇水期に進入した塩水が田植え期まで湖内に停滞し(塩分の半減期は 4 ヶ月程度)、1974 年 1 月に
外浪逆浦で 8000mgCl/L に達した塩水は春の田植えを不可能にしました。1972 年には土浦沖の塩素量が
200mg/L を超えて上水の塩分混入が問題化します。こうしたことから、やむなくシジミの漁業権を買い
上げ、1975 年から水門を原則通年閉鎖(水位調節時には開放)として塩害問題を解決しました(利根川
では 1971 年に利根川河口堰が完成して塩害を防いでいます)。
建設中の逆水門(1959 年)
(広報広聴課資料)
背割り堤を切り水を利根川に回して床を打ち、門を立てている。
1966 年に塩害防止のため水門を一次的に閉鎖すると常陸川でシジミの大量斃死が起こり、大量斃死は
1971~73 年にも起こって、漁民の水門開放大デモや実力行使も行われました。1975 年からの水門常時閉
鎖でシジミは死滅してゆき、1982 年に霞ケ浦(水門より上流)のヤマトシジミ漁は消えました(ヤマト
シジミの稚貝の生育には 2500~3000mg/L、成貝でも 500mg/L 程度の塩素濃度が必要とされています)。
昔からのシジミを水門が奪ったとの声もありますが、シジミの増加、分布の拡大が霞ヶ浦放水路事業の
結果であることは茨城県県内水面水産試験場(加瀬林ら)の調査から明らかです。
完全築堤を目指して
1951 年、当時の見積もりで 20 億円とされる霞ヶ浦北浦の湖岸築堤(高さ 4.5m)の予算獲得を目指し
て、霞ヶ浦北浦農業総合開発期成同盟(のち霞ヶ浦北浦地区総合開発期成同盟と改称)が結成されまし
た。同盟は農林・運輸・建設3省の予算を得て「茨城県総合開発計画」に連動する湖岸築堤の幕開けに
成功します。農林・建設予算各 1000 万円は築堤や河川改修に、調査費 600 万円は沿岸の 1:5000 地形図
の作成に使われました。このころの恋瀬川では、愛郷橋下流の堤防補強工事を農家 1000 人の労力奉仕で
実施しています。阿見町と美浦村の霞ヶ浦沿岸農家 640 戸で組織する「霞南土地改良区」は、1953 年に
地元負担 1750 万円を引き受け、茨城県から 350 万円、国から 500 万円の補助を得て、高さ 3.5m 長さ 12km
の堤防を完成させています。その後も干拓堤などが部分的に構築され、茨城県も少しずつ築堤を進めま
した。しかし、連続堤の完成は 1996 年の「霞ヶ浦開発事業」の終了を待たねばなりませんでした。
1965 年に「新河川法」が施行され、「利根川改修改訂計画」は「利根川水系工事実施基本計画」に引
き継がれます。この計画は霞ケ浦について
① 霞ヶ浦等については、既設の常陸川水門により洪水の逆流を防止するとともに、北利根川および
常陸川の全川について、引堤および浚渫により拡幅して、洪水の流下能力を増大させ、さらに築
堤および護岸を施工し、横利根川、前川等の合流点には水門を設置する。
② 霞ヶ浦、北浦、外浪逆浦については、湖岸堤を築き、また内水排除の施設を設置する。
なお霞ヶ浦の水資源開発については、最近における急激な水需要の増大に対処するとともに、
沿岸地域の開発を考慮して、総合的見地から調査検討のうえ計画を決定する。
としており、霞ケ浦の治水工事はこの時点から利水計画との絡みで進むことになります。
21.4 霞ヶ浦の水資源開発
水資源としての霞ケ浦に最初に注目したのは東京市(東京都の発足は 1943 年)です。水源を多摩川に
頼る東京市は、水需要の急激な増大に対処するため 1930 年ころから小河内貯水池と村山浄水場の建設を
進めましたが、なお水不足が予想されるとして、1937 年に水道水源調査会を設置し、東京周辺の水源を
調査しました。東京市水道局は 1936 年に北利根川の流量を調査し、毎秒 11.5m3 の取水が可能として西
浦取水を調査会の検討事項としましたが、送水などの困難から霞ケ浦案を断念し、調査会は利根川取水
の実現に努力することにしました。この努力は 1968 年、武蔵水路と利根大堰の完成として結実します。
1950 年代の霞ケ浦沿岸では周辺の河川から取水する農業水利事業が活発化しています。「県営土浦市
外十五ケ町村農業水利事業」(桜川で取水)の着工は 1952 年、「新利根川上流農業水利事業」の着工は
1953 年です。しかし霞ケ浦の水を大規模に取水する計画は、まだありませんでした。茨城県が 1950 年
に公表した「茨城県総合開発計画」は「霞ヶ浦は関東の水溜りとして特殊な位置にある」と記し、霞ケ
浦の治水を最重要課題として、湖の完全築堤と北利根川の拡幅を国に要望しています。航路整備や水田
の二毛作化、農村工業の振興などを掲げていますが、利水については湖岸の農水揚水を挙げるにとどま
っています。1968 年時点における霞ケ浦からの最大取水量は農水で 81.35m3/s、工業用水(澱粉工場な
ど)で 0.013m3/s、上水取水で 0.746m3/s となっています(水資源開発公団『霞ヶ浦開発事業誌』、1996
による)。
後進性からの脱却 1960 年ころの茨城県では、国民所得が一人当たり 12 万円余のところ県民所得
は 7 万円程度で、「後進性からの脱却」が悲願でした。県土を開発しようと、茨城県開発事務局は工場
誘致に備えた「霞ヶ浦の水理水質調査」を実施し、知事部局は砂丘の上に都会を造る構想(鹿島開発構
想)を練り、県は「工業発展に伴う農業振興対策基本要綱」、「県工場誘致条例施行規則」、「集団養
豚造成促進事業実施要綱」などを制定しています。
そのころ「東京砂漠」が話題となり、水資源としての霞ケ浦に県外が注目しました。千葉県知事は茨
城県知事に霞ケ浦からの分水を要望し、都市建設調査会(1960 年)は「茨城県が霞ヶ浦を独占している
ので都道府県の水バランスが崩れるのだから、県知事権限の水利許可権を国に移すべきだ」と主張しま
す。このため茨城県には「座視すると水だけ取られてしまう」との懸念が生まれました。
茨城県は 1961 年に「明るく豊かな県民生活の実現」を目指す「茨城県総合振興計画(大綱)」を公表し、
霞ケ浦について「逆水門が完成すると水位操作が可能になるので、治水と周辺整備に配慮しながら霞ヶ
浦総合利水方策を推進する」としました。翌年には鹿島臨海工業地帯造成計画(マスタープラン)が公
表され、研究学園都市建設構想や県西用水構想も胎動します。1965 年に茨城県が発表した「霞ヶ浦開発
の基本構想」は「逆水門と霞ヶ浦放水路の整備、湖岸堤・用排水施設・港湾施設等の整備、漁業対策を
進めて水資源を開発し、用水の反復利用と他からの導水補給で用水量を確保しつつ、効率的利用を進め
て用水の広域利用を可能にするとともに、湖畔地帯を整備し自然環境の保持および観光施設の充実を図
る」としています。この基本構想は、のちの霞ヶ浦開発事業、霞ヶ浦導水事業に発展します。
利水可能水量 霞ケ浦からの取水が可能な量について、日本大学調査(1960)は約 35m3/s とし、茨
城県総合開発事務局(1962)は 50m3/s と試算しました。いっぽう利水側の要求として、茨城県は県発展
に必要な利水を最大 125m3/s と概算し、茨城県耕地調査課の試算は新規開発容量を 12 億m3/年、農林省
試案(1969)は霞ヶ浦の開発水量を 88m3/s としました。岩上二郎茨城県知事は常陽新聞社主催の座談会
(1960)で
「千葉県が 10 トン欲しいというが、茨城県が 125 トンとなると、一滴の水も他県にやれないとなっ
てくる。そうなると隣接県、また国の立場から見てどういうことになるのか。渇水でないときに利根
川の水を霞ヶ浦にプールできる体制も必要だろうし、那珂川の水を霞ヶ浦に入れる方式も考えられる
が、これには千葉と茨城だけでなく、栃木県との問題もでてくる。こうした問題を考えると、利根川
水系に属する霞ヶ浦の開発計画は、どの省でということでなく、総合的な全体計画に載せていく必要
がある。各省のセクト的な考えでやっていくと、霞ヶ浦は取り残されてしまう。水門ができても、何
年たったら総合開発ができるかわからないでは困るので、千葉県が欲しいならいくらでもやる、その
かわり国に常時 10 億トンから 12~13 億トンを貯留できるような体制をとってもらう必要がある」
と述べています(常陽新聞社『霞ヶ浦報道、下』、2000 年)。岩上知事のこの発言は、霞ヶ浦開発の基
本的な考え方を示していると考えられます。
全総と水二法 国は 1950 年に「国土総合開発法」を制定し、1962 年に「全国総合開発計画」(全
総)をまとめました。「全総」は霞ケ浦について「霞ヶ浦ならびに琵琶湖は大規模かつ貴重な水源であ
る。これらの湖沼の開発は、需要者と湖沼に生活上の強い結びつきを有する周辺住民との利益が調和す
るよう、治水利水を総合した合理的な計画のもとに行うものとする。」としています。国は 1957 年から
霞ヶ浦開発の「基本調査」を進め、調査は 1961 年から本格化します。このころ、国は水資源開発を進め
るための法律を整備しました。「水資源開発促進法」と「水資源開発公団法」(あわせて水二法という)
の制定がそれです。
水資源の開発には治水との整合性を保つ総合計画が必要です。しかし水資源には建設・農林・厚生・
通産・運輸など多数の省庁が関係し、その調整が困難でした。この困難を打開して合理的な水資源開発
を進めようと 1961 年に制定されたのが「水資源開発促進法」です。この法律の制定にあたり茨城県・滋
賀県・群馬県などの水源県は水源の保全と涵養、後進地域の開発に対する配慮、知事の意見を聴くこと
などを要望しています。
「水資源開発促進法」では、建設大臣(当時)が厚生・農林・通産各大臣ほかと協議し、知事と審議
会の意見を聴いた上で、閣議決定を経て「水資源開発水系」を指定し公示する手続きになっています。
指定水系の開発は「水資源開発基本計画」(フルプラン)をもとに進めます。フルプランには治山治水・
電源開発・後進地域の開発に十分配慮した水の用途別需要見通し、供給目標、必要な施設とその建設に
関する基本事項、その他の重要事項を記載するとされています。
利根川水系は淀川水系とともに 1962 年に「水資源開発水系」に指定されました(現在の指定水系は利
根川・荒川水系、豊川水系、木曽川水系、淀川水系、吉野川水系、筑後川水系の 6 水系)。同年に「利
根川水系フルプラン」(現在は荒川を含めて「利根川水系、荒川水系フルプラン」)が決定され、1970
年の全部改定(第 2 次フルプラン)で「霞ヶ浦総合開発」を、第 3 次フルプラン(1976 年)で「霞ヶ浦
導水事業」を、第 4 次フルプラン(1990 年)で「霞ヶ浦用水事業」を追加しました。フルプランの決定
で霞ケ浦が関東 1 都 5 県(神奈川県を除く)をつなぐ水利網に組み込まれたことになります。
利根川水系の「開発水系指定」にともない、それまで知事管理であった西浦と北浦は 1965 年に一級河
川に指定され、先に一級河川となっていた常陸利根川、鰐川とあわせて国が一体管理することとなりま
した。1966 年に建設省関東地方建設局霞ヶ浦工事事務所(現関東地方整備局霞ヶ浦河川事務所)が設置
されました。
「水資源開発公団法」は 1962 年に成立しました。この法律は、受益者負担の原則のもとに水資源開発
を合理的かつ可及的速やかに進めるための仕組みとして「水資源開発公団」(2003 年から独立行政法人
水資源機構)を設置する法律です。霞ヶ浦の水資源開発を担当する水資源開発公団の事務所(現利根川
下流総合管理所の前身)が 1967 年に設置されています。
水特法の制定 1972 年に「琵琶湖総合開発特別措置法」が制定され、琵琶湖の総合開発が稼動しま
した。これを見た茨城県議会は、同年に「霞ヶ浦総合開発に関する特別措置法の制定方に関する意見書」
を採択します。茨城県が 1973 年に公表した「茨城県霞ヶ浦総合開発計画」の総事業費は約 4000 億円と
見積もられ、県の単独事業ではとても無理なので、先行する琵琶湖総合開発に準じた霞ヶ浦開発の特別
立法を望んだのです。しかし、全国知事会は山間ダム水源地の特別立法を構想し、政府もその方向にあ
ることから、茨城県は霞ケ浦の単独立法が困難とみて他の水源県に同調します。
1973 年に「水源地対策特別措置法」(水特法)が成立します。この法律は、ダム建設の影響が一定規
模以上の区域に及ぶ場合に「水没地域周辺の環境整備」という利益を誘導してダム建設の促進を図るも
のです。政令でダム等を指定し、建設大臣がその水源地を(原則として大字単位で)指定します。指定
を受けた水源地について、県知事がダム事業者などの意見を聴いて「水源地整備計画」を決定します。
この手続きによって、ダム周辺整備の国庫補助率が嵩上げされるのです。
1974 年、霞ケ浦の逆水門は「霞ヶ浦湖沼水位調節施設」として指定ダム等に指定されました。これに
よって水門が一部改修されるとともに、沿岸市町村で水源地整備事業が進むことになります。指定ダム
等は現在 97で、天然湖沼は霞ケ浦だけ、「等」に該当する施設は常陸川水門と長良川河口堰です。
21.5 霞ヶ浦総合開発
1970 年、フルプランに基づく「霞ヶ浦開発事業」が着工となります(建設省が着工して翌年から水資
源開発公団が継承)。1976 年には水特法に基づく「霞ヶ浦水源地整備事業」が着工します。この2事業
を合わせて「霞ヶ浦総合開発」と呼びます。治水、利水、地域整備を合わせた事業の全体を「総合開発」
と呼ぶのです。
霞ヶ浦開発事業
霞ヶ浦開発事業は霞ケ浦を水ガメ化する工事(利水事業)であると同時に洪水の阻止能力を高める工
事(治水事業)です。事業は 4 回の変更(高浜入りの干拓中止などによる変更)を経て 1996 年に完工し
ました。構想から完工まで約 40 年、総経費は約 2864 億円です。その内容は、
① 湖岸の築堤(湖岸堤の新設と既設堤防の補強)
② 逆水門を湖沼水位調節施設に改築する工事(水密性の確保と貯塩水槽の設置)
③ 利根川連絡水路の新設(新利根川河口付近~利根川(2.3km)を内径 4m のシールド管で結ぶ)
④ 水位の変動に対応するための流入河川等の改修工事
で、土地買収や漁業補償という難題をクリアしながら進められました。入り会いであった妙岐の鼻(52ha
の堤外地)は水資源開発公団が保全することとなりました。
湖岸築堤工事 霞ヶ浦開発事業は河川整備事業とあわせて高さ約 YP+3.0m の湖岸連続堤を完成させ
ました。新規の築堤が 78km、既設堤の補強が 103km で、工事の総延長は 181km です。霞ヶ浦放水路事業
などによる築堤を併せた霞ケ浦連続堤の長さは合計 248.9km(西浦 120.5km・北浦 74.5km・常陸利根川
53.9km)となります。湖岸の築堤は河口域に分布する軟弱な沖積粘土層との戦いであったようです。
霞ケ浦の完全築堤は霞ヶ浦開発事業がなければ実現しなかったでしょう。大臣管理区間の河川工事費
について、河川法第 60 条は「都道府県は一般工事費の 1/2、大規模改良工費の 3/10、その他改良工事費
の 1/3、維持修繕経費の 4.5/10 を負担する」と定めていますが、霞ヶ浦開発事業の負担割合は国の治水
費(茨城県などの負担分を含む)が 21.5%で、あとは農林部局(特定灌漑事業)の負担が 13.7%、一般利
水者(上水・工水)の負担が 64.8%がとなっています。
堤防の位置を確定する基本方針は「堤防の法線は自然の湖岸線を尊重する、既設堤防との摺り合わせ
に配慮する、農地の改変面積を最小限にとどめる」というものでした。既設堤は最大限に利用し、十分
に熟した公共目的の土地利用計画がある場合または土地を大幅に失うと農家の経営が圧迫される場合に
は堤防の沖出しを行っています。和田岬と歩崎(観光施設の設置)、鉾田地先(下水処理場の設置)が
その例です。
水位変動への対応工事 開発による新規利水(農水・上水・工水)がはじまると、霞ケ浦の水位は
出水渇水時を除いて Y.P.±0m~+1.3m の間を変動することになります。これまでより高い水位や低い
水位が続く可能性があるわけで、湖内と周辺の工作物をこの水位変動に対応させる工事が行われました。
おもな工事はつぎの7工事です。
① 流入河川対策工事(流入 52 河川(一級河川茨城県 21 河川、千葉県与田浦川、国管理横利根川、
茨城県普通河川 29 河川)について、河口に湖岸堤と整合する河川堤防を築き、護岸で補強し、
根固め、航路浚渫などを行うとともに、必要な箇所に水門、揚排水機場を設ける)
② 揚水・排水対策工事(水位の低下で取水不能となる可能性のある揚水施設と水位の上昇で排水不能
となる可能性のある排水施設を新改築する)
③ 港湾対策工事(水位変動に対応するよう地方港湾 2 港、第一種漁港 10 港を改築浚渫する)
④ 舟溜まり対策工事(築堤で使用不能となる湖岸 160 ヶ所の舟溜まりを堤外または堤内に新設改築し、
水位低下に対応するよう航路を浚渫する)
⑤ 舟運対策工事(舟運のある水門に閘門を設置する)
⑥ 橋梁対策工事(水位の上昇で冠水する恐れのある橋を架け替える)
⑦ 養殖漁業対策工事(網イケス等を水位低下に対応できるよう深場に移動する)
霞ヶ浦開発による新規利水 こうした工事で霞ケ浦の新規利水が可能になりました(開発は最大
で 43 ㎥/s の利水を可能とする)。新規利水の使途はつぎのようです。
1) 特定灌漑用水(数値は灌漑期平均)
茨城県 石岡台地用水・鹿島南部用水・羽賀沼用水・神之池用水・小野川用水・霞ヶ浦用水(農地
約 3 万 2800ha に 18.3m3/s を供給)
千葉県 北総東部用水・東総用水(農地 8700ha に 1.43m3/s を供給)
2) 水道用水(数値は最大値)
茨城県 茨城県 2.429 m3/s、潮来町 0.062 m3/s、東村 0.009 m3/s
千葉県 銚子市 0.400 m3/s、佐原市 0.162 m3/s、九十九里地域水道企業団 0.865 m3/s、小見川
広域水道企業団 0.133 m3/s
東京都 東京都 1.50 m3/s
3) 工業用水(数値は最大値)
茨城県 茨城県 16.60 m3/s
千葉県 千葉兼 1.20 m3/s
開発された農業用水と工業用水の 93%、水道用水の 46%は茨城県での使用です。したがって、開発で霞ケ
浦が首都圏の水がめになったといいますが、茨城県の水がめとなり、千葉県などに多少のお裾分けをし
ていると考えるのが妥当のようです。
水源地整備事業
水特法による水源地域の指定は沿岸 22 市町村(当時)を網羅し、水源地整備事業は沿岸、周辺の 42
市町村 1834 集落で実施されました。総事業費は約 5200 億円です。事業費の負担区分は国 50.7%、茨城
県 10.9%、市町村 25.0%、その他 13.4%となっています。霞ヶ浦水源地整備事業は「影響緩和対策事業」
(「霞ヶ浦湖水位調節施設」が地域の生産機能、生活環境に及ぼす影響を緩和する)と「水質保全対策
事業」(霞ケ浦の水質保全を図る)に分かれ、つぎの事業を含んでいます。その内容はつぎのようです。
影響緩和対策事業
土地改良事業 (河川改修の影響が及ぶ農地の圃場整備:茨城県 33 地区 4170ha・千葉県 2 地区 94ha
合計 5115ha)
河川の改修と部分改良(合計 16 河川の改修)
港湾整備事業(地方港湾の整備)
水産資源保護培養事業および水産物流通施設整備事業(漁港の整備、養魚のための種苗池・飼料
倉庫などの整備、魚礁・漁具倉庫・漁船巻揚施設・魚病指導センター・活魚車・冷
蔵庫の整備、稚魚の放流)
自然公園施設整備(浮島・天王崎・前川・徳島の公園整備)
簡易水道の整備(旧鹿島町3、北浦村2、麻生町3、玉造町2、牛堀町・美浦村・江戸崎町・桜
川村各1の合計 14 施設を整備)
水質保全対策事業
農業集落排水処理施設の設置(合計 141 集落に農集排水処理施設を整備)
流入河川の浄化( 流入 10 河川と湖内土浦沖・高浜沖で底泥浚渫)
下水道事業( 霞ヶ浦湖北・霞ヶ浦常南・霞ヶ浦水郷の3流域下水道と関連公共下水道、鹿嶋公共
下水道、神栖公共下水道の整備)
畜産汚水処理施設の整備 (合計 72 地区に畜産排水処理施設を整備)
し尿処理施設の整備( 新設増設あわせて 17 施設の整備)
ごみ処理施設の整備( 新設増設あわせて 16 施設の整備)
事業費の大部分は水質保全とくに下水道整備に向けられ、下水・畜産汚水・ごみ処理の対策にあてた経
費の合計は全体の 76%になります。水源地整備事業は水資源開発がなくても行う必要がある地域整備の
地元負担経費を軽減したといえるでしょう。
21.6 霞ヶ浦総合開発の関連事業
霞ヶ浦導水事業 霞ケ浦と利根川下流での取水計画が膨らみ、渇水時の流量を維持する対策が必要
となりました。そこで登場したのが「霞ヶ浦導水事業」(流況調整河川の建設)で、那珂川~霞ヶ浦~
利根川を結ぶ地下水路を新設するものです。いま国交省が掲げている導水事業の目的は、①那珂川から
水戸桜川に送水して桜川と千波湖の水質浄化を図る、②那珂川と利根川から霞ヶ浦に送水して霞ヶ浦の
水質浄化を図る、③渇水時には霞ヶ浦から那珂川、利根川に送水して渇水被害を軽減するとともに川の
環境を守る、④水の融通により新規利水を可能にする、となっています。導水路は那珂機場(水戸)~
桜機場~高浜機場~土浦放流口を結ぶ那珂導水路(42.9km、工事中)と、利根川下流~西浦(稲敷市)
を結ぶ利根導水路(2.6km、完成)のふたつで、1976 年に実施計画調査に着手し、1984 年から工事に入
っています。数次の事業計画変更を経て 2010 年代に完工の予定でしたが、事業の見直しからいまのとこ
ろ先行きは不透明です。
霞ヶ浦用水事業 茨城県西部(県西地方)は降水量が少なく旱魃の常襲地帯で、江戸時代の初期か
ら中期に多くの用水が敷設されて、複雑な水利網が形成されています。このため新規の大規模利水が不
可能なうえ、地下水の汲み上げで地盤沈下が甚だしいことから、霞ケ浦に水源を求めて計画されたのが
「県西用水」です。1963 年に「県西用水促進協議会」が結成されて予備調査に入り、1980 年に「霞ヶ浦
用水事業」が第 4 次フルプランに盛り込まれて霞ヶ浦利水を実現する目途がつきました。
この事業は①「霞ヶ浦用水事業」(水資源機構による共用幹線の施工と管理)、②「国営霞ヶ浦用水
地区土地改良事業」(農水省が施工し土地改良区が管理)、③「県営県西広域水道用水供給事業」(茨
城県企業局による施工と管理)に分かれています。幹線はかすみがうら市の揚水機場から筑波山をくぐ
り、桜川市を経て古河市に達して、平成 6 年から稼働しています(工費約 895 億円)。
全体計画では最大で都市用水を毎秒 1.06m3、農業用水を毎秒 17.8m3 給水することになっており、用水
の一部は霞ケ浦の集水域内(新治幹線など)で使用されたのち、桜川、恋瀬川などを経て霞ケ浦に戻り
ます。小貝川、鬼怒川や利根川への落水も再取水されることになっています。霞ヶ浦用水の受益域はつ
ぎのとおりです(市町村名は計画当時のもの)。
農業用水 下妻市・土浦市・結城市・笠間市・水海道市・岩井市・友部町・岩瀬町・三和町・八郷町・
新治村・谷田部町・豊里町・筑波町・大穂町・関城町・明野町・猿島町・真壁町・大和村・協和
町・八千代町・千代川村・石下町・境町、合計 2 万 1638ha
水道用水 県南広域水道・県西広域水道
工業用水 県南広域工業水道・県西広域工業水道
千葉県と東京都の霞ケ浦取水 霞ヶ浦開発に関連する千葉県側の事業に北総東部用水事業(佐原
~八日市場間、灌漑用水を送水)・東総用水事業(佐原~旭~銚子間、灌漑用水を送水)・房総導水事
業(佐原~長柄ダム間の送水による千葉市と九十九里沿岸の上水補給、千葉臨海工業地帯への工業用水
補給)があります。これらは利根川から取水し、利根川の流量が限度を超えて減少したとき利根導水路
を通じて西浦から水を送ることになっています。
東京都は金町浄水場で江戸川から取水しますが、江戸川には北千葉導水路(布佐~松戸間)で利根川
の水が送られます。利根川には必要に応じて西浦から(利根導水路で)補水するのです。北千葉導水路
は途中で手賀沼に浄化用水を送るほか、周辺の治水にも役立つ仕組みになっています。北千葉導水路は
延長 28.5km(地下部分 22.2km)の流況調整河川で 2000 年に完成しました。
(水機構資料)
その他茨城県内の利水事業 霞ヶ浦開発事業に関連する茨城県内の利水事業につぎのものがあり
ます(市町村名は計画当時のもの)。
県南広域水道 16 市町村に給水(土浦市・阿見町・竜ヶ崎市・取手市・牛久市・藤代町・美浦村・
つくば市・茎崎町・江戸崎町・桜川村・新利根村・河内村・東村・守谷町・利根町)
県南広域工業用水事業 18 市町村に給水(土浦市・竜ヶ崎市・取手市・牛久市・つくば市・阿見町・
藤代町・茎崎町・守谷町・江戸崎町・伊奈町・利根町・新治村・桜川村・東村・河
内村・新利根村・美浦村)
県西広域水道 23 市町村に給水(下館市・結城市・下妻市・岩瀬町・関城町・明野町・真壁町・大
和村・協和町・八千代町・千代川村・石下町・水海道市・岩井市・伊奈町・谷和原
村・総和町・三和町・猿島町・境町)
県西広域工業用水道 18 市町村に給水(土浦市・つくば市・千代田村・出島村・下館市・結城市・
下妻市・真壁町・明野町・関城町・水海道市・岩井市・谷和原村・総和町・境町・
三和町・守谷町・取手市)
石岡台地農業水利事業 農地合計 7405ha に給水(石岡市・美野里町・小川町・八郷町・岩間町・茨
城町・玉造町・千代田村・玉里村・鉾田町)
鹿島水道用水供給事業 3 町に給水(鹿島町・神栖町・波崎町)
鹿島工業用水道事業
上に同じ
鹿島南部農業水利事業 農地 2285ha に給水(波崎町)■
霞ケ浦取水の霞ケ浦開発依存割合(赤い部分)
(水機機構資料)
茨城県内で霞ケ浦開発・霞ケ浦導水に依存する上水道給水範囲(一部補水、
予定を含む)
(茨城県資料)
霞ヶ浦開発の給水区域
各種利水事業の内容
(水機構資料)
(霞河川・水機構資料)
霞ケ浦社会の変遷の模式
(原図)
霞ケ浦用水
筑波第一トンネル
昭和 60 年(1985 年)
(広報広聴課資料)
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